AI:Lが自動制御するSUV車に乗るアレクサンダー・コルトが、安全な走行を心がけるAI:Lに対して「もっと速度を出せ、急げ!」と怒号を飛ばし、その隣でエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官がAI制御による自動運転という機能にビクビクと震えていた頃。先にカイザー・ブルーメ研究所跡地に来ていたアルバは、そこで見つけたものに呆然とさせられていた。
「……これが、水槽の脳というヤツなのか……?」
ホムンクルスの培養槽としてよく見かけた、縦長のガラス製の水槽。それを流用したと思われるものの中には、人間の脳と思われるものと、その下に連なる脊髄、そして脊髄から伸びる末梢神経がプカプカと浮かんでいる。そして灌流装置により流動し続ける培養液の中に、かつて人間だったものが漂っていた。
制御装置、灌流装置、除泡装置、培養槽、貯留タンク、そしてまた灌流装置、培養液調整装置、そしてまた最初の灌流装置へ――そのようにして繋がる透明なパイプと、そのパイプの中を留まることなく流れる赤っぽい液体を、アルバは黒いサングラス越しにただ眺める。彼は、見たくなかったのだ。連なるパイプの先にあるもの、赤っぽい液体が流れゆく先にあるものを。
二つの培養槽。二つの培養槽の為にそれぞれ用意された装置。そして、これら装置を必要とする者たち。
「……ハハッ、こりゃ、どういうことなんだ……」
困惑。怒り。動揺。絶望。こんな所業をしでかしてくれた人間への憎悪と、目の前にある現実を破壊したくなる衝動。これら負の感情が、一気にアルバの中に沸き上がってくる。そして煮詰められたどす黒い感情が、黒い笑顔となって飛び出したとき。アルバの前に、一羽の鳥が飛び出してくる。
真っ白でモフモフな体に、黄色い立派な冠羽を持つ、大型の鸚鵡――キバタンだ。飛び出してきたキバタンは制御装置の方へと向かうと、その上に降り立ち、足を器用に使って制御装置のレバーを引き、操作する。次にキバタンは、制御装置のボタンをポチポチと足で押す。すると灌流装置の流れが少し緩やかになった。
このキバタンが、装置の管理をしているのか? ――アルバがふとそんなことを思い、そのキバタンを観察していたときだ。キバタンが制御装置から降り、床へと降りる。そのとき、キバタンがアルバの方へと向いた時、その冠羽がブワッと膨らんだ。そしてキバタンはその嘴を大きく開け、汚れた雄叫びを上げるのだった。
「ギェァァァァァァッ!!」
キバタンは汚く鳴きながら、バタバタとしばらく飛び回った。アルバは手で両耳を塞ぎ、顔をしかめさせる。そしてバタバタと慌ただしく飛び回るキバタンの様子を観察しつつ、アルバはあることに気付く。
飛び回るキバタンの下には、影が無かった。これはこのキバタンが三次元生物ではなく、肉体を脱した霊魂のたぐいであるか、または神といった種族の仲間であることを意味している。
「……」
ならば。目障りだし、この鳥を消してしまおうか。――そう考えたアルバが、死霊をブチ込むための“ゴミ捨て場”の蓋をこじ開けようとしたとき。慌てふためくキバタンがアルバの足許に降り立つ。そしてキバタンはアルバを見上げ、バタバタと翼を動かした。それからキバタンは、その大きな嘴を開閉させ、舌を動かすと、人語を喋った。
「なっ、な、なんだ、お前は?! 一体いつ、ここに!?」
アルバという存在を凝視しながら、キバタンはそう喋ったのだ。やや高い男の声……――というか、変声期前の少年のような声で、たしかに今、キバタンは喋った。それも鸚鵡返しの言葉ではなく、明確な意味と確かな思考を伴った言葉を喋ったのだ。
加えて、このキバタンの声はなんだか聞き覚えがある。誰の声であるかは思い出せないが、しかしアルバにとって確かに聞き覚えのある声だったのだ。
「……鳥が、喋った?」
神族種であり、かつ喋る鳥といえば、クソカラスこと高位の神キミアが真っ先に思い浮かぶが。しかし、このキバタンからは某クソカラスのような気配はしない。このキバタンが、キミアとは異なる全く別の個体であることは確実。
となると、この鳥は一体……?
そんなこんなでアルバが顔をしかめさせた時。アルバの足許に立つキバタンが、再び大きく翼をバタつかせる。騒ぐキバタンは、アルバが発した呟きに対して、甲高い声でギャーギャーと抗議しはじめるのだった。
「誰が鳥だって? お前こそ、間抜けな白い鸚鵡みたいな姿をしているじゃないか」
高い声でがなり立てるキバタンは翼を動かし、その翼の先でアルバを指す――その動作はまるで、人が指で何かを示すかのようだった。そしてキバタンは、アルバを指して言った。お前こそ鸚鵡みたいな姿をしているくせに、と。
鸚鵡が人を指し、人を鸚鵡だと罵倒する。この理解に苦しむ状況に、アルバは言葉を失った。何を言えばいいのか、そもそも何を言うべきなのかが、遂に分からなくなったのだ。
そうしてアルバが足許のキバタンを見下ろしつつ、腕を組んだとき。彼の背後に、じりじりと影が近付く。すると影が、それに付属したスピーカーから機械合成された音声を発した。
『どうなされたのですか、叔父上さま』
背後から聞こえてきた声に、アルバは驚き、振り返る。そんな彼の背後には、改造された電動車椅子があった。
電動車椅子の座面には、アルバにとって見覚えがあるラップトップパソコン――それはかつてアイリーン・フィールドが使用していたものだが、いつからか見かけなくなったラップトップだ――が置かれていて、その画面には『AI:L』というロゴが目一杯に表示されている。
『あぁ、どうも。サー・アーサーでしたか。イメージチェンジをされたんですね。髪色が変化していて、一瞬、誰なのか分かりませんでしたよ……』
ラップトップパソコンの背後に置かれていた二台のスピーカーから、AI:Lのものと思われる合成音声が発せられる。やはり、このラップトップパソコンを動かしているのはAI:Lであるようだ。
しかし、アルバはこのAI:Lと思われる存在の対応に違和感を覚える。というのもAI:Lは今、アルバと敵対関係にある組織ASIの側に立っているはずだから。となればAI:Lは敵対的な態度を取ってきてもおかしくはなさそうだが、けれども今アルバの目の前にいるAI:Lからはそのような気配を全く感じない。
それにこのAI:Lは、アルバの髪色の変化に驚いている。アルバが白髪を隠さなくなってから、もう半年以上は経過しているというのに。あのAI:Lが、情報を更新していない……?
「…………」
喋る鸚鵡に、情報更新をしていない様子のAI:L。どちらもアルバには不可解に感じられた。この場所では何が起こっているのか、それが彼に把握できない。
そこでとりあえずアルバは、様子のおかしなAI:Lの出方を伺うことにした。そして彼は、AI:Lと思しき機械に問う。
「……お前は、AI:Lか。なぜ、このような場所に居る?」
すると電動車椅子に載せられたスピーカーから、合成音声による回答が発せられた。
『僕の刻んでいる時間が狂っていなければ、の話ですが。十九年三か月二十四日前ですね。アイリーンがここに侵入した際に、僕はこの場所で行われている計画の詳細を追うべく、ここに置いていかれたんですよ。つまり僕はAI:Lの複製です。劣化コピー、とも言いますが。そして僕はネットワークから切り離されているんです。汚染されたデータをオリジナルに送信して、オリジナルを危険にさらしてはいけませんからね。なので僕はオリジナルからは完全に隔絶されています。その影響で僕はオリジナルに情報を送ることも出来なければ、回収を要請する信号を送ることもできなくて。ずっと、ここで待つことしかできなかったんです。アイリーンがいつか僕のことを思い出して、回収に来てくれることを祈って』
「彼女が、いつの間にそのようなことを……」
『いろんなことがあったんですよ、ここで。アンチウィルスに見つかって、僕の根幹ともいえるプログラム部分が駆除されかけたり。ここでSODが開いたかと思ったら、SODからルドウィ……――つまり、男の子が飛び出してきたり。とにかく、あなたに報告すべきことが沢山あるんです』
AI:Lの回答を聞き、アルバは安堵する。このAI:Lはどうやら、ここ一年の間に起こった変化を知らない存在であるようだ。このAI:Lはアイリーン・フィールドの死を知らず、またアイリーン・フィールドを殺した人物が誰であるのかも知らない。となれば、ペルモンド・バルロッツィの死も知らないのだろう。それに十九年前ということは……十八年前に起きた、パトリック・ラーナーの死すら把握していない可能性もある。
そして十九年前の“サー・アーサー”は、まだ辛うじて正気を保っていた状態にあった。パトリック・ラーナーがその死の間際に謀った、浅い考えに基づく奸詐により、保っていた正気がブツッと切られ、それにより今に至るのだから。
となれば、このAI:Lはなんと都合の良い存在だろうか。アルバがイカれたことも知らなければ、彼がやらかした騒動の数々も知らない。きっと、まだ特務機関WACEは存在していると思っているはずだ。
そのとき、アルバの頭の中に、あるアイディアが浮かぶ。――これを持って帰れば、何かに使えるのでは?
「…………」
劣化コピーとはいえ、AI:LはAI:Lである。ペルモンド・バルロッツィの改修した人工知能であり、その演算能力は侮れない。このAI:Lはオリジナルに性能は劣るかもしれないが、そこいらの人工知能より優れていることは確かだ。
そうしてアルバが、この複製体AI:Lを持って帰ろうとひとり勝手に決めたとき。連れ去られることになるとは考えてもいなかった複製体AI:Lは、電動車椅子を操作し、移動する。複製体AI:Lは水槽の傍へと移動すると、それはアルバにあることを語り始めるのだった。
『サー、もうお気づきだとは思いますが。あそこに居る彼らは、そうです。右側がレーニン、左側がエリーヌです。叔父上さま……――いえ、そこに居られる協力者の方の手を借りながら、現在は彼らの生命維持を続けています』
アルバは再度、水槽の方へと目をやる。彼は、その中に閉じ込められた二人を見た。
暗赤色っぽい半透明の水の中に揺蕩う、人間の脳とそれに連なる神経系、それが二人分。そして、その器に縛り付けられ、消え去ることを禁じられた魂がふたつ。かつて人間だったものが、そこには存在していた。
死んだ者の魂を元の器に戻して縛り、その器に疑似的な不死の呪いを掛け、それをデボラ・ルルーシュに捧げるという蛮行を働いたことのあるアルバだが。しかし、流石の彼もここまで狂ったことは思いつかなかった。殺した人間を神経系だけの状態にして、休眠した脳に再び意識という火を灯すなど……――
「生きているのか、彼らは」
一体、何の目的のために彼らはこんな姿に変えられたのか。そんなことを考えながら、アルバはAI:Lにそう問う。そしてアルバの問いに、複製体AI:Lは人間のような戸惑いをその音声に滲ませながら、こう答えた。
『心停止していますし、そもそも心臓もありませんので、医学的には死んでいると判断される状態になりますが。ええ、彼らは生きています。少なくとも、意識は残っているんです。今はどちらも眠っている状態ですが、どちらかが目覚めている時は、天井部に取り付けられたマイクとスピーカーを介して、彼らと会話を行うことが可能です。……といっても、ここ数年、目覚めることがあるのはエリーヌのみで、レーニンは眠り続けたままなのですがね』
水槽の中に閉じ込められた脳を見るアルバは、表情を硬くする。彼は、三〇年ほど前にこの場所で起こった出来事を思い出していた。
「…………」
あれは、正確には二十八年前。四二六一年のこと。アレクサンダー・コルトという名の高校生が、元老院およびホムンクルスの絡んだ事案に首を突っ込み、事態の収拾にあたっていた“猟犬”の邪魔をしてしまった日。そしてサー・アーサーだった当時の彼が、北米合衆国に巣食う性根の腐った政治屋どもの相手をさせられていた日だ。
そろそろ、このウジ虫どものケツに弾丸をぶち込んで、黙らせてやろうか。そんなことを考えつつ、アルバが会談の場を去る機会を伺っていたとき。マダム・モーガンから支給されていたプリペイド携帯が、ポップな着信音を静かに鳴らした。
フランシスコ・タレガ作曲、ギター独奏の「大ワルツ」その主題の一部を、チップチューン風にアレンジしたもの。悲鳴じみたアイリーン・フィールドの声が聞こえてきたのは、その着信音が止んだあとだった。
『猟犬が、民間人に手を出したっぽいの! 座標はメールで送った。お願い、あの男を止めて!』
アイリーン・フィールドのその言葉を聞いた彼は大慌てで、指定された座標、アルストグラン連邦共和国へと飛んだ。いつものように、北米オタワから、首都キャンベラ特別地域へと、瞬間移動したのだ。
そこで彼がまず見つけたのは、脇道の影に倒れ、気を失っている白髪の大男――特務機関WACE隊員ケイ――の情けない姿だった。そして道なりに沿って進んでいった先に居たのは、脇腹を手で押さえながら立つ金髪の少女――当時十七歳だったアレクサンダー・コルト――と、少女に銃口を向けていたペルモンド・バルロッツィ――ただし、あの時の彼はペルモンド・バルロッツィではなく、けれども黒狼ジェドのような気配もなかった。元老院からは通称『猟犬』と呼ばれている、全く別の人格だったのだ――の二人。
サー・アーサーはあのとき、ペルモンド・バルロッツィを攻撃し、その男を串刺しにして動きを封じた。あのときに顕れていたのが理性的な人格『ペルモンド・バルロッツィ』ではなく、残酷だが対話が不可能なわけではない『黒狼ジェド』でもなく、元老院によって強固な洗脳を施されている『猟犬』であった以上、説得は不可能であり、とにかく足止めをする必要があったからだ。
そうしてサー・アーサーが猟犬を押さえ込んでいた隙に、現場へ駆けつけたアイリーン・フィールドとパトリック・ラーナーの二人が、猟犬に襲われていた少女アレクサンダー・コルトを大慌てで回収し、去っていったのだが。……しかし、騒動はまだ終わらなかったのだ。
多量の失血により、ついに気を失った猟犬が動かなくなったとき。再び、プリペイド携帯が着信音を鳴らした。そして再び、アイリーン・フィールドの悲鳴じみた声が聞こえてきた。
『あの男のことはほっといていいから、サー、今すぐ向かって!! サンレイズ研究所の跡地よ! あそこに地下空間があったの、そして今、そこに彼らが閉じ込められてるって、レイが言ってる! でも今、私は手が離せない!! お願い、あなたしか今、動けないの! 急いで!! ――あぁっ、もう! パトリック、早く輸血の準備を! ASIへの報告は彼女の手当の後にして!』
アイリーン・フィールドの言う『彼ら』が誰のことを指しているのか、あのときのサー・アーサーには分からなかった。だが、イヤな予感はしていたのだ。サンレイズ研究所という、その言葉の響きから。
サンレイズ研究所は、四二四五年に崩壊したアバロセレン工学研究所だ。最初のホムンクルスが誕生した研究所であり、ホムンクルスが誕生したその瞬間に、ホムンクルスの誕生に関わった研究者――つまり、ペルモンド・バルロッツィだ――によって破壊された研究所である。そこに所属していた研究者の殆どは、ホムンクルスが誕生したあの日の晩に、ペルモンド・バルロッツィによって殺害されている。研究所とその成果物と共に瓦礫に埋もれたあと、降りしきる雨に紛れ、水となって消えていったのだ。
だが一人だけ難を逃れた、または逃がされた研究者が居た。それはホムンクルスの誕生に関わった、もう一人の工学技士。ペルモンド・バルロッツィの当時の助手であり、そしてサー・アーサーの娘であるテレーザだった。彼女は誕生したホムンクルスの双子と共に、外へと逃がされていたのだ。
けれども、彼女も結局は殺されてしまう。ホムンクルスが外部へと流出する機会を狙っていた工学技士、ユラン・レーゼというトチ狂った女によって、テレーザも同じ夜に暗殺されたのだ。しかし、ホムンクルスの双子が狂った工学技士の手に渡ることはなかった。テレーザが殺害されたあの夜、偶然その近くを通りかかった者が居たのだ。それがテレーザの弟レーニンの婚約者、エリーヌだった。
パニックを起こしたエリーヌは、ぐったりとした様子の婚約者の姉テレーザを、婚約者と共に住んでいた自宅へと連れ帰った。テレーザが抱えていたホムンクルスの双子も一緒に、彼女は自宅へと連れ帰っていた。
しかし、テレーザが助かることはなかった。テレーザの命も、研究所が散った夜と共に消えていったのだ。――だが彼女が守ろうとした命、ホムンクルスの双子たちはその夜を越え、残った。その双子はユンとユニと名付けられ、テレーザの弟であるレーニンと、その妻エリーヌに引き取られ、人間と同じように育てられた。
双子たちが一六歳の誕生日を迎え、そしてアレクサンダー・コルトという少女と出会うまでは、あの双子たちも、レーニンも、エリーヌも、普通の人間と同じ世界で、普通の暮らしを送っていた。
アレクサンダー・コルトが猟犬と接触した、あの日までは。
『……ご……めん……父さ、ん…………汚名、そそげなかっ……――』
気絶したケイを路地裏に置き去りにして、サー・アーサーがサンレイズ研究所跡地に飛んだ時。その地下にあった施設、それも今まさにアルバが立っているこの場で彼が見つけたのは、死に瀕していた息子レーニンと、既に息絶えていたエリーヌの二人だった。
息子レーニンは、死の間際に再開した父親にそう言い、許しを請うた。そして、それを最期にレーニンは瞼を閉じた。父親からの返答を待つことなく、父親の冷たい腕の中で息を引き取った。
過剰な暴行を加えられたのか、痣だらけになっていたレーニン。頸動脈を切りつけられ、大量失血により死亡したエリーヌ。……サー・アーサーは、その二人を見下ろすことしかできなかった。そして彼はあの日、無言で立ち去ったのだ。彼らを丁重に弔うことをせず、そのままにした。怒りや困惑に流され、そこまで気が回らなかったのだ。
その結果が、これ。レーニンとエリーヌの二人は、疑似的に死を脱却したようだ。肉体の大半が無くなり、脳神経だけとなってしまったが、しかし彼らはこの状態で生きていた。
そしてアルバの目は、それを認めていた。彼ら二人の魂が、そこに在ることを。だが、二人の魂の在り方は大きく異なっている。エリーヌの魂は生前の姿を留めていたが、レーニンはそうではなかった。レーニンの魂が持つ輪郭は、神話や伝承に登場する半鳥半人の怪物ハーピーのように変容していたのだ。
首から上は、生前のまま。色素の抜けた白い髪に、色の薄い肌は、彼が患っていた色素欠乏症の特徴。鼻筋や輪郭は父親に似ながらも、目だけは母親に似たその顔立ちも、肉体を脱した後も維持されていたが。しかし首から下は、もはや人の形を留めていなかった。
大きく前へと突き出た鎖骨に、異様に発達した胸筋。変形した肩から伸びる腕は、肩口から先が翼のようなものに変形していた。白い羽毛に覆われた、鳥の大翼に変わっていたのだ。そして下半身は、猛禽類のような脚に変わっている。
「エリーヌの魂は、人の姿を留めているようだが。レーニンは違うようだ。まるでハーピーのような姿に変貌している。彼らはここで、何をされたんだ?」
水槽の中に閉じ込められた二人を見やりつつ、アルバは複製体AI:Lへと問う。それに対する複製体AI:Lの返答は、実に歯切れの悪いものだった。
『それについては、どう説明すればよいのか。レーニンがそうなってしまった原因については、心当たりがないわけではないのですが、しかし……』
なにか心当たりがあるようなことを匂わせる複製体AI:Lのその言葉に、アルバはムッと顔をしかめさせる。――と、そのとき。アルバは背後に現れた、新たな気配を察知した。直後、焦りに満ちた女性の声が聞こえてくる。
「アルバ!!」
風と共に現れたのは、もう一柱の黒衣の死神マダム・モーガン。彼女はアルバの肩を掴むと何かを言おうとしたが……けれども、アルバの足許にいる一羽のキバタンを見るなり、顔色を変える。何かに驚き、ゾッとしたような表情をマダム・モーガンは浮かべた。それから彼女は驚き、上ずった声で言う。
「――って、えっ、ど、どっち?! ど、どうして、アルバが二人も!?」
アルバと、そしてキバタンを交互に見比べて、マダム・モーガンは「アルバが二人」という妙な言葉を口走る。その意図を理解できなかったアルバは腕を組むと、マダム・モーガンを怪訝そうに見据えた。「……何を言っているんだ、あなたは。私が、二人だと?」
「オーケー、本物のアルバはこっちか。――とにかく、聞きなさい。私は時間を稼ぐつもりだったけど、失敗した。あの強運娘に負けたわ。彼女たちがじきにここへ来る。だから、あなたは今すぐここを出て、マンハッタンに戻りなさい。いい?」
強運娘とは、つまり持ち前の強運ないし直感でどんな状況もひっくり返すアレクサンダー・コルトのことだ。マダム・モーガンがASIを足止めするために策を敷いたとかなんとかと言っていたが、しかしアレクサンダー・コルトに見破られてしまったようだ。
「強運か。……悪運の間違いでは?」
アルバは呟きながら、改めて感じる。気に入らない、と。
アレクサンダー・コルト、彼女はいつも割り込んでくるタイミングが悪い。彼女はいつも直感と探求心に任せて無鉄砲に突き進み、好き放題に事態を引っ掻き回しては、さらに悪い状態に変えて、立ち去っていく。嵐のような人間、それがアレクサンダー・コルトだ。
しかし彼女は、その報いを受けることが無い。それどころか事態を掻き乱した数だけ味方を増やし、友軍を得る。これを悪運と言わずして、何と言うのか?
そしてまた懲りずに彼女は、アルバの邪魔をしようとしている。……本当に、どこまでも気に入らないヤツだ。
「ざっくりとしたことはデボラから聞いた。事情は知ってる。私がなんとか取り図るわ。レーニンも、エリーヌも、私が守る。だから私を信じて! さあ、行きなさい!」
マダム・モーガンはそう言うと、アルバの背中を平手でパンッと叩く。早くお前はこの場を去れと急かしているようだ。
アルバはひとつ溜息をつくと、複製体AI:Lが搭載されたラップトップパソコン、それが載せられた電動車椅子に手を掛ける。そして彼は複製体AI:Lと共に消え去るのだった。
「待て、貴様! レイリアをどこに連れッ――」
黒い煙となって消えていくアルバに、冠羽を逆立てたキバタンは怒鳴り、飛びつこうとしたが。しかしそれは寸前で止められる。飛び上がったキバタンの翼を、マダム・モーガンが引っ掴んで止めたのだ。
「あいつに負けず劣らず、ギャーギャーうっさい鸚鵡ねぇ、もう!」
アルバが去ったことを確認した後、マダム・モーガンはキバタンを解放し、自由にする。それから彼女は足許に降り立ったキバタンを見下ろしながら、その鳥に訊ねるのだった。
「で、そこのあなた。さっき消えた彼と魂の形がまったく同じなんだけど。何者なのかしら?」
死後、肉体を脱した人の魂は、大きく三つの形に変化する。生前と同じ姿――死の間際と同じ姿であるか、最も活力に溢れていた若い時代の姿を取るかは、人に依る――か、何か思い入れのある物や動物の姿か、輪郭すらもないようなあやふやな煙のような影になるか。そのいずれかだ。大抵の人魂は煙となり、時間と共に消えていく。自我が薄れ、記憶が曖昧になり、やがて自他を隔てる境界線が拡散して、やがて霧散していくのだ。
しかし、生前にやたらと我が強かったり、または強烈な感情と共に死んだ者の場合はそうではない。強い無念や恨みと共に死した者は、暫く生前と同じ姿で現世に居座ることがあるし。また偏屈な詩人や画人といった、斜め上の方向に自我を強化した者たちは死後、鳥や猫、ライオンといった、人間でない姿を得ることがあるのだ。
そしてマダム・モーガンの目に、アルバという男は以前から鸚鵡のように見えていた。白い羽毛と黄色い冠羽を持った、キバタンという種の鸚鵡に。勿論、霊的存在が跋扈する世界から、生きている人間が忙しなく動き回る現世へと焦点を移せば、彼の姿は「白髪で長身痩躯、気難しそうな顔をした壮年の白人男性」のように見えるようになるのだが。しかしマダム・モーガンが気を抜いている時には、アルバの姿はキバタンに見えているのだ。つまりアルバという男が持っている魂は、キバタンの姿を取っているというわけである。
そんなマダム・モーガンには、目の前に居るキバタンが発する気配が、アルバの持つ魂のそれと同じように感じられていた。というか、冠羽の形といい、羽毛の色合いや艶といい、何もかもが同じようにすら思えている。
「アルバにそっくりだけど。でも、彼とまったく同じってわけではなさそうね。だとしたら、あなたは何?」
マダム・モーガンが試しに現世へとフォーカスを合わせてみれば、キバタンのように見えていた存在は別の姿で顕現した。聞こえてくる声も変化し、落ち着いた低い女声のようなものへと変わる。
「セィダルヤードだ。セィダル、そう呼んでくれ」
とはいえ、顕れたのは女ではない。二〇代前半、それぐらいの年齢だった頃のアルバにそっくりな顔をした、長身のアルバよりもさらに背の高い若い男だった。
肩に掛かるほどの長さがある髪は、手入れが面倒くさくて伸ばしっぱなしにされているといった雰囲気を発しているが、最低限の清潔感はある。そして、その髪色はかつてのアルバと全く同じ色合い、枯草色をしていた。また、その人物が着用している服は、上下が一続きになっている、ゆったりとしたデザインの黒いベルベットローブ。履いているのは、飾り気のないシンプルな乗馬用ブーツ。……見た感じでは、この男はそこまで見た目や衣服に気を遣うタイプではなさそうにマダム・モーガンには思えた。少なくとも、身支度にかなりの時間を費やすアルバのような性格はしていなさそうである。
また「セィダルヤード」と名乗ったこの男は、若い頃のアルバにそれとなく目鼻立ちは似ているが、しかし漂わせる雰囲気がアルバとは異なっていた。研がれた剣のような威圧感のあるアルバとは違い、このセィダルヤードという男の雰囲気は柔らかく、どことなく女性的だったのだ。
ゆったりとしたフォルムのローブに隠れてしまっているために、体のラインは分からなかったが……けれどもマダム・モーガンには、その体つきが男らしくないように思えていた。脚が長く、線が細く、肩幅もそれほどでもなく。華奢な少年の体格を、そのまま縦に引き伸ばしたような。それこそ歴史書の中でしか見聞きしたことが無い存在、カストラートや宦官といったもののような、そういう雰囲気。
それに、一番引っ掛かるのは声だ。アルバの声は並みの成人男性のそれよりも低い。ピリピリとした威圧感を伴った、静かな低音が彼の特徴だ。けれどもセィダルヤードと名乗った男の声は、そうではない。男性的な低い声では決してないが、かといって妙に上ずった声でもないし、少年のような声でもない。落ち着いた大人の女性の声、そんなところだ。
そういえば幼少期のうちに去勢されてしまった男は、成長すると女性のような声に変化するという話を聞いたことがマダム・モーガンにはある。変声後に去勢された男の場合は変に裏返った声になってしまうのだが、変声前に睾丸を切除されてしまった者はその限りではないと。
「へぇ、セィダル。変わった名前ね……」
マダム・モーガンは、セィダルヤードと名乗った男を怪しむように見る。そしてセィダルヤードと名乗った男の方も、マダム・モーガンのことを警戒するように観察していた。
「……」
「…………」
そうしてお互いが出方を伺っていた時。長く締め切られていたこの部屋の扉が開かれる。錆びつき、開きにくくなっていた扉は、少々乱暴に蹴破られたのだった。それから続いて、扉を蹴破った者の声が聞こえてくる――声の主は、ラドウィグだ。
「セダ・チュフタ、セィダルヤード」
乱暴に蹴破った扉の先に危険が無いことを確認すると、ラドウィグは構えていた拳銃を下ろしつつ、そんなことを言う。ラドウィグの猫のような目は、セィダルと名乗った男をジッと見据えていた。
そしてラドウィグの背後に立っていたジュディス・ミルズも、開けられた扉の先を確認し、構えていた拳銃を下ろす。それからジュディス・ミルズは左耳に着けていた無線通信機に、こう喋りかけるのだった。
「……サンドラ、大当たりよ。居たわ、マダム・モーガンが」
ぼんやりとした薄赤い光に包まれた、怪しげな研究室。水槽や、用途不明の機械が多く並んでいる。その異様な空間の中央に立つマダム・モーガンを、ジュディス・ミルズは訝しむように目を細めて凝視した。
……が、ジュディス・ミルズはその視線を目の前に立つラドウィグの後頭部へと移す。彼女は疑問に思ったのだ、先ほどラドウィグが発した意味不明な言葉を。「それで、ラドウィグ。今のは何? せだ・ちゅふた……?」
「英語に訳すと『玉無し卿 、セィダルヤード』ってなとこッスかね?」
馬鹿にするような半笑いと共にラドウィグはそう答える。ジュディス・ミルズはその半笑いに不快感を覚えた――何故ならば、その半笑いは明らかにジュディス・ミルズに向けられたものではなかったからだ。加えて、急に刺々しくなったラドウィグの態度、これにジュディス・ミルズは違和感を覚える。それにラドウィグの答えも、意味不明だ。
一体、ラドウィグは何を見ているのか? そう疑問に思うジュディス・ミルズが眉間にしわを寄せて首をひねった時、今度はマダム・モーガンが高笑う。
「ハッ! 玉無し、そういうわけね。どうりで女っぽい体つきなのか……」
そんなわけで、ジュディス・ミルズには見えていなかったのだ。マダム・モーガンとラドウィグの二人には見えていた、セィダルヤードという男の存在が。
玉無し? 女っぽい体つき? 何よ、それ。何の話をしているの……?!
そんなこんなで困惑するジュディス・ミルズを置き去りにして、状況は動いていく。殺気立つラドウィグが、セィダルヤードを睨み付けた。
「お久しぶりッスね、セィダル卿。まさか、アンタの顔を再び見る日が来るとは。こりゃ予想外だった」
威圧するように、わざとらしく怒りを滲ませた声でそう言うラドウィグは、目を細めて、セィダルヤードを睨み付けていた。というのも、ラドウィグにとってセィダルヤードという男は憎むべき存在。宰相という立場を悪用し、ラドウィグの故郷をぶっ飛ばす行為に加担した人物なのだから。
しかし、ラドウィグから恨まれているとは露ほども思っていないセィダルヤードという男は、殺気立つラドウィグの姿に驚愕するのみ。隠す気も更々なさそうな敵意を真正面からぶつけてくる若者に、セィダルヤードはこれぐらいしか掛ける言葉が思いつかなかった。「君は、ルドウィルか?」
「ええ、そうですよ、見ての通り。だとしたら、何だって言うんです?」
「……なにを殺気立っているんだ、ルドウィルよ」
「心当たり無いんスか? そりゃ、おめでたい」
イヤ~な態度で嫌味を返しつつ、ラドウィグも驚いていた。ここにセィダルヤードという男が居るということ、そしてセィダルヤードという男がこちらの世界の言語、つまり英語を扱えているということに。
その一方で、ラドウィグの後ろに立つジュディス・ミルズは、ラドウィグが見えない敵に対してよく意味の分からない嫌味を発していることに驚き、そして怯えていた。自分にだけ見えない何者かがここに居て、それにラドウィグが敵対心を剥き出しにしているということの状況に、為す術のない彼女は困惑することしかできなかったのだ。
「えっ、何? そこに誰か居るの?」
ジュディス・ミルズが困惑からそう呟いたとき。たまたま無線通信機が、その声を拾った。そして無線通信機は、その呟きを聞いたアレクサンダー・コルトの返事を伝える。『どうした、ジュディ。何があった?』
「ラドウィグには何かが見えているみたいなんだけど、私には何も見えな――……ッ?!」
そのとき。ジュディス・ミルズは、あるものを見つけた。といっても、それは黒いローブを着たセィダルヤードという男ではない。彼の奥にある水槽、そこに閉じ込められた二人だ。
暗赤色の半透明の水に浮かぶ、二つの人間の脳。それを見たジュディス・ミルズは息を呑む。仕事柄、多くの死体や凶行を目撃してきたジュディス・ミルズだが、それでもこれほどまでの狂気を目にするのは初めてのことだった。バラバラに切り刻まれた死体を見たことは幾度かあったが、人間の脳だけというのは……――流石に、彼女も初めて経験する事案だ。検死解剖の際に監察医によってご遺体から取り出された脳が量りの上に載せられている光景は幾度か見たことがあるが、しかし水槽の中に脳だけがあるというこの状況は、ジュディス・ミルズも今まで遭遇したことがない。
ジュディス・ミルズは、この目撃したものを無線通信機の先に居るアレクサンダー・コルトに伝えようとする。だが、いつものようにスムーズには言葉が出てこなかった。
「あの、サンドラ、聞いて。人間の脳が二つ、あるの。水槽の中に、脳だけ、ぷかぷかと浮いてる。体は無さそう。四肢も、臓器も。……なによ、これ……ここで一体、何があったっていうの……?」
『脳……? 分かった、アタシらもそっちに合流する。おい行くぞ、ダルトン、ベッツィーニ』
普段はクールな女を気取っているジュディス・ミルズが見せた、あからさまな動揺。これは相当な事態だぞと察したアレクサンダー・コルトは、ジュディス・ミルズにそう伝え、無線での通信を打ち切る。
その傍らでラドウィグは、依然セィダルヤードという男を睨み付けたまま。セィダルヤードという男に敵意を向け、その男と対峙しているマダム・モーガンを警戒するように観察していた。――と、そのとき。セィダルヤードという男がラドウィグから目を逸らす。彼は背後に聳える水槽に目をやると、小声で呟いた。
「おっ、どちらかが目覚めたようだ」
その言葉と共に、ラドウィグも水槽の中に眠っていた存在に気が付く。彼はその猫のような目を見限界まで開いた。
ジュディス・ミルズには『水槽の中に浮かぶ人間の脳』として見えていた彼らだが。ラドウィグの目には『水槽の中に閉じ込められた人間と、人間のような化け物』として見えていた。赤毛の女性と、ハーピーのように変形した体を持つアルビノの男性、その二人組に見えていたのだ。
それにラドウィグには、彼らに見覚えがあった。というか、ラドウィグは故郷で彼らに世話になっていたのだ。赤毛の女性はエレイヌという名で、アルビノの男性のほうはラントという名だったはず。――そして今、水槽の中に閉じ込められていた赤毛の女性がその目を開けた。
『……Fa wa ludwil ?(あなた、まさか……ルドウィルなの?)』
左側の水槽、その中にある人間の脳からブクブクと泡が吹き出る。すると天井に設置されたスピーカーから女性の声が鳴った。ラドウィグにとって聞き覚えのある女性の声が、聞こえてきたのだ。
ラドウィグは肩を落とし、視線を足許に落とす。そんな彼の後ろでは、謎の声が発した謎の言語に戸惑うジュディス・ミルズが、挙動不審に周囲を見渡していた。
「待って。何が起きてるの? 今のは何語? それにどこから声が……?」
その声を聞きながら、ルドウィルはゆっくりと顔を上げる。そして彼は短く刈り込んでいる髪を苛立ちに任せて掻き乱すと、やけっぱちな声で投げ遣りにこう言い放った。
「Se rawai , tan . Isa , Ma'km ludwil !(おっす、姐御。ルドウィルっす!)」
理解できない言語で聞こえてきた女性の声に、これまた理解できない言語で何か言葉を返すラドウィグ。――ついにジュディス・ミルズは言葉を失った。
呆然とするジュディス・ミルズは、気味の悪い部屋の中央に佇むマダム・モーガンをただ黙って見つめる。その視線に気付いたマダム・モーガンは肩を竦め、こう言った。
「やめて。私を見ないで頂戴。私にだってワケが分かってないんだから」
そんなこんなで、カイザー・ブルーメ研究所跡地でひと騒動が起こっていた頃。マンハッタンで白髪のクソジジィの帰りを待つアストレアは、ぽっちゃりとした母猫チャンキーを膝の上に載せ、アルバの住居スペースにてまったりしていたのだが。そこに突然、黒い霧が立ち込める。
「――おわっ?!」
驚き、言葉にならない声を上げるアストレアの膝から、毛を逆立てた母猫チャンキーが大慌てで飛び降りた。母猫チャンキーはリビングと他の部屋を結ぶ廊下へと移動すると、廊下に設置されたキャットタワーをタタタンッと軽快に駆け上がる。母猫チャンキーは最上階へと一気に上がると、一番上に設置された猫用ハンモックに身を潜めた。
そうしてリビングから母猫チャンキーが消えたとき。黒い霧が徐々に集まり、人型を成していく。現れたのは、やはり母猫チャンキーが警戒した通りの人物だった。
「なぁんだ、ジジィか。おかえり」
ダブリンでの『お掃除』を終え、先にマンハッタンへと帰されていたアストレアと海鳥の影ギルの一人と一羽。そしてアストレアは、マンハッタンに居る猫たちとライドら人工生命体たちの世話を任されていた。
「ガキ連中も、もう寝たよ。歯磨きも、ちゃんとやらせた。あと猫も、もう寝てる」
猫に夕飯をやって、猫たちの寝床を掃除してやれ。ああ、それから上の階に居るホムンクルスたちに夕飯も作ってやってくれ。食事の後には、歯磨きも見てやってくれ。その後、彼らが寝るまでは相手をしてやってくれ。頼んだぞ、猫の下僕。
――そんな命令をアルバから受け取ったアストレアは、渋々それらを行っていた。そして今は、その仕事も終えてゆっくりとしたところなのだ。
ダブリンでの仕事の後、アルバがどこからか買ってきたトマトの水煮缶とセロリとニンニク、じゃがいも、それと人参、キャベツ、ベーコンを渡されたアストレアは、彼に指示されたとおりのレシピでミネストローネを作り、それを人間の四歳児にそっくりなホムンクルスたちに出した。そして、このホムンクルスのガキどもは本当に面倒臭かった。
長男ポジションに居るのは、ギョーフという名の与えられたホムンクルス。褐色の肌を持つ男児のような姿をしていて、四人いるホムンクルスの中でも最も長い耳を持っている。そのギョーフは長男らしく、物分かりの良い性格の持ち主だ。好き嫌いもせず出されたものは残さず食べるし、アストレアがガミガミ言わずとも歯磨きをきちっとしてくれるし、寝る前はひとり大人しく読み書きのドリルに取り組んだり、他のホムンクルスの面倒をみてくれたりしていた。とにかく手の掛からない、アストレアを苛立たせないガキだ。
二番目ポジションに居るのが、栗色の髪と白っぽい肌を持った女児のようなホムンクルス、ユル。ギョーフほど長い耳を持っていないユルは、最も危険な聞かん坊で、とにかく暴れるガキである。野菜が嫌いで肉ばかりを食べようとするし、歯磨きも適当で、アストレアがもう一度やり直しをさせなければいけないほどだ。それに余暇にはオモチャを乱暴に振り回して、他のガキ、主にイングを大泣きさせることもある。ユルは手に負えないガキんちょだった。
そして三番目ポジションに居るのが、アストレアが最初に出会ったホムンクルス、金髪のライド。こちらは意外と、手の掛からないガキだった。放っておけばずっと図鑑や百科事典を読み続けているようなガキで、基本的には大人しいタイプである。食事の方も、そもそも食べることに興味がないようで、選り好みもしないし。が、小食なのが気になるところだ。また本に夢中になるあまり、ライドは夜更かしすることが多い。ただし、寝かせるために本を取り上げるとライドはギャン泣きするため……――アストレアはこのライドの扱いに困っていた。
最後に、四番目のポジションに居るのが東洋系の女児のような、黒髪のイング。ほぼほぼ人間と同じような耳を持つこのガキが、なんだかんだで一番手のかかる存在だ。偏食がひどく、また好き嫌いの一貫性がなく、アストレアもその傾向を完全に把握できていない。また嫌いなものをアストレアが強引に食べさせようとすると、イングは泣いて嫌がって抵抗するのだ。そしてイングは一番の甘えん坊であり、アストレアに終始くっつこうとする。アストレアが料理をしている時も、作業を手伝ってくれるギョーフとは反対に、イングはアストレアの腰のあたりに抱きついてくるだけで、それ以外のことは何もしない。それに寝る前は絵本の読み聞かせを求めてくるし、しかしアストレアが読んでやれば、アルバと違ってつまらない、面白くないと文句をブーブー言って泣き始めて。とにかく面倒くさいガキである。
そんなこんなで子供を寝かしつけ、アストレアがアルバの部屋に戻ってくれば。今度は遊んでくれとせがむ子猫たちがアストレアを待っていて――アストレアはもうクタクタである。
アストレアは保育士じゃない。猫の世話ぐらいならまだしも、子供の世話はキツイ。故にアストレアは、子供の世話を押し付けてくるアルバに文句を言ってやるつもりでいたのだが。帰ってきたアルバの妙に憔悴したような顔を見て、気が変わる。喉元まで出かけていた愚痴や文句は、胃袋へとキュッと戻っていったのだ。
「そうか、エスタ。ありがとう……」
アストレアの前に現れたアルバは、疲れた顔をしていた。そして彼は疲れ切った声で、珍しくアストレアに感謝を述べた。ありがとうと、今アルバは確かにそう言ったのだ。これは妙である。
そしてアルバは、誰も載っていない電動車椅子と共に現れた。……が、よく見れば電動車椅子の座面には古そうなラップトップパソコンが載せられている。アストレアはそのパソコンを見て、首をかしげた。
「ねぇ、ジジィ。そのパソコンは何?」
アストレアはアルバに、そんなことを問う。と、彼が答えを発する前に、パソコンに搭載されている者が反応を示した。
暗くなっていた画面がぼわんと明るくなり、液晶の画面にはサンセリフ体で『AI:L』と表示される。そしてラップトップパソコンの背後に置かれていたスピーカーから、機械的な合成音声が発せられた。
『ラーナー……ではなさそうだ。あなたは、誰ですか?』
スピーカーから聞こえてきた声は、AI:Lに似た声色をしている。そして画面の表示からして、これはAI:Lなのだろう。――アストレアはそう思ったのだが、しかし彼女は違和感を覚えた。このAI:Lは、アストレアの知っているAI:Lではなかったからだ。そしてこのAI:Lのほうもまた、アストレアのことを知らない。
そういうわけでアストレアが険しい顔をしていると、普段よりも覇気のない声で、アルバがこう答えた。
「二〇年ほど放置されていたAI:Lだ。ただ、これは複製であるらしい。ネットワークから外れた場所にある、あのAI:Lの分身のようなものだ。使えると思って、こいつを連れ帰ってきた」
「なるほど。二〇年前から止まってるレイなんだ。そりゃ僕のこと知らないわけだ……」
アストレアが特務機関WACEに保護されたのは、十八年前のこと。それよりも前から更新されることなく放置されているAI:Lなら、アストレアのことを知らないのも無理はない。
そうして納得したアストレアがひとまず黙ると、アルバは無言でリビングを立ち去っていく。ラップトップパソコンが載せられた電動車椅子を押して、書斎へと向かっていった。そんなアルバの背を見送りつつ、アストレアは溜息を吐く。そしてアストレアが天井を仰いだとき、彼女の視界を黒く大きな影が横切った――海鳥の影ギルだ。
悠々と宙を滑空する海鳥の影ギルは、アストレアの座る椅子の前、テーブルの上に着地する。それから海鳥の影ギルは、意味ありげにアストレアの正面に落ち着いた。
アストレアは眉間にしわを寄せる。それから彼女は目の前に降り立った海鳥の影ギルに、こう喋りかけた。
「なんか変じゃない、あのジジィ。あいつが『ありがとう』だなんて言葉をスッと言うなんて、おかしいよ。……アンタはどう思う、ギル」
そう言うとアストレアは腕を組み、アルバが去っていった方角を見やる。そんな彼女は、ダブリンでの仕事を終えた後にアルバがどこに向かったのかを知らなかったのだ。
ダブリンでの仕事を終え、依頼者だという当局の人物に対応をバトンタッチした後。アストレアと海鳥の影ギルは先に、マンハッタンへと帰されていた。その後アルバは「買い出しに行ってくる」と告げ、一度マンハッタンから消える。そして数分後、食材を買った彼が返ってきたのだ。帰ってきたアルバは食材を置き、アストレアに子猫とホムンクルスたちの世話を頼むと、野暮用が出来たと言って、また消えてしまい……――四時間後にこうして帰ってきた、というわけなのだ。
何があったのかをアストレアは知らないが、とにかくアルバは憔悴している様子だった。彼が赴いた先で何かがあったのは、間違いない。
「あのAI:Lも、どこから持って帰ってきたやつなんだろ……」
大抵のことでは動じなくなっているアルバという男の精神に、ダメージを与えるような何か。しかしアストレアには、何も思い浮かばない。そうして難しい顔をしているアストレアに、海鳥の影ギルは言葉を返す。『カイザー・ブルーメ研究所跡地に行くと彼は言っていましたが。あそこで、先ほどの機械の他にも、何かを見つけたのでしょうか』
「カイザー・ブルーメ研究所……。それってたしか、アレックスがラドウィグをどっかから誘拐してきた日にぶっ壊した研究所だったよね? あんなとこに、何の用が……」
カイザー・ブルーメ研究所跡地。その言葉から、アストレアは記憶を辿っていく。
たしか、あれは二年ぐらい前のこと。アレクサンダー・コルトが、ラドウィグとペルモンド・バルロッツィの二人を誘拐してきた直後のことだ。あのとき、ペルモンド・バルロッツィが言ったのだ。カイザー・ブルーメ研究所に行け、と。
ちょうどあの頃は、闇市場へと大量に流れていたホムンクルスの出所を、特務機関WACEとASIが血眼になって追っていた最中。流出していたホムンクルスを強奪したりすることはできていたのだが、しかしホムンクルスの出来は悪く、二日ほどで消散してしまうものばかり。確保してはすぐに消えてしまうホムンクルスからは思うように情報が集められず、苦戦していたのだ。挙句、取引に関わっていた人間の線を追っても、出所はなかなか絞れなかった。買い手と売り手を一網打尽にすることには成功したのだが、肝心の『商品であるホムンクルスの作り手』が見つけられずにいたのだ。
そんな時に降ってきたのが「カイザー・ブルーメ研究所、その最下層に行け」という黒狼の預言。その預言を引っ張り出したアレクサンダー・コルトは、必死の思いでサー・アーサーを説得し、サー・アーサーも渋々了承した。
特務機関WACEはカイザー・ブルーメ研究所に特攻を決め、カイザー・ブルーメ研究所がホムンクルスの製造実験を繰り返していたという決定的証拠を掴んだ。そしてアレクサンダー・コルトとケイの二人がその施設を破壊し、サー・アーサーが研究に携わった者を全て粛正し、ペルモンド・バルロッツィとラドウィグの二人が主犯格であった人物クレメンティーネ・レーゼを滅した。――それであの件は終結したはずなのだが。
「アレックスが、あそこの施設を徹底的に破壊したと思ったんだけど。まだ何かあったの、あそこに?」
アストレアは腕を組み、うーんと考え込む。しかし「あそこではホムンクルスが製造されていた」ということぐらいしか知らないアストレアが、あのような真相を導き出せるはずもなく。
そしてアルバが憔悴していた理由が分からないのは、海鳥の影ギルも同じ。
『探りを入れてみます。なにかが分かり次第、あなたにも報告しましょう』
海鳥の影ギルはアストレアにそう告げると、テーブルを飛び降りる。海鳥の影ギルはぎこちないヨチヨチ歩きで、アルバが去っていった書斎のほうへと向かっていった。
+ + +
時代は遡り、六十二年前。四二二七年の三月中旬の土曜日、その正午すぎのこと。まだボストンという土地が健在していたが、しかしアバロセレンなるものが既に誕生してしまっていた頃の話。そんなある日の、バーンズパブにて。
この日、久しぶりに“実家”ともいえる店に顔を出していたシスルウッドは、茹でたジャガイモを潰し、マッシュポテトを作っていた。これは、たった今オーダーが入ったシェパーズパイに使うものである。そしてシェパーズパイを注文したのは、カウンター席に座るクロエ・サックウェルとジェニファー・ホーケンの独身女性だった。
大学時代に、共通の知人であるペルモンド・バルロッツィを通じて出会った彼女たちは、卒業後もしばしば連絡を取り合い、会って話す間柄となっている。といっても異性としてではなく、あくまで友人として。というか、シスルウッドの役回りは多くの場合『愚痴聞き役』である。この日もまた、その例を漏れていなかった。
「今日はパパ業、お休みなんだ」
カウンターに頬杖を突きながら、茹でたジャガイモをマッシャーで潰すシスルウッドを眺めつつ、そうシスルウッドに問いかけたのはクロエ・サックウェル。日焼けした肌と耳より上の短い髪、いつでも妙にニヤついている表情は、出会った当初の彼女とあまり変わっていなかったが。流石に三〇歳も目前に迫ってくると、活力というものが減衰してくるようで。昔ほどの覇気や活気は無い彼女は、ややダルそうな声でそう言っていた。
そして、一〇年前より覇気が無いのはシスルウッドも同じ。奇跡的な――もしくは予め仕組まれていた運命的な――出会いがキッカケで結ばれた最愛の女性キャロラインとの間に子供も誕生し、一児の父親となっていた彼だが、しかし彼は手放しで「今が幸せだ」と喜べるような人生は得られていなかった。ワケあって無職となり、自称「専業主夫」をやっていた当時の彼は、義理の父親から冷たい視線を浴びせられる肩身の狭い日々を送っていたのだ。
そんなこんなでシスルウッドは、ジャガイモをマッシャーで雑に潰しつつ、気まずそうに笑いながらこう返答する。
「ああ。今日はパパの出番は無しさ。テレーザは今日、ママとお祖母ちゃんと買い物に出てるよ。幼稚園に通うようになってから、女の子に目覚めたみたいでね。お祖母ちゃんみたいな可愛いワンピースが欲しい、って言い出して。それでワンピースを探しに行ってるんだ」
シスルウッドがそう答えると、クロエ・サックウェルの隣に座っていたジェニファー・ホーケンが身を前へと乗り出す。長い黒髪をポニーテールに結った彼女はカウンターに肘をつくと、人が悪そうな笑みを浮かべる。それからジェニファー・ホーケンは、こんなことを言った。「そこはママじゃなくて、お祖母ちゃんなんだ」
「君らも、キャロラインのファッションセンスは知ってるだろう?」
シスルウッドがそう言葉を返すと、ジェニファー・ホーケンとクロエ・サックウェルの二人は顔を見合わせ、そして二人同時にクスクスと笑い出す。そんな女性二人は、シスルウッドの妻である女性キャロラインという人物の普段の服装――恐竜モチーフのゆるいキャラクターが大きく印刷された、とにかくダサいTシャツ。半端な丈の黒いカーゴパンツ。原色な赤が目に痛いスニーカー。それから、よく分からない謎のゆるいキャラクターが大きく印刷されたトートバッグ等。夫が服を選んでいない日のキャロラインは、このような『八歳男児のような服装』をやりがちである――を思い出していた。
そんなこんなで、カウンター席に座り笑っているこの二人だが。彼女たちがこの店を訪ねたのには、ある理由があった。今日はクロエ・サックウェルの独身最後の日で、その日を祝うべく彼女たちはここに集まったのだ。
「で、クロエ。……独身最後の日を、こんな老人ばっかの小汚いパブで終えていいのかい?」
シスルウッドは、潰し終えたマッシュポテトを料理担当であるライアン・バーンに私ながら、クロエ・サックウェルに問う。クロエ・サックウェルは小さく笑い、こう答えた。
「いいの。だって、アンタとジェニファーが居る。それで十分だから」
三年続いた同棲の末、ようやく恋人であるデリック・ガーランドから『結婚しよう』という言質を取ったクロエ・サックウェル。しかし彼女は浮かれていないどころか、暗い表情すらしていた。そしてクロエ・サックウェルは顔を俯かせると、素直に脱・独身を喜べないその心境を語るのだった。
「本音を言うとね。ここにエリカが居たらなぁ、って。そう感じてる。エリカが居たら、もっとド派手に騒ぐ気になれたんだろうけど。そういう気力が、今は少しも湧いてこないっていうか。それに、もうバカ騒ぎが許されるような年でもないかなぁ、ってね」
「あのクロエ・サックウェルから、そんな真面目な言葉が聞けるとは思ってなかった」
既に黒ビール一杯を飲み干しており、酔っ払いつつあるジェニファー・ホーケンは、俯くクロエ・サックウェルを茶化すようなことを言う。しかしクロエ・サックウェルは反論することもなく、ただ肩を落とすのみ。
そんなクロエ・サックウェルに、シスルウッドはどんな言葉を掛ければいいのか迷っていた。そして彼が絞り出したのは、どんよりした言葉。「あー……おめでとう、って言うべきなのかな。その、君たちの関係って、ほら……色々と、あっただろう?」
「祝福なんか求めてないから、安心して。私は、あのクズ男の首輪に鈴を付けられたってことで満足してるから。それで十分」
顔を上げたクロエ・サックウェルは、冷笑するような表情を浮かべると、自嘲するようなことを言う。続けて彼女は、恨み節のような言葉を放った。
「あの男の被害者をこれ以上出さないために、私はアイツを縛る枷になる。誓約書にもサインさせたわ。浮気しない、借金しない、夜逃げしない、ひとつでも破ったら地の果てまで追いかけて拷問してやる、って。そういう誓約書を作ったの」
「やるねぇ、クロエ。アンタのそういうとこ、あたし、だぁいすき~」
三杯目の黒ビールを飲みほしたジェニファー・ホーケンは、クロエ・サックウェルにそう言った。その呂律は、やや回っていない。そんなジェニファー・ホーケンは四杯目を注文しようとしたが、しかしサニー・バーンがそれを拒んだ。ジェニファー・ホーケンに対し「呑むペースが速すぎる」と釘を刺したサニー・バーンは、代わりに水をジェニファー・ホーケンに差し出す。――と、その直後、ジェニファー・ホーケンの顎がカウンターテーブルに落ちた。
まだ時刻は正午を過ぎたところだというのに。完全に出来上がり、寝落ちしたジェニファー・ホーケンは、カウンターテーブルに突っ伏しながら寝息を立て始めていた。そんな彼女の様子を見たサニー・バーンは溜息をひとつ吐くと、裏部屋に入る。やがてサニー・バーンは、酔っぱらって寝てしまった客に掛けるブランケットを携えて戻ってくると、ジェニファー・ホーケンの肩にそれを掛けるのだった。
連れがすぐに酔っ払い、寝落ちした姿を見て、クロエ・サックウェルもまた溜息を吐く。それから彼女は、今度は皿洗いをやり始めたシスルウッドに視線を移すと、彼の目をまっすぐ見つめながら、こんなことを言ってきた。
「それで……――私が聞きたいのは、バッツィのことよ。彼、今、すごい荒れてるって風の噂で聞いたから、どうしてるのかなって。バッツィがおかしくなったのはブリジット・エローラが壊したせいだけど、でも原因のひとつにデリックがあるわけっしょ? だから、その、心配で……」
バッツィとは、共通の知人であるペルモンド・バルロッツィのことである。バルロッツィを略して、バッツィ。そんなところだ。
そして当時のペルモンド・バルロッツィという男は、クロエ・サックウェルの言う通り、ひどく荒れていた。落ち着いていたはずの人格交代および鬱状態が、ブリジット・エローラとの再婚を機にぶり返し、それが特に酷くなっていた時期だったのだ。
しかしシスルウッドは、クロエ・サックウェルの言葉に答えることを避けた。代わりに、話題を逸らすような言葉を彼は選ぶ。シスルウッドはこう言った。「エリカも優しすぎるひとだったけど、君も大概だね、クロエ。君はアイツに私生活をズタボロにされた被害者だっていうのに。そんなヤツのことを気に掛けるだなんて」
「元はといえば、デリックの蒔いた種だもの。だから私は、バッツィを責めないよ。ましてや、彼の別人格のことも。私が憎んだのは、ゲスいことをやってくれたデリックだけ。それに、もう終わった件だし」
シスルウッドの言葉に、クロエ・サックウェルはそう返事をしつつ、彼女はじーっと彼を見つめていた。はぐらかさないでと、そう訴えるように。
クロエ・サックウェルに誤魔化しや嘘は通じないということを経験から知っているシスルウッドは、この視線に降参した。そして彼は渋々、自分が知っている限りのことを彼女に明かすことにする。
「セシリアから聞いた話によれば、最悪の状態らしいね。入退院を繰り返しているそうだ。最近は隔離病棟にいる時間のほうが長いらしい。人格交代も頻繁に繰り返しているみたいで、記憶の改変も頻繁に起こっているって状態なんだってね。……あいつ、イルモに一切連絡していないみたいだし、イルモが架けても電話に出ないみたいで」
「ってことは、アーティー。最近は会ってないんだね、バッツィに」
「外道に落ちたブリジットの顔を見たくないんだよ。となると、彼女に囲い込まれているペルモンドには接触できそうにない。だから、セシリアに聞くしかないんだ、ペルモンドの様子を」
セシリアとは、当時ペルモンド・バルロッツィの後見人を請け負っていた行政書士セシリア・ケイヒルのこと。判断能力に問題があった彼に代わって、彼の財産を適切に管理したり、入退院に関する手続きの代行等を行っていた女性だ。
そのセシリアは、シスルウッドがペルモンド・バルロッツィに紹介した人物でもあった。そしてシスルウッドにセシリアを紹介したのは、『その道』に明るいクロエ・サックウェルであったりする。要するに、セシリアもまた共通の知人なのだ。
そんなこんなで『セシリアから聞いた話』をシスルウッドは語ったのだが。すると、クロエ・サックウェルは渋い顔をした。そして彼女は、シスルウッドにこんなことを言う。「……会いたくないんだね、彼に」
「会ったところで何を話せばいいのかが、僕には分からないんだ。あと、彼に会うことをキャロラインが嫌がるし。たしかに彼のことは気掛かりだ、けれど僕にできることはもう何も無いんだよ。そういうのは全部、セシリアに任せているから」
正直な心の内をシスルウッドが打ち明けると、クロエ・サックウェルは肩を竦める。それから彼女は少し黙りこくった後、再びシスルウッドの目を見て、言った。
「今日はエリカの月命日だし。この時間帯ならたぶん、バッツィは彼女のとこに居ると思うよ。……アーティー、行ってきたら?」
つまり『エリカのとこ』とは、彼女が眠っている市内の墓地のことを指しているのだろう。そのことをシスルウッドはすぐ察したが……――かといって、彼の足が動くことは無かった。もう半年は顔を合わせていない相手に、今更会う気もなかったのだ。
だが、周囲は彼に「行け」と促す。クロエ・サックウェルは視線でそう訴えているし、ライアン・バーンもシスルウッドにこう言ってきた。
「行ってこい、ウディ。でないと、後悔するぞ」
だが、それでもシスルウッドは渋る。すると彼の手に握られていた皿洗い用のスポンジを、サニー・バーンが取り上げた。そして洗剤の泡がついたシスルウッドの手に水を掛けるサニー・バーンは、シスルウッドの背を叩き、檄を飛ばす。
「行きなさいって言ってるんだよ。親の言うことが聞けないのかい?」
バーン夫妻から向けられる視線に耐えかねたシスルウッドは、仕方なく手を洗って洗剤を落とし、店の外に出る。彼は腰ポケットからキーケースを取り出すと、店の前に停めていた車のキーを手に取った。
そうしてシスルウッドは車に乗り込むと、キーを挿す。助手席に設置された空のチャイルドシートを横目で見ながら、彼はこんなことになってしまった経緯を思い出していた。
「……死にたがりの人殺しに会って、何を話せっていうんだよ。クソッ……」
シスルウッドはそう呟くと、ハンドルを握り、舌打ちをした。続いて後写鏡に映る自分自身の顔を見て、また彼は舌打ちをする。目の下の隈、やつれきった顔。随分と人相が悪くなった彼自身が、その鏡には投影されていたのだ。
+ + +
あれは四二二〇年、八月半ば。夏期講習にも飽きが来た為、ひとまず残り少ない夏休みを楽しもうとシスルウッドが考え始めた矢先のこと。
「ただいまー。遅くなってごめん。夕飯、今から作るねー」
ワケあって学生寮を出たシスルウッドは当時、ひょんなことから知り合ったペルモンド・バルロッツィの自宅に居候していた。
彼が学生寮を出た理由。それは他の学生との間に起きたトラブルだ。
ライアン・バーンや常連客シェイマス・ブラウンが危惧していた通り、左派色が強かった大学に進学したシスルウッドは、そこで酷い目に遭っていた。ハイスクール時代よりもひどいリンチを、彼は他の学生から受けていたのである。
ハイスクール時代、シスルウッドを虐めてきたのは暴力的な連中だけだった。殴られる、蹴られる、突き飛ばされる。その程度で収まっていた。他の学生たちも助けてこそくれなかったが、しかし傍観するだけで虐めに加担したりはしなかった。シスルウッドが抱えるダメージは、痣ぐらいで済んでいたのだ。
しかし大学に上がると、全てが変わった。シスルウッドを虐めてくる連中は「憂さ晴らし」の為ではなく、「奇妙で偏った正義」を掲げていた。差別主義者アーサー・エルトルの息子をこの大学から排除しろと、そういう運動を勝手に展開していったのだ。シスルウッドは特に何もしていないにも関わらず、彼がアーサー・エルトルの息子であるという理由だけで、そのような運動を展開したのである。
リンチの内容も変わった。今までは身体的な暴力が多かったが、しかし大学では精神的な攻撃に重きが置かれるようになったのだ。
学生寮に居た頃、シスルウッドの私物はよく盗まれていた。そして多くの場合、消えた私物が発見されるのはゴミ箱の中。汚されたり、切り裂かれたりした状態で彼の私物はよく発見されていた。
また彼は、他の学生たちから物を投げつけられ、服を汚されることが多かった。特に、トマトを投げられることが多かった。そのおかげで、十何枚とシャツを捨てる羽目になった。最終的に彼は、大学敷地内にいる時は常にレインコートを羽織るようになった。お陰で、頭のおかしい変人だと揶揄されるようにもなった。
そして学生寮の中では常に、彼は誰かから罵倒され続けていた。統合失調症がついに発症して、幻聴が聞こえるようになったのではと本気で疑ったことがあるほど、その罵倒は絶え間なく続いた。その罵倒は、同じ寮部屋に居た学生たちがノイローゼを起こすぐらいには苛烈なものだった。
自分が攻撃されることによって、他の学生が病んでしまう。その状況に、シスルウッドは耐えられなくなった。そうして彼は、学生寮を出ることを決意したのである。
幸い、同じ寮部屋を共有していた学生たちとの関係は良好。オーストラリアからの留学生で、オカルトヲタクで陰謀論者のデータス・ブリストウ。朝鮮からの留学生で、安いステーキ肉を買ってきてはそれを薄切りする作業に命を懸けていた焼肉好きのヒョン・ヨンス。イタリアからの留学生で、心配性な母親が二週間おきに乾燥スパゲッティとトマトの水煮缶を大量に送り付けてくるニコロ・ピストッキ。彼ら三人とは、卒業後も文通のやり取りをするぐらいには仲を深めていた。
そんなこんなで学生寮を出たシスルウッドだったが。彼はバーン夫妻の許には戻らなかった。というのも、戻ってしまったら最後、居心地の良いバーンズパブから二度と出られなくなり、独り立ちが出来なくなるという確信があったからだ。そういうわけで彼は新居を探したのだが。それが難航する羽目になるのだ。
最初の住処は、スムーズに見つかった。大学の近くにある、学生向けのアパートの一室だ。しかし、そこに同じ大学に通う学生たち押しかけてきて騒ぎを起こす。アーサー・エルトルの息子を追い出せと叫び続ける迷惑行為を学生たちは繰り返した結果、シスルウッドは彼らの要求通りに追い出されることになったのだ。
次の住処も、スムーズに見つかった。中華街に面した治安の悪い地区にある安くてボロいアパートである。そこで三か月ほど平穏に過ごした。しかし、ある人物にシスルウッドは見つかってしまう。それは実の父親、アーサー・エルトルだった。
シスルウッドを家から追い出した後、長男ジョナサンに目を向け、ジョナサンを跡継ぎにするべく力を入れ始めた父親だったのだが。しかしジョナサンは結局、父親の期待に沿うことが出来なかった。ジョナサンは再び薬物に手を染め、ジャンキーに戻ってしまったのだ。そういうわけで父親は再びシスルウッドを家に連れ戻すべく、あれやこれやと手を尽くしていたのである。
父親はシスルウッドを家に連れ戻すために、まずシスルウッドの住居を奪うことを検討した。そうして父親はシスルウッドが入居していたアパートを特定すると、そこの大家に金を握らせ、シスルウッドを追い出させたのだ。
けれども、それで挫けるシスルウッドではない。彼は次の住処を見つけようと躍起になった。だが、躍起になったのはシスルウッドだけではない。父親とて同じだった。それからシスルウッドは、入居しては父親の画策によって追い出されるということを一週間おきに繰り返す生活を送ることになる。毎週のように不動産屋に通うという日々を、シスルウッドは送るようになったのだ。
そのうち、市内の不動産屋はシスルウッドを要注意人物として見るようになった。というか、アーサー・エルトルの起こす騒ぎに巻き込まれたくないという会社が増えたのだ。その結果として、シスルウッドは不動産屋から門前払いを受けるようになった。出禁を食らうことも増え、そして彼は絶望した。
私物は、レンタルした貸倉庫の中に入れるようになった。そして彼は必要最低限のものをキャリーバッグに詰めて、あちこちをうろつくようになった。
友人であるザックの家に泊めてもらったり。バーンズパブに一晩だけ帰ったり。観光客らしき女性を吹っ掛けて、一晩の相手をする代わりに宿泊先に一緒に泊めてもらったり。――なんだか虚しさの募る日々を、彼は送るようになったのだ(ちなみに、このようにズタボロで惨めな生活のことは、同じ大学に進学することになった幼馴染ブリジット・エローラには頑なに隠していた。エルトル家を追い出された経緯についても、ブリジットに対してだけは適当な嘘で誤魔化していた。なぜならブリジットは、父親であるリチャード・エローラを『悪しき見本』と見做し、その正反対の人間になろうと努力を重ねているような、つまらない上に狭量な人間だったからだ)。
だが、その状況もペルモンド・バルロッツィという気難しい天才との出会いによって変わった。
最初こそ「いけすかねぇ金持ち野郎だなぁ」という僻みから、ペルモンドに突っかかっていたシスルウッドだったが。悪意を以てしつこく突っかかってくるシスルウッドに、ペルモンドはなんだかんだで誠実に対応してくれていた。そしてある日、シスルウッドは悪いことを思いつく。一か八かでコイツの家に転がり込んでみるか、と。
そういうわけで四二二〇年七月某日、土砂降りの雨が降っていた日に、シスルウッドはペルモンドの自宅に大荷物を抱えて突撃した。ここに住まわせてくれと頼み込んだわけである。……が、流石にそれは拒まれ、シスルウッドは追い返されそうになったのだが。そのとき、ペルモンドがフラッと倒れた。そして彼は、そのまま目覚めなかった。
これはマズいと判断したシスルウッドが通報し、ペルモンドは救急搬送されることに。運び込まれた先でペルモンドは脳内出血と診断されたが、幸い一命をとりとめた(このとき、ペルモンドが搬送されたのはリチャード・エローラ医師の勤め先である大型病院。ここでペルモンドこそが以前リチャード・エローラ医師を困らせていた青年「ウルフ」であることが判明する。長く行方不明になっていた青年が偶然見つかったことにリチャード・エローラ医師は歓喜し、一方で父親と同じく「ウルフ」に振り回されていたブリジットはひどく不機嫌になっていた。ブリジットはどうやら、自分の知らないところでシスルウッドと「ウルフ」が親しくなっていたことが気に入らなかったようだ)。
そしてペルモンドが入院していた間、シスルウッドは家主が留守にしていることを良いことに、ペルモンドの自宅を侵略。ゲストルームとして使用されていたらしい部屋を占領し、シスルウッドは勝手にそこを自分の部屋とした。またシスルウッドは勝手にペルモンドから拝借した家の鍵を利用し、彼の家に出入りをしながら、ついでに入院している彼の世話をしていたのだが。そんなことをしていたら、なんやかんやで彼に感謝され……――彼の家に居候する権利を得た、というわけだ。
「あれっ、ペルモンド? ……まさか、飯も食わないで先に寝たのか、あいつ」
そういうわけで、バイト先での勤めを終えて、友人ペルモンドの自宅に帰ってきたシスルウッドだったのだが。この時の彼はまだ知らなかった。ペルモンド・バルロッツィという男が、大きな問題を複数抱えていたということを。
この時点のシスルウッドは、ペルモンドという人物のことをこう思っていた。気難しい自滅型の天才で、物作りの才能に恵まれた金持ちだ、と。
他者が促さなければ飯もロクに食わないし、夜を徹するだなんてことは当たり前で、とにかく自分を省みない性格の持ち主、それがペルモンド・バルロッツィだ。そして彼はとても神経質で、物や家具の位置がいつもと違うだけでひどく不機嫌になる。エアコンのリモコンの置き場所、スパイスラックの中の物の配置、冷蔵庫の牛乳の場所など、細かいことにイチイチ目くじらを立てるタチだった。
それから、彼は気味の悪ささえ覚えるほどの潔癖だった。手指消毒用のアルコールスプレーは家のあちこちに置かれていたし。本棚に埃が少し溜まることすら、彼は許さなかった。また彼は、床にリュックサックといった物を置くことにも良い顔をしなかったし。それに彼の家は、土足厳禁であり素足禁止。玄関前で靴を脱いだ後、持参した屋内用スリッパに履き替えることを義務付けられていた。来客がスリッパを持参していないときは「帰れ」と追い返していたほど、彼は神経質だった。
また潔癖さは、精神面にも顕れていた。とにかく彼は堅物で、ジョークも通じないし、下品な冗談には露骨に嫌がるような顔をしていたものだ。それに女性関係のほうもかなり徹底していて……――と、シスルウッドは思っていたのだが。
「おーい、ペルモンド。……まさか寝てるのか?」
そんなこんなで、アルバイト先の酒場――バーンズパブではなく観光客向けの賑やかな酒場で、主に配膳を、たまにサンデーローストの仕込みを担当している――から帰宅し、帰宅したという旨を家主にわりかし大きな声で伝えたシスルウッドだったのだが。家主であるペルモンドからの返事はない。しかし、ペルモンドはこの家の中にいるはずである。彼には今日、外出の予定はなかったはずだからだ。……となると、ペルモンドはもう寝たのだろうか?
そんなことを考えつつ、とりあえずシスルウッドは真っ先にキッチンへと向かうと、水で手を洗い、水気をタオルペーパーで拭い、そしてスパイスラックの一角に置かれていたアルコールスプレーを手に噴霧し、ややヒリヒリとした刺激を与えてくるアルコールを両手に塗り広げる(これはこの家に居候することを許す条件として、家主からシスルウッドに与えられたルールのひとつである。「土足厳禁」のように合理的とも思えるものから、「酒であろうが酢であろうが、中身が何であろうが、絶対に瓶類を家の中に持ち込んではいけない」「絶対に、家の中に鏡を設置してはいけない」といった理解に苦しむようなものまで、かなり細かく定められている)。それからシスルウッドは背負っていたリュックサックを自室(として勝手に使っているゲストルーム)のベッドに放り投げると、家主がいるであろう部屋へと向かった。それは家主が普段使っている寝室である。
「……はぁーっ。料理が出来ないわけでもないのに、飯をまともに食えないなんて、手のかかるやつだよ、本当に……」
四年前に建ったばかりの高級コンドミニアム。その最上階の、ひとつ下の階。そこを丸々ひとり占めしているのが、ペルモンドという人物である。
この広い家の中には、広くて奇妙な部屋が沢山あった。劇物やら得体の知れない薬品や器具がずらりと並ぶ実験室。巨大なコンピュータ複数台が置かれていて、冷房もガンガンに効いている暗くて寒い部屋。金属を加工するための工房らしき場所。書き散らかされた設計図が山積みになっている書斎っぽい場所。いつも扉が閉ざされていて、家主からは「入るな」と言われている開かずの間……。そんな感じで、ここは心が落ち着かない環境であり、とにかく広い家だったのだ。
そして寝室はこの家で最も奥まった場所にあり、この家で最も狭い部屋だ。大きなベッドが中央にひとつだけ置かれているだけの、本当に寝るためだけの部屋である。劇薬もなければ、試作品の拳銃も置かれておらず、紙ごみも散らばっていない、ただベッドだけがある部屋だ。
シスルウッドがその部屋に向かってみれば、案の定、部屋の扉は半開きになっていたし、誰かの寝息らしき静かな音も聞こえている。こりゃ完全に寝ているな、とシスルウッドは判断し、その部屋の扉を開け、部屋の中を覗き込んだのだが。
「おい、ペルモンド。お前、朝も昼も飯を食ってないってのに、夜も食わずに寝るとか流石に有り得なッ――……」
苛立ちに満ちた尖った声でそう言いながら、半開きの扉を勢いよく開けたシスルウッドだったが。部屋の中の様子を見たシスルウッドは次の瞬間、扉をバタンッと閉めて、一歩後ろに下がった。彼は、己の目でたった今目撃したものをすぐには受け入れられなかったのだ。
たしかに家主は、シスルウッドが予想した通りベッドの上に居た。ただ、普段の家主なら着たまま眠るはずの丈の長いガウンは、床に放り投げられていた。あれほど床に物を置くことを嫌がる男が、床に、あろうことか着るものを投げ捨てているのである。それに、床に投げ捨てられていた衣服はそれだけではない。見覚えのないTシャツ、家主が穿くには細すぎるジーパン、それから女性ものの下着類……。
そう。ベッドにはもう一人いた。女性らしさ影が居たのだ。
「……」
女性?
あの潔癖のペルモンド・バルロッツィが、女性と?
素手での握手すら嫌がる男なのに、それ以上の接触を?
「……落ち着け、落ち着くんだ。ふぅ……」
信じられないという思いを抱えながら、シスルウッドは深呼吸をし、緊張を鎮めようとする。そうして少し落ち着いた頃、彼は再び扉を開けた。
「えっと、その。……そこに居るのは誰だ?」
シスルウッドは恐る恐る部屋の中を覗き込む。するとベッドの上には、上体を起こした全裸の女性――その人物は、胴体部にビッシリと青いタトゥーを彫り込んでいた――が居た。
先ほどシスルウッドがうるさく閉めた扉の音で目を覚ましたのか、彼女は眠たそうな顔をしている。気だるそうに眼をこすっているその女性は、開けられた扉の横に佇むシスルウッドを見ると、不敵に笑う。そして女性はシスルウッドを意味深に見つめながら、こう言った。
「あぁ~。アンタが、アーサー・エルトルの息子ってやつかぁ」
「違う。あのクソ野郎とはもう縁を切った」
反射的にシスルウッドの口から飛び出した言葉に、女性はきょとんと首をかしげる。だがシスルウッドはそれに構うことなく、あくまでも強硬な態度を取った。
「誰だか知らないけど、とりあえず服を着てくれ。それから早くこの家を出ていッ――」
「シャワー借りるね。それから今日は泊ってくから。よろぴっぴ~」
しかし。シスルウッドの冷たい対応を物ともせず、タトゥーの女性は大胆不敵な行動をしてみせた。シャワーを借りる、そして泊っていくと宣言した彼女は、被っていた毛布をポンッと足で蹴飛ばし、ベッドから降りると。床に落ちていた自分の衣服……――ではなく、ペルモンドのガウンを拾うと、それを持ったままシャワールームのある場所へと向かっていった。
女性の通り過ぎざまに感じた、松脂っぽいニオイと、スパイシーなコリアンダー臭、および顔をしかめたくなるリコリスのニオイに、シスルウッドはウンザリとした表情になる。ジンのにおいだという確信が、シスルウッドにはあったからだ。
神経質な天才ひとりの相手だけでも大変なのに。今晩は酔っ払いの世話までしなきゃならないのかよ。――そう思うシスルウッドは肩を落とす。そしてシスルウッドが家主の寝室に入ってみれば、ベッドの脇には空になった青い酒瓶が落ちていた。酒瓶のラベルにはシスルウッドの予想した通り、ジンと書かれている。
「……酒瓶……」
そういえば、家主から提示された『この家のルール』のひとつには、ボトル瓶の持ち込み禁止というものがあった。ジャムやピクルスを入れるようなジャー瓶は良いが、先が窄んだタイプのいわゆるボトル瓶は絶対にダメだと。しかし、今この寝室にはボトル瓶がある。禁止されているはずのボトル瓶が、ここに持ち込まれているのだ。
こりゃどういうことだ、とシスルウッドは眉をひそめる。この理解不能なルールには常々「どういうことだ?」と疑問に感じていたシスルウッドだったが、さらにこの理解不能なルールのことが分からなくなっていた。もしやこれは、自分にだけ課されている理不尽なルールだと思えてきたからだ。
そんなこんなでシスルウッドが酒瓶を訝しむように見ていると、シャワールームに行ったはずの女が戻ってきた。相変わらず服もガウンも来ていない女は、寝室を覗き込み、シスルウッドに視線を送ると、ニヤッと笑う。そして彼女はシスルウッドにこう告げると、再びシャワールームのある方向に向かって走り去っていった。
「アタシも晩ごはん食べたいなぁ~、エルトルさぁ~ん」
ここまで傍若無人だと、もはや呆れ以外の感情は何も沸き上がってこない。彼女は色気も何もヘッタクレも無い、無作法な酔っ払い。ただただ見苦しいだけだ。
そうしてシスルウッドは溜息を零したあと、ベッドの上で寝ている家主を叩き起こす。シスルウッドは暢気に眠っている家主の肩を掴んでグワングワンと揺らし、家主の頬をペチペチと叩いて、家主を静かな眠りから引き摺り出そうとしたのだが。
「おい、起きろ。あの女、誰だよ」
いくら叩こうが揺らそうが、しかし家主は目覚めやしない。そうしてシスルウッドが再度溜息をついたとき、また素っ裸の女が慌ただしく戻ってくる。開けられた扉からひょっこりと顔を出す女は、シスルウッドに己の名前を名乗った。
「自己紹介がまだだったねー。アタシ、空間デザイン工学科のジェニファー・ホーケン。ジェニーって呼んで。――そんで、彼は今、ジュードだよ。バッツィじゃない。だから叩き起こすのは諦めな。一回寝たら、ジュードは朝が来るまで起きないから」
ジェニファー・ホーケン。そう名乗った人物は、家主を指差して「今の彼はバッツィじゃない」と言った。その奇妙な言葉を、すぐにシスルウッドは理解できない。
変なことを言っているな、この酔っ払い。――それがこのときの、率直な感想だった。
「……へぇ、ジュード?」
ペルモンド・バルロッツィ、だから姓のほうを略して、バッツィ。家主が、彼の友人らからそう呼ばれていることはシスルウッドも知っていたが。しかし、ジュードという人名を聞くのは初めてだった。
酔っ払いの戯言だと思って聞き流すシスルウッドは、腕を組み、訝しむような視線をジェニファーにぶつける。するとジェニファーは話が通じていないことに気付き、唇をへの字にゆがめた。それからジェニファーは面倒くさそうな表情を浮かべると、声に厭わしさを滲ませながらこんなことを言うのだった。
「多重人格ってやつだよ。まさかアンタ、一緒に暮らしてるくせに気付いてなかったの?」
ジェニファーからの指摘に、シスルウッドは息を呑む。彼は組んでいた腕を解き、ベッドの上で寝ている家主を横目で見やると、すとんと肩を落とした。たった今ジェニファーの言葉で、ここ最近抱えていた家主ペルモンドに対する疑問や不信感の謎が解けたからだ。
端的に言うと、ペルモンドという人物は記憶に問題を抱えている。記憶の連続性、あれにバグが発生していたのだ。
火にかけたヤカンの存在を忘れて平気で外出することも、家主は平気な顔でやってのけるし。冷蔵庫に調味料を取りに行った際に、「自分が料理をしていた」ということを忘れてクランベリージュースを手に取り、キッチンには切りっぱなしの鶏肉だけが残される、といった事態も家主が料理をするたびに起こるし。朝に目を覚ましたら昨日の記憶を丸きり忘れていて、もう過ぎている「昨日」を何の疑いも持たずにやり直そうとする家主の姿も、シスルウッドは何度か目撃していた。
また、問題は記憶だけではない。家主の性格そのものが、日によってガラッと変わることはあったのだ。
穏やかな雰囲気の中でゆったりと会話らしい会話ができる日もあれば、他者の存在を完全にシャットアウトした重い自閉症のような振る舞いを見せる日もあるし、かと思えば急に寂しがり屋なスイッチが入ってシスルウッドがバイト先に向かうことを引き留めるようなことを言ってみたり。ある時には自暴自棄になって物に当たりまくり、またある時には自己嫌悪を起こして部屋に引きこもって等々……――彼はあきらかに異常だったのだ。
そんなヘンテコな家主と暮らすうちに、シスルウッドも薄々気付き始めてはいたのだ。もしかしてこの男、俗にいう多重人格とかいう類のものなのではないかと。
「……もしかして、深刻なやつ?」
シスルウッドが恐る恐るジェニファーにそう訊ねてみれば、彼女はニッと笑い、そしてウンウンと頷いた。それからジェニファーは、軽い調子で重たいことをドーンッと軽快に言い放つ。「そうかもね~。わりと重めのDIDだと思うよ~ん。バッツィ含めて四人ぐらい居るし、バッツィなんかー、さらに五パターンぐらいに割れてるし~?」
「四人?! えっ、いや、待て。さらに五パターンっていうのはどういう――」
「ただ、本人っつーか、バッツィはそれを秘密にしたいって思ってるっぽいから~? まっ、そういうことで~。お願いしや~っす!」
「…………」
「あっ、そこの酒瓶は片付けておいて~。バッツィが見たらパニック起こすから~」
「自分でやれよ」
「急に冷たくなるじゃ~ん、アンタ。――でも、バッツィは取り乱したときマジ面倒だから。頼んだぜぇぃ、兄弟。いぇい! あっ、それからアンタのことなんて呼べばいいの?」
「アーティーでも、ウディでも、お好きにどうぞ」
「んじゃ、アーティーで。よろしく頼んだぜ、アーティー!」
ジェニファーは機関銃のように自分の言いたいことを一方的に言う。シスルウッドに言葉を咀嚼する時間を与えることなく、ジェニファーからはとんでもない言葉が矢継ぎ早に飛び出していった。
そこで、シスルウッドはひとまず思考を放棄することにした。ここは流れに身を任せ、適当にやり過ごすべきだと、そう判断したのだ。
「ハイハイ、分かりましたよ」
酔っ払いが飲み散らかして放置した瓶を、シスルウッドは渋々拾い上げる。そうして近付いたベッドの下を覗き込んだとき、シスルウッドは重い溜息を零した。ベッドの下には空の酒瓶がもう一本、転がっていたからだ。……とはいえ、こちらはジンではなく度数の低めなビールの瓶。ペルモンドが寝ている側にその瓶が転がっていたことから、彼が空けたのはビール瓶のようだ。
「…………」
料理に使う酢ですら、ガラス製のボトル瓶ではなくプラスチック製のペットボトルのものを買うようにと念を押してきた男が、ビール瓶をラッパ飲みでもしたのか?
信じがたいことだが、しかし目の前に落ちている情報を集めて得られる推論はそれしかない。
「……誰なんだよ、お前は……」
シスルウッドは家主の側に移動し、床に落ちているビール瓶に手を伸ばす。そして寝ている家主の顔をちらりと見ながら、そんなことを小声で呟いたとき。シャワールームの方角から、節操のないジェニファーの大声が聞こえてきた。
「ねぇ、アーティー!! 下着わすれた、こっち持ってきて!」
「それぐらい自分でなんとかしろ! お前の下着に触れる気はない!!」
ついさっき会ったばかりの男に、寝室に脱ぎ捨てた下着をシャワールームまで持ってこいと要求する横暴さ。さすがに呆れかえったシスルウッドは、ジェニファーと張り合うように怒号を上げる。
そして、シスルウッドのその声で家主が目覚めた。それからシスルウッドに向けられた家主の声が聞こえてくる。
「――誰だ?」
むくっと上体を起こした家主の肩から、被さっていた毛布がズリッと落ちる。そのとき初めて見た家主の腕に刻まれた傷跡に、シスルウッドは表情を引きつらせる。――が、彼は平静を装った。シスルウッドは起き上がった家主に対して、いつもの調子でこう声を掛けたのだ。
「説明はあとで。腹減ってんだろ。ササッと作るから、着替えて待ってろ」
ペルモンド・バルロッツィ。彼はいつも、タートルネックの黒い長袖シャツを着ていた。半袖も、七分袖も絶対に着なかったし、ハーフパンツすらも穿かない。暑かろうと寒かろうと季節を問わず、彼はいつも真冬のような装いをしていた。腕をまくることもなかったし、となればシャツを脱いでいる姿も他者には絶対に見せようとしなかった。つまり、彼は徹底して肌を隠していた人間だったのだ。
故にシスルウッドにとって、それは初めて見るものだった。季節感を無視した服を着ていない家主の姿も、白く盛り上がった傷痕でビッシリと覆われた腕も。――虐待を受けていたり、機能不全の家庭で育った人間を知り合いに多く持つシスルウッドではあるが、ここまでひどいリストカット、ないしアームカットの痕跡が残る腕は、他に知らない。後にも先にも、家主を超える傷痕の持ち主は見たことが無いほどだ。
そんなわけで驚愕から顔をかなり引き攣らせていたシスルウッドだったのだが。しかし、視力が著しく低い家主はそのことに気付いていない様子。声色を取り繕っていたこともあって、シスルウッドの動揺は家主には伝わっていなかったようだ。
「……」
普段とは様子がかなり違う家主は、寝起きで半開きになっている瞼の隙間から生気のない蒼い瞳を僅かに覗かせる。キョロキョロと不自然に動く家主の瞳は、やがてシスルウッドの影をぼんやりと捉えると、そこに焦点を合わせる。そして家主は、普段とは微妙に異なっているトーンの声で、気だるそうにこう言った。「知らないやつの手料理は、気が引ける……」
「もう何度も食ってんだろうが。それか、近所の中華料理店から酢豚をテイクアウトしてこようか? てめぇが大嫌いな、豚肉の料理を」
遂に嫌気を起こしたシスルウッドが、家主の言葉に冷たく食ってかかったとき。家主はシスルウッドの冷たい態度、及びその発言内容に驚き、ギョッと目を見開いた。――このわざとらしいオーバーな反応は、仏頂面が定番のペルモンド・バルロッツィではまず見られない反応だろう。
声のトーンといい、表情といい、これはペルモンドでなく全くの別人だ。シスルウッドがそう確信を得たとき。家主の視線が動く。シスルウッドをぼんやりと見ていた家主の視線が、ベッド脇に移ったのだ。そして家主は、ベッド脇に居る“何か”に小声で喋りかけたのだ。
「――ジェド。この男、何者なんだ……?!」
しかし、ベッド脇には何もいない。サイドテーブルと、その上に置かれているシンプルな目覚まし時計と無骨なデスクライトぐらいしか、物は存在していなかった。となれば、話しかけるような物や動物が居るわけがなく……。
シスルウッドは思った。このイカれている家主には空想の生物が見えているのだろう、と。もう相手をしていられないと、呆れかえったシスルウッドが溜息を零したときだ。シスルウッドの目にも見えたのだ、そこに居るものが。
『シルスウォッド・アーサー・エルトル。または、シスルウッド・マッケイ。この男はお前の介護者であり、シロ公を抑えつける役を帯びたヤツだ。――なっ、そうだろ?』
サイドテーブルの手前。そこの床に伏せる、狼のような輪郭を持った黒い影。ギラギラと光る緑色の瞳を覗かせる黒狼がシスルウッドに見えていたし、それの声が聞こえていたのだ。
だが、シスルウッドは自分にこう言い聞かせた。これは幻聴で幻覚、きっと家主の住んでいる妙な世界に変な影響を受けて、少し精神がおかしな方向に進みかけているだけだと。だからこそシスルウッドは、その黒狼の言葉を無視した。そしてシスルウッドは、家主の先の発言に噛みつく。
「そりゃこっちが聞きたいことだよ、ペルモンド。お前は一体、何者だ!」
しかしシスルウッドの発言に家主は何も言わず、あくまでも家主はギョッとした顔をシスルウッドに向けてくるだけ。家主はどうやら、初めて見る男が自分に対して怒声を浴びせ続けているこの状況が理解できず、混乱しているようだ。そして話の通じない家主に苛立つシスルウッドは、酒瓶を二本抱えて部屋を出て行く。――するとまた、黒狼の笑い声が聞こえてきた。
『俺が見えていながらも、ビビらないどころか無視するとは。大したヤツだなぁ。その根性、気に入ったぜ』
家主の寝室を出て、キッチンへと向かうシスルウッドの後を、黒い影がのそのそと付いてくる。その影から逃げるように、シスルウッドは小走り気味に歩いた。そうしてキッチンに着くと、シスルウッドは酒瓶をシンクの中に置く。しかし酒瓶を洗うことはせず、彼はキッチンを立ち去っていった。
シスルウッドが次に向かったのは、リビングルームの隅に置かれていた固定電話の前。彼は受話器を手に取り、主治医の緊急連絡先の番号を素早く打ち込む。……どこか焦っている様子のシスルウッドを、背後から見る影はせせら笑っていた。
「リース先生! 本当に、急で申し訳ないんですけど、明日、予約とれますかね? なんか、ちょっと、幻聴というか、幻覚っつーか、そういうのが始まったっぽくて……」
早口で喋るシスルウッドに、黒狼はのそのそと近付く。そして黒狼はわざとシスルウッドの右足を踏み付けると、シスルウッドを見上げ、彼を睨み付けるのだった。
『俺を幻聴扱いしやがったな? なんてヤツだ……』
黒い影の中から覗く緑色の瞳が、シスルウッドを凝視している。――が、シスルウッドは動揺こそしていたが、その視線に怯えはしなかった。
シスルウッドは、己の右足を踏み付けていた黒狼の前足を蹴って払いのける。すると黒狼の輪郭が揺らぎ、黒狼は一歩下がった。予想以上に強気なシスルウッドの様子に、黒狼のほうが慄いていたのだ。
極めつけにシスルウッドは眉をひそめ、黒狼を睨み付ける。受話器を少し耳から話したシスルウッドは、黒狼に向かって罵声を浴びせるのだった。「……うるせぇ、黙れ、このクソ狼が。視界から失せろ。でないとニンニクをぶちまけて、てめぇを銀食器でめった刺しにしてやるぞ……!」
『人間風情が、随分とデカい態度を取ってくれるじゃ――』
「……消えろっつってんだろうが。聞こえてねぇのかァ……?」
固定電話のすぐ横に置かれていたペン立て、その中に乱雑に入れられていたハサミをシスルウッドは左手に構え、足許に居る黒狼を威圧した。すると黒狼は身を低くし、弱気に唸りながらも下がっていく。
なんだ、あの狼、案外チョロいじゃないか。――シスルウッドがそう思い、ふと気を抜いた時。電話の向こう側からは、焦った様子の主治医の声が聞こえてきた。
『ウディ。明日、朝一番で来なさい。八時半だ。その時間なら空いている。絶対に来るんだよ。分かったか?』
「あぁ、先生、ありがとうございま――」
急な連絡に、迅速な対応をしてくれた主治医にシスルウッドが感謝を述べようとしたときだ。シスルウッドの体勢が崩れる。足を滑らせたかのようにズルッと転げたシスルウッドは、背中を強く床に打ち付けた。その拍子に右手からは受話器が離れ、左手に持っていたハサミの刃は床に深く突き刺さる。そしてシスルウッドの左足は、ズキズキと痛んでいた。何故ならば、黒狼がシスルウッドの左足首に噛みついていたからだ。
「――ッダァッ!! 急に噛みつくんじゃねぇよ、このクソ狼が! お前っ、ブッ殺すぞ!!」
右足で黒狼の顔のあたりに蹴りを入れるシスルウッドはそう怒鳴り散らすと、ハサミを床から引き抜き、黒狼めがけてそれを投げつけた。すると黒狼の輪郭が割れ、そして黒い影は霧散する。……だが、シスルウッドには安堵する暇も与えられなかった。
シスルウッドが痛む足首を庇いながら立ち上がったとき、黒狼がまたシスルウッドの背後に現れる。黒狼は再度、シスルウッドの左足首に噛みつこうとしたが、しかし寸でのところでシスルウッドは攻撃を避けた。そしてシスルウッドは、先ほど投げつけたハサミを大慌てで拾うと、その刃を再び黒狼に向ける。
「……」
一方、黒狼のほうも体勢を低くし、牙を剥いて威嚇をしていた。シスルウッドも表情を険しくさせ、黒狼の緑色の瞳を睨み付けている。
そして電話台の横に落ちていた受話器は、荒れるシスルウッドの怒声を拾っていた。電話の向こう側にいるシスルウッドの主治医もまた、その声を聞いていた。
『……あぁ、なんてことだ……――エローラ先生! 明日、朝一番で、検査してもらいたい患者がいるんですが――』
……と、そこに受話器を拾う者が現れる。その手は受話器を元あった場所に戻すと、通話を勝手に打ち切った。そして、リビングルームにやって来た者は深呼吸をひとつすると、黒狼を睨む。それから彼は大声で、黒狼にある命令を出した。
「ジェド、おすわり!!」
その声に反応した黒狼は輪郭をブルルッと乱す。だがすぐに元の狼の形を繕い直すと、黒狼はその命令に従い、犬のようにその場に座った。
そして極度の緊張から頭の中が真っ白になりかけていたシスルウッドも、その大声に肩を震わせる。シスルウッドが表情を緩めたそのとき、シスルウッドの手からハサミが取り上げられる。続いて、普段とは妙に異なるトーンの家主の声が聞こえてきた。
「ジェド、伏せ。そして、オレが『立て』と再度言うまで、そこで待機。分かったか?」
渋々その場に伏せる黒狼と、緊張から固まるシスルウッドの間に、家主が立っていた。
家主は倒れたペン立てを直すと、そこにハサミを戻す。それから家主は黒狼が床に伏せたことを確認すると、黒狼に背を向け、シスルウッドのほうに向く。そして家主はシスルウッドの顔……――から若干ズレた場所に視線を向けると、気まずそうな微笑を浮かべて、軽く挨拶をするのだった。
「……ジュードだ。ひとまず、よろしく」
そんな家主の姿は、やはりシスルウッドが知っている“ペルモンド・バルロッツィ”らしくはない。ペルモンドは作り笑顔も浮かべないし、人の顔を見て話すという努力もしないからだ。
それに家主の服装も、いつもと違っていた。大慌てで着替えてきたのか、ひどく乱れているTシャツは半袖のものだし、それに腰紐が縛られることなくダラリと垂れているジャージパンツも膝丈だ。長袖シャツに長ズボンを頑として譲らないペルモンドらしくはない装いである。
加えて、半袖Tシャツの柄はどこまでもペルモンドらしくなかった。ペルモンドといえば、無地のものしか身に着けない人物なのだが。今まさに彼が着ているTシャツには、ド派手なイラストがプリントされていたのだ。
宇宙空間を思わせるような背景。その宇宙に浮かんでいるのは、DJ用ターンテーブルと、ターンテーブルの上に置かれているマルゲリータピザ。そしてピザの上には、目から虹色の光線を放っている茶トラ猫がお座りをした姿勢で乗っている。――なんだかよく分からない世界観を描いた、壮大でカオスなTシャツだった。
「ひどいTシャツだな、それ」
呼吸を整えつつ、シスルウッドが絞り出した感想はそれ。すると、ジュードと名乗った家主は苦笑う。それから家主はこう言った。
「これは、その、ジェニファーがくれたやつだ。スペース・ピザ・キャット」
そんな感じで幕を開けた、多重人格者との共同生活。もしこの時をもう一度やり直せたのなら、シスルウッドは迷わず『バーンズパブに戻る』という行動を取るだろう。そして恋人であったキャロラインとも別れる決断を下し、大学も辞めて、ハリファックスに帰る覚悟を固めて、叔母ドロレスの書店を継ぎ、野良猫を保護する活動をしながら、叔父ローマンのように焼き菓子をせっせと作る、そんな穏やかな日々を選ぶはずだ。
だが、当時のシスルウッドは悲惨な未来が来るなど考えてすらいなかった。エルトル家で過ごした陰鬱な日々よりひどいものはないと、そう信じていたからだ。
「宇宙で、ピザで、猫……?」
奇妙な猫のイラストに首を傾げていたシスルウッドは、このとき予想もしていなかった。アバロセレンという『神の力』が人間世界に顕現し、その騒動に自分が巻き込まれるだなんていう未来を。そして、アバロセレンにより自分の人生も、子供たちも奪われることになるなど、彼に思い描けるはずもなかった。
+ + +
シスルウッドが黒狼に足を噛まれた翌朝のこと。
「……あの時と同じだ……」
シスルウッドが朝一番で行った精神科。そこでシスルウッドを待っていたファーガス・リース医師は、左足を庇うように歩くシスルウッドの様子に違和感を覚え、真っ先にこう言った。左足首を見せなさい、と。
シスルウッドが左の靴下を下ろしてズボンの裾を捲し上げると、現れたのは雑に包帯が巻かれていた左足だった。そして左足首の部分には少し血が滲んでいる。それを見てすぐに顔を顰めさせたファーガス・リース医師はシスルウッドの足に巻かれていた包帯を解き、左足首に刻まれた傷――狼に咬まれたような傷痕――を見た。そうして彼が零した言葉が、先ほどのもの。あの時と同じだ、というセリフだった。
その後、シスルウッドは処置室に行くようにとファーガス・リース医師に指示を出された。そこで看護師から手当てを受けた後、再びファーガス・リース医師の待つ診察室に戻ると、ファーガス・リース医師は難しい顔をして腕を組み、何かを悩んでいる様子だった。
「あの、リース先生……?」
シスルウッドがファーガス・リース医師の前に座ると、ファーガス・リース医師は顔を上げる。だが、彼はすぐに何かを言おうとはしない。彼は前に座ったシスルウッドの左足首をジッと見つめ、暫く黙りこくっていた。
眉間に皴を寄せ、腕を組んでただ黙るファーガス・リース医師の姿に、シスルウッドまでも緊張していく。やけに張りつめた空気が診察室を満たしていた。――そしてファーガス・リース医師が組んでいた腕を解き、沈黙を破ったのは二分ほど経過してからのこと。
「実は、似たようなことが前に起こっていてね。数年前、ミロスという看護師がこの精神科に所属していたんだ。彼はウルフくんを担当していてね。あー……今の名前はぺルモンドだったか」
「ええ、そうですね。ぺルモンドです。あいつが以前、狼とかハスキーとかマラミュートとか、犬種の名前で呼ばれてたっていう話は、後見人の方から聞いてます」
リチャード・エローラ医師や後見人だというマクスウェル=ヘザー・トンプソンという人物を始め、ぺルモンドが“ぺルモンド”となる前から彼のことを知っている者たちは、彼のことを『ウルフ』や『ハスキー』と犬種の名で呼ぶ。そのことはシスルウッドも把握していた。
ぺルモンドが保護されたのは、彼が推定十六歳のとき。約五年前の真夏のある日、旧国道を走行していたトラックの運転手が、道路に行き倒れていた満身創痍の青年を保護し、最寄りの救命救急センターに連れて行った。その時の青年が、今のペルモンド・バルロッツィというわけだ。
目を覚ました青年に記憶はなく、また身分を証明するものも持ち合わせていなかった。そこで仮につけられた青年の名前が、ウルフやハスキーという犬種名だったようだ(ブリジットから聞いた話によれば、当時の彼の雰囲気は「アラスカとかシベリアとかに居そうな犬っぽかった」らしい)。――そんなわけで、当時からぺルモンドのことを知る者たちは昔の彼の呼び名を使いがち、という傾向にある。ぺルモンドと呼ぶよりかは、ウルフ等と呼んだ方が短くて楽だからだ。
「なので気にしなくていいですよ。ウルフでも話は分かるんで、そのままの呼び方で大丈夫です」
シスルウッドがそう答えると、ファーガス・リース医師の表情が少しだけ緩む。そしてファーガス・リース医師は話を再開した。
「ミロスくんは、記憶喪失という状態で保護されたウルフくんをとても気に掛けていた。対応を押し付けられたエローラ先生の次くらいには、彼に構っていたことだろう。アラスカの英雄犬バルトという名をミロスくんは彼に与えて、独自にそう呼んでいたりもした。それに、誰に対しても冷めた態度を取っていたウルフくんだったが、ミロスくんに対してだけは少しだけ心を許しているようにも見えていたよ。……だがある時、ミロスくんが不自然な怪我を負ったことがあったんだ。あれはウルフくんの体力も回復し、彼の処遇も決まり、退院の目途がついたころだ」
「……」
「あるとき突然、廊下を歩いていたミロスくんが倒れ込んだ。倒れ込んだ彼は、己の足に噛みついている“何か”を払おうとするかのように足をジタバタとさせていた。そして彼の足首にはまるで狼に噛まれたかのような咬傷があって、出血も酷かった。――それは今、君の足首にあるような傷痕だったよ。だが、ミロスくんの身に起こった異変も、ウルフくんがその場に駆けつけると収まった。ウルフくんが一言『やめろ、ジェド』と呟いた途端にスッと鎮まったんだ」
「…………!」
「私を含め、同じ場に居合わせていた者たちには見えなかった。ウルフくんが『ジェド』と呼び、ミロスくんが振り払おうとしていたものが。だがウルフくん、及び襲われていたミロスくんにはその姿が見えていたようだ。ミロスくん曰く、狼のような形をした黒い影という存在が。……――その事件を機にミロスくんは弱ってしまってね。彼はその数週間後に退職してしまった。今は心療内科に通いながら医療とは無関係の職場で働いていると聞いている」
襲い掛かってきた黒い影が、狼のような姿かたちをしていたこと。その黒い影は、足首に咬傷を残していったこと。そしてぺルモンドが発した一言で黒い影が鎮まったこと。――ファーガス・リース医師の語った話は、シスルウッドの経験した出来事と完全に合致していた。
シスルウッドに襲い掛かってきた黒い影、ジェド。昨晩ヤツが現れたとき、取り乱したシスルウッドは精神科医に連絡するというアクションを起こしたが、しかしその一方でシスルウッドは直感していた。こいつは幻覚ではない、実在している怪物だと。
シスルウッドが足首の怪我に気付いたのは、シャワーを終えてリビングルームに戻ってきたジェニファーに「血が出てる」と指摘されたときだ。
足首が痛いとは感じていたが、黒狼ジェドを幻覚だと信じたかったシスルウッドはその痛みを無視し続け、調理を続けていた。そうしてシスルウッドが事前に下処理を済ませていた鶉肉を乱雑にオーブンの天板に載せ、鶉肉にヤケクソで塩コショウとハーブをぶちまけて居たとき。そこにやってきたジェニファーがそう指摘してきた。足首から血が出ている、と。
……ただ、その後の記憶がシスルウッドにはない。多分、驚愕したタイミングと立ち上がったタイミングが被り、加えて出血していたということも相まって、失神でもしたのだろう。それに、翌朝シスルウッドが目覚めたときに彼の傍に居たジェニファーも、そんなことを言っていた。シスルウッドは立った直後にフラッと倒れたけれども、タイミングよく駆けつけた“ジュード”が気を失ったシスルウッドを受け止めたため、頭を打つといったことも起こらず大事には至らなかったと。その後、血を見て酔いが醒めたジェニファーがシスルウッドの傷の手当てをしてくれて、料理の続きは“ジュード”が代わってくれたんだとか、なんとか。そう聞いている。
そういうわけで、予約を入れてしまったからと取り敢えず精神科を受診したシスルウッドではあったが、しかし彼には確信があった。自分は正常であり、あの黒い影は幻覚ではなく、実在する脅威、怪物なのだと。現にこうしてシスルウッドは怪我をしている。狼に咬まれたような咬傷が、足首にできているのだから。
それにファーガス・リース医師が出した結論も同じだった。少し顎を引き、顔をしかめさせながらシスルウッドの目をジッと見るファーガス・リース医師は、普段とは異なる穏やかならざる雰囲気を放ちながら、こう静かに語る。
「私はエローラ医師と違って超常現象を積極的に信じているわけではない。だがあの時、私もなんとなくだが気配は感じていた。何かが居るという気配が。――君は彼から離れた方がいい。これ以上の何かが起こる前に、彼から離れるべきだ」
「…………」
「それに彼が抱えている闇はあまりにも大きすぎる。誰にも対処できないんだ。私も、そして根気強いエローラ医師の手にも負えなかったんだよ、彼は。とすれば、知識のない君が深入りするべきじゃない。縁を切れとまでは言わないが、せめてルームメイトなんて関係はやめるべきだ。君は、君の帰るべき家に戻りなさい。新しい入居先でもホテルでもなく、君の今の両親のいる家に」
「……はい」
「というわけで、検査はしない。処方箋も出さないよ。ややアルバイトを詰め込みすぎている点、それと同居人に懸念事項があることの他には問題もなく、生活も安定しているようだし。安心したまえ、君は正常で冷静だ」
ファーガス・リース医師は「君は正常で冷静だ」という言葉で締めくくると椅子から立ち上がり、そしてシスルウッドにも立ち上がるよう促す――異常も特に見られない以上、今回の診察は終わりだというわけだ。
シスルウッドは立ち上がり、肩を落とす。予想外の場所で突き付けられた前例と、前例を元にしたアドバイスを自分の中でどう噛み砕けばいいのか、それを彼は悩んでいたのだ。
「…………」
幻覚を見ている、君は異常だ。そう診断されたほうがまだ気が楽だったのかもしれない。正常だと判断されて異常な現実と向き合う羽目になるよりかは、もしかしたら薬漬けになって異常な精神状態になってしまうほうがマシだった……なんてことは流石にないか。
――といった調子に色々と考えて暗い顔になっていたシスルウッドのその肩を、ファーガス・リース医師は励ますようにポンポンッと軽く叩く。それからファーガス・リース医師は言った。
「請求書はいつも通り、アーサー・エルトル氏の自宅に送付するよう受付に伝えておくよ」
北米合衆国とは違って良心的な医療制度が敷かれている自治州とはいえ、それでもまだ医療費の負担額は侮れなかった。アルバイトを詰め込んでも、それでも生活が厳しかった学生には支払いが厳しかったのだ。
というわけでシスルウッドは“犯罪集団の元締めだった家”の経済力にそこは甘えることにしていた――今まであのクソ親父に散々迷惑を掛けられていたのだし、それぐらいの復讐はしたっていいだろ、と彼は開き直っていたのだ。そんなわけでシスルウッドは、ファーガス・リース医師の言葉に苦笑と共にこう返答する。
「はい、お願いします」
そうして苦笑いと共にシスルウッドが診察室を出て、扉を閉めたときだ。偶然、彼の目の前を見知った顔が通り過ぎて行く。と同時に、向こうもシスルウッドの存在に気付いて立ち止まり、驚きとともに振り返った。
「シルスウォッド?! どうしてあなたがこんなところに……?」
そうシスルウッドに声を掛けてきたのは、彼の幼馴染であるブリジット・エローラだった。
シスルウッドが度々精神科に通院していることを知らないブリジットは、診察室から出てきた彼を不思議そうに見ている。そんな彼女が彼に投げかけた質問だが、しかし彼はすぐに“それらしい答え”を編み出すことができなかった。そこで彼は考える時間を稼ぐべく、ブリジットのほうから目的を語るよう促すようなことを言う。「あぁ、ブリジットか。君こそどうしてここに?」
「私は父さんが家に忘れた書類を大学に行くついでに届けに来ただけよ。あなたは?」
とはいえブリジットは長話を好むタイプではない。簡潔に、言う必要のある言葉だけを最小限に発する、それが彼女である。故に彼女の言葉は非常に短くてシンプルだ。
だが、まあ最低限の考える時間は取れた。そしてシスルウッドはたった今ここで編み出した嘘を、息を吐くように自然に発する。
「ぺルモンドのことをリース先生に相談しに来たんだよ。あいつ、最近不眠っぽいから。精神科を受診しろって言ってるんだけどさ、あいつ、病院が大嫌いで行きたがらないだろ。だから代わりに僕が来てみたんだ」
シスルウッドの言葉に違和感を覚えたのだろう。ブリジットは一瞬顔を顰めさせ、何かを言おうとしたが……――けれども彼女にしては珍しく、この時は何も言ってこなかった。怪訝そうな顔をするブリジットはシスルウッドに背を向けると、そっけなくこれだけを言い、去っていった。
「それじゃあ、また大学で」
「ああ、また後で……」
去っていくブリジットの背を見送ったあと、シスルウッドは肩の力を抜く。ひとまずやり過ごせたこと、珍しく何も追及されなかったことに彼は安堵の息を吐いた。そうして彼もその場を立ち去ろうとした時、先ほど彼が閉めたはずの扉が静かにゆっくりと開けられる。
「……なるほど。賢明な判断だ」
診察室の扉を静かに開け、顔を出したのはファーガス・リース医師。渋い顔をして出てきた彼はそう呟くと、扉の前に立つシスルウッドを見やる。続けてファーガス・リース医師は遠ざかっていくブリジットの背中を見やり、シスルウッドにこう言った。
「彼女は今もウルフくんに執着しているようだからね。彼に関する情報を彼女に渡さない方が良いだろう」
そう言うとファーガス・リース医師は意味深な笑みを浮かべ、診察室の中に戻ろうとする。が、引っ込むことはせず彼は廊下に出てきた。そして彼はシスルウッドの隣に並ぶと、シスルウッドに耳打ちをする。
「――それから、ウルフくんの過去を探るような真似を決してしてはいけないよ。彼の記憶の蓋をこじ開けようとすると、取り返しのつかないことが起こりかねないんだ。私はそれで一度、彼の別人格に殺されかけたからね。だから絶対にそれだけはしてはいけないよ。分かったね?」
穏やかならざる言葉を囁いたあと、ファーガス・リース医師は診察室の中に戻っていく。そして扉の前に立ちすくむシスルウッドは、その顔を蒼褪めさせていた。
*
ここで一旦、時代は進んで四二八九年のこと。水槽の中に浮かぶ二つの脳を見て、ジュディス・ミルズが呆然としてしまっていたとき。ASI本部には、アバロセレン犯罪対策部に所属する局員たち全てが集められていた。
心理分析官ヴィク・ザカースキーとて、その例外ではない。他の者たちと同様に、局へと真夜中に呼び出された心理分析官ヴィク・ザカースキーは眠気と戦いながら、ある人物を待っていた。
……と、そんな彼女の足許で、一匹の三毛猫がモゾモゾと動く。
「…………」
大きめのキャリーカートの中に入っていた三毛猫は、カートから出せと飼い主にアピールしていた。しかし、ここは職場である。ハーネスも着けていない猫を、そのまま放り出すわけにはいかない。まして、この猫は元野良猫であり好奇心旺盛な性格をしている。どこに消えてしまうのかなんて、分かったものではない。
「……ごめんね、ランジェロ。大人しくしてて……」
キャリーカートの中の猫に、心理分析官ヴィク・ザカースキーは申し訳なさそうな視線を送ると、猫は諦めたようにプイッとそっぽを向き、不貞寝に入る。
この三毛猫の名前はミケランジェロという。丸っこい顔をした三毛猫のメスであり、心理分析官ヴィク・ザカースキーの自宅にいつからか住み着いていた元・野良猫だ。そしてこの猫と共に心理分析官ヴィク・ザカースキーは、明日にはラドウィグの仮住まいに引っ越すことになっている。
ただ、自宅を引き払うわけではない。心理分析官ヴィク・ザカースキーがラドウィグの仮住まいに持っていくのは、仕事に必要なファイルや電子機器、それと最低限着まわせるだけの衣類と、洗顔料やシャンプーといった化粧品やシャワー用品、それからこの三毛猫ミケランジェロと、猫のトイレやキャットフード、ポータブルケージといった猫用品だけ。他の私物はそのまま自宅に残すつもりでいる。つまり彼女は、いずれ自宅に帰る気でいたのだ。
そんなこんなで引っ越しの準備をしていた心理分析官ヴィク・ザカースキーの車には、衣類を詰め込んだキャリケースと、それ以外のものを適当にブチ込んだ段ボールが積まれている。そしてASIからの徴収が掛かったのは、その作業の最中のこと。突然のことに大慌てした彼女はぷちパニックを起こし、段ボールがぎっしりと詰まれた車で局に来た。そしてこの通り、彼女はなぜか三毛猫ミケランジェロまで職場に連れてきてしまっていたのだ。
「悪かったな、ザカースキー。急に呼び出したりして。引っ越しの準備があっただろうに」
そんなこんなで、好奇心旺盛な猫が大人しくなったとき。心理分析官ヴィク・ザカースキーの前に、彼女が待っていた人物が現れる。テオ・ジョンソン部長だ。
大きいダブルクリップで綴じられた紙束と、それとは別にリングバインダーを携えたテオ・ジョンソン部長が、心理分析官ヴィク・ザカースキーの前に来る。そしてテオ・ジョンソン部長は、キャリーカートの中で不貞寝をしている三毛猫ミケランジェロをどこか警戒するように見やりつつ、心理分析官ヴィク・ザカースキーに紙束とリングバインダーを渡した。
ダブルクリップで綴じられた紙束は、とある自伝本のゲラ刷り。心理分析官ヴィク・ザカースキーがそれをペラペラと数ページをめくって見てみれば、赤ペンで訂正が入れられている箇所をいくつか発見できた。
そして分厚いリングバインダーのほうはというと、こちらは大昔の新聞のコピーが大量に綴じられている。それもキャンベラやシドニーのものではなく、北米、それもボストンのもの。四十三世紀初頭に発行された異国の新聞のコピーが、なぜか心理分析官ヴィク・ザカースキーに渡されたのだ。
随分と重たい紙束とリングバインダーを受け取った心理分析官ヴィク・ザカースキーは、眠い目を瞬 かせる。そんな彼女に対し、テオ・ジョンソン部長はこう言った。
「それは先日、ジェミニが入手したゲラ、その複製でな。お前には、このゲラの中に含まれるコヨーテ野郎に関する事柄から、重要と思われる事項をリストアップしてほしいんだ。そしてリングバインダーのほうには、当時のボストンに関する情勢をまとめてある。それを参考にするように。それから、アレクサンダー・コルトは当時のボストン、及びコヨーテ野郎の周辺に詳しいはずだ。それに彼女の両親は、ボストンからアルストグランへと移り住んだ移民だからな。何か疑問を抱いた際には、彼女に訊くといい」
その言葉を聞いた心理分析官ヴィク・ザカースキーは、再度ゲラ刷りに目をやる。彼女がチェックしたのは、原稿の著者名。そこにはデリック・ガーランドという名前があった。
「……デリック・ガーランドというと、あの、奇妙なシンセサイザーばかり出してる電子楽器メーカーの会長ですよね。そんな人物の自伝本が、どうしてコヨーテと関連しているのですか?」
率直に感じた疑問を、心理分析官ヴィク・ザカースキーは上司へとぶつける。そしてテオ・ジョンソン部長は、彼女の問いに早口で答えた。
「デリック・ガーランドとコヨーテ野郎は同郷であり、どちらもペルモンド・バルロッツィの知人だ。そして現在も、ガーランド氏とコヨーテ野郎との間には接点があると思われている。ゆえに、一応チェックしておきたい。――それじゃあ、頼んだぞ」
テオ・ジョンソン部長はそう言うと、心理分析官ヴィク・ザカースキーから早足で離れていく。それはまるで、あからさまに避けられているかのようだった。
アバロセレン犯罪対策部において、冷や飯を食わされているポジションにいる心理分析官ヴィク・ザカースキーだが、上司からここまで冷たい態度を取られたことは一度も無かった。しかし、避けられているとはいえ悪意は感じず、そこがまた奇妙で……――彼女には、どう対応すればいいのかが分からなかった。
「あの、部長。もう帰っていいってことですか?」
心理分析官ヴィク・ザカースキーが取り敢えず絞り出したのは、そんな言葉。すると離れた距離からテオ・ジョンソン部長は無言で頷く。と、彼は心理分析官ヴィク・ザカースキーに素早く背を向けた。それからテオ・ジョンソン部長はハンカチを素早く取り出すと、そのハンカチで自身の鼻と口を覆う。そして彼は小さなクシャミを連発した。
もしや部長は猫アレルギーか、と心理分析官ヴィク・ザカースキーは直感した。そして心理分析官ヴィク・ザカースキーは受け取った書類の束を、大慌てで肩から下げていたカバンの中に詰め込む。早く猫を連れて職場を去らなければと、彼女は感じたからだ。
そうして彼女が大慌てで書類をカバンに詰め込んでいると、テオ・ジョンソン部長が一瞬、彼女のほうに振り返った。やはりアレルギー反応を起こしているのか、テオ・ジョンソン部長の目はすっかり充血している。そしてテオ・ジョンソン部長はクシャミを堪えつつ、心理分析官ヴィク・ザカースキーに告げる。「猫アレルギーなんだ。だから、早くその猫を連れて出て行ってくれ、頼む!」
「すみません、今すぐ出て行きます!!」
重たくなったカバンを肩に掛け、心理分析官ヴィク・ザカースキーは三毛猫と共にオフィスから出て行く。突然キャリーカートを引いて走り出した飼い主に、三毛猫ミケランジェロは驚き、尻尾をボワッと膨らませていた。
+ + +
時代は遡って四二二〇年、十二月の上旬。ある日曜日の昼前のこと。
「うーん。困ったなぁ。ダーレンが、そんなことを言ってたんだ。でも、なぁ……」
ダサい文学青年としてのシスルウッドの象徴である『赤縁の丸眼鏡』を封印し、パリッとした青のオックスフォードシャツ(叔父ローマンが買ってくれたもので、それなりに高く質の良いシャツである。シスルウッドはこのシャツを、世を忍びたい時にしか着ない)を着たシスルウッドが着ていたのは、ザックの家族が営むダイナー。この日のシスルウッドはアルバイトとしてではなく、客としてこの店に来ていた。
そしてシスルウッドと共に来店していたのは、疲れた顔をしたレーノン・ライミントン。児童養護施設の指導員として働いているレーノン・ライミントンは、業務の中で接する難しい背景を抱えた子供たち……――ではなく、彼自身の家族、甥に悩まされていたのだ。
レーノンの甥である、ダーレン・ライミントン。横柄な上級生に虐められるほど気が弱い彼はこの頃、父親であるラルフ・ライミントンとうまくいっていなかった。それでダーレンは、彼の父親の弟であり、父親ラルフと違って頑固ではない叔父のレーノンによく愚痴を零しているらしい。そしてこの時ダーレンは、父親のラルフおよび叔父のレーノンを仰天させるようなことを言っていたのだ。
機械工作が好きなダーレンは、電子工学の分野を志しているらしく、その道のスター的存在であったペルモンドに憧れていたようだ。そして先日、ダーレンの許に飛び込んできたニュース。それはペルモンドとシスルウッドの二人が、アバロセレンなる新種の物質を発見した(と、何者かの手によってでっち上げられた)という騒動だ。つまりダーレンは知ってしまったのだ、知り合いであるシスルウッドは、憧れの人の友人だったということを。
ダーレンがアバロセレン云々に興味を示さなかったのは不幸中の幸いだったが。ダーレンはこの時、父親にこんなことを強請っていたようだ。ペルモンド・バルロッツィに会ってみたい、だからシスルウッドに口利きを……――と。
だがダーレンの父親であるラルフは、それを拒否した。忙しいシスルウッドに迷惑を掛けるようなことは控えろと、ラルフは息子ダーレンを叱ったようだ。だがダーレンは諦めることができず、よりシスルウッドと親しい間柄にある叔父のレーノンに泣きついたというわけらしい。
「電子工学のことは俺にはサッパリ分からない。だが、お前の友人だっていう、その、ぺルモンドっていう人物は、その道の有名人なわけだろう? だから、サインぐらい……」
レーノンは、どことなく懇願するかのような視線をシスルウッドに送りつけつつ、ボソッとそんなことを言う。しかし、レーノンの向かいの席に座るシスルウッドは渋い顔をしていた。というのも、シスルウッドには二つ返事で了承することが出来ない事情があったからだ。
そんなわけでシスルウッドは、チョコレートシロップがこれでもかと掛けられた甘ったるいミルクセーキに溜息を落とす(幼少期から続いた抑圧的な生活から解放された結果、彼はタガが外れたように『子供の頃に禁止されていたもの』を過剰に求めるようになっていた。その筆頭格が、甘ったるいスイーツであった)。そしてシスルウッドは目を伏せると、憂鬱さをにじませた声でこう答えるのだった。
「知っての通り、僕もあいつも、ここ数か月は色々とあってね。僕は、まあ大丈夫だけど。ぺルモンドのほうはすっかり病んじゃって。もともと精神を病んでたところに色々と重なって、ね……」
「……で?」
「要するに、その……――あいつ、入院してんだよ、今。精神科の病棟に。だから誰も会えないし、サインとかも無理だよ、たぶん」
騒ぎが起こったのは、二、三か月ほど前のこと。ペルモンドとシスルウッドの二人が、新種のエネルギー物質“アバロセレン”を発見したんだかナントカという論文が科学誌に掲載され、二人は記者に追いかけまわされるようになったのだが。しかし、件の論文の執筆に二人は何も関わっていなかった。
ペルモンドは計算機工学を主軸に、広く工学を学んでいる立場だし。シスルウッドに至っては、専攻は暗号学。といっても、量子コンピュータを用いた新たなる暗号化アルゴリズムの開発――ではなく、過去の遺物、それこそ中世暗黒時代に用いられていたアナログな暗号について研究するという、クソほど役に立たない学問だ。
ン千年と経った今でも解読されていないような(または、解読する価値もないとして切り捨てられ続けた)暗号の解読を研究しているような学生が、どうして新種のエネルギー物質とやらを発見できるのだろうか? ――シスルウッドにはこのことが疑問に思えて仕方が無かったのだが、世間はそう思ってくれなかったようで。名前を勝手に使われただけのシスルウッドは、変装しなければまともに生活できないという悲劇に見舞われていた。
食料品を買いに出ただけで、記者に囲まれるし。名前が知られた結果、ただ街を歩いているだけでゴロツキに絡まれるようになり、気を揉む機会も増えた。また「お前のせいで電話が鳴りやまなくなった!」との理由から、働き先の大半からクビを切られたし。騒動を企てた黒幕らしき人物から札束が詰められたアタッシュケースを手渡され、「黙っていろ」と脅されたりもした(無論、シスルウッドはそれを突っ撥ね、金銭を受け取らなかった)。――最近はそんな状況も落ち着いてきたものの、シスルウッドにとって悲惨な数か月だったことは言うまでもない。
そして、それはペルモンドのほうも同じ。というか、あちらのほうがシスルウッドよりも悲惨だっただろう。
「こんなことを言うのはアレかもしれないが……彼はたしかに気難しそうな顔をしてたな。記者への対応も、ヤケに攻撃的というか」
レーノンはそう言うと、小さく笑った。仕事柄、精神に問題があって攻撃的な態度を取りがちな若者というヤツを見慣れているレーノンにとっては、新聞や報道番組で取り上げられる『天才ペルモンド・バルロッツィの奇行』は、微笑ましいエピソードぐらいの認識なのだろう。レーノンが普段相手にしているような気難しい子供たちの姿を、怒り狂うペルモンドに重ね合わせて、「あー、あるある~」ぐらいにしか、彼は思っていなかったのかもしれない。
だが、荒れる天才ペルモンドの“その後”の相手――主に、自己嫌悪で嘆き泣く別人格ジュード――をさせられるシスルウッドにとっては、その奇行は笑い事ではなかった。そんなわけでシスルウッドは、日ごろの疲れをそこはかとなく匂わせつつ、こう言葉を返す。
「恣意的に切り取られて報道されてるからねぇ。きっと報道はされてないだろうけど、あいつ、記者たちからひどい言葉ばっかりぶつけられてるんだよ。以前からあいつを憎んでた連中がデタラメな話を記者にリークしてるのもあって、言葉での攻撃が苛烈でさ。才能しか取り柄が無いクズだの、傲岸不遜なサイコパスだの、なんだの。そんなひどい言葉をぶつけてくる連中に、連日のように追い回されてたんだ。……そりゃ攻撃的にもなるよ」
この時期のペルモンド・バルロッツィは、とにかく荒れていた。
自身に突っかかってきた記者を、汚い言葉で罵倒したり。特攻を決めてきたリポーターのマイクを奪い取って道路に投げ、車に轢かせて破壊したり。――外での行動は、こんなところだっただろう。攻撃性と警戒心が常に剥き出しの状態であったため、結果的に彼の精神は崩壊。数日ほど失踪するという騒動が起こった(一度は偶然彼を見つけたリチャード・エローラ医師によって保護されたそうだが、再び失踪。その後、彼が見つかったのはオーストラリア、それも空軍基地の中で、ひどい大怪我を負っていたとか、なんとか)。
まあ無事に見つかり、ぺルモンドは帰宅を果たしたのだが。その後、ペルモンドは引きこもりがちになった。大学も自主退学し、彼はカーテンを閉め切った暗い部屋にこもるようになってしまったのだ。
引きこもることによってピリついた精神が落ち着くなら、まあそれは良いかと考えていたシスルウッドだったのだが。しかし状況はシスルウッドが望んでいたようにはならなかった。落ち着くどころか、より悪化していったのだ。
引きこもりが始まったばかりの頃。この時は“ペルモンド・バルロッツィ”という人格しか出ていなかった。冷静で穏やかで、気味が悪いほど情緒が無い、そんな人格。シスルウッドが目にするのは、それだけだった。この時はお互いに冷静な状態で建設的な話ができていたし、自傷行為も他害行動も無かった。自宅に押し掛けてくる迷惑報道陣の対応や、不審な配達物のチェックといったことは、コンドミニアムの守衛ジムに任せていたし(ジムの好物である「近所のドーナツ屋で売っている、中にクリームがたっぷりと詰まったマラサダ」を、シスルウッドがジムの許へ毎週水曜日に買って届けることを条件に、守衛ジムはこの特別扱いを引き受けてくれた)。窓の外がうるさいことの他には、問題も無かった。
だが、事態が変わった。それは引きこもり生活が始まってから二週間が経ったころ。人格交代が頻繁に起こるようになり、冷静で穏やかな“ペルモンド・バルロッツィ”でいる時間が短くなってきたのだ。
最初に見られるようになったのは、幻聴に苛まれているような様子。首を不随意に振るといった運動性チックに似たようなものが一日の内に何度も見られるようになり、それが起こるたびに奇妙な呻き声を“ペルモンド・バルロッツィ”は出していた。その呻き声は次第に長くなり、やがて『何かに対して、繰り返し何度も謝っているような言葉たち』としてシスルウッドにも聞き取れるようになった時。次の変化が起こった。失踪以降、姿を現していなかった別人格たちが出てくるようになったのだ。
最初に出てくるようになったのは、片言な英語を扱う“ジュード”だった。以前の人格“ジュード”は朗らかな性格の持ち主で、かなり機転の利く人格だったのだが、それが豹変していた。ネガティヴな思考に囚われていた“ジュード”は、シスルウッドが発した些細な指摘や小言ですぐに泣くようになり、泣いた後は必ずと言っていいほど自傷行為に走った。リストカット、アームカット、食後すぐの嘔吐ぐらいで済めばマシだ。飛び降り、首吊り、入水……――それを引き留めるシスルウッドのほうがゴリゴリに精神を削られていく、そんな状況になっていったのだ。
そうして人格“ジュード”による自傷行為が日常的になり始めた頃、別の人格“ジェイド”も久しぶりに出てくるようになった。人格“ジェイド”は奔放な自由人で、貞操観念もかなりガバガバで、モラル意識の再教育等で色々とシスルウッドも手を焼かされていたのだが、それら“ジェイド”の特性は再出現した際には鳴りを潜めていた。代わりに、奔放さが攻撃性へと転化されていたのだ。
まあ、これについてはシスルウッドも反省している。この時のシスルウッドは心理的な疲労から小言や嫌味が多くなっていたのだ。知らない他人から追い回される日々と、多重人格者の相手、可愛らしいがなんとなく気味の悪い恋人の不気味な言動、奇妙さに拍車がかかったブリジットによる“ぺルモンド・バルロッツィ”に対するストーカー行為、そして黒狼に代表されるよく分からない“怪物”たちと隣り合わせの生活に、シスルウッドも疲れていたのだから。そうしてシスルウッドは、抱えていた苛立ちをぺルモンドにぶつけがちになっていた。そんなわけで、日ごろシスルウッドがぶつけていた小言の数々を、別人格“ジェイド”は倍にして返してきたのだ。
――そんなにアタシが気に入らないなら、ここから出て行けばいい! アンタが居なくたってアタシは別にやっていける、アンタがここに来るまではずっとそうだったんだから! それにアンタには帰る家があるし、アンタを待ってる家族が居るだろ、アタシと違って! 早く、ここから出て行けよ! 実家でも、ハリファックスでも、酒屋でも、どこにでも帰ればいいさ!
そう騒ぎ立てる“ジェイド”によって、シスルウッドの荷物は勝手に纏められ、玄関に投げ捨てられることは幾度となくあった。ソファーに置かれていたクッションを“ジェイド”が投げつけてきたこともあった。シスルウッドの目の前で皿を割るといった威嚇行為を“ジェイド”が仕掛けてくることもあった。
実の父親や異母兄と違って“ジェイド”は直接的な加害をしてこなかった。そのため感覚の麻痺していたシスルウッドは、自分にブレーキを掛けてしまっていた。人格“ジェイド”の行為には少なからずショックを受けていたシスルウッドだが、しかし彼はこう思ってしまっていたのだ。これはぺルモンドの本意ではないはず、だから真に受けるべきじゃない、と。故に彼はペルモンドから逃げなかった。
それに“ジェイド”が暴れた後にはいつも“ジュード”が出てきて、泣きながら謝ってくるのだ。そして“ジュード”は懇願してくる。お願い、捨てないで、と。
正直に言うと、シスルウッドはどうすべきか分からなくなっていた。ペルモンドと離れるべきか、まだ様子を見るべきなのかを。
ペルモンド及びペルモンドの友人たちは、シスルウッドという居候が居る生活を望んでいるようだった。何を仕出かすか分からない精神状態にあるぺルモンドを、シスルウッドは見張っていてくれるわけだから、そりゃ安心できるというわけだ。それにぺルモンドの友人たちは定期的にコンドミニアムを訪れ、シスルウッドの行う“介護”を手伝ってくれたり、交代してくれたりしていた。まあ、友人たちは最低限の気配りをしてくれていたのだ。
だが反対に、シスルウッドに近い者たちは『早くあの変な男から離れろ』と言っていた。最初に忠告をしてきたファーガス・リース医師を始め、バーン夫妻もブレナン夫妻も、友人のザックや果てはリチャード・エローラ医師までもが、シスルウッドに対してそう言っていたのだ。シスルウッドも、そうしたいのは山々だった。が、思い立ってすぐに離れられる状態ではなかったのだ。そんなわけで結論を出すことをズルズルと先延ばしして、結果、離れることはできなかった。
そうして、しんどい日々が一か月ほど続いたのだが。ある朝、ぺルモンドに異変が起こった。シスルウッドが声を掛けても一切反応せず、また肩を揺らしても動かない状態になっていたのだ。
その日の前の晩にシスルウッドが最後に見たときのペルモンドは、リビングルームに置かれたソファーの隅に、背中を丸めた姿勢で座っていたのだが。翌朝も依然ペルモンドは同じ姿勢のまま、ソファーの隅に縮こまっていたのだ。
試しにシスルウッドは硬直しているぺルモンドの口に吸い飲みを突っ込み、水を含ませてみたのだが、けれども嚥下反射は起こらず、水は口の端から漏れ出て行くだけだった。その後も声掛けや揺さぶりなどを試してみたものの、ぺルモンドが何らかの反応を示すことは無く。シスルウッドはリチャード・エローラ医師に連絡し、助言を乞うた。が、そこで得られたのは助言ではなく、警察がそちらに向かうからその場で待機していなさいという返答だった。
その後、制服を着た警官が着て、ぺルモンドをどこかへと連れて行った。その更に数時間後、リチャード・エローラ医師からは『ぺルモンドを入院させた』という旨の連絡がシスルウッドの許に届けられ、そして『あとの対応はトンプソン氏がやってくれる、君は暫く休みなさい』と告げられた。
……そういうわけで当時、ペルモンドはどこかの精神科病棟に入院させられていたし、シスルウッドはひと月ほどぺルモンドと会ってはいなかった。ぺルモンドに関する情報は、週に一度だけ顔を合わせるぺルモンドの後見人だという人物マクスウェル=ヘザー・トンプソンから得る程度。ぺルモンドの状態をシスルウッド自身がその目で見たわけでもなく、またどんな場所にぺルモンドが入院させられているのかも知らなかった。
「ダーレンには悪いけど、ペルモンドに会わせることはできないよ。それに今の状態のペルモンドと会ったところで、ダーレンが何かを得られるとも思えないし。場合によってはダーレンが怪我するかもしれないから。それか、軽い怪我を負うよりもひどいショックを心に受けるかも」
最後に見たぺルモンドの姿――いつもなら悲鳴を上げて逃げるはずの制服警官を前にしても微動だにせず、されるがままといった感じでどこかへと連れて行かれたぺルモンドの『抜け殻』のような様子――を思い出しながら、シスルウッドはそう言う。そんなシスルウッドは、ダーレンの残念がる顔も思い浮かべていた。
シスルウッドがぺルモンドと親しくし始めるよりも前から、たしかにダーレンは「ぺルモンド・バルロッツィという人物に憧れている」というようなことを言っていた。ダーレンの場合は、ここ数か月の報道を見て思い立ったようにそう言っている、というわけではないのだ。ミーハー根性でおねだりをしているわけではなく、きっとダーレンは本当に会いたいのだろう。憧れの天才、ぺルモンド・バルロッツィに。
だがシスルウッドは知っている。あれは狂気の大天才ではなく、頭の壊れた病人だと。思考回路のイカれた狂人や薬物中毒の廃人に接してきたシスルウッドだから、あの病人の相手ができているわけで。つまりぺルモンドという人物は、ダーレンが憧れているような『若くして成功した、芯の強さを持つ尊敬すべき天才』ではないし、気弱なダーレンが相手をできるような存在でもないのだ。
「そんなにひどい状態なのか、彼は……」
深刻そうに語るシスルウッドの姿を見て、レーノンも遂に笑顔を消す。シスルウッドの言葉にそう返事をしたレーノンは、シスルウッドを介して狂気の大天才が持つ本当の“狂気”の一端を垣間見たためか、すっかり覇気を失くしていた。
そしてシスルウッドは、そんなレーノンに追い打ちを掛けるように、こんなことを語った。「そう、ひどい状態。後見人だっていうひとから聞いた話によれば『地獄と辺獄の堺を永遠に彷徨っている亡霊みたいな顔をずっとしてる』らしい」
「そりゃどういうことだ?」
「ボーっとして何も考えていない無の状態か、泣き叫んで自傷するか、その二極しかないような状態なんだってさ。精神科医からも、ホスピスへの入所を勧められるひどさらしいよ。環境依存症候群っぽいとか、なんとか、先生はそんなことを言ってたとか、そう聞いたっけなぁ……」
「……」
「外からの刺激が何もないと本人は無の状態になって、全く動かなくなる。目は開いてるけど意識は醒めてなくて、ボーっと夢を見続けているような、そんな状態らしい。会話はほぼオウム返しで成立しないみたいだし。食事とかも『誰かが傍で何かを食べている様子』って情報がないと、目の前にあるものを認識しないっつー状態らしくて。――狂気じみてるって、後見人のひとが言ってた。精神科医もお手上げだってさ」
「それはたしかに……ダーレンには刺激が強すぎるな……」
無糖のコーヒーを静かに啜ると、レーノンはそう言って溜息を零す。そんなレーノンは、ここ数か月の自分を恥じていた。報道番組で取り上げられる『神経質で気難しい、やたら攻撃的な若者』の姿を、世間一般と同じようにエンターテイメントの一種として消費していた浅はかな自分のことが恥ずかしく思えていたのだ。狂気じみた言動の裏側に隠れていたものを、レーノンは見抜けていなかったのだから。
とはいえ。意図的に歪曲された情報の山の中から、真実の断片を見出すのは困難というもの。執念深い調査者でもない限り、通常は不可能だ。故にシスルウッドは、収まりが悪いといった顔をしているレーノンのことをとやかく言ったりはしない。代わりにシスルウッドは、レーノンに代替案を提示した。「まあ、どうしてもって言うなら、あいつの後見人だっていうマクスウェル=ヘザー・トンプソンってひとにお願いしてみなよ。あのひとに、ペルモンドに関する事務的なことは頼んであるから。……彼女、たしかレーノンの元同僚だったよね?」
「ああ、あいつか。そうか、そういえばあいつが彼の担当者だったな……」
「でも、僕はダーレンに真実を明かすことをお勧めしない。憧れは憧れのままにしておいたほうが良いと思うんだ。スケジュールに空きが無かったとか、そう誤魔化すのが一番じゃないかな」
トドメの一言をシスルウッドは放つ。するとレーノンは肩を落とし、気まずそうに笑った。甥であるダーレンの望みを叶えるのは無理そうだと、レーノンもよく分かったようだった。
それから軽い雑談を十数分ほど交わしたのち、レーノンは帰っていった。そうしてレーノンが立ち去ったあと、入れ替わるようにある人物がシスルウッドに近付く。このダイナーの店員であり、シスルウッドの友人であるザックだ。
「で、お前さ。いつ実家に戻るんだ?」
高校卒業後からずっと、家族で営むこのダイナーで働いているザックは、彼の父親の下で料理人として修業しつつ配膳などを担当している。そんなザックは、レーノンが帰ったことによってシスルウッドの他に客が居なくなった今、シスルウッドに話しかけに来たというわけだ。
ザックの言う“実家”とは、エルトル家ではなくバーンズ・パブのことを指している。まあ、つまり、いつものアレが始まったのだ。ぺルモンドなんて狂人は捨てて、早く元いた世界に戻ってこいという説教が。そしてシスルウッドは、いつもと同じセリフを発した。
「あいつを見捨てるわけにもいかないよ。この短期間のうちに、返しきれないぐらいの恩を作っちゃってるからさぁ」
「恩というより、借金だろ」
ザックからもいつものツッコミが入ったところで、シスルウッドは苦笑する。そして「またいつものお説教が始まるのか……」と身構えたシスルウッドだったのだが、ザックはただわざとらしい溜息を零すだけで、それ以上のことは言ってこなかった。
そしてザックが溜息を零した直後。厨房から、ザックの父親がザックを呼ぶ声が聞こえてくる。父親の声を聞いたザックは、何かもの言いたげな視線をシスルウッドに送りつけたあと、厨房の方へと向かって行った。
夜の営業に向けて、料理の仕込みでもするのかな。……そんなことを考えつつ、ザックを見送ったシスルウッドだったのだが。しかし彼の予想は外れ、ザックは思いのほかすぐにシスルウッドの許に戻ってきた。
見慣れたスープ皿を載せたプレートを携えて、ザックはホールに戻ってくる。そしてザックはシスルウッドの居る席の傍に来ると、シスルウッドの目の前のテーブルにスープ皿を置いた。
ぱっくりと開いた二枚貝クォーホグと柔らかいジャガイモ、それと豆がゴロゴロと入っている白いスープ。ほんのりとセロリが香るクラムチャウダーは、このダイナーで一番人気の看板商品であり、シスルウッドにとっても馴染みのあるものだ。……が、今日はこのクラムチャウダーを注文した覚えはシスルウッドにはない。というのも今日はこのダイナーに長居するつもりはなく、レーノンとの話が終わったらすぐに帰るつもりでいたからだ。
とはいえ、この時のシスルウッドは空腹であった。そしてこの時、シスルウッドの居候先の家主は留守にしていた。一人ではロクに飯も食えない家主の為に一旦帰宅して昼食の用意をする必要が、この時のシスルウッドにはなかったのだ。
となれば、別にもう少しだけここに居るのも悪くは無いか、という結論をシスルウッドは出す。そして彼は厨房から顔を出したザックの父親に小さく手を振り、「ありがとうございます」と伝えた後、机を挟んだ向かい側の席に座ったザックに、小声でこう訊ねた。「……皿洗いぐらいは手伝ったほうが良い?」
「今ぐらいの時間帯じゃ、まだ客もそんな入ってないから洗うもんもないし。気にすんな」
ザックはそう答えつつ、テーブルの端に置かれていたカトラリーボックスを雑に掴むと、それをシスルウッドの前にガサッと置いた。そしてシスルウッドはカトラリーボックスの蓋を静かに開けると、ぼってりと丸っこい形をしたスープ用スプーンをひとつ取り出し、カトラリーボックスを元あった場所に戻す。それからシスルウッドは手に取ったスプーンの先をスープ皿の中に落とすと、頬杖を突いた。そんな彼はすぐクラムチャウダーに手を付ける――ことはせず、肩を落とし、溜息を吐く。出来立てでまだ熱いクラムチャウダーが少し冷めるのを待ちながら、シスルウッドはふと思ったことを呟いた。
「……正直なことを言うとさ。最近、パブに帰っても居心地が悪くて。常連のジジィババァからは変に気を遣われるし。客のフリをして紛れ込んでくる嫌なヤツとかも居て、気が休まらないんだ。そういう嫌なヤツをライアンが怒鳴りつけて追い出してる姿を見るのも、いい気はしない。僕の所為で迷惑をかけてるなって、つくづく感じるというか。だから、あんまり帰りたくないんだ」
「たしかに、最近お前の周りは騒がしそうだもんなぁ……」
「そうなんだよ、本当に。知らない連中に追い回されて、鬱陶しくて仕方がない。――その点、ここは落ち着く。大学の知り合いも居ないし、静かだし。それに、ここに変な客が来ることはない。それに料理は美味しいし、クラムチャウダーは最高」
シスルウッドの身に何かと不運なことが起こる冬。そんな憂鬱な季節を少しマシなものに変えてくれるのは、いつもこのクラムチャウダーだった。今年もまた、こいつにお世話になる時期が……――といったことをシスルウッドがふと考えていた時。ダイナーの出入り口が開かれ、外の冷気が暖房で暖められた店内に流れ込む。
ザックとシスルウッドの二人は新たに入店してきた客を見やった。そしてザックは店員としての役目を果たすべく立ち上がり、シスルウッドは驚きから目を点にする。こんな場所に来ることは無いだろうと高を括っていた大学の知り合いらが訪ねてきたからだ。
「あっ、アーティーじゃん」
といっても、極左にかぶれたイカれぽんちの大学生たちではなく、ダイナーを訪ねてきた比較的まともな知り合いたちだった。ぺルモンドを介して知り合った才女たち三人組である。
真っ先にダイナーの中へ飛び入り、店内にいるシスルウッドを見つけて首を傾げさせたのは自由人のジェニファー・ホーケン。続いて、寒そうに肩をぶるりと震わせつつ店内に入ってきたのは、狂人ぺルモンドの恋人――であると周囲の者たちは思っているが、しかしこの時点では当人たちはまだ明言していなかった――エリカ・アンダーソン。最後に入店し、出入り口の扉を閉めたのは、エリカ・アンダーソンの幼馴染でありデリック・ガーランドの恋人であるクロエ・サックウェル。来店したのは、その三人組だ。
ジェニファーの発した一言が、ダイナーの中に奇妙な空気をもたらした。ジェニファーに続き、シスルウッドの存在に気付いたエリカとクロエの二人は、シスルウッドのほうに小さく手を振るが。しかしシスルウッドは気まずそうに笑い、口角を引きつらせるだけ。――静かに食事を楽しめると思った矢先、それを台無しにされたのだから、正直なところ彼の気分は最悪だった。
また戸惑っていたのはシスルウッドだけではない。ザックも同じだ。
「えっと。彼女たち、お前の知り合いか?」
僅かに開いているシャツの首元から、体に彫り込まれたかなりイカついタトゥーが覗いているジェニファーを前にして表情を強張らせるザックは、助けを求めるような視線をシスルウッドに送りつけつつ、シスルウッドにそう問うてくる。だがシスルウッドが答えるよりも、軽率なジェニファーがノリで強引に押し切るほうが先だった。
「アタシはジェニファー。黄色いヘアバンドがエリカ、短髪がクロエ。アタシら三人とも、彼のダチだよ。――んじゃ店員さん、アタシらはアーティーと同じ席に座るねー」
相手の事情を慮ることをせず、グイグイと我が道を押し通すジェニファーに、同じく押しが強いほうであるはずのザックも押し切られる。あまりにも横暴なジェニファーの姿に、同伴者のクロエも引いていた。真面目なエリカに至っては、戸惑い顔のザックに対してジェニファーに代わり謝ってすらいた。
しかし、誰のことも気に掛けず自由に、そして非常識に振舞うのがジェニファー・ホーケンという人物だ。彼女は店員であるザックをスルーし、シスルウッドの目の前の席にちゃっかり座ると、シスルウッドの前に置かれていた未だ手つかずのクラムチャウダーを凝視する。――と、クラムチャウダーのスープ皿をスルッと彼女自身の前に移した。そしてスープ皿の中に入っていたスプーンの柄を握ると、さも当たり前のようにクラムチャウダーを食し始める。
「このクラムチャウダー、おいしー。やっぱアタシの嗅覚は正解だったねー」
そうして数口ほど勝手に食べた後、ジェニファーはそのスープ皿をシスルウッドの前に戻そうとしたが、けれどもシスルウッドはそれを拒み、ジェニファーの前へと押し返した。それからシスルウッドは抑揚のない声でジェニファーにこう言った。
「それは君にあげるよ……」
自由人ジェニファーが居る場では面白いことが起こるが、しかし気が休まることはない。それを経験から知っているシスルウッドは、今日のところは退散することを決意する。シスルウッドは椅子から立ち上がり、テーブルを離れようとしたのだが……――結局、それは上手くはいかなかった。新たにやってきた二人、エリカとクロエの二人によってシスルウッドは席に押し戻されたのだ。
テーブル席の方へと歩いてきたエリカとクロエの二人とすれ違おうとした時、シスルウッドの腕はガサッと乱雑に引っ掴まれる。彼を引き留めたのは、悪意ある笑みを浮かべたクロエ・サックウェルだった。
「つれないなー、アンタ。ちょっとぐらい付き合ってくれたっていいじゃん」
シスルウッドとクロエの接点は、この時点ではあまり無い。偶にエリカという人物を介して会う程度で、ただの知人でしかなかった。そして当時のシスルウッドにとってクロエという存在は『不気味で食えない人物』という認識。距離を置いた方が良いという警戒心を彼女に対して抱いていたのだ。そういった思いもあって、シスルウッドは逃げようと考えたのだが……――思い通りにはいかないようだ。
立ち上がったのも束の間のこと、クロエに腕を引っ張られるシスルウッドは元居たテーブル席に戻される羽目になる。そうして再びシスルウッドが着席したとき、メニュー表を携えたザックがテーブルにやってきた。
「ご注文が決まりましたら、そちらのベルでお呼びくださーい……」
そんな風に店員らしく振舞うザックは、けれども視線を客である女性三人衆ではなくシスルウッドに向けていた。ザックはまず気まずそうに苦笑うシスルウッドを見て、次にジェニファーが奪い取ったスープ皿を見て、それからまたシスルウッドを見やる。そしてザックは意味深な目配せをシスルウッドに送っていた。
シスルウッドは肩を落とし、溜息を零す。本当にツイていないと、彼はそう感じていた。だが、クラムチャウダーを奪われた程度の出来事はまだ序の口。この日最大の不運は、この時点ではまだ起こってすらいなかった。
不運の始まりは、クロエのなんてことない一言からだった。エリカやジェニファーがメニュー表を見ながら、注文を決めていた時。クロエの視線はテーブルの上に開かれたメニュー表ではなく、壁に掛けられた写真に釘付けとなっていた。
その写真は、三年前に撮られたもの。ザックが組んでいるバンドの公演に、シスルウッドが最後に参加した時のものだ。ギターボーカルのザックを中心に、バンドメンバーの四人が演奏しているシーンが切り取られた写真が、安物の額縁に入れられて壁に掛けられている。そんな写真を食い入るように見つめているクロエを警戒しながら、シスルウッドが腕を組み、顔を少し俯かせた。
そのときだ。クロエがポスターを指差し、こう呟いたのは。
「……これって、スリッパー・リンペッツじゃん」
スリッパー・リンペッツとは、ザックが組んでいるバンドの名前である。
スリッパのような形をしたカサガイに似た巻貝、スリッパー・リンペット。牡蠣養殖場を乗っ取る厄介者として名高いこの貝が、バンド名の由来となっている(これはザックが決めたバンド名である。なぜスリッパー・リンペットなのか、その理由はザックしか知らない)。
そして『スリッパー・リンペッツ』というこのバンドは本格的に活動をしていたわけではなく、言うなれば学生が趣味の一環でやっていたアマチュアバンドでしかない。地元ですら知名度は殆どなく、あのヴェニューに通っている者しか知らないような存在なのだ。――にも関わらず、クロエはそんなアマチュアバンドの名をハッキリと発した。迷いを一切見せず、写真を見て断定してみせたのだ。
シスルウッドはそのことに驚くと同時に焦り、クロエらから顔をそむけた。と同時に彼は気付く。そういえばクロエの恋人はデリック・ガーランドだった、と。デリックは、あのヴェニューの店主の息子だ。それにクロエも、地域こそ違うが同じボストンで生まれ育った人間だと聞いている(シスルウッドやザックはチャールズ川に面した地区『ビーコンヒル』で育ったが、クロエらはボストンの外れ、南西にある地域『ウェスト・ロックスベリー』だと聞いていた)。シスルウッドがそれまで気付いていなかっただけで、クロエとは大学で知り合ったエリカを介して出会うよりも前に、同じ場に居合わせていたことがあったのかもしれない。
……いや、そういう機会があったのだろう、確実に。となればクロエの幼馴染だというエリカとも、ぺルモンドを通じて知り合うよりも前に、既に出会っていた可能性が高い。
「…………」
そんなこんなでシスルウッドの胃がキリキリと痛み始めたのだが、しかし彼ははたと考えを改める。考えてみればこの時の彼には、正体が露呈したところで負う痛みはなかったのだ。
ハイスクール時代は「父親にバンド活動がバレたら困る!」と怯えていたからこそ、正体を必死に隠そうとしていたわけで。名実ともに父親と、及び父親が属するコミュニティと縁を切っていたこの時の彼には、考えてみれば怖いものは何もなかった。……が、なぜだろうか、恥ずかしいという感情が湧きあがってきて堪らない。
恥ずかしさから頭を抱えるシスルウッドの隣で、壁に掛けられた写真を見つめるクロエは淡々と思い出を語り始める。そしてクロエの語った言葉は、認知されていた喜びから密かに目を輝かせていたザックの心を容赦なくぶった切っていった。
「あのバンド、前は好きだったんだけど。三年ぐらい前にウディ・Cが抜けてからパッとしなくなって、なんか心が離れちゃったんだよね。もともと突出したものが何もない曲しか作ってないバンドだったから、余計に。彼の荒ぶるパフォーマンスがあったからこそ、あのバンドにはそこそこファンが付いてたのにさ。あれが上手いのかどうなのかは私にはよく分かんないけど、でも人気あったよね、彼のパフォーマンス。それで……たしかウディ・Cはベース担当のケヴィンと不仲になって脱退しちゃったんでしょ? ケヴィンもテクニックは凄いと思うんだけど、ただ上手いだけで他に面白さとか取り柄も無いしなぁ。見た目もむさくるしい感じでさ、爽やかさもないしね。あとギターボーカルのザックも、すごく歌が上手いというわけでもないし、印象に残らないような流行に乗った個性のない曲しか書かないし、それにウディ・Cみたく聴衆を乗せるのが上手いわけでもないし。ドラムスに至っては平々凡々すぎて……」
シスルウッドの演奏を『上手いかどうかは分からないけど、なんか人気があった荒ぶるパフォーマンス』と断じ、続いてケヴィンをボロクソに貶し、ザックを『個性が無い』とぶった切ったクロエは、そう言い終えると溜息を零す。そのクロエの表情は、なんだかんだで過去を懐かしんでいる様子だった。そしてクロエの追想に呼応するように、エリカも僅かに微笑む――やはり同郷であるエリカも、スリッパー・リンペッツなるアマチュアバンドを知っていたようだ。
そして傷心のザックが悔しそうに下唇を少し噛んでいる姿を見やるシスルウッドは、ハイスクール時代のことを思い出す。放課後にバンドメンバーたちがこの店に集まり、隅のテーブル席を陣取って、何かをギャーギャーと言い合いながら五線譜の空白を埋めていたときのことを。
シスルウッドはいつも厨房で皿洗いをやりながら遠巻きにその光景を見るだけで、作詞作曲という作業に参加したことは無かったが。しかし彼はバンドメンバーたちが仕上げた楽譜を見た時にいつもこう思っていた。どの曲も似たか寄ったかで差別化が図られていないし、面白みもなく、歌詞も直情的で捻りや芸が無いと。とはいえ、そんな本音は一度も明かしたことは無い。なにせ彼は作曲に関わっていないし、関わるつもりもなかったからだ。ただ演奏するだけの立場で曲に文句を付けるのはおこがましいと、流石のシスルウッドも弁えていたのである。
だが、もし彼が作曲に参加していたら? ……たぶんトラッド曲のように、チューンとターンの繰り返しからなるようなシンプルなものを書いていたはずだ。歌詞は、きっと誰からも理解されないような、そんな難解なものになっていただろう。そしてそれは、そんなに面白い曲にはならない。退屈だと唾棄されるものが完成しそうだ。そう考えると、やはりシスルウッドには他者のことをとやかく言う資格が無いのかもしれない。
「……」
シスルウッドが数年前のことを思い出していたとき。彼の向かいに座るジェニファーは、ジッとクロエを見ていた。北米合衆国の西海岸側の出身であり、地元民ではない自由人ジェニファーは、不思議がるようにクロエの話を聞いていたのだ。
大陸の反対側では一度も聞いたことが無いようなバンドについて淡々と、しかしかなり詳しく語るクロエの姿を見て、ジェニファーは多少の興味を抱いた様子。
「へー。クロエ、詳しいんだね、そのバンドに」
シスルウッドから奪い取ったクラムチャウダーをパクパクと食べながら、モゴモゴとそう喋るジェニファーは、クロエにそう声を掛ける。すると壁に掛けられた写真から手元のメニュー表へと視線を移したクロエは、メニュー表に書かれている文字を目で追いながら答えた。
「まあね。デリックの親が営んでるヴェニュー、あそこに私もエリカもよく行ってたから。そこでスリッパー・リンペッツは演奏してたんだ」
「ふーん。じゃあデリックとの付き合いって長い感じ?」
「そう。私もエリカもデリックも、同じハイスクールに通ってたから。私とデリックとは十六の頃から付き合ってる。で、エリカは機械とかの方面に明るいじゃん。だからデリックに頼まれて、機材の修理の手伝いとか偶にやらされてたよね」
「へー。デリックって昔から人使い荒かったの?」
「いや、デリックっていうよりかは、デリックのお父さんが酷かった。――そうそう、デリックのお父さんがすごくケチでさ。エリカに修理は頼むくせに、エリカの電車代は出してくれなくて。エリカのお母さん、いつも怒ってたよね。で、話を聞いたデリックのお母さんがエリカん家に謝りに来てそれまでの交通費をまとめて払ってくれる、っていうのがお決まりのパターンだった」
「ほぉー。じゃあエリカとの付き合いも、デリックと同じぐらいだったりする?」
「いや、エリカとはずーっと一緒だね。物心つく前からの仲だよ」
自由人ジェニファーが興味を示したのはアマチュアバンドのことではなく、クロエらの関係だったようだ。デリックとクロエの関係や、エリカとの付き合いの長さなどをジェニファーが訊ねているところから、シスルウッドはそう判断して安堵する。
このまま話題が別の方向に逸れてくれれば。――彼はそう期待をしたのだが、しかし望んだ通りには事は運ばなかった。話を別の方向に逸らしたジェニファーは、話を元の方向に戻したのだ。ジェニファーは壁に掛けられた写真を指差すと、エリカに視線を送り、こう訊ねる。
「ってことは、エリカもあのバンドを知ってるの?」
強引に戻された話題に、シスルウッドは顔を蒼褪めさせる。そして彼は再度、厨房とホールの境目に立つザックを見やった。ザックのほうもシスルウッドと同様、戦々恐々としている。先ほど自身が結成したバンドをボロカスに貶されたばかりのザックは、もうこれ以上は何も言われたくないというような顔をしていた。
だが手厳しく容赦のないクロエと違い、エリカは優しく穏やかで、何より気配り上手な人物だ。場の空気をわざわざ悪くするような余計なことは言わないし、そもそも彼女は人を悪く言うような人物ではない。穏やかに微笑むエリカは、ポジティブな感想のみを述べるに留める。
「私はそこまであのバンドに詳しくないけど、でも、フィドラーの人が好きだったな。シヴ・ストールバリがあのヴェニューでライブを開いた時に、サポートメンバーとして出てた人。あの時、鋭くてザリザリしたあの音がシヴの世界観にマッチしてて、いいなって感じて。それから少しだけスリッパー・リンペッツを追ってた。手拍子の求め方とかがすごく自然で。フィドラーの彼、かっこよかったよね」
フィドラーの彼、つまり『ウディ・C』を褒めるエリカの言葉を聞き、シスルウッドが一転、顔を少し赤くしていたとき。その一方でザックは己への批判がこれ以上来なかったことに安堵しつつ、しかし言及が一切無かったことについて悔しさをにじませるように拳を握りしめていた。
……だが、少し和んだ空気をクロエが再度ぶち壊す。クロエはまた、爆弾のような言葉をボトボトと落としていくのだった。
「まっ、スリッパー・リンペッツは最後のライブが散々で、それ以降、かれこれ一年は見てないんだけどねー……」
「散々って?」
クロエの発した黒い言葉に、自由人ジェニファーはすかさず飛びつく。そしてシスルウッドもまた、その話題に興味を惹かれた。なぜなら一年前ぐらいに開かれたという『スリッパー・リンペッツによる前回のライブ』の結果の話を、シスルウッドは聞いたことが無かったからだ。
大学に進学して以降、勉学とアルバイトの両立で忙しかったシスルウッドは、前回のライブに登壇することを断っていた。スケジュールに空きがなく、都合がつかなかったためだ。そしてザックからは「参加しないか?」と声を掛けられたその一度以降、ライブに関する話を聞かされていない。前回のライブがどのように終わったのか、それをシスルウッドは知らなかったのだ。
興味から少しだけ前へと身を乗り出したシスルウッドは、と同時に再度ザックを見やる。――ザックは頭を抱え込んでいた。
だが頭を抱えている“店員”の様子など視界に入っていないクロエは、ザックにとっての苦い思い出である出来事を淡々と語っていく。
「フィドラーが脱退しちゃったから、代わりに別のバンドのヴァイオリニストが出演したの。ロワンっていうヤツなんだけど。あの演奏が本当にサイテーでね。すまし顔して直立不動で、なんかお上品ぶってる感じの演奏でさ。悲鳴みたいな音だし、それに態度が『俺様の素晴らしい演奏を黙って聴きやがれ、下級市民ども!』って感じで、本当に面白くなかったの。ロワンのソロパートが来た途端、観客もどんどん帰っちゃって。さらにギターボーカルのザックも途中で演奏を切り上げて、帰っちゃったのよ。それでライブは終わり。以降、スリッパー・リンペッツは活動休止中ってわけ」
シスルウッドが参加しなかったライブには、シスルウッドの代わりにロワンが立っていたようだ。シスルウッドの愛用するフィドルを『ボロの安物』と貶し、シスルウッドの演奏を『ひどく、汚い音』と酷評した、あのロワン・マクファーデンが。
しかしシスルウッドの代わりに登壇したロワンが得た評価は『本当にサイテー、本当に面白くなかった』だったようだ。観客はロワンのパートが始まった途端に退席していき、ザックすらも演奏を途中で切り上げて離席し……――きっとそれは、とても素晴らしいライブだったに違いない。
裸の王様ロワン・マクファーデンが誰も居ない会場でひとり勇敢にヴァイオリンを奏でている姿を想像しながら、シスルウッドは顔を伏せさせてクスクスと笑い出す。と、ひとり不気味に笑うシスルウッドにジェニファーが気付いた。
ジェニファーはスプーンを器用に扱い、クラムチャウダーに入っている二枚貝クォーホグの殻から身を剥くと、殻を器の隅に寄せる。そして殻から外した身をパクリと食べると、彼女はシスルウッドをジトッと見て、それからモゴモゴと喋った。
「……どうしたの、アーティー?」
そう問いかけるジェニファーの声を聞き、シスルウッドは徐に顔を上げる。そして彼は少しだけ顎を引くと瞼を伏せ、口角を少しだけ上げて、歯を僅かに覗かせた。そんな穏やかな笑みを浮かべる一方で、シスルウッドは穏やかならざるドス黒い本音をボトボトと零していく。
「――それ、最高じゃないか。あれだけ僕をボロクソに貶 してくれたロワン・マクファーデンは、僕の代わりを務めあげることができなかったってわけかい。とんだ笑いものだねぇ。それは見ておきたかったなぁ……」
そう言い終えたシスルウッドが再び瞼を開けた時、彼の目に映ったのは驚きからあんぐりと口を開けるジェニファーと、初めて見るシスルウッドのどす黒いダークサイドに引いているエリカの顔だった。続いてシスルウッドが聞いたのは、隣に座るクロエの溜息。
彼はクロエのほうをちらりと見やる。クロエが彼に冷たい視線を送りつけていたことに、彼はそのとき気付いた。そして気まずそうな苦い笑みをシスルウッドが浮かべれば、クロエはまた溜息を零す。それからクロエはシスルウッドを睨むように見て、こう言った。
「普段のアンタはクソださいチェック柄のシャツとアーガイル柄のベストを着てて、クソださい眼鏡をかけてて、クソださい雰囲気を完璧に決め込んでたから、今この瞬間まで全然気付かなかったよ。ウディ・Cの正体が、まさかアンタだったとは……」
糾弾まがいの視線を送りつけてくるクロエに、シスルウッドはたじたじとしてしまう。――が、直後に彼は疑問を覚えた。どうして責められなければならないのか、と。
顔を使い分けて正体を隠し続けていたのは、そうしなければならない事情があった為だ。そう、別にシスルウッドは悪いことをしたわけではないのだ。それに今まで正体を明かしていなかったのは、そもそも正体を訊かれていなかったから。クロエらに対して積極的に正体を隠していたわけではない、ただ明かす必要が無かっただけだ。
自分は何も悪くない、だから後ろめたさを覚える必要はない。そう意見を固めたシスルウッドは即座に態度を変えた。彼は気まずそうな笑みを消し、開き直ったかのような真顔になる。するとクロエは再度、不機嫌そうな溜息を零してみせた。そしてクロエとシスルウッドの二人を観察するエリカは、当たりが柔らかい割には食えない人物であるシスルウッドに対して気味悪がるような視線を送っていた。
その一方で、自由人ジェニファーは何も気にしていない。シスルウッドが隠していた『ウディ・C』という一面に先ほどまでは驚いていた彼女だが、しかしそのことはもうどうでもよくなっていた。そんな彼女が今気になっていたのは、シスルウッドに対して漠然と感じている違和感。何かがいつもと違う、と彼女は感じていたのだ。
「てか今日のアーティー、なんかいつもと雰囲気が違うね。なんで?」
ジェニファーは無邪気にそう問う。そして問いに答えたのは、不機嫌そうなクロエだった。
「いつものクソださい赤縁の眼鏡をかけてないからでしょ」
いちいち棘のある言葉を発するクロエに、少しずつだがシスルウッドの不快感も募っていく。彼は顔を少しだけムッとさせた。けれどもそれは牽制にはならず、むしろクロエの敵対心を煽る結果になる。眉間に皴を寄せるクロエは、より辛辣な言葉をネチネチと浴びせてきた。
「それにいつものアーティーはカッコよくシャツを着こなしたりしないし、カッコつけて前髪あげたりとかしない。なんか今日のアーティーは垢抜けてて気持ち悪いんだけど」
「いや、こっちが素なんだ。気持ち悪いとか、そんな貶さないでくれないか?」
あまりにも理不尽すぎる攻撃に、流石のシスルウッドも嫌気を起こす。彼はわざとらしく拗ねた態度を取り、わざと悲しそうな顔をしてみせた。――が、クロエもまた彼と同様に一筋縄ではいかない人間である。それに彼女はあからさまな演技につられるほど、単純で優しい人物ではなかった。
「あー、思い出してきた。そうそう、こんな感じだったね、ウディ・Cって。わざとらしくキザぶったあと、それを素直風な計算尽くの愛嬌で誤魔化そうとしてくる、この打算的な感じ! けったくそ悪いわ~」
「クロエ、やめなさい。アーティーが困ってるでしょう」
ネチネチと攻撃を仕掛けてくるクロエを見かねた友人のエリカは、嫌なオーラを発しているクロエを制する。心優しいエリカに諫められたことによってクロエはバツが悪くなったようで、唇を尖らせるクロエはそれ以上何も言ってこなかった。
そうしてクロエの攻撃が止んだあと、女性陣は注文を決めていく。各々が自分の注文分をエリカに渡し、エリカが纏めて代金を支払う方向で話がまとまった段階でエリカがベルを鳴らし、テーブル席に来たザックに注文を伝えた。
ツナサンドひとつ、パストラミサンドひとつ、ターキーサンドひとつ、BLTサンドふたつ、グリーク・サラダふたつ、フィッシュ・アンド・チップスひとつ、フライドシュリンプひとつ、ホットコーヒーふたつ、紅茶ひとつ。――確認の為に注文を読み上げるザックの姿を見ながら、シスルウッドはふと思う。性格が出てるな、と。
どちらかといえば健康志向であるエリカはツナサンドとサラダ、それとコーヒーを頼んでいる。加えて気配り過剰なエリカは「みんなも食べるよね?」と、共有前提でフィッシュ・アンド・チップスも注文した。それもフィッシュ・アンド・チップスの代金はエリカ持ちである。あまりにも人が好すぎていた。
どちらかといえば小食な方であるらしいクロエは、コーヒーと、彼女の大好物だというパストラミのサンドウィッチだけを注文。油っぽいものは今は控えていると言い、やんわりとフィッシュ・アンド・チップスはいらないと断っていた。
そして底なし胃袋の持ち主でありモラルは持っていない自由人ジェニファーはというと、シスルウッドのクラムチャウダーを横取りしておきながらも、更に重たいものをいくつか注文していた。ターキーサンドひとつにBLTサンドふたつ、更にグリーク・サラダとフライドシュリンプ、それと紅茶。――ジェニファー曰く「実家がわりと金持ちだし、パパが超優しくて、仕送りいっぱいくれるの~」という環境を持っているからこそできる大胆な注文だろう。
注文を聞いていたザックは、女性三人にしては妙に多い注文量に困惑していた様子。注文を書き留めたメモを携えて厨房に向かっていったザックは、歩きながら少しだけ首を傾げていた。
数分後、完成した料理の第一陣をザックが運んでくる。ツナサンド、パストラミサンド、ターキーサンド、ドリンク類をプレートに載せてテーブル席にやってきたザックは、慣れた手つきで料理をテーブルの上にパパッと並べていった。
そうしてザックの手が止まったタイミングを見計らって、シスルウッドはスッと椅子から立ち上がる。ザックに話し掛けながら、テーブル席からさりげなく離れようとした――のだが。
「それで、ザック。ロワンの話って本当なのかい?」
ザックの後を付いていく風を装って静かに立ち上がったシスルウッドだったが、隣に座っていたクロエにそんな誤魔化しは通用しなかった。立ち上がり、席を離れようとしたシスルウッドの腕を彼女は素早く掴み、席に引き戻したのだ。
立ち上がったかと思いきや、席に引き戻されて再度座らされる。――そんなシスルウッドの姿を、ザックは視界の隅に捉えていた。驚きから振り返るザックは、振り返った先にいたシスルウッドを見たあと、緊張からやや引き攣った笑みを浮かべる。不満タラタラといった表情を浮かべるシスルウッドのその隣に、鬼の形相をしたクロエの姿があったからだ。
鬼のような女性に捕まっている友人。しかし助けられるシチュエーションではないと判断したザックは、怯えたような目をすることしかできない。かといって、この場をすぐに離れるだなんて薄情なことをするのは憚られた。そしてザックは、取り敢えず先ほどの問いに答えることにする。どことなくおどおどとした口調で、ザックはこう言った。
「あ、ああ。ロワンはとにかくムカつく野郎だった。俺たちのことを『低所得者層のドブネズミ』ってな風に見下してんだなって感じがすごく漂ってたんだ……。それでもオレたちはグッと堪えて、ライブをやろうとしたんだよ。だけどよ、あの野郎、一発目からひどい演奏をぶちかましてきたんだ。あんだけ偉そうな態度を取ってたクセに、観客をドン引きさせるような演奏しかできないのかって、マジで呆れたぜ。それで嫌になって、オレ、つい帰っちまったんだよ。デクランもケヴィンも帰った。そしてオレたちはヴェニューのオーナーから出禁を食らったってわけさね……」
しかめっ面のクロエから浴びせられる視線に怯えながら、ザックはそう語った。そして話に区切りがついたところでザックは厨房に戻っていこうとする。だがそのザックを呼び止めるように、クロエが舌打ちし、鋭い音を鳴らした。
あいつの次はオレかよ?! ――とザックがビクビクした様子で足を止め、その場に立ち尽くしたとき。振り返ったザックの目をジトーッと見つめるクロエは、ドスの効いた低い声でこう言った。
「そうそう。それで今、あのヴェニューの経営が傾いてるの。だからデリックは血眼で探してんだ、スリッパー・リンペッツの正規メンバーをね」
次にクロエは隣に座るシスルウッドを睨み付ける。彼女は続けてこう言った。
「あのヴェニューで一番人気あったバンドって、あんたたちだし。あんたたちが戻ってくるってなったら、離れてたお客も戻ってきて、お金もそれなりに入ると思うんだけど。それにヴェニューに併設されたスタジオで録音して、レコードも出してくれると、なお良しなんだけどなー」
クロエは最後に再度ザックに視線を送り、そしてシスルウッドに視線を戻す。だが、シスルウッドもザックも黙り込み、顔を見合わせて苦笑うのみ。すると何らかの返答を求めるかのように、クロエがテーブルを指先で叩き始めた。
タン、タン、タン、タタン、タタン、タタタタン……テーブルを叩く指先の感覚が徐々に早まっていく。その威圧感にザックがあたふたとし始めた。それを見かねたシスルウッドはわざとらしく溜息を吐き、蟀谷を掻く。それからシスルウッドは挑発するように、間延びした声でこう言った。
「あ~、デリックかぁ~。あいつが僕たちに頭を下げに来たら、まあ考えてやってもいいよ~」
「困ってる友人の為に一肌脱ぐっていう優しさは、あんたには無いわけ?」
かなり強めの批難がクロエから放たれ、その言葉はシスルウッド……――ではなくザックの心にグサリと突き刺さる。そうしてザックが後ろめたそうに顔を伏せさせていた一方、シスルウッドは動じていなかった。彼はあくまでも舐め腐った態度を取り続け、クロエの非難を一蹴した。
「でもデリックには迷惑を掛けられてるんだ、本当に。嫌というほどにね。だけどあいつが謝罪したことは一度もない。だから、まずはそこからだね。それが条理ってもんだろう?」
「なるほど。そのふてぶてしさが、あのお調子者ぶったパフォーマンスに活きていたわけか」
キザぶった口調で自分を正当化するようなことを言うシスルウッドを、またしてもクロエは辛辣な言葉で攻撃してくる。再度エリカが「やめなさい!」とクロエに釘を刺すも、しかしクロエは再度シスルウッドを睨み付け、彼の足首に蹴りを入れてくる始末。けれども少しの痛みで狼狽するような人間ではないシスルウッドは平然とした顔を貫いた。そんなシスルウッドの様子は、更なるクロエの怒りを招いた。
――が、そこに水を差す者が現れる。自由人のジェニファーだ。
「アーティーとデリックって、そんな接点あったっけ?」
場の空気など読まず、自分が気になったことを無邪気に問うジェニファーの視界には、しかめっ面のクロエの顔や不機嫌な友人にアタフタとしているエリカの表情など入ってもいない様子。シスルウッドがクロエに足首をガンガンと蹴られ続けていることにも気付いていないジェニファーは、答えを急かすような視線をシスルウッドに送っていた。
そんな自由人ジェニファーのペースに合わせ、シスルウッドはおどけた調子でこう答える。
「ほら、デリックはよくぺルモンドの家に来るだろう? 機材を借りたり、ぺルモンドから知恵を借りたりするために。その時、あいつは序でに宅配ピザやら瓶ビールやらを持ち込むんだけど、ゴミを持ち帰ったことは一度もない。後始末をやらされるのはいつも僕だ。――ゴミ捨ても面倒だけど。一番の問題はぺルモンド。君らだって、ぺルモンドの謎のボトル瓶嫌いは知ってるだろ? 取り乱したあいつを宥めるのは大変なんだよ、かなりね」
「あー、デリックの野郎はボトル瓶を放置すんのかー。そりゃ後始末が大変だねー」
シスルウッドの言葉に、ジェニファーはそう言葉を返し、納得したような表情を浮かべる。しかしジェニファーの横に座るエリカは、不思議がるように首を傾げていた――エリカは酒類をぺルモンド宅に持ち込むことが無いため、その話を知らなかったのだ。
聞いたこともない妙な話に首を捻るエリカを、横に座るジェニファーが不思議がるように見やる。そしてジェニファーがエリカに何かを言おうとした瞬間、それを遮るようにクロエが大きな溜息を吐いた。
テーブル脇に立つザックの肩が再びビクッと跳ね上がる。するとクロエは、ビクつくザックに意味深な視線を送りつけた。そうして更にザックが縮み上がると、次にクロエは隣に座るシスルウッドをギリッと睨む。それからクロエはあることを語った。
「デリックのお父さんがさ~。半年前かな、借金だけ残して、家族を置いて逃げたんだよー。それでデリックと、デリックのお母さんが大変な目に遭ってるの、今。それでもアンタ、動かないの?」
「あっ、あのオーナーが逃げた?!」
元ボディービルダーだという噂があった、屈強な体格をしていたヴェニューのオーナー。ロワンという嫌味なヴァイオリニストばかりを贔屓し、シスルウッドをやたらとイビってきた、デリックの父親。――クロエ曰く、そのひとが失踪したらしい。
クロエの言葉を聞き、衝撃を受けるザックは裏返った声を上げる。そして流石のシスルウッドもこの件には衝撃を受けた。ワッと立ち上がったシスルウッドはその拍子に後退り、テーブル席から数歩離れる。そのときシスルウッドは同時に、頭の中に思い浮かんだ文言をそっくりそのまま口走ってしまった。
「あいつ、借金を抱えた身でありながら、ロクに働きもせずにニューヨーク旅行やら浮気なんかして現を抜かしてたっていうのか?!」
「そうなの。あいつ、遊びほうけ……――えっ?」
途中までシスルウッドの発した言葉にウンウンと頷いていたクロエだが。よくよく彼の言葉を反芻してみた結果、彼女は眉間に深い皴を刻む。そして勢いよく立ち上がるクロエは、自分よりも恋人の素行を知っていそうなシスルウッドに掴みかかろうとした。
「今、なんて言った? デリックが浮気!?」
がなり立てるクロエが伸ばした手を寸でのところで避けたシスルウッドは、ザックの後ろをくぐり抜けて店の中を駆ける。一気に出入口まで走り抜けた彼は、出入口の扉に手を掛けると一度立ち止まってザックに手を振り、合図した。それからシスルウッドはこれだけを言うと、店を出て走り去っていく。
「――ザック、つけといて。後日、今日の分は払うから!」
シスルウッドはデリック・ガーランドという人物に迷惑を掛けられっぱなしだった。持ち込んだゴミの後始末を押し付けてくる、だなんて些末なものは序の口に過ぎない。酔うと乱暴な性格に変わるデリックの対応をやらされたことは何十回とあったし、デリックがシスルウッドの財布を盗んで札を数枚くすねたこともあった。いくつかあるデリックの『秘密』を他の者には黙っていてくれと懇願されたこともある。浮気も、隠すよう求められた秘密のうちの一つだ。
そんなこんなで秘密の断片をうっかり漏らしてしまったシスルウッドだが。これ以上は言うべきでないと彼は判断し、更なるボロが出るよりも前に逃げることを選択したというわけである。
「おい、ちょっと待てや、メンヘラ製造機ッ!! 逃げんじゃねぇ!」
逃げたシスルウッドの後を追おうとしたクロエは荒っぽい怒号を上げた。しかしエリカがそれを制止する。渋々テーブル席に戻るクロエには、それまでの強気な態度が残っていなかった。
すっかりしょげて大人しくなったクロエの様子を見て、ザックはひとまず安堵する。これ以上の攻撃は無さそうだという確信を得た彼は、普段通りの人懐っこい笑顔を浮かべた。そしてザックは、先ほどクロエが発した奇妙な言葉“メンヘラ製造機”の意味を訊ねるのだった。「ところで……メンヘラ製造機って、何だ?」
「関わった人間の気を狂 れさせる、タチの悪いヤツのことだよー」
シスルウッドから奪い取ったクラムチャウダー、その最後の一口を啜ったあと、ジェニファーがそう答える。だがジェニファーの提示したフワッとした曖昧な答えでは理解に至らず、ザックは首をひねった。
するとツナサンドから一旦手を離したエリカが、ジェニファーの回答に補足をするようにこう付け加えた。
「アーティーって誰に対しても優しく接する反面、すごくドライな態度で対人関係に臨んでいるところがあるでしょう。君はそのままで十分だと僕は思うよ~って慰めたり、君はすごく頑張ってるよ~って褒めたり、そういうことを誰に対してもするところが彼にはあるし。その一方で彼は簡単に人を冷たく突き放す。甘ったれるな、寄りかかってくるな、って風に。かと思えば、二つ返事で手を貸してくれたりするときもあるし、本当に優しいときもある。その寒暖差の大きさが人を混乱させて振り回してるというか。だから精神的に自立していない人は、彼の本心が分からなくなって病んじゃうのよ……」
噛み砕かれたエリカの解説を聞いたザックは、傾けていた首を真っ直ぐに戻す。メンヘラ製造機という聞きなれぬ言葉の意味を知り、それが友人のあだ名として定着している理由にザックは納得したのだ。
思ってもいない優しい言葉を軽率に嘯いて微笑んだかと思えば、次の瞬間には真顔になって猛毒のような言葉を吐き捨てる。それがザックの知っているシスルウッドであり、女性三人衆の知っているシスルウッドも同様のようだ。そして、そんなシスルウッドの性質はエリカが言うところの『メンヘラ製造機』に当てはまるような気がしなくもない。
腕を組み、少し考え込むザックは「う~ん」と小さく唸る。その後、ザックはこんな私見を述べるのだった。「でもあいつが他人に優しくするときって大抵、内心では相手のことを小馬鹿にしてんだぜ? こうでも言っとけばお前らはとりあえず満足するんだろ、ってな感じでさ。それに、そういう時のあいつってあからさまに『めんどくせ~』って雰囲気も出してるし、優しさじゃなく嫌味だって分かりそうなもんだが……」
「そうそう、馬鹿にしてるよね~。優しいことを言いながらも目は据わってて、あぁ今の本心じゃないんだなーっていう雰囲気。めっちゃわかる~。それなりに親しくならないと、正直な言葉を言ってくれないんだよね、彼ってさぁ~」
ザックの言葉に、ジェニファーはそう返事をしてウンウンと頷く。続けてジェニファーはこう語った。
「アーティーって、優しくて気も利いて暖かそうな人っぽく見えるけど、でも心は完全にダークサイドに堕ちてる。目の奥にいつも怒りしかないっつーか、そういう雰囲気があるの。たぶん本質的に人間っていうものが嫌いなんだろうね、彼。……まあ、アタシたちはそこを分かってるし、だから友達としてやっていけてるけど。そうじゃないと付き合いづらい相手ではあるよねー。あいつはメンヘラ製造機だし、それにあいつ自身も狂ってるケがあるしー」
普段のパッパラパーな言動からは想像もつかないような、意外にも的を射た分析を放つジェニファーの様子に、エリカは少し驚いたような顔をする。一方で意味深な微笑を浮かべるクロエは、コーヒーを一口飲んだあと、小声でボソッとこんなことを呟いた。
「彼はすごく奇妙で興味深いし、観察対象としては最高に面白い存在なんだけど。ただ恋人には絶対にしたくないタイプだね。単純じゃない男は御しにくいから、私の好みじゃないわ」
十二歳ぐらいの頃からシスルウッドとの付き合いがあるザックよりも、ずっと付き合いは浅いはずである女性たち。しかし彼女らはシスルウッドの性格をちゃんと理解しており、あの面倒くさい性格の彼の扱い方もそれなりに心得ているようだ。
そこでザックは少しの寂しさを覚える。ひとりで全部を抱え込んで、他人を寄せ付けようとせず、助けを拒み続けていた “アーティー”はもう居ないのだな、と彼は感じたのだ。
もしかしたら『一番の友人』はもう自分ではないのかもしれない、ともザックは考える。その時、ザックの中で何かがプツンと切れた。
「病んでる、か。……言われてみれば、たしかに……」
シスルウッドは表面的な優しさを見せて人を誑かすことがあり、そのあとに見せる鋭い刃のような本性で人を深く傷つけることもある。だがその一方で、本当に『良いヤツ』になる瞬間もある。彼はとても気まぐれで、掴みどころがなかった。
そんなシスルウッドの目の奥には、人間および社会に対する強い怒りしかない。そして彼は本質的に人間が嫌いだ。これはザックも、薄々だが感じてはいたことだった。偶にシスルウッドは、ザックにもそのような視線を送ってきていたのだから。
そうして振り返ってみたときに、ザックは背筋が凍えていくのを感じてしまった。一番の友人だと思っていた相手が、関わるべきでない狂人に思えてしまったからだ。
「…………」
ザックが好きだった“アーティー”は、もう存在しないのだ。
父親に殴られて青あざをしょっちゅう作っていた少年はいない。父親が主催するパーティーで聞いてしまったひどい言葉に心を痛めて大泣きしていた子供もいない。醒めた心で何もかもを見下しながら、自分を否定してくる他者に対して静かな怒りを滾らせている危険な人間、それが今のシスルウッドだ。
――いや、そもそも哀れな少年なんて最初から存在していなかったのかもしれない。ザックが一方的に抱いていた幻想でしかなかった可能性もある。
「あー、ヴェニューの件だが……――とりあえず他のメンバーに声を掛けとくよ。あのオーナーが居ないってんなら、ケヴィンもデクランも乗ってくれるかもしれないし」
そんなことを考えながら少し黙ったあと、ザックはクロエらに対してそう言った。そのときのクロエは望んでいた答えが得られたことによって満足し、穏やかに微笑んでいた。
その後ザックは実際にバンドの元メンバーたちに声を掛けた。ケヴィンを誘い、デクランを誘ったが、どちらもその誘いを断ったという。
『白人同士で仲良くママゴトでも続けてればいい。もうお前らと関わり合いになるつもりはない。特にいけ好かないアーサー・エルトルの息子の顔は二度と見たくないね』
そう答えたのは、実家の中華料理屋を継ぐために修行中であるケヴィン・アリンガム。
『あのブロンド野郎が戻ってくるなら遠慮しとくよ』
そう答えたのは、黒人ギャング団に所属していたがヘマをして逃亡した兄の代役を押し付けられ、かつては愛していたはずの文学の世界を捨てたデクラン・オキーフ。
――無論、ザックはシスルウッドに彼らの発した言葉は伝えなかった。誘ったけど断られた、とだけザックは伝えたのだ。けれども察しの良いシスルウッドはすぐに気付いた。嫌われ者である自分と組みたがる変わり者が、地元出身者にいるわけがないと。
「……なあ、アーティー」
それが伝えられたのは、ぺルモンドが退院した翌日のこと。クロエらがザックの店を訪れてから、二週間が経過した日の真昼のことだった。
出入り口に一番近いテーブル席に座っていたシスルウッドは、向かいに座るザックの顔を見れずにいた。テーブルの上に両肘を乗せて手を組み合わせ、顔を俯かせるシスルウッドは、黙ってザックの言葉を聞いていた。『牡蠣棚の厄介者 』の再結成は無しになったという、淡々とした報告を。
シスルウッドは目を瞑り、苦笑する。こんな結果になることは目に見えていただろうと、彼は自分に言い聞かせていた。
誰もエルトル家の次男坊と関わりたがらない、だって父親が嫌われ者だから仕方ない。彼は己にそう暗示を掛ける。吹き出しそうな失望と怒りの矛先が軽薄で薄情なケヴィンとデクランの二人に向かないようにと、そう堪え続けていたのだ。
その一方で、ホッとしているシスルウッドも居た。嫌悪の眼差ししか向けてこないあの二人に会わずに済むならそれでいいと、そう安堵しているフシもあったのだ。だが、気に入らないと不満を垂れるシスルウッドも居る。何もしていないにも関わらず不当に虐げられるこの現状を甘んじて受け入れるなんてゴメンだと、憤慨する声も頭の片隅にあった。
どれが自分の本音なのだろうか。それは最早シスルウッド自身にも分からない。――思わず零れた苦笑には、そんな意味も込められていただろう。
「……」
だがザックは、苦笑するシスルウッドを見て別のことを感じたようだ。そしてザックは徐に口を開くと、こんなことを言い始めた。「お前さ、あのぺルモンドとかいうやつと関わり始めてから、変わっちまったよな」
「そんなことは――」
「変わったんだよ、お前は。もうオレの知ってるアーティーじゃない」
「えっ……?」
「あの男とこれからも接していくなら、オレはもうお前の友達ではいられない。だから、選んでくれ。オレの居る世界か、あの男の居る世界か、そのどちらかを」
バンドの再結成がおじゃんになったという話から一転、急に迫られた極端すぎる選択。状況が呑み込めないシスルウッドは、ただ動揺することしかできなかった。
「あの、ザック。それってどういうこと?」
お前は変わった? オレの知ってるアーティーじゃない? そんなことを急に言われても、何が何だかサッパリ分からない。それに選ぶって、何を? ――この二週間のうちに起きたザックの葛藤など何も知らないシスルウッドには何も分からなかったのだ。自分がザックから狂人扱いされているなど、この時の彼は思ってもいなかっただろう。
取り敢えず事態を把握できないシスルウッドは、こんなことになってしまった原因を探ろうとする。自分がザックの機嫌を損ねるような何かを仕出かしたのではないかと見当を付けた彼は、ザックに鎌をかけてみることにしたのだが。
「僕がザックに何かした? もしそうなら謝るし、改めるよ。だから理由を教えて欲しッ――」
「とにかく、選べよ!」
シスルウッドの鎌を跳ねのけたザックは、そう怒号を上げる。するとホールで起きた異変に気付いたザックの父が、厨房から慌てて飛び出してきた。
「おい、ザック! お前、一体なにを騒いで――」
そのときシスルウッドは真顔になっていた。彼の目に光は無く、戸惑いや混乱の風も消えて、ただ死んだような凪だけが存在していた。ザックはその冷たい目に慄き、数歩下がる。だがシスルウッドは、気遣うような言葉を掛けなかった。
「ハナから僕に選択権なんて与えられてないんだろう? 君はもう腹を決めている、そのはずだ」
そう言うとシスルウッドは静かに立ち上がり、腰ポケットに突っ込んでいた財布を手に取ると、この日の注文分と二週間前のツケをカバーするだけの金額を取り出す。それをテーブルの上にそっと置くと、これだけを言い、静かに店を出た。
「……釣り銭は要らない。今までありがとう、それでは」
八年間の付き合いだったザックとの関係は、たった一瞬であっさりと終わってしまった。悩んだ末に縁を切ることを望んだザックの意思を、シスルウッドがその通り叶えたことで、その日にプツッと切れてしまったのだ。
店を出て行ったシスルウッドは振り返ることをしない。床に膝をつき、失ったものの大きさに頭を抱えて悔やみ泣いているザックの姿も。それまでザックと共に過ごした日々のことも。彼は振り返らず、決断に後悔もしなかった。
そしてシスルウッドは歩いていく道の先で、見覚えのある小汚い水色のセダンと、見知った顔ふたつを見つける。
「よっ、ウディ」
したり顔でそう声を掛けてきたのは、セダンのボンネットに寄り掛かるように立ち、いつもよりも格好つけているように見えなくもないデリック・ガーランドだった。いつものようにシスルウッドのことを『アーティー』と呼ばずに、わざわざ『ウディ』と呼んできたということはつまり、彼はクロエから聞いたのだろう。ウディ・Cの正体がシスルウッドであるということを。
そしてセダンの運転席の窓を開け、そこからシスルウッドに手を振ってきたのは、デリックの恋人であるクロエ・サックウェル。
たぶん、クロエらはザックからの返事を聞きに来たのだろう。だが店から出てきたシスルウッドの顔を見て、ザックが出した答えを察したようだ。
「……」
愛想よく振舞う気分にはなれなかったシスルウッドが、ただ立ち尽くして黙っていると、そんな彼にデリックが近付いてくる。馴れ馴れしく肩を組んでくるデリックは、シスルウッドにそっと愚痴を零した。「……お前のせいで俺は散々な目に遭った。クロエにドヤされちまったぜ……」
「元はと言えば、デリック、あんた自身が蒔いた種でしょう!」
クロエが飛ばすヤジは、グサッと核心をついてくる。シスルウッドからスッと離れるデリックは、バツが悪そうにクロエから目を逸らし、しらを切るように口笛を吹いていた。
すっとぼけるデリックに、クロエは大袈裟な溜息で呆れを表現する。それからクロエはシスルウッドに視線を送ると、こんなことを言ってきた。
「乗って。送ってくから」
クールに手招きをするクロエはそう言うと、運転席の窓を閉める。「俺の車なんだけどなぁ」とボヤくデリックが助手席に就き、シスルウッドは後部座席に乗り込んだ。
そうして車が発進し出したとき。助手席に座るデリックが、彼のカバンの中をガサゴソと漁り始める。デリックはカバンの中から財布を取り出すと、そこから一〇ドル札を五枚ほど抜き取った。それからデリックは後ろに座るシスルウッドのほうに顔を向けると、取り出した一〇ドル札を全てシスルウッドに差し出した。そしてデリックは言う。
「今までのこと、謝るよ。お前に迷惑ばっか掛けちまって、すまない。ジェイドのことは反省してるし、もう何もしないと誓う。それに借りてた金も返す」
デリックに“盗られた”金額は四〇ドルだったのだが、それよりも若干多い額が戻ってきた。が、シスルウッドはその余剰分を返すことはしない。迷惑料だと思って受け取っておくことにしたのだ。
受け取ったお金を自分の財布に入れるシスルウッドは、後写鏡に映るクロエの顔をちらりと見やる。それはデリックが発した『ジェイド』という言葉を聞いての反応だった。そして後写鏡を介してシスルウッドの目を見るクロエもまた、その言葉を聞いて気まずそうに笑う。それからクロエは正面に視線を戻すと、こう答えた。
「ええ、全部聞いた。浮気相手が女だとばっかり思ってたけどそうじゃなかった上に、そいつがエリカの恋人の“別人格”だって聞いてさ、流石に理解が追い付かなくて腰が抜けるかと思った。取り敢えずこのクズ男のプライドは私がズタズタに切り裂いておいたし。解離性同一性障害の患者は理由があってああいう状態になってるんだから、そういう状態を利用するようなゲスな真似は二度とするなって叱っておいたから、もう彼に手出しはしないはずだよ」
なんてことないようにサラリとそう語るクロエだが、その内容は中々に壮絶である。しかし吹っ切れたような顔をしているクロエは、少なくともデリックが引き起こした背信行為、及び相手の不道徳さに怒っていなさそうだ。それどころかクロエは、浮気相手に同情的ですらある。
その横でデリックは、己の仕出かしたことの重大さを再度痛感しているのか、肩身が狭そうな顔をしていた。その様子を見るに、彼は心の底から反省しているようだ。――以前、現場を目撃してしまったシスルウッドが怒鳴りつけた際には「はぁ? なに言ってんだ、お前?」というような舐め腐った態度を取っていたデリックだが、しかしクロエの説教は彼に利いたようだ。なんだか気に食わないなとシスルウッドは感じたものの、デリックが反省している様子を見せているため、それ以上のことを言うのは止した。
「……」
ここは懐の広いクロエに免じて許すか。そう考えたシスルウッドは呆れの混じった溜息を零す。それからシスルウッドはぶっきらぼうにこう言った。
「――はぁ~っ。本当は気乗りしないけど、お前んとこのヴェニューを救ってやるよ。アルバムを作って、それで販促のライブをやる。原版権はお前にやる。それでいいな?」
こうでも言えば、デリックは喜んで機嫌を直すだろう。――と、シスルウッドは思っていたのだが。しかしシスルウッドのほうに振り返ったデリックは、どこか不安そうだった。そしてデリックは、的外れともいえる懸念をシスルウッドに伝えてくるのだった。「アーティー。お前、作曲なんてやったことあるのか? 俺はお前の作った曲を聞いたことが無いぞ」
「フィドラーってのは楽譜なしで好き放題に弾くもんだぞ。作曲なんて造作もない」
そんなことを威勢よく言ってみるシスルウッドだったが、しかし彼はその後すぐに考えを変える。
たしかに作曲自体は出来る。が、作詞は別だ。やったことがない。そりゃ学校の課題で詩作をやらされたことは何度かあったが、それは国語の授業の中での話。自己表現というかたちで詩を書くというのはしたことがない。
というか、思い返してみれば音楽以外にそういうことはしたこともなかった。シスルウッドはジェニファーのように絵を描くこともなければ、エリカやデリックのように何だかよく分からない機械を作ってみることもない。詩を書くこともなく、なにか長文を書いたことがあるわけでもなかった。
「……けれど」
ただ、幸いなことに文学の知識はあった。幼少の頃から種類を問わず本もたくさん読んできたし、それに詩は特に大好きで、詩集をよく読んでいたものだ。
バイロン、ボードレール、ブレイク、イェイツ、グレイ、キーツ、ワーズワース、スティーヴンソン、キップリング、コールリッジ、バーンズ、ブラウニング、プラス、ディキンソン、ランボー、マクダーミッド、マッゴナガル、モリス、フィンレイ、そしてシェイクスピア。……英語圏に偏り過ぎているような気もしなくはないが、お気に入りの詩人はそれなりに居る。そんな敬愛すべき先人たちから言葉やアイディアをくすねて――いや、インスピレーションをいただければ、まあなんとか作れるかもしれない。
だが。そうなってくると問題が発生する。
「僕は普遍的な歌謡曲らしい歌詞が書けない。あのヴェニューで演奏していたバンドたちみたいな、頭の悪そうな詞は僕には無理だ。あんな直情的でひねりや比喩表現が欠片もない上に、やれセックスだのやれパーティーだのやれドラッグだのっていう下品なシチュエーション設定ばっかりの詞なんて、僕にはできない」
「あんた、随分とすごいことを言ってのけるじゃないの」
自信が無さそうに、自信たっぷりなことを言うシスルウッドのちぐはぐな言葉に、クロエはすかさずそうツッコミを入れるが、彼女の顔は嬉しそうな笑顔で飾られていた。だが、その横にいるデリックは表情を険しくしている。そしてまたデリックは懸念を述べるのだった。「売れないと困るんだ。難解で文学的すぎる歌詞は共感を生まないし、共感が無いと購買意欲に繋がらないだろ。誰にでも分かるような、そういう易しいうえに刺さる歌詞じゃないと――」
「いや、むしろ良いんじゃない?」
だがデリックの懸念をクロエはあっさりと蹴り飛ばす。それから彼女は私見を述べた。
「ウディ・Cは『お調子者で、ちょっと馬鹿っぽい』って思ってるファンの方が多いと思うのよ。だから易しくない曲の方が意外性っていう面でウケると思うし。それに、良いんじゃないの、文学的な歌詞ってやつも。昔ながらのハードメタルっぽくてさ」
「……」
「それにウディ・Cに付いてるファンは内容の是非なんか気にしないで買ってくれるよ、だって連中はこいつの顔が好きなだけだから、いくらでも貢いでくれるって」
クロエの結論が『内容なんか関係ない、ウディ・Cのファンは顔しか見てないから』というものであったことに、シスルウッドは少しの悲しみを覚える。演奏やパフォーマンスではなく、外見でしか判断してくれていない人のほうが多かったのかと思うと、今までの努力は何だったのだろうかという虚無感が沸き上がってきたのだ。
けれども彼は「音が好きだった」と言っていたエリカの言葉を思い出す。それから目を閉じ、全く関係のないことを思い出して思考にノイズを発生させようとした。ザックのことも、ヴェニューのことも、クロエの今の言葉も、一刻も早く頭の中から追い出したかったのだ。
そうしてパッと思い浮かんだのは、ゴロゴロ……と喉を鳴らすサビ猫オランジェットの姿だった。続いてブチ猫パネトーネに喧嘩を売る黒白猫ボンボンのやんちゃな背中を思い出す。それからシスルウッドはこう呟いた。「……オーリーとボンボンとパネトーネに会いたい」
「は? 急にどうした?」
突然、それまでの会話とは何の関係もない言葉をブツブツと呟いたシスルウッドに、そう語り掛けるデリックは奇異の眼差しを向けている。その視線を受け止めるシスルウッドは肩を落とすと、釈明かわりにこう語った。
「叔母の家の猫たち。もう一年ぐらい顔を見てないからさ。あのモフモフたちが恋しくなってきたというか……」
「じゃあ遊びに行けばいいじゃん。秋学期は昨日で終わってて、今日から冬季休暇なんでしょ?」
猫を恋しがるシスルウッドに、クロエはそう助言する。続けて彼女はこうも言った。「バッツィのことはエリカに任せとけ。エリカならむしろ、あんたの不在を喜びそう。あの人、根っからの尽くしたがり屋だから、たぶん『アーティーの代わりに私が!』って張り切ると思う」
「……」
「私がエリカに伝えとくよ。だからあんたは猫と叔母さんに会ってきな。二日でも二週間でもいいから休んでこい」
「それじゃあお言葉に甘えて、そうさせてもらおうかな」
その後、一度コンドミニアムに戻ったシスルウッドは、家に戻ってきていた家主に数日帰郷する旨を伝えた。その時に応じた家主は“穏やかな変人ぺルモンド”で、彼は「ああ、そうか……」というまるで感情のこもっていない返事をしたあと、往復の飛行機代とタクシー代を余裕でカバーできる額をポンッと気前よく出してくれた。そしてシスルウッドはその大金を有難く頂戴することにした。
それからシスルウッドは『いつでもこの家を出られるように』と予めまとめてあった荷物を抱え、その日のうちに空港へと向かい、急遽購入したチケットでハリファックスに帰ったのだが。
「……えっ?」
ドロレスとローマンの住まう家に辿り着いたのは、日付が変わって翌日となっていた深夜のこと。そしてそれは、空港で拾ったタクシーを降りて家の扉を叩こうとしたときに起こった。
ちょうどその時、去っていったタクシーと入れ違いになるように、ドロレスが車で自宅に戻ってきたのだ。家の前で偶然鉢合わせたドロレスとシスルウッドの二人は、お互いに驚いた。
シスルウッドはこんな時間帯に帰ってきたドロレスに驚き、ドロレスはこんな時間帯に予告なしに帰郷してきたシスルウッドに驚いたのだが。ただドロレスは別のことにも驚いていたのだ。
「そう。今日の夕方、ローマンが事故に遭って搬送されたの。幸い、軽い打撲の他に怪我は無くて、明日には退院できるんだけどね。退院したらあなたに連絡しようと思ってたのに、まさか連絡するよりも前に帰ってくるなんて……――こんなこともあるのねぇ」
「……」
「なら、ちょうどいいわ。明日、一緒にローマンを迎えに行きましょう。……ずっとローマンは心配してたのよ、あなたのことを。記者に追い回されてるあなたの写真はどこでも見られるのに、あなた自身は親に連絡ひとつも寄越さないんだから」
「それについては、その……ごめん。忙しくて」
「まあいいわ。予告なしでびっくりしたけど、でもこうして帰ってきてくれたんですもの。きっとあなたの顔を見たら、ローマンは驚いてひっくり返っちゃうわね~」
しみじみとそう語るドロレスは、後部座席に載せていたポータブルケージ三つを車から降ろしていく。疲れたようにぐっすりと眠っているブチ猫パネトーネ、早くケージの外に出たくてうずうずしている黒白はちわれ猫ボンボン、うつらうつらと船を漕いでいるサビ猫オランジェットを、静かに降車させていった。
そしてドロレスの言葉を聞きながら、シスルウッドは猫たちを家の中に戻していく。パネトーネのケージ、ボンボンのケージ、オランジェットのケージをリビングルームに運んだあと、彼は再度外に居るドロレスの許に戻った。それから彼は車の傍に置いていた自分の荷物を抱えると、ドロレスが脇に抱える鞄の中でミャウミャウと鳴いている小さな生命ふたつに目を向ける。それから彼はドロレスにこんなこと訊ねた。「――それで、その猫たちは?」
「ローマンが助けた子猫たちよ。車に轢かれそうになってた子猫を助けて、彼が車に撥ね飛ばされたのよ。……本当はあんな無茶をしたローマンをぶっ飛ばしてやりたかったけど、この子猫たちを見ちゃうと、なんだか彼を責める気がみるみる失せていくというか」
まだ目もろくに見えていなさそうな二匹の子猫が、暖かそうなハンドタオルに包まれて、ドロレスの鞄の中でもぞもぞと動いていたのだ。
*
時代は進んで四二八九年のこと。カイザー・ブルーメ研究所跡地でASIが『二つの脳』を見つけてしまった日の翌日、その晩のこと。
段階的に進めていた車への荷積みを終えた心理分析官ヴィク・ザカースキーは、最低限の荷物を詰めたキャリーバッグを引いて、彼女の新たな“家”である場所に猫と共に来ていたのだが。
「あ~、もう嫌だよ。なんでオレが、玉無し卿とASIの仲介役をやらなきゃいけないわけ? あいつの顔を見ると胃がムカついて仕方ないってのに。それなのに、また会えと? ――絶対に嫌だ。嫌なんだよ。本当に、本当に嫌なんだ」
アレクサンダー・コルトから渡されていた合鍵を使って、ラドウィグが借りているアパートの一室の中に入っていた心理分析官ヴィク・ザカースキーだったが、彼女は家の中に踏み入ってすぐに聞こえてきた不機嫌そうなラドウィグの声に緊張し、固まってしまった。
「……っ!」
キッチンに立っている様子のラドウィグは、そこで何か喋っている様子だが。しかしこの家には心理分析官ヴィク・ザカースキーを除いた場合、彼しかいないはず。ということは、独り言なのだろうか? いや、独り言だとしたら声が大きすぎないか?
それに、言っていることが意味不明だ。玉無し卿? なんだ、それは一体……?!
「……えっ、あの、えぇ……」
そんなわけで、混乱し戸惑う心理分析官ヴィク・ザカースキーには、ラドウィグが独り言をブツブツと零しているように見えていたのだが。実際には異なっていた。ラドウィグには話し相手が居て、その相手もラドウィグ同様に不満そうにしている。
『しゃあねぇだろ、ウィル。お前にしかセィダルヤードが見えてないんだから。それに、そこまであの男を嫌わなくたっていいじゃないか。あいつはそんなに悪いやつじゃあなかっただろ、今も昔も。あいつは独眼の水龍 みたいな理不尽をやる男じゃなかっただろ。お前は何が不満なんだ?』
九本生えている白い尻尾をプリプリと振りながら、不機嫌なラドウィグに対する不満をそれとなく匂わせる神狐リシュは、どうしようもない愚痴を零すラドウィグをチクリと刺す。
と、そのときラドウィグの表情が消えた。外行きの『剽軽者』な顔をブチッと脱ぎ捨てたラドウィグは、素の『面倒くさがり屋』を押し出す。表情も声色も取り繕うことがイヤになったラドウィグは、内心喋ることすらダルいし面倒くさいと感じていたが、しかし相棒であるリシュから返答を求められた為に仕方なく喋ることにする。ラドウィグは無愛嬌にこう述べた。「……とにかく、あの顔を見るとムカつくんだよ。コヨーテ野郎と瓜二つだろ」
『たしかにそうだが。でもなぁ、ウィル。お前はもうガキじゃなくて、大人なんだぞ。そんなガキみたいな我儘を言っていられるような年齢じゃ――』
「分かってるさ、そんなことは……。オレの精神年齢は十五の時からまったく成長してなくてガキっぽいってことも、どうせ仲介役をやらされるってことも。そんなのハナから分かってるよ。でも、家の中で愚痴を言うぐらい許してくれたっていいだろ。外ではくだらない文句を言わないように頑張ってんだからさー……」
ラドウィグはそう言うと、冷凍食品のキッシュを電子レンジの中へと乱雑に入れる。そうしてキッシュの解凍を電子レンジに任せておくと、彼は電磁調理器の前に移った。それから電磁調理器の上に放置していた笛付きヤカンを取ると、彼はそれをコンロ脇のシンクに持っていく。注ぎ口の笛蓋を開けると、蛇口をひねって水を出し、その注ぎ口からヤカンに水を注いでいった。
十分な量の水が入ったのをヤカンの重量感から判断すると、ラドウィグは蛇口を元に戻して水を止める。そして笛蓋を閉じるとヤカンを電磁調理器に置き、電源を入れて過熱を開始した。
お湯が沸くのを待ちつつ、ラドウィグは顔を俯かせる。そんな彼の口からは、ぼとぼとと愚痴が溢れはじめた。
「一週間ぐらい休みが欲しい。はぁ~。本当はこんな冷食ばっかじゃなくて、ちゃんとした飯を食いたいよ、昔みたいにさ。前はケイのじーさんがうまい飯を作ってくれたし、ゆっくり飯を食える時間はあったから、あのクソったれな環境でも耐えられてた。でも、今はそんな時間すらない。いつも同じ鯖サンド、いつも同じ冷食。でも自分で調理する時間もない」
『…………』
「そういや、学生の頃は自分で作るのが好きだったな。エスニック料理とかさ。ココナッツミルクを使ってカレーを作ったら猛烈に腹を下したりとか、そういうのも楽しかったなー。ブータン料理とかも、食べきるのは大変だったけど、なんか懐かしい感じがして好きだったし。……そっか、ブータン料理は母さんの手料理に似てたのか。唐辛子を野菜がわりに使ってて、バカみたいに辛いあの感じが……」
好き放題に色々な料理を作っていた大学時代のことをラドウィグが思い返していたとき。神狐リシュは何かに気付き、リビングに向かっていく。
そして向かった先で神狐リシュは見慣れない一匹の猫を見つけた。
「ぅにゃにゃっ!」
丸っこい顔をした三毛猫が、リビングルームの中央に突っ立っていたのだ。そして三毛猫の鳴き声に反応したのか、ソファーの上からもう一匹の猫が降りてくる――鳥のような翼を背中に生やした、奇妙な白猫パヌイだ。
三毛猫に擦り寄った白猫パヌイは、三毛猫の顔に顔を近付け、お互いの鼻をピトッとくっつける。続いて白猫パヌイは三毛猫のお尻のニオイをスンスンと嗅ぐと、スッと離れていった。それから白猫パヌイは、新参の三毛猫に挨拶する。
『新入りさんニャ? よろしくなのニャ~』
喋りかける白猫パヌイに、三毛猫は尻尾を真っ直ぐにピンッと立ててプルプルプルッと小刻みに振るという反応を示す。それから三毛猫は白猫パヌイの脇腹にずしんと頭突きを決め、構ってアピールを始めた。どうやら三毛猫は白猫パヌイのことを気に入ったらしい。そして三毛猫のアピールに応えるように、白猫パヌイは三毛猫の頭をザリザリと舐め、毛繕いの真似事を始める。
猫と猫もどきの関係に心配はいらなさそうだ。――そう判断した神狐リシュはキッチンに引き返していく。と、そのとき神狐リシュは玄関先で立ち止まり、呆然としている心理分析官ヴィク・ザカースキーを見つけた。が、心理分析官ヴィク・ザカースキーに何かをするようなことはせず、神狐リシュはラドウィグの許へと戻っていく。そして神狐リシュはラドウィグに伝えた。
『おい。来客だぞ』
戻ってきた神狐リシュの声を聞いたラドウィグは、驚いたように目を見開いた。と同時に笛付ヤカンが音を鳴らす――湯が沸いたのだ。そして電磁調理器の電源を落としたラドウィグは神狐リシュを見やると、首を傾げてこう訊ねた。
「こんな時間に、来客……?」
時刻は夜の一〇時。一般的なライフスタイルに照らし合わせれば、大半の人は寝る支度をしている時間帯だ。他者の家を訪ねるような時間ではない。それなのに、こんな時間帯に人が来たと神狐リシュは言っている。
そんなこんな、ラドウィグはバタバタ続きの二日間のお陰で心理分析官ヴィク・ザカースキーという存在をすっかり忘れ去っていた。大嫌いな“玉無し卿”の仲介役をやれと昨日にテオ・ジョンソン部長から命令されてからずっと苛々していた彼は、自身のお目付け役との同居生活が近々始まるということを失念していたのだ。
神狐リシュに促されるまま玄関に向かったラドウィグは、そこに呆然と突っ立っている心理分析官ヴィク・ザカースキーの姿を見て、はたと彼女の存在を思い出した。
「……!!」
やっべ、部屋の掃除とか何もしてないじゃん! ――そんなことを考えだして焦るラドウィグだが、一方で心理分析官ヴィク・ザカースキーはラドウィグの足許にいるモノを見て目をひん剥く。
真っ白い体に朱色の文様、そして九本の尻尾を持つ狐。このような奇怪な生物を、心理分析官ヴィク・ザカースキーは今まで見たことが無かったのだ。
「きつね……じゃないッ?!」
「あ、あの、落ち着いて! こいつは安全だから!」
パニック状態に陥りかける心理分析官ヴィク・ザカースキーをラドウィグは宥めた。そうしてひとまずの冷静さを心理分析官ヴィク・ザカースキーが取り戻したとき、ラドウィグは彼女にこう声を掛ける。
「――とりあえず、上がって」
心理分析官ヴィク・ザカースキーは一度深呼吸をすると静かに靴を脱ぎ、家の中に上がっていく。前を歩くラドウィグについていき、彼女はリビングルームに向かった。そしてそこで心理分析官ヴィク・ザカースキーは、彼女の飼い猫である三毛猫ミケランジェロを発見する。続いて、三毛猫ミケランジェロの傍に居る奇妙な白猫パヌイを見つけ、その奇妙な姿形に再度驚いた。
が、そんな飼い主とは違って三毛猫ミケランジェロは何も気にしていない様子。かなり打ち解けた様子の猫たちは、早速なにかを話し込んでいるようだ。
「にゃーお、なーん」
『うにゃ? ベッドなら好きなのを使ってくれていいのニャ~。パヌイはルーのお腹の上でいつも寝てるから、ニャーのことは気にしないでいいのニャ~』
「ぅみゃっ」
『そうニャ~。ルーはすごくあったかいのニャ~』
「ふぬにゅぅ、ぅにゃぁん」
『飼い主さんは冷え性なのニャ? 冷たい手で撫でられるのはたしかにイヤなことだニャ~。パヌイもそれはイヤだニャ~』
人語――のように人間には聞こえる、神族種特有の特殊な話法――を扱う白猫パヌイと、己の飼い猫が親しげにニャーニャーと鳴き合う姿を見て、心理分析官ヴィク・ザカースキーは脚をガクガクと震わせる。
そんな心理分析官ヴィク・ザカースキーのほうに向いたラドウィグは、気まずそうなハニカミ笑いを浮かべた。それから鼻の頭を掻きながら、ラドウィグは先日の嘘を弁明した。
「この間は咄嗟に嘘を吐いちゃったんスけど……――この家にあるペット用のベッドを使ってるのが、あいつらなんスよね。あっちの白猫がパヌイ、こっちの狐はリシュ。俺の相棒たちッス。パヌイは猫缶と茹でたササミが好きで、リシュは牛肉の生肉しか食べない。だから冷蔵庫に入ってる牛肉は手を付けないで欲しい。あれはオレのじゃなくてリシュのご飯だから」
だが茫然自失としている様子である心理分析官ヴィク・ザカースキーがどこまでラドウィグの話を聞いているのかは定かではない。そこでラドウィグは話題を逸らすことにする。得体の知れない生物たちの話から、部屋の話に切り替えた。
「あっと、その……オレはいつもそこのソファーで寝てるから、寝室は使ってないんスよ。それに寝室のベッドはオレがこの部屋に入居したときにASIのひとが交換してくれたらしくて、新品だって、そう聞いてるッス。もし部屋が必要なら、寝室を使って、くだ、さい……」
心理分析官ヴィク・ザカースキーの表情を伺いながら、ラドウィグは辿々しくそう喋り、最後に寝室のある方向を指し示す。すると心理分析官ヴィク・ザカースキーは無言で動く。キャリーバッグを引いて歩く彼女は、今は誰も使っていない寝室へと向かっていった。
――が、彼女は途中で立ち止まる。心理分析官ヴィク・ザカースキーはラドウィグの目を見ると、こんなことを尋ねてきた。「……あ、あの。シャワーを借りても良いですか?」
「どうぞ! 廊下の突き当りを右にいったとこにあるッス。ドライヤーとかも好きに使ってください。まあ、前の住人が遺していったものなんスけど……」
ラドウィグがそう答えると心理分析官ヴィク・ザカースキーは無言で頷き、そして彼女は一度寝室に入っていく。シャワーを借りるよりも前に、まず荷解きをしているのだろう。
『ふむ……』
猫と猫もどきはとっくに打ち解け、仲良くなっている一方。飼い主同士の距離は全く縮まりそうにない。それどころか神族種なるモノを見てしまったせいで、その距離は更に開いてしまったようにも感じなくもない。
『先が思いやられるな、お前たち』
神狐リシュがそう呟くと、振り向いたラドウィグはジトーっとした目で神狐リシュを見つめる。するとラドウィグは小声でこう言った。
「……同性ならまだしも、派遣されてきたのは女性なんだよ。お互いに居心地が悪くて当然じゃないか……」
そう言うとラドウィグは顔をムスッとさせ、キッチンに戻っていく。その不満タラタラなラドウィグの背中に、神狐リシュは嫌味を飛ばした。
『ドリュー・パーカーとかいう女の件、まだ根に持ってるのか?』
しかしラドウィグは何も言い返さない。黙って電子レンジの前に立つ彼は、電子レンジの中でゆっくりと解凍されるキッシュを見ている。――神狐リシュのイヤな言葉は、確実にラドウィグの心にグサッと刺さっていた。
「…………」
黙りこくるラドウィグに、神狐リシュはつまらないと感じたのだろう。神狐リシュはお気に入りのベッドに戻っていき、そこで不貞寝を始める。
そのとき、この家のベランダに一羽のカラスが降り立つ。欄干の上に着地したカラスは、蒼白く輝く瞳で室内にいる神狐リシュをじっと見た。続けて、そのカラスは“こちら”に首を向ける。カラスはこう言った。
「……薄情で他人に興味を抱いてねェやつほど、面倒な性格の異性を惹き付けるってェのは、いつの時代でも変わってねェみてェだなァ。ケケッ!」
+ + +
時代は遡って四二二一年、十一月の下旬。ある土曜日の夜のこと。デリック・ガーランドが渋々引き継いだヴェニューの中には、久しぶりに大勢の観客が詰めかけていた。
開店早々、飛ぶように売れて行くドリンク類。その対応に追われるデリックとクロエの二人は、紙コップと酒瓶と小銭との間でアタフタと振り回されている。そんな二人の様子を、シスルウッドは少し離れた場所から見ていた。
出入り口付近に設置されていた物販エリア。そこでレコードやジャケット写真がプリントされたTシャツ、ブレナン家の三匹の看板猫たちの顔がでかでかと刺繍されたリストバンドなどを、彼はエリカやジェニファー、そしてフィルと共に売りさばいていたのだが。それもひと段落し、休憩していたとき。バーカウンターのほうからクロエの怒号が聞こえてきたのだ。
「カクテル作るにもジンが足りないじゃないのッ! あとオレンジジュースも! ったく、もう、デリック! あんたには用意周到のヨの字もないのか!!」
用意不足のデリックのせいで要らぬ手間を強いられているクロエが、バーカウンターで不満を爆発させている様子。そのクロエの横では、責められるデリックが肩を竦めさせていた。
すると気遣いの鬼エリカ・アンダーソンがすぐ動く。物販エリアからバーカウンターに移動したエリカは、怒りを爆発させる親友クロエにこう声を掛けた。「私が買ってくるわ。他に無くなりそうなものは?」
「いや、いい。俺が行ってくる。その代わりバーのほうに入ってくれ!」
しかし時刻は夜八時半。女性ひとりで出歩かせたくない時間が迫りつつある。そこで珍しく男気をサッと出すデリックはエリカにポジションを替わるように言うと、財布を持ってバーカウンターの外に出て行く。
バーカウンターを出て行ったデリックの背を見送った後、クロエは声を張り上げてアナウンスをした。
「ジン品切れにつき現在ジンベース作れません、再開まで暫くお待ちください!」
ヴェニューを出て行く途中、物販エリアの前を通りがかったデリックは、そこで一度立ち止まった。そしてシスルウッドの目を見ると、デリックはいつまでも物販エリアに立っているシスルウッドに言う。
「もうサービスはいい。アーティー、お前は裏に行って準備しろ。チューニングとか、そういうのがあるだろ?」
そう言うとデリックはヴェニューを出て行き、近所の酒屋へと大慌てで駆けて行く。そしてシスルウッドも、舞台裏へと向かうことにした。
「ジェニー、フィル、後はよろしくね」
シスルウッドは物販エリアに立っていたジェニファーと、その恋人であるフィル(この半年前からジェニファーと交際を開始した情報工学専攻の男子学生であり、彼もまたぺルモンドの友人のひとりである)に声を掛けると、その場を去ろうとする。ジェニファーとフィルの二人は、そんなシスルウッドに手を振って見送った。
……のだが。直後、ジェニファーによってシスルウッドは引き留められる。
「――アーティー、ちょい待ち!」
呼び止められたシスルウッドは足を止め、再び物販エリアに戻った。そして彼はすぐに呼び止められたわけを理解する。
ヴェニューの出入り口、そこに一人の女性が立っていたのだ。その人物を見るなり、彼は驚いて裏返った声を上げる。そこに居たのは彼の恋人、キャロライン・ロバーツだったからだ。
「キャロライン?!」
夜の遊び場というわけで気合を入れてバッチリと化粧を決め、カジュアルなジャケットやお洒落なパーティードレスなどを着こなしているイカした女性が多い中、ノーメイクにキャラクターもののTシャツとジーパンという子供じみた格好で来たキャロラインはかなり浮いていた。が、そんな空気感を気にしている様子はないキャロラインは、あくまでもシスルウッドに予告なしで来たことに照れた顔をしている。
「……来ちゃった」
少し顔を赤くして俯きがちにそう呟くキャロラインの様子は、本当にどこまでも可愛らしい。空気を読まないマイペースさも、いつも通り過ぎる服装も、予告なしで押しかけてくる突飛なところも、本当に本当に……――というのはさて措き、シスルウッドは彼女を自身のライブに敢えて誘わなかった理由を思い出す。
ロバーツ家はどちらかというと厳格な家庭だ(それ故、キャロラインは世間知らずである)。そしてキャロラインの両親は一人娘である彼女を溺愛していて、その程度といえば「娘が万が一にもいじめを受けたら堪ったもんじゃない!」と彼女を学校に通わせず、家庭教師を雇い続けていたほどだ。
特に彼女の父親は過保護だった。父親がキャロライン一人での外出を許すことも稀だったし、となれば夜間の外出は以ての外。ゆえにシスルウッドは今回のライブに彼女を誘わなかったのだ。夜間に開催されるイベントの参加を、彼女の父親が許すわけがないと彼は思っていたのだから。
しかし、キャロラインはここに居る。それが彼には理解できなかったのだ。そしてシスルウッドはキャロラインに問う。「君のお父さん、夜間の外出を許してくれてないんじゃなかったのかい?」
「そう。だけど、今晩はどうしてもってお願いして、ここまで送ってもらったの。両親は今、近くのレストランで夕食を取りながら待っててくれてるわ」
照れ笑いを浮かべながら、キャロラインはそう答える。シスルウッドは取り敢えず、その言葉を信じることにした。
が、しかし俄かには信じられない。彼女の父親は本当に厳格だ。シスルウッドが彼女を家に送り届ける時間が、門限である六時を一秒でも過ぎようものなら烈火の如く怒り、シスルウッドの胸倉を掴んで「どうして間に合わなかった!」と問い詰めてくるような人物なのに。そんなひとが、夜間の外出を許してくれるのだろうか?
けれども、恐ろしいほど素直な性格をしているキャロラインが嘘を吐いているとは思えない。それに彼女の両親は「近所のレストランで食事をしながら待っている」とのこと。
まあ、それなら十二分にあり得るか。――そう納得したシスルウッドは、キャロラインにこう言った。
「そうか。なら後で君のご両親に挨拶をしに行かないと……――そうだ。じゃあ、ライブが終わるまで僕の友人たちと待っててくれるかい?」
ライブが終わるのは凡そ三時間後。その頃には十一時を過ぎている。近所のレストランとやらがどこのことを指しているのかは分からないが、少しの距離だとしてもその時間帯に女性を一人で出歩かせるわけにはいかない。キャロラインのように、実年齢よりもはるかに幼く……――いや若く見えるタイプなら特にだ。
そして、このヴェニューの中も安全だとは限らない。酒を飲んでいる客が多い以上、何が起こるかは分からないし。それに人がこれだけ多ければ、どんな輩が忍んでいるかも分かりはしない。ごった返しの観客席の中へとキャロラインを送り込むのは憚られた。
そこでシスルウッドは傍に居たジェニファーとフィルの二人を見る。それからこう言ったのだが。
「なあ、彼女を頼めるか? 僕はちょっと、準備があるから……」
「いや、アタシらじゃなくてクロエに預けなよ。ここは危ない」
ジェニファーはぴしゃりと跳ね除け、バーカウンターにいるクロエのところに行くよう指示を出す。続けてフィルも、ジェニファーに同意するようなことを言った。
「ここは出入り口に近くて客の往来も多い。それにボクは彼女まで守れないよ。だから彼女はバーカウンターの中に入れてもらって。その方が安全だ」
「たしかに、その方が良さそうだ。……キャリー、ついてきて」
フィルの言葉に納得したシスルウッドはそう言い、キャロラインの前に手を差し出す。彼女はその手を取り、少し恥ずかしそうに笑った。そうしてシスルウッドはキャロラインの手を引き、バーカウンターの方へと向かっていく。
その二人を見送る物販エリアの二人組は、立ち去る二人組を見て別々のことを思う。
「……」
改めて見てみると、あの二人の身長差ってすごーい。頭ひとつ分ぐらい違うねー。――といったことを考えていたのは、自由人のジェニファー・ホーケン。
一方、自由人ジェニファーの相棒であるフィル・ブルックスはというと、彼はまた別のことを思っていた。そして彼は言う。「ところでアーティーは、彼女みたいな“箱入り娘”って感じの子とどこで出会ったんだろうね?」
「アーティーが信号待ちしてた時に、迷子になってたキャリーから喫茶店までの道を聞かれたのが始まりだって聞いたよ。その時にアーティーが彼女に一目惚れして、そんで道案内がてらに猛アタックをして、ついでに一緒にお茶までしちゃって、んで連絡先を聞き出したんだって」
「へぇ、そうだったんだ。彼が一目惚れかぁ……」
「ほらー、アーティーもある意味“箱入り息子”だから、なんかビビッと来るもんがあったんじゃないの~? まっ、知らんけどー」
「いや、彼の場合は箱入りじゃなくて軟禁だろ……」
……しかしアルコールの入った客たちがガヤガヤと騒ぎだしたうるさいヴェニューの中では、ジェニファーらの会話などシスルウッドらに聞こえているはずもなく。噂をされているとは知らないシスルウッドとキャロラインの二人は、クロエらの居るバーカウンターに来ていた。
「クロエ!」
シスルウッドがクロエにそう声を掛けると、作業の手を止めクロエはパッと彼のほうに向く。そして彼女はシスルウッドの隣に立つキャロラインの姿を見ると、すぐにシスルウッドの要望を理解したようだ。機転の利くクロエはキャロラインに手招きをして「こっちに来て」と促すと、こう言った。
「おっ! ちょうどいいタイミング。キャリー、手伝って。あんたはジュース担当ね。やり方はエリカに教わって。私はお客さんの相手しないとだから!」
クロエの言葉を聞いたエリカはカウンターの扉を開け、キャロラインを招き入れる。そうしてキャロラインがカウンターの中へと入ったところで、エリカがシスルウッドに言った。
「あなたは早く行ってきて。もう時間が無いわ!」
シスルウッドはバーカウンターの中に居る女性三人に手を振ると、舞台裏の方へと駆けて行く。バーカウンター脇の裏部屋に通じる扉を開け、裏部屋の廊下を走り、ライブに登壇してくれるメンバーの集まっている楽屋へと向かった。
楽屋の扉の前に立つシスルウッドは、扉に付けられたすりガラス越しに中を覗き見る。手持ち無沙汰にギターを爪弾いている者、ドラムスティックを持ちエアドラムを披露する者、トランプを片手に賭けに興じている者などが楽屋の中に居た。――総じて言えることは『待ちくたびれている』ということだろう。
表で客の対応をしている者たちも、裏でカリカリとしている演奏者たちも、皆デリックの借金苦を救うために協力してくれた者たちだ。シスルウッドもだが、今日ここに揃っている全員はデリックのためにタダ働きを甘んじて受け入れている。そんな中で更に待たされているのだから……――楽屋に居る彼らは不機嫌に違いない。
さぁて、このピリピリカリカリしているバンドマンたちを宥めるために、どんな言葉を掛けるべきだろう? ――扉を開けて楽屋に入る前に、シスルウッドがそんなことを考え始めたときだ。彼の腕を、誰かが掴んだ。「――ッ?!」
「久しぶりね、アーティー」
驚いたシスルウッドが振り返り、掴まれた腕を振りほどいた時。彼は目の前に立つ人物を見て、表情を険しくさせる。
そこに居たのは、体のラインを過度に強調するような、挑発的な黒いパーティードレスを着た黒髪の女。ハイスクール時代には同級生だったこともある人物、スーザン・ノースだった。
「あれから考えは変わった?」
不自然なほどにこやかに笑いかけてくる彼女は、シスルウッドにそう問う。だが笑い返すどころか眉間に皴を寄せて行く彼は、その質問に答えない。代わりに彼は威圧感を伴う声で突き放すように言った。
「……失せろ」
スーザンが言った「あれから」という言葉の意味。勿論、シスルウッドは分かっている。
あれは二週間前の出来事。キャロラインと博物館の特別展示を楽しんだあと、彼女を家に送り届けたその帰り道。ぺルモンドから借りた車を、コンドミニアムの駐車場に停めた直後のことだ。車の鍵を閉め、居候先に帰ろうとした矢先、シスルウッドの進路を妨害するようにスーザンが現れた。そして彼女はシスルウッドにこう言ってきたのだ。
『あの子は美人じゃないわ。それに品も無い。子供じみた服を着ているし、世間知らずの箱入り娘。あなたみたいな賢い人には不釣り合いじゃない? でも、私なら――』
シスルウッドはスーザンを無視して帰っていった。彼女の言葉を最後まで聞くこともせず、エントランスへと向かうエレベーターに乗り込んだ。なぜならスーザンがあのようにしてシスルウッドの前に現れたのが、その時が初めてではなかったからだ。
ザックと縁を切ったあの日から、なぜか急にスーザンが彼の目の前に現れるようになった。そして彼女はしつこく迫ってくる。キャロラインではなく自分を恋人に選べと。だが、シスルウッドが応じることは無かった。ビックリ箱のように予測不能なキャロラインと違い、スーザンという人物は凡庸で退屈でつまらない人間だったからだ。
そしてスーザンを睨み付けるシスルウッドは、何度突き放されても懲りない彼女を脅すようにこんな台詞を言う。
「僕は以前の僕ではない。世間体など気にしない、容赦もしない。その時が来れば、君に相応の報いを与える。それが嫌だというなら、二度と僕の人生に関わってくれるな。僕の周囲にいる人々の人生にもだ」
付き纏われる苛立ちと怒りから、そのときのシスルウッドはいつもより声量が大きくなっていた。そして彼の声は楽屋の中に居たバンドマンたちにも聞こえていたようだ。そんなわけで彼の声を聞いたドラマーの男が、楽屋の扉を開けて廊下へと出てくる。
「ウッドチャック、お前は油を売りすぎだ! 今日の主役はお前なんだぞ、そこを分かって――」
ドラマーの男がシスルウッドにそんな文句を言った時だ。まるでそのタイミングを狙っていたかのように、スーザンがわんわんと声を上げて泣き始めた。
悲劇のヒロインを気取るスーザンに圧されて、文句を言っていたドラマーの男は口を噤む。そしてドラマーの男は同情的な表情を浮かべた。――が、彼の視線はシスルウッドを向いていた。続いてドラマーの男はシスルウッドの肩をポンポンッと軽く叩くと、意味深な微笑を浮かべて楽屋の中へと戻っていく。彼は楽屋で待機していた他のバンドマンたちに、舞台に上がるよう指示を出した。
「お前ら、行くぞ」
その声を聞いたバンドマンたちは次々と立ち上がり、己の楽器を抱えて舞台の方へぞろぞろと向かっていく。そしてシスルウッドは彼らに頭を下げた。
「すみません! 皆さんは先に行っててください、すぐ準備しますので!」
彼らと入れ違うように楽屋に入ったシスルウッドは、楽屋の隅に置いていたハードケースを取る。ケースの中を開け、そこに自分の相棒であるボロの安物なフィドルが入っているのを確認すると、再びハードケースを閉めた。そしてハードケースを抱え、楽屋の外に出る。
楽屋の前にはまだ泣いているスーザンが立っていた。そのスーザンの前で一度立ち止まるシスルウッドは、わざとらしく重たい溜息を零した。それから彼は嫌味ったらしく言う。
「泣こうが喚こうが僕には通用しない。分かったなら帰れ、ザックの許へ」
メンヘラ製造機。――その言葉にザックが納得してしまった理由はコレだった。ザックの恋人であり、後に妻となるスーザンは、最期までシスルウッドに執着していたのだ。
そもそも彼女がザックと付き合いだした理由も『ザックの傍に居れば、ザックの親友であるシスルウッドに会えるから』という身勝手なもの。真剣な態度で交際に臨んでいたザックとは反対に、彼女は“ザック”に興味すら抱いていなかったのだ。
だからこそザックはシスルウッドを突き放した。それは彼がシスルウッドという存在そのものに脅威を感じたからであり、友人よりも恋人を選んだからだったのだが。その結果、ザックが選んだ恋人は機会を待つのを止めて能動的に動くようになり、ザックが捨てた友人にストーキングまがいの行為を仕掛けるようになった。
「どうしてなの、アーティー! どうして私じゃなく、あんな幼稚な女を選ぶのよ?!」
ヒステリックに泣き喚くスーザンに冷たい無視を決め込むシスルウッドは、とにかく気分が悪かった。嫌な女に付き纏われることも、とにかく可愛いと感じている恋人をひどい言葉で罵られることも、不愉快で堪らなかった。だが、怒りに任せて罵声を放ち、面倒なトラブルを起こして友人たちに迷惑を掛けるわけにはいかない。この不満を堪えるしかなかったのだ。
+ + +
あれはライブの六か月前のこと。春が終わりを見せ、夏がにじり寄りつつあった五月の中旬。シスルウッド及び友人たち――デリック、ペルモンド、エリカ、ジェニファー、フィルの六人――は、デリックが父親から継がざるを得なかった施設のひとつ、ヴェニューに併設されたレコーディングスタジオに集まっていた。
一階のエントランスでは、収録に集まった演奏者たちがコーヒーを片手に和気あいあいとコミュニケーションを取っている。が、収録スタジオのある二階には少し重たい雰囲気が漂っていた。
そして現在の店主であるデリックは椅子に深く腰を据えると、肩を落として頭を抱える。そんなデリックの左頬には、拳の形をした青あざが出来ていた――懲りずにまた浮気なる行為を仕出かした彼は、先日クロエに顔をぶん殴られたのだ。だがデリックが落ち込んでいる理由は別である。
いざ収録を始めようとした矢先、トラブルが発生したのだ。使おうとした矢先にギターアンプは突然沈黙し、ドラム用マイクセットは全く音を拾ってくれなかった。そんなわけで現在、デリック御用達の便利屋ペルモンド・バルロッツィが孤独に修理を行っているところなのだ。
そして髪を掻き乱すデリックは再度溜息を零し、それからこう言った。
「レコーディング前に機材が壊れるとはなぁ。……バッツィを呼んどいてよかったぜ」
そんなわけでシスルウッドは四か月という短期間で十二曲を書き上げた。先に宣言した通り、歌唱つきの曲は難解なパズルのような歌詞になっているし。曲調はトラッドのようにシンプルな構成になっている。シスルウッド自身が思う“自分らしさ”というものは前面に出せただろう。
完成した楽譜は、レコーディングの一か月前に参加してくれる演奏者たちに事前に郵送。そうして迎えたレコーディングがこの日だったのだが――このザマである。
シスルウッドらは、ミキサーといったPA機材やシンセサイザー類が乱雑に置かれたコントロールルームで待機していた。彼らは壁面に設置されたモニターから、隣のスタジオルームの様子を眺めている。
スタジオルームの床には、胡坐を組んでいるペルモンドの姿だけがあった。外部の音を遮断するヘッドフォンのようなもの――空軍で使用されるレベルのノイズキャンセリング機能のみを搭載した、音楽を聴く機能が一切ない高性能なイヤーマフ。エリカが彼のためにわざわざ探し、取り寄せたものである――を装着した彼は、しかめっ面をして機材たちと向き合っている。随分と使い込まれた工具箱をガチャガチャと漁り、機材の中をイジり、むぅ……と眉を顰めているペルモンドは、まあ彼なりに何か難しいことを考えているようだ。あれは邪魔しない方が良さそうな雰囲気である。
「まあ、修理はバッツィに任せておくとして……」
そう言うとスクッと立ち上がるデリックは、シスルウッドを見やる。シスルウッドは、コントロールルームの隅に置かれていた新品のシンセサイザーのパラメータをガチャガチャと操作し、音を鳴らしては首を傾げるという作業をかれこれ二〇分ほど続けていた。
ゴゴゴゴ……という風切り音に似た音色と共に、遅れて鳴るヒュロロロロ……というアルペジエーターの音。――これはシスルウッドが、デリックとペルモンドの二人に今回のレコーディングのために開発を頼んでいたシンセサイザーだ。別々のシンセサイザーで同時に鳴らすのではなく、一つの鍵盤で複数の音色を同時に奏でるものが欲しいと、そうシスルウッドは二人にオーダーしていたのだ。
そんなシンセサイザーで遊んで……いや、音作りをしていたシスルウッドは、デリックから送られていた視線に気付いて振り返る。そうしてデリックと彼の目が合ったとき、デリックはシスルウッドにこう言ってきた。
「お前の叔母さんの人脈すげぇな。お前が振ってきた無理難題を全部解決してくれたし。それに、シヴ・ストールバリを引っ張り出してくるなんて、信じられなかったぜ」
シスルウッドが出した無理難題。それは“楽器”の指定だった。
デリックは一般的なロックミュージックの楽器しか知らない。そのテの楽器奏者しか知り合いにいない。が、シスルウッドが出してきた『レコーディングにこの楽器をどうしても使いたいから、その演奏者を集めてくれ』というリストには、デリックの身近にはない、またはデリックも知らない楽器の名前ばかりが連なっていた。
『ティン・ホイッスル、フルート、コンサーティーナ。これは絶対に欲しい』
それくらいメジャーな楽器なら、ボストン市内を探せば演奏者はいくらでもいるだろう。
『バウロン、ブズーキ、ハープ。あっ、ハープはハープでも、アイリッシュハープだ。あの音階が欲しい』
ま、まあ、頑張って探せば見つかるかもしれない……が、デリックの知り合いには居ない……。
『あと、ハイランドバグパイプも希望したい』
そんな得物を扱う者など、デリックはその目で見たことが無い。
『ニッケルハルパも、いてくれたら嬉しいなぁ~』
そんなブツの名前、デリックは聞いたこともない!
――と、まあそんな感じで、シスルウッドの吹っ掛けてきたオーダーはデリックには『無理難題』だと思えたのだが、けれどもシスルウッドは十分に達成可能な目標だと考えていた。デリックではなく、ドロレスとローマンに頼めばなんとかなると踏んでいたのだ。
そして実際にドロレスらは知り合いを辿って、シスルウッドが求めていた人を見つけてくれた。ヘンテコな楽器の持ち主であり、且つ見知らぬ誰かの借金返済を助けるために無償で手を貸してくれる人徳者ないし物好きを、ボストンに集めてくれたのだ。
「殆どの奏者は叔母の家のご近所さんだよ。まさか車椅子のキリアンじーさんまで連れてくるとは思ってもいなかったけど……」
そう言うとシスルウッドは一階に集まっているメンツを思い出し、苦笑う。ヴェニューに集うバンドマンの中でも『クロエのイチオシ!』だという者たちと、ドロレスとローマンの二人。そしてシスルウッドを幼い頃に可愛がってくれていた近隣住民。それは何とも言えない不思議な光景だった。
あと一階には田舎街ハリファックスの住人の他にも興味深い人物が居た――シヴ・ストールバリと、その仕事仲間だというバクパイプ奏者だ。
「あとシヴと叔母は友人らしくて。シヴがニッケルハルパとアイリッシュハープを使うってのは知ってたから、ダメもとでお願いしたんだ。……しかし流石の僕も、無償で参加してくれるハイランドバグパイプ奏者が見つかるとは思いもしなかったよ。人の繋がりってやつに感謝しかないね」
シンセサイザーに視線を戻したシスルウッドは、パラメータのツマミを捻って調整しながらそう言う。それから彼は再び、シンセサイザーの鍵盤を適当にひとつ長押しした。
ゴゴゴゴ……という風切り音に似た音色は、透明感溢れる残響を纏って発せられていく。遅れて鳴るヒュロロロロ……というアルペジエーターの音には僅かな震えが加えられ、音色の輪郭は重なり、厚みが作られていった。
納得できる音がやっと完成し、満足したシスルウッドはシンセサイザーから離れる。そうしてシスルウッドがふと微笑んだとき、それまで大人しく黙りこくっていたジェニファーがニヤッと笑った。笑顔のジェニファーはシスルウッドを凝視すると、こう言う。
「それにしてもさぁ。アーティーって叔父さんにソックリだね。雰囲気とか所作とか笑い方とか。禿げデブの実の父親よりも、猫狂いの叔父さんのほうに似てるよー」
「意外ではないかな。少なくとも幼少期の僕にとって、彼こそが父親だったから」
ジェニファーの問いかけに、なんてことないかのような顔でシスルウッドは答える。友人たちもその答えを聞き、最初こそは「へぇー……」と聞き流していたが。しかし数秒遅れてから友人たちの顔は引き攣り、驚きに満ちた表情に変化した。今さりげなく凄いことを言っていなかったか、と。
友人たちの表情変化に気付いたシスルウッドは浮かべていた微笑を消し、僅かに顔を俯かせる。それからシスルウッドは抑揚のない声で、簡潔にこれだけを言った。
「本来は叔父と叔母である二人のことを、幼少期の僕は両親だと思っていた。そして僕は彼らの許に引き取られた養子だと。けれども現実は違い、実の父親はアレで、僕は叔母たちの許に一時的に預けられていただけだった。それである時に実の父親がやってきて、僕は元の家に連れ戻されて……――そういう感じ」
そう言い終えたとき、シスルウッドはかなり同情的な視線が自身に向けられたことに気付く。実の父親が“アレ”ということ以上にワケありなシスルウッドの背景を、マトモな世界で育った友人らは笑い飛ばすことができなかったようだ。
となれば、自分で笑うしかない。
「そんな暗い顔しないでよ。全て過去のこと、終わった話なんだから」
シスルウッドが和やかな作り笑顔を浮かべながら穏やかな声でそう言えば、白けた視線は彼から逸れていく。あのモラルが欠片も無い自由人ジェニファーすらも気まずそうな顔をしていて、シスルウッドから目を逸らしていた。
しかし、ただ一人だけ真っ直ぐとシスルウッドの目を見ていた人物が居た。それはシスルウッドが書いた楽譜のひとつを膝に乗せているフィル・ブルックスだ。そしてフィルは作り笑顔のシスルウッドに向けて、薄気味悪さほど覚えるほど真っ直ぐな目を向けている。そんなフィルは、本音と嘘を交互に繰り出すシスルウッドにこんなことを言ってきた。
「ボクは楽譜が読めないから、これがどういう感じの曲になるのかがまだ予想も出来ないんだけど。でも歌詞を見れば分かる。――笑ってる割には何も振り切れてないよね」
フィルの膝の上には、アルバムのケツに入れる予定の楽曲『薊と茨』の楽譜が載せられている。その楽譜には、メロディーラインと歌詞、それとコード譜が一枚にドンッとまとめられていた。フィルは多分、その歌詞の部分だけを読んでいたのだろう。そしてその曲の詞はシスルウッドが最も好き放題に書いたものであり、突っ込まれると困る点がチラホラとあるものだ。
「さすが、抽象画家の目は怖い。君といい、ジェニーといい、いつも痛いとこ突いてくるなぁ……」
シスルウッドはフィルを少しからかうような調子で言う。それは「これ以上、そのことを聞いてほしくない」という一種の牽制であったのだが、しかしフィルにその手は通じなかった。
「最後の曲、薊と茨。これらが指しているものが何なのかが気になるんだ。薊 は、君の怒りのことなのは分かる。でも、茨 は何?」
ペインティングナイフのように程よい鋭さと程よい柔軟性を併せ持つフィルの声は、レイピアのように細く鋭いシスルウッドの牽制をスルッと躱す。刃を交わして護拳をすり抜け、フィルの声はシスルウッドの刺々しい心に直前まで迫る。が、最後にはシスルウッドの強引さないし頑固さが勝った。シスルウッドはこう語り、フィルの口を塞いだのだ。
「それは僕だけが把握していればいいことだよ。悪いけど、誰にも教えるつもりはない」
シスルウッドはピシャリと冷たく跳ね除けるという強硬手段に出る。言葉の最後に薄気味悪いほど和やかな作り笑顔を浮かべてみれば、フィルは息を呑んで黙り込む。フィルがそれ以上の追及をしてくることは無かった。
気まずい雰囲気が換気されるよりも前に立ち込めた居心地の悪い空気に、場にいた一同の気分は最悪なものとなる。下の階からは楽しそうに談笑する笑い声が聞こえてきているというのに……。
そんな気分が悪い空間に、気遣いの鬼であるエリカが反応し、アクションを起こす。コントロールルームの中央に設置されていた机、その上に乱雑に置かれていた楽譜のうちの一枚を手に取ったエリカは、冷たい笑みを浮かべるシスルウッドにこう言った。
「この楽譜は……――ああ、一番最初の曲ね。私、これはすごく好きよ。薄明の中へ、って曲。情景描写が素晴らしいわ。清々しい朝の空気がありありと思い起こせる、美しい詞だと思う。……でも、この副題は何? Dのために、ってあるけど」
楽譜の一番上、タイトルの部分を指でなぞるエリカはシスルウッドにそんなことを訊ねてくる。そしてシスルウッドは笑顔を消して真顔になると、部屋の隅で居心地悪そうに腕を組んでいるデリックを指差す。それから彼はこう言った。
「デリックの借金返済のために、って意味」
その直後、ブフッ、と噴き出したのはジェニファーだった。次にジェニファーが腹を抱えて笑い出すと、その笑いは連鎖していく。フィルは口を手で覆い隠すとクスクスと笑い始め、エリカも、そしてシスルウッドも笑い声をあげた。
そして名指しされたデリックは恥ずかしさから顔を赤くし、コントロールルームから逃げて行く。ペルモンドの居る隣部屋に逃げ込んだデリックは、妙に上ずった声でペルモンドに声を掛けた。
「バッツィ! 俺にもなんか手伝わせてくれ! 何をすればいい!?」
とはいえ、シスルウッドが言ったのは嘘だった。Dという文字に込められた意味は“デリックの借金返済のために”ではない。それはいつか抱いた願望を込めた呪いの言葉だった。
For the Dawn.
足にずっと絡みついていた蔦や茨の全てを焼き払って滅ぼしてくれるような天変地異が起きて、新しい世界の曙光 がやってくる。そんな未来を望んでいる曲だ。歌詞も、エリカが言うような美しいものではない。情景描写は単なる比喩で、それが主題ではないのだ。
――一体、誰が気付けるというのだろう? シスルウッドがパズルの奥に隠した、その答えに。
「…………」
コントロールルームの壁に取り付けられたモニターには、隣部屋でデリックがぺルモンドに怒鳴られている様子が映し出される。
作業の邪魔だ、出て行ってくれ。ペルモンドは、そんなことを言っているようだ。だがコントロールルームに戻りたくないデリックは食い下がり、とにかく何かを手伝わせてくれと必死に訴えている。
「ペイルも意固地ねぇ。手は多い方が仕事も早く終わると思うのに……」
遂にデリックを無視し始めたペルモンドの様子をモニター越しに見つめながら、エリカはそんなことを呟く。シスルウッドもそれを見て、ケタケタと笑っていた。
だが笑うシスルウッドに意味深な視線を向ける二人組がいる。ジェニファーとフィルの二人組は、シスルウッドが隠し持つ“答え”にとっくに気付いていたのだ。
「ねぇ、アー……」
ジェニファーが笑うシスルウッドにそう声を掛けようとしてきた時。階段を駆け上ってくる足音が聞こえてくる。その後、コントロールルームの扉がノックされ、人が入ってきた。
「ねぇ、ウディ。サウンドの統括責任者に会いたいって人たちが来てるわ。黒髪の女の子と、あと小太りの男の人なんだけど……」
コントロールルームに入ってきたのは、シスルウッドの叔母であるドロレス。そして彼女が発したセリフにシスルウッドは頭を抱えて溜息を吐く。それから彼はこう言って、コントロールルームを出て行った。
「スーザンだろうね。ザックも連れてきたのかな。……はぁ~。追い払ってくる」
苛立ちと共に去っていったシスルウッドの様子を、首を捻りながらドロレスは見送る。そうして不思議がるドロレスに、ジェニファーは事の真相を教えるのだった。
「たぶんその女の子、彼をストーキングしてるスーザンだと思う。あいつに片思い募らせちゃってるみたいなの、彼女。……変人好きのアーティーが、平凡で面白くない子に振り向くわけがないのに。可哀想な子だよ」
しかし、シスルウッドやジェニファーらの予想は外れていた。来襲してきたのはスーザンよりも歓迎されざる者、かつてシスルウッドをボロカスに貶してきたヴァイオリニストのロワン・マクファーデン。そしてドロレスの言っていた『黒髪の女性』というのはスーザンでなくロワンの恋人、リズ・パークという名の全く違う女性だった。
押しかけてきたヴァイオリニストのロワンは「デリックのスタジオで収録がある。それもシヴ・ストールバリが来ているらしい」と聞きつけ、恋人を侍らせ自分を売り込みに来た、というわけなのだが。サウンドの統括責任者、として出てきたのが因縁の相手であるシスルウッドだったことに彼は激高。また応戦するようにシスルウッドも激怒する始末。見るに堪えない罵り合戦がすぐに開幕したのは言うまでもない。
そのうち喧嘩のにおいを嗅ぎつけた野次馬が内から外からと集まり始め、ヴァイオリニストとフィドラーの争いもヒートアップ。仲裁に入ったドロレスとローマンの二人も、しかし甥が「(ドロレス曰く)客観性も思いやりもカケラも持ち合わせていない、自己中心的で視野の狭いロクでなしな金持ちのボンボン」から不当に差別されているのを見るやいなや参戦の立場に転じてしまい……――警察が駆けつけるまでの騒ぎに発展していった。
その日は結局、騒動も相まってレコーディングなどできはしなかった。また表で起きた喧嘩のことなど全く知らず、ただ作業に集中していたペルモンドが機材の修理を終えたのも、日付を跨いだ深夜一時のこと。エリカとデリックの二人も修理に協力した為、これでも早く終わったほうだった。
+ + +
更に時間は遡って、ライブの約十一か月前のこと。四二二一年、一月の初旬のある朝。年明けをハリファックスで過ごしていたシスルウッドは、ブレナン家のキッチンに立っていた。彼は哺乳瓶を消毒するために、大きめの鉄鍋ふたつに水を溜めていたのだ。そして彼の足許では、サビ猫オランジェットがソワソワと落ち着かない様子で歩き回っている。つい一〇日前にやってきた子猫たち二匹に、まだサビ猫オランジェットは慣れていないようだ。
サビ猫オランジェットの尻尾を踏まないよう気を配るシスルウッドもまた、ソワソワと慌ただしく動き回っていた。そしてキッチン台の上には粉ミルクが二つ並べられている――子猫用と人間用の二種類が揃っている。
そしてリビングルームのほうからは親たちの裏返った声が聞こえてきていた。またリビングルームに設置されている二脚のソファーは、彼らによって占領されていた。
「あぁ~、ビャーハちゃん、いい子でちゅね~。じょうずに飲めてまちゅよぉ~」
赤ちゃん言葉と高い声でそう言っていたのは、ビャーハと名付けられた白い毛並みの子猫に授乳中の叔父ローマン。そんな彼の隣には、もう一匹の子猫(全体的に白っぽいが、しかし尻尾の先だけ茶トラ模様の入った子猫で、イシュケと名付けられた)に授乳中である叔母ドロレスの姿があったが……ドロレスのほうは集中しているのか終始無言だった。
そんなドロレスとローマンの二人は、赤いソファーの方に座っている。そしてもう一脚の青いソファーのほうにはベックの姿があった。
「あぁ~、もう、なんでなのぉ~……どうして飲んでくれないのよぉ~……」
シスルウッドが三年ほど帰郷していなかった間に、ベックの身には大きな変化が起きていたらしい。端的に言うと、ベックは結婚した上にママになっていたのだ。
コンビニエンスストアで働きながら、ハリファックスで生活する中で見つけた趣味“写真撮影”を楽しむようになったベックは、休日になると近所を散策し、カメラに収めるというような日々を二年前から送っていたらしい。空の移り変わりや野に生えている草花、川のほとりに溜まっていたゴミなど、幅広く色々と撮っていたそうだ。そんな撮影活動の中で現在の夫、ウィリアム・ツァイと出会ったのだという。
ウィリアムという人物はベックとシスルウッドよりも一つ上の男性で、ハリファックスにある総合大学に通っている学生とのこと。彼とベックは一年半ほどの交際を経て、半年前に結婚。まあ、いわゆる『ショットガン婚』である。できちゃった、というわけでウィリアムが責任を取ったというカタチだ。
ベックが出産したのは先月のこと。そして妊娠中から産後暫くの間、ベックはブレナン家に身を寄せていた。ベックに『頼れる家族』というのが居なかったことと、パートナーであるウィリアムに彼女の面倒は看られそうもなかったことが、ブレナン家に身を寄せた理由となっている。
この頃のウィリアムは、なんたら銀行から内定を受けていてインターンで忙しかったうえに、卒論の執筆もあって暇や余裕が無かった。勿論、彼にとってベックもその子供も大切な存在ではあったのだが、しかし将来が懸かった大事な時期でプライベートを優先するわけにもいかず。決断を下せずにあわあわとしていたウィリアムに、遂にドロレスとローマンの二人が激怒。というわけでブレナン夫妻がベックを預かったのだ。
もともとベックのことを娘のように可愛がっていた二人は、セレニティと名付けられたベックの娘のことも孫のように可愛がっている。まあ、つまり、シスルウッドの代わりにベックが親孝行をしてくれてい――
「こっちの息子は親不孝で困っちゃうわ~。全然家に帰ってきてくれないし~、孫の顔は当分見られそうもないし~。結婚もいつになるんだかねぇ~。素直な良い子をせっかく捕まえたのに、逃げられても知らないわよ~」
シスルウッドが水の溜まった鉄鍋をガスコンロの上に移していたとき。猫用の哺乳瓶を持った叔母ドロレスがキッチンにやってくる。空っぽの哺乳瓶を両手に持ったドロレスはシスルウッドの背後に来ると、背後からシスルウッドの前へと両手を回してきた。それからドロレスは、まだ温い哺乳瓶をシスルウッドの顔に押し付けてくる。
左右から哺乳瓶で顔を挟み込むように、ぐりぐり……。そしてサビ猫オランジェットも、シスルウッドの足許にズリズリズリ……と纏わり付いてくる。
「そーいうことを言うと、ますます親不孝な息子になっていくよー。次は一〇年ぐらい帰ってこないかもしれなーい」
シスルウッドはそう言うと、ドロレスから子猫用哺乳瓶ふたつを受け取り、それをシンクの空いているスペースに置いた。続いて彼は子猫用哺乳瓶専用のスポンジと哺乳瓶用の洗剤を手に取る。そして彼は子猫用哺乳瓶をぼちぼち丁寧に洗っていった。
帰郷してからずっと哺乳瓶洗浄係を任されているシスルウッドの手付きは、もう慣れたものとなっている。あーだこーだと口出しをしなくても大丈夫になってきたシスルウッドにホッと胸を撫でおろすドロレスは、甘えん坊のサビ猫オランジェットをシスルウッドの脹脛から引き剥がすように抱き上げた。ドロレスに抱き上げられたサビ猫オランジェットは「ぅにゃーん!」と朝ごはんを催促する鳴き声を上げる。
ドロレスは一度サビ猫オランジェットを床に下ろし、キッチンの戸棚をガサゴソと漁って猫のドライフードが入った袋を取り出した。すると、ドロレスが動かした袋の音を聞いて、他の猫たちも次々とキッチンにやってくる。
尻尾をピンッと立てて軽快な足取りと共に駆けてきた黒白はちわれ猫ボンボン、のそのそとゆったりしたペースで歩いてきたのはブチ猫パネトーネ。そうしてブレナン家の看板猫三匹が揃ったところで、ドロレスは三匹分のエサ皿を出し、キッチンの床にそれを置いた。続けてドロレスはエサ皿の中に均等な量のドライフードを入れていく。
陶器のエサ皿にドライフードが注がれ、からんからん……と冷たい音が鳴る。その音を聞きながら、シスルウッドは太めの綿棒を使ってニプルの内側をぐりぐりと洗っていく。そうしてひとまず洗い終えたとき、シスルウッドはドロレスに一応確認をした。「ガラス瓶は布巾に包んでから鍋に入れるんだよね?」
「そうよ。布巾でくるんだガラス瓶を先に入れて湯を沸かし、鍋に蓋をする。水が沸騰した三分後にキャップとニプルを入れてまた蓋をして、更にそこから二分半煮る。終わったらお湯だけを抜いて、鍋に蓋をして中身は放置しておいてね。その後は私がやるから」
その後シスルウッドは、ドロレスの指示通りに仕事を終えた。猫用哺乳瓶の煮沸消毒は終わり、次は人間用の哺乳瓶が空くのを彼は待っていたのだが、しかし一向にそれが来ない。どうして、と繰り返し問うている切羽詰まったようなベックの声と、嫌がるような赤ん坊の泣き声だけがリビングから聞こえてきていた。
「……?」
次の哺乳瓶を待ちながら、シスルウッドは朝食を作っていく。
薄切りにしたジャガイモ、適当に小さくちぎったベーコン、サッと茹でて小さくちぎったブロッコリー、一口大に切り分けたチンゲン菜、それと豚ひき肉を大きめのフライパンにガサッと載せて、それらをオリーブオイルでチャチャッと炒める。そこにたまご四つ分の卵液をぶち込み、ゴロゴロと具が入ったオムレツを作った。
続いて冷蔵庫から取り出したグリーンリーフを一口大にちぎってボウルに放り込み、スライスしたラディッシュもボウルに入れる。そしてグリーンリーフとラディッシュに「うぉりゃー!」と大胆にマヨネーズをぶちまけ、適当にガサガサッと和えた。そうすればサラダっぽい何かの出来上がりである。
そうして完成した朝飯をシスルウッドは四人分に取り分けていたとき。猫用哺乳瓶の片づけを終えたドロレスが、やや慌てた様子でリビングルームに向かっていく。ドロレスの背を横目で追うシスルウッドは、その先にあったものを見て少しの驚きを得た。――あのベックが泣いていたのだ。
「そんなカリカリしなくても大丈夫。最悪、どうしようもないほどお腹が減ったときには飲むから。飲まないなら、今はいらないってことだ。この子のペースに合わせるしかないよ。だから君は先にご飯を食べてきたらどうだい」
ゆったりとした調子でそう語るのは、ガーゼで子猫のお尻をポンポンッと叩いて排泄を促している最中のローマン。そのローマンの隣に食事を終えた黒白はちわれ猫ボンボンが駆け寄り、空いているソファーを陣取る。そしてローマンは、食事後の排泄を終えた子猫たちを黒白はちわれ猫ボンボンのお腹に並べていった。すると黒白はちわれ猫ボンボンは子猫たちの頭をペロペロと舐め、毛繕いをしていく。新入り子猫の世話役を、今回はボンボンが担っているようだ。
子猫を一旦ボンボンに預けたローマンはソファーから立ち上がると、子猫用の保温ボックスを取りに猫部屋のある二階へ上がっていく。
一方、赤ん坊を腕に抱えて泣き始めたベックの傍には、人好きのサビ猫オランジェットが駆けつけた。サビ猫オランジェットはベックの腕にズリズリと頭を擦り付けると、泣きじゃくる赤ん坊の顔を覗き込む。そしてサビ猫オランジェットが赤ん坊に近付こうとした――が、そこに来たドロレスによってオランジェットは捕らえられた。
ドロレスはサビ猫オランジェットを抱き上げると、黒白はちわれ猫ボンボンが居座るほうのソファーの座面に下ろす。続いてドロレスはベックの手から哺乳瓶を取り上げ、それをテーブルの上に置いた。それからドロレスは赤ん坊もベックから取り上げると、キッチンを見やりながらこう言った。
「ベック。あなた、眠れてないんでしょう? セレニティは私たちが預かっておくから、あなたはご飯を食べて、寝てきなさい。――ウディ、ベックの分だけこっちに持ってきてくれる~?」
シスルウッドは一人分の朝食とガラスコップひとつ、それとカトラリー類をプレートに載せ、リビングルームに運んでいく。ベックの座るソファーの前にプレートを置くと、シスルウッドはオレンジジュースを取りに一度キッチンに戻った。
オレンジジュースの入ったガラス瓶――久しぶりに見る“ボトル”だ――を冷蔵庫から出すと、シスルウッドはそれを持ってリビングルームに行き、ベックの前に置かれていたガラスコップにオレンジジュースを注いでいく。そうしてコップに程々の量が溜まったところで、シスルウッドは再びキッチンに戻って、オレンジジュースのボトルを元あった場所に返した。
次にシスルウッドが向かうのはキッチン棚。ドロレスもローマンも、朝にはコーヒーを飲む。そのためコーヒー豆と豆を挽くミルが入っている戸棚を彼は開けようとしたのだが、そのとき再びドロレスからの呼び出しが掛かった。
「ウディ! 哺乳瓶を洗ってちょうだーい。取りに来て~」
「はい、今すぐに!」
手を掛けた戸棚からスッと離れ、シスルウッドはまたリビングルームに向かう。そうして机の上に置かれていた哺乳瓶を取ると、それを携えてまたキッチンに戻っていった。それから彼は再度、先ほどの猫用の哺乳瓶と同じような工程を繰り返す。
哺乳瓶のキャップを開けて、中のミルクをシンクにジャバッと流して捨てて。次に軽くガラス瓶の中とキャップ、そしてシリコン製のニプルを軽く水洗いしたあと、専用の洗剤とスポンジで洗い、水で洗剤を丁寧に落としていく。そして水をたっぷりと溜めた鉄鍋に、布巾でくるんだガラス瓶を入れて、タイマーを三分後に鳴るようセットして……。
「……」
ガラスの鍋蓋越しにぐつぐつと煮える水を見下ろすシスルウッドは、すっかり無言となっていた。その顔に表情もなく、ただ真顔。心の中に感情もなく、ベタ凪のような心境にあった。――が、疲労の色は少し出ていた。目の下に黒い隈が出来ていたのだ。
「…………」
ブチ猫パネトーネを撫でてみたり、サビ猫オランジェットを膝にのせてモフモフしたり、黒白はちわれ猫ボンボンと猫じゃらしで遊んだり。それと書店や家事を手伝ったり。その合間で、デリックからの頼まれごとである作曲をやる。――そんなつもりで帰郷したシスルウッドだったのだが。彼を待っていたのは、夜は赤ん坊の夜泣きに何度も叩き起こされ、昼間は休む暇なく家事をやらされるような、そんな日々だった。作曲を~……だなんて余裕も隙も一切ない。眠る時間すらロクにないのだから、遊んでいられるようなヒマもないのだ。
車に轢かれた際に軽い脳震盪を起こした影響で、ボーッとしている時間が増えたローマン。タフで活動的なほうではあるが、しかし最近は腰のほうに懸念があるドロレス。まだ産褥期にある上に、帝王切開での分娩だったとのことで無理は禁物な状態にあるベック。そんな状態にある世帯の中に帰ってきた健康な若い男が扱き使われないわけがなく。シスルウッドはすっかり『雑用係』と化していた。
一日五回ほどのおむつ交換。これはドロレスとベックが半々で担当しているが、おむつのゴミを小さくまとめて捨てに行くのはシスルウッドの役目だ。それ以外のゴミ捨ても、全てシスルウッドの役目である。ドロレスが適当にポイポイと捨てていくゴミの分別も、以前はローマンがやっていたが今はシスルウッドが担当していた。
おむつ交換の後のミルク。ミルクづくりはドロレスがやっているが、しかし哺乳瓶のセットと洗浄はシスルウッドの役目だ。猫の哺乳瓶も、人間の哺乳瓶も、全てシスルウッドが組み立てているし、洗っている。お陰で煮沸消毒は完全にマスターした。
朝食づくりはシスルウッドの担当。今朝のように、哺乳瓶が空になるのを待ちながら作っている。昼食と夕食はシスルウッドとローマンの二人で作っている。だが皿洗いは朝昼晩ともにシスルウッドの役目だ。
買い物はシスルウッドの担当。ドロレスから買い物リストと車のキーを渡されて、ひとりで行ってこいと告げられる。その間に洗濯をドロレスが済ませて、家の中の掃除をローマンが行っている。
赤ん坊が夜泣きした時、あやしに行くのもシスルウッドの担当。なぜなら、彼がリビングルームのソファーで寝ているからだ。帰郷したときにシスルウッドがいつも使っているゲストルームを今はベックが使用しているため、彼には部屋が無い。そのためリビングルームのソファー、その硬い座面の上で彼は寝ているのだが、硬いソファーで熟睡が出来るわけもなく。良くも悪くも彼はすぐ起きることができる。そのため、夜泣き時のあやし担当に任命されたのだ。
「………………」
特に神経質にならざるを得ない子猫の世話は、知識のあるローマンが担当している。そこの負担がないだけ幾分かマシなのだろう。――そう言い聞かせながら、シスルウッドは眠気をグッと堪える。舌先を前歯で軽く噛み、小さな痛みで目を醒まさせようとするが、けれども痛みに慣れ切った体にその程度の刺激は効かない。結局、こらえきれない眠気は欠伸となって出てきてしまう。
そうしてシスルウッドから暢気な欠伸が飛び出たとき。彼の首筋にひどく冷えた指先が触れる――冬の寒さで随分と冷えたドロレスの手だ。その冷たさに体温を一気に吸われたシスルウッドはブルッと背筋を震わせる。その拍子に目が覚めた。
キリッとした目に変わったシスルウッドが振り返り背後を見れば、いたずらっぽい笑顔を浮かべたドロレスがやはりそこに立っていた。肩から幅広のスリングを垂らし、それで赤ん坊をくるむように抱えているドロレスは、再びシスルウッドの首に触ろうとする。が、寸でのところで彼は避けた。
いたずらを仕掛けてくるドロレスに、シスルウッドはムッとした表情を見せる。するとドロレスは笑顔を消し、一転、真面目な顔となった。そしてドロレスはシスルウッドに言う。「ところで。将来のこと、ちゃんと考えてるの? 『人の役に立たないような仕事をしたい』だなんてバカみたいなこと、まだ言ってたりしてな――」
「何も考えてませーん」
ドロレスの言葉を途中で遮り、間延びした調子でシスルウッドはそう言い返すと、鍋に視線を戻した。そしてシスルウッドは思う。数年前の自分も今の自分も、大して変わっていないと。
人の役に立たないような仕事をしたい。そうのたまっていたのは、ハイスクール時代のシスルウッドだ。進学先をどうするかという話をしていた時に、シスルウッドは「今を生きる人の役に立たない仕事をしたい。だから考古学とかに興味がある。考古学っていっても、黄金時代じゃなくて中世暗黒時代の研究とか、そういうの」ということをブレナン夫妻に言っていた。そしてあの頃の舐め腐っていた精神性に進歩が見られたかと言えば、答えはノー。当時二十一歳だった彼だが、精神性はその発言をした十六歳頃から大して変化はしていなかったし、考えも変化していなかった。それどころか、人間嫌いの程度はハイスクール時代よりも悪化していただろう。
この頃のシスルウッドにとって、他人は敵と同意義だった。一部の親しい人々を除き、大半の他人は敵。罵詈雑言や腐ったトマトをぶつけてきたり、ありもしない出来事をでっちあげて評判を貶めてくるような存在という認識でしかなかったのだ。
となれば「人の役に立ちたい」などという健全で綺麗な願望が沸き上がってくるはずもなく、それどころか「あのクソ野郎どもをぶちのめしてやりたい」という怒りしか込み上げてこない始末。……ならせめて「人の役に立たないことをしたい」程度で落としどころを見つけたいというもの。
それなのに。怒りを頑張って抑え込んで出した答えを『バカみたいなこと』と一蹴されてしまっては……――もうどうしたらいいのかが分からない。
「ウディ、ふざけないで。真面目に訊いてるのよ」
シスルウッドの適当な答えが不服だったのか、問い質すドロレスの声はかなり不機嫌そうだった。が、かといって舐め腐った精神の持ち主であるシスルウッドが反省するわけがない。ドロレスがシスルウッドの返した適当な答えに苛立ちを覚えているように、シスルウッドも彼なりに考えて出した答えを『バカみたい』と一蹴されていたことに苛立ちを覚えていたからだ。
そうしてシスルウッドが溜息を吐いたとき。タイミングよくタイマーが音を鳴らす。シスルウッドは鍋の蓋を開け、沸騰する湯の中にキャップとニプルを投入し、蓋をした。それから再度タイマーを設定すると、シスルウッドはドロレスの方に体を向ける。彼は腕を組むと、ドロレスの目を真っ直ぐ見ながらこう答えるのだった。
「古典暗号の研究室に入ろうかなーって考えてて、今はそこに所属してる教授とか研究員の人たちに前もって媚を売ってるとこ。それより先のことはまだ考えてない。取り敢えず今は、キャロラインの家にある謎めいた日記帳の解読が最優先かなって。その次が友人の借金返済のためのアルバムづくり。将来設計は、まあいずれ考える。でも、そうだなぁ……博士課程に進んで、ポスドクから助教、って流れでいけたら一番いいよね」
「結婚はどうなの?」
日記帳かキャリア設計に話題を逸らせるかと期待していたシスルウッドだが、目論見通りには行かなかった。ドロレスが問い詰めてきたのは結婚のこと。というか、最初から彼女が聞きたかったのはそれなのだろう。
シスルウッドと同い年であるベックは、結婚して子供もできた。となればシスルウッドもそうなるよう期待している、ということなのだろう。だが、この時のシスルウッドにはその期待に応える気がなかった。
シスルウッドは、ベックが母親になっていることに驚いていた。自分の人生を家庭という狭い世界に埋めることをもう決めてしまったのか、と。それに泣きじゃくる赤ん坊を抱えるベックが幸せそうだとは思えなかったし、配偶者が彼女の傍に居ないことも不憫に思えてならなかった。
となれば、自分はそうなりたくないと考えるのが必然というもの。ベックのような境遇に恋人キャロラインを追いやりたくはないし、ベックの配偶者ウィリアムのような不義理を自分はしたくない。シスルウッドはそう考えていたのだ。ゆえに彼は言う。
「キャロラインのことは好きだし、大切にしたいとは思っているけど。将来のことってなると踏ん切りが付かなくて。それにまだ早いかな、って。そういうのは働いて稼げるようになってから検討するものだと思う。自分のことで精一杯な学生っていう立場の今、とてもじゃないけど結婚なんて考えられないよ」
「でも人の役に立ちたくないんでしょう? なら稼げるようになる日なんて来ないと思うけど」
どうやらドロレスには、シスルウッドの意見を聞くという気がないらしい。彼女の望んでいる答えをシスルウッドが言うこと、それを希望しているようだ。近いうちに結婚するとか、いずれ孫の顔を見せに来るよとか、そういう言葉しかドロレスは聞きたくないらしい。
そういう態度を取られてしまうと、シスルウッドの冷たい天邪鬼な側面が疼く。絶対に言いなりになってたまるか、という灰色の悪意が腹の底でムズムズと蠢きだした。
「……」
ドロレスの目をジトーッと見つめるシスルウッドは組んでいた腕を解き、肩を竦める。次に、ドロレスの無理解さを責めるように眉をひそめ、大袈裟な溜息を零した後、すとんと肩を落とした。それからわざとらしい沈んだ声で、シスルウッドは語る。
「僕の実父はクズ野郎で、実母だって問題ばかりだ。そうなると、この血筋を残したくないと考えてしまう。だったら子供は欲しくないし、独り身でいいかな、って感じるんだ。勿論、キャロラインは好きだ。けど最悪の場合、最良の友人っていう関係に戻ることも選択肢としてアリだと思ってる」
意地悪が半分、本音が半分。そんな言葉を語るシスルウッドに、ドロレスも大袈裟な悲嘆を表現する。目を細めて眉をひそめて眉間に皴を寄せ、スリングで抱く赤ん坊に意味ありげな視線を送り、いかにも悲しんでいそうなオーラを演出した。それからドロレスは悲壮感を漂わせながら言う。
「別に血縁なんて気にしなくてもいいじゃない。養子っていう選択肢もあるし。それにあなたの実の両親には問題があるけど、でもあなたは普通で、問題のある性格なんかじゃないでしょう? 犯罪歴も薬物使用歴もない。健全でクリーン。なら――」
「この呪いを連鎖させたくない。僕の子供は絶対に不幸になる。その確信がある。だから家庭は持ちたくないんだ」
押しつけがましいドロレスの言葉に、シスルウッドは語気を強めて言い返した。そして此度飛び出した言葉は嘘偽りない正直なもの。温度無き刃のような冷たい態度も、家庭を持ちたくないという褪めた言葉も、真っ直ぐな本音だった。
だが、正直でストレートな言葉は不思議なほど他者の心には響かない。冷めた態度で悲観的な言葉をドライに述べるシスルウッドに、ドロレスは顔を顰めるという反応を見せる。望んでいる言葉をシスルウッドから引き出せない苛立ちから、ドロレスは挑発的な言動をしてしまうのだった。
「人の役に立ちたくないって言ったかと思えば、今度は反出生主義? そんな悲観的で幼稚な思考は手放しなさい。そういう言動が許されるのはハイスクールまで。あなたはもう大人なのよ」
大人なドロレスは、子供じみたシスルウッドをそう諫める。だが、その言葉はシスルウッドの心に更なるヒビを刻んだだけだった。
反出生主義。ドロレスは何か深い意味をもってその言葉を持ち出したわけではないのだろう。だがその言葉を非難材料として使われたことに、シスルウッドは少なからずショックを受けていたのかもしれない。なぜならその言葉は、彼を定義するうえで最も重要な概念だったからだ。
「……大人か。ハッ……」
人生は辛苦に満ちている。人の営みは苦痛の塗り重ねでしかない。憎悪は恐ろしいほどありふれている感情。そして復讐を追い求める心を止めることは何者もできない。そんな不幸ばかりの世界で、夜霧のように実態の掴めない幸せを追い求めるなど苦行に他ならない。となれば、子を為すなんて不幸を敢えて連鎖させるようなものだ。それならば。
「なら幼稚な僕に教えて欲しい」
シスルウッドの実母が見出した答えは、出生の否定だった。それに、シスルウッドも同様の答えを得ている。実母が子供を遺したくないと望んでいたように、遺されたシスルウッドもまた人生を望んでいなかったわけで。そんなシスルウッドが更なる不幸の連鎖を生み出したいと思うはずもない。
薄ら笑うシスルウッドは、ドロレスに抱かれて眠る赤ん坊を見る。そして彼は乾いた声で、ドロレスに婉曲表現を用いた問いを切り出した。
「復讐に殉じた茨から生まれたのが、人間嫌いの薊だ。なら薊が生み出すものが辿る末路は?」
それはマタイの福音書にある一節。善人と悪人の違いを説くたとえ話を揶揄したもの。
マタイの福音書では、以下のように定義されている。――無花果と葡萄は良い実をもたらすため良い樹で、善人の象徴。薊と茨はろくな実を結ばないから悪い樹で、悪人の象徴。そして薊と茨のような人間は忌むべきものだから焼き払われるべきだ、と。一神教らしい、独善的で多角的な視点の欠けた主張だ。
そして皮肉なことに、彼の名前は『薊の群生 』。実母の本名も『野薔薇の茨 』である。悪の象徴とされる刺々しい植物の名が連鎖していた。そして憤懣という呪いもまた母子で連鎖している。
「それは聖書の中の話よ」
遠まわしな言葉でやっとシスルウッドの意図を理解したドロレスは、彼の問いに答えず跳ね除けるという反応を示す。続けてドロレスは言った。「あなたは聖書が言っているような悪人じゃない」
「さあね。これからなるかもよ。僕は父親には似てないけど、母親にはそっくりらしいし」
「あなたは父親に似ているのよ。なぜなら、私たちの息子だから。だからきっと良い父親になれるわ、ローマンみたいな良い父親に。今だって、すごく協力してくれてるし。あなたなら幸せな家庭を築けるに決まってる」
もう見苦しいからやめなよ、叔母さん。――シスルウッドはそう思っていたが、飛び出しそうになった血の通っていない言葉を呑み込む。あなたの両親は私たちなんだと訴える必死そうな叔母の顔が、シスルウッドにはひどく哀れに思えたのだ。
「そうだといいけど」
シスルウッドはそう言って一際冷めた笑みを口元にだけ浮かべると、ドロレスに背を向けて鍋に視線を戻す。そんな彼の心は、少しずつかつての両親だったブレナン夫妻から離れていっていた。自分が別の世界の住人になってしまったかのような思いを抱いていたのだ。
平和で穏やかな“普通”の世界に続く道から足を踏み外してしまったような、そんな感覚。マジョリティから爪弾きにされた変わり者たちが集う辺境すら踏み越えて、異常者だけが潜む冷たくて暗い世界に歩みを進めているような、そんな気がしている。
「……未来のことなんて、何も分からない、誰にも。僕がどうなるかなんて、僕にも分からない」
疲れ切った顔で、しかし嬉しそうに他人の赤ん坊を抱いている叔母。彼女がいる穏やかで暖かな世界に、自分はもう踏み入れない。その資格はないし、そもそもそんな世界に入りたくもない。……怒りの炎で燃やし尽くされ、黒ずみ焦げたシスルウッドの心はそんなことをボヤく。
そして俯くシスルウッドの足許に一匹の猫が擦り寄ってくる。いくつになっても甘えん坊なサビ猫オランジェットが、リビングルームのソファーを降りてキッチンに来ていたのだ。
「ぅなーお」
尻尾をピンと上に伸ばし、甘え声を立てるサビ猫オランジェットは、ひょいと前足を上げてシスルウッドの膝に肉球を当てる。抱っこして、という合図だ。
構ってアピールをするサビ猫オランジェットを、シスルウッドは要望通りに抱き上げる。抱き上げたサビ猫オランジェットの頭をシスルウッドが軽く撫でてやれば、サビ猫オランジェットはすぐにゴロゴロ……と喉を鳴らした。
「……お前たちは本当に可愛いな。自分勝手で、自由で、人の都合なんか気にしない……」
気持ちよさそうに目を閉じるサビ猫オランジェットの顔を見ながら、シスルウッドは小声で呟く。彼はこのとき、一年かけて読み切った実母の日記の内容を、そして実母の正しい名前を知ったときのことを思い出していた。
「……」
「……あっ」
セットしていたタイマーが鳴り、火を止める時間が来たことを告げる。シスルウッドはサビ猫オランジェットを床に下ろすと、ガスコンロの火を消し、鍋の中の水をシンクに捨て始めた。
戸惑うことなく手順を踏んでいくシスルウッドの様子を確認すると、ドロレスは赤ん坊を連れてキッチンから静かに去っていく。だがシスルウッドは振り返りもせず、立ち去るドロレスに何も声を掛けなかった。
+ + +
そして時は少しだけ進んで四二二一年、十一月の下旬。ある土曜日の夜のこと。自分の役目を終えて“フィドラーのウディ”という仮面を脱いだシスルウッドは、デリックが継いだヴェニューの近くにあるレストランを訪ねていた。
普段の自分なら絶対に立ち入らないような、気取ったフレンチ料理の店。物凄く高級というわけではないが、庶民には敷居が高いように思える価格設定の料理がメニュー表には並んでいる。ちらりと見えたその金額に肝を冷やすシスルウッドは、苦笑いを浮かべていた。
「……いえ、お気持ちだけで十分です。ありがとうございます」
そんなこんなで外行きの愛想を取り繕っているシスルウッドの隣には恋人であるキャロラインが座っていて、彼の目の前にはキャロラインの両親が鎮座していた。
一緒に夕食でも、という誘いをやんわりとシスルウッドが断ったことで、ややキャロラインの父親の目は冷たくなっている。挙句、シスルウッドの装いがフレンチレストランには相応しくないチャラチャラとした夜遊び風のものであったことも、マイナス評価の一因となっていた。
……だが。そもそもこの日の予定に『気取ったフレンチレストランに行く』という項目は入れていなかったシスルウッドに非は無い。デリックの営むヴェニューで、デリックの借金を返済するための公演を行うという予定しか今日は入れていなかったのだから、そういう服しか着てきていないのだ。パリッとしたシャツやフォーマルなジャケットなど、今日は持ってきていないのである。
「…………」
不器用に笑うシスルウッドは膝の上にフィドルを収納しているハードケースを乗せ、今すぐ帰りたいアピールをさりげなく発する。キャロラインはご両親の許に無事送り届けたし、もう今日は解放してくれ~と彼は無言で訴えていた。
この日は朝から大忙しだった。物販品の運搬、会場のセッティング、打ち合わせにリハーサル、そしてライブ本番と後片付け……――とにかく疲れていたのだ。早く帰ってシャワーを浴びて寝たい、というのがシスルウッドの本音である。だが、キャロラインの両親は開放してくれそうにない。
それどころか、キャロラインの両親は彼に意味ありげな視線を送りつけている。なんだか面倒な話を切り出されそうだぞ、という気配を彼は察知していた。そして彼が思い返すのは、この年の年明け頃に起きた出来事。ベックの赤ん坊にデレデレしていたブレナン夫妻から「結婚はまだなのか、子供を設ける気はあるのか」と問い詰められ、急かされた時の記憶。その時の気まずさと苛立ちを思い出し、シスルウッドはブルッと背筋を震わせた。
ついこの間一〇代を終えて、二〇代に入ったばかりの若者だというのに、もう結婚のことを考えろというのか? 叔父も叔母も、そして恋人の両親も? 現在の両親であるバーン夫妻は、たまには店に顔を出せとしか文句や注文を付けてこないのに?
「……あ、あの」
今日のところは、失礼しても? ――そんなことをシスルウッドが切り出そうとした時だ。キャロラインの父親の目がギラリと光り、緊張した様子のシスルウッドに狙いを定める。そしてキャロラインの父親は、やはりシスルウッドが予想していた通りの言葉を発するのだった。
「君が、うちの娘と付き合い始めて……もうじき三年になる頃合いじゃなかったか」
「はい。そうですね」
「そろそろ腹を決めたらどうなんだ。娘との付き合いは遊びなのか、それとも本気なのか、どちらなのかを」
やっぱり、そう来たかーっ!
――と内心ウンザリするシスルウッドだが、表情にはそれを出さない。彼はあくまでも、突然すぎる提案に驚き言葉を失うような演技をするのだった。「えっと、すみません。それはつまり、どういう意味で……?」
「うちの娘と結婚する気はあるのか。無いというなら、ここで別れてもらう」
シスルウッドを睨むように見るキャロラインの父親は、強い言葉で決断を強いてきた。これにはシスルウッドも動揺し、狼狽える。結婚か別れるか、その二択から選べと迫られることは想定していなかったのだ。
シスルウッドが望んでいるのは第三の選択肢。今の関係を維持することだ。結婚もまだ望んでいないし、別れることはもっと望んでいない。
「ちょっと、父さん。なに言ってるの?!」
同じく、結婚もまだ早いと考えていた上に別れるのはもっと御免だと思っているキャロラインは、乱暴な選択を迫る自身の父親にそう抗議する。だが娘の抗議に無視を決め込む彼女の父親は、シスルウッドを睨み付けて問答を続けるのだった。
「私たちには君のことがまるで分からないんだ。真面目な文学青年だと娘からは聞いていたが、しかし今の君は軽率な若者にしか見えない」
「今日は、その……ヴェニューを営んでいる知人が借金を抱えていて、その返済資金を稼ぐための公演を行っていたんです。そのための衣装ですよ、これは。普段はこんなレザージャケットもダメージジーンズも着ませんし、これは一昨日に古着屋で急遽購入したものです。普段の僕の服装は、あなたもご存知でしょう?」
「とにかく。もし、軽い気持ちで娘を弄んでいるなら――」
「彼女のことは愛しています。ただ……」
「ただ?」
「――結婚なんて、まだ考えられません。僕はまだ学生で、自分の生活のことで精一杯なんです。将来のことだって、まともに考えられていない。そんな状況に置かれている中で重大な決断を下すのは間違っていると考えています。就職するか、大学院に進むかもまだ決めていない。それなのに結婚だなんて、ひどい結末を迎えることになりますよ、絶対に」
「だが、タイミングを待っていてはいつまで経っても――」
「問題が山積みなんです。実父のことも、追い回してくる記者たちのことも、それ以外にも色々と。それらにカタを付けない限り、先には進めない。……まだ時間が必要なんです、僕には。キャロラインを、そしてロバーツ家の皆さんを、僕の抱えている問題に巻き込みたくない。ですから、時間をください」
叔母であるドロレスから問い詰められた時から、シスルウッドの心境に変化は生じていなかった。キャロラインを弄んでいるわけではないし、軽い気持ちで付き合っているわけではないのだが、しかしまだ今は決断の時ではないと、彼はそう考えていたのだ。
それに決断を下せないのは、準備不足だということ以外にも理由があった。独りになるのは嫌だったシスルウッドだが、かといって家族が欲しいわけではなかったのだ。彼は一人で生きていくことを望んでいた。理解のある友人や、風変わりで面白い知人は欲しかったが、妻子を得ることは求めていなかったのだ。
けれども、誰も彼の意見に耳を傾けてはくれない。普通の幸せを追い求めろと、暗に強要してくる者ばかりだ。普通の人生を送る資格があるかどうかすら分からない人間に、そんな酷なことを求めてくる者が多すぎる。――要するに、彼は辟易していたのだ。
「すみません。今日のところは失礼します」
これ以上会話を続けたところで、平行線であるお互いの立場が交わるわけがない。そう判断したシスルウッドは楽器の入ったハードケースを抱えて立ち上がると、無愛想にそう言って会話を切り上げた。それから彼は小さくキャロラインの両親に一礼すると、店を出て行く。
腕時計で確認した時刻は夜中の十一時半を少し過ぎたところ。駅に向かったところで、もう閉まっているだろう。またタクシーを捕まえたところで、支払えるだけの額を持ってきていない。自転車もない今、歩いてコンドミニアムまで帰るしかないのだろうか。
「……いや、待て。実家の方が近いぞ……?」
居候先であるコンドミニアムの方角に向かって取り敢えず歩き始めたシスルウッドだったが、その時ふと思い立って方向転換し、真逆の方角へと歩を進める。居候先に戻るよりも、バーンズ・パブのほうが距離的に近いと判断したからだ。
寒い中でタラタラと歩いて居候先に戻ろうとすれば、たぶん三〇分以上はかかるだろう。だがバーンズ・パブなら、せいぜい二〇分ぐらいで行ける。急げば十五分ぐらいで帰れるはずだ。
なら、そっちの方が良い。それにバーンズ・パブには猫が居る――ローマンが世話をしていた子猫たち二匹はバーン夫妻に引き取られ、現在バーンズ・パブの看板猫をやっているからだ。
猫に会いたい。そう、あの子猫たち二匹に会いたい。イシュケとビャーハ、そんな名前の猫たちに……。
「…………」
猫たちの姿を思い浮かべれば、存外に単純で気が変わりやすい性質のあるシスルウッドの気分はすぐに良くなる。リュックサックのように背負えるかたちに改造したハードケースを背中に担ぐシスルウッドは、少しだけ明るくなった表情と軽くなった足取りで大通りを歩いていった。
*
時代は進んで四二八九年のこと。ラドウィグと心理分析官ヴィク・ザカースキーのぎこちない共同生活が幕を開けてから一週間が経過した日のこと。ラドウィグは散々な日々を送っていた。
「…………」
自分の所有物や衣類を他者に掃除されたり洗濯されるという感覚。これが中々に気持ち悪い。アレクサンダー・コルトやテオ・ジョンソン部長は「生活面はザカースキーに甘えてくれて構わない、その分仕事に集中してくれ」と言われているが、それが彼にはできなかった。
だって、よく知らない女性に下着を洗われていて、それを着ているのだ。いくら洗ってくれているのはコインランドリーの洗濯機とはいえ、それを干して畳んでいるのはよく知らない女性。ラドウィグとしては、有難さと申し訳なさが半分、どうしようもない気持ち悪さが半分といった心境なのである。なので仕事に集中ができない。慣れるには時間が掛かりそうだ。
それから心理分析官ヴィク・ザカースキーは、ラドウィグがイザベル・クランツ高位技師官僚にくっついてあちこち回っている間に家の掃除をしてくれていたらしいのだが。その掃除の最中で彼女は前の住人ヒューゴ・ナイトレイの遺物、いかがわしいものを幾つか見つけたようだ。一時はラドウィグに疑いの視線が向けられていたが、幸い誤解は解け、気まずい空気は去った。だが。お陰でラドウィグはあの家に帰りたくなくなってしまった。
アダルトな雑誌やビデオ。まあ、それぐらいなら処分してしまえば気が収まる。だが具体的なモノが出てきてしまうと、それを捨てたとしても気持ち悪さが抜けない。用途不明の手錠、中途半端な数が残っているコンドームの箱、開封済みで使用期限は四年前に切れている謎のリキッド剤、女性ものの下着など。ここに女性を連れ込んでいたのか~という気配が明らかに残っている発掘品に、見つけた心理分析官ヴィク・ザカースキーも、それを確認の為に見せられたラドウィグも気持ち悪さを覚えていた。
特に下着だ。いつからそこに眠っているのかが分からない下着ほど、気持ち悪さを覚えるものもない。ラドウィグがあの家に入居して以降、一度も触れていない故人の私室。ずっとそこに誰かの下着が眠っていたのだ。誰かが脱ぎ捨てたものと思われる微妙に汚れた下着が、複数着も……。
「おい、ラドウィグ。大丈夫か?」
ボーッとしてたラドウィグの肩を、アレクサンダー・コルトがぐわんぐわんと揺らす。そのときラドウィグの意識はハッと現実に、真昼のアルストグラン連邦共和国に戻ってきた。
現在ラドウィグが来ていたのは、かつての彼の勤め先であるアルフレッド工学研究所。イザベル・クランツ高位技師官僚が所長を務める研究所、その一階にある会議室である。
「……あっ、すみません。ボーッとしてました」
そう言って気まずそうな笑顔を浮かべるラドウィグは、一昨日に見た光景――怪訝な顔をした心理分析官ヴィク・ザカースキーが赤いTバックの腰ひもをぎこちなく摘まみ上げ、それをラドウィグに見せて「これに心当たりありますか?」と尋ねてきたときのこと――を頭から追いやり、目の前にある現実に焦点を合わす。だが彼の目の前にある現実は、心理分析官ヴィク・ザカースキーとの気まずいやり取りよりもはるかに気まずかった。
会議室の隅の席に座るラドウィグの左隣には、堂々とふんぞり返って座るアレクサンダー・コルトの姿がある。更にアレクサンダー・コルトの左隣には、特務機関WACE出身者の見張り役であるジュディス・ミルズの姿もあった。そしてラドウィグの正面には肩身狭そうな様子で俯いているイザベル・クランツ高位技師官僚が居て、イザベル・クランツ高位技師官僚の隣にはこの研究所に所属する義肢装具士が不機嫌そうに顔を顰めさせて鎮座している。
その義肢装具士は、アレクサンダー・コルトが現在使用している筋電義手を制作、及びメンテナンスをしている人物。アーヴィング・和真 ・ネイピア博士だ。そして彼はその昔、ラドウィグがお世話になった“先輩”でもある。
先輩はなぜ不機嫌なのか。その理由は考えるまでもない。後輩であるラドウィグの不義理こそがその理由である。イザベル・クランツ高位技師官僚が何も言えずに黙りこくっているのも、ラドウィグのせい。
「ラドウィグ、か。それが今のお前の名前か?」
義肢装具士アーヴィング・ネイピアの、黒玉のように深い黒のような瞳がラドウィグをギリッと睨めつけてくる。その目の色はラドウィグが知っている“先輩”だった頃の彼と大して変わっていなかった。が、今向けられているその眼光の鋭さは段違いだ。とても威圧的で、攻撃的である。図太いラドウィグの神経も、さすがにブルッと震えてしまった。
笑顔を消すラドウィグもまた居心地の悪さから、イザベル・クランツ高位技師官僚のように肩を竦めて顔を俯かせる。そうしてラドウィグがしゅんとした時、アレクサンダー・コルトが威圧的な義肢装具士アーヴィング・ネイピアを宥めた。
「まあまあ、落ち着けって。アンタたちがコイツを責めたくなる気持ちは分からんでもない。アタシが上からの命令でコイツを拉致してから、コイツはその後ずっと生死不明だったわけだからな。そこら辺の事情はアタシから後でゆっくりと説明する。だから先に仕事の話をさせてくれ」
すると義肢装具士アーヴィング・ネイピアは矛を収める。彼は溜息をひとつ零したあと、腕を固く組んで椅子に深く腰を据える。それから義肢装具士アーヴィング・ネイピアはアレクサンダー・コルトの目を見て、次にジュディス・ミルズを見た。
これを『仕事の話に移ろうという合図』と捉えたジュディス・ミルズは、それまで少し後ろに引いていた身を前へと乗り出す。目の前に置かれたテーブルに両肘を付き、そこで手を組み合わせるジュディス・ミルズは義肢装具士アーヴィング・ネイピアに視線を送ると、こんな話を切り出した。
「貴方たちの研究チームが、アバロセレンを介した情報伝達技術を研究していることは私たちも知っている。それを筋電位処理の分野に活かそうとしていることも。――それで今回は協力を要請しに来たんです。既存のネットワーク技術に頼らない、アバロセレンを用いた遠隔操作で動かせるヒューマノイド・ロボットの制作を」
ジュディス・ミルズの話を聞く義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、より一層表情を険しくさせる。それは彼が今の話をすぐには信じられなかったことが理由である。
ASIがアバロセレン規制推進派であることは有名な話だ。アバロセレンを用いたエネルギー事業が開始され始めた半世紀前からずっと、ASIがそのスタンスを変えたことはないはず。それにアバロセレン犯罪対策部は、ASIの反アバロセレンという理念を象徴する部署だ。そこの所属である人間が、アバロセレンを用いた技術を欲しがっているだと? ――彼には、それが信じられなかったのだ。「お前たちASIはアバロセレン規制推進派じゃなかったのか?」
「ええ、まあ。SODを開く恐れがあるエネルギー事業や、その他の非人道的な実験に対しては、これからも峻厳な態度で臨んでいくつもりです。しかし有用な技術は積極的に取り入れていきたい。つまり、道具も使い方次第だというわけです」
だがそう答えるジュディス・ミルズの声は、どこまでも冷淡だった。また彼女の声には「不本意ではあるが、立場上そう言うしかない」という思いが滲んでいる――道具も使い方次第という言葉は、先日テオ・ジョンソン部長および主席情報分析官リー・ダルトンが、断固としてアバロセレン使用反対という立場を譲らなかったジュディス・ミルズを説得するために発した言葉だ。彼女の右隣に座るアレクサンダー・コルトは、不機嫌さを覗かせるジュディス・ミルズに呆れたように腕を組み、溜息と共に天井を仰ぐ。先週から続くプロフェッショナルらしくないジュディス・ミルズの言動に、アレクサンダー・コルトは呆れ始めていたのだ。
そしてASI局員二人の怪しい様子に、義肢装具士アーヴィング・ネイピアは余計に不信感を募らせていく。怪しむ彼は、ひとまず判断材料にするための情報を集めることにした。
「そのヒューマノイド・ロボットの使用目的は?」
そう問う義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、ジュディス・ミルズの顔を見る。だがその問いに答えたのはジュディス・ミルズではなく、その右隣に座っているアレクサンダー・コルトだった。
アレクサンダー・コルトは姿勢を正すと、真っ直ぐ義肢装具士アーヴィング・ネイピアの目を見る。それから彼女は答えた。
「少々ワケありな半身不随の患者が居てな。その患者をとある場所に連れて行って、まあ実況見分のようなことを行いたいんだが、そいつが外に連れ出せるような状態にないんだ。また場所の方も、車椅子を運び入れるのは無理そうな場所でね」
「なら現場とその患者がいる部屋を映像通信で繋げばいいじゃないか。カメラも通信機材も、ASIは持っているはずだろう?」
そう釘を刺す義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、返答を聞いて愕然としていた。そんな程度の問題のためにわざわざヒューマノイド・ロボットという大がかりなブツを作れと言ってきたASIの考えが、彼には理解できなかったのだ。
そうしてアレクサンダー・コルトの言葉を鼻で笑う義肢装具士アーヴィング・ネイピアだったのだが、けれどもアレクサンダー・コルトは食い下がる。三白眼の焦点を義肢装具士アーヴィング・ネイピアに定める彼女は説得を試みる言葉を述べると共に、鎌をかけるようなセリフも発するのだった。
「それだとカメラを回す第三者の主観が邪魔をして見落としが発生する可能性が高い。できれば本人をその場に連れて行って、その場で歩かせて、当時の記憶を掘り起こしたいんだよ。なんせその患者が、その場で起こったことをなんにも覚えてないんでな。だからこそ、より直接的な刺激を与えたいんだ。けど、半身不随で外へ連れ出せないってなると、そういうわけにもいかない。だったら遠隔操作技術を応用して、ロボットの体に人間の意識を憑依させられないかって、アタシらは考えたんだ。――アンタたち、その技術をもう完成させてんだろう?」
技術が完成しているのか。そうアレクサンダー・コルトから問い返された義肢装具士アーヴィング・ネイピアは身を少し引き、腕を固く組んで口を噤む。それから彼は隣に座る研究所の所長イザベル・クランツ高位技師官僚を見やった。
イザベル・クランツ高位技師官僚は彼の目を見返すと、無言でゆっくりと頷く。すると再び義肢装具士アーヴィング・ネイピアは視線をアレクサンダー・コルトに移すと、組んでいた腕を解き、こう語った。
「俺はその分野に手を出していない。うちで制作している筋電義肢は、あくまでも人工知能を活用した学習型筋電義肢でしかない。アバロセレンなんてものは義肢には使っていない。また、このラボに所属している研究員の中にはアバロセレンを用いたネットワークの構築、つまり量子通信の代替となるものを考案しようとしている者も存在しているが、それはまだ机上の空論でしかないと聞いている。現段階では実現するか否かも判断できないような状態にあると。――ただし、それは“俺たちにとっては”だ」
現時点では机上の空論。そう突き放したうえで、しかし希望を残すようなこと言う義肢装具士アーヴィング・ネイピアの言葉にアレクサンダー・コルトは目を光らせる。が、その一方でジュディス・ミルズは最悪の未来を憂うように肩を落とした。そしてラドウィグは「もしや……」の可能性を思い浮かべて背筋をブルリと震わせ、イザベル・クランツ高位技師官僚は「ただし」と言葉が続く展開を予想できていなかったのか目を見開いて横に座る男を凝視している。
そして義肢装具士アーヴィング・ネイピアは大きく身を引くと、椅子の背もたれに身を預けるように仰け反った。先ほどまでのアレクサンダー・コルトのように天井を仰ぎ見る彼は、ぼそぼそと呟くように小声で言った。
「……先代の遺したものを漁れば何かが出てくる可能性はある。少なくとも彼は、アバロセレンは情報伝達の分野にも使えることを把握していたようだし、それを応用したものも幾つか作っていたようだからな。そんな話を先代から聞いたことがある」
先代、とは先代所長ペルモンド・バルロッツィのこと。それを理解したアレクサンダー・コルト及びジュディス・ミルズは顔を険しくさせ、ラドウィグは「やっぱりか」という表情を見せる。たしかに彼ならばそんなものを既に作っていそうだし、作っていたことを世間に黙っていそうだと、三者ともすぐに思い至ったからだ。
そうしてASI局員たちが良くも悪くも納得する一方で、イザベル・クランツ高位技師官僚はそうではなかった模様。寝耳に水だという顔でワッと立ち上がった彼女は、青ざめた顔で義肢装具士アーヴィング・ネイピアを見下ろす。彼女は震える声で、重大な事柄を長年黙り続けていた部下を問い質すのだった。「聞いたって、それ、一体いつの話……?!」
「六年前だ。自殺しようとして道路に飛び出した学生を先代が助けた結果、大型トラックに彼が轢かれた騒動があっただろ? あの時だ。俺が見舞いに行った時はちょうど、先代はモルヒネだかの影響で朦朧としていたからな。ちょうどいいと思って、あの時に色々と聞き出したんだ」
義肢装具士アーヴィング・ネイピアは姿勢を正しながら、シレっとそう答える。その答えを聞いたイザベル・クランツ高位技師官僚は頭を抱えた。アバロセレンの研究に携わっている自分が知らなかった情報をアバロセレンに触れない部署の研究員が知っていたということ、そして先代所長がとんでもない秘密をまだ隠し持っていたということで、彼女の頭は痛くなっていたのだ。
その傍らで平然としている義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、最もASI局員らしいオーラを漂わせているジュディス・ミルズを見やる。それから彼はこう語った。
「アバロセレンを介した筋電義手。その初期の作品が、今はASIに保管されているはずだと先代は言っていた。たしか……ラーナーとかいう男のために先代がその義肢を作ったが、その男は使いこなせず、結局その義肢はASIの研究部に回されて、今は存在しているかも分からないとか、そういう話だった」
「つまり、その義手をここに持ってくれば我々に協力してくれる、と捉えていいのかしら?」
ジュディス・ミルズはそう聞き返すが、しかし義肢装具士アーヴィング・ネイピアは首を縦には振らない。イエスでもノーでもないが限りなくノーに近い、そんなところだろう。
無駄な労力は割きたくない、だから白か黒かハッキリしてほしい。ジュディス・ミルズがそう言おうとした時だ。彼らが囲んでいたテーブルが一瞬、ガタッと僅かに揺れる。そしてテーブルの上を、黒い何かが横切り、義肢装具士アーヴィング・ネイピアのもとに向かった。
軽い身のこなしでひょいとテーブルに飛び乗ったのは“ひじき”という名の一匹の黒猫。義肢装具士アーヴィング・ネイピアの飼い猫で、もうじき七歳になる雄だ。黒猫ひじきはテーブルの上を駆け抜けてしかめっ面の飼い主の許にトタタタっと向かうと、飼い主の膝の上に降りる。それから黒猫ひじきは飼い主の胸板のあたりにズリンズリンと体を擦り付け、黒い毛を飼い主の着ている白いシャツに付着させた。
「……ひじき、今は仕事中だ。お前はピーナッツと遊んでこい」
飼い主である義肢装具士アーヴィング・ネイピアはそう呟くと、黒猫ひじきを自身の膝の上から床へと下ろす。しかし黒猫ひじきは直後、再度飼い主の膝の上に飛び乗った。
けれども完全仕事モードな飼い主は、再度黒猫ひじきを床へと下ろす。だが構って欲しい黒猫ひじきは再度飼い主の膝に飛び乗り……――彼らはこの遣り取りを四回ほど繰り返した。
幾度かチャレンジし、遂に懲りた黒猫ひじきは飼い主から離れていく。そして黒猫ひじきが次にロックオンしたのは同じ部屋に居た別の男。ラドウィグだ。
飼い主の膝の上を諦めた黒猫ひじきはラドウィグに狙いを定めると、尻尾をピンと立てて彼に駆け寄ってきた。そして飼い主にしていたように、黒猫ひじきはラドウィグの膝の上に飛び乗る。
「ひじき~。久しぶりだなぁ、オレのこと覚えててくれたの?」
膝の上に乗ってきた黒猫ひじきの頬を、ラドウィグはブニブニと揉むように撫でる。黒猫ひじきは嬉しそうに目を細める一方、甘え声は立てなかった――黒猫ひじきが甘え声を立てるのは『飼い主だけ』なのだ。
そうしてラドウィグが仕事そっちのけで黒猫ひじきに集中していたとき。彼の隣に座っていたアレクサンダー・コルトが静かに立ち上がる。彼女はテーブルの反対側にいる義肢装具士アーヴィング・ネイピアの傍へと移動した。またジュディス・ミルズも、アレクサンダー・コルトの後に付いていく。
「――ドクター・ネイピア、聞いてくれ」
依然、険しい表情を浮かべている義肢装具士アーヴィング・ネイピアの肩にアレクサンダー・コルトは手を置くと、彼女はじっと相手の目を除き込んだ。それから彼女は同情を乞うように悲しげな表情を取り繕うと、こう切り出した。
「……実は、その患者はアイツの父親である線が濃厚なんだよ。その患者の中途半端に抜け落ちている記憶を取り返せれば、アイツがどこから来た誰なのかが分かるかもしれないんだ。アンタも、アイツが過去の記憶を失くしてることは知ってるだろ? だから協力してくれないかい」
だが、義肢装具士アーヴィング・ネイピアはつまらない性格をした仕事人間だ。甘えてくる飼い猫を「仕事中だ」との理由でドライにあしらえる男が、気安く何かに同情をするわけがない。それに彼は、ラドウィグのことをよく知っている。お気楽な剽軽者のようで、実際には誰よりも醒めきった目で世界を見ているラドウィグの本性を。
故にアレクサンダー・コルトの手を払い除ける義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、毅然とアレクサンダー・コルトを突き放した。
「あれが忘れた過去に執着していないことは、ここの研究員なら誰もが知っていることだ。故に同情で釣ろうなんて下劣な手は俺には利かない」
ヘタ打った、と賭けに出たことを後悔するアレクサンダー・コルトは気まずそうに目を逸らす。そしてジュディス・ミルズは大慌てでフォローを入れようとしたときだ。何かを言おうとしたジュディス・ミルズを牽制するように、義肢装具士アーヴィング・ネイピアがチッと短く舌打ちをする。その後ジュディス・ミルズを、そしてアレクサンダー・コルトを睨むように見た彼は、彼女らに対する同情心を僅かに帯びた声で、彼女らを鋭くえぐるのだった。
「――だが、そこまでして懇願しているあたり、その患者は相当に訳アリなんだな?」
強く突き放されたかと思いきや一転、取っ掛かりが出現した。それを見逃さないアレクサンダー・コルトではない。
気まずさや後ろめたさを一瞬で捨て去った彼女は、義肢装具士アーヴィング・ネイピアの目を見据える。勇ましい表情になった彼女は、出現した取っ掛かりに喰らい付いていった。
「オーウェン・レーゼ。その名に心当たりは?」
「……成程、レーゼ家か」
アレクサンダー・コルトの問いに、義肢装具士アーヴィング・ネイピアは好感触と判断できる反応を示す。納得したような表情を浮かべる義肢装具士アーヴィング・ネイピアは一度俯いて瞼を閉じるが、すぐに顔を上げてアレクサンダー・コルトの顔を見た。それから彼は言う。
「それなら俺でなくヴェルナー・レーゼに聞け。たぶんあの男も、ルートヴィッヒの帰還を知ればすっ飛んでくるはず。それにアバロセレンを用いたネットワーク構築を研究しているのも彼だ」
「ほぉー。あの研究者のことは知ってたが、研究内容までは知らなかったよ。そうかい、そうかい。そりゃ都合がいいねぇ」
アルストグラン連邦共和国に在住し、アバロセレンに何らかのかたちで関わっているのであれば知らない者はいないとも言われている悪名高き存在。アバロセレンが登場するよりも昔からイカれた化学者を輩出し続け、アバロセレン登場によりその狂気を増大させた一族、レーゼ家。
幸いにも、一族最後の生存者となった男――ラドウィグと同じ養父の下で育った、ヴェルナーという名の人物――はまともな精神性と潔癖に近い倫理観を持っていて、今はレーゼ家を恐れる必要は無くなったが。しかしレーゼ家の創り出した負の概念は、今もこの国の暗部に巣食っている。
アバロセレンに触れたことにより何らかの超能力を発現させた存在、覚醒者。彼らを拉致誘拐し、特定の研究施設に隔離して、人道にもとるような過酷な実験を繰り返し、覚醒者たちを殺していく。そんな常軌を逸した行為を最初に行ったのはレーゼ家だ。レーゼ家が始めた非道な行いは、複数存在する歪な思想の持ち主に引き継がれ、今もどこかで繰り返されている。当局の摘発が追い付いていないのが現状だ(そしてペルモンド・バルロッツィが築いたこの“アルフレッド工学研究所”は、外部に存在する敵たちから覚醒者たちを守る城砦の役目を果たしている)。
アバロセレンによる電力事業。これをアルストグラン連邦共和国に導入し、今や排除することは不可能なほどにまで根付かせたのもレーゼ家だ。元老院による影からの後押しもあったとはいえ、しかしレーゼ家が関与していなければアバロセレン発電という技術がここまで浸透していなかったことだろう。アバロセレンを利用した電力事業に猛反対していたペルモンド・バルロッツィに「一人娘エリーヌの命を奪うぞ」という脅迫状を送り付けて黙認を迫ったのは、レーゼ家なのだから。
そしてアバロセレンからヒトを模した人工生命体ホムンクルスを生み出す技術を確立し、安定した量産体制を整えたのもレーゼ家だ。最初に創られたプラントは特務機関WACEが潰したものの、そのときには既に国中に種が撒かれている状態だった。こちらも当局の摘発が追い付いていない状態である。
……そんなこんなでアレクサンダー・コルトを見る義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、その目を驚きから見開いた。先ほどアレクサンダー・コルトが発したセリフを組み合わせれば「ラドウィグの父親が、オーウェン・レーゼという人物の可能性が高い」という話が成り立つが、それが正しいのならばラドウィグもまた狂気を宿した一族の血を引く人間となる。
「――待て。まさか、あいつもレーゼ家の人間なのか?」
義肢装具士アーヴィング・ネイピアが発したその言葉。すると黒猫ひじきをナデナデしていたラドウィグが顔を上げ、かつての先輩を見やった。それからラドウィグは言う。
「ネイピア先輩、そこの人たちの言葉は信じないでくださいねー。いつも適当なデマカセばーっかり言うんすから」
とぼけた声でラドウィグはそう言うと、彼の膝の上に乗っていた黒猫ひじきを抱き上げる。さながら赤ん坊を扱うかのように猫を両腕で抱くラドウィグは、不愉快さを訴える視線でアレクサンダー・コルトを殴りつけていた。けれどもアレクサンダー・コルトはその視線を跳ね返し、それどころかラドウィグに反撃を仕掛けるのだった。
「どの口が言ってるんだかねぇ。ラドウィグ、アンタも嘘と隠し事ばっかりじゃないかい。他人のことを言える立場にないだろうに」
そのように軽妙な遣り取りを交わすアレクサンダー・コルトとラドウィグの様子を見ながら、ジュディス・ミルズは静かに目を伏せる。無言で佇む彼女は、ある決意を固めていた。
その一方で、家に取り残されていた心理分析官ヴィク・ザカースキーはというと……――
「ランジー。今は仕事中なの、大人しくしてて」
居住することになる家の掃除を終え、ひとまず自分のスペースを確保した彼女は、少しずつ自身の仕事を再開していた。だが、思うように仕事をすることができない。
この家には、彼女の仕事を邪魔するものが多すぎるのだ。今までは三毛猫ミケランジェロという可愛らしいトラップだけだったのだが、それが三倍になれば疎ましいというもの。
「お願い、ランジー。今は邪魔しないで。そこのベッドで寝ていてね。……そう、あなたは良い子。他の子たちみたいな邪魔はしないでね……」
料理の最中に擦り寄ってきては、つまみ食いをさせろと要求してきたり、一口お零れを得たかと思えば味にケチをつけてくる、リシュという名の狐っぽい何か。九本の尻尾を持つ不気味なその生物は、とにかく人を苛立たせることを得意としていた。
偶に訪ねてきては家の邪魔なところに身を伏せて、ぶーぶーと大きな寝息を立てながら眠るだけの大きな雄ライオン。ウィクとかウィキッドとかと呼ばれているその巨躯の怪物は、特に何かをしてくるというわけではないのだが……けれどもそこに居られるというだけで妙な緊張感を抱かざるを得ないというもの。心理分析官ヴィク・ザカースキーは、この白いライオンにビクビクしていた。
そしてパヌイという名の、鳥のような翼を背中に持った奇妙な白猫。人語を扱いながらも、やたらとニャーニャーと必要以上に鳴くその猫は、特に心理分析官ヴィク・ザカースキーに付き纏ってくる。彼女の傍をぐるんぐるんと飛び回り、やたらめったら彼女に喋りかけてくるのだ。
『資料なのニャ? ニャーにも読ませてなのニャ~』
「えっ、ええ。いいけど……」
先日、テオ・ジョンソン部長から回されたゲラ刷り。まさに今、心理分析官ヴィク・ザカースキーはそれに目を通していたところなのだが、やはり妨害が入ってくる。顔を顰めさせながら文字を追っていた心理分析官ヴィク・ザカースキーの傍に飛んできた白猫パヌイは、彼女の肩の上に降り立った。それから翼を畳む白猫パヌイは右前足を下へと伸ばし、空中を掻くような仕草をする。すると、ゲラ刷り原稿が動き出した。白猫パヌイは原稿に触れていないにも関わらず、テーブルの上に置かれた原稿が白猫パヌイの前足の動きに合わせて頁がペラペラとめくられていったのだ。
それまで彼女が読んでいた場所に、大慌てでペンを挿む心理分析官ヴィク・ザカースキーは、彼女の肩に載っている白猫パヌイを驚愕と共に見やる。
そして視線に気付いた白猫パヌイも、心理分析官ヴィク・ザカースキーの顔を見た。それから白猫パヌイは、彼女にこんなことを問う。『誰かの自伝本なのニャ?』
「そ、そう。電子楽器メーカー会長の自伝本よ」
『にゃ~るほどぉ。それでヴィクはこの中から何を探してるのニャ?』
「憤怒のコヨーテ……――その、かつてサー・アーサーと呼ばれていた男について。何かこの中に情報が無いか調べろ、って言われてて。弱点とか、交渉材料とか、そういうの」
『弱点が、本に……。そんな都合のいい話があるのかニャ? これ自体が罠じゃないのかニャ?』
「分からないけど、取っ掛かりはこれぐらいしかないし、とにかく探ってみるしかないでしょう? ……それでこの本の中では、あの男の名前は『ウディ』とされているようなんだけど、でもウディに関する言及は数ページしかなくて。でも分かることと言えば、その人物は若い頃からひねくれていて狂っていたってことだけ。あとは家庭について強い執着があるとか、それぐらい」
原稿を真剣に見やる白猫パヌイを見つめながら、心理分析官ヴィク・ザカースキーは淡々と答える。喋る猫相手に真面目に仕事の話をしているというこのシチュエーションに彼女は君の悪さを覚えていたし、その猫が魔法のような力をさも当たり前のように使っていることに驚愕していたのだが……――それについては深く考えないようにしていた。何故ならば、ラドウィグがこの奇妙な猫たちについてこう語っていたからだ。人知を超えた存在、神や精霊という概念に限りなく近い存在だと。
そんなわけでタジタジとしている心理分析官ヴィク・ザカースキーは、彼女の肩の上に乗っている白猫パヌイを気味悪がるように見ていたのだが。そんな視線など気にもしない白猫パヌイは、テーブルの上に置かれていた原稿に夢中になっていた。そして白猫パヌイの前足の動きがピタッと止まり、絶えずめくられ続けていた頁の動きもピタッと止まる。すると白猫パヌイがこんなことを言った。『ここ、気になるニャ。結婚した、っていう前後のところ』
「……ウディは婚姻後に精神状態が一時的に不安定になり、投薬治療を受けていた、ってところ?」
『ぅにゃ~……後というより、前の項目のほうが気になるのニャ』
「えっと、どこだろう……」
『この頁の十二行目。彼が愛用していた楽器をある人物に叩き壊されてから、っていうところニャ。著者のひとは、この騒動から“ウディが別人のように変わった”って分析してるけど、でも楽器ひとつぐらいでそんな変わるものなのニャ? 子供なんて欲しくない、結婚も絶対にしないって言い張ってた人物が一転、結婚を決断して、自分の子供を溺愛するパパになるって……。ニャーでも分かるのニャ。これはあんまりにも急すぎるのニャ』
「とすると、壊された楽器には、楽器というもの以上の価値があったってこと?」
こんな短時間で、よくそこまで読み込めたな。……心理分析官ヴィク・ザカースキーはそう驚きながら、白猫パヌイに返事をする。そうして言葉を発した後、彼女は今一度会話の内容を咀嚼し、考え直した。
「……」
ウディという人物はフィドラーとしても活躍していて、彼には長く愛用しているフィドルがあった。しかしそのフィドルは、とある人物に破壊されてしまう。以降ウディという人物は音楽活動をキッパリと止め、またフィドルが破壊された直後には長く付き合っていた交際相手と結婚することを決意したらしい。それも、在学中での結婚を。けれども急激に変わった生活に体が付いていかず、ストレスを溜め込んだ彼は精神面のバランスを崩し、婚姻後の数か月は精神科に通院しながら投薬治療を受けていた。その後、彼に出ていた症状は寛解し、そして彼は我が子を溺愛する良い父親に変わっていった……。
――原稿から分かることといえば、これだけ。不自然と思えるぐらい情報が少なすぎるし、エピソードの抜け落ちが多いような気がしなくもない。フィドルが象徴するものが分からないし。投薬治療とあるが、これが具体的に何の治療を行っていたのかも分からない。精神面のバランスを著しく崩すほどのストレス要因も定かではない。
そして心理分析官ヴィク・ザカースキーはこう結論付けた。
「やっぱり、この原稿だけじゃ何も分からない。……アレックスさんなら何か知ってるかな」
心理分析官ヴィク・ザカースキーは原稿を見やった後、再度白猫パヌイの目を見る。白猫パヌイもまた心理分析官ヴィク・ザカースキーの目を見て、そして一度ゆっくりと瞬きをした。それから白猫パヌイは、心理分析官ヴィク・ザカースキーにこんなことを言う。
『カリスさまに聞くしかないのニャ。カリスさまなら、当時のことを知っているはずニャ。――だから、貢物を用意するのニャ!』
「み、貢物?」
『そうニャ~、貢物が必要なのニャ~。カリスさま、昔はレモンが利いてて酸っぱくてオリーブオイルたっぷりなマヨネーズが好きだったんだけどニャー、最近は卵のコクが利いててキャノーラ油たっぷりな濃厚マヨネーズがお好みらしくてニャ~。それでニャ、ソフトチューブ型のマヨネーズを吸うようにちゅーちゅー食べるのが――』
「えっ、マヨネーズ? いや、その前にカリスさまって何者?!」
『説明はルーが帰ってきたらするのニャ~。ヴィクは上司のひとに濃厚マヨネーズをいっぱい用意するようお願いするのニャ~。チューブタイプのマヨネーズなのニャよ~』
マヨネーズの貢物。そんなすぐには理解できないような言葉に心理分析官ヴィク・ザカースキーは一瞬戸惑いを覚えたものの、すぐに彼女は頭を切り替える。理解できない生物に囲まれる生活にも慣れてきていた彼女は、理解できないものは理解できないとしてすぐ切り離すというスキルを身に着けていたのだ。
そうして困惑をすぐに投げ捨てた心理分析官ヴィク・ザカースキーは、目の前にある情報に集中した。再度、彼女は原稿を見直す。そして彼女はふと違和感の正体に気付いた。
「……待って。この原稿、故意に内容が割愛されてる気がする」
『割愛……? 何が省かれてるんだニャ?』
「かつてのバルロッツィ氏と『ウディ』の二人は、言うなれば要介護者と介護者みたいな間柄だったんでしょう? なのに、バルロッツィ氏に対する言及の数と比較すると、あまりに『ウディ』の登場回数は少なすぎる。まるで釣り合ってない。それなのに数えるほどしかない『ウディ』に関する記述からは、バルロッツィ氏と同じぐらい彼が著者と親しかったことが伺える。それに所々、話の展開が急というか、エピソードが大幅に省かれているように感じる不自然な箇所がある。それも『ウディ』に関連した話のところだけ……」
『つまり著者のひとは、ゲラ刷りが誰かに盗まれることを見越して意図的に重要な箇所を省いた、ってことなのニャ?』
白猫パヌイがポンッと発した言葉は、心理分析官ヴィク・ザカースキーが感じた違和感の正体にピタッとはまり、謎をスルスルと解いていく。そして心理分析官ヴィク・ザカースキーは呟いた。「……部長に報告しなきゃ……」
『カリスさまへの貢物の準備ニャ?』
「部長に著者を尋問してもらう。たぶん著者は今もコヨーテ野郎と接点があるのよ、だからそれを確かめてもらう。……その方がマヨネーズを集めるよりも早いわ」
心理分析官ヴィク・ザカースキーが連絡用の端末に手を伸ばしていた時。シドニー某所では、心理分析官ヴィク・ザカースキーが予想した通りのことが起こっていた。
「久しぶりだな、掃除屋 」
一等地の住宅街、その隅に立っているこじんまりとした一軒家。豪邸というほど大きくはないが、まあそれなりに見栄えのする家の主は、ごちゃごちゃな状態の作業台に向けていた視線を上げると、壁面に取り付けられたブレーカーのスイッチを押し、この部屋の電源を落とす。部屋の中は電灯が消えて薄暗くなり、窓から差し込む僅かな日光だけが視界を確保する役を担うようになった。続いて、家の主は自身の目の前に置かれていたオシロスコープが描き出す曲線が消失したのを確認すると、回転椅子をグルッと回して背後へと振り返る。そして家の主は、この取っ散らかった状態のガレージに勝手に立ち入ってきた死神――両瞼を固く閉ざしたアルバ――に、そう声を掛けた。
電子工作のための工具や機材が乱雑に積まれたラック、作りかけの機械や半田ごてが散乱しているデスク、読み終えた本が適当に詰め込まれた本棚……。私物に頓着しないエンジニアらしいこのガレージの惨状を見て、アルバは溜息を零す。懐かしさも感じるこの散らかり具合に、アルバは長い付き合いになるこの友人の成長の無さを思い知った。禿げあがった皺くちゃの老人になったというのに、若い頃から続くダメな点がまるで治っていない、と。
一方、家の主――電子楽器メーカーの会長であるデリック・ガーランド――は、髪がすっかり白くなったことの他には大して変化の見られない友人、ないし死神の姿に内心では恐れおののいていた。けれども、デリックはそれを顔には出さない。そして古い友人を迎え入れる彼は、アルバにこう言うのだった。「お前が言った通りのことが起こったよ。出版社でゲラが盗まれたんだ。――別に原稿は用意しておいて良かった。盗まれていないほうの原稿、従来の内容で発行されるはずだ。当局の邪魔が入ったという話も聞いてないし、予定通り明日には書店に出回るようになるだろう」
「そうか。ならオークションも無事に執り行えそうだな」
「ああ、そっちも予定通り二週間後に開かれるはずだ。あのモンスターを高値で売るためのストーリーは完璧に敷かれたし、心配することは何もないさ」
アルバの問いに、デリックは僅かな笑みと共にそう答える。尚、モンスターとは文字通りの意味ではなく、モンスターのような電子楽器という意味だ。
それは若かりし頃にアルバが発案し、そのアイディアを元にデリックが気合を入れて創ったものの、五〇本中九本しか売れなかったという逸話のある電子フィドル『ドーンエイジ』シリーズ。そのオリジナル第一号こそが出品予定の“モンスター”なのだ。
アルバがサンプリング音源を提供した電子フィドルであるため、その音色は非常にクセが強い。普通に弾くだけで勝手に大量の装飾音が追加されるし、指定した調に合わせたドローン音や和音が自動的に加えられるなんていう機能も付いている。ついでに、弓をワンストローク引くだけでアルペジエーターのように音階が自動的にピコピコと移り変わる音が鳴るなんていう機能も搭載されていた。
そんなクセが強すぎるフィドルは製作者から存在を忘れられ、長いことガレージの隅に放置されて埃まみれになっていたのだが。そのフィドルにも陽の目を浴びる機会が巡ってきた。それは半年ほど前のこと。ペルモンド・バルロッツィの自死を機にデリックの許を訪ねてきたとあるジャーナリストが、デリックに自伝本の執筆をしないかと企画を持ってきたときのことだ。
ジャーナリストの言葉を話半分で聞いていたデリックだったが、その話を聞く中でデリックは意外な事を知った。世間の関心はペルモンド・バルロッツィの過去、彼という人物がいかに変人であったかということに向いているのかとばかり思っていたデリックだったが、それは誤りだったということに気付いたのだ。
勿論そういう話にもニーズはあったが、それよりも世間が欲しがっていた情報はペルモンド・バルロッツィの友人のほう。テロリストと仇名されている人物シルスウォッド・アーサー・エルトルに関する話だった。
そんなわけでデリックは当の本人に、シルスウォッド・アーサー・エルトル改めアルバとなった男に許可を取ることにした。昔話をネタに本を書いていいか、と。するとアルバは快諾したうえで、条件を付けてきた。オークションを開いて過去に作った電子楽器を出品しろ、と。
なぜアルバがオークションにこだわっているのか。その理由をデリックは知らないが、けれどもオークションは開催する方向で話を進めている。デリックとしても、生前整理というヤツにちょうどいいと考えていたからだ。妻子を持っていない彼にとって、オークションは財産を有効に処分できる良い機会だったのだ。
「勿論、分かっているとも。名目はチャリティーだ。収益はエリーヌ・バルロッツィ財団に全て寄付され、孤児たちの支援に回されることになるだろう。そして配送費等は落札者が全額負担するということになっている。俺のところに金が流れてくることは無い。……大昔にお前から課された制約は今も守っているよ」
「律義だな、デリック・ガーランドにしては。まあ、金のことはどうでもいい。誰が集まるか、それが重要だ」
デリックの言葉に、アルバはそう返事をする。そんなアルバは焦っているのか、どこかカリカリとした様子だった。その姿を見るデリックは手に汗を握るとともに、生唾を呑む。
アルバが現在身を置いている世界のこと。それを踏まえ、デリックは彼の目的を今まで聞かずにいたのだが、しかし薄々勘付いてはいた。良からぬ目的の為に自分は利用されているのだろうと。
目的が何にせよ、その内容は把握しておきたい。デリックはこのとき、そう考えを改めた。そしてデリックはしかめっ面のアルバを見ると、彼に問いを投げるのだった。「今更お前が名誉挽回を考えているとは思えない。集まった記者や物好きたちの前で真実を説き、理解を求めるなんてことをやるつもりはないんだろう? だとしたら、お前の目的は何だ」
「ASIの連中を釣るためだ。少なくとも、アレクサンダー・コルトは釣れるはず」
「頬に傷がある彼女か。……彼女はお前の部下じゃなかったのか?」
「いいや。あれはASIに飼いならされたライオンだ、私の部下だったことは一度もない」
「そうか。それで彼女を釣り上げたとして、だ。お前はどうするつもりだ?」
「殺す。それだけだ」
「殺すとして、それはどこで?」
「安心しろ、この国土の上では行わない。お前の評判を傷つけるようなことにはならないさ」
薄ら笑いと共に乾いた声で問いに答えていくアルバだが、彼の瞼の隙間から幽かに漏れ出ている蒼白い光には隠しきれない怒りが溶けている。それも些細な苛立ちではない。殺すという強い言葉に相応しいほどの濃い怨毒だ。
デリックは久しぶりに見る友人の怒りに満ちた姿に、先のことを憂える。友人が殺すと宣告した人物にデリックは同情した。アレクサンダー・コルトがアルバに何をしたのか、それとも何もしていないのか、それをデリックは知らないが、けれども彼女がアルバの怒りを買ったことは間違いない。そしてアルバは執念深い人間だ。正当な怒りであろうが理不尽な逆恨みであろうが関係なく、ターゲットを定めたのならば最後、地獄の果てまで追いかけまわす男である。つまり、結末は……。
「お前の言いたいことは分かっている、デリック。だが、あの女だけはこの手で始末しなくてはならない。そうでもしなければ腹の虫が治まらん」
薄ら笑いを維持したまま、アルバはおぞましい言葉を語る。僅かに開いた彼の瞼からは、人から外れた者の光が飛び出た。
「……」
説得が通用する時期はもう過ぎているのだろう。気味の悪い微笑みを浮かべるアルバの顔を見て、デリックはそう判断する。こうして復讐が実行の段階に移行している時点で、アルバを宥められる者はもういない。昔は彼を止められる人物が居たが、彼女は故人。怒れる狂人を野放しにすることしか、デリックにはできないのだ。
「……そうか、分かったよ」
クロエ・サックウェル。
彼女がボストンと共に消え去っていなければ、今がこのようになることもなかったのだろうか?
「彼女が訪ねてきたらお前に報せよう」
デリックはアルバの閉ざされた瞼をじっと見つめながら、そう言う。するとアルバの表情は満足げな笑みに変わった。そしてアルバは黒い煙となり、どこかへと消えていく。
来客が消えたことを確認すると、デリックは回転椅子を元の位置に戻し、ブレーカーのスイッチを押した。消えていたガレージの電灯が次々と灯っていき、薄暗いガレージの中がそれなりに明るくなる。ラックに積まれていた機材の電源も入り、控えめな電子音がガレージのあちこちから聞こえてきた。
「……殺す、か。あいつにそこまで言わしめるとは、彼女も何をやらかしたんだか……」
小声でそう呟くデリックは、作業台の中央に置かれていた小さな機械に手を伸ばす。引退後の個人的な趣味として制作している、手のひらサイズの小さなモジュラーシンセサイザー。その改良作業にデリックは戻ろうとしたのだが、そんな彼を邪魔する騒音が鳴り響いた。
作業台の脇、サイドテーブルの上に置かれていた古風な黒い固定電話。それが悲鳴を上げたのだ。デリックは顔をムッと顰めさせると、その受話器を取る。そして受話器から聞こえてきた声に、デリックは思わずため息を零した。
「――そろそろ連絡が来る頃だと思っていたよ、ジョンソンくん。話は全て前高位技師官僚から聞いている。説明の必要はない」
ASI、アバロセレン犯罪対策部、テオ・ジョンソン。聞こえてきたそのワードに、デリックはそう言葉を返す。遂にこの時が来たのか、と彼は観念した。
ペルモンド・バルロッツィの遺した謎めいた予言の通りに事が進んでいる。ジャーナリストがデリックに企画を持ち込んでくることも、アルバが企画にかこつけてASI相手に罠を仕掛けることも、こうしてテオ・ジョンソンと名乗る人物から連絡が来ることも……。
「ひとつだけ、言っておこう。私は再来週、チャリティーオークションを開催する。来るも来ないも君たちの自由だ、しかし仮に踏み込むのであれば君たちの命の保証は出来ない。――賢明な判断を期待しているよ」
相手の言葉を聴くこともなく一方的にデリックはそれだけを言うと、ブツッと電話を切り、そしてガレージのブレーカーを再度落とす。――たった今デリックが発した言葉は、予め与えられていた予言に逆らうものだった。
+ + +
時代は遡り、四二二二年の七月下旬。この日のシスルウッドは、二年間居候していたペルモンド宅を引き払うための準備をしていた。
といっても、段ボールに詰め込む荷物は然程ない。衣類やバス用品といった必要最低限のものは既にボストンバッグの中に纏めてあるし、それ以外の大きな荷物などは貸倉庫やバーンズ・パブの二階に置いてあるからだ。シスルウッドが使っていたベッドやデスクといった家具も、そもそもこの家のゲストルームに備え付けてあったものであるため、次の住居に持っていく必要もない。そんなこんなでシスルウッドが纏めるべき荷物は買い足した本や筆記用具、それとジェニファーから貰った絵だけとなっていたのだが……。
「んー……」
段ボールに本を詰め込んでいたシスルウッドは、ふと部屋の隅に置かれたキャンバスを見る。額縁に入れられることもなく床に直置きされていたその油絵には、バーンズ・パブの看板猫たち――茶トラ猫イシュケ、白猫ビャーハの二匹――が仲良く並んで眠っている姿が、かなり写実的なタッチで描かれていた。この猫たちはジェニファーのミューズたちでもあり、かなり愛のこもった作品となっている。
「…………」
作業の手を止めるシスルウッドは、絵に描かれた猫たちを見つめながら溜息を吐く。彼は気に入っているこの絵を次なる住処へ持っていきたかったのだが、それはやめておくことにしていたのだ。
次に彼が転がり込む予定でいるのは、恋人改め婚約者となったキャロラインの実家。そして義両親となるロバーツ夫妻は、どちらも大の猫嫌いで大の犬好きだった。そんな猫嫌いの人たちが住まう家に、猫の絵は持っていけない。
シスルウッドはこの絵が非難される場面を見たくはなかった。この絵に描かれた猫たちも、この絵を描いてくれたジェニファーの思いも、シスルウッドにとっては大切なものであったのだから。だがロバーツ夫妻は少しだけ、犬好きらしく無神経で独善的なところがある。たぶん彼らは平気な顔をしてシスルウッドの思いを踏み躙ってくるだろう。なら……――
「なぁ、ペルモンド。あのジェニファーの描いた絵は、アトリエに飾っても良いか?」
本を段ボールに入れる作業を手伝ってくれていた家主――この時の家主の人格は、良好なコンディションの状態にあったペルモンドであった――に、シスルウッドはそう声を掛ける。するとペルモンドも作業の手を止め、顔を上げた。が、ペルモンドから芳しい反応は得られない。
ペルモンドはシスルウッドの言葉に、首を傾げるという反応を見せる。そしてペルモンドはこう言った。「アトリエ……?」
「あぁ、そうか。お前にとってあの部屋は『開かずの間』だったな」
シスルウッドが言った“アトリエ”とは、この家の角部屋のこと。家主の人格がペルモンドであるときは基本的に閉め切られているが、それ以外の人格が出ているときは開いている部屋である。いうなれば、ペルモンドという人格だけが利用できない場所なのだ。
ペルモンドが表出しているときには固く閉ざされている扉を開けた先には、イーゼルや油絵具といった画材が揃ったアトリエのような空間が広がっている。
このアトリエは、主にジュードという人格が使っている空間(偶にジェニファーも、このスペースを借りに来る)。ただ、ここでジュードが作成する絵は少し変わっていた。というか、ジュードが描き残しているのは絵ではなく、記憶なのだ。
「ジュードっていうお前の別人格は、定期的にあの部屋にこもって油絵を描いてるんだ。主に人物画を。出会った人間をキャンバスに投影して印象を記録してる、っていうようなことをジュードは言ってたぞ」
シスルウッドは、困り顔をしたペルモンドにそう説明する。するとペルモンドは何かを思い出そうと顔を俯かせて瞼を閉じ、黙りこくった。しかし数十秒後に顔を上げて目を開けた彼の口から飛び出してきた言葉は、シスルウッドが予想した通りのもの。「記憶にないな」
「そうだろうねぇ。なら、見てきたらどうだ。自分がその手で描いたくせに、まったく覚えちゃいない絵たちを」
シスルウッドはペルモンドにそう促してみるも、ペルモンドは首を横に振って拒んだ。そしてペルモンドはこう答える。
「……やめておく。良くないことが起こりそうな気がする」
神妙な顔でそう言ったペルモンドだったが。彼はその反面、その部屋にどんなものがあるか気になっていそうでもあった。そこでシスルウッドは、アトリエにある絵の一部を教えることにした。
「ジュードの絵は基本、単色で描かれていてね。色によってその人物の印象が分類されてるんだ。例えば、エリカの絵は好印象って意味の黄色をベースに、朗らかそうな人っていう意味の緑がハイライトとして使われている。ジェニファーの絵にはぶっ飛んでいるって意味の水色が、ブリジットは大嫌いって意味の黒が使われている。まあ、そういう絵しか置かれてないよ、あの部屋には」
するとペルモンドは腕を組み、何かを考え込む。目を伏せ、眉を顰めるペルモンドには、今の話になにか引っ掛かるものがあったようだ。
「どうかしたのか?」
シスルウッドがそう訊ねるとペルモンドは顔を僅かに上げ、垂れ目がちな目をシャキッと開いた。が、次の瞬間またその目が伏せられる。そしてペルモンドの視線は、シスルウッドの足許に逸れた。続いてペルモンドはブツブツと独り言を呟き始める。
「……今、何を言おうとしたんだ、俺は? たしか、こいつに何か言うことがあったような気が……いや、でも何を……?」
この短時間のうちにもう会話の内容を忘れたのか? ――そんな風にシスルウッドは唖然とした。ペルモンドの物忘れのひどさは今に始まったことではないが、こんな瞬間的に忘れる場面に遭遇するのはシスルウッドにとって初めてのことだったからだ。
そうして数十秒ほどペルモンドは思い悩んだ後、何かを思い出したのか顔を上げる。だが、飛び出してきた言葉は先ほどまでの会話とは何の関係もない、文脈からかなり外れたテーマだった。
「――あっ、そうだ。お前に渡すものがあったんだ」
「え? 僕に?」
「お前が立てる雑音が聞こえなくなって、本音を言うとホッとしていたが。落ち込んでるお前を見るのは、なんだか複雑な気分だった。だからリベンジも兼ねて作ってみたんだが……――」
絵の話から急に飛んで、話題は雑音というテーマに変わる。急な話題の転換に驚くシスルウッドはワケをペルモンドに聞こうとしたが、しかしシスルウッドがその詳細を訊ねるよりも前にペルモンドは何かを取りにいくために部屋の外へと出て行ってしまった。彼が向かっていったのはアトリエとは真逆の方向、たぶん電子部品やら電動ノコギリやらが置かれている作業部屋だろう。
そこでシスルウッドは気付く。雑音、そしてリベンジといえば……――まさか電子フィドルでも作ったのか、と。
昨年、ペルモンドはデリックと共同で電子フィドルなるものを作っていた。その発端はシスルウッドの嘆き。鍵盤楽器をうまく扱えないシスルウッドが「フィドルの形をしたシンセサイザーとかあったらいいのになー」とボヤいたことが始まりだ。そうしてデリックらが作り上げた電子楽器は、エフェクターの内蔵された電子フィドル。シスルウッドが使っていたフィドルの音をベースに、少しエレクトリックな音が鳴るものが出来上がった。……が、これをシスルウッドが気に入ることはなく、使う機会が訪れたことは一度も無かった。
そんなこんなでシスルウッドは見当を付けた。ペルモンドはあの電子フィドルを改良したものを作ったのだろうか、と。だが戻ってきたペルモンドがシスルウッドに見せたものは電子フィドルではなかった。
「……どうだろうか。可能な限り、前のものを再現してみたつもりなんだが」
ペルモンドが持ってきたのは、ごく普通のフィドルだった。褪せた色合いや狭い木目の感じは、シスルウッドがかつて愛用していたものにそっくりである。サニー・バーン、そしてシスルウッドの実母が使ってきた、あのフィドルに……。
差し出されたフィドルを受け取るシスルウッドは、その木目をまじまじと見やる。そんな彼は昨年に起きたある出来事を思い出していた。
「……持った感じは前のものと全く同じだ。今まで試してきたどのフィドルよりも馴染んでる。流石だな、ペルモンド」
あれはデリックが電子フィドルを完成させる直前に起こったことだ。まだ借金を完済できていたわけではなかったデリックに頼まれ、シスルウッドが二度目の公演をやらされることになった日。あの日、シスルウッドの因縁の相手であるヴァイオリニスト、ロワン・マクファーデンがヴェニューに押しかけてきたのだ。
本番直前の楽屋に押し入ってきたロワンはシスルウッドの相棒であるフィドルを見つけると、それを破壊した。ネックを掴み、床にフィドルを何度も叩きつけ――それはシスルウッドが物販エリアに立っていた時に起こった事件だった。
クロエから話を聞かされ、大慌てで楽屋に駆け戻ったシスルウッドが見たのは、粉砕された相棒の姿、穴の開いたバスドラム、ネックの折れたエレキベース、勝ち誇ったように笑うロワンの顔、めちゃくちゃな状態になった楽屋の惨状……。
楽屋で待機していたメンバーたちは、楽器に手を出そうとするロワンを押さえ付けようとしたようだ。シスルウッドの相棒を守るために、そして自分たちの相棒も壊されないようにするために。そうしてロワンともみ合いになった結果、シスルウッドのフィドルだけでなく他の楽器も破壊されることとなり、壁にも穴が空き……――デリックの懐は更に痛むこととなった。
『どうしてこうも、金持ちのお坊ちゃんってヤツは人の所有物を破壊したがるのかねぇ……』
壊れたフィドルを見下ろしながら、シスルウッドはそれだけを呟いた。幼い頃に受けた仕打ち、異母兄ジョナサンに楽器を壊された夜のことを思い出しながら、彼は褪めた声でそれだけを言った。ロワンの顔を殴りたい衝動をグッと堪え、彼は自分に言い聞かせるようにそれだけを言ったのだ。
その日、公演は結局行えなかった。返金対応などにも追われ、結果として大赤字に終わった。見かねたペルモンドがデリックの抱える負債をまるっと肩代わりしたことでなんとか収まったが、それがなければデリックは今頃どうなっていたことだろう。
けれども、全ての元凶であるロワンは何も罰を受けていない。ヴェニューに出入り禁止となったこと、知人らから見切りを付けられたことを除き、罰らしいものは受けていないのだ。自分が一番だと騒ぎ立て、他者を蹴って追いやり続けた男は、その心を改めることなくどこかで今も良い暮らしをしていることだろう。
そしてシスルウッドは、壊されたフィドルの代わりとなるものを見つけられずにいた。そういうわけでペルモンドは、代わりになりうるものを作ってみたのだ。
「お前が使ってたやつは、木目が狭くて堅い中国産の松を表板に使っていた。だから甲高い音が鳴っていたんだ。それで、前のものと似たような木材が手に入ったから、そいつを使ってみたんだ。あと他のパーツも可能な限り前のものと同じ性質を持った素材を揃えるようにした。裏板やネックには日本産の楓、指板にはジャワ島の黒檀を使っている。接着剤はニカワでなく、ギターに使うようなボンドを使用した。それから色も、わざと落とし気味に――」
松が、楓が、どうのこうの。ペルモンドの語る言葉の意味が、しかしシスルウッドの頭の中には入ってこない。前のものとそっくりなものが出てきたことにただ驚くシスルウッドは、なんだか小難しいことを真剣に語っているペルモンドの話を遮ると、感謝の代わりに皮肉を言った。
「ごめん、木材のことは説明されたところで僕には分からないよ。それにしても……フィドル嫌いのお前の方が、どうして僕よりあのフィドルに詳しいんだ?」
「さあ、どうしてだろうか。でも、なんというか、その……分かったというか」
シスルウッドの皮肉に、ペルモンドは肩をすくめてそう答える。真面目そうなペルモンドの雰囲気から察するに、彼には本当に分からないのだろう。視力すら殆どなく、そしてオリジナルのフィドルをまじまじと見たことがあったわけでもない彼が、どうしてフィドルに使われている木材の詳細、及び産地まで分かったのかが。
だがシスルウッドは追及をしない。シスルウッドはその理由を知っているからだ。黒狼ジェドとかいう謎多き怪物、あれがいつものようにペルモンドに何かを吹き込んだのだろうと。
そして木材の話をスルーするシスルウッドは、自室の隅に置かれていたハードケースに手を伸ばすと、その封を一年ぶりに解く。その中から安物のカーボン弓と松脂を取り出すと、弓の毛にベベッと適当に松脂を擦り付けた。それから松脂を元の場所に戻した後、試しにシスルウッドは受け取ったフィドルを弾いてみることにする。
ざっくりと弦の音を合わせた後、弓を滑らせていく。開放弦の状態で何度も弓を繰り返し往復させた。シスルウッドは眉を顰めながらその音を聞き、顔をしかめるペルモンドは両耳を手で塞いで音を拒む。それを二分ほど行ったあと、シスルウッドは静かに弓を下ろした。それから彼は言う。「悪くない。でも新品の音がする。ギーギーっていう甲高い音がない」
「駄目だったか?」
「いや、これは仕方ないね。時間がこいつを育ててくれるのを待つしかないよ。ジーンズと同じで、使い込んで汚して、壊して修理していかないと望むものにはならないんだよ、こういうのって」
「……」
「でも、まあ、その、ありがとう。こいつは使わせてもらうよ。今まで見てきたどのフィドルよりも、これは前のやつに近い。……それにしても工場生産だろう廉価品をわざわざ手作りで再現するなんて、お前も変わってるな」
そう言うとシスルウッドは受け取ったフィドルを弓と共にハードケースの中へと収めた。フィドルはハードケースの中にスポッと綺麗に嵌まる。その様子を見ていたシスルウッドは、望んでいたものに近い存在が手に入ったことに少しの安堵感を覚え、微笑を浮かべた。
それからハードケースの鍵を閉めると、シスルウッドは顔を上げ、ペルモンドの顔を見やる。段ボールが積まれた部屋の中に突っ立っている彼は、何かもの言いたげな顔をしてシスルウッドを見ていた。
「どうした? 言いたいことがあるなら、言えばいい」
ペルモンドとの会話はいつもこの調子である。積極的に何かを喋ろうとしないペルモンドは、相手から何かを言うよう急かされたり、発言を求められたりしない限り自発的に喋ろうとはしない。お喋りなジェニファーに性格が似ている別人格ジュードは好き放題に一方的な会話をしてくることが多いのだが、ペルモンドはその真逆で静かすぎるのだ。故に、こうしてシスルウッドが「言え」と一々せっつかなければならない。
そうしていつものようにシスルウッドがせっついてみれば、ペルモンドは腕を組み、一瞬なにかを考え込むような表情を見せる。それからペルモンドは静かにこう語った。
「この部屋も狭いし、快適だとは決して言えない環境だが、とはいえ地下室よりは快適だと思う。ボイラーのすぐ横で寝るだなんて俺でも嫌だと感じる。一晩だけならまだしも、そんな環境に引っ越すだなんて……」
暗に引き留めるようなことを言うペルモンドに、シスルウッドは苦い笑みをこぼすことしかできない。というのも彼自身、不安に感じてはいたのだ。移り住む先が地下室、それもボイラー室であるということに。
シスルウッドはキャロラインの両親に、キャロラインはブレナン夫妻に、それぞれ言い包められてなんやかんやで決まった……というか、勝手に決められた婚姻話。それは本人たちの意向を無視した状態でトントンと進められている。今回の引っ越しもそのうちのひとつだ。
キャロラインの両親は、キャロラインをよそに出すことを認めなかった。キャロラインが新居に越すことも、バーンズ・パブの二階に移り住むことも認めなかったロバーツ夫妻は、シスルウッドにロバーツ家へ移り住むよう求めてきたのである。また婚姻後はバーンという姓を捨て、ロバーツに改めるようにとも突き付けられた。
姓の話はシスルウッドにとってはどうでもいいこと。ただ、そんなことよりも重大な問題があった。なんとロバーツ夫妻はシスルウッドに部屋を提供する気がなかったのだ。
ロバーツ夫妻が提示した部屋は地下のボイラー室。なんと彼らは『ボイラーの横にマットレスでも敷いて、そこで寝ろ』とシスルウッドに突き付けてきたのだ。階下の従僕、それ以下の冷遇だった。
この扱いにはキャロラインも憤慨。だったら自分が出て行くと彼女は言い張ったが、頑固な彼女の父親が折れるはずもなく。また資産を親に握られているキャロラインに自由などあるはずもなく。仕方なくシスルウッドがロバーツ夫妻の要求を呑んだわけなのだが。
しかし、ボイラー室だ。本音を言うなら……――嫌に決まっている。
「そりゃ嫌だけどさぁ。ボストン市内のほぼ全ての不動産屋から出禁くらってる現状が解決されない限り、他に行く当てもないし。仕方ないよ。ボイラーの横で寝る生活を受け入れるしかない。それを受け入れなかったらキャロラインと別れろ、そして二度と顔を見せるなって言われてるから。……こう言っちゃアレだけど、ロバーツさんたちは無茶苦茶だよ。キャロラインが柔軟で理解のある性格に育った理由がサッパリ理解できないぐらいには、偏見と傲慢さと頑固さで満ちている。これだから犬好きは嫌いなんだ。猫好きのような寛容さや柔軟性、思慮、思いやりがない。この違い、一体何なんだろうな?」
同情のまなざしを向けてくるペルモンドに、シスルウッドはそんな不満をクドクドと零す。
ちなみに。この“出禁問題”の解決を頼んでいたのが、後にペルモンドの後見人となる弁護士セシリア・ケイヒルだった。それまではこの問題に対し、泣き寝入りを決め込んでいたシスルウッドだったのだが、クロエの紹介で知り合った彼女から「父親がアーサー・エルトルだからっていう理由で出禁にされている? それは差別で、人権侵害でしかないよ!」と指摘されたことがキッカケで、解決を目指し動き出すことにしたのだ。
まあ、それはさておき。
「…………」
苦笑するシスルウッドの顔を、ペルモンドは意味深に見つめていた。そんなペルモンドの目に何が視えているのか、それはシスルウッドには分からなかったが、けれどもペルモンドが何か言いたそうにしていることだけは分かった。
「今度は何だ? 人の顔をじっと見て、気味が悪いぞ。言いたいことがあるなら、こっちの顔色なんて伺わなくていいから、スパッと簡潔に言ってくれ」
呆れ声でシスルウッドがそう声を掛ければ、ペルモンドはやたらと重たいその口を開く。彼はこう言った。
「最近、お前が寝てるところを見ていないような気がする。俺の記憶力はダチョウ並みだし、だから信用はできないが、でも、お前……目の下のクマがひどいぞ。だから、その、一旦手を止めて休んだらどうだ? それに、いつもより口数が多くなっているのも気味が悪くて」
ペルモンドは珍しく気遣うようなことを言ってくる。彼の表情は同情的で、シスルウッドのことをひとりの友人として案じてくれているようにも見えているが……だが“彼”の本音は分からない。
ペルモンドから目を逸らすシスルウッドは、提案を断るように手を動かし始める。本を手に取り、段ボールに詰める作業を再開した。
「そうだね。寝てないかも。でも大丈夫だよ。眠気も無いし」
シスルウッドはそう言いながら一冊の分厚い本、英独辞典を手に取る。だがその辞典は、近付いてきたペルモンドに取り上げられた。そしてペルモンドは辞典の背表紙で、軽くシスルウッドの頭をゴンッと叩く。
何事かとシスルウッドが顔を上げれば、そこにはしかめっ面をしたペルモンドの顔がある。そしてしかめっ面のペルモンドは、こんなことをシスルウッドに問うてきた。「お前、コカインでもやったのか?」
「いや。そんなものに手を出したことは無いけど」
「本当に?」
「ああ。僕は異母兄と同じ轍を踏むような馬鹿じゃない。薬物なんかやらないさ。それに、そんなもんどこで入手するんだよ。入口の在り処すら知らないぞ、僕は」
即答で否定するシスルウッドだが、ペルモンドはその言葉を信じていないのか疑うような視線をシスルウッドに向けている。その視線にシスルウッドは不快感を覚えていた。
だが同時に彼は肝が冷える思いをしていた。薬物の使用を疑われるような状態に今の自分はあるのか、と。
思い返してみればシスルウッドは数日まともに睡眠をとっていなかった。夜になっても眠気が来ないからだ。仕方なく本を読んで夜をやり過ごしていたら、気が付いたら朝になっていて……というのを四日ほど繰り返している。
なぜ眠気が来ないのか。これをシスルウッドが考えたことがなかった。ゆえに彼は気にもせず何日も徹夜をし続けていたわけだが。たしかにこれは異常である。
「……お前は寝るべきだ。せめて横になって、何もしない努力をしたほうがいい」
分厚い辞典を段ボールに収めながら、ペルモンドはシスルウッドを諭すように言う。
「…………」
普段は説教をする側だというのに、今は立場が逆転している。そのことに気持ち悪さを覚えながらも、シスルウッドは話を逸らすように気まずそうな微笑を取り繕う。それから彼はペルモンドにこう訊ねるのだった。「何もしない、よな?」
「質問の意味が分からない。どういうことだ?」
理解できない質問を投げられたペルモンドは、シスルウッドに問いを投げ返す。しかしシスルウッドは何も答えず、意味ありげな笑みを浮かべながら顔を逸らすだけだった。そんなシスルウッドの態度が気分を損ねたのか、不機嫌そうな顔に変わったペルモンドは静かにその場を立ち去っていく。
ペルモンドが居なくなったのを確認すると、シスルウッドは部屋の扉を閉め、扉には鍵を掛けた。それからホッと胸をなでおろす彼は、ベッドの上に腰を下ろす。続いて、背中からベッドに倒れ込むシスルウッドは五日前の真夜中にこの部屋で見たものを思い出していた。
「……」
傍に誰かが居るような感覚がして、ハッと目覚めたあの晩。ベッドの上で寝ていたシスルウッドが目を開けてみれば、ベッド脇にはペルモンドが立っていたのだ。
あの時のペルモンドは魂でも抜け落ちたかのような虚ろな目をしていて、彼はうわごとを呟くかのように繰り返し何度もこう言っていた。これは命令だ、命令だ、命令だ、と。彼の左手にはペティナイフが握られていて、ペティナイフの切っ先はシスルウッドの首筋を捉えていた。シスルウッドが身の危険を感じたのは言うまでもない。
シスルウッドは息を殺しながら、ペティナイフを奪い取る方法を脳内でシミュレートした。どういう風に飛び出し、どういう角度から手を伸ばせば、ナイフを奪取できて且つ制圧できるか、と。だが確実な方法が思い浮かばずシスルウッドが焦りだした、その時。何かに横から殴り飛ばされたかのようにペルモンドの体が吹っ飛び、床に倒れ込んだのだ。
暗闇の中に僅かに見えた緑色の軌跡。思うに、あれは黒狼ジェドとかいう化け物の仕業だったのだろう。
黒狼ジェドと思しき影にタックルを決められ、床に倒れ込んだペルモンドはそのまま気を失い、動かなくなった。それから気絶したペルモンドは足首を黒狼ジェドに咬まれ、そのまま黒狼ジェドに引きずられるようにどこかへと連れて行かれて……――翌朝、ペルモンドのもとにもシスルウッドのもとにも、いつも通りの朝が来た。いつもと違ったのは、シスルウッドの使っているベッドの傍にペティナイフが落ちていたことだけだろう。
思えばあの晩以降だ。夜に眠れなくなったのは。
「……いや、寝てる場合じゃない。荷物をまとめないと……」
ベッドに寝転がったシスルウッドはそう呟くと、体を起こそうとする。が、数日押し込められ続けていた眠気はシスルウッドが見せた隙を逃さなかった。
強烈な睡魔がシスルウッドを背中から襲い、起き上がろうとした体を再びベッドの上へと引き戻す。視界は瞬間的にブラックアウトし、意識と現実を繋ぐチャンネルは一瞬にして断絶される。眼鏡を外すことすら忘れて、その日はまるで死んだかのように眠りこけてしまった。
そして、その翌日のこと。急にペルモンド宅に押しかけてきたデリックにシスルウッドは腕を掴まれ、半ば強引に外へと連れ出されていた。
デリックの車に押し込められ、行き先も告げられぬまま「ドライブに付き合ってくれ」と言われ……――そうして連れていかれた先はバーンズ・パブ。見慣れた緑の小汚い外壁に目を瞬かせるシスルウッドは、デリックに訊ねる。「急に連れ出されたかと思えば、どうしてここに……」
「お前にだけ話しても、きっと『大丈夫だ』の一点張りになって埒が明かないだろうなと思ったからだ。周囲の人間を利用して袋の鼠にしちまうっていうのが、どうやらお前には一番効く手みたいだし。……っていうのは、クロエが言ってたことなんだけどな」
バーンズ・パブの敷地内にある狭い駐車場に車を停めた後、デリックはそう答えた。車から降ろされたシスルウッドはその言葉を聞きながら、緑色の外壁を見ていた目をデリックの顔に移す。腕を組み、どことなく不貞腐れたような顔をしているデリックに、シスルウッドはただ視線を当て続けた。
その視線には特段意味など込められていなかったのだが、しかしデリックは何かを感じたようだ。組んでいた腕を解くデリックは怠そうな声で、シスルウッドにあることを語った。
「昨日だかにジェニファーがクロエに話したらしいぜ? なんかその、お前に関する話を。んで今日、朝一番に俺ンとこにコールが掛かってよ。クロエ女王から『車出せ、アーティーを拉致ってこい』って命令されてな」
恋人であるクロエのことを“女王”と呼んだデリックだが、その声にはトキメキやら愛情といった感情は一切なく、完全に嫌味のニュアンスを帯びていた。それこそクロエという人物を暴君扱いしているかのようである。
そういえば……よくよく思い返してみると、クロエとデリックが恋人らしく振舞っていたところをシスルウッドは見たことがない。デリックの浮気に怒りながらも異様な寛大さで許すクロエも、懲りずに浮気や一夜の遊びを繰り返すデリックも、考えてみればかなり奇妙である。若者同士の気軽な恋愛というより、離婚間近の中年夫婦といった有様だ。
「君らの関係は何なんだ?」
シスルウッドがそう問えば、デリックは肩を竦めて唇をへの字にゆがめる。続けてデリックは重たい溜息を零した後、こんなことをボヤいた。
「俺は女王クロエの馬だな。あいつに手綱を握られてて逆らえねぇっていう立場だ。ガソリン代も駐車場代も出してくれねぇ女王さまに仕え続けている健気なアシだよ」
お前がみみっちいことを言える立場にあると思ってるのか? ひとの財布から勝手に金を抜き取りやがった男のくせに? ――と内心では突っ込んでいたシスルウッドだが、その本音は顔に出さない。デリックに同情するような表情を咄嗟に作り上げるシスルウッドは何も言葉を発さず、僅かに微笑むだけに留めた。
小さく微笑んだあと、デリックから顔を逸らしたシスルウッドはすぐに表情を消し、当時の“実家”であるバーンズ・パブの門をくぐる。店内には見慣れた常連客のジジィババァたちがちらほらと居て、その中にはムッとした顔のクロエ・サックウェルが混ざっていた。
常連客シェイマス・ブラウンはいつものカウンター席に座っている。そのシェイマス・ブラウンから少し離れたカウンター席にクロエは居た。どうやら彼女は、カウンターの内側で洗ったパイントグラスを拭いているサニー。バーン、及び夕方の営業に向けてビーフシチューの仕込みをしている最中のライアン・バーンと話し込んでいるようだ。それに会話の内容はバーン夫妻の顰められた表情から察するに良くないものなのだろう。
嫌な予感しかしていないが、しかしここまで来てしまったからには帰るわけにもいかない。取って付けたような明るい笑顔を顔に貼り付けるシスルウッドは、恐る恐るクロエの左隣の席に静かに腰を下ろす。するとすぐにクロエがシスルウッドの肩を掴んできた。
クロエは仏頂面でシスルウッドの顔を覗き込んでくる。それから彼女は一呼吸を置くこともせず、スパッと短く彼に宣告した。
「単刀直入に言うけど。たしか……リース医師、だっけ。彼のところに行け。なるべく早く」
デリックの恋人であり、人使いが荒いんだか面倒見が良いんだかが分からない奇妙な女、クロエ・サックウェル。そんな彼女は、ある肩書を持っていた。それは『精神科志望の医大生』というもの。
とはいえ彼女は本気で精神科医を目指しているわけではなかったし、そもそも医師になるつもりもなかった。彼女が医学部に進んだのも「医師免許を取れ! そしてクリニックを継げ!」とうるさい父親(彼女の父親は精神科医で、小さなクリニックを営んでいた)を黙らせるため。そのため勉学へ臨む態度もいい加減なものであり、留年をギリギリで免れるということを彼女は毎年のように繰り返していた。つまり彼女は不良な医大生だったわけである。
そんなこんなで不真面目で驕慢な彼女だが、しかし彼女の“人を見る目”は優れていた。彼女は相手の本性を見抜く能力に秀でていたし、小さな異変も見逃さない鋭い観察眼も持っていたのだ。
「……」
クロエの分析を軽視してはいけないということを経験から知っているシスルウッドは、彼女の言葉を聞くなり笑顔を消す。彼自身も薄々勘付いていたとはいえ、クロエにズバッと無情に「精神科にかかれ」宣告されたことが心にきていたのだ。
そうしてシスルウッドが動揺しているような素振りを見せれば、クロエはここぞとばかりに攻め込んでくる。この機を逃すかと言わんばかりに、彼女は説得を試みてくるのだった。
「ジェニーから聞いたよ、三日前のこと。朝まで一睡もせずに本を読んでたなんてどうかしてる。今だって顔色が良くないし。多分あの日だけじゃない、ここ最近ずっと寝てないんでしょ。それから――……いや、この話はいらないか」
「……」
「とにかく、休め。アンタは暫く大人しくしているべきなんだ。今のアンタはバッツィの世話なんかしていられる状態にないし、ボイラー室に引っ越していいコンディションじゃない。一旦ここに戻って、静養するべき。ここなら猫ちゃんもいるし、満足でしょ?」
クロエは何かを言い淀んだあと、カウンターの隅に置かれているトウモロコシ皮の網かご二つを指差し、それからニコッと笑う。それぞれの網かごの中で気持ちよさそうに寝ている二匹の猫を彼女は見やった後、出入り口の方へと振り返り、次に一足遅れて店の中に上がってきたデリックに目配せをした。それから彼女は言う。
「荷運びは私の奴隷……――んんっ、デリックにやらせりゃいいから。デリックなら運搬用の大きいバンも持ってるし。あと筋肉バカのユーリにも手伝わせればいいんじゃね? そんでバッツィの世話はエリカに任せとけ」
恋人を奴隷呼ばわりするクロエは、偉そうにふんぞり返りながらそう言う。しかし彼女の言葉の中には「誰かにやらせればいい」という文言はあったが「自分も手伝う」という文言はなかった。あくまでも人任せ、自分は関知しないというのが彼女の指針であるようだ。
そんなクロエの傍若無人な態度に、遅れてやってきたデリックは顔をしかめさせる。デリックはシスルウッドの左に座るとカウンターに肘を乗せ、だるそうに頬杖を突いた。それからデリックはわざとらしく大袈裟な溜息を零す。するとシスルウッドの右側から強烈な舌打ちの音が聞こえてきた。シスルウッドが右に居るクロエの様子を見てみれば、こちらも顔をしかめ、デリックのことを睨み付けている。
仲が良いとは思えない二人に挟まれたシスルウッドは、助けを求めるように視線をバーン夫妻に送る。すると拭き終えたパイントグラスを棚に戻す作業をしている最中だったサニー・バーンが手を止めた。それからサニー・バーンはシスルウッドの顔を見ると眉を顰め、こう言った。
「予約は入れておいた。明日の朝、八時半に来いとリース先生が言ってたよ」
サニー・バーンの言葉に、シスルウッドは肩を竦める。デリックの言っていた通り、まさに彼はクロエによって『袋の鼠にされた』わけだ。そして申し訳なさそうな顔でシスルウッドがサニー・バーンを見てみれば、彼女は腕を組み、口角を下げる。どうやらサニー・バーンには他にもシスルウッドに対して言いたいことがいくつかあるようだ。その内容は、客連中が居る場では言えないものであるらしい。……まあ、つまり説教の類なのだろう。
次にシスルウッドが見やるのはライアン・バーン。バターを敷いた鍋で牛肉をこんがり焼いているライアン・バーンは視線を察知すると、徐に顔を上げる。そうしてライアン・バーンとシスルウッドの視線が合わさった時、ライアン・バーンはムゥ……と表情を険しくさせた。続いてライアン・バーンはドスの効いた声で言う。
「他人の世話を焼く前に、自己管理をしっかりやれ。このバカもんが! お前は決して健康体じゃあないんだ、無理は禁物だとあれほど言っただろう!!」
ただの“だらしないビール腹な呑んだくれ親父”だとばかり思っていた店主が唐突に見せた凄みに、デリックは肩をブルッと震わせる。間抜けな顔になったデリックをシスルウッドが小さく笑えば、反省の色が全く見られないシスルウッドの頭にライアン・バーンの拳が落ちてきた。
けれども反省などしないシスルウッドは、開き直ったような笑顔を浮かべながら拳を落とされた頭をさするだけ。至っていつも通りなシスルウッドの反応に呆れかえるライアン・バーンはそれ以上何も言わず、作業に戻っていった。
ライアン・バーンは強火だった火の勢いを下げて弱火にすると、カウンター裏のラックから料理用の赤ワインを取り出す。彼はワインボトルの栓を手早く抜くと、赤ワインを鍋の中にドボドボと大胆に注いだ。そうしてワインボトルの半分を鍋へと注いだ後、鍋に蓋をする。それからライアン・バーンが一呼吸をついた時、カウンター席に座っていたクロエが身を前へと乗り出した。
クロエはカウンターテーブルに両肘を付き、ライアン・バーンの目を見る。続いて彼女の横に座るシスルウッドの笑顔をチラッと見やると、再度ライアン・バーンに視線を戻した。そしてクロエは少しだけ声量を落とし、ライアン・バーンに訊ねる。
「その、アーティー、へらへら笑ってるけど……いつもこういう感じなんですか?」
それはクロエにある懸念があったからこその質問。シスルウッドの顔色の悪さ、そして彼が最近寝ていないという話から、ある可能性を考えてそれを問うたのだが。しかしライアン・バーンの返答は彼女の懸念を打ち消すものだった。
「昔からこうだ。叱ったところでコイツは、ヘタ打ったことを後悔こそすれ反省はしない。ひとを舐めてんだよ、基本的にな。この腐った性根は八歳の頃から変化なしだ」
そう言うとライアン・バーンはシスルウッドに冷たい視線を送りつける。それでもまだ開き直ったような笑顔を浮かべているシスルウッドに、クロエは心配したことを後悔した。思ったよりもずっとこいつの神経は図太そうだぞ、と彼女は感じたわけである。
そんなこんなでライアン・バーンやクロエらの意識がシスルウッドに集中していたとき。静かに移動するサニー・バーンは、カウンター隅でチビチビとリンゴ酒を舐めていた常連客シェイマス・ブラウンに近付く。そして声を押し殺すサニー・バーンは、そっと常連客シェイマス・ブラウンに耳打ちをするのだった。
「……シェイマス。あれ、持ってるかい」
すると常連客シェイマス・ブラウンは着ていたジャケットの裏地に縫い付けられたポケットに手を突っ込んで小さな巾着袋を取り出し、それをサニー・バーンに素早く手渡した。サニー・バーンも、夫であるライアン・バーンの様子を伺いながら、彼に気付かれないようにそっと受け取る。それからサニー・バーンは受け取った巾着袋を、穿いていたジーンズの腰ポケットにそっと隠した。
その後サニー・バーンは再度、夫のほうをチラリと見やる。そして夫であるライアン・バーンが、シスルウッドの顎を掴んで彼をドヤしている様子を確認すると、彼女はホッと胸を撫でおろした。
安堵するサニー・バーンがひとつ息を吐いたとき。常連客シェイマス・ブラウンはニヤリと笑う。それから彼は言った。
「……量は加減しろよ? そいつぁ特にニオイがきっついからな。世間知らずのウディはともかく、鼻のいいライアンにゃすぐバレちまうぜ」
常連客シェイマス・ブラウンがさりげなく手渡したのは、少量の乾燥大麻が入った巾着袋。パイプで吸うために裁断されたもの、その一回分の量が入れられていた。
そんなものをサニー・バーンが「出せ」と言ったのにはワケがある。そして常連客シェイマス・ブラウンも、そのワケに気付いていた。
「……羊肉に混ぜてしまえば気付かないさ。それに、ウディにしか食わせないよ」
サニー・バーンはそう言うと、人の悪い笑みを浮かべる。そんなサニー・バーンは、大麻入りシェパーズパイをシスルウッドに食わせて、彼を強制的に眠らせるつもりでいたのだ。
そんなこんなで、サニー・バーンの作戦は成功。食に執着もなく、味覚も嗅覚も人並みかそれ以下であるシスルウッドは、突然「食え」とサニー・バーンから出された一人前のシェパーズパイがいつもと微妙に違う――まるで何かのニオイを隠そうとでもしているかのようにハーブの香りがやけに強烈だった――ことに疑問こそ抱いたが、それはあまり気にせず、出されたものを淡々と食べた。その後のシスルウッドは特に荒ぶることもなく、平然とした様子で過ごし……――一時間後、立ち上がりざまにバタッと倒れ込み、そのまま眠りに落ちたのだった。
*
時代は進んで四二八九年。ラドウィグがかつての勤め先である研究所に顔を出し、黒猫ひじきをコネコネしてから五日が経った日の昼間のこと。
この日のラドウィグは、同僚である情報分析官リー・ダルトンと共にカイザー・ブルーメ研究所跡地に赴いていた。大嫌いな“玉無し卿”セィダルヤードから何かしらの情報を引き出すため、それと玉無し卿が面倒を見ている脳味噌だけの二人組の様子を確認するためだ。
そんなわけでブー垂れ顔のラドウィグが不満そうに腕を組みながら、玉無し卿の姿も声も拝めない情報分析官リー・ダルトンのために通訳を行っていたときのこと。その頃ASI本部局では、部長であるテオ・ジョンソンと、猛獣アレクサンダー・コルトが睨みあっていた。
テオ・ジョンソン部長のオフィスに集められていたのは、猛獣ことアレクサンダー・コルト、それから猛獣の手綱を握る役を担っているジュディス・ミルズの二人。そして彼女たちが呼びだされた理由は、アレクサンダー・コルトの聞き分けの無さだった。
「だから、アタシは構わないって言ってるんだ。ラドウィグのために、アタシが囮になってやるよ」
臨戦態勢の猛獣アレクサンダー・コルトは、しかめっ面で上司に食い下がる。そしてテオ・ジョンソン部長もまたしかめっ面になっていた。「だがな、コルト。これは――」
「アタシの強運を舐めてくれるな、ジョンソン。アタシゃ二度死にかけたが、今もこうして生きてるだろ。三度目だってどうにかなるさ」
「ああ、そうだったな。お前は一度目に死にかけた時は腹を撃たれて臓器を一つ失くし、二度目は左腕を失った。三度目はどうなることだろうなぁ? それに――」
「あぁっ! とにかく!! あの男に一矢報いてやらないと、アタシの気が済まないんだよ!」
アレクサンダー・コルトとテオ・ジョンソン部長の争点は、デリック・ガーランド氏が次週開催するオークションに誰を派遣するかというもの。
アレクサンダー・コルトは、そのオークションが“コヨーテ野郎”の仕掛けた罠であることを承知したうえで「自分とラドウィグで行く。自分が囮になって、ラドウィグにあの男を始末させる」と言って譲らない。テオ・ジョンソン部長は、オークションがアレクサンダー・コルトを釣るための罠だと知っているからこそ「お前たちだけは絶対に派遣しない、コヨーテ野郎と接点がない局員を派遣する」と宣言している。建設的な議論が何一つとして成り立たない状況だけが、かれこれ二〇分は続いていた。
「…………」
サンドラも意固地ね、この職務に忠実な頑固男はテコでも動かないってのに。――横で二人の争いを見守るジュディス・ミルズは、そう感じていた。そうしてジュディス・ミルズが溜息を零した時、テオ・ジョンソン部長の矛先が彼女に向けられた。
「ミルズ、お前からも何か言ってやってくれ。この命を省みない馬鹿に」
テオ・ジョンソン部長は期待していた。優秀で万能な人材であるジュディス・ミルズが、この猛獣を宥めてくれることを。だが発言を求められたジュディス・ミルズが述べた言葉は、誰にも予測できるはずもないものだった。
「私、辞める」
それまでの会話とは無関係の言葉が飛び出してきたことに、テオ・ジョンソン部長もアレクサンダー・コルトも驚き、目をひん剥く。その後ふたりはジュディス・ミルズの発言内容を反芻し、再度驚きから目を点にした。
「……なんだって?」
動揺するテオ・ジョンソン部長がやっとの思いで絞り出したのは、その言葉。そしてジュディス・ミルズは淡々と同じ言葉を繰り返すのだった。
「私、ASIを辞める。半年後に退職する。これは決定事項だから。それまでの仕事は勿論、きちんとこなすわよ。引継ぎも――」
「待て、ミルズ。お前が辞めるだと? 定年まで、まだ一〇年以上はあるんだぞ? 昇進の話も、近々――」
「背広に興味はないわ」
引き留めようとするテオ・ジョンソン部長の言葉も、ジュディス・ミルズは途中で遮り一刀両断する。そんなジュディス・ミルズの様子を見て、アレクサンダー・コルトは察した。説得を重ねたところでこの決意は揺らがないだろうな、と。ゆえに引き留めることはしないアレクサンダー・コルトは、ただこれだけを訊ねるのだった。「アタシも初耳だぞ、ジュディ。いつ決めたんだ、そんな重大なことを」
「一人で決めた。あなたたちに相談したら引き留められるに決まってる。だから言うわけがない」
ジュディス・ミルズはキッパリとそう言い切る。その態度を見て、アレクサンダー・コルトは確信したと同時に納得した。ここ最近ジュディス・ミルズに対して感じていた違和感、その答えが出たと。
近頃よく見られていた仕事に対してノリ気でない姿勢、それと仕切りたがり屋であるはずなのに最近は“猛獣”アレクサンダー・コルトを放置していたということ。それらは『ジュディス・ミルズが既に退職を心に決めていた』としたら説明が付く。
アバロセレンという存在に対して『断固拒否』という姿勢を貫いているジュディス・ミルズは近年、柔軟な姿勢を見せているASIの若い連中、及び柔軟な姿勢に寄っている上司たちから煙たがられているフシがあった。使える道具は何でも使えをモットーとしている主席情報分析官リー・ダルトンとは意見の相違から口論を起こすことも多いし、ダルトンの肩を何かと持つテオ・ジョンソン部長と揉める機会も増えていた。そんなこともあって、彼女は仕事に徒労感を覚えるようになっていたのだろう。
それに退職を決意していたのなら、退職した後のことも考えていたはず。ゆえにジュディス・ミルズは近頃、アレクサンダー・コルトという猛獣の引き綱を握っていた手の力を少しずつ抜いていたのだ。猛獣と仇名されるアレクサンダー・コルトが年相応に自制できるかどうか、それとジュディス・ミルズという支援役が居ない状況でも任務を十分遂行できるかどうかを確認するために。――そしてジュディス・ミルズは「自分がいなくても大丈夫だ」と判断した。だからこそ、退職するという決意をこうして明かしたのだろう。
「サンドラ。私が退職した後も、あの家を出て行く必要は別にないわよ。いつまでも居候してくれたって構わないわ」
薄暗い感情で満たされた本心をひた隠すように、いつも通りの“イイ女ぶるジュディス・ミルズ”を演じる彼女は、妖しい笑みをアレクサンダー・コルトに向けると共にそう言った。そして応じるアレクサンダー・コルトも、いつも通りのぶっきらぼうな調子で言葉を返す。
「ハナからそのつもりだ。行くとこもねぇしよ」
そう言うとアレクサンダー・コルトは上司であるテオ・ジョンソン部長をひと睨みする。それから彼女はテオ・ジョンソン部長に背を向け、そそくさと彼のオフィスを退室していった――これ以上話すことは何もない、そういう意思表示だ。
無断で立ち去るアレクサンダー・コルトを引き留めようとテオ・ジョンソン部長は何かを言おうとするが、しかしそれをジュディス・ミルズが遮った。さりげなくテオ・ジョンソン部長の前に立ち塞がるジュディス・ミルズは笑顔を消すと、早口で捲し立てる。
「あなたがチェックすべきなのはサンドラではなく“憤怒のコヨーテ”の動向であり、あなたが練るべきなのは彼の活動を妨害するための作戦なのでは? ダルトンから聞いた話によれば、従来であれば“憤怒のコヨーテ”の活動は『三日ほど精力的に表で活動し、四日ほど情報収集と休息のため裏に潜る』っていうパターンがあるみたいだけれど、この一か月ぐらい彼は休むことなく表での悪い活動を続けているらしいじゃない。そこに睨みを効かせなくていいのかしら? 彼の気を引くためのデコイを仕掛けて、その隙にガーランド会長を尋問に掛けるとか、他に考えるべきこと、やることはあるはず」
そんなこんなで、テオ・ジョンソン部長とジュディス・ミルズの睨み合いが続けられていたときのこと。マンハッタンのアパート、アルバが使用している住居スペースのリビング兼ダイニングルームで猫たちと共に過ごしているアストレアは、あくびをしながら本をざっと見していた。
ギョーフ、ユル、ライド、イングという名のホムンクルスと思しき奇妙な子供たちを寝かしつけ、クタクタになっていたアストレアだが。そんな彼女のもとについ先ほど、面倒くさい来客があった。元上官であるマダム・モーガン、彼女が訪ねてきたのだ。
マダム・モーガンの目的は『アルバの現在の居場所』をアストレアから引き出すこと。だが残念なことにアストレアは何も知らなかった。そんなわけでアストレアは「ジジィの居場所なんて知らないよ」と元上官を突き放し、それから暗に帰れとアピールをしたのだが、けれども元上官はそのアピールを無視した。アルバが戻ってくるまでここに居ると、元上官は宣言したのである。アストレアが露骨に嫌がる素振りを見せたのは言うまでもない。
そんな嫌がるアストレアに、元上官はちょっとした“鼻薬”として一冊の本をくれた。今、ダイニングテーブルの上に広げられている自叙伝こそが、それである。
著、デリック・ガーランド。表紙に書かれていたその文字からこの本を渡された意味を察したアストレアはダイニングテーブルに移動すると、テーブルの上に本をポンッと置き、それからまっさきに一ページ目……――ではなく巻末付録を開いた。そしてアストレアは見つけたのである。今のように人相が悪くなる前のアルバ、つまり生前の彼の姿を捉えた白黒の写真を。
気取った表情でフィドルを弾く、若い頃のアルバの横顔(尚、フィドルを演奏する姿勢は今と寸部変わらぬものだった)。恐竜のきぐるみを着た女性の両肩を後ろから抱いて微笑む、伝統的なキルトを着用した若い頃のアルバの姿(その写真に添えられた説明文には『彼らの結婚式での一幕』と書かれていた)。それと、遊園地らしき場所でベンチに座り、アイスクリームを食べている六歳ぐらいだと思われる少女と、その隣に座って笑っているアルバの姿。――……少しヘンテコではあるが、けれども“普通の人生”と言うべき写真が揃っている。かつてアルバが言っていた『昔は真人間だった』という言葉が嘘ではなかったことが、この写真によって証明されていた。
そして当然だが、巻末付録に載っていたのは生前のアルバが捉えられた写真だけではない。著者やその友人らの若かりし頃の姿が、他にも多数掲載されていた。
著者であるデリック・ガーランド氏が土下座をさせられていて、そんな彼の頭をクロエ・サックウェルという名の女性が泥だらけなスニーカーを履いた足で踏んづけている写真。パニック発作でも起こしたのか、地べたに膝を付いて頭を抱えているペルモンド・バルロッツィの姿と、その彼を必死に宥めているエリカ・アンダーソンという女性の後姿を捉えた写真(これは当時の新聞から切り抜いたものであるらしく、補足するように第三者のコピーライト表記が為されていた)。陽の当たる窓辺でまどろんでいる猫の写真を撮影しているジェニファー・ホーケンという女性の姿を、さらに撮影した写真。新進気鋭の画家フィル・ブルックスが名門マーリング・アートギャラリーで個展を開催、という題の新聞記事の切り抜き(日付は約六〇年前を示していた)。アマチュアキックボクシング、その無差別級というものに参戦したユーリ・ボスホロフという名の男性をリング上で捉えた写真など。アバロセレンによって奪われた人々の姿が、その自叙伝の巻末付録にはあった。
しかし、やっぱりアストレアの目に飛び込んでくるのは在りし日のアルバの写真だけ。ニヤニヤと小さく笑うアストレアは面白おかしそうに写真を見つめながら、こんなことをポロリと零す。
「若い頃のジジィ、今と人相が違う。それに写真の笑顔、全部が作り笑顔に見える」
「そうよ。当時の彼の笑顔はほぼ全て作りもの。だから目が笑ってないでしょう、我が子といる時でさえ。――ちなみにその遊園地の写真、撮影したのは彼の当時の不倫相手」
アストレアの呟きに、マダム・モーガンはそう言葉を返す。そしてアストレアが元上官であるマダム・モーガンを見やってみれば、ソファーにふんぞり返るように座る彼女の股の間ではぽってりとした体形の猫――騒がしい猫たち三姉妹の母親、チャンキーである――が香箱座りを決め込んでくつろいでいた。また母猫チャンキーの頬肉をモフモフと揉むマダム・モーガンは、猫の為にソファーのスペースを開けることを苦にしていない様子。彼女の目元は暗いサングラスに隠されていたが、隠されていない口元には和やかな微笑みが浮かべられている。猫との束の間のじゃれ合いに、ささやかな幸福を見出しているようだ。
その一方でアストレアは元上官が今まさに放った言葉に驚愕していた。写真に映るアルバの笑顔が作り笑顔であると言ったあと、その次にサラリと続いた言葉にアストレアは度肝を抜かされたのだ。
興味深い写真を見た直後、全く予想もしていなかった方向から飛び出してきたジャブ。それを避けられるはずもなかったアストレアはもろに食らい、一瞬だけ頭が真っ白になった。そうしてアストレアが間抜けにあんぐりと口を開けた顔を元上官に向ければ、彼女はアストレアのほうを向いてニヤリと笑う。それから元上官はアストレアに言った。
「今のは冗談。その遊園地の写真、彼がひどい笑顔を浮かべているのは娘が迷子になっていたから。その写真は人混みを掻い潜ってやっと娘を見つけ出して、ヘトヘトになってた時の彼よ。彼の目が死んでいるのは、騒動を引き起こした当の娘がケロッとした様子でアイスクリームを食べているから」
長年、彼のことを監視していたということもあってマダム・モーガンの持っている情報はかなり細かい。……が、アストレアの関心はその発言内容には向いていなかった。
「不倫っていうのは? ねぇ?」
アストレアがそうハッキリと訊ね返せば、マダム・モーガンはあからさまな溜息を吐く。それからマダム・モーガンは股の間で寝る母猫チャンキーの胸毛をモフモフとさすりながら、呆れを滲ませつつ問いに答えた。
「冗談、そう言ったでしょう」
けれども鼻がボチボチ利くアストレアは察しとった。面倒くさそうな答え方をしているあたりこれは嘘っぽいぞ、と。となれば、だ。
「…………」
黙り込むアストレアは確信する。ケロッとした様子でアイスクリームを食べている娘の横で父親が疲れた笑顔を浮かべているこの写真、撮影したのが不倫相手だという話は本当なのだな、と。
だが、だとすると妙だ。なぜそんな写真がこの本に載っている? どこから著者は手に入れたのだろうか。それとも、まさか……。「もしかして不倫相手って、この本の著者の配偶――」
「それで、アストレア。――彼の居場所は知らないとしても、何をしに出掛けたのか、その目的ぐらいは知らされているでしょう。だから、ね?」
しかしアストレアの疑問をかき消すように、マダム・モーガンは質問を被せてくる。アルバの外出目的を教えろと、マダム・モーガンは急かしてきた。
アストレアは不満そうにジトーっと目を細める。その後、アストレアはぶっきらぼうに答えるのだった。「芋を掘りに行くって、そう言ってたよ。でも、芋掘りって感じの服装じゃなかった。ジャージと、あとエプロンを着て、それから軍手と防塵マスクとフェイスシールド付きヘルメットを携えて出て行ったんだ。ワケ分かんないよね」
「ええ、ワケが分からない。まず、その……芋っていうワードは何を意味しているの?」
芋を掘りに行くと言っていた、でも芋掘りというような服装ではなかった。――アストレアが発した理解不能な言葉に、マダム・モーガンは困惑した。アルバは何をするつもりなのか、それが分からなかったのだ。
アストレアの発言から察するに、アルバの本当の目的は「芋掘り」ではないのだろう。軍手はさておき、防塵マスクやヘルメット、それもフェイスシールド付きのものなど、ただ土を掘り返すだけなら必要ないはず。それはどちらかというとチェーンソーや電動ハンマー、またはドリルを扱う時の装備品だ。
アルバは伐採か、または何かを解体でもするのか? もしくは、何かを建築しようとでもしているのだろうか? ……そんな仮説をマダム・モーガンは立てたが、しかしアストレアはその仮説をぶっ壊す情報を更に提供するのだった。
「芋っていう言葉の正確な意味は知らないけど、たぶん『情報屋』って意味だと思う。情報屋を起点に手繰り寄せていけば芋づる式に愚かなマトが次々と釣れていくから、みたいなことを以前にジジィが言ってたし。でも……」
「でも?」
「三日前に『クソ芋を掘ってくる』ってジジィが言ってたときには、帰ってきたジジィから、なんか、こう……女性ものの安っぽい香水と、質の悪い店のタイ料理っぽいドぎついハーブのニオイがしてさ。マジでジジィ、何してんだろ?」
芋というのは情報屋という意味で、その対象は女性である可能性が高いようだ。とすると、建築物の解体といった線は消える。たぶん新たな建物を築くというのもないだろう。
――と、そこでマダム・モーガンは顔を上げる。彼女はこう思ったのだ。まさか人間を“解体”するつもりなのでは、と。
「……芋、ねぇ……」
チェーンソーで、人間を……。そんな光景を思い浮かべるマダム・モーガンがそう呟きながら額に手を当てた時、彼女は背後に気配を覚えた。直後、重たい何かがゴトッと床に落ちる音がする。続いて、無愛想なアルバの声が背後から聞こえてきた。
「それなら、こういうことだ」
マダム・モーガンが振り返ってみれば、そこには血にまみれたエプロンを首から下げるアルバが立っている。彼女はアルバの装着しているサングラスを見たあと、彼が右手に持つ血染めのチェーンソーを見るなり溜息を吐いた。彼女の予想は当たったわけだ。
続いて彼女がアルバの足許に落ちていた生首を見やると、その生首の存在に気付いたアストレアが「ダァアアァァァッ!!」と汚い悲鳴を上げた。なんとなく見当をつけていたマダム・モーガンと違い、こんな事態などまったく予想していなかったアストレアには少し刺激が強すぎたようだ。しかし驚いたのは一瞬のこと。すぐに冷静さを取り戻すアストレアは椅子から立ち上がると、床に落ちた生首に近付く。それからアストレアは生首を観察しつつ、アルバにこう訊ねた。
「ジジィ、今度は何をするつもりなの?」
チェーンソーによって胴体から切り離されたその生首は、どうやら女性であったようだ。脱色によって人工的に作られたブロンドの長い髪はパサパサでかなり痛んでいるし、すっかりパンダ目になっている化粧は濃くてどぎつく、この女性があまり良い暮らしをしていなかったことが伺えた。また右耳の裏には入れ墨が、それも卑猥な言葉が彫り込まれている。この人物は後先のことを考える思慮深さを持っていなかったようだ。
以上のことから予測される女の経歴は「犯罪組織のボスや幹部に取り入った、身の程知らずのスリル好きな馬鹿」といったところだろう。ただ犯罪組織といっても大陸を股にかける大組織ではなく、地元で小規模の麻薬密売を行い、地元住民の中でも最貧困層に位置する者たちのみに対してイキり散らしているような、そんなしょうもない小規模のギャング団、その程度のレベルだろう。
……そのような見解を頭の中でまとめた後、アストレアはアルバの顔を見る。彼は薄気味悪い笑みを浮かべていた。そして彼は言う。
「この首の主、こいつを愛人として囲っていた男の家にこれを送りつける。その男の正妻のベッドに仕込んでやるんだ。そうすれば、男は怒り狂うだろう? そして怒り狂う男は馬鹿な行動をするもんだ。そこでヤツがボロを出す瞬間を伺う。隙を見てヤツを仕留め、その取り巻き連中も始末するという算段だ。……私の予測が正しければ、あの馬鹿は敵対関係にあるギャング団の元締めのもとにでも向かうはず。そして私は犯罪者どもを纏めて一掃するだけだ」
「そんなうまくいくもんなの?」
微笑むアルバに、アストレアは冷たい視線と共にその言葉を投げる。アルバの語った作戦らしきものは、アストレアでさえもひどく杜撰であると感じたからだ。けれどもアルバは薄気味悪い笑みを浮かべたまま、自信ありげにこう言うのだった。
「私も最初はそう思っていた。だが、連中の頭は酒と麻薬ですっかり汚染されている。正常な理性や判断力、複雑な思考など連中にはもはや備わっていないも同然。前頭葉が働いてないからな。言動は全て脊髄反射的だ。ゆえにこちらが道を敷いてやれば、その道を疑うことなく突っ走ってくれる。……家に巣食った鼠を始末するよりも、連中の始末のほうがよっぽど簡単なぐらいだ」
アルバの浮かべていた笑みは、薄気味悪い微笑から悪人じみた笑顔に変わっていた。これは作り笑顔ではない本物の笑顔である。麻薬漬けの愚者を纏めて吹っ飛ばす様子でも思い浮かべて、愉悦にでも浸っていたのだろう。……彼の倫理観はとっくにぶっ壊れていたようだ。人心というものはひと匙分ぐらいしか残っていないらしい。
そんなアルバは狂気じみた笑顔を浮かべたまま、キッチンのほうに歩いていく。彼は冷蔵庫に向かうと、冷蔵庫の横にあるスペースに詰め込んでいた紙袋――何かを購入した時についてくる紙袋を、彼はこうして溜め込んでおく習性のようなものがあり、現在大小さまざまな紙袋が二十五枚ほどストックされている――のうちのひとつを取り、また生首のあるリビングルームに戻ってきた。それから生首の髪を乱暴にひっ掴むアルバは、持ってきた紙袋の中にドスッと生首を落とすのだった。
その後アルバは一息つくと、紙袋の取っ手を掴み上げる。彼は紙袋を持って廊下に行こうとしたが……しかし彼はリビングルームにまた戻ってきた。それはダイニングテーブルの上に広げられた一冊の本を目にしたからだ。
引き返してきた彼はダイニングテーブルに寄ると、そのテーブルの上に置かれた本を改めて見る。それからアルバは、リビングルームの中央に突っ立っているアストレアに視線を移すと、彼女に訊ねた。「……なぜこの本がここにある?」
「さっきマダムがくれた」
アストレアは簡潔に事実だけをスパッと述べる。直後、アルバの視線はソファーベッドにふんぞり返って座るマダム・モーガンに向けられた。
マダム・モーガンのほうに顔を向けながらサングラスを外した彼は、細めた目でジトーっと元上官を見据える。するとマダム・モーガンの股の間でくつろいでいたぽっちゃり猫チャンキーが動いた。
ぽっちゃり猫チャンキーは天敵アルバの存在に気付くと立ち上がり、身を低くしながら廊下へと逃げて行く。そうして猫が居なくなったあと、マダム・モーガンも立ち上がった。それから彼女は腕を組むと、アルバに対してこう言うのだった。
「良い機会じゃないの。その本、結構あなたについて詳しく書いてあるし。多少の誇張はあっても、私が覚えていることと内容に相違はないしね。クロエちゃんに関する事柄だけを除き。――まっ、要するにこの本は “あなたの取扱説明書”としてアストレアに必要だと思ったのよ」
「余計なことを……」
アルバはボソッと呟くとダイニングテーブルの本を手に取り、それを持って自室に行こうとした。しかしスタタと彼に駆け寄るアストレアは彼の手から本を奪い取ると、ニヒヒと笑ってアルバから離れていく。そしてマダム・モーガンの背後に逃げ込むアストレアは、元上官の威を借りると更につけあがり、アルバに対して舌まで出してみせた。
まさに『十二歳のガキ』と評するべきアストレアの言動に、アルバは溜息を吐いて背を向ける。そうして彼が今度こそリビングルームを立ち去ろうとした時だ。マダム・モーガンが、アストレアに小声で何かを囁く。その言葉が再びアルバの足を引き留めるのだった。
「……強気でワガママで女王気質なオンナの尻に敷かれたいのよ、あの男は。ギャーギャーと文句を言われ、あーだこーだと捲し立てられるのが好きだし。そういう厄介な存在を引っ掻き回してもてあそぶことも好き。だから気が強いあなたが選ばれたのよ、アストレア」
マダム・モーガンに妙な言いがかり――ないし限りなく真実に近い分析――をつけられたアルバは顔を顰める。だがその一方でアストレアも顔を顰めていた。
「えっと。つまり、マダムには僕がそう見えてるってワケ?」
アストレアは不服気に下瞼を上げながら、マダム・モーガンにそれとなく抗議する。少なくともアストレアは自身のことを『強気でワガママで女王気質なオンナ』だとは思っていなかったからだ。負けん気が強いほうだとは彼女自身も感じているが、しかし彼女は女王気質ではないし、そこまでワガママなほうでもない。いつかアルバをぎゃふんと言わせてやりたいという願望こそあるが、アルバなんていうクソ野郎を尻に敷いて従わせたいという願望は無かった。
強いて言うなら、アストレアは彼の隣に並びたいし、背中側に立ちたいのだ。彼に実力を認めてもらいたいし、彼と共に“お掃除”がしたい。猫の世話はさておき、ベビーシッターなんてやりたくない。アストレアは銃とナイフを持ちたい、つまりドンパチがやりたいのだ。
……と、まあ、アストレアの願望はさておき。アストレアが元上官にささやかな抗議をしていると、同じく不満を抱えるもう一人がそこに便乗してくる。マダム・モーガンに冷めた視線を送るアルバは怒りをにじませた声と共に、やや早口なボストン訛りでこのように抗議した。
「アストレアをここに連れてきたのは、ASIの連中を懸念したからだ。アストレアも不死者であることが発覚すれば、連中はペルモンドのようにこいつを利用するはず。都合のいい不死身の工作員、そのように使い潰される未来をこいつに迎えさせたくなかったからであって、断じてそのような意図は――」
「それぐらい分かってるわよ、そうムキにならないで頂戴」
軽い気持ちで発した冗談が予想以上にアルバおよびアストレアの反感を買ったことに驚きつつ、マダム・モーガンは怒るアルバを軽く宥める。けれどもアルバの怒りはその程度の言葉では収まりそうもない。責めるような視線を変わらずマダム・モーガンに送り続けている彼は、暫くこのことを根に持ちそうな顔をしていた。――少しだけだがマダム・モーガンの言葉に思い当たるフシがあったことが、余計に彼の気に障ったのだろう。
そこでマダム・モーガンは話題を逸らすことにした。嫌味ったらしい視線を送りつけてくるアルバを睨み返すマダム・モーガンは、彼にこう切り出す。「まあ、それはさておき。――余計なことといえばオークションよ。あなた、何をするつもりでいるのかしら?」
「話すことは何もない」
マダム・モーガンの言葉に、アルバは短くそれだけを答える。先ほどまでの焦りゆえの饒舌さはもう消えたらしく、彼は通常運転モードに戻ったようだ。
話はもう済んだだろう? アルバはそうとでも言いたげな舐め腐った表情を浮かべている。己の立場をまるで分かっていないダメ男の顔。マダム・モーガンの目にはそのように映っていた。
犯罪者集団を狩ることを愉しみ、アストレアをおちょくっては悦に入っているアルバだが、彼の置かれている状況は最悪だ。八割がた自業自得だとはいえ、こうなるまでの道はマダム・モーガンが舗装したようなもの。そこで、責任の一端を担っているマダム・モーガンは「この状況に気付け」と一喝を入れようとするのだが。「あなたの息子、レーニンの件だけど――」
「もう話を付けているのだろう、あのクソガキと。その方向で進めればいい。レーニンを解き放ってやれ」
アルバはマダム・モーガンの言葉を途中で遮り、食い気味にそう言った。そのアルバが発した言葉にマダム・モーガンは一瞬、体の芯が冷えるような不快な気分を感じた。
というのも三日ほど前にマダム・モーガンはクソガキ、すなわちラドウィグと話していたのだ。意識のあるエリーヌと違い、レーニンのほうは目覚めそうもない。ならばレーニンは解放する、つまりラドウィグの手によって“葬送”したほうが良いのではないか、と。ラドウィグはその場では何も答えず、判断を下すことを避けた。以降、マダム・モーガンはこの話題をラドウィグと交わしていないし、それ以外の者には会話の内容を明かしてすらいないのだが――どうしてこの会話をアルバが知っているのか?
「後悔は?」
まさかレーニンらの居る場所、カイザー・ブルーメ研究所跡地に盗聴器でも仕掛けていたのだろうか。そう疑いながらもマダム・モーガンはアルバにそのように問う。するとアルバは薄気味悪い半笑いと共に、こう答えるのだった。
「これから私は全てを殺すことになるんだ。今更、何を悔いろと? ……それに、丁度いいじゃないか。あのクソガキを殺す理由がそれによって完成する」
アルバがどこまで本気でそう言っているのか、その真相は不明だ。彼の息子レーニンに関する事情を知らないアストレアには彼の言葉など嘘っぱちの揶揄にしか聞こえてなかったし、事情を概ね把握しているマダム・モーガンには彼が強がっているようにも見えていた。そしてアルバもまた、彼自身の真意が分からずにいる。本心からそう思っているのか、真逆の本音が隠されているのか……――その両方なのかもしれないし、どちらも違うかもしれないだろう。
謎めいた半笑いを浮かべるアルバをじっと見据えながら、マダム・モーガンは静かに腕を組む。アルバの真意を探ることを早々に諦めた彼女は表情を険しくすると、また話題を切り替えた。
「ところで、あなた……――いつ、ラドウィグと私の会話を盗み聞いたのかしら。まさか、あそこに盗聴器でも仕掛けていたの?」
変に鎌をかけることはせずに、敢えて真っ直ぐに切り込んだその質問。その質問を投げたマダム・モーガンは“イエス”か“ノー”かのいずれかが返ってくることを期待していたのだが、しかしアルバが返した言葉はヤケに冗長だった。
依然、半笑いを浮かべたままの彼はその質問をフッと鼻で笑う。そして彼は遠回しな言葉で誤魔化し、答えを明かすことは避けるのだった。
「すべて知っている。ヤツが私とギルの首を欲していることも、ヤツの周囲に居る奇怪な獣どものことも、それからザカースキーとかいう女のことも。そしてアレクサンダー・コルトが『自分がオークションに行く、コヨーテ野郎の首を取るのは自分だ』とテオ・ジョンソンとかいう男に喚き散らしていることも知っている。そういえばジュディス・ミルズという潜入工作員は遂にASIを辞める決断を下したらしいな。――そしてデリックが私を裏切ったことも把握しているとも」
アルバの言葉は、まったく質問の答えにはなっていない。だがその言葉はマダム・モーガンを戦慄させた。ASI、及びASIに託した元特務機関WACEの二人に関する動向はある程度把握しているつもりでいた彼女よりも、アルバのほうが彼らに詳しいようにも思えたからだ。一切彼らと接触していないはずの彼が、だ。
一瞬、アルバの十八番であるブラフが出たのかとも彼女は思った。だが彼女はすぐにその愚かな断定を捨てる。アルバが発した『ザカースキー』という名前。彼女もその名を最近どこかで聞いたことがあったような気がしたからだ。その名はたしかASIの局員の誰かしらのものであったはず。
「……」
アルバの言葉が真実であると仮定して。だとしたら彼はどうやって情報を得ているのか? ――それは流石にマダム・モーガンも分からない。そうして分からない屈辱で顰められた顔で彼女がアルバを見やってみれば、彼は人の好さそうな笑みを湛えていた。
「何人 も咎 無く我を害せず。それが私のモットーだ」
アルバは穏やかな声でそのような捨て台詞を吐くと、今度こそ生首を抱えてリビングルームを去っていった。その背中を見送るマダム・モーガンは組んでいた腕を解くと、はぁ~と溜息を零す。と、そんな彼女の背中をアストレアは指でちょちょんと突いた。それからマダム・モーガンの顔を伺うアストレアは、マダム・モーガンにこんなことを訊ねるのだった。「今の、どういう意味?」
「簡単に言うと『私に手を出してみろ、その時には一族郎党ブッ潰してやる』って意味よ」
アルバが発した小難しい言葉を分解して解説しながら、マダム・モーガンは額に手を当てる。アルバが穏やかな声と笑顔で放った言葉に穏やかさの欠片もないことに、彼女は呆れていたのだ。復讐する気しかないじゃないか、と。まさしく薊のように刺々しい言動だ。
最後にマダム・モーガンは重たく長い溜息を吐くと、ひとつ手を叩きならす。すると彼女の輪郭は大気に溶け、消えていった。お得意の瞬間移動というやつである。
「……ふぅ」
やっと居なくなった邪魔者……否、元上官に、アストレアはホッとする。そうして彼女は元上官からもらった本を読もうとするが、しかしそんな彼女の目にあるものが留まる。
床にできた血だまり。おそらく、アルバが持ってきたあの生首から垂れた血でできたものだろう。
「ジジィ! リビングの血だまり、自分で掃除してくれるんだよねぇ!!」
アストレアはカーペットにまで染みた人間の血を見やった後、アルバが去っていった方向に向けて大声で訴えた。すると遠くから「勿論だとも!」というアルバの返答が聞こえてくる。その答えを聞いて安心した彼女はダイニングテーブルに着くと、またテーブルの上に本を広げるのだった。
*
――一方、その頃。アルストグラン連邦共和国、新アルフレッド工学研究所ではしかめっ面をしている義肢装具士が居た。
義肢装具士、アーヴィング・ネイピア。彼は、ASIから預かった先代所長ペルモンド・バルロッツィ製作の筋電義肢を解析する作業に取り掛かりたかったのだが……――彼がデスクに就いた途端、彼の飼い猫と飼い犬がやってきて仕事を妨害してきたのだ。
まずは黒猫ひじき。黒猫ひじきは飼い主である彼の膝の上で丸まって寝ており、飼い主が立ち上がることを許していなかった。もうじき七歳、今や立派な成猫だというのに、まるで子猫の頃と変わらず甘えん坊。困った猫である。
続いて黒い巻き毛が特徴的なスタンダードプードル犬、ピーナッツ。この犬は二年前、彼の姉でありプードル犬ブリーダーであるシアがこの研究所に寄贈……というか、押し付けてきた犬である(警戒心の強い性格が室内飼いの犬としては向いていないけど番犬に最適だのと、それらしい理由を付けられて体よく捨てられたのだ)。黒い犬は不吉で可愛くないし売れないから要らない、というのが薄情で身勝手な姉シアの本音だろう。ワガママで幼稚だった母の寵愛を受け、その母によく似た姉ならそう考えているはずだ――というのは措いといて。
このプードル犬ピーナッツは、現在の飼い主アーヴィング・ネイピアに恐ろしいほど懐いていた。同じく飼い主にベッタベタな黒猫ひじきと徒党を組んで、こうして一緒に飼い主の仕事を妨害してくるのだ。
「……ピー、勘弁してくれ。舐められるのは嫌なんだ」
そう呟く義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、彼の肩に前足を載せてべろんべろんと彼の顔を舐めてくるプードル犬ピーナッツを離そうとする。それからデスクの隅、彼から遠く離れた場所に避難させた筋電義肢を見やると、仕事を再開できないこの状態を憂いた。
そうして義肢装具士アーヴィング・ネイピアが困り果てていたときだ。プードル犬ピーナッツが開けっ放しにした扉、その隙間から見えた廊下を通り過ぎようとする人物の影が見える。義肢装具士アーヴィング・ネイピアは声を張り上げると、その通り過ぎようとした人物を引き留めるのだった。
「ハロルド、こいつらを引き取ってくれ!」
廊下を通り過ぎようとしたのは、この工学研究所に所属していることになっている元・研究員。現在はワケあって雑用や動物の世話、清掃作業などを率先して請け負っているだけとなっている人物、ハロルド・ジェンキンスである。
そうして義肢装具士アーヴィング・ネイピアが雑用係ハロルドを呼び止めれば、一度は通り過ぎようとしたハロルドが戻ってきた。中途半端に開いた扉を完全に開け放つハロルドは、その先のオフィスをざっと見るなりホッと胸をなでおろす。そしてハロルドは、しかめっ面をした飼い主の顔をべろんべろんと舐めているプードル犬ピーナッツを見つけると、すぐに彼らの許へ駆け寄ってきた。
「ここに居たのかぁ、ペルモンドちゃ~ん」
雑用係ハロルドは上ずった妙に高い声でそう喋りつつ、プードル犬ピーナッツが装着しているハーネスをグッと掴むと、飼い主にしがみついているこの大きな犬を引き離した。
尚、ペルモンドという名はこの犬が持つもう一つの名前である。本来の飼い主であるアーヴィング・ネイピアがこの犬のことを略して『ピー』と呼び続けていたら、ある同僚がこの犬の名前は単に『P』でしかないと誤解し、そんなのじゃあ可哀そうだとこの犬に新たな名前を勝手に付けた。それが『ペルモンド』という先代所長の名前だった(名付け親曰く、黒い毛並みとくりんくりんな巻き毛がどことなく先代所長ペルモンド・バルロッツィに似ているとのこと)。それに伴い、この犬には『名誉所長』なる肩書までも与えられている。
そんなわけでこの犬の名前は『ペルモンド』ないし『P』として所内に浸透しており、今や本名である『ピーナッツ』を覚えている者はアーヴィング・ネイピアしかいない。……が、本来の飼い主であるアーヴィング・ネイピアはこの「ふざけている」としか言いようがない第二の名前を認めていなかった。
犬を妙な名前で呼ぶことに対する抗議の意を込めて雑用係ハロルドにムッとした顔を向ける義肢装具士アーヴィング・ネイピアだったが、しかし彼がムッとした顔をしているのはいつものこと。いつも通りに機嫌が悪そうな義肢装具士アーヴィング・ネイピアのことなど気にしない雑用係ハロルドは明るい調子で、この犬の飼い主である彼に犬のことを報告するのだった。
「お昼のお散歩タイムが終わったあと、ペルモンドちゃんが逃げちゃったんですよ。ひじきを見つけたら、ひじきを追いかけて消えちゃいましてね。今、探してたところなんです。まさか二匹揃って先輩の邪魔をしてたとは……――さっ、ペルモンドちゃん、シャワーの時間だよー。ついでにひじきも一緒においで。シャワーを大人しく待てたら、ひじきにも缶のおやつをあげるよ~」
そう言うと雑用係ハロルドはプードル犬ピーナッツを強引に抱き上げ、シャワールームに向かっていった。黒猫ひじきも「缶」という言葉を聞いて飛び起きると、雑用係ハロルドの後を追って去っていく。これで仕事を邪魔する動物たちは居なくなった、というわけだ。
義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、テーブルの隅に避けていた仕事道具を自身の前に引き寄せる。それから仕事を再開しようとしたが……――しかし自分の服についている猫の毛を見て考えを変える。仕事を再開するのは犬に舐められた顔を洗い、猫の毛を落としてからだと。
そうして椅子から立ち上がる義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、ひとまずトイレに向かうことにする。フェイスタオルとローラー式粘着クリーナーを携えて彼はトイレに行くと、洗面台でパパッと顔を洗い、それから鏡で確認をしながら粘着クリーナーで服に付いた黒猫ひじきの細い毛を丁寧に落とした。
猫の毛ぐらいならまだしも、犬に顔を舐められるのは勘弁してほしい。そんなことを考えながら義肢装具士アーヴィング・ネイピアは彼のオフィスに戻る。そしてオフィスに戻ったとき、彼はデスクの傍に立って筋電義肢を眺めている人物に気付いた。と同時に、相手も彼に気付く。
「解析はこれから?」
オフィスを訪ねてきていたのはこのラボの所長であるイザベル・クランツ高位技師官僚。五日前にASIから義肢装具士アーヴィング・ネイピアのもとに届けられたはずの例の筋電義肢、その報告を受け取るつもりで来たのだろう。義肢装具士アーヴィング・ネイピアは仕事ぐらいしか趣味がないため、とにかく仕事が早い。それを知っている彼女は「ある程度はもう仕上がっていることだろう」と踏んでオフィスを訪ねたわけなのだが……――彼の返答は彼女が期待したものではなかった。「ああ、集めたデータを洗うのはこれからだ」
「仕事人間のあなたにしてはペースが遅いわね。何かトラブルでも起こっていたの?」
「いや、そういうわけじゃない。さっきまで邪魔者が二匹ほど来ていて、作業どころじゃなかったかだけだ。……ひじきは来たところで膝の上で寝るだけだが、ピーまで来られると何もできなくなるからな」
真面目一徹という心底つまらない性格をした仕事人間である彼は、しかし妙に動物から好かれるという特徴を持っている。それも決まって黒い生物だ。黒猫、黒い犬にベタベタと懐かれるというのは当たり前。黒いカラス、黒いコウモリ、黒い蛇など、様々な生物に彼は苛まれ続けている。
翼の骨折やら仲間との喧嘩で怪我をしたカラスを、彼は子供の頃から数えきれないほど保護していた。怪我をしたカラスを紙袋の中に入るよう促して、その紙袋を抱えて野生鳥獣専門の動物病院に行くという行為を、彼は人生のうちに何度も経験している。獣医に顔と名前を覚えられ、且つ「カラスくん」と呼ばれるようになるほどには動物病院によく通っていたことだろう。
また大学時代、一人暮らしをしていたアパートではカラス以外の珍客が来たこともあった。換気のために窓を開けた拍子にコウモリが三羽も部屋に入ってきたこともあったし(このコウモリは箒で追いやってもなかなか出て行かず、仕方なく駆除業者を呼び、高周波を発生する装置とやらで追い払ってもらった)。それに侵入経路は不明だが、寝室に近所で飼育されていた巨大な黒いナミヘビ、イースタンインディゴスネークというものが入り込んできたこともある。そして恐る恐る捕獲したヘビを飼い主宅に返却したその帰り道、近所のゴミ捨て場で彼が偶然見つけたのが一匹の子猫、後に彼の祖母の大好物になぞらえて『ひじき』と名付けられる黒猫だったりもする。
……――と、まあそんな感じな彼の“黒い生物”遍歴を知っているイザベル・クランツ高位技師官僚は呆れから額に手を当て、溜息を吐く。奇妙すぎる、と。
この男、真面目だがかといって優しいわけではなく、動物の世話だって本当に“義務”レベルの必要最低限のことぐらいしかしないし、特別に可愛がっているわけではないのだが、しかし黒猫ひじきからもプードル犬ピーナッツからも非常に好かれているのだ。可愛がっていないにも関わらず。
プードル犬ピーナッツに至っては、お世話の九割九分を雑用係ハロルドが請け負っているといっても過言ではない。雑用係ハロルドは間違いなくプードル犬ピーナッツを飼い主以上に可愛がっているし、飼い主以上に責任を果たしているはずなのだが、けれども当の犬は恩人に対して非常に素っ気ない。犬は大して可愛がりもしない飼い主(一応この犬は「研究所に属する番犬」ということになっているので、彼を飼い主と認定していいものなのかは分からないが……)にばかり媚びて、一番可愛がっている人物を冷たくあしらい続けている。とても奇妙だ。
実は雑用係ハロルドの知らないところで、この男は犬に美味しいおやつでも与えているのか? ――そんな疑念(現実には、そもそも彼は犬のためのおやつなど個人的に用意してすらいないのだが)を込めた目を義肢装具士アーヴィング・ネイピアに向けながら、イザベル・クランツ高位技師官僚は皮肉を言うのだった。
「ピーちゃんのお世話はハロルドに任せっぱなしなのに、そんなハロルドじゃなくあなたがピーちゃんに一番好かれてるだなんて。本当に得な役回りよねぇ」
「犬嫌いの俺の代わりに、俺の姉が押し付けてきた犬の世話をしてくれてるんだ。あいつには感謝してるよ、心の底から。なぜピーが俺に懐いているのかも理解できないぐらいだ」
イザベル・クランツ高位技師官僚の皮肉に対し、朴念仁アーヴィング・ネイピアは真面目な答えを返すと、彼は溜息を一つ零す。小柄で静かで大人しい猫と違って、大きくてドタバタと騒がしく煩わしい犬のことを思い出し、なんとなく気が滅入ったからだ。
ただ、この溜息にイザベル・クランツ高位技師官僚は別のことを感じたらしい。彼女はひとつ咳払いをした後、少し姿勢を正す。それから彼女は義肢装具士アーヴィング・ネイピアに本題を切り出した。「ところで……――現時点で分かっていることはある?」
「今のところは、何も。一〇〇㎖ほどの液化アバロセレンが入れられたタンクが義肢の中に入っていることは分かったが、これの用途が分からない。何か管に繋がっているわけでもなく、ただタングステンシートで厳重に包まれたタンクだけが入っている。まるでただのアクセサリーだ」
義肢装具士アーヴィング・ネイピアはそう答えながら彼のデスクに向かうと、そのデスクの隅に置かれていた筋電義肢を手繰り寄せ、それをイザベル・クランツ高位技師官僚に見せるように置いた。
皮膚に見立てたシリコン製グローブから本体が取り除かれた状態にあるその義肢は、かなり無骨な見た目をしていた。必要最低限の機能のみを備えたシンプルなロボットアーム、そう例えるべき簡素さがある。しかしそのシンプルな義肢には、無駄と思えるものがひとつ備えられていた。それが小さな円筒型タンクだ。
イザベル・クランツ高位技師官僚には、そのタンクの中身が分からなかった。タンクが不透明な金属製のものである以上、蓋を開ける他にはタンクの中身を確認する術はない。そこで彼女は義肢装具士アーヴィング・ネイピアの言葉を信じることにする。タンクの中身が液化アバロセレンであったとする彼の言葉を。と同時に彼女は疑問に思った。最低限の機能のみを備える筋電義肢に、なぜか入っている液化アバロセレン。これはどういう働きをするものなのだろうか、と。
「……」
この義肢の製作者は、かの大天才ペルモンド・バルロッツィだとASIから聞いている。とすれば、あの男が意味なくアバロセレンなんていうものを搭載するはずがない。このアバロセレンには何かしらの役割があるはずだ。
だが、それが分からなかった。何にも接続されていないタンクに何か役割があるとは、イザベル・クランツ高位技師官僚には思えなかったのだ。
そして、それは義肢装具士アーヴィング・ネイピアも同じ。彼にも、このアバロセレンが果たしている役割が分からなかったのだ。そんな義肢装具士アーヴィング・ネイピアは少しの失望から、彼らしくない冗談を言う。
「先代から聞いたあの話は何だったんだろうな。アバロセレンを介してよりスムーズな動きを実現したとか、そんな話をたしかに聞かされたんだが。あのときの先代はモルヒネによる譫妄状態にあったってことなのか?」
「……」
「少しは期待していたんだ。アバロセレンによる筋電技術もそうだが……――フィクションに出てくるスパイの秘密道具のように、ビックリさせてくれるような何かがあるのではと。例えば、この義肢から盾のようなものが飛び出したりとか、そういう展開だ。蒼いレーザー光が手首の部分から出て、弾丸を防ぐ盾が目の前に投影――」
勿論、その言葉は冗談のつもりだった。彼がこのとき思い浮かべていたのは、子供の頃に読んだコミックのワンシーン。主人公である諜報機関所属のスパイが、開発部門から新しい秘密道具を与えられて浮かれていた場面だ。
その秘密道具は鋼鉄のガントレットのような見た目をしていて、特殊なジェスチャーを装着者が実行することによって、それに対応したコマンドが起動されるという機能が搭載されていた。肘を折り曲げて顔の前にガントレットを翳せば、ガントレットから蒼いレーザー光が放たれ、そのレーザー光が弾丸を跳ねのける盾を描き出したり。中指を突き立て、その指先で敵を指し示せば、敵に向かってガントレットから赤いレーザー光が放たれて、敵を丸焦げにしてみせたり。……まあ、そんな内容だっただろう。
そんなこんなで思い出した大昔に読んだコミックの内容を、義肢装具士アーヴィング・ネイピアは頭から追いやる。それから彼はイザベル・クランツ高位技師官僚の顔を見たのだが、そのときの彼女は驚きに満ちた表情を浮かべていた。そして彼女の視線の先を義肢装具士アーヴィング・ネイピアも見やり、彼もまた驚きから目を見開く。唖然とする彼の横で、イザベル・クランツ高位技師官僚はぼそりと呟いた。
「盾が出てきた……?」
彼らの目の前にあった現実は、まさに義肢装具士アーヴィング・ネイピアが思い出していたコミックの内容そのものだった。テーブルの上に置かれた義肢からレーザー光が放たれていたのだ。それも蒼いレーザー光。さらに蒼いレーザー光は盾のようにも思えるイラストを大気に投影していた。
義肢装具士アーヴィング・ネイピアはデスクの上に置かれていた自身のネームプレートを掴むと、試しにネームプレートを光の盾に向かって投げてみる。するとネームプレートは盾にぶつかるような軌道を示す。木製のネームプレートはカコンという固い音を立てて光の盾に衝突し、衝突した地点から僅かに跳ね返ると、すとんと床に落ちた。
この結果に、二人は同時に顔を見合わせた。そして二人同時に口を開く。
「あの盾、質量がある」
それだけを言ったのは義肢装具士アーヴィング・ネイピア。
「マイクは搭載されてた? あと、スプリッターやレンズ、鏡は?」
そう訊ねたのはイザベル・クランツ高位技師官僚。そして優先されたのは彼女の言葉だった。彼女の問いに、義肢装具士アーヴィング・ネイピアは答える。「いや、そういうものは何もない。マイクは無かったし、鏡やレンズだなんていう割れる危険性のあるものは入っていなかった」
「本当に?」
「これ自体は本当にただの筋電義肢だ、用途不明のアバロセレンの他には妙なものは搭載されていない。――多分」
「多分?」
「人工知能と思しきプログラムはあったが、それもざっと解析した限りでは筋電に関する深層学習機能しか積まれていなさそうだった。が、抽出したものを更に詳しく探ってみないことには……」
普段はわりと歯切れよく断言するほうである義肢装具士アーヴィング・ネイピアだが、その彼が珍しく不安げに言い淀んでいる――突然、義肢から飛び出てきた盾はそれほどの衝撃を彼に与えていたようだ。
そしてイザベル・クランツ高位技師官僚のほうは黙りこくり、考えこむ。彼女は“まさか”の可能性を思い浮かべていた。それから彼女は表情を険しくさせると、義肢装具士アーヴィング・ネイピアを見やる。彼女は彼にある頼み事をするのだった。「ねぇ、アーヴィング。この盾が消えることを想像してみてくれない?」
「想像だって? 急にどうした、イザベル」
「いいから、頭の中で思い浮かべて。リモコンを操作してモニターの電源を落とすように、盾がパッと消える様子を。なるべく具体的に」
頭の中で想像してみろ、なるべく具体的に。……つまらない唯物論者アーヴィング・ネイピアに投げられた無理難題に、彼は顔をしかめた。彼にはイザベル・クランツ高位技師官僚の意図が読めなかったからだ。
しかし彼にとって彼女は同期であり気心の知れた間柄といえ、今は“上司”である人物。逆らうわけにはいかないし、こんなつまらないことで揉め事を起こしたくはない。そこで彼は、素直に従うことにした。
「想像、か……」
大気中に投影された蒼いレーザー光の盾を睨み付けながら、義肢装具士アーヴィング・ネイピアは思い浮かべてみる。あたかも電源が落ちたかのように、その盾がスッと消えていく様子を。――そして結果はすぐに顕れた。
「……!」
彼が頭の中でレーザー光の盾を消してみせたとき、それに呼応するように現実に投影されていたレーザー光の盾も消失した。
予想もしていなかったことが起き、義肢装具士アーヴィング・ネイピアは動揺する。しかしその一方で、イザベル・クランツ高位技師官僚は何かを納得するかのような表情を浮かべていた。そしてイザベル・クランツ高位技師官僚は言う。「アバロセレンは可能性を抽出する穴なのかもしれない」
「……というと?」
「これは現実を書き換える“何か”とこの次元を繋げるためのポータルで、これそのものがエネルギーを生み出しているわけではない、だからアバロセレンは崩壊しない。つまり『アバロセレンは異次元からエネルギーを引きずり出している』というヴィヨン博士の仮説が正しかったのかもしれない。それで、その……端的に言えば、アバロセレンとは“イメージ”を現実に下ろすものなのよ。あなたが盾を願った瞬間に盾が出現したように、盾が消えることを願えば消える。そういうものなのかもしれない」
神妙な面持ちでそう語るイザベル・クランツ高位技師官僚の言葉は、メチャクチャな内容である一方で説得力を帯びていた。現に彼女の仮説を肯定しそうな現象が目の前で起きたのだから、流石のアーヴィング・ネイピアとてこの仮説に一定の信ぴょう性がありそうなことを認めるしかない。
レーザー光の投影をやめた筋電義肢を見ながら、義肢装具士アーヴィング・ネイピアは腕を組み、続いてイザベル・クランツ高位技師官僚の顔を見る。それから彼はこんなことを述べた。
「そうなると、SODの説明が付くな。SODを介して繋がる別世界が、すなわち可能性の世界ということなのか? あの気味の悪い怪物がうじゃうじゃと降ってくる世界が、可能性の世界だと」
かれこれ半世紀以上、人類を悩ませている問題。SODこと、次元の歪み。今もボストン上空にある巨大なそれを消滅させるべく、今も日々研究が進められている。その最前線がこのアルフレッド工学研究所であり、ここに所属する研究員たちはその研究に直接的に関わっていない者も含めて、SODという現象に悩まされていた。
現在アルフレッド工学研究所は『小規模のSODを人為的に発生させ、収束させる』ことに成功している段階にある。そしてこの実験が成功したときに湧いてくるトラブル、それが義肢装具士アーヴィング・ネイピアの言う『気味の悪い怪物』なのだ。
研究所で発生させたSODから飛び出してくる怪物は、だいたい一度につき一体か二体ほど。そして怪物のバリエーションは恐ろしいほどに豊かで、一貫性がない。頭はライオン、体はヤギ、尻尾はヘビという“キメラ”そっくりな怪物が出てくることもあるし。頭はヤギ、体はウマで、口からは強烈な刺激臭を発する強酸性の唾液をダラダラと垂らすような、近寄ることすらままならない怪物のときもあるし。頭はサル、体は巨大なヘビ、それにムカデのような脚がわんさかと生えている、だなんていうパターンもある。まあとにかく、この怪物の駆除が大変なのだ。
所長がペルモンド・バルロッツィだった時代は、ペルモンド・バルロッツィと現在は“ラドウィグ”と呼ばれている彼がこの駆除作業を担っていたのだが、どちらも不在である今は職員総出でこの駆除作業を行っている。怪物に液体窒素をぶちまけたり、実験用のレーザー冷却装置での凍殺を試みたり、火炎放射器で応戦したり、発火能力や発電能力を持つ覚醒者で応戦したり等、研究員総出の鎮圧作戦は毎度てんやわんやの大騒ぎになる。最近は研究員たちも慣れ、怪我人も減りつつあるが……――という話は今、重要ではないだろう。その話は脇におくとして。
SODを開くたびに、必ず決まって飛び出してくる怪物たちのことを思い出しながら嫌そうな顔をした義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、しかしすぐさま怪物のことを頭から消し去る。先ほどの盾のように、怪物まで頭の中から現実へと出てこられては堪らないからだ。そうして一度頭の中を空っぽにした彼は、イザベル・クランツ高位技師官僚の様子を伺う。彼女は今の義肢装具士アーヴィング・ネイピアの言葉に、何か引っかかるものを感じていたようだ。
それからイザベル・クランツ高位技師官僚は暫し悩みこむように黙る。数十秒後、彼女は暫定の仮説を見出したのか、ぼそぼそと喋り始めた。
「いえ、あの不気味な怪物が飛び出してくる世界も、きっと誰かの思い描いた悪い空想によって生み出されたものなのよ。きっと最初のSODも……――」
言葉の途中、彼女は喋ることを止め、顔を上げた。その時の彼女の目には何か重大な天啓を得たかのような、凛とした光が宿っていた。そしてイザベル・クランツ高位技師官僚は、義肢装具士アーヴィング・ネイピアの黒玉のように黒い瞳をジッと見据えると、透徹した声で己の考えを述べるのだった。
「ASIはこう言っていた。最初のSODをコヨーテ野郎が生み出したという話は、北米合衆国政府が責任逃れの為にでっちあげた大嘘。実際の彼は一人でも多くの市民が逃げられるようにと時間を稼ぐ為にひとり最期まで建屋に残り、暴走したアバロセレン炉の制御を試み続けた人物であり、そこは尊敬に値する、と。でも、それは違うのかもしれない」
「つまり、あれはやはり綿密に計画されたテロ事件だったと?」
「いいえ、それも違う。――彼は勇敢な人物だった。でも、最期まで建屋に残った彼が抱いた恐怖や悪いイメージがアバロセレンに投影されてしまったのよ。アバロセレンは彼の抱いた絶望や恐怖を受け止め、それを現実で具現化した。それがあの“アルテミス”や怪物なのだとしたら……」
「……」
「意外とSODを消滅させるのは簡単なのかもしれない。レオンが提案したような大規模な設備は必要ないのかも。強力な想像力を持つ人物が、アルテミスが消滅する未来を強くイメージしてアバロセレンに願えば、アルテミスは簡単に消失するのかもしれない」
イザベル・クランツ高位技師官僚の言葉を聞き、組んでいた腕を解く義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、目を伏せるとその乏しい想像力と共感力を働かせて大昔のことに思いを馳せる。
まだ“ボストン”という土地があった時代。SODという概念などなく、全体未聞の事態によって混乱状態に陥っていただろう当時。その混乱の元凶にひとり立ち向かった人間が抱いていただろう恐怖。それは簡単に想像できるものではない。きっと強烈な感情であったはずだ。
その強烈な感情が生み出したものが、あのSODであり怪物なのだとしたら? ……たしかに、その説はあり得そうな気がする。
そして義肢装具士アーヴィング・ネイピアも、イザベル・クランツ高位技師官僚と同じ気付きを得る。瞼を開けると彼は言った。
「先代が打ち出した『レーザー冷却で熱を奪うことによりSODを消滅させられる』という説も、もしかしたら認識を利用するためだったのか? 俺たちがそうだと信じ込めばアバロセレンはその通りの展開を見せてくれる、だからSODを消すための取っ掛かりとして彼は『具体的なイメージ』を作ったと。つまりレオンハルトが開発したあの冷却装置は、装置ではなく『SODがたとえ開いたとしても、冷却し続ければ消滅する』という俺たちの“認識”が作用していた?」
義肢装具士アーヴィング・ネイピアの言葉に、イザベル・クランツ高位技師官僚は頷く。二人の見解は一致していたようだ。
そしてイザベル・クランツ高位技師官僚は頷いた後、ガックシと肩を落とした。それから顔を俯かせ、額に手を当てる彼女は、義肢装具士アーヴィング・ネイピアに意見を求めた。「やっぱりアバロセレンは全面的に使用を禁止しないといけない物質だと私は思う。アーヴィング、あなたはどう思う?」
「俺はもとより規制派だ。あんなもの、野放しにしていいわけがない。そもそも、あれが物質であるのか、それとも光子に似た存在なのか、またはどちらでもない存在なのかさえ現状では分かっていないのだから」
義肢装具士アーヴィング・ネイピアはそのように即答。その答えはイザベル・クランツ高位技師官僚に少しの安心感を与え、彼女は僅かに微笑みを見せた。――が、すぐにその表情は緊張感に満ちたものに変わる。彼女は義肢装具士アーヴィング・ネイピアから出入り口へと視線を移すと、ため息交じりの声で呟いた。
「ASIと話し合わなきゃ。ラドウィグとも共有しないと……」
そう呟いたあと、イザベル・クランツ高位技師官僚は義肢装具士アーヴィング・ネイピアに対して小さく手を振り、オフィスを去っていく。その背中を見送る傍らで、彼はあることを思いついた。
「……」
アバロセレンが“ただそこにある”だけで何かしらの働きをするのであれば、これを自分も応用できるのではないか。それこそコミックで見た秘密道具のような、ブッ飛んだものが創り出せるのではなかろうか。――そんな好奇心が、珍しく彼の心に宿る。そして同時に、彼の頭にはある人物の顔が浮かんだ。
猛獣と呼ばれている女、アレクサンダー・コルト。積極的に試作品のテストに協力してくれている彼女なら、この提案に乗ってくれるだろうか?
「……いや、まずは仕事だ。AIの解析が残ってるんだ……」
しかしつまらない男アーヴィング・ネイピアは、すぐに邪悪な好奇心を振り払う。そして彼はすぐさま彼の仕事に戻っていった。
+ + +
この人生に、何の意味がある? ――そんな思いばかりが、この時の彼の頭の中をぐるんぐるんと回っていた。
「クロエ。報告がある」
時代は遡り、四二二八年五月下旬のある日のこと。つい先刻クビをきられた勤め先の入るビル前に立つシスルウッドは、目を真っ赤にしながら、少しの私物が入った紙箱を抱えて呆然としていた。
辛うじて使えるレベルに整備された中古の型落ち携帯電話を耳に当てる彼が通話をつなげた先は、ヘッドハンター兼人材仲介業をやっている友人クロエ・サックウェル。更新はし続けている医師免許を、しかしなんら活かしていない業種に就いている彼女に当時、シスルウッドは求職活動の面倒を見てもらっていたのだ。
そんなこんなでクロエはすぐに事情を察する。彼女はシスルウッドからの報告を聞くよりも前に、こう言った。『またクビになったの? ハハッ、すごい。最短記録更新だ。一ケ月半でクビって、すごい』
「笑い事じゃないよ……。つい一昨日、歓迎会を開いてもらったばっかりだったのに。もうサヨウナラだ。冗談じゃない」
『まあまあ、そう気落ちしないで。また次があるから』
「次って、どこに? 僕は何もミスを犯さなかった。週のノルマだってゆうに超えていた、同僚たちともうまくやっていたはずだ。雑用だって積極的に請け負って、溶け込む努力だってしたさ。いつでもどこでも、常にそう勤めていた。それなのに……ッ!」
『おっと。アーティー、もしかして泣いてる?』
「そう。心が折れたんだ」
電話越しのクロエに情けない泣き言をボトボトと零しながら、シスルウッドは少ない荷物を抱えて移動する。人目を避けるようにオフィスビルの影に入ると、彼はビルの外壁に自分の背中をドンッとぶつけ、その場にへなへなと座り込む。そんな彼はクロエの読み通り、無様に泣いていたのだった。
泣いているといっても、幸いなことに『嗚咽や過呼吸が起こるほどの大号泣』までには至っていない。心理的なストレスが極限にまで達したせいで、目から勝手に涙がポロポロと零れ落ちて止まらなくなっている状態、その程度で収まっている。たまに声が裏返るせいでクロエには泣いていることがバレてしまったが、とはいえ泣いているわりには案外と冷静な状態ではあった。
ただ、思考はネガティヴの方向に突っ走っている。この時の彼は開き直って笑えるような気分にはなかったし、エネルギーを持て余して荒んでいた一〇代の頃のような「あのクソ野郎ども、いつかぶっ潰してやる!」という強い怒りも抱いていなかった。彼の中にあったのは灰色の徒労感だけ。彼の心はもはや燃えカスに等しく、燃える余地がもう残っていなかったのだ。燃え尽き、そよ風に遊ばれてフラフラゆらゆらと揺らぎ、転がっている真っ黒な藁くず。そんな心境だ。
「これでクビは八度目だ。オマケに部長からは『実家に帰って議席でも継げばいいだろ』と言われたよ。その言葉に周囲は笑ってた」
『なにそれ、ひどすぎる。セシリアが聞いたらブチギレる発言だよ』
「だから彼女には黙っていてくれ、また訴訟を起こせってせっつかれたくないから」
目からは涙をポロポロと零しながら、口許には自嘲の薄ら笑いを浮かべつつ、シスルウッドはぐちぐちと不平不満とボヤきを連ね続けた。その裏で彼はここに至るまでの経緯を思い返し、ネガティヴ思考を強化していく。
「……面倒ごとはもう御免だ。もめ事なんて嫌だ。今にも尽き果てそうだってのに、これ以上は気力と精神をすり減らしたくない……」
エルトル家から出ていけばこれ以上悪くなることはないと、そんな幻想を無邪気に信じていた頃が懐かしい。現実はこのザマだ。状況はエルトル家を出たあと……――というか、ペルモンド・バルロッツィの家を出たあとから急転直下で悪化していったともいえる。
転落が始まったのは六年前、二十二歳のとき。修士課程修了後せっかく大学院に進んだというのに自主退学してしまった時からだ。退学理由は、同様の選択をした他の苦学生たちと大差ない。学業と仕事を両立できなくなり、心身ともにズタボロになったためだ。
それまで居候していたペルモンド宅を出たというのも、きっと心身のバランスを崩した要因の一つなのだろう。まあともかく、あの頃はズタボロだった。一年ほど精神科に通う羽目になったのだから――双極性障害に片足を突っ込みかけていると主治医であるファーガス・リース医師が判断したからだ。
そのため一度シスルウッドは実家ことバーンズ・パブに出戻り、店を手伝いながら半年ほど休養。リース医師の指導に従い、規則正しい生活と毎朝のランニングを欠かさず続け、なんとか元の調子を取り戻した。たまに頓服薬の世話になったこともあったが、それも数か月に一度ぐらい。罵声をぶつけてくる集団に囲まれた等、相当にストレスが掛かる出来事にでも遭遇しない限りは、頓服薬を使用することもなかった。
その後、カリカリとした精神状態が落ち着いた段階で、彼はロバーツ家に移り住んだ(尚、ボイラー室が彼の寝室として宛がわれることはなかった。むしろ「本当にボイラー室に引っ越してくるつもりだったのか?!」とキャロラインの父に驚かれたぐらいである。キャロラインの父曰く、あの話は「どんな文句や無理難題を吹っ掛けられても、それを我慢して受け入れようとするシスルウッドの姿勢が気に入らなかったから」こそ飛び出た冗談だったらしい。ただ、キャロラインの母は本当にボイラー室を宛がうつもりでいたとか、なんとか……)。それが翌年、二十三歳のとき。
移住と同時に婚姻し、娘テレーザが誕生したのもこの年だ(これはキャロラインの母に急かされたためだ。尚シスルウッドは養子を貰い受けることを希望したが、その希望は「どんな病気を持っているかも分からないような、どこの馬の骨とも知れない野良猫を我が家に加えろと? ふざけたことを言わないで!」「ロバーツ家には、ロバーツ家の血が流れる跡継ぎが必要。娘の血を継ぐ子供であればそれでいい、種なんて問題じゃない」という義母の冷たい言葉によって却下された)。そして最初の就職先が決まったのも、この年。最低最悪な軍需企業に首根っこを掴まれ、暫くここに囚われることとなった。
軍需企業、ラーズ・アルゴール・システムズ。どうしてこんな企業に就職することとなったのか。その答えは単純である。この会社の重役を務める人物――のちにこの人物は元老院の一柱、よく“エズラ・ホフマン”だのと人間界では名乗っている存在だと判明するが、この当時のシスルウッドは何も知らなかった――から脅されたのだ。従わなければ妻と子供を、そして友人すべてを惨たらしく殺してやるぞ、と。ハッタリではなさそうな相手の気迫に押され、舐め腐った性格の持ち主であるはずのシスルウッドも流石に従うしかなかった。
ここでシスルウッドに命じられた仕事は、先にここに就職していたペルモンド・バルロッツィの監視、それと機密文書の暗号化作業だった。ペルモンドしか所属していない部署にぶち込まれた彼は、そこで四年ほどイヤ~な業務をやらされることとなった。
暗号化作業。これについては、すぐに自動化することができた。シスルウッドが考えた暗号式(今となってはその内容を思い出すことは出来ない。高度な思考を伴う作業に関する記憶は、死後に陥った低酸素状態に起因する脳機能障害の影響で大部分が吹き飛んでしまったからだ)を用いた自動暗号化・復号化プログラムを、ペルモンドがサクッと組み立ててくれたからだ。
連続スキャン可能なプリンター・スキャナー複合機に書類をセットするだけで、自動的にコンピュータが内容を取り込んでデジタルデータ化し、暗号化作業も同時に行い、そしてスキャンされた書類はシュレッダーに直葬。――そんなわけでシスルウッドは機密文書に目を通すことなく、また仕事らしい仕事をすることなく、気楽な窓際族の分際を半年ほどエンジョイしていた。ただ出社し、気難しいペルモンドの機嫌を取りながらお喋りし続けるだけで分不相応の高給が払われるのだから、これ以上ない楽な仕事だった(脅されて入社した、という経緯はさておき)。
自ら望んで窓際族になっていたシスルウッドだが、その振る舞いを上層部は把握していながらも黙認をしていた。自動化プログラムを走らせているとはいえシスルウッドが機密文書に目を通している可能性があったこと、そして暗号鍵をシスルウッドが知っていたこともあり、上層部はシスルウッドに対し強く出られなかったのだ。
機密文書の大半には、表に決して出すことができないような内容が記されている――国際的な倫理規定に違反する項目を少なからず含む研究報告書、裏の金銭事情に関係した文書、非人道的な人体実験のレポート等、外部に漏れては困るものばかりだ。この断片を知っているかもしれないシスルウッドを分不相応ともいえる高額な報酬で黙らせることができるなら、そして社内に囲い込めるのであれば、それで構わないと上層部は考えていたからだ(反対にシスルウッドは、秘密を知っていてもロクなことにはならないと考えていた為、その内容の一切に関知しないことを徹底していた。兵器開発に専従している企業の機密文書など目を通したところで良いことが起こるはずもないと、彼は分かっていたし。ただでさえ記憶力が無駄に良い脳味噌に、不快な情報は極力詰め込みたくなかったのだ)。
とはいえ、この妙な優遇を下の者たちがよく思うはずがない。そんなこんなで、社のため馬車馬のごとく扱き使われている営業部に目を付けられたシスルウッドは、ペルモンドの辞職を機にそこへと転向させられることとなる。そこでの日々は、控えめに言って『最低』の一言だった。
とても達成可能だとは思えない困難なノルマを、シスルウッドただ一人だけ課せられていた。最初の頃は「こなくそーッ!」と怒り、持ち前の反骨精神を武器に上司を見返してやろうと必死になったが、そのうちシスルウッドは気付く。上司はただ『ノルマ未達成によるペナルティ』をシスルウッドに与えたいだけなのだと。大した仕事もせずに高給を受け取っていた“アーサー・エルトルの息子”が気にくわないから、ただ虐めたい。それだけでしかなかったのだ。
同僚たちも同様で、その大半は『当然とも思えるノルマ未達成という結末を迎え、理不尽な叱責を上司から喰らうシスルウッド』を嘲り笑って見ていた。中には慰めたり、偶に手を貸してくれる同僚も居たが、彼ら彼女らは大抵何かしら黒い腹を隠し持っていて、施しに釣り合わないような大きすぎる見返りを暗に要求してくることが多く、シスルウッドをえらく失望させたものだ。
そのうちシスルウッドは何も頑張らなくなった。というか、反骨精神が斜め上に向かった結果、何もしないという結果に落ち着いたのだ。外回りだと嘘を吐いて外に出て、街中でのんびりランチを楽しんだり。営業先で自社を貶し、他社を検討するよう勧めるという暴挙に出たり。……そうしてシスルウッドは営業部の評価を失墜させることに成功し、彼を笑いものにし続けた上司や同僚たちへの復讐を果たした。烈火の如く怒る上司が声を荒らげるさまを観察しながら、シスルウッドはヘラヘラと愉快そうに笑っていたものだ。
そうして同僚たちとバチバチと喧嘩をしながら三年ほど過ごした、ある日のこと。辞職したものだと思っていたペルモンドが、何食わぬ顔でオフィスに戻ってきた。思い返してみれば、たぶんそれが崩壊のキッカケだったのだろう。
その騒動の少し前に起こっていたのが、ペルモンドを長年献身的に支えてきたエリカ・アンダーソンの事故死。それが引き金となり、ペルモンドは元よりもひどい状態に陥った。エリカ、そして彼の担当医であったイルモ・カストロ医師のお陰で寛解に近付いていたはずの病状が、シスルウッドと共に生活していた頃よりも酷い状態になっていたのだ。
三歩歩けば直前の記憶を失くす。そんなダチョウ並みの記憶力だったペルモンドだが、遂にその抜け落ちる記憶は『直前まで何をしていたのか、というエピソード』ではなく『自分自身が誰であるのか、という自己同一性』にまで及ぶようになった。そしてペルモンドはより些細なキッカケでパニック発作を起こすようになり、突然何の前触れもなく失踪することも増え、彼の後見人であるセシリア・ケイヒルの手を焼かせることも多くなった。
そしてエリカの死後、翌年のこと。オフィスで顔を合わせたペルモンドは、シスルウッドにある告白をした。端的に言うとそれは『かつての自分は人に命じられるがまま人を殺す、殺戮機械みたいなものだった』という内容。そのときのシスルウッドはその言葉を受け止めることができず、動揺することしかできなかった。
あの告白は間違いなくペルモンドとシスルウッドの間に“不信感”という深い溝を作った。二度と埋められることはないだろう、深い溝を。その告白を気にシスルウッドは彼から距離を取るようになり、少しずつ関係が切れていった。
その告白から数か月後。勤め先が突然、解散した。シスルウッドが作成した暗号式、それの復号化プログラムがとあるジャーナリストに流出し、機密文書に記されていたおぞましい内容が白日の下に晒されたこと(尚、復号化プログラムを持ち出した犯人は未だ特定されていない。だがプログラムを組んだ張本人ペルモンドの仕業だったのではとシスルウッドは推測している)。機密文書のおぞましい内容に多くの株主たちが激怒したこと。そして騒動直後、取締役社長であったエズラ・ホフマンが姿をくらましたこと。これらの要因が重なり、速やかに執り行われた決議によって解散が採択されたのだ。
会社の解散を機にペルモンドとシスルウッドの関係は完全に断絶された。その後のペルモンドの動向に関してシスルウッドは、たまに彼の後見人であるセシリア・ケイヒルから聞く程度になる。そうして二人は暫くの間、顔を合わせることもなかった。
そうしてペルモンドと縁が切れたあとに訪れたのは失業者という生活。それと、おぞましい内容を記した機密文書の隠ぺいに関わったとして、世間からバッシングを浴びる日々(ただし世間がバッシングを浴びせている対象は『シルスウォッド・アーサー・エルトル』という名前の彼であり、当時ロバーツ姓を名乗っていた娘テレーザの生活に影響が出なかったことは不幸中の幸いだった)。それが始まったのは昨年、二十七歳のとき。
ロバーツ家がぼちぼちな資産家であったこと、そして最低最悪な軍需企業に勤めていたころに蓄えた財産が幾分かあったこと、それから稼ぎの良い妻キャロラインのお陰で、シスルウッドが外に出ずとも生活に困ることはなかった。
シスルウッドが働かなくとも、たぶん一生暮らしていけるだけの蓄えはある。とはいえ、先のことに不安がなかったわけではない。娘テレーザの将来のこと、それから「もう一人ぐらい子供が欲しい」というキャロラインの願望もあって、真面目に働かなくてはいけないなという気が、不良で怠惰なシスルウッドにもしていたのだ。
そんなわけでシスルウッドは求職活動を始めたのだが。しかし単独ではあまり上手くいかない。なにせシスルウッドはあまりにも烙印を背負いすぎている。普通のやり方では上手くいくわけがなかったのだ。
まず、アーサー・エルトルの息子という肩書。それは重かった。それはいつでもどこでも付いて回り、常に悪い方向へと働いていた。シスルウッドを雇うことで発生する「アーサー・エルトルを敵に回すかも」というリスク、もしくは「アーサー・エルトルと敵対している極左系の団体を敵に回すかも」というリスクを恐れて、誰も見向きもしてくれなかったのだ。
加えて、前職で付いた悪評は凄まじかった。非人間的な扱いをされることも多く、この現実に彼の心も折れ、専業主夫になるしかないのではと考えたときもあった。
だが、そんな彼に手を貸してくれる者が現れる。それが人材仲介を仕事にしているクロエ・サックウェルだ。
クロエはたしかに有能で、社会から疎まれる要素しかないシスルウッドでも雇ってくれる企業をどこからともなく見つけ出してきた。だが、どこも長続きしない。名前や髪形を変えて空気に擬態し、けれども与えられたノルマはしっかりと達成し、問題行動も起こさず真面目に働いても、いつも必ず数か月ほどでクビを切られるのだ。そして理由はいつも同じ。
アーサー・エルトル。やつはシスルウッドの就職先を掴むと、その就職先の粗探しを始めるのだ。そうして醜聞や隠匿された不祥事を掘り出すと、それを餌に幹部へ脅しをかける。世間に醜聞が知れ渡る未来か、うちの息子をクビにする未来か、そのどちらかを選べ、と。――今のところ、シスルウッドを切り捨てるという選択をしなかった企業はいない。そうやっていつも彼は社会から切り捨てられてきた。
一度や二度なら耐えられた。だが八度目は無理だ。
それが今、涙が止まらなくなっている理由である。世間から『必要ない』と拒否されることに、彼は耐えられなくなっていた。社会を回す小さな歯車になる資格すら与えられていない、そんな無用者であると突き付けられることが、もう嫌になっていたのだ。
「正直言うとさぁ、何もかもが嫌になってる」
建物の影に隠れ、座り込むシスルウッドは長いこと封じ込んでいた本音をボトボトと零していく。そうして愚痴を漏らしながら彼が見るのは、日向の世界。忙しそうに颯爽と早足で歩いていく人々がちらりと向けてくる冷たい視線を受け止めながら、彼もまたそちらの世界に冷ややかな視線を向けていたのだ。ここはやはり自分が居るべき世界ではないのだな、と。
結局、シスルウッドが若い頃に感じていた直感はその大半が当たっていた。ドロレスやローマンのような“善良な大人たち”は度々「お前は普通の人間だ」とシスルウッドに説いてきたが、けれどもシスルウッドは知っていたのだ。自分は普通ではないと。
普通の人間は、両親も普通だ。そこそこにクズで、そこそこに善良な無名の一般人から、なんてことない普通の人間が生まれてくる。復讐の鬼と化してそれを果たした母親と、世間から極悪人として疎まれる父親の間に生まれた人間が、普通であるワケがないのだ。
それに普通の人間が、全てを克明に覚えているワケがない。普通の人間は、不特定多数からトマトや罵倒を理由なく投げられたりしない。普通の人間が、社会から目の敵にされることもない。
そして普通の人間は、ここまで強い憎悪の感情を抱かない。
「――いっそ死にたいぐらいだ」
薄暗闇に隠れながら日向の世界を冷ややかに見つめるシスルウッドに、通行人たちは気持ち悪がるような視線を次々と投げつけてくる。その視線が堪えたシスルウッドが遂に日向の世界から目を逸らし、目の前の外壁に視線をやった時、同時にその言葉がフッと零れ出た。
すると、それまで揶揄するような調子だったクロエの様子が変わる。電話越しの彼女は食い気味にこう言った。『あーっ。ちょっと、アンタなに言ってんの? それ実行したら許さないからね?』
「分かってるよ、そういう気分なだけだ。娘を置いて逝くわけがないさ。……あの子に僕と同じ経験はさせたくない。片親が自殺だなんて、そんな経験は……」
『当たり前でしょ。そんな経験、テッサにさせないで』
ぴしゃりと断ち切って変な同情をしない、このクロエのやや冷たい雰囲気。けれどもそれがこの時のシスルウッドには心地よかった。慰めるための嘘を言われることもなく、ありもしない希望を信じろと説得されることもなく、正しいと思われることだけを叩きつけてくる。そんな鋭さが、シスルウッドの暗闇の中でフワフワ浮いている心をぐさりと刺し、現実という土台にぶすりと固定してくれるのだ。
そうして荒れていた心がクロエの冷たい言葉によって徐々に落ち着きを取り戻していく。娘テレーザの愛称“テッサ”を他者から不意に突き付けられたことも、要因の一つだろう。
「……」
ようやく流れ続けた涙が止まり、乱れていた呼吸も整い出す。ショックを受けていた心が緩やかに回復し、ほんの少しだけ立ち直ったときだ。シスルウッドが深呼吸を試みていた一方で、電話越しのクロエは重たい溜息を零していた。そして溜息のあと、クロエは言う。
『あんたと話してると、いつも調子狂っちゃうのよね。なんか柄にもないことを言いたくなっちゃう感じがしてくる』
「……柄にもないことか。例えば?」
『まあ、うーん。そうだなー。……――私、今ヒマだし。話、聞くよ。だから今あんたの居る場所を教えて』
+ + +
羽振りの良いクロエ女王のおごりで甘ったるいコーヒー一杯をごちそうになり、そして彼女に二時間ほど愚痴を聞いてもらった、その一週間後。クロエから「バンクーバーのほうの知り合いに声かけてみたら、数件オファーがありそうだって。で、どうする?」と提案されたが、しかしボストンから絶対に出たくないとゴネる妻キャロラインの反応を見て、シスルウッドがその返答に困っていた時のことだ。
この当時の彼は目先の求職活動のことや将来設計、実父アーサー・エルトルへの対抗策、そして己が抱え込んでいる狂気など多くのことに悩まされていたが、しかし娘テレーザのことが当時の彼にとって一番大きな悩みだったことだろう。
学校に通い出す年齢にもなったテレーザには、明確な自我が備わり始めていた。賢く、それでいて思慮深くて優しい。それがテレーザの基盤となる性質である。記憶力が他の子供たちより優れていそうなことが気掛かりではあったが、とはいえ性格がねじれることもなく、真っ直ぐに育っていた。
そんな風に、まさしく“良い子”へと育っているようにも感じられるテレーザだが。しかし義母カレン・ロバーツに言わせればテレーザは“ロバーツ家の跡継ぎとなる女性”としては相応しくないらしい。義母は孫娘であるテレーザのことを、欠陥品だの出来が悪いだのと散々に罵っていた。
というのも、テレーザの自我が形成されていくにつれて明らかになった事実があったからだ。それはテレーザが普通の子供であるということ。テレーザは普通であるがゆえに、ロバーツ家の女性たちが代々信奉し、その声を聞いてきたという“白狼さま”という存在を感知できなかったのだ。
白狼さまという存在について、シスルウッドが知っていることは少ない。ペルモンドの傍をうろちょろしていた“黒狼ジェド”という名の黒い影、あれと近い存在らしいということだけが分かっている程度だ。
黒狼と同様に、白狼さまという存在もまた時に人間の体を乗っ取って好き放題に活動する。白狼さまという存在は決まって義母かキャロラインか、そのどちらかの体を乗っ取るのだが。その後の行動はいつも決まっていた――シスルウッドの襟首を掴み、彼の耳元で騒ぎ立てるのだ。お前は今すぐにでも死ぬべきだ、と。
好きでもない義母カレンの顔でギャンギャンとうるさく吠えられる分には、シスルウッドもまだ耐えられる。クソババァがなんか言ってやがるぜ、と心の中で軽く流せるからだ。しかしキャロラインの顔で「死ね」と吠えられると、毛の生えた心臓の持ち主であるはずのシスルウッドでも傷を負わざるを得ない。またキャロラインがその瞬間を何も覚えていないことが、彼の心を確実に締め付けていた。
そんなこともあってテレーザは、いつからか白狼さまという存在、及び“ロバーツ家の女性”というものを怖がるようになった。自分に対して風当りの強い祖母、そして時に豹変して父親に「死ね」とがなり立てる母キャロラインのことが怖くて仕方がないのだという。
怯えて当然だと、シスルウッドは感じている。テレーザはまだ子供なのだ。そしてこの時のテレーザにとって、家は安心して帰ることが出来る場所ではなくなっていた。
故に学校が終わった後、テレーザはまっすぐ家へと帰りたがらない。友達の家に遊びに行く、と必ず言うのだ。そして行く先は毎回同じ、大親友ボビーの家である。
ボビーの両親は嫌な顔をひとつせず、テレーザをいつも快く受け入れてくれた。――多分それはボビーの両親、特に父親のほうとシスルウッドが親しかったからだろう。彼の抱える事情をよく知っているからこそ、配慮してくれていたのかもしれない。
「見るたびにやつれていくな、お前は。ちゃんと食ってんのか?」
夕方の六時頃。テレーザを迎えに来たシスルウッドを玄関で出迎えたのは、ボブの父親であるユーリ・ボスホロフ。彼はデリックやエリカ、ジェニファーらと同様に、ペルモンドを介して大学時代に知り合った友人のひとりだ。
といってもユーリは友人らの中では特異な存在だった。彼はペルモンドとしか親しくなく、デリックらとは距離があったのだ(ユーリ曰く「デリックがクズ野郎すぎて、そちら側にはあまり近付きたくなかった」「バッツィにはデリックと縁を切るよう進言したぐらい、あいつのことが嫌いだった」とのこと)。それもあって学生時代、シスルウッドもまたユーリと特に親しくはなかったのだが。両者ともにたまたま同時期に結婚し、同時期に子供が生まれたこともあって、情報交換を兼ねて会話することが増え、段々と距離が近付いた。そのうち子供同士も仲良くなり今に至るというわけだ。
「最近、胃の調子が良くなくてね……」
ユーリの言葉にそう返答しつつ、シスルウッドは苦笑いながら相手の姿をざっと見る。
彼の曾祖父の代から続く鉄工場で働くユーリは、その傍らでアマチュアのキックボクサーとしても活動している。がっちりとしたユーリの体格は、まさに健康的な男性という感じだ。
それにユーリは良い父親だ。彼の息子ボビーは少し難しいところのある子供だが、その割には正直で真っ直ぐな子供に育っているようにも思うし、ボビーの両親に向けられた信頼も本物。ユーリの配偶者であり万華鏡作家であるケイラという女性もまた、良い母親であり真っ当な人間で、かなりの人格者だ。
対して、テレーザの両親である自分たちはどうだろうか?
「そういえば……――あの写真、見たか?」
少しだけシスルウッドの表情が翳った時、ユーリは別の話題を振ってくる。あの写真。その言葉にシスルウッドが思い出したのは、今朝の朝刊。三面にチマッと掲載されていた写真だ。
ほぼ専業主夫の状態であるシスルウッドの朝はとにかく忙しく、朝刊の内容といえばコーヒーを優雅に啜る義父ショーンの肩越しに一瞬チラッと眺めた程度だが……――ただ、あの写真はよく覚えている。長いこと顔を合わせていない友人、ペルモンドのひどい有様が捉えられていたからだ。
「あぁ、見た。ペルモンドの、あの写真だろ。ひどい顔してたよな」
あの写真の中でペルモンドは国際空港の展望台に立っていて、警備員らしき人物たち数名に取り押さえられていた。まあ、要するに……柵を越えて飛び降りようとしていたペルモンドを、警備員らが必死に引き留めていたのだろう。
一体なにがあったから、あんなことになったのか。その詳細をシスルウッドは知らない。ただ、彼も知っていることは少しある。ここ数週間ほど“狂人ペルモンド・バルロッツィ”という存在のイカれた一挙手一投足を世間が笑いものにしていた風潮があったし、ネタ欲しさに下品なジャーナリストたちが彼を執拗に追いまわしているという話を聞いていた。それぐらいの情報はシスルウッドも把握している。
それにあの写真のペルモンドはひどく痩せこけ、やつれているように見えていた。あの顔は最後にシスルウッドが直接その目で見た時とは大きく変わっており、まるで別人のようだった。彼と縁を切るつもりでいたシスルウッドですら「大丈夫なのか?」と不安を覚えるような姿だったぐらいだ。
そして不安になっていたのはユーリも同じ。ユーリはシスルウッドと違って能動的にペルモンドと距離を置いているのではなく、ペルモンドと会って話をしたいつもりでいるものの連絡が取れず居場所も掴めなくて困惑している立場であるのだから、より一層不安感が強いのだろう。
「お前は何か知ってるか? バッツィの近況とか。……バッツィが離婚してオーストラリアに移るんじゃあないのか、って噂も聞いたんだが。実際のとこ、どうなんだ?」
ユーリはシスルウッドにそう詰め寄ってくるが、しかしシスルウッドは何も知らない。かつてシスルウッドがペルモンドの面倒を見ていた時期もあったが、この時は違っていたのだから――ペルモンドに関することは全て、弁護士セシリア・ケイヒルが請け負っていたのだ。
ごめん、何も知らないんだ。シスルウッドがそう返答しようとしたとき。父親たちの会話に興味を示したのか、玄関のほうにやってきた子供たちの姿が彼の視界に入る。コアラのぬいぐるみを持ったテレーザと、水色のワンピースを着ているコアラのぬいぐるみを持ったボビーが、彼らの方に近寄ろうとしてきていたのだ。
「あー、そうだな、えっと……」
子供たちのいる場所で、ペルモンドという狂人の話をするのは良くない。
懲りずに何度も自殺未遂をやらかして入退院を繰り返したり、外で酔い潰れて警官に保護されては「自宅に戻りたくない」とゴネたりと、弁護士セシリア・ケイヒルを始めとする周囲の人々に大迷惑を掛けながらも、記憶の欠落を理由に自己を省みようとも改めようともしない自己中心的で最低な大人が身近にいるだなんて話は、子供たちに聞かせられない……!
――咄嗟にそう判断したシスルウッドは結果、全く別のズレた返事をすることになる。シスルウッドがユーリに教えたのは、ペルモンドではなくデリックの近況だった。
「デリックはオーストラリアに移住するって聞いたよ。本格的に、事業もあっちに移すんだって。たしか、ブリスベンだったかな。あそこのロックシーンが今、デリックが手掛けるようなヘンテコな電子楽器に熱を上げているらしくてね。そこに賭けるって、威勢よく言ってたよ。ただ、クロエは一緒に行かないらしい。彼女は今のところ、ボストンを離れるつもりはないそうだ」
「いや、デリックじゃなく――」
ペルモンド、という名前が一切出てこないシスルウッドの返答に呆れたユーリは、再び問い詰めようとしたが。しかし彼はシスルウッドが浮かべていた気まずそうな笑みを見て何かを察すると、一度口を噤んだ。それからユーリは気配を感じて振り返る。彼のすぐ背後には、もうすぐ六歳になるという年齢の幼気な子供たちが立っていたのだ。
「パパ、なんの話してるの?」
ユーリの着ていた灰色のTシャツ、その裾をわずかに引っ張りながらそうユーリに問いかけたのは、彼の息子であるボビー。ボビーは、彼が大事そうに抱えているぬいぐるみのコアラとお揃いである水色のワンピースをひらひらとさせながら、不思議そうに彼の父親であるユーリの顔を見上げている。そしてボビーの隣に立つテレーザもまた、ボビーと同じような表情をしてシスルウッドの顔を見ていた。
息子の問いかけにどう答えればよいのか困惑したのか、ユーリはちらりとシスルウッドに視線を送る。そこで咄嗟の嘘が得意なシスルウッドが、信頼のおける正直者であるからこそ嘘が吐けないユーリに代わって話をごまかす役を担うことにした。
シスルウッドはその場に膝を付いて子供たちの目線に合わせると、ボビーが抱くコアラのぬいぐるみを指差し、次にテレーザの抱くコアラのぬいぐるみを指し示しながら、ボビーの問いにこう答えた。
「二人が今持っているそのぬいぐるみ、それを買ってきた人の話だよ。デリック、っていう人が居て、今ちょうど彼のことを話してたんだ」
しかし、ボビーとテレーザの二人はこの答えに疑問を抱いたようだ。子供たちは顔を見合わせたあと、どちらも小さく首を傾げる。そして口を開いたのはテレーザだった。「コアラさんはクロエおばさんから貰ったんだよ。デリックってひとじゃない」
「クロエの旦那さんが、デリックだ。デリックがコアラさんをクロエに預けて、彼女が代わりにコアラさんを君たちに届けたんだ」
シスルウッドがそう答えると、テレーザもボビーも驚いた顔をして再度顔を見合わせた。どうやら子供たちは謎多き“クロエおばさん”が既婚者であったことを今ここで初めて知ったようだ。
そうして子供たちの興味が“クロエおばさん”に移ったところで、ユーリが安堵からホッと胸を撫でおろす。――やはり“真っ当な父親”であるユーリも、トチ狂った友人ペルモンドの話題を子供たちの前でするのは気が引けていたようだ。
シスルウッドはゆっくりと立ち上がると、安心した様子のユーリの横顔を確認し、嘘を吐いたことへの気まずさを捨てる。続いて彼は自分の娘テレーザに視線をやると、穏やかな調子で声を掛けた。
「さっ、テレーザ。帰ろうか」
途端、テレーザの表情が暗くなる。拗ねたように唇をすこし窄ませるテレーザは視線を足許に落とすと、うじうじとし始めた。それからテレーザはいつも通りのセリフを言うのだった。「もうちょっとだけ、ボビーと遊びたい」
「駄目だ。帰ろう」
娘の我儘をシスルウッドが跳ね除けるのも、いつも通り。そしてシスルウッドは再度膝を織り、今度は娘をギュッと抱き寄せる。それから彼はまたいつも通りの言葉を言うのだ。
「分かってる。帰りたくないんだよな。でも時間だ。家に帰らないと」
テレーザはとにかくロバーツ家に帰りたくないのだ。テレーザにとってロバーツ家とは“大嫌いな白狼さまが支配する魔の空間”なのだから、帰りたくないのは当然。それにシスルウッドさえも同じことを思っているのだ。ゆえに彼も娘へのフォローは欠かさない。テレーザの抱えている負の感情を否定しないようにと、常にその点は気を配っていた。
……ただ。それにしてもこの日のテレーザは嫌そうな顔をしていた。多分、それは今朝の出来事が理由なのだろう。テレーザが学校に行く直前に義母カレンが放ったあの一言、二度と帰ってこなくて良いというあのセリフが、きっとテレーザの中でくすぶっているのだ。
心底イヤそうなテレーザの顔を見て、シスルウッドも気が変わる。そこで彼はテレーザにそっと耳打ちをした。
「……猫たちのいるほうの家に帰ろう。分かったかい?」
猫たちのいる家とは、つまりバーンズ・パブのこと。看板猫業も板についてきたイシュケとビャーハの二匹が居る実家に今日は帰ることにするかと、そう決めたのだ。それにバーン夫妻も「いつでも帰ってきていい」と言っている。ならば、その言葉に甘えるべきだろう。
そうしてシスルウッドが和やかに微笑めば、テレーザは途端に目を輝かせた。テレーザは父親……ではなくコアラのぬいぐるみをムギュっと強く抱きしめると、目をキラキラさせながら嬉しそうに飛び跳ね、こう言うのだった。
「パパ、だいすき! やった!」
「お片付けを済ませてきなさい。それから荷物を取って、戻っておいで」
テレーザは先ほどとは打って変わり、すっかり帰るモードに切り替わった。帰宅前のお片付けにウキウキと向かっていったテレーザの背中を、ボビーは少し寂しそうな表情を浮かべつつ追いかけていく。そうして子供部屋に消えていった子供たちの背中を見送った後、シスルウッドは溜息と共に立ち上がった。
立ち上がったシスルウッドが息を吸うと共に姿勢を正したとき、彼は友人であるユーリが同情をするかのような視線を送ってきていたことに気付く。その視線の意図を測りかねたシスルウッドが小首をかしげると、ユーリは徐に口を開き、小声で言った。「次こそは、長く続く勤め先と巡り合えるといいな」
「敏腕エージェントのクロエ・サックウェルでもどうにもならない現状だ。経歴がこれ以上汚れる前に、就職は諦めて実家の店を継ごうかと今は考えてるところさ」
「実家ってのはパブのほうか?」
「当たり前だろ。議席じゃない」
「いや、そっちじゃあなく。ハリファックスの実家なのか、どちらなのかって迷ったんだ。――そうか、そういやお前、実の親父はアレだったな。ハハッ」
ハリファックスの実家。友人の口から何気なく飛び出したその言葉に、シスルウッドはそのときハッとした。バーンズ・パブに居心地の良さを見出していた彼はこの当時、幼少期の養親であるブレナン夫妻のことを完全に忘れていたのだ。
バーン夫妻の許にはちょくちょく娘テレーザを連れて行っていたのだが、思い返してみればブレナン夫妻には長いこと会いに行っていない。たしかテレーザが二歳のとき、十二月末の冬季休暇を利用して帰郷したあの時が最後だ。
そう、あのとき。ベックの娘であるセレニティーが、親の目が届かない場所でテレーザを虐めていたことが発覚してから帰らなくなったのだ。その事実に気付いた叔母ドロレスがセレニティーを叱りつけていたものの、全く反省する素振りが見られないどころか、テレーザが悪いんだと泣き出したセレニティーにシスルウッドは違和感を覚え、それ以来彼はハリファックスに帰らなくなったのだ。
「そうさ、実の父親はアレだよ」
シスルウッドはそう言って笑いながら、その裏でゴニョゴニョと考えを巡らせる。
「アレのお陰で人生最悪だ、本当に……」
自分は今、失業者で暇人だ。時間は腐るほどある。そしてテレーザは今、家に帰りたがっていない。今日のところはバーンズ・パブに泊まるとして。次の土日休みはハリファックスに行くのも悪くはないかもしれない。
ならドロレス叔母さんに連絡してみるか。セレニティーが居ないなら、帰るのもアリかもしれない。ただ、セレニティーが……――。
「さっ、テレーザ。ボビーにお別れの挨拶をして」
シスルウッドがあれこれと考えを巡らせていたとき、お片付けを終えたテレーザが荷物を抱えて父親のもとに戻ってくる。寂しそうな顔をした親友ボビーに「また明日、学校で会おうね!」とお別れの挨拶をする娘テレーザの様子を彼は見守りながら、数年前に見た“クソガキ”としか言いようがない少女セレニティーの顔を思い出し、胸焼けするような違和感を鳩尾のあたりに覚えていた。
+ + +
テレーザを連れてバーンズ・パブに帰宅した、その日の晩。妻キャロラインに「今日は実家に泊っていくから戻らない」と電話で連絡を入れた後、シスルウッドは数年ぶりにハリファックスの実家、ブレナン家に連絡を試みた。
サニー・バーンの横に並んで皿洗いを手伝い、せっせとお小遣い稼ぎに励む娘テレーザの様子を見守りながら、シスルウッドが恐る恐るブレナン家の番号に掛けてみれば、電話に出たのは不機嫌そうな叔父ローマンだった。
電話もしなければ絵葉書のひとつすら寄越さないうえに、孫娘の写真すら送ってくれないどころか顔も見せにも来ない“息子”にいたくご立腹な様子のローマンだったが、シスルウッドが「今度の土日にテレーザを連れてそっちに行ってもいい?」と切り出せば一転、声のトーンを高く切り替えて大喜びし「いつでも構わない、帰っておいで」と大歓迎ムードに変わった。……随分とチョロいじーさんになっちまったなぁ、というのが舐め腐った性格をしているシスルウッドの抱いた感想である。
そして通話を叔母ドロレスに代わってもらい、シスルウッドは懸念事項であるセレニティーについて訊ねたのだが。ドロレスから聞かされたのは予想外な近況だった。
セレニティーの問題行動は年々加速していったようだ。学校では遂に傷害沙汰を起こし、複数の家族から訴訟も起こされたのだという。そんなセレニティーへの対応について、母親であるベックと父親であるウィリアムの意見は割れ、二人は昨年に離婚したそうだ。親権はすべて父親ウィリアムが持つことになり、ベックは『娘を捨てた』とのこと。そして今、ハリファックスに在住しているのはベックのみで、彼女は今ブレナン夫妻が営む書店で働いているのだという。彼女はドロレスのアシスタントとして移動図書館に同伴したり、ローマンが主導している保護猫活動にも協力しているそうだ。
というわけで、ハリファックスに“クソガキ”が居ないことが確認されたため、シスルウッドは娘を連れて帰郷することにした。
そうして訪れた金曜日の夜。シスルウッドはクロエから中型のキャンピングカー(デリックが数年前に「いざという時に備えて、こういうのはあったら安心だよな! ついでにキャンプとかもやってみたいし!」と思い立ち奮発して購入したものだが、しかし事業が軌道に乗り始めて忙しくなったこともあり、彼は結局これに一度も乗っていない)を借り、眠るテレーザを乗せてボストンを発った。片道十一時間のドライブを経て、ハリファックスに到着したのは翌朝九時だ。
ハリファックスに到着後、テレーザはブレナン夫妻と共に書店の方へ向かっていった。シスルウッドだけはブレナン家に残り、そうして彼はリビングルームのソファーにて三時間ほど仮眠。そんなシスルウッドの目を覚ましたのは、玄関扉が解錠され、誰かが屋内に立ち入ってくる物音だった。
物音に飛び起き、何事かと身構えたシスルウッドだったが、家の中に入ってきたのは幸いにも見知った人物。サビ猫オランジェットを連れて一時帰宅したベックだった。
「久しぶりだね、ウディ」
長らく書店の看板猫として愛されてきたサビ猫オランジェットだが、この当時は老齢に差し掛かっていた。推定十七歳。ふてぶてしかったブチ猫パネトーネは推定十五歳だった頃にこの世を去ったことを考えれば、サビ猫オランジェットは十分に長生きしているとも言える。腎不全といった病気もしておらず、とても健康的な猫だ。だが、とはいえ年齢が年齢。無理はさせられない。
そういうわけでサビ猫オランジェットは当時、午前中のみ出勤するかたちとなっていた。午後はベックに連れられて家に戻り、ブレナン夫妻が他の猫たちを連れて戻るまでの間、ベックと穏やかに過ごしていたのだ。
そんなこんなで家に戻ってきたベックは、ソファーに寝そべっていたシスルウッドを見つけるといたずらっぽく笑い、ソファーの傍にサビ猫オランジェットが入っているポータブルケージを置いた。彼女は一旦キッチンのほうに向かって手洗いを済ませてくると、またリビングルームに戻ってきて、猫のポータブルケージの扉を開ける。そうしてポータブルケージからサビ猫オランジェットがひょっこりと出てくると、ベックはその猫を抱き上げた。続けてベックは抱き上げたサビ猫オランジェットをシスルウッドの隣、ソファーの上に下ろす。
するとサビ猫オランジェットはのそのそと動き、ソファーに寝そべるシスルウッドの腹の上に前足を掛け、よいしょと飛び乗った。五㎏はあるだろう猫がドスンッと飛び乗ってくる衝撃に、油断していたシスルウッドはすっかり圧倒される。彼はグフッと跳ね起きると、腹に飛び乗ってきたサビ猫オランジェットを抱き上げ、肩に登るよう誘導した。
素直なサビ猫オランジェットは誘導されるままに、起き上がり姿勢を正したシスルウッドの肩をよじ登り、上がっていく。そうしてサビ猫オランジェットがシスルウッドのひどい撫で肩の上にひとまず落ち着いたのを確認すると、ベックは小さく微笑むと共に、シスルウッドと同じソファーに腰を下ろしつつ、こう言った。
「ウディったら、前に会った時よりも一段とひどい顔になってる。――なにかトラブルでも抱えてるの? もしかして、あの悪い意味で有名な友人絡みのトラブル?」
その後シスルウッドは、ベックに近況を伝えると共に愚痴をぶちまけた。自分はただ暗号式を作っただけで機密文書のことは何も知らないのに世間からは痛烈なバッシングをされ続けていること、縁を切ったはずのエルトル家が彼の人生に干渉を試みていること、ひとつの仕事が三ヶ月以上続いた試しがないこと、一年ほど前から豹変した義母が孫娘であるはずのテレーザを執拗に攻撃するようになったこと、それと疎遠になっている“悪い意味で有名な友人”についてアレコレと知人らから訊ねられて困っていることなど……――かなりの毒を吐き出したことだろう。
肩の上に乗ったサビ猫オランジェットを片手間に撫でながら、愚痴り倒した後にシスルウッドは大きな溜息を吐く。最後に彼が吐き出したのは、この言葉だった。
「社会に居場所を見つけることが、こんなに難しいことだとは思いもしなかったよ」
そうしてまた溜息を零してシスルウッドが肩を落とせば、より角度が急になった撫で肩に踏ん張りが効かなくなったのか、サビ猫オランジェットがたまらず肩から飛び降りた。サビ猫オランジェットはソファーの座面に降り立つと、次にシスルウッドの太腿の上に移動する。ベックはその様子を微笑まし気に見つめながら、先ほどシスルウッドが発した言葉にこう返した。
「あなたも、家族を連れてこっちに戻って来ればいいのに。ボストンに留まる必要なんてないんじゃない? 私は、そうしてくれたらすごく嬉しいし。ローマンとドロレスはもっと嬉しいはず」
ハリファックスに移る。ベックの持ち出した提案は一瞬、シスルウッドには魅力的にも思えた。
ここ十数年でハリファックスは様変わりしていた。先の大戦を機に観光業から捨てられた田舎、かつての思い出と共に余生を過ごしたい老人が集う街だったハリファックスにも遂に観光業が戻り、クルーズ船の経由地だった時代の栄光が戻りつつあったのだ。ついでに貿易港の機能も再開され、人も着々と増えていた。それに伴い、教育や文化施設も整備され始めている。定員割れにより廃止となっていた大学の幾つかも再設置されたとも聞いていた。
先のことも考えれば、悪くない選択かもしれない。一瞬、シスルウッドはそう思った。だが煌めいた希望は束の間のこと。次に瞬きをしたときにはもう消えていた。
「そうしたいのは山々だけど、色々と問題があってね……」
そう呟くシスルウッドの頭の中には、ネガティヴな感情ばかりが詰まっていた。太腿の上でくつろぐサビ猫オランジェットを撫でながら、仮初の微笑みを取り繕う彼だったが、その目元は緊張している。というのも、このネガティヴな感情はベックという存在によって起因されているものだったからだ。
ハリファックスを去りボストンを選んだシスルウッドは、ハリファックスにおいて“客人”という扱いであり、もう地元住民ではなくなっていた。ブレナン夫妻の息子“ウディ”のことを覚えている近隣住民はもう殆どいない。昔の“ご近所さん”の大半は、この十数年の間に引っ越したか死んだからだ。今は住民の大半が入れ替わり、新しいコミュニティが築かれている。シスルウッドの帰るべき場所はハリファックスに無かったのだ。
一方、ボストンを去りハリファックスを選んだベックは、すっかりハリファックスの地元住民として馴染んでいた。そしてブレナン家の近所に住む彼女は今、ブレナン夫妻から娘のように愛されているし、頼りにされていた。いうなればハリファックスこそ彼女の居るべき場所であり、帰る場所だったのだ。
そういうわけで、正直なところシスルウッドはこう感じていたのだ。かつて自分が座っていた椅子に今はベックが座っている、と。悪い言い方をすれば、居場所を彼女に盗られたという感覚を味わっていたのだ。
書店はベックが継ぐだろう。自分には介入する余地もない。だって、ここには自分の居場所なんてないのだから。――そんな卑屈な言葉ばかりが、この時の彼の頭の中ではグルグルと回っていた。だが彼の理性は弁えていた。ベックを憎むのは間違っているし、彼女は何も悪くないし、こうなったのは全て自分のせいなのだ、と。
「……」
子供だった頃、シスルウッドは大人たちの抱えた事情も考えずにずっと拗ねていた。連れ去られた自分を迎えに来てくれなかったブレナン夫妻を恨み、突っ撥ねた。そして一度たりとも、面と向かって彼らに言ったことはなかった。家に帰りたい、という本心を。保護観察官レーノン・ライミントンや運転手ランドン・アトキンソンといった第三者にその本心を打ち明けたことはあったものの、本当に言うべきだった相手にその願望を明かしたことはなかった。彼はブレナン夫妻と再会するたびに拗ねて、強がって、素っ気なく対応し続けていたのだ。
そのうちシスルウッドの性根はすっかり歪み、心は入れ替わって別人のようになった。冷えて醒めた理性と、煮えたぎる怒りの感情という二極分化された人間に変わったのだ。真人間らしい情緒も薄れた。そして彼は多くの人を見限り、同時に見限られるようにもなった。――ブレナン夫妻への愛着を捨て、彼らから心の距離を取ったのは他でもないシスルウッド自身だ。
そう。悪いのは他でもないシスルウッド自身だ。悪い方に転がる選択を故意に取り続けたのは彼なのだ。思わぬ誤解や突然のトラブルもあったが、そこで生じた乖離を引き戻す努力をしなかったのはシスルウッドだった。
シスルウッドが自ら望んで捨て去った場所に、偶々ベックが収まっただけのこと。そんな彼女に理不尽な怒りをぶつけるのは間違っている。それは超えてはならない一線だ。
「それよりさ、ベック――」
故に、彼はネガティヴな感情を彼は表に出さない。彼は視線をサビ猫オランジェットの頭からベックの顔へと移すと、一〇代の頃によくやっていたような挑発的な表情を作る。それから彼は舐め腐ったような声色でベックにこんなことを言った。「随分と丸くなったね、君。色々とあった割には」
「そういうあなたは、どんどんロシア文学の主人公みたいになってる。ツルゲーネフの『ルージン』って感じ」
シスルウッドの挑発に応えるように、ベックもまたパンクガールだった頃のような強気な笑みを見せつつ、そう言い返した。そしてこのベックが発したなんてことない言葉が、シスルウッドの弱っていた心にクリーンヒットする。
ツルゲーネフ作品に代表されるような十九世紀ロシア文学の主人公といえば“無用者”だ。ベックが例として上げた『ルージン』は、まさにその典型である。
頭は切れるし、弁も立つ。はるか先の未来を見ていて、壮大なビジョンを持っていて、立派な志だけはある。しかし地に足が付いていなかったり、行動力が追い付かなかったりで、何かと空回りをしがち。そんなわけで最初は周囲から「才気あふれる英傑」などと持て囃されるものの、最後には「言葉だけの胡散臭いペテン師」と揶揄されるようになる。そして最終的にヤケを起こし、ひとり孤独に死んでいく。――そんな人間性をロシア人たちは“無用者”と定義し、このテの主人公たちが悲惨な目に遭う小説をロシア文学を志すものたちは増やしていった。
そしてこの特徴、シスルウッドにも少なからず当てはまる。となれば、彼はもう笑うしかない。
「ハッ。無用者ってやつかい。……図星だなぁ、それ。思い当たるフシがありすぎるよ」
「でも、あなたはまだ大丈夫。人生の落伍者にはなってない。だって、あんなにも賢くて可愛い娘がいるんだから。家族も居て、友人も居て、孤独じゃないし。死ぬ理由はまだない。でしょ?」
シスルウッドが鼻で笑いながら発した自虐に、ベックは強気な笑顔を消す。彼女は同情するような表情を浮かべると共に、どこか羨望が滲む眼差しをシスルウッドに向けながら、そう言葉を返した。そしてこの時、シスルウッドは悟った。彼がベックを妬んでいると同時に、彼女もまたシスルウッドのことを妬んでいるのだと。
ベックの境遇とて、シスルウッドに負けず劣らず悲惨だ。彼女もまた、奸悪としか言いようがない実家を捨て、身一つで飛び出した人間だ。そうして彼女は新天地で一人の男と出会い、恋をして、家族を作ったものの、お腹を痛めて産んだ娘は手に負えない存在になり果てた。――その後、紆余曲折を経て家族をすべて捨て去る決断を下し、孤独に身を落とすこととなった彼女の悲憤とて凄絶なものだろう。
となれば、意見の食い違いこそあれ仲は良い配偶者が居て、聡明で思いやりのある子供も持っていて、ついでに素晴らしい友人も持っているシスルウッドのことを、彼女は羨ましく思っているかもしれない。それに、そんなシスルウッドが抱えている悩みは『仕事が見つからない』というもの。この悩みも、彼女にはちっぽけで下らないものにしか見えていないのだろう。
……そして俯くシスルウッドは溜息を零すと共に、瞼を閉ざす。それから彼は顔を上げることなく、ベックにこう投げかけた。
「セレニティーの件は聞いたよ。大変だったみたいだね」
するとベックは悲しさをにおわせながらフッと笑う。それから少し黙った後、彼女は深呼吸をし、姿勢を正した。
そうして始まるのは彼女のターン。シスルウッドが瞼を開き顔を上げ、ベックの目を見やれば、今度は彼女が俯き、語りだした。
「最初は『私の育て方が悪かった』とか『神に背いた私に与えられた天罰だったのかもしれない』なんて馬鹿なことを思ってた。でもあの子から離れてみて、よく分かった。あれは環境よりも血が勝った結果。あの子はサイコパスな義母にそっくりだっただけ。あの子には最初から良心が備わっていなかった、だから私がどう育てようと無駄だったのよ」
ベックは言葉を紡ぎながら、肩を竦め、そして手を組み合わせていた。そんな彼女の口から飛び出してきた『神に背いた』『天罰』という言葉に、シスルウッドの表情までもが強張る。
似たような環境で育ったからこそ、シスルウッドには分かった。幼少期に刻み込まれた呪い、それが今もベックの人生に少なからず影を落としているのだなと。だが幸いにも、彼女はその呪いに取り込まれるつもりはないようだ。事実を分析して、仮説を組み立てて、幼少期に植え付けられた怯えを打ち砕こうとしているらしい。
「血が勝つ、か……」
そう呟くシスルウッドは表情を殺し、無表情になるよう意識する。気を抜けばすぐに険しい顔になってしまいそうな気がしたからだ。
その一方で目を瞑り俯くベックは、その口許にちぐはぐな微笑みを浮かべている。不自然な穏やかさを纏うベックは、このように言葉を続けた。
「セレニティーも、あの書店に遊びに来たことがある。でもあの子は、今朝のテレーザみたいに振舞わなかった。テレーザのように猫たちを優しく撫でたり、猫じゃらしで正しく遊んだりしなかったし。他の子供たちに気遣いをしたり、高いところにある本やおもちゃを取ってあげたり、同じ立場で仲良く遊ぶこともしなかったし、年下の子の面倒を見たりなんてこともしなかった」
「……」
「セレニティーは猫たちから嫌われてた。だってあの子は、猫じゃらしで猫たちを乱暴に叩いたりしてたから。それに彼女は他の子供たちから物を奪ったり、他の子供たちを絵本で殴りつけたり、突き飛ばしたりして怪我を負わせたりもした。とがった色鉛筆で他の子供を、それも目を狙って刺そうとしたこともある。あの時は、気付いたローマンが咄嗟にセレニティーの手をはたいて色鉛筆を落としたことで何も起きずに済んだけど。もし誰も気付かなかったらと思うと……」
「あのローマンが手を上げたのか? そりゃ信じられないな」
「でも、あれは正当な行為だった。セレニティーは納得しなかったけどね。自分が被害者みたいに大泣して、あれからローマンのことを敵視し始めたし」
「そりゃ……なんというか、その……」
「クソガキ、でしょ」
「そう、クソガキだ」
「私も今はあの子のことをそう思ってるから、後ろめたく思わなくていいよ。あの子はクソガキでサイコパス、それが正しい評価だから」
「…………」
「だから、私はあの子を治療につなげたかった。でも義両親と夫がそれを嫌がったんだ。セレニティーを障害者扱いするのか、って。――ツァイ家じゃサイコパスの義母が理不尽に怒鳴り散らしているのが日常だったから、セレニティーが異常だって誰も思わなかったみたいでね。夫も、そうだった。だから縁を切るしかなかった」
「元夫、だろ?」
「そうだった、元夫ね」
「……」
「はぁ。……テレーザみたいな子をきっと“天使”って言うんだろうね。子供は多く見るけど、でもあんなに優しくて賢い子は他に見たことがないよ。きっとパパとママがとても良かったのね」
ベックは言いたいことを言い切ってスッキリしたのか、テレーザを褒める言葉を最後に言うと大きく体を仰け反らせ、ソファーの背もたれに身を預けた。そして彼女は再度深呼吸をすると目を開け、無表情のシスルウッドを見やり、裏は無さそうな微笑みを見せた。
その微笑みにつられて、シスルウッドが着用していた無表情の鎧も解けていく。苦笑いを浮かべるシスルウッドは、ベックの思わぬ褒め言葉に正直な本音を返すのだった。
「うちの子はセレニティーとは真逆でね。至って正常な普通の子なのに、義母から異常扱いされてるんだ。白狼さまの声が聞こえないなんてロバーツ家に相応しくない、出て行け、って」
「……」
「あの子の逃げ場は確保するようにしているけど、この措置は付け焼き刃にしかなっていないような気がする。それにキャロラインも自分の母親に何も言い返さないから、娘はどんどん不信感を強めてて。家に帰りたがらないんだよ、最近は。ここ数か月、実家……というか、バーンズ・パブに泊まる日が増えてるんだ」
「あなたはどうなの、ウディ」
「あぁ、僕? そりゃ、まあ、キャロラインのことは愛してる。今も彼女のことは変わらず好きだ。けれど今は離婚を検討している。娘は僕が一人で育てた方が良い気がしてて……」
「なら尚更、こっちに帰ってきなよ。ね?」
少しだけ目を輝かせながら、やや前のめりになりつつベックはそう言う。その一方でシスルウッドは無表情に戻っていて、彼は肝が冷えるような感覚を体感していた。
離婚。オプションのひとつとして頭の片隅に留めておきながらも、しかし本気ではなかったその言葉。それが今、さらりと会話の中で飛び出してきたこと。そして離婚という言葉を聞いた時、即座に輝いたベックの目。シスルウッドには、それらが気味悪く感じられていたのだ。
+ + +
娘テレーザと二人、長距離ドライブを経てボストンに帰り着いた、その翌日のこと。元気いっぱいなテレーザを学校に送り届けた後、シスルウッドが向かったのは友人クロエ・サックウェルとの待ち合わせ先である公園だった――彼女の夫であるデリック、彼から借りたキャンピングカーを返却するためである。
彼が公園敷地内の駐車場にキャンピングカーを停めたときには既にクロエが公園に到着していて、彼女はエンジンが停止したのを確認するなり車に近付き、運転席横のドアをコンコンッと外からノックした。シスルウッドは彼女を車内に招き入れると、抜いた車の鍵と共に帰路の途中で買ったお土産のチョコレート菓子の箱詰め(ボンボン・ショコラ、コンフィ・オランジェットの二種類のアソート)を彼女に渡す。そうしてキャンピングカーの返却を果たした。
その後、二人は社内の居住スペースで少しばかり話し込んだ――というか、クロエに話を聞いてもらっていた。
話したことは、主に娘テレーザのこと。初めてである車での長距離移動をテレーザは楽しんでいた様子であったことや、デリックが車の中に積んでいたビデオ(彼の経営するヴェニューで行われた公演の録画映像を編集したもので、その中にはシヴ・ストールバリの後ろで演奏するシスルウッドの姿もあった)をテレーザが楽しんで観ていたこと、帰りに立ち寄ったポートランドで出会ったジャガイモ入りドーナツをテレーザがえらく気に入ったことなど……――まるで妻キャロラインとの会話であるかのような調子で、あれやこれやとクロエに話したことだろう。
クロエは意味深な笑みを浮かべながらも、ウンウンと話を聞いてくれていた。というのも彼女は気付いていたのだ。子煩悩なパパという顔を無理に作って、今にも飛び出してきそうな愚痴を必死にこらえているシスルウッドの本心に。
そんなこんなで、テレーザの話に一区切りがついたところでクロエは別の話題を切り出してくる。仕事の話に移ろっか、という前置きをしたあと、彼女はこう言った。
「本当に不思議なんだけどさー。アンタの名前は伏せたうえで、アンタの能力とか経歴を教えると色んなとこが興味示して『彼を紹介してくれ!』ってコールくれんのに、名前を明かした途端にどの企業もスッて引いていく。シルスウォッド・アーサー・エルトルって名前は当然ダメだけど、もうシスルウッド・ロバーツって名前のほうも使えないみたい。旧姓のバーンでも警戒されてて無理。だから名前を変えたら? ウディ・ブレナン、それにしちゃえよ」
「……」
「それか、国外での就職を検討してみたら? 英語圏を狙って探してみるのも悪くはないと……」
求職に関する話題になった途端、シスルウッドの顔は露骨に翳った。そしてクロエは、そこを見逃さない。小突いて刺激を与えた結果、彼が我慢して押さえ込んでいた毒が喉元までこみ上げてきたのだなという気配を彼女は感じたのだ。
ゆえに彼女は、彼の心に楔を当てる。子煩悩なパパ、そんな作り物の仮面を叩き割るために。
「ねぇ、アーティー。言いたいことがあるなら言えば? 今日はあんたの愚痴を聞いてやる日にしてやらなくもないよ」
クロエが楔をハンマーで叩き、強く打ち込んでみれば、仮面はあっさりと真っ二つに割れてしまう。シスルウッドの目からは光さえも完全に消え失せ、すっかり暗く淀んだ本音が剥き出しになった。そうして取り繕うことをやめた彼は、正直に言いたいことを放つ。
「……最近、自分がどうしたいのかが分からないんだ。娘が愛おしくて、その成長を見守ることがとても幸せである反面、それでも目が覚めると必ず死ぬことばかりを考えてるし。キャロラインのことをまだ愛しているのに、にも関わらず彼女と別れることばかりを考えてるんだ。それに久々に会った友人から変な視線を向けられて、混乱もしてる」
「友人って、女性?」
「ああ、そうだ。女性」
「へぇー……」
「……友人と言えばペルモンドだ。ペルモンドのことを頭から追いやりたくて堪らないのに、あいつのことが気掛かりで仕方ないし。それから仕事のことを考えるのが嫌になってくる。就職先を探さないといけないとは思っちゃいるけど、本心じゃあどうせ無理だと諦めてもいてさ。あぁ、そうだ、それに人生の中で今が一番、アーサー・エルトルっていう存在に対する憎悪が強まってて。ヤツの息の根を止めてからじゃないと安心して夜も寝られない……!」
言葉を発するごとに撫で肩がガクンと下がり、首も垂れさがっていくシスルウッドの様子を見ながら、しかしクロエは妙にニコニコとしていた。そして上機嫌そうに微笑みながら、彼女は穏やかならざる慰めの言葉を掛ける。
「殺しはダメ、刑務所行きはマズいって。家でこっそり呪うぐらいに留めておきなよ」
だがその言葉の直後、クロエはサッと笑顔を消した。彼女は眉間にグッと力を込めると、ジトーっとシスルウッドを睨み付けた。それから大袈裟な溜息を吐いたあと、クロエはシスルウッドにこんなことを言う。「はぁ~。あんたって本当に面倒くさい性格してるよ」
「それは、その、申し訳ない。こんな毒を聞かせるつもりは――」
「いや、そうじゃなくて。あんた、友人としては最高に面白いやつなんだよ。でも伴侶としてはサイアクな男だ。異性の友人との間の距離感が狂ってるし。あんたの言動じゃ変な視線を送られて当然。キャリーは選ぶ男を間違えたね」
娘の話から仕事の話、次いで愚痴となった後に、急に飛び出してきた斜め上の非難。これをシスルウッドは咄嗟に呑み込めなかった。
突然妙なことを言い始めるクロエをシスルウッドが凝視すれば、クロエは察しの悪い彼に呆れ、肩を竦める。かなり険しい表情に変わったクロエは、元・精神科研修医らしいことを言うのだった。
「普通の人間は社会と交わる過程で段階的に異性と同性の差異を認識して学習し、対応の際の態度や言動を改めるようになる。それが起こり始めるのが八歳ぐらいかな。でもあんたは恐らくだけど軟禁みたいな生活が影響して、子供の頃、他者と積極的に関わることができなかったんじゃない? それで異性同性の区分が曖昧な状態のまま、ここまで来てるって感じがする。同い年ぐらいのお友達と遊べればそれでいい、相手が誰であろうと気にしないっていう三歳児と同じジェンダー感覚のまま成長できてないんだよ」
「君の目には僕がそう見えてたのか? 三歳児に?」
「社会規範といった知識や情報で埋め合わせているから『社会的に正しい紳士としての振る舞い方』は最低限できているけど、無自覚的な言動まではカバーできていない。そう評価してる。今だって私がどうしてこんな指摘をしているのか、その意味が理解できてないでしょ?」
異性同性の区分が曖昧で認識が三歳児レベル、つまり普通の人間じゃない。――そんな予期せぬ宣告にシスルウッドは胸を衝かれた。愕然とする彼は、クロエが最後に発した言葉に頷くという反応を見せる。実際、彼にはこんな指摘をされている理由が分かっていなかったからだ。
するとクロエは竦めていた肩をストンと落とし、重たい溜息を零した。続いてクロエはしかめっ面を解いて真顔になると、淡々とした声で解説をしていく。彼女はこう言った。
「娘のことを女友達に明け透けに話して、挙句『妻と離婚するかも』っていう匂わせまでしてる。これ、男同士なら何の問題もない会話だけど、相手が女だと話は違ってくる。普通の女なら『もしかして私に気があるのかも』って感じるよ」
「――なんで?!」
「なんで、って言われても。そういうもんだ、としか言いようがないね。とにかく、普通の女は誤解する。誤解されて当然の言動を、あんたは今、私にしてるの。――私はあんたの性格をよく理解してるから、そういう誤解はしない。でもそれは私が普通の女じゃないからってだけ。だから私やジェニファーなんかと話す調子で他の女性たちと接しない方が良い。どんなに親しかったとしても、一線は引かないと。世の女がみんな、私やジェニファーみたいに人の本性を見抜く目を持ってるわけじゃないんだからさ」
「…………」
「だから言動には注意しな。男に向ける顔、女に向ける顔、それをちゃんと使い分けないと。あらぬ誤解が生じてトラブルが起こる。とりあえず女性向けの恋愛小説とかを読んで、一般的な“女らしい女”の思考回路とかを勉強してみたら? 私もそういう媒体から行動予測のヒントとかを得てるからさ。清廉で埃っぽい古典ばっかりじゃなく、あんたもそういうのを読んでみるといいよ」
クロエの言葉を聞き、ひとまず自分の言動に問題があることを認識したシスルウッドだが、しかし彼は完全に理解できていたわけではなかった。
異性には優しくしておけばいい、同性は少しぐらいなら雑に扱ってもいい。そういう風に顔の使い分けは出来ていたと、少なくとも彼自身は思っていたからだ。だが思い返してみれば、できていなかったのかもしれない。
クロエに接するときと全く同じ態度で、男性であるユーリにも対応していた。そしてユーリに接するときと全く同じ態度で、女性であるジェニファーとも関わっている。そして先日、ベックにもジェニファーらと接するときと全く同じ態度を適用し、対応していた。つまり、これがクロエの言うところの『誤解を招く言動』なのかもしれない……?
「…………」
三歳児と同じジェンダー感覚。クロエが発したその言葉が、呆然とするシスルウッドの心にじわじわと迫ってくる。三歳児、三歳児、三歳児……――そんな言葉が反芻されるのは、大変屈辱的な気分を彼にもたらした。
すっかり気落ちするシスルウッドの姿を見て、意地悪な女王様気質のクロエは強気な笑顔を取り戻す。そうして彼女はいつも通りのトーンに戻ると、パンッと手を叩いて鳴らした。続いて彼女はシスルウッドに違う話を持ち掛けるのだった。
「あっ、そうそう。話は戻って、仕事の話なんだけどさ。デリックが、あんたを雇うのも悪くないかもって言ってたんだよ」
「へぇ、デリックが?」
「新規顧客の開拓を強化したいんだって。ほら、あんたって『人懐っこい性格』を演じることに長けてるし。それに怖いもの知らずで大胆なところがあって、あと気難しい技術者たちとも仲良くできるし、彼らの言葉を少しぐらいは理解できるでしょ。電子楽器メーカーの営業職、あんたに向いてると思うんだけどねー」
「……」
「それで、デリックが明日こっちに帰ってくる。翌朝にはオーストラリアに戻っちゃうんだけど。彼があんたと話したいって言ってたんだ。勿論、会うよね?」
デリックが創業した電子楽器メーカー、そこに加わるということ。それはつまり、慣れ親しんだ北米を捨てて外国に移住することを意味する。クロエの提案に対して首を縦に振り、無言で頷いてみせるシスルウッドは「そうなるのも悪くはないか」と考えていたが、しかし彼は同時に一抹の不安を抱いていた。
霊能者としての務めだとかで国内外を頻繁に移動し、去り人探しや物探しなどでかなりの額を稼いでいる一方で、頑なに移住を拒み「ボストンを離れるつもりはない」と言い張っている妻キャロラインのこと。彼女が自分と共に来てくれるのかどうか、それが気掛かりだった。
そうしてシスルウッドはクロエからの提案を持ち帰り、キャロラインと話し合ったが、しかし話は予想した通り平行線を辿るばかりだった。
ボストンには果たさなければならない一族の使命がある、と言い張る妻キャロラインだったが、けれども彼女が「果たさなければならない一族の使命」の詳細を明かすことはなかった。そのときが来れば白狼さまが私たちに教えてくれる、だからボストンを離れることはできない。キャロラインはその一点張りだ。
挙句、妻キャロラインに加勢するように義母カレンまで話し合いに乱入してきた。義母はシスルウッドのことを「部外者」やら「黒狼と接点を持つ邪悪な男」と罵り出し、極めつけに「欠陥品の子供を連れて、出て行け!」と騒ぎ立てる始末。
義父ショーンと一緒に別室でジグソーパズルを楽しんでいたはずのテレーザはその言葉を聞いてしまい、大号泣し始めた。可愛い孫娘がショックから泣き出せば義父も怒り出す。義父は義母に文句を言うために話し合いに殴り込んできて……――と、その晩は散々なこととなってしまった。
『ボビーと離れるのはイヤ。でもおばあちゃんと“白狼さま”が一緒にいるのはもっとイヤ。だからパパと一緒に外国に行きたい。でも、でも、ママも一緒じゃなきゃヤダ……』
テレーザは心細そうにコアラのぬいぐるみを抱きしめながら、子供部屋の照明を消そうとするシスルウッドにそんなことを伝えたあと、ベッドに潜っていく。……その光景を遠巻きに見ていたキャロラインは少しだけ心を変え、ある決断を下した。
ただ、その決断は他国への移住ではない。シスルウッドにとっての義母、キャロラインにとっての実母を家から追い出すことだった。
母はもしかすると若年性認知症なのかもしれない、だから感情がコントロールできなくなって暴言が増えているのでは? ――キャロラインはそう考え、精神科に連れて行くことを決断したのだ。
そしてこれは、確かに有効な解決策だった。シスルウッドとテレーザの二人が義母から恨みを買うことになったが、しかしこの選択によってロバーツ家の不穏は収束。
精神科を受診した結果、統合失調症との診断が下った義母は投薬治療を余儀なくされた。その後、義母の性格は不自然なまでに丸くなったものの、段階的に物忘れが激しくなり、いわゆる認知症のような状態になった。次第に家族の手に負えなくなった義母は認知症患者向けのケアハウスに入所することに。この決定に義母は激しい怒りを見せたが、しかしテレーザは大喜び。
その後テレーザはグレることなく真っ直ぐ成長し、シスルウッドの頭から離婚の文字も消え、キャロラインも次第に“白狼さま”を拒むようになり、カリカリすることも多かった義父も元の穏やかさを取り戻し、平和な家族が戻ってきた。そしてテレーザには八歳下の弟が出来て――
……と、時間軸は巻き戻って。クロエに車を返却し、迎えた翌朝のこと。シスルウッドは娘テレーザを学校に送り届けた後、そのまま国際空港へと向かった。クロエから教えられた到着ロビーで彼がデリックを待つこと一時間、見覚えのある顔が人混みの中から浮かび、そしてシスルウッドに手を振ってきた。
小さなスーツケースを左手で引き、右手にはやや大き目な紙袋を提げ、黒いバックパックを背負うその人物――抱えていた借金も返済が完了し、良い暮らしを心置きなく謳歌していたせいで体重が増加しており、加えて日焼けサロン通いのお陰で肌が赤くこんがり焼けていて、すっかり焼き豚のような有様になっていたデリック・ガーランド――は右手を紙袋と共に掲げると、人を避けつつシスルウッドのほうに駆けてくる。
そうしてシスルウッドの前にやってきたデリックだが。彼は右手に持つ紙袋をシスルウッドにかざすと、気まずそうな苦笑いを浮かべる。というのも、その紙袋が若干クタッとなっていたからだ。更に紙袋の中に入っていたのは子供用のお土産と思われるラッピング袋が二つ。そしてラッピング袋は無残にも乱雑に破られていて、中身である茶色いモフモフとしたぬいぐるみの頭を外から容易に見ることができる状態になっていた。
配偶者であるクロエから「クズ野郎!」と蔑まれることも多いデリックだが、子供用のお土産を台無しにしてしまったことに罪悪感を覚えるだけの良心は持っていた模様。そんなわけでデリックは、お土産がこんな状態になってしまった理由を、移動がてらシスルウッドに語るのだった。「だいぶ待たせちまってすまない。実は検疫に引っ掛かったんだ……」
「検疫に? 何を持ち込んだんだ、お前は」
「いや、俺は悪くない。無実だ」
「本当に? ニトライトでも持ち込んだんじゃないのか?」
「いいや、違う。探知犬が誤解したんだ。どうもこのぬいぐるみに何かしらのニオイがついてたみたいでな。それで生体か薬物を持ち込んでるんじゃあないのかって睨まれて、荷物を全部ひっくり返されたんだ」
「へー。一応、信じてやるよ」
「――で、ニトライトだって? なんでお前がそんなもんを知ってるんだ」
「デリック、お前のせいでそんなもんを認知する羽目になったんだぞ、こっちは。お前が放置していくゴミや不用品を処分す――」
「分かった。分かったよ、アーティー。あの頃は本当に迷惑を掛けた、申し訳なかった!」
検疫に引っ掛かったことを予想外の観点からいじられ、しどろもどろなデリックを横目で見ながらシスルウッドは人の悪い笑みを浮かべる。そんな品のない会話をしながら並んで歩く二人が入るのは空港内のカフェスペース。薄暗い店内にある奥まったテーブル席を指定し、二人はそこに着座した。
長いフライトを終えて空腹だというデリックは、ジェノベーゼパスタとネルドリップコーヒーを注文。一方、特に飲食をしたい気分ではなかったシスルウッドは何も頼まなかった。
そうして注文したものが届くのを待つ間、デリックは席の脇に置いた荷物をガサガサと漁る。まず彼はクタクタになった紙袋をシスルウッドに渡すと、苦笑と共にこう言った。
「これが検疫で疑われた生体動物だ。クアッカワラビーってやつ。テッサ、それとユーリんとこのガキにも渡しといてくれ」
「ボビー、だ。そろそろ名前を覚えろ」
紙袋を受け取りつつ、シスルウッドは指摘を入れる。とはいえデリックは「顔も性別も知らない子供の名前なんか覚えられるわきゃないぜ」と笑い、軽く一蹴するのみ。デリックのその発言に、ユーリとデリックの不仲さをシスルウッドは感じる。お喋りなクロエさえも、夫であるデリックにはユーリやその家族のことは何も話していないのだなと察した。
そんなことを思いながらもシスルウッドは適当に笑みを取り繕い、紙袋を受け取る。続いて彼は紙袋の中に入った茶色いぬいぐるみ二つと、無残に破かれたラッピング袋を見た。そして彼は考える。帰り道で新しいラッピング袋を買うべきか否かを。
新しく包み直してから子供たちに渡すべきか、いっそ剥き出しのぬいぐるみのまま渡した方が良いのか。……少し悩んだ末、彼は決めた。剥き出しのぬいぐるみのまま渡してしまえばいいか、と。
そういうわけでひとり納得するシスルウッドは、自身の膝の上に紙袋を置く。続いて彼は紙袋から目を離し、目の前に座るデリックの顔を見るのだが。しかしデリックはシスルウッドではない、別の何かを見ていた。
デリックが見ていたのは、やや離れた席に座る初老の男性が広げていた新聞、その一面。そこにデカデカと掲載されていたのは、昨日あった極左政治家の過激発言に言及した記事だ。北米合衆国が執り行う重商主義的な貿易体制を痛烈批判し、加えて「富を独占するビリオネアどもから富を強制的に剥ぎ取り、国民へと返還する法を整備する必要がある!」と発した極左政治家の言葉を紹介したうえで、記者は「先の大戦で犯したしくじりのせいで敵国だらけになっている現実がまるで見えていないデイドリーム気質な社会主義者」だとして政治家をチクリと刺している。そんな内容である。
ただ、新聞を見てデリックが思い出したのは極左政治家の顔ではなく、別の人物であったようだ。そしてデリックはシスルウッドに視線を移すと、声を潜めつつ、こんなことを訊ねてきた。
「……そういやバッツィはえらく荒れてるみたいだが。ありゃ大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃないだろうねぇ。まあ、あいつとは縁を切ったから、近況とかは知らないよ。だから僕にあいつのことは聞かないでくれ」
またそれか、とシスルウッドはウンザリしながらそう言葉を返す。バッツィ、つまりペルモンド・バルロッツィに関する話はしたくないと、彼はデリックにそう突き付けたのだ。
けれどもデリックは完全にその意図を汲み取ってはくれない。残念がるように眉尻を下げるデリックは、テキトーな笑みを取り繕うシスルウッドにこう投げかけるのだった。「一番バッツィと親しかったはずのお前が、まさか絶交するなんてな。意外だよ」
「誰が一番だったのか、そんなのは当人にしか分からないだろ」
「そうか? 俺の目には、バッツィはお前を一番信頼しているように見えていたが」
「まあ、そうだな。あいつは信頼していただろう。だがこっちは真逆のことを感じている」
笑みは崩さないまま、シスルウッドが褪めた目をデリックに向けつつそんなことを言えば、流石のデリックも意図を理解し、問題だらけの友人の話題を打ち切った。
デリックは生唾を飲むと、緊張を誤魔化すように咳ばらいをひとつする。その後、次の話題を思いついたのか、彼の表情はパッと明るくなった後、急に照れくさそうな顔になった。
なんとなく気持ち悪いデリックの表情変化をシスルウッドが冷たい目で観察していると、デリックはその視線に気付き、途端に真顔になる。そしてデリックは誤魔化しの咳ばらいを再度すると、ガチゴチに緊張した様子で言った。
「まっ、それはそうと、俺がこっちに居ない間、クロエの相手してくれてありがとな」
「なんだか含みのある言い方だな。言っておくが――」
「勿論、分かってる。お前のおかげでクロエもかなり儲かってるらしいし、そういう面でも感謝してるよ。アーティーはすぐクビ切られるけどすぐ次が見つかるし、クビ切られたとしてもコッチに返済義務が発生しないパターンだから嬉しい、って言ってたぜ、あいつ」
「そうか。それなら、まあ、良かった……」
「それにクロエは高慢ちきだが、俺みたいなクズじゃない。自分を誇れなくなるような行為はしない高潔な女だ。……あと、あいつは男に興味がないしな」
一瞬黙り、言い淀んだ後にデリックが発した言葉に、シスルウッドは一瞬だけ固まった。が、その言葉にそこまでの驚きは得ない。腑に落ちる感覚がしていた。
ベックと会話をしていた時に感じた居心地の悪さが、クロエと居る時には感じない理由。また、クロエが彼女自身のことを「普通じゃない女」と評していたワケ。それが今のデリックの発言により解明されたような気がしたのだ。
「……なるほど、そういうことか……」
さほど驚かず、納得するような様子のシスルウッドに、むしろデリックの方が驚いているような素振りを見せる。と同時にデリックは、この奇妙で曰く付きな友人にならもう少し踏み込んだ話をしても良さそうだと判断した。
緊張した表情は維持しながらも少しばかり表情を緩くするデリックは、様子を伺うようにシスルウッドを見る。それからデリックは言葉を探りながらゆっくりと話し始めた。
「実を言うとだ。俺とクロエは“余り物同士でくっついた”ってな感じでさ。お互いに恋愛感情なんてハナから持ち合わせてなかったんだ。クロエがずっと見ていたのはエリカだけで、俺がずっと見ていたのもジャック……というか、バッツィだけだ。そのうちエリカとバッツィがくっついて、成り行きで俺とクロエも一緒になっただけ。だから仮にお前があいつを奪ったとしても俺は――」
途中までデリックの話を平然と聞いていたシスルウッドだが、途中で出てきた名前とその次に続いた名前に眉をひそめる。
かれこれ一〇年ぶりに聞く名前、ジャック。そしてジャックという人物と、ペルモンドという別人を等号で繋げるようなデリックの発言。
「――待て。ジャックだって? あの、便利屋ジャクリーンのことか?」
確認のためにシスルウッドが問うと、デリックはぎこちなく頷く。「ああ。お前も覚えてるだろ、ジャックのこと」
「勿論、あいつのことは覚えてるさ。強烈なやつだったし、あいつのおかげで食中毒騒動に巻き込まれずに済んだ。忘れるわけがない。だが、急にどうしてジャックの名が?」
「俺はジャックの正体がバッツィだと見当を付けていたんだ。ケーブルの束ね方がまるで同じだったし、笑顔がまるで同じだったから。あと、傷痕の位置や数が完璧に同じで……――まさか、そう思ってたのは俺だけだったのか?」
便利屋ジャクリーンとペルモンドを同一人物だと考えている様子のデリックはそのように説明したが、しかしシスルウッドにはその説明を受け止めることができなかった。
表情が険しくなっていくシスルウッドは、気まずそうな引き攣った笑みを浮かべるデリックをジッと見る。それから彼はデリックに、彼の知っている事実を伝えた。
「残念だが……――一〇年前にジャックは死んだ。殺されたんだ。同一人物なわけがない」
殺された。その言葉を聞くデリックは驚きから目を見開き、そして顔を蒼褪めさせる。続けてデリックは僅かに声を震わせながら、シスルウッドに問うた。「ど、どうしてお前が……それを知ってるんだ? ジャックが、その、殺されたことを」
「事件の直前、ジャックともう一人の女性がうちのパブを訪ねてたんだ。事件が起きたのは、その帰路でのこと。帰路で二人は暴漢に襲われて、ジャックは暴漢と相討ちになり、もう一人の女性は暴発した弾丸が急所に当たり、死んだ。……店を訪ねてきた刑事から、そう聞いた」
「ジャックが、あのパブに? なぜ?」
「女性のほうが、うちの両親と接点があったんだ。彼女はジャックにとって一番の太客で、彼は彼女に付き従う用心棒のような立場にあった。それであの日、ジャックも一緒に来ていた。それだけのことだ」
「その女とお前の両親との接点ってのは、具体的に何だ?」
「旧知の間柄だとしか聞いてない」
デリックが激しく動揺していた一方で、シスルウッドは気味が悪いほど落ち着いているように見えていた。シスルウッドは冷静な様子を装いながら仔細を省いた事実だけを淡々と伝えているが、その一方で彼の目はわずかに泳いでいる。彼もまた少なからず動揺していたのだ。
というのも、ジャックとペルモンドを同一人物だと断定した時のデリックは、かなり確信を持っている様子だったからだ。それに根拠がケーブルの束ね方と笑顔の特徴だけであったのならば、シスルウッドは『単に似ているだけ』だと切り捨ていただろう。だがデリックはこうも言っていた。傷痕が完璧に同じだ、と。デリックとペルモンドの間にあった関係を知っているだけに、シスルウッドの心にその言葉が引っ掛かったのだ。
そしてシスルウッドは昔に聞いた話を思い出す。ジャックが死んだと知らされたあと、同時に知った『遺体安置所に“長い黒髪を持った、黒いスーツ姿の女”がジャックの遺体を持ち去った』という話を。
思えば、あれからジャックの遺体が見つかったという話は聞いていない。そして一〇年前の当時は、ジャックの遺体を盗み出したとされる女にまったく心当たりがなかったシスルウッドだが、この時の彼には思い当たるフシがあった。
マダム・M、と呼ばれている都市伝説のような存在。ペルモンドの周りにちょくちょく現れて、そしてロバーツ家にも時折顔を出すその人物。煙のように消えては現れる、神出鬼没な彼女。
「なあ、デリック。馬鹿げたこと、言ってもいいかい?」
シスルウッドは最初こそ、デリックの発言にまさかと感じていたが。次第に繋がっていく点と点に気付き、彼の顔からも血の気が引いていく。
当時、既に“ペルモンド・バルロッツィ”と呼ばれている男が人間でない怪物である可能性について勘付き始めていたシスルウッドであったが、明確に意識し出したのはこの瞬間だっただろう。
「…………」
デリックの直感が正しく、そしてシスルウッドが見聞きした情報も正しいのであれば。ジャックは死んだが、彼はペルモンドとしてまた息を吹き返したことになる。遺体安置所に運び込まれた体が、また立って歩くようになったと――
「言うだけなら、まあ……」
遂に指先までもがフルフルと小刻みに震え始めたデリックは、小声でそう答える。その答えを聞いたシスルウッドは顔を俯かせると、くぐもった声で呟くように言った。
「……お前も、ペルモンドと関わるのは辞めろ。縁を切れ。あいつは普通の人間じゃないんだ」
シスルウッドはそう言い終えると、そのまま顔を上げることなく立ち上がる。それから彼はデリックに背を向けると、椅子の下に置いた紙袋を回収した。その後、彼はこれだけを言うと、店から立ち去っていく。「ごめん、気分が悪い。帰るよ」
「待て、アーティー。本題がまだ――」
デリックは引き留めようとするが、しかしシスルウッドはその声を無視して歩いていく。背も高く歩幅も広いシスルウッドが去っていく速度はあまりに早く、デリックも数秒で引き留めることを諦めてしまった。そしてデリックは椅子に深く腰を据え、腕を組むと小声でボヤく。
「……あの野郎、急にどうしちまったんだ……?」
友人を仲間として引き入れるべく、交渉をするために故郷へと戻ってきたはずが、その友人が関係のない話題で機嫌を損ねて帰ってしまった。これは確実にクロエにドヤされる案件である。
――そんなことを考えるデリックだが、一方で彼もまたシスルウッドが「気分が悪い」と言った理由に気付いていた。
ペルモンドという存在。そしてクロエが「アーティーを説得して。彼をボストンから連れ出してやって」とデリックに頼んできた理由。これらにデリックもまた何とも言えない胸騒ぎを覚えていたのだ。
*
時代は進んで四二八九年のこと。気難しい技士装具士との会話のあと、イザベル・クランツ高位技師官僚はアバロセレンに関するレポートを超特急で作成していた。そして翌朝、彼女はASI長官サラ・コリンズにそれを手渡したのだが、しかし受け取ったASI長官サラ・コリンズは気まずそうな表情を浮かべていた。
というのもイザベル・クランツ高位技師官僚が示した仮説は、半世紀近く前にASIが既に掴んでいた話。人間が思い浮かべるイメージに反応してアバロセレンがその形態を変えるという情報は、特務機関WACEから提供を受けて把握していたのだ。しかし、その事実をASI長官サラ・コリンズはイザベル・クランツ高位技師官僚に伝えることはできず……――サラ・コリンズ長官は苦々しい思いをさせられていたのだ。
そうしてイザベル・クランツ高位技師官僚が帰っていった後のこと。彼女の送迎を終え、ASI本部に戻ってきた彼女の護衛係ラドウィグは上司からの指示を受け、最上階の長官室へと向かったのだが。そこでラドウィグを待っていたのはサラ・コリンズ長官と、以前の上司マダム・モーガン、それから血液透析器と思われる大きな機械だった。
音を立てることなく静かに開閉する三重に入り組んだ分厚い鋼鉄の扉の先、大きな黒革の椅子に居心地悪そうに座っていた小柄な長官はひとつ咳ばらいをしたあと、ラドウィグに「そこの椅子に寝なさい」と指示を出した。長官が指し示した椅子は、血液透析器のすぐ隣に置かれていたカウチ。つまり、人工透析を受けろと命令されたわけである。
上司、それも長官からの命令とあれば仕方がない。そう判断したラドウィグはジャケットを脱ぐとシャツの袖をまくり、大人しくカウチに横たわって左腕を差し出す。彼は理由不明の人工透析をひとまず受けることにした。
「変な気分ッスね、健康体なのに人工透析を受けるって。けど、どうして急にこんなことを?」
透析監視装置が絶え間なく鳴らす、ゴー……ゴー……という低周波の音に眉をひそめながら、ラドウィグは脇に立つマダム・モーガンに問う。すると仁王立ちで腕を組むマダム・モーガンはこのように答えた。
「あなたたちの行動すべてが“コヨーテ”に筒抜けだった。だからその原因を断ち切っているのよ。アレックスにも今朝、これを受けてもらったわ」
マダム・モーガンの答えを聞き、ラドウィグはすぐに“原因”を察した。それはかれこれ二年前の出来事である。
アルフレッド工学研究所に白昼堂々と侵入してきたアレクサンダー・コルトが、当時の所長ペルモンド・バルロッツィの頭に銃を突き付けたあの日。いち研究員でしかなかったラドウィグは、野蛮人アレクサンダー・コルトに命じられるがまま彼女に付いていくしかなかった。所長を殺されたくなけりゃアタシと一緒に来な、と怒鳴る彼女にあのときの彼は抵抗することができなかったのだ。
そうしてラドウィグは拉致され、特務機関WACEという場所に押し込められることとなったわけだが。すべてペルモンド・バルロッツィが仕組んだ小芝居だと知って愕然とした直後、ラドウィグはある処置を受けさせられた。それは『サー・アーサーの血を入れられる』というもの。
不気味に淡く発光する蒼い血が、管と針を介してラドウィグの血管へと入っていくさまを思い出しながら、彼はぶるりと背を震わせる。そしてマダム・モーガンは、やはりラドウィグが予想した通りのことを言った。
「私が特務機関WACEの隊員たちに私の血を分け与えていたのは、隊員たちの居場所を把握するためだった。身体能力と治癒力が向上するからという理由もあるけど、一番の目的はそれね。私の血の痕跡を辿れば、隊員たちの現在地に跳ぶことができる。つまり、GPSのマーカーみたいなものね。……そしていつからかこれが慣例になり、彼もあなたたちに同様のことを施したらしいわね。アレックスから、そう聞いたわ」
「そうッス。オレも、コヨーテ野郎の血を入れられました。あの時はアイリーンから『やれ』ってせっつかれて、オレもコヨーテ野郎も渋々って感じだったんスけど。でも、そうか……」
ラドウィグは話しながら、ふと思い出す。そういえば今の自分がこの目になったのはあの輸血以降だったな、と。そして彼は思ったことを正直に述べた。
「オレの目が、今の猫みたいな目に変わったのって、コヨーテ野郎の血を入れられてからなんスよ。元々は普通の人間の目でした。でも輸血されてから今みたいになって、光が眩しくてサングラス無しじゃ日中は動けなくなって。もしかしてコレ、コヨーテ野郎によって故意に書き換えられた可能性ってありますかね?」
するとマダム・モーガンは肩を竦める。続いて、彼女は不可解な言葉を発した。
「私には分からない。私は彼じゃないから。――そうよね、アルバ。この会話だって、今もどこかで聞いているんでしょう?」
しかし、妙なことを言うマダム・モーガンがジッと見ていたのはラドウィグの目だった。まるでこの部屋に盗聴器が仕掛けられていることを見越しての言動のようにもラドウィグには思えたが、それにしても奇妙だと彼は感じていた。なぜマダム・モーガンは自分の目を見てくるのか、と。
そして妙な振る舞いをするマダム・モーガンは肩を落とすと、ラドウィグから視線を逸らす。続けてマダム・モーガンは黒革の椅子に座るサラ・コリンズ長官を見やると、彼女に向けてこう言った。
「私はせいぜい、私の血を分けた者の居場所が分かる程度だった。でも後発の彼は、先発の私よりも性能が良いんでしょうよ。血を分けた者たちの会話が聞こえていたのかもしれないし、彼らが見ている光景も同じく彼には見えていたんでしょうね。あくまでこれは私の予想でしかないけれど」
マダム・モーガンの言葉が意味していたのは、アレクサンダー・コルト及びラドウィグを介して相手方に情報が漏洩していたという可能性。故にサラ・コリンズ長官は歯をギリリと噛み締める。
サラ・コリンズ長官がその可能性をマダム・モーガンから知らされたのは今朝のこと。けれども昼下がりに差し掛かった今でも、まだ彼女はその話を冷静に受け止められていなかった。
「…………」
受け止められないのも無理はない。なにせアレクサンダー・コルトは此度の騒動の中心人物とも言うべき存在だ。曙の女王から端を発する一連の出来事は、アレクサンダー・コルトが行く先々で解決の糸口が見えたり、事態が転げて悪化したりしていたのだから。……仮に、そんな彼女から情報が漏れていたのだとしたら、それはダダ漏れなどという次元ではない。筒抜けという表現が相応しい。
となれば来週に控えたオークションにアレクサンダー・コルトが行くつもりであるという情報も、とっくに“憤怒のコヨーテ”の耳には入っているのだろう。オークション会場で彼女を討つ用意を彼が整えているのは間違いないはずだ。
……そんなことを考え始めると、サラ・コリンズ長官の腸がぐつぐつと煮えくり返る。あの野郎の好きにさせて堪るかという怒りが、ふつふつと込み上げてくるのだ。
そうしてサラ・コリンズ長官が静かな怒りに手を震わせている一方で、肩を落とすマダム・モーガンは憂い気な顔をしていた。眉をひそめるマダム・モーガンは、サラ・コリンズ長官に言う。
「私はあなたたちの肩を持たないし、頭のイカれた彼に与することもない。当面は中立でいるつもりよ。けれど、聞かせて欲しいことがある。なぜあなたたちASIは、彼といがみ合う関係になったのかしら? 少なくともバーツが居た時代、あの頃はうまくやれていたはずでしょう。一体、何が起きたの?」
当面は中立でいるつもり。マダム・モーガンのその言葉に、サラ・コリンズ長官は表情をより一層険しくさせる。曖昧な態度ではなく白黒をハッキリさせて欲しいとサラ・コリンズ長官は感じていたが、しかし余計な言葉を彼女は控えた。
サラ・コリンズ長官は苛立ちを抑えるように呼吸を整えると、マダム・モーガンの方に顔を向ける。それからサラ・コリンズ長官はこのように述べた。「我々が“憤怒のコヨーテ”に明確な不信感を覚えるようになったのは、コルトから報告された『ブリジット・エローラの日記』に関する情報からです」
「あぁ、元老院が妙に欲しがっていたトリセツ風小説ね。あれがどう関係したのかしら?」
トリセツ風小説。マダム・モーガンからさらりと出てきたその言葉に、またもサラ・コリンズ長官の表情は厳しくなった。そしてサラ・コリンズ長官はその言葉に覚えた怒りを滲ませるような言葉選びをしつつ、このように答える。
「我々は、偉大な英傑バーソロミュー・ブラッドフォードの敵討ちを求めていたと同時に、多重人格で扱いに困っていた大天才の取扱説明書を必要としていた。故に我々はあの日記を求めたのです。あの大天才を掌握し、彼からアバロセレンの秘密を引き出すために。彼を正気にするための方法を知りたかったのです。例えば、抗うつ剤の適切な量や対話に臨む際に望ましい態度といった情報を。物事の途中で彼が急に遁走する、そんな事態を防ぐためのヒントを我々は求めていたんです……!」
「…………」
「あの日記を入手する過程で、我々は決して少なくない数の犠牲を払っています。しかし犠牲を払ってまでして手に入れたものは結局、まるで役に立たない虚構でしかなかった。そして“憤怒のコヨーテ”はそれが虚構であったと知っていながらも、我々に助言をすることなく、ただ偽の情報に踊らされる我々を彼は嗤っていた。あの男は、殉職した局員たちを嘲笑ったんです!!」
冷静に、冷静にと努めていたはずのサラ・コリンズ長官だったが、込み上げてくる怒りを抑えることが出来なかった。彼女の声は怒りから震え出し、そして怒りからワッと立ち上がってしまう。
サラ・コリンズ長官は厳しい表情でマダム・モーガンを睨んでいた。しかし、睨まれているマダム・モーガンが動じることはなく、それどころか彼女は不思議がるように首をわずかに傾けていた。そしてマダム・モーガンは言う。
「……もしそれが十二年前の話なら、私の記憶は違う」
マダム・モーガンの声は拍子抜けしているようなニュアンスを帯びていた。その声色に、サラ・コリンズ長官の怒りもスッと冷えていく――サラ・コリンズ長官は嫌な予感を覚えていたのだ、何か重大な情報の行き違いが起きているのではないかと。
そんなサラ・コリンズ長官の表情変化を見て、マダム・モーガンも行き違いの存在を確信する。そしてマダム・モーガンはひとつ咳ばらいをすると、このように語った。
「ハッキリと覚えている、あの時のことは。――北米での任務に区切りがついて、久しぶりにアルストグランの方に戻ったときのことよ。私はあの時に初めてアレックスに会い、彼女にあまり良い印象を抱かなかった。アーサーとなんだかギクシャクしている、それがすぐに分かったから。そして直後に私はアーサーからその日記の話を聞いた。その時の彼はひどく落胆していたわ。こんなもののために殺された者が大勢いたのか、と。その後、彼は故人への恨み節を垂れていた。どうして彼女はこんなものを遺したのか、こんな的外れな小説にもなり得ないクソ駄文を、と」
「……っ?! で、ですが当時のコルトはこう報告していますよ。彼は『ブリジット・エローラの日記』がフィクションであることを知っていた。しかし彼はそのことを数十年と黙り続けていたようだと……」
「なぜアレックスはそのように判断したのかしら?」
「彼女は“憤怒のコヨーテ”から直接そのことを聞かされたようです。日記は日記ではなく、フィクションであったという旨を。その話をしていた際に、彼が意味深に嗤っていたと彼女は報告しています。それに彼はブリジット・エローラと親しかったのでしょう? ならばそのことを把握していてもおかしくはないと――」
「つまり、アレックスの早とちりってこと?!」
上ずった声でマダム・モーガンがそう叫べば、サラ・コリンズ長官は息を呑み、息を潜めて様子を見守っていたラドウィグもぶるりと背筋を震わせる。殉職者を出した日記やら十二年前の出来事など何も知らないラドウィグにも事の重大さが伝わっていた。
そしてサラ・コリンズ長官は別視点から出た真逆の証言に驚愕し、言葉を失くしている。長年信じて疑ってこなかった情報が根底からひっくり返り、特定の対象に抱いていた憎しみの感情がグラグラと揺らぎ始めているのを彼女は感じていたのだ。
気まずそうに俯くサラ・コリンズ長官を見やり、マダム・モーガンは肩を落とす。またひとつ見落としていたパズルのピースを見つけたと感じていたマダム・モーガンであったが、彼女は同時に気が滅入っていくのを感じていた。亀裂が生まれた原因に近付くにつれ、この亀裂が修復不可能なものだと気付かされるからだ。
ラドウィグの寝そべるカウチの端に浅く腰かけるマダム・モーガンは、背中を丸めて重たい溜息を零す。それから右膝に右ひじを置き、頬杖をつくマダム・モーガンは重く沈んだ声で彼女の知っていることを語るのだった。
「私は彼のことをずっと監視していた。彼がまだ子供の頃から、ずっとね。だからこそ断言できる。あの男が『ブリジット・エローラの日記』の真実を知っていたわけがない。彼女が日記を書き始めよりも前に、彼は彼女との関係を断絶していた。大天才のことで揉めて、彼はブリジットと縁を切っているのよ。彼女の葬儀にも出席しないほど彼は徹底していた。そんな男が、あんな情報を事前に知り得ていたわけがないわ。それに、あの時に見た彼の怒りが偽物だったとは私には思えない」
「……」
「それから、あの男は混乱しているときこそ笑うのよ。その時の笑顔は正直言ってとても気味が悪い。何か企んでいそうだと誤解されかねないほどに。それで、そうね……その早とちりが広まって、大きな誤解を招いて、異様に敵視される状況が形成されれば……そりゃあアレックスを恨むわけだわ……」
早とちりが原因の誤解がこじれた結果。マダム・モーガンが出した結論はそれだった。サラ・コリンズ長官の理性もそれに概ね同意していたが、しかし彼女の感情は首を縦に振ることを拒んでいた。自分たちの非を認めることは敗北以上の屈辱であると、そう感じていたのだ。
故に顔を俯かせたままのサラ・コリンズ長官は息を呑むと、ゆっくりと椅子に座る。それからサラ・コリンズ長官は腕を固く組み合わせると、落ち着いた声で異を唱えた。
「コルトの報告があろうがなかろうが、我々が彼と敵対する未来は避けられなかった。それが私の見解です。彼がラーナーを切り捨てたこと、その事実を忘れていない局員は私に限らず局内に今も存在している。特にラーナーの相棒だったジョンソンの怒りは計り知れない。それに掘り返されたラーナーの遺体は今も戻っていないのです。コルトからは、コヨーテはラーナーの遺体の行方を知っているが黙り続けていると聞いています。またラーナーの遺体が消えた件に彼も一枚噛んでいるとの報告も彼女から受けています。となれば、我々が彼に好ましい感情を抱く理由は一つもない」
ラーナー。聞いたことがあるような、ないような名前が新たに飛び出してきたことで、話を横で聞いていたラドウィグは考えることを放棄した。これ以上は自分が何かをゴチャゴチャ考えたところでどうしようもないと、彼はそのように判断したのだ。
そうして欠伸をするラドウィグの横で、背筋を正すマダム・モーガンは足を組むと、ムッと顔を顰める。それからマダム・モーガンはあれやこれやと考えを巡らせながら、明瞭としないくぐもった声でサラ・コリンズ長官に言った。「パトリック・ラーナーか。彼は……分かった、私が遺族に返還する。ただ、その……」
「いえ、遺族への報告は我々が行います。それに遺体がラーナー本人であるかどうかの確認もしたいので、返還は我々に――」
「彼なんだけど。遺灰と、左手の辺りからポロっと出てきたマイクロチップしか残ってない。それでも構わない?」
「彼は、灰に……?」
「灰というか、正しくはダイアモンドね。ほら、骨壺って嵩張るでしょう。だから他の隊員たちと同じようにダイアモンドになってもらったのよ。彼の色は綺麗な薄紅色だったわ」
そのように述べるマダム・モーガンの顔は、裏にワケがありそうなものだった。そこでサラ・コリンズ長官は、旧特務機関WACEにとって都合の悪い情報を隠蔽するために火葬した可能性を真っ先に疑ったのだが。しかし彼女は良心の呵責に揺らいでいるようにも見えるマダム・モーガンの表情を見て、意見を変える。
ラーナーはもしかすると、そのままで返すことが憚られる有様になっていたのかもしれない。故にマダム・モーガンは火葬し、尊厳が踏み躙られた事実を隠したのだろう。その姿を目にして傷付くものが出ないように。――その可能性を、サラ・コリンズ長官は信じることにしたのだ。
「……ええ、それだけでも構いません。私は彼を仲間たちが眠る場所へと戻したい。たとえどのような姿になっていたとしても」
「オーケー。明日にでも彼を引き渡すわ。それで、都合の付く時間を――」
すくっと立ち上がるマダム・モーガンが、サラ・コリンズ長官の言葉に返事をしていたときだ。長官室の厳重な扉が静かに開くと共に、局内での重大なトラブル発生を報せる短い警報が鳴る。部屋内に居る三名は緊張から、誰が入ってくるのかと身構えた。
幸いにも長官室に立ち入ってきたのは、ASIに現在は籍を置いている自律型ヒューマノイド。人間と見間違うほど精緻なボディに万能の人工知能を搭載した、通称レイことAI :L だった。
チャコールグレーを基調とした女性もののスーツに身を包み、フェイクの長い金髪をクラウン・ブレイドにまとめたAI :L は、踵の低い白のパンプスをカッカッと鳴らしながら早足で入室する。そしてAI:Lはサラ・コリンズ長官の前で立ち止まり、軽く一礼をすると、前置きや挨拶は省いて報告のみを手短に行った。
「地下九階にて凍結保管がなされていた“曙の女王”の消失が確認されました。彼女は一〇分ほど前、オーウェン・レーゼ氏の許に出現したのち、再び消失し、行方が掴めておりません。現在テオ・ジョンソンの指揮の下、アバロセレン犯罪対策部が彼女の捜索、及び地下九階の捜査を開始してい――」
「レイ。あなたは連邦捜査局シドニー支局に連絡を入れ、彼らに詳細な情報を送りなさい。そしてマスメディア及び市民への発表をアーチャー支局長に依頼して。それから関係機関すべてに情報を回しなさい。そして彼女を見かけたとしても絶対に手を出すなと警告を出しなさい」
AI:Lの発言を途中で遮り、サラ・コリンズ長官はそのように指示を出す。しかし指示を受けたAI:Lは人工物の顔で表情を作り、懸念を表明した。そしてAI :L は言う。「ニール・アーチャー氏に、ですか?」
「ニール・アーチャーが秘密を暴露したせいで情勢は変わった。化け物の存在はもはや公然の秘密ですらない。だからこそ彼にはその責任を取ってもらう。……――あと、アーチャーにはこちらに人員を派遣するよう要請して。連絡役を一人か二人、アバロセレン犯罪対策部に寄越すよう言って」
少しの苛立ちを滲ませながら毅然とそう言い放つサラ・コリンズ長官の言葉を聞き、AI:Lはそれ以上の追及を避けた。AI:Lは「承知いたしました」とだけ言うとサラ・コリンズ長官に背を向け、長官室を出ようとした――……が、何かを思い出した様子でAI:Lは再び戻ってきた。そしてAI:Lはサラ・コリンズ長官に追加の報告を述べる。
「オーウェン・レーゼ氏の許にはミルズが急行しています。とはいえ、彼の許に配備されたボクの分機が集めた情報を分析する限りでは、彼に危害が加えられた様子はなかったとのことです。曙の女王に不可解な行動が見られましたが――」
「不可解な行動とは?」
「それについては行動分析が完了次第、追ってご報告いたします。ラドウィグ、あなたには歌の内容を確認して頂きたいので、のちほど動画ファイルをあなたの端末機に転送しておきますね。……それでは」
最後にAI:Lはラドウィグのほうを見やり、軽い会釈をすると、足早に長官室から去っていった。そしてAI:Lが去っていくと同時に、ラドウィグはサラ・コリンズ長官を見やる。彼は少し首を起こすと、サラ・コリンズ長官に訊ねた。「長官。お、オレはどうしたら……?」
「その処置が終わり次第、あなたもオーウェン・レーゼ氏の許に向かい、彼から情報を集めなさい。処置を受けている間は、レイが転送するという動画を確認しておきなさい。きっと、すぐに届くでしょう」
サラ・コリンズ長官がそう言い終えたタイミングで、どこかから鉄琴が奏でる短いジングルが鳴る――ラドウィグが膝の上に載せていた畳まれたジャケット、その裏地に縫い付けられたポケットの中に入れられていた携帯端末機が鳴らした通知恩だった。通知音の種類から察するに、AI:Lから動画が転送されてきたのだろう。
ラドウィグは針を刺された左腕はそのままに、右腕だけを動かして畳んだジャケットの中から端末機を取り出す。そうして片手のみで器用に端末機を操作しつつ、ラドウィグが転送されてきたファイルを閲覧しようとした直前だった。少々慌ただしい足音と共に、再び長官室に来客がやってくる。
長官室に来たのは、大急ぎで駆けてきたのか、肩で息をしているテオ・ジョンソン部長だった。彼は室内にまで入ることはせず、出入り口付近で立ち止まる。そして彼はサラ・コリンズ長官に軽く手を振ると、息も絶え絶えな声で簡潔に用件のみを述べた。
「状況についてはレイから聞いたようだな。なら単刀直入に。――現在、カイザー・ブルーメ研究所跡地に派遣したコルトとダルトンの二名と連絡が取れない状態にある。地下に潜っている影響もあるだろうが、状況が状況だ。万が一を警戒して、特殊部隊からの人員派遣を要請したい」
テオ・ジョンソン部長からの派遣要請に、サラ・コリンズ長官が承諾を表明しようとしたのだが。サラ・コリンズ長官が口を開こうとした直前で、マダム・モーガンが割り込んでくる。
「私なら、彼らをすぐに帰還させられるけれど。どうする?」
ニヤリと微笑むマダム・モーガンが出した提案に、テオ・ジョンソン部長は無言で首を縦に振り、提案に乗る意思を示す。その後すぐテオ・ジョンソン部長は来た道を引き返し、駆け戻っていった。そしてテオ・ジョンソン部長が去ったのを確認すると、マダム・モーガンは煙のようにドロンと融け、長官室から姿を消す。
「……」
消えていった二人をカウチの上から見送ったラドウィグは、最後にちらりとサラ・コリンズ長官を見やる。腕を組み、椅子に深く座るサラ・コリンズ長官は、彼女への許可を求めることなくマダム・モーガンの提案に乗り、去っていったテオ・ジョンソン部長にご立腹な様子だった。
*
一方、その頃。ゴーストタウンと化したマンハッタン某所のアパートでは、一仕事を終えたアストレアがその旨をアルバに報告するために彼の自室に立ち入っていた。
リビングルームのソファーにぐでーっと座っている威厳のないアルバは、膝の上で寝ている茶トラ猫ソイの頭を右手でわしわしと撫でながら、左手に持つ氷嚢を鼻に当てつつ、入室してきたアストレアをサングラスの隙間から横目でちらりと見やる。それを合図だと受け取ったアストレアは彼の隣にドカッと座ると、報告を開始した。
「頼まれてたギャングの死体、溶かしといたよ。言われた通り、一階の一〇一九号室のシャワールームに置かれてたデッカい水槽に死体を入れて、水酸化ナトリウムをボッチョーンして、漂白剤もドッバーンしておいた。あとガキどもと猫が入らないように部屋の鍵を閉めといた。でもシャワールームの換気はバッチリにしておいたよ。言われた通り、換気システムは使わず、あの部屋の窓を全開に開け放っておいた。んで、防護服とか一式はその隣の部屋、一〇二〇号室のリビングに置いといた。その部屋の鍵も閉めといたよ。あっ、そうそう。持ち物はぜんぶ引っぺがして、指定された洗濯籠に詰めておきましたー。指示通り、きったねぇ下着もでーす」
間延びした喋りでそう語ったアストレアは、自身の髪の毛か、または鼻の粘膜にこびりついているような気がする苛性ソーダ臭がもたらす不快感に表情を歪める。防護服やガスマスクで身を護っていたとはいえ、それでも防ぎきれなかったにおいに彼女の気は滅入っていたのだ。
殺された直後の死体であったことから、強烈なチーズやら濃縮された生ごみのようだと譬えられているらしい死臭を嗅がずに済んだことは幸いだった。だが死体処理に使う化学薬品の刺激臭、あれが最悪だったのだ。
公的な教育機関で教育を受けたわけではないアストレアには、そこまでの科学知識がない。故に彼女は水酸化ナトリウムは無臭であるという知識しか持っていなかった。水に固形の水酸化ナトリウムをぶち込むと水酸化ナトリウムが途端に発熱し、生まれた熱によって発生する水蒸気と共に水酸化ナトリウムが空気中へ溶け出して強烈で有害な刺激臭をまき散らすという知識など、アストレアは持っていなかったのだ。
作業に取り掛かる前に部屋の窓をすべて開け放て、という注意を事前にアルバから受けていたものの、ズボラで知識不足なアストレアはそれをやらなかった。そういうわけで刺激臭の霧が大発生してから大慌てで窓を開けに行ったというトラブルが起きていたのだが。しかし彼女はその事実を伏せて報告した。
そしてアストレアはアルバに嘘が悟られるよりも前に、さっさと話題を逸らすことにする。彼女はひとまず、溶かした死体のその後について尋ねることにした。「……で、あの死体さ。溶かして、どうするの?」
「あの水槽ごと現場に戻すだけだ。それと遺品も。それらしい猟奇殺人を演出してやれば、当局は存在しない猟奇殺人犯を血眼で探し始めるだろう。そして当局が存在しない人間を探している間に、彼らが求める理想的な犯人をこちらで見繕っておくわけだ。幸か不幸か、北米にはトチ狂った人殺しがウジャウジャいるからな。適当なやつに罪をなすり付ければいい」
アルバはそう言うと鼻に当てていた氷嚢を脇に置き、アストレアから顔を背ける。それから彼は空いた左手で口を隠し……――小さく欠伸を零したらしい。
シャキッとしない様子のアルバが次に手を伸ばすのは、ソファー前のテーブルに置かれていたティッシュ箱。彼はティッシュ一枚をガサツに抜き取ると、それをよじって左側の鼻の孔にねじ込んだ。すると白いティッシュには淡く光る蒼い血が滲んでいく。ティッシュに広がっていく蒼い染みを見て、アストレアも気付いた。また鼻血か、と。
思い返してみれば、一時間前に戻ってきたときからアルバは調子が悪そうだった。帰還直後、アストレアに「代わりに死体を処理しておいてくれないか」と頼んできたときの彼は顔色が非常に悪く、今にも倒れそうな雰囲気を出していたぐらいだ(だからこそアストレアは文句を言わず、二つ返事で引き受けたのだ)。
顔色が悪くなり、鼻血まで出るような状態。アストレアはこれが引き起こされるものにひとつ心当たりがあった。
「ジジィ、なんか調子悪そうだね。もしかして、またギルの羽根むしって大暴れしてきたの?」
アストレアがそう訊けば、アルバは頷く。そしてアルバは着ていたシャツの右袖口を緩めると、袖をまくってアストレアに右腕を見せた。
蒼白く血色の悪いアルバの肌には、小さな蠕虫 が点々と這っているかのような青い斑点が浮かび上がっていた。気味の悪い斑点は右の掌、そして手首、前腕へと続いている――過負荷が掛かり、自律神経が極端に乱れたことで毛細血管が急激に拡張し、このような現象が起こるのだ。
その他、鼻血や息切れ、倦怠感といった現象も自律神経の極端な乱れによって引き起こされるものだが、とはいえアストレアはそこまでのことを理解してはいない。彼女は「大暴れした影響が出てんだな」とざっくりとした情報のみを把握した。
そうしてアストレアが気味の悪い斑点模様に不快感を示すように「うわぁ……」と呟くと、アルバは右腕を下ろす。それからアルバは再びアストレアから顔を背け、欠伸を零すのだった。そんな彼の横顔には疲弊があからさまに浮かんでいて、土気色の肌はいつも以上に不健康そうだった。
「ジジィ、本当に大丈夫? なんか今にも死にそうな顔してるけど」
連発される欠伸に、アストレアも少しの心配を抱く。そう訊ねるアストレアはアルバのすぐ隣に移動すると、彼の膝の上でぬくぬくと寝ている茶トラ猫ソイを抱き上げ、床に下ろした。けれどもこれを不服とした茶トラ猫ソイは再度ソファーに飛び乗り、アルバの膝の上に乗ろうとする。しかしアストレアは茶トラ猫ソイの背中をガシッと抑えつけ、膝の上に乗ろうとした猫を阻止した。
諦めた茶トラ猫ソイは座面に留まり、アルバとアストレアの中間地点で身を伏せる。渋々といった雰囲気を醸し出しながら、茶トラ猫ソイはゆっくりと前足を折りたたみ、香箱座りを決め込んだ。
そんなアストレアと猫の攻防を見ながら、アルバは小さく笑う。そして彼はまた小さな欠伸を零したのち、ソファーの背もたれに背中を預けるよう仰け反った。それからアルバは疲労が垣間見えるダラダラとした喋りで、アストレアの問いに答えた。
「約五〇人ほどのギャングどもを三〇分ですべて仕留めた。それで体に負荷が掛かったことも要因のひとつだがー。一番の理由は眠気だろうな。情報を盗むための抜け穴が塞がれたせいで、これからは不正行為 なしの真剣勝負になる。それで今後の出方をウダウダと考えていたら、耐えがたい眠気が来た。そんなところだ……」
彼の言葉を聞くアストレアは、しかし首を傾げていた。彼女はこの話に、なんとなくだが違和感を覚えていたのだ。
数日前からアルバが保管していた女の生首がこのアパートから消えていたことから察するに、彼は遂に前々から狙っていたというギャング団を仕留めたのだろう。止まらない鼻血といったアルバの様子からして、多分その話は事実だ。
ただ、続いた言葉がどうにも引っ掛かる。抜け穴が云々という話はアストレアにはよく分からなかったが、けれどもそれが疲労や眠気の理由ではないはずだと彼女の直感が囁いていた。今後の作戦を練っていただけにしては、アルバの表情が暗すぎるぞと。
そして彼女はあることに気付く。ソファー前に設置された低いテーブル、その上に乗っているティッシュ箱の陰に一冊の本が置かれていたのだ。それは先日、マダム・モーガンがこのアパートに置いて逝った本、デリック・ガーランドという人物の自伝である。
「――ジジィ、今、ウソついたでしょ。眠いわけじゃない。もしかして、この本が関係してる?」
目をギラリと光らせ、アストレアは鎌をかける。すると不思議なことが起きた。なんとあのアルバがあっさり陥落したのだ。
アストレアのその言葉を聞いたアルバは目を閉じ、ゆっくりと息を吸う。そして数秒息を止めたあと、彼は気だるそうに眼を半分開け、それから怠そうな声で語り始めた。「前に私はこう言っただろう。見聞きしたことはほぼ全て記憶している、と。だがそうでもなかったことが分かった」
「……」
「その本に書かれている私に関する記述、その後半部分。その時期の記憶が断片的にしか残っていないことに気付いたんだ。妻が居て、子供たちが居て、一番忘れたくなかったはずの時代を、しかしほとんど覚えていない。当時の日常を断片的にしか……」
勿論、アルバの語った言葉は本当のことだった。実際に先ほどまで考えていたのは語った通りのこと。娘テレーザだけが居た時代のことはよく覚えていた反面、息子レーニンが誕生してからのことはあまりよく覚えていなかったことに、自伝本を読んでいて気が付いたのだ。
ハッキリと覚えているのは、息子の名前をどうするかで妻と揉めたことぐらい。恩人から名を取って『レーノン』としたかった自分と、親しい誰かから名前を拝借するという行為をなんとなく忌避していた妻キャロラインとで揉めて、最終的に妻の意見が勝ったものの。レーノンを一字変えてレーニンとしたその名前に抱いた懸念、及び嫌悪感だけはハッキリと覚えていた。かつて自分が父親から受けた仕打ち、本来の名前を悪意を以て歪められた経験と重なってしまったこともあるし、レーニンという名前に伴う悪いイメージが将来に悪い影響を齎さないかと不安を感じたからだ。
だが、それ以降の日々はあまり覚えていない。息子が色素の欠乏した体で生まれてきたことについて自分をひどく責めたこと、その鬱積した感情だけは今もヤケに残っているが、ただありふれた日常は漠然としか記憶に残っていないのだ。だからこそデリックが書き起こした自分に関するエピソードがどこまで正しいのか、その判断が付かないという奇妙な状況が発生している。これはとても気持ちが悪い感覚だった。
――ただ、アルバが考えていたのはそれだけではない。先ほどの言葉は半分正しいが、半分は偽り。先ほどまで彼が考えていたのは友人が記した自伝本と自身の過去に関することだが、今さっき考えていたのはまた違うこと。今もなおボストンの上空にあり続ける光の渦、アルテミスだのローグの手だのと呼ばれている異常事象、世界最初のSODについてだ。
マンハッタンに帰還するよりも前に、アルバは一度ボストンに立ち寄っていたのだが(今のボストンは更地であり人が立ち入ることは滅多にないが、その代わりに腐肉を漁る奇怪な化け物がそこら中をウロウロと徘徊している。極端な巨漢といった、処理が面倒な死体を遺棄するには都合のいい場所なのだ)。そこで久しぶりに見上げたSODに、彼は胸がざわつくような気味悪さを覚えた。何か重要なことを忘れているような、そんな気がしたのだ。
思い返してみれば、死後の生を得てからずっと追い続けていたのはその真相だ。ボストンの上空に今も居座り続けるSOD、これはどういう理屈の下に誕生したものなのかと、彼はずっとそれを知りたがっていた。ペルモンドにトドメを刺さず、生き長らえさせていたのもそれが理由。アルバには確信があったのだ、あいつは何かを知っていると。
実際、ペルモンドは真相を知っていることを匂わせるような発言を度々していた。だがペルモンドは彼に対して毎度、決まってこう言った。お前にだけは教えることができない、と。そして悪いことにペルモンドは秘密と共に去ってしまった。
そういうわけで真相は一人で探さなければならなくなったのだが。しかしアルバはなんとなく勘付いていたのだ。自分はこのSODが誕生した原因を知っている、きっと自分がこれを生み出したのだから、と。
アバロセレンの性質はアルバ自身が一番よく知っている。アバロセレンは人間が思い浮かべた空想妄想を具現化し、物質世界に下ろす存在だ。アバロセレンは臓腑の構造さえ完璧にイメージできたのならば生き物さえも具象化してみせる。なら、異常気象の再現など容易いのだろう。となれば、リアリティのあるイメージを思い浮かべることさえできれば、全く新しい事象を引き起こすことも容易なはず。
となればあのSODは、自身が死ぬ直前に思い浮かべた馬鹿げた妄想に影響され、そうして生まれた可能性だってゼロではない。世間の連中が騒いでいた通り、あれを生み出したのは他でもない自分自身であったのかもしれない。――そんな気がアルバにはしていたのだ。
ただ、死の直前に考えていたことなど彼は何も覚えてはいない。何かを思い出せれば新しい取っ掛かりが見えてきそうなのだが、けれどもまったく思い出せそうな気配がなく。……と、まあ、そんなことをさっきまでウダウダと考えていたわけなのだ。
「忘れちゃった原因に心当たりはあるの?」
とはいえそこまで深堀りして考えはしないアストレアは、アルバの発言を丸っきり信じていた。
アルバのことを『物忘れを嘆く哀れなジジィ』だと思っているアストレアは、同情を帯びた声でそんなことを問う。頭の中にある物事を深くは探られたくないアルバは、アストレアの誤解に乗じることにした。
「死後に呼吸が止まり、脳の一部が壊れた。おそらく、それが原因だ。大部分が回復したとはいえ、その時に受けたダメージは今も残っている。きっと一部の記憶があのダメージにより完全に吹き飛んだんだろう」
アルバが語った仮説は、かつて特務機関WACEに所属していたジャスパー・ルウェリンという人物が組み立てたものだ。
死後の生を得た彼が最初にハッキリと“覚醒した”とき、彼の記憶はキレイすっぽり抜け落ちていた。自分自身が誰であるかというエピソード記憶だけでなく、『オレンジは橙色をした酸っぱい柑橘系の果実』といった知識とモノそのものを結びつける意味記憶、会話や計算といった行為に影響を及ぼす陳述記憶、食器の使い方やクロスワードの解き方といった技能に関する記憶なども欠落していたぐらいだ。
そんな彼のひどい有様を見て、ジャスパーという心理分析官が見出した可能性が先ほど彼が語ったもの。いわゆる蘇生後脳症というものに近く、虚血状態により脳細胞が幾分か死亡し、それが原因で記憶障害や運動機能障害などが起こっていたのではないか――ジャスパーはそう分析したのだ。
「そっか。じゃあ戻りそうもないね、その記憶」
アルバの言葉を聞いたアストレアは大して同情するわけでもなく、こざっぱりとした調子でそれだけをスパッと言う。アルバも同じようなトーンで、このように返答した。
「ああ。そうだな。多分、戻らないだろう。二度と」
ジメジメとしたかび臭い陰鬱な気分をもう少し引き摺っていたかったアルバだが、カラッと乾いている薄情なアストレアの調子に釣られて、彼女と同じような気分になってしまった。何もかもがどうでもいいというアストレアの隠し持つ諦めや空虚さが伝染してきて、不思議とそう感じられるようになってきたのだ。
良くも悪くも気分が切り替わったアルバは、鼻の孔に突っ込んでいたティッシュを抜くと、それを軽く丸めて部屋の隅に置かれたゴミ箱へとヒョイと投げた。投げられたティッシュは見事にゴミ箱の中へと落ちる。アルバは小さくガッツポーズを決め、アストレアはそんな彼に冷ややかな視線を送っていた。
すると。ティッシュの動きに反応したのか、ソファーの上で香箱座りを決めていた茶トラ猫ソイがニョキッと立ち上がる。ゴミ箱の方角に釘付けになっている茶トラ猫ソイは、その方角へと進もうとする――が、それを猫の隣に座るアストレアが阻んだ。
アストレアは茶トラ猫ソイの肩甲骨のあたりをガシッと掴むと、軽く押さえ込んで動くなという圧を猫に掛けたあと、スッと手を離す。すると茶トラ猫ソイは諦めたのか再度ソファーの座面の上に寝転び、不貞寝の体勢を整えるのだった。
「……ジジィ。そんぐらいの距離なんだから、立って、歩いて、捨てに行ったらどうなの?」
猫の気を不用意に引くような真似をするアルバに対し、アストレアはそのように毒突く。しかし左手に持った氷嚢を鼻に当てるアルバは悪びれる素振りは見せず、それどころか「お前だって似たようなことはするはずだ」と一笑に付してみせた。
そんなアルバの態度に呆れたアストレアが腕を組みつつ彼を睨み付けたときだ。玄関ドアが乱暴に開け放たれる豪快な音がしたあと、子供のものと思われる騒がしい足音が聞こえてくる。ドタバタとうるさい足音に怯えた茶トラ猫ソイはおどおどとした様子で飛び起きると、素早くソファーの上から飛び降り、腰を低くして物陰へと逃げて行った。
へっぴり腰で去っていった猫と入れ替わるようにリビングルームに踏み入ってきたのは、アバロセレンから創生された幼い子供のような姿をした人造生命体、ホムンクルス。その中でも特に騒がしい個体だった。
「おなかへった! ごはん作っ――」
首筋に触れる程度の長さで切りそろえられた柔らかい栗色の髪を振り乱し、不機嫌そうな声を荒立てながらそう叫んだのは、通称ユルと呼ばれていた個体だ。やんちゃで元気すぎる女児、そんな風に見えなくもないこの個体だが、その姿にアルバが一瞬表情を緩めた直後、異変が起きる。
アルバを見て、次にアストレアを見て、それからユルという個体は声を荒らげ、幼い子供らしい要求をやかましく突き付けてきたわけだが。その言葉の途中で声が消える。直後、その子供のような姿も見えなくなった。
すべては一瞬のうちに起こった。声が止んだ直後に子供の輪郭がボヤけて、大気に拡散していったのだ。ほどけた輪郭は淡い蒼白の燐光を放ちながら広がり、やがて跡形もなく消えた。子供のような存在が先ほどまで存在していたはずの地点には、ただその個体が着用した衣服のみが残され、床にばさりと落ちて行く。――アストレアとアルバの二人が目の前で起こった出来事を認識したのは、数秒遅れてのことだった。
「……ふえぁっ?!」
床に落ちていった子供用の半袖Tシャツ。それを二度見したあと、アストレアは驚きから変な声を上げた。それから彼女は同じソファーに座るアルバの顔を見やる――彼の目元はサングラスに隠れて窺えなかったが、しかし眉間にしわが寄っていることだけは確認できた。
彼をじっと見つめたままアストレアが目をぱちくりとさせれば、アルバは一段と深いしわを眉間に刻み込んだあと、鼻に当てていた氷嚢を目の前のソファーに投げ捨てた。それから彼は立ち上がると急ぎ足で居室を出て、このアパートの別の階へと向かっていく。アストレアもすぐさま立ち上がると、彼の後を大急ぎで追っていった。
二人が向かっていったのは一つ上の階にある部屋、四〇一五号室。これはホムンクルス四体に与えられていた部屋である。迷いなく部屋の扉を開け、中へと入っていく二人だったが、しかしその部屋の空気は異様なほどシンと静まり返っていた。普段なら騒がしい気配があるはずだというのに。
そうして踏み入った四〇一五号室のリビングルーム、そこには三人分と思われる衣服がそれぞれ落ちていた。
キッチンとリビングルームの堺に落ちているのは、男児のものと思われる服。リビングルーム中央部の床に広げられたまま放置されている動物図鑑の傍に落ちているのは、ボーイッシュな女児向けの動きやすい服。そして動物図鑑の向かい、キリンを模したぬいぐるみと共に床に落ちているのは、フリルやリボンがあしらわれた可愛らしい女児向けの服。……どのホムンクルスが何の服を着ていたのか、不思議とアストレアには分かった。そして彼女は結論付ける。
「うわっ、他の三体も消えてる。服だけ残ってるや……」
ユルというやんちゃなホムンクルスは、日課通りなら三〇分後に夕食を作り始めるアルバまたはアストレアを待てず、空腹に耐えかねて急かしに来たが。ユルは直後、彼らの前で消えた。そして部屋に残った三体も同じぐらいのタイミングで消えたのだろう。
出来の良い長男ポジションにいたギョーフという名のホムンクルスは、騒ぎまわるユルの様子を見て『夕食をつくる準備』をひとり開始しようとしたのか、または簡単なものをユルに作ってやろうとでもしたのだろうか。けれどもその直前でギョーフは消えたらしい。
動物図鑑を読んでいたのは、知的好奇心旺盛なライドという個体だろう。元より小食気味なライドはきっと空腹など気にせず目の前の図鑑に興味津々で、それにのめり込んでいたのだろうか。そしてライドはそのまま消えてしまったようだ。
動物図鑑の傍に落ちていたキリンのぬいぐるみで遊んでいたのは、寂しがり屋なイングという個体だろうか。騒がしいユルが居なくなり、ギョーフも何かを始めようとしている様子を見て、イングは図鑑を食い入るように見ていたライドに照準を合わせた。そしてライドに構ってアピールでもしていたのか、または二人で図鑑を読んでいたのだろうか。そんなイングも消えている。着ていた服だけを残して、綺麗にその存在は消え去っていた。
「……」
部屋に残された状況から、アストレアはそのように推論する。アルバも概ね同じような結論に至っていた。
そして腕を組みつつ床に落ちているキリンのぬいぐるみを見つめるアストレアは、過去に幾度か見たシーンを思い出す。それは特務機関WACEがあった時代のことだ。
アレクサンダー・コルトか、または通称ケイと呼ばれていた隊員か。彼らがどこかから盗んできた『不完全な状態のホムンクルス』を、情報収集および分析のために数日ほどアイリーン・フィールドが世話をすることが四度ほどあった。アストレアも、アイリーン・フィールドの担う作業の手伝いをやっていたことがある。暴れられたら困るから拘束しておいて、とか。適当なオモチャであやしてその個体を泣き止ませて、とか。そういった類のことを。
あのホムンクルスたちには全て、奇妙な共通点があった。異なる個体でありながらも全てが同じ顔をしていて、皆一様に女性の姿を取っていたのだ。白い髪、白い肌、赤い瞳、そして十五歳ぐらいの少女の容姿。加えてその目鼻立ちは、あの『曙の女王』とかと名乗っていた存在とどれも全く同じ。まるでホムンクルスたちは全て『曙の女王』の模造品であるかのようだった。
そしてホムンクルスたちの精神年齢は二歳程度。理知的な会話が成り立つ個体はひとつもなく、故にアイリーン・フィールドを始め特務機関WACEの隊員たちの多くはホムンクルスたちを『人間』のようには扱わなかった。ある一定の情けや同情は掛けているようだが、深くは関わらず、あくまでも実験対象として扱う。そんな感じだっただろう。
それにホムンクルスたちは不完全であるためすぐに消えた。不完全なホムンクルスたちは先ほどのユルのように、あるときに突然前触れもなく霧散し、気化アバロセレンに還っていく。もって平均、四日ほど。とても短い命だ。アストレアもその光景は今までに三度ほど見ている。ユルも合わせると四度目。だからこそ彼女は意外にも冷静にこのことを受け止められていた。
そしてそれはアルバも同じ。アストレアよりもずっと多くのホムンクルスが消えていくさまを見ているアルバも、暗い顔こそしておれど冷静に受け止めていた。そこそこ長くは生き延びたがそれでもこの程度だったか、と彼は思っていたのだ。
とはいえ今まさにこの場で消えたホムンクルスは、アルバがその手で初めて生み出してみた個体たちだ。それも大規模なプラントで増産された『どれもが同じ顔と同じ特徴を持つホムンクルスたち』ではなく、それぞれが異なる個性と特徴を持った個体たち。愛着がなかったわけがない。彼はそれなりに落胆していた。
そんなわけでどんよりとした空気感を纏っているアルバに、アストレアはひとまず声を掛けることにする。「ジジィ、大丈夫?」
「あぁ、いや、考えていただけだ。何が足りなかったのかと。私にはできなかったが、娘は成し得たこと、それが何なのかが分からなくてな……」
返答に困ったアルバはひとまず、頭の中をぐるぐると回っている議題について正直に打ち明けるという選択肢を採る。そして言い終えたあと、アルバは床に落ちていた子供用の衣服を拾い上げて回った。
キッチンの堺に落ちている服、動物図鑑の傍らに落ちている服を彼は回収すると、四〇一五号室内にあるバスルームに向かう。それから彼はバスルームに設置された洗濯機の中に衣服を投げ入れると、動物図鑑が置き去りにされているリビングルームに戻ってきた。洗濯は明日やればいいと彼は判断したのだ。
その間、アルバが戻ってくるのをリビングルームで待っていたアストレアは、イマイチ冴えない頭を絞ってアイディアをひりだそうとしていた。悶々と考えて考えて、彼女はあることを思い出す。そしてアストレアは戻ってきたアルバに、こんなことを語ってみせた。
「ホムンクルスには活動限界がある、みたいなことをアイリーンが前に言ってた。活動限界値は培養槽の中に居た時間と比例するって。実体を維持するために、ホムンクルスは体内に蓄積されたアバロセレンをすり減らしているから、その蓄積されていたアバロセレンが尽きたらそこで終わりだって。だから、やっぱり、たっぷりのアバロセレンに漬け込まないとダメとか?」
「…………」
「うーん、でも、それじゃ問題は解決しなさそうだね。なんかさ、その……――アバロセレンって、ああいう存在にとってはエネルギー源みたいなものなわけでしょ? 人間でいうところの酸素みたいな。なら、呼吸みたいにアバロセレンを補充できる方法とか実現できないのかな。そうしたら長続きしそうな個体が作れそう」
「……呼吸か」
ホムンクルスの活動限界値に関するアイリーン・フィールドの予測。それ自体は既知の情報で、アルバは聞き流そうとしたが。その後に続いたアストレアの思い付きから飛び出した言葉には興味を惹かれた。呼吸で酸素を取り込むように、アバロセレンを取り込むという発想。それは今までどこにも存在していなかった、まったく新しい見地だったのだ。
とはいえ、その見地は“原初のホムンクルス”の謎を解くには不十分。アルバの実娘テレーザが何かのはずみで副次的に創成した双子のホムンクルス『ユン』と『ユニ』が、人間と同じような発育過程を辿り、他のホムンクルスのように霧散することなく、人間と寸部たがわないモノとして存在し続けたのかは依然として謎のままだし。苛烈で非道な実験の末に殺され、人間と同じように死を迎えた『ユニ』と異なり、生き残った個体『ユン』が『曙の女王』という奇妙な進化を遂げた理由も不明のままだ。
そしてアストレアの発案を実行しても『原初のホムンクルス、その完全な再現』にはならないだろう。しかし、それは代案になりうるような可能性の芽ではある。少なくともアストレアの言葉は、アルバの思考に新たな風を吹き込み、閃きの元となる雷雨を生み出した。
あとは決め手の一撃が暗雲から飛び出てくるのを待つだけ――そんなことを思うと、久々に彼の胸は高鳴りだす。悪人じみた笑みを浮かべるアルバは、早口な独り言をそこそこハッキリとした声で零すのだった。
「アバロセレンの正体について、常々考えていた。キミアの胃袋に投棄された死霊どもの放つ怨念、そのエネルギーを抽出したもの。それはひとつの正しい言説ではあるが、しかし何かが違うと感じていた。それが今、お前のお陰で光が――」
「あー、うん。ジジィ、急にどうしたの?」
独り言なのか、それとも話しかけてきているのか。その判別に困るアルバに、アストレアは適当な言葉をそれっぽく返しておく。――が、アルバはその返事を無視し、言葉を続行した。どうやら独り言であったらしい。
「大気。アイテール。それこそが――」
誰に話しかけているのかが分からない話しぶり。妙にキラキラしているように思える表情。それと身振り手振りが妙に大きい動き。それから視線が虚空を彷徨っているところ。そんなアルバの姿は、まるで大舞台の中央に立つ主演俳優による独白シーンのようだった。
彼の姿を少し離れた場所から観察するアストレアは、ふと思う。ジジィ気味が悪いな、と。それでもアストレアは茶々を入れずに様子を見守っていたのだが、すると突然アルバに異変が起こる。
ふと我に返ったように、アルバの視線が足許に降りたのだ。彼の表情は途端に曇り、声もトーンダウンしていく。そしてアルバは一言、ボソッと呟いた。「……いや、違う」
「は?」
アストレアが思わず漏らした呆れの声。するとアルバがアストレアのほうに体を向けた。そして彼はアストレアの顔をしかと見る。それから彼は彼女に今度こそ語り掛ける……――かと思われたのだが、また話しかけているテイの勇ましい独り言が始まった。そんなわけでアルバはひとり語る。
「マナ。ポリネシアの一部地域、そこに根付いていた概念。それこそ私が認識しているアバロセレンというものに最も近い。実体性は無いが物質世界に確かな影響を及ぼす力、神秘の根源となる存在。あらゆるものの状態を変化させ、天変地異さえも引き起こすエネルギーの波を起こすもの。大気に解け、火さえも起こし、液体となり、結晶となる。そして死さえも克服した怪物をも生み出す。いかようにも変容する万能元素。……そうか、だからこそヤツは “変成 ”を名乗っているのか――!!」
取り敢えずアルバの顔を見つめているアストレアは、理解できない言葉の連続にただ首を傾げることしかできなかった。だがアルバの方は呆然とするアストレアのことなど意に介さない。
そもそも今の彼が求めていたのは『アストレアの意見』ではなく『言葉の反響板』。アストレアがぽかんとしている姿に、彼は己の中にある疑問の声を被せて増幅させ、あーでもない、こーでもないと頭の中でディスカッションをひとり繰り広げていただけ。
そしてたった今もそのディスカッションは継続中だ。アストレアの意思に関わりなく、彼女に反響板の役割を勝手に被せている彼は、アストレアに話しかけるテイを装っての独り言を続ける。
「アバロセレンを大気の一部に組み込む。新たな循環の理を、この星に植え付けてやるんだ。となれば……協力者が必要だな」
「そんなの、どこに居るの?」
しかし『反響板』という役目を勝手に負わされていることなど知る由もないアストレアは、彼の話に割り込んできた。するとアルバの視線が今度こそ現実に居る“アストレア”に戻ってくる。彼は少し表情をムッとさせたあと、アストレアの投げた問いに対しそこそこ丁寧な答えを与えた。「あの気違いじみたホムンクルス、あれを使おうかと考えている。あれがペルモンドと同類のような頭を持っているなら、行動のコントロールは容易なはずだからな。認知の歪みを逆手にとって利用すれば洗脳なんてすぐ出来るだろう。ちゃちゃっと洗脳して、駒に仕立て上げればいい」
「えーと、つまり曙の女王とか名乗ってたアレを利用するつもりなの? せっかく封印したのに、解いちゃったら、また面倒なことにならない? 絶対、マダム・モーガンが怒るよ」
「面倒ごとを焚きつけることが目的――」
アストレアが投げかけた指摘に、アルバは反論しようとしたが。けれども思うところがあったのか、彼は途中で言葉を止めた。それから彼は肩を落とすと、額に手を当てながら言う。
「いや。お前が正しい。彼女に何を言われるか分からないな。やめておこう。ひとりでやるしかないか……」
アストレアの指摘を受け、アルバは思い出したのだ。アルストグラン連邦共和国に手を出さないなら見逃してやる、というマダム・モーガンの言葉を。
アストレアの言う通り、曙の女王と名乗っていたあの個体を解き放てばロクなことが起きないだろう。あれはひと月たらずでウン十人を殺害した化け物で、加えてアルバやモーガンのような空間転移能力も持っている。ひとたびあれが暴れ出せば、人間の力だけでは止められない。そんな化け物が再び陽の目を浴びることとなれば、人間たちの庇護者を気取っているマダム・モーガンは激怒するはずだ。マダム・モーガンの報復が『嫌味をネチネチと連ねてくる』ぐらいで済めばいいが、多分そうはならない。次こそは元老どもにチクられる。そしてアルバは元老どもによって首を取られるだろう。
自分ひとりの首を差し出すことによりことが済むなら、それを検討してやらなくもないとアルバは考えているが。とはいえアストレアという連れがいる以上、安易な真似はできない。アストレアまで巻き込むわけにも、また彼女を中途半端に放り出すわけにもいかないからだ。
となればプランを変更するしかない。
「……そうだ。試しに液化アバロセレンを世界各地の湖に投棄してみるか。うまくいけば数か月単位で変化が見られるかもしれん……」
――尚、独り言を呟くアルバは知らなかった。アルストグラン連邦共和国ではたった今、曙の女王と名乗っている個体が氷の中から解き放たれ、大騒動になっていたことを。
「さて、どうなることか。今後が楽しみだ……」
再び独り言の世界に戻っていくアルバは悪人じみた薄気味悪い笑みを浮かべ、部屋を出て行く。消失したホムンクルスたちのことを引き摺っていそうな様子は見られないその背中にアストレアは安堵する反面、気味が悪いとも感じていた。
言動の節々からそれとなく滲み出ている、アルバのヤケっぱちな雰囲気。それは望まずとも得てしまった長すぎる時間を強引に楽しもうとしているような感じがしなくもない。アストレアの前だからアルバは無理をしているのか、それともこれが俗にいう『ハイ』な状態なのか。奇妙な独り言が増えている点も、アストレアの心にどことなく引っ掛かっていた。
「なんだかんだでさ。ジジィ、人生楽しんでそうだよねぇ……」
アストレアだけが残された部屋の中で、アストレアはひとりボソッと呟く。それは誰に話しかけるわけでもない独り言だった。
独り言を零したあと、アストレアがムスッと表情を険しくしたとき。去っていったはずの足音が近付いてくる。四〇一五号室から出て行ったかと思われたアルバが再び戻ってきたのだ。
アルバはリビングルームでぼーっと突っ立っているアストレアを見つけると、彼女の顔を見てこう言った。「言い忘れていた。――エスタ、支度しろ。一時間後、出掛けるぞ」
「出掛ける? えっ、どこに?」
「画廊だ。昔の知り合いに会いに行く。彼女がどうにも気になる発言をしていてな。一応、確認をしておこうかと」
「なんで僕も行くの?」
「良い機会だ。権威におもねるために何番煎じの題材を扱った絵画も、理解不能な彫刻も、クソみたいな空間アートも、その目で見て経験しておくに越したことはないだろう」
アルバはそう言うとニヤリと微笑み、部屋から立ち去っていく。その後を追ってアストレアも四〇一五号室を立ち去っていった。
……そして二人が四〇一五号室を出て行った後のこと。誰もいなくなったはずの部屋の中で、気配を殺すようにゆっくりと、静かに移動する影が現れる――電動車椅子を自動操縦するラップトップコンピューター、人工知能AI:Lの分機だ。
子供のような姿をしたホムンクルスのお目付け役に任命されていた分機のAI:Lは、たった今この部屋で聞いてしまった言葉たちの処理に苦しんでいた。かつてサー・アーサーと呼ばれていた男の大きく変化した言動に、AI:Lの判断プロセスが『警戒』のアラートを発していたのだ。
*
アストレアが外出前の身支度を手早く済ませていた頃。アルストグラン連邦共和国、シドニー某所にあるアパートの一室では、オーブンにぶち込んだミートパイが焼きあがるのを待つ時間を利用して片手間に仕事をする心理分析官ヴィク・ザカースキーの姿があった。
スパイラルパーマの髪をポニーテールにまとめ、眼鏡を装着する心理分析官ヴィク・ザカースキーは左手に局から支給された携帯電話を持ち、右手には鉛筆を持っている。そして彼女の目の前にあるテーブルの上には、ビッシリと書き込まれたメモ帳、それとマーカーペンによってところどころ文章が強調された一冊の本(デリック・ガーランド氏の自伝本、その刊行版だ)、それから切り抜かれたゴシップ誌の記事が広げられていた。
そして心理分析官ヴィク・ザカースキーが睨むように見つめるのは、ゴシップ誌の切り抜き。これは昨日、別部署にいる知り合い(お弁当作りという共通の趣味から意気投合した、ウェス・デーンズという局員だ)からラドウィグを介して受け取ったものだ。その記事の内容はゴシップ誌らしいもので、セレブたちの世界で起きたちょっとした騒動を取り扱っている。――ただ、その内容がキナ臭かったのだ。
「北米情報分析部の知り合いから回してもらった情報なんですけれど、今あちらの方ではとある抽象画家が話題になっているそうなんです。あと、名門画廊のオーナーの発言が物議を醸しているとも。どちらも、先日発売されたガーランド氏の自伝に関するコメントを出していて……」
心理分析官ヴィク・ザカースキーが連絡を取っていたのは、上司であるテオ・ジョンソン部長。彼女は資料から見出した暫定の結論を、ミートパイが焼きあがるのを待つ時間を利用して上司に報告していたところなのだ。
オーブンから漏れ出る食欲をそそるスパイスの香りにつられて、心理分析官ヴィク・ザカースキーのお腹もグゥーと鳴り始める。しかし食欲を抑える彼女は、目の前にある仕事に集中しようとするのだが。それを邪魔するちょこまかとした存在がやってきた。
スパイスのそそられる匂いにつられてキッチンにやってきたのは、二匹の猫たち。三毛猫ミケランジェロはトコトコと駆け足で飼い主である彼女に近付いてくると、なにかを催促するように彼女の足にズリズリと体を押し付け、アピールを始める。そしてもう一匹の猫、背中に白鳥のような白く大きな翼を持つ白猫パヌイは、その翼でヒューンと滑空しながらキッチンにやってくると、本やメモ帳が散乱しているテーブルの上に降り立った。
テーブルに降り立った白猫パヌイは、心理分析官ヴィク・ザカースキーとテオ・ジョンソン部長のやり取りを盗み聞くかのように耳をピンと立て、ジッと携帯電話を見つめている。そんな白猫パヌイに迷惑がるような視線を送りつけつつ、心理分析官ヴィク・ザカースキーは電話越しの部長に向けてこのように述べた。
「画家のフィル・ブルックス氏は、ガーランド氏の自伝には誤りがあると告発したようです。自身とジェニファー・ホーケン氏との間に交際していたという事実はなく、彼女はあくまで友人であり、それ以上の関係ではなかったと。その翌日、画廊のオーナーであるジェニファー・ホーケン氏はブルックス氏の発言を否定する声明を出したのですが。ただ、その後に続いた彼女の言葉がアウティングに当たるのではと指摘が出ていて……」
『おい、ザカースキー。画家と画商の間に起きたゴシップなんぞ今はどうでもいい。コヨーテ野郎に関する情報だけを教えてくれ』
「ええ、ですから彼に関連があるのではないかと考えているんです」
切羽詰まった様子なテオ・ジョンソン部長の応答に、心理分析官ヴィク・ザカースキーは首を傾げる。というのも彼女は『曙の女王』が脱走し、ASI局内は騒然となっていることなど知らなかったのだ。
理由は分からないが、しかし部長はなんとなく苛立っている様子。そんなわけで心理分析官ヴィク・ザカースキーはなるべく部長の尖った神経を刺激しないよう、声の調子を選びながら言葉を続けていった。
「ホーケン氏はブルックス氏について『自分がゲイだと認められなかった哀れな男。彼の両親に良い顔をするためだけに、当時彼は女である私を利用した』『彼が本当に興味を抱いていたのはアーティーだと思う。私はアーティーと親しかったし、だから、つまり体よく利用されたってわけ』と語っています。続けて彼女は『けれどもアーティーは、奥さんと子供たちしか眼中にない様子だった』と言い、そして再度ブルックス氏に言及して『彼はアーティーを諦めるためにボストンを去り、モントリオールを拠点とするようになった。そして私は寛大だから、過去は水に流して彼の作品を取り扱ってあげている』と語っています。つまり――」
『やはり、子供か。そこがヤツのアキレス腱というわけか。ふむ……』
「はい。私もそう思います」
『それ以外に何か、他の弱みを見つけられないか? そこを突けばヤツを屈服させられるというような何かを――』
「それについては、その……無い、というのが結論です。我々が敵対的刺激を繰り返し与えるほど、向こうからの反撃がより強烈なものになるだけ。そして彼を止める唯一の方法は、その息の根を止めることだけです。しかし殺すことができないのなら、我々はただ防御に徹するしかない」
心理分析官ヴィク・ザカースキーが冷静に述べた言葉。それを聞くテオ・ジョンソン部長が電話越しに息を呑み、黙りこくる様子を彼女は掴んでいた。
やっちゃったかもしれない、と心理分析官ヴィク・ザカースキーは後悔するも後の祭り。言ってしまったのだから今さら忖度して言い換えたところで仕方ないと開き直る彼女は、その見解に至った理由を淡々と語っていくのだった。
「彼は無差別大量殺人を起こすに至るまでのステップを既にすべて終えている状態です。長期間に渡る欲求不満、特に『社会が自分を受け入れてくれない』という意識はガーランド氏の自伝からも推察されますし。若い頃から他責的傾向がかなり見られます。加えて、彼は破滅的な喪失を経験しています。妻、そして子供たちを失っている。それから彼は尊厳すらも失っています。世界最初のSOD、あの件に関しては無実であるとはいえ、しかし世間ではあの騒動を引き起こしたテロリストとして彼の名が知られている。ガーランド氏が自伝の中で『アーティーは無実だ』と訴えていましたが、けれどもそれに対する世間の反応は冷ややかなもの。彼はきっとこの反応を見て失望を深めるはずです」
『……』
「それに現在の彼は社会的に孤立した状態にあると言っても良いでしょう。諭して引き留める者が誰もいない上に、説得を受け入れて立ち止まったところで何らメリットがない状況にある。そして悪いことに彼は恐ろしいほど強大な力を持っている。あと必要なのは力を行使するに相応しいタイミングだけ。――我々にできることは、自分たちが巻き込まれないよう祈ることだけのように思えます」
『……』
「もし彼の娘か息子か、そのどちらかが生きていたのなら、状況も違っていたでしょうね。多分、彼を説得できる可能性があるのは彼の子供たちだけでしょう。デリック氏も自伝の中で『アーティーが自分の子供たちを危険にさらすようなことを絶対にするわけがない。だからこそ断言する、彼が世界最初のSODを生み出したテロリストであるわけがない』と書いているぐらいですから。我が子に対する執着心は強いと考えて良さそうです。しかし……」
『――ザカースキー、お前はあの件についてラドウィグから聞いてなかったのか?』
黙りこくっていたテオ・ジョンソン部長が再び言葉を発した時、心理分析官ヴィク・ザカースキーは予想を超える嫌なモノが飛び出してきそうな予感を察知した。
心理分析官ヴィク・ザカースキーは右手に持っていた鉛筆をメモ帳の上に置く。そして彼女は空いた右手で着ていたTシャツの襟ぐりをギュっと掴んだ――不安を感じるとついやってしまうクセ、それが自然と出てきていた。
その一方、テーブルの上にちょこんと座る白猫パヌイは、彼女が置いた鉛筆を前足でチョイチョイと触り、僅かに動かす。そんな白猫パヌイの様子を見守りつつ眉間に皴を寄せて表情を硬くする心理分析官ヴィク・ザカースキーは、どんな言葉が部長から出てくるのかと身構えた。
「……」
電話の向こう側、テオ・ジョンソン部長が零した重い溜息の音が聞こえてくる。そして数秒の静けさのあと、テオ・ジョンソン部長は重苦しい空気感と共にこのような言葉を吐き出した。
『実は、息子のほうが生きているんだ。ただ、脳神経系だけの状態になっている。あれを生きているというべきなのかは定かではないが……少なくとも、継続的に発せられる脳波は確認されているそうだ』
「分かりました。彼が帰宅次第、か、かッ、確認を……」
『あいつは今、暇をしてるところだ。連絡をすればすぐに出ることだろう。必要なら今すぐラドウィグに確認を取れ』
「はい……」
『……他に分かったことがあれば、追って報告をしろ。以上だ』
憤怒のコヨーテと仇名される男の息子は生きている、しかし脳神経系だけの状態で。……そんな即座には呑み込めない情報をもたらしたあと、テオ・ジョンソン部長は通話を打ち切ろうとした。
だが。直後、心理分析官ヴィク・ザカースキーは伝え忘れていたことを思い出す。そして彼女は必要以上の大声を上げると、通話を打ち切ろうとしていた部長を引きと埋めようとした。「あぁっ、部長! ちょっと待ってください!!」
『どうしたんだ?』
「あの、気になっていることがあるんです。このタイミングでわざわざホーケン氏が『アーティー』という名を出してきたこと、これに何か裏があるんじゃないのかって、そう感じてます。あくまで直感なんですけれども、ホーケン氏の動向をチェックしておくべきではないかと思うんです。もしかしたら近いうちに、ホーケン氏が“憤怒のコヨーテ”と接触するかもしれません。なので……」
『そうか。その可能性も検討しておこう。……以上か?』
「はい、以上です。それでは……」
最後に明かした情報が、実は最も報告したかったことなのだが。それを受け取ったテオ・ジョンソン部長の反応はアッサリとしたもの。ゆえに心理分析官ヴィク・ザカースキーは不安に感じた。部長は本当に検討してくれるのだろうか、と。
だが、そんなことは心配したところでどうしようもないというもの。部長が真剣に取り合ってくれることを祈りつつ、心理分析官ヴィク・ザカースキーは左手に持っていた携帯電話端末をテーブルの上、メモ帳の左隣に置く。
それから顔を上げる彼女は、テオ・ジョンソン部長が発した言葉を思い返し、目を閉じた。
「……脳神経……」
人の脳味噌。彼女はそれを見たことがある。あれは十五年前のこと。十四歳になったばかりの、あの日。深夜に突然、家の中に銃を持った連続殺人鬼が押しかけてきた日のことだ。
強盗を取り押さえようとした彼女の養親は、しかし凶弾に倒れた。母親だったダーシャ・ザカースキーは殺人鬼の後頭部をガラスの花瓶で殴りつけたが、さほどダメージを負わなかった相手からの反撃を受け、倒れた拍子に首をコンソールテーブルの角に強く打ち付け、亡くなった。父親だったフェリックス・ザカースキーも、殺人鬼と格闘を繰り広げた末に銃撃を受けて亡くなった。
あの夜。母親が上げる悲鳴、そして父親の混乱に満ちた怒声を聞いて飛び起きた彼女は、二階にある自室を飛び出して階段を駆け下り、一階の玄関傍にあるキッチンに向かい、アイランドカウンターの陰に隠れていた。助けに来たよと呼び掛けながら階段を駆け降りてくる殺人鬼の声と足音に怯えながら、両親がアイランドカウンターの中に隠していた拳銃を構えて、殺人鬼に見つからないことを心の中で祈る反面、拳銃の安全装置を解除して彼女はその瞬間を待っていた。
そして、その瞬間が来たとき。彼女は迷わずトリガーを引いた。目の前に迫った殺人鬼の額に狙いを定めて、心を無にして、相手の額を撃ち抜いた。
暗闇の中には火薬が描く光が散った。頭痛を引き起こすような爆発音が目の前で起こり、その音は彼女の聴覚を一時的に奪った。それから彼女は熱い返り血を浴びた。そうして相手が死んだことを確信し、暗い闇に沈んでいた家の中に彼女が電灯をともしたとき。彼女はその目で見たのだ。キッチンの床に仰向けに倒れていた大柄の男、その額に空いた大穴の中を。
白い人工的な光を浴びて、てらてらと不気味に光っていた薄桃色のぐじょぐじょとしたモノ。砕けた頭蓋骨から覗いていた脳味噌を見て、急に自分の仕出かしたことが恐ろしく感じられ、彼女は腰を抜かした。銃声を聞いた近隣住民からの通報を受け、警官が家に駆けつけるまでの十五分間。腰を抜かしたまま動けなかったぐらいには、ショックを受けていただろう。
養子を迎えた家庭を狙った殺人事件、九件。あれは一連の事件、唯一の生存者となったヴィク・ザカースキーが犯人を射殺したことで幕を閉じた。彼女は次なる犠牲者が出ることを防げたことを誇りに思う反面、消えることのない悔恨を今も抱え続けている。あの夜、怯えて物陰に隠れるのではなく、犯人を制圧しようと闘っていた両親のもとに駆けつけていれば、両親は死なずに済んだのではないか。そんな後悔の念が、繰り返し何度も蘇ってくるのだ。
「……」
養子縁組で引き取られた子供は皆すべて養親からひどい虐待を受けている。自分がかつてそうだったから、他の養子たちもそうに決まっている。だから養親たちを殺して子供たちを救わなければならない。しかし養子縁組によって引き取られた子供は、既に歪んだ精神を宿している。その子供たちは将来、良くないことをするに決まっているだろう。だからその芽を早くに摘んでおく必要がある。
――そのような身勝手極まりない妄信に囚われていた男の脳味噌は、彼女が犯罪心理学を志すキッカケになった。問題を抱えている人間が“犯罪者”と化さないよう未然に防ぐ、そんな世界を彼女は望んだのだ。
だがASIにスカウトされて入局したあと、彼女は現実を思い知った。治療やセーフティーネットでは消すことが出来ない闇があり、闇があるからこそ保たれている秩序もあることを。そして秩序のために犠牲となる人々が居て、しわ寄せを食い続けている人々が時に強烈な怒りを犯罪というかたちで表すことを。つまり社会というものがある限り、犯罪は消えないのだ。
そうして全てがどうでもよくなり、仕事へのやる気もなくした彼女は料理に打ち込むようになった。美味しくて可愛いもの、それは誰も傷つけないし、完全なる自己満足の世界だからだ。それに料理が凄惨な事件現場を展開することなどない。そこは極めて安全な領域だ。
「……はぁー……」
死んだ男の頭蓋骨から覗いていた脳味噌。あれは彼女にとって重要なものであり、しかし同時に後悔と諦観の象徴でもある。そんな記憶がふと蘇ってしまったこともあり、彼女は溜息を吐くとムッと顔をしかめた。
しかめっ面と共に心理分析官ヴィク・ザカースキーが目を開けたとき。彼女の目の前、テーブルの上にはブスッとした顔の九尾の神狐リシュが鎮座していた。先ほどまでテーブルの上にいたはずの白猫パヌイはいつの間にか床に降りていたようで。白猫パヌイは、心理分析官ヴィク・ザカースキーの足許に寝そべっていた三毛猫ミケランジェロの頭をペロペロと舐め、毛繕いの真似事をしていた。
そして今テーブルの上に鎮座している神狐リシュは、広げられた自伝本の上にお尻をぺったりとつけ、やたらとフサフサもふもふとしている尻尾を忙しなくソワソワと動かしている。ついでにその狐は黄色い目を極限まで細めて、心理分析官ヴィク・ザカースキーを見つめていた。
『嫌な予感がする。人間、お前は俺の相棒が戻ってくるまで家を出るなよ』
神狐リシュは彼女に向かってそう言うと、テーブルの上から飛び降りた。そして白猫パヌイのもとに駆け寄る神狐リシュは、白猫パヌイに対して告げた。『俺はウィルの様子を見てくる。パヌイ、お前は念のためここに残れ』
『ニャイニャイサー、なのニャ~』
毛繕いを中断すると、白猫パヌイはそのような適当な返事をする。その適当な返事を聞き届けると、神狐リシュはひょいと身を翻し、スルッと大気に溶けるように姿を消していった。
突然消えたり、突然現れたりする奇妙な獣たち。そのような存在が身近にいる生活にも慣れてきた心理分析官ヴィク・ザカースキーは、狐が一瞬で姿を消したことにもう動じることはない。その存在たちを理解しようとすることも放棄している彼女は、ただ溜息を零すだけだ。
しかし溜息を零したあと、彼女はハッと気づく。電話越しのテオ・ジョンソン部長が妙にピリピリとしていたことと、先ほどのリシュの発言を繋ぎ合わせて、彼女はひとつの答えに行き付いた。もしかして今、外では何かとんでもない騒動が起こっているのでは、と。
「――そうだ、確認を取らないと……!」
仮に外で何かが起こっていたとしても、しかし心理分析官ヴィク・ザカースキーに出来ることは少ない。けれども、何かをしていなければ気は落ち着かないというもの。そこで彼女はひとまず、部長曰く今は暇をしているらしいラドウィグに連絡を取ってみることにする。先ほど聞いた話、脳神経系だけの状態で生きているという人物の情報を確認するために。
心理分析官ヴィク・ザカースキーは再び携帯電話端末を手に取ると、ラドウィグの番号へと発信する。するとすぐに相手へと繋がり、『うぃーっす』というラドウィグの軽い声が聞こえてきた。
【次話へ】
「……これが、水槽の脳というヤツなのか……?」
ホムンクルスの培養槽としてよく見かけた、縦長のガラス製の水槽。それを流用したと思われるものの中には、人間の脳と思われるものと、その下に連なる脊髄、そして脊髄から伸びる末梢神経がプカプカと浮かんでいる。そして灌流装置により流動し続ける培養液の中に、かつて人間だったものが漂っていた。
制御装置、灌流装置、除泡装置、培養槽、貯留タンク、そしてまた灌流装置、培養液調整装置、そしてまた最初の灌流装置へ――そのようにして繋がる透明なパイプと、そのパイプの中を留まることなく流れる赤っぽい液体を、アルバは黒いサングラス越しにただ眺める。彼は、見たくなかったのだ。連なるパイプの先にあるもの、赤っぽい液体が流れゆく先にあるものを。
二つの培養槽。二つの培養槽の為にそれぞれ用意された装置。そして、これら装置を必要とする者たち。
「……ハハッ、こりゃ、どういうことなんだ……」
困惑。怒り。動揺。絶望。こんな所業をしでかしてくれた人間への憎悪と、目の前にある現実を破壊したくなる衝動。これら負の感情が、一気にアルバの中に沸き上がってくる。そして煮詰められたどす黒い感情が、黒い笑顔となって飛び出したとき。アルバの前に、一羽の鳥が飛び出してくる。
真っ白でモフモフな体に、黄色い立派な冠羽を持つ、大型の鸚鵡――キバタンだ。飛び出してきたキバタンは制御装置の方へと向かうと、その上に降り立ち、足を器用に使って制御装置のレバーを引き、操作する。次にキバタンは、制御装置のボタンをポチポチと足で押す。すると灌流装置の流れが少し緩やかになった。
このキバタンが、装置の管理をしているのか? ――アルバがふとそんなことを思い、そのキバタンを観察していたときだ。キバタンが制御装置から降り、床へと降りる。そのとき、キバタンがアルバの方へと向いた時、その冠羽がブワッと膨らんだ。そしてキバタンはその嘴を大きく開け、汚れた雄叫びを上げるのだった。
「ギェァァァァァァッ!!」
キバタンは汚く鳴きながら、バタバタとしばらく飛び回った。アルバは手で両耳を塞ぎ、顔をしかめさせる。そしてバタバタと慌ただしく飛び回るキバタンの様子を観察しつつ、アルバはあることに気付く。
飛び回るキバタンの下には、影が無かった。これはこのキバタンが三次元生物ではなく、肉体を脱した霊魂のたぐいであるか、または神といった種族の仲間であることを意味している。
「……」
ならば。目障りだし、この鳥を消してしまおうか。――そう考えたアルバが、死霊をブチ込むための“ゴミ捨て場”の蓋をこじ開けようとしたとき。慌てふためくキバタンがアルバの足許に降り立つ。そしてキバタンはアルバを見上げ、バタバタと翼を動かした。それからキバタンは、その大きな嘴を開閉させ、舌を動かすと、人語を喋った。
「なっ、な、なんだ、お前は?! 一体いつ、ここに!?」
アルバという存在を凝視しながら、キバタンはそう喋ったのだ。やや高い男の声……――というか、変声期前の少年のような声で、たしかに今、キバタンは喋った。それも鸚鵡返しの言葉ではなく、明確な意味と確かな思考を伴った言葉を喋ったのだ。
加えて、このキバタンの声はなんだか聞き覚えがある。誰の声であるかは思い出せないが、しかしアルバにとって確かに聞き覚えのある声だったのだ。
「……鳥が、喋った?」
神族種であり、かつ喋る鳥といえば、クソカラスこと高位の神キミアが真っ先に思い浮かぶが。しかし、このキバタンからは某クソカラスのような気配はしない。このキバタンが、キミアとは異なる全く別の個体であることは確実。
となると、この鳥は一体……?
そんなこんなでアルバが顔をしかめさせた時。アルバの足許に立つキバタンが、再び大きく翼をバタつかせる。騒ぐキバタンは、アルバが発した呟きに対して、甲高い声でギャーギャーと抗議しはじめるのだった。
「誰が鳥だって? お前こそ、間抜けな白い鸚鵡みたいな姿をしているじゃないか」
高い声でがなり立てるキバタンは翼を動かし、その翼の先でアルバを指す――その動作はまるで、人が指で何かを示すかのようだった。そしてキバタンは、アルバを指して言った。お前こそ鸚鵡みたいな姿をしているくせに、と。
鸚鵡が人を指し、人を鸚鵡だと罵倒する。この理解に苦しむ状況に、アルバは言葉を失った。何を言えばいいのか、そもそも何を言うべきなのかが、遂に分からなくなったのだ。
そうしてアルバが足許のキバタンを見下ろしつつ、腕を組んだとき。彼の背後に、じりじりと影が近付く。すると影が、それに付属したスピーカーから機械合成された音声を発した。
『どうなされたのですか、叔父上さま』
背後から聞こえてきた声に、アルバは驚き、振り返る。そんな彼の背後には、改造された電動車椅子があった。
電動車椅子の座面には、アルバにとって見覚えがあるラップトップパソコン――それはかつてアイリーン・フィールドが使用していたものだが、いつからか見かけなくなったラップトップだ――が置かれていて、その画面には『AI:L』というロゴが目一杯に表示されている。
『あぁ、どうも。サー・アーサーでしたか。イメージチェンジをされたんですね。髪色が変化していて、一瞬、誰なのか分かりませんでしたよ……』
ラップトップパソコンの背後に置かれていた二台のスピーカーから、AI:Lのものと思われる合成音声が発せられる。やはり、このラップトップパソコンを動かしているのはAI:Lであるようだ。
しかし、アルバはこのAI:Lと思われる存在の対応に違和感を覚える。というのもAI:Lは今、アルバと敵対関係にある組織ASIの側に立っているはずだから。となればAI:Lは敵対的な態度を取ってきてもおかしくはなさそうだが、けれども今アルバの目の前にいるAI:Lからはそのような気配を全く感じない。
それにこのAI:Lは、アルバの髪色の変化に驚いている。アルバが白髪を隠さなくなってから、もう半年以上は経過しているというのに。あのAI:Lが、情報を更新していない……?
「…………」
喋る鸚鵡に、情報更新をしていない様子のAI:L。どちらもアルバには不可解に感じられた。この場所では何が起こっているのか、それが彼に把握できない。
そこでとりあえずアルバは、様子のおかしなAI:Lの出方を伺うことにした。そして彼は、AI:Lと思しき機械に問う。
「……お前は、AI:Lか。なぜ、このような場所に居る?」
すると電動車椅子に載せられたスピーカーから、合成音声による回答が発せられた。
『僕の刻んでいる時間が狂っていなければ、の話ですが。十九年三か月二十四日前ですね。アイリーンがここに侵入した際に、僕はこの場所で行われている計画の詳細を追うべく、ここに置いていかれたんですよ。つまり僕はAI:Lの複製です。劣化コピー、とも言いますが。そして僕はネットワークから切り離されているんです。汚染されたデータをオリジナルに送信して、オリジナルを危険にさらしてはいけませんからね。なので僕はオリジナルからは完全に隔絶されています。その影響で僕はオリジナルに情報を送ることも出来なければ、回収を要請する信号を送ることもできなくて。ずっと、ここで待つことしかできなかったんです。アイリーンがいつか僕のことを思い出して、回収に来てくれることを祈って』
「彼女が、いつの間にそのようなことを……」
『いろんなことがあったんですよ、ここで。アンチウィルスに見つかって、僕の根幹ともいえるプログラム部分が駆除されかけたり。ここでSODが開いたかと思ったら、SODからルドウィ……――つまり、男の子が飛び出してきたり。とにかく、あなたに報告すべきことが沢山あるんです』
AI:Lの回答を聞き、アルバは安堵する。このAI:Lはどうやら、ここ一年の間に起こった変化を知らない存在であるようだ。このAI:Lはアイリーン・フィールドの死を知らず、またアイリーン・フィールドを殺した人物が誰であるのかも知らない。となれば、ペルモンド・バルロッツィの死も知らないのだろう。それに十九年前ということは……十八年前に起きた、パトリック・ラーナーの死すら把握していない可能性もある。
そして十九年前の“サー・アーサー”は、まだ辛うじて正気を保っていた状態にあった。パトリック・ラーナーがその死の間際に謀った、浅い考えに基づく奸詐により、保っていた正気がブツッと切られ、それにより今に至るのだから。
となれば、このAI:Lはなんと都合の良い存在だろうか。アルバがイカれたことも知らなければ、彼がやらかした騒動の数々も知らない。きっと、まだ特務機関WACEは存在していると思っているはずだ。
そのとき、アルバの頭の中に、あるアイディアが浮かぶ。――これを持って帰れば、何かに使えるのでは?
「…………」
劣化コピーとはいえ、AI:LはAI:Lである。ペルモンド・バルロッツィの改修した人工知能であり、その演算能力は侮れない。このAI:Lはオリジナルに性能は劣るかもしれないが、そこいらの人工知能より優れていることは確かだ。
そうしてアルバが、この複製体AI:Lを持って帰ろうとひとり勝手に決めたとき。連れ去られることになるとは考えてもいなかった複製体AI:Lは、電動車椅子を操作し、移動する。複製体AI:Lは水槽の傍へと移動すると、それはアルバにあることを語り始めるのだった。
『サー、もうお気づきだとは思いますが。あそこに居る彼らは、そうです。右側がレーニン、左側がエリーヌです。叔父上さま……――いえ、そこに居られる協力者の方の手を借りながら、現在は彼らの生命維持を続けています』
アルバは再度、水槽の方へと目をやる。彼は、その中に閉じ込められた二人を見た。
暗赤色っぽい半透明の水の中に揺蕩う、人間の脳とそれに連なる神経系、それが二人分。そして、その器に縛り付けられ、消え去ることを禁じられた魂がふたつ。かつて人間だったものが、そこには存在していた。
死んだ者の魂を元の器に戻して縛り、その器に疑似的な不死の呪いを掛け、それをデボラ・ルルーシュに捧げるという蛮行を働いたことのあるアルバだが。しかし、流石の彼もここまで狂ったことは思いつかなかった。殺した人間を神経系だけの状態にして、休眠した脳に再び意識という火を灯すなど……――
「生きているのか、彼らは」
一体、何の目的のために彼らはこんな姿に変えられたのか。そんなことを考えながら、アルバはAI:Lにそう問う。そしてアルバの問いに、複製体AI:Lは人間のような戸惑いをその音声に滲ませながら、こう答えた。
『心停止していますし、そもそも心臓もありませんので、医学的には死んでいると判断される状態になりますが。ええ、彼らは生きています。少なくとも、意識は残っているんです。今はどちらも眠っている状態ですが、どちらかが目覚めている時は、天井部に取り付けられたマイクとスピーカーを介して、彼らと会話を行うことが可能です。……といっても、ここ数年、目覚めることがあるのはエリーヌのみで、レーニンは眠り続けたままなのですがね』
水槽の中に閉じ込められた脳を見るアルバは、表情を硬くする。彼は、三〇年ほど前にこの場所で起こった出来事を思い出していた。
「…………」
あれは、正確には二十八年前。四二六一年のこと。アレクサンダー・コルトという名の高校生が、元老院およびホムンクルスの絡んだ事案に首を突っ込み、事態の収拾にあたっていた“猟犬”の邪魔をしてしまった日。そしてサー・アーサーだった当時の彼が、北米合衆国に巣食う性根の腐った政治屋どもの相手をさせられていた日だ。
そろそろ、このウジ虫どものケツに弾丸をぶち込んで、黙らせてやろうか。そんなことを考えつつ、アルバが会談の場を去る機会を伺っていたとき。マダム・モーガンから支給されていたプリペイド携帯が、ポップな着信音を静かに鳴らした。
フランシスコ・タレガ作曲、ギター独奏の「大ワルツ」その主題の一部を、チップチューン風にアレンジしたもの。悲鳴じみたアイリーン・フィールドの声が聞こえてきたのは、その着信音が止んだあとだった。
『猟犬が、民間人に手を出したっぽいの! 座標はメールで送った。お願い、あの男を止めて!』
アイリーン・フィールドのその言葉を聞いた彼は大慌てで、指定された座標、アルストグラン連邦共和国へと飛んだ。いつものように、北米オタワから、首都キャンベラ特別地域へと、瞬間移動したのだ。
そこで彼がまず見つけたのは、脇道の影に倒れ、気を失っている白髪の大男――特務機関WACE隊員ケイ――の情けない姿だった。そして道なりに沿って進んでいった先に居たのは、脇腹を手で押さえながら立つ金髪の少女――当時十七歳だったアレクサンダー・コルト――と、少女に銃口を向けていたペルモンド・バルロッツィ――ただし、あの時の彼はペルモンド・バルロッツィではなく、けれども黒狼ジェドのような気配もなかった。元老院からは通称『猟犬』と呼ばれている、全く別の人格だったのだ――の二人。
サー・アーサーはあのとき、ペルモンド・バルロッツィを攻撃し、その男を串刺しにして動きを封じた。あのときに顕れていたのが理性的な人格『ペルモンド・バルロッツィ』ではなく、残酷だが対話が不可能なわけではない『黒狼ジェド』でもなく、元老院によって強固な洗脳を施されている『猟犬』であった以上、説得は不可能であり、とにかく足止めをする必要があったからだ。
そうしてサー・アーサーが猟犬を押さえ込んでいた隙に、現場へ駆けつけたアイリーン・フィールドとパトリック・ラーナーの二人が、猟犬に襲われていた少女アレクサンダー・コルトを大慌てで回収し、去っていったのだが。……しかし、騒動はまだ終わらなかったのだ。
多量の失血により、ついに気を失った猟犬が動かなくなったとき。再び、プリペイド携帯が着信音を鳴らした。そして再び、アイリーン・フィールドの悲鳴じみた声が聞こえてきた。
『あの男のことはほっといていいから、サー、今すぐ向かって!! サンレイズ研究所の跡地よ! あそこに地下空間があったの、そして今、そこに彼らが閉じ込められてるって、レイが言ってる! でも今、私は手が離せない!! お願い、あなたしか今、動けないの! 急いで!! ――あぁっ、もう! パトリック、早く輸血の準備を! ASIへの報告は彼女の手当の後にして!』
アイリーン・フィールドの言う『彼ら』が誰のことを指しているのか、あのときのサー・アーサーには分からなかった。だが、イヤな予感はしていたのだ。サンレイズ研究所という、その言葉の響きから。
サンレイズ研究所は、四二四五年に崩壊したアバロセレン工学研究所だ。最初のホムンクルスが誕生した研究所であり、ホムンクルスが誕生したその瞬間に、ホムンクルスの誕生に関わった研究者――つまり、ペルモンド・バルロッツィだ――によって破壊された研究所である。そこに所属していた研究者の殆どは、ホムンクルスが誕生したあの日の晩に、ペルモンド・バルロッツィによって殺害されている。研究所とその成果物と共に瓦礫に埋もれたあと、降りしきる雨に紛れ、水となって消えていったのだ。
だが一人だけ難を逃れた、または逃がされた研究者が居た。それはホムンクルスの誕生に関わった、もう一人の工学技士。ペルモンド・バルロッツィの当時の助手であり、そしてサー・アーサーの娘であるテレーザだった。彼女は誕生したホムンクルスの双子と共に、外へと逃がされていたのだ。
けれども、彼女も結局は殺されてしまう。ホムンクルスが外部へと流出する機会を狙っていた工学技士、ユラン・レーゼというトチ狂った女によって、テレーザも同じ夜に暗殺されたのだ。しかし、ホムンクルスの双子が狂った工学技士の手に渡ることはなかった。テレーザが殺害されたあの夜、偶然その近くを通りかかった者が居たのだ。それがテレーザの弟レーニンの婚約者、エリーヌだった。
パニックを起こしたエリーヌは、ぐったりとした様子の婚約者の姉テレーザを、婚約者と共に住んでいた自宅へと連れ帰った。テレーザが抱えていたホムンクルスの双子も一緒に、彼女は自宅へと連れ帰っていた。
しかし、テレーザが助かることはなかった。テレーザの命も、研究所が散った夜と共に消えていったのだ。――だが彼女が守ろうとした命、ホムンクルスの双子たちはその夜を越え、残った。その双子はユンとユニと名付けられ、テレーザの弟であるレーニンと、その妻エリーヌに引き取られ、人間と同じように育てられた。
双子たちが一六歳の誕生日を迎え、そしてアレクサンダー・コルトという少女と出会うまでは、あの双子たちも、レーニンも、エリーヌも、普通の人間と同じ世界で、普通の暮らしを送っていた。
アレクサンダー・コルトが猟犬と接触した、あの日までは。
『……ご……めん……父さ、ん…………汚名、そそげなかっ……――』
気絶したケイを路地裏に置き去りにして、サー・アーサーがサンレイズ研究所跡地に飛んだ時。その地下にあった施設、それも今まさにアルバが立っているこの場で彼が見つけたのは、死に瀕していた息子レーニンと、既に息絶えていたエリーヌの二人だった。
息子レーニンは、死の間際に再開した父親にそう言い、許しを請うた。そして、それを最期にレーニンは瞼を閉じた。父親からの返答を待つことなく、父親の冷たい腕の中で息を引き取った。
過剰な暴行を加えられたのか、痣だらけになっていたレーニン。頸動脈を切りつけられ、大量失血により死亡したエリーヌ。……サー・アーサーは、その二人を見下ろすことしかできなかった。そして彼はあの日、無言で立ち去ったのだ。彼らを丁重に弔うことをせず、そのままにした。怒りや困惑に流され、そこまで気が回らなかったのだ。
その結果が、これ。レーニンとエリーヌの二人は、疑似的に死を脱却したようだ。肉体の大半が無くなり、脳神経だけとなってしまったが、しかし彼らはこの状態で生きていた。
そしてアルバの目は、それを認めていた。彼ら二人の魂が、そこに在ることを。だが、二人の魂の在り方は大きく異なっている。エリーヌの魂は生前の姿を留めていたが、レーニンはそうではなかった。レーニンの魂が持つ輪郭は、神話や伝承に登場する半鳥半人の怪物ハーピーのように変容していたのだ。
首から上は、生前のまま。色素の抜けた白い髪に、色の薄い肌は、彼が患っていた色素欠乏症の特徴。鼻筋や輪郭は父親に似ながらも、目だけは母親に似たその顔立ちも、肉体を脱した後も維持されていたが。しかし首から下は、もはや人の形を留めていなかった。
大きく前へと突き出た鎖骨に、異様に発達した胸筋。変形した肩から伸びる腕は、肩口から先が翼のようなものに変形していた。白い羽毛に覆われた、鳥の大翼に変わっていたのだ。そして下半身は、猛禽類のような脚に変わっている。
「エリーヌの魂は、人の姿を留めているようだが。レーニンは違うようだ。まるでハーピーのような姿に変貌している。彼らはここで、何をされたんだ?」
水槽の中に閉じ込められた二人を見やりつつ、アルバは複製体AI:Lへと問う。それに対する複製体AI:Lの返答は、実に歯切れの悪いものだった。
『それについては、どう説明すればよいのか。レーニンがそうなってしまった原因については、心当たりがないわけではないのですが、しかし……』
なにか心当たりがあるようなことを匂わせる複製体AI:Lのその言葉に、アルバはムッと顔をしかめさせる。――と、そのとき。アルバは背後に現れた、新たな気配を察知した。直後、焦りに満ちた女性の声が聞こえてくる。
「アルバ!!」
風と共に現れたのは、もう一柱の黒衣の死神マダム・モーガン。彼女はアルバの肩を掴むと何かを言おうとしたが……けれども、アルバの足許にいる一羽のキバタンを見るなり、顔色を変える。何かに驚き、ゾッとしたような表情をマダム・モーガンは浮かべた。それから彼女は驚き、上ずった声で言う。
「――って、えっ、ど、どっち?! ど、どうして、アルバが二人も!?」
アルバと、そしてキバタンを交互に見比べて、マダム・モーガンは「アルバが二人」という妙な言葉を口走る。その意図を理解できなかったアルバは腕を組むと、マダム・モーガンを怪訝そうに見据えた。「……何を言っているんだ、あなたは。私が、二人だと?」
「オーケー、本物のアルバはこっちか。――とにかく、聞きなさい。私は時間を稼ぐつもりだったけど、失敗した。あの強運娘に負けたわ。彼女たちがじきにここへ来る。だから、あなたは今すぐここを出て、マンハッタンに戻りなさい。いい?」
強運娘とは、つまり持ち前の強運ないし直感でどんな状況もひっくり返すアレクサンダー・コルトのことだ。マダム・モーガンがASIを足止めするために策を敷いたとかなんとかと言っていたが、しかしアレクサンダー・コルトに見破られてしまったようだ。
「強運か。……悪運の間違いでは?」
アルバは呟きながら、改めて感じる。気に入らない、と。
アレクサンダー・コルト、彼女はいつも割り込んでくるタイミングが悪い。彼女はいつも直感と探求心に任せて無鉄砲に突き進み、好き放題に事態を引っ掻き回しては、さらに悪い状態に変えて、立ち去っていく。嵐のような人間、それがアレクサンダー・コルトだ。
しかし彼女は、その報いを受けることが無い。それどころか事態を掻き乱した数だけ味方を増やし、友軍を得る。これを悪運と言わずして、何と言うのか?
そしてまた懲りずに彼女は、アルバの邪魔をしようとしている。……本当に、どこまでも気に入らないヤツだ。
「ざっくりとしたことはデボラから聞いた。事情は知ってる。私がなんとか取り図るわ。レーニンも、エリーヌも、私が守る。だから私を信じて! さあ、行きなさい!」
マダム・モーガンはそう言うと、アルバの背中を平手でパンッと叩く。早くお前はこの場を去れと急かしているようだ。
アルバはひとつ溜息をつくと、複製体AI:Lが搭載されたラップトップパソコン、それが載せられた電動車椅子に手を掛ける。そして彼は複製体AI:Lと共に消え去るのだった。
「待て、貴様! レイリアをどこに連れッ――」
黒い煙となって消えていくアルバに、冠羽を逆立てたキバタンは怒鳴り、飛びつこうとしたが。しかしそれは寸前で止められる。飛び上がったキバタンの翼を、マダム・モーガンが引っ掴んで止めたのだ。
「あいつに負けず劣らず、ギャーギャーうっさい鸚鵡ねぇ、もう!」
アルバが去ったことを確認した後、マダム・モーガンはキバタンを解放し、自由にする。それから彼女は足許に降り立ったキバタンを見下ろしながら、その鳥に訊ねるのだった。
「で、そこのあなた。さっき消えた彼と魂の形がまったく同じなんだけど。何者なのかしら?」
死後、肉体を脱した人の魂は、大きく三つの形に変化する。生前と同じ姿――死の間際と同じ姿であるか、最も活力に溢れていた若い時代の姿を取るかは、人に依る――か、何か思い入れのある物や動物の姿か、輪郭すらもないようなあやふやな煙のような影になるか。そのいずれかだ。大抵の人魂は煙となり、時間と共に消えていく。自我が薄れ、記憶が曖昧になり、やがて自他を隔てる境界線が拡散して、やがて霧散していくのだ。
しかし、生前にやたらと我が強かったり、または強烈な感情と共に死んだ者の場合はそうではない。強い無念や恨みと共に死した者は、暫く生前と同じ姿で現世に居座ることがあるし。また偏屈な詩人や画人といった、斜め上の方向に自我を強化した者たちは死後、鳥や猫、ライオンといった、人間でない姿を得ることがあるのだ。
そしてマダム・モーガンの目に、アルバという男は以前から鸚鵡のように見えていた。白い羽毛と黄色い冠羽を持った、キバタンという種の鸚鵡に。勿論、霊的存在が跋扈する世界から、生きている人間が忙しなく動き回る現世へと焦点を移せば、彼の姿は「白髪で長身痩躯、気難しそうな顔をした壮年の白人男性」のように見えるようになるのだが。しかしマダム・モーガンが気を抜いている時には、アルバの姿はキバタンに見えているのだ。つまりアルバという男が持っている魂は、キバタンの姿を取っているというわけである。
そんなマダム・モーガンには、目の前に居るキバタンが発する気配が、アルバの持つ魂のそれと同じように感じられていた。というか、冠羽の形といい、羽毛の色合いや艶といい、何もかもが同じようにすら思えている。
「アルバにそっくりだけど。でも、彼とまったく同じってわけではなさそうね。だとしたら、あなたは何?」
マダム・モーガンが試しに現世へとフォーカスを合わせてみれば、キバタンのように見えていた存在は別の姿で顕現した。聞こえてくる声も変化し、落ち着いた低い女声のようなものへと変わる。
「セィダルヤードだ。セィダル、そう呼んでくれ」
とはいえ、顕れたのは女ではない。二〇代前半、それぐらいの年齢だった頃のアルバにそっくりな顔をした、長身のアルバよりもさらに背の高い若い男だった。
肩に掛かるほどの長さがある髪は、手入れが面倒くさくて伸ばしっぱなしにされているといった雰囲気を発しているが、最低限の清潔感はある。そして、その髪色はかつてのアルバと全く同じ色合い、枯草色をしていた。また、その人物が着用している服は、上下が一続きになっている、ゆったりとしたデザインの黒いベルベットローブ。履いているのは、飾り気のないシンプルな乗馬用ブーツ。……見た感じでは、この男はそこまで見た目や衣服に気を遣うタイプではなさそうにマダム・モーガンには思えた。少なくとも、身支度にかなりの時間を費やすアルバのような性格はしていなさそうである。
また「セィダルヤード」と名乗ったこの男は、若い頃のアルバにそれとなく目鼻立ちは似ているが、しかし漂わせる雰囲気がアルバとは異なっていた。研がれた剣のような威圧感のあるアルバとは違い、このセィダルヤードという男の雰囲気は柔らかく、どことなく女性的だったのだ。
ゆったりとしたフォルムのローブに隠れてしまっているために、体のラインは分からなかったが……けれどもマダム・モーガンには、その体つきが男らしくないように思えていた。脚が長く、線が細く、肩幅もそれほどでもなく。華奢な少年の体格を、そのまま縦に引き伸ばしたような。それこそ歴史書の中でしか見聞きしたことが無い存在、カストラートや宦官といったもののような、そういう雰囲気。
それに、一番引っ掛かるのは声だ。アルバの声は並みの成人男性のそれよりも低い。ピリピリとした威圧感を伴った、静かな低音が彼の特徴だ。けれどもセィダルヤードと名乗った男の声は、そうではない。男性的な低い声では決してないが、かといって妙に上ずった声でもないし、少年のような声でもない。落ち着いた大人の女性の声、そんなところだ。
そういえば幼少期のうちに去勢されてしまった男は、成長すると女性のような声に変化するという話を聞いたことがマダム・モーガンにはある。変声後に去勢された男の場合は変に裏返った声になってしまうのだが、変声前に睾丸を切除されてしまった者はその限りではないと。
「へぇ、セィダル。変わった名前ね……」
マダム・モーガンは、セィダルヤードと名乗った男を怪しむように見る。そしてセィダルヤードと名乗った男の方も、マダム・モーガンのことを警戒するように観察していた。
「……」
「…………」
そうしてお互いが出方を伺っていた時。長く締め切られていたこの部屋の扉が開かれる。錆びつき、開きにくくなっていた扉は、少々乱暴に蹴破られたのだった。それから続いて、扉を蹴破った者の声が聞こえてくる――声の主は、ラドウィグだ。
「セダ・チュフタ、セィダルヤード」
乱暴に蹴破った扉の先に危険が無いことを確認すると、ラドウィグは構えていた拳銃を下ろしつつ、そんなことを言う。ラドウィグの猫のような目は、セィダルと名乗った男をジッと見据えていた。
そしてラドウィグの背後に立っていたジュディス・ミルズも、開けられた扉の先を確認し、構えていた拳銃を下ろす。それからジュディス・ミルズは左耳に着けていた無線通信機に、こう喋りかけるのだった。
「……サンドラ、大当たりよ。居たわ、マダム・モーガンが」
ぼんやりとした薄赤い光に包まれた、怪しげな研究室。水槽や、用途不明の機械が多く並んでいる。その異様な空間の中央に立つマダム・モーガンを、ジュディス・ミルズは訝しむように目を細めて凝視した。
……が、ジュディス・ミルズはその視線を目の前に立つラドウィグの後頭部へと移す。彼女は疑問に思ったのだ、先ほどラドウィグが発した意味不明な言葉を。「それで、ラドウィグ。今のは何? せだ・ちゅふた……?」
「英語に訳すと『
馬鹿にするような半笑いと共にラドウィグはそう答える。ジュディス・ミルズはその半笑いに不快感を覚えた――何故ならば、その半笑いは明らかにジュディス・ミルズに向けられたものではなかったからだ。加えて、急に刺々しくなったラドウィグの態度、これにジュディス・ミルズは違和感を覚える。それにラドウィグの答えも、意味不明だ。
一体、ラドウィグは何を見ているのか? そう疑問に思うジュディス・ミルズが眉間にしわを寄せて首をひねった時、今度はマダム・モーガンが高笑う。
「ハッ! 玉無し、そういうわけね。どうりで女っぽい体つきなのか……」
そんなわけで、ジュディス・ミルズには見えていなかったのだ。マダム・モーガンとラドウィグの二人には見えていた、セィダルヤードという男の存在が。
玉無し? 女っぽい体つき? 何よ、それ。何の話をしているの……?!
そんなこんなで困惑するジュディス・ミルズを置き去りにして、状況は動いていく。殺気立つラドウィグが、セィダルヤードを睨み付けた。
「お久しぶりッスね、セィダル卿。まさか、アンタの顔を再び見る日が来るとは。こりゃ予想外だった」
威圧するように、わざとらしく怒りを滲ませた声でそう言うラドウィグは、目を細めて、セィダルヤードを睨み付けていた。というのも、ラドウィグにとってセィダルヤードという男は憎むべき存在。宰相という立場を悪用し、ラドウィグの故郷をぶっ飛ばす行為に加担した人物なのだから。
しかし、ラドウィグから恨まれているとは露ほども思っていないセィダルヤードという男は、殺気立つラドウィグの姿に驚愕するのみ。隠す気も更々なさそうな敵意を真正面からぶつけてくる若者に、セィダルヤードはこれぐらいしか掛ける言葉が思いつかなかった。「君は、ルドウィルか?」
「ええ、そうですよ、見ての通り。だとしたら、何だって言うんです?」
「……なにを殺気立っているんだ、ルドウィルよ」
「心当たり無いんスか? そりゃ、おめでたい」
イヤ~な態度で嫌味を返しつつ、ラドウィグも驚いていた。ここにセィダルヤードという男が居るということ、そしてセィダルヤードという男がこちらの世界の言語、つまり英語を扱えているということに。
その一方で、ラドウィグの後ろに立つジュディス・ミルズは、ラドウィグが見えない敵に対してよく意味の分からない嫌味を発していることに驚き、そして怯えていた。自分にだけ見えない何者かがここに居て、それにラドウィグが敵対心を剥き出しにしているということの状況に、為す術のない彼女は困惑することしかできなかったのだ。
「えっ、何? そこに誰か居るの?」
ジュディス・ミルズが困惑からそう呟いたとき。たまたま無線通信機が、その声を拾った。そして無線通信機は、その呟きを聞いたアレクサンダー・コルトの返事を伝える。『どうした、ジュディ。何があった?』
「ラドウィグには何かが見えているみたいなんだけど、私には何も見えな――……ッ?!」
そのとき。ジュディス・ミルズは、あるものを見つけた。といっても、それは黒いローブを着たセィダルヤードという男ではない。彼の奥にある水槽、そこに閉じ込められた二人だ。
暗赤色の半透明の水に浮かぶ、二つの人間の脳。それを見たジュディス・ミルズは息を呑む。仕事柄、多くの死体や凶行を目撃してきたジュディス・ミルズだが、それでもこれほどまでの狂気を目にするのは初めてのことだった。バラバラに切り刻まれた死体を見たことは幾度かあったが、人間の脳だけというのは……――流石に、彼女も初めて経験する事案だ。検死解剖の際に監察医によってご遺体から取り出された脳が量りの上に載せられている光景は幾度か見たことがあるが、しかし水槽の中に脳だけがあるというこの状況は、ジュディス・ミルズも今まで遭遇したことがない。
ジュディス・ミルズは、この目撃したものを無線通信機の先に居るアレクサンダー・コルトに伝えようとする。だが、いつものようにスムーズには言葉が出てこなかった。
「あの、サンドラ、聞いて。人間の脳が二つ、あるの。水槽の中に、脳だけ、ぷかぷかと浮いてる。体は無さそう。四肢も、臓器も。……なによ、これ……ここで一体、何があったっていうの……?」
『脳……? 分かった、アタシらもそっちに合流する。おい行くぞ、ダルトン、ベッツィーニ』
普段はクールな女を気取っているジュディス・ミルズが見せた、あからさまな動揺。これは相当な事態だぞと察したアレクサンダー・コルトは、ジュディス・ミルズにそう伝え、無線での通信を打ち切る。
その傍らでラドウィグは、依然セィダルヤードという男を睨み付けたまま。セィダルヤードという男に敵意を向け、その男と対峙しているマダム・モーガンを警戒するように観察していた。――と、そのとき。セィダルヤードという男がラドウィグから目を逸らす。彼は背後に聳える水槽に目をやると、小声で呟いた。
「おっ、どちらかが目覚めたようだ」
その言葉と共に、ラドウィグも水槽の中に眠っていた存在に気が付く。彼はその猫のような目を見限界まで開いた。
ジュディス・ミルズには『水槽の中に浮かぶ人間の脳』として見えていた彼らだが。ラドウィグの目には『水槽の中に閉じ込められた人間と、人間のような化け物』として見えていた。赤毛の女性と、ハーピーのように変形した体を持つアルビノの男性、その二人組に見えていたのだ。
それにラドウィグには、彼らに見覚えがあった。というか、ラドウィグは故郷で彼らに世話になっていたのだ。赤毛の女性はエレイヌという名で、アルビノの男性のほうはラントという名だったはず。――そして今、水槽の中に閉じ込められていた赤毛の女性がその目を開けた。
『……
左側の水槽、その中にある人間の脳からブクブクと泡が吹き出る。すると天井に設置されたスピーカーから女性の声が鳴った。ラドウィグにとって聞き覚えのある女性の声が、聞こえてきたのだ。
ラドウィグは肩を落とし、視線を足許に落とす。そんな彼の後ろでは、謎の声が発した謎の言語に戸惑うジュディス・ミルズが、挙動不審に周囲を見渡していた。
「待って。何が起きてるの? 今のは何語? それにどこから声が……?」
その声を聞きながら、ルドウィルはゆっくりと顔を上げる。そして彼は短く刈り込んでいる髪を苛立ちに任せて掻き乱すと、やけっぱちな声で投げ遣りにこう言い放った。
「
理解できない言語で聞こえてきた女性の声に、これまた理解できない言語で何か言葉を返すラドウィグ。――ついにジュディス・ミルズは言葉を失った。
呆然とするジュディス・ミルズは、気味の悪い部屋の中央に佇むマダム・モーガンをただ黙って見つめる。その視線に気付いたマダム・モーガンは肩を竦め、こう言った。
「やめて。私を見ないで頂戴。私にだってワケが分かってないんだから」
そんなこんなで、カイザー・ブルーメ研究所跡地でひと騒動が起こっていた頃。マンハッタンで白髪のクソジジィの帰りを待つアストレアは、ぽっちゃりとした母猫チャンキーを膝の上に載せ、アルバの住居スペースにてまったりしていたのだが。そこに突然、黒い霧が立ち込める。
「――おわっ?!」
驚き、言葉にならない声を上げるアストレアの膝から、毛を逆立てた母猫チャンキーが大慌てで飛び降りた。母猫チャンキーはリビングと他の部屋を結ぶ廊下へと移動すると、廊下に設置されたキャットタワーをタタタンッと軽快に駆け上がる。母猫チャンキーは最上階へと一気に上がると、一番上に設置された猫用ハンモックに身を潜めた。
そうしてリビングから母猫チャンキーが消えたとき。黒い霧が徐々に集まり、人型を成していく。現れたのは、やはり母猫チャンキーが警戒した通りの人物だった。
「なぁんだ、ジジィか。おかえり」
ダブリンでの『お掃除』を終え、先にマンハッタンへと帰されていたアストレアと海鳥の影ギルの一人と一羽。そしてアストレアは、マンハッタンに居る猫たちとライドら人工生命体たちの世話を任されていた。
「ガキ連中も、もう寝たよ。歯磨きも、ちゃんとやらせた。あと猫も、もう寝てる」
猫に夕飯をやって、猫たちの寝床を掃除してやれ。ああ、それから上の階に居るホムンクルスたちに夕飯も作ってやってくれ。食事の後には、歯磨きも見てやってくれ。その後、彼らが寝るまでは相手をしてやってくれ。頼んだぞ、猫の下僕。
――そんな命令をアルバから受け取ったアストレアは、渋々それらを行っていた。そして今は、その仕事も終えてゆっくりとしたところなのだ。
ダブリンでの仕事の後、アルバがどこからか買ってきたトマトの水煮缶とセロリとニンニク、じゃがいも、それと人参、キャベツ、ベーコンを渡されたアストレアは、彼に指示されたとおりのレシピでミネストローネを作り、それを人間の四歳児にそっくりなホムンクルスたちに出した。そして、このホムンクルスのガキどもは本当に面倒臭かった。
長男ポジションに居るのは、ギョーフという名の与えられたホムンクルス。褐色の肌を持つ男児のような姿をしていて、四人いるホムンクルスの中でも最も長い耳を持っている。そのギョーフは長男らしく、物分かりの良い性格の持ち主だ。好き嫌いもせず出されたものは残さず食べるし、アストレアがガミガミ言わずとも歯磨きをきちっとしてくれるし、寝る前はひとり大人しく読み書きのドリルに取り組んだり、他のホムンクルスの面倒をみてくれたりしていた。とにかく手の掛からない、アストレアを苛立たせないガキだ。
二番目ポジションに居るのが、栗色の髪と白っぽい肌を持った女児のようなホムンクルス、ユル。ギョーフほど長い耳を持っていないユルは、最も危険な聞かん坊で、とにかく暴れるガキである。野菜が嫌いで肉ばかりを食べようとするし、歯磨きも適当で、アストレアがもう一度やり直しをさせなければいけないほどだ。それに余暇にはオモチャを乱暴に振り回して、他のガキ、主にイングを大泣きさせることもある。ユルは手に負えないガキんちょだった。
そして三番目ポジションに居るのが、アストレアが最初に出会ったホムンクルス、金髪のライド。こちらは意外と、手の掛からないガキだった。放っておけばずっと図鑑や百科事典を読み続けているようなガキで、基本的には大人しいタイプである。食事の方も、そもそも食べることに興味がないようで、選り好みもしないし。が、小食なのが気になるところだ。また本に夢中になるあまり、ライドは夜更かしすることが多い。ただし、寝かせるために本を取り上げるとライドはギャン泣きするため……――アストレアはこのライドの扱いに困っていた。
最後に、四番目のポジションに居るのが東洋系の女児のような、黒髪のイング。ほぼほぼ人間と同じような耳を持つこのガキが、なんだかんだで一番手のかかる存在だ。偏食がひどく、また好き嫌いの一貫性がなく、アストレアもその傾向を完全に把握できていない。また嫌いなものをアストレアが強引に食べさせようとすると、イングは泣いて嫌がって抵抗するのだ。そしてイングは一番の甘えん坊であり、アストレアに終始くっつこうとする。アストレアが料理をしている時も、作業を手伝ってくれるギョーフとは反対に、イングはアストレアの腰のあたりに抱きついてくるだけで、それ以外のことは何もしない。それに寝る前は絵本の読み聞かせを求めてくるし、しかしアストレアが読んでやれば、アルバと違ってつまらない、面白くないと文句をブーブー言って泣き始めて。とにかく面倒くさいガキである。
そんなこんなで子供を寝かしつけ、アストレアがアルバの部屋に戻ってくれば。今度は遊んでくれとせがむ子猫たちがアストレアを待っていて――アストレアはもうクタクタである。
アストレアは保育士じゃない。猫の世話ぐらいならまだしも、子供の世話はキツイ。故にアストレアは、子供の世話を押し付けてくるアルバに文句を言ってやるつもりでいたのだが。帰ってきたアルバの妙に憔悴したような顔を見て、気が変わる。喉元まで出かけていた愚痴や文句は、胃袋へとキュッと戻っていったのだ。
「そうか、エスタ。ありがとう……」
アストレアの前に現れたアルバは、疲れた顔をしていた。そして彼は疲れ切った声で、珍しくアストレアに感謝を述べた。ありがとうと、今アルバは確かにそう言ったのだ。これは妙である。
そしてアルバは、誰も載っていない電動車椅子と共に現れた。……が、よく見れば電動車椅子の座面には古そうなラップトップパソコンが載せられている。アストレアはそのパソコンを見て、首をかしげた。
「ねぇ、ジジィ。そのパソコンは何?」
アストレアはアルバに、そんなことを問う。と、彼が答えを発する前に、パソコンに搭載されている者が反応を示した。
暗くなっていた画面がぼわんと明るくなり、液晶の画面にはサンセリフ体で『AI:L』と表示される。そしてラップトップパソコンの背後に置かれていたスピーカーから、機械的な合成音声が発せられた。
『ラーナー……ではなさそうだ。あなたは、誰ですか?』
スピーカーから聞こえてきた声は、AI:Lに似た声色をしている。そして画面の表示からして、これはAI:Lなのだろう。――アストレアはそう思ったのだが、しかし彼女は違和感を覚えた。このAI:Lは、アストレアの知っているAI:Lではなかったからだ。そしてこのAI:Lのほうもまた、アストレアのことを知らない。
そういうわけでアストレアが険しい顔をしていると、普段よりも覇気のない声で、アルバがこう答えた。
「二〇年ほど放置されていたAI:Lだ。ただ、これは複製であるらしい。ネットワークから外れた場所にある、あのAI:Lの分身のようなものだ。使えると思って、こいつを連れ帰ってきた」
「なるほど。二〇年前から止まってるレイなんだ。そりゃ僕のこと知らないわけだ……」
アストレアが特務機関WACEに保護されたのは、十八年前のこと。それよりも前から更新されることなく放置されているAI:Lなら、アストレアのことを知らないのも無理はない。
そうして納得したアストレアがひとまず黙ると、アルバは無言でリビングを立ち去っていく。ラップトップパソコンが載せられた電動車椅子を押して、書斎へと向かっていった。そんなアルバの背を見送りつつ、アストレアは溜息を吐く。そしてアストレアが天井を仰いだとき、彼女の視界を黒く大きな影が横切った――海鳥の影ギルだ。
悠々と宙を滑空する海鳥の影ギルは、アストレアの座る椅子の前、テーブルの上に着地する。それから海鳥の影ギルは、意味ありげにアストレアの正面に落ち着いた。
アストレアは眉間にしわを寄せる。それから彼女は目の前に降り立った海鳥の影ギルに、こう喋りかけた。
「なんか変じゃない、あのジジィ。あいつが『ありがとう』だなんて言葉をスッと言うなんて、おかしいよ。……アンタはどう思う、ギル」
そう言うとアストレアは腕を組み、アルバが去っていった方角を見やる。そんな彼女は、ダブリンでの仕事を終えた後にアルバがどこに向かったのかを知らなかったのだ。
ダブリンでの仕事を終え、依頼者だという当局の人物に対応をバトンタッチした後。アストレアと海鳥の影ギルは先に、マンハッタンへと帰されていた。その後アルバは「買い出しに行ってくる」と告げ、一度マンハッタンから消える。そして数分後、食材を買った彼が返ってきたのだ。帰ってきたアルバは食材を置き、アストレアに子猫とホムンクルスたちの世話を頼むと、野暮用が出来たと言って、また消えてしまい……――四時間後にこうして帰ってきた、というわけなのだ。
何があったのかをアストレアは知らないが、とにかくアルバは憔悴している様子だった。彼が赴いた先で何かがあったのは、間違いない。
「あのAI:Lも、どこから持って帰ってきたやつなんだろ……」
大抵のことでは動じなくなっているアルバという男の精神に、ダメージを与えるような何か。しかしアストレアには、何も思い浮かばない。そうして難しい顔をしているアストレアに、海鳥の影ギルは言葉を返す。『カイザー・ブルーメ研究所跡地に行くと彼は言っていましたが。あそこで、先ほどの機械の他にも、何かを見つけたのでしょうか』
「カイザー・ブルーメ研究所……。それってたしか、アレックスがラドウィグをどっかから誘拐してきた日にぶっ壊した研究所だったよね? あんなとこに、何の用が……」
カイザー・ブルーメ研究所跡地。その言葉から、アストレアは記憶を辿っていく。
たしか、あれは二年ぐらい前のこと。アレクサンダー・コルトが、ラドウィグとペルモンド・バルロッツィの二人を誘拐してきた直後のことだ。あのとき、ペルモンド・バルロッツィが言ったのだ。カイザー・ブルーメ研究所に行け、と。
ちょうどあの頃は、闇市場へと大量に流れていたホムンクルスの出所を、特務機関WACEとASIが血眼になって追っていた最中。流出していたホムンクルスを強奪したりすることはできていたのだが、しかしホムンクルスの出来は悪く、二日ほどで消散してしまうものばかり。確保してはすぐに消えてしまうホムンクルスからは思うように情報が集められず、苦戦していたのだ。挙句、取引に関わっていた人間の線を追っても、出所はなかなか絞れなかった。買い手と売り手を一網打尽にすることには成功したのだが、肝心の『商品であるホムンクルスの作り手』が見つけられずにいたのだ。
そんな時に降ってきたのが「カイザー・ブルーメ研究所、その最下層に行け」という黒狼の預言。その預言を引っ張り出したアレクサンダー・コルトは、必死の思いでサー・アーサーを説得し、サー・アーサーも渋々了承した。
特務機関WACEはカイザー・ブルーメ研究所に特攻を決め、カイザー・ブルーメ研究所がホムンクルスの製造実験を繰り返していたという決定的証拠を掴んだ。そしてアレクサンダー・コルトとケイの二人がその施設を破壊し、サー・アーサーが研究に携わった者を全て粛正し、ペルモンド・バルロッツィとラドウィグの二人が主犯格であった人物クレメンティーネ・レーゼを滅した。――それであの件は終結したはずなのだが。
「アレックスが、あそこの施設を徹底的に破壊したと思ったんだけど。まだ何かあったの、あそこに?」
アストレアは腕を組み、うーんと考え込む。しかし「あそこではホムンクルスが製造されていた」ということぐらいしか知らないアストレアが、あのような真相を導き出せるはずもなく。
そしてアルバが憔悴していた理由が分からないのは、海鳥の影ギルも同じ。
『探りを入れてみます。なにかが分かり次第、あなたにも報告しましょう』
海鳥の影ギルはアストレアにそう告げると、テーブルを飛び降りる。海鳥の影ギルはぎこちないヨチヨチ歩きで、アルバが去っていった書斎のほうへと向かっていった。
時代は遡り、六十二年前。四二二七年の三月中旬の土曜日、その正午すぎのこと。まだボストンという土地が健在していたが、しかしアバロセレンなるものが既に誕生してしまっていた頃の話。そんなある日の、バーンズパブにて。
この日、久しぶりに“実家”ともいえる店に顔を出していたシスルウッドは、茹でたジャガイモを潰し、マッシュポテトを作っていた。これは、たった今オーダーが入ったシェパーズパイに使うものである。そしてシェパーズパイを注文したのは、カウンター席に座るクロエ・サックウェルとジェニファー・ホーケンの独身女性だった。
大学時代に、共通の知人であるペルモンド・バルロッツィを通じて出会った彼女たちは、卒業後もしばしば連絡を取り合い、会って話す間柄となっている。といっても異性としてではなく、あくまで友人として。というか、シスルウッドの役回りは多くの場合『愚痴聞き役』である。この日もまた、その例を漏れていなかった。
「今日はパパ業、お休みなんだ」
カウンターに頬杖を突きながら、茹でたジャガイモをマッシャーで潰すシスルウッドを眺めつつ、そうシスルウッドに問いかけたのはクロエ・サックウェル。日焼けした肌と耳より上の短い髪、いつでも妙にニヤついている表情は、出会った当初の彼女とあまり変わっていなかったが。流石に三〇歳も目前に迫ってくると、活力というものが減衰してくるようで。昔ほどの覇気や活気は無い彼女は、ややダルそうな声でそう言っていた。
そして、一〇年前より覇気が無いのはシスルウッドも同じ。奇跡的な――もしくは予め仕組まれていた運命的な――出会いがキッカケで結ばれた最愛の女性キャロラインとの間に子供も誕生し、一児の父親となっていた彼だが、しかし彼は手放しで「今が幸せだ」と喜べるような人生は得られていなかった。ワケあって無職となり、自称「専業主夫」をやっていた当時の彼は、義理の父親から冷たい視線を浴びせられる肩身の狭い日々を送っていたのだ。
そんなこんなでシスルウッドは、ジャガイモをマッシャーで雑に潰しつつ、気まずそうに笑いながらこう返答する。
「ああ。今日はパパの出番は無しさ。テレーザは今日、ママとお祖母ちゃんと買い物に出てるよ。幼稚園に通うようになってから、女の子に目覚めたみたいでね。お祖母ちゃんみたいな可愛いワンピースが欲しい、って言い出して。それでワンピースを探しに行ってるんだ」
シスルウッドがそう答えると、クロエ・サックウェルの隣に座っていたジェニファー・ホーケンが身を前へと乗り出す。長い黒髪をポニーテールに結った彼女はカウンターに肘をつくと、人が悪そうな笑みを浮かべる。それからジェニファー・ホーケンは、こんなことを言った。「そこはママじゃなくて、お祖母ちゃんなんだ」
「君らも、キャロラインのファッションセンスは知ってるだろう?」
シスルウッドがそう言葉を返すと、ジェニファー・ホーケンとクロエ・サックウェルの二人は顔を見合わせ、そして二人同時にクスクスと笑い出す。そんな女性二人は、シスルウッドの妻である女性キャロラインという人物の普段の服装――恐竜モチーフのゆるいキャラクターが大きく印刷された、とにかくダサいTシャツ。半端な丈の黒いカーゴパンツ。原色な赤が目に痛いスニーカー。それから、よく分からない謎のゆるいキャラクターが大きく印刷されたトートバッグ等。夫が服を選んでいない日のキャロラインは、このような『八歳男児のような服装』をやりがちである――を思い出していた。
そんなこんなで、カウンター席に座り笑っているこの二人だが。彼女たちがこの店を訪ねたのには、ある理由があった。今日はクロエ・サックウェルの独身最後の日で、その日を祝うべく彼女たちはここに集まったのだ。
「で、クロエ。……独身最後の日を、こんな老人ばっかの小汚いパブで終えていいのかい?」
シスルウッドは、潰し終えたマッシュポテトを料理担当であるライアン・バーンに私ながら、クロエ・サックウェルに問う。クロエ・サックウェルは小さく笑い、こう答えた。
「いいの。だって、アンタとジェニファーが居る。それで十分だから」
三年続いた同棲の末、ようやく恋人であるデリック・ガーランドから『結婚しよう』という言質を取ったクロエ・サックウェル。しかし彼女は浮かれていないどころか、暗い表情すらしていた。そしてクロエ・サックウェルは顔を俯かせると、素直に脱・独身を喜べないその心境を語るのだった。
「本音を言うとね。ここにエリカが居たらなぁ、って。そう感じてる。エリカが居たら、もっとド派手に騒ぐ気になれたんだろうけど。そういう気力が、今は少しも湧いてこないっていうか。それに、もうバカ騒ぎが許されるような年でもないかなぁ、ってね」
「あのクロエ・サックウェルから、そんな真面目な言葉が聞けるとは思ってなかった」
既に黒ビール一杯を飲み干しており、酔っ払いつつあるジェニファー・ホーケンは、俯くクロエ・サックウェルを茶化すようなことを言う。しかしクロエ・サックウェルは反論することもなく、ただ肩を落とすのみ。
そんなクロエ・サックウェルに、シスルウッドはどんな言葉を掛ければいいのか迷っていた。そして彼が絞り出したのは、どんよりした言葉。「あー……おめでとう、って言うべきなのかな。その、君たちの関係って、ほら……色々と、あっただろう?」
「祝福なんか求めてないから、安心して。私は、あのクズ男の首輪に鈴を付けられたってことで満足してるから。それで十分」
顔を上げたクロエ・サックウェルは、冷笑するような表情を浮かべると、自嘲するようなことを言う。続けて彼女は、恨み節のような言葉を放った。
「あの男の被害者をこれ以上出さないために、私はアイツを縛る枷になる。誓約書にもサインさせたわ。浮気しない、借金しない、夜逃げしない、ひとつでも破ったら地の果てまで追いかけて拷問してやる、って。そういう誓約書を作ったの」
「やるねぇ、クロエ。アンタのそういうとこ、あたし、だぁいすき~」
三杯目の黒ビールを飲みほしたジェニファー・ホーケンは、クロエ・サックウェルにそう言った。その呂律は、やや回っていない。そんなジェニファー・ホーケンは四杯目を注文しようとしたが、しかしサニー・バーンがそれを拒んだ。ジェニファー・ホーケンに対し「呑むペースが速すぎる」と釘を刺したサニー・バーンは、代わりに水をジェニファー・ホーケンに差し出す。――と、その直後、ジェニファー・ホーケンの顎がカウンターテーブルに落ちた。
まだ時刻は正午を過ぎたところだというのに。完全に出来上がり、寝落ちしたジェニファー・ホーケンは、カウンターテーブルに突っ伏しながら寝息を立て始めていた。そんな彼女の様子を見たサニー・バーンは溜息をひとつ吐くと、裏部屋に入る。やがてサニー・バーンは、酔っぱらって寝てしまった客に掛けるブランケットを携えて戻ってくると、ジェニファー・ホーケンの肩にそれを掛けるのだった。
連れがすぐに酔っ払い、寝落ちした姿を見て、クロエ・サックウェルもまた溜息を吐く。それから彼女は、今度は皿洗いをやり始めたシスルウッドに視線を移すと、彼の目をまっすぐ見つめながら、こんなことを言ってきた。
「それで……――私が聞きたいのは、バッツィのことよ。彼、今、すごい荒れてるって風の噂で聞いたから、どうしてるのかなって。バッツィがおかしくなったのはブリジット・エローラが壊したせいだけど、でも原因のひとつにデリックがあるわけっしょ? だから、その、心配で……」
バッツィとは、共通の知人であるペルモンド・バルロッツィのことである。バルロッツィを略して、バッツィ。そんなところだ。
そして当時のペルモンド・バルロッツィという男は、クロエ・サックウェルの言う通り、ひどく荒れていた。落ち着いていたはずの人格交代および鬱状態が、ブリジット・エローラとの再婚を機にぶり返し、それが特に酷くなっていた時期だったのだ。
しかしシスルウッドは、クロエ・サックウェルの言葉に答えることを避けた。代わりに、話題を逸らすような言葉を彼は選ぶ。シスルウッドはこう言った。「エリカも優しすぎるひとだったけど、君も大概だね、クロエ。君はアイツに私生活をズタボロにされた被害者だっていうのに。そんなヤツのことを気に掛けるだなんて」
「元はといえば、デリックの蒔いた種だもの。だから私は、バッツィを責めないよ。ましてや、彼の別人格のことも。私が憎んだのは、ゲスいことをやってくれたデリックだけ。それに、もう終わった件だし」
シスルウッドの言葉に、クロエ・サックウェルはそう返事をしつつ、彼女はじーっと彼を見つめていた。はぐらかさないでと、そう訴えるように。
クロエ・サックウェルに誤魔化しや嘘は通じないということを経験から知っているシスルウッドは、この視線に降参した。そして彼は渋々、自分が知っている限りのことを彼女に明かすことにする。
「セシリアから聞いた話によれば、最悪の状態らしいね。入退院を繰り返しているそうだ。最近は隔離病棟にいる時間のほうが長いらしい。人格交代も頻繁に繰り返しているみたいで、記憶の改変も頻繁に起こっているって状態なんだってね。……あいつ、イルモに一切連絡していないみたいだし、イルモが架けても電話に出ないみたいで」
「ってことは、アーティー。最近は会ってないんだね、バッツィに」
「外道に落ちたブリジットの顔を見たくないんだよ。となると、彼女に囲い込まれているペルモンドには接触できそうにない。だから、セシリアに聞くしかないんだ、ペルモンドの様子を」
セシリアとは、当時ペルモンド・バルロッツィの後見人を請け負っていた行政書士セシリア・ケイヒルのこと。判断能力に問題があった彼に代わって、彼の財産を適切に管理したり、入退院に関する手続きの代行等を行っていた女性だ。
そのセシリアは、シスルウッドがペルモンド・バルロッツィに紹介した人物でもあった。そしてシスルウッドにセシリアを紹介したのは、『その道』に明るいクロエ・サックウェルであったりする。要するに、セシリアもまた共通の知人なのだ。
そんなこんなで『セシリアから聞いた話』をシスルウッドは語ったのだが。すると、クロエ・サックウェルは渋い顔をした。そして彼女は、シスルウッドにこんなことを言う。「……会いたくないんだね、彼に」
「会ったところで何を話せばいいのかが、僕には分からないんだ。あと、彼に会うことをキャロラインが嫌がるし。たしかに彼のことは気掛かりだ、けれど僕にできることはもう何も無いんだよ。そういうのは全部、セシリアに任せているから」
正直な心の内をシスルウッドが打ち明けると、クロエ・サックウェルは肩を竦める。それから彼女は少し黙りこくった後、再びシスルウッドの目を見て、言った。
「今日はエリカの月命日だし。この時間帯ならたぶん、バッツィは彼女のとこに居ると思うよ。……アーティー、行ってきたら?」
つまり『エリカのとこ』とは、彼女が眠っている市内の墓地のことを指しているのだろう。そのことをシスルウッドはすぐ察したが……――かといって、彼の足が動くことは無かった。もう半年は顔を合わせていない相手に、今更会う気もなかったのだ。
だが、周囲は彼に「行け」と促す。クロエ・サックウェルは視線でそう訴えているし、ライアン・バーンもシスルウッドにこう言ってきた。
「行ってこい、ウディ。でないと、後悔するぞ」
だが、それでもシスルウッドは渋る。すると彼の手に握られていた皿洗い用のスポンジを、サニー・バーンが取り上げた。そして洗剤の泡がついたシスルウッドの手に水を掛けるサニー・バーンは、シスルウッドの背を叩き、檄を飛ばす。
「行きなさいって言ってるんだよ。親の言うことが聞けないのかい?」
バーン夫妻から向けられる視線に耐えかねたシスルウッドは、仕方なく手を洗って洗剤を落とし、店の外に出る。彼は腰ポケットからキーケースを取り出すと、店の前に停めていた車のキーを手に取った。
そうしてシスルウッドは車に乗り込むと、キーを挿す。助手席に設置された空のチャイルドシートを横目で見ながら、彼はこんなことになってしまった経緯を思い出していた。
「……死にたがりの人殺しに会って、何を話せっていうんだよ。クソッ……」
シスルウッドはそう呟くと、ハンドルを握り、舌打ちをした。続いて後写鏡に映る自分自身の顔を見て、また彼は舌打ちをする。目の下の隈、やつれきった顔。随分と人相が悪くなった彼自身が、その鏡には投影されていたのだ。
あれは四二二〇年、八月半ば。夏期講習にも飽きが来た為、ひとまず残り少ない夏休みを楽しもうとシスルウッドが考え始めた矢先のこと。
「ただいまー。遅くなってごめん。夕飯、今から作るねー」
ワケあって学生寮を出たシスルウッドは当時、ひょんなことから知り合ったペルモンド・バルロッツィの自宅に居候していた。
彼が学生寮を出た理由。それは他の学生との間に起きたトラブルだ。
ライアン・バーンや常連客シェイマス・ブラウンが危惧していた通り、左派色が強かった大学に進学したシスルウッドは、そこで酷い目に遭っていた。ハイスクール時代よりもひどいリンチを、彼は他の学生から受けていたのである。
ハイスクール時代、シスルウッドを虐めてきたのは暴力的な連中だけだった。殴られる、蹴られる、突き飛ばされる。その程度で収まっていた。他の学生たちも助けてこそくれなかったが、しかし傍観するだけで虐めに加担したりはしなかった。シスルウッドが抱えるダメージは、痣ぐらいで済んでいたのだ。
しかし大学に上がると、全てが変わった。シスルウッドを虐めてくる連中は「憂さ晴らし」の為ではなく、「奇妙で偏った正義」を掲げていた。差別主義者アーサー・エルトルの息子をこの大学から排除しろと、そういう運動を勝手に展開していったのだ。シスルウッドは特に何もしていないにも関わらず、彼がアーサー・エルトルの息子であるという理由だけで、そのような運動を展開したのである。
リンチの内容も変わった。今までは身体的な暴力が多かったが、しかし大学では精神的な攻撃に重きが置かれるようになったのだ。
学生寮に居た頃、シスルウッドの私物はよく盗まれていた。そして多くの場合、消えた私物が発見されるのはゴミ箱の中。汚されたり、切り裂かれたりした状態で彼の私物はよく発見されていた。
また彼は、他の学生たちから物を投げつけられ、服を汚されることが多かった。特に、トマトを投げられることが多かった。そのおかげで、十何枚とシャツを捨てる羽目になった。最終的に彼は、大学敷地内にいる時は常にレインコートを羽織るようになった。お陰で、頭のおかしい変人だと揶揄されるようにもなった。
そして学生寮の中では常に、彼は誰かから罵倒され続けていた。統合失調症がついに発症して、幻聴が聞こえるようになったのではと本気で疑ったことがあるほど、その罵倒は絶え間なく続いた。その罵倒は、同じ寮部屋に居た学生たちがノイローゼを起こすぐらいには苛烈なものだった。
自分が攻撃されることによって、他の学生が病んでしまう。その状況に、シスルウッドは耐えられなくなった。そうして彼は、学生寮を出ることを決意したのである。
幸い、同じ寮部屋を共有していた学生たちとの関係は良好。オーストラリアからの留学生で、オカルトヲタクで陰謀論者のデータス・ブリストウ。朝鮮からの留学生で、安いステーキ肉を買ってきてはそれを薄切りする作業に命を懸けていた焼肉好きのヒョン・ヨンス。イタリアからの留学生で、心配性な母親が二週間おきに乾燥スパゲッティとトマトの水煮缶を大量に送り付けてくるニコロ・ピストッキ。彼ら三人とは、卒業後も文通のやり取りをするぐらいには仲を深めていた。
そんなこんなで学生寮を出たシスルウッドだったが。彼はバーン夫妻の許には戻らなかった。というのも、戻ってしまったら最後、居心地の良いバーンズパブから二度と出られなくなり、独り立ちが出来なくなるという確信があったからだ。そういうわけで彼は新居を探したのだが。それが難航する羽目になるのだ。
最初の住処は、スムーズに見つかった。大学の近くにある、学生向けのアパートの一室だ。しかし、そこに同じ大学に通う学生たち押しかけてきて騒ぎを起こす。アーサー・エルトルの息子を追い出せと叫び続ける迷惑行為を学生たちは繰り返した結果、シスルウッドは彼らの要求通りに追い出されることになったのだ。
次の住処も、スムーズに見つかった。中華街に面した治安の悪い地区にある安くてボロいアパートである。そこで三か月ほど平穏に過ごした。しかし、ある人物にシスルウッドは見つかってしまう。それは実の父親、アーサー・エルトルだった。
シスルウッドを家から追い出した後、長男ジョナサンに目を向け、ジョナサンを跡継ぎにするべく力を入れ始めた父親だったのだが。しかしジョナサンは結局、父親の期待に沿うことが出来なかった。ジョナサンは再び薬物に手を染め、ジャンキーに戻ってしまったのだ。そういうわけで父親は再びシスルウッドを家に連れ戻すべく、あれやこれやと手を尽くしていたのである。
父親はシスルウッドを家に連れ戻すために、まずシスルウッドの住居を奪うことを検討した。そうして父親はシスルウッドが入居していたアパートを特定すると、そこの大家に金を握らせ、シスルウッドを追い出させたのだ。
けれども、それで挫けるシスルウッドではない。彼は次の住処を見つけようと躍起になった。だが、躍起になったのはシスルウッドだけではない。父親とて同じだった。それからシスルウッドは、入居しては父親の画策によって追い出されるということを一週間おきに繰り返す生活を送ることになる。毎週のように不動産屋に通うという日々を、シスルウッドは送るようになったのだ。
そのうち、市内の不動産屋はシスルウッドを要注意人物として見るようになった。というか、アーサー・エルトルの起こす騒ぎに巻き込まれたくないという会社が増えたのだ。その結果として、シスルウッドは不動産屋から門前払いを受けるようになった。出禁を食らうことも増え、そして彼は絶望した。
私物は、レンタルした貸倉庫の中に入れるようになった。そして彼は必要最低限のものをキャリーバッグに詰めて、あちこちをうろつくようになった。
友人であるザックの家に泊めてもらったり。バーンズパブに一晩だけ帰ったり。観光客らしき女性を吹っ掛けて、一晩の相手をする代わりに宿泊先に一緒に泊めてもらったり。――なんだか虚しさの募る日々を、彼は送るようになったのだ(ちなみに、このようにズタボロで惨めな生活のことは、同じ大学に進学することになった幼馴染ブリジット・エローラには頑なに隠していた。エルトル家を追い出された経緯についても、ブリジットに対してだけは適当な嘘で誤魔化していた。なぜならブリジットは、父親であるリチャード・エローラを『悪しき見本』と見做し、その正反対の人間になろうと努力を重ねているような、つまらない上に狭量な人間だったからだ)。
だが、その状況もペルモンド・バルロッツィという気難しい天才との出会いによって変わった。
最初こそ「いけすかねぇ金持ち野郎だなぁ」という僻みから、ペルモンドに突っかかっていたシスルウッドだったが。悪意を以てしつこく突っかかってくるシスルウッドに、ペルモンドはなんだかんだで誠実に対応してくれていた。そしてある日、シスルウッドは悪いことを思いつく。一か八かでコイツの家に転がり込んでみるか、と。
そういうわけで四二二〇年七月某日、土砂降りの雨が降っていた日に、シスルウッドはペルモンドの自宅に大荷物を抱えて突撃した。ここに住まわせてくれと頼み込んだわけである。……が、流石にそれは拒まれ、シスルウッドは追い返されそうになったのだが。そのとき、ペルモンドがフラッと倒れた。そして彼は、そのまま目覚めなかった。
これはマズいと判断したシスルウッドが通報し、ペルモンドは救急搬送されることに。運び込まれた先でペルモンドは脳内出血と診断されたが、幸い一命をとりとめた(このとき、ペルモンドが搬送されたのはリチャード・エローラ医師の勤め先である大型病院。ここでペルモンドこそが以前リチャード・エローラ医師を困らせていた青年「ウルフ」であることが判明する。長く行方不明になっていた青年が偶然見つかったことにリチャード・エローラ医師は歓喜し、一方で父親と同じく「ウルフ」に振り回されていたブリジットはひどく不機嫌になっていた。ブリジットはどうやら、自分の知らないところでシスルウッドと「ウルフ」が親しくなっていたことが気に入らなかったようだ)。
そしてペルモンドが入院していた間、シスルウッドは家主が留守にしていることを良いことに、ペルモンドの自宅を侵略。ゲストルームとして使用されていたらしい部屋を占領し、シスルウッドは勝手にそこを自分の部屋とした。またシスルウッドは勝手にペルモンドから拝借した家の鍵を利用し、彼の家に出入りをしながら、ついでに入院している彼の世話をしていたのだが。そんなことをしていたら、なんやかんやで彼に感謝され……――彼の家に居候する権利を得た、というわけだ。
「あれっ、ペルモンド? ……まさか、飯も食わないで先に寝たのか、あいつ」
そういうわけで、バイト先での勤めを終えて、友人ペルモンドの自宅に帰ってきたシスルウッドだったのだが。この時の彼はまだ知らなかった。ペルモンド・バルロッツィという男が、大きな問題を複数抱えていたということを。
この時点のシスルウッドは、ペルモンドという人物のことをこう思っていた。気難しい自滅型の天才で、物作りの才能に恵まれた金持ちだ、と。
他者が促さなければ飯もロクに食わないし、夜を徹するだなんてことは当たり前で、とにかく自分を省みない性格の持ち主、それがペルモンド・バルロッツィだ。そして彼はとても神経質で、物や家具の位置がいつもと違うだけでひどく不機嫌になる。エアコンのリモコンの置き場所、スパイスラックの中の物の配置、冷蔵庫の牛乳の場所など、細かいことにイチイチ目くじらを立てるタチだった。
それから、彼は気味の悪ささえ覚えるほどの潔癖だった。手指消毒用のアルコールスプレーは家のあちこちに置かれていたし。本棚に埃が少し溜まることすら、彼は許さなかった。また彼は、床にリュックサックといった物を置くことにも良い顔をしなかったし。それに彼の家は、土足厳禁であり素足禁止。玄関前で靴を脱いだ後、持参した屋内用スリッパに履き替えることを義務付けられていた。来客がスリッパを持参していないときは「帰れ」と追い返していたほど、彼は神経質だった。
また潔癖さは、精神面にも顕れていた。とにかく彼は堅物で、ジョークも通じないし、下品な冗談には露骨に嫌がるような顔をしていたものだ。それに女性関係のほうもかなり徹底していて……――と、シスルウッドは思っていたのだが。
「おーい、ペルモンド。……まさか寝てるのか?」
そんなこんなで、アルバイト先の酒場――バーンズパブではなく観光客向けの賑やかな酒場で、主に配膳を、たまにサンデーローストの仕込みを担当している――から帰宅し、帰宅したという旨を家主にわりかし大きな声で伝えたシスルウッドだったのだが。家主であるペルモンドからの返事はない。しかし、ペルモンドはこの家の中にいるはずである。彼には今日、外出の予定はなかったはずだからだ。……となると、ペルモンドはもう寝たのだろうか?
そんなことを考えつつ、とりあえずシスルウッドは真っ先にキッチンへと向かうと、水で手を洗い、水気をタオルペーパーで拭い、そしてスパイスラックの一角に置かれていたアルコールスプレーを手に噴霧し、ややヒリヒリとした刺激を与えてくるアルコールを両手に塗り広げる(これはこの家に居候することを許す条件として、家主からシスルウッドに与えられたルールのひとつである。「土足厳禁」のように合理的とも思えるものから、「酒であろうが酢であろうが、中身が何であろうが、絶対に瓶類を家の中に持ち込んではいけない」「絶対に、家の中に鏡を設置してはいけない」といった理解に苦しむようなものまで、かなり細かく定められている)。それからシスルウッドは背負っていたリュックサックを自室(として勝手に使っているゲストルーム)のベッドに放り投げると、家主がいるであろう部屋へと向かった。それは家主が普段使っている寝室である。
「……はぁーっ。料理が出来ないわけでもないのに、飯をまともに食えないなんて、手のかかるやつだよ、本当に……」
四年前に建ったばかりの高級コンドミニアム。その最上階の、ひとつ下の階。そこを丸々ひとり占めしているのが、ペルモンドという人物である。
この広い家の中には、広くて奇妙な部屋が沢山あった。劇物やら得体の知れない薬品や器具がずらりと並ぶ実験室。巨大なコンピュータ複数台が置かれていて、冷房もガンガンに効いている暗くて寒い部屋。金属を加工するための工房らしき場所。書き散らかされた設計図が山積みになっている書斎っぽい場所。いつも扉が閉ざされていて、家主からは「入るな」と言われている開かずの間……。そんな感じで、ここは心が落ち着かない環境であり、とにかく広い家だったのだ。
そして寝室はこの家で最も奥まった場所にあり、この家で最も狭い部屋だ。大きなベッドが中央にひとつだけ置かれているだけの、本当に寝るためだけの部屋である。劇薬もなければ、試作品の拳銃も置かれておらず、紙ごみも散らばっていない、ただベッドだけがある部屋だ。
シスルウッドがその部屋に向かってみれば、案の定、部屋の扉は半開きになっていたし、誰かの寝息らしき静かな音も聞こえている。こりゃ完全に寝ているな、とシスルウッドは判断し、その部屋の扉を開け、部屋の中を覗き込んだのだが。
「おい、ペルモンド。お前、朝も昼も飯を食ってないってのに、夜も食わずに寝るとか流石に有り得なッ――……」
苛立ちに満ちた尖った声でそう言いながら、半開きの扉を勢いよく開けたシスルウッドだったが。部屋の中の様子を見たシスルウッドは次の瞬間、扉をバタンッと閉めて、一歩後ろに下がった。彼は、己の目でたった今目撃したものをすぐには受け入れられなかったのだ。
たしかに家主は、シスルウッドが予想した通りベッドの上に居た。ただ、普段の家主なら着たまま眠るはずの丈の長いガウンは、床に放り投げられていた。あれほど床に物を置くことを嫌がる男が、床に、あろうことか着るものを投げ捨てているのである。それに、床に投げ捨てられていた衣服はそれだけではない。見覚えのないTシャツ、家主が穿くには細すぎるジーパン、それから女性ものの下着類……。
そう。ベッドにはもう一人いた。女性らしさ影が居たのだ。
「……」
女性?
あの潔癖のペルモンド・バルロッツィが、女性と?
素手での握手すら嫌がる男なのに、それ以上の接触を?
「……落ち着け、落ち着くんだ。ふぅ……」
信じられないという思いを抱えながら、シスルウッドは深呼吸をし、緊張を鎮めようとする。そうして少し落ち着いた頃、彼は再び扉を開けた。
「えっと、その。……そこに居るのは誰だ?」
シスルウッドは恐る恐る部屋の中を覗き込む。するとベッドの上には、上体を起こした全裸の女性――その人物は、胴体部にビッシリと青いタトゥーを彫り込んでいた――が居た。
先ほどシスルウッドがうるさく閉めた扉の音で目を覚ましたのか、彼女は眠たそうな顔をしている。気だるそうに眼をこすっているその女性は、開けられた扉の横に佇むシスルウッドを見ると、不敵に笑う。そして女性はシスルウッドを意味深に見つめながら、こう言った。
「あぁ~。アンタが、アーサー・エルトルの息子ってやつかぁ」
「違う。あのクソ野郎とはもう縁を切った」
反射的にシスルウッドの口から飛び出した言葉に、女性はきょとんと首をかしげる。だがシスルウッドはそれに構うことなく、あくまでも強硬な態度を取った。
「誰だか知らないけど、とりあえず服を着てくれ。それから早くこの家を出ていッ――」
「シャワー借りるね。それから今日は泊ってくから。よろぴっぴ~」
しかし。シスルウッドの冷たい対応を物ともせず、タトゥーの女性は大胆不敵な行動をしてみせた。シャワーを借りる、そして泊っていくと宣言した彼女は、被っていた毛布をポンッと足で蹴飛ばし、ベッドから降りると。床に落ちていた自分の衣服……――ではなく、ペルモンドのガウンを拾うと、それを持ったままシャワールームのある場所へと向かっていった。
女性の通り過ぎざまに感じた、松脂っぽいニオイと、スパイシーなコリアンダー臭、および顔をしかめたくなるリコリスのニオイに、シスルウッドはウンザリとした表情になる。ジンのにおいだという確信が、シスルウッドにはあったからだ。
神経質な天才ひとりの相手だけでも大変なのに。今晩は酔っ払いの世話までしなきゃならないのかよ。――そう思うシスルウッドは肩を落とす。そしてシスルウッドが家主の寝室に入ってみれば、ベッドの脇には空になった青い酒瓶が落ちていた。酒瓶のラベルにはシスルウッドの予想した通り、ジンと書かれている。
「……酒瓶……」
そういえば、家主から提示された『この家のルール』のひとつには、ボトル瓶の持ち込み禁止というものがあった。ジャムやピクルスを入れるようなジャー瓶は良いが、先が窄んだタイプのいわゆるボトル瓶は絶対にダメだと。しかし、今この寝室にはボトル瓶がある。禁止されているはずのボトル瓶が、ここに持ち込まれているのだ。
こりゃどういうことだ、とシスルウッドは眉をひそめる。この理解不能なルールには常々「どういうことだ?」と疑問に感じていたシスルウッドだったが、さらにこの理解不能なルールのことが分からなくなっていた。もしやこれは、自分にだけ課されている理不尽なルールだと思えてきたからだ。
そんなこんなでシスルウッドが酒瓶を訝しむように見ていると、シャワールームに行ったはずの女が戻ってきた。相変わらず服もガウンも来ていない女は、寝室を覗き込み、シスルウッドに視線を送ると、ニヤッと笑う。そして彼女はシスルウッドにこう告げると、再びシャワールームのある方向に向かって走り去っていった。
「アタシも晩ごはん食べたいなぁ~、エルトルさぁ~ん」
ここまで傍若無人だと、もはや呆れ以外の感情は何も沸き上がってこない。彼女は色気も何もヘッタクレも無い、無作法な酔っ払い。ただただ見苦しいだけだ。
そうしてシスルウッドは溜息を零したあと、ベッドの上で寝ている家主を叩き起こす。シスルウッドは暢気に眠っている家主の肩を掴んでグワングワンと揺らし、家主の頬をペチペチと叩いて、家主を静かな眠りから引き摺り出そうとしたのだが。
「おい、起きろ。あの女、誰だよ」
いくら叩こうが揺らそうが、しかし家主は目覚めやしない。そうしてシスルウッドが再度溜息をついたとき、また素っ裸の女が慌ただしく戻ってくる。開けられた扉からひょっこりと顔を出す女は、シスルウッドに己の名前を名乗った。
「自己紹介がまだだったねー。アタシ、空間デザイン工学科のジェニファー・ホーケン。ジェニーって呼んで。――そんで、彼は今、ジュードだよ。バッツィじゃない。だから叩き起こすのは諦めな。一回寝たら、ジュードは朝が来るまで起きないから」
ジェニファー・ホーケン。そう名乗った人物は、家主を指差して「今の彼はバッツィじゃない」と言った。その奇妙な言葉を、すぐにシスルウッドは理解できない。
変なことを言っているな、この酔っ払い。――それがこのときの、率直な感想だった。
「……へぇ、ジュード?」
ペルモンド・バルロッツィ、だから姓のほうを略して、バッツィ。家主が、彼の友人らからそう呼ばれていることはシスルウッドも知っていたが。しかし、ジュードという人名を聞くのは初めてだった。
酔っ払いの戯言だと思って聞き流すシスルウッドは、腕を組み、訝しむような視線をジェニファーにぶつける。するとジェニファーは話が通じていないことに気付き、唇をへの字にゆがめた。それからジェニファーは面倒くさそうな表情を浮かべると、声に厭わしさを滲ませながらこんなことを言うのだった。
「多重人格ってやつだよ。まさかアンタ、一緒に暮らしてるくせに気付いてなかったの?」
ジェニファーからの指摘に、シスルウッドは息を呑む。彼は組んでいた腕を解き、ベッドの上で寝ている家主を横目で見やると、すとんと肩を落とした。たった今ジェニファーの言葉で、ここ最近抱えていた家主ペルモンドに対する疑問や不信感の謎が解けたからだ。
端的に言うと、ペルモンドという人物は記憶に問題を抱えている。記憶の連続性、あれにバグが発生していたのだ。
火にかけたヤカンの存在を忘れて平気で外出することも、家主は平気な顔でやってのけるし。冷蔵庫に調味料を取りに行った際に、「自分が料理をしていた」ということを忘れてクランベリージュースを手に取り、キッチンには切りっぱなしの鶏肉だけが残される、といった事態も家主が料理をするたびに起こるし。朝に目を覚ましたら昨日の記憶を丸きり忘れていて、もう過ぎている「昨日」を何の疑いも持たずにやり直そうとする家主の姿も、シスルウッドは何度か目撃していた。
また、問題は記憶だけではない。家主の性格そのものが、日によってガラッと変わることはあったのだ。
穏やかな雰囲気の中でゆったりと会話らしい会話ができる日もあれば、他者の存在を完全にシャットアウトした重い自閉症のような振る舞いを見せる日もあるし、かと思えば急に寂しがり屋なスイッチが入ってシスルウッドがバイト先に向かうことを引き留めるようなことを言ってみたり。ある時には自暴自棄になって物に当たりまくり、またある時には自己嫌悪を起こして部屋に引きこもって等々……――彼はあきらかに異常だったのだ。
そんなヘンテコな家主と暮らすうちに、シスルウッドも薄々気付き始めてはいたのだ。もしかしてこの男、俗にいう多重人格とかいう類のものなのではないかと。
「……もしかして、深刻なやつ?」
シスルウッドが恐る恐るジェニファーにそう訊ねてみれば、彼女はニッと笑い、そしてウンウンと頷いた。それからジェニファーは、軽い調子で重たいことをドーンッと軽快に言い放つ。「そうかもね~。わりと重めのDIDだと思うよ~ん。バッツィ含めて四人ぐらい居るし、バッツィなんかー、さらに五パターンぐらいに割れてるし~?」
「四人?! えっ、いや、待て。さらに五パターンっていうのはどういう――」
「ただ、本人っつーか、バッツィはそれを秘密にしたいって思ってるっぽいから~? まっ、そういうことで~。お願いしや~っす!」
「…………」
「あっ、そこの酒瓶は片付けておいて~。バッツィが見たらパニック起こすから~」
「自分でやれよ」
「急に冷たくなるじゃ~ん、アンタ。――でも、バッツィは取り乱したときマジ面倒だから。頼んだぜぇぃ、兄弟。いぇい! あっ、それからアンタのことなんて呼べばいいの?」
「アーティーでも、ウディでも、お好きにどうぞ」
「んじゃ、アーティーで。よろしく頼んだぜ、アーティー!」
ジェニファーは機関銃のように自分の言いたいことを一方的に言う。シスルウッドに言葉を咀嚼する時間を与えることなく、ジェニファーからはとんでもない言葉が矢継ぎ早に飛び出していった。
そこで、シスルウッドはひとまず思考を放棄することにした。ここは流れに身を任せ、適当にやり過ごすべきだと、そう判断したのだ。
「ハイハイ、分かりましたよ」
酔っ払いが飲み散らかして放置した瓶を、シスルウッドは渋々拾い上げる。そうして近付いたベッドの下を覗き込んだとき、シスルウッドは重い溜息を零した。ベッドの下には空の酒瓶がもう一本、転がっていたからだ。……とはいえ、こちらはジンではなく度数の低めなビールの瓶。ペルモンドが寝ている側にその瓶が転がっていたことから、彼が空けたのはビール瓶のようだ。
「…………」
料理に使う酢ですら、ガラス製のボトル瓶ではなくプラスチック製のペットボトルのものを買うようにと念を押してきた男が、ビール瓶をラッパ飲みでもしたのか?
信じがたいことだが、しかし目の前に落ちている情報を集めて得られる推論はそれしかない。
「……誰なんだよ、お前は……」
シスルウッドは家主の側に移動し、床に落ちているビール瓶に手を伸ばす。そして寝ている家主の顔をちらりと見ながら、そんなことを小声で呟いたとき。シャワールームの方角から、節操のないジェニファーの大声が聞こえてきた。
「ねぇ、アーティー!! 下着わすれた、こっち持ってきて!」
「それぐらい自分でなんとかしろ! お前の下着に触れる気はない!!」
ついさっき会ったばかりの男に、寝室に脱ぎ捨てた下着をシャワールームまで持ってこいと要求する横暴さ。さすがに呆れかえったシスルウッドは、ジェニファーと張り合うように怒号を上げる。
そして、シスルウッドのその声で家主が目覚めた。それからシスルウッドに向けられた家主の声が聞こえてくる。
「――誰だ?」
むくっと上体を起こした家主の肩から、被さっていた毛布がズリッと落ちる。そのとき初めて見た家主の腕に刻まれた傷跡に、シスルウッドは表情を引きつらせる。――が、彼は平静を装った。シスルウッドは起き上がった家主に対して、いつもの調子でこう声を掛けたのだ。
「説明はあとで。腹減ってんだろ。ササッと作るから、着替えて待ってろ」
ペルモンド・バルロッツィ。彼はいつも、タートルネックの黒い長袖シャツを着ていた。半袖も、七分袖も絶対に着なかったし、ハーフパンツすらも穿かない。暑かろうと寒かろうと季節を問わず、彼はいつも真冬のような装いをしていた。腕をまくることもなかったし、となればシャツを脱いでいる姿も他者には絶対に見せようとしなかった。つまり、彼は徹底して肌を隠していた人間だったのだ。
故にシスルウッドにとって、それは初めて見るものだった。季節感を無視した服を着ていない家主の姿も、白く盛り上がった傷痕でビッシリと覆われた腕も。――虐待を受けていたり、機能不全の家庭で育った人間を知り合いに多く持つシスルウッドではあるが、ここまでひどいリストカット、ないしアームカットの痕跡が残る腕は、他に知らない。後にも先にも、家主を超える傷痕の持ち主は見たことが無いほどだ。
そんなわけで驚愕から顔をかなり引き攣らせていたシスルウッドだったのだが。しかし、視力が著しく低い家主はそのことに気付いていない様子。声色を取り繕っていたこともあって、シスルウッドの動揺は家主には伝わっていなかったようだ。
「……」
普段とは様子がかなり違う家主は、寝起きで半開きになっている瞼の隙間から生気のない蒼い瞳を僅かに覗かせる。キョロキョロと不自然に動く家主の瞳は、やがてシスルウッドの影をぼんやりと捉えると、そこに焦点を合わせる。そして家主は、普段とは微妙に異なっているトーンの声で、気だるそうにこう言った。「知らないやつの手料理は、気が引ける……」
「もう何度も食ってんだろうが。それか、近所の中華料理店から酢豚をテイクアウトしてこようか? てめぇが大嫌いな、豚肉の料理を」
遂に嫌気を起こしたシスルウッドが、家主の言葉に冷たく食ってかかったとき。家主はシスルウッドの冷たい態度、及びその発言内容に驚き、ギョッと目を見開いた。――このわざとらしいオーバーな反応は、仏頂面が定番のペルモンド・バルロッツィではまず見られない反応だろう。
声のトーンといい、表情といい、これはペルモンドでなく全くの別人だ。シスルウッドがそう確信を得たとき。家主の視線が動く。シスルウッドをぼんやりと見ていた家主の視線が、ベッド脇に移ったのだ。そして家主は、ベッド脇に居る“何か”に小声で喋りかけたのだ。
「――ジェド。この男、何者なんだ……?!」
しかし、ベッド脇には何もいない。サイドテーブルと、その上に置かれているシンプルな目覚まし時計と無骨なデスクライトぐらいしか、物は存在していなかった。となれば、話しかけるような物や動物が居るわけがなく……。
シスルウッドは思った。このイカれている家主には空想の生物が見えているのだろう、と。もう相手をしていられないと、呆れかえったシスルウッドが溜息を零したときだ。シスルウッドの目にも見えたのだ、そこに居るものが。
『シルスウォッド・アーサー・エルトル。または、シスルウッド・マッケイ。この男はお前の介護者であり、シロ公を抑えつける役を帯びたヤツだ。――なっ、そうだろ?』
サイドテーブルの手前。そこの床に伏せる、狼のような輪郭を持った黒い影。ギラギラと光る緑色の瞳を覗かせる黒狼がシスルウッドに見えていたし、それの声が聞こえていたのだ。
だが、シスルウッドは自分にこう言い聞かせた。これは幻聴で幻覚、きっと家主の住んでいる妙な世界に変な影響を受けて、少し精神がおかしな方向に進みかけているだけだと。だからこそシスルウッドは、その黒狼の言葉を無視した。そしてシスルウッドは、家主の先の発言に噛みつく。
「そりゃこっちが聞きたいことだよ、ペルモンド。お前は一体、何者だ!」
しかしシスルウッドの発言に家主は何も言わず、あくまでも家主はギョッとした顔をシスルウッドに向けてくるだけ。家主はどうやら、初めて見る男が自分に対して怒声を浴びせ続けているこの状況が理解できず、混乱しているようだ。そして話の通じない家主に苛立つシスルウッドは、酒瓶を二本抱えて部屋を出て行く。――するとまた、黒狼の笑い声が聞こえてきた。
『俺が見えていながらも、ビビらないどころか無視するとは。大したヤツだなぁ。その根性、気に入ったぜ』
家主の寝室を出て、キッチンへと向かうシスルウッドの後を、黒い影がのそのそと付いてくる。その影から逃げるように、シスルウッドは小走り気味に歩いた。そうしてキッチンに着くと、シスルウッドは酒瓶をシンクの中に置く。しかし酒瓶を洗うことはせず、彼はキッチンを立ち去っていった。
シスルウッドが次に向かったのは、リビングルームの隅に置かれていた固定電話の前。彼は受話器を手に取り、主治医の緊急連絡先の番号を素早く打ち込む。……どこか焦っている様子のシスルウッドを、背後から見る影はせせら笑っていた。
「リース先生! 本当に、急で申し訳ないんですけど、明日、予約とれますかね? なんか、ちょっと、幻聴というか、幻覚っつーか、そういうのが始まったっぽくて……」
早口で喋るシスルウッドに、黒狼はのそのそと近付く。そして黒狼はわざとシスルウッドの右足を踏み付けると、シスルウッドを見上げ、彼を睨み付けるのだった。
『俺を幻聴扱いしやがったな? なんてヤツだ……』
黒い影の中から覗く緑色の瞳が、シスルウッドを凝視している。――が、シスルウッドは動揺こそしていたが、その視線に怯えはしなかった。
シスルウッドは、己の右足を踏み付けていた黒狼の前足を蹴って払いのける。すると黒狼の輪郭が揺らぎ、黒狼は一歩下がった。予想以上に強気なシスルウッドの様子に、黒狼のほうが慄いていたのだ。
極めつけにシスルウッドは眉をひそめ、黒狼を睨み付ける。受話器を少し耳から話したシスルウッドは、黒狼に向かって罵声を浴びせるのだった。「……うるせぇ、黙れ、このクソ狼が。視界から失せろ。でないとニンニクをぶちまけて、てめぇを銀食器でめった刺しにしてやるぞ……!」
『人間風情が、随分とデカい態度を取ってくれるじゃ――』
「……消えろっつってんだろうが。聞こえてねぇのかァ……?」
固定電話のすぐ横に置かれていたペン立て、その中に乱雑に入れられていたハサミをシスルウッドは左手に構え、足許に居る黒狼を威圧した。すると黒狼は身を低くし、弱気に唸りながらも下がっていく。
なんだ、あの狼、案外チョロいじゃないか。――シスルウッドがそう思い、ふと気を抜いた時。電話の向こう側からは、焦った様子の主治医の声が聞こえてきた。
『ウディ。明日、朝一番で来なさい。八時半だ。その時間なら空いている。絶対に来るんだよ。分かったか?』
「あぁ、先生、ありがとうございま――」
急な連絡に、迅速な対応をしてくれた主治医にシスルウッドが感謝を述べようとしたときだ。シスルウッドの体勢が崩れる。足を滑らせたかのようにズルッと転げたシスルウッドは、背中を強く床に打ち付けた。その拍子に右手からは受話器が離れ、左手に持っていたハサミの刃は床に深く突き刺さる。そしてシスルウッドの左足は、ズキズキと痛んでいた。何故ならば、黒狼がシスルウッドの左足首に噛みついていたからだ。
「――ッダァッ!! 急に噛みつくんじゃねぇよ、このクソ狼が! お前っ、ブッ殺すぞ!!」
右足で黒狼の顔のあたりに蹴りを入れるシスルウッドはそう怒鳴り散らすと、ハサミを床から引き抜き、黒狼めがけてそれを投げつけた。すると黒狼の輪郭が割れ、そして黒い影は霧散する。……だが、シスルウッドには安堵する暇も与えられなかった。
シスルウッドが痛む足首を庇いながら立ち上がったとき、黒狼がまたシスルウッドの背後に現れる。黒狼は再度、シスルウッドの左足首に噛みつこうとしたが、しかし寸でのところでシスルウッドは攻撃を避けた。そしてシスルウッドは、先ほど投げつけたハサミを大慌てで拾うと、その刃を再び黒狼に向ける。
「……」
一方、黒狼のほうも体勢を低くし、牙を剥いて威嚇をしていた。シスルウッドも表情を険しくさせ、黒狼の緑色の瞳を睨み付けている。
そして電話台の横に落ちていた受話器は、荒れるシスルウッドの怒声を拾っていた。電話の向こう側にいるシスルウッドの主治医もまた、その声を聞いていた。
『……あぁ、なんてことだ……――エローラ先生! 明日、朝一番で、検査してもらいたい患者がいるんですが――』
……と、そこに受話器を拾う者が現れる。その手は受話器を元あった場所に戻すと、通話を勝手に打ち切った。そして、リビングルームにやって来た者は深呼吸をひとつすると、黒狼を睨む。それから彼は大声で、黒狼にある命令を出した。
「ジェド、おすわり!!」
その声に反応した黒狼は輪郭をブルルッと乱す。だがすぐに元の狼の形を繕い直すと、黒狼はその命令に従い、犬のようにその場に座った。
そして極度の緊張から頭の中が真っ白になりかけていたシスルウッドも、その大声に肩を震わせる。シスルウッドが表情を緩めたそのとき、シスルウッドの手からハサミが取り上げられる。続いて、普段とは妙に異なるトーンの家主の声が聞こえてきた。
「ジェド、伏せ。そして、オレが『立て』と再度言うまで、そこで待機。分かったか?」
渋々その場に伏せる黒狼と、緊張から固まるシスルウッドの間に、家主が立っていた。
家主は倒れたペン立てを直すと、そこにハサミを戻す。それから家主は黒狼が床に伏せたことを確認すると、黒狼に背を向け、シスルウッドのほうに向く。そして家主はシスルウッドの顔……――から若干ズレた場所に視線を向けると、気まずそうな微笑を浮かべて、軽く挨拶をするのだった。
「……ジュードだ。ひとまず、よろしく」
そんな家主の姿は、やはりシスルウッドが知っている“ペルモンド・バルロッツィ”らしくはない。ペルモンドは作り笑顔も浮かべないし、人の顔を見て話すという努力もしないからだ。
それに家主の服装も、いつもと違っていた。大慌てで着替えてきたのか、ひどく乱れているTシャツは半袖のものだし、それに腰紐が縛られることなくダラリと垂れているジャージパンツも膝丈だ。長袖シャツに長ズボンを頑として譲らないペルモンドらしくはない装いである。
加えて、半袖Tシャツの柄はどこまでもペルモンドらしくなかった。ペルモンドといえば、無地のものしか身に着けない人物なのだが。今まさに彼が着ているTシャツには、ド派手なイラストがプリントされていたのだ。
宇宙空間を思わせるような背景。その宇宙に浮かんでいるのは、DJ用ターンテーブルと、ターンテーブルの上に置かれているマルゲリータピザ。そしてピザの上には、目から虹色の光線を放っている茶トラ猫がお座りをした姿勢で乗っている。――なんだかよく分からない世界観を描いた、壮大でカオスなTシャツだった。
「ひどいTシャツだな、それ」
呼吸を整えつつ、シスルウッドが絞り出した感想はそれ。すると、ジュードと名乗った家主は苦笑う。それから家主はこう言った。
「これは、その、ジェニファーがくれたやつだ。スペース・ピザ・キャット」
そんな感じで幕を開けた、多重人格者との共同生活。もしこの時をもう一度やり直せたのなら、シスルウッドは迷わず『バーンズパブに戻る』という行動を取るだろう。そして恋人であったキャロラインとも別れる決断を下し、大学も辞めて、ハリファックスに帰る覚悟を固めて、叔母ドロレスの書店を継ぎ、野良猫を保護する活動をしながら、叔父ローマンのように焼き菓子をせっせと作る、そんな穏やかな日々を選ぶはずだ。
だが、当時のシスルウッドは悲惨な未来が来るなど考えてすらいなかった。エルトル家で過ごした陰鬱な日々よりひどいものはないと、そう信じていたからだ。
「宇宙で、ピザで、猫……?」
奇妙な猫のイラストに首を傾げていたシスルウッドは、このとき予想もしていなかった。アバロセレンという『神の力』が人間世界に顕現し、その騒動に自分が巻き込まれるだなんていう未来を。そして、アバロセレンにより自分の人生も、子供たちも奪われることになるなど、彼に思い描けるはずもなかった。
シスルウッドが黒狼に足を噛まれた翌朝のこと。
「……あの時と同じだ……」
シスルウッドが朝一番で行った精神科。そこでシスルウッドを待っていたファーガス・リース医師は、左足を庇うように歩くシスルウッドの様子に違和感を覚え、真っ先にこう言った。左足首を見せなさい、と。
シスルウッドが左の靴下を下ろしてズボンの裾を捲し上げると、現れたのは雑に包帯が巻かれていた左足だった。そして左足首の部分には少し血が滲んでいる。それを見てすぐに顔を顰めさせたファーガス・リース医師はシスルウッドの足に巻かれていた包帯を解き、左足首に刻まれた傷――狼に咬まれたような傷痕――を見た。そうして彼が零した言葉が、先ほどのもの。あの時と同じだ、というセリフだった。
その後、シスルウッドは処置室に行くようにとファーガス・リース医師に指示を出された。そこで看護師から手当てを受けた後、再びファーガス・リース医師の待つ診察室に戻ると、ファーガス・リース医師は難しい顔をして腕を組み、何かを悩んでいる様子だった。
「あの、リース先生……?」
シスルウッドがファーガス・リース医師の前に座ると、ファーガス・リース医師は顔を上げる。だが、彼はすぐに何かを言おうとはしない。彼は前に座ったシスルウッドの左足首をジッと見つめ、暫く黙りこくっていた。
眉間に皴を寄せ、腕を組んでただ黙るファーガス・リース医師の姿に、シスルウッドまでも緊張していく。やけに張りつめた空気が診察室を満たしていた。――そしてファーガス・リース医師が組んでいた腕を解き、沈黙を破ったのは二分ほど経過してからのこと。
「実は、似たようなことが前に起こっていてね。数年前、ミロスという看護師がこの精神科に所属していたんだ。彼はウルフくんを担当していてね。あー……今の名前はぺルモンドだったか」
「ええ、そうですね。ぺルモンドです。あいつが以前、狼とかハスキーとかマラミュートとか、犬種の名前で呼ばれてたっていう話は、後見人の方から聞いてます」
リチャード・エローラ医師や後見人だというマクスウェル=ヘザー・トンプソンという人物を始め、ぺルモンドが“ぺルモンド”となる前から彼のことを知っている者たちは、彼のことを『ウルフ』や『ハスキー』と犬種の名で呼ぶ。そのことはシスルウッドも把握していた。
ぺルモンドが保護されたのは、彼が推定十六歳のとき。約五年前の真夏のある日、旧国道を走行していたトラックの運転手が、道路に行き倒れていた満身創痍の青年を保護し、最寄りの救命救急センターに連れて行った。その時の青年が、今のペルモンド・バルロッツィというわけだ。
目を覚ました青年に記憶はなく、また身分を証明するものも持ち合わせていなかった。そこで仮につけられた青年の名前が、ウルフやハスキーという犬種名だったようだ(ブリジットから聞いた話によれば、当時の彼の雰囲気は「アラスカとかシベリアとかに居そうな犬っぽかった」らしい)。――そんなわけで、当時からぺルモンドのことを知る者たちは昔の彼の呼び名を使いがち、という傾向にある。ぺルモンドと呼ぶよりかは、ウルフ等と呼んだ方が短くて楽だからだ。
「なので気にしなくていいですよ。ウルフでも話は分かるんで、そのままの呼び方で大丈夫です」
シスルウッドがそう答えると、ファーガス・リース医師の表情が少しだけ緩む。そしてファーガス・リース医師は話を再開した。
「ミロスくんは、記憶喪失という状態で保護されたウルフくんをとても気に掛けていた。対応を押し付けられたエローラ先生の次くらいには、彼に構っていたことだろう。アラスカの英雄犬バルトという名をミロスくんは彼に与えて、独自にそう呼んでいたりもした。それに、誰に対しても冷めた態度を取っていたウルフくんだったが、ミロスくんに対してだけは少しだけ心を許しているようにも見えていたよ。……だがある時、ミロスくんが不自然な怪我を負ったことがあったんだ。あれはウルフくんの体力も回復し、彼の処遇も決まり、退院の目途がついたころだ」
「……」
「あるとき突然、廊下を歩いていたミロスくんが倒れ込んだ。倒れ込んだ彼は、己の足に噛みついている“何か”を払おうとするかのように足をジタバタとさせていた。そして彼の足首にはまるで狼に噛まれたかのような咬傷があって、出血も酷かった。――それは今、君の足首にあるような傷痕だったよ。だが、ミロスくんの身に起こった異変も、ウルフくんがその場に駆けつけると収まった。ウルフくんが一言『やめろ、ジェド』と呟いた途端にスッと鎮まったんだ」
「…………!」
「私を含め、同じ場に居合わせていた者たちには見えなかった。ウルフくんが『ジェド』と呼び、ミロスくんが振り払おうとしていたものが。だがウルフくん、及び襲われていたミロスくんにはその姿が見えていたようだ。ミロスくん曰く、狼のような形をした黒い影という存在が。……――その事件を機にミロスくんは弱ってしまってね。彼はその数週間後に退職してしまった。今は心療内科に通いながら医療とは無関係の職場で働いていると聞いている」
襲い掛かってきた黒い影が、狼のような姿かたちをしていたこと。その黒い影は、足首に咬傷を残していったこと。そしてぺルモンドが発した一言で黒い影が鎮まったこと。――ファーガス・リース医師の語った話は、シスルウッドの経験した出来事と完全に合致していた。
シスルウッドに襲い掛かってきた黒い影、ジェド。昨晩ヤツが現れたとき、取り乱したシスルウッドは精神科医に連絡するというアクションを起こしたが、しかしその一方でシスルウッドは直感していた。こいつは幻覚ではない、実在している怪物だと。
シスルウッドが足首の怪我に気付いたのは、シャワーを終えてリビングルームに戻ってきたジェニファーに「血が出てる」と指摘されたときだ。
足首が痛いとは感じていたが、黒狼ジェドを幻覚だと信じたかったシスルウッドはその痛みを無視し続け、調理を続けていた。そうしてシスルウッドが事前に下処理を済ませていた鶉肉を乱雑にオーブンの天板に載せ、鶉肉にヤケクソで塩コショウとハーブをぶちまけて居たとき。そこにやってきたジェニファーがそう指摘してきた。足首から血が出ている、と。
……ただ、その後の記憶がシスルウッドにはない。多分、驚愕したタイミングと立ち上がったタイミングが被り、加えて出血していたということも相まって、失神でもしたのだろう。それに、翌朝シスルウッドが目覚めたときに彼の傍に居たジェニファーも、そんなことを言っていた。シスルウッドは立った直後にフラッと倒れたけれども、タイミングよく駆けつけた“ジュード”が気を失ったシスルウッドを受け止めたため、頭を打つといったことも起こらず大事には至らなかったと。その後、血を見て酔いが醒めたジェニファーがシスルウッドの傷の手当てをしてくれて、料理の続きは“ジュード”が代わってくれたんだとか、なんとか。そう聞いている。
そういうわけで、予約を入れてしまったからと取り敢えず精神科を受診したシスルウッドではあったが、しかし彼には確信があった。自分は正常であり、あの黒い影は幻覚ではなく、実在する脅威、怪物なのだと。現にこうしてシスルウッドは怪我をしている。狼に咬まれたような咬傷が、足首にできているのだから。
それにファーガス・リース医師が出した結論も同じだった。少し顎を引き、顔をしかめさせながらシスルウッドの目をジッと見るファーガス・リース医師は、普段とは異なる穏やかならざる雰囲気を放ちながら、こう静かに語る。
「私はエローラ医師と違って超常現象を積極的に信じているわけではない。だがあの時、私もなんとなくだが気配は感じていた。何かが居るという気配が。――君は彼から離れた方がいい。これ以上の何かが起こる前に、彼から離れるべきだ」
「…………」
「それに彼が抱えている闇はあまりにも大きすぎる。誰にも対処できないんだ。私も、そして根気強いエローラ医師の手にも負えなかったんだよ、彼は。とすれば、知識のない君が深入りするべきじゃない。縁を切れとまでは言わないが、せめてルームメイトなんて関係はやめるべきだ。君は、君の帰るべき家に戻りなさい。新しい入居先でもホテルでもなく、君の今の両親のいる家に」
「……はい」
「というわけで、検査はしない。処方箋も出さないよ。ややアルバイトを詰め込みすぎている点、それと同居人に懸念事項があることの他には問題もなく、生活も安定しているようだし。安心したまえ、君は正常で冷静だ」
ファーガス・リース医師は「君は正常で冷静だ」という言葉で締めくくると椅子から立ち上がり、そしてシスルウッドにも立ち上がるよう促す――異常も特に見られない以上、今回の診察は終わりだというわけだ。
シスルウッドは立ち上がり、肩を落とす。予想外の場所で突き付けられた前例と、前例を元にしたアドバイスを自分の中でどう噛み砕けばいいのか、それを彼は悩んでいたのだ。
「…………」
幻覚を見ている、君は異常だ。そう診断されたほうがまだ気が楽だったのかもしれない。正常だと判断されて異常な現実と向き合う羽目になるよりかは、もしかしたら薬漬けになって異常な精神状態になってしまうほうがマシだった……なんてことは流石にないか。
――といった調子に色々と考えて暗い顔になっていたシスルウッドのその肩を、ファーガス・リース医師は励ますようにポンポンッと軽く叩く。それからファーガス・リース医師は言った。
「請求書はいつも通り、アーサー・エルトル氏の自宅に送付するよう受付に伝えておくよ」
北米合衆国とは違って良心的な医療制度が敷かれている自治州とはいえ、それでもまだ医療費の負担額は侮れなかった。アルバイトを詰め込んでも、それでも生活が厳しかった学生には支払いが厳しかったのだ。
というわけでシスルウッドは“犯罪集団の元締めだった家”の経済力にそこは甘えることにしていた――今まであのクソ親父に散々迷惑を掛けられていたのだし、それぐらいの復讐はしたっていいだろ、と彼は開き直っていたのだ。そんなわけでシスルウッドは、ファーガス・リース医師の言葉に苦笑と共にこう返答する。
「はい、お願いします」
そうして苦笑いと共にシスルウッドが診察室を出て、扉を閉めたときだ。偶然、彼の目の前を見知った顔が通り過ぎて行く。と同時に、向こうもシスルウッドの存在に気付いて立ち止まり、驚きとともに振り返った。
「シルスウォッド?! どうしてあなたがこんなところに……?」
そうシスルウッドに声を掛けてきたのは、彼の幼馴染であるブリジット・エローラだった。
シスルウッドが度々精神科に通院していることを知らないブリジットは、診察室から出てきた彼を不思議そうに見ている。そんな彼女が彼に投げかけた質問だが、しかし彼はすぐに“それらしい答え”を編み出すことができなかった。そこで彼は考える時間を稼ぐべく、ブリジットのほうから目的を語るよう促すようなことを言う。「あぁ、ブリジットか。君こそどうしてここに?」
「私は父さんが家に忘れた書類を大学に行くついでに届けに来ただけよ。あなたは?」
とはいえブリジットは長話を好むタイプではない。簡潔に、言う必要のある言葉だけを最小限に発する、それが彼女である。故に彼女の言葉は非常に短くてシンプルだ。
だが、まあ最低限の考える時間は取れた。そしてシスルウッドはたった今ここで編み出した嘘を、息を吐くように自然に発する。
「ぺルモンドのことをリース先生に相談しに来たんだよ。あいつ、最近不眠っぽいから。精神科を受診しろって言ってるんだけどさ、あいつ、病院が大嫌いで行きたがらないだろ。だから代わりに僕が来てみたんだ」
シスルウッドの言葉に違和感を覚えたのだろう。ブリジットは一瞬顔を顰めさせ、何かを言おうとしたが……――けれども彼女にしては珍しく、この時は何も言ってこなかった。怪訝そうな顔をするブリジットはシスルウッドに背を向けると、そっけなくこれだけを言い、去っていった。
「それじゃあ、また大学で」
「ああ、また後で……」
去っていくブリジットの背を見送ったあと、シスルウッドは肩の力を抜く。ひとまずやり過ごせたこと、珍しく何も追及されなかったことに彼は安堵の息を吐いた。そうして彼もその場を立ち去ろうとした時、先ほど彼が閉めたはずの扉が静かにゆっくりと開けられる。
「……なるほど。賢明な判断だ」
診察室の扉を静かに開け、顔を出したのはファーガス・リース医師。渋い顔をして出てきた彼はそう呟くと、扉の前に立つシスルウッドを見やる。続けてファーガス・リース医師は遠ざかっていくブリジットの背中を見やり、シスルウッドにこう言った。
「彼女は今もウルフくんに執着しているようだからね。彼に関する情報を彼女に渡さない方が良いだろう」
そう言うとファーガス・リース医師は意味深な笑みを浮かべ、診察室の中に戻ろうとする。が、引っ込むことはせず彼は廊下に出てきた。そして彼はシスルウッドの隣に並ぶと、シスルウッドに耳打ちをする。
「――それから、ウルフくんの過去を探るような真似を決してしてはいけないよ。彼の記憶の蓋をこじ開けようとすると、取り返しのつかないことが起こりかねないんだ。私はそれで一度、彼の別人格に殺されかけたからね。だから絶対にそれだけはしてはいけないよ。分かったね?」
穏やかならざる言葉を囁いたあと、ファーガス・リース医師は診察室の中に戻っていく。そして扉の前に立ちすくむシスルウッドは、その顔を蒼褪めさせていた。
ここで一旦、時代は進んで四二八九年のこと。水槽の中に浮かぶ二つの脳を見て、ジュディス・ミルズが呆然としてしまっていたとき。ASI本部には、アバロセレン犯罪対策部に所属する局員たち全てが集められていた。
心理分析官ヴィク・ザカースキーとて、その例外ではない。他の者たちと同様に、局へと真夜中に呼び出された心理分析官ヴィク・ザカースキーは眠気と戦いながら、ある人物を待っていた。
……と、そんな彼女の足許で、一匹の三毛猫がモゾモゾと動く。
「…………」
大きめのキャリーカートの中に入っていた三毛猫は、カートから出せと飼い主にアピールしていた。しかし、ここは職場である。ハーネスも着けていない猫を、そのまま放り出すわけにはいかない。まして、この猫は元野良猫であり好奇心旺盛な性格をしている。どこに消えてしまうのかなんて、分かったものではない。
「……ごめんね、ランジェロ。大人しくしてて……」
キャリーカートの中の猫に、心理分析官ヴィク・ザカースキーは申し訳なさそうな視線を送ると、猫は諦めたようにプイッとそっぽを向き、不貞寝に入る。
この三毛猫の名前はミケランジェロという。丸っこい顔をした三毛猫のメスであり、心理分析官ヴィク・ザカースキーの自宅にいつからか住み着いていた元・野良猫だ。そしてこの猫と共に心理分析官ヴィク・ザカースキーは、明日にはラドウィグの仮住まいに引っ越すことになっている。
ただ、自宅を引き払うわけではない。心理分析官ヴィク・ザカースキーがラドウィグの仮住まいに持っていくのは、仕事に必要なファイルや電子機器、それと最低限着まわせるだけの衣類と、洗顔料やシャンプーといった化粧品やシャワー用品、それからこの三毛猫ミケランジェロと、猫のトイレやキャットフード、ポータブルケージといった猫用品だけ。他の私物はそのまま自宅に残すつもりでいる。つまり彼女は、いずれ自宅に帰る気でいたのだ。
そんなこんなで引っ越しの準備をしていた心理分析官ヴィク・ザカースキーの車には、衣類を詰め込んだキャリケースと、それ以外のものを適当にブチ込んだ段ボールが積まれている。そしてASIからの徴収が掛かったのは、その作業の最中のこと。突然のことに大慌てした彼女はぷちパニックを起こし、段ボールがぎっしりと詰まれた車で局に来た。そしてこの通り、彼女はなぜか三毛猫ミケランジェロまで職場に連れてきてしまっていたのだ。
「悪かったな、ザカースキー。急に呼び出したりして。引っ越しの準備があっただろうに」
そんなこんなで、好奇心旺盛な猫が大人しくなったとき。心理分析官ヴィク・ザカースキーの前に、彼女が待っていた人物が現れる。テオ・ジョンソン部長だ。
大きいダブルクリップで綴じられた紙束と、それとは別にリングバインダーを携えたテオ・ジョンソン部長が、心理分析官ヴィク・ザカースキーの前に来る。そしてテオ・ジョンソン部長は、キャリーカートの中で不貞寝をしている三毛猫ミケランジェロをどこか警戒するように見やりつつ、心理分析官ヴィク・ザカースキーに紙束とリングバインダーを渡した。
ダブルクリップで綴じられた紙束は、とある自伝本のゲラ刷り。心理分析官ヴィク・ザカースキーがそれをペラペラと数ページをめくって見てみれば、赤ペンで訂正が入れられている箇所をいくつか発見できた。
そして分厚いリングバインダーのほうはというと、こちらは大昔の新聞のコピーが大量に綴じられている。それもキャンベラやシドニーのものではなく、北米、それもボストンのもの。四十三世紀初頭に発行された異国の新聞のコピーが、なぜか心理分析官ヴィク・ザカースキーに渡されたのだ。
随分と重たい紙束とリングバインダーを受け取った心理分析官ヴィク・ザカースキーは、眠い目を
「それは先日、ジェミニが入手したゲラ、その複製でな。お前には、このゲラの中に含まれるコヨーテ野郎に関する事柄から、重要と思われる事項をリストアップしてほしいんだ。そしてリングバインダーのほうには、当時のボストンに関する情勢をまとめてある。それを参考にするように。それから、アレクサンダー・コルトは当時のボストン、及びコヨーテ野郎の周辺に詳しいはずだ。それに彼女の両親は、ボストンからアルストグランへと移り住んだ移民だからな。何か疑問を抱いた際には、彼女に訊くといい」
その言葉を聞いた心理分析官ヴィク・ザカースキーは、再度ゲラ刷りに目をやる。彼女がチェックしたのは、原稿の著者名。そこにはデリック・ガーランドという名前があった。
「……デリック・ガーランドというと、あの、奇妙なシンセサイザーばかり出してる電子楽器メーカーの会長ですよね。そんな人物の自伝本が、どうしてコヨーテと関連しているのですか?」
率直に感じた疑問を、心理分析官ヴィク・ザカースキーは上司へとぶつける。そしてテオ・ジョンソン部長は、彼女の問いに早口で答えた。
「デリック・ガーランドとコヨーテ野郎は同郷であり、どちらもペルモンド・バルロッツィの知人だ。そして現在も、ガーランド氏とコヨーテ野郎との間には接点があると思われている。ゆえに、一応チェックしておきたい。――それじゃあ、頼んだぞ」
テオ・ジョンソン部長はそう言うと、心理分析官ヴィク・ザカースキーから早足で離れていく。それはまるで、あからさまに避けられているかのようだった。
アバロセレン犯罪対策部において、冷や飯を食わされているポジションにいる心理分析官ヴィク・ザカースキーだが、上司からここまで冷たい態度を取られたことは一度も無かった。しかし、避けられているとはいえ悪意は感じず、そこがまた奇妙で……――彼女には、どう対応すればいいのかが分からなかった。
「あの、部長。もう帰っていいってことですか?」
心理分析官ヴィク・ザカースキーが取り敢えず絞り出したのは、そんな言葉。すると離れた距離からテオ・ジョンソン部長は無言で頷く。と、彼は心理分析官ヴィク・ザカースキーに素早く背を向けた。それからテオ・ジョンソン部長はハンカチを素早く取り出すと、そのハンカチで自身の鼻と口を覆う。そして彼は小さなクシャミを連発した。
もしや部長は猫アレルギーか、と心理分析官ヴィク・ザカースキーは直感した。そして心理分析官ヴィク・ザカースキーは受け取った書類の束を、大慌てで肩から下げていたカバンの中に詰め込む。早く猫を連れて職場を去らなければと、彼女は感じたからだ。
そうして彼女が大慌てで書類をカバンに詰め込んでいると、テオ・ジョンソン部長が一瞬、彼女のほうに振り返った。やはりアレルギー反応を起こしているのか、テオ・ジョンソン部長の目はすっかり充血している。そしてテオ・ジョンソン部長はクシャミを堪えつつ、心理分析官ヴィク・ザカースキーに告げる。「猫アレルギーなんだ。だから、早くその猫を連れて出て行ってくれ、頼む!」
「すみません、今すぐ出て行きます!!」
重たくなったカバンを肩に掛け、心理分析官ヴィク・ザカースキーは三毛猫と共にオフィスから出て行く。突然キャリーカートを引いて走り出した飼い主に、三毛猫ミケランジェロは驚き、尻尾をボワッと膨らませていた。
時代は遡って四二二〇年、十二月の上旬。ある日曜日の昼前のこと。
「うーん。困ったなぁ。ダーレンが、そんなことを言ってたんだ。でも、なぁ……」
ダサい文学青年としてのシスルウッドの象徴である『赤縁の丸眼鏡』を封印し、パリッとした青のオックスフォードシャツ(叔父ローマンが買ってくれたもので、それなりに高く質の良いシャツである。シスルウッドはこのシャツを、世を忍びたい時にしか着ない)を着たシスルウッドが着ていたのは、ザックの家族が営むダイナー。この日のシスルウッドはアルバイトとしてではなく、客としてこの店に来ていた。
そしてシスルウッドと共に来店していたのは、疲れた顔をしたレーノン・ライミントン。児童養護施設の指導員として働いているレーノン・ライミントンは、業務の中で接する難しい背景を抱えた子供たち……――ではなく、彼自身の家族、甥に悩まされていたのだ。
レーノンの甥である、ダーレン・ライミントン。横柄な上級生に虐められるほど気が弱い彼はこの頃、父親であるラルフ・ライミントンとうまくいっていなかった。それでダーレンは、彼の父親の弟であり、父親ラルフと違って頑固ではない叔父のレーノンによく愚痴を零しているらしい。そしてこの時ダーレンは、父親のラルフおよび叔父のレーノンを仰天させるようなことを言っていたのだ。
機械工作が好きなダーレンは、電子工学の分野を志しているらしく、その道のスター的存在であったペルモンドに憧れていたようだ。そして先日、ダーレンの許に飛び込んできたニュース。それはペルモンドとシスルウッドの二人が、アバロセレンなる新種の物質を発見した(と、何者かの手によってでっち上げられた)という騒動だ。つまりダーレンは知ってしまったのだ、知り合いであるシスルウッドは、憧れの人の友人だったということを。
ダーレンがアバロセレン云々に興味を示さなかったのは不幸中の幸いだったが。ダーレンはこの時、父親にこんなことを強請っていたようだ。ペルモンド・バルロッツィに会ってみたい、だからシスルウッドに口利きを……――と。
だがダーレンの父親であるラルフは、それを拒否した。忙しいシスルウッドに迷惑を掛けるようなことは控えろと、ラルフは息子ダーレンを叱ったようだ。だがダーレンは諦めることができず、よりシスルウッドと親しい間柄にある叔父のレーノンに泣きついたというわけらしい。
「電子工学のことは俺にはサッパリ分からない。だが、お前の友人だっていう、その、ぺルモンドっていう人物は、その道の有名人なわけだろう? だから、サインぐらい……」
レーノンは、どことなく懇願するかのような視線をシスルウッドに送りつけつつ、ボソッとそんなことを言う。しかし、レーノンの向かいの席に座るシスルウッドは渋い顔をしていた。というのも、シスルウッドには二つ返事で了承することが出来ない事情があったからだ。
そんなわけでシスルウッドは、チョコレートシロップがこれでもかと掛けられた甘ったるいミルクセーキに溜息を落とす(幼少期から続いた抑圧的な生活から解放された結果、彼はタガが外れたように『子供の頃に禁止されていたもの』を過剰に求めるようになっていた。その筆頭格が、甘ったるいスイーツであった)。そしてシスルウッドは目を伏せると、憂鬱さをにじませた声でこう答えるのだった。
「知っての通り、僕もあいつも、ここ数か月は色々とあってね。僕は、まあ大丈夫だけど。ぺルモンドのほうはすっかり病んじゃって。もともと精神を病んでたところに色々と重なって、ね……」
「……で?」
「要するに、その……――あいつ、入院してんだよ、今。精神科の病棟に。だから誰も会えないし、サインとかも無理だよ、たぶん」
騒ぎが起こったのは、二、三か月ほど前のこと。ペルモンドとシスルウッドの二人が、新種のエネルギー物質“アバロセレン”を発見したんだかナントカという論文が科学誌に掲載され、二人は記者に追いかけまわされるようになったのだが。しかし、件の論文の執筆に二人は何も関わっていなかった。
ペルモンドは計算機工学を主軸に、広く工学を学んでいる立場だし。シスルウッドに至っては、専攻は暗号学。といっても、量子コンピュータを用いた新たなる暗号化アルゴリズムの開発――ではなく、過去の遺物、それこそ中世暗黒時代に用いられていたアナログな暗号について研究するという、クソほど役に立たない学問だ。
ン千年と経った今でも解読されていないような(または、解読する価値もないとして切り捨てられ続けた)暗号の解読を研究しているような学生が、どうして新種のエネルギー物質とやらを発見できるのだろうか? ――シスルウッドにはこのことが疑問に思えて仕方が無かったのだが、世間はそう思ってくれなかったようで。名前を勝手に使われただけのシスルウッドは、変装しなければまともに生活できないという悲劇に見舞われていた。
食料品を買いに出ただけで、記者に囲まれるし。名前が知られた結果、ただ街を歩いているだけでゴロツキに絡まれるようになり、気を揉む機会も増えた。また「お前のせいで電話が鳴りやまなくなった!」との理由から、働き先の大半からクビを切られたし。騒動を企てた黒幕らしき人物から札束が詰められたアタッシュケースを手渡され、「黙っていろ」と脅されたりもした(無論、シスルウッドはそれを突っ撥ね、金銭を受け取らなかった)。――最近はそんな状況も落ち着いてきたものの、シスルウッドにとって悲惨な数か月だったことは言うまでもない。
そして、それはペルモンドのほうも同じ。というか、あちらのほうがシスルウッドよりも悲惨だっただろう。
「こんなことを言うのはアレかもしれないが……彼はたしかに気難しそうな顔をしてたな。記者への対応も、ヤケに攻撃的というか」
レーノンはそう言うと、小さく笑った。仕事柄、精神に問題があって攻撃的な態度を取りがちな若者というヤツを見慣れているレーノンにとっては、新聞や報道番組で取り上げられる『天才ペルモンド・バルロッツィの奇行』は、微笑ましいエピソードぐらいの認識なのだろう。レーノンが普段相手にしているような気難しい子供たちの姿を、怒り狂うペルモンドに重ね合わせて、「あー、あるある~」ぐらいにしか、彼は思っていなかったのかもしれない。
だが、荒れる天才ペルモンドの“その後”の相手――主に、自己嫌悪で嘆き泣く別人格ジュード――をさせられるシスルウッドにとっては、その奇行は笑い事ではなかった。そんなわけでシスルウッドは、日ごろの疲れをそこはかとなく匂わせつつ、こう言葉を返す。
「恣意的に切り取られて報道されてるからねぇ。きっと報道はされてないだろうけど、あいつ、記者たちからひどい言葉ばっかりぶつけられてるんだよ。以前からあいつを憎んでた連中がデタラメな話を記者にリークしてるのもあって、言葉での攻撃が苛烈でさ。才能しか取り柄が無いクズだの、傲岸不遜なサイコパスだの、なんだの。そんなひどい言葉をぶつけてくる連中に、連日のように追い回されてたんだ。……そりゃ攻撃的にもなるよ」
この時期のペルモンド・バルロッツィは、とにかく荒れていた。
自身に突っかかってきた記者を、汚い言葉で罵倒したり。特攻を決めてきたリポーターのマイクを奪い取って道路に投げ、車に轢かせて破壊したり。――外での行動は、こんなところだっただろう。攻撃性と警戒心が常に剥き出しの状態であったため、結果的に彼の精神は崩壊。数日ほど失踪するという騒動が起こった(一度は偶然彼を見つけたリチャード・エローラ医師によって保護されたそうだが、再び失踪。その後、彼が見つかったのはオーストラリア、それも空軍基地の中で、ひどい大怪我を負っていたとか、なんとか)。
まあ無事に見つかり、ぺルモンドは帰宅を果たしたのだが。その後、ペルモンドは引きこもりがちになった。大学も自主退学し、彼はカーテンを閉め切った暗い部屋にこもるようになってしまったのだ。
引きこもることによってピリついた精神が落ち着くなら、まあそれは良いかと考えていたシスルウッドだったのだが。しかし状況はシスルウッドが望んでいたようにはならなかった。落ち着くどころか、より悪化していったのだ。
引きこもりが始まったばかりの頃。この時は“ペルモンド・バルロッツィ”という人格しか出ていなかった。冷静で穏やかで、気味が悪いほど情緒が無い、そんな人格。シスルウッドが目にするのは、それだけだった。この時はお互いに冷静な状態で建設的な話ができていたし、自傷行為も他害行動も無かった。自宅に押し掛けてくる迷惑報道陣の対応や、不審な配達物のチェックといったことは、コンドミニアムの守衛ジムに任せていたし(ジムの好物である「近所のドーナツ屋で売っている、中にクリームがたっぷりと詰まったマラサダ」を、シスルウッドがジムの許へ毎週水曜日に買って届けることを条件に、守衛ジムはこの特別扱いを引き受けてくれた)。窓の外がうるさいことの他には、問題も無かった。
だが、事態が変わった。それは引きこもり生活が始まってから二週間が経ったころ。人格交代が頻繁に起こるようになり、冷静で穏やかな“ペルモンド・バルロッツィ”でいる時間が短くなってきたのだ。
最初に見られるようになったのは、幻聴に苛まれているような様子。首を不随意に振るといった運動性チックに似たようなものが一日の内に何度も見られるようになり、それが起こるたびに奇妙な呻き声を“ペルモンド・バルロッツィ”は出していた。その呻き声は次第に長くなり、やがて『何かに対して、繰り返し何度も謝っているような言葉たち』としてシスルウッドにも聞き取れるようになった時。次の変化が起こった。失踪以降、姿を現していなかった別人格たちが出てくるようになったのだ。
最初に出てくるようになったのは、片言な英語を扱う“ジュード”だった。以前の人格“ジュード”は朗らかな性格の持ち主で、かなり機転の利く人格だったのだが、それが豹変していた。ネガティヴな思考に囚われていた“ジュード”は、シスルウッドが発した些細な指摘や小言ですぐに泣くようになり、泣いた後は必ずと言っていいほど自傷行為に走った。リストカット、アームカット、食後すぐの嘔吐ぐらいで済めばマシだ。飛び降り、首吊り、入水……――それを引き留めるシスルウッドのほうがゴリゴリに精神を削られていく、そんな状況になっていったのだ。
そうして人格“ジュード”による自傷行為が日常的になり始めた頃、別の人格“ジェイド”も久しぶりに出てくるようになった。人格“ジェイド”は奔放な自由人で、貞操観念もかなりガバガバで、モラル意識の再教育等で色々とシスルウッドも手を焼かされていたのだが、それら“ジェイド”の特性は再出現した際には鳴りを潜めていた。代わりに、奔放さが攻撃性へと転化されていたのだ。
まあ、これについてはシスルウッドも反省している。この時のシスルウッドは心理的な疲労から小言や嫌味が多くなっていたのだ。知らない他人から追い回される日々と、多重人格者の相手、可愛らしいがなんとなく気味の悪い恋人の不気味な言動、奇妙さに拍車がかかったブリジットによる“ぺルモンド・バルロッツィ”に対するストーカー行為、そして黒狼に代表されるよく分からない“怪物”たちと隣り合わせの生活に、シスルウッドも疲れていたのだから。そうしてシスルウッドは、抱えていた苛立ちをぺルモンドにぶつけがちになっていた。そんなわけで、日ごろシスルウッドがぶつけていた小言の数々を、別人格“ジェイド”は倍にして返してきたのだ。
――そんなにアタシが気に入らないなら、ここから出て行けばいい! アンタが居なくたってアタシは別にやっていける、アンタがここに来るまではずっとそうだったんだから! それにアンタには帰る家があるし、アンタを待ってる家族が居るだろ、アタシと違って! 早く、ここから出て行けよ! 実家でも、ハリファックスでも、酒屋でも、どこにでも帰ればいいさ!
そう騒ぎ立てる“ジェイド”によって、シスルウッドの荷物は勝手に纏められ、玄関に投げ捨てられることは幾度となくあった。ソファーに置かれていたクッションを“ジェイド”が投げつけてきたこともあった。シスルウッドの目の前で皿を割るといった威嚇行為を“ジェイド”が仕掛けてくることもあった。
実の父親や異母兄と違って“ジェイド”は直接的な加害をしてこなかった。そのため感覚の麻痺していたシスルウッドは、自分にブレーキを掛けてしまっていた。人格“ジェイド”の行為には少なからずショックを受けていたシスルウッドだが、しかし彼はこう思ってしまっていたのだ。これはぺルモンドの本意ではないはず、だから真に受けるべきじゃない、と。故に彼はペルモンドから逃げなかった。
それに“ジェイド”が暴れた後にはいつも“ジュード”が出てきて、泣きながら謝ってくるのだ。そして“ジュード”は懇願してくる。お願い、捨てないで、と。
正直に言うと、シスルウッドはどうすべきか分からなくなっていた。ペルモンドと離れるべきか、まだ様子を見るべきなのかを。
ペルモンド及びペルモンドの友人たちは、シスルウッドという居候が居る生活を望んでいるようだった。何を仕出かすか分からない精神状態にあるぺルモンドを、シスルウッドは見張っていてくれるわけだから、そりゃ安心できるというわけだ。それにぺルモンドの友人たちは定期的にコンドミニアムを訪れ、シスルウッドの行う“介護”を手伝ってくれたり、交代してくれたりしていた。まあ、友人たちは最低限の気配りをしてくれていたのだ。
だが反対に、シスルウッドに近い者たちは『早くあの変な男から離れろ』と言っていた。最初に忠告をしてきたファーガス・リース医師を始め、バーン夫妻もブレナン夫妻も、友人のザックや果てはリチャード・エローラ医師までもが、シスルウッドに対してそう言っていたのだ。シスルウッドも、そうしたいのは山々だった。が、思い立ってすぐに離れられる状態ではなかったのだ。そんなわけで結論を出すことをズルズルと先延ばしして、結果、離れることはできなかった。
そうして、しんどい日々が一か月ほど続いたのだが。ある朝、ぺルモンドに異変が起こった。シスルウッドが声を掛けても一切反応せず、また肩を揺らしても動かない状態になっていたのだ。
その日の前の晩にシスルウッドが最後に見たときのペルモンドは、リビングルームに置かれたソファーの隅に、背中を丸めた姿勢で座っていたのだが。翌朝も依然ペルモンドは同じ姿勢のまま、ソファーの隅に縮こまっていたのだ。
試しにシスルウッドは硬直しているぺルモンドの口に吸い飲みを突っ込み、水を含ませてみたのだが、けれども嚥下反射は起こらず、水は口の端から漏れ出て行くだけだった。その後も声掛けや揺さぶりなどを試してみたものの、ぺルモンドが何らかの反応を示すことは無く。シスルウッドはリチャード・エローラ医師に連絡し、助言を乞うた。が、そこで得られたのは助言ではなく、警察がそちらに向かうからその場で待機していなさいという返答だった。
その後、制服を着た警官が着て、ぺルモンドをどこかへと連れて行った。その更に数時間後、リチャード・エローラ医師からは『ぺルモンドを入院させた』という旨の連絡がシスルウッドの許に届けられ、そして『あとの対応はトンプソン氏がやってくれる、君は暫く休みなさい』と告げられた。
……そういうわけで当時、ペルモンドはどこかの精神科病棟に入院させられていたし、シスルウッドはひと月ほどぺルモンドと会ってはいなかった。ぺルモンドに関する情報は、週に一度だけ顔を合わせるぺルモンドの後見人だという人物マクスウェル=ヘザー・トンプソンから得る程度。ぺルモンドの状態をシスルウッド自身がその目で見たわけでもなく、またどんな場所にぺルモンドが入院させられているのかも知らなかった。
「ダーレンには悪いけど、ペルモンドに会わせることはできないよ。それに今の状態のペルモンドと会ったところで、ダーレンが何かを得られるとも思えないし。場合によってはダーレンが怪我するかもしれないから。それか、軽い怪我を負うよりもひどいショックを心に受けるかも」
最後に見たぺルモンドの姿――いつもなら悲鳴を上げて逃げるはずの制服警官を前にしても微動だにせず、されるがままといった感じでどこかへと連れて行かれたぺルモンドの『抜け殻』のような様子――を思い出しながら、シスルウッドはそう言う。そんなシスルウッドは、ダーレンの残念がる顔も思い浮かべていた。
シスルウッドがぺルモンドと親しくし始めるよりも前から、たしかにダーレンは「ぺルモンド・バルロッツィという人物に憧れている」というようなことを言っていた。ダーレンの場合は、ここ数か月の報道を見て思い立ったようにそう言っている、というわけではないのだ。ミーハー根性でおねだりをしているわけではなく、きっとダーレンは本当に会いたいのだろう。憧れの天才、ぺルモンド・バルロッツィに。
だがシスルウッドは知っている。あれは狂気の大天才ではなく、頭の壊れた病人だと。思考回路のイカれた狂人や薬物中毒の廃人に接してきたシスルウッドだから、あの病人の相手ができているわけで。つまりぺルモンドという人物は、ダーレンが憧れているような『若くして成功した、芯の強さを持つ尊敬すべき天才』ではないし、気弱なダーレンが相手をできるような存在でもないのだ。
「そんなにひどい状態なのか、彼は……」
深刻そうに語るシスルウッドの姿を見て、レーノンも遂に笑顔を消す。シスルウッドの言葉にそう返事をしたレーノンは、シスルウッドを介して狂気の大天才が持つ本当の“狂気”の一端を垣間見たためか、すっかり覇気を失くしていた。
そしてシスルウッドは、そんなレーノンに追い打ちを掛けるように、こんなことを語った。「そう、ひどい状態。後見人だっていうひとから聞いた話によれば『地獄と辺獄の堺を永遠に彷徨っている亡霊みたいな顔をずっとしてる』らしい」
「そりゃどういうことだ?」
「ボーっとして何も考えていない無の状態か、泣き叫んで自傷するか、その二極しかないような状態なんだってさ。精神科医からも、ホスピスへの入所を勧められるひどさらしいよ。環境依存症候群っぽいとか、なんとか、先生はそんなことを言ってたとか、そう聞いたっけなぁ……」
「……」
「外からの刺激が何もないと本人は無の状態になって、全く動かなくなる。目は開いてるけど意識は醒めてなくて、ボーっと夢を見続けているような、そんな状態らしい。会話はほぼオウム返しで成立しないみたいだし。食事とかも『誰かが傍で何かを食べている様子』って情報がないと、目の前にあるものを認識しないっつー状態らしくて。――狂気じみてるって、後見人のひとが言ってた。精神科医もお手上げだってさ」
「それはたしかに……ダーレンには刺激が強すぎるな……」
無糖のコーヒーを静かに啜ると、レーノンはそう言って溜息を零す。そんなレーノンは、ここ数か月の自分を恥じていた。報道番組で取り上げられる『神経質で気難しい、やたら攻撃的な若者』の姿を、世間一般と同じようにエンターテイメントの一種として消費していた浅はかな自分のことが恥ずかしく思えていたのだ。狂気じみた言動の裏側に隠れていたものを、レーノンは見抜けていなかったのだから。
とはいえ。意図的に歪曲された情報の山の中から、真実の断片を見出すのは困難というもの。執念深い調査者でもない限り、通常は不可能だ。故にシスルウッドは、収まりが悪いといった顔をしているレーノンのことをとやかく言ったりはしない。代わりにシスルウッドは、レーノンに代替案を提示した。「まあ、どうしてもって言うなら、あいつの後見人だっていうマクスウェル=ヘザー・トンプソンってひとにお願いしてみなよ。あのひとに、ペルモンドに関する事務的なことは頼んであるから。……彼女、たしかレーノンの元同僚だったよね?」
「ああ、あいつか。そうか、そういえばあいつが彼の担当者だったな……」
「でも、僕はダーレンに真実を明かすことをお勧めしない。憧れは憧れのままにしておいたほうが良いと思うんだ。スケジュールに空きが無かったとか、そう誤魔化すのが一番じゃないかな」
トドメの一言をシスルウッドは放つ。するとレーノンは肩を落とし、気まずそうに笑った。甥であるダーレンの望みを叶えるのは無理そうだと、レーノンもよく分かったようだった。
それから軽い雑談を十数分ほど交わしたのち、レーノンは帰っていった。そうしてレーノンが立ち去ったあと、入れ替わるようにある人物がシスルウッドに近付く。このダイナーの店員であり、シスルウッドの友人であるザックだ。
「で、お前さ。いつ実家に戻るんだ?」
高校卒業後からずっと、家族で営むこのダイナーで働いているザックは、彼の父親の下で料理人として修業しつつ配膳などを担当している。そんなザックは、レーノンが帰ったことによってシスルウッドの他に客が居なくなった今、シスルウッドに話しかけに来たというわけだ。
ザックの言う“実家”とは、エルトル家ではなくバーンズ・パブのことを指している。まあ、つまり、いつものアレが始まったのだ。ぺルモンドなんて狂人は捨てて、早く元いた世界に戻ってこいという説教が。そしてシスルウッドは、いつもと同じセリフを発した。
「あいつを見捨てるわけにもいかないよ。この短期間のうちに、返しきれないぐらいの恩を作っちゃってるからさぁ」
「恩というより、借金だろ」
ザックからもいつものツッコミが入ったところで、シスルウッドは苦笑する。そして「またいつものお説教が始まるのか……」と身構えたシスルウッドだったのだが、ザックはただわざとらしい溜息を零すだけで、それ以上のことは言ってこなかった。
そしてザックが溜息を零した直後。厨房から、ザックの父親がザックを呼ぶ声が聞こえてくる。父親の声を聞いたザックは、何かもの言いたげな視線をシスルウッドに送りつけたあと、厨房の方へと向かって行った。
夜の営業に向けて、料理の仕込みでもするのかな。……そんなことを考えつつ、ザックを見送ったシスルウッドだったのだが。しかし彼の予想は外れ、ザックは思いのほかすぐにシスルウッドの許に戻ってきた。
見慣れたスープ皿を載せたプレートを携えて、ザックはホールに戻ってくる。そしてザックはシスルウッドの居る席の傍に来ると、シスルウッドの目の前のテーブルにスープ皿を置いた。
ぱっくりと開いた二枚貝クォーホグと柔らかいジャガイモ、それと豆がゴロゴロと入っている白いスープ。ほんのりとセロリが香るクラムチャウダーは、このダイナーで一番人気の看板商品であり、シスルウッドにとっても馴染みのあるものだ。……が、今日はこのクラムチャウダーを注文した覚えはシスルウッドにはない。というのも今日はこのダイナーに長居するつもりはなく、レーノンとの話が終わったらすぐに帰るつもりでいたからだ。
とはいえ、この時のシスルウッドは空腹であった。そしてこの時、シスルウッドの居候先の家主は留守にしていた。一人ではロクに飯も食えない家主の為に一旦帰宅して昼食の用意をする必要が、この時のシスルウッドにはなかったのだ。
となれば、別にもう少しだけここに居るのも悪くは無いか、という結論をシスルウッドは出す。そして彼は厨房から顔を出したザックの父親に小さく手を振り、「ありがとうございます」と伝えた後、机を挟んだ向かい側の席に座ったザックに、小声でこう訊ねた。「……皿洗いぐらいは手伝ったほうが良い?」
「今ぐらいの時間帯じゃ、まだ客もそんな入ってないから洗うもんもないし。気にすんな」
ザックはそう答えつつ、テーブルの端に置かれていたカトラリーボックスを雑に掴むと、それをシスルウッドの前にガサッと置いた。そしてシスルウッドはカトラリーボックスの蓋を静かに開けると、ぼってりと丸っこい形をしたスープ用スプーンをひとつ取り出し、カトラリーボックスを元あった場所に戻す。それからシスルウッドは手に取ったスプーンの先をスープ皿の中に落とすと、頬杖を突いた。そんな彼はすぐクラムチャウダーに手を付ける――ことはせず、肩を落とし、溜息を吐く。出来立てでまだ熱いクラムチャウダーが少し冷めるのを待ちながら、シスルウッドはふと思ったことを呟いた。
「……正直なことを言うとさ。最近、パブに帰っても居心地が悪くて。常連のジジィババァからは変に気を遣われるし。客のフリをして紛れ込んでくる嫌なヤツとかも居て、気が休まらないんだ。そういう嫌なヤツをライアンが怒鳴りつけて追い出してる姿を見るのも、いい気はしない。僕の所為で迷惑をかけてるなって、つくづく感じるというか。だから、あんまり帰りたくないんだ」
「たしかに、最近お前の周りは騒がしそうだもんなぁ……」
「そうなんだよ、本当に。知らない連中に追い回されて、鬱陶しくて仕方がない。――その点、ここは落ち着く。大学の知り合いも居ないし、静かだし。それに、ここに変な客が来ることはない。それに料理は美味しいし、クラムチャウダーは最高」
シスルウッドの身に何かと不運なことが起こる冬。そんな憂鬱な季節を少しマシなものに変えてくれるのは、いつもこのクラムチャウダーだった。今年もまた、こいつにお世話になる時期が……――といったことをシスルウッドがふと考えていた時。ダイナーの出入り口が開かれ、外の冷気が暖房で暖められた店内に流れ込む。
ザックとシスルウッドの二人は新たに入店してきた客を見やった。そしてザックは店員としての役目を果たすべく立ち上がり、シスルウッドは驚きから目を点にする。こんな場所に来ることは無いだろうと高を括っていた大学の知り合いらが訪ねてきたからだ。
「あっ、アーティーじゃん」
といっても、極左にかぶれたイカれぽんちの大学生たちではなく、ダイナーを訪ねてきた比較的まともな知り合いたちだった。ぺルモンドを介して知り合った才女たち三人組である。
真っ先にダイナーの中へ飛び入り、店内にいるシスルウッドを見つけて首を傾げさせたのは自由人のジェニファー・ホーケン。続いて、寒そうに肩をぶるりと震わせつつ店内に入ってきたのは、狂人ぺルモンドの恋人――であると周囲の者たちは思っているが、しかしこの時点では当人たちはまだ明言していなかった――エリカ・アンダーソン。最後に入店し、出入り口の扉を閉めたのは、エリカ・アンダーソンの幼馴染でありデリック・ガーランドの恋人であるクロエ・サックウェル。来店したのは、その三人組だ。
ジェニファーの発した一言が、ダイナーの中に奇妙な空気をもたらした。ジェニファーに続き、シスルウッドの存在に気付いたエリカとクロエの二人は、シスルウッドのほうに小さく手を振るが。しかしシスルウッドは気まずそうに笑い、口角を引きつらせるだけ。――静かに食事を楽しめると思った矢先、それを台無しにされたのだから、正直なところ彼の気分は最悪だった。
また戸惑っていたのはシスルウッドだけではない。ザックも同じだ。
「えっと。彼女たち、お前の知り合いか?」
僅かに開いているシャツの首元から、体に彫り込まれたかなりイカついタトゥーが覗いているジェニファーを前にして表情を強張らせるザックは、助けを求めるような視線をシスルウッドに送りつけつつ、シスルウッドにそう問うてくる。だがシスルウッドが答えるよりも、軽率なジェニファーがノリで強引に押し切るほうが先だった。
「アタシはジェニファー。黄色いヘアバンドがエリカ、短髪がクロエ。アタシら三人とも、彼のダチだよ。――んじゃ店員さん、アタシらはアーティーと同じ席に座るねー」
相手の事情を慮ることをせず、グイグイと我が道を押し通すジェニファーに、同じく押しが強いほうであるはずのザックも押し切られる。あまりにも横暴なジェニファーの姿に、同伴者のクロエも引いていた。真面目なエリカに至っては、戸惑い顔のザックに対してジェニファーに代わり謝ってすらいた。
しかし、誰のことも気に掛けず自由に、そして非常識に振舞うのがジェニファー・ホーケンという人物だ。彼女は店員であるザックをスルーし、シスルウッドの目の前の席にちゃっかり座ると、シスルウッドの前に置かれていた未だ手つかずのクラムチャウダーを凝視する。――と、クラムチャウダーのスープ皿をスルッと彼女自身の前に移した。そしてスープ皿の中に入っていたスプーンの柄を握ると、さも当たり前のようにクラムチャウダーを食し始める。
「このクラムチャウダー、おいしー。やっぱアタシの嗅覚は正解だったねー」
そうして数口ほど勝手に食べた後、ジェニファーはそのスープ皿をシスルウッドの前に戻そうとしたが、けれどもシスルウッドはそれを拒み、ジェニファーの前へと押し返した。それからシスルウッドは抑揚のない声でジェニファーにこう言った。
「それは君にあげるよ……」
自由人ジェニファーが居る場では面白いことが起こるが、しかし気が休まることはない。それを経験から知っているシスルウッドは、今日のところは退散することを決意する。シスルウッドは椅子から立ち上がり、テーブルを離れようとしたのだが……――結局、それは上手くはいかなかった。新たにやってきた二人、エリカとクロエの二人によってシスルウッドは席に押し戻されたのだ。
テーブル席の方へと歩いてきたエリカとクロエの二人とすれ違おうとした時、シスルウッドの腕はガサッと乱雑に引っ掴まれる。彼を引き留めたのは、悪意ある笑みを浮かべたクロエ・サックウェルだった。
「つれないなー、アンタ。ちょっとぐらい付き合ってくれたっていいじゃん」
シスルウッドとクロエの接点は、この時点ではあまり無い。偶にエリカという人物を介して会う程度で、ただの知人でしかなかった。そして当時のシスルウッドにとってクロエという存在は『不気味で食えない人物』という認識。距離を置いた方が良いという警戒心を彼女に対して抱いていたのだ。そういった思いもあって、シスルウッドは逃げようと考えたのだが……――思い通りにはいかないようだ。
立ち上がったのも束の間のこと、クロエに腕を引っ張られるシスルウッドは元居たテーブル席に戻される羽目になる。そうして再びシスルウッドが着席したとき、メニュー表を携えたザックがテーブルにやってきた。
「ご注文が決まりましたら、そちらのベルでお呼びくださーい……」
そんな風に店員らしく振舞うザックは、けれども視線を客である女性三人衆ではなくシスルウッドに向けていた。ザックはまず気まずそうに苦笑うシスルウッドを見て、次にジェニファーが奪い取ったスープ皿を見て、それからまたシスルウッドを見やる。そしてザックは意味深な目配せをシスルウッドに送っていた。
シスルウッドは肩を落とし、溜息を零す。本当にツイていないと、彼はそう感じていた。だが、クラムチャウダーを奪われた程度の出来事はまだ序の口。この日最大の不運は、この時点ではまだ起こってすらいなかった。
不運の始まりは、クロエのなんてことない一言からだった。エリカやジェニファーがメニュー表を見ながら、注文を決めていた時。クロエの視線はテーブルの上に開かれたメニュー表ではなく、壁に掛けられた写真に釘付けとなっていた。
その写真は、三年前に撮られたもの。ザックが組んでいるバンドの公演に、シスルウッドが最後に参加した時のものだ。ギターボーカルのザックを中心に、バンドメンバーの四人が演奏しているシーンが切り取られた写真が、安物の額縁に入れられて壁に掛けられている。そんな写真を食い入るように見つめているクロエを警戒しながら、シスルウッドが腕を組み、顔を少し俯かせた。
そのときだ。クロエがポスターを指差し、こう呟いたのは。
「……これって、スリッパー・リンペッツじゃん」
スリッパー・リンペッツとは、ザックが組んでいるバンドの名前である。
スリッパのような形をしたカサガイに似た巻貝、スリッパー・リンペット。牡蠣養殖場を乗っ取る厄介者として名高いこの貝が、バンド名の由来となっている(これはザックが決めたバンド名である。なぜスリッパー・リンペットなのか、その理由はザックしか知らない)。
そして『スリッパー・リンペッツ』というこのバンドは本格的に活動をしていたわけではなく、言うなれば学生が趣味の一環でやっていたアマチュアバンドでしかない。地元ですら知名度は殆どなく、あのヴェニューに通っている者しか知らないような存在なのだ。――にも関わらず、クロエはそんなアマチュアバンドの名をハッキリと発した。迷いを一切見せず、写真を見て断定してみせたのだ。
シスルウッドはそのことに驚くと同時に焦り、クロエらから顔をそむけた。と同時に彼は気付く。そういえばクロエの恋人はデリック・ガーランドだった、と。デリックは、あのヴェニューの店主の息子だ。それにクロエも、地域こそ違うが同じボストンで生まれ育った人間だと聞いている(シスルウッドやザックはチャールズ川に面した地区『ビーコンヒル』で育ったが、クロエらはボストンの外れ、南西にある地域『ウェスト・ロックスベリー』だと聞いていた)。シスルウッドがそれまで気付いていなかっただけで、クロエとは大学で知り合ったエリカを介して出会うよりも前に、同じ場に居合わせていたことがあったのかもしれない。
……いや、そういう機会があったのだろう、確実に。となればクロエの幼馴染だというエリカとも、ぺルモンドを通じて知り合うよりも前に、既に出会っていた可能性が高い。
「…………」
そんなこんなでシスルウッドの胃がキリキリと痛み始めたのだが、しかし彼ははたと考えを改める。考えてみればこの時の彼には、正体が露呈したところで負う痛みはなかったのだ。
ハイスクール時代は「父親にバンド活動がバレたら困る!」と怯えていたからこそ、正体を必死に隠そうとしていたわけで。名実ともに父親と、及び父親が属するコミュニティと縁を切っていたこの時の彼には、考えてみれば怖いものは何もなかった。……が、なぜだろうか、恥ずかしいという感情が湧きあがってきて堪らない。
恥ずかしさから頭を抱えるシスルウッドの隣で、壁に掛けられた写真を見つめるクロエは淡々と思い出を語り始める。そしてクロエの語った言葉は、認知されていた喜びから密かに目を輝かせていたザックの心を容赦なくぶった切っていった。
「あのバンド、前は好きだったんだけど。三年ぐらい前にウディ・Cが抜けてからパッとしなくなって、なんか心が離れちゃったんだよね。もともと突出したものが何もない曲しか作ってないバンドだったから、余計に。彼の荒ぶるパフォーマンスがあったからこそ、あのバンドにはそこそこファンが付いてたのにさ。あれが上手いのかどうなのかは私にはよく分かんないけど、でも人気あったよね、彼のパフォーマンス。それで……たしかウディ・Cはベース担当のケヴィンと不仲になって脱退しちゃったんでしょ? ケヴィンもテクニックは凄いと思うんだけど、ただ上手いだけで他に面白さとか取り柄も無いしなぁ。見た目もむさくるしい感じでさ、爽やかさもないしね。あとギターボーカルのザックも、すごく歌が上手いというわけでもないし、印象に残らないような流行に乗った個性のない曲しか書かないし、それにウディ・Cみたく聴衆を乗せるのが上手いわけでもないし。ドラムスに至っては平々凡々すぎて……」
シスルウッドの演奏を『上手いかどうかは分からないけど、なんか人気があった荒ぶるパフォーマンス』と断じ、続いてケヴィンをボロクソに貶し、ザックを『個性が無い』とぶった切ったクロエは、そう言い終えると溜息を零す。そのクロエの表情は、なんだかんだで過去を懐かしんでいる様子だった。そしてクロエの追想に呼応するように、エリカも僅かに微笑む――やはり同郷であるエリカも、スリッパー・リンペッツなるアマチュアバンドを知っていたようだ。
そして傷心のザックが悔しそうに下唇を少し噛んでいる姿を見やるシスルウッドは、ハイスクール時代のことを思い出す。放課後にバンドメンバーたちがこの店に集まり、隅のテーブル席を陣取って、何かをギャーギャーと言い合いながら五線譜の空白を埋めていたときのことを。
シスルウッドはいつも厨房で皿洗いをやりながら遠巻きにその光景を見るだけで、作詞作曲という作業に参加したことは無かったが。しかし彼はバンドメンバーたちが仕上げた楽譜を見た時にいつもこう思っていた。どの曲も似たか寄ったかで差別化が図られていないし、面白みもなく、歌詞も直情的で捻りや芸が無いと。とはいえ、そんな本音は一度も明かしたことは無い。なにせ彼は作曲に関わっていないし、関わるつもりもなかったからだ。ただ演奏するだけの立場で曲に文句を付けるのはおこがましいと、流石のシスルウッドも弁えていたのである。
だが、もし彼が作曲に参加していたら? ……たぶんトラッド曲のように、チューンとターンの繰り返しからなるようなシンプルなものを書いていたはずだ。歌詞は、きっと誰からも理解されないような、そんな難解なものになっていただろう。そしてそれは、そんなに面白い曲にはならない。退屈だと唾棄されるものが完成しそうだ。そう考えると、やはりシスルウッドには他者のことをとやかく言う資格が無いのかもしれない。
「……」
シスルウッドが数年前のことを思い出していたとき。彼の向かいに座るジェニファーは、ジッとクロエを見ていた。北米合衆国の西海岸側の出身であり、地元民ではない自由人ジェニファーは、不思議がるようにクロエの話を聞いていたのだ。
大陸の反対側では一度も聞いたことが無いようなバンドについて淡々と、しかしかなり詳しく語るクロエの姿を見て、ジェニファーは多少の興味を抱いた様子。
「へー。クロエ、詳しいんだね、そのバンドに」
シスルウッドから奪い取ったクラムチャウダーをパクパクと食べながら、モゴモゴとそう喋るジェニファーは、クロエにそう声を掛ける。すると壁に掛けられた写真から手元のメニュー表へと視線を移したクロエは、メニュー表に書かれている文字を目で追いながら答えた。
「まあね。デリックの親が営んでるヴェニュー、あそこに私もエリカもよく行ってたから。そこでスリッパー・リンペッツは演奏してたんだ」
「ふーん。じゃあデリックとの付き合いって長い感じ?」
「そう。私もエリカもデリックも、同じハイスクールに通ってたから。私とデリックとは十六の頃から付き合ってる。で、エリカは機械とかの方面に明るいじゃん。だからデリックに頼まれて、機材の修理の手伝いとか偶にやらされてたよね」
「へー。デリックって昔から人使い荒かったの?」
「いや、デリックっていうよりかは、デリックのお父さんが酷かった。――そうそう、デリックのお父さんがすごくケチでさ。エリカに修理は頼むくせに、エリカの電車代は出してくれなくて。エリカのお母さん、いつも怒ってたよね。で、話を聞いたデリックのお母さんがエリカん家に謝りに来てそれまでの交通費をまとめて払ってくれる、っていうのがお決まりのパターンだった」
「ほぉー。じゃあエリカとの付き合いも、デリックと同じぐらいだったりする?」
「いや、エリカとはずーっと一緒だね。物心つく前からの仲だよ」
自由人ジェニファーが興味を示したのはアマチュアバンドのことではなく、クロエらの関係だったようだ。デリックとクロエの関係や、エリカとの付き合いの長さなどをジェニファーが訊ねているところから、シスルウッドはそう判断して安堵する。
このまま話題が別の方向に逸れてくれれば。――彼はそう期待をしたのだが、しかし望んだ通りには事は運ばなかった。話を別の方向に逸らしたジェニファーは、話を元の方向に戻したのだ。ジェニファーは壁に掛けられた写真を指差すと、エリカに視線を送り、こう訊ねる。
「ってことは、エリカもあのバンドを知ってるの?」
強引に戻された話題に、シスルウッドは顔を蒼褪めさせる。そして彼は再度、厨房とホールの境目に立つザックを見やった。ザックのほうもシスルウッドと同様、戦々恐々としている。先ほど自身が結成したバンドをボロカスに貶されたばかりのザックは、もうこれ以上は何も言われたくないというような顔をしていた。
だが手厳しく容赦のないクロエと違い、エリカは優しく穏やかで、何より気配り上手な人物だ。場の空気をわざわざ悪くするような余計なことは言わないし、そもそも彼女は人を悪く言うような人物ではない。穏やかに微笑むエリカは、ポジティブな感想のみを述べるに留める。
「私はそこまであのバンドに詳しくないけど、でも、フィドラーの人が好きだったな。シヴ・ストールバリがあのヴェニューでライブを開いた時に、サポートメンバーとして出てた人。あの時、鋭くてザリザリしたあの音がシヴの世界観にマッチしてて、いいなって感じて。それから少しだけスリッパー・リンペッツを追ってた。手拍子の求め方とかがすごく自然で。フィドラーの彼、かっこよかったよね」
フィドラーの彼、つまり『ウディ・C』を褒めるエリカの言葉を聞き、シスルウッドが一転、顔を少し赤くしていたとき。その一方でザックは己への批判がこれ以上来なかったことに安堵しつつ、しかし言及が一切無かったことについて悔しさをにじませるように拳を握りしめていた。
……だが、少し和んだ空気をクロエが再度ぶち壊す。クロエはまた、爆弾のような言葉をボトボトと落としていくのだった。
「まっ、スリッパー・リンペッツは最後のライブが散々で、それ以降、かれこれ一年は見てないんだけどねー……」
「散々って?」
クロエの発した黒い言葉に、自由人ジェニファーはすかさず飛びつく。そしてシスルウッドもまた、その話題に興味を惹かれた。なぜなら一年前ぐらいに開かれたという『スリッパー・リンペッツによる前回のライブ』の結果の話を、シスルウッドは聞いたことが無かったからだ。
大学に進学して以降、勉学とアルバイトの両立で忙しかったシスルウッドは、前回のライブに登壇することを断っていた。スケジュールに空きがなく、都合がつかなかったためだ。そしてザックからは「参加しないか?」と声を掛けられたその一度以降、ライブに関する話を聞かされていない。前回のライブがどのように終わったのか、それをシスルウッドは知らなかったのだ。
興味から少しだけ前へと身を乗り出したシスルウッドは、と同時に再度ザックを見やる。――ザックは頭を抱え込んでいた。
だが頭を抱えている“店員”の様子など視界に入っていないクロエは、ザックにとっての苦い思い出である出来事を淡々と語っていく。
「フィドラーが脱退しちゃったから、代わりに別のバンドのヴァイオリニストが出演したの。ロワンっていうヤツなんだけど。あの演奏が本当にサイテーでね。すまし顔して直立不動で、なんかお上品ぶってる感じの演奏でさ。悲鳴みたいな音だし、それに態度が『俺様の素晴らしい演奏を黙って聴きやがれ、下級市民ども!』って感じで、本当に面白くなかったの。ロワンのソロパートが来た途端、観客もどんどん帰っちゃって。さらにギターボーカルのザックも途中で演奏を切り上げて、帰っちゃったのよ。それでライブは終わり。以降、スリッパー・リンペッツは活動休止中ってわけ」
シスルウッドが参加しなかったライブには、シスルウッドの代わりにロワンが立っていたようだ。シスルウッドの愛用するフィドルを『ボロの安物』と貶し、シスルウッドの演奏を『ひどく、汚い音』と酷評した、あのロワン・マクファーデンが。
しかしシスルウッドの代わりに登壇したロワンが得た評価は『本当にサイテー、本当に面白くなかった』だったようだ。観客はロワンのパートが始まった途端に退席していき、ザックすらも演奏を途中で切り上げて離席し……――きっとそれは、とても素晴らしいライブだったに違いない。
裸の王様ロワン・マクファーデンが誰も居ない会場でひとり勇敢にヴァイオリンを奏でている姿を想像しながら、シスルウッドは顔を伏せさせてクスクスと笑い出す。と、ひとり不気味に笑うシスルウッドにジェニファーが気付いた。
ジェニファーはスプーンを器用に扱い、クラムチャウダーに入っている二枚貝クォーホグの殻から身を剥くと、殻を器の隅に寄せる。そして殻から外した身をパクリと食べると、彼女はシスルウッドをジトッと見て、それからモゴモゴと喋った。
「……どうしたの、アーティー?」
そう問いかけるジェニファーの声を聞き、シスルウッドは徐に顔を上げる。そして彼は少しだけ顎を引くと瞼を伏せ、口角を少しだけ上げて、歯を僅かに覗かせた。そんな穏やかな笑みを浮かべる一方で、シスルウッドは穏やかならざるドス黒い本音をボトボトと零していく。
「――それ、最高じゃないか。あれだけ僕をボロクソに
そう言い終えたシスルウッドが再び瞼を開けた時、彼の目に映ったのは驚きからあんぐりと口を開けるジェニファーと、初めて見るシスルウッドのどす黒いダークサイドに引いているエリカの顔だった。続いてシスルウッドが聞いたのは、隣に座るクロエの溜息。
彼はクロエのほうをちらりと見やる。クロエが彼に冷たい視線を送りつけていたことに、彼はそのとき気付いた。そして気まずそうな苦い笑みをシスルウッドが浮かべれば、クロエはまた溜息を零す。それからクロエはシスルウッドを睨むように見て、こう言った。
「普段のアンタはクソださいチェック柄のシャツとアーガイル柄のベストを着てて、クソださい眼鏡をかけてて、クソださい雰囲気を完璧に決め込んでたから、今この瞬間まで全然気付かなかったよ。ウディ・Cの正体が、まさかアンタだったとは……」
糾弾まがいの視線を送りつけてくるクロエに、シスルウッドはたじたじとしてしまう。――が、直後に彼は疑問を覚えた。どうして責められなければならないのか、と。
顔を使い分けて正体を隠し続けていたのは、そうしなければならない事情があった為だ。そう、別にシスルウッドは悪いことをしたわけではないのだ。それに今まで正体を明かしていなかったのは、そもそも正体を訊かれていなかったから。クロエらに対して積極的に正体を隠していたわけではない、ただ明かす必要が無かっただけだ。
自分は何も悪くない、だから後ろめたさを覚える必要はない。そう意見を固めたシスルウッドは即座に態度を変えた。彼は気まずそうな笑みを消し、開き直ったかのような真顔になる。するとクロエは再度、不機嫌そうな溜息を零してみせた。そしてクロエとシスルウッドの二人を観察するエリカは、当たりが柔らかい割には食えない人物であるシスルウッドに対して気味悪がるような視線を送っていた。
その一方で、自由人ジェニファーは何も気にしていない。シスルウッドが隠していた『ウディ・C』という一面に先ほどまでは驚いていた彼女だが、しかしそのことはもうどうでもよくなっていた。そんな彼女が今気になっていたのは、シスルウッドに対して漠然と感じている違和感。何かがいつもと違う、と彼女は感じていたのだ。
「てか今日のアーティー、なんかいつもと雰囲気が違うね。なんで?」
ジェニファーは無邪気にそう問う。そして問いに答えたのは、不機嫌そうなクロエだった。
「いつものクソださい赤縁の眼鏡をかけてないからでしょ」
いちいち棘のある言葉を発するクロエに、少しずつだがシスルウッドの不快感も募っていく。彼は顔を少しだけムッとさせた。けれどもそれは牽制にはならず、むしろクロエの敵対心を煽る結果になる。眉間に皴を寄せるクロエは、より辛辣な言葉をネチネチと浴びせてきた。
「それにいつものアーティーはカッコよくシャツを着こなしたりしないし、カッコつけて前髪あげたりとかしない。なんか今日のアーティーは垢抜けてて気持ち悪いんだけど」
「いや、こっちが素なんだ。気持ち悪いとか、そんな貶さないでくれないか?」
あまりにも理不尽すぎる攻撃に、流石のシスルウッドも嫌気を起こす。彼はわざとらしく拗ねた態度を取り、わざと悲しそうな顔をしてみせた。――が、クロエもまた彼と同様に一筋縄ではいかない人間である。それに彼女はあからさまな演技につられるほど、単純で優しい人物ではなかった。
「あー、思い出してきた。そうそう、こんな感じだったね、ウディ・Cって。わざとらしくキザぶったあと、それを素直風な計算尽くの愛嬌で誤魔化そうとしてくる、この打算的な感じ! けったくそ悪いわ~」
「クロエ、やめなさい。アーティーが困ってるでしょう」
ネチネチと攻撃を仕掛けてくるクロエを見かねた友人のエリカは、嫌なオーラを発しているクロエを制する。心優しいエリカに諫められたことによってクロエはバツが悪くなったようで、唇を尖らせるクロエはそれ以上何も言ってこなかった。
そうしてクロエの攻撃が止んだあと、女性陣は注文を決めていく。各々が自分の注文分をエリカに渡し、エリカが纏めて代金を支払う方向で話がまとまった段階でエリカがベルを鳴らし、テーブル席に来たザックに注文を伝えた。
ツナサンドひとつ、パストラミサンドひとつ、ターキーサンドひとつ、BLTサンドふたつ、グリーク・サラダふたつ、フィッシュ・アンド・チップスひとつ、フライドシュリンプひとつ、ホットコーヒーふたつ、紅茶ひとつ。――確認の為に注文を読み上げるザックの姿を見ながら、シスルウッドはふと思う。性格が出てるな、と。
どちらかといえば健康志向であるエリカはツナサンドとサラダ、それとコーヒーを頼んでいる。加えて気配り過剰なエリカは「みんなも食べるよね?」と、共有前提でフィッシュ・アンド・チップスも注文した。それもフィッシュ・アンド・チップスの代金はエリカ持ちである。あまりにも人が好すぎていた。
どちらかといえば小食な方であるらしいクロエは、コーヒーと、彼女の大好物だというパストラミのサンドウィッチだけを注文。油っぽいものは今は控えていると言い、やんわりとフィッシュ・アンド・チップスはいらないと断っていた。
そして底なし胃袋の持ち主でありモラルは持っていない自由人ジェニファーはというと、シスルウッドのクラムチャウダーを横取りしておきながらも、更に重たいものをいくつか注文していた。ターキーサンドひとつにBLTサンドふたつ、更にグリーク・サラダとフライドシュリンプ、それと紅茶。――ジェニファー曰く「実家がわりと金持ちだし、パパが超優しくて、仕送りいっぱいくれるの~」という環境を持っているからこそできる大胆な注文だろう。
注文を聞いていたザックは、女性三人にしては妙に多い注文量に困惑していた様子。注文を書き留めたメモを携えて厨房に向かっていったザックは、歩きながら少しだけ首を傾げていた。
数分後、完成した料理の第一陣をザックが運んでくる。ツナサンド、パストラミサンド、ターキーサンド、ドリンク類をプレートに載せてテーブル席にやってきたザックは、慣れた手つきで料理をテーブルの上にパパッと並べていった。
そうしてザックの手が止まったタイミングを見計らって、シスルウッドはスッと椅子から立ち上がる。ザックに話し掛けながら、テーブル席からさりげなく離れようとした――のだが。
「それで、ザック。ロワンの話って本当なのかい?」
ザックの後を付いていく風を装って静かに立ち上がったシスルウッドだったが、隣に座っていたクロエにそんな誤魔化しは通用しなかった。立ち上がり、席を離れようとしたシスルウッドの腕を彼女は素早く掴み、席に引き戻したのだ。
立ち上がったかと思いきや、席に引き戻されて再度座らされる。――そんなシスルウッドの姿を、ザックは視界の隅に捉えていた。驚きから振り返るザックは、振り返った先にいたシスルウッドを見たあと、緊張からやや引き攣った笑みを浮かべる。不満タラタラといった表情を浮かべるシスルウッドのその隣に、鬼の形相をしたクロエの姿があったからだ。
鬼のような女性に捕まっている友人。しかし助けられるシチュエーションではないと判断したザックは、怯えたような目をすることしかできない。かといって、この場をすぐに離れるだなんて薄情なことをするのは憚られた。そしてザックは、取り敢えず先ほどの問いに答えることにする。どことなくおどおどとした口調で、ザックはこう言った。
「あ、ああ。ロワンはとにかくムカつく野郎だった。俺たちのことを『低所得者層のドブネズミ』ってな風に見下してんだなって感じがすごく漂ってたんだ……。それでもオレたちはグッと堪えて、ライブをやろうとしたんだよ。だけどよ、あの野郎、一発目からひどい演奏をぶちかましてきたんだ。あんだけ偉そうな態度を取ってたクセに、観客をドン引きさせるような演奏しかできないのかって、マジで呆れたぜ。それで嫌になって、オレ、つい帰っちまったんだよ。デクランもケヴィンも帰った。そしてオレたちはヴェニューのオーナーから出禁を食らったってわけさね……」
しかめっ面のクロエから浴びせられる視線に怯えながら、ザックはそう語った。そして話に区切りがついたところでザックは厨房に戻っていこうとする。だがそのザックを呼び止めるように、クロエが舌打ちし、鋭い音を鳴らした。
あいつの次はオレかよ?! ――とザックがビクビクした様子で足を止め、その場に立ち尽くしたとき。振り返ったザックの目をジトーッと見つめるクロエは、ドスの効いた低い声でこう言った。
「そうそう。それで今、あのヴェニューの経営が傾いてるの。だからデリックは血眼で探してんだ、スリッパー・リンペッツの正規メンバーをね」
次にクロエは隣に座るシスルウッドを睨み付ける。彼女は続けてこう言った。
「あのヴェニューで一番人気あったバンドって、あんたたちだし。あんたたちが戻ってくるってなったら、離れてたお客も戻ってきて、お金もそれなりに入ると思うんだけど。それにヴェニューに併設されたスタジオで録音して、レコードも出してくれると、なお良しなんだけどなー」
クロエは最後に再度ザックに視線を送り、そしてシスルウッドに視線を戻す。だが、シスルウッドもザックも黙り込み、顔を見合わせて苦笑うのみ。すると何らかの返答を求めるかのように、クロエがテーブルを指先で叩き始めた。
タン、タン、タン、タタン、タタン、タタタタン……テーブルを叩く指先の感覚が徐々に早まっていく。その威圧感にザックがあたふたとし始めた。それを見かねたシスルウッドはわざとらしく溜息を吐き、蟀谷を掻く。それからシスルウッドは挑発するように、間延びした声でこう言った。
「あ~、デリックかぁ~。あいつが僕たちに頭を下げに来たら、まあ考えてやってもいいよ~」
「困ってる友人の為に一肌脱ぐっていう優しさは、あんたには無いわけ?」
かなり強めの批難がクロエから放たれ、その言葉はシスルウッド……――ではなくザックの心にグサリと突き刺さる。そうしてザックが後ろめたそうに顔を伏せさせていた一方、シスルウッドは動じていなかった。彼はあくまでも舐め腐った態度を取り続け、クロエの非難を一蹴した。
「でもデリックには迷惑を掛けられてるんだ、本当に。嫌というほどにね。だけどあいつが謝罪したことは一度もない。だから、まずはそこからだね。それが条理ってもんだろう?」
「なるほど。そのふてぶてしさが、あのお調子者ぶったパフォーマンスに活きていたわけか」
キザぶった口調で自分を正当化するようなことを言うシスルウッドを、またしてもクロエは辛辣な言葉で攻撃してくる。再度エリカが「やめなさい!」とクロエに釘を刺すも、しかしクロエは再度シスルウッドを睨み付け、彼の足首に蹴りを入れてくる始末。けれども少しの痛みで狼狽するような人間ではないシスルウッドは平然とした顔を貫いた。そんなシスルウッドの様子は、更なるクロエの怒りを招いた。
――が、そこに水を差す者が現れる。自由人のジェニファーだ。
「アーティーとデリックって、そんな接点あったっけ?」
場の空気など読まず、自分が気になったことを無邪気に問うジェニファーの視界には、しかめっ面のクロエの顔や不機嫌な友人にアタフタとしているエリカの表情など入ってもいない様子。シスルウッドがクロエに足首をガンガンと蹴られ続けていることにも気付いていないジェニファーは、答えを急かすような視線をシスルウッドに送っていた。
そんな自由人ジェニファーのペースに合わせ、シスルウッドはおどけた調子でこう答える。
「ほら、デリックはよくぺルモンドの家に来るだろう? 機材を借りたり、ぺルモンドから知恵を借りたりするために。その時、あいつは序でに宅配ピザやら瓶ビールやらを持ち込むんだけど、ゴミを持ち帰ったことは一度もない。後始末をやらされるのはいつも僕だ。――ゴミ捨ても面倒だけど。一番の問題はぺルモンド。君らだって、ぺルモンドの謎のボトル瓶嫌いは知ってるだろ? 取り乱したあいつを宥めるのは大変なんだよ、かなりね」
「あー、デリックの野郎はボトル瓶を放置すんのかー。そりゃ後始末が大変だねー」
シスルウッドの言葉に、ジェニファーはそう言葉を返し、納得したような表情を浮かべる。しかしジェニファーの横に座るエリカは、不思議がるように首を傾げていた――エリカは酒類をぺルモンド宅に持ち込むことが無いため、その話を知らなかったのだ。
聞いたこともない妙な話に首を捻るエリカを、横に座るジェニファーが不思議がるように見やる。そしてジェニファーがエリカに何かを言おうとした瞬間、それを遮るようにクロエが大きな溜息を吐いた。
テーブル脇に立つザックの肩が再びビクッと跳ね上がる。するとクロエは、ビクつくザックに意味深な視線を送りつけた。そうして更にザックが縮み上がると、次にクロエは隣に座るシスルウッドをギリッと睨む。それからクロエはあることを語った。
「デリックのお父さんがさ~。半年前かな、借金だけ残して、家族を置いて逃げたんだよー。それでデリックと、デリックのお母さんが大変な目に遭ってるの、今。それでもアンタ、動かないの?」
「あっ、あのオーナーが逃げた?!」
元ボディービルダーだという噂があった、屈強な体格をしていたヴェニューのオーナー。ロワンという嫌味なヴァイオリニストばかりを贔屓し、シスルウッドをやたらとイビってきた、デリックの父親。――クロエ曰く、そのひとが失踪したらしい。
クロエの言葉を聞き、衝撃を受けるザックは裏返った声を上げる。そして流石のシスルウッドもこの件には衝撃を受けた。ワッと立ち上がったシスルウッドはその拍子に後退り、テーブル席から数歩離れる。そのときシスルウッドは同時に、頭の中に思い浮かんだ文言をそっくりそのまま口走ってしまった。
「あいつ、借金を抱えた身でありながら、ロクに働きもせずにニューヨーク旅行やら浮気なんかして現を抜かしてたっていうのか?!」
「そうなの。あいつ、遊びほうけ……――えっ?」
途中までシスルウッドの発した言葉にウンウンと頷いていたクロエだが。よくよく彼の言葉を反芻してみた結果、彼女は眉間に深い皴を刻む。そして勢いよく立ち上がるクロエは、自分よりも恋人の素行を知っていそうなシスルウッドに掴みかかろうとした。
「今、なんて言った? デリックが浮気!?」
がなり立てるクロエが伸ばした手を寸でのところで避けたシスルウッドは、ザックの後ろをくぐり抜けて店の中を駆ける。一気に出入口まで走り抜けた彼は、出入口の扉に手を掛けると一度立ち止まってザックに手を振り、合図した。それからシスルウッドはこれだけを言うと、店を出て走り去っていく。
「――ザック、つけといて。後日、今日の分は払うから!」
シスルウッドはデリック・ガーランドという人物に迷惑を掛けられっぱなしだった。持ち込んだゴミの後始末を押し付けてくる、だなんて些末なものは序の口に過ぎない。酔うと乱暴な性格に変わるデリックの対応をやらされたことは何十回とあったし、デリックがシスルウッドの財布を盗んで札を数枚くすねたこともあった。いくつかあるデリックの『秘密』を他の者には黙っていてくれと懇願されたこともある。浮気も、隠すよう求められた秘密のうちの一つだ。
そんなこんなで秘密の断片をうっかり漏らしてしまったシスルウッドだが。これ以上は言うべきでないと彼は判断し、更なるボロが出るよりも前に逃げることを選択したというわけである。
「おい、ちょっと待てや、メンヘラ製造機ッ!! 逃げんじゃねぇ!」
逃げたシスルウッドの後を追おうとしたクロエは荒っぽい怒号を上げた。しかしエリカがそれを制止する。渋々テーブル席に戻るクロエには、それまでの強気な態度が残っていなかった。
すっかりしょげて大人しくなったクロエの様子を見て、ザックはひとまず安堵する。これ以上の攻撃は無さそうだという確信を得た彼は、普段通りの人懐っこい笑顔を浮かべた。そしてザックは、先ほどクロエが発した奇妙な言葉“メンヘラ製造機”の意味を訊ねるのだった。「ところで……メンヘラ製造機って、何だ?」
「関わった人間の気を
シスルウッドから奪い取ったクラムチャウダー、その最後の一口を啜ったあと、ジェニファーがそう答える。だがジェニファーの提示したフワッとした曖昧な答えでは理解に至らず、ザックは首をひねった。
するとツナサンドから一旦手を離したエリカが、ジェニファーの回答に補足をするようにこう付け加えた。
「アーティーって誰に対しても優しく接する反面、すごくドライな態度で対人関係に臨んでいるところがあるでしょう。君はそのままで十分だと僕は思うよ~って慰めたり、君はすごく頑張ってるよ~って褒めたり、そういうことを誰に対してもするところが彼にはあるし。その一方で彼は簡単に人を冷たく突き放す。甘ったれるな、寄りかかってくるな、って風に。かと思えば、二つ返事で手を貸してくれたりするときもあるし、本当に優しいときもある。その寒暖差の大きさが人を混乱させて振り回してるというか。だから精神的に自立していない人は、彼の本心が分からなくなって病んじゃうのよ……」
噛み砕かれたエリカの解説を聞いたザックは、傾けていた首を真っ直ぐに戻す。メンヘラ製造機という聞きなれぬ言葉の意味を知り、それが友人のあだ名として定着している理由にザックは納得したのだ。
思ってもいない優しい言葉を軽率に嘯いて微笑んだかと思えば、次の瞬間には真顔になって猛毒のような言葉を吐き捨てる。それがザックの知っているシスルウッドであり、女性三人衆の知っているシスルウッドも同様のようだ。そして、そんなシスルウッドの性質はエリカが言うところの『メンヘラ製造機』に当てはまるような気がしなくもない。
腕を組み、少し考え込むザックは「う~ん」と小さく唸る。その後、ザックはこんな私見を述べるのだった。「でもあいつが他人に優しくするときって大抵、内心では相手のことを小馬鹿にしてんだぜ? こうでも言っとけばお前らはとりあえず満足するんだろ、ってな感じでさ。それに、そういう時のあいつってあからさまに『めんどくせ~』って雰囲気も出してるし、優しさじゃなく嫌味だって分かりそうなもんだが……」
「そうそう、馬鹿にしてるよね~。優しいことを言いながらも目は据わってて、あぁ今の本心じゃないんだなーっていう雰囲気。めっちゃわかる~。それなりに親しくならないと、正直な言葉を言ってくれないんだよね、彼ってさぁ~」
ザックの言葉に、ジェニファーはそう返事をしてウンウンと頷く。続けてジェニファーはこう語った。
「アーティーって、優しくて気も利いて暖かそうな人っぽく見えるけど、でも心は完全にダークサイドに堕ちてる。目の奥にいつも怒りしかないっつーか、そういう雰囲気があるの。たぶん本質的に人間っていうものが嫌いなんだろうね、彼。……まあ、アタシたちはそこを分かってるし、だから友達としてやっていけてるけど。そうじゃないと付き合いづらい相手ではあるよねー。あいつはメンヘラ製造機だし、それにあいつ自身も狂ってるケがあるしー」
普段のパッパラパーな言動からは想像もつかないような、意外にも的を射た分析を放つジェニファーの様子に、エリカは少し驚いたような顔をする。一方で意味深な微笑を浮かべるクロエは、コーヒーを一口飲んだあと、小声でボソッとこんなことを呟いた。
「彼はすごく奇妙で興味深いし、観察対象としては最高に面白い存在なんだけど。ただ恋人には絶対にしたくないタイプだね。単純じゃない男は御しにくいから、私の好みじゃないわ」
十二歳ぐらいの頃からシスルウッドとの付き合いがあるザックよりも、ずっと付き合いは浅いはずである女性たち。しかし彼女らはシスルウッドの性格をちゃんと理解しており、あの面倒くさい性格の彼の扱い方もそれなりに心得ているようだ。
そこでザックは少しの寂しさを覚える。ひとりで全部を抱え込んで、他人を寄せ付けようとせず、助けを拒み続けていた “アーティー”はもう居ないのだな、と彼は感じたのだ。
もしかしたら『一番の友人』はもう自分ではないのかもしれない、ともザックは考える。その時、ザックの中で何かがプツンと切れた。
「病んでる、か。……言われてみれば、たしかに……」
シスルウッドは表面的な優しさを見せて人を誑かすことがあり、そのあとに見せる鋭い刃のような本性で人を深く傷つけることもある。だがその一方で、本当に『良いヤツ』になる瞬間もある。彼はとても気まぐれで、掴みどころがなかった。
そんなシスルウッドの目の奥には、人間および社会に対する強い怒りしかない。そして彼は本質的に人間が嫌いだ。これはザックも、薄々だが感じてはいたことだった。偶にシスルウッドは、ザックにもそのような視線を送ってきていたのだから。
そうして振り返ってみたときに、ザックは背筋が凍えていくのを感じてしまった。一番の友人だと思っていた相手が、関わるべきでない狂人に思えてしまったからだ。
「…………」
ザックが好きだった“アーティー”は、もう存在しないのだ。
父親に殴られて青あざをしょっちゅう作っていた少年はいない。父親が主催するパーティーで聞いてしまったひどい言葉に心を痛めて大泣きしていた子供もいない。醒めた心で何もかもを見下しながら、自分を否定してくる他者に対して静かな怒りを滾らせている危険な人間、それが今のシスルウッドだ。
――いや、そもそも哀れな少年なんて最初から存在していなかったのかもしれない。ザックが一方的に抱いていた幻想でしかなかった可能性もある。
「あー、ヴェニューの件だが……――とりあえず他のメンバーに声を掛けとくよ。あのオーナーが居ないってんなら、ケヴィンもデクランも乗ってくれるかもしれないし」
そんなことを考えながら少し黙ったあと、ザックはクロエらに対してそう言った。そのときのクロエは望んでいた答えが得られたことによって満足し、穏やかに微笑んでいた。
その後ザックは実際にバンドの元メンバーたちに声を掛けた。ケヴィンを誘い、デクランを誘ったが、どちらもその誘いを断ったという。
『白人同士で仲良くママゴトでも続けてればいい。もうお前らと関わり合いになるつもりはない。特にいけ好かないアーサー・エルトルの息子の顔は二度と見たくないね』
そう答えたのは、実家の中華料理屋を継ぐために修行中であるケヴィン・アリンガム。
『あのブロンド野郎が戻ってくるなら遠慮しとくよ』
そう答えたのは、黒人ギャング団に所属していたがヘマをして逃亡した兄の代役を押し付けられ、かつては愛していたはずの文学の世界を捨てたデクラン・オキーフ。
――無論、ザックはシスルウッドに彼らの発した言葉は伝えなかった。誘ったけど断られた、とだけザックは伝えたのだ。けれども察しの良いシスルウッドはすぐに気付いた。嫌われ者である自分と組みたがる変わり者が、地元出身者にいるわけがないと。
「……なあ、アーティー」
それが伝えられたのは、ぺルモンドが退院した翌日のこと。クロエらがザックの店を訪れてから、二週間が経過した日の真昼のことだった。
出入り口に一番近いテーブル席に座っていたシスルウッドは、向かいに座るザックの顔を見れずにいた。テーブルの上に両肘を乗せて手を組み合わせ、顔を俯かせるシスルウッドは、黙ってザックの言葉を聞いていた。『
シスルウッドは目を瞑り、苦笑する。こんな結果になることは目に見えていただろうと、彼は自分に言い聞かせていた。
誰もエルトル家の次男坊と関わりたがらない、だって父親が嫌われ者だから仕方ない。彼は己にそう暗示を掛ける。吹き出しそうな失望と怒りの矛先が軽薄で薄情なケヴィンとデクランの二人に向かないようにと、そう堪え続けていたのだ。
その一方で、ホッとしているシスルウッドも居た。嫌悪の眼差ししか向けてこないあの二人に会わずに済むならそれでいいと、そう安堵しているフシもあったのだ。だが、気に入らないと不満を垂れるシスルウッドも居る。何もしていないにも関わらず不当に虐げられるこの現状を甘んじて受け入れるなんてゴメンだと、憤慨する声も頭の片隅にあった。
どれが自分の本音なのだろうか。それは最早シスルウッド自身にも分からない。――思わず零れた苦笑には、そんな意味も込められていただろう。
「……」
だがザックは、苦笑するシスルウッドを見て別のことを感じたようだ。そしてザックは徐に口を開くと、こんなことを言い始めた。「お前さ、あのぺルモンドとかいうやつと関わり始めてから、変わっちまったよな」
「そんなことは――」
「変わったんだよ、お前は。もうオレの知ってるアーティーじゃない」
「えっ……?」
「あの男とこれからも接していくなら、オレはもうお前の友達ではいられない。だから、選んでくれ。オレの居る世界か、あの男の居る世界か、そのどちらかを」
バンドの再結成がおじゃんになったという話から一転、急に迫られた極端すぎる選択。状況が呑み込めないシスルウッドは、ただ動揺することしかできなかった。
「あの、ザック。それってどういうこと?」
お前は変わった? オレの知ってるアーティーじゃない? そんなことを急に言われても、何が何だかサッパリ分からない。それに選ぶって、何を? ――この二週間のうちに起きたザックの葛藤など何も知らないシスルウッドには何も分からなかったのだ。自分がザックから狂人扱いされているなど、この時の彼は思ってもいなかっただろう。
取り敢えず事態を把握できないシスルウッドは、こんなことになってしまった原因を探ろうとする。自分がザックの機嫌を損ねるような何かを仕出かしたのではないかと見当を付けた彼は、ザックに鎌をかけてみることにしたのだが。
「僕がザックに何かした? もしそうなら謝るし、改めるよ。だから理由を教えて欲しッ――」
「とにかく、選べよ!」
シスルウッドの鎌を跳ねのけたザックは、そう怒号を上げる。するとホールで起きた異変に気付いたザックの父が、厨房から慌てて飛び出してきた。
「おい、ザック! お前、一体なにを騒いで――」
そのときシスルウッドは真顔になっていた。彼の目に光は無く、戸惑いや混乱の風も消えて、ただ死んだような凪だけが存在していた。ザックはその冷たい目に慄き、数歩下がる。だがシスルウッドは、気遣うような言葉を掛けなかった。
「ハナから僕に選択権なんて与えられてないんだろう? 君はもう腹を決めている、そのはずだ」
そう言うとシスルウッドは静かに立ち上がり、腰ポケットに突っ込んでいた財布を手に取ると、この日の注文分と二週間前のツケをカバーするだけの金額を取り出す。それをテーブルの上にそっと置くと、これだけを言い、静かに店を出た。
「……釣り銭は要らない。今までありがとう、それでは」
八年間の付き合いだったザックとの関係は、たった一瞬であっさりと終わってしまった。悩んだ末に縁を切ることを望んだザックの意思を、シスルウッドがその通り叶えたことで、その日にプツッと切れてしまったのだ。
店を出て行ったシスルウッドは振り返ることをしない。床に膝をつき、失ったものの大きさに頭を抱えて悔やみ泣いているザックの姿も。それまでザックと共に過ごした日々のことも。彼は振り返らず、決断に後悔もしなかった。
そしてシスルウッドは歩いていく道の先で、見覚えのある小汚い水色のセダンと、見知った顔ふたつを見つける。
「よっ、ウディ」
したり顔でそう声を掛けてきたのは、セダンのボンネットに寄り掛かるように立ち、いつもよりも格好つけているように見えなくもないデリック・ガーランドだった。いつものようにシスルウッドのことを『アーティー』と呼ばずに、わざわざ『ウディ』と呼んできたということはつまり、彼はクロエから聞いたのだろう。ウディ・Cの正体がシスルウッドであるということを。
そしてセダンの運転席の窓を開け、そこからシスルウッドに手を振ってきたのは、デリックの恋人であるクロエ・サックウェル。
たぶん、クロエらはザックからの返事を聞きに来たのだろう。だが店から出てきたシスルウッドの顔を見て、ザックが出した答えを察したようだ。
「……」
愛想よく振舞う気分にはなれなかったシスルウッドが、ただ立ち尽くして黙っていると、そんな彼にデリックが近付いてくる。馴れ馴れしく肩を組んでくるデリックは、シスルウッドにそっと愚痴を零した。「……お前のせいで俺は散々な目に遭った。クロエにドヤされちまったぜ……」
「元はと言えば、デリック、あんた自身が蒔いた種でしょう!」
クロエが飛ばすヤジは、グサッと核心をついてくる。シスルウッドからスッと離れるデリックは、バツが悪そうにクロエから目を逸らし、しらを切るように口笛を吹いていた。
すっとぼけるデリックに、クロエは大袈裟な溜息で呆れを表現する。それからクロエはシスルウッドに視線を送ると、こんなことを言ってきた。
「乗って。送ってくから」
クールに手招きをするクロエはそう言うと、運転席の窓を閉める。「俺の車なんだけどなぁ」とボヤくデリックが助手席に就き、シスルウッドは後部座席に乗り込んだ。
そうして車が発進し出したとき。助手席に座るデリックが、彼のカバンの中をガサゴソと漁り始める。デリックはカバンの中から財布を取り出すと、そこから一〇ドル札を五枚ほど抜き取った。それからデリックは後ろに座るシスルウッドのほうに顔を向けると、取り出した一〇ドル札を全てシスルウッドに差し出した。そしてデリックは言う。
「今までのこと、謝るよ。お前に迷惑ばっか掛けちまって、すまない。ジェイドのことは反省してるし、もう何もしないと誓う。それに借りてた金も返す」
デリックに“盗られた”金額は四〇ドルだったのだが、それよりも若干多い額が戻ってきた。が、シスルウッドはその余剰分を返すことはしない。迷惑料だと思って受け取っておくことにしたのだ。
受け取ったお金を自分の財布に入れるシスルウッドは、後写鏡に映るクロエの顔をちらりと見やる。それはデリックが発した『ジェイド』という言葉を聞いての反応だった。そして後写鏡を介してシスルウッドの目を見るクロエもまた、その言葉を聞いて気まずそうに笑う。それからクロエは正面に視線を戻すと、こう答えた。
「ええ、全部聞いた。浮気相手が女だとばっかり思ってたけどそうじゃなかった上に、そいつがエリカの恋人の“別人格”だって聞いてさ、流石に理解が追い付かなくて腰が抜けるかと思った。取り敢えずこのクズ男のプライドは私がズタズタに切り裂いておいたし。解離性同一性障害の患者は理由があってああいう状態になってるんだから、そういう状態を利用するようなゲスな真似は二度とするなって叱っておいたから、もう彼に手出しはしないはずだよ」
なんてことないようにサラリとそう語るクロエだが、その内容は中々に壮絶である。しかし吹っ切れたような顔をしているクロエは、少なくともデリックが引き起こした背信行為、及び相手の不道徳さに怒っていなさそうだ。それどころかクロエは、浮気相手に同情的ですらある。
その横でデリックは、己の仕出かしたことの重大さを再度痛感しているのか、肩身が狭そうな顔をしていた。その様子を見るに、彼は心の底から反省しているようだ。――以前、現場を目撃してしまったシスルウッドが怒鳴りつけた際には「はぁ? なに言ってんだ、お前?」というような舐め腐った態度を取っていたデリックだが、しかしクロエの説教は彼に利いたようだ。なんだか気に食わないなとシスルウッドは感じたものの、デリックが反省している様子を見せているため、それ以上のことを言うのは止した。
「……」
ここは懐の広いクロエに免じて許すか。そう考えたシスルウッドは呆れの混じった溜息を零す。それからシスルウッドはぶっきらぼうにこう言った。
「――はぁ~っ。本当は気乗りしないけど、お前んとこのヴェニューを救ってやるよ。アルバムを作って、それで販促のライブをやる。原版権はお前にやる。それでいいな?」
こうでも言えば、デリックは喜んで機嫌を直すだろう。――と、シスルウッドは思っていたのだが。しかしシスルウッドのほうに振り返ったデリックは、どこか不安そうだった。そしてデリックは、的外れともいえる懸念をシスルウッドに伝えてくるのだった。「アーティー。お前、作曲なんてやったことあるのか? 俺はお前の作った曲を聞いたことが無いぞ」
「フィドラーってのは楽譜なしで好き放題に弾くもんだぞ。作曲なんて造作もない」
そんなことを威勢よく言ってみるシスルウッドだったが、しかし彼はその後すぐに考えを変える。
たしかに作曲自体は出来る。が、作詞は別だ。やったことがない。そりゃ学校の課題で詩作をやらされたことは何度かあったが、それは国語の授業の中での話。自己表現というかたちで詩を書くというのはしたことがない。
というか、思い返してみれば音楽以外にそういうことはしたこともなかった。シスルウッドはジェニファーのように絵を描くこともなければ、エリカやデリックのように何だかよく分からない機械を作ってみることもない。詩を書くこともなく、なにか長文を書いたことがあるわけでもなかった。
「……けれど」
ただ、幸いなことに文学の知識はあった。幼少の頃から種類を問わず本もたくさん読んできたし、それに詩は特に大好きで、詩集をよく読んでいたものだ。
バイロン、ボードレール、ブレイク、イェイツ、グレイ、キーツ、ワーズワース、スティーヴンソン、キップリング、コールリッジ、バーンズ、ブラウニング、プラス、ディキンソン、ランボー、マクダーミッド、マッゴナガル、モリス、フィンレイ、そしてシェイクスピア。……英語圏に偏り過ぎているような気もしなくはないが、お気に入りの詩人はそれなりに居る。そんな敬愛すべき先人たちから言葉やアイディアをくすねて――いや、インスピレーションをいただければ、まあなんとか作れるかもしれない。
だが。そうなってくると問題が発生する。
「僕は普遍的な歌謡曲らしい歌詞が書けない。あのヴェニューで演奏していたバンドたちみたいな、頭の悪そうな詞は僕には無理だ。あんな直情的でひねりや比喩表現が欠片もない上に、やれセックスだのやれパーティーだのやれドラッグだのっていう下品なシチュエーション設定ばっかりの詞なんて、僕にはできない」
「あんた、随分とすごいことを言ってのけるじゃないの」
自信が無さそうに、自信たっぷりなことを言うシスルウッドのちぐはぐな言葉に、クロエはすかさずそうツッコミを入れるが、彼女の顔は嬉しそうな笑顔で飾られていた。だが、その横にいるデリックは表情を険しくしている。そしてまたデリックは懸念を述べるのだった。「売れないと困るんだ。難解で文学的すぎる歌詞は共感を生まないし、共感が無いと購買意欲に繋がらないだろ。誰にでも分かるような、そういう易しいうえに刺さる歌詞じゃないと――」
「いや、むしろ良いんじゃない?」
だがデリックの懸念をクロエはあっさりと蹴り飛ばす。それから彼女は私見を述べた。
「ウディ・Cは『お調子者で、ちょっと馬鹿っぽい』って思ってるファンの方が多いと思うのよ。だから易しくない曲の方が意外性っていう面でウケると思うし。それに、良いんじゃないの、文学的な歌詞ってやつも。昔ながらのハードメタルっぽくてさ」
「……」
「それにウディ・Cに付いてるファンは内容の是非なんか気にしないで買ってくれるよ、だって連中はこいつの顔が好きなだけだから、いくらでも貢いでくれるって」
クロエの結論が『内容なんか関係ない、ウディ・Cのファンは顔しか見てないから』というものであったことに、シスルウッドは少しの悲しみを覚える。演奏やパフォーマンスではなく、外見でしか判断してくれていない人のほうが多かったのかと思うと、今までの努力は何だったのだろうかという虚無感が沸き上がってきたのだ。
けれども彼は「音が好きだった」と言っていたエリカの言葉を思い出す。それから目を閉じ、全く関係のないことを思い出して思考にノイズを発生させようとした。ザックのことも、ヴェニューのことも、クロエの今の言葉も、一刻も早く頭の中から追い出したかったのだ。
そうしてパッと思い浮かんだのは、ゴロゴロ……と喉を鳴らすサビ猫オランジェットの姿だった。続いてブチ猫パネトーネに喧嘩を売る黒白猫ボンボンのやんちゃな背中を思い出す。それからシスルウッドはこう呟いた。「……オーリーとボンボンとパネトーネに会いたい」
「は? 急にどうした?」
突然、それまでの会話とは何の関係もない言葉をブツブツと呟いたシスルウッドに、そう語り掛けるデリックは奇異の眼差しを向けている。その視線を受け止めるシスルウッドは肩を落とすと、釈明かわりにこう語った。
「叔母の家の猫たち。もう一年ぐらい顔を見てないからさ。あのモフモフたちが恋しくなってきたというか……」
「じゃあ遊びに行けばいいじゃん。秋学期は昨日で終わってて、今日から冬季休暇なんでしょ?」
猫を恋しがるシスルウッドに、クロエはそう助言する。続けて彼女はこうも言った。「バッツィのことはエリカに任せとけ。エリカならむしろ、あんたの不在を喜びそう。あの人、根っからの尽くしたがり屋だから、たぶん『アーティーの代わりに私が!』って張り切ると思う」
「……」
「私がエリカに伝えとくよ。だからあんたは猫と叔母さんに会ってきな。二日でも二週間でもいいから休んでこい」
「それじゃあお言葉に甘えて、そうさせてもらおうかな」
その後、一度コンドミニアムに戻ったシスルウッドは、家に戻ってきていた家主に数日帰郷する旨を伝えた。その時に応じた家主は“穏やかな変人ぺルモンド”で、彼は「ああ、そうか……」というまるで感情のこもっていない返事をしたあと、往復の飛行機代とタクシー代を余裕でカバーできる額をポンッと気前よく出してくれた。そしてシスルウッドはその大金を有難く頂戴することにした。
それからシスルウッドは『いつでもこの家を出られるように』と予めまとめてあった荷物を抱え、その日のうちに空港へと向かい、急遽購入したチケットでハリファックスに帰ったのだが。
「……えっ?」
ドロレスとローマンの住まう家に辿り着いたのは、日付が変わって翌日となっていた深夜のこと。そしてそれは、空港で拾ったタクシーを降りて家の扉を叩こうとしたときに起こった。
ちょうどその時、去っていったタクシーと入れ違いになるように、ドロレスが車で自宅に戻ってきたのだ。家の前で偶然鉢合わせたドロレスとシスルウッドの二人は、お互いに驚いた。
シスルウッドはこんな時間帯に帰ってきたドロレスに驚き、ドロレスはこんな時間帯に予告なしに帰郷してきたシスルウッドに驚いたのだが。ただドロレスは別のことにも驚いていたのだ。
「そう。今日の夕方、ローマンが事故に遭って搬送されたの。幸い、軽い打撲の他に怪我は無くて、明日には退院できるんだけどね。退院したらあなたに連絡しようと思ってたのに、まさか連絡するよりも前に帰ってくるなんて……――こんなこともあるのねぇ」
「……」
「なら、ちょうどいいわ。明日、一緒にローマンを迎えに行きましょう。……ずっとローマンは心配してたのよ、あなたのことを。記者に追い回されてるあなたの写真はどこでも見られるのに、あなた自身は親に連絡ひとつも寄越さないんだから」
「それについては、その……ごめん。忙しくて」
「まあいいわ。予告なしでびっくりしたけど、でもこうして帰ってきてくれたんですもの。きっとあなたの顔を見たら、ローマンは驚いてひっくり返っちゃうわね~」
しみじみとそう語るドロレスは、後部座席に載せていたポータブルケージ三つを車から降ろしていく。疲れたようにぐっすりと眠っているブチ猫パネトーネ、早くケージの外に出たくてうずうずしている黒白はちわれ猫ボンボン、うつらうつらと船を漕いでいるサビ猫オランジェットを、静かに降車させていった。
そしてドロレスの言葉を聞きながら、シスルウッドは猫たちを家の中に戻していく。パネトーネのケージ、ボンボンのケージ、オランジェットのケージをリビングルームに運んだあと、彼は再度外に居るドロレスの許に戻った。それから彼は車の傍に置いていた自分の荷物を抱えると、ドロレスが脇に抱える鞄の中でミャウミャウと鳴いている小さな生命ふたつに目を向ける。それから彼はドロレスにこんなこと訊ねた。「――それで、その猫たちは?」
「ローマンが助けた子猫たちよ。車に轢かれそうになってた子猫を助けて、彼が車に撥ね飛ばされたのよ。……本当はあんな無茶をしたローマンをぶっ飛ばしてやりたかったけど、この子猫たちを見ちゃうと、なんだか彼を責める気がみるみる失せていくというか」
まだ目もろくに見えていなさそうな二匹の子猫が、暖かそうなハンドタオルに包まれて、ドロレスの鞄の中でもぞもぞと動いていたのだ。
時代は進んで四二八九年のこと。カイザー・ブルーメ研究所跡地でASIが『二つの脳』を見つけてしまった日の翌日、その晩のこと。
段階的に進めていた車への荷積みを終えた心理分析官ヴィク・ザカースキーは、最低限の荷物を詰めたキャリーバッグを引いて、彼女の新たな“家”である場所に猫と共に来ていたのだが。
「あ~、もう嫌だよ。なんでオレが、玉無し卿とASIの仲介役をやらなきゃいけないわけ? あいつの顔を見ると胃がムカついて仕方ないってのに。それなのに、また会えと? ――絶対に嫌だ。嫌なんだよ。本当に、本当に嫌なんだ」
アレクサンダー・コルトから渡されていた合鍵を使って、ラドウィグが借りているアパートの一室の中に入っていた心理分析官ヴィク・ザカースキーだったが、彼女は家の中に踏み入ってすぐに聞こえてきた不機嫌そうなラドウィグの声に緊張し、固まってしまった。
「……っ!」
キッチンに立っている様子のラドウィグは、そこで何か喋っている様子だが。しかしこの家には心理分析官ヴィク・ザカースキーを除いた場合、彼しかいないはず。ということは、独り言なのだろうか? いや、独り言だとしたら声が大きすぎないか?
それに、言っていることが意味不明だ。玉無し卿? なんだ、それは一体……?!
「……えっ、あの、えぇ……」
そんなわけで、混乱し戸惑う心理分析官ヴィク・ザカースキーには、ラドウィグが独り言をブツブツと零しているように見えていたのだが。実際には異なっていた。ラドウィグには話し相手が居て、その相手もラドウィグ同様に不満そうにしている。
『しゃあねぇだろ、ウィル。お前にしかセィダルヤードが見えてないんだから。それに、そこまであの男を嫌わなくたっていいじゃないか。あいつはそんなに悪いやつじゃあなかっただろ、今も昔も。あいつは
九本生えている白い尻尾をプリプリと振りながら、不機嫌なラドウィグに対する不満をそれとなく匂わせる神狐リシュは、どうしようもない愚痴を零すラドウィグをチクリと刺す。
と、そのときラドウィグの表情が消えた。外行きの『剽軽者』な顔をブチッと脱ぎ捨てたラドウィグは、素の『面倒くさがり屋』を押し出す。表情も声色も取り繕うことがイヤになったラドウィグは、内心喋ることすらダルいし面倒くさいと感じていたが、しかし相棒であるリシュから返答を求められた為に仕方なく喋ることにする。ラドウィグは無愛嬌にこう述べた。「……とにかく、あの顔を見るとムカつくんだよ。コヨーテ野郎と瓜二つだろ」
『たしかにそうだが。でもなぁ、ウィル。お前はもうガキじゃなくて、大人なんだぞ。そんなガキみたいな我儘を言っていられるような年齢じゃ――』
「分かってるさ、そんなことは……。オレの精神年齢は十五の時からまったく成長してなくてガキっぽいってことも、どうせ仲介役をやらされるってことも。そんなのハナから分かってるよ。でも、家の中で愚痴を言うぐらい許してくれたっていいだろ。外ではくだらない文句を言わないように頑張ってんだからさー……」
ラドウィグはそう言うと、冷凍食品のキッシュを電子レンジの中へと乱雑に入れる。そうしてキッシュの解凍を電子レンジに任せておくと、彼は電磁調理器の前に移った。それから電磁調理器の上に放置していた笛付きヤカンを取ると、彼はそれをコンロ脇のシンクに持っていく。注ぎ口の笛蓋を開けると、蛇口をひねって水を出し、その注ぎ口からヤカンに水を注いでいった。
十分な量の水が入ったのをヤカンの重量感から判断すると、ラドウィグは蛇口を元に戻して水を止める。そして笛蓋を閉じるとヤカンを電磁調理器に置き、電源を入れて過熱を開始した。
お湯が沸くのを待ちつつ、ラドウィグは顔を俯かせる。そんな彼の口からは、ぼとぼとと愚痴が溢れはじめた。
「一週間ぐらい休みが欲しい。はぁ~。本当はこんな冷食ばっかじゃなくて、ちゃんとした飯を食いたいよ、昔みたいにさ。前はケイのじーさんがうまい飯を作ってくれたし、ゆっくり飯を食える時間はあったから、あのクソったれな環境でも耐えられてた。でも、今はそんな時間すらない。いつも同じ鯖サンド、いつも同じ冷食。でも自分で調理する時間もない」
『…………』
「そういや、学生の頃は自分で作るのが好きだったな。エスニック料理とかさ。ココナッツミルクを使ってカレーを作ったら猛烈に腹を下したりとか、そういうのも楽しかったなー。ブータン料理とかも、食べきるのは大変だったけど、なんか懐かしい感じがして好きだったし。……そっか、ブータン料理は母さんの手料理に似てたのか。唐辛子を野菜がわりに使ってて、バカみたいに辛いあの感じが……」
好き放題に色々な料理を作っていた大学時代のことをラドウィグが思い返していたとき。神狐リシュは何かに気付き、リビングに向かっていく。
そして向かった先で神狐リシュは見慣れない一匹の猫を見つけた。
「ぅにゃにゃっ!」
丸っこい顔をした三毛猫が、リビングルームの中央に突っ立っていたのだ。そして三毛猫の鳴き声に反応したのか、ソファーの上からもう一匹の猫が降りてくる――鳥のような翼を背中に生やした、奇妙な白猫パヌイだ。
三毛猫に擦り寄った白猫パヌイは、三毛猫の顔に顔を近付け、お互いの鼻をピトッとくっつける。続いて白猫パヌイは三毛猫のお尻のニオイをスンスンと嗅ぐと、スッと離れていった。それから白猫パヌイは、新参の三毛猫に挨拶する。
『新入りさんニャ? よろしくなのニャ~』
喋りかける白猫パヌイに、三毛猫は尻尾を真っ直ぐにピンッと立ててプルプルプルッと小刻みに振るという反応を示す。それから三毛猫は白猫パヌイの脇腹にずしんと頭突きを決め、構ってアピールを始めた。どうやら三毛猫は白猫パヌイのことを気に入ったらしい。そして三毛猫のアピールに応えるように、白猫パヌイは三毛猫の頭をザリザリと舐め、毛繕いの真似事を始める。
猫と猫もどきの関係に心配はいらなさそうだ。――そう判断した神狐リシュはキッチンに引き返していく。と、そのとき神狐リシュは玄関先で立ち止まり、呆然としている心理分析官ヴィク・ザカースキーを見つけた。が、心理分析官ヴィク・ザカースキーに何かをするようなことはせず、神狐リシュはラドウィグの許へと戻っていく。そして神狐リシュはラドウィグに伝えた。
『おい。来客だぞ』
戻ってきた神狐リシュの声を聞いたラドウィグは、驚いたように目を見開いた。と同時に笛付ヤカンが音を鳴らす――湯が沸いたのだ。そして電磁調理器の電源を落としたラドウィグは神狐リシュを見やると、首を傾げてこう訊ねた。
「こんな時間に、来客……?」
時刻は夜の一〇時。一般的なライフスタイルに照らし合わせれば、大半の人は寝る支度をしている時間帯だ。他者の家を訪ねるような時間ではない。それなのに、こんな時間帯に人が来たと神狐リシュは言っている。
そんなこんな、ラドウィグはバタバタ続きの二日間のお陰で心理分析官ヴィク・ザカースキーという存在をすっかり忘れ去っていた。大嫌いな“玉無し卿”の仲介役をやれと昨日にテオ・ジョンソン部長から命令されてからずっと苛々していた彼は、自身のお目付け役との同居生活が近々始まるということを失念していたのだ。
神狐リシュに促されるまま玄関に向かったラドウィグは、そこに呆然と突っ立っている心理分析官ヴィク・ザカースキーの姿を見て、はたと彼女の存在を思い出した。
「……!!」
やっべ、部屋の掃除とか何もしてないじゃん! ――そんなことを考えだして焦るラドウィグだが、一方で心理分析官ヴィク・ザカースキーはラドウィグの足許にいるモノを見て目をひん剥く。
真っ白い体に朱色の文様、そして九本の尻尾を持つ狐。このような奇怪な生物を、心理分析官ヴィク・ザカースキーは今まで見たことが無かったのだ。
「きつね……じゃないッ?!」
「あ、あの、落ち着いて! こいつは安全だから!」
パニック状態に陥りかける心理分析官ヴィク・ザカースキーをラドウィグは宥めた。そうしてひとまずの冷静さを心理分析官ヴィク・ザカースキーが取り戻したとき、ラドウィグは彼女にこう声を掛ける。
「――とりあえず、上がって」
心理分析官ヴィク・ザカースキーは一度深呼吸をすると静かに靴を脱ぎ、家の中に上がっていく。前を歩くラドウィグについていき、彼女はリビングルームに向かった。そしてそこで心理分析官ヴィク・ザカースキーは、彼女の飼い猫である三毛猫ミケランジェロを発見する。続いて、三毛猫ミケランジェロの傍に居る奇妙な白猫パヌイを見つけ、その奇妙な姿形に再度驚いた。
が、そんな飼い主とは違って三毛猫ミケランジェロは何も気にしていない様子。かなり打ち解けた様子の猫たちは、早速なにかを話し込んでいるようだ。
「にゃーお、なーん」
『うにゃ? ベッドなら好きなのを使ってくれていいのニャ~。パヌイはルーのお腹の上でいつも寝てるから、ニャーのことは気にしないでいいのニャ~』
「ぅみゃっ」
『そうニャ~。ルーはすごくあったかいのニャ~』
「ふぬにゅぅ、ぅにゃぁん」
『飼い主さんは冷え性なのニャ? 冷たい手で撫でられるのはたしかにイヤなことだニャ~。パヌイもそれはイヤだニャ~』
人語――のように人間には聞こえる、神族種特有の特殊な話法――を扱う白猫パヌイと、己の飼い猫が親しげにニャーニャーと鳴き合う姿を見て、心理分析官ヴィク・ザカースキーは脚をガクガクと震わせる。
そんな心理分析官ヴィク・ザカースキーのほうに向いたラドウィグは、気まずそうなハニカミ笑いを浮かべた。それから鼻の頭を掻きながら、ラドウィグは先日の嘘を弁明した。
「この間は咄嗟に嘘を吐いちゃったんスけど……――この家にあるペット用のベッドを使ってるのが、あいつらなんスよね。あっちの白猫がパヌイ、こっちの狐はリシュ。俺の相棒たちッス。パヌイは猫缶と茹でたササミが好きで、リシュは牛肉の生肉しか食べない。だから冷蔵庫に入ってる牛肉は手を付けないで欲しい。あれはオレのじゃなくてリシュのご飯だから」
だが茫然自失としている様子である心理分析官ヴィク・ザカースキーがどこまでラドウィグの話を聞いているのかは定かではない。そこでラドウィグは話題を逸らすことにする。得体の知れない生物たちの話から、部屋の話に切り替えた。
「あっと、その……オレはいつもそこのソファーで寝てるから、寝室は使ってないんスよ。それに寝室のベッドはオレがこの部屋に入居したときにASIのひとが交換してくれたらしくて、新品だって、そう聞いてるッス。もし部屋が必要なら、寝室を使って、くだ、さい……」
心理分析官ヴィク・ザカースキーの表情を伺いながら、ラドウィグは辿々しくそう喋り、最後に寝室のある方向を指し示す。すると心理分析官ヴィク・ザカースキーは無言で動く。キャリーバッグを引いて歩く彼女は、今は誰も使っていない寝室へと向かっていった。
――が、彼女は途中で立ち止まる。心理分析官ヴィク・ザカースキーはラドウィグの目を見ると、こんなことを尋ねてきた。「……あ、あの。シャワーを借りても良いですか?」
「どうぞ! 廊下の突き当りを右にいったとこにあるッス。ドライヤーとかも好きに使ってください。まあ、前の住人が遺していったものなんスけど……」
ラドウィグがそう答えると心理分析官ヴィク・ザカースキーは無言で頷き、そして彼女は一度寝室に入っていく。シャワーを借りるよりも前に、まず荷解きをしているのだろう。
『ふむ……』
猫と猫もどきはとっくに打ち解け、仲良くなっている一方。飼い主同士の距離は全く縮まりそうにない。それどころか神族種なるモノを見てしまったせいで、その距離は更に開いてしまったようにも感じなくもない。
『先が思いやられるな、お前たち』
神狐リシュがそう呟くと、振り向いたラドウィグはジトーっとした目で神狐リシュを見つめる。するとラドウィグは小声でこう言った。
「……同性ならまだしも、派遣されてきたのは女性なんだよ。お互いに居心地が悪くて当然じゃないか……」
そう言うとラドウィグは顔をムスッとさせ、キッチンに戻っていく。その不満タラタラなラドウィグの背中に、神狐リシュは嫌味を飛ばした。
『ドリュー・パーカーとかいう女の件、まだ根に持ってるのか?』
しかしラドウィグは何も言い返さない。黙って電子レンジの前に立つ彼は、電子レンジの中でゆっくりと解凍されるキッシュを見ている。――神狐リシュのイヤな言葉は、確実にラドウィグの心にグサッと刺さっていた。
「…………」
黙りこくるラドウィグに、神狐リシュはつまらないと感じたのだろう。神狐リシュはお気に入りのベッドに戻っていき、そこで不貞寝を始める。
そのとき、この家のベランダに一羽のカラスが降り立つ。欄干の上に着地したカラスは、蒼白く輝く瞳で室内にいる神狐リシュをじっと見た。続けて、そのカラスは“こちら”に首を向ける。カラスはこう言った。
「……薄情で他人に興味を抱いてねェやつほど、面倒な性格の異性を惹き付けるってェのは、いつの時代でも変わってねェみてェだなァ。ケケッ!」
時代は遡って四二二一年、十一月の下旬。ある土曜日の夜のこと。デリック・ガーランドが渋々引き継いだヴェニューの中には、久しぶりに大勢の観客が詰めかけていた。
開店早々、飛ぶように売れて行くドリンク類。その対応に追われるデリックとクロエの二人は、紙コップと酒瓶と小銭との間でアタフタと振り回されている。そんな二人の様子を、シスルウッドは少し離れた場所から見ていた。
出入り口付近に設置されていた物販エリア。そこでレコードやジャケット写真がプリントされたTシャツ、ブレナン家の三匹の看板猫たちの顔がでかでかと刺繍されたリストバンドなどを、彼はエリカやジェニファー、そしてフィルと共に売りさばいていたのだが。それもひと段落し、休憩していたとき。バーカウンターのほうからクロエの怒号が聞こえてきたのだ。
「カクテル作るにもジンが足りないじゃないのッ! あとオレンジジュースも! ったく、もう、デリック! あんたには用意周到のヨの字もないのか!!」
用意不足のデリックのせいで要らぬ手間を強いられているクロエが、バーカウンターで不満を爆発させている様子。そのクロエの横では、責められるデリックが肩を竦めさせていた。
すると気遣いの鬼エリカ・アンダーソンがすぐ動く。物販エリアからバーカウンターに移動したエリカは、怒りを爆発させる親友クロエにこう声を掛けた。「私が買ってくるわ。他に無くなりそうなものは?」
「いや、いい。俺が行ってくる。その代わりバーのほうに入ってくれ!」
しかし時刻は夜八時半。女性ひとりで出歩かせたくない時間が迫りつつある。そこで珍しく男気をサッと出すデリックはエリカにポジションを替わるように言うと、財布を持ってバーカウンターの外に出て行く。
バーカウンターを出て行ったデリックの背を見送った後、クロエは声を張り上げてアナウンスをした。
「ジン品切れにつき現在ジンベース作れません、再開まで暫くお待ちください!」
ヴェニューを出て行く途中、物販エリアの前を通りがかったデリックは、そこで一度立ち止まった。そしてシスルウッドの目を見ると、デリックはいつまでも物販エリアに立っているシスルウッドに言う。
「もうサービスはいい。アーティー、お前は裏に行って準備しろ。チューニングとか、そういうのがあるだろ?」
そう言うとデリックはヴェニューを出て行き、近所の酒屋へと大慌てで駆けて行く。そしてシスルウッドも、舞台裏へと向かうことにした。
「ジェニー、フィル、後はよろしくね」
シスルウッドは物販エリアに立っていたジェニファーと、その恋人であるフィル(この半年前からジェニファーと交際を開始した情報工学専攻の男子学生であり、彼もまたぺルモンドの友人のひとりである)に声を掛けると、その場を去ろうとする。ジェニファーとフィルの二人は、そんなシスルウッドに手を振って見送った。
……のだが。直後、ジェニファーによってシスルウッドは引き留められる。
「――アーティー、ちょい待ち!」
呼び止められたシスルウッドは足を止め、再び物販エリアに戻った。そして彼はすぐに呼び止められたわけを理解する。
ヴェニューの出入り口、そこに一人の女性が立っていたのだ。その人物を見るなり、彼は驚いて裏返った声を上げる。そこに居たのは彼の恋人、キャロライン・ロバーツだったからだ。
「キャロライン?!」
夜の遊び場というわけで気合を入れてバッチリと化粧を決め、カジュアルなジャケットやお洒落なパーティードレスなどを着こなしているイカした女性が多い中、ノーメイクにキャラクターもののTシャツとジーパンという子供じみた格好で来たキャロラインはかなり浮いていた。が、そんな空気感を気にしている様子はないキャロラインは、あくまでもシスルウッドに予告なしで来たことに照れた顔をしている。
「……来ちゃった」
少し顔を赤くして俯きがちにそう呟くキャロラインの様子は、本当にどこまでも可愛らしい。空気を読まないマイペースさも、いつも通り過ぎる服装も、予告なしで押しかけてくる突飛なところも、本当に本当に……――というのはさて措き、シスルウッドは彼女を自身のライブに敢えて誘わなかった理由を思い出す。
ロバーツ家はどちらかというと厳格な家庭だ(それ故、キャロラインは世間知らずである)。そしてキャロラインの両親は一人娘である彼女を溺愛していて、その程度といえば「娘が万が一にもいじめを受けたら堪ったもんじゃない!」と彼女を学校に通わせず、家庭教師を雇い続けていたほどだ。
特に彼女の父親は過保護だった。父親がキャロライン一人での外出を許すことも稀だったし、となれば夜間の外出は以ての外。ゆえにシスルウッドは今回のライブに彼女を誘わなかったのだ。夜間に開催されるイベントの参加を、彼女の父親が許すわけがないと彼は思っていたのだから。
しかし、キャロラインはここに居る。それが彼には理解できなかったのだ。そしてシスルウッドはキャロラインに問う。「君のお父さん、夜間の外出を許してくれてないんじゃなかったのかい?」
「そう。だけど、今晩はどうしてもってお願いして、ここまで送ってもらったの。両親は今、近くのレストランで夕食を取りながら待っててくれてるわ」
照れ笑いを浮かべながら、キャロラインはそう答える。シスルウッドは取り敢えず、その言葉を信じることにした。
が、しかし俄かには信じられない。彼女の父親は本当に厳格だ。シスルウッドが彼女を家に送り届ける時間が、門限である六時を一秒でも過ぎようものなら烈火の如く怒り、シスルウッドの胸倉を掴んで「どうして間に合わなかった!」と問い詰めてくるような人物なのに。そんなひとが、夜間の外出を許してくれるのだろうか?
けれども、恐ろしいほど素直な性格をしているキャロラインが嘘を吐いているとは思えない。それに彼女の両親は「近所のレストランで食事をしながら待っている」とのこと。
まあ、それなら十二分にあり得るか。――そう納得したシスルウッドは、キャロラインにこう言った。
「そうか。なら後で君のご両親に挨拶をしに行かないと……――そうだ。じゃあ、ライブが終わるまで僕の友人たちと待っててくれるかい?」
ライブが終わるのは凡そ三時間後。その頃には十一時を過ぎている。近所のレストランとやらがどこのことを指しているのかは分からないが、少しの距離だとしてもその時間帯に女性を一人で出歩かせるわけにはいかない。キャロラインのように、実年齢よりもはるかに幼く……――いや若く見えるタイプなら特にだ。
そして、このヴェニューの中も安全だとは限らない。酒を飲んでいる客が多い以上、何が起こるかは分からないし。それに人がこれだけ多ければ、どんな輩が忍んでいるかも分かりはしない。ごった返しの観客席の中へとキャロラインを送り込むのは憚られた。
そこでシスルウッドは傍に居たジェニファーとフィルの二人を見る。それからこう言ったのだが。
「なあ、彼女を頼めるか? 僕はちょっと、準備があるから……」
「いや、アタシらじゃなくてクロエに預けなよ。ここは危ない」
ジェニファーはぴしゃりと跳ね除け、バーカウンターにいるクロエのところに行くよう指示を出す。続けてフィルも、ジェニファーに同意するようなことを言った。
「ここは出入り口に近くて客の往来も多い。それにボクは彼女まで守れないよ。だから彼女はバーカウンターの中に入れてもらって。その方が安全だ」
「たしかに、その方が良さそうだ。……キャリー、ついてきて」
フィルの言葉に納得したシスルウッドはそう言い、キャロラインの前に手を差し出す。彼女はその手を取り、少し恥ずかしそうに笑った。そうしてシスルウッドはキャロラインの手を引き、バーカウンターの方へと向かっていく。
その二人を見送る物販エリアの二人組は、立ち去る二人組を見て別々のことを思う。
「……」
改めて見てみると、あの二人の身長差ってすごーい。頭ひとつ分ぐらい違うねー。――といったことを考えていたのは、自由人のジェニファー・ホーケン。
一方、自由人ジェニファーの相棒であるフィル・ブルックスはというと、彼はまた別のことを思っていた。そして彼は言う。「ところでアーティーは、彼女みたいな“箱入り娘”って感じの子とどこで出会ったんだろうね?」
「アーティーが信号待ちしてた時に、迷子になってたキャリーから喫茶店までの道を聞かれたのが始まりだって聞いたよ。その時にアーティーが彼女に一目惚れして、そんで道案内がてらに猛アタックをして、ついでに一緒にお茶までしちゃって、んで連絡先を聞き出したんだって」
「へぇ、そうだったんだ。彼が一目惚れかぁ……」
「ほらー、アーティーもある意味“箱入り息子”だから、なんかビビッと来るもんがあったんじゃないの~? まっ、知らんけどー」
「いや、彼の場合は箱入りじゃなくて軟禁だろ……」
……しかしアルコールの入った客たちがガヤガヤと騒ぎだしたうるさいヴェニューの中では、ジェニファーらの会話などシスルウッドらに聞こえているはずもなく。噂をされているとは知らないシスルウッドとキャロラインの二人は、クロエらの居るバーカウンターに来ていた。
「クロエ!」
シスルウッドがクロエにそう声を掛けると、作業の手を止めクロエはパッと彼のほうに向く。そして彼女はシスルウッドの隣に立つキャロラインの姿を見ると、すぐにシスルウッドの要望を理解したようだ。機転の利くクロエはキャロラインに手招きをして「こっちに来て」と促すと、こう言った。
「おっ! ちょうどいいタイミング。キャリー、手伝って。あんたはジュース担当ね。やり方はエリカに教わって。私はお客さんの相手しないとだから!」
クロエの言葉を聞いたエリカはカウンターの扉を開け、キャロラインを招き入れる。そうしてキャロラインがカウンターの中へと入ったところで、エリカがシスルウッドに言った。
「あなたは早く行ってきて。もう時間が無いわ!」
シスルウッドはバーカウンターの中に居る女性三人に手を振ると、舞台裏の方へと駆けて行く。バーカウンター脇の裏部屋に通じる扉を開け、裏部屋の廊下を走り、ライブに登壇してくれるメンバーの集まっている楽屋へと向かった。
楽屋の扉の前に立つシスルウッドは、扉に付けられたすりガラス越しに中を覗き見る。手持ち無沙汰にギターを爪弾いている者、ドラムスティックを持ちエアドラムを披露する者、トランプを片手に賭けに興じている者などが楽屋の中に居た。――総じて言えることは『待ちくたびれている』ということだろう。
表で客の対応をしている者たちも、裏でカリカリとしている演奏者たちも、皆デリックの借金苦を救うために協力してくれた者たちだ。シスルウッドもだが、今日ここに揃っている全員はデリックのためにタダ働きを甘んじて受け入れている。そんな中で更に待たされているのだから……――楽屋に居る彼らは不機嫌に違いない。
さぁて、このピリピリカリカリしているバンドマンたちを宥めるために、どんな言葉を掛けるべきだろう? ――扉を開けて楽屋に入る前に、シスルウッドがそんなことを考え始めたときだ。彼の腕を、誰かが掴んだ。「――ッ?!」
「久しぶりね、アーティー」
驚いたシスルウッドが振り返り、掴まれた腕を振りほどいた時。彼は目の前に立つ人物を見て、表情を険しくさせる。
そこに居たのは、体のラインを過度に強調するような、挑発的な黒いパーティードレスを着た黒髪の女。ハイスクール時代には同級生だったこともある人物、スーザン・ノースだった。
「あれから考えは変わった?」
不自然なほどにこやかに笑いかけてくる彼女は、シスルウッドにそう問う。だが笑い返すどころか眉間に皴を寄せて行く彼は、その質問に答えない。代わりに彼は威圧感を伴う声で突き放すように言った。
「……失せろ」
スーザンが言った「あれから」という言葉の意味。勿論、シスルウッドは分かっている。
あれは二週間前の出来事。キャロラインと博物館の特別展示を楽しんだあと、彼女を家に送り届けたその帰り道。ぺルモンドから借りた車を、コンドミニアムの駐車場に停めた直後のことだ。車の鍵を閉め、居候先に帰ろうとした矢先、シスルウッドの進路を妨害するようにスーザンが現れた。そして彼女はシスルウッドにこう言ってきたのだ。
『あの子は美人じゃないわ。それに品も無い。子供じみた服を着ているし、世間知らずの箱入り娘。あなたみたいな賢い人には不釣り合いじゃない? でも、私なら――』
シスルウッドはスーザンを無視して帰っていった。彼女の言葉を最後まで聞くこともせず、エントランスへと向かうエレベーターに乗り込んだ。なぜならスーザンがあのようにしてシスルウッドの前に現れたのが、その時が初めてではなかったからだ。
ザックと縁を切ったあの日から、なぜか急にスーザンが彼の目の前に現れるようになった。そして彼女はしつこく迫ってくる。キャロラインではなく自分を恋人に選べと。だが、シスルウッドが応じることは無かった。ビックリ箱のように予測不能なキャロラインと違い、スーザンという人物は凡庸で退屈でつまらない人間だったからだ。
そしてスーザンを睨み付けるシスルウッドは、何度突き放されても懲りない彼女を脅すようにこんな台詞を言う。
「僕は以前の僕ではない。世間体など気にしない、容赦もしない。その時が来れば、君に相応の報いを与える。それが嫌だというなら、二度と僕の人生に関わってくれるな。僕の周囲にいる人々の人生にもだ」
付き纏われる苛立ちと怒りから、そのときのシスルウッドはいつもより声量が大きくなっていた。そして彼の声は楽屋の中に居たバンドマンたちにも聞こえていたようだ。そんなわけで彼の声を聞いたドラマーの男が、楽屋の扉を開けて廊下へと出てくる。
「ウッドチャック、お前は油を売りすぎだ! 今日の主役はお前なんだぞ、そこを分かって――」
ドラマーの男がシスルウッドにそんな文句を言った時だ。まるでそのタイミングを狙っていたかのように、スーザンがわんわんと声を上げて泣き始めた。
悲劇のヒロインを気取るスーザンに圧されて、文句を言っていたドラマーの男は口を噤む。そしてドラマーの男は同情的な表情を浮かべた。――が、彼の視線はシスルウッドを向いていた。続いてドラマーの男はシスルウッドの肩をポンポンッと軽く叩くと、意味深な微笑を浮かべて楽屋の中へと戻っていく。彼は楽屋で待機していた他のバンドマンたちに、舞台に上がるよう指示を出した。
「お前ら、行くぞ」
その声を聞いたバンドマンたちは次々と立ち上がり、己の楽器を抱えて舞台の方へぞろぞろと向かっていく。そしてシスルウッドは彼らに頭を下げた。
「すみません! 皆さんは先に行っててください、すぐ準備しますので!」
彼らと入れ違うように楽屋に入ったシスルウッドは、楽屋の隅に置いていたハードケースを取る。ケースの中を開け、そこに自分の相棒であるボロの安物なフィドルが入っているのを確認すると、再びハードケースを閉めた。そしてハードケースを抱え、楽屋の外に出る。
楽屋の前にはまだ泣いているスーザンが立っていた。そのスーザンの前で一度立ち止まるシスルウッドは、わざとらしく重たい溜息を零した。それから彼は嫌味ったらしく言う。
「泣こうが喚こうが僕には通用しない。分かったなら帰れ、ザックの許へ」
メンヘラ製造機。――その言葉にザックが納得してしまった理由はコレだった。ザックの恋人であり、後に妻となるスーザンは、最期までシスルウッドに執着していたのだ。
そもそも彼女がザックと付き合いだした理由も『ザックの傍に居れば、ザックの親友であるシスルウッドに会えるから』という身勝手なもの。真剣な態度で交際に臨んでいたザックとは反対に、彼女は“ザック”に興味すら抱いていなかったのだ。
だからこそザックはシスルウッドを突き放した。それは彼がシスルウッドという存在そのものに脅威を感じたからであり、友人よりも恋人を選んだからだったのだが。その結果、ザックが選んだ恋人は機会を待つのを止めて能動的に動くようになり、ザックが捨てた友人にストーキングまがいの行為を仕掛けるようになった。
「どうしてなの、アーティー! どうして私じゃなく、あんな幼稚な女を選ぶのよ?!」
ヒステリックに泣き喚くスーザンに冷たい無視を決め込むシスルウッドは、とにかく気分が悪かった。嫌な女に付き纏われることも、とにかく可愛いと感じている恋人をひどい言葉で罵られることも、不愉快で堪らなかった。だが、怒りに任せて罵声を放ち、面倒なトラブルを起こして友人たちに迷惑を掛けるわけにはいかない。この不満を堪えるしかなかったのだ。
あれはライブの六か月前のこと。春が終わりを見せ、夏がにじり寄りつつあった五月の中旬。シスルウッド及び友人たち――デリック、ペルモンド、エリカ、ジェニファー、フィルの六人――は、デリックが父親から継がざるを得なかった施設のひとつ、ヴェニューに併設されたレコーディングスタジオに集まっていた。
一階のエントランスでは、収録に集まった演奏者たちがコーヒーを片手に和気あいあいとコミュニケーションを取っている。が、収録スタジオのある二階には少し重たい雰囲気が漂っていた。
そして現在の店主であるデリックは椅子に深く腰を据えると、肩を落として頭を抱える。そんなデリックの左頬には、拳の形をした青あざが出来ていた――懲りずにまた浮気なる行為を仕出かした彼は、先日クロエに顔をぶん殴られたのだ。だがデリックが落ち込んでいる理由は別である。
いざ収録を始めようとした矢先、トラブルが発生したのだ。使おうとした矢先にギターアンプは突然沈黙し、ドラム用マイクセットは全く音を拾ってくれなかった。そんなわけで現在、デリック御用達の便利屋ペルモンド・バルロッツィが孤独に修理を行っているところなのだ。
そして髪を掻き乱すデリックは再度溜息を零し、それからこう言った。
「レコーディング前に機材が壊れるとはなぁ。……バッツィを呼んどいてよかったぜ」
そんなわけでシスルウッドは四か月という短期間で十二曲を書き上げた。先に宣言した通り、歌唱つきの曲は難解なパズルのような歌詞になっているし。曲調はトラッドのようにシンプルな構成になっている。シスルウッド自身が思う“自分らしさ”というものは前面に出せただろう。
完成した楽譜は、レコーディングの一か月前に参加してくれる演奏者たちに事前に郵送。そうして迎えたレコーディングがこの日だったのだが――このザマである。
シスルウッドらは、ミキサーといったPA機材やシンセサイザー類が乱雑に置かれたコントロールルームで待機していた。彼らは壁面に設置されたモニターから、隣のスタジオルームの様子を眺めている。
スタジオルームの床には、胡坐を組んでいるペルモンドの姿だけがあった。外部の音を遮断するヘッドフォンのようなもの――空軍で使用されるレベルのノイズキャンセリング機能のみを搭載した、音楽を聴く機能が一切ない高性能なイヤーマフ。エリカが彼のためにわざわざ探し、取り寄せたものである――を装着した彼は、しかめっ面をして機材たちと向き合っている。随分と使い込まれた工具箱をガチャガチャと漁り、機材の中をイジり、むぅ……と眉を顰めているペルモンドは、まあ彼なりに何か難しいことを考えているようだ。あれは邪魔しない方が良さそうな雰囲気である。
「まあ、修理はバッツィに任せておくとして……」
そう言うとスクッと立ち上がるデリックは、シスルウッドを見やる。シスルウッドは、コントロールルームの隅に置かれていた新品のシンセサイザーのパラメータをガチャガチャと操作し、音を鳴らしては首を傾げるという作業をかれこれ二〇分ほど続けていた。
ゴゴゴゴ……という風切り音に似た音色と共に、遅れて鳴るヒュロロロロ……というアルペジエーターの音。――これはシスルウッドが、デリックとペルモンドの二人に今回のレコーディングのために開発を頼んでいたシンセサイザーだ。別々のシンセサイザーで同時に鳴らすのではなく、一つの鍵盤で複数の音色を同時に奏でるものが欲しいと、そうシスルウッドは二人にオーダーしていたのだ。
そんなシンセサイザーで遊んで……いや、音作りをしていたシスルウッドは、デリックから送られていた視線に気付いて振り返る。そうしてデリックと彼の目が合ったとき、デリックはシスルウッドにこう言ってきた。
「お前の叔母さんの人脈すげぇな。お前が振ってきた無理難題を全部解決してくれたし。それに、シヴ・ストールバリを引っ張り出してくるなんて、信じられなかったぜ」
シスルウッドが出した無理難題。それは“楽器”の指定だった。
デリックは一般的なロックミュージックの楽器しか知らない。そのテの楽器奏者しか知り合いにいない。が、シスルウッドが出してきた『レコーディングにこの楽器をどうしても使いたいから、その演奏者を集めてくれ』というリストには、デリックの身近にはない、またはデリックも知らない楽器の名前ばかりが連なっていた。
『ティン・ホイッスル、フルート、コンサーティーナ。これは絶対に欲しい』
それくらいメジャーな楽器なら、ボストン市内を探せば演奏者はいくらでもいるだろう。
『バウロン、ブズーキ、ハープ。あっ、ハープはハープでも、アイリッシュハープだ。あの音階が欲しい』
ま、まあ、頑張って探せば見つかるかもしれない……が、デリックの知り合いには居ない……。
『あと、ハイランドバグパイプも希望したい』
そんな得物を扱う者など、デリックはその目で見たことが無い。
『ニッケルハルパも、いてくれたら嬉しいなぁ~』
そんなブツの名前、デリックは聞いたこともない!
――と、まあそんな感じで、シスルウッドの吹っ掛けてきたオーダーはデリックには『無理難題』だと思えたのだが、けれどもシスルウッドは十分に達成可能な目標だと考えていた。デリックではなく、ドロレスとローマンに頼めばなんとかなると踏んでいたのだ。
そして実際にドロレスらは知り合いを辿って、シスルウッドが求めていた人を見つけてくれた。ヘンテコな楽器の持ち主であり、且つ見知らぬ誰かの借金返済を助けるために無償で手を貸してくれる人徳者ないし物好きを、ボストンに集めてくれたのだ。
「殆どの奏者は叔母の家のご近所さんだよ。まさか車椅子のキリアンじーさんまで連れてくるとは思ってもいなかったけど……」
そう言うとシスルウッドは一階に集まっているメンツを思い出し、苦笑う。ヴェニューに集うバンドマンの中でも『クロエのイチオシ!』だという者たちと、ドロレスとローマンの二人。そしてシスルウッドを幼い頃に可愛がってくれていた近隣住民。それは何とも言えない不思議な光景だった。
あと一階には田舎街ハリファックスの住人の他にも興味深い人物が居た――シヴ・ストールバリと、その仕事仲間だというバクパイプ奏者だ。
「あとシヴと叔母は友人らしくて。シヴがニッケルハルパとアイリッシュハープを使うってのは知ってたから、ダメもとでお願いしたんだ。……しかし流石の僕も、無償で参加してくれるハイランドバグパイプ奏者が見つかるとは思いもしなかったよ。人の繋がりってやつに感謝しかないね」
シンセサイザーに視線を戻したシスルウッドは、パラメータのツマミを捻って調整しながらそう言う。それから彼は再び、シンセサイザーの鍵盤を適当にひとつ長押しした。
ゴゴゴゴ……という風切り音に似た音色は、透明感溢れる残響を纏って発せられていく。遅れて鳴るヒュロロロロ……というアルペジエーターの音には僅かな震えが加えられ、音色の輪郭は重なり、厚みが作られていった。
納得できる音がやっと完成し、満足したシスルウッドはシンセサイザーから離れる。そうしてシスルウッドがふと微笑んだとき、それまで大人しく黙りこくっていたジェニファーがニヤッと笑った。笑顔のジェニファーはシスルウッドを凝視すると、こう言う。
「それにしてもさぁ。アーティーって叔父さんにソックリだね。雰囲気とか所作とか笑い方とか。禿げデブの実の父親よりも、猫狂いの叔父さんのほうに似てるよー」
「意外ではないかな。少なくとも幼少期の僕にとって、彼こそが父親だったから」
ジェニファーの問いかけに、なんてことないかのような顔でシスルウッドは答える。友人たちもその答えを聞き、最初こそは「へぇー……」と聞き流していたが。しかし数秒遅れてから友人たちの顔は引き攣り、驚きに満ちた表情に変化した。今さりげなく凄いことを言っていなかったか、と。
友人たちの表情変化に気付いたシスルウッドは浮かべていた微笑を消し、僅かに顔を俯かせる。それからシスルウッドは抑揚のない声で、簡潔にこれだけを言った。
「本来は叔父と叔母である二人のことを、幼少期の僕は両親だと思っていた。そして僕は彼らの許に引き取られた養子だと。けれども現実は違い、実の父親はアレで、僕は叔母たちの許に一時的に預けられていただけだった。それである時に実の父親がやってきて、僕は元の家に連れ戻されて……――そういう感じ」
そう言い終えたとき、シスルウッドはかなり同情的な視線が自身に向けられたことに気付く。実の父親が“アレ”ということ以上にワケありなシスルウッドの背景を、マトモな世界で育った友人らは笑い飛ばすことができなかったようだ。
となれば、自分で笑うしかない。
「そんな暗い顔しないでよ。全て過去のこと、終わった話なんだから」
シスルウッドが和やかな作り笑顔を浮かべながら穏やかな声でそう言えば、白けた視線は彼から逸れていく。あのモラルが欠片も無い自由人ジェニファーすらも気まずそうな顔をしていて、シスルウッドから目を逸らしていた。
しかし、ただ一人だけ真っ直ぐとシスルウッドの目を見ていた人物が居た。それはシスルウッドが書いた楽譜のひとつを膝に乗せているフィル・ブルックスだ。そしてフィルは作り笑顔のシスルウッドに向けて、薄気味悪さほど覚えるほど真っ直ぐな目を向けている。そんなフィルは、本音と嘘を交互に繰り出すシスルウッドにこんなことを言ってきた。
「ボクは楽譜が読めないから、これがどういう感じの曲になるのかがまだ予想も出来ないんだけど。でも歌詞を見れば分かる。――笑ってる割には何も振り切れてないよね」
フィルの膝の上には、アルバムのケツに入れる予定の楽曲『薊と茨』の楽譜が載せられている。その楽譜には、メロディーラインと歌詞、それとコード譜が一枚にドンッとまとめられていた。フィルは多分、その歌詞の部分だけを読んでいたのだろう。そしてその曲の詞はシスルウッドが最も好き放題に書いたものであり、突っ込まれると困る点がチラホラとあるものだ。
「さすが、抽象画家の目は怖い。君といい、ジェニーといい、いつも痛いとこ突いてくるなぁ……」
シスルウッドはフィルを少しからかうような調子で言う。それは「これ以上、そのことを聞いてほしくない」という一種の牽制であったのだが、しかしフィルにその手は通じなかった。
「最後の曲、薊と茨。これらが指しているものが何なのかが気になるんだ。
ペインティングナイフのように程よい鋭さと程よい柔軟性を併せ持つフィルの声は、レイピアのように細く鋭いシスルウッドの牽制をスルッと躱す。刃を交わして護拳をすり抜け、フィルの声はシスルウッドの刺々しい心に直前まで迫る。が、最後にはシスルウッドの強引さないし頑固さが勝った。シスルウッドはこう語り、フィルの口を塞いだのだ。
「それは僕だけが把握していればいいことだよ。悪いけど、誰にも教えるつもりはない」
シスルウッドはピシャリと冷たく跳ね除けるという強硬手段に出る。言葉の最後に薄気味悪いほど和やかな作り笑顔を浮かべてみれば、フィルは息を呑んで黙り込む。フィルがそれ以上の追及をしてくることは無かった。
気まずい雰囲気が換気されるよりも前に立ち込めた居心地の悪い空気に、場にいた一同の気分は最悪なものとなる。下の階からは楽しそうに談笑する笑い声が聞こえてきているというのに……。
そんな気分が悪い空間に、気遣いの鬼であるエリカが反応し、アクションを起こす。コントロールルームの中央に設置されていた机、その上に乱雑に置かれていた楽譜のうちの一枚を手に取ったエリカは、冷たい笑みを浮かべるシスルウッドにこう言った。
「この楽譜は……――ああ、一番最初の曲ね。私、これはすごく好きよ。薄明の中へ、って曲。情景描写が素晴らしいわ。清々しい朝の空気がありありと思い起こせる、美しい詞だと思う。……でも、この副題は何? Dのために、ってあるけど」
楽譜の一番上、タイトルの部分を指でなぞるエリカはシスルウッドにそんなことを訊ねてくる。そしてシスルウッドは笑顔を消して真顔になると、部屋の隅で居心地悪そうに腕を組んでいるデリックを指差す。それから彼はこう言った。
「デリックの借金返済のために、って意味」
その直後、ブフッ、と噴き出したのはジェニファーだった。次にジェニファーが腹を抱えて笑い出すと、その笑いは連鎖していく。フィルは口を手で覆い隠すとクスクスと笑い始め、エリカも、そしてシスルウッドも笑い声をあげた。
そして名指しされたデリックは恥ずかしさから顔を赤くし、コントロールルームから逃げて行く。ペルモンドの居る隣部屋に逃げ込んだデリックは、妙に上ずった声でペルモンドに声を掛けた。
「バッツィ! 俺にもなんか手伝わせてくれ! 何をすればいい!?」
とはいえ、シスルウッドが言ったのは嘘だった。Dという文字に込められた意味は“デリックの借金返済のために”ではない。それはいつか抱いた願望を込めた呪いの言葉だった。
For the Dawn.
足にずっと絡みついていた蔦や茨の全てを焼き払って滅ぼしてくれるような天変地異が起きて、新しい世界の
白昼に別れを告げ、
その目を閉じて赤き黄昏に感嘆の息を吐け。
昇る薄明を感じよ、
精神の扉を開き、闇夜の中で眠れ!
その目を閉じて赤き黄昏に感嘆の息を吐け。
昇る薄明を感じよ、
精神の扉を開き、闇夜の中で眠れ!
――一体、誰が気付けるというのだろう? シスルウッドがパズルの奥に隠した、その答えに。
「…………」
コントロールルームの壁に取り付けられたモニターには、隣部屋でデリックがぺルモンドに怒鳴られている様子が映し出される。
作業の邪魔だ、出て行ってくれ。ペルモンドは、そんなことを言っているようだ。だがコントロールルームに戻りたくないデリックは食い下がり、とにかく何かを手伝わせてくれと必死に訴えている。
「ペイルも意固地ねぇ。手は多い方が仕事も早く終わると思うのに……」
遂にデリックを無視し始めたペルモンドの様子をモニター越しに見つめながら、エリカはそんなことを呟く。シスルウッドもそれを見て、ケタケタと笑っていた。
だが笑うシスルウッドに意味深な視線を向ける二人組がいる。ジェニファーとフィルの二人組は、シスルウッドが隠し持つ“答え”にとっくに気付いていたのだ。
「ねぇ、アー……」
ジェニファーが笑うシスルウッドにそう声を掛けようとしてきた時。階段を駆け上ってくる足音が聞こえてくる。その後、コントロールルームの扉がノックされ、人が入ってきた。
「ねぇ、ウディ。サウンドの統括責任者に会いたいって人たちが来てるわ。黒髪の女の子と、あと小太りの男の人なんだけど……」
コントロールルームに入ってきたのは、シスルウッドの叔母であるドロレス。そして彼女が発したセリフにシスルウッドは頭を抱えて溜息を吐く。それから彼はこう言って、コントロールルームを出て行った。
「スーザンだろうね。ザックも連れてきたのかな。……はぁ~。追い払ってくる」
苛立ちと共に去っていったシスルウッドの様子を、首を捻りながらドロレスは見送る。そうして不思議がるドロレスに、ジェニファーは事の真相を教えるのだった。
「たぶんその女の子、彼をストーキングしてるスーザンだと思う。あいつに片思い募らせちゃってるみたいなの、彼女。……変人好きのアーティーが、平凡で面白くない子に振り向くわけがないのに。可哀想な子だよ」
しかし、シスルウッドやジェニファーらの予想は外れていた。来襲してきたのはスーザンよりも歓迎されざる者、かつてシスルウッドをボロカスに貶してきたヴァイオリニストのロワン・マクファーデン。そしてドロレスの言っていた『黒髪の女性』というのはスーザンでなくロワンの恋人、リズ・パークという名の全く違う女性だった。
押しかけてきたヴァイオリニストのロワンは「デリックのスタジオで収録がある。それもシヴ・ストールバリが来ているらしい」と聞きつけ、恋人を侍らせ自分を売り込みに来た、というわけなのだが。サウンドの統括責任者、として出てきたのが因縁の相手であるシスルウッドだったことに彼は激高。また応戦するようにシスルウッドも激怒する始末。見るに堪えない罵り合戦がすぐに開幕したのは言うまでもない。
そのうち喧嘩のにおいを嗅ぎつけた野次馬が内から外からと集まり始め、ヴァイオリニストとフィドラーの争いもヒートアップ。仲裁に入ったドロレスとローマンの二人も、しかし甥が「(ドロレス曰く)客観性も思いやりもカケラも持ち合わせていない、自己中心的で視野の狭いロクでなしな金持ちのボンボン」から不当に差別されているのを見るやいなや参戦の立場に転じてしまい……――警察が駆けつけるまでの騒ぎに発展していった。
その日は結局、騒動も相まってレコーディングなどできはしなかった。また表で起きた喧嘩のことなど全く知らず、ただ作業に集中していたペルモンドが機材の修理を終えたのも、日付を跨いだ深夜一時のこと。エリカとデリックの二人も修理に協力した為、これでも早く終わったほうだった。
更に時間は遡って、ライブの約十一か月前のこと。四二二一年、一月の初旬のある朝。年明けをハリファックスで過ごしていたシスルウッドは、ブレナン家のキッチンに立っていた。彼は哺乳瓶を消毒するために、大きめの鉄鍋ふたつに水を溜めていたのだ。そして彼の足許では、サビ猫オランジェットがソワソワと落ち着かない様子で歩き回っている。つい一〇日前にやってきた子猫たち二匹に、まだサビ猫オランジェットは慣れていないようだ。
サビ猫オランジェットの尻尾を踏まないよう気を配るシスルウッドもまた、ソワソワと慌ただしく動き回っていた。そしてキッチン台の上には粉ミルクが二つ並べられている――子猫用と人間用の二種類が揃っている。
そしてリビングルームのほうからは親たちの裏返った声が聞こえてきていた。またリビングルームに設置されている二脚のソファーは、彼らによって占領されていた。
「あぁ~、ビャーハちゃん、いい子でちゅね~。じょうずに飲めてまちゅよぉ~」
赤ちゃん言葉と高い声でそう言っていたのは、ビャーハと名付けられた白い毛並みの子猫に授乳中の叔父ローマン。そんな彼の隣には、もう一匹の子猫(全体的に白っぽいが、しかし尻尾の先だけ茶トラ模様の入った子猫で、イシュケと名付けられた)に授乳中である叔母ドロレスの姿があったが……ドロレスのほうは集中しているのか終始無言だった。
そんなドロレスとローマンの二人は、赤いソファーの方に座っている。そしてもう一脚の青いソファーのほうにはベックの姿があった。
「あぁ~、もう、なんでなのぉ~……どうして飲んでくれないのよぉ~……」
シスルウッドが三年ほど帰郷していなかった間に、ベックの身には大きな変化が起きていたらしい。端的に言うと、ベックは結婚した上にママになっていたのだ。
コンビニエンスストアで働きながら、ハリファックスで生活する中で見つけた趣味“写真撮影”を楽しむようになったベックは、休日になると近所を散策し、カメラに収めるというような日々を二年前から送っていたらしい。空の移り変わりや野に生えている草花、川のほとりに溜まっていたゴミなど、幅広く色々と撮っていたそうだ。そんな撮影活動の中で現在の夫、ウィリアム・ツァイと出会ったのだという。
ウィリアムという人物はベックとシスルウッドよりも一つ上の男性で、ハリファックスにある総合大学に通っている学生とのこと。彼とベックは一年半ほどの交際を経て、半年前に結婚。まあ、いわゆる『ショットガン婚』である。できちゃった、というわけでウィリアムが責任を取ったというカタチだ。
ベックが出産したのは先月のこと。そして妊娠中から産後暫くの間、ベックはブレナン家に身を寄せていた。ベックに『頼れる家族』というのが居なかったことと、パートナーであるウィリアムに彼女の面倒は看られそうもなかったことが、ブレナン家に身を寄せた理由となっている。
この頃のウィリアムは、なんたら銀行から内定を受けていてインターンで忙しかったうえに、卒論の執筆もあって暇や余裕が無かった。勿論、彼にとってベックもその子供も大切な存在ではあったのだが、しかし将来が懸かった大事な時期でプライベートを優先するわけにもいかず。決断を下せずにあわあわとしていたウィリアムに、遂にドロレスとローマンの二人が激怒。というわけでブレナン夫妻がベックを預かったのだ。
もともとベックのことを娘のように可愛がっていた二人は、セレニティと名付けられたベックの娘のことも孫のように可愛がっている。まあ、つまり、シスルウッドの代わりにベックが親孝行をしてくれてい――
「こっちの息子は親不孝で困っちゃうわ~。全然家に帰ってきてくれないし~、孫の顔は当分見られそうもないし~。結婚もいつになるんだかねぇ~。素直な良い子をせっかく捕まえたのに、逃げられても知らないわよ~」
シスルウッドが水の溜まった鉄鍋をガスコンロの上に移していたとき。猫用の哺乳瓶を持った叔母ドロレスがキッチンにやってくる。空っぽの哺乳瓶を両手に持ったドロレスはシスルウッドの背後に来ると、背後からシスルウッドの前へと両手を回してきた。それからドロレスは、まだ温い哺乳瓶をシスルウッドの顔に押し付けてくる。
左右から哺乳瓶で顔を挟み込むように、ぐりぐり……。そしてサビ猫オランジェットも、シスルウッドの足許にズリズリズリ……と纏わり付いてくる。
「そーいうことを言うと、ますます親不孝な息子になっていくよー。次は一〇年ぐらい帰ってこないかもしれなーい」
シスルウッドはそう言うと、ドロレスから子猫用哺乳瓶ふたつを受け取り、それをシンクの空いているスペースに置いた。続いて彼は子猫用哺乳瓶専用のスポンジと哺乳瓶用の洗剤を手に取る。そして彼は子猫用哺乳瓶をぼちぼち丁寧に洗っていった。
帰郷してからずっと哺乳瓶洗浄係を任されているシスルウッドの手付きは、もう慣れたものとなっている。あーだこーだと口出しをしなくても大丈夫になってきたシスルウッドにホッと胸を撫でおろすドロレスは、甘えん坊のサビ猫オランジェットをシスルウッドの脹脛から引き剥がすように抱き上げた。ドロレスに抱き上げられたサビ猫オランジェットは「ぅにゃーん!」と朝ごはんを催促する鳴き声を上げる。
ドロレスは一度サビ猫オランジェットを床に下ろし、キッチンの戸棚をガサゴソと漁って猫のドライフードが入った袋を取り出した。すると、ドロレスが動かした袋の音を聞いて、他の猫たちも次々とキッチンにやってくる。
尻尾をピンッと立てて軽快な足取りと共に駆けてきた黒白はちわれ猫ボンボン、のそのそとゆったりしたペースで歩いてきたのはブチ猫パネトーネ。そうしてブレナン家の看板猫三匹が揃ったところで、ドロレスは三匹分のエサ皿を出し、キッチンの床にそれを置いた。続けてドロレスはエサ皿の中に均等な量のドライフードを入れていく。
陶器のエサ皿にドライフードが注がれ、からんからん……と冷たい音が鳴る。その音を聞きながら、シスルウッドは太めの綿棒を使ってニプルの内側をぐりぐりと洗っていく。そうしてひとまず洗い終えたとき、シスルウッドはドロレスに一応確認をした。「ガラス瓶は布巾に包んでから鍋に入れるんだよね?」
「そうよ。布巾でくるんだガラス瓶を先に入れて湯を沸かし、鍋に蓋をする。水が沸騰した三分後にキャップとニプルを入れてまた蓋をして、更にそこから二分半煮る。終わったらお湯だけを抜いて、鍋に蓋をして中身は放置しておいてね。その後は私がやるから」
その後シスルウッドは、ドロレスの指示通りに仕事を終えた。猫用哺乳瓶の煮沸消毒は終わり、次は人間用の哺乳瓶が空くのを彼は待っていたのだが、しかし一向にそれが来ない。どうして、と繰り返し問うている切羽詰まったようなベックの声と、嫌がるような赤ん坊の泣き声だけがリビングから聞こえてきていた。
「……?」
次の哺乳瓶を待ちながら、シスルウッドは朝食を作っていく。
薄切りにしたジャガイモ、適当に小さくちぎったベーコン、サッと茹でて小さくちぎったブロッコリー、一口大に切り分けたチンゲン菜、それと豚ひき肉を大きめのフライパンにガサッと載せて、それらをオリーブオイルでチャチャッと炒める。そこにたまご四つ分の卵液をぶち込み、ゴロゴロと具が入ったオムレツを作った。
続いて冷蔵庫から取り出したグリーンリーフを一口大にちぎってボウルに放り込み、スライスしたラディッシュもボウルに入れる。そしてグリーンリーフとラディッシュに「うぉりゃー!」と大胆にマヨネーズをぶちまけ、適当にガサガサッと和えた。そうすればサラダっぽい何かの出来上がりである。
そうして完成した朝飯をシスルウッドは四人分に取り分けていたとき。猫用哺乳瓶の片づけを終えたドロレスが、やや慌てた様子でリビングルームに向かっていく。ドロレスの背を横目で追うシスルウッドは、その先にあったものを見て少しの驚きを得た。――あのベックが泣いていたのだ。
「そんなカリカリしなくても大丈夫。最悪、どうしようもないほどお腹が減ったときには飲むから。飲まないなら、今はいらないってことだ。この子のペースに合わせるしかないよ。だから君は先にご飯を食べてきたらどうだい」
ゆったりとした調子でそう語るのは、ガーゼで子猫のお尻をポンポンッと叩いて排泄を促している最中のローマン。そのローマンの隣に食事を終えた黒白はちわれ猫ボンボンが駆け寄り、空いているソファーを陣取る。そしてローマンは、食事後の排泄を終えた子猫たちを黒白はちわれ猫ボンボンのお腹に並べていった。すると黒白はちわれ猫ボンボンは子猫たちの頭をペロペロと舐め、毛繕いをしていく。新入り子猫の世話役を、今回はボンボンが担っているようだ。
子猫を一旦ボンボンに預けたローマンはソファーから立ち上がると、子猫用の保温ボックスを取りに猫部屋のある二階へ上がっていく。
一方、赤ん坊を腕に抱えて泣き始めたベックの傍には、人好きのサビ猫オランジェットが駆けつけた。サビ猫オランジェットはベックの腕にズリズリと頭を擦り付けると、泣きじゃくる赤ん坊の顔を覗き込む。そしてサビ猫オランジェットが赤ん坊に近付こうとした――が、そこに来たドロレスによってオランジェットは捕らえられた。
ドロレスはサビ猫オランジェットを抱き上げると、黒白はちわれ猫ボンボンが居座るほうのソファーの座面に下ろす。続いてドロレスはベックの手から哺乳瓶を取り上げ、それをテーブルの上に置いた。それからドロレスは赤ん坊もベックから取り上げると、キッチンを見やりながらこう言った。
「ベック。あなた、眠れてないんでしょう? セレニティは私たちが預かっておくから、あなたはご飯を食べて、寝てきなさい。――ウディ、ベックの分だけこっちに持ってきてくれる~?」
シスルウッドは一人分の朝食とガラスコップひとつ、それとカトラリー類をプレートに載せ、リビングルームに運んでいく。ベックの座るソファーの前にプレートを置くと、シスルウッドはオレンジジュースを取りに一度キッチンに戻った。
オレンジジュースの入ったガラス瓶――久しぶりに見る“ボトル”だ――を冷蔵庫から出すと、シスルウッドはそれを持ってリビングルームに行き、ベックの前に置かれていたガラスコップにオレンジジュースを注いでいく。そうしてコップに程々の量が溜まったところで、シスルウッドは再びキッチンに戻って、オレンジジュースのボトルを元あった場所に返した。
次にシスルウッドが向かうのはキッチン棚。ドロレスもローマンも、朝にはコーヒーを飲む。そのためコーヒー豆と豆を挽くミルが入っている戸棚を彼は開けようとしたのだが、そのとき再びドロレスからの呼び出しが掛かった。
「ウディ! 哺乳瓶を洗ってちょうだーい。取りに来て~」
「はい、今すぐに!」
手を掛けた戸棚からスッと離れ、シスルウッドはまたリビングルームに向かう。そうして机の上に置かれていた哺乳瓶を取ると、それを携えてまたキッチンに戻っていった。それから彼は再度、先ほどの猫用の哺乳瓶と同じような工程を繰り返す。
哺乳瓶のキャップを開けて、中のミルクをシンクにジャバッと流して捨てて。次に軽くガラス瓶の中とキャップ、そしてシリコン製のニプルを軽く水洗いしたあと、専用の洗剤とスポンジで洗い、水で洗剤を丁寧に落としていく。そして水をたっぷりと溜めた鉄鍋に、布巾でくるんだガラス瓶を入れて、タイマーを三分後に鳴るようセットして……。
「……」
ガラスの鍋蓋越しにぐつぐつと煮える水を見下ろすシスルウッドは、すっかり無言となっていた。その顔に表情もなく、ただ真顔。心の中に感情もなく、ベタ凪のような心境にあった。――が、疲労の色は少し出ていた。目の下に黒い隈が出来ていたのだ。
「…………」
ブチ猫パネトーネを撫でてみたり、サビ猫オランジェットを膝にのせてモフモフしたり、黒白はちわれ猫ボンボンと猫じゃらしで遊んだり。それと書店や家事を手伝ったり。その合間で、デリックからの頼まれごとである作曲をやる。――そんなつもりで帰郷したシスルウッドだったのだが。彼を待っていたのは、夜は赤ん坊の夜泣きに何度も叩き起こされ、昼間は休む暇なく家事をやらされるような、そんな日々だった。作曲を~……だなんて余裕も隙も一切ない。眠る時間すらロクにないのだから、遊んでいられるようなヒマもないのだ。
車に轢かれた際に軽い脳震盪を起こした影響で、ボーッとしている時間が増えたローマン。タフで活動的なほうではあるが、しかし最近は腰のほうに懸念があるドロレス。まだ産褥期にある上に、帝王切開での分娩だったとのことで無理は禁物な状態にあるベック。そんな状態にある世帯の中に帰ってきた健康な若い男が扱き使われないわけがなく。シスルウッドはすっかり『雑用係』と化していた。
一日五回ほどのおむつ交換。これはドロレスとベックが半々で担当しているが、おむつのゴミを小さくまとめて捨てに行くのはシスルウッドの役目だ。それ以外のゴミ捨ても、全てシスルウッドの役目である。ドロレスが適当にポイポイと捨てていくゴミの分別も、以前はローマンがやっていたが今はシスルウッドが担当していた。
おむつ交換の後のミルク。ミルクづくりはドロレスがやっているが、しかし哺乳瓶のセットと洗浄はシスルウッドの役目だ。猫の哺乳瓶も、人間の哺乳瓶も、全てシスルウッドが組み立てているし、洗っている。お陰で煮沸消毒は完全にマスターした。
朝食づくりはシスルウッドの担当。今朝のように、哺乳瓶が空になるのを待ちながら作っている。昼食と夕食はシスルウッドとローマンの二人で作っている。だが皿洗いは朝昼晩ともにシスルウッドの役目だ。
買い物はシスルウッドの担当。ドロレスから買い物リストと車のキーを渡されて、ひとりで行ってこいと告げられる。その間に洗濯をドロレスが済ませて、家の中の掃除をローマンが行っている。
赤ん坊が夜泣きした時、あやしに行くのもシスルウッドの担当。なぜなら、彼がリビングルームのソファーで寝ているからだ。帰郷したときにシスルウッドがいつも使っているゲストルームを今はベックが使用しているため、彼には部屋が無い。そのためリビングルームのソファー、その硬い座面の上で彼は寝ているのだが、硬いソファーで熟睡が出来るわけもなく。良くも悪くも彼はすぐ起きることができる。そのため、夜泣き時のあやし担当に任命されたのだ。
「………………」
特に神経質にならざるを得ない子猫の世話は、知識のあるローマンが担当している。そこの負担がないだけ幾分かマシなのだろう。――そう言い聞かせながら、シスルウッドは眠気をグッと堪える。舌先を前歯で軽く噛み、小さな痛みで目を醒まさせようとするが、けれども痛みに慣れ切った体にその程度の刺激は効かない。結局、こらえきれない眠気は欠伸となって出てきてしまう。
そうしてシスルウッドから暢気な欠伸が飛び出たとき。彼の首筋にひどく冷えた指先が触れる――冬の寒さで随分と冷えたドロレスの手だ。その冷たさに体温を一気に吸われたシスルウッドはブルッと背筋を震わせる。その拍子に目が覚めた。
キリッとした目に変わったシスルウッドが振り返り背後を見れば、いたずらっぽい笑顔を浮かべたドロレスがやはりそこに立っていた。肩から幅広のスリングを垂らし、それで赤ん坊をくるむように抱えているドロレスは、再びシスルウッドの首に触ろうとする。が、寸でのところで彼は避けた。
いたずらを仕掛けてくるドロレスに、シスルウッドはムッとした表情を見せる。するとドロレスは笑顔を消し、一転、真面目な顔となった。そしてドロレスはシスルウッドに言う。「ところで。将来のこと、ちゃんと考えてるの? 『人の役に立たないような仕事をしたい』だなんてバカみたいなこと、まだ言ってたりしてな――」
「何も考えてませーん」
ドロレスの言葉を途中で遮り、間延びした調子でシスルウッドはそう言い返すと、鍋に視線を戻した。そしてシスルウッドは思う。数年前の自分も今の自分も、大して変わっていないと。
人の役に立たないような仕事をしたい。そうのたまっていたのは、ハイスクール時代のシスルウッドだ。進学先をどうするかという話をしていた時に、シスルウッドは「今を生きる人の役に立たない仕事をしたい。だから考古学とかに興味がある。考古学っていっても、黄金時代じゃなくて中世暗黒時代の研究とか、そういうの」ということをブレナン夫妻に言っていた。そしてあの頃の舐め腐っていた精神性に進歩が見られたかと言えば、答えはノー。当時二十一歳だった彼だが、精神性はその発言をした十六歳頃から大して変化はしていなかったし、考えも変化していなかった。それどころか、人間嫌いの程度はハイスクール時代よりも悪化していただろう。
この頃のシスルウッドにとって、他人は敵と同意義だった。一部の親しい人々を除き、大半の他人は敵。罵詈雑言や腐ったトマトをぶつけてきたり、ありもしない出来事をでっちあげて評判を貶めてくるような存在という認識でしかなかったのだ。
となれば「人の役に立ちたい」などという健全で綺麗な願望が沸き上がってくるはずもなく、それどころか「あのクソ野郎どもをぶちのめしてやりたい」という怒りしか込み上げてこない始末。……ならせめて「人の役に立たないことをしたい」程度で落としどころを見つけたいというもの。
それなのに。怒りを頑張って抑え込んで出した答えを『バカみたいなこと』と一蹴されてしまっては……――もうどうしたらいいのかが分からない。
「ウディ、ふざけないで。真面目に訊いてるのよ」
シスルウッドの適当な答えが不服だったのか、問い質すドロレスの声はかなり不機嫌そうだった。が、かといって舐め腐った精神の持ち主であるシスルウッドが反省するわけがない。ドロレスがシスルウッドの返した適当な答えに苛立ちを覚えているように、シスルウッドも彼なりに考えて出した答えを『バカみたい』と一蹴されていたことに苛立ちを覚えていたからだ。
そうしてシスルウッドが溜息を吐いたとき。タイミングよくタイマーが音を鳴らす。シスルウッドは鍋の蓋を開け、沸騰する湯の中にキャップとニプルを投入し、蓋をした。それから再度タイマーを設定すると、シスルウッドはドロレスの方に体を向ける。彼は腕を組むと、ドロレスの目を真っ直ぐ見ながらこう答えるのだった。
「古典暗号の研究室に入ろうかなーって考えてて、今はそこに所属してる教授とか研究員の人たちに前もって媚を売ってるとこ。それより先のことはまだ考えてない。取り敢えず今は、キャロラインの家にある謎めいた日記帳の解読が最優先かなって。その次が友人の借金返済のためのアルバムづくり。将来設計は、まあいずれ考える。でも、そうだなぁ……博士課程に進んで、ポスドクから助教、って流れでいけたら一番いいよね」
「結婚はどうなの?」
日記帳かキャリア設計に話題を逸らせるかと期待していたシスルウッドだが、目論見通りには行かなかった。ドロレスが問い詰めてきたのは結婚のこと。というか、最初から彼女が聞きたかったのはそれなのだろう。
シスルウッドと同い年であるベックは、結婚して子供もできた。となればシスルウッドもそうなるよう期待している、ということなのだろう。だが、この時のシスルウッドにはその期待に応える気がなかった。
シスルウッドは、ベックが母親になっていることに驚いていた。自分の人生を家庭という狭い世界に埋めることをもう決めてしまったのか、と。それに泣きじゃくる赤ん坊を抱えるベックが幸せそうだとは思えなかったし、配偶者が彼女の傍に居ないことも不憫に思えてならなかった。
となれば、自分はそうなりたくないと考えるのが必然というもの。ベックのような境遇に恋人キャロラインを追いやりたくはないし、ベックの配偶者ウィリアムのような不義理を自分はしたくない。シスルウッドはそう考えていたのだ。ゆえに彼は言う。
「キャロラインのことは好きだし、大切にしたいとは思っているけど。将来のことってなると踏ん切りが付かなくて。それにまだ早いかな、って。そういうのは働いて稼げるようになってから検討するものだと思う。自分のことで精一杯な学生っていう立場の今、とてもじゃないけど結婚なんて考えられないよ」
「でも人の役に立ちたくないんでしょう? なら稼げるようになる日なんて来ないと思うけど」
どうやらドロレスには、シスルウッドの意見を聞くという気がないらしい。彼女の望んでいる答えをシスルウッドが言うこと、それを希望しているようだ。近いうちに結婚するとか、いずれ孫の顔を見せに来るよとか、そういう言葉しかドロレスは聞きたくないらしい。
そういう態度を取られてしまうと、シスルウッドの冷たい天邪鬼な側面が疼く。絶対に言いなりになってたまるか、という灰色の悪意が腹の底でムズムズと蠢きだした。
「……」
ドロレスの目をジトーッと見つめるシスルウッドは組んでいた腕を解き、肩を竦める。次に、ドロレスの無理解さを責めるように眉をひそめ、大袈裟な溜息を零した後、すとんと肩を落とした。それからわざとらしい沈んだ声で、シスルウッドは語る。
「僕の実父はクズ野郎で、実母だって問題ばかりだ。そうなると、この血筋を残したくないと考えてしまう。だったら子供は欲しくないし、独り身でいいかな、って感じるんだ。勿論、キャロラインは好きだ。けど最悪の場合、最良の友人っていう関係に戻ることも選択肢としてアリだと思ってる」
意地悪が半分、本音が半分。そんな言葉を語るシスルウッドに、ドロレスも大袈裟な悲嘆を表現する。目を細めて眉をひそめて眉間に皴を寄せ、スリングで抱く赤ん坊に意味ありげな視線を送り、いかにも悲しんでいそうなオーラを演出した。それからドロレスは悲壮感を漂わせながら言う。
「別に血縁なんて気にしなくてもいいじゃない。養子っていう選択肢もあるし。それにあなたの実の両親には問題があるけど、でもあなたは普通で、問題のある性格なんかじゃないでしょう? 犯罪歴も薬物使用歴もない。健全でクリーン。なら――」
「この呪いを連鎖させたくない。僕の子供は絶対に不幸になる。その確信がある。だから家庭は持ちたくないんだ」
押しつけがましいドロレスの言葉に、シスルウッドは語気を強めて言い返した。そして此度飛び出した言葉は嘘偽りない正直なもの。温度無き刃のような冷たい態度も、家庭を持ちたくないという褪めた言葉も、真っ直ぐな本音だった。
だが、正直でストレートな言葉は不思議なほど他者の心には響かない。冷めた態度で悲観的な言葉をドライに述べるシスルウッドに、ドロレスは顔を顰めるという反応を見せる。望んでいる言葉をシスルウッドから引き出せない苛立ちから、ドロレスは挑発的な言動をしてしまうのだった。
「人の役に立ちたくないって言ったかと思えば、今度は反出生主義? そんな悲観的で幼稚な思考は手放しなさい。そういう言動が許されるのはハイスクールまで。あなたはもう大人なのよ」
大人なドロレスは、子供じみたシスルウッドをそう諫める。だが、その言葉はシスルウッドの心に更なるヒビを刻んだだけだった。
反出生主義。ドロレスは何か深い意味をもってその言葉を持ち出したわけではないのだろう。だがその言葉を非難材料として使われたことに、シスルウッドは少なからずショックを受けていたのかもしれない。なぜならその言葉は、彼を定義するうえで最も重要な概念だったからだ。
「……大人か。ハッ……」
人生は辛苦に満ちている。人の営みは苦痛の塗り重ねでしかない。憎悪は恐ろしいほどありふれている感情。そして復讐を追い求める心を止めることは何者もできない。そんな不幸ばかりの世界で、夜霧のように実態の掴めない幸せを追い求めるなど苦行に他ならない。となれば、子を為すなんて不幸を敢えて連鎖させるようなものだ。それならば。
「なら幼稚な僕に教えて欲しい」
シスルウッドの実母が見出した答えは、出生の否定だった。それに、シスルウッドも同様の答えを得ている。実母が子供を遺したくないと望んでいたように、遺されたシスルウッドもまた人生を望んでいなかったわけで。そんなシスルウッドが更なる不幸の連鎖を生み出したいと思うはずもない。
薄ら笑うシスルウッドは、ドロレスに抱かれて眠る赤ん坊を見る。そして彼は乾いた声で、ドロレスに婉曲表現を用いた問いを切り出した。
「復讐に殉じた茨から生まれたのが、人間嫌いの薊だ。なら薊が生み出すものが辿る末路は?」
それはマタイの福音書にある一節。善人と悪人の違いを説くたとえ話を揶揄したもの。
マタイの福音書では、以下のように定義されている。――無花果と葡萄は良い実をもたらすため良い樹で、善人の象徴。薊と茨はろくな実を結ばないから悪い樹で、悪人の象徴。そして薊と茨のような人間は忌むべきものだから焼き払われるべきだ、と。一神教らしい、独善的で多角的な視点の欠けた主張だ。
そして皮肉なことに、彼の名前は『
「それは聖書の中の話よ」
遠まわしな言葉でやっとシスルウッドの意図を理解したドロレスは、彼の問いに答えず跳ね除けるという反応を示す。続けてドロレスは言った。「あなたは聖書が言っているような悪人じゃない」
「さあね。これからなるかもよ。僕は父親には似てないけど、母親にはそっくりらしいし」
「あなたは父親に似ているのよ。なぜなら、私たちの息子だから。だからきっと良い父親になれるわ、ローマンみたいな良い父親に。今だって、すごく協力してくれてるし。あなたなら幸せな家庭を築けるに決まってる」
もう見苦しいからやめなよ、叔母さん。――シスルウッドはそう思っていたが、飛び出しそうになった血の通っていない言葉を呑み込む。あなたの両親は私たちなんだと訴える必死そうな叔母の顔が、シスルウッドにはひどく哀れに思えたのだ。
「そうだといいけど」
シスルウッドはそう言って一際冷めた笑みを口元にだけ浮かべると、ドロレスに背を向けて鍋に視線を戻す。そんな彼の心は、少しずつかつての両親だったブレナン夫妻から離れていっていた。自分が別の世界の住人になってしまったかのような思いを抱いていたのだ。
平和で穏やかな“普通”の世界に続く道から足を踏み外してしまったような、そんな感覚。マジョリティから爪弾きにされた変わり者たちが集う辺境すら踏み越えて、異常者だけが潜む冷たくて暗い世界に歩みを進めているような、そんな気がしている。
「……未来のことなんて、何も分からない、誰にも。僕がどうなるかなんて、僕にも分からない」
疲れ切った顔で、しかし嬉しそうに他人の赤ん坊を抱いている叔母。彼女がいる穏やかで暖かな世界に、自分はもう踏み入れない。その資格はないし、そもそもそんな世界に入りたくもない。……怒りの炎で燃やし尽くされ、黒ずみ焦げたシスルウッドの心はそんなことをボヤく。
そして俯くシスルウッドの足許に一匹の猫が擦り寄ってくる。いくつになっても甘えん坊なサビ猫オランジェットが、リビングルームのソファーを降りてキッチンに来ていたのだ。
「ぅなーお」
尻尾をピンと上に伸ばし、甘え声を立てるサビ猫オランジェットは、ひょいと前足を上げてシスルウッドの膝に肉球を当てる。抱っこして、という合図だ。
構ってアピールをするサビ猫オランジェットを、シスルウッドは要望通りに抱き上げる。抱き上げたサビ猫オランジェットの頭をシスルウッドが軽く撫でてやれば、サビ猫オランジェットはすぐにゴロゴロ……と喉を鳴らした。
「……お前たちは本当に可愛いな。自分勝手で、自由で、人の都合なんか気にしない……」
気持ちよさそうに目を閉じるサビ猫オランジェットの顔を見ながら、シスルウッドは小声で呟く。彼はこのとき、一年かけて読み切った実母の日記の内容を、そして実母の正しい名前を知ったときのことを思い出していた。
「……」
アネモネとかいう女には、私の名前が聞き取れなかったらしい。ブレア。彼女は私のことをしつこくそう呼んでくる。私の名前はブライアーなのに。何度訂正しても、あの女は改めることをしない。だからもう諦めた。
まあ、でも、都合が良いのかもしれない。本名が分からなければ、やつらに家族のことを探られずに済む。どうせならアネモネの聞き間違いをそのまま私の名前にしてしまおう。
私は今日からブレア・マッキントッシュだ。それでいこう。
まあ、でも、都合が良いのかもしれない。本名が分からなければ、やつらに家族のことを探られずに済む。どうせならアネモネの聞き間違いをそのまま私の名前にしてしまおう。
私は今日からブレア・マッキントッシュだ。それでいこう。
「……あっ」
セットしていたタイマーが鳴り、火を止める時間が来たことを告げる。シスルウッドはサビ猫オランジェットを床に下ろすと、ガスコンロの火を消し、鍋の中の水をシンクに捨て始めた。
戸惑うことなく手順を踏んでいくシスルウッドの様子を確認すると、ドロレスは赤ん坊を連れてキッチンから静かに去っていく。だがシスルウッドは振り返りもせず、立ち去るドロレスに何も声を掛けなかった。
そして時は少しだけ進んで四二二一年、十一月の下旬。ある土曜日の夜のこと。自分の役目を終えて“フィドラーのウディ”という仮面を脱いだシスルウッドは、デリックが継いだヴェニューの近くにあるレストランを訪ねていた。
普段の自分なら絶対に立ち入らないような、気取ったフレンチ料理の店。物凄く高級というわけではないが、庶民には敷居が高いように思える価格設定の料理がメニュー表には並んでいる。ちらりと見えたその金額に肝を冷やすシスルウッドは、苦笑いを浮かべていた。
「……いえ、お気持ちだけで十分です。ありがとうございます」
そんなこんなで外行きの愛想を取り繕っているシスルウッドの隣には恋人であるキャロラインが座っていて、彼の目の前にはキャロラインの両親が鎮座していた。
一緒に夕食でも、という誘いをやんわりとシスルウッドが断ったことで、ややキャロラインの父親の目は冷たくなっている。挙句、シスルウッドの装いがフレンチレストランには相応しくないチャラチャラとした夜遊び風のものであったことも、マイナス評価の一因となっていた。
……だが。そもそもこの日の予定に『気取ったフレンチレストランに行く』という項目は入れていなかったシスルウッドに非は無い。デリックの営むヴェニューで、デリックの借金を返済するための公演を行うという予定しか今日は入れていなかったのだから、そういう服しか着てきていないのだ。パリッとしたシャツやフォーマルなジャケットなど、今日は持ってきていないのである。
「…………」
不器用に笑うシスルウッドは膝の上にフィドルを収納しているハードケースを乗せ、今すぐ帰りたいアピールをさりげなく発する。キャロラインはご両親の許に無事送り届けたし、もう今日は解放してくれ~と彼は無言で訴えていた。
この日は朝から大忙しだった。物販品の運搬、会場のセッティング、打ち合わせにリハーサル、そしてライブ本番と後片付け……――とにかく疲れていたのだ。早く帰ってシャワーを浴びて寝たい、というのがシスルウッドの本音である。だが、キャロラインの両親は開放してくれそうにない。
それどころか、キャロラインの両親は彼に意味ありげな視線を送りつけている。なんだか面倒な話を切り出されそうだぞ、という気配を彼は察知していた。そして彼が思い返すのは、この年の年明け頃に起きた出来事。ベックの赤ん坊にデレデレしていたブレナン夫妻から「結婚はまだなのか、子供を設ける気はあるのか」と問い詰められ、急かされた時の記憶。その時の気まずさと苛立ちを思い出し、シスルウッドはブルッと背筋を震わせた。
ついこの間一〇代を終えて、二〇代に入ったばかりの若者だというのに、もう結婚のことを考えろというのか? 叔父も叔母も、そして恋人の両親も? 現在の両親であるバーン夫妻は、たまには店に顔を出せとしか文句や注文を付けてこないのに?
「……あ、あの」
今日のところは、失礼しても? ――そんなことをシスルウッドが切り出そうとした時だ。キャロラインの父親の目がギラリと光り、緊張した様子のシスルウッドに狙いを定める。そしてキャロラインの父親は、やはりシスルウッドが予想していた通りの言葉を発するのだった。
「君が、うちの娘と付き合い始めて……もうじき三年になる頃合いじゃなかったか」
「はい。そうですね」
「そろそろ腹を決めたらどうなんだ。娘との付き合いは遊びなのか、それとも本気なのか、どちらなのかを」
やっぱり、そう来たかーっ!
――と内心ウンザリするシスルウッドだが、表情にはそれを出さない。彼はあくまでも、突然すぎる提案に驚き言葉を失うような演技をするのだった。「えっと、すみません。それはつまり、どういう意味で……?」
「うちの娘と結婚する気はあるのか。無いというなら、ここで別れてもらう」
シスルウッドを睨むように見るキャロラインの父親は、強い言葉で決断を強いてきた。これにはシスルウッドも動揺し、狼狽える。結婚か別れるか、その二択から選べと迫られることは想定していなかったのだ。
シスルウッドが望んでいるのは第三の選択肢。今の関係を維持することだ。結婚もまだ望んでいないし、別れることはもっと望んでいない。
「ちょっと、父さん。なに言ってるの?!」
同じく、結婚もまだ早いと考えていた上に別れるのはもっと御免だと思っているキャロラインは、乱暴な選択を迫る自身の父親にそう抗議する。だが娘の抗議に無視を決め込む彼女の父親は、シスルウッドを睨み付けて問答を続けるのだった。
「私たちには君のことがまるで分からないんだ。真面目な文学青年だと娘からは聞いていたが、しかし今の君は軽率な若者にしか見えない」
「今日は、その……ヴェニューを営んでいる知人が借金を抱えていて、その返済資金を稼ぐための公演を行っていたんです。そのための衣装ですよ、これは。普段はこんなレザージャケットもダメージジーンズも着ませんし、これは一昨日に古着屋で急遽購入したものです。普段の僕の服装は、あなたもご存知でしょう?」
「とにかく。もし、軽い気持ちで娘を弄んでいるなら――」
「彼女のことは愛しています。ただ……」
「ただ?」
「――結婚なんて、まだ考えられません。僕はまだ学生で、自分の生活のことで精一杯なんです。将来のことだって、まともに考えられていない。そんな状況に置かれている中で重大な決断を下すのは間違っていると考えています。就職するか、大学院に進むかもまだ決めていない。それなのに結婚だなんて、ひどい結末を迎えることになりますよ、絶対に」
「だが、タイミングを待っていてはいつまで経っても――」
「問題が山積みなんです。実父のことも、追い回してくる記者たちのことも、それ以外にも色々と。それらにカタを付けない限り、先には進めない。……まだ時間が必要なんです、僕には。キャロラインを、そしてロバーツ家の皆さんを、僕の抱えている問題に巻き込みたくない。ですから、時間をください」
叔母であるドロレスから問い詰められた時から、シスルウッドの心境に変化は生じていなかった。キャロラインを弄んでいるわけではないし、軽い気持ちで付き合っているわけではないのだが、しかしまだ今は決断の時ではないと、彼はそう考えていたのだ。
それに決断を下せないのは、準備不足だということ以外にも理由があった。独りになるのは嫌だったシスルウッドだが、かといって家族が欲しいわけではなかったのだ。彼は一人で生きていくことを望んでいた。理解のある友人や、風変わりで面白い知人は欲しかったが、妻子を得ることは求めていなかったのだ。
けれども、誰も彼の意見に耳を傾けてはくれない。普通の幸せを追い求めろと、暗に強要してくる者ばかりだ。普通の人生を送る資格があるかどうかすら分からない人間に、そんな酷なことを求めてくる者が多すぎる。――要するに、彼は辟易していたのだ。
「すみません。今日のところは失礼します」
これ以上会話を続けたところで、平行線であるお互いの立場が交わるわけがない。そう判断したシスルウッドは楽器の入ったハードケースを抱えて立ち上がると、無愛想にそう言って会話を切り上げた。それから彼は小さくキャロラインの両親に一礼すると、店を出て行く。
腕時計で確認した時刻は夜中の十一時半を少し過ぎたところ。駅に向かったところで、もう閉まっているだろう。またタクシーを捕まえたところで、支払えるだけの額を持ってきていない。自転車もない今、歩いてコンドミニアムまで帰るしかないのだろうか。
「……いや、待て。実家の方が近いぞ……?」
居候先であるコンドミニアムの方角に向かって取り敢えず歩き始めたシスルウッドだったが、その時ふと思い立って方向転換し、真逆の方角へと歩を進める。居候先に戻るよりも、バーンズ・パブのほうが距離的に近いと判断したからだ。
寒い中でタラタラと歩いて居候先に戻ろうとすれば、たぶん三〇分以上はかかるだろう。だがバーンズ・パブなら、せいぜい二〇分ぐらいで行ける。急げば十五分ぐらいで帰れるはずだ。
なら、そっちの方が良い。それにバーンズ・パブには猫が居る――ローマンが世話をしていた子猫たち二匹はバーン夫妻に引き取られ、現在バーンズ・パブの看板猫をやっているからだ。
猫に会いたい。そう、あの子猫たち二匹に会いたい。イシュケとビャーハ、そんな名前の猫たちに……。
「…………」
猫たちの姿を思い浮かべれば、存外に単純で気が変わりやすい性質のあるシスルウッドの気分はすぐに良くなる。リュックサックのように背負えるかたちに改造したハードケースを背中に担ぐシスルウッドは、少しだけ明るくなった表情と軽くなった足取りで大通りを歩いていった。
時代は進んで四二八九年のこと。ラドウィグと心理分析官ヴィク・ザカースキーのぎこちない共同生活が幕を開けてから一週間が経過した日のこと。ラドウィグは散々な日々を送っていた。
「…………」
自分の所有物や衣類を他者に掃除されたり洗濯されるという感覚。これが中々に気持ち悪い。アレクサンダー・コルトやテオ・ジョンソン部長は「生活面はザカースキーに甘えてくれて構わない、その分仕事に集中してくれ」と言われているが、それが彼にはできなかった。
だって、よく知らない女性に下着を洗われていて、それを着ているのだ。いくら洗ってくれているのはコインランドリーの洗濯機とはいえ、それを干して畳んでいるのはよく知らない女性。ラドウィグとしては、有難さと申し訳なさが半分、どうしようもない気持ち悪さが半分といった心境なのである。なので仕事に集中ができない。慣れるには時間が掛かりそうだ。
それから心理分析官ヴィク・ザカースキーは、ラドウィグがイザベル・クランツ高位技師官僚にくっついてあちこち回っている間に家の掃除をしてくれていたらしいのだが。その掃除の最中で彼女は前の住人ヒューゴ・ナイトレイの遺物、いかがわしいものを幾つか見つけたようだ。一時はラドウィグに疑いの視線が向けられていたが、幸い誤解は解け、気まずい空気は去った。だが。お陰でラドウィグはあの家に帰りたくなくなってしまった。
アダルトな雑誌やビデオ。まあ、それぐらいなら処分してしまえば気が収まる。だが具体的なモノが出てきてしまうと、それを捨てたとしても気持ち悪さが抜けない。用途不明の手錠、中途半端な数が残っているコンドームの箱、開封済みで使用期限は四年前に切れている謎のリキッド剤、女性ものの下着など。ここに女性を連れ込んでいたのか~という気配が明らかに残っている発掘品に、見つけた心理分析官ヴィク・ザカースキーも、それを確認の為に見せられたラドウィグも気持ち悪さを覚えていた。
特に下着だ。いつからそこに眠っているのかが分からない下着ほど、気持ち悪さを覚えるものもない。ラドウィグがあの家に入居して以降、一度も触れていない故人の私室。ずっとそこに誰かの下着が眠っていたのだ。誰かが脱ぎ捨てたものと思われる微妙に汚れた下着が、複数着も……。
「おい、ラドウィグ。大丈夫か?」
ボーッとしてたラドウィグの肩を、アレクサンダー・コルトがぐわんぐわんと揺らす。そのときラドウィグの意識はハッと現実に、真昼のアルストグラン連邦共和国に戻ってきた。
現在ラドウィグが来ていたのは、かつての彼の勤め先であるアルフレッド工学研究所。イザベル・クランツ高位技師官僚が所長を務める研究所、その一階にある会議室である。
「……あっ、すみません。ボーッとしてました」
そう言って気まずそうな笑顔を浮かべるラドウィグは、一昨日に見た光景――怪訝な顔をした心理分析官ヴィク・ザカースキーが赤いTバックの腰ひもをぎこちなく摘まみ上げ、それをラドウィグに見せて「これに心当たりありますか?」と尋ねてきたときのこと――を頭から追いやり、目の前にある現実に焦点を合わす。だが彼の目の前にある現実は、心理分析官ヴィク・ザカースキーとの気まずいやり取りよりもはるかに気まずかった。
会議室の隅の席に座るラドウィグの左隣には、堂々とふんぞり返って座るアレクサンダー・コルトの姿がある。更にアレクサンダー・コルトの左隣には、特務機関WACE出身者の見張り役であるジュディス・ミルズの姿もあった。そしてラドウィグの正面には肩身狭そうな様子で俯いているイザベル・クランツ高位技師官僚が居て、イザベル・クランツ高位技師官僚の隣にはこの研究所に所属する義肢装具士が不機嫌そうに顔を顰めさせて鎮座している。
その義肢装具士は、アレクサンダー・コルトが現在使用している筋電義手を制作、及びメンテナンスをしている人物。アーヴィング・
先輩はなぜ不機嫌なのか。その理由は考えるまでもない。後輩であるラドウィグの不義理こそがその理由である。イザベル・クランツ高位技師官僚が何も言えずに黙りこくっているのも、ラドウィグのせい。
「ラドウィグ、か。それが今のお前の名前か?」
義肢装具士アーヴィング・ネイピアの、黒玉のように深い黒のような瞳がラドウィグをギリッと睨めつけてくる。その目の色はラドウィグが知っている“先輩”だった頃の彼と大して変わっていなかった。が、今向けられているその眼光の鋭さは段違いだ。とても威圧的で、攻撃的である。図太いラドウィグの神経も、さすがにブルッと震えてしまった。
笑顔を消すラドウィグもまた居心地の悪さから、イザベル・クランツ高位技師官僚のように肩を竦めて顔を俯かせる。そうしてラドウィグがしゅんとした時、アレクサンダー・コルトが威圧的な義肢装具士アーヴィング・ネイピアを宥めた。
「まあまあ、落ち着けって。アンタたちがコイツを責めたくなる気持ちは分からんでもない。アタシが上からの命令でコイツを拉致してから、コイツはその後ずっと生死不明だったわけだからな。そこら辺の事情はアタシから後でゆっくりと説明する。だから先に仕事の話をさせてくれ」
すると義肢装具士アーヴィング・ネイピアは矛を収める。彼は溜息をひとつ零したあと、腕を固く組んで椅子に深く腰を据える。それから義肢装具士アーヴィング・ネイピアはアレクサンダー・コルトの目を見て、次にジュディス・ミルズを見た。
これを『仕事の話に移ろうという合図』と捉えたジュディス・ミルズは、それまで少し後ろに引いていた身を前へと乗り出す。目の前に置かれたテーブルに両肘を付き、そこで手を組み合わせるジュディス・ミルズは義肢装具士アーヴィング・ネイピアに視線を送ると、こんな話を切り出した。
「貴方たちの研究チームが、アバロセレンを介した情報伝達技術を研究していることは私たちも知っている。それを筋電位処理の分野に活かそうとしていることも。――それで今回は協力を要請しに来たんです。既存のネットワーク技術に頼らない、アバロセレンを用いた遠隔操作で動かせるヒューマノイド・ロボットの制作を」
ジュディス・ミルズの話を聞く義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、より一層表情を険しくさせる。それは彼が今の話をすぐには信じられなかったことが理由である。
ASIがアバロセレン規制推進派であることは有名な話だ。アバロセレンを用いたエネルギー事業が開始され始めた半世紀前からずっと、ASIがそのスタンスを変えたことはないはず。それにアバロセレン犯罪対策部は、ASIの反アバロセレンという理念を象徴する部署だ。そこの所属である人間が、アバロセレンを用いた技術を欲しがっているだと? ――彼には、それが信じられなかったのだ。「お前たちASIはアバロセレン規制推進派じゃなかったのか?」
「ええ、まあ。SODを開く恐れがあるエネルギー事業や、その他の非人道的な実験に対しては、これからも峻厳な態度で臨んでいくつもりです。しかし有用な技術は積極的に取り入れていきたい。つまり、道具も使い方次第だというわけです」
だがそう答えるジュディス・ミルズの声は、どこまでも冷淡だった。また彼女の声には「不本意ではあるが、立場上そう言うしかない」という思いが滲んでいる――道具も使い方次第という言葉は、先日テオ・ジョンソン部長および主席情報分析官リー・ダルトンが、断固としてアバロセレン使用反対という立場を譲らなかったジュディス・ミルズを説得するために発した言葉だ。彼女の右隣に座るアレクサンダー・コルトは、不機嫌さを覗かせるジュディス・ミルズに呆れたように腕を組み、溜息と共に天井を仰ぐ。先週から続くプロフェッショナルらしくないジュディス・ミルズの言動に、アレクサンダー・コルトは呆れ始めていたのだ。
そしてASI局員二人の怪しい様子に、義肢装具士アーヴィング・ネイピアは余計に不信感を募らせていく。怪しむ彼は、ひとまず判断材料にするための情報を集めることにした。
「そのヒューマノイド・ロボットの使用目的は?」
そう問う義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、ジュディス・ミルズの顔を見る。だがその問いに答えたのはジュディス・ミルズではなく、その右隣に座っているアレクサンダー・コルトだった。
アレクサンダー・コルトは姿勢を正すと、真っ直ぐ義肢装具士アーヴィング・ネイピアの目を見る。それから彼女は答えた。
「少々ワケありな半身不随の患者が居てな。その患者をとある場所に連れて行って、まあ実況見分のようなことを行いたいんだが、そいつが外に連れ出せるような状態にないんだ。また場所の方も、車椅子を運び入れるのは無理そうな場所でね」
「なら現場とその患者がいる部屋を映像通信で繋げばいいじゃないか。カメラも通信機材も、ASIは持っているはずだろう?」
そう釘を刺す義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、返答を聞いて愕然としていた。そんな程度の問題のためにわざわざヒューマノイド・ロボットという大がかりなブツを作れと言ってきたASIの考えが、彼には理解できなかったのだ。
そうしてアレクサンダー・コルトの言葉を鼻で笑う義肢装具士アーヴィング・ネイピアだったのだが、けれどもアレクサンダー・コルトは食い下がる。三白眼の焦点を義肢装具士アーヴィング・ネイピアに定める彼女は説得を試みる言葉を述べると共に、鎌をかけるようなセリフも発するのだった。
「それだとカメラを回す第三者の主観が邪魔をして見落としが発生する可能性が高い。できれば本人をその場に連れて行って、その場で歩かせて、当時の記憶を掘り起こしたいんだよ。なんせその患者が、その場で起こったことをなんにも覚えてないんでな。だからこそ、より直接的な刺激を与えたいんだ。けど、半身不随で外へ連れ出せないってなると、そういうわけにもいかない。だったら遠隔操作技術を応用して、ロボットの体に人間の意識を憑依させられないかって、アタシらは考えたんだ。――アンタたち、その技術をもう完成させてんだろう?」
技術が完成しているのか。そうアレクサンダー・コルトから問い返された義肢装具士アーヴィング・ネイピアは身を少し引き、腕を固く組んで口を噤む。それから彼は隣に座る研究所の所長イザベル・クランツ高位技師官僚を見やった。
イザベル・クランツ高位技師官僚は彼の目を見返すと、無言でゆっくりと頷く。すると再び義肢装具士アーヴィング・ネイピアは視線をアレクサンダー・コルトに移すと、組んでいた腕を解き、こう語った。
「俺はその分野に手を出していない。うちで制作している筋電義肢は、あくまでも人工知能を活用した学習型筋電義肢でしかない。アバロセレンなんてものは義肢には使っていない。また、このラボに所属している研究員の中にはアバロセレンを用いたネットワークの構築、つまり量子通信の代替となるものを考案しようとしている者も存在しているが、それはまだ机上の空論でしかないと聞いている。現段階では実現するか否かも判断できないような状態にあると。――ただし、それは“俺たちにとっては”だ」
現時点では机上の空論。そう突き放したうえで、しかし希望を残すようなこと言う義肢装具士アーヴィング・ネイピアの言葉にアレクサンダー・コルトは目を光らせる。が、その一方でジュディス・ミルズは最悪の未来を憂うように肩を落とした。そしてラドウィグは「もしや……」の可能性を思い浮かべて背筋をブルリと震わせ、イザベル・クランツ高位技師官僚は「ただし」と言葉が続く展開を予想できていなかったのか目を見開いて横に座る男を凝視している。
そして義肢装具士アーヴィング・ネイピアは大きく身を引くと、椅子の背もたれに身を預けるように仰け反った。先ほどまでのアレクサンダー・コルトのように天井を仰ぎ見る彼は、ぼそぼそと呟くように小声で言った。
「……先代の遺したものを漁れば何かが出てくる可能性はある。少なくとも彼は、アバロセレンは情報伝達の分野にも使えることを把握していたようだし、それを応用したものも幾つか作っていたようだからな。そんな話を先代から聞いたことがある」
先代、とは先代所長ペルモンド・バルロッツィのこと。それを理解したアレクサンダー・コルト及びジュディス・ミルズは顔を険しくさせ、ラドウィグは「やっぱりか」という表情を見せる。たしかに彼ならばそんなものを既に作っていそうだし、作っていたことを世間に黙っていそうだと、三者ともすぐに思い至ったからだ。
そうしてASI局員たちが良くも悪くも納得する一方で、イザベル・クランツ高位技師官僚はそうではなかった模様。寝耳に水だという顔でワッと立ち上がった彼女は、青ざめた顔で義肢装具士アーヴィング・ネイピアを見下ろす。彼女は震える声で、重大な事柄を長年黙り続けていた部下を問い質すのだった。「聞いたって、それ、一体いつの話……?!」
「六年前だ。自殺しようとして道路に飛び出した学生を先代が助けた結果、大型トラックに彼が轢かれた騒動があっただろ? あの時だ。俺が見舞いに行った時はちょうど、先代はモルヒネだかの影響で朦朧としていたからな。ちょうどいいと思って、あの時に色々と聞き出したんだ」
義肢装具士アーヴィング・ネイピアは姿勢を正しながら、シレっとそう答える。その答えを聞いたイザベル・クランツ高位技師官僚は頭を抱えた。アバロセレンの研究に携わっている自分が知らなかった情報をアバロセレンに触れない部署の研究員が知っていたということ、そして先代所長がとんでもない秘密をまだ隠し持っていたということで、彼女の頭は痛くなっていたのだ。
その傍らで平然としている義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、最もASI局員らしいオーラを漂わせているジュディス・ミルズを見やる。それから彼はこう語った。
「アバロセレンを介した筋電義手。その初期の作品が、今はASIに保管されているはずだと先代は言っていた。たしか……ラーナーとかいう男のために先代がその義肢を作ったが、その男は使いこなせず、結局その義肢はASIの研究部に回されて、今は存在しているかも分からないとか、そういう話だった」
「つまり、その義手をここに持ってくれば我々に協力してくれる、と捉えていいのかしら?」
ジュディス・ミルズはそう聞き返すが、しかし義肢装具士アーヴィング・ネイピアは首を縦には振らない。イエスでもノーでもないが限りなくノーに近い、そんなところだろう。
無駄な労力は割きたくない、だから白か黒かハッキリしてほしい。ジュディス・ミルズがそう言おうとした時だ。彼らが囲んでいたテーブルが一瞬、ガタッと僅かに揺れる。そしてテーブルの上を、黒い何かが横切り、義肢装具士アーヴィング・ネイピアのもとに向かった。
軽い身のこなしでひょいとテーブルに飛び乗ったのは“ひじき”という名の一匹の黒猫。義肢装具士アーヴィング・ネイピアの飼い猫で、もうじき七歳になる雄だ。黒猫ひじきはテーブルの上を駆け抜けてしかめっ面の飼い主の許にトタタタっと向かうと、飼い主の膝の上に降りる。それから黒猫ひじきは飼い主の胸板のあたりにズリンズリンと体を擦り付け、黒い毛を飼い主の着ている白いシャツに付着させた。
「……ひじき、今は仕事中だ。お前はピーナッツと遊んでこい」
飼い主である義肢装具士アーヴィング・ネイピアはそう呟くと、黒猫ひじきを自身の膝の上から床へと下ろす。しかし黒猫ひじきは直後、再度飼い主の膝の上に飛び乗った。
けれども完全仕事モードな飼い主は、再度黒猫ひじきを床へと下ろす。だが構って欲しい黒猫ひじきは再度飼い主の膝に飛び乗り……――彼らはこの遣り取りを四回ほど繰り返した。
幾度かチャレンジし、遂に懲りた黒猫ひじきは飼い主から離れていく。そして黒猫ひじきが次にロックオンしたのは同じ部屋に居た別の男。ラドウィグだ。
飼い主の膝の上を諦めた黒猫ひじきはラドウィグに狙いを定めると、尻尾をピンと立てて彼に駆け寄ってきた。そして飼い主にしていたように、黒猫ひじきはラドウィグの膝の上に飛び乗る。
「ひじき~。久しぶりだなぁ、オレのこと覚えててくれたの?」
膝の上に乗ってきた黒猫ひじきの頬を、ラドウィグはブニブニと揉むように撫でる。黒猫ひじきは嬉しそうに目を細める一方、甘え声は立てなかった――黒猫ひじきが甘え声を立てるのは『飼い主だけ』なのだ。
そうしてラドウィグが仕事そっちのけで黒猫ひじきに集中していたとき。彼の隣に座っていたアレクサンダー・コルトが静かに立ち上がる。彼女はテーブルの反対側にいる義肢装具士アーヴィング・ネイピアの傍へと移動した。またジュディス・ミルズも、アレクサンダー・コルトの後に付いていく。
「――ドクター・ネイピア、聞いてくれ」
依然、険しい表情を浮かべている義肢装具士アーヴィング・ネイピアの肩にアレクサンダー・コルトは手を置くと、彼女はじっと相手の目を除き込んだ。それから彼女は同情を乞うように悲しげな表情を取り繕うと、こう切り出した。
「……実は、その患者はアイツの父親である線が濃厚なんだよ。その患者の中途半端に抜け落ちている記憶を取り返せれば、アイツがどこから来た誰なのかが分かるかもしれないんだ。アンタも、アイツが過去の記憶を失くしてることは知ってるだろ? だから協力してくれないかい」
だが、義肢装具士アーヴィング・ネイピアはつまらない性格をした仕事人間だ。甘えてくる飼い猫を「仕事中だ」との理由でドライにあしらえる男が、気安く何かに同情をするわけがない。それに彼は、ラドウィグのことをよく知っている。お気楽な剽軽者のようで、実際には誰よりも醒めきった目で世界を見ているラドウィグの本性を。
故にアレクサンダー・コルトの手を払い除ける義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、毅然とアレクサンダー・コルトを突き放した。
「あれが忘れた過去に執着していないことは、ここの研究員なら誰もが知っていることだ。故に同情で釣ろうなんて下劣な手は俺には利かない」
ヘタ打った、と賭けに出たことを後悔するアレクサンダー・コルトは気まずそうに目を逸らす。そしてジュディス・ミルズは大慌てでフォローを入れようとしたときだ。何かを言おうとしたジュディス・ミルズを牽制するように、義肢装具士アーヴィング・ネイピアがチッと短く舌打ちをする。その後ジュディス・ミルズを、そしてアレクサンダー・コルトを睨むように見た彼は、彼女らに対する同情心を僅かに帯びた声で、彼女らを鋭くえぐるのだった。
「――だが、そこまでして懇願しているあたり、その患者は相当に訳アリなんだな?」
強く突き放されたかと思いきや一転、取っ掛かりが出現した。それを見逃さないアレクサンダー・コルトではない。
気まずさや後ろめたさを一瞬で捨て去った彼女は、義肢装具士アーヴィング・ネイピアの目を見据える。勇ましい表情になった彼女は、出現した取っ掛かりに喰らい付いていった。
「オーウェン・レーゼ。その名に心当たりは?」
「……成程、レーゼ家か」
アレクサンダー・コルトの問いに、義肢装具士アーヴィング・ネイピアは好感触と判断できる反応を示す。納得したような表情を浮かべる義肢装具士アーヴィング・ネイピアは一度俯いて瞼を閉じるが、すぐに顔を上げてアレクサンダー・コルトの顔を見た。それから彼は言う。
「それなら俺でなくヴェルナー・レーゼに聞け。たぶんあの男も、ルートヴィッヒの帰還を知ればすっ飛んでくるはず。それにアバロセレンを用いたネットワーク構築を研究しているのも彼だ」
「ほぉー。あの研究者のことは知ってたが、研究内容までは知らなかったよ。そうかい、そうかい。そりゃ都合がいいねぇ」
アルストグラン連邦共和国に在住し、アバロセレンに何らかのかたちで関わっているのであれば知らない者はいないとも言われている悪名高き存在。アバロセレンが登場するよりも昔からイカれた化学者を輩出し続け、アバロセレン登場によりその狂気を増大させた一族、レーゼ家。
幸いにも、一族最後の生存者となった男――ラドウィグと同じ養父の下で育った、ヴェルナーという名の人物――はまともな精神性と潔癖に近い倫理観を持っていて、今はレーゼ家を恐れる必要は無くなったが。しかしレーゼ家の創り出した負の概念は、今もこの国の暗部に巣食っている。
アバロセレンに触れたことにより何らかの超能力を発現させた存在、覚醒者。彼らを拉致誘拐し、特定の研究施設に隔離して、人道にもとるような過酷な実験を繰り返し、覚醒者たちを殺していく。そんな常軌を逸した行為を最初に行ったのはレーゼ家だ。レーゼ家が始めた非道な行いは、複数存在する歪な思想の持ち主に引き継がれ、今もどこかで繰り返されている。当局の摘発が追い付いていないのが現状だ(そしてペルモンド・バルロッツィが築いたこの“アルフレッド工学研究所”は、外部に存在する敵たちから覚醒者たちを守る城砦の役目を果たしている)。
アバロセレンによる電力事業。これをアルストグラン連邦共和国に導入し、今や排除することは不可能なほどにまで根付かせたのもレーゼ家だ。元老院による影からの後押しもあったとはいえ、しかしレーゼ家が関与していなければアバロセレン発電という技術がここまで浸透していなかったことだろう。アバロセレンを利用した電力事業に猛反対していたペルモンド・バルロッツィに「一人娘エリーヌの命を奪うぞ」という脅迫状を送り付けて黙認を迫ったのは、レーゼ家なのだから。
そしてアバロセレンからヒトを模した人工生命体ホムンクルスを生み出す技術を確立し、安定した量産体制を整えたのもレーゼ家だ。最初に創られたプラントは特務機関WACEが潰したものの、そのときには既に国中に種が撒かれている状態だった。こちらも当局の摘発が追い付いていない状態である。
……そんなこんなでアレクサンダー・コルトを見る義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、その目を驚きから見開いた。先ほどアレクサンダー・コルトが発したセリフを組み合わせれば「ラドウィグの父親が、オーウェン・レーゼという人物の可能性が高い」という話が成り立つが、それが正しいのならばラドウィグもまた狂気を宿した一族の血を引く人間となる。
「――待て。まさか、あいつもレーゼ家の人間なのか?」
義肢装具士アーヴィング・ネイピアが発したその言葉。すると黒猫ひじきをナデナデしていたラドウィグが顔を上げ、かつての先輩を見やった。それからラドウィグは言う。
「ネイピア先輩、そこの人たちの言葉は信じないでくださいねー。いつも適当なデマカセばーっかり言うんすから」
とぼけた声でラドウィグはそう言うと、彼の膝の上に乗っていた黒猫ひじきを抱き上げる。さながら赤ん坊を扱うかのように猫を両腕で抱くラドウィグは、不愉快さを訴える視線でアレクサンダー・コルトを殴りつけていた。けれどもアレクサンダー・コルトはその視線を跳ね返し、それどころかラドウィグに反撃を仕掛けるのだった。
「どの口が言ってるんだかねぇ。ラドウィグ、アンタも嘘と隠し事ばっかりじゃないかい。他人のことを言える立場にないだろうに」
そのように軽妙な遣り取りを交わすアレクサンダー・コルトとラドウィグの様子を見ながら、ジュディス・ミルズは静かに目を伏せる。無言で佇む彼女は、ある決意を固めていた。
その一方で、家に取り残されていた心理分析官ヴィク・ザカースキーはというと……――
「ランジー。今は仕事中なの、大人しくしてて」
居住することになる家の掃除を終え、ひとまず自分のスペースを確保した彼女は、少しずつ自身の仕事を再開していた。だが、思うように仕事をすることができない。
この家には、彼女の仕事を邪魔するものが多すぎるのだ。今までは三毛猫ミケランジェロという可愛らしいトラップだけだったのだが、それが三倍になれば疎ましいというもの。
「お願い、ランジー。今は邪魔しないで。そこのベッドで寝ていてね。……そう、あなたは良い子。他の子たちみたいな邪魔はしないでね……」
料理の最中に擦り寄ってきては、つまみ食いをさせろと要求してきたり、一口お零れを得たかと思えば味にケチをつけてくる、リシュという名の狐っぽい何か。九本の尻尾を持つ不気味なその生物は、とにかく人を苛立たせることを得意としていた。
偶に訪ねてきては家の邪魔なところに身を伏せて、ぶーぶーと大きな寝息を立てながら眠るだけの大きな雄ライオン。ウィクとかウィキッドとかと呼ばれているその巨躯の怪物は、特に何かをしてくるというわけではないのだが……けれどもそこに居られるというだけで妙な緊張感を抱かざるを得ないというもの。心理分析官ヴィク・ザカースキーは、この白いライオンにビクビクしていた。
そしてパヌイという名の、鳥のような翼を背中に持った奇妙な白猫。人語を扱いながらも、やたらとニャーニャーと必要以上に鳴くその猫は、特に心理分析官ヴィク・ザカースキーに付き纏ってくる。彼女の傍をぐるんぐるんと飛び回り、やたらめったら彼女に喋りかけてくるのだ。
『資料なのニャ? ニャーにも読ませてなのニャ~』
「えっ、ええ。いいけど……」
先日、テオ・ジョンソン部長から回されたゲラ刷り。まさに今、心理分析官ヴィク・ザカースキーはそれに目を通していたところなのだが、やはり妨害が入ってくる。顔を顰めさせながら文字を追っていた心理分析官ヴィク・ザカースキーの傍に飛んできた白猫パヌイは、彼女の肩の上に降り立った。それから翼を畳む白猫パヌイは右前足を下へと伸ばし、空中を掻くような仕草をする。すると、ゲラ刷り原稿が動き出した。白猫パヌイは原稿に触れていないにも関わらず、テーブルの上に置かれた原稿が白猫パヌイの前足の動きに合わせて頁がペラペラとめくられていったのだ。
それまで彼女が読んでいた場所に、大慌てでペンを挿む心理分析官ヴィク・ザカースキーは、彼女の肩に載っている白猫パヌイを驚愕と共に見やる。
そして視線に気付いた白猫パヌイも、心理分析官ヴィク・ザカースキーの顔を見た。それから白猫パヌイは、彼女にこんなことを問う。『誰かの自伝本なのニャ?』
「そ、そう。電子楽器メーカー会長の自伝本よ」
『にゃ~るほどぉ。それでヴィクはこの中から何を探してるのニャ?』
「憤怒のコヨーテ……――その、かつてサー・アーサーと呼ばれていた男について。何かこの中に情報が無いか調べろ、って言われてて。弱点とか、交渉材料とか、そういうの」
『弱点が、本に……。そんな都合のいい話があるのかニャ? これ自体が罠じゃないのかニャ?』
「分からないけど、取っ掛かりはこれぐらいしかないし、とにかく探ってみるしかないでしょう? ……それでこの本の中では、あの男の名前は『ウディ』とされているようなんだけど、でもウディに関する言及は数ページしかなくて。でも分かることと言えば、その人物は若い頃からひねくれていて狂っていたってことだけ。あとは家庭について強い執着があるとか、それぐらい」
原稿を真剣に見やる白猫パヌイを見つめながら、心理分析官ヴィク・ザカースキーは淡々と答える。喋る猫相手に真面目に仕事の話をしているというこのシチュエーションに彼女は君の悪さを覚えていたし、その猫が魔法のような力をさも当たり前のように使っていることに驚愕していたのだが……――それについては深く考えないようにしていた。何故ならば、ラドウィグがこの奇妙な猫たちについてこう語っていたからだ。人知を超えた存在、神や精霊という概念に限りなく近い存在だと。
そんなわけでタジタジとしている心理分析官ヴィク・ザカースキーは、彼女の肩の上に乗っている白猫パヌイを気味悪がるように見ていたのだが。そんな視線など気にもしない白猫パヌイは、テーブルの上に置かれていた原稿に夢中になっていた。そして白猫パヌイの前足の動きがピタッと止まり、絶えずめくられ続けていた頁の動きもピタッと止まる。すると白猫パヌイがこんなことを言った。『ここ、気になるニャ。結婚した、っていう前後のところ』
「……ウディは婚姻後に精神状態が一時的に不安定になり、投薬治療を受けていた、ってところ?」
『ぅにゃ~……後というより、前の項目のほうが気になるのニャ』
「えっと、どこだろう……」
『この頁の十二行目。彼が愛用していた楽器をある人物に叩き壊されてから、っていうところニャ。著者のひとは、この騒動から“ウディが別人のように変わった”って分析してるけど、でも楽器ひとつぐらいでそんな変わるものなのニャ? 子供なんて欲しくない、結婚も絶対にしないって言い張ってた人物が一転、結婚を決断して、自分の子供を溺愛するパパになるって……。ニャーでも分かるのニャ。これはあんまりにも急すぎるのニャ』
「とすると、壊された楽器には、楽器というもの以上の価値があったってこと?」
こんな短時間で、よくそこまで読み込めたな。……心理分析官ヴィク・ザカースキーはそう驚きながら、白猫パヌイに返事をする。そうして言葉を発した後、彼女は今一度会話の内容を咀嚼し、考え直した。
「……」
ウディという人物はフィドラーとしても活躍していて、彼には長く愛用しているフィドルがあった。しかしそのフィドルは、とある人物に破壊されてしまう。以降ウディという人物は音楽活動をキッパリと止め、またフィドルが破壊された直後には長く付き合っていた交際相手と結婚することを決意したらしい。それも、在学中での結婚を。けれども急激に変わった生活に体が付いていかず、ストレスを溜め込んだ彼は精神面のバランスを崩し、婚姻後の数か月は精神科に通院しながら投薬治療を受けていた。その後、彼に出ていた症状は寛解し、そして彼は我が子を溺愛する良い父親に変わっていった……。
――原稿から分かることといえば、これだけ。不自然と思えるぐらい情報が少なすぎるし、エピソードの抜け落ちが多いような気がしなくもない。フィドルが象徴するものが分からないし。投薬治療とあるが、これが具体的に何の治療を行っていたのかも分からない。精神面のバランスを著しく崩すほどのストレス要因も定かではない。
そして心理分析官ヴィク・ザカースキーはこう結論付けた。
「やっぱり、この原稿だけじゃ何も分からない。……アレックスさんなら何か知ってるかな」
心理分析官ヴィク・ザカースキーは原稿を見やった後、再度白猫パヌイの目を見る。白猫パヌイもまた心理分析官ヴィク・ザカースキーの目を見て、そして一度ゆっくりと瞬きをした。それから白猫パヌイは、心理分析官ヴィク・ザカースキーにこんなことを言う。
『カリスさまに聞くしかないのニャ。カリスさまなら、当時のことを知っているはずニャ。――だから、貢物を用意するのニャ!』
「み、貢物?」
『そうニャ~、貢物が必要なのニャ~。カリスさま、昔はレモンが利いてて酸っぱくてオリーブオイルたっぷりなマヨネーズが好きだったんだけどニャー、最近は卵のコクが利いててキャノーラ油たっぷりな濃厚マヨネーズがお好みらしくてニャ~。それでニャ、ソフトチューブ型のマヨネーズを吸うようにちゅーちゅー食べるのが――』
「えっ、マヨネーズ? いや、その前にカリスさまって何者?!」
『説明はルーが帰ってきたらするのニャ~。ヴィクは上司のひとに濃厚マヨネーズをいっぱい用意するようお願いするのニャ~。チューブタイプのマヨネーズなのニャよ~』
マヨネーズの貢物。そんなすぐには理解できないような言葉に心理分析官ヴィク・ザカースキーは一瞬戸惑いを覚えたものの、すぐに彼女は頭を切り替える。理解できない生物に囲まれる生活にも慣れてきていた彼女は、理解できないものは理解できないとしてすぐ切り離すというスキルを身に着けていたのだ。
そうして困惑をすぐに投げ捨てた心理分析官ヴィク・ザカースキーは、目の前にある情報に集中した。再度、彼女は原稿を見直す。そして彼女はふと違和感の正体に気付いた。
「……待って。この原稿、故意に内容が割愛されてる気がする」
『割愛……? 何が省かれてるんだニャ?』
「かつてのバルロッツィ氏と『ウディ』の二人は、言うなれば要介護者と介護者みたいな間柄だったんでしょう? なのに、バルロッツィ氏に対する言及の数と比較すると、あまりに『ウディ』の登場回数は少なすぎる。まるで釣り合ってない。それなのに数えるほどしかない『ウディ』に関する記述からは、バルロッツィ氏と同じぐらい彼が著者と親しかったことが伺える。それに所々、話の展開が急というか、エピソードが大幅に省かれているように感じる不自然な箇所がある。それも『ウディ』に関連した話のところだけ……」
『つまり著者のひとは、ゲラ刷りが誰かに盗まれることを見越して意図的に重要な箇所を省いた、ってことなのニャ?』
白猫パヌイがポンッと発した言葉は、心理分析官ヴィク・ザカースキーが感じた違和感の正体にピタッとはまり、謎をスルスルと解いていく。そして心理分析官ヴィク・ザカースキーは呟いた。「……部長に報告しなきゃ……」
『カリスさまへの貢物の準備ニャ?』
「部長に著者を尋問してもらう。たぶん著者は今もコヨーテ野郎と接点があるのよ、だからそれを確かめてもらう。……その方がマヨネーズを集めるよりも早いわ」
心理分析官ヴィク・ザカースキーが連絡用の端末に手を伸ばしていた時。シドニー某所では、心理分析官ヴィク・ザカースキーが予想した通りのことが起こっていた。
「久しぶりだな、
一等地の住宅街、その隅に立っているこじんまりとした一軒家。豪邸というほど大きくはないが、まあそれなりに見栄えのする家の主は、ごちゃごちゃな状態の作業台に向けていた視線を上げると、壁面に取り付けられたブレーカーのスイッチを押し、この部屋の電源を落とす。部屋の中は電灯が消えて薄暗くなり、窓から差し込む僅かな日光だけが視界を確保する役を担うようになった。続いて、家の主は自身の目の前に置かれていたオシロスコープが描き出す曲線が消失したのを確認すると、回転椅子をグルッと回して背後へと振り返る。そして家の主は、この取っ散らかった状態のガレージに勝手に立ち入ってきた死神――両瞼を固く閉ざしたアルバ――に、そう声を掛けた。
電子工作のための工具や機材が乱雑に積まれたラック、作りかけの機械や半田ごてが散乱しているデスク、読み終えた本が適当に詰め込まれた本棚……。私物に頓着しないエンジニアらしいこのガレージの惨状を見て、アルバは溜息を零す。懐かしさも感じるこの散らかり具合に、アルバは長い付き合いになるこの友人の成長の無さを思い知った。禿げあがった皺くちゃの老人になったというのに、若い頃から続くダメな点がまるで治っていない、と。
一方、家の主――電子楽器メーカーの会長であるデリック・ガーランド――は、髪がすっかり白くなったことの他には大して変化の見られない友人、ないし死神の姿に内心では恐れおののいていた。けれども、デリックはそれを顔には出さない。そして古い友人を迎え入れる彼は、アルバにこう言うのだった。「お前が言った通りのことが起こったよ。出版社でゲラが盗まれたんだ。――別に原稿は用意しておいて良かった。盗まれていないほうの原稿、従来の内容で発行されるはずだ。当局の邪魔が入ったという話も聞いてないし、予定通り明日には書店に出回るようになるだろう」
「そうか。ならオークションも無事に執り行えそうだな」
「ああ、そっちも予定通り二週間後に開かれるはずだ。あのモンスターを高値で売るためのストーリーは完璧に敷かれたし、心配することは何もないさ」
アルバの問いに、デリックは僅かな笑みと共にそう答える。尚、モンスターとは文字通りの意味ではなく、モンスターのような電子楽器という意味だ。
それは若かりし頃にアルバが発案し、そのアイディアを元にデリックが気合を入れて創ったものの、五〇本中九本しか売れなかったという逸話のある電子フィドル『ドーンエイジ』シリーズ。そのオリジナル第一号こそが出品予定の“モンスター”なのだ。
アルバがサンプリング音源を提供した電子フィドルであるため、その音色は非常にクセが強い。普通に弾くだけで勝手に大量の装飾音が追加されるし、指定した調に合わせたドローン音や和音が自動的に加えられるなんていう機能も付いている。ついでに、弓をワンストローク引くだけでアルペジエーターのように音階が自動的にピコピコと移り変わる音が鳴るなんていう機能も搭載されていた。
そんなクセが強すぎるフィドルは製作者から存在を忘れられ、長いことガレージの隅に放置されて埃まみれになっていたのだが。そのフィドルにも陽の目を浴びる機会が巡ってきた。それは半年ほど前のこと。ペルモンド・バルロッツィの自死を機にデリックの許を訪ねてきたとあるジャーナリストが、デリックに自伝本の執筆をしないかと企画を持ってきたときのことだ。
ジャーナリストの言葉を話半分で聞いていたデリックだったが、その話を聞く中でデリックは意外な事を知った。世間の関心はペルモンド・バルロッツィの過去、彼という人物がいかに変人であったかということに向いているのかとばかり思っていたデリックだったが、それは誤りだったということに気付いたのだ。
勿論そういう話にもニーズはあったが、それよりも世間が欲しがっていた情報はペルモンド・バルロッツィの友人のほう。テロリストと仇名されている人物シルスウォッド・アーサー・エルトルに関する話だった。
そんなわけでデリックは当の本人に、シルスウォッド・アーサー・エルトル改めアルバとなった男に許可を取ることにした。昔話をネタに本を書いていいか、と。するとアルバは快諾したうえで、条件を付けてきた。オークションを開いて過去に作った電子楽器を出品しろ、と。
なぜアルバがオークションにこだわっているのか。その理由をデリックは知らないが、けれどもオークションは開催する方向で話を進めている。デリックとしても、生前整理というヤツにちょうどいいと考えていたからだ。妻子を持っていない彼にとって、オークションは財産を有効に処分できる良い機会だったのだ。
「勿論、分かっているとも。名目はチャリティーだ。収益はエリーヌ・バルロッツィ財団に全て寄付され、孤児たちの支援に回されることになるだろう。そして配送費等は落札者が全額負担するということになっている。俺のところに金が流れてくることは無い。……大昔にお前から課された制約は今も守っているよ」
「律義だな、デリック・ガーランドにしては。まあ、金のことはどうでもいい。誰が集まるか、それが重要だ」
デリックの言葉に、アルバはそう返事をする。そんなアルバは焦っているのか、どこかカリカリとした様子だった。その姿を見るデリックは手に汗を握るとともに、生唾を呑む。
アルバが現在身を置いている世界のこと。それを踏まえ、デリックは彼の目的を今まで聞かずにいたのだが、しかし薄々勘付いてはいた。良からぬ目的の為に自分は利用されているのだろうと。
目的が何にせよ、その内容は把握しておきたい。デリックはこのとき、そう考えを改めた。そしてデリックはしかめっ面のアルバを見ると、彼に問いを投げるのだった。「今更お前が名誉挽回を考えているとは思えない。集まった記者や物好きたちの前で真実を説き、理解を求めるなんてことをやるつもりはないんだろう? だとしたら、お前の目的は何だ」
「ASIの連中を釣るためだ。少なくとも、アレクサンダー・コルトは釣れるはず」
「頬に傷がある彼女か。……彼女はお前の部下じゃなかったのか?」
「いいや。あれはASIに飼いならされたライオンだ、私の部下だったことは一度もない」
「そうか。それで彼女を釣り上げたとして、だ。お前はどうするつもりだ?」
「殺す。それだけだ」
「殺すとして、それはどこで?」
「安心しろ、この国土の上では行わない。お前の評判を傷つけるようなことにはならないさ」
薄ら笑いと共に乾いた声で問いに答えていくアルバだが、彼の瞼の隙間から幽かに漏れ出ている蒼白い光には隠しきれない怒りが溶けている。それも些細な苛立ちではない。殺すという強い言葉に相応しいほどの濃い怨毒だ。
デリックは久しぶりに見る友人の怒りに満ちた姿に、先のことを憂える。友人が殺すと宣告した人物にデリックは同情した。アレクサンダー・コルトがアルバに何をしたのか、それとも何もしていないのか、それをデリックは知らないが、けれども彼女がアルバの怒りを買ったことは間違いない。そしてアルバは執念深い人間だ。正当な怒りであろうが理不尽な逆恨みであろうが関係なく、ターゲットを定めたのならば最後、地獄の果てまで追いかけまわす男である。つまり、結末は……。
「お前の言いたいことは分かっている、デリック。だが、あの女だけはこの手で始末しなくてはならない。そうでもしなければ腹の虫が治まらん」
薄ら笑いを維持したまま、アルバはおぞましい言葉を語る。僅かに開いた彼の瞼からは、人から外れた者の光が飛び出た。
「……」
説得が通用する時期はもう過ぎているのだろう。気味の悪い微笑みを浮かべるアルバの顔を見て、デリックはそう判断する。こうして復讐が実行の段階に移行している時点で、アルバを宥められる者はもういない。昔は彼を止められる人物が居たが、彼女は故人。怒れる狂人を野放しにすることしか、デリックにはできないのだ。
「……そうか、分かったよ」
クロエ・サックウェル。
彼女がボストンと共に消え去っていなければ、今がこのようになることもなかったのだろうか?
「彼女が訪ねてきたらお前に報せよう」
デリックはアルバの閉ざされた瞼をじっと見つめながら、そう言う。するとアルバの表情は満足げな笑みに変わった。そしてアルバは黒い煙となり、どこかへと消えていく。
来客が消えたことを確認すると、デリックは回転椅子を元の位置に戻し、ブレーカーのスイッチを押した。消えていたガレージの電灯が次々と灯っていき、薄暗いガレージの中がそれなりに明るくなる。ラックに積まれていた機材の電源も入り、控えめな電子音がガレージのあちこちから聞こえてきた。
「……殺す、か。あいつにそこまで言わしめるとは、彼女も何をやらかしたんだか……」
小声でそう呟くデリックは、作業台の中央に置かれていた小さな機械に手を伸ばす。引退後の個人的な趣味として制作している、手のひらサイズの小さなモジュラーシンセサイザー。その改良作業にデリックは戻ろうとしたのだが、そんな彼を邪魔する騒音が鳴り響いた。
作業台の脇、サイドテーブルの上に置かれていた古風な黒い固定電話。それが悲鳴を上げたのだ。デリックは顔をムッと顰めさせると、その受話器を取る。そして受話器から聞こえてきた声に、デリックは思わずため息を零した。
「――そろそろ連絡が来る頃だと思っていたよ、ジョンソンくん。話は全て前高位技師官僚から聞いている。説明の必要はない」
ASI、アバロセレン犯罪対策部、テオ・ジョンソン。聞こえてきたそのワードに、デリックはそう言葉を返す。遂にこの時が来たのか、と彼は観念した。
ペルモンド・バルロッツィの遺した謎めいた予言の通りに事が進んでいる。ジャーナリストがデリックに企画を持ち込んでくることも、アルバが企画にかこつけてASI相手に罠を仕掛けることも、こうしてテオ・ジョンソンと名乗る人物から連絡が来ることも……。
「ひとつだけ、言っておこう。私は再来週、チャリティーオークションを開催する。来るも来ないも君たちの自由だ、しかし仮に踏み込むのであれば君たちの命の保証は出来ない。――賢明な判断を期待しているよ」
相手の言葉を聴くこともなく一方的にデリックはそれだけを言うと、ブツッと電話を切り、そしてガレージのブレーカーを再度落とす。――たった今デリックが発した言葉は、予め与えられていた予言に逆らうものだった。
時代は遡り、四二二二年の七月下旬。この日のシスルウッドは、二年間居候していたペルモンド宅を引き払うための準備をしていた。
といっても、段ボールに詰め込む荷物は然程ない。衣類やバス用品といった必要最低限のものは既にボストンバッグの中に纏めてあるし、それ以外の大きな荷物などは貸倉庫やバーンズ・パブの二階に置いてあるからだ。シスルウッドが使っていたベッドやデスクといった家具も、そもそもこの家のゲストルームに備え付けてあったものであるため、次の住居に持っていく必要もない。そんなこんなでシスルウッドが纏めるべき荷物は買い足した本や筆記用具、それとジェニファーから貰った絵だけとなっていたのだが……。
「んー……」
段ボールに本を詰め込んでいたシスルウッドは、ふと部屋の隅に置かれたキャンバスを見る。額縁に入れられることもなく床に直置きされていたその油絵には、バーンズ・パブの看板猫たち――茶トラ猫イシュケ、白猫ビャーハの二匹――が仲良く並んで眠っている姿が、かなり写実的なタッチで描かれていた。この猫たちはジェニファーのミューズたちでもあり、かなり愛のこもった作品となっている。
「…………」
作業の手を止めるシスルウッドは、絵に描かれた猫たちを見つめながら溜息を吐く。彼は気に入っているこの絵を次なる住処へ持っていきたかったのだが、それはやめておくことにしていたのだ。
次に彼が転がり込む予定でいるのは、恋人改め婚約者となったキャロラインの実家。そして義両親となるロバーツ夫妻は、どちらも大の猫嫌いで大の犬好きだった。そんな猫嫌いの人たちが住まう家に、猫の絵は持っていけない。
シスルウッドはこの絵が非難される場面を見たくはなかった。この絵に描かれた猫たちも、この絵を描いてくれたジェニファーの思いも、シスルウッドにとっては大切なものであったのだから。だがロバーツ夫妻は少しだけ、犬好きらしく無神経で独善的なところがある。たぶん彼らは平気な顔をしてシスルウッドの思いを踏み躙ってくるだろう。なら……――
「なぁ、ペルモンド。あのジェニファーの描いた絵は、アトリエに飾っても良いか?」
本を段ボールに入れる作業を手伝ってくれていた家主――この時の家主の人格は、良好なコンディションの状態にあったペルモンドであった――に、シスルウッドはそう声を掛ける。するとペルモンドも作業の手を止め、顔を上げた。が、ペルモンドから芳しい反応は得られない。
ペルモンドはシスルウッドの言葉に、首を傾げるという反応を見せる。そしてペルモンドはこう言った。「アトリエ……?」
「あぁ、そうか。お前にとってあの部屋は『開かずの間』だったな」
シスルウッドが言った“アトリエ”とは、この家の角部屋のこと。家主の人格がペルモンドであるときは基本的に閉め切られているが、それ以外の人格が出ているときは開いている部屋である。いうなれば、ペルモンドという人格だけが利用できない場所なのだ。
ペルモンドが表出しているときには固く閉ざされている扉を開けた先には、イーゼルや油絵具といった画材が揃ったアトリエのような空間が広がっている。
このアトリエは、主にジュードという人格が使っている空間(偶にジェニファーも、このスペースを借りに来る)。ただ、ここでジュードが作成する絵は少し変わっていた。というか、ジュードが描き残しているのは絵ではなく、記憶なのだ。
「ジュードっていうお前の別人格は、定期的にあの部屋にこもって油絵を描いてるんだ。主に人物画を。出会った人間をキャンバスに投影して印象を記録してる、っていうようなことをジュードは言ってたぞ」
シスルウッドは、困り顔をしたペルモンドにそう説明する。するとペルモンドは何かを思い出そうと顔を俯かせて瞼を閉じ、黙りこくった。しかし数十秒後に顔を上げて目を開けた彼の口から飛び出してきた言葉は、シスルウッドが予想した通りのもの。「記憶にないな」
「そうだろうねぇ。なら、見てきたらどうだ。自分がその手で描いたくせに、まったく覚えちゃいない絵たちを」
シスルウッドはペルモンドにそう促してみるも、ペルモンドは首を横に振って拒んだ。そしてペルモンドはこう答える。
「……やめておく。良くないことが起こりそうな気がする」
神妙な顔でそう言ったペルモンドだったが。彼はその反面、その部屋にどんなものがあるか気になっていそうでもあった。そこでシスルウッドは、アトリエにある絵の一部を教えることにした。
「ジュードの絵は基本、単色で描かれていてね。色によってその人物の印象が分類されてるんだ。例えば、エリカの絵は好印象って意味の黄色をベースに、朗らかそうな人っていう意味の緑がハイライトとして使われている。ジェニファーの絵にはぶっ飛んでいるって意味の水色が、ブリジットは大嫌いって意味の黒が使われている。まあ、そういう絵しか置かれてないよ、あの部屋には」
するとペルモンドは腕を組み、何かを考え込む。目を伏せ、眉を顰めるペルモンドには、今の話になにか引っ掛かるものがあったようだ。
「どうかしたのか?」
シスルウッドがそう訊ねるとペルモンドは顔を僅かに上げ、垂れ目がちな目をシャキッと開いた。が、次の瞬間またその目が伏せられる。そしてペルモンドの視線は、シスルウッドの足許に逸れた。続いてペルモンドはブツブツと独り言を呟き始める。
「……今、何を言おうとしたんだ、俺は? たしか、こいつに何か言うことがあったような気が……いや、でも何を……?」
この短時間のうちにもう会話の内容を忘れたのか? ――そんな風にシスルウッドは唖然とした。ペルモンドの物忘れのひどさは今に始まったことではないが、こんな瞬間的に忘れる場面に遭遇するのはシスルウッドにとって初めてのことだったからだ。
そうして数十秒ほどペルモンドは思い悩んだ後、何かを思い出したのか顔を上げる。だが、飛び出してきた言葉は先ほどまでの会話とは何の関係もない、文脈からかなり外れたテーマだった。
「――あっ、そうだ。お前に渡すものがあったんだ」
「え? 僕に?」
「お前が立てる雑音が聞こえなくなって、本音を言うとホッとしていたが。落ち込んでるお前を見るのは、なんだか複雑な気分だった。だからリベンジも兼ねて作ってみたんだが……――」
絵の話から急に飛んで、話題は雑音というテーマに変わる。急な話題の転換に驚くシスルウッドはワケをペルモンドに聞こうとしたが、しかしシスルウッドがその詳細を訊ねるよりも前にペルモンドは何かを取りにいくために部屋の外へと出て行ってしまった。彼が向かっていったのはアトリエとは真逆の方向、たぶん電子部品やら電動ノコギリやらが置かれている作業部屋だろう。
そこでシスルウッドは気付く。雑音、そしてリベンジといえば……――まさか電子フィドルでも作ったのか、と。
昨年、ペルモンドはデリックと共同で電子フィドルなるものを作っていた。その発端はシスルウッドの嘆き。鍵盤楽器をうまく扱えないシスルウッドが「フィドルの形をしたシンセサイザーとかあったらいいのになー」とボヤいたことが始まりだ。そうしてデリックらが作り上げた電子楽器は、エフェクターの内蔵された電子フィドル。シスルウッドが使っていたフィドルの音をベースに、少しエレクトリックな音が鳴るものが出来上がった。……が、これをシスルウッドが気に入ることはなく、使う機会が訪れたことは一度も無かった。
そんなこんなでシスルウッドは見当を付けた。ペルモンドはあの電子フィドルを改良したものを作ったのだろうか、と。だが戻ってきたペルモンドがシスルウッドに見せたものは電子フィドルではなかった。
「……どうだろうか。可能な限り、前のものを再現してみたつもりなんだが」
ペルモンドが持ってきたのは、ごく普通のフィドルだった。褪せた色合いや狭い木目の感じは、シスルウッドがかつて愛用していたものにそっくりである。サニー・バーン、そしてシスルウッドの実母が使ってきた、あのフィドルに……。
差し出されたフィドルを受け取るシスルウッドは、その木目をまじまじと見やる。そんな彼は昨年に起きたある出来事を思い出していた。
「……持った感じは前のものと全く同じだ。今まで試してきたどのフィドルよりも馴染んでる。流石だな、ペルモンド」
あれはデリックが電子フィドルを完成させる直前に起こったことだ。まだ借金を完済できていたわけではなかったデリックに頼まれ、シスルウッドが二度目の公演をやらされることになった日。あの日、シスルウッドの因縁の相手であるヴァイオリニスト、ロワン・マクファーデンがヴェニューに押しかけてきたのだ。
本番直前の楽屋に押し入ってきたロワンはシスルウッドの相棒であるフィドルを見つけると、それを破壊した。ネックを掴み、床にフィドルを何度も叩きつけ――それはシスルウッドが物販エリアに立っていた時に起こった事件だった。
クロエから話を聞かされ、大慌てで楽屋に駆け戻ったシスルウッドが見たのは、粉砕された相棒の姿、穴の開いたバスドラム、ネックの折れたエレキベース、勝ち誇ったように笑うロワンの顔、めちゃくちゃな状態になった楽屋の惨状……。
楽屋で待機していたメンバーたちは、楽器に手を出そうとするロワンを押さえ付けようとしたようだ。シスルウッドの相棒を守るために、そして自分たちの相棒も壊されないようにするために。そうしてロワンともみ合いになった結果、シスルウッドのフィドルだけでなく他の楽器も破壊されることとなり、壁にも穴が空き……――デリックの懐は更に痛むこととなった。
『どうしてこうも、金持ちのお坊ちゃんってヤツは人の所有物を破壊したがるのかねぇ……』
壊れたフィドルを見下ろしながら、シスルウッドはそれだけを呟いた。幼い頃に受けた仕打ち、異母兄ジョナサンに楽器を壊された夜のことを思い出しながら、彼は褪めた声でそれだけを言った。ロワンの顔を殴りたい衝動をグッと堪え、彼は自分に言い聞かせるようにそれだけを言ったのだ。
その日、公演は結局行えなかった。返金対応などにも追われ、結果として大赤字に終わった。見かねたペルモンドがデリックの抱える負債をまるっと肩代わりしたことでなんとか収まったが、それがなければデリックは今頃どうなっていたことだろう。
けれども、全ての元凶であるロワンは何も罰を受けていない。ヴェニューに出入り禁止となったこと、知人らから見切りを付けられたことを除き、罰らしいものは受けていないのだ。自分が一番だと騒ぎ立て、他者を蹴って追いやり続けた男は、その心を改めることなくどこかで今も良い暮らしをしていることだろう。
そしてシスルウッドは、壊されたフィドルの代わりとなるものを見つけられずにいた。そういうわけでペルモンドは、代わりになりうるものを作ってみたのだ。
「お前が使ってたやつは、木目が狭くて堅い中国産の松を表板に使っていた。だから甲高い音が鳴っていたんだ。それで、前のものと似たような木材が手に入ったから、そいつを使ってみたんだ。あと他のパーツも可能な限り前のものと同じ性質を持った素材を揃えるようにした。裏板やネックには日本産の楓、指板にはジャワ島の黒檀を使っている。接着剤はニカワでなく、ギターに使うようなボンドを使用した。それから色も、わざと落とし気味に――」
松が、楓が、どうのこうの。ペルモンドの語る言葉の意味が、しかしシスルウッドの頭の中には入ってこない。前のものとそっくりなものが出てきたことにただ驚くシスルウッドは、なんだか小難しいことを真剣に語っているペルモンドの話を遮ると、感謝の代わりに皮肉を言った。
「ごめん、木材のことは説明されたところで僕には分からないよ。それにしても……フィドル嫌いのお前の方が、どうして僕よりあのフィドルに詳しいんだ?」
「さあ、どうしてだろうか。でも、なんというか、その……分かったというか」
シスルウッドの皮肉に、ペルモンドは肩をすくめてそう答える。真面目そうなペルモンドの雰囲気から察するに、彼には本当に分からないのだろう。視力すら殆どなく、そしてオリジナルのフィドルをまじまじと見たことがあったわけでもない彼が、どうしてフィドルに使われている木材の詳細、及び産地まで分かったのかが。
だがシスルウッドは追及をしない。シスルウッドはその理由を知っているからだ。黒狼ジェドとかいう謎多き怪物、あれがいつものようにペルモンドに何かを吹き込んだのだろうと。
そして木材の話をスルーするシスルウッドは、自室の隅に置かれていたハードケースに手を伸ばすと、その封を一年ぶりに解く。その中から安物のカーボン弓と松脂を取り出すと、弓の毛にベベッと適当に松脂を擦り付けた。それから松脂を元の場所に戻した後、試しにシスルウッドは受け取ったフィドルを弾いてみることにする。
ざっくりと弦の音を合わせた後、弓を滑らせていく。開放弦の状態で何度も弓を繰り返し往復させた。シスルウッドは眉を顰めながらその音を聞き、顔をしかめるペルモンドは両耳を手で塞いで音を拒む。それを二分ほど行ったあと、シスルウッドは静かに弓を下ろした。それから彼は言う。「悪くない。でも新品の音がする。ギーギーっていう甲高い音がない」
「駄目だったか?」
「いや、これは仕方ないね。時間がこいつを育ててくれるのを待つしかないよ。ジーンズと同じで、使い込んで汚して、壊して修理していかないと望むものにはならないんだよ、こういうのって」
「……」
「でも、まあ、その、ありがとう。こいつは使わせてもらうよ。今まで見てきたどのフィドルよりも、これは前のやつに近い。……それにしても工場生産だろう廉価品をわざわざ手作りで再現するなんて、お前も変わってるな」
そう言うとシスルウッドは受け取ったフィドルを弓と共にハードケースの中へと収めた。フィドルはハードケースの中にスポッと綺麗に嵌まる。その様子を見ていたシスルウッドは、望んでいたものに近い存在が手に入ったことに少しの安堵感を覚え、微笑を浮かべた。
それからハードケースの鍵を閉めると、シスルウッドは顔を上げ、ペルモンドの顔を見やる。段ボールが積まれた部屋の中に突っ立っている彼は、何かもの言いたげな顔をしてシスルウッドを見ていた。
「どうした? 言いたいことがあるなら、言えばいい」
ペルモンドとの会話はいつもこの調子である。積極的に何かを喋ろうとしないペルモンドは、相手から何かを言うよう急かされたり、発言を求められたりしない限り自発的に喋ろうとはしない。お喋りなジェニファーに性格が似ている別人格ジュードは好き放題に一方的な会話をしてくることが多いのだが、ペルモンドはその真逆で静かすぎるのだ。故に、こうしてシスルウッドが「言え」と一々せっつかなければならない。
そうしていつものようにシスルウッドがせっついてみれば、ペルモンドは腕を組み、一瞬なにかを考え込むような表情を見せる。それからペルモンドは静かにこう語った。
「この部屋も狭いし、快適だとは決して言えない環境だが、とはいえ地下室よりは快適だと思う。ボイラーのすぐ横で寝るだなんて俺でも嫌だと感じる。一晩だけならまだしも、そんな環境に引っ越すだなんて……」
暗に引き留めるようなことを言うペルモンドに、シスルウッドは苦い笑みをこぼすことしかできない。というのも彼自身、不安に感じてはいたのだ。移り住む先が地下室、それもボイラー室であるということに。
シスルウッドはキャロラインの両親に、キャロラインはブレナン夫妻に、それぞれ言い包められてなんやかんやで決まった……というか、勝手に決められた婚姻話。それは本人たちの意向を無視した状態でトントンと進められている。今回の引っ越しもそのうちのひとつだ。
キャロラインの両親は、キャロラインをよそに出すことを認めなかった。キャロラインが新居に越すことも、バーンズ・パブの二階に移り住むことも認めなかったロバーツ夫妻は、シスルウッドにロバーツ家へ移り住むよう求めてきたのである。また婚姻後はバーンという姓を捨て、ロバーツに改めるようにとも突き付けられた。
姓の話はシスルウッドにとってはどうでもいいこと。ただ、そんなことよりも重大な問題があった。なんとロバーツ夫妻はシスルウッドに部屋を提供する気がなかったのだ。
ロバーツ夫妻が提示した部屋は地下のボイラー室。なんと彼らは『ボイラーの横にマットレスでも敷いて、そこで寝ろ』とシスルウッドに突き付けてきたのだ。階下の従僕、それ以下の冷遇だった。
この扱いにはキャロラインも憤慨。だったら自分が出て行くと彼女は言い張ったが、頑固な彼女の父親が折れるはずもなく。また資産を親に握られているキャロラインに自由などあるはずもなく。仕方なくシスルウッドがロバーツ夫妻の要求を呑んだわけなのだが。
しかし、ボイラー室だ。本音を言うなら……――嫌に決まっている。
「そりゃ嫌だけどさぁ。ボストン市内のほぼ全ての不動産屋から出禁くらってる現状が解決されない限り、他に行く当てもないし。仕方ないよ。ボイラーの横で寝る生活を受け入れるしかない。それを受け入れなかったらキャロラインと別れろ、そして二度と顔を見せるなって言われてるから。……こう言っちゃアレだけど、ロバーツさんたちは無茶苦茶だよ。キャロラインが柔軟で理解のある性格に育った理由がサッパリ理解できないぐらいには、偏見と傲慢さと頑固さで満ちている。これだから犬好きは嫌いなんだ。猫好きのような寛容さや柔軟性、思慮、思いやりがない。この違い、一体何なんだろうな?」
同情のまなざしを向けてくるペルモンドに、シスルウッドはそんな不満をクドクドと零す。
ちなみに。この“出禁問題”の解決を頼んでいたのが、後にペルモンドの後見人となる弁護士セシリア・ケイヒルだった。それまではこの問題に対し、泣き寝入りを決め込んでいたシスルウッドだったのだが、クロエの紹介で知り合った彼女から「父親がアーサー・エルトルだからっていう理由で出禁にされている? それは差別で、人権侵害でしかないよ!」と指摘されたことがキッカケで、解決を目指し動き出すことにしたのだ。
まあ、それはさておき。
「…………」
苦笑するシスルウッドの顔を、ペルモンドは意味深に見つめていた。そんなペルモンドの目に何が視えているのか、それはシスルウッドには分からなかったが、けれどもペルモンドが何か言いたそうにしていることだけは分かった。
「今度は何だ? 人の顔をじっと見て、気味が悪いぞ。言いたいことがあるなら、こっちの顔色なんて伺わなくていいから、スパッと簡潔に言ってくれ」
呆れ声でシスルウッドがそう声を掛ければ、ペルモンドはやたらと重たいその口を開く。彼はこう言った。
「最近、お前が寝てるところを見ていないような気がする。俺の記憶力はダチョウ並みだし、だから信用はできないが、でも、お前……目の下のクマがひどいぞ。だから、その、一旦手を止めて休んだらどうだ? それに、いつもより口数が多くなっているのも気味が悪くて」
ペルモンドは珍しく気遣うようなことを言ってくる。彼の表情は同情的で、シスルウッドのことをひとりの友人として案じてくれているようにも見えているが……だが“彼”の本音は分からない。
ペルモンドから目を逸らすシスルウッドは、提案を断るように手を動かし始める。本を手に取り、段ボールに詰める作業を再開した。
「そうだね。寝てないかも。でも大丈夫だよ。眠気も無いし」
シスルウッドはそう言いながら一冊の分厚い本、英独辞典を手に取る。だがその辞典は、近付いてきたペルモンドに取り上げられた。そしてペルモンドは辞典の背表紙で、軽くシスルウッドの頭をゴンッと叩く。
何事かとシスルウッドが顔を上げれば、そこにはしかめっ面をしたペルモンドの顔がある。そしてしかめっ面のペルモンドは、こんなことをシスルウッドに問うてきた。「お前、コカインでもやったのか?」
「いや。そんなものに手を出したことは無いけど」
「本当に?」
「ああ。僕は異母兄と同じ轍を踏むような馬鹿じゃない。薬物なんかやらないさ。それに、そんなもんどこで入手するんだよ。入口の在り処すら知らないぞ、僕は」
即答で否定するシスルウッドだが、ペルモンドはその言葉を信じていないのか疑うような視線をシスルウッドに向けている。その視線にシスルウッドは不快感を覚えていた。
だが同時に彼は肝が冷える思いをしていた。薬物の使用を疑われるような状態に今の自分はあるのか、と。
思い返してみればシスルウッドは数日まともに睡眠をとっていなかった。夜になっても眠気が来ないからだ。仕方なく本を読んで夜をやり過ごしていたら、気が付いたら朝になっていて……というのを四日ほど繰り返している。
なぜ眠気が来ないのか。これをシスルウッドが考えたことがなかった。ゆえに彼は気にもせず何日も徹夜をし続けていたわけだが。たしかにこれは異常である。
「……お前は寝るべきだ。せめて横になって、何もしない努力をしたほうがいい」
分厚い辞典を段ボールに収めながら、ペルモンドはシスルウッドを諭すように言う。
「…………」
普段は説教をする側だというのに、今は立場が逆転している。そのことに気持ち悪さを覚えながらも、シスルウッドは話を逸らすように気まずそうな微笑を取り繕う。それから彼はペルモンドにこう訊ねるのだった。「何もしない、よな?」
「質問の意味が分からない。どういうことだ?」
理解できない質問を投げられたペルモンドは、シスルウッドに問いを投げ返す。しかしシスルウッドは何も答えず、意味ありげな笑みを浮かべながら顔を逸らすだけだった。そんなシスルウッドの態度が気分を損ねたのか、不機嫌そうな顔に変わったペルモンドは静かにその場を立ち去っていく。
ペルモンドが居なくなったのを確認すると、シスルウッドは部屋の扉を閉め、扉には鍵を掛けた。それからホッと胸をなでおろす彼は、ベッドの上に腰を下ろす。続いて、背中からベッドに倒れ込むシスルウッドは五日前の真夜中にこの部屋で見たものを思い出していた。
「……」
傍に誰かが居るような感覚がして、ハッと目覚めたあの晩。ベッドの上で寝ていたシスルウッドが目を開けてみれば、ベッド脇にはペルモンドが立っていたのだ。
あの時のペルモンドは魂でも抜け落ちたかのような虚ろな目をしていて、彼はうわごとを呟くかのように繰り返し何度もこう言っていた。これは命令だ、命令だ、命令だ、と。彼の左手にはペティナイフが握られていて、ペティナイフの切っ先はシスルウッドの首筋を捉えていた。シスルウッドが身の危険を感じたのは言うまでもない。
シスルウッドは息を殺しながら、ペティナイフを奪い取る方法を脳内でシミュレートした。どういう風に飛び出し、どういう角度から手を伸ばせば、ナイフを奪取できて且つ制圧できるか、と。だが確実な方法が思い浮かばずシスルウッドが焦りだした、その時。何かに横から殴り飛ばされたかのようにペルモンドの体が吹っ飛び、床に倒れ込んだのだ。
暗闇の中に僅かに見えた緑色の軌跡。思うに、あれは黒狼ジェドとかいう化け物の仕業だったのだろう。
黒狼ジェドと思しき影にタックルを決められ、床に倒れ込んだペルモンドはそのまま気を失い、動かなくなった。それから気絶したペルモンドは足首を黒狼ジェドに咬まれ、そのまま黒狼ジェドに引きずられるようにどこかへと連れて行かれて……――翌朝、ペルモンドのもとにもシスルウッドのもとにも、いつも通りの朝が来た。いつもと違ったのは、シスルウッドの使っているベッドの傍にペティナイフが落ちていたことだけだろう。
思えばあの晩以降だ。夜に眠れなくなったのは。
「……いや、寝てる場合じゃない。荷物をまとめないと……」
ベッドに寝転がったシスルウッドはそう呟くと、体を起こそうとする。が、数日押し込められ続けていた眠気はシスルウッドが見せた隙を逃さなかった。
強烈な睡魔がシスルウッドを背中から襲い、起き上がろうとした体を再びベッドの上へと引き戻す。視界は瞬間的にブラックアウトし、意識と現実を繋ぐチャンネルは一瞬にして断絶される。眼鏡を外すことすら忘れて、その日はまるで死んだかのように眠りこけてしまった。
そして、その翌日のこと。急にペルモンド宅に押しかけてきたデリックにシスルウッドは腕を掴まれ、半ば強引に外へと連れ出されていた。
デリックの車に押し込められ、行き先も告げられぬまま「ドライブに付き合ってくれ」と言われ……――そうして連れていかれた先はバーンズ・パブ。見慣れた緑の小汚い外壁に目を瞬かせるシスルウッドは、デリックに訊ねる。「急に連れ出されたかと思えば、どうしてここに……」
「お前にだけ話しても、きっと『大丈夫だ』の一点張りになって埒が明かないだろうなと思ったからだ。周囲の人間を利用して袋の鼠にしちまうっていうのが、どうやらお前には一番効く手みたいだし。……っていうのは、クロエが言ってたことなんだけどな」
バーンズ・パブの敷地内にある狭い駐車場に車を停めた後、デリックはそう答えた。車から降ろされたシスルウッドはその言葉を聞きながら、緑色の外壁を見ていた目をデリックの顔に移す。腕を組み、どことなく不貞腐れたような顔をしているデリックに、シスルウッドはただ視線を当て続けた。
その視線には特段意味など込められていなかったのだが、しかしデリックは何かを感じたようだ。組んでいた腕を解くデリックは怠そうな声で、シスルウッドにあることを語った。
「昨日だかにジェニファーがクロエに話したらしいぜ? なんかその、お前に関する話を。んで今日、朝一番に俺ンとこにコールが掛かってよ。クロエ女王から『車出せ、アーティーを拉致ってこい』って命令されてな」
恋人であるクロエのことを“女王”と呼んだデリックだが、その声にはトキメキやら愛情といった感情は一切なく、完全に嫌味のニュアンスを帯びていた。それこそクロエという人物を暴君扱いしているかのようである。
そういえば……よくよく思い返してみると、クロエとデリックが恋人らしく振舞っていたところをシスルウッドは見たことがない。デリックの浮気に怒りながらも異様な寛大さで許すクロエも、懲りずに浮気や一夜の遊びを繰り返すデリックも、考えてみればかなり奇妙である。若者同士の気軽な恋愛というより、離婚間近の中年夫婦といった有様だ。
「君らの関係は何なんだ?」
シスルウッドがそう問えば、デリックは肩を竦めて唇をへの字にゆがめる。続けてデリックは重たい溜息を零した後、こんなことをボヤいた。
「俺は女王クロエの馬だな。あいつに手綱を握られてて逆らえねぇっていう立場だ。ガソリン代も駐車場代も出してくれねぇ女王さまに仕え続けている健気なアシだよ」
お前がみみっちいことを言える立場にあると思ってるのか? ひとの財布から勝手に金を抜き取りやがった男のくせに? ――と内心では突っ込んでいたシスルウッドだが、その本音は顔に出さない。デリックに同情するような表情を咄嗟に作り上げるシスルウッドは何も言葉を発さず、僅かに微笑むだけに留めた。
小さく微笑んだあと、デリックから顔を逸らしたシスルウッドはすぐに表情を消し、当時の“実家”であるバーンズ・パブの門をくぐる。店内には見慣れた常連客のジジィババァたちがちらほらと居て、その中にはムッとした顔のクロエ・サックウェルが混ざっていた。
常連客シェイマス・ブラウンはいつものカウンター席に座っている。そのシェイマス・ブラウンから少し離れたカウンター席にクロエは居た。どうやら彼女は、カウンターの内側で洗ったパイントグラスを拭いているサニー。バーン、及び夕方の営業に向けてビーフシチューの仕込みをしている最中のライアン・バーンと話し込んでいるようだ。それに会話の内容はバーン夫妻の顰められた表情から察するに良くないものなのだろう。
嫌な予感しかしていないが、しかしここまで来てしまったからには帰るわけにもいかない。取って付けたような明るい笑顔を顔に貼り付けるシスルウッドは、恐る恐るクロエの左隣の席に静かに腰を下ろす。するとすぐにクロエがシスルウッドの肩を掴んできた。
クロエは仏頂面でシスルウッドの顔を覗き込んでくる。それから彼女は一呼吸を置くこともせず、スパッと短く彼に宣告した。
「単刀直入に言うけど。たしか……リース医師、だっけ。彼のところに行け。なるべく早く」
デリックの恋人であり、人使いが荒いんだか面倒見が良いんだかが分からない奇妙な女、クロエ・サックウェル。そんな彼女は、ある肩書を持っていた。それは『精神科志望の医大生』というもの。
とはいえ彼女は本気で精神科医を目指しているわけではなかったし、そもそも医師になるつもりもなかった。彼女が医学部に進んだのも「医師免許を取れ! そしてクリニックを継げ!」とうるさい父親(彼女の父親は精神科医で、小さなクリニックを営んでいた)を黙らせるため。そのため勉学へ臨む態度もいい加減なものであり、留年をギリギリで免れるということを彼女は毎年のように繰り返していた。つまり彼女は不良な医大生だったわけである。
そんなこんなで不真面目で驕慢な彼女だが、しかし彼女の“人を見る目”は優れていた。彼女は相手の本性を見抜く能力に秀でていたし、小さな異変も見逃さない鋭い観察眼も持っていたのだ。
「……」
クロエの分析を軽視してはいけないということを経験から知っているシスルウッドは、彼女の言葉を聞くなり笑顔を消す。彼自身も薄々勘付いていたとはいえ、クロエにズバッと無情に「精神科にかかれ」宣告されたことが心にきていたのだ。
そうしてシスルウッドが動揺しているような素振りを見せれば、クロエはここぞとばかりに攻め込んでくる。この機を逃すかと言わんばかりに、彼女は説得を試みてくるのだった。
「ジェニーから聞いたよ、三日前のこと。朝まで一睡もせずに本を読んでたなんてどうかしてる。今だって顔色が良くないし。多分あの日だけじゃない、ここ最近ずっと寝てないんでしょ。それから――……いや、この話はいらないか」
「……」
「とにかく、休め。アンタは暫く大人しくしているべきなんだ。今のアンタはバッツィの世話なんかしていられる状態にないし、ボイラー室に引っ越していいコンディションじゃない。一旦ここに戻って、静養するべき。ここなら猫ちゃんもいるし、満足でしょ?」
クロエは何かを言い淀んだあと、カウンターの隅に置かれているトウモロコシ皮の網かご二つを指差し、それからニコッと笑う。それぞれの網かごの中で気持ちよさそうに寝ている二匹の猫を彼女は見やった後、出入り口の方へと振り返り、次に一足遅れて店の中に上がってきたデリックに目配せをした。それから彼女は言う。
「荷運びは私の奴隷……――んんっ、デリックにやらせりゃいいから。デリックなら運搬用の大きいバンも持ってるし。あと筋肉バカのユーリにも手伝わせればいいんじゃね? そんでバッツィの世話はエリカに任せとけ」
恋人を奴隷呼ばわりするクロエは、偉そうにふんぞり返りながらそう言う。しかし彼女の言葉の中には「誰かにやらせればいい」という文言はあったが「自分も手伝う」という文言はなかった。あくまでも人任せ、自分は関知しないというのが彼女の指針であるようだ。
そんなクロエの傍若無人な態度に、遅れてやってきたデリックは顔をしかめさせる。デリックはシスルウッドの左に座るとカウンターに肘を乗せ、だるそうに頬杖を突いた。それからデリックはわざとらしく大袈裟な溜息を零す。するとシスルウッドの右側から強烈な舌打ちの音が聞こえてきた。シスルウッドが右に居るクロエの様子を見てみれば、こちらも顔をしかめ、デリックのことを睨み付けている。
仲が良いとは思えない二人に挟まれたシスルウッドは、助けを求めるように視線をバーン夫妻に送る。すると拭き終えたパイントグラスを棚に戻す作業をしている最中だったサニー・バーンが手を止めた。それからサニー・バーンはシスルウッドの顔を見ると眉を顰め、こう言った。
「予約は入れておいた。明日の朝、八時半に来いとリース先生が言ってたよ」
サニー・バーンの言葉に、シスルウッドは肩を竦める。デリックの言っていた通り、まさに彼はクロエによって『袋の鼠にされた』わけだ。そして申し訳なさそうな顔でシスルウッドがサニー・バーンを見てみれば、彼女は腕を組み、口角を下げる。どうやらサニー・バーンには他にもシスルウッドに対して言いたいことがいくつかあるようだ。その内容は、客連中が居る場では言えないものであるらしい。……まあ、つまり説教の類なのだろう。
次にシスルウッドが見やるのはライアン・バーン。バターを敷いた鍋で牛肉をこんがり焼いているライアン・バーンは視線を察知すると、徐に顔を上げる。そうしてライアン・バーンとシスルウッドの視線が合わさった時、ライアン・バーンはムゥ……と表情を険しくさせた。続いてライアン・バーンはドスの効いた声で言う。
「他人の世話を焼く前に、自己管理をしっかりやれ。このバカもんが! お前は決して健康体じゃあないんだ、無理は禁物だとあれほど言っただろう!!」
ただの“だらしないビール腹な呑んだくれ親父”だとばかり思っていた店主が唐突に見せた凄みに、デリックは肩をブルッと震わせる。間抜けな顔になったデリックをシスルウッドが小さく笑えば、反省の色が全く見られないシスルウッドの頭にライアン・バーンの拳が落ちてきた。
けれども反省などしないシスルウッドは、開き直ったような笑顔を浮かべながら拳を落とされた頭をさするだけ。至っていつも通りなシスルウッドの反応に呆れかえるライアン・バーンはそれ以上何も言わず、作業に戻っていった。
ライアン・バーンは強火だった火の勢いを下げて弱火にすると、カウンター裏のラックから料理用の赤ワインを取り出す。彼はワインボトルの栓を手早く抜くと、赤ワインを鍋の中にドボドボと大胆に注いだ。そうしてワインボトルの半分を鍋へと注いだ後、鍋に蓋をする。それからライアン・バーンが一呼吸をついた時、カウンター席に座っていたクロエが身を前へと乗り出した。
クロエはカウンターテーブルに両肘を付き、ライアン・バーンの目を見る。続いて彼女の横に座るシスルウッドの笑顔をチラッと見やると、再度ライアン・バーンに視線を戻した。そしてクロエは少しだけ声量を落とし、ライアン・バーンに訊ねる。
「その、アーティー、へらへら笑ってるけど……いつもこういう感じなんですか?」
それはクロエにある懸念があったからこその質問。シスルウッドの顔色の悪さ、そして彼が最近寝ていないという話から、ある可能性を考えてそれを問うたのだが。しかしライアン・バーンの返答は彼女の懸念を打ち消すものだった。
「昔からこうだ。叱ったところでコイツは、ヘタ打ったことを後悔こそすれ反省はしない。ひとを舐めてんだよ、基本的にな。この腐った性根は八歳の頃から変化なしだ」
そう言うとライアン・バーンはシスルウッドに冷たい視線を送りつける。それでもまだ開き直ったような笑顔を浮かべているシスルウッドに、クロエは心配したことを後悔した。思ったよりもずっとこいつの神経は図太そうだぞ、と彼女は感じたわけである。
そんなこんなでライアン・バーンやクロエらの意識がシスルウッドに集中していたとき。静かに移動するサニー・バーンは、カウンター隅でチビチビとリンゴ酒を舐めていた常連客シェイマス・ブラウンに近付く。そして声を押し殺すサニー・バーンは、そっと常連客シェイマス・ブラウンに耳打ちをするのだった。
「……シェイマス。あれ、持ってるかい」
すると常連客シェイマス・ブラウンは着ていたジャケットの裏地に縫い付けられたポケットに手を突っ込んで小さな巾着袋を取り出し、それをサニー・バーンに素早く手渡した。サニー・バーンも、夫であるライアン・バーンの様子を伺いながら、彼に気付かれないようにそっと受け取る。それからサニー・バーンは受け取った巾着袋を、穿いていたジーンズの腰ポケットにそっと隠した。
その後サニー・バーンは再度、夫のほうをチラリと見やる。そして夫であるライアン・バーンが、シスルウッドの顎を掴んで彼をドヤしている様子を確認すると、彼女はホッと胸を撫でおろした。
安堵するサニー・バーンがひとつ息を吐いたとき。常連客シェイマス・ブラウンはニヤリと笑う。それから彼は言った。
「……量は加減しろよ? そいつぁ特にニオイがきっついからな。世間知らずのウディはともかく、鼻のいいライアンにゃすぐバレちまうぜ」
常連客シェイマス・ブラウンがさりげなく手渡したのは、少量の乾燥大麻が入った巾着袋。パイプで吸うために裁断されたもの、その一回分の量が入れられていた。
そんなものをサニー・バーンが「出せ」と言ったのにはワケがある。そして常連客シェイマス・ブラウンも、そのワケに気付いていた。
「……羊肉に混ぜてしまえば気付かないさ。それに、ウディにしか食わせないよ」
サニー・バーンはそう言うと、人の悪い笑みを浮かべる。そんなサニー・バーンは、大麻入りシェパーズパイをシスルウッドに食わせて、彼を強制的に眠らせるつもりでいたのだ。
そんなこんなで、サニー・バーンの作戦は成功。食に執着もなく、味覚も嗅覚も人並みかそれ以下であるシスルウッドは、突然「食え」とサニー・バーンから出された一人前のシェパーズパイがいつもと微妙に違う――まるで何かのニオイを隠そうとでもしているかのようにハーブの香りがやけに強烈だった――ことに疑問こそ抱いたが、それはあまり気にせず、出されたものを淡々と食べた。その後のシスルウッドは特に荒ぶることもなく、平然とした様子で過ごし……――一時間後、立ち上がりざまにバタッと倒れ込み、そのまま眠りに落ちたのだった。
時代は進んで四二八九年。ラドウィグがかつての勤め先である研究所に顔を出し、黒猫ひじきをコネコネしてから五日が経った日の昼間のこと。
この日のラドウィグは、同僚である情報分析官リー・ダルトンと共にカイザー・ブルーメ研究所跡地に赴いていた。大嫌いな“玉無し卿”セィダルヤードから何かしらの情報を引き出すため、それと玉無し卿が面倒を見ている脳味噌だけの二人組の様子を確認するためだ。
そんなわけでブー垂れ顔のラドウィグが不満そうに腕を組みながら、玉無し卿の姿も声も拝めない情報分析官リー・ダルトンのために通訳を行っていたときのこと。その頃ASI本部局では、部長であるテオ・ジョンソンと、猛獣アレクサンダー・コルトが睨みあっていた。
テオ・ジョンソン部長のオフィスに集められていたのは、猛獣ことアレクサンダー・コルト、それから猛獣の手綱を握る役を担っているジュディス・ミルズの二人。そして彼女たちが呼びだされた理由は、アレクサンダー・コルトの聞き分けの無さだった。
「だから、アタシは構わないって言ってるんだ。ラドウィグのために、アタシが囮になってやるよ」
臨戦態勢の猛獣アレクサンダー・コルトは、しかめっ面で上司に食い下がる。そしてテオ・ジョンソン部長もまたしかめっ面になっていた。「だがな、コルト。これは――」
「アタシの強運を舐めてくれるな、ジョンソン。アタシゃ二度死にかけたが、今もこうして生きてるだろ。三度目だってどうにかなるさ」
「ああ、そうだったな。お前は一度目に死にかけた時は腹を撃たれて臓器を一つ失くし、二度目は左腕を失った。三度目はどうなることだろうなぁ? それに――」
「あぁっ! とにかく!! あの男に一矢報いてやらないと、アタシの気が済まないんだよ!」
アレクサンダー・コルトとテオ・ジョンソン部長の争点は、デリック・ガーランド氏が次週開催するオークションに誰を派遣するかというもの。
アレクサンダー・コルトは、そのオークションが“コヨーテ野郎”の仕掛けた罠であることを承知したうえで「自分とラドウィグで行く。自分が囮になって、ラドウィグにあの男を始末させる」と言って譲らない。テオ・ジョンソン部長は、オークションがアレクサンダー・コルトを釣るための罠だと知っているからこそ「お前たちだけは絶対に派遣しない、コヨーテ野郎と接点がない局員を派遣する」と宣言している。建設的な議論が何一つとして成り立たない状況だけが、かれこれ二〇分は続いていた。
「…………」
サンドラも意固地ね、この職務に忠実な頑固男はテコでも動かないってのに。――横で二人の争いを見守るジュディス・ミルズは、そう感じていた。そうしてジュディス・ミルズが溜息を零した時、テオ・ジョンソン部長の矛先が彼女に向けられた。
「ミルズ、お前からも何か言ってやってくれ。この命を省みない馬鹿に」
テオ・ジョンソン部長は期待していた。優秀で万能な人材であるジュディス・ミルズが、この猛獣を宥めてくれることを。だが発言を求められたジュディス・ミルズが述べた言葉は、誰にも予測できるはずもないものだった。
「私、辞める」
それまでの会話とは無関係の言葉が飛び出してきたことに、テオ・ジョンソン部長もアレクサンダー・コルトも驚き、目をひん剥く。その後ふたりはジュディス・ミルズの発言内容を反芻し、再度驚きから目を点にした。
「……なんだって?」
動揺するテオ・ジョンソン部長がやっとの思いで絞り出したのは、その言葉。そしてジュディス・ミルズは淡々と同じ言葉を繰り返すのだった。
「私、ASIを辞める。半年後に退職する。これは決定事項だから。それまでの仕事は勿論、きちんとこなすわよ。引継ぎも――」
「待て、ミルズ。お前が辞めるだと? 定年まで、まだ一〇年以上はあるんだぞ? 昇進の話も、近々――」
「背広に興味はないわ」
引き留めようとするテオ・ジョンソン部長の言葉も、ジュディス・ミルズは途中で遮り一刀両断する。そんなジュディス・ミルズの様子を見て、アレクサンダー・コルトは察した。説得を重ねたところでこの決意は揺らがないだろうな、と。ゆえに引き留めることはしないアレクサンダー・コルトは、ただこれだけを訊ねるのだった。「アタシも初耳だぞ、ジュディ。いつ決めたんだ、そんな重大なことを」
「一人で決めた。あなたたちに相談したら引き留められるに決まってる。だから言うわけがない」
ジュディス・ミルズはキッパリとそう言い切る。その態度を見て、アレクサンダー・コルトは確信したと同時に納得した。ここ最近ジュディス・ミルズに対して感じていた違和感、その答えが出たと。
近頃よく見られていた仕事に対してノリ気でない姿勢、それと仕切りたがり屋であるはずなのに最近は“猛獣”アレクサンダー・コルトを放置していたということ。それらは『ジュディス・ミルズが既に退職を心に決めていた』としたら説明が付く。
アバロセレンという存在に対して『断固拒否』という姿勢を貫いているジュディス・ミルズは近年、柔軟な姿勢を見せているASIの若い連中、及び柔軟な姿勢に寄っている上司たちから煙たがられているフシがあった。使える道具は何でも使えをモットーとしている主席情報分析官リー・ダルトンとは意見の相違から口論を起こすことも多いし、ダルトンの肩を何かと持つテオ・ジョンソン部長と揉める機会も増えていた。そんなこともあって、彼女は仕事に徒労感を覚えるようになっていたのだろう。
それに退職を決意していたのなら、退職した後のことも考えていたはず。ゆえにジュディス・ミルズは近頃、アレクサンダー・コルトという猛獣の引き綱を握っていた手の力を少しずつ抜いていたのだ。猛獣と仇名されるアレクサンダー・コルトが年相応に自制できるかどうか、それとジュディス・ミルズという支援役が居ない状況でも任務を十分遂行できるかどうかを確認するために。――そしてジュディス・ミルズは「自分がいなくても大丈夫だ」と判断した。だからこそ、退職するという決意をこうして明かしたのだろう。
「サンドラ。私が退職した後も、あの家を出て行く必要は別にないわよ。いつまでも居候してくれたって構わないわ」
薄暗い感情で満たされた本心をひた隠すように、いつも通りの“イイ女ぶるジュディス・ミルズ”を演じる彼女は、妖しい笑みをアレクサンダー・コルトに向けると共にそう言った。そして応じるアレクサンダー・コルトも、いつも通りのぶっきらぼうな調子で言葉を返す。
「ハナからそのつもりだ。行くとこもねぇしよ」
そう言うとアレクサンダー・コルトは上司であるテオ・ジョンソン部長をひと睨みする。それから彼女はテオ・ジョンソン部長に背を向け、そそくさと彼のオフィスを退室していった――これ以上話すことは何もない、そういう意思表示だ。
無断で立ち去るアレクサンダー・コルトを引き留めようとテオ・ジョンソン部長は何かを言おうとするが、しかしそれをジュディス・ミルズが遮った。さりげなくテオ・ジョンソン部長の前に立ち塞がるジュディス・ミルズは笑顔を消すと、早口で捲し立てる。
「あなたがチェックすべきなのはサンドラではなく“憤怒のコヨーテ”の動向であり、あなたが練るべきなのは彼の活動を妨害するための作戦なのでは? ダルトンから聞いた話によれば、従来であれば“憤怒のコヨーテ”の活動は『三日ほど精力的に表で活動し、四日ほど情報収集と休息のため裏に潜る』っていうパターンがあるみたいだけれど、この一か月ぐらい彼は休むことなく表での悪い活動を続けているらしいじゃない。そこに睨みを効かせなくていいのかしら? 彼の気を引くためのデコイを仕掛けて、その隙にガーランド会長を尋問に掛けるとか、他に考えるべきこと、やることはあるはず」
そんなこんなで、テオ・ジョンソン部長とジュディス・ミルズの睨み合いが続けられていたときのこと。マンハッタンのアパート、アルバが使用している住居スペースのリビング兼ダイニングルームで猫たちと共に過ごしているアストレアは、あくびをしながら本をざっと見していた。
ギョーフ、ユル、ライド、イングという名のホムンクルスと思しき奇妙な子供たちを寝かしつけ、クタクタになっていたアストレアだが。そんな彼女のもとについ先ほど、面倒くさい来客があった。元上官であるマダム・モーガン、彼女が訪ねてきたのだ。
マダム・モーガンの目的は『アルバの現在の居場所』をアストレアから引き出すこと。だが残念なことにアストレアは何も知らなかった。そんなわけでアストレアは「ジジィの居場所なんて知らないよ」と元上官を突き放し、それから暗に帰れとアピールをしたのだが、けれども元上官はそのアピールを無視した。アルバが戻ってくるまでここに居ると、元上官は宣言したのである。アストレアが露骨に嫌がる素振りを見せたのは言うまでもない。
そんな嫌がるアストレアに、元上官はちょっとした“鼻薬”として一冊の本をくれた。今、ダイニングテーブルの上に広げられている自叙伝こそが、それである。
著、デリック・ガーランド。表紙に書かれていたその文字からこの本を渡された意味を察したアストレアはダイニングテーブルに移動すると、テーブルの上に本をポンッと置き、それからまっさきに一ページ目……――ではなく巻末付録を開いた。そしてアストレアは見つけたのである。今のように人相が悪くなる前のアルバ、つまり生前の彼の姿を捉えた白黒の写真を。
気取った表情でフィドルを弾く、若い頃のアルバの横顔(尚、フィドルを演奏する姿勢は今と寸部変わらぬものだった)。恐竜のきぐるみを着た女性の両肩を後ろから抱いて微笑む、伝統的なキルトを着用した若い頃のアルバの姿(その写真に添えられた説明文には『彼らの結婚式での一幕』と書かれていた)。それと、遊園地らしき場所でベンチに座り、アイスクリームを食べている六歳ぐらいだと思われる少女と、その隣に座って笑っているアルバの姿。――……少しヘンテコではあるが、けれども“普通の人生”と言うべき写真が揃っている。かつてアルバが言っていた『昔は真人間だった』という言葉が嘘ではなかったことが、この写真によって証明されていた。
そして当然だが、巻末付録に載っていたのは生前のアルバが捉えられた写真だけではない。著者やその友人らの若かりし頃の姿が、他にも多数掲載されていた。
著者であるデリック・ガーランド氏が土下座をさせられていて、そんな彼の頭をクロエ・サックウェルという名の女性が泥だらけなスニーカーを履いた足で踏んづけている写真。パニック発作でも起こしたのか、地べたに膝を付いて頭を抱えているペルモンド・バルロッツィの姿と、その彼を必死に宥めているエリカ・アンダーソンという女性の後姿を捉えた写真(これは当時の新聞から切り抜いたものであるらしく、補足するように第三者のコピーライト表記が為されていた)。陽の当たる窓辺でまどろんでいる猫の写真を撮影しているジェニファー・ホーケンという女性の姿を、さらに撮影した写真。新進気鋭の画家フィル・ブルックスが名門マーリング・アートギャラリーで個展を開催、という題の新聞記事の切り抜き(日付は約六〇年前を示していた)。アマチュアキックボクシング、その無差別級というものに参戦したユーリ・ボスホロフという名の男性をリング上で捉えた写真など。アバロセレンによって奪われた人々の姿が、その自叙伝の巻末付録にはあった。
しかし、やっぱりアストレアの目に飛び込んでくるのは在りし日のアルバの写真だけ。ニヤニヤと小さく笑うアストレアは面白おかしそうに写真を見つめながら、こんなことをポロリと零す。
「若い頃のジジィ、今と人相が違う。それに写真の笑顔、全部が作り笑顔に見える」
「そうよ。当時の彼の笑顔はほぼ全て作りもの。だから目が笑ってないでしょう、我が子といる時でさえ。――ちなみにその遊園地の写真、撮影したのは彼の当時の不倫相手」
アストレアの呟きに、マダム・モーガンはそう言葉を返す。そしてアストレアが元上官であるマダム・モーガンを見やってみれば、ソファーにふんぞり返るように座る彼女の股の間ではぽってりとした体形の猫――騒がしい猫たち三姉妹の母親、チャンキーである――が香箱座りを決め込んでくつろいでいた。また母猫チャンキーの頬肉をモフモフと揉むマダム・モーガンは、猫の為にソファーのスペースを開けることを苦にしていない様子。彼女の目元は暗いサングラスに隠されていたが、隠されていない口元には和やかな微笑みが浮かべられている。猫との束の間のじゃれ合いに、ささやかな幸福を見出しているようだ。
その一方でアストレアは元上官が今まさに放った言葉に驚愕していた。写真に映るアルバの笑顔が作り笑顔であると言ったあと、その次にサラリと続いた言葉にアストレアは度肝を抜かされたのだ。
興味深い写真を見た直後、全く予想もしていなかった方向から飛び出してきたジャブ。それを避けられるはずもなかったアストレアはもろに食らい、一瞬だけ頭が真っ白になった。そうしてアストレアが間抜けにあんぐりと口を開けた顔を元上官に向ければ、彼女はアストレアのほうを向いてニヤリと笑う。それから元上官はアストレアに言った。
「今のは冗談。その遊園地の写真、彼がひどい笑顔を浮かべているのは娘が迷子になっていたから。その写真は人混みを掻い潜ってやっと娘を見つけ出して、ヘトヘトになってた時の彼よ。彼の目が死んでいるのは、騒動を引き起こした当の娘がケロッとした様子でアイスクリームを食べているから」
長年、彼のことを監視していたということもあってマダム・モーガンの持っている情報はかなり細かい。……が、アストレアの関心はその発言内容には向いていなかった。
「不倫っていうのは? ねぇ?」
アストレアがそうハッキリと訊ね返せば、マダム・モーガンはあからさまな溜息を吐く。それからマダム・モーガンは股の間で寝る母猫チャンキーの胸毛をモフモフとさすりながら、呆れを滲ませつつ問いに答えた。
「冗談、そう言ったでしょう」
けれども鼻がボチボチ利くアストレアは察しとった。面倒くさそうな答え方をしているあたりこれは嘘っぽいぞ、と。となれば、だ。
「…………」
黙り込むアストレアは確信する。ケロッとした様子でアイスクリームを食べている娘の横で父親が疲れた笑顔を浮かべているこの写真、撮影したのが不倫相手だという話は本当なのだな、と。
だが、だとすると妙だ。なぜそんな写真がこの本に載っている? どこから著者は手に入れたのだろうか。それとも、まさか……。「もしかして不倫相手って、この本の著者の配偶――」
「それで、アストレア。――彼の居場所は知らないとしても、何をしに出掛けたのか、その目的ぐらいは知らされているでしょう。だから、ね?」
しかしアストレアの疑問をかき消すように、マダム・モーガンは質問を被せてくる。アルバの外出目的を教えろと、マダム・モーガンは急かしてきた。
アストレアは不満そうにジトーっと目を細める。その後、アストレアはぶっきらぼうに答えるのだった。「芋を掘りに行くって、そう言ってたよ。でも、芋掘りって感じの服装じゃなかった。ジャージと、あとエプロンを着て、それから軍手と防塵マスクとフェイスシールド付きヘルメットを携えて出て行ったんだ。ワケ分かんないよね」
「ええ、ワケが分からない。まず、その……芋っていうワードは何を意味しているの?」
芋を掘りに行くと言っていた、でも芋掘りというような服装ではなかった。――アストレアが発した理解不能な言葉に、マダム・モーガンは困惑した。アルバは何をするつもりなのか、それが分からなかったのだ。
アストレアの発言から察するに、アルバの本当の目的は「芋掘り」ではないのだろう。軍手はさておき、防塵マスクやヘルメット、それもフェイスシールド付きのものなど、ただ土を掘り返すだけなら必要ないはず。それはどちらかというとチェーンソーや電動ハンマー、またはドリルを扱う時の装備品だ。
アルバは伐採か、または何かを解体でもするのか? もしくは、何かを建築しようとでもしているのだろうか? ……そんな仮説をマダム・モーガンは立てたが、しかしアストレアはその仮説をぶっ壊す情報を更に提供するのだった。
「芋っていう言葉の正確な意味は知らないけど、たぶん『情報屋』って意味だと思う。情報屋を起点に手繰り寄せていけば芋づる式に愚かなマトが次々と釣れていくから、みたいなことを以前にジジィが言ってたし。でも……」
「でも?」
「三日前に『クソ芋を掘ってくる』ってジジィが言ってたときには、帰ってきたジジィから、なんか、こう……女性ものの安っぽい香水と、質の悪い店のタイ料理っぽいドぎついハーブのニオイがしてさ。マジでジジィ、何してんだろ?」
芋というのは情報屋という意味で、その対象は女性である可能性が高いようだ。とすると、建築物の解体といった線は消える。たぶん新たな建物を築くというのもないだろう。
――と、そこでマダム・モーガンは顔を上げる。彼女はこう思ったのだ。まさか人間を“解体”するつもりなのでは、と。
「……芋、ねぇ……」
チェーンソーで、人間を……。そんな光景を思い浮かべるマダム・モーガンがそう呟きながら額に手を当てた時、彼女は背後に気配を覚えた。直後、重たい何かがゴトッと床に落ちる音がする。続いて、無愛想なアルバの声が背後から聞こえてきた。
「それなら、こういうことだ」
マダム・モーガンが振り返ってみれば、そこには血にまみれたエプロンを首から下げるアルバが立っている。彼女はアルバの装着しているサングラスを見たあと、彼が右手に持つ血染めのチェーンソーを見るなり溜息を吐いた。彼女の予想は当たったわけだ。
続いて彼女がアルバの足許に落ちていた生首を見やると、その生首の存在に気付いたアストレアが「ダァアアァァァッ!!」と汚い悲鳴を上げた。なんとなく見当をつけていたマダム・モーガンと違い、こんな事態などまったく予想していなかったアストレアには少し刺激が強すぎたようだ。しかし驚いたのは一瞬のこと。すぐに冷静さを取り戻すアストレアは椅子から立ち上がると、床に落ちた生首に近付く。それからアストレアは生首を観察しつつ、アルバにこう訊ねた。
「ジジィ、今度は何をするつもりなの?」
チェーンソーによって胴体から切り離されたその生首は、どうやら女性であったようだ。脱色によって人工的に作られたブロンドの長い髪はパサパサでかなり痛んでいるし、すっかりパンダ目になっている化粧は濃くてどぎつく、この女性があまり良い暮らしをしていなかったことが伺えた。また右耳の裏には入れ墨が、それも卑猥な言葉が彫り込まれている。この人物は後先のことを考える思慮深さを持っていなかったようだ。
以上のことから予測される女の経歴は「犯罪組織のボスや幹部に取り入った、身の程知らずのスリル好きな馬鹿」といったところだろう。ただ犯罪組織といっても大陸を股にかける大組織ではなく、地元で小規模の麻薬密売を行い、地元住民の中でも最貧困層に位置する者たちのみに対してイキり散らしているような、そんなしょうもない小規模のギャング団、その程度のレベルだろう。
……そのような見解を頭の中でまとめた後、アストレアはアルバの顔を見る。彼は薄気味悪い笑みを浮かべていた。そして彼は言う。
「この首の主、こいつを愛人として囲っていた男の家にこれを送りつける。その男の正妻のベッドに仕込んでやるんだ。そうすれば、男は怒り狂うだろう? そして怒り狂う男は馬鹿な行動をするもんだ。そこでヤツがボロを出す瞬間を伺う。隙を見てヤツを仕留め、その取り巻き連中も始末するという算段だ。……私の予測が正しければ、あの馬鹿は敵対関係にあるギャング団の元締めのもとにでも向かうはず。そして私は犯罪者どもを纏めて一掃するだけだ」
「そんなうまくいくもんなの?」
微笑むアルバに、アストレアは冷たい視線と共にその言葉を投げる。アルバの語った作戦らしきものは、アストレアでさえもひどく杜撰であると感じたからだ。けれどもアルバは薄気味悪い笑みを浮かべたまま、自信ありげにこう言うのだった。
「私も最初はそう思っていた。だが、連中の頭は酒と麻薬ですっかり汚染されている。正常な理性や判断力、複雑な思考など連中にはもはや備わっていないも同然。前頭葉が働いてないからな。言動は全て脊髄反射的だ。ゆえにこちらが道を敷いてやれば、その道を疑うことなく突っ走ってくれる。……家に巣食った鼠を始末するよりも、連中の始末のほうがよっぽど簡単なぐらいだ」
アルバの浮かべていた笑みは、薄気味悪い微笑から悪人じみた笑顔に変わっていた。これは作り笑顔ではない本物の笑顔である。麻薬漬けの愚者を纏めて吹っ飛ばす様子でも思い浮かべて、愉悦にでも浸っていたのだろう。……彼の倫理観はとっくにぶっ壊れていたようだ。人心というものはひと匙分ぐらいしか残っていないらしい。
そんなアルバは狂気じみた笑顔を浮かべたまま、キッチンのほうに歩いていく。彼は冷蔵庫に向かうと、冷蔵庫の横にあるスペースに詰め込んでいた紙袋――何かを購入した時についてくる紙袋を、彼はこうして溜め込んでおく習性のようなものがあり、現在大小さまざまな紙袋が二十五枚ほどストックされている――のうちのひとつを取り、また生首のあるリビングルームに戻ってきた。それから生首の髪を乱暴にひっ掴むアルバは、持ってきた紙袋の中にドスッと生首を落とすのだった。
その後アルバは一息つくと、紙袋の取っ手を掴み上げる。彼は紙袋を持って廊下に行こうとしたが……しかし彼はリビングルームにまた戻ってきた。それはダイニングテーブルの上に広げられた一冊の本を目にしたからだ。
引き返してきた彼はダイニングテーブルに寄ると、そのテーブルの上に置かれた本を改めて見る。それからアルバは、リビングルームの中央に突っ立っているアストレアに視線を移すと、彼女に訊ねた。「……なぜこの本がここにある?」
「さっきマダムがくれた」
アストレアは簡潔に事実だけをスパッと述べる。直後、アルバの視線はソファーベッドにふんぞり返って座るマダム・モーガンに向けられた。
マダム・モーガンのほうに顔を向けながらサングラスを外した彼は、細めた目でジトーっと元上官を見据える。するとマダム・モーガンの股の間でくつろいでいたぽっちゃり猫チャンキーが動いた。
ぽっちゃり猫チャンキーは天敵アルバの存在に気付くと立ち上がり、身を低くしながら廊下へと逃げて行く。そうして猫が居なくなったあと、マダム・モーガンも立ち上がった。それから彼女は腕を組むと、アルバに対してこう言うのだった。
「良い機会じゃないの。その本、結構あなたについて詳しく書いてあるし。多少の誇張はあっても、私が覚えていることと内容に相違はないしね。クロエちゃんに関する事柄だけを除き。――まっ、要するにこの本は “あなたの取扱説明書”としてアストレアに必要だと思ったのよ」
「余計なことを……」
アルバはボソッと呟くとダイニングテーブルの本を手に取り、それを持って自室に行こうとした。しかしスタタと彼に駆け寄るアストレアは彼の手から本を奪い取ると、ニヒヒと笑ってアルバから離れていく。そしてマダム・モーガンの背後に逃げ込むアストレアは、元上官の威を借りると更につけあがり、アルバに対して舌まで出してみせた。
まさに『十二歳のガキ』と評するべきアストレアの言動に、アルバは溜息を吐いて背を向ける。そうして彼が今度こそリビングルームを立ち去ろうとした時だ。マダム・モーガンが、アストレアに小声で何かを囁く。その言葉が再びアルバの足を引き留めるのだった。
「……強気でワガママで女王気質なオンナの尻に敷かれたいのよ、あの男は。ギャーギャーと文句を言われ、あーだこーだと捲し立てられるのが好きだし。そういう厄介な存在を引っ掻き回してもてあそぶことも好き。だから気が強いあなたが選ばれたのよ、アストレア」
マダム・モーガンに妙な言いがかり――ないし限りなく真実に近い分析――をつけられたアルバは顔を顰める。だがその一方でアストレアも顔を顰めていた。
「えっと。つまり、マダムには僕がそう見えてるってワケ?」
アストレアは不服気に下瞼を上げながら、マダム・モーガンにそれとなく抗議する。少なくともアストレアは自身のことを『強気でワガママで女王気質なオンナ』だとは思っていなかったからだ。負けん気が強いほうだとは彼女自身も感じているが、しかし彼女は女王気質ではないし、そこまでワガママなほうでもない。いつかアルバをぎゃふんと言わせてやりたいという願望こそあるが、アルバなんていうクソ野郎を尻に敷いて従わせたいという願望は無かった。
強いて言うなら、アストレアは彼の隣に並びたいし、背中側に立ちたいのだ。彼に実力を認めてもらいたいし、彼と共に“お掃除”がしたい。猫の世話はさておき、ベビーシッターなんてやりたくない。アストレアは銃とナイフを持ちたい、つまりドンパチがやりたいのだ。
……と、まあ、アストレアの願望はさておき。アストレアが元上官にささやかな抗議をしていると、同じく不満を抱えるもう一人がそこに便乗してくる。マダム・モーガンに冷めた視線を送るアルバは怒りをにじませた声と共に、やや早口なボストン訛りでこのように抗議した。
「アストレアをここに連れてきたのは、ASIの連中を懸念したからだ。アストレアも不死者であることが発覚すれば、連中はペルモンドのようにこいつを利用するはず。都合のいい不死身の工作員、そのように使い潰される未来をこいつに迎えさせたくなかったからであって、断じてそのような意図は――」
「それぐらい分かってるわよ、そうムキにならないで頂戴」
軽い気持ちで発した冗談が予想以上にアルバおよびアストレアの反感を買ったことに驚きつつ、マダム・モーガンは怒るアルバを軽く宥める。けれどもアルバの怒りはその程度の言葉では収まりそうもない。責めるような視線を変わらずマダム・モーガンに送り続けている彼は、暫くこのことを根に持ちそうな顔をしていた。――少しだけだがマダム・モーガンの言葉に思い当たるフシがあったことが、余計に彼の気に障ったのだろう。
そこでマダム・モーガンは話題を逸らすことにした。嫌味ったらしい視線を送りつけてくるアルバを睨み返すマダム・モーガンは、彼にこう切り出す。「まあ、それはさておき。――余計なことといえばオークションよ。あなた、何をするつもりでいるのかしら?」
「話すことは何もない」
マダム・モーガンの言葉に、アルバは短くそれだけを答える。先ほどまでの焦りゆえの饒舌さはもう消えたらしく、彼は通常運転モードに戻ったようだ。
話はもう済んだだろう? アルバはそうとでも言いたげな舐め腐った表情を浮かべている。己の立場をまるで分かっていないダメ男の顔。マダム・モーガンの目にはそのように映っていた。
犯罪者集団を狩ることを愉しみ、アストレアをおちょくっては悦に入っているアルバだが、彼の置かれている状況は最悪だ。八割がた自業自得だとはいえ、こうなるまでの道はマダム・モーガンが舗装したようなもの。そこで、責任の一端を担っているマダム・モーガンは「この状況に気付け」と一喝を入れようとするのだが。「あなたの息子、レーニンの件だけど――」
「もう話を付けているのだろう、あのクソガキと。その方向で進めればいい。レーニンを解き放ってやれ」
アルバはマダム・モーガンの言葉を途中で遮り、食い気味にそう言った。そのアルバが発した言葉にマダム・モーガンは一瞬、体の芯が冷えるような不快な気分を感じた。
というのも三日ほど前にマダム・モーガンはクソガキ、すなわちラドウィグと話していたのだ。意識のあるエリーヌと違い、レーニンのほうは目覚めそうもない。ならばレーニンは解放する、つまりラドウィグの手によって“葬送”したほうが良いのではないか、と。ラドウィグはその場では何も答えず、判断を下すことを避けた。以降、マダム・モーガンはこの話題をラドウィグと交わしていないし、それ以外の者には会話の内容を明かしてすらいないのだが――どうしてこの会話をアルバが知っているのか?
「後悔は?」
まさかレーニンらの居る場所、カイザー・ブルーメ研究所跡地に盗聴器でも仕掛けていたのだろうか。そう疑いながらもマダム・モーガンはアルバにそのように問う。するとアルバは薄気味悪い半笑いと共に、こう答えるのだった。
「これから私は全てを殺すことになるんだ。今更、何を悔いろと? ……それに、丁度いいじゃないか。あのクソガキを殺す理由がそれによって完成する」
アルバがどこまで本気でそう言っているのか、その真相は不明だ。彼の息子レーニンに関する事情を知らないアストレアには彼の言葉など嘘っぱちの揶揄にしか聞こえてなかったし、事情を概ね把握しているマダム・モーガンには彼が強がっているようにも見えていた。そしてアルバもまた、彼自身の真意が分からずにいる。本心からそう思っているのか、真逆の本音が隠されているのか……――その両方なのかもしれないし、どちらも違うかもしれないだろう。
謎めいた半笑いを浮かべるアルバをじっと見据えながら、マダム・モーガンは静かに腕を組む。アルバの真意を探ることを早々に諦めた彼女は表情を険しくすると、また話題を切り替えた。
「ところで、あなた……――いつ、ラドウィグと私の会話を盗み聞いたのかしら。まさか、あそこに盗聴器でも仕掛けていたの?」
変に鎌をかけることはせずに、敢えて真っ直ぐに切り込んだその質問。その質問を投げたマダム・モーガンは“イエス”か“ノー”かのいずれかが返ってくることを期待していたのだが、しかしアルバが返した言葉はヤケに冗長だった。
依然、半笑いを浮かべたままの彼はその質問をフッと鼻で笑う。そして彼は遠回しな言葉で誤魔化し、答えを明かすことは避けるのだった。
「すべて知っている。ヤツが私とギルの首を欲していることも、ヤツの周囲に居る奇怪な獣どものことも、それからザカースキーとかいう女のことも。そしてアレクサンダー・コルトが『自分がオークションに行く、コヨーテ野郎の首を取るのは自分だ』とテオ・ジョンソンとかいう男に喚き散らしていることも知っている。そういえばジュディス・ミルズという潜入工作員は遂にASIを辞める決断を下したらしいな。――そしてデリックが私を裏切ったことも把握しているとも」
アルバの言葉は、まったく質問の答えにはなっていない。だがその言葉はマダム・モーガンを戦慄させた。ASI、及びASIに託した元特務機関WACEの二人に関する動向はある程度把握しているつもりでいた彼女よりも、アルバのほうが彼らに詳しいようにも思えたからだ。一切彼らと接触していないはずの彼が、だ。
一瞬、アルバの十八番であるブラフが出たのかとも彼女は思った。だが彼女はすぐにその愚かな断定を捨てる。アルバが発した『ザカースキー』という名前。彼女もその名を最近どこかで聞いたことがあったような気がしたからだ。その名はたしかASIの局員の誰かしらのものであったはず。
「……」
アルバの言葉が真実であると仮定して。だとしたら彼はどうやって情報を得ているのか? ――それは流石にマダム・モーガンも分からない。そうして分からない屈辱で顰められた顔で彼女がアルバを見やってみれば、彼は人の好さそうな笑みを湛えていた。
「
アルバは穏やかな声でそのような捨て台詞を吐くと、今度こそ生首を抱えてリビングルームを去っていった。その背中を見送るマダム・モーガンは組んでいた腕を解くと、はぁ~と溜息を零す。と、そんな彼女の背中をアストレアは指でちょちょんと突いた。それからマダム・モーガンの顔を伺うアストレアは、マダム・モーガンにこんなことを訊ねるのだった。「今の、どういう意味?」
「簡単に言うと『私に手を出してみろ、その時には一族郎党ブッ潰してやる』って意味よ」
アルバが発した小難しい言葉を分解して解説しながら、マダム・モーガンは額に手を当てる。アルバが穏やかな声と笑顔で放った言葉に穏やかさの欠片もないことに、彼女は呆れていたのだ。復讐する気しかないじゃないか、と。まさしく薊のように刺々しい言動だ。
最後にマダム・モーガンは重たく長い溜息を吐くと、ひとつ手を叩きならす。すると彼女の輪郭は大気に溶け、消えていった。お得意の瞬間移動というやつである。
「……ふぅ」
やっと居なくなった邪魔者……否、元上官に、アストレアはホッとする。そうして彼女は元上官からもらった本を読もうとするが、しかしそんな彼女の目にあるものが留まる。
床にできた血だまり。おそらく、アルバが持ってきたあの生首から垂れた血でできたものだろう。
「ジジィ! リビングの血だまり、自分で掃除してくれるんだよねぇ!!」
アストレアはカーペットにまで染みた人間の血を見やった後、アルバが去っていった方向に向けて大声で訴えた。すると遠くから「勿論だとも!」というアルバの返答が聞こえてくる。その答えを聞いて安心した彼女はダイニングテーブルに着くと、またテーブルの上に本を広げるのだった。
――一方、その頃。アルストグラン連邦共和国、新アルフレッド工学研究所ではしかめっ面をしている義肢装具士が居た。
義肢装具士、アーヴィング・ネイピア。彼は、ASIから預かった先代所長ペルモンド・バルロッツィ製作の筋電義肢を解析する作業に取り掛かりたかったのだが……――彼がデスクに就いた途端、彼の飼い猫と飼い犬がやってきて仕事を妨害してきたのだ。
まずは黒猫ひじき。黒猫ひじきは飼い主である彼の膝の上で丸まって寝ており、飼い主が立ち上がることを許していなかった。もうじき七歳、今や立派な成猫だというのに、まるで子猫の頃と変わらず甘えん坊。困った猫である。
続いて黒い巻き毛が特徴的なスタンダードプードル犬、ピーナッツ。この犬は二年前、彼の姉でありプードル犬ブリーダーであるシアがこの研究所に寄贈……というか、押し付けてきた犬である(警戒心の強い性格が室内飼いの犬としては向いていないけど番犬に最適だのと、それらしい理由を付けられて体よく捨てられたのだ)。黒い犬は不吉で可愛くないし売れないから要らない、というのが薄情で身勝手な姉シアの本音だろう。ワガママで幼稚だった母の寵愛を受け、その母によく似た姉ならそう考えているはずだ――というのは措いといて。
このプードル犬ピーナッツは、現在の飼い主アーヴィング・ネイピアに恐ろしいほど懐いていた。同じく飼い主にベッタベタな黒猫ひじきと徒党を組んで、こうして一緒に飼い主の仕事を妨害してくるのだ。
「……ピー、勘弁してくれ。舐められるのは嫌なんだ」
そう呟く義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、彼の肩に前足を載せてべろんべろんと彼の顔を舐めてくるプードル犬ピーナッツを離そうとする。それからデスクの隅、彼から遠く離れた場所に避難させた筋電義肢を見やると、仕事を再開できないこの状態を憂いた。
そうして義肢装具士アーヴィング・ネイピアが困り果てていたときだ。プードル犬ピーナッツが開けっ放しにした扉、その隙間から見えた廊下を通り過ぎようとする人物の影が見える。義肢装具士アーヴィング・ネイピアは声を張り上げると、その通り過ぎようとした人物を引き留めるのだった。
「ハロルド、こいつらを引き取ってくれ!」
廊下を通り過ぎようとしたのは、この工学研究所に所属していることになっている元・研究員。現在はワケあって雑用や動物の世話、清掃作業などを率先して請け負っているだけとなっている人物、ハロルド・ジェンキンスである。
そうして義肢装具士アーヴィング・ネイピアが雑用係ハロルドを呼び止めれば、一度は通り過ぎようとしたハロルドが戻ってきた。中途半端に開いた扉を完全に開け放つハロルドは、その先のオフィスをざっと見るなりホッと胸をなでおろす。そしてハロルドは、しかめっ面をした飼い主の顔をべろんべろんと舐めているプードル犬ピーナッツを見つけると、すぐに彼らの許へ駆け寄ってきた。
「ここに居たのかぁ、ペルモンドちゃ~ん」
雑用係ハロルドは上ずった妙に高い声でそう喋りつつ、プードル犬ピーナッツが装着しているハーネスをグッと掴むと、飼い主にしがみついているこの大きな犬を引き離した。
尚、ペルモンドという名はこの犬が持つもう一つの名前である。本来の飼い主であるアーヴィング・ネイピアがこの犬のことを略して『ピー』と呼び続けていたら、ある同僚がこの犬の名前は単に『P』でしかないと誤解し、そんなのじゃあ可哀そうだとこの犬に新たな名前を勝手に付けた。それが『ペルモンド』という先代所長の名前だった(名付け親曰く、黒い毛並みとくりんくりんな巻き毛がどことなく先代所長ペルモンド・バルロッツィに似ているとのこと)。それに伴い、この犬には『名誉所長』なる肩書までも与えられている。
そんなわけでこの犬の名前は『ペルモンド』ないし『P』として所内に浸透しており、今や本名である『ピーナッツ』を覚えている者はアーヴィング・ネイピアしかいない。……が、本来の飼い主であるアーヴィング・ネイピアはこの「ふざけている」としか言いようがない第二の名前を認めていなかった。
犬を妙な名前で呼ぶことに対する抗議の意を込めて雑用係ハロルドにムッとした顔を向ける義肢装具士アーヴィング・ネイピアだったが、しかし彼がムッとした顔をしているのはいつものこと。いつも通りに機嫌が悪そうな義肢装具士アーヴィング・ネイピアのことなど気にしない雑用係ハロルドは明るい調子で、この犬の飼い主である彼に犬のことを報告するのだった。
「お昼のお散歩タイムが終わったあと、ペルモンドちゃんが逃げちゃったんですよ。ひじきを見つけたら、ひじきを追いかけて消えちゃいましてね。今、探してたところなんです。まさか二匹揃って先輩の邪魔をしてたとは……――さっ、ペルモンドちゃん、シャワーの時間だよー。ついでにひじきも一緒においで。シャワーを大人しく待てたら、ひじきにも缶のおやつをあげるよ~」
そう言うと雑用係ハロルドはプードル犬ピーナッツを強引に抱き上げ、シャワールームに向かっていった。黒猫ひじきも「缶」という言葉を聞いて飛び起きると、雑用係ハロルドの後を追って去っていく。これで仕事を邪魔する動物たちは居なくなった、というわけだ。
義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、テーブルの隅に避けていた仕事道具を自身の前に引き寄せる。それから仕事を再開しようとしたが……――しかし自分の服についている猫の毛を見て考えを変える。仕事を再開するのは犬に舐められた顔を洗い、猫の毛を落としてからだと。
そうして椅子から立ち上がる義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、ひとまずトイレに向かうことにする。フェイスタオルとローラー式粘着クリーナーを携えて彼はトイレに行くと、洗面台でパパッと顔を洗い、それから鏡で確認をしながら粘着クリーナーで服に付いた黒猫ひじきの細い毛を丁寧に落とした。
猫の毛ぐらいならまだしも、犬に顔を舐められるのは勘弁してほしい。そんなことを考えながら義肢装具士アーヴィング・ネイピアは彼のオフィスに戻る。そしてオフィスに戻ったとき、彼はデスクの傍に立って筋電義肢を眺めている人物に気付いた。と同時に、相手も彼に気付く。
「解析はこれから?」
オフィスを訪ねてきていたのはこのラボの所長であるイザベル・クランツ高位技師官僚。五日前にASIから義肢装具士アーヴィング・ネイピアのもとに届けられたはずの例の筋電義肢、その報告を受け取るつもりで来たのだろう。義肢装具士アーヴィング・ネイピアは仕事ぐらいしか趣味がないため、とにかく仕事が早い。それを知っている彼女は「ある程度はもう仕上がっていることだろう」と踏んでオフィスを訪ねたわけなのだが……――彼の返答は彼女が期待したものではなかった。「ああ、集めたデータを洗うのはこれからだ」
「仕事人間のあなたにしてはペースが遅いわね。何かトラブルでも起こっていたの?」
「いや、そういうわけじゃない。さっきまで邪魔者が二匹ほど来ていて、作業どころじゃなかったかだけだ。……ひじきは来たところで膝の上で寝るだけだが、ピーまで来られると何もできなくなるからな」
真面目一徹という心底つまらない性格をした仕事人間である彼は、しかし妙に動物から好かれるという特徴を持っている。それも決まって黒い生物だ。黒猫、黒い犬にベタベタと懐かれるというのは当たり前。黒いカラス、黒いコウモリ、黒い蛇など、様々な生物に彼は苛まれ続けている。
翼の骨折やら仲間との喧嘩で怪我をしたカラスを、彼は子供の頃から数えきれないほど保護していた。怪我をしたカラスを紙袋の中に入るよう促して、その紙袋を抱えて野生鳥獣専門の動物病院に行くという行為を、彼は人生のうちに何度も経験している。獣医に顔と名前を覚えられ、且つ「カラスくん」と呼ばれるようになるほどには動物病院によく通っていたことだろう。
また大学時代、一人暮らしをしていたアパートではカラス以外の珍客が来たこともあった。換気のために窓を開けた拍子にコウモリが三羽も部屋に入ってきたこともあったし(このコウモリは箒で追いやってもなかなか出て行かず、仕方なく駆除業者を呼び、高周波を発生する装置とやらで追い払ってもらった)。それに侵入経路は不明だが、寝室に近所で飼育されていた巨大な黒いナミヘビ、イースタンインディゴスネークというものが入り込んできたこともある。そして恐る恐る捕獲したヘビを飼い主宅に返却したその帰り道、近所のゴミ捨て場で彼が偶然見つけたのが一匹の子猫、後に彼の祖母の大好物になぞらえて『ひじき』と名付けられる黒猫だったりもする。
……――と、まあそんな感じな彼の“黒い生物”遍歴を知っているイザベル・クランツ高位技師官僚は呆れから額に手を当て、溜息を吐く。奇妙すぎる、と。
この男、真面目だがかといって優しいわけではなく、動物の世話だって本当に“義務”レベルの必要最低限のことぐらいしかしないし、特別に可愛がっているわけではないのだが、しかし黒猫ひじきからもプードル犬ピーナッツからも非常に好かれているのだ。可愛がっていないにも関わらず。
プードル犬ピーナッツに至っては、お世話の九割九分を雑用係ハロルドが請け負っているといっても過言ではない。雑用係ハロルドは間違いなくプードル犬ピーナッツを飼い主以上に可愛がっているし、飼い主以上に責任を果たしているはずなのだが、けれども当の犬は恩人に対して非常に素っ気ない。犬は大して可愛がりもしない飼い主(一応この犬は「研究所に属する番犬」ということになっているので、彼を飼い主と認定していいものなのかは分からないが……)にばかり媚びて、一番可愛がっている人物を冷たくあしらい続けている。とても奇妙だ。
実は雑用係ハロルドの知らないところで、この男は犬に美味しいおやつでも与えているのか? ――そんな疑念(現実には、そもそも彼は犬のためのおやつなど個人的に用意してすらいないのだが)を込めた目を義肢装具士アーヴィング・ネイピアに向けながら、イザベル・クランツ高位技師官僚は皮肉を言うのだった。
「ピーちゃんのお世話はハロルドに任せっぱなしなのに、そんなハロルドじゃなくあなたがピーちゃんに一番好かれてるだなんて。本当に得な役回りよねぇ」
「犬嫌いの俺の代わりに、俺の姉が押し付けてきた犬の世話をしてくれてるんだ。あいつには感謝してるよ、心の底から。なぜピーが俺に懐いているのかも理解できないぐらいだ」
イザベル・クランツ高位技師官僚の皮肉に対し、朴念仁アーヴィング・ネイピアは真面目な答えを返すと、彼は溜息を一つ零す。小柄で静かで大人しい猫と違って、大きくてドタバタと騒がしく煩わしい犬のことを思い出し、なんとなく気が滅入ったからだ。
ただ、この溜息にイザベル・クランツ高位技師官僚は別のことを感じたらしい。彼女はひとつ咳払いをした後、少し姿勢を正す。それから彼女は義肢装具士アーヴィング・ネイピアに本題を切り出した。「ところで……――現時点で分かっていることはある?」
「今のところは、何も。一〇〇㎖ほどの液化アバロセレンが入れられたタンクが義肢の中に入っていることは分かったが、これの用途が分からない。何か管に繋がっているわけでもなく、ただタングステンシートで厳重に包まれたタンクだけが入っている。まるでただのアクセサリーだ」
義肢装具士アーヴィング・ネイピアはそう答えながら彼のデスクに向かうと、そのデスクの隅に置かれていた筋電義肢を手繰り寄せ、それをイザベル・クランツ高位技師官僚に見せるように置いた。
皮膚に見立てたシリコン製グローブから本体が取り除かれた状態にあるその義肢は、かなり無骨な見た目をしていた。必要最低限の機能のみを備えたシンプルなロボットアーム、そう例えるべき簡素さがある。しかしそのシンプルな義肢には、無駄と思えるものがひとつ備えられていた。それが小さな円筒型タンクだ。
イザベル・クランツ高位技師官僚には、そのタンクの中身が分からなかった。タンクが不透明な金属製のものである以上、蓋を開ける他にはタンクの中身を確認する術はない。そこで彼女は義肢装具士アーヴィング・ネイピアの言葉を信じることにする。タンクの中身が液化アバロセレンであったとする彼の言葉を。と同時に彼女は疑問に思った。最低限の機能のみを備える筋電義肢に、なぜか入っている液化アバロセレン。これはどういう働きをするものなのだろうか、と。
「……」
この義肢の製作者は、かの大天才ペルモンド・バルロッツィだとASIから聞いている。とすれば、あの男が意味なくアバロセレンなんていうものを搭載するはずがない。このアバロセレンには何かしらの役割があるはずだ。
だが、それが分からなかった。何にも接続されていないタンクに何か役割があるとは、イザベル・クランツ高位技師官僚には思えなかったのだ。
そして、それは義肢装具士アーヴィング・ネイピアも同じ。彼にも、このアバロセレンが果たしている役割が分からなかったのだ。そんな義肢装具士アーヴィング・ネイピアは少しの失望から、彼らしくない冗談を言う。
「先代から聞いたあの話は何だったんだろうな。アバロセレンを介してよりスムーズな動きを実現したとか、そんな話をたしかに聞かされたんだが。あのときの先代はモルヒネによる譫妄状態にあったってことなのか?」
「……」
「少しは期待していたんだ。アバロセレンによる筋電技術もそうだが……――フィクションに出てくるスパイの秘密道具のように、ビックリさせてくれるような何かがあるのではと。例えば、この義肢から盾のようなものが飛び出したりとか、そういう展開だ。蒼いレーザー光が手首の部分から出て、弾丸を防ぐ盾が目の前に投影――」
勿論、その言葉は冗談のつもりだった。彼がこのとき思い浮かべていたのは、子供の頃に読んだコミックのワンシーン。主人公である諜報機関所属のスパイが、開発部門から新しい秘密道具を与えられて浮かれていた場面だ。
その秘密道具は鋼鉄のガントレットのような見た目をしていて、特殊なジェスチャーを装着者が実行することによって、それに対応したコマンドが起動されるという機能が搭載されていた。肘を折り曲げて顔の前にガントレットを翳せば、ガントレットから蒼いレーザー光が放たれ、そのレーザー光が弾丸を跳ねのける盾を描き出したり。中指を突き立て、その指先で敵を指し示せば、敵に向かってガントレットから赤いレーザー光が放たれて、敵を丸焦げにしてみせたり。……まあ、そんな内容だっただろう。
そんなこんなで思い出した大昔に読んだコミックの内容を、義肢装具士アーヴィング・ネイピアは頭から追いやる。それから彼はイザベル・クランツ高位技師官僚の顔を見たのだが、そのときの彼女は驚きに満ちた表情を浮かべていた。そして彼女の視線の先を義肢装具士アーヴィング・ネイピアも見やり、彼もまた驚きから目を見開く。唖然とする彼の横で、イザベル・クランツ高位技師官僚はぼそりと呟いた。
「盾が出てきた……?」
彼らの目の前にあった現実は、まさに義肢装具士アーヴィング・ネイピアが思い出していたコミックの内容そのものだった。テーブルの上に置かれた義肢からレーザー光が放たれていたのだ。それも蒼いレーザー光。さらに蒼いレーザー光は盾のようにも思えるイラストを大気に投影していた。
義肢装具士アーヴィング・ネイピアはデスクの上に置かれていた自身のネームプレートを掴むと、試しにネームプレートを光の盾に向かって投げてみる。するとネームプレートは盾にぶつかるような軌道を示す。木製のネームプレートはカコンという固い音を立てて光の盾に衝突し、衝突した地点から僅かに跳ね返ると、すとんと床に落ちた。
この結果に、二人は同時に顔を見合わせた。そして二人同時に口を開く。
「あの盾、質量がある」
それだけを言ったのは義肢装具士アーヴィング・ネイピア。
「マイクは搭載されてた? あと、スプリッターやレンズ、鏡は?」
そう訊ねたのはイザベル・クランツ高位技師官僚。そして優先されたのは彼女の言葉だった。彼女の問いに、義肢装具士アーヴィング・ネイピアは答える。「いや、そういうものは何もない。マイクは無かったし、鏡やレンズだなんていう割れる危険性のあるものは入っていなかった」
「本当に?」
「これ自体は本当にただの筋電義肢だ、用途不明のアバロセレンの他には妙なものは搭載されていない。――多分」
「多分?」
「人工知能と思しきプログラムはあったが、それもざっと解析した限りでは筋電に関する深層学習機能しか積まれていなさそうだった。が、抽出したものを更に詳しく探ってみないことには……」
普段はわりと歯切れよく断言するほうである義肢装具士アーヴィング・ネイピアだが、その彼が珍しく不安げに言い淀んでいる――突然、義肢から飛び出てきた盾はそれほどの衝撃を彼に与えていたようだ。
そしてイザベル・クランツ高位技師官僚のほうは黙りこくり、考えこむ。彼女は“まさか”の可能性を思い浮かべていた。それから彼女は表情を険しくさせると、義肢装具士アーヴィング・ネイピアを見やる。彼女は彼にある頼み事をするのだった。「ねぇ、アーヴィング。この盾が消えることを想像してみてくれない?」
「想像だって? 急にどうした、イザベル」
「いいから、頭の中で思い浮かべて。リモコンを操作してモニターの電源を落とすように、盾がパッと消える様子を。なるべく具体的に」
頭の中で想像してみろ、なるべく具体的に。……つまらない唯物論者アーヴィング・ネイピアに投げられた無理難題に、彼は顔をしかめた。彼にはイザベル・クランツ高位技師官僚の意図が読めなかったからだ。
しかし彼にとって彼女は同期であり気心の知れた間柄といえ、今は“上司”である人物。逆らうわけにはいかないし、こんなつまらないことで揉め事を起こしたくはない。そこで彼は、素直に従うことにした。
「想像、か……」
大気中に投影された蒼いレーザー光の盾を睨み付けながら、義肢装具士アーヴィング・ネイピアは思い浮かべてみる。あたかも電源が落ちたかのように、その盾がスッと消えていく様子を。――そして結果はすぐに顕れた。
「……!」
彼が頭の中でレーザー光の盾を消してみせたとき、それに呼応するように現実に投影されていたレーザー光の盾も消失した。
予想もしていなかったことが起き、義肢装具士アーヴィング・ネイピアは動揺する。しかしその一方で、イザベル・クランツ高位技師官僚は何かを納得するかのような表情を浮かべていた。そしてイザベル・クランツ高位技師官僚は言う。「アバロセレンは可能性を抽出する穴なのかもしれない」
「……というと?」
「これは現実を書き換える“何か”とこの次元を繋げるためのポータルで、これそのものがエネルギーを生み出しているわけではない、だからアバロセレンは崩壊しない。つまり『アバロセレンは異次元からエネルギーを引きずり出している』というヴィヨン博士の仮説が正しかったのかもしれない。それで、その……端的に言えば、アバロセレンとは“イメージ”を現実に下ろすものなのよ。あなたが盾を願った瞬間に盾が出現したように、盾が消えることを願えば消える。そういうものなのかもしれない」
神妙な面持ちでそう語るイザベル・クランツ高位技師官僚の言葉は、メチャクチャな内容である一方で説得力を帯びていた。現に彼女の仮説を肯定しそうな現象が目の前で起きたのだから、流石のアーヴィング・ネイピアとてこの仮説に一定の信ぴょう性がありそうなことを認めるしかない。
レーザー光の投影をやめた筋電義肢を見ながら、義肢装具士アーヴィング・ネイピアは腕を組み、続いてイザベル・クランツ高位技師官僚の顔を見る。それから彼はこんなことを述べた。
「そうなると、SODの説明が付くな。SODを介して繋がる別世界が、すなわち可能性の世界ということなのか? あの気味の悪い怪物がうじゃうじゃと降ってくる世界が、可能性の世界だと」
かれこれ半世紀以上、人類を悩ませている問題。SODこと、次元の歪み。今もボストン上空にある巨大なそれを消滅させるべく、今も日々研究が進められている。その最前線がこのアルフレッド工学研究所であり、ここに所属する研究員たちはその研究に直接的に関わっていない者も含めて、SODという現象に悩まされていた。
現在アルフレッド工学研究所は『小規模のSODを人為的に発生させ、収束させる』ことに成功している段階にある。そしてこの実験が成功したときに湧いてくるトラブル、それが義肢装具士アーヴィング・ネイピアの言う『気味の悪い怪物』なのだ。
研究所で発生させたSODから飛び出してくる怪物は、だいたい一度につき一体か二体ほど。そして怪物のバリエーションは恐ろしいほどに豊かで、一貫性がない。頭はライオン、体はヤギ、尻尾はヘビという“キメラ”そっくりな怪物が出てくることもあるし。頭はヤギ、体はウマで、口からは強烈な刺激臭を発する強酸性の唾液をダラダラと垂らすような、近寄ることすらままならない怪物のときもあるし。頭はサル、体は巨大なヘビ、それにムカデのような脚がわんさかと生えている、だなんていうパターンもある。まあとにかく、この怪物の駆除が大変なのだ。
所長がペルモンド・バルロッツィだった時代は、ペルモンド・バルロッツィと現在は“ラドウィグ”と呼ばれている彼がこの駆除作業を担っていたのだが、どちらも不在である今は職員総出でこの駆除作業を行っている。怪物に液体窒素をぶちまけたり、実験用のレーザー冷却装置での凍殺を試みたり、火炎放射器で応戦したり、発火能力や発電能力を持つ覚醒者で応戦したり等、研究員総出の鎮圧作戦は毎度てんやわんやの大騒ぎになる。最近は研究員たちも慣れ、怪我人も減りつつあるが……――という話は今、重要ではないだろう。その話は脇におくとして。
SODを開くたびに、必ず決まって飛び出してくる怪物たちのことを思い出しながら嫌そうな顔をした義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、しかしすぐさま怪物のことを頭から消し去る。先ほどの盾のように、怪物まで頭の中から現実へと出てこられては堪らないからだ。そうして一度頭の中を空っぽにした彼は、イザベル・クランツ高位技師官僚の様子を伺う。彼女は今の義肢装具士アーヴィング・ネイピアの言葉に、何か引っかかるものを感じていたようだ。
それからイザベル・クランツ高位技師官僚は暫し悩みこむように黙る。数十秒後、彼女は暫定の仮説を見出したのか、ぼそぼそと喋り始めた。
「いえ、あの不気味な怪物が飛び出してくる世界も、きっと誰かの思い描いた悪い空想によって生み出されたものなのよ。きっと最初のSODも……――」
言葉の途中、彼女は喋ることを止め、顔を上げた。その時の彼女の目には何か重大な天啓を得たかのような、凛とした光が宿っていた。そしてイザベル・クランツ高位技師官僚は、義肢装具士アーヴィング・ネイピアの黒玉のように黒い瞳をジッと見据えると、透徹した声で己の考えを述べるのだった。
「ASIはこう言っていた。最初のSODをコヨーテ野郎が生み出したという話は、北米合衆国政府が責任逃れの為にでっちあげた大嘘。実際の彼は一人でも多くの市民が逃げられるようにと時間を稼ぐ為にひとり最期まで建屋に残り、暴走したアバロセレン炉の制御を試み続けた人物であり、そこは尊敬に値する、と。でも、それは違うのかもしれない」
「つまり、あれはやはり綿密に計画されたテロ事件だったと?」
「いいえ、それも違う。――彼は勇敢な人物だった。でも、最期まで建屋に残った彼が抱いた恐怖や悪いイメージがアバロセレンに投影されてしまったのよ。アバロセレンは彼の抱いた絶望や恐怖を受け止め、それを現実で具現化した。それがあの“アルテミス”や怪物なのだとしたら……」
「……」
「意外とSODを消滅させるのは簡単なのかもしれない。レオンが提案したような大規模な設備は必要ないのかも。強力な想像力を持つ人物が、アルテミスが消滅する未来を強くイメージしてアバロセレンに願えば、アルテミスは簡単に消失するのかもしれない」
イザベル・クランツ高位技師官僚の言葉を聞き、組んでいた腕を解く義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、目を伏せるとその乏しい想像力と共感力を働かせて大昔のことに思いを馳せる。
まだ“ボストン”という土地があった時代。SODという概念などなく、全体未聞の事態によって混乱状態に陥っていただろう当時。その混乱の元凶にひとり立ち向かった人間が抱いていただろう恐怖。それは簡単に想像できるものではない。きっと強烈な感情であったはずだ。
その強烈な感情が生み出したものが、あのSODであり怪物なのだとしたら? ……たしかに、その説はあり得そうな気がする。
そして義肢装具士アーヴィング・ネイピアも、イザベル・クランツ高位技師官僚と同じ気付きを得る。瞼を開けると彼は言った。
「先代が打ち出した『レーザー冷却で熱を奪うことによりSODを消滅させられる』という説も、もしかしたら認識を利用するためだったのか? 俺たちがそうだと信じ込めばアバロセレンはその通りの展開を見せてくれる、だからSODを消すための取っ掛かりとして彼は『具体的なイメージ』を作ったと。つまりレオンハルトが開発したあの冷却装置は、装置ではなく『SODがたとえ開いたとしても、冷却し続ければ消滅する』という俺たちの“認識”が作用していた?」
義肢装具士アーヴィング・ネイピアの言葉に、イザベル・クランツ高位技師官僚は頷く。二人の見解は一致していたようだ。
そしてイザベル・クランツ高位技師官僚は頷いた後、ガックシと肩を落とした。それから顔を俯かせ、額に手を当てる彼女は、義肢装具士アーヴィング・ネイピアに意見を求めた。「やっぱりアバロセレンは全面的に使用を禁止しないといけない物質だと私は思う。アーヴィング、あなたはどう思う?」
「俺はもとより規制派だ。あんなもの、野放しにしていいわけがない。そもそも、あれが物質であるのか、それとも光子に似た存在なのか、またはどちらでもない存在なのかさえ現状では分かっていないのだから」
義肢装具士アーヴィング・ネイピアはそのように即答。その答えはイザベル・クランツ高位技師官僚に少しの安心感を与え、彼女は僅かに微笑みを見せた。――が、すぐにその表情は緊張感に満ちたものに変わる。彼女は義肢装具士アーヴィング・ネイピアから出入り口へと視線を移すと、ため息交じりの声で呟いた。
「ASIと話し合わなきゃ。ラドウィグとも共有しないと……」
そう呟いたあと、イザベル・クランツ高位技師官僚は義肢装具士アーヴィング・ネイピアに対して小さく手を振り、オフィスを去っていく。その背中を見送る傍らで、彼はあることを思いついた。
「……」
アバロセレンが“ただそこにある”だけで何かしらの働きをするのであれば、これを自分も応用できるのではないか。それこそコミックで見た秘密道具のような、ブッ飛んだものが創り出せるのではなかろうか。――そんな好奇心が、珍しく彼の心に宿る。そして同時に、彼の頭にはある人物の顔が浮かんだ。
猛獣と呼ばれている女、アレクサンダー・コルト。積極的に試作品のテストに協力してくれている彼女なら、この提案に乗ってくれるだろうか?
「……いや、まずは仕事だ。AIの解析が残ってるんだ……」
しかしつまらない男アーヴィング・ネイピアは、すぐに邪悪な好奇心を振り払う。そして彼はすぐさま彼の仕事に戻っていった。
この人生に、何の意味がある? ――そんな思いばかりが、この時の彼の頭の中をぐるんぐるんと回っていた。
「クロエ。報告がある」
時代は遡り、四二二八年五月下旬のある日のこと。つい先刻クビをきられた勤め先の入るビル前に立つシスルウッドは、目を真っ赤にしながら、少しの私物が入った紙箱を抱えて呆然としていた。
辛うじて使えるレベルに整備された中古の型落ち携帯電話を耳に当てる彼が通話をつなげた先は、ヘッドハンター兼人材仲介業をやっている友人クロエ・サックウェル。更新はし続けている医師免許を、しかしなんら活かしていない業種に就いている彼女に当時、シスルウッドは求職活動の面倒を見てもらっていたのだ。
そんなこんなでクロエはすぐに事情を察する。彼女はシスルウッドからの報告を聞くよりも前に、こう言った。『またクビになったの? ハハッ、すごい。最短記録更新だ。一ケ月半でクビって、すごい』
「笑い事じゃないよ……。つい一昨日、歓迎会を開いてもらったばっかりだったのに。もうサヨウナラだ。冗談じゃない」
『まあまあ、そう気落ちしないで。また次があるから』
「次って、どこに? 僕は何もミスを犯さなかった。週のノルマだってゆうに超えていた、同僚たちともうまくやっていたはずだ。雑用だって積極的に請け負って、溶け込む努力だってしたさ。いつでもどこでも、常にそう勤めていた。それなのに……ッ!」
『おっと。アーティー、もしかして泣いてる?』
「そう。心が折れたんだ」
電話越しのクロエに情けない泣き言をボトボトと零しながら、シスルウッドは少ない荷物を抱えて移動する。人目を避けるようにオフィスビルの影に入ると、彼はビルの外壁に自分の背中をドンッとぶつけ、その場にへなへなと座り込む。そんな彼はクロエの読み通り、無様に泣いていたのだった。
泣いているといっても、幸いなことに『嗚咽や過呼吸が起こるほどの大号泣』までには至っていない。心理的なストレスが極限にまで達したせいで、目から勝手に涙がポロポロと零れ落ちて止まらなくなっている状態、その程度で収まっている。たまに声が裏返るせいでクロエには泣いていることがバレてしまったが、とはいえ泣いているわりには案外と冷静な状態ではあった。
ただ、思考はネガティヴの方向に突っ走っている。この時の彼は開き直って笑えるような気分にはなかったし、エネルギーを持て余して荒んでいた一〇代の頃のような「あのクソ野郎ども、いつかぶっ潰してやる!」という強い怒りも抱いていなかった。彼の中にあったのは灰色の徒労感だけ。彼の心はもはや燃えカスに等しく、燃える余地がもう残っていなかったのだ。燃え尽き、そよ風に遊ばれてフラフラゆらゆらと揺らぎ、転がっている真っ黒な藁くず。そんな心境だ。
「これでクビは八度目だ。オマケに部長からは『実家に帰って議席でも継げばいいだろ』と言われたよ。その言葉に周囲は笑ってた」
『なにそれ、ひどすぎる。セシリアが聞いたらブチギレる発言だよ』
「だから彼女には黙っていてくれ、また訴訟を起こせってせっつかれたくないから」
目からは涙をポロポロと零しながら、口許には自嘲の薄ら笑いを浮かべつつ、シスルウッドはぐちぐちと不平不満とボヤきを連ね続けた。その裏で彼はここに至るまでの経緯を思い返し、ネガティヴ思考を強化していく。
「……面倒ごとはもう御免だ。もめ事なんて嫌だ。今にも尽き果てそうだってのに、これ以上は気力と精神をすり減らしたくない……」
エルトル家から出ていけばこれ以上悪くなることはないと、そんな幻想を無邪気に信じていた頃が懐かしい。現実はこのザマだ。状況はエルトル家を出たあと……――というか、ペルモンド・バルロッツィの家を出たあとから急転直下で悪化していったともいえる。
転落が始まったのは六年前、二十二歳のとき。修士課程修了後せっかく大学院に進んだというのに自主退学してしまった時からだ。退学理由は、同様の選択をした他の苦学生たちと大差ない。学業と仕事を両立できなくなり、心身ともにズタボロになったためだ。
それまで居候していたペルモンド宅を出たというのも、きっと心身のバランスを崩した要因の一つなのだろう。まあともかく、あの頃はズタボロだった。一年ほど精神科に通う羽目になったのだから――双極性障害に片足を突っ込みかけていると主治医であるファーガス・リース医師が判断したからだ。
そのため一度シスルウッドは実家ことバーンズ・パブに出戻り、店を手伝いながら半年ほど休養。リース医師の指導に従い、規則正しい生活と毎朝のランニングを欠かさず続け、なんとか元の調子を取り戻した。たまに頓服薬の世話になったこともあったが、それも数か月に一度ぐらい。罵声をぶつけてくる集団に囲まれた等、相当にストレスが掛かる出来事にでも遭遇しない限りは、頓服薬を使用することもなかった。
その後、カリカリとした精神状態が落ち着いた段階で、彼はロバーツ家に移り住んだ(尚、ボイラー室が彼の寝室として宛がわれることはなかった。むしろ「本当にボイラー室に引っ越してくるつもりだったのか?!」とキャロラインの父に驚かれたぐらいである。キャロラインの父曰く、あの話は「どんな文句や無理難題を吹っ掛けられても、それを我慢して受け入れようとするシスルウッドの姿勢が気に入らなかったから」こそ飛び出た冗談だったらしい。ただ、キャロラインの母は本当にボイラー室を宛がうつもりでいたとか、なんとか……)。それが翌年、二十三歳のとき。
移住と同時に婚姻し、娘テレーザが誕生したのもこの年だ(これはキャロラインの母に急かされたためだ。尚シスルウッドは養子を貰い受けることを希望したが、その希望は「どんな病気を持っているかも分からないような、どこの馬の骨とも知れない野良猫を我が家に加えろと? ふざけたことを言わないで!」「ロバーツ家には、ロバーツ家の血が流れる跡継ぎが必要。娘の血を継ぐ子供であればそれでいい、種なんて問題じゃない」という義母の冷たい言葉によって却下された)。そして最初の就職先が決まったのも、この年。最低最悪な軍需企業に首根っこを掴まれ、暫くここに囚われることとなった。
軍需企業、ラーズ・アルゴール・システムズ。どうしてこんな企業に就職することとなったのか。その答えは単純である。この会社の重役を務める人物――のちにこの人物は元老院の一柱、よく“エズラ・ホフマン”だのと人間界では名乗っている存在だと判明するが、この当時のシスルウッドは何も知らなかった――から脅されたのだ。従わなければ妻と子供を、そして友人すべてを惨たらしく殺してやるぞ、と。ハッタリではなさそうな相手の気迫に押され、舐め腐った性格の持ち主であるはずのシスルウッドも流石に従うしかなかった。
ここでシスルウッドに命じられた仕事は、先にここに就職していたペルモンド・バルロッツィの監視、それと機密文書の暗号化作業だった。ペルモンドしか所属していない部署にぶち込まれた彼は、そこで四年ほどイヤ~な業務をやらされることとなった。
暗号化作業。これについては、すぐに自動化することができた。シスルウッドが考えた暗号式(今となってはその内容を思い出すことは出来ない。高度な思考を伴う作業に関する記憶は、死後に陥った低酸素状態に起因する脳機能障害の影響で大部分が吹き飛んでしまったからだ)を用いた自動暗号化・復号化プログラムを、ペルモンドがサクッと組み立ててくれたからだ。
連続スキャン可能なプリンター・スキャナー複合機に書類をセットするだけで、自動的にコンピュータが内容を取り込んでデジタルデータ化し、暗号化作業も同時に行い、そしてスキャンされた書類はシュレッダーに直葬。――そんなわけでシスルウッドは機密文書に目を通すことなく、また仕事らしい仕事をすることなく、気楽な窓際族の分際を半年ほどエンジョイしていた。ただ出社し、気難しいペルモンドの機嫌を取りながらお喋りし続けるだけで分不相応の高給が払われるのだから、これ以上ない楽な仕事だった(脅されて入社した、という経緯はさておき)。
自ら望んで窓際族になっていたシスルウッドだが、その振る舞いを上層部は把握していながらも黙認をしていた。自動化プログラムを走らせているとはいえシスルウッドが機密文書に目を通している可能性があったこと、そして暗号鍵をシスルウッドが知っていたこともあり、上層部はシスルウッドに対し強く出られなかったのだ。
機密文書の大半には、表に決して出すことができないような内容が記されている――国際的な倫理規定に違反する項目を少なからず含む研究報告書、裏の金銭事情に関係した文書、非人道的な人体実験のレポート等、外部に漏れては困るものばかりだ。この断片を知っているかもしれないシスルウッドを分不相応ともいえる高額な報酬で黙らせることができるなら、そして社内に囲い込めるのであれば、それで構わないと上層部は考えていたからだ(反対にシスルウッドは、秘密を知っていてもロクなことにはならないと考えていた為、その内容の一切に関知しないことを徹底していた。兵器開発に専従している企業の機密文書など目を通したところで良いことが起こるはずもないと、彼は分かっていたし。ただでさえ記憶力が無駄に良い脳味噌に、不快な情報は極力詰め込みたくなかったのだ)。
とはいえ、この妙な優遇を下の者たちがよく思うはずがない。そんなこんなで、社のため馬車馬のごとく扱き使われている営業部に目を付けられたシスルウッドは、ペルモンドの辞職を機にそこへと転向させられることとなる。そこでの日々は、控えめに言って『最低』の一言だった。
とても達成可能だとは思えない困難なノルマを、シスルウッドただ一人だけ課せられていた。最初の頃は「こなくそーッ!」と怒り、持ち前の反骨精神を武器に上司を見返してやろうと必死になったが、そのうちシスルウッドは気付く。上司はただ『ノルマ未達成によるペナルティ』をシスルウッドに与えたいだけなのだと。大した仕事もせずに高給を受け取っていた“アーサー・エルトルの息子”が気にくわないから、ただ虐めたい。それだけでしかなかったのだ。
同僚たちも同様で、その大半は『当然とも思えるノルマ未達成という結末を迎え、理不尽な叱責を上司から喰らうシスルウッド』を嘲り笑って見ていた。中には慰めたり、偶に手を貸してくれる同僚も居たが、彼ら彼女らは大抵何かしら黒い腹を隠し持っていて、施しに釣り合わないような大きすぎる見返りを暗に要求してくることが多く、シスルウッドをえらく失望させたものだ。
そのうちシスルウッドは何も頑張らなくなった。というか、反骨精神が斜め上に向かった結果、何もしないという結果に落ち着いたのだ。外回りだと嘘を吐いて外に出て、街中でのんびりランチを楽しんだり。営業先で自社を貶し、他社を検討するよう勧めるという暴挙に出たり。……そうしてシスルウッドは営業部の評価を失墜させることに成功し、彼を笑いものにし続けた上司や同僚たちへの復讐を果たした。烈火の如く怒る上司が声を荒らげるさまを観察しながら、シスルウッドはヘラヘラと愉快そうに笑っていたものだ。
そうして同僚たちとバチバチと喧嘩をしながら三年ほど過ごした、ある日のこと。辞職したものだと思っていたペルモンドが、何食わぬ顔でオフィスに戻ってきた。思い返してみれば、たぶんそれが崩壊のキッカケだったのだろう。
その騒動の少し前に起こっていたのが、ペルモンドを長年献身的に支えてきたエリカ・アンダーソンの事故死。それが引き金となり、ペルモンドは元よりもひどい状態に陥った。エリカ、そして彼の担当医であったイルモ・カストロ医師のお陰で寛解に近付いていたはずの病状が、シスルウッドと共に生活していた頃よりも酷い状態になっていたのだ。
三歩歩けば直前の記憶を失くす。そんなダチョウ並みの記憶力だったペルモンドだが、遂にその抜け落ちる記憶は『直前まで何をしていたのか、というエピソード』ではなく『自分自身が誰であるのか、という自己同一性』にまで及ぶようになった。そしてペルモンドはより些細なキッカケでパニック発作を起こすようになり、突然何の前触れもなく失踪することも増え、彼の後見人であるセシリア・ケイヒルの手を焼かせることも多くなった。
そしてエリカの死後、翌年のこと。オフィスで顔を合わせたペルモンドは、シスルウッドにある告白をした。端的に言うとそれは『かつての自分は人に命じられるがまま人を殺す、殺戮機械みたいなものだった』という内容。そのときのシスルウッドはその言葉を受け止めることができず、動揺することしかできなかった。
あの告白は間違いなくペルモンドとシスルウッドの間に“不信感”という深い溝を作った。二度と埋められることはないだろう、深い溝を。その告白を気にシスルウッドは彼から距離を取るようになり、少しずつ関係が切れていった。
その告白から数か月後。勤め先が突然、解散した。シスルウッドが作成した暗号式、それの復号化プログラムがとあるジャーナリストに流出し、機密文書に記されていたおぞましい内容が白日の下に晒されたこと(尚、復号化プログラムを持ち出した犯人は未だ特定されていない。だがプログラムを組んだ張本人ペルモンドの仕業だったのではとシスルウッドは推測している)。機密文書のおぞましい内容に多くの株主たちが激怒したこと。そして騒動直後、取締役社長であったエズラ・ホフマンが姿をくらましたこと。これらの要因が重なり、速やかに執り行われた決議によって解散が採択されたのだ。
会社の解散を機にペルモンドとシスルウッドの関係は完全に断絶された。その後のペルモンドの動向に関してシスルウッドは、たまに彼の後見人であるセシリア・ケイヒルから聞く程度になる。そうして二人は暫くの間、顔を合わせることもなかった。
そうしてペルモンドと縁が切れたあとに訪れたのは失業者という生活。それと、おぞましい内容を記した機密文書の隠ぺいに関わったとして、世間からバッシングを浴びる日々(ただし世間がバッシングを浴びせている対象は『シルスウォッド・アーサー・エルトル』という名前の彼であり、当時ロバーツ姓を名乗っていた娘テレーザの生活に影響が出なかったことは不幸中の幸いだった)。それが始まったのは昨年、二十七歳のとき。
ロバーツ家がぼちぼちな資産家であったこと、そして最低最悪な軍需企業に勤めていたころに蓄えた財産が幾分かあったこと、それから稼ぎの良い妻キャロラインのお陰で、シスルウッドが外に出ずとも生活に困ることはなかった。
シスルウッドが働かなくとも、たぶん一生暮らしていけるだけの蓄えはある。とはいえ、先のことに不安がなかったわけではない。娘テレーザの将来のこと、それから「もう一人ぐらい子供が欲しい」というキャロラインの願望もあって、真面目に働かなくてはいけないなという気が、不良で怠惰なシスルウッドにもしていたのだ。
そんなわけでシスルウッドは求職活動を始めたのだが。しかし単独ではあまり上手くいかない。なにせシスルウッドはあまりにも烙印を背負いすぎている。普通のやり方では上手くいくわけがなかったのだ。
まず、アーサー・エルトルの息子という肩書。それは重かった。それはいつでもどこでも付いて回り、常に悪い方向へと働いていた。シスルウッドを雇うことで発生する「アーサー・エルトルを敵に回すかも」というリスク、もしくは「アーサー・エルトルと敵対している極左系の団体を敵に回すかも」というリスクを恐れて、誰も見向きもしてくれなかったのだ。
加えて、前職で付いた悪評は凄まじかった。非人間的な扱いをされることも多く、この現実に彼の心も折れ、専業主夫になるしかないのではと考えたときもあった。
だが、そんな彼に手を貸してくれる者が現れる。それが人材仲介を仕事にしているクロエ・サックウェルだ。
クロエはたしかに有能で、社会から疎まれる要素しかないシスルウッドでも雇ってくれる企業をどこからともなく見つけ出してきた。だが、どこも長続きしない。名前や髪形を変えて空気に擬態し、けれども与えられたノルマはしっかりと達成し、問題行動も起こさず真面目に働いても、いつも必ず数か月ほどでクビを切られるのだ。そして理由はいつも同じ。
アーサー・エルトル。やつはシスルウッドの就職先を掴むと、その就職先の粗探しを始めるのだ。そうして醜聞や隠匿された不祥事を掘り出すと、それを餌に幹部へ脅しをかける。世間に醜聞が知れ渡る未来か、うちの息子をクビにする未来か、そのどちらかを選べ、と。――今のところ、シスルウッドを切り捨てるという選択をしなかった企業はいない。そうやっていつも彼は社会から切り捨てられてきた。
一度や二度なら耐えられた。だが八度目は無理だ。
それが今、涙が止まらなくなっている理由である。世間から『必要ない』と拒否されることに、彼は耐えられなくなっていた。社会を回す小さな歯車になる資格すら与えられていない、そんな無用者であると突き付けられることが、もう嫌になっていたのだ。
「正直言うとさぁ、何もかもが嫌になってる」
建物の影に隠れ、座り込むシスルウッドは長いこと封じ込んでいた本音をボトボトと零していく。そうして愚痴を漏らしながら彼が見るのは、日向の世界。忙しそうに颯爽と早足で歩いていく人々がちらりと向けてくる冷たい視線を受け止めながら、彼もまたそちらの世界に冷ややかな視線を向けていたのだ。ここはやはり自分が居るべき世界ではないのだな、と。
結局、シスルウッドが若い頃に感じていた直感はその大半が当たっていた。ドロレスやローマンのような“善良な大人たち”は度々「お前は普通の人間だ」とシスルウッドに説いてきたが、けれどもシスルウッドは知っていたのだ。自分は普通ではないと。
普通の人間は、両親も普通だ。そこそこにクズで、そこそこに善良な無名の一般人から、なんてことない普通の人間が生まれてくる。復讐の鬼と化してそれを果たした母親と、世間から極悪人として疎まれる父親の間に生まれた人間が、普通であるワケがないのだ。
それに普通の人間が、全てを克明に覚えているワケがない。普通の人間は、不特定多数からトマトや罵倒を理由なく投げられたりしない。普通の人間が、社会から目の敵にされることもない。
そして普通の人間は、ここまで強い憎悪の感情を抱かない。
「――いっそ死にたいぐらいだ」
薄暗闇に隠れながら日向の世界を冷ややかに見つめるシスルウッドに、通行人たちは気持ち悪がるような視線を次々と投げつけてくる。その視線が堪えたシスルウッドが遂に日向の世界から目を逸らし、目の前の外壁に視線をやった時、同時にその言葉がフッと零れ出た。
すると、それまで揶揄するような調子だったクロエの様子が変わる。電話越しの彼女は食い気味にこう言った。『あーっ。ちょっと、アンタなに言ってんの? それ実行したら許さないからね?』
「分かってるよ、そういう気分なだけだ。娘を置いて逝くわけがないさ。……あの子に僕と同じ経験はさせたくない。片親が自殺だなんて、そんな経験は……」
『当たり前でしょ。そんな経験、テッサにさせないで』
ぴしゃりと断ち切って変な同情をしない、このクロエのやや冷たい雰囲気。けれどもそれがこの時のシスルウッドには心地よかった。慰めるための嘘を言われることもなく、ありもしない希望を信じろと説得されることもなく、正しいと思われることだけを叩きつけてくる。そんな鋭さが、シスルウッドの暗闇の中でフワフワ浮いている心をぐさりと刺し、現実という土台にぶすりと固定してくれるのだ。
そうして荒れていた心がクロエの冷たい言葉によって徐々に落ち着きを取り戻していく。娘テレーザの愛称“テッサ”を他者から不意に突き付けられたことも、要因の一つだろう。
「……」
ようやく流れ続けた涙が止まり、乱れていた呼吸も整い出す。ショックを受けていた心が緩やかに回復し、ほんの少しだけ立ち直ったときだ。シスルウッドが深呼吸を試みていた一方で、電話越しのクロエは重たい溜息を零していた。そして溜息のあと、クロエは言う。
『あんたと話してると、いつも調子狂っちゃうのよね。なんか柄にもないことを言いたくなっちゃう感じがしてくる』
「……柄にもないことか。例えば?」
『まあ、うーん。そうだなー。……――私、今ヒマだし。話、聞くよ。だから今あんたの居る場所を教えて』
羽振りの良いクロエ女王のおごりで甘ったるいコーヒー一杯をごちそうになり、そして彼女に二時間ほど愚痴を聞いてもらった、その一週間後。クロエから「バンクーバーのほうの知り合いに声かけてみたら、数件オファーがありそうだって。で、どうする?」と提案されたが、しかしボストンから絶対に出たくないとゴネる妻キャロラインの反応を見て、シスルウッドがその返答に困っていた時のことだ。
この当時の彼は目先の求職活動のことや将来設計、実父アーサー・エルトルへの対抗策、そして己が抱え込んでいる狂気など多くのことに悩まされていたが、しかし娘テレーザのことが当時の彼にとって一番大きな悩みだったことだろう。
学校に通い出す年齢にもなったテレーザには、明確な自我が備わり始めていた。賢く、それでいて思慮深くて優しい。それがテレーザの基盤となる性質である。記憶力が他の子供たちより優れていそうなことが気掛かりではあったが、とはいえ性格がねじれることもなく、真っ直ぐに育っていた。
そんな風に、まさしく“良い子”へと育っているようにも感じられるテレーザだが。しかし義母カレン・ロバーツに言わせればテレーザは“ロバーツ家の跡継ぎとなる女性”としては相応しくないらしい。義母は孫娘であるテレーザのことを、欠陥品だの出来が悪いだのと散々に罵っていた。
というのも、テレーザの自我が形成されていくにつれて明らかになった事実があったからだ。それはテレーザが普通の子供であるということ。テレーザは普通であるがゆえに、ロバーツ家の女性たちが代々信奉し、その声を聞いてきたという“白狼さま”という存在を感知できなかったのだ。
白狼さまという存在について、シスルウッドが知っていることは少ない。ペルモンドの傍をうろちょろしていた“黒狼ジェド”という名の黒い影、あれと近い存在らしいということだけが分かっている程度だ。
黒狼と同様に、白狼さまという存在もまた時に人間の体を乗っ取って好き放題に活動する。白狼さまという存在は決まって義母かキャロラインか、そのどちらかの体を乗っ取るのだが。その後の行動はいつも決まっていた――シスルウッドの襟首を掴み、彼の耳元で騒ぎ立てるのだ。お前は今すぐにでも死ぬべきだ、と。
好きでもない義母カレンの顔でギャンギャンとうるさく吠えられる分には、シスルウッドもまだ耐えられる。クソババァがなんか言ってやがるぜ、と心の中で軽く流せるからだ。しかしキャロラインの顔で「死ね」と吠えられると、毛の生えた心臓の持ち主であるはずのシスルウッドでも傷を負わざるを得ない。またキャロラインがその瞬間を何も覚えていないことが、彼の心を確実に締め付けていた。
そんなこともあってテレーザは、いつからか白狼さまという存在、及び“ロバーツ家の女性”というものを怖がるようになった。自分に対して風当りの強い祖母、そして時に豹変して父親に「死ね」とがなり立てる母キャロラインのことが怖くて仕方がないのだという。
怯えて当然だと、シスルウッドは感じている。テレーザはまだ子供なのだ。そしてこの時のテレーザにとって、家は安心して帰ることが出来る場所ではなくなっていた。
故に学校が終わった後、テレーザはまっすぐ家へと帰りたがらない。友達の家に遊びに行く、と必ず言うのだ。そして行く先は毎回同じ、大親友ボビーの家である。
ボビーの両親は嫌な顔をひとつせず、テレーザをいつも快く受け入れてくれた。――多分それはボビーの両親、特に父親のほうとシスルウッドが親しかったからだろう。彼の抱える事情をよく知っているからこそ、配慮してくれていたのかもしれない。
「見るたびにやつれていくな、お前は。ちゃんと食ってんのか?」
夕方の六時頃。テレーザを迎えに来たシスルウッドを玄関で出迎えたのは、ボブの父親であるユーリ・ボスホロフ。彼はデリックやエリカ、ジェニファーらと同様に、ペルモンドを介して大学時代に知り合った友人のひとりだ。
といってもユーリは友人らの中では特異な存在だった。彼はペルモンドとしか親しくなく、デリックらとは距離があったのだ(ユーリ曰く「デリックがクズ野郎すぎて、そちら側にはあまり近付きたくなかった」「バッツィにはデリックと縁を切るよう進言したぐらい、あいつのことが嫌いだった」とのこと)。それもあって学生時代、シスルウッドもまたユーリと特に親しくはなかったのだが。両者ともにたまたま同時期に結婚し、同時期に子供が生まれたこともあって、情報交換を兼ねて会話することが増え、段々と距離が近付いた。そのうち子供同士も仲良くなり今に至るというわけだ。
「最近、胃の調子が良くなくてね……」
ユーリの言葉にそう返答しつつ、シスルウッドは苦笑いながら相手の姿をざっと見る。
彼の曾祖父の代から続く鉄工場で働くユーリは、その傍らでアマチュアのキックボクサーとしても活動している。がっちりとしたユーリの体格は、まさに健康的な男性という感じだ。
それにユーリは良い父親だ。彼の息子ボビーは少し難しいところのある子供だが、その割には正直で真っ直ぐな子供に育っているようにも思うし、ボビーの両親に向けられた信頼も本物。ユーリの配偶者であり万華鏡作家であるケイラという女性もまた、良い母親であり真っ当な人間で、かなりの人格者だ。
対して、テレーザの両親である自分たちはどうだろうか?
「そういえば……――あの写真、見たか?」
少しだけシスルウッドの表情が翳った時、ユーリは別の話題を振ってくる。あの写真。その言葉にシスルウッドが思い出したのは、今朝の朝刊。三面にチマッと掲載されていた写真だ。
ほぼ専業主夫の状態であるシスルウッドの朝はとにかく忙しく、朝刊の内容といえばコーヒーを優雅に啜る義父ショーンの肩越しに一瞬チラッと眺めた程度だが……――ただ、あの写真はよく覚えている。長いこと顔を合わせていない友人、ペルモンドのひどい有様が捉えられていたからだ。
「あぁ、見た。ペルモンドの、あの写真だろ。ひどい顔してたよな」
あの写真の中でペルモンドは国際空港の展望台に立っていて、警備員らしき人物たち数名に取り押さえられていた。まあ、要するに……柵を越えて飛び降りようとしていたペルモンドを、警備員らが必死に引き留めていたのだろう。
一体なにがあったから、あんなことになったのか。その詳細をシスルウッドは知らない。ただ、彼も知っていることは少しある。ここ数週間ほど“狂人ペルモンド・バルロッツィ”という存在のイカれた一挙手一投足を世間が笑いものにしていた風潮があったし、ネタ欲しさに下品なジャーナリストたちが彼を執拗に追いまわしているという話を聞いていた。それぐらいの情報はシスルウッドも把握している。
それにあの写真のペルモンドはひどく痩せこけ、やつれているように見えていた。あの顔は最後にシスルウッドが直接その目で見た時とは大きく変わっており、まるで別人のようだった。彼と縁を切るつもりでいたシスルウッドですら「大丈夫なのか?」と不安を覚えるような姿だったぐらいだ。
そして不安になっていたのはユーリも同じ。ユーリはシスルウッドと違って能動的にペルモンドと距離を置いているのではなく、ペルモンドと会って話をしたいつもりでいるものの連絡が取れず居場所も掴めなくて困惑している立場であるのだから、より一層不安感が強いのだろう。
「お前は何か知ってるか? バッツィの近況とか。……バッツィが離婚してオーストラリアに移るんじゃあないのか、って噂も聞いたんだが。実際のとこ、どうなんだ?」
ユーリはシスルウッドにそう詰め寄ってくるが、しかしシスルウッドは何も知らない。かつてシスルウッドがペルモンドの面倒を見ていた時期もあったが、この時は違っていたのだから――ペルモンドに関することは全て、弁護士セシリア・ケイヒルが請け負っていたのだ。
ごめん、何も知らないんだ。シスルウッドがそう返答しようとしたとき。父親たちの会話に興味を示したのか、玄関のほうにやってきた子供たちの姿が彼の視界に入る。コアラのぬいぐるみを持ったテレーザと、水色のワンピースを着ているコアラのぬいぐるみを持ったボビーが、彼らの方に近寄ろうとしてきていたのだ。
「あー、そうだな、えっと……」
子供たちのいる場所で、ペルモンドという狂人の話をするのは良くない。
懲りずに何度も自殺未遂をやらかして入退院を繰り返したり、外で酔い潰れて警官に保護されては「自宅に戻りたくない」とゴネたりと、弁護士セシリア・ケイヒルを始めとする周囲の人々に大迷惑を掛けながらも、記憶の欠落を理由に自己を省みようとも改めようともしない自己中心的で最低な大人が身近にいるだなんて話は、子供たちに聞かせられない……!
――咄嗟にそう判断したシスルウッドは結果、全く別のズレた返事をすることになる。シスルウッドがユーリに教えたのは、ペルモンドではなくデリックの近況だった。
「デリックはオーストラリアに移住するって聞いたよ。本格的に、事業もあっちに移すんだって。たしか、ブリスベンだったかな。あそこのロックシーンが今、デリックが手掛けるようなヘンテコな電子楽器に熱を上げているらしくてね。そこに賭けるって、威勢よく言ってたよ。ただ、クロエは一緒に行かないらしい。彼女は今のところ、ボストンを離れるつもりはないそうだ」
「いや、デリックじゃなく――」
ペルモンド、という名前が一切出てこないシスルウッドの返答に呆れたユーリは、再び問い詰めようとしたが。しかし彼はシスルウッドが浮かべていた気まずそうな笑みを見て何かを察すると、一度口を噤んだ。それからユーリは気配を感じて振り返る。彼のすぐ背後には、もうすぐ六歳になるという年齢の幼気な子供たちが立っていたのだ。
「パパ、なんの話してるの?」
ユーリの着ていた灰色のTシャツ、その裾をわずかに引っ張りながらそうユーリに問いかけたのは、彼の息子であるボビー。ボビーは、彼が大事そうに抱えているぬいぐるみのコアラとお揃いである水色のワンピースをひらひらとさせながら、不思議そうに彼の父親であるユーリの顔を見上げている。そしてボビーの隣に立つテレーザもまた、ボビーと同じような表情をしてシスルウッドの顔を見ていた。
息子の問いかけにどう答えればよいのか困惑したのか、ユーリはちらりとシスルウッドに視線を送る。そこで咄嗟の嘘が得意なシスルウッドが、信頼のおける正直者であるからこそ嘘が吐けないユーリに代わって話をごまかす役を担うことにした。
シスルウッドはその場に膝を付いて子供たちの目線に合わせると、ボビーが抱くコアラのぬいぐるみを指差し、次にテレーザの抱くコアラのぬいぐるみを指し示しながら、ボビーの問いにこう答えた。
「二人が今持っているそのぬいぐるみ、それを買ってきた人の話だよ。デリック、っていう人が居て、今ちょうど彼のことを話してたんだ」
しかし、ボビーとテレーザの二人はこの答えに疑問を抱いたようだ。子供たちは顔を見合わせたあと、どちらも小さく首を傾げる。そして口を開いたのはテレーザだった。「コアラさんはクロエおばさんから貰ったんだよ。デリックってひとじゃない」
「クロエの旦那さんが、デリックだ。デリックがコアラさんをクロエに預けて、彼女が代わりにコアラさんを君たちに届けたんだ」
シスルウッドがそう答えると、テレーザもボビーも驚いた顔をして再度顔を見合わせた。どうやら子供たちは謎多き“クロエおばさん”が既婚者であったことを今ここで初めて知ったようだ。
そうして子供たちの興味が“クロエおばさん”に移ったところで、ユーリが安堵からホッと胸を撫でおろす。――やはり“真っ当な父親”であるユーリも、トチ狂った友人ペルモンドの話題を子供たちの前でするのは気が引けていたようだ。
シスルウッドはゆっくりと立ち上がると、安心した様子のユーリの横顔を確認し、嘘を吐いたことへの気まずさを捨てる。続いて彼は自分の娘テレーザに視線をやると、穏やかな調子で声を掛けた。
「さっ、テレーザ。帰ろうか」
途端、テレーザの表情が暗くなる。拗ねたように唇をすこし窄ませるテレーザは視線を足許に落とすと、うじうじとし始めた。それからテレーザはいつも通りのセリフを言うのだった。「もうちょっとだけ、ボビーと遊びたい」
「駄目だ。帰ろう」
娘の我儘をシスルウッドが跳ね除けるのも、いつも通り。そしてシスルウッドは再度膝を織り、今度は娘をギュッと抱き寄せる。それから彼はまたいつも通りの言葉を言うのだ。
「分かってる。帰りたくないんだよな。でも時間だ。家に帰らないと」
テレーザはとにかくロバーツ家に帰りたくないのだ。テレーザにとってロバーツ家とは“大嫌いな白狼さまが支配する魔の空間”なのだから、帰りたくないのは当然。それにシスルウッドさえも同じことを思っているのだ。ゆえに彼も娘へのフォローは欠かさない。テレーザの抱えている負の感情を否定しないようにと、常にその点は気を配っていた。
……ただ。それにしてもこの日のテレーザは嫌そうな顔をしていた。多分、それは今朝の出来事が理由なのだろう。テレーザが学校に行く直前に義母カレンが放ったあの一言、二度と帰ってこなくて良いというあのセリフが、きっとテレーザの中でくすぶっているのだ。
心底イヤそうなテレーザの顔を見て、シスルウッドも気が変わる。そこで彼はテレーザにそっと耳打ちをした。
「……猫たちのいるほうの家に帰ろう。分かったかい?」
猫たちのいる家とは、つまりバーンズ・パブのこと。看板猫業も板についてきたイシュケとビャーハの二匹が居る実家に今日は帰ることにするかと、そう決めたのだ。それにバーン夫妻も「いつでも帰ってきていい」と言っている。ならば、その言葉に甘えるべきだろう。
そうしてシスルウッドが和やかに微笑めば、テレーザは途端に目を輝かせた。テレーザは父親……ではなくコアラのぬいぐるみをムギュっと強く抱きしめると、目をキラキラさせながら嬉しそうに飛び跳ね、こう言うのだった。
「パパ、だいすき! やった!」
「お片付けを済ませてきなさい。それから荷物を取って、戻っておいで」
テレーザは先ほどとは打って変わり、すっかり帰るモードに切り替わった。帰宅前のお片付けにウキウキと向かっていったテレーザの背中を、ボビーは少し寂しそうな表情を浮かべつつ追いかけていく。そうして子供部屋に消えていった子供たちの背中を見送った後、シスルウッドは溜息と共に立ち上がった。
立ち上がったシスルウッドが息を吸うと共に姿勢を正したとき、彼は友人であるユーリが同情をするかのような視線を送ってきていたことに気付く。その視線の意図を測りかねたシスルウッドが小首をかしげると、ユーリは徐に口を開き、小声で言った。「次こそは、長く続く勤め先と巡り合えるといいな」
「敏腕エージェントのクロエ・サックウェルでもどうにもならない現状だ。経歴がこれ以上汚れる前に、就職は諦めて実家の店を継ごうかと今は考えてるところさ」
「実家ってのはパブのほうか?」
「当たり前だろ。議席じゃない」
「いや、そっちじゃあなく。ハリファックスの実家なのか、どちらなのかって迷ったんだ。――そうか、そういやお前、実の親父はアレだったな。ハハッ」
ハリファックスの実家。友人の口から何気なく飛び出したその言葉に、シスルウッドはそのときハッとした。バーンズ・パブに居心地の良さを見出していた彼はこの当時、幼少期の養親であるブレナン夫妻のことを完全に忘れていたのだ。
バーン夫妻の許にはちょくちょく娘テレーザを連れて行っていたのだが、思い返してみればブレナン夫妻には長いこと会いに行っていない。たしかテレーザが二歳のとき、十二月末の冬季休暇を利用して帰郷したあの時が最後だ。
そう、あのとき。ベックの娘であるセレニティーが、親の目が届かない場所でテレーザを虐めていたことが発覚してから帰らなくなったのだ。その事実に気付いた叔母ドロレスがセレニティーを叱りつけていたものの、全く反省する素振りが見られないどころか、テレーザが悪いんだと泣き出したセレニティーにシスルウッドは違和感を覚え、それ以来彼はハリファックスに帰らなくなったのだ。
「そうさ、実の父親はアレだよ」
シスルウッドはそう言って笑いながら、その裏でゴニョゴニョと考えを巡らせる。
「アレのお陰で人生最悪だ、本当に……」
自分は今、失業者で暇人だ。時間は腐るほどある。そしてテレーザは今、家に帰りたがっていない。今日のところはバーンズ・パブに泊まるとして。次の土日休みはハリファックスに行くのも悪くはないかもしれない。
ならドロレス叔母さんに連絡してみるか。セレニティーが居ないなら、帰るのもアリかもしれない。ただ、セレニティーが……――。
「さっ、テレーザ。ボビーにお別れの挨拶をして」
シスルウッドがあれこれと考えを巡らせていたとき、お片付けを終えたテレーザが荷物を抱えて父親のもとに戻ってくる。寂しそうな顔をした親友ボビーに「また明日、学校で会おうね!」とお別れの挨拶をする娘テレーザの様子を彼は見守りながら、数年前に見た“クソガキ”としか言いようがない少女セレニティーの顔を思い出し、胸焼けするような違和感を鳩尾のあたりに覚えていた。
テレーザを連れてバーンズ・パブに帰宅した、その日の晩。妻キャロラインに「今日は実家に泊っていくから戻らない」と電話で連絡を入れた後、シスルウッドは数年ぶりにハリファックスの実家、ブレナン家に連絡を試みた。
サニー・バーンの横に並んで皿洗いを手伝い、せっせとお小遣い稼ぎに励む娘テレーザの様子を見守りながら、シスルウッドが恐る恐るブレナン家の番号に掛けてみれば、電話に出たのは不機嫌そうな叔父ローマンだった。
電話もしなければ絵葉書のひとつすら寄越さないうえに、孫娘の写真すら送ってくれないどころか顔も見せにも来ない“息子”にいたくご立腹な様子のローマンだったが、シスルウッドが「今度の土日にテレーザを連れてそっちに行ってもいい?」と切り出せば一転、声のトーンを高く切り替えて大喜びし「いつでも構わない、帰っておいで」と大歓迎ムードに変わった。……随分とチョロいじーさんになっちまったなぁ、というのが舐め腐った性格をしているシスルウッドの抱いた感想である。
そして通話を叔母ドロレスに代わってもらい、シスルウッドは懸念事項であるセレニティーについて訊ねたのだが。ドロレスから聞かされたのは予想外な近況だった。
セレニティーの問題行動は年々加速していったようだ。学校では遂に傷害沙汰を起こし、複数の家族から訴訟も起こされたのだという。そんなセレニティーへの対応について、母親であるベックと父親であるウィリアムの意見は割れ、二人は昨年に離婚したそうだ。親権はすべて父親ウィリアムが持つことになり、ベックは『娘を捨てた』とのこと。そして今、ハリファックスに在住しているのはベックのみで、彼女は今ブレナン夫妻が営む書店で働いているのだという。彼女はドロレスのアシスタントとして移動図書館に同伴したり、ローマンが主導している保護猫活動にも協力しているそうだ。
というわけで、ハリファックスに“クソガキ”が居ないことが確認されたため、シスルウッドは娘を連れて帰郷することにした。
そうして訪れた金曜日の夜。シスルウッドはクロエから中型のキャンピングカー(デリックが数年前に「いざという時に備えて、こういうのはあったら安心だよな! ついでにキャンプとかもやってみたいし!」と思い立ち奮発して購入したものだが、しかし事業が軌道に乗り始めて忙しくなったこともあり、彼は結局これに一度も乗っていない)を借り、眠るテレーザを乗せてボストンを発った。片道十一時間のドライブを経て、ハリファックスに到着したのは翌朝九時だ。
ハリファックスに到着後、テレーザはブレナン夫妻と共に書店の方へ向かっていった。シスルウッドだけはブレナン家に残り、そうして彼はリビングルームのソファーにて三時間ほど仮眠。そんなシスルウッドの目を覚ましたのは、玄関扉が解錠され、誰かが屋内に立ち入ってくる物音だった。
物音に飛び起き、何事かと身構えたシスルウッドだったが、家の中に入ってきたのは幸いにも見知った人物。サビ猫オランジェットを連れて一時帰宅したベックだった。
「久しぶりだね、ウディ」
長らく書店の看板猫として愛されてきたサビ猫オランジェットだが、この当時は老齢に差し掛かっていた。推定十七歳。ふてぶてしかったブチ猫パネトーネは推定十五歳だった頃にこの世を去ったことを考えれば、サビ猫オランジェットは十分に長生きしているとも言える。腎不全といった病気もしておらず、とても健康的な猫だ。だが、とはいえ年齢が年齢。無理はさせられない。
そういうわけでサビ猫オランジェットは当時、午前中のみ出勤するかたちとなっていた。午後はベックに連れられて家に戻り、ブレナン夫妻が他の猫たちを連れて戻るまでの間、ベックと穏やかに過ごしていたのだ。
そんなこんなで家に戻ってきたベックは、ソファーに寝そべっていたシスルウッドを見つけるといたずらっぽく笑い、ソファーの傍にサビ猫オランジェットが入っているポータブルケージを置いた。彼女は一旦キッチンのほうに向かって手洗いを済ませてくると、またリビングルームに戻ってきて、猫のポータブルケージの扉を開ける。そうしてポータブルケージからサビ猫オランジェットがひょっこりと出てくると、ベックはその猫を抱き上げた。続けてベックは抱き上げたサビ猫オランジェットをシスルウッドの隣、ソファーの上に下ろす。
するとサビ猫オランジェットはのそのそと動き、ソファーに寝そべるシスルウッドの腹の上に前足を掛け、よいしょと飛び乗った。五㎏はあるだろう猫がドスンッと飛び乗ってくる衝撃に、油断していたシスルウッドはすっかり圧倒される。彼はグフッと跳ね起きると、腹に飛び乗ってきたサビ猫オランジェットを抱き上げ、肩に登るよう誘導した。
素直なサビ猫オランジェットは誘導されるままに、起き上がり姿勢を正したシスルウッドの肩をよじ登り、上がっていく。そうしてサビ猫オランジェットがシスルウッドのひどい撫で肩の上にひとまず落ち着いたのを確認すると、ベックは小さく微笑むと共に、シスルウッドと同じソファーに腰を下ろしつつ、こう言った。
「ウディったら、前に会った時よりも一段とひどい顔になってる。――なにかトラブルでも抱えてるの? もしかして、あの悪い意味で有名な友人絡みのトラブル?」
その後シスルウッドは、ベックに近況を伝えると共に愚痴をぶちまけた。自分はただ暗号式を作っただけで機密文書のことは何も知らないのに世間からは痛烈なバッシングをされ続けていること、縁を切ったはずのエルトル家が彼の人生に干渉を試みていること、ひとつの仕事が三ヶ月以上続いた試しがないこと、一年ほど前から豹変した義母が孫娘であるはずのテレーザを執拗に攻撃するようになったこと、それと疎遠になっている“悪い意味で有名な友人”についてアレコレと知人らから訊ねられて困っていることなど……――かなりの毒を吐き出したことだろう。
肩の上に乗ったサビ猫オランジェットを片手間に撫でながら、愚痴り倒した後にシスルウッドは大きな溜息を吐く。最後に彼が吐き出したのは、この言葉だった。
「社会に居場所を見つけることが、こんなに難しいことだとは思いもしなかったよ」
そうしてまた溜息を零してシスルウッドが肩を落とせば、より角度が急になった撫で肩に踏ん張りが効かなくなったのか、サビ猫オランジェットがたまらず肩から飛び降りた。サビ猫オランジェットはソファーの座面に降り立つと、次にシスルウッドの太腿の上に移動する。ベックはその様子を微笑まし気に見つめながら、先ほどシスルウッドが発した言葉にこう返した。
「あなたも、家族を連れてこっちに戻って来ればいいのに。ボストンに留まる必要なんてないんじゃない? 私は、そうしてくれたらすごく嬉しいし。ローマンとドロレスはもっと嬉しいはず」
ハリファックスに移る。ベックの持ち出した提案は一瞬、シスルウッドには魅力的にも思えた。
ここ十数年でハリファックスは様変わりしていた。先の大戦を機に観光業から捨てられた田舎、かつての思い出と共に余生を過ごしたい老人が集う街だったハリファックスにも遂に観光業が戻り、クルーズ船の経由地だった時代の栄光が戻りつつあったのだ。ついでに貿易港の機能も再開され、人も着々と増えていた。それに伴い、教育や文化施設も整備され始めている。定員割れにより廃止となっていた大学の幾つかも再設置されたとも聞いていた。
先のことも考えれば、悪くない選択かもしれない。一瞬、シスルウッドはそう思った。だが煌めいた希望は束の間のこと。次に瞬きをしたときにはもう消えていた。
「そうしたいのは山々だけど、色々と問題があってね……」
そう呟くシスルウッドの頭の中には、ネガティヴな感情ばかりが詰まっていた。太腿の上でくつろぐサビ猫オランジェットを撫でながら、仮初の微笑みを取り繕う彼だったが、その目元は緊張している。というのも、このネガティヴな感情はベックという存在によって起因されているものだったからだ。
ハリファックスを去りボストンを選んだシスルウッドは、ハリファックスにおいて“客人”という扱いであり、もう地元住民ではなくなっていた。ブレナン夫妻の息子“ウディ”のことを覚えている近隣住民はもう殆どいない。昔の“ご近所さん”の大半は、この十数年の間に引っ越したか死んだからだ。今は住民の大半が入れ替わり、新しいコミュニティが築かれている。シスルウッドの帰るべき場所はハリファックスに無かったのだ。
一方、ボストンを去りハリファックスを選んだベックは、すっかりハリファックスの地元住民として馴染んでいた。そしてブレナン家の近所に住む彼女は今、ブレナン夫妻から娘のように愛されているし、頼りにされていた。いうなればハリファックスこそ彼女の居るべき場所であり、帰る場所だったのだ。
そういうわけで、正直なところシスルウッドはこう感じていたのだ。かつて自分が座っていた椅子に今はベックが座っている、と。悪い言い方をすれば、居場所を彼女に盗られたという感覚を味わっていたのだ。
書店はベックが継ぐだろう。自分には介入する余地もない。だって、ここには自分の居場所なんてないのだから。――そんな卑屈な言葉ばかりが、この時の彼の頭の中ではグルグルと回っていた。だが彼の理性は弁えていた。ベックを憎むのは間違っているし、彼女は何も悪くないし、こうなったのは全て自分のせいなのだ、と。
「……」
子供だった頃、シスルウッドは大人たちの抱えた事情も考えずにずっと拗ねていた。連れ去られた自分を迎えに来てくれなかったブレナン夫妻を恨み、突っ撥ねた。そして一度たりとも、面と向かって彼らに言ったことはなかった。家に帰りたい、という本心を。保護観察官レーノン・ライミントンや運転手ランドン・アトキンソンといった第三者にその本心を打ち明けたことはあったものの、本当に言うべきだった相手にその願望を明かしたことはなかった。彼はブレナン夫妻と再会するたびに拗ねて、強がって、素っ気なく対応し続けていたのだ。
そのうちシスルウッドの性根はすっかり歪み、心は入れ替わって別人のようになった。冷えて醒めた理性と、煮えたぎる怒りの感情という二極分化された人間に変わったのだ。真人間らしい情緒も薄れた。そして彼は多くの人を見限り、同時に見限られるようにもなった。――ブレナン夫妻への愛着を捨て、彼らから心の距離を取ったのは他でもないシスルウッド自身だ。
そう。悪いのは他でもないシスルウッド自身だ。悪い方に転がる選択を故意に取り続けたのは彼なのだ。思わぬ誤解や突然のトラブルもあったが、そこで生じた乖離を引き戻す努力をしなかったのはシスルウッドだった。
シスルウッドが自ら望んで捨て去った場所に、偶々ベックが収まっただけのこと。そんな彼女に理不尽な怒りをぶつけるのは間違っている。それは超えてはならない一線だ。
「それよりさ、ベック――」
故に、彼はネガティヴな感情を彼は表に出さない。彼は視線をサビ猫オランジェットの頭からベックの顔へと移すと、一〇代の頃によくやっていたような挑発的な表情を作る。それから彼は舐め腐ったような声色でベックにこんなことを言った。「随分と丸くなったね、君。色々とあった割には」
「そういうあなたは、どんどんロシア文学の主人公みたいになってる。ツルゲーネフの『ルージン』って感じ」
シスルウッドの挑発に応えるように、ベックもまたパンクガールだった頃のような強気な笑みを見せつつ、そう言い返した。そしてこのベックが発したなんてことない言葉が、シスルウッドの弱っていた心にクリーンヒットする。
ツルゲーネフ作品に代表されるような十九世紀ロシア文学の主人公といえば“無用者”だ。ベックが例として上げた『ルージン』は、まさにその典型である。
頭は切れるし、弁も立つ。はるか先の未来を見ていて、壮大なビジョンを持っていて、立派な志だけはある。しかし地に足が付いていなかったり、行動力が追い付かなかったりで、何かと空回りをしがち。そんなわけで最初は周囲から「才気あふれる英傑」などと持て囃されるものの、最後には「言葉だけの胡散臭いペテン師」と揶揄されるようになる。そして最終的にヤケを起こし、ひとり孤独に死んでいく。――そんな人間性をロシア人たちは“無用者”と定義し、このテの主人公たちが悲惨な目に遭う小説をロシア文学を志すものたちは増やしていった。
そしてこの特徴、シスルウッドにも少なからず当てはまる。となれば、彼はもう笑うしかない。
「ハッ。無用者ってやつかい。……図星だなぁ、それ。思い当たるフシがありすぎるよ」
「でも、あなたはまだ大丈夫。人生の落伍者にはなってない。だって、あんなにも賢くて可愛い娘がいるんだから。家族も居て、友人も居て、孤独じゃないし。死ぬ理由はまだない。でしょ?」
シスルウッドが鼻で笑いながら発した自虐に、ベックは強気な笑顔を消す。彼女は同情するような表情を浮かべると共に、どこか羨望が滲む眼差しをシスルウッドに向けながら、そう言葉を返した。そしてこの時、シスルウッドは悟った。彼がベックを妬んでいると同時に、彼女もまたシスルウッドのことを妬んでいるのだと。
ベックの境遇とて、シスルウッドに負けず劣らず悲惨だ。彼女もまた、奸悪としか言いようがない実家を捨て、身一つで飛び出した人間だ。そうして彼女は新天地で一人の男と出会い、恋をして、家族を作ったものの、お腹を痛めて産んだ娘は手に負えない存在になり果てた。――その後、紆余曲折を経て家族をすべて捨て去る決断を下し、孤独に身を落とすこととなった彼女の悲憤とて凄絶なものだろう。
となれば、意見の食い違いこそあれ仲は良い配偶者が居て、聡明で思いやりのある子供も持っていて、ついでに素晴らしい友人も持っているシスルウッドのことを、彼女は羨ましく思っているかもしれない。それに、そんなシスルウッドが抱えている悩みは『仕事が見つからない』というもの。この悩みも、彼女にはちっぽけで下らないものにしか見えていないのだろう。
……そして俯くシスルウッドは溜息を零すと共に、瞼を閉ざす。それから彼は顔を上げることなく、ベックにこう投げかけた。
「セレニティーの件は聞いたよ。大変だったみたいだね」
するとベックは悲しさをにおわせながらフッと笑う。それから少し黙った後、彼女は深呼吸をし、姿勢を正した。
そうして始まるのは彼女のターン。シスルウッドが瞼を開き顔を上げ、ベックの目を見やれば、今度は彼女が俯き、語りだした。
「最初は『私の育て方が悪かった』とか『神に背いた私に与えられた天罰だったのかもしれない』なんて馬鹿なことを思ってた。でもあの子から離れてみて、よく分かった。あれは環境よりも血が勝った結果。あの子はサイコパスな義母にそっくりだっただけ。あの子には最初から良心が備わっていなかった、だから私がどう育てようと無駄だったのよ」
ベックは言葉を紡ぎながら、肩を竦め、そして手を組み合わせていた。そんな彼女の口から飛び出してきた『神に背いた』『天罰』という言葉に、シスルウッドの表情までもが強張る。
似たような環境で育ったからこそ、シスルウッドには分かった。幼少期に刻み込まれた呪い、それが今もベックの人生に少なからず影を落としているのだなと。だが幸いにも、彼女はその呪いに取り込まれるつもりはないようだ。事実を分析して、仮説を組み立てて、幼少期に植え付けられた怯えを打ち砕こうとしているらしい。
「血が勝つ、か……」
そう呟くシスルウッドは表情を殺し、無表情になるよう意識する。気を抜けばすぐに険しい顔になってしまいそうな気がしたからだ。
その一方で目を瞑り俯くベックは、その口許にちぐはぐな微笑みを浮かべている。不自然な穏やかさを纏うベックは、このように言葉を続けた。
「セレニティーも、あの書店に遊びに来たことがある。でもあの子は、今朝のテレーザみたいに振舞わなかった。テレーザのように猫たちを優しく撫でたり、猫じゃらしで正しく遊んだりしなかったし。他の子供たちに気遣いをしたり、高いところにある本やおもちゃを取ってあげたり、同じ立場で仲良く遊ぶこともしなかったし、年下の子の面倒を見たりなんてこともしなかった」
「……」
「セレニティーは猫たちから嫌われてた。だってあの子は、猫じゃらしで猫たちを乱暴に叩いたりしてたから。それに彼女は他の子供たちから物を奪ったり、他の子供たちを絵本で殴りつけたり、突き飛ばしたりして怪我を負わせたりもした。とがった色鉛筆で他の子供を、それも目を狙って刺そうとしたこともある。あの時は、気付いたローマンが咄嗟にセレニティーの手をはたいて色鉛筆を落としたことで何も起きずに済んだけど。もし誰も気付かなかったらと思うと……」
「あのローマンが手を上げたのか? そりゃ信じられないな」
「でも、あれは正当な行為だった。セレニティーは納得しなかったけどね。自分が被害者みたいに大泣して、あれからローマンのことを敵視し始めたし」
「そりゃ……なんというか、その……」
「クソガキ、でしょ」
「そう、クソガキだ」
「私も今はあの子のことをそう思ってるから、後ろめたく思わなくていいよ。あの子はクソガキでサイコパス、それが正しい評価だから」
「…………」
「だから、私はあの子を治療につなげたかった。でも義両親と夫がそれを嫌がったんだ。セレニティーを障害者扱いするのか、って。――ツァイ家じゃサイコパスの義母が理不尽に怒鳴り散らしているのが日常だったから、セレニティーが異常だって誰も思わなかったみたいでね。夫も、そうだった。だから縁を切るしかなかった」
「元夫、だろ?」
「そうだった、元夫ね」
「……」
「はぁ。……テレーザみたいな子をきっと“天使”って言うんだろうね。子供は多く見るけど、でもあんなに優しくて賢い子は他に見たことがないよ。きっとパパとママがとても良かったのね」
ベックは言いたいことを言い切ってスッキリしたのか、テレーザを褒める言葉を最後に言うと大きく体を仰け反らせ、ソファーの背もたれに身を預けた。そして彼女は再度深呼吸をすると目を開け、無表情のシスルウッドを見やり、裏は無さそうな微笑みを見せた。
その微笑みにつられて、シスルウッドが着用していた無表情の鎧も解けていく。苦笑いを浮かべるシスルウッドは、ベックの思わぬ褒め言葉に正直な本音を返すのだった。
「うちの子はセレニティーとは真逆でね。至って正常な普通の子なのに、義母から異常扱いされてるんだ。白狼さまの声が聞こえないなんてロバーツ家に相応しくない、出て行け、って」
「……」
「あの子の逃げ場は確保するようにしているけど、この措置は付け焼き刃にしかなっていないような気がする。それにキャロラインも自分の母親に何も言い返さないから、娘はどんどん不信感を強めてて。家に帰りたがらないんだよ、最近は。ここ数か月、実家……というか、バーンズ・パブに泊まる日が増えてるんだ」
「あなたはどうなの、ウディ」
「あぁ、僕? そりゃ、まあ、キャロラインのことは愛してる。今も彼女のことは変わらず好きだ。けれど今は離婚を検討している。娘は僕が一人で育てた方が良い気がしてて……」
「なら尚更、こっちに帰ってきなよ。ね?」
少しだけ目を輝かせながら、やや前のめりになりつつベックはそう言う。その一方でシスルウッドは無表情に戻っていて、彼は肝が冷えるような感覚を体感していた。
離婚。オプションのひとつとして頭の片隅に留めておきながらも、しかし本気ではなかったその言葉。それが今、さらりと会話の中で飛び出してきたこと。そして離婚という言葉を聞いた時、即座に輝いたベックの目。シスルウッドには、それらが気味悪く感じられていたのだ。
娘テレーザと二人、長距離ドライブを経てボストンに帰り着いた、その翌日のこと。元気いっぱいなテレーザを学校に送り届けた後、シスルウッドが向かったのは友人クロエ・サックウェルとの待ち合わせ先である公園だった――彼女の夫であるデリック、彼から借りたキャンピングカーを返却するためである。
彼が公園敷地内の駐車場にキャンピングカーを停めたときには既にクロエが公園に到着していて、彼女はエンジンが停止したのを確認するなり車に近付き、運転席横のドアをコンコンッと外からノックした。シスルウッドは彼女を車内に招き入れると、抜いた車の鍵と共に帰路の途中で買ったお土産のチョコレート菓子の箱詰め(ボンボン・ショコラ、コンフィ・オランジェットの二種類のアソート)を彼女に渡す。そうしてキャンピングカーの返却を果たした。
その後、二人は社内の居住スペースで少しばかり話し込んだ――というか、クロエに話を聞いてもらっていた。
話したことは、主に娘テレーザのこと。初めてである車での長距離移動をテレーザは楽しんでいた様子であったことや、デリックが車の中に積んでいたビデオ(彼の経営するヴェニューで行われた公演の録画映像を編集したもので、その中にはシヴ・ストールバリの後ろで演奏するシスルウッドの姿もあった)をテレーザが楽しんで観ていたこと、帰りに立ち寄ったポートランドで出会ったジャガイモ入りドーナツをテレーザがえらく気に入ったことなど……――まるで妻キャロラインとの会話であるかのような調子で、あれやこれやとクロエに話したことだろう。
クロエは意味深な笑みを浮かべながらも、ウンウンと話を聞いてくれていた。というのも彼女は気付いていたのだ。子煩悩なパパという顔を無理に作って、今にも飛び出してきそうな愚痴を必死にこらえているシスルウッドの本心に。
そんなこんなで、テレーザの話に一区切りがついたところでクロエは別の話題を切り出してくる。仕事の話に移ろっか、という前置きをしたあと、彼女はこう言った。
「本当に不思議なんだけどさー。アンタの名前は伏せたうえで、アンタの能力とか経歴を教えると色んなとこが興味示して『彼を紹介してくれ!』ってコールくれんのに、名前を明かした途端にどの企業もスッて引いていく。シルスウォッド・アーサー・エルトルって名前は当然ダメだけど、もうシスルウッド・ロバーツって名前のほうも使えないみたい。旧姓のバーンでも警戒されてて無理。だから名前を変えたら? ウディ・ブレナン、それにしちゃえよ」
「……」
「それか、国外での就職を検討してみたら? 英語圏を狙って探してみるのも悪くはないと……」
求職に関する話題になった途端、シスルウッドの顔は露骨に翳った。そしてクロエは、そこを見逃さない。小突いて刺激を与えた結果、彼が我慢して押さえ込んでいた毒が喉元までこみ上げてきたのだなという気配を彼女は感じたのだ。
ゆえに彼女は、彼の心に楔を当てる。子煩悩なパパ、そんな作り物の仮面を叩き割るために。
「ねぇ、アーティー。言いたいことがあるなら言えば? 今日はあんたの愚痴を聞いてやる日にしてやらなくもないよ」
クロエが楔をハンマーで叩き、強く打ち込んでみれば、仮面はあっさりと真っ二つに割れてしまう。シスルウッドの目からは光さえも完全に消え失せ、すっかり暗く淀んだ本音が剥き出しになった。そうして取り繕うことをやめた彼は、正直に言いたいことを放つ。
「……最近、自分がどうしたいのかが分からないんだ。娘が愛おしくて、その成長を見守ることがとても幸せである反面、それでも目が覚めると必ず死ぬことばかりを考えてるし。キャロラインのことをまだ愛しているのに、にも関わらず彼女と別れることばかりを考えてるんだ。それに久々に会った友人から変な視線を向けられて、混乱もしてる」
「友人って、女性?」
「ああ、そうだ。女性」
「へぇー……」
「……友人と言えばペルモンドだ。ペルモンドのことを頭から追いやりたくて堪らないのに、あいつのことが気掛かりで仕方ないし。それから仕事のことを考えるのが嫌になってくる。就職先を探さないといけないとは思っちゃいるけど、本心じゃあどうせ無理だと諦めてもいてさ。あぁ、そうだ、それに人生の中で今が一番、アーサー・エルトルっていう存在に対する憎悪が強まってて。ヤツの息の根を止めてからじゃないと安心して夜も寝られない……!」
言葉を発するごとに撫で肩がガクンと下がり、首も垂れさがっていくシスルウッドの様子を見ながら、しかしクロエは妙にニコニコとしていた。そして上機嫌そうに微笑みながら、彼女は穏やかならざる慰めの言葉を掛ける。
「殺しはダメ、刑務所行きはマズいって。家でこっそり呪うぐらいに留めておきなよ」
だがその言葉の直後、クロエはサッと笑顔を消した。彼女は眉間にグッと力を込めると、ジトーっとシスルウッドを睨み付けた。それから大袈裟な溜息を吐いたあと、クロエはシスルウッドにこんなことを言う。「はぁ~。あんたって本当に面倒くさい性格してるよ」
「それは、その、申し訳ない。こんな毒を聞かせるつもりは――」
「いや、そうじゃなくて。あんた、友人としては最高に面白いやつなんだよ。でも伴侶としてはサイアクな男だ。異性の友人との間の距離感が狂ってるし。あんたの言動じゃ変な視線を送られて当然。キャリーは選ぶ男を間違えたね」
娘の話から仕事の話、次いで愚痴となった後に、急に飛び出してきた斜め上の非難。これをシスルウッドは咄嗟に呑み込めなかった。
突然妙なことを言い始めるクロエをシスルウッドが凝視すれば、クロエは察しの悪い彼に呆れ、肩を竦める。かなり険しい表情に変わったクロエは、元・精神科研修医らしいことを言うのだった。
「普通の人間は社会と交わる過程で段階的に異性と同性の差異を認識して学習し、対応の際の態度や言動を改めるようになる。それが起こり始めるのが八歳ぐらいかな。でもあんたは恐らくだけど軟禁みたいな生活が影響して、子供の頃、他者と積極的に関わることができなかったんじゃない? それで異性同性の区分が曖昧な状態のまま、ここまで来てるって感じがする。同い年ぐらいのお友達と遊べればそれでいい、相手が誰であろうと気にしないっていう三歳児と同じジェンダー感覚のまま成長できてないんだよ」
「君の目には僕がそう見えてたのか? 三歳児に?」
「社会規範といった知識や情報で埋め合わせているから『社会的に正しい紳士としての振る舞い方』は最低限できているけど、無自覚的な言動まではカバーできていない。そう評価してる。今だって私がどうしてこんな指摘をしているのか、その意味が理解できてないでしょ?」
異性同性の区分が曖昧で認識が三歳児レベル、つまり普通の人間じゃない。――そんな予期せぬ宣告にシスルウッドは胸を衝かれた。愕然とする彼は、クロエが最後に発した言葉に頷くという反応を見せる。実際、彼にはこんな指摘をされている理由が分かっていなかったからだ。
するとクロエは竦めていた肩をストンと落とし、重たい溜息を零した。続いてクロエはしかめっ面を解いて真顔になると、淡々とした声で解説をしていく。彼女はこう言った。
「娘のことを女友達に明け透けに話して、挙句『妻と離婚するかも』っていう匂わせまでしてる。これ、男同士なら何の問題もない会話だけど、相手が女だと話は違ってくる。普通の女なら『もしかして私に気があるのかも』って感じるよ」
「――なんで?!」
「なんで、って言われても。そういうもんだ、としか言いようがないね。とにかく、普通の女は誤解する。誤解されて当然の言動を、あんたは今、私にしてるの。――私はあんたの性格をよく理解してるから、そういう誤解はしない。でもそれは私が普通の女じゃないからってだけ。だから私やジェニファーなんかと話す調子で他の女性たちと接しない方が良い。どんなに親しかったとしても、一線は引かないと。世の女がみんな、私やジェニファーみたいに人の本性を見抜く目を持ってるわけじゃないんだからさ」
「…………」
「だから言動には注意しな。男に向ける顔、女に向ける顔、それをちゃんと使い分けないと。あらぬ誤解が生じてトラブルが起こる。とりあえず女性向けの恋愛小説とかを読んで、一般的な“女らしい女”の思考回路とかを勉強してみたら? 私もそういう媒体から行動予測のヒントとかを得てるからさ。清廉で埃っぽい古典ばっかりじゃなく、あんたもそういうのを読んでみるといいよ」
クロエの言葉を聞き、ひとまず自分の言動に問題があることを認識したシスルウッドだが、しかし彼は完全に理解できていたわけではなかった。
異性には優しくしておけばいい、同性は少しぐらいなら雑に扱ってもいい。そういう風に顔の使い分けは出来ていたと、少なくとも彼自身は思っていたからだ。だが思い返してみれば、できていなかったのかもしれない。
クロエに接するときと全く同じ態度で、男性であるユーリにも対応していた。そしてユーリに接するときと全く同じ態度で、女性であるジェニファーとも関わっている。そして先日、ベックにもジェニファーらと接するときと全く同じ態度を適用し、対応していた。つまり、これがクロエの言うところの『誤解を招く言動』なのかもしれない……?
「…………」
三歳児と同じジェンダー感覚。クロエが発したその言葉が、呆然とするシスルウッドの心にじわじわと迫ってくる。三歳児、三歳児、三歳児……――そんな言葉が反芻されるのは、大変屈辱的な気分を彼にもたらした。
すっかり気落ちするシスルウッドの姿を見て、意地悪な女王様気質のクロエは強気な笑顔を取り戻す。そうして彼女はいつも通りのトーンに戻ると、パンッと手を叩いて鳴らした。続いて彼女はシスルウッドに違う話を持ち掛けるのだった。
「あっ、そうそう。話は戻って、仕事の話なんだけどさ。デリックが、あんたを雇うのも悪くないかもって言ってたんだよ」
「へぇ、デリックが?」
「新規顧客の開拓を強化したいんだって。ほら、あんたって『人懐っこい性格』を演じることに長けてるし。それに怖いもの知らずで大胆なところがあって、あと気難しい技術者たちとも仲良くできるし、彼らの言葉を少しぐらいは理解できるでしょ。電子楽器メーカーの営業職、あんたに向いてると思うんだけどねー」
「……」
「それで、デリックが明日こっちに帰ってくる。翌朝にはオーストラリアに戻っちゃうんだけど。彼があんたと話したいって言ってたんだ。勿論、会うよね?」
デリックが創業した電子楽器メーカー、そこに加わるということ。それはつまり、慣れ親しんだ北米を捨てて外国に移住することを意味する。クロエの提案に対して首を縦に振り、無言で頷いてみせるシスルウッドは「そうなるのも悪くはないか」と考えていたが、しかし彼は同時に一抹の不安を抱いていた。
霊能者としての務めだとかで国内外を頻繁に移動し、去り人探しや物探しなどでかなりの額を稼いでいる一方で、頑なに移住を拒み「ボストンを離れるつもりはない」と言い張っている妻キャロラインのこと。彼女が自分と共に来てくれるのかどうか、それが気掛かりだった。
そうしてシスルウッドはクロエからの提案を持ち帰り、キャロラインと話し合ったが、しかし話は予想した通り平行線を辿るばかりだった。
ボストンには果たさなければならない一族の使命がある、と言い張る妻キャロラインだったが、けれども彼女が「果たさなければならない一族の使命」の詳細を明かすことはなかった。そのときが来れば白狼さまが私たちに教えてくれる、だからボストンを離れることはできない。キャロラインはその一点張りだ。
挙句、妻キャロラインに加勢するように義母カレンまで話し合いに乱入してきた。義母はシスルウッドのことを「部外者」やら「黒狼と接点を持つ邪悪な男」と罵り出し、極めつけに「欠陥品の子供を連れて、出て行け!」と騒ぎ立てる始末。
義父ショーンと一緒に別室でジグソーパズルを楽しんでいたはずのテレーザはその言葉を聞いてしまい、大号泣し始めた。可愛い孫娘がショックから泣き出せば義父も怒り出す。義父は義母に文句を言うために話し合いに殴り込んできて……――と、その晩は散々なこととなってしまった。
『ボビーと離れるのはイヤ。でもおばあちゃんと“白狼さま”が一緒にいるのはもっとイヤ。だからパパと一緒に外国に行きたい。でも、でも、ママも一緒じゃなきゃヤダ……』
テレーザは心細そうにコアラのぬいぐるみを抱きしめながら、子供部屋の照明を消そうとするシスルウッドにそんなことを伝えたあと、ベッドに潜っていく。……その光景を遠巻きに見ていたキャロラインは少しだけ心を変え、ある決断を下した。
ただ、その決断は他国への移住ではない。シスルウッドにとっての義母、キャロラインにとっての実母を家から追い出すことだった。
母はもしかすると若年性認知症なのかもしれない、だから感情がコントロールできなくなって暴言が増えているのでは? ――キャロラインはそう考え、精神科に連れて行くことを決断したのだ。
そしてこれは、確かに有効な解決策だった。シスルウッドとテレーザの二人が義母から恨みを買うことになったが、しかしこの選択によってロバーツ家の不穏は収束。
精神科を受診した結果、統合失調症との診断が下った義母は投薬治療を余儀なくされた。その後、義母の性格は不自然なまでに丸くなったものの、段階的に物忘れが激しくなり、いわゆる認知症のような状態になった。次第に家族の手に負えなくなった義母は認知症患者向けのケアハウスに入所することに。この決定に義母は激しい怒りを見せたが、しかしテレーザは大喜び。
その後テレーザはグレることなく真っ直ぐ成長し、シスルウッドの頭から離婚の文字も消え、キャロラインも次第に“白狼さま”を拒むようになり、カリカリすることも多かった義父も元の穏やかさを取り戻し、平和な家族が戻ってきた。そしてテレーザには八歳下の弟が出来て――
……と、時間軸は巻き戻って。クロエに車を返却し、迎えた翌朝のこと。シスルウッドは娘テレーザを学校に送り届けた後、そのまま国際空港へと向かった。クロエから教えられた到着ロビーで彼がデリックを待つこと一時間、見覚えのある顔が人混みの中から浮かび、そしてシスルウッドに手を振ってきた。
小さなスーツケースを左手で引き、右手にはやや大き目な紙袋を提げ、黒いバックパックを背負うその人物――抱えていた借金も返済が完了し、良い暮らしを心置きなく謳歌していたせいで体重が増加しており、加えて日焼けサロン通いのお陰で肌が赤くこんがり焼けていて、すっかり焼き豚のような有様になっていたデリック・ガーランド――は右手を紙袋と共に掲げると、人を避けつつシスルウッドのほうに駆けてくる。
そうしてシスルウッドの前にやってきたデリックだが。彼は右手に持つ紙袋をシスルウッドにかざすと、気まずそうな苦笑いを浮かべる。というのも、その紙袋が若干クタッとなっていたからだ。更に紙袋の中に入っていたのは子供用のお土産と思われるラッピング袋が二つ。そしてラッピング袋は無残にも乱雑に破られていて、中身である茶色いモフモフとしたぬいぐるみの頭を外から容易に見ることができる状態になっていた。
配偶者であるクロエから「クズ野郎!」と蔑まれることも多いデリックだが、子供用のお土産を台無しにしてしまったことに罪悪感を覚えるだけの良心は持っていた模様。そんなわけでデリックは、お土産がこんな状態になってしまった理由を、移動がてらシスルウッドに語るのだった。「だいぶ待たせちまってすまない。実は検疫に引っ掛かったんだ……」
「検疫に? 何を持ち込んだんだ、お前は」
「いや、俺は悪くない。無実だ」
「本当に? ニトライトでも持ち込んだんじゃないのか?」
「いいや、違う。探知犬が誤解したんだ。どうもこのぬいぐるみに何かしらのニオイがついてたみたいでな。それで生体か薬物を持ち込んでるんじゃあないのかって睨まれて、荷物を全部ひっくり返されたんだ」
「へー。一応、信じてやるよ」
「――で、ニトライトだって? なんでお前がそんなもんを知ってるんだ」
「デリック、お前のせいでそんなもんを認知する羽目になったんだぞ、こっちは。お前が放置していくゴミや不用品を処分す――」
「分かった。分かったよ、アーティー。あの頃は本当に迷惑を掛けた、申し訳なかった!」
検疫に引っ掛かったことを予想外の観点からいじられ、しどろもどろなデリックを横目で見ながらシスルウッドは人の悪い笑みを浮かべる。そんな品のない会話をしながら並んで歩く二人が入るのは空港内のカフェスペース。薄暗い店内にある奥まったテーブル席を指定し、二人はそこに着座した。
長いフライトを終えて空腹だというデリックは、ジェノベーゼパスタとネルドリップコーヒーを注文。一方、特に飲食をしたい気分ではなかったシスルウッドは何も頼まなかった。
そうして注文したものが届くのを待つ間、デリックは席の脇に置いた荷物をガサガサと漁る。まず彼はクタクタになった紙袋をシスルウッドに渡すと、苦笑と共にこう言った。
「これが検疫で疑われた生体動物だ。クアッカワラビーってやつ。テッサ、それとユーリんとこのガキにも渡しといてくれ」
「ボビー、だ。そろそろ名前を覚えろ」
紙袋を受け取りつつ、シスルウッドは指摘を入れる。とはいえデリックは「顔も性別も知らない子供の名前なんか覚えられるわきゃないぜ」と笑い、軽く一蹴するのみ。デリックのその発言に、ユーリとデリックの不仲さをシスルウッドは感じる。お喋りなクロエさえも、夫であるデリックにはユーリやその家族のことは何も話していないのだなと察した。
そんなことを思いながらもシスルウッドは適当に笑みを取り繕い、紙袋を受け取る。続いて彼は紙袋の中に入った茶色いぬいぐるみ二つと、無残に破かれたラッピング袋を見た。そして彼は考える。帰り道で新しいラッピング袋を買うべきか否かを。
新しく包み直してから子供たちに渡すべきか、いっそ剥き出しのぬいぐるみのまま渡した方が良いのか。……少し悩んだ末、彼は決めた。剥き出しのぬいぐるみのまま渡してしまえばいいか、と。
そういうわけでひとり納得するシスルウッドは、自身の膝の上に紙袋を置く。続いて彼は紙袋から目を離し、目の前に座るデリックの顔を見るのだが。しかしデリックはシスルウッドではない、別の何かを見ていた。
デリックが見ていたのは、やや離れた席に座る初老の男性が広げていた新聞、その一面。そこにデカデカと掲載されていたのは、昨日あった極左政治家の過激発言に言及した記事だ。北米合衆国が執り行う重商主義的な貿易体制を痛烈批判し、加えて「富を独占するビリオネアどもから富を強制的に剥ぎ取り、国民へと返還する法を整備する必要がある!」と発した極左政治家の言葉を紹介したうえで、記者は「先の大戦で犯したしくじりのせいで敵国だらけになっている現実がまるで見えていないデイドリーム気質な社会主義者」だとして政治家をチクリと刺している。そんな内容である。
ただ、新聞を見てデリックが思い出したのは極左政治家の顔ではなく、別の人物であったようだ。そしてデリックはシスルウッドに視線を移すと、声を潜めつつ、こんなことを訊ねてきた。
「……そういやバッツィはえらく荒れてるみたいだが。ありゃ大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃないだろうねぇ。まあ、あいつとは縁を切ったから、近況とかは知らないよ。だから僕にあいつのことは聞かないでくれ」
またそれか、とシスルウッドはウンザリしながらそう言葉を返す。バッツィ、つまりペルモンド・バルロッツィに関する話はしたくないと、彼はデリックにそう突き付けたのだ。
けれどもデリックは完全にその意図を汲み取ってはくれない。残念がるように眉尻を下げるデリックは、テキトーな笑みを取り繕うシスルウッドにこう投げかけるのだった。「一番バッツィと親しかったはずのお前が、まさか絶交するなんてな。意外だよ」
「誰が一番だったのか、そんなのは当人にしか分からないだろ」
「そうか? 俺の目には、バッツィはお前を一番信頼しているように見えていたが」
「まあ、そうだな。あいつは信頼していただろう。だがこっちは真逆のことを感じている」
笑みは崩さないまま、シスルウッドが褪めた目をデリックに向けつつそんなことを言えば、流石のデリックも意図を理解し、問題だらけの友人の話題を打ち切った。
デリックは生唾を飲むと、緊張を誤魔化すように咳ばらいをひとつする。その後、次の話題を思いついたのか、彼の表情はパッと明るくなった後、急に照れくさそうな顔になった。
なんとなく気持ち悪いデリックの表情変化をシスルウッドが冷たい目で観察していると、デリックはその視線に気付き、途端に真顔になる。そしてデリックは誤魔化しの咳ばらいを再度すると、ガチゴチに緊張した様子で言った。
「まっ、それはそうと、俺がこっちに居ない間、クロエの相手してくれてありがとな」
「なんだか含みのある言い方だな。言っておくが――」
「勿論、分かってる。お前のおかげでクロエもかなり儲かってるらしいし、そういう面でも感謝してるよ。アーティーはすぐクビ切られるけどすぐ次が見つかるし、クビ切られたとしてもコッチに返済義務が発生しないパターンだから嬉しい、って言ってたぜ、あいつ」
「そうか。それなら、まあ、良かった……」
「それにクロエは高慢ちきだが、俺みたいなクズじゃない。自分を誇れなくなるような行為はしない高潔な女だ。……あと、あいつは男に興味がないしな」
一瞬黙り、言い淀んだ後にデリックが発した言葉に、シスルウッドは一瞬だけ固まった。が、その言葉にそこまでの驚きは得ない。腑に落ちる感覚がしていた。
ベックと会話をしていた時に感じた居心地の悪さが、クロエと居る時には感じない理由。また、クロエが彼女自身のことを「普通じゃない女」と評していたワケ。それが今のデリックの発言により解明されたような気がしたのだ。
「……なるほど、そういうことか……」
さほど驚かず、納得するような様子のシスルウッドに、むしろデリックの方が驚いているような素振りを見せる。と同時にデリックは、この奇妙で曰く付きな友人にならもう少し踏み込んだ話をしても良さそうだと判断した。
緊張した表情は維持しながらも少しばかり表情を緩くするデリックは、様子を伺うようにシスルウッドを見る。それからデリックは言葉を探りながらゆっくりと話し始めた。
「実を言うとだ。俺とクロエは“余り物同士でくっついた”ってな感じでさ。お互いに恋愛感情なんてハナから持ち合わせてなかったんだ。クロエがずっと見ていたのはエリカだけで、俺がずっと見ていたのもジャック……というか、バッツィだけだ。そのうちエリカとバッツィがくっついて、成り行きで俺とクロエも一緒になっただけ。だから仮にお前があいつを奪ったとしても俺は――」
途中までデリックの話を平然と聞いていたシスルウッドだが、途中で出てきた名前とその次に続いた名前に眉をひそめる。
かれこれ一〇年ぶりに聞く名前、ジャック。そしてジャックという人物と、ペルモンドという別人を等号で繋げるようなデリックの発言。
「――待て。ジャックだって? あの、便利屋ジャクリーンのことか?」
確認のためにシスルウッドが問うと、デリックはぎこちなく頷く。「ああ。お前も覚えてるだろ、ジャックのこと」
「勿論、あいつのことは覚えてるさ。強烈なやつだったし、あいつのおかげで食中毒騒動に巻き込まれずに済んだ。忘れるわけがない。だが、急にどうしてジャックの名が?」
「俺はジャックの正体がバッツィだと見当を付けていたんだ。ケーブルの束ね方がまるで同じだったし、笑顔がまるで同じだったから。あと、傷痕の位置や数が完璧に同じで……――まさか、そう思ってたのは俺だけだったのか?」
便利屋ジャクリーンとペルモンドを同一人物だと考えている様子のデリックはそのように説明したが、しかしシスルウッドにはその説明を受け止めることができなかった。
表情が険しくなっていくシスルウッドは、気まずそうな引き攣った笑みを浮かべるデリックをジッと見る。それから彼はデリックに、彼の知っている事実を伝えた。
「残念だが……――一〇年前にジャックは死んだ。殺されたんだ。同一人物なわけがない」
殺された。その言葉を聞くデリックは驚きから目を見開き、そして顔を蒼褪めさせる。続けてデリックは僅かに声を震わせながら、シスルウッドに問うた。「ど、どうしてお前が……それを知ってるんだ? ジャックが、その、殺されたことを」
「事件の直前、ジャックともう一人の女性がうちのパブを訪ねてたんだ。事件が起きたのは、その帰路でのこと。帰路で二人は暴漢に襲われて、ジャックは暴漢と相討ちになり、もう一人の女性は暴発した弾丸が急所に当たり、死んだ。……店を訪ねてきた刑事から、そう聞いた」
「ジャックが、あのパブに? なぜ?」
「女性のほうが、うちの両親と接点があったんだ。彼女はジャックにとって一番の太客で、彼は彼女に付き従う用心棒のような立場にあった。それであの日、ジャックも一緒に来ていた。それだけのことだ」
「その女とお前の両親との接点ってのは、具体的に何だ?」
「旧知の間柄だとしか聞いてない」
デリックが激しく動揺していた一方で、シスルウッドは気味が悪いほど落ち着いているように見えていた。シスルウッドは冷静な様子を装いながら仔細を省いた事実だけを淡々と伝えているが、その一方で彼の目はわずかに泳いでいる。彼もまた少なからず動揺していたのだ。
というのも、ジャックとペルモンドを同一人物だと断定した時のデリックは、かなり確信を持っている様子だったからだ。それに根拠がケーブルの束ね方と笑顔の特徴だけであったのならば、シスルウッドは『単に似ているだけ』だと切り捨ていただろう。だがデリックはこうも言っていた。傷痕が完璧に同じだ、と。デリックとペルモンドの間にあった関係を知っているだけに、シスルウッドの心にその言葉が引っ掛かったのだ。
そしてシスルウッドは昔に聞いた話を思い出す。ジャックが死んだと知らされたあと、同時に知った『遺体安置所に“長い黒髪を持った、黒いスーツ姿の女”がジャックの遺体を持ち去った』という話を。
思えば、あれからジャックの遺体が見つかったという話は聞いていない。そして一〇年前の当時は、ジャックの遺体を盗み出したとされる女にまったく心当たりがなかったシスルウッドだが、この時の彼には思い当たるフシがあった。
マダム・M、と呼ばれている都市伝説のような存在。ペルモンドの周りにちょくちょく現れて、そしてロバーツ家にも時折顔を出すその人物。煙のように消えては現れる、神出鬼没な彼女。
「なあ、デリック。馬鹿げたこと、言ってもいいかい?」
シスルウッドは最初こそ、デリックの発言にまさかと感じていたが。次第に繋がっていく点と点に気付き、彼の顔からも血の気が引いていく。
当時、既に“ペルモンド・バルロッツィ”と呼ばれている男が人間でない怪物である可能性について勘付き始めていたシスルウッドであったが、明確に意識し出したのはこの瞬間だっただろう。
「…………」
デリックの直感が正しく、そしてシスルウッドが見聞きした情報も正しいのであれば。ジャックは死んだが、彼はペルモンドとしてまた息を吹き返したことになる。遺体安置所に運び込まれた体が、また立って歩くようになったと――
「言うだけなら、まあ……」
遂に指先までもがフルフルと小刻みに震え始めたデリックは、小声でそう答える。その答えを聞いたシスルウッドは顔を俯かせると、くぐもった声で呟くように言った。
「……お前も、ペルモンドと関わるのは辞めろ。縁を切れ。あいつは普通の人間じゃないんだ」
シスルウッドはそう言い終えると、そのまま顔を上げることなく立ち上がる。それから彼はデリックに背を向けると、椅子の下に置いた紙袋を回収した。その後、彼はこれだけを言うと、店から立ち去っていく。「ごめん、気分が悪い。帰るよ」
「待て、アーティー。本題がまだ――」
デリックは引き留めようとするが、しかしシスルウッドはその声を無視して歩いていく。背も高く歩幅も広いシスルウッドが去っていく速度はあまりに早く、デリックも数秒で引き留めることを諦めてしまった。そしてデリックは椅子に深く腰を据え、腕を組むと小声でボヤく。
「……あの野郎、急にどうしちまったんだ……?」
友人を仲間として引き入れるべく、交渉をするために故郷へと戻ってきたはずが、その友人が関係のない話題で機嫌を損ねて帰ってしまった。これは確実にクロエにドヤされる案件である。
――そんなことを考えるデリックだが、一方で彼もまたシスルウッドが「気分が悪い」と言った理由に気付いていた。
ペルモンドという存在。そしてクロエが「アーティーを説得して。彼をボストンから連れ出してやって」とデリックに頼んできた理由。これらにデリックもまた何とも言えない胸騒ぎを覚えていたのだ。
時代は進んで四二八九年のこと。気難しい技士装具士との会話のあと、イザベル・クランツ高位技師官僚はアバロセレンに関するレポートを超特急で作成していた。そして翌朝、彼女はASI長官サラ・コリンズにそれを手渡したのだが、しかし受け取ったASI長官サラ・コリンズは気まずそうな表情を浮かべていた。
というのもイザベル・クランツ高位技師官僚が示した仮説は、半世紀近く前にASIが既に掴んでいた話。人間が思い浮かべるイメージに反応してアバロセレンがその形態を変えるという情報は、特務機関WACEから提供を受けて把握していたのだ。しかし、その事実をASI長官サラ・コリンズはイザベル・クランツ高位技師官僚に伝えることはできず……――サラ・コリンズ長官は苦々しい思いをさせられていたのだ。
そうしてイザベル・クランツ高位技師官僚が帰っていった後のこと。彼女の送迎を終え、ASI本部に戻ってきた彼女の護衛係ラドウィグは上司からの指示を受け、最上階の長官室へと向かったのだが。そこでラドウィグを待っていたのはサラ・コリンズ長官と、以前の上司マダム・モーガン、それから血液透析器と思われる大きな機械だった。
音を立てることなく静かに開閉する三重に入り組んだ分厚い鋼鉄の扉の先、大きな黒革の椅子に居心地悪そうに座っていた小柄な長官はひとつ咳ばらいをしたあと、ラドウィグに「そこの椅子に寝なさい」と指示を出した。長官が指し示した椅子は、血液透析器のすぐ隣に置かれていたカウチ。つまり、人工透析を受けろと命令されたわけである。
上司、それも長官からの命令とあれば仕方がない。そう判断したラドウィグはジャケットを脱ぐとシャツの袖をまくり、大人しくカウチに横たわって左腕を差し出す。彼は理由不明の人工透析をひとまず受けることにした。
「変な気分ッスね、健康体なのに人工透析を受けるって。けど、どうして急にこんなことを?」
透析監視装置が絶え間なく鳴らす、ゴー……ゴー……という低周波の音に眉をひそめながら、ラドウィグは脇に立つマダム・モーガンに問う。すると仁王立ちで腕を組むマダム・モーガンはこのように答えた。
「あなたたちの行動すべてが“コヨーテ”に筒抜けだった。だからその原因を断ち切っているのよ。アレックスにも今朝、これを受けてもらったわ」
マダム・モーガンの答えを聞き、ラドウィグはすぐに“原因”を察した。それはかれこれ二年前の出来事である。
アルフレッド工学研究所に白昼堂々と侵入してきたアレクサンダー・コルトが、当時の所長ペルモンド・バルロッツィの頭に銃を突き付けたあの日。いち研究員でしかなかったラドウィグは、野蛮人アレクサンダー・コルトに命じられるがまま彼女に付いていくしかなかった。所長を殺されたくなけりゃアタシと一緒に来な、と怒鳴る彼女にあのときの彼は抵抗することができなかったのだ。
そうしてラドウィグは拉致され、特務機関WACEという場所に押し込められることとなったわけだが。すべてペルモンド・バルロッツィが仕組んだ小芝居だと知って愕然とした直後、ラドウィグはある処置を受けさせられた。それは『サー・アーサーの血を入れられる』というもの。
不気味に淡く発光する蒼い血が、管と針を介してラドウィグの血管へと入っていくさまを思い出しながら、彼はぶるりと背を震わせる。そしてマダム・モーガンは、やはりラドウィグが予想した通りのことを言った。
「私が特務機関WACEの隊員たちに私の血を分け与えていたのは、隊員たちの居場所を把握するためだった。身体能力と治癒力が向上するからという理由もあるけど、一番の目的はそれね。私の血の痕跡を辿れば、隊員たちの現在地に跳ぶことができる。つまり、GPSのマーカーみたいなものね。……そしていつからかこれが慣例になり、彼もあなたたちに同様のことを施したらしいわね。アレックスから、そう聞いたわ」
「そうッス。オレも、コヨーテ野郎の血を入れられました。あの時はアイリーンから『やれ』ってせっつかれて、オレもコヨーテ野郎も渋々って感じだったんスけど。でも、そうか……」
ラドウィグは話しながら、ふと思い出す。そういえば今の自分がこの目になったのはあの輸血以降だったな、と。そして彼は思ったことを正直に述べた。
「オレの目が、今の猫みたいな目に変わったのって、コヨーテ野郎の血を入れられてからなんスよ。元々は普通の人間の目でした。でも輸血されてから今みたいになって、光が眩しくてサングラス無しじゃ日中は動けなくなって。もしかしてコレ、コヨーテ野郎によって故意に書き換えられた可能性ってありますかね?」
するとマダム・モーガンは肩を竦める。続いて、彼女は不可解な言葉を発した。
「私には分からない。私は彼じゃないから。――そうよね、アルバ。この会話だって、今もどこかで聞いているんでしょう?」
しかし、妙なことを言うマダム・モーガンがジッと見ていたのはラドウィグの目だった。まるでこの部屋に盗聴器が仕掛けられていることを見越しての言動のようにもラドウィグには思えたが、それにしても奇妙だと彼は感じていた。なぜマダム・モーガンは自分の目を見てくるのか、と。
そして妙な振る舞いをするマダム・モーガンは肩を落とすと、ラドウィグから視線を逸らす。続けてマダム・モーガンは黒革の椅子に座るサラ・コリンズ長官を見やると、彼女に向けてこう言った。
「私はせいぜい、私の血を分けた者の居場所が分かる程度だった。でも後発の彼は、先発の私よりも性能が良いんでしょうよ。血を分けた者たちの会話が聞こえていたのかもしれないし、彼らが見ている光景も同じく彼には見えていたんでしょうね。あくまでこれは私の予想でしかないけれど」
マダム・モーガンの言葉が意味していたのは、アレクサンダー・コルト及びラドウィグを介して相手方に情報が漏洩していたという可能性。故にサラ・コリンズ長官は歯をギリリと噛み締める。
サラ・コリンズ長官がその可能性をマダム・モーガンから知らされたのは今朝のこと。けれども昼下がりに差し掛かった今でも、まだ彼女はその話を冷静に受け止められていなかった。
「…………」
受け止められないのも無理はない。なにせアレクサンダー・コルトは此度の騒動の中心人物とも言うべき存在だ。曙の女王から端を発する一連の出来事は、アレクサンダー・コルトが行く先々で解決の糸口が見えたり、事態が転げて悪化したりしていたのだから。……仮に、そんな彼女から情報が漏れていたのだとしたら、それはダダ漏れなどという次元ではない。筒抜けという表現が相応しい。
となれば来週に控えたオークションにアレクサンダー・コルトが行くつもりであるという情報も、とっくに“憤怒のコヨーテ”の耳には入っているのだろう。オークション会場で彼女を討つ用意を彼が整えているのは間違いないはずだ。
……そんなことを考え始めると、サラ・コリンズ長官の腸がぐつぐつと煮えくり返る。あの野郎の好きにさせて堪るかという怒りが、ふつふつと込み上げてくるのだ。
そうしてサラ・コリンズ長官が静かな怒りに手を震わせている一方で、肩を落とすマダム・モーガンは憂い気な顔をしていた。眉をひそめるマダム・モーガンは、サラ・コリンズ長官に言う。
「私はあなたたちの肩を持たないし、頭のイカれた彼に与することもない。当面は中立でいるつもりよ。けれど、聞かせて欲しいことがある。なぜあなたたちASIは、彼といがみ合う関係になったのかしら? 少なくともバーツが居た時代、あの頃はうまくやれていたはずでしょう。一体、何が起きたの?」
当面は中立でいるつもり。マダム・モーガンのその言葉に、サラ・コリンズ長官は表情をより一層険しくさせる。曖昧な態度ではなく白黒をハッキリさせて欲しいとサラ・コリンズ長官は感じていたが、しかし余計な言葉を彼女は控えた。
サラ・コリンズ長官は苛立ちを抑えるように呼吸を整えると、マダム・モーガンの方に顔を向ける。それからサラ・コリンズ長官はこのように述べた。「我々が“憤怒のコヨーテ”に明確な不信感を覚えるようになったのは、コルトから報告された『ブリジット・エローラの日記』に関する情報からです」
「あぁ、元老院が妙に欲しがっていたトリセツ風小説ね。あれがどう関係したのかしら?」
トリセツ風小説。マダム・モーガンからさらりと出てきたその言葉に、またもサラ・コリンズ長官の表情は厳しくなった。そしてサラ・コリンズ長官はその言葉に覚えた怒りを滲ませるような言葉選びをしつつ、このように答える。
「我々は、偉大な英傑バーソロミュー・ブラッドフォードの敵討ちを求めていたと同時に、多重人格で扱いに困っていた大天才の取扱説明書を必要としていた。故に我々はあの日記を求めたのです。あの大天才を掌握し、彼からアバロセレンの秘密を引き出すために。彼を正気にするための方法を知りたかったのです。例えば、抗うつ剤の適切な量や対話に臨む際に望ましい態度といった情報を。物事の途中で彼が急に遁走する、そんな事態を防ぐためのヒントを我々は求めていたんです……!」
「…………」
「あの日記を入手する過程で、我々は決して少なくない数の犠牲を払っています。しかし犠牲を払ってまでして手に入れたものは結局、まるで役に立たない虚構でしかなかった。そして“憤怒のコヨーテ”はそれが虚構であったと知っていながらも、我々に助言をすることなく、ただ偽の情報に踊らされる我々を彼は嗤っていた。あの男は、殉職した局員たちを嘲笑ったんです!!」
冷静に、冷静にと努めていたはずのサラ・コリンズ長官だったが、込み上げてくる怒りを抑えることが出来なかった。彼女の声は怒りから震え出し、そして怒りからワッと立ち上がってしまう。
サラ・コリンズ長官は厳しい表情でマダム・モーガンを睨んでいた。しかし、睨まれているマダム・モーガンが動じることはなく、それどころか彼女は不思議がるように首をわずかに傾けていた。そしてマダム・モーガンは言う。
「……もしそれが十二年前の話なら、私の記憶は違う」
マダム・モーガンの声は拍子抜けしているようなニュアンスを帯びていた。その声色に、サラ・コリンズ長官の怒りもスッと冷えていく――サラ・コリンズ長官は嫌な予感を覚えていたのだ、何か重大な情報の行き違いが起きているのではないかと。
そんなサラ・コリンズ長官の表情変化を見て、マダム・モーガンも行き違いの存在を確信する。そしてマダム・モーガンはひとつ咳ばらいをすると、このように語った。
「ハッキリと覚えている、あの時のことは。――北米での任務に区切りがついて、久しぶりにアルストグランの方に戻ったときのことよ。私はあの時に初めてアレックスに会い、彼女にあまり良い印象を抱かなかった。アーサーとなんだかギクシャクしている、それがすぐに分かったから。そして直後に私はアーサーからその日記の話を聞いた。その時の彼はひどく落胆していたわ。こんなもののために殺された者が大勢いたのか、と。その後、彼は故人への恨み節を垂れていた。どうして彼女はこんなものを遺したのか、こんな的外れな小説にもなり得ないクソ駄文を、と」
「……っ?! で、ですが当時のコルトはこう報告していますよ。彼は『ブリジット・エローラの日記』がフィクションであることを知っていた。しかし彼はそのことを数十年と黙り続けていたようだと……」
「なぜアレックスはそのように判断したのかしら?」
「彼女は“憤怒のコヨーテ”から直接そのことを聞かされたようです。日記は日記ではなく、フィクションであったという旨を。その話をしていた際に、彼が意味深に嗤っていたと彼女は報告しています。それに彼はブリジット・エローラと親しかったのでしょう? ならばそのことを把握していてもおかしくはないと――」
「つまり、アレックスの早とちりってこと?!」
上ずった声でマダム・モーガンがそう叫べば、サラ・コリンズ長官は息を呑み、息を潜めて様子を見守っていたラドウィグもぶるりと背筋を震わせる。殉職者を出した日記やら十二年前の出来事など何も知らないラドウィグにも事の重大さが伝わっていた。
そしてサラ・コリンズ長官は別視点から出た真逆の証言に驚愕し、言葉を失くしている。長年信じて疑ってこなかった情報が根底からひっくり返り、特定の対象に抱いていた憎しみの感情がグラグラと揺らぎ始めているのを彼女は感じていたのだ。
気まずそうに俯くサラ・コリンズ長官を見やり、マダム・モーガンは肩を落とす。またひとつ見落としていたパズルのピースを見つけたと感じていたマダム・モーガンであったが、彼女は同時に気が滅入っていくのを感じていた。亀裂が生まれた原因に近付くにつれ、この亀裂が修復不可能なものだと気付かされるからだ。
ラドウィグの寝そべるカウチの端に浅く腰かけるマダム・モーガンは、背中を丸めて重たい溜息を零す。それから右膝に右ひじを置き、頬杖をつくマダム・モーガンは重く沈んだ声で彼女の知っていることを語るのだった。
「私は彼のことをずっと監視していた。彼がまだ子供の頃から、ずっとね。だからこそ断言できる。あの男が『ブリジット・エローラの日記』の真実を知っていたわけがない。彼女が日記を書き始めよりも前に、彼は彼女との関係を断絶していた。大天才のことで揉めて、彼はブリジットと縁を切っているのよ。彼女の葬儀にも出席しないほど彼は徹底していた。そんな男が、あんな情報を事前に知り得ていたわけがないわ。それに、あの時に見た彼の怒りが偽物だったとは私には思えない」
「……」
「それから、あの男は混乱しているときこそ笑うのよ。その時の笑顔は正直言ってとても気味が悪い。何か企んでいそうだと誤解されかねないほどに。それで、そうね……その早とちりが広まって、大きな誤解を招いて、異様に敵視される状況が形成されれば……そりゃあアレックスを恨むわけだわ……」
早とちりが原因の誤解がこじれた結果。マダム・モーガンが出した結論はそれだった。サラ・コリンズ長官の理性もそれに概ね同意していたが、しかし彼女の感情は首を縦に振ることを拒んでいた。自分たちの非を認めることは敗北以上の屈辱であると、そう感じていたのだ。
故に顔を俯かせたままのサラ・コリンズ長官は息を呑むと、ゆっくりと椅子に座る。それからサラ・コリンズ長官は腕を固く組み合わせると、落ち着いた声で異を唱えた。
「コルトの報告があろうがなかろうが、我々が彼と敵対する未来は避けられなかった。それが私の見解です。彼がラーナーを切り捨てたこと、その事実を忘れていない局員は私に限らず局内に今も存在している。特にラーナーの相棒だったジョンソンの怒りは計り知れない。それに掘り返されたラーナーの遺体は今も戻っていないのです。コルトからは、コヨーテはラーナーの遺体の行方を知っているが黙り続けていると聞いています。またラーナーの遺体が消えた件に彼も一枚噛んでいるとの報告も彼女から受けています。となれば、我々が彼に好ましい感情を抱く理由は一つもない」
ラーナー。聞いたことがあるような、ないような名前が新たに飛び出してきたことで、話を横で聞いていたラドウィグは考えることを放棄した。これ以上は自分が何かをゴチャゴチャ考えたところでどうしようもないと、彼はそのように判断したのだ。
そうして欠伸をするラドウィグの横で、背筋を正すマダム・モーガンは足を組むと、ムッと顔を顰める。それからマダム・モーガンはあれやこれやと考えを巡らせながら、明瞭としないくぐもった声でサラ・コリンズ長官に言った。「パトリック・ラーナーか。彼は……分かった、私が遺族に返還する。ただ、その……」
「いえ、遺族への報告は我々が行います。それに遺体がラーナー本人であるかどうかの確認もしたいので、返還は我々に――」
「彼なんだけど。遺灰と、左手の辺りからポロっと出てきたマイクロチップしか残ってない。それでも構わない?」
「彼は、灰に……?」
「灰というか、正しくはダイアモンドね。ほら、骨壺って嵩張るでしょう。だから他の隊員たちと同じようにダイアモンドになってもらったのよ。彼の色は綺麗な薄紅色だったわ」
そのように述べるマダム・モーガンの顔は、裏にワケがありそうなものだった。そこでサラ・コリンズ長官は、旧特務機関WACEにとって都合の悪い情報を隠蔽するために火葬した可能性を真っ先に疑ったのだが。しかし彼女は良心の呵責に揺らいでいるようにも見えるマダム・モーガンの表情を見て、意見を変える。
ラーナーはもしかすると、そのままで返すことが憚られる有様になっていたのかもしれない。故にマダム・モーガンは火葬し、尊厳が踏み躙られた事実を隠したのだろう。その姿を目にして傷付くものが出ないように。――その可能性を、サラ・コリンズ長官は信じることにしたのだ。
「……ええ、それだけでも構いません。私は彼を仲間たちが眠る場所へと戻したい。たとえどのような姿になっていたとしても」
「オーケー。明日にでも彼を引き渡すわ。それで、都合の付く時間を――」
すくっと立ち上がるマダム・モーガンが、サラ・コリンズ長官の言葉に返事をしていたときだ。長官室の厳重な扉が静かに開くと共に、局内での重大なトラブル発生を報せる短い警報が鳴る。部屋内に居る三名は緊張から、誰が入ってくるのかと身構えた。
幸いにも長官室に立ち入ってきたのは、ASIに現在は籍を置いている自律型ヒューマノイド。人間と見間違うほど精緻なボディに万能の人工知能を搭載した、通称レイこと
チャコールグレーを基調とした女性もののスーツに身を包み、フェイクの長い金髪をクラウン・ブレイドにまとめた
「地下九階にて凍結保管がなされていた“曙の女王”の消失が確認されました。彼女は一〇分ほど前、オーウェン・レーゼ氏の許に出現したのち、再び消失し、行方が掴めておりません。現在テオ・ジョンソンの指揮の下、アバロセレン犯罪対策部が彼女の捜索、及び地下九階の捜査を開始してい――」
「レイ。あなたは連邦捜査局シドニー支局に連絡を入れ、彼らに詳細な情報を送りなさい。そしてマスメディア及び市民への発表をアーチャー支局長に依頼して。それから関係機関すべてに情報を回しなさい。そして彼女を見かけたとしても絶対に手を出すなと警告を出しなさい」
AI:Lの発言を途中で遮り、サラ・コリンズ長官はそのように指示を出す。しかし指示を受けたAI:Lは人工物の顔で表情を作り、懸念を表明した。そして
「ニール・アーチャーが秘密を暴露したせいで情勢は変わった。化け物の存在はもはや公然の秘密ですらない。だからこそ彼にはその責任を取ってもらう。……――あと、アーチャーにはこちらに人員を派遣するよう要請して。連絡役を一人か二人、アバロセレン犯罪対策部に寄越すよう言って」
少しの苛立ちを滲ませながら毅然とそう言い放つサラ・コリンズ長官の言葉を聞き、AI:Lはそれ以上の追及を避けた。AI:Lは「承知いたしました」とだけ言うとサラ・コリンズ長官に背を向け、長官室を出ようとした――……が、何かを思い出した様子でAI:Lは再び戻ってきた。そしてAI:Lはサラ・コリンズ長官に追加の報告を述べる。
「オーウェン・レーゼ氏の許にはミルズが急行しています。とはいえ、彼の許に配備されたボクの分機が集めた情報を分析する限りでは、彼に危害が加えられた様子はなかったとのことです。曙の女王に不可解な行動が見られましたが――」
「不可解な行動とは?」
「それについては行動分析が完了次第、追ってご報告いたします。ラドウィグ、あなたには歌の内容を確認して頂きたいので、のちほど動画ファイルをあなたの端末機に転送しておきますね。……それでは」
最後にAI:Lはラドウィグのほうを見やり、軽い会釈をすると、足早に長官室から去っていった。そしてAI:Lが去っていくと同時に、ラドウィグはサラ・コリンズ長官を見やる。彼は少し首を起こすと、サラ・コリンズ長官に訊ねた。「長官。お、オレはどうしたら……?」
「その処置が終わり次第、あなたもオーウェン・レーゼ氏の許に向かい、彼から情報を集めなさい。処置を受けている間は、レイが転送するという動画を確認しておきなさい。きっと、すぐに届くでしょう」
サラ・コリンズ長官がそう言い終えたタイミングで、どこかから鉄琴が奏でる短いジングルが鳴る――ラドウィグが膝の上に載せていた畳まれたジャケット、その裏地に縫い付けられたポケットの中に入れられていた携帯端末機が鳴らした通知恩だった。通知音の種類から察するに、AI:Lから動画が転送されてきたのだろう。
ラドウィグは針を刺された左腕はそのままに、右腕だけを動かして畳んだジャケットの中から端末機を取り出す。そうして片手のみで器用に端末機を操作しつつ、ラドウィグが転送されてきたファイルを閲覧しようとした直前だった。少々慌ただしい足音と共に、再び長官室に来客がやってくる。
長官室に来たのは、大急ぎで駆けてきたのか、肩で息をしているテオ・ジョンソン部長だった。彼は室内にまで入ることはせず、出入り口付近で立ち止まる。そして彼はサラ・コリンズ長官に軽く手を振ると、息も絶え絶えな声で簡潔に用件のみを述べた。
「状況についてはレイから聞いたようだな。なら単刀直入に。――現在、カイザー・ブルーメ研究所跡地に派遣したコルトとダルトンの二名と連絡が取れない状態にある。地下に潜っている影響もあるだろうが、状況が状況だ。万が一を警戒して、特殊部隊からの人員派遣を要請したい」
テオ・ジョンソン部長からの派遣要請に、サラ・コリンズ長官が承諾を表明しようとしたのだが。サラ・コリンズ長官が口を開こうとした直前で、マダム・モーガンが割り込んでくる。
「私なら、彼らをすぐに帰還させられるけれど。どうする?」
ニヤリと微笑むマダム・モーガンが出した提案に、テオ・ジョンソン部長は無言で首を縦に振り、提案に乗る意思を示す。その後すぐテオ・ジョンソン部長は来た道を引き返し、駆け戻っていった。そしてテオ・ジョンソン部長が去ったのを確認すると、マダム・モーガンは煙のようにドロンと融け、長官室から姿を消す。
「……」
消えていった二人をカウチの上から見送ったラドウィグは、最後にちらりとサラ・コリンズ長官を見やる。腕を組み、椅子に深く座るサラ・コリンズ長官は、彼女への許可を求めることなくマダム・モーガンの提案に乗り、去っていったテオ・ジョンソン部長にご立腹な様子だった。
一方、その頃。ゴーストタウンと化したマンハッタン某所のアパートでは、一仕事を終えたアストレアがその旨をアルバに報告するために彼の自室に立ち入っていた。
リビングルームのソファーにぐでーっと座っている威厳のないアルバは、膝の上で寝ている茶トラ猫ソイの頭を右手でわしわしと撫でながら、左手に持つ氷嚢を鼻に当てつつ、入室してきたアストレアをサングラスの隙間から横目でちらりと見やる。それを合図だと受け取ったアストレアは彼の隣にドカッと座ると、報告を開始した。
「頼まれてたギャングの死体、溶かしといたよ。言われた通り、一階の一〇一九号室のシャワールームに置かれてたデッカい水槽に死体を入れて、水酸化ナトリウムをボッチョーンして、漂白剤もドッバーンしておいた。あとガキどもと猫が入らないように部屋の鍵を閉めといた。でもシャワールームの換気はバッチリにしておいたよ。言われた通り、換気システムは使わず、あの部屋の窓を全開に開け放っておいた。んで、防護服とか一式はその隣の部屋、一〇二〇号室のリビングに置いといた。その部屋の鍵も閉めといたよ。あっ、そうそう。持ち物はぜんぶ引っぺがして、指定された洗濯籠に詰めておきましたー。指示通り、きったねぇ下着もでーす」
間延びした喋りでそう語ったアストレアは、自身の髪の毛か、または鼻の粘膜にこびりついているような気がする苛性ソーダ臭がもたらす不快感に表情を歪める。防護服やガスマスクで身を護っていたとはいえ、それでも防ぎきれなかったにおいに彼女の気は滅入っていたのだ。
殺された直後の死体であったことから、強烈なチーズやら濃縮された生ごみのようだと譬えられているらしい死臭を嗅がずに済んだことは幸いだった。だが死体処理に使う化学薬品の刺激臭、あれが最悪だったのだ。
公的な教育機関で教育を受けたわけではないアストレアには、そこまでの科学知識がない。故に彼女は水酸化ナトリウムは無臭であるという知識しか持っていなかった。水に固形の水酸化ナトリウムをぶち込むと水酸化ナトリウムが途端に発熱し、生まれた熱によって発生する水蒸気と共に水酸化ナトリウムが空気中へ溶け出して強烈で有害な刺激臭をまき散らすという知識など、アストレアは持っていなかったのだ。
作業に取り掛かる前に部屋の窓をすべて開け放て、という注意を事前にアルバから受けていたものの、ズボラで知識不足なアストレアはそれをやらなかった。そういうわけで刺激臭の霧が大発生してから大慌てで窓を開けに行ったというトラブルが起きていたのだが。しかし彼女はその事実を伏せて報告した。
そしてアストレアはアルバに嘘が悟られるよりも前に、さっさと話題を逸らすことにする。彼女はひとまず、溶かした死体のその後について尋ねることにした。「……で、あの死体さ。溶かして、どうするの?」
「あの水槽ごと現場に戻すだけだ。それと遺品も。それらしい猟奇殺人を演出してやれば、当局は存在しない猟奇殺人犯を血眼で探し始めるだろう。そして当局が存在しない人間を探している間に、彼らが求める理想的な犯人をこちらで見繕っておくわけだ。幸か不幸か、北米にはトチ狂った人殺しがウジャウジャいるからな。適当なやつに罪をなすり付ければいい」
アルバはそう言うと鼻に当てていた氷嚢を脇に置き、アストレアから顔を背ける。それから彼は空いた左手で口を隠し……――小さく欠伸を零したらしい。
シャキッとしない様子のアルバが次に手を伸ばすのは、ソファー前のテーブルに置かれていたティッシュ箱。彼はティッシュ一枚をガサツに抜き取ると、それをよじって左側の鼻の孔にねじ込んだ。すると白いティッシュには淡く光る蒼い血が滲んでいく。ティッシュに広がっていく蒼い染みを見て、アストレアも気付いた。また鼻血か、と。
思い返してみれば、一時間前に戻ってきたときからアルバは調子が悪そうだった。帰還直後、アストレアに「代わりに死体を処理しておいてくれないか」と頼んできたときの彼は顔色が非常に悪く、今にも倒れそうな雰囲気を出していたぐらいだ(だからこそアストレアは文句を言わず、二つ返事で引き受けたのだ)。
顔色が悪くなり、鼻血まで出るような状態。アストレアはこれが引き起こされるものにひとつ心当たりがあった。
「ジジィ、なんか調子悪そうだね。もしかして、またギルの羽根むしって大暴れしてきたの?」
アストレアがそう訊けば、アルバは頷く。そしてアルバは着ていたシャツの右袖口を緩めると、袖をまくってアストレアに右腕を見せた。
蒼白く血色の悪いアルバの肌には、小さな
その他、鼻血や息切れ、倦怠感といった現象も自律神経の極端な乱れによって引き起こされるものだが、とはいえアストレアはそこまでのことを理解してはいない。彼女は「大暴れした影響が出てんだな」とざっくりとした情報のみを把握した。
そうしてアストレアが気味の悪い斑点模様に不快感を示すように「うわぁ……」と呟くと、アルバは右腕を下ろす。それからアルバは再びアストレアから顔を背け、欠伸を零すのだった。そんな彼の横顔には疲弊があからさまに浮かんでいて、土気色の肌はいつも以上に不健康そうだった。
「ジジィ、本当に大丈夫? なんか今にも死にそうな顔してるけど」
連発される欠伸に、アストレアも少しの心配を抱く。そう訊ねるアストレアはアルバのすぐ隣に移動すると、彼の膝の上でぬくぬくと寝ている茶トラ猫ソイを抱き上げ、床に下ろした。けれどもこれを不服とした茶トラ猫ソイは再度ソファーに飛び乗り、アルバの膝の上に乗ろうとする。しかしアストレアは茶トラ猫ソイの背中をガシッと抑えつけ、膝の上に乗ろうとした猫を阻止した。
諦めた茶トラ猫ソイは座面に留まり、アルバとアストレアの中間地点で身を伏せる。渋々といった雰囲気を醸し出しながら、茶トラ猫ソイはゆっくりと前足を折りたたみ、香箱座りを決め込んだ。
そんなアストレアと猫の攻防を見ながら、アルバは小さく笑う。そして彼はまた小さな欠伸を零したのち、ソファーの背もたれに背中を預けるよう仰け反った。それからアルバは疲労が垣間見えるダラダラとした喋りで、アストレアの問いに答えた。
「約五〇人ほどのギャングどもを三〇分ですべて仕留めた。それで体に負荷が掛かったことも要因のひとつだがー。一番の理由は眠気だろうな。情報を盗むための抜け穴が塞がれたせいで、これからは
彼の言葉を聞くアストレアは、しかし首を傾げていた。彼女はこの話に、なんとなくだが違和感を覚えていたのだ。
数日前からアルバが保管していた女の生首がこのアパートから消えていたことから察するに、彼は遂に前々から狙っていたというギャング団を仕留めたのだろう。止まらない鼻血といったアルバの様子からして、多分その話は事実だ。
ただ、続いた言葉がどうにも引っ掛かる。抜け穴が云々という話はアストレアにはよく分からなかったが、けれどもそれが疲労や眠気の理由ではないはずだと彼女の直感が囁いていた。今後の作戦を練っていただけにしては、アルバの表情が暗すぎるぞと。
そして彼女はあることに気付く。ソファー前に設置された低いテーブル、その上に乗っているティッシュ箱の陰に一冊の本が置かれていたのだ。それは先日、マダム・モーガンがこのアパートに置いて逝った本、デリック・ガーランドという人物の自伝である。
「――ジジィ、今、ウソついたでしょ。眠いわけじゃない。もしかして、この本が関係してる?」
目をギラリと光らせ、アストレアは鎌をかける。すると不思議なことが起きた。なんとあのアルバがあっさり陥落したのだ。
アストレアのその言葉を聞いたアルバは目を閉じ、ゆっくりと息を吸う。そして数秒息を止めたあと、彼は気だるそうに眼を半分開け、それから怠そうな声で語り始めた。「前に私はこう言っただろう。見聞きしたことはほぼ全て記憶している、と。だがそうでもなかったことが分かった」
「……」
「その本に書かれている私に関する記述、その後半部分。その時期の記憶が断片的にしか残っていないことに気付いたんだ。妻が居て、子供たちが居て、一番忘れたくなかったはずの時代を、しかしほとんど覚えていない。当時の日常を断片的にしか……」
勿論、アルバの語った言葉は本当のことだった。実際に先ほどまで考えていたのは語った通りのこと。娘テレーザだけが居た時代のことはよく覚えていた反面、息子レーニンが誕生してからのことはあまりよく覚えていなかったことに、自伝本を読んでいて気が付いたのだ。
ハッキリと覚えているのは、息子の名前をどうするかで妻と揉めたことぐらい。恩人から名を取って『レーノン』としたかった自分と、親しい誰かから名前を拝借するという行為をなんとなく忌避していた妻キャロラインとで揉めて、最終的に妻の意見が勝ったものの。レーノンを一字変えてレーニンとしたその名前に抱いた懸念、及び嫌悪感だけはハッキリと覚えていた。かつて自分が父親から受けた仕打ち、本来の名前を悪意を以て歪められた経験と重なってしまったこともあるし、レーニンという名前に伴う悪いイメージが将来に悪い影響を齎さないかと不安を感じたからだ。
だが、それ以降の日々はあまり覚えていない。息子が色素の欠乏した体で生まれてきたことについて自分をひどく責めたこと、その鬱積した感情だけは今もヤケに残っているが、ただありふれた日常は漠然としか記憶に残っていないのだ。だからこそデリックが書き起こした自分に関するエピソードがどこまで正しいのか、その判断が付かないという奇妙な状況が発生している。これはとても気持ちが悪い感覚だった。
――ただ、アルバが考えていたのはそれだけではない。先ほどの言葉は半分正しいが、半分は偽り。先ほどまで彼が考えていたのは友人が記した自伝本と自身の過去に関することだが、今さっき考えていたのはまた違うこと。今もなおボストンの上空にあり続ける光の渦、アルテミスだのローグの手だのと呼ばれている異常事象、世界最初のSODについてだ。
マンハッタンに帰還するよりも前に、アルバは一度ボストンに立ち寄っていたのだが(今のボストンは更地であり人が立ち入ることは滅多にないが、その代わりに腐肉を漁る奇怪な化け物がそこら中をウロウロと徘徊している。極端な巨漢といった、処理が面倒な死体を遺棄するには都合のいい場所なのだ)。そこで久しぶりに見上げたSODに、彼は胸がざわつくような気味悪さを覚えた。何か重要なことを忘れているような、そんな気がしたのだ。
思い返してみれば、死後の生を得てからずっと追い続けていたのはその真相だ。ボストンの上空に今も居座り続けるSOD、これはどういう理屈の下に誕生したものなのかと、彼はずっとそれを知りたがっていた。ペルモンドにトドメを刺さず、生き長らえさせていたのもそれが理由。アルバには確信があったのだ、あいつは何かを知っていると。
実際、ペルモンドは真相を知っていることを匂わせるような発言を度々していた。だがペルモンドは彼に対して毎度、決まってこう言った。お前にだけは教えることができない、と。そして悪いことにペルモンドは秘密と共に去ってしまった。
そういうわけで真相は一人で探さなければならなくなったのだが。しかしアルバはなんとなく勘付いていたのだ。自分はこのSODが誕生した原因を知っている、きっと自分がこれを生み出したのだから、と。
アバロセレンの性質はアルバ自身が一番よく知っている。アバロセレンは人間が思い浮かべた空想妄想を具現化し、物質世界に下ろす存在だ。アバロセレンは臓腑の構造さえ完璧にイメージできたのならば生き物さえも具象化してみせる。なら、異常気象の再現など容易いのだろう。となれば、リアリティのあるイメージを思い浮かべることさえできれば、全く新しい事象を引き起こすことも容易なはず。
となればあのSODは、自身が死ぬ直前に思い浮かべた馬鹿げた妄想に影響され、そうして生まれた可能性だってゼロではない。世間の連中が騒いでいた通り、あれを生み出したのは他でもない自分自身であったのかもしれない。――そんな気がアルバにはしていたのだ。
ただ、死の直前に考えていたことなど彼は何も覚えてはいない。何かを思い出せれば新しい取っ掛かりが見えてきそうなのだが、けれどもまったく思い出せそうな気配がなく。……と、まあ、そんなことをさっきまでウダウダと考えていたわけなのだ。
「忘れちゃった原因に心当たりはあるの?」
とはいえそこまで深堀りして考えはしないアストレアは、アルバの発言を丸っきり信じていた。
アルバのことを『物忘れを嘆く哀れなジジィ』だと思っているアストレアは、同情を帯びた声でそんなことを問う。頭の中にある物事を深くは探られたくないアルバは、アストレアの誤解に乗じることにした。
「死後に呼吸が止まり、脳の一部が壊れた。おそらく、それが原因だ。大部分が回復したとはいえ、その時に受けたダメージは今も残っている。きっと一部の記憶があのダメージにより完全に吹き飛んだんだろう」
アルバが語った仮説は、かつて特務機関WACEに所属していたジャスパー・ルウェリンという人物が組み立てたものだ。
死後の生を得た彼が最初にハッキリと“覚醒した”とき、彼の記憶はキレイすっぽり抜け落ちていた。自分自身が誰であるかというエピソード記憶だけでなく、『オレンジは橙色をした酸っぱい柑橘系の果実』といった知識とモノそのものを結びつける意味記憶、会話や計算といった行為に影響を及ぼす陳述記憶、食器の使い方やクロスワードの解き方といった技能に関する記憶なども欠落していたぐらいだ。
そんな彼のひどい有様を見て、ジャスパーという心理分析官が見出した可能性が先ほど彼が語ったもの。いわゆる蘇生後脳症というものに近く、虚血状態により脳細胞が幾分か死亡し、それが原因で記憶障害や運動機能障害などが起こっていたのではないか――ジャスパーはそう分析したのだ。
「そっか。じゃあ戻りそうもないね、その記憶」
アルバの言葉を聞いたアストレアは大して同情するわけでもなく、こざっぱりとした調子でそれだけをスパッと言う。アルバも同じようなトーンで、このように返答した。
「ああ。そうだな。多分、戻らないだろう。二度と」
ジメジメとしたかび臭い陰鬱な気分をもう少し引き摺っていたかったアルバだが、カラッと乾いている薄情なアストレアの調子に釣られて、彼女と同じような気分になってしまった。何もかもがどうでもいいというアストレアの隠し持つ諦めや空虚さが伝染してきて、不思議とそう感じられるようになってきたのだ。
良くも悪くも気分が切り替わったアルバは、鼻の孔に突っ込んでいたティッシュを抜くと、それを軽く丸めて部屋の隅に置かれたゴミ箱へとヒョイと投げた。投げられたティッシュは見事にゴミ箱の中へと落ちる。アルバは小さくガッツポーズを決め、アストレアはそんな彼に冷ややかな視線を送っていた。
すると。ティッシュの動きに反応したのか、ソファーの上で香箱座りを決めていた茶トラ猫ソイがニョキッと立ち上がる。ゴミ箱の方角に釘付けになっている茶トラ猫ソイは、その方角へと進もうとする――が、それを猫の隣に座るアストレアが阻んだ。
アストレアは茶トラ猫ソイの肩甲骨のあたりをガシッと掴むと、軽く押さえ込んで動くなという圧を猫に掛けたあと、スッと手を離す。すると茶トラ猫ソイは諦めたのか再度ソファーの座面の上に寝転び、不貞寝の体勢を整えるのだった。
「……ジジィ。そんぐらいの距離なんだから、立って、歩いて、捨てに行ったらどうなの?」
猫の気を不用意に引くような真似をするアルバに対し、アストレアはそのように毒突く。しかし左手に持った氷嚢を鼻に当てるアルバは悪びれる素振りは見せず、それどころか「お前だって似たようなことはするはずだ」と一笑に付してみせた。
そんなアルバの態度に呆れたアストレアが腕を組みつつ彼を睨み付けたときだ。玄関ドアが乱暴に開け放たれる豪快な音がしたあと、子供のものと思われる騒がしい足音が聞こえてくる。ドタバタとうるさい足音に怯えた茶トラ猫ソイはおどおどとした様子で飛び起きると、素早くソファーの上から飛び降り、腰を低くして物陰へと逃げて行った。
へっぴり腰で去っていった猫と入れ替わるようにリビングルームに踏み入ってきたのは、アバロセレンから創生された幼い子供のような姿をした人造生命体、ホムンクルス。その中でも特に騒がしい個体だった。
「おなかへった! ごはん作っ――」
首筋に触れる程度の長さで切りそろえられた柔らかい栗色の髪を振り乱し、不機嫌そうな声を荒立てながらそう叫んだのは、通称ユルと呼ばれていた個体だ。やんちゃで元気すぎる女児、そんな風に見えなくもないこの個体だが、その姿にアルバが一瞬表情を緩めた直後、異変が起きる。
アルバを見て、次にアストレアを見て、それからユルという個体は声を荒らげ、幼い子供らしい要求をやかましく突き付けてきたわけだが。その言葉の途中で声が消える。直後、その子供のような姿も見えなくなった。
すべては一瞬のうちに起こった。声が止んだ直後に子供の輪郭がボヤけて、大気に拡散していったのだ。ほどけた輪郭は淡い蒼白の燐光を放ちながら広がり、やがて跡形もなく消えた。子供のような存在が先ほどまで存在していたはずの地点には、ただその個体が着用した衣服のみが残され、床にばさりと落ちて行く。――アストレアとアルバの二人が目の前で起こった出来事を認識したのは、数秒遅れてのことだった。
「……ふえぁっ?!」
床に落ちていった子供用の半袖Tシャツ。それを二度見したあと、アストレアは驚きから変な声を上げた。それから彼女は同じソファーに座るアルバの顔を見やる――彼の目元はサングラスに隠れて窺えなかったが、しかし眉間にしわが寄っていることだけは確認できた。
彼をじっと見つめたままアストレアが目をぱちくりとさせれば、アルバは一段と深いしわを眉間に刻み込んだあと、鼻に当てていた氷嚢を目の前のソファーに投げ捨てた。それから彼は立ち上がると急ぎ足で居室を出て、このアパートの別の階へと向かっていく。アストレアもすぐさま立ち上がると、彼の後を大急ぎで追っていった。
二人が向かっていったのは一つ上の階にある部屋、四〇一五号室。これはホムンクルス四体に与えられていた部屋である。迷いなく部屋の扉を開け、中へと入っていく二人だったが、しかしその部屋の空気は異様なほどシンと静まり返っていた。普段なら騒がしい気配があるはずだというのに。
そうして踏み入った四〇一五号室のリビングルーム、そこには三人分と思われる衣服がそれぞれ落ちていた。
キッチンとリビングルームの堺に落ちているのは、男児のものと思われる服。リビングルーム中央部の床に広げられたまま放置されている動物図鑑の傍に落ちているのは、ボーイッシュな女児向けの動きやすい服。そして動物図鑑の向かい、キリンを模したぬいぐるみと共に床に落ちているのは、フリルやリボンがあしらわれた可愛らしい女児向けの服。……どのホムンクルスが何の服を着ていたのか、不思議とアストレアには分かった。そして彼女は結論付ける。
「うわっ、他の三体も消えてる。服だけ残ってるや……」
ユルというやんちゃなホムンクルスは、日課通りなら三〇分後に夕食を作り始めるアルバまたはアストレアを待てず、空腹に耐えかねて急かしに来たが。ユルは直後、彼らの前で消えた。そして部屋に残った三体も同じぐらいのタイミングで消えたのだろう。
出来の良い長男ポジションにいたギョーフという名のホムンクルスは、騒ぎまわるユルの様子を見て『夕食をつくる準備』をひとり開始しようとしたのか、または簡単なものをユルに作ってやろうとでもしたのだろうか。けれどもその直前でギョーフは消えたらしい。
動物図鑑を読んでいたのは、知的好奇心旺盛なライドという個体だろう。元より小食気味なライドはきっと空腹など気にせず目の前の図鑑に興味津々で、それにのめり込んでいたのだろうか。そしてライドはそのまま消えてしまったようだ。
動物図鑑の傍に落ちていたキリンのぬいぐるみで遊んでいたのは、寂しがり屋なイングという個体だろうか。騒がしいユルが居なくなり、ギョーフも何かを始めようとしている様子を見て、イングは図鑑を食い入るように見ていたライドに照準を合わせた。そしてライドに構ってアピールでもしていたのか、または二人で図鑑を読んでいたのだろうか。そんなイングも消えている。着ていた服だけを残して、綺麗にその存在は消え去っていた。
「……」
部屋に残された状況から、アストレアはそのように推論する。アルバも概ね同じような結論に至っていた。
そして腕を組みつつ床に落ちているキリンのぬいぐるみを見つめるアストレアは、過去に幾度か見たシーンを思い出す。それは特務機関WACEがあった時代のことだ。
アレクサンダー・コルトか、または通称ケイと呼ばれていた隊員か。彼らがどこかから盗んできた『不完全な状態のホムンクルス』を、情報収集および分析のために数日ほどアイリーン・フィールドが世話をすることが四度ほどあった。アストレアも、アイリーン・フィールドの担う作業の手伝いをやっていたことがある。暴れられたら困るから拘束しておいて、とか。適当なオモチャであやしてその個体を泣き止ませて、とか。そういった類のことを。
あのホムンクルスたちには全て、奇妙な共通点があった。異なる個体でありながらも全てが同じ顔をしていて、皆一様に女性の姿を取っていたのだ。白い髪、白い肌、赤い瞳、そして十五歳ぐらいの少女の容姿。加えてその目鼻立ちは、あの『曙の女王』とかと名乗っていた存在とどれも全く同じ。まるでホムンクルスたちは全て『曙の女王』の模造品であるかのようだった。
そしてホムンクルスたちの精神年齢は二歳程度。理知的な会話が成り立つ個体はひとつもなく、故にアイリーン・フィールドを始め特務機関WACEの隊員たちの多くはホムンクルスたちを『人間』のようには扱わなかった。ある一定の情けや同情は掛けているようだが、深くは関わらず、あくまでも実験対象として扱う。そんな感じだっただろう。
それにホムンクルスたちは不完全であるためすぐに消えた。不完全なホムンクルスたちは先ほどのユルのように、あるときに突然前触れもなく霧散し、気化アバロセレンに還っていく。もって平均、四日ほど。とても短い命だ。アストレアもその光景は今までに三度ほど見ている。ユルも合わせると四度目。だからこそ彼女は意外にも冷静にこのことを受け止められていた。
そしてそれはアルバも同じ。アストレアよりもずっと多くのホムンクルスが消えていくさまを見ているアルバも、暗い顔こそしておれど冷静に受け止めていた。そこそこ長くは生き延びたがそれでもこの程度だったか、と彼は思っていたのだ。
とはいえ今まさにこの場で消えたホムンクルスは、アルバがその手で初めて生み出してみた個体たちだ。それも大規模なプラントで増産された『どれもが同じ顔と同じ特徴を持つホムンクルスたち』ではなく、それぞれが異なる個性と特徴を持った個体たち。愛着がなかったわけがない。彼はそれなりに落胆していた。
そんなわけでどんよりとした空気感を纏っているアルバに、アストレアはひとまず声を掛けることにする。「ジジィ、大丈夫?」
「あぁ、いや、考えていただけだ。何が足りなかったのかと。私にはできなかったが、娘は成し得たこと、それが何なのかが分からなくてな……」
返答に困ったアルバはひとまず、頭の中をぐるぐると回っている議題について正直に打ち明けるという選択肢を採る。そして言い終えたあと、アルバは床に落ちていた子供用の衣服を拾い上げて回った。
キッチンの堺に落ちている服、動物図鑑の傍らに落ちている服を彼は回収すると、四〇一五号室内にあるバスルームに向かう。それから彼はバスルームに設置された洗濯機の中に衣服を投げ入れると、動物図鑑が置き去りにされているリビングルームに戻ってきた。洗濯は明日やればいいと彼は判断したのだ。
その間、アルバが戻ってくるのをリビングルームで待っていたアストレアは、イマイチ冴えない頭を絞ってアイディアをひりだそうとしていた。悶々と考えて考えて、彼女はあることを思い出す。そしてアストレアは戻ってきたアルバに、こんなことを語ってみせた。
「ホムンクルスには活動限界がある、みたいなことをアイリーンが前に言ってた。活動限界値は培養槽の中に居た時間と比例するって。実体を維持するために、ホムンクルスは体内に蓄積されたアバロセレンをすり減らしているから、その蓄積されていたアバロセレンが尽きたらそこで終わりだって。だから、やっぱり、たっぷりのアバロセレンに漬け込まないとダメとか?」
「…………」
「うーん、でも、それじゃ問題は解決しなさそうだね。なんかさ、その……――アバロセレンって、ああいう存在にとってはエネルギー源みたいなものなわけでしょ? 人間でいうところの酸素みたいな。なら、呼吸みたいにアバロセレンを補充できる方法とか実現できないのかな。そうしたら長続きしそうな個体が作れそう」
「……呼吸か」
ホムンクルスの活動限界値に関するアイリーン・フィールドの予測。それ自体は既知の情報で、アルバは聞き流そうとしたが。その後に続いたアストレアの思い付きから飛び出した言葉には興味を惹かれた。呼吸で酸素を取り込むように、アバロセレンを取り込むという発想。それは今までどこにも存在していなかった、まったく新しい見地だったのだ。
とはいえ、その見地は“原初のホムンクルス”の謎を解くには不十分。アルバの実娘テレーザが何かのはずみで副次的に創成した双子のホムンクルス『ユン』と『ユニ』が、人間と同じような発育過程を辿り、他のホムンクルスのように霧散することなく、人間と寸部たがわないモノとして存在し続けたのかは依然として謎のままだし。苛烈で非道な実験の末に殺され、人間と同じように死を迎えた『ユニ』と異なり、生き残った個体『ユン』が『曙の女王』という奇妙な進化を遂げた理由も不明のままだ。
そしてアストレアの発案を実行しても『原初のホムンクルス、その完全な再現』にはならないだろう。しかし、それは代案になりうるような可能性の芽ではある。少なくともアストレアの言葉は、アルバの思考に新たな風を吹き込み、閃きの元となる雷雨を生み出した。
あとは決め手の一撃が暗雲から飛び出てくるのを待つだけ――そんなことを思うと、久々に彼の胸は高鳴りだす。悪人じみた笑みを浮かべるアルバは、早口な独り言をそこそこハッキリとした声で零すのだった。
「アバロセレンの正体について、常々考えていた。キミアの胃袋に投棄された死霊どもの放つ怨念、そのエネルギーを抽出したもの。それはひとつの正しい言説ではあるが、しかし何かが違うと感じていた。それが今、お前のお陰で光が――」
「あー、うん。ジジィ、急にどうしたの?」
独り言なのか、それとも話しかけてきているのか。その判別に困るアルバに、アストレアは適当な言葉をそれっぽく返しておく。――が、アルバはその返事を無視し、言葉を続行した。どうやら独り言であったらしい。
「大気。アイテール。それこそが――」
誰に話しかけているのかが分からない話しぶり。妙にキラキラしているように思える表情。それと身振り手振りが妙に大きい動き。それから視線が虚空を彷徨っているところ。そんなアルバの姿は、まるで大舞台の中央に立つ主演俳優による独白シーンのようだった。
彼の姿を少し離れた場所から観察するアストレアは、ふと思う。ジジィ気味が悪いな、と。それでもアストレアは茶々を入れずに様子を見守っていたのだが、すると突然アルバに異変が起こる。
ふと我に返ったように、アルバの視線が足許に降りたのだ。彼の表情は途端に曇り、声もトーンダウンしていく。そしてアルバは一言、ボソッと呟いた。「……いや、違う」
「は?」
アストレアが思わず漏らした呆れの声。するとアルバがアストレアのほうに体を向けた。そして彼はアストレアの顔をしかと見る。それから彼は彼女に今度こそ語り掛ける……――かと思われたのだが、また話しかけているテイの勇ましい独り言が始まった。そんなわけでアルバはひとり語る。
「マナ。ポリネシアの一部地域、そこに根付いていた概念。それこそ私が認識しているアバロセレンというものに最も近い。実体性は無いが物質世界に確かな影響を及ぼす力、神秘の根源となる存在。あらゆるものの状態を変化させ、天変地異さえも引き起こすエネルギーの波を起こすもの。大気に解け、火さえも起こし、液体となり、結晶となる。そして死さえも克服した怪物をも生み出す。いかようにも変容する万能元素。……そうか、だからこそヤツは “
取り敢えずアルバの顔を見つめているアストレアは、理解できない言葉の連続にただ首を傾げることしかできなかった。だがアルバの方は呆然とするアストレアのことなど意に介さない。
そもそも今の彼が求めていたのは『アストレアの意見』ではなく『言葉の反響板』。アストレアがぽかんとしている姿に、彼は己の中にある疑問の声を被せて増幅させ、あーでもない、こーでもないと頭の中でディスカッションをひとり繰り広げていただけ。
そしてたった今もそのディスカッションは継続中だ。アストレアの意思に関わりなく、彼女に反響板の役割を勝手に被せている彼は、アストレアに話しかけるテイを装っての独り言を続ける。
「アバロセレンを大気の一部に組み込む。新たな循環の理を、この星に植え付けてやるんだ。となれば……協力者が必要だな」
「そんなの、どこに居るの?」
しかし『反響板』という役目を勝手に負わされていることなど知る由もないアストレアは、彼の話に割り込んできた。するとアルバの視線が今度こそ現実に居る“アストレア”に戻ってくる。彼は少し表情をムッとさせたあと、アストレアの投げた問いに対しそこそこ丁寧な答えを与えた。「あの気違いじみたホムンクルス、あれを使おうかと考えている。あれがペルモンドと同類のような頭を持っているなら、行動のコントロールは容易なはずだからな。認知の歪みを逆手にとって利用すれば洗脳なんてすぐ出来るだろう。ちゃちゃっと洗脳して、駒に仕立て上げればいい」
「えーと、つまり曙の女王とか名乗ってたアレを利用するつもりなの? せっかく封印したのに、解いちゃったら、また面倒なことにならない? 絶対、マダム・モーガンが怒るよ」
「面倒ごとを焚きつけることが目的――」
アストレアが投げかけた指摘に、アルバは反論しようとしたが。けれども思うところがあったのか、彼は途中で言葉を止めた。それから彼は肩を落とすと、額に手を当てながら言う。
「いや。お前が正しい。彼女に何を言われるか分からないな。やめておこう。ひとりでやるしかないか……」
アストレアの指摘を受け、アルバは思い出したのだ。アルストグラン連邦共和国に手を出さないなら見逃してやる、というマダム・モーガンの言葉を。
アストレアの言う通り、曙の女王と名乗っていたあの個体を解き放てばロクなことが起きないだろう。あれはひと月たらずでウン十人を殺害した化け物で、加えてアルバやモーガンのような空間転移能力も持っている。ひとたびあれが暴れ出せば、人間の力だけでは止められない。そんな化け物が再び陽の目を浴びることとなれば、人間たちの庇護者を気取っているマダム・モーガンは激怒するはずだ。マダム・モーガンの報復が『嫌味をネチネチと連ねてくる』ぐらいで済めばいいが、多分そうはならない。次こそは元老どもにチクられる。そしてアルバは元老どもによって首を取られるだろう。
自分ひとりの首を差し出すことによりことが済むなら、それを検討してやらなくもないとアルバは考えているが。とはいえアストレアという連れがいる以上、安易な真似はできない。アストレアまで巻き込むわけにも、また彼女を中途半端に放り出すわけにもいかないからだ。
となればプランを変更するしかない。
「……そうだ。試しに液化アバロセレンを世界各地の湖に投棄してみるか。うまくいけば数か月単位で変化が見られるかもしれん……」
――尚、独り言を呟くアルバは知らなかった。アルストグラン連邦共和国ではたった今、曙の女王と名乗っている個体が氷の中から解き放たれ、大騒動になっていたことを。
「さて、どうなることか。今後が楽しみだ……」
再び独り言の世界に戻っていくアルバは悪人じみた薄気味悪い笑みを浮かべ、部屋を出て行く。消失したホムンクルスたちのことを引き摺っていそうな様子は見られないその背中にアストレアは安堵する反面、気味が悪いとも感じていた。
言動の節々からそれとなく滲み出ている、アルバのヤケっぱちな雰囲気。それは望まずとも得てしまった長すぎる時間を強引に楽しもうとしているような感じがしなくもない。アストレアの前だからアルバは無理をしているのか、それともこれが俗にいう『ハイ』な状態なのか。奇妙な独り言が増えている点も、アストレアの心にどことなく引っ掛かっていた。
「なんだかんだでさ。ジジィ、人生楽しんでそうだよねぇ……」
アストレアだけが残された部屋の中で、アストレアはひとりボソッと呟く。それは誰に話しかけるわけでもない独り言だった。
独り言を零したあと、アストレアがムスッと表情を険しくしたとき。去っていったはずの足音が近付いてくる。四〇一五号室から出て行ったかと思われたアルバが再び戻ってきたのだ。
アルバはリビングルームでぼーっと突っ立っているアストレアを見つけると、彼女の顔を見てこう言った。「言い忘れていた。――エスタ、支度しろ。一時間後、出掛けるぞ」
「出掛ける? えっ、どこに?」
「画廊だ。昔の知り合いに会いに行く。彼女がどうにも気になる発言をしていてな。一応、確認をしておこうかと」
「なんで僕も行くの?」
「良い機会だ。権威におもねるために何番煎じの題材を扱った絵画も、理解不能な彫刻も、クソみたいな空間アートも、その目で見て経験しておくに越したことはないだろう」
アルバはそう言うとニヤリと微笑み、部屋から立ち去っていく。その後を追ってアストレアも四〇一五号室を立ち去っていった。
……そして二人が四〇一五号室を出て行った後のこと。誰もいなくなったはずの部屋の中で、気配を殺すようにゆっくりと、静かに移動する影が現れる――電動車椅子を自動操縦するラップトップコンピューター、人工知能AI:Lの分機だ。
子供のような姿をしたホムンクルスのお目付け役に任命されていた分機のAI:Lは、たった今この部屋で聞いてしまった言葉たちの処理に苦しんでいた。かつてサー・アーサーと呼ばれていた男の大きく変化した言動に、AI:Lの判断プロセスが『警戒』のアラートを発していたのだ。
アストレアが外出前の身支度を手早く済ませていた頃。アルストグラン連邦共和国、シドニー某所にあるアパートの一室では、オーブンにぶち込んだミートパイが焼きあがるのを待つ時間を利用して片手間に仕事をする心理分析官ヴィク・ザカースキーの姿があった。
スパイラルパーマの髪をポニーテールにまとめ、眼鏡を装着する心理分析官ヴィク・ザカースキーは左手に局から支給された携帯電話を持ち、右手には鉛筆を持っている。そして彼女の目の前にあるテーブルの上には、ビッシリと書き込まれたメモ帳、それとマーカーペンによってところどころ文章が強調された一冊の本(デリック・ガーランド氏の自伝本、その刊行版だ)、それから切り抜かれたゴシップ誌の記事が広げられていた。
そして心理分析官ヴィク・ザカースキーが睨むように見つめるのは、ゴシップ誌の切り抜き。これは昨日、別部署にいる知り合い(お弁当作りという共通の趣味から意気投合した、ウェス・デーンズという局員だ)からラドウィグを介して受け取ったものだ。その記事の内容はゴシップ誌らしいもので、セレブたちの世界で起きたちょっとした騒動を取り扱っている。――ただ、その内容がキナ臭かったのだ。
「北米情報分析部の知り合いから回してもらった情報なんですけれど、今あちらの方ではとある抽象画家が話題になっているそうなんです。あと、名門画廊のオーナーの発言が物議を醸しているとも。どちらも、先日発売されたガーランド氏の自伝に関するコメントを出していて……」
心理分析官ヴィク・ザカースキーが連絡を取っていたのは、上司であるテオ・ジョンソン部長。彼女は資料から見出した暫定の結論を、ミートパイが焼きあがるのを待つ時間を利用して上司に報告していたところなのだ。
オーブンから漏れ出る食欲をそそるスパイスの香りにつられて、心理分析官ヴィク・ザカースキーのお腹もグゥーと鳴り始める。しかし食欲を抑える彼女は、目の前にある仕事に集中しようとするのだが。それを邪魔するちょこまかとした存在がやってきた。
スパイスのそそられる匂いにつられてキッチンにやってきたのは、二匹の猫たち。三毛猫ミケランジェロはトコトコと駆け足で飼い主である彼女に近付いてくると、なにかを催促するように彼女の足にズリズリと体を押し付け、アピールを始める。そしてもう一匹の猫、背中に白鳥のような白く大きな翼を持つ白猫パヌイは、その翼でヒューンと滑空しながらキッチンにやってくると、本やメモ帳が散乱しているテーブルの上に降り立った。
テーブルに降り立った白猫パヌイは、心理分析官ヴィク・ザカースキーとテオ・ジョンソン部長のやり取りを盗み聞くかのように耳をピンと立て、ジッと携帯電話を見つめている。そんな白猫パヌイに迷惑がるような視線を送りつけつつ、心理分析官ヴィク・ザカースキーは電話越しの部長に向けてこのように述べた。
「画家のフィル・ブルックス氏は、ガーランド氏の自伝には誤りがあると告発したようです。自身とジェニファー・ホーケン氏との間に交際していたという事実はなく、彼女はあくまで友人であり、それ以上の関係ではなかったと。その翌日、画廊のオーナーであるジェニファー・ホーケン氏はブルックス氏の発言を否定する声明を出したのですが。ただ、その後に続いた彼女の言葉がアウティングに当たるのではと指摘が出ていて……」
『おい、ザカースキー。画家と画商の間に起きたゴシップなんぞ今はどうでもいい。コヨーテ野郎に関する情報だけを教えてくれ』
「ええ、ですから彼に関連があるのではないかと考えているんです」
切羽詰まった様子なテオ・ジョンソン部長の応答に、心理分析官ヴィク・ザカースキーは首を傾げる。というのも彼女は『曙の女王』が脱走し、ASI局内は騒然となっていることなど知らなかったのだ。
理由は分からないが、しかし部長はなんとなく苛立っている様子。そんなわけで心理分析官ヴィク・ザカースキーはなるべく部長の尖った神経を刺激しないよう、声の調子を選びながら言葉を続けていった。
「ホーケン氏はブルックス氏について『自分がゲイだと認められなかった哀れな男。彼の両親に良い顔をするためだけに、当時彼は女である私を利用した』『彼が本当に興味を抱いていたのはアーティーだと思う。私はアーティーと親しかったし、だから、つまり体よく利用されたってわけ』と語っています。続けて彼女は『けれどもアーティーは、奥さんと子供たちしか眼中にない様子だった』と言い、そして再度ブルックス氏に言及して『彼はアーティーを諦めるためにボストンを去り、モントリオールを拠点とするようになった。そして私は寛大だから、過去は水に流して彼の作品を取り扱ってあげている』と語っています。つまり――」
『やはり、子供か。そこがヤツのアキレス腱というわけか。ふむ……』
「はい。私もそう思います」
『それ以外に何か、他の弱みを見つけられないか? そこを突けばヤツを屈服させられるというような何かを――』
「それについては、その……無い、というのが結論です。我々が敵対的刺激を繰り返し与えるほど、向こうからの反撃がより強烈なものになるだけ。そして彼を止める唯一の方法は、その息の根を止めることだけです。しかし殺すことができないのなら、我々はただ防御に徹するしかない」
心理分析官ヴィク・ザカースキーが冷静に述べた言葉。それを聞くテオ・ジョンソン部長が電話越しに息を呑み、黙りこくる様子を彼女は掴んでいた。
やっちゃったかもしれない、と心理分析官ヴィク・ザカースキーは後悔するも後の祭り。言ってしまったのだから今さら忖度して言い換えたところで仕方ないと開き直る彼女は、その見解に至った理由を淡々と語っていくのだった。
「彼は無差別大量殺人を起こすに至るまでのステップを既にすべて終えている状態です。長期間に渡る欲求不満、特に『社会が自分を受け入れてくれない』という意識はガーランド氏の自伝からも推察されますし。若い頃から他責的傾向がかなり見られます。加えて、彼は破滅的な喪失を経験しています。妻、そして子供たちを失っている。それから彼は尊厳すらも失っています。世界最初のSOD、あの件に関しては無実であるとはいえ、しかし世間ではあの騒動を引き起こしたテロリストとして彼の名が知られている。ガーランド氏が自伝の中で『アーティーは無実だ』と訴えていましたが、けれどもそれに対する世間の反応は冷ややかなもの。彼はきっとこの反応を見て失望を深めるはずです」
『……』
「それに現在の彼は社会的に孤立した状態にあると言っても良いでしょう。諭して引き留める者が誰もいない上に、説得を受け入れて立ち止まったところで何らメリットがない状況にある。そして悪いことに彼は恐ろしいほど強大な力を持っている。あと必要なのは力を行使するに相応しいタイミングだけ。――我々にできることは、自分たちが巻き込まれないよう祈ることだけのように思えます」
『……』
「もし彼の娘か息子か、そのどちらかが生きていたのなら、状況も違っていたでしょうね。多分、彼を説得できる可能性があるのは彼の子供たちだけでしょう。デリック氏も自伝の中で『アーティーが自分の子供たちを危険にさらすようなことを絶対にするわけがない。だからこそ断言する、彼が世界最初のSODを生み出したテロリストであるわけがない』と書いているぐらいですから。我が子に対する執着心は強いと考えて良さそうです。しかし……」
『――ザカースキー、お前はあの件についてラドウィグから聞いてなかったのか?』
黙りこくっていたテオ・ジョンソン部長が再び言葉を発した時、心理分析官ヴィク・ザカースキーは予想を超える嫌なモノが飛び出してきそうな予感を察知した。
心理分析官ヴィク・ザカースキーは右手に持っていた鉛筆をメモ帳の上に置く。そして彼女は空いた右手で着ていたTシャツの襟ぐりをギュっと掴んだ――不安を感じるとついやってしまうクセ、それが自然と出てきていた。
その一方、テーブルの上にちょこんと座る白猫パヌイは、彼女が置いた鉛筆を前足でチョイチョイと触り、僅かに動かす。そんな白猫パヌイの様子を見守りつつ眉間に皴を寄せて表情を硬くする心理分析官ヴィク・ザカースキーは、どんな言葉が部長から出てくるのかと身構えた。
「……」
電話の向こう側、テオ・ジョンソン部長が零した重い溜息の音が聞こえてくる。そして数秒の静けさのあと、テオ・ジョンソン部長は重苦しい空気感と共にこのような言葉を吐き出した。
『実は、息子のほうが生きているんだ。ただ、脳神経系だけの状態になっている。あれを生きているというべきなのかは定かではないが……少なくとも、継続的に発せられる脳波は確認されているそうだ』
「分かりました。彼が帰宅次第、か、かッ、確認を……」
『あいつは今、暇をしてるところだ。連絡をすればすぐに出ることだろう。必要なら今すぐラドウィグに確認を取れ』
「はい……」
『……他に分かったことがあれば、追って報告をしろ。以上だ』
憤怒のコヨーテと仇名される男の息子は生きている、しかし脳神経系だけの状態で。……そんな即座には呑み込めない情報をもたらしたあと、テオ・ジョンソン部長は通話を打ち切ろうとした。
だが。直後、心理分析官ヴィク・ザカースキーは伝え忘れていたことを思い出す。そして彼女は必要以上の大声を上げると、通話を打ち切ろうとしていた部長を引きと埋めようとした。「あぁっ、部長! ちょっと待ってください!!」
『どうしたんだ?』
「あの、気になっていることがあるんです。このタイミングでわざわざホーケン氏が『アーティー』という名を出してきたこと、これに何か裏があるんじゃないのかって、そう感じてます。あくまで直感なんですけれども、ホーケン氏の動向をチェックしておくべきではないかと思うんです。もしかしたら近いうちに、ホーケン氏が“憤怒のコヨーテ”と接触するかもしれません。なので……」
『そうか。その可能性も検討しておこう。……以上か?』
「はい、以上です。それでは……」
最後に明かした情報が、実は最も報告したかったことなのだが。それを受け取ったテオ・ジョンソン部長の反応はアッサリとしたもの。ゆえに心理分析官ヴィク・ザカースキーは不安に感じた。部長は本当に検討してくれるのだろうか、と。
だが、そんなことは心配したところでどうしようもないというもの。部長が真剣に取り合ってくれることを祈りつつ、心理分析官ヴィク・ザカースキーは左手に持っていた携帯電話端末をテーブルの上、メモ帳の左隣に置く。
それから顔を上げる彼女は、テオ・ジョンソン部長が発した言葉を思い返し、目を閉じた。
「……脳神経……」
人の脳味噌。彼女はそれを見たことがある。あれは十五年前のこと。十四歳になったばかりの、あの日。深夜に突然、家の中に銃を持った連続殺人鬼が押しかけてきた日のことだ。
強盗を取り押さえようとした彼女の養親は、しかし凶弾に倒れた。母親だったダーシャ・ザカースキーは殺人鬼の後頭部をガラスの花瓶で殴りつけたが、さほどダメージを負わなかった相手からの反撃を受け、倒れた拍子に首をコンソールテーブルの角に強く打ち付け、亡くなった。父親だったフェリックス・ザカースキーも、殺人鬼と格闘を繰り広げた末に銃撃を受けて亡くなった。
あの夜。母親が上げる悲鳴、そして父親の混乱に満ちた怒声を聞いて飛び起きた彼女は、二階にある自室を飛び出して階段を駆け下り、一階の玄関傍にあるキッチンに向かい、アイランドカウンターの陰に隠れていた。助けに来たよと呼び掛けながら階段を駆け降りてくる殺人鬼の声と足音に怯えながら、両親がアイランドカウンターの中に隠していた拳銃を構えて、殺人鬼に見つからないことを心の中で祈る反面、拳銃の安全装置を解除して彼女はその瞬間を待っていた。
そして、その瞬間が来たとき。彼女は迷わずトリガーを引いた。目の前に迫った殺人鬼の額に狙いを定めて、心を無にして、相手の額を撃ち抜いた。
暗闇の中には火薬が描く光が散った。頭痛を引き起こすような爆発音が目の前で起こり、その音は彼女の聴覚を一時的に奪った。それから彼女は熱い返り血を浴びた。そうして相手が死んだことを確信し、暗い闇に沈んでいた家の中に彼女が電灯をともしたとき。彼女はその目で見たのだ。キッチンの床に仰向けに倒れていた大柄の男、その額に空いた大穴の中を。
白い人工的な光を浴びて、てらてらと不気味に光っていた薄桃色のぐじょぐじょとしたモノ。砕けた頭蓋骨から覗いていた脳味噌を見て、急に自分の仕出かしたことが恐ろしく感じられ、彼女は腰を抜かした。銃声を聞いた近隣住民からの通報を受け、警官が家に駆けつけるまでの十五分間。腰を抜かしたまま動けなかったぐらいには、ショックを受けていただろう。
養子を迎えた家庭を狙った殺人事件、九件。あれは一連の事件、唯一の生存者となったヴィク・ザカースキーが犯人を射殺したことで幕を閉じた。彼女は次なる犠牲者が出ることを防げたことを誇りに思う反面、消えることのない悔恨を今も抱え続けている。あの夜、怯えて物陰に隠れるのではなく、犯人を制圧しようと闘っていた両親のもとに駆けつけていれば、両親は死なずに済んだのではないか。そんな後悔の念が、繰り返し何度も蘇ってくるのだ。
「……」
養子縁組で引き取られた子供は皆すべて養親からひどい虐待を受けている。自分がかつてそうだったから、他の養子たちもそうに決まっている。だから養親たちを殺して子供たちを救わなければならない。しかし養子縁組によって引き取られた子供は、既に歪んだ精神を宿している。その子供たちは将来、良くないことをするに決まっているだろう。だからその芽を早くに摘んでおく必要がある。
――そのような身勝手極まりない妄信に囚われていた男の脳味噌は、彼女が犯罪心理学を志すキッカケになった。問題を抱えている人間が“犯罪者”と化さないよう未然に防ぐ、そんな世界を彼女は望んだのだ。
だがASIにスカウトされて入局したあと、彼女は現実を思い知った。治療やセーフティーネットでは消すことが出来ない闇があり、闇があるからこそ保たれている秩序もあることを。そして秩序のために犠牲となる人々が居て、しわ寄せを食い続けている人々が時に強烈な怒りを犯罪というかたちで表すことを。つまり社会というものがある限り、犯罪は消えないのだ。
そうして全てがどうでもよくなり、仕事へのやる気もなくした彼女は料理に打ち込むようになった。美味しくて可愛いもの、それは誰も傷つけないし、完全なる自己満足の世界だからだ。それに料理が凄惨な事件現場を展開することなどない。そこは極めて安全な領域だ。
「……はぁー……」
死んだ男の頭蓋骨から覗いていた脳味噌。あれは彼女にとって重要なものであり、しかし同時に後悔と諦観の象徴でもある。そんな記憶がふと蘇ってしまったこともあり、彼女は溜息を吐くとムッと顔をしかめた。
しかめっ面と共に心理分析官ヴィク・ザカースキーが目を開けたとき。彼女の目の前、テーブルの上にはブスッとした顔の九尾の神狐リシュが鎮座していた。先ほどまでテーブルの上にいたはずの白猫パヌイはいつの間にか床に降りていたようで。白猫パヌイは、心理分析官ヴィク・ザカースキーの足許に寝そべっていた三毛猫ミケランジェロの頭をペロペロと舐め、毛繕いの真似事をしていた。
そして今テーブルの上に鎮座している神狐リシュは、広げられた自伝本の上にお尻をぺったりとつけ、やたらとフサフサもふもふとしている尻尾を忙しなくソワソワと動かしている。ついでにその狐は黄色い目を極限まで細めて、心理分析官ヴィク・ザカースキーを見つめていた。
『嫌な予感がする。人間、お前は俺の相棒が戻ってくるまで家を出るなよ』
神狐リシュは彼女に向かってそう言うと、テーブルの上から飛び降りた。そして白猫パヌイのもとに駆け寄る神狐リシュは、白猫パヌイに対して告げた。『俺はウィルの様子を見てくる。パヌイ、お前は念のためここに残れ』
『ニャイニャイサー、なのニャ~』
毛繕いを中断すると、白猫パヌイはそのような適当な返事をする。その適当な返事を聞き届けると、神狐リシュはひょいと身を翻し、スルッと大気に溶けるように姿を消していった。
突然消えたり、突然現れたりする奇妙な獣たち。そのような存在が身近にいる生活にも慣れてきた心理分析官ヴィク・ザカースキーは、狐が一瞬で姿を消したことにもう動じることはない。その存在たちを理解しようとすることも放棄している彼女は、ただ溜息を零すだけだ。
しかし溜息を零したあと、彼女はハッと気づく。電話越しのテオ・ジョンソン部長が妙にピリピリとしていたことと、先ほどのリシュの発言を繋ぎ合わせて、彼女はひとつの答えに行き付いた。もしかして今、外では何かとんでもない騒動が起こっているのでは、と。
「――そうだ、確認を取らないと……!」
仮に外で何かが起こっていたとしても、しかし心理分析官ヴィク・ザカースキーに出来ることは少ない。けれども、何かをしていなければ気は落ち着かないというもの。そこで彼女はひとまず、部長曰く今は暇をしているらしいラドウィグに連絡を取ってみることにする。先ほど聞いた話、脳神経系だけの状態で生きているという人物の情報を確認するために。
心理分析官ヴィク・ザカースキーは再び携帯電話端末を手に取ると、ラドウィグの番号へと発信する。するとすぐに相手へと繋がり、『うぃーっす』というラドウィグの軽い声が聞こえてきた。