時刻は午後一時半を少しだけ過ぎたところ。血中に雑じったアバロセレンを抜くというプロセスから解放されたラドウィグは、直属上司であるテオ・ジョンソン部長に許可を得たうえで高位技師官僚専用の送迎車を出していた。
そんなわけで運転席にふんぞり返るように座るラドウィグだが、しかし彼は普段のようにハンドルを握ることはしない。この送迎車は万能の人工知能AI:Lによる自動運転機能が搭載されており、ラドウィグは今だけその機能に頼ることにしていたのだ。
ハンドルを握らない代わりに、彼がその手に持つのは食べ物。局を出る直前に、テオ・ジョンソン部長がくれた鯖サンドだ。
鯖サンド五つが雑に詰められていた茶色い紙袋を、彼は膝の上に乗せている。紙袋の中から取り出された鯖サンドたちは、ダッシュボードの上に並べられていた。そしてラドウィグはダッシュボードに並べられている鯖サンドのうちのひとつを掴むと、それを包んでいるアルミホイルを雑に剥き、そしてロクに味わうこともせず食べ物を胃袋の中へと落としていく。
というのも、ラドウィグは鯖サンドに飽きを感じていた。たしかにこれはラドウィグの大好物なのだが、しかし食べ過ぎて嫌いになりそうだ。テオ・ジョンソン部長はこればかりを買ってくる。毎日、毎日、同じ店の同じ鯖サンドだ。サンドウィッチを買いに行く時間的余裕すらないラドウィグに代わって差し入れをしてくれるのはありがたい反面、もうちょっとバラエティー豊かな差し入れにしてほしいと感じていたのだ。
焼いた鯖は好きだ。レタスも。ただ、偶にはトマトも食べたい。それにパストラミやカツレツも。
そういえば心理分析官ヴィク・ザカースキーが一昨日に作ってくれたアンチョビソース掛けの鯖サンドは、レモンと塩の加減が程よくて最高に美味しかったのに、部長が買ってくる某サンドウィッチチェーン店の鯖サンドのパサパサ感や味のカオスさといったら最悪としか言いようがない。特に輪切りレモンの酸味を殺しにかかる甘いヨーグルトソースのマズさといったら――!!
「……そろそろサンドウィッチっつーか、パンも飽きてきたや。カレー食いたい気分だね……」
そんなことをボヤきつつ、ラドウィグはひとつ食べ終わったらアルミホイルをグジャグジャッとまとめて紙袋の中に入れて、また次の食べ物に手を伸ばす。そのように、ただのエネルギー補給作業を手早く済ませる一方。左手にタブレット端末を持つラドウィグは、そのタッチパネルに映し出された短い動画を何度も何度も繰り返し再生していた。
これはAI:Lから数時間前に送られてきた映像。透析を受けている最中にも、何度も何度も見返した動画だ。この動画が撮影された場所は、ラドウィグの父親だとされている人物オーウェン・レーゼが居る病室。そこに突然、曙の女王と名乗る存在が現れた瞬間を動画は捉えていた。
看護師と思われる男性とオーウェン・レーゼが何かを話しているところから、その動画は始まっている。看護師はオーウェン・レーゼに、ASIから支給されたタブレット端末の操作方法を教えていたようだ。ちなみにこの通訳を担当していたのが、動画の撮影者であるロボット。この病室に派遣されていた、AI:Lが搭載されているヒューマノイドだ。
絶対王政時代の頭になってしまっているがために、最新の機器とやらがまったく理解できないオーウェン・レーゼを相手に、最新の機器の使い方を教えようとする看護師のヤキモキとした表情。それと最新技術を説明するための英単語に対応する語彙が異界語に無いことに困惑し、通訳がしどろもどろになっているAI:Lのやりとり。それから「これは魔法 なのか?」「ここでは神官でもない一般人も魔法 を使えるのか?!」とまるで理解していない様子のセリフを連発するオーウェン・レーゼの様子。それらはまるでコメディのようなのだが。滑稽なシーンは突如、物々しい雰囲気に変わる。
タブレット端末を相手に、首をひねりながら格闘していたオーウェン・レーゼだったが。彼はなにか異変に気付いたのか、急に視線を別の場所へと移した。追随するように動画撮影者であるAI:Lの視線、つまりカメラの照準も変化する。カメラは男性二人組の顔から焦点を逸らしてオーウェン・レーゼの視線の先にあるもの、病室の出入り口付近に向けられた。
そしてカメラが捉えたのは、何もない場所から突然立ち上る黒い煙。やがて黒い煙は人のかたちを成していき、そこには穴がいくつか開けられた薄紫色の外套に身を包んだ“曙の女王”が現れる。次に聞こえてきたのはAI:Lが発する合成音声。立ち去りなさい、とAI:Lは“曙の女王”に向けて警告を出していた。
しかし“曙の女王”は警告を無視し、オーウェン・レーゼに近付いてくる。異様な雰囲気を纏う彼女のことを、彼は大きく見開いた目で凝視していた。そして下半身付随で逃げることもできない彼を守ろうとでもしたのか、看護師が“曙の女王”の前に立ち塞がる。けれども“曙の女王”が右手を上げ、そして振り下ろした直後、看護師は途端に意識を失い、操り糸を切られたマリオネットのように床へと崩れ落ちていった(なお“曙の女王”が立ち去ったあと、その看護師は無事に意識を取り戻したとのこと。看護師は単に気絶させられただけで外傷などはないそうだ。ただ、その一方で致命的な傷を負い、シャットダウンしてしまったのがロボットだったらしい。映像を本機に送信したあと、病室に派遣されていたロボットは故障し、沈黙してしまったようだ)。
次に“曙の女王”は進路をふさぐように躍り出てきたロボットに触れるとそれを突き倒した。ロボットが倒されると画面はぐわんと大きく揺れ、視野は九〇度ほど傾く。傾いたカメラが捉えるのは、ベッドの上から動くこともできないオーウェン・レーゼに歩み寄り、彼の肩に触れる“曙の女王”の背中。そして“曙の女王”に触れられた途端、オーウェン・レーゼは苦しみ出したのだ。
その時の彼の姿はまるで、燃え盛る火の中にでも突き落とされたかのようだった。熱気の中に押し込められて酸素を奪われ、焼かれるような暑さに喉を潰されているかのような、そういう悶え方を彼はしていたのだ。しかし炎はその部屋に昇っていなかったし、彼が焼かれていたわけでもない。妙な現象が起きていた。
オーウェン・レーゼが何故か悶え苦しんでいたその最中、彼の肩に触れていた“曙の女王”は小さな声で歌っていた。その歌声はさながら子守唄のよう。しかし歌声は、オーウェン・レーゼを呪い殺そうとでもしているかのような当時の状況とまるで噛み合っていない。
中でもラドウィグが気になったのは、彼の母語で紡がれた歌詞だ。なんとなくだが、ラドウィグにはこの歌が自分に向けられたもののような気がしていたのだ。まるで“曙の女王”が自分の気を引こうとしているかのような、そんな気配を言葉の中から感じてしまう。
Wa daf gii hebtamie ,(あなたは忘れてしまったのだろう)
Ekhin ma'g nie hebtamie .(でも私はそうじゃない)
Ag' es nie zoina ,(まあでも気にしないで)
Ma ednaie eceibh cam feneita .(私も過去を捨てたから)
Sieta wuaid yalii namseta .(私たちは今を生きるべきなんだ)
Pil wag naft eisan .(あなたが既にそうしているように)
ラドウィグが動画の中から聞き取ったのは、この部分だけ。その前にも後にも歌はついていたようだが、あまり明瞭でない歌声であったことも影響して他の部分は鼻歌のようにしか聞こえなかった。
けれども、その鼻声のようにしか聞こえない部分をなんとか聞き分けようと、ラドウィグはこうして繰り返し何度も同じ動画を見ている。その歌に何か意図があるような気がして、ゆえにその意図を突き止めたかったのだ。
歌が終わり、気力が尽きたオーウェン・レーゼの意識がプツンと途切れて動画が静かになると、またラドウィグはその動画を最初の地点へと巻き戻す。それから彼は決して美味しいとはいえない鯖サンドにかぶりつき、そしてすぐにそれを呑み込むと、いつからか助手席に鎮座していた九尾の神狐に目をやった。すると神狐リシュが言う。『女王サマはお前にご執心ってわけか。こりゃあ面倒なことになったな』
「そんな気がしてる。けど、だとしたら何を求められてんだろ? それが分かったら、暴れられるのを未然に防げるような気がするんだけどさ。でもそれが何も分から――」
『いや。暴れる前の宣戦布告だろうな、これは。向こうは俺たちを挑発してんだろ。雁首を並べて挨拶しに来い、ってな。でなけりゃ木偶を治したりしない。未然に防ぐのは無理だと考えた方が良いだろうさ。少なくとも俺は、女王サマの目からその意思を感じたぞ』
ラドウィグの言葉に、神狐リシュはそのような悲観的な見解を示す。鯖サンドにかぶりつき、甘ったるいヨーグルトソースの不愉快な雑味に顔を顰めるラドウィグは、その言葉と共に鯖サンドを呑み込んだ。
――が、直後ラドウィグは神狐リシュの言葉を反芻し、驚く。神狐リシュは今こう言った。木偶を治した、と。木偶というのはラドウィグの父親を指す言葉。察しが悪く機転も利かない彼のことを、昔から神狐リシュは苛立ちを込めてそのように呼んでいるのだ。
となると、だ。神狐リシュの言葉が正しいと仮定した場合、来襲してきたものだとばかり思っていた“曙の女王”はオーウェン・レーゼを傷付けたのではなく、むしろ彼を癒しにきたということになる。しかし神狐リシュが言うには、それは善意による行動ではないと。
「……えっ。じゃあ“曙の女王”は父さんを襲ったんじゃなく、治したの?」
ラドウィグが確認のために問えば、神狐リシュは首を縦に振り頷いてみせた。そして神狐リシュはこのように述べる。
『ああ。展開された術式は、対象の時間を巻き戻すものだった。つまり……治すというか、事故前の状態に戻したんだろう。お前と木偶のふたりでかかってこいと、あの女はそう言いたいんじゃないのか?』
「へぇ。時間を巻き戻して、治した? そんな芸当ができるもんなんだね」
神狐リシュの言葉にラドウィグは適当な返事を返しながら、ゴニョゴニョとひとり考える。
「……」
時間を止めたり、巻き戻す性質。そういえばアバロセレンにはそういう性質があるのかもしれないとかいう仮説を、キミアから聞いたことがあったような。とすると、もしかしてバルロッツィ教授の治癒力って、そういう系統のものだったのかも?
ただ、あの人の場合はあの人にしか適用されなかったものだったろ。でも“曙の女王”は他者にそれを施してみせた。多分、その治癒力というか、アバロセレンからパワーを引き出す能力は、ペルモンド・バルロッツィなんかと比にならないレベルなのかもしれない。下手したらマダム・モーガンとかよりもよっぽど、アバロセレンという名の神の力を使いこなせている存在なのかも?
もしかすると、こちらの世界でも“曙の女王”は天変地異を引き起せるだけの強大な力を持っているのだろうか。だとしたら彼女はコヨーテ野郎よりもよっぽど警戒すべき存在なのでは……?
『確認が今、取れました。仰る通り、オーウェン・レーゼ氏は回復したようです。脊髄の損傷がなぜ触れられただけで回復したのかはさっぱり分かりませんが、今、彼は立って歩けているようです。それから、エージェント・ミルズから追加報告がありました。――オーウェン・レーゼ氏が、彼自身の記憶を取り戻したようです。加えて英語も理解できるようになり、話せるようになったと』
車内に取り付けられたスピーカーから、人工知能AI:Lの合成音声が発せられる。その言葉を聞くラドウィグは口に含んだ鯖サンドの塊をゴクッと呑み込み、唇を固く結ぶ。パサパサとした水分を含まないものが食道壁にへばりつきつつガサガサと落ちていく不快感を味わいつつ、彼は聞こえてきた言葉を疑っていた。
――そうしてAI:Lの自動運転に任せつつ、ラドウィグが目的地に着いたのはその十五分後だった。
「姐さん、何があったんスか!?」
場所はシドニー郊外、某所の医療施設。入口受付は顔パスでスルーし、最短距離を駆け抜けて辿り着いた病室に到着するやいなや、ラドウィグは肩で息をしながらそう声を張り上げる。すると、ラドウィグよりも一足先にここに来ていた“姐さん”――つまりラドウィグらの担当管理官ジュディス・ミルズである――は、ラドウィグの顔を見ると腕を組み、それから簡単に状況を説明した。
「曙の女王と接触した結果、オーウェン・レーゼとしての記憶が戻ったらしく、それと同時に英語が話せるようになったのよ。ついでに麻痺も治ったと。それで今、彼は混乱状態にある。そこにあなたが来て、余計にワケが分からなくなっているのよ。何が現実なのか、と。……まっ、混乱状態にあるのは私も、そしてASIも同じなのだけれど」
ジュディス・ミルズからの説明を受けたあと、ラドウィグは病床を見やる。が、そこには誰も居ない。代わりに、病床のすぐ隣に置かれていたパイプ椅子にはラドウィグが探していた人物、オーウェン・レーゼが座っていた。
無骨で硬いパイプ椅子に深く座るオーウェン・レーゼは、肩を落とし、そして顔を俯かせている。その表情はラドウィグには見えなかったが、しかし今のオーウェン・レーゼが前向きで明るい気分でないことだけは、ラドウィグにも理解できた。ジュディス・ミルズの言うように彼は混乱状態にあるのか、もしくは思い出したことについて深く考えているのか……いずれにせよ、良い話が聞けそうな雰囲気ではない。
そうして当該人物に声を掛けることをラドウィグが躊躇っていると。ラドウィグの背後をトトトと歩いて追いかけていた神狐リシュが余計なことを言う。『無理もない。これの貧弱な頭じゃあ、この複雑な状況を理解できないだろうな』
「リシュ、今そういうのは要らない」
ラドウィグの足許にちょこんと座った神狐リシュを見下ろすラドウィグは、愛らしい見た目に反して全く可愛さが欠片もない性格の狐に釘を刺す。しかし神狐リシュはそんな言葉を聞き流し、ふぁ~と呑気にあくびをするのみ。反省する気など更々ないという神狐リシュの態度に呆れるラドウィグは腕を組むと、小さな溜息を零した。
……そんな感じで、ラドウィグたちは“なんてことない普段通りのやり取り”を行う一方。同じ部屋に居合わせているジュディス・ミルズには、薄気味悪さしか感じられていなかった。
「そこに居るのね、あの狐さんが……」
ジュディス・ミルズはラドウィグの足許を見やりつつ、そのように問う。彼女の目には、そこに居るはずの“狐”の姿は見えていなかった。そして気味悪がるような表情を浮かべているジュディス・ミルズに視線を移したラドウィグは、短くこれだけを答える。
「うっす、居るッス」
神狐リシュに関する詳細を説明しないのは、今はこの場において必要ないと判断したから。そんなわけでラドウィグは「それ以上に言うことはない」という態度をそれとなく匂わせつつ、パイプ椅子に座るオーウェン・レーゼに視線を戻す。
と、そのとき。神狐リシュが動いた。小さな体でトトトと歩く神狐リシュはパイプ椅子の前で立ち止まると、ひょいと飛び上がってオーウェン・レーゼの膝の上に乗る。そして神狐リシュは膝の上に立つと、体をブルブルッと小刻みに震わせたのち、ドライな声でこんなことを言った。
『聞け、木偶。どちらも現実だ。お前の戻ってきた記憶も、もうひとつの記憶も。そしてルドウィルは間違いなくお前の息子だ。お前とルドウィルとの間に血縁がある事実は、ここの連中が確認している。人間の科学力ってやつでな』
神狐リシュの言葉に反応したのか、オーウェン・レーゼは顔を上げた。それから彼はラドウィグの顔を見ると、目を瞬かせる。そしてラドウィグは、これを話しかけても良いというサインだと考えた。ゆえにラドウィグは、オーウェン・レーゼにひとまずこのように声を掛ける。「えっと。どっちで話せばいい? 英語か、それとも」
「英語で大丈夫だ。今は、どうしてか理解できる」
オーウェン・レーゼから返ってきた言葉は、クセも無くサラリとした流暢な“こちらの言語”だった。と、同時にラドウィグは少しだけ恥ずかしい気分になる――オーウェン・レーゼの発した音は訛りのない発音であるのに対し、ラドウィグの発する音声には若干のアルストグラン流ダイアレクトが入っていた上に、若者流の省略言葉が連なっていたからだ。
うっす、ちーっす、うぃーっす、あざっす、等々。そんなアホ丸出しの省略言葉を未だについ使ってしまう自分自身を、ラドウィグは今になって後悔する。そうして後悔からラドウィグが思わず口角をわずかに引き攣らせたとき、それに気付いたのか否かは分からないが、オーウェン・レーゼは小さく微笑む。オーウェン・レーゼはラドウィグの顔を見ると、穏やかな声でこんなことを言った。
「お前はこっちの言葉でも音を省略して喋りがちなんだな」
その声に、揶揄のニュアンスはない。どちらかといえば微笑まし気でもある。多分、彼はただ単に思ったことを正直に言っただけなのだろう。だが、その言葉はチクリとラドウィグの胸に刺さる。ラドウィグには、ハハハと軽く笑ってやりすごすことしかできなかった。
と、そのとき。部屋の隅に控えていたジュディス・ミルズがラドウィグをギロリと睨むと、わざとらしい咳ばらいをする。どうでもいい雑談などせず、さっさと本題に移れと彼女は圧を掛けてきていたのだ。
威圧感の強い管理官ジュディス・ミルズに気圧されたラドウィグは、引き攣らせた口角を更に吊り上げる。そしてラドウィグは管理官の様子を伺いながら、オーウェン・レーゼないし“父親”に、本題を切り出すのだった。
「そ、そんじゃあ、まだ混乱してると思うけど、えっと、聞かせて欲しいんだ。白い髪の女の人がここに来たっしょ? その時に何があったのかを教えて。……あ、この会話、録音してもいい?」
「ああ。構わない」
相手からの返答を聞いたラドウィグは車内で動画を観る際に使っていたタブレット端末を取り出すと、待機状態だった端末を起動させ、液晶画面を手早く操作し、録音機能を備えたソフトウェアを立ち上げる。続けて彼は録音を開始したことを意味する画面表示をオーウェン・レーゼのほうに向けるのだが、しかし相手は小首を傾げるのみ。英語は理解できるようになったらしいが、現代に流通している精密機器のほうはてんでダメなようだ。
まあ、理解できないのならば、その説明を省くだけのこと。ラドウィグは録音を開始したタブレット端末を会話が拾えそうな場所に置くと、誰も利用していないベッドの上に軽く腰を下ろす。そうしてオーウェン・レーゼの前に座ったラドウィグは、話をしてほしいというサインを相手に身振り手振りで送った。
そしてラドウィグのサインを確認すると、オーウェン・レーゼの膝の上に乗っていた神狐リシュが床に降り、ラドウィグの隣へと移る。そうして神狐リシュがベッドの上に飛び乗ったタイミングで、オーウェン・レーゼは語りだした。
「彼女は多分、ユンだ。彼女がここに来て、俺を治したんだ。彼女が肩に触れてきたとき、全身が焼けるように熱くなって、俺は気を失った。次に目覚めた時には痛みも熱い感覚も消えていて、更に記憶が戻って、体を自由に動かせるようになっていた。……話せることはそれぐらいだ」
思いのほか早くに終わったオーウェン・レーゼの話。その内容はラドウィグが車内で観た動画の中にあった内容と相違はなく、質問を重ねる必要もなさそうに思えた。そこでラドウィグは録音を停止しようとタブレット端末に手を伸ばそうとしたのだが、それを察したジュディス・ミルズが制止を求めた。
待って。ジュディス・ミルズはそれだけを言い、ラドウィグの行動を引き留める。ラドウィグは録音停止を寸前で思いとどまった。そしてジュディス・ミルズは録音が継続されていることを確認すると、パイプ椅子に腰かけるオーウェン・レーゼを見やる。少し離れた場所から彼に視線を送るジュディス・ミルズは、やや表情を硬くさせつつ感じた疑問を彼に投げた。「あなたは、ユンという人物を知っていたということなのね? 以前に彼女とどこかで会ったのか、または何か彼女に関する記録を見たのかしら」
「知っているというか、その……――説明が難しいな。あちらの世界での俺はユンを知っているが、だがオーウェンとしての俺はこちら側の彼女を知らない。ある意味では、さっきが初対面だったとも言えるのかもしれない」
ジュディス・ミルズが投げた問い。しかしオーウェン・レーゼからは曖昧な回答しか得られなかった。それどころか、言葉を濁すオーウェン・レーゼは助けを求めるかのようにラドウィグの目を見る始末。また助けを求められたラドウィグは困ったような顔をして肩を竦めるだけ。
これは借問を重ねたところで時間の無駄にしかならないだろう。そう判断したジュディス・ミルズはそこで先ほどこの場で起きた騒動に関する話題を打ち切ると、すぐに次の問いを切り出した。
「なら別の質問を。オーウェン・レーゼとしての記憶を取り戻したのなら、教えて欲しい。あなたが発見された、あの研究所。あそこで何の研究が行われていたのかしら。記録によれば、あなたの兄であるウェイン・レーゼは『オウェイン計画』というものの研究主任だったそうね。そしてオウェイン計画って名前、いかにもあなたと関係がありそう。何か知っているんじゃなくて?」
ウェイン・レーゼ。その名前が出た途端、オーウェン・レーゼの表情が変わった。ラドウィグと似通っているボーっとしているような彼の雰囲気が一転、緊張感に満ちたピリピリとしたものになったのだ。
それを見たジュディス・ミルズは、この日初めての手応えを得る。ゆえに彼女は彼に圧を掛けることにした。彼女はオーウェン・レーゼの顔を凝視し、何か返答するようにと無言の威圧を掛ける。すると視線をジュディス・ミルズから逸らしたオーウェン・レーゼは顔を俯かせた。そして彼は重い溜息を零し、僅かに顎を引いて数秒ほど黙ったあと、小さな声で言った。「兄が俺のために始めた研究だ。事故で下半身不随になった俺を治療するために。少なくとも最初は、そうだった」
「つまり、最初は多くの人間が冬眠され死んでいくような実験ではなかったと」
「さあな、俺に訊かれても困る。……俺は頭がよくないし、はじめは部外者だった。その研究のことはほとんど知らない。俺にも分からないんだ」
オーウェン・レーゼはひとまずそこまで語ると、一度口を噤む。次に彼は再び顔を上げると、ジュディス・ミルズの目を見た。それから彼は彼女に問う。「録音してるんだよな。この音声はどこに行くんだ?」
「ASI、アバロセレン犯罪対策部。まずはそこに行くわ。その後は然るべき司法機関に行くかも」
「ASI。……たしか、諜報機関の?」
ASIという単語を聞くと、途端にオーウェン・レーゼの表情が曇った。これを情報を出し渋る兆候と見たジュディス・ミルズは、ここで強く出ることにする。彼女は脅すような言葉を発して、オーウェン・レーゼを牽制するのだった。
「ええ、そう。ASIこと、アルストグラン秘密情報局に行く。そしてここはASIが所有する医療施設であり、あなたの息子は現在ASIに所属している。あなたの息子はタフですばしっこい優秀なレンジャーになっているわ。それから、現在あなたはASIに拘留されている身。提供する情報次第では刑務所行きもあり得る。二度と太陽を拝めなくなるかもしれない。情報を出し渋ればどうなるかは、分かるわよね?」
「待ってください。その話、オレ、聞いてないんスけど」
しかし、牽制によって釣り上げられたのは情報ではなくラドウィグの警戒心だった。ノリの良いアレクサンダー・コルトと違い、このテのことに関してはかなり察しが悪いラドウィグは、空気を読まないような発言をする。だが、この程度のことで動じるジュディス・ミルズではない。
「仮の話よ。なにも、すぐに逮捕するだなんて言ってないわ。そうなる可能性があるかもしれないという話をしただけ」
強気な態度を維持するジュディス・ミルズに、ラドウィグはあからさまな不信感を示す。腕を固く組み、目元を強張らせるラドウィグは、物言いたげな視線を彼女に送りつけていた。けれどもジュディス・ミルズは察しの悪いラドウィグを疎むような表情で応戦するのみ。両者ともに、引く気配を見せなかった。
同じ組織に所属しているはずなのに、食い違うような言動をする二人。そんな二人を見せられるオーウェン・レーゼにもまた、ラドウィグが抱いたものと同様の警戒心が芽生え始める。ジュディス・ミルズを警戒するように見始めたオーウェン・レーゼは、続いて困惑を帯びた眼差しをラドウィグに向けると、彼はラドウィグにこう訊ねた。
「お前にとって、ASIは信じられる存在なのか?」
ジュディス・ミルズから視線を逸らし、父親とされている男を見やるラドウィグは、その言葉を聞くと意味ありげに深呼吸をした。それから彼は一瞬だけちらりとジュディス・ミルズを見たあとオーウェン・レーゼに視線を戻し、気怠そうな声で含みのある言葉を述べる。
「今、オレの周りに居る人たちのことは、そうだね。この前ここに一緒に来てた上司も、そこの姐さんも。オレは一応、信用してるよ。――……まあ、完全にではないけど」
その言葉のあと、ラドウィグは再度ジュディス・ミルズをジトーッと見やって、不満を抱えていることをアピールした。この子供じみた反撃に、オトナの女であるジュディス・ミルズも苛立ちを覚え始める。怒りをそれとなく滲ませた顔になるジュディス・ミルズは、キツい目つきでラドウィグを睨むが、とはいえそれなりに性根が腐っているラドウィグもその程度の威圧では動じない。
ジュディス・ミルズが怒りを静かに表明する一方で、ラドウィグは明確な不信感を露わにする。組織への忠誠心もなければ愛国心もなく、そして人間嫌いでもあるラドウィグは父親の目を見ると、嘘偽りのない褪めた本心をぶちまけるのだった。
「リシュほどには信用してない。今後もそれは変わらない。組織なんて所詮、人間の集合体だし。他人なんて信じるに値しないよ。……だけど、まあ、ASIの中には私利私欲で判断を誤る人が少ないってことだけは言えるかな。ASIは情報を悪用したりはしないよ。この人たちはただ純粋に、あの研究所で何があったのかを捜査してるだけだから」
相棒である狐ほどには組織を信用していないと言ったラドウィグだが、同時に彼は一定の評価はしているという言葉を述べていた。そしてオーウェン・レーゼは、ラドウィグの発した『あの研究所で何があったのかを捜査してるだけ』という言葉を信じ、ASIに情報を提供することを決意した。
「分かった。お前の言葉を信じよう」
そう言って僅かに微笑むオーウェン・レーゼは、不貞腐れた顔をしているラドウィグの横にちょこんと座り、ラドウィグを静かに見つめている神狐リシュを見る。
ラドウィグが赤ん坊の頃からずっと、ラドウィグを見守るように傍をウロチョロとし続けていたのが、この狐である。いわばラドウィグにとって“兄貴分”である神狐リシュを越える信頼を並の人間が得ることは難しいだろう。その狐の名を敢えて引き合いに出しているあたり、むしろ赤の他人としては相当な信頼をラドウィグから得ているのではないか。――彼にはそう思えたのだ。
そして目を伏せる彼は、オーウェン・レーゼとしての彼の記憶を辿る。彼は、大嫌いであった家族について覚えていることをポツポツと語り始めた。
「レーゼ家はキッパリと性質が別れる。知能は高いが人の心を失くした邪悪な学者と、人並み以下の知能と人並みの倫理観を持った凡人のふたつに。兄のウェインは知能が高いほうで、俺は幸いにも凡人のほうだった」
「……」
「俺の取り柄は機敏さと動体視力だけ。俺は両親や兄と違ってアバロセレンや学業に興味を持つことなく、ラグビーにだけのめり込んだ。ラグビーの経歴だけで進学したぐらいだ。お陰で両親からは見切りを付けられた。スポーツしかできない馬鹿はレーゼ家にいらないと。だが俺は気にしなかった。あの家族と縁を切られるならそれでいいと思っていたし、ラグビーで結果を出してニュージーランドに行けば全て解決すると信じていたから。けれど俺は交通事故に遭って下半身不随になり、全ての計画が崩れ去った。そこで出てきたのが兄のウェインだ」
語りながらオーウェン・レーゼが思い出していたのは、何かにつけて兄と差を付けられていた子供時代のことだ。
兄のウェインは文武両道の秀才で、外見も整っており、相手を自分の良いように転がすための嘘を編むことが得意で、とにかく人気者だった。そんな兄は私立のエリート学園でのびのびと快適に過ごし、持ち前のサイコパス気質で『学園の帝王』にのし上がり、また両親からも深く愛されて大事にされていた一方。識字困難という学習障害の一種を抱えていた弟のオーウェンは、五歳を迎える頃には既に両親から見捨てられていて、寂しい子供時代を過ごしていた。
両親から存在を無視される日々。ひとりの人間としてオーウェンを扱ってくれるのは、レーゼ家の邸宅で働いている使用人たちだけ。それに、オーウェンの背景を知らない同級生たちや周辺住民たちは、みすぼらしい姿で学校に通っていたオーウェンを「汚い」と蔑み、排斥を試みてくる始末。幼い頃、彼には居場所がなかった。
幸い、オーウェンが十二歳の時に巡り合った体育科の教師がレーゼ家の家庭事情に気付き、オーウェンに“クラブチーム”という居場所を与えてくれたことで、オーウェンは素行不良にならずに済んだが。もし、その出会いがなければ今の彼に備わっているような『普通の常識、普通の倫理観、当たり前の道徳観』を習得することなどできなかっただろう。
そんな風に、オーウェンは長いこと家族から、そして周囲から存在を無視され続けていたのだが。しかし兄のウェインだけは違った。兄は弟のことを可愛がっていたし、なんならその愛情の程度は溺愛といっても差し支えない域に達していたことだろう。
だが、それは決して人間として扱われていたわけではない。兄のウェインにとって、弟のオーウェンは『何をしても許されるペット』だった。
「兄は弟である俺のことが大好きだったんだ、気持ち悪いほどに。何も考えずに楕円形のボールを追い駆ける俺の姿が愛らしいと、兄は口癖のようによく言っていた。……不出来だった俺は、兄にとっては飼い犬も同然だったんだ。だから兄は俺が運動機能を失くしたとき、ひどくショックを受けたらしい。ペットの犬が元気に走り回る姿が二度と見られないと知って、大泣きしたんだ」
兄のウェインには、自由に使えるお金というものを両親から与えられていた。その金額は、子供のお小遣いにしてはかなり多い額。苦学生がアルバイトを渡り歩き、やっと手にするひと月の稼ぎ分ぐらいは与えられていたことだろう。兄はそのお金で度々、弟にプレゼントを購入していた。だが、そのプレゼントはどれもふざけたものばかり。
ある時、兄はプレゼントとして子供用のハーネスを渡してきた。親と手を繋いでくれない二歳児の安全を確保するために使うようなハーネスを、当時八歳のオーウェンに渡してきたことがある。そしてオーウェンが十五歳のときに貰った兄からのプレゼントは、大人たちのいかがわしい遊びの際に使われるような首輪……。
ジャケットやTシャツ、ピアスやブレスレット、腕時計、マニキュアや香水といった、辛うじてマシだと思えるプレゼントもあったが、それも所詮は「兄が、弟にこれを身に着けてほしいと一方的に思った」ものばかり。兄が一度でも弟の意見を聞いたことはなかったし、そもそも尋ねられたこともなかった。
だが、それは当然の態度だ。兄にとって、弟のオーウェンは人間ではなく飼い犬だったのだから。飼い犬に首輪やハーネスを取り付けるのは不自然なことではないし、それに飼い主の中には「似合うと思ったから」という理由から犬に本来は必要のない服を着せたり、アクセサリーを施す者もいる。
そして自分は自我を持つひとりの人間であると自覚していた弟のオーウェンは、兄から強要されない限りはそれらを身に着けることなどなかった。一度だけ、兄によって無理やりピアスホールを耳に開けられ、強引にピアスを飾られたことはあったが、兄からの贈り物を身に着けたのはその一度きりのみ。大半は貰った翌日に捨て、金目のものだけ近所の質屋に売り払っていた。
人間として扱われない、あの屈辱。今あの当時のことを思い返しても、良い思いは全くしない。
「それで、弟であるあなたを治療するために研究を始めたと。そういうことなのね?」
思い出した不快感から少し表情を強張らせていたオーウェン・レーゼに、ジュディス・ミルズは問いを重ねて行く。そして投げられた問いに、オーウェン・レーゼは首を少しだけ横に振るという反応を見せる。その後に続いた彼の返答も、ハッキリとは断言しない曖昧なものだった。「俺は、何も知らなかった。兄が裏で何をやっていたのかを。馬鹿だった俺はいつか回復すると信じて、リハビリに打ち込んでいただけだった」
「知らなかった? でも先ほど、あなたは確かにこう言った。兄が自分のために始めた研究だと。あなたは――」
「すまない。俺は頭が良くない。結論から順序立てて話すことができないんだ。最初から順を追って話すことしかできない。だから今は、ただ聞いてくれると助かる」
鍵となる情報だけが欲しいジュディス・ミルズは、オーウェン・レーゼのその言葉に顔を顰めさせた。が、そのジュディス・ミルズの態度に顔を顰める者がいる――クソ生意気なラドウィグだ。
ギョロッと大きいはずの猫目の一方を糸のような細さに眇めるラドウィグは、ジュディス・ミルズに対して責め立てるような視線を送りつけている。黙って話を聞きなよ先輩、とでも言いたげな舐め腐った目だ。
ジュディス・ミルズの苛立ちは着実に募っていく。彼女の苛立ちに呼応するように、彼女の下瞼はピクピクと痙攣しはじめた。しかし『冷静で頼りがいのあるオトナの女』であることを貫くジュディス・ミルズは、グッと堪えて取り乱すような真似はしない。そしてラドウィグもジュディス・ミルズが反撃してこないことを察すると、そこで手打ちとする。彼は壁にもたれ掛かるように立つジュディス・ミルズから視線を外し、目の前に座るオーウェン・レーゼを見やった。
その目配せを合図にオーウェン・レーゼは再び話を始める。
「事故に遭い、下半身付随になったあと。俺は俺を支えてくれていた恋人ユリヤと共に、リハビリを続けていた。二年間、二人で頑張っていた。だがある日突然、ユリヤが死んだ。感電死だったと、彼女の両親から聞いた。大雨の日に雷を受けて死んだと。――あのとき、妙な胸騒ぎを覚えた。警察は『運悪く雷に打たれた』と結論付けたが、違うような気がしたんだ。電撃を扱う覚醒者、それが身近に居たからな。兄の配偶者で共同研究者のユラン。彼女がユリヤを殺したと、そんな気がしたんだ」
唇を固く結ぶジュディス・ミルズは、それを妨害しなかった。恋人の話などどうでもいいと内心思いながら聞いていた彼女だが、しかし話の中で登場した“ユラン”という人名にゾワッと背筋が震えるのを感じていた。というのも、その名はジュディス・ミルズにとって聞き覚えのあるものだったからだ。
あれは、およそ一八年前のこと。ジュディス・ミルズが“アレクサンドラ・コールドウェル”という名の猛獣と行動を共にし始めたばかりの頃の話。当時、裏社会で名を馳せている夫妻がいた。それがレーゼ夫妻、オーウェンとユランの二人だ。
当時、レーゼ夫妻には「アバロセレンからホムンクルスを創り出す術を見つけたのではないか」という疑惑が掛けられていた。だが、彼らの悪行はそれだけではない。彼らにとって都合の悪い人物や興味深い対象を拉致監禁することなど、彼らにとっては日常茶飯事も同然。邪魔者は容赦なく殺していくし、彼らを追っていた捜査機関の担当者も幾人か行方不明(事実上の殉職だ。尚、未だに殉職した者たちの遺体は見つかっていない)となっている。そしてジュディス・ミルズも、かつてこの夫妻と間接的だが接点を持っていた。
十八年前のこと。カイザー・ブルーメ研究所の一室には、ユラン・レーゼの仕掛けた罠に嵌まって――または罠と知りつつも自ら罠を踏み抜きに行って――、囚われの身となっていたペルモンド・バルロッツィが居た。そしてASIの上層部からジュディス・ミルズに課せられたミッションは、ペルモンド・バルロッツィの救出。あの時、彼女は警備をすり抜けて研究所に潜り込み、ペルモンド・バルロッツィの囚われている部屋まで辿り着いたのだが……――彼女の苦労は無駄骨に終わった。上層部はペルモンド・バルロッツィを連れて帰ってこいと言っていたが、しかし本人は帰らないと言って聞かず、結局彼は留まることを選択したためだ。
当時のジュディス・ミルズは、ペルモンド・バルロッツィの狂気じみた選択もとい振る舞いに閉口していたが。その一方で彼を監禁し痛めつけた女、ユラン・レーゼの所業にも驚いていた。高位技師官僚という肩書を恐れず、徹底的に彼を痛めつけて拷問しようとした真の狂人に、彼女は身の毛がよだつ思いをさせられたものだ。
そんなわけで“ユラン・レーゼ”という人物の恐ろしさは知っていたジュディス・ミルズだが。しかし彼女が把握していなかった情報を、たった今オーウェン・レーゼがさらりと提供した。それはユラン・レーゼが『電撃を扱う覚醒者』であったという事実。この情報はジュディス・ミルズのみならず、ASIも把握していなかったはずだ。
だが、この程度の情報は始まりに過ぎない。記憶を辿るオーウェン・レーゼは、次々と衝撃的な内容の証言を発していくのだった。
「予感が当たっていたと知ったのは、ユリヤの死から二か月が経過した頃だ。あるとき兄が病室を訪ねてきて、俺に言った。お前を治すための研究をしている、と。兄は、俺にはサッパリ意味の分からない難しい話を一方的に喋り続けた後、言った。ユリヤとかいう女は目障りだからユランに消してもらった、とな。だが話はそこで終わらなかった。兄は最悪な話をもっと続けた」
「……」
「兄は研究の為に、ホームレスや孤児たちを誘拐していたそうだ。彼らを俺と同じ下半身不随の状態にして、実験台にしていたと。百人ぐらいが死んだがついぞ結果は得られなかった、そう言って兄は嗤っていた。それから兄は言った。だから方針を変えることにした。今の文明でお前を治療できないなら未来に託す。だからお前を冬眠させる、と」
オーウェン・レーゼの証言を、ラドウィグもジュディス・ミルズも黙って聞くことしかできなかった。彼から出てきた言葉があまりにもショッキングすぎて、返すべき言葉も質問も思い浮かばなかったのだ。ただ淡々と語り続けるオーウェン・レーゼの声だけが、録音データに記録されていく。
「ユリヤが目の前から消えて、当時の俺は失意の底に沈んでいた。そんな状況で、更なる事実を知らされたんだ。俺のせいで殺された罪もない人々がユリヤを含め大勢いて、未来があったはずの子供までも巻き込まれていたんだと。だから、俺は死のうと思った。俺はベッドのシーツで輪を作って、首を吊った。兄の思い通りに事を進めさせたくなかったからだ。それで死んだはずだった。それなのに俺は兄の望んだ通り、冬眠させられていたわけだ。……――まあ、そういう感じだ」
一方的で歪んだ“溺愛”をしてくる兄ウェインが、弟オーウェンもあずかり知らぬところで勝手に推し進めた『弟を治すための研究』。その研究のせいで弟は人生を破壊し尽され、そして兄のせいで大きすぎる罪の意識を抱かざるを得なくなったわけだ。
自分のせいで恋人は殺された。そして面識もない無辜の人々が多数、兄のオモチャとなり捨てられていった。けれども自分は何も知らずに、長いことのうのうと生きていた。……そうして抱えることになった罪の意識の大きさは、他人に想像できるはずもない。彼が下した決断を、非難できる者などいないだろう。それに、そのような記憶を掘り起こさせるのは残酷な行いだ。
だが仕事上それをやらなければならないのがASIである。仕方なくラドウィグは、オーウェン・レーゼの話の中で抜けていた情報、詳細な時期について訊ねることにする。「……ちなみに、その話はいつのこと? 西暦で教えて欲しい」
「ユリヤの死の真相を知らされたのは四二五八年の三月四日、首を括ったのはその三日後のことだ。そしてユリヤが殺されたのは同じ年の一月十二日。その日は一日中、雷雨だったのを覚えている」
「父さんが事故に遭って、下半身不随になったっていうのはいつのこと?」
「事故に遭ったのが四二五五年、十一月二十八日だ。たしか、そうだった」
「その事故の詳細って、覚えてたりする?」
「ああ。あれは試合の帰り道だ。寮に戻る道すがらで、ある親子を見かけたんだ。母親と父親らしき人物が言い争いをしていて、その横で三歳ぐらいの男の子が立ち尽くしていた。そしてあの時、突然男の子が車道に飛び出したんだ。あの子の視線の先にヒキガエルが居たから、たぶんそれを追いかけようとしたんだろう。それで、いつの間にか体が動いていた。詳しいことはよく覚えていないが、気が付いたときには俺の体の上に青いセダンが乗り上げていたんだ」
「その子供は無事だった感じ?」
「俺が歩道に向かってあの子を突き飛ばしたときに、あの子は膝をすりむいたが。それぐらいの怪我で済んでいたはずだ」
「なるほど。なら、過去にメディアとかで取り上げられたことある?」
「幾人かに取材を申し込まれたが、断った。だが兄が代わりに受けていた。兄が取材に答えた記事や映像が当時、出回っていたはずだ」
オーウェン・レーゼから新たな情報を引き出したラドウィグは、ジャケットの中からメモ帳とペン(先日テオ・ジョンソン部長に釘を刺されたこともあり、数日前から持ち歩くようになったものだ)を取り出すと、聞いた内容に関することを軽く記録する。局に戻った後、その事故について調べてみようと考えたのだ。
ラドウィグが珍しく真面目にメモを取っていた一方、ジュディス・ミルズは既に調べ物を始めている。彼女は、彼女に支給されていたタブレット端末を使って、オンライン上に転がっているデータを検索していたらしい。そうして約三〇年前の新聞記事に辿り着いたジュディス・ミルズはその内容にざっと目を通すと、こんな言葉を漏らした。
「あら。あなた、助けたはずの男の子の両親に訴えられたのね。息子を怪我させた、って。けれど両親は世間から大バッシングを浴び、訴訟を取り下げてる。……助けたのに、この仕打ちって。とことんツイてないのね」
「ああ。助けたことを後悔していないと言いたいが。訴訟の報せを聞いた時には一瞬、後悔した。その後に意気揚々と記者たちの取材に応える兄の姿を報道番組で見て、そして泣くユリヤの顔を見て、更に後悔したよ。馬鹿なことをしたなと。目の前にいた子供ひとりを助けた結果、より多くの無関係な人々が殺される未来につながったのだから……」
ジュディス・ミルズの言葉に、オーウェン・レーゼはそのような返事を述べる。その言葉のあと彼の表情はどんよりと曇った。が、彼は目の前に座るラドウィグを見やると、その曇りを消す。代わりに、オーウェン・レーゼの目は過去を懐かしむようなものになった。
そして彼は、誰に言うわけでもない独り言を零す。
「今思えば、フリアはユリヤにそっくりだった。顔も、気の強くて頑固な性格も。それに向こうの世界での俺には肉親が居なかったし、そのことを何とも思っていなかった。きっと、それは俺が無意識で望んでいたものが反映された結果だったのかもな……」
オーウェン・レーゼから出てきた人名に、ラドウィグは苦い笑みを浮かべる。フリア、それはラドウィグの母の名前だからだ。とにかくラドウィグとそりが合わなくて、顔を合わせるたびに仕様もない言い争いを繰り広げてしまっていた、そんな母の名前……。
ふと蘇ってしまった気まずい思い出の数々から目を背けるべく、ラドウィグはひとつ咳ばらいをする。そして話題を転換すべく、彼はこのような話をオーウェン・レーゼに振った。「ユリヤってひとのフルネームを教えて。そのひとの事件、調べ直したいんだ」
「ユリヤ・ニコラエヴナ・コヴァレンコ。ブレードウッドの牧草地で彼女の遺体が見つかったと、そう聞いている」
ユリヤ・ニコラエヴナ・コヴァレンコ。そんな長い名前を、ラドウィグは手元のメモに転記していく。次に書いた人名をサッと丸で囲むと、その下に彼は短い矢印を書く。続いてラドウィグは矢印の下に箇条書きのリストを作り、短く一文にまとめた事実を列挙していった。
発見地、ブレードウッドの牧草地。落雷による事故死で処理された模様。しかし殺人の疑惑あり? 容疑者、ユラン・レーゼの可能性。容疑者は覚醒者、発電能力の保有者だった模様。もしかしたら類似の事件が他にあるかも? ……――そのような六項をザッと書いたあと、ラドウィグはメモから目を逸らす。再び彼はオーウェン・レーゼを見た。と、そのタイミングでジュディス・ミルズがあることをボソッと呟く。
「……あら。東スラヴ系の名前なのね……」
東スラヴ系の人名。なぜジュディス・ミルズがその項目に注目したのかといえば、それはラドウィグに関係していたからだ。
ジュディス・ミルズが思い出していたのは、リー・ダルトンによるレポートの内容。主席情報分析官リー・ダルトンがラドウィグから採取したDNAを調べたのだが、そこでオーウェン・レーゼとの血縁が判明したのと同時にあることが分かっていた。それはラドウィグのルーツ。レポートによるとラドウィグには東スラヴ系の血が入っているらしく、恐らくそれは母方由来のものと推測されるのだとか。
これは奇妙な一致である。ジュディス・ミルズにはそう思えたのだ。ラドウィグの父親であると目されている男、彼の亡き婚約者は東スラヴ系にルーツがありそうな名前をしている。だが、可能性について考えて行くとやはり時系列の問題が生じる。ユリヤという人物が亡くなったのは三〇年以上前で、そしてラドウィグは二十七歳だ。ユリヤという人物がラドウィグの母親であるという可能性はない。しかし……――いや、どうせ考えたところで何も分からないのだろう。
「……」
よくよく観察してみれば、まあ少しは東方の雰囲気をまとっているように感じられなくはない目鼻立ちをしている。そんなラドウィグを少し離れた場所から眺めつつ、ジュディス・ミルズが取り出していたタブレット端末をカバンの中に戻したとき。スッと立ち上がるラドウィグが、ふとこんなことをオーウェン・レーゼに訊ねた。
「それで。理由は分からないけど、麻痺は治ったんだよね。なら、立てる?」
ラドウィグの問いに、オーウェン・レーゼは無言で首を縦に振るという反応を見せる。そしてオーウェン・レーゼは、それまで座っていたパイプ椅子から自然に立ち上がってみせた。
その動作は至って軽やかで、健常者のそれと全く大差ない。つい先日まではリハビリすらままならないような悪いコンディションだったはずなのに、それを感じさせない自然さだ。
「……今朝まで脚の感覚が全く無かったはずなのに、今はこの通りだ」
オーウェン・レーゼは小声でそう言うと、再びパイプ椅子に腰を下ろす。時間にして三〇秒ほど、たった一瞬の起立だったが、とはいえその動作はひどく疲れるようで。椅子に戻ったときの彼の顔は心なしか、血の気が引いているようにも見えていた――損傷はまるで始めから無かったかのように消失したものの、体力面までは回復しなかったようだ。
曙の女王と呼ばれる存在。彼女は損傷していた部分のみを狙って癒したのか、はたまたこれが彼女の能力の限界なのか。そんなことをふとラドウィグが考え始めたとき。ちょうど同じタイミングで、ジュディス・ミルズが独り言を零した。
「前の高位技師官僚を思い出す。あの超人的な回復力、あれに似た気味悪さがあるわね。これもアバロセレンに関連しているのかしら……」
その独り言は誰に話しかけたわけでもなく、問うたわけでもなかったのだが。彼女の独り言に、考え事をグニャングニャンといじくりまわしていた所為で気が緩んでいたラドウィグが反応する。
「そうッスねぇ。アバロセレンってモノの時間を好き放題に操作できるらしいんで、細胞の時間を止めて疑似的な不死を再現したりできますし。もしかすると時間を先に進めて治癒のスピードを加速させたり、または事故前の状態に巻き戻して治したのかもしれないッスねー。それに曙の女王はまさにアバロセレンから創られた存在なワケですし、彼女ならアバロセレンの力を意のままに引き出せるのかもしれない。きっとマダムとかコヨーテ野郎よりも自由に、かつ強力に――」
アバロセレンの特性の一つ、時間操作。これはアバロセレンの本体とでも言うべき存在、とあるカラスからの受け売りなのだが。それをボトボトと零したあと、ラドウィグはハッと我に返り、口を噤む。これはASI局員の前で言うべきことではなかったかもしれない、と。
だがラドウィグは時間を操作することができない。直前の動作を取り消すことなど、彼にはできなかった。そんなラドウィグは恐る恐る振り返り、後ろにいるASI局員、すなわちジュディス・ミルズの顔色を伺う。彼女は今日一番のしかめっ面をしていた。
「へぇ、時間操作? それは初耳ね。想像力がアバロセレンに影響を与えることは知っているけど、アバロセレンが時間という概念に干渉するだなんて話、今まで聞いたことはなかったわね。メカニズムは理解できないけれど、でもその説は納得できなくもないわ」
お前、まだ何か情報を故意に隠しているな? ……わざとらしく冗長に話しながら、責め立てるような視線を送るジュディス・ミルズの目が、ギロリとラドウィグを捉えている。しかし賢く姑息に立ち回れないラドウィグは、ヘタクソな嘘をついて誤魔化すことしかできなかった。
「ハハハ……その、なんというか……研究所勤め時代に先輩たちから聞いた仮説、みたいな? クロノス時間とカイロス時間とか、うんちゃら~って、その……うっす、そんな感じッス」
「へぇー、研究所で聞いたの? ならASIも、そういった情報は把握していてもおかしくはないのだけれど。それに、おかしいわね。今の高位技師官僚なら、そういう情報は包み隠さずに提供してくれるはずだわー。でも、そんな話、今のところ私は聞いていない」
ラドウィグがその場で取り繕ったヘタクソな嘘の粗を、ジュディス・ミルズはじわじわと炙り出していく。そんな彼女が掛けてくる圧は、ラドウィグの横に佇んでいた神狐リシュにも効いたらしく、狐は首をキョロキョロと頻りに動かし、挙動不審そうな振る舞いを見せていた。
挙句、ラドウィグを追い詰める者が増える。オーウェン・レーゼだ。
「まさか、ルドウィル、お前はアバロセレンの研究を……?」
アバロセレン研究者を親族に持ち、だからこそアバロセレンというものに好意的な感情を抱いていなかったオーウェン・レーゼは、人間性を疑うかのような冷たすぎる目をラドウィグに向けてきた。この視線に堪えかねたラドウィグは大慌てで、これまでの自身の経緯と背景の事情を大まかに説明する。「びょ、病理医を目指して医学部に進んだけど、前の高位技師官僚になんでか気に入られて、んで、その、アバロセレン工学に転向させられて、そっちの技士になった……っていう感じ? 彼の下で働いてたこともあったよ」
「高位技師官僚……――まさか、あのペルモンド・バルロッツィか?!」
「うん、そう。あのひと。とはいえオレは『アバロセレン技士』の資格を持ってるだけで研究職に就いてたわけじゃないんだ。研究所にも勤めてたけど、やってた仕事っていえば雑用か、またはSOD研究に付随して湧いてくる害獣の駆除だったし。だから、その、腕っぷしを買われてた感じかな?」
「腕っぷしを買われてアバロセレン技士に? どういうことだ?」
「んー。そのー……学生の頃、街中で勧誘されたのがキッカケでジムに通ってたことがあったんだ。総合格闘技のやつに。そこのトレーナーが前の高位技師官僚と親しかったらしくて、そこから情報が彼に行ったみたいでさ。何故かは分からないけど、直々に彼から『うちの学部に来いよ』って、すっごい口説かれたんだ。それで色々と思うこともあって、アバロセレン工学に転向した。で、卒業したあとは養父のとこの研究所に就職するつもりでいたけど、うちに来いってペルモンド・バルロッツィにうるさく声かけられて、それで仕方なくアルフレッド工学研究所に――」
「お前の養父もアバロセレン技士だったのか?」
「そう。カイザー・ブルーメ博士。こっちに来てからはずっと、彼の世話になってた」
「その名前、聞き覚えがある。まさか、レーゼ家と関わりがある人間か……?」
「うん。ウェイン・レーゼの友人で雇用者だった、って資料で見たよ。びっくりした。オレは当時なにも知らなかったけど、きっとカイザーも裏で悪いことしてたんだろうね。だから彼は二年前に殺されたんだ。アバロセレンを悪用してる人間を懲らしめる、闇の組織みたいな連中に。……んで、オレはその組織に首根っこ掴まれて、最近まで裏社会の監視者みたいな仕事をやらされてたんだけど。そこの元ボスが暴走して、今とんでもないことが起きててさ。オレはその騒動に乗じてASIに籍を移して今に至る、っていう流れかなぁ」
「……」
「アバロセレンの悪用を取り締まってた側が、終わらないイタチごっこに堪えられなくて怒りが振り切れちゃったんだ。んで元ボスは、諸悪の根源である人間を滅ぼせば問題解決っていう考えに至ったらしくて。あぁ、ちなみにその元ボスは子供たちをウェインとユランの二人組に奪われたみたいなんだ。ついでに彼があのマッドサイエンティスト夫妻のどちらかをぶっ殺したんじゃないのかってASIは見てるらしい、証拠も遺体もまだ出てないけどね。そしてオレの今一番優先すべきミッションはその元ボスの息の根を止めることなんだけど、この方策がまったく思いつかなくて――」
ラドウィグが語った話だが。オーウェン・レーゼには、後半の部分が殆ど理解できていない模様。闇の組織という言葉が出てきた途端、目を見開いて呆然としていたオーウェン・レーゼの様子から察するに、ラドウィグの滅茶苦茶な半生はすぐに飲み込めるような内容ではなかったようだ。
そして滅茶苦茶な話をしなければならないラドウィグのほうも、喋りながら面倒くさいなぁと感じ始めていた頃。ちょうどいいタイミングで、話を邪魔する音が鳴る。ラドウィグが穿いていたボトムスの腰ポケットに挿していた携帯端末が、着信音を鳴らしていた。
「あっ。部長からの連絡ッス」
音の種類から、これはテオ・ジョンソン部長からの連絡だなと判断したラドウィグは短くそれだけを言うと、腰ポケットから携帯端末を取り出しつつそそくさと病室から出て行く。神狐リシュも彼の後を追ってトコトコと歩き、廊下へと出て行った。
そうしてラドウィグが出て行ったあと、ジュディス・ミルズが入れ違うように彼が居た場所にスッと収まる。オーウェン・レーゼの目の前に移動するジュディス・ミルズは彼の前に静かに座ると、こんなことをオーウェン・レーゼに言った。「ずっと疑ってたけど……――あなたたち、本当に親子なのね」
「どうしてそう思った?」
「今の、親子の会話みたいだったから。彼はあの年齢にしてはえらく冷めてる一方でかなり幼稚なところがあるけれど、にしてもさっきの彼は本当に『パパと会話する子供』みたいに思えた。だから、そう思ったのよ」
「なるほど……」
「正直言うと、私はあなたたちの間に血縁があるって話には懐疑的。時系列に矛盾が生じるから信じてはいない、たとえ遺伝子が血縁を証明していたとしてもね。それに私の目にはあなたも彼も同世代の若者にしか見えないし。見た目は親子というより、兄弟っていう感じで。でも……」
でも、親子と言われれば確かに納得できる特徴はある。そんな続きの言葉をジュディス・ミルズが言おうとした時だ。廊下に出ていたラドウィグが、慌ただしい様子で室内に戻ってくる。ラドウィグの顔はすっかり蒼褪めていた。
何か最悪な事態が起きたのか。ジュディス・ミルズはそう覚悟し、息を呑む。そしてラドウィグが告げてきたのは、やはり事態に急展開が見られたとの報告だった。
「ボストンのSODが消失したって、報告が!! 今すぐ局に戻れって部長が言ってます。あっ、あと、カイザー・ブルーメ研究所跡地の二人にマダム・モーガンがうんたらかんたらしたとかで、人間の体が戻ったとか、なんとかってダルトンが報告してるらしいっス!!」
その言葉を聞くなりジュディス・ミルズは立ち上がると、会話を長く録音していたタブレット端末を手に取り、録音を停止する。そしてその端末を置いたラドウィグの代わりに彼女が回収すると、彼女はサッと素早く荷物を纏め、ラドウィグと共に駆け足で部屋を出て行った。――慌ただしく去っていったASI局員たちを黙って見送るオーウェン・レーゼは、事情も分からぬまま部屋に置き去りにされることとなった。
そして廊下を小走りに駆け抜けながら、ジュディス・ミルズは言う。
「アバロセレンが絡むとロクでもないことしか起こらないわね」
*
人工知能が制御する自動車に乗り込んだラドウィグらが帰還を急いでいた頃。同じ時間、違う場所ではまた違う動きが見られていた。
「世界最初のSODが消えました、めでたしめでたし……――とはいかなさそうだな」
そうボヤいていたのは、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官。彼が居たのは連邦捜査局シドニー支局の地下二階、遺体安置所である。そして彼の話し相手は、ちょうど暇をしていた検視官助手ハリエット・ダヴェンポート。ラジオから流れてくる速報が、彼らの話題となっていた。
それはボストン上空のSODが消えたという報せ。ニュースを読み上げるキャスターの声は淡々としていて、それは世紀の大ニュースであるとは全く感じさせない声色だった。だが、その内容は原稿を記した者の喜びに満ちているようにも感じられなくもない。
しかし、SODといえばアバロセレン絡みの事象だ。アバロセレンに関連したイヤな事件と向き合ってきたエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官には嫌な予感しかしていなかった。
そして気まずそうな表情をする検視官助手ダヴェンポートは、その嫌な予感を確信に変えるようなことを言う。
「私、その、支局長が会見を行う前に、支局長がヴィンソン先生に電話をしてるところを見ちゃったんです。引退したヴィンソン先生に一時的に復帰してもらいたいって、支局長はそう頼み込んでいるようでした。だから、嫌なことが起こる予感がしています」
アバロセレンの密輸に関わっていたギャングの青年たちが、曙の女王と名乗る怪物によって殺戮された騒動。あの騒動の収束を機に燃え尽きた検視官バーニーは前線から退いていたのだが。現在は市内の医大を回って解剖実習の指導を行っているという彼に、シドニー支局長ニール・アーチャーは一時的な戦線復帰を頼み込んでいたらしい。
ということは、だ。検視官バーニーのような引退したベテランを呼び戻しているということは、とんでもない事態に発展する恐れがあるのかもしれない。人員が足りなくなり、外部の協力を仰がなければならないような展開が起こりうるということなのだろうか。
「バーニー・ヴィンソンが復帰だって? たしかに、そりゃ嫌な予感しかしないな……」
半年以上前に起きた、曙の女王という存在が齎した怪奇。その当時の混迷を思い出し、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官はボヤく。ストレスに反応してか、彼のあばら骨はキリキリと小さく刺すような痛みを訴え始めた。
そしてため息を零すエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、思い出してしまった『曙の女王』という存在を忘れようとする。ミルク多めのコーヒーが入れられたマグカップを両手で包むように持ち、それをチビチビと飲んでいる検視官助手ダヴェンポートに、彼はひとまず注目した。
検視官助手ダヴェンポートが持っているマグカップに描かれた愛らしい羊の群れ。それを漠然と眺めるエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、羊を一匹ずつ数えていく。
羊が一匹、羊が二匹、羊が……――と、そんな風に現実逃避を試みていたのだが。そんなエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官を、マグカップの持ち主は容赦なく現実に引き戻す。
「あと、支局長は言ってました。曙の女王がASIから脱走したらしいって。曙の女王って、去年のあの事件を起こした元凶でしたよね?」
まさに今、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官が頭から追い出そうとしていた名前を、さらりと検視官助手ダヴェンポートは発した。唖然とする彼はその言葉を呑み込もうとするが、しかし一向に頭の中には入ってこない。
曙の女王が、だっそう? だっそう、あっ、えーっと、うーん、脱走。えっ、脱走だって? 逃げたのか? ――混乱から急に鈍りだした彼の思考が、やっと一つの言葉と意味を結びつけられた時。しかし混乱の種を更に撒く声が下りてくる。
「その通りだ、ダヴェンポート。アバロセレンの密輸に関わったギャングたちを虐殺した、あの化け物がASIの地下から脱走したそうだ。自力で氷を打ち破ったらしいそうな。アーチャーが準備している会見は、その発表がメインだ。仮に『曙の女王』を見かけたとしても手は出さずに通報しろと市民に呼び掛ける役を、あいつはASI長官殿から押し付けられたらしい」
うんざりとした感情が露骨に浮き出た声でそう言ったのは、現副支局長のジム・ランドール。いつの間にか遺体安置所に立ち入っていた彼は、この薄暗い環境で噂話に興じていた二人組に目配せをやった――これは悪い報告がある際に副支局長がよくやるサインである。
検視官助手ダヴェンポートはぶるりと肩を震わせる。だが副支局長からの『悪い報告』を与えられたのは彼女ではなく、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官だった。
「まさか、ですか。副支局長殿……?」
副支局長にロックオンされたエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、恐る恐るそんな質問を副支局長に投げかける。するとエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官に向けられていた副支局長からの視線は、同情を帯びたものに変わった。そしてエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は肩を落とす。
そのときエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は覚悟した。ASIに出向しろと言われるのだろうと、彼は察したのだ。猛獣アレクサンダーの手伝いをしろと、そんな指示が下りるはず。――そしてエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の予感は当たり、副支局長はその通りの言葉を発した。「そのまさかだ。ベッツィーニ、お前は暫くASIに出向してもらう。今からな」
「今から……ッ?!」
「アバロセレン犯罪対策部を手伝ってくれとのお達しだ。たしか、アバロセレン犯罪対策部にお前の知り合いが居るんだろ?」
ASIに居るエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の知り合い、それはつまり大学で同窓生だったラドウィグのこと。そしてラドウィグは、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の記憶が正しければ現場の人間であり、数か月前の騒動の時はバリッバリの最前線に送り込まれていたような気がしなくもない。
あのとき無事だったのはラドウィグと、ラドウィグが守ったイザベル・クランツ高位技師官僚の二人だけ。死者は三名、重軽傷が四名だか五名だか出ていたとか、そんなことを聞いたような。そしてあのときの騒動を引き起こした化け物が再度、外に出てきたわけだ。
「……」
となると。俺もヤツと共に最前線とやらに送られるのか、それで死ぬのか?
うわっ、そんなの御免だぜ、勘弁してくれよ……!
「ええ、まあ、知り合いはいますが……」
死にたくない、現場に出たくない。そんな感情でエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の頭の中はいっぱいになる。それは苦々しい笑みと泳ぐ目、言い淀むような言葉になって顕れていた。
すると彼の心情を察してか、副支局長がこんなことを言った。「安心しろ。現場に出るようなことはないはずだ。先方が希望しているのは連絡役だけ。ASI本部に留まり、そこから最新情報を支局長に流しつつ、情報整理に協力してくれればいいだけだと聞いている。お前が“曙の女王”と戦うだなんて事態にはならないはずだ。先方もそれを求めていない」
「そうであるなら、いいんですが……」
「仮に出ることになったとしても、猛獣アレックスが居る限りは大丈夫だ。あの女、射撃の腕前は伊達じゃない。それにお前の知り合いだっていう男、なかなかの豪物 だそうじゃないか。何も心配することはないさ」
不安そうなエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官に、能天気そうなことを副支局長は言う。そして当事者ではない副支局長は最後にハッと愉快そうに笑うと、遺体安置所を去っていった。
気楽な立場にいる副支局長の背中を黙って見送りつつ、静かに牛乳たっぷりのコーヒーを口に含む検視官助手ダヴェンポートは、副支局長が見えなくなったタイミングで隣に立つ人物に視線を移す。彼女の隣に立っている男、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は額に手を当てていた。
「そういうことじゃないんだよなぁ、ジムさんよぉ……」
そう悪態を吐いているエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、明らかにノリ気ではない。彼はASIに向かうことを拒みたいと感じている。それはひどく鈍感な検視官助手ダヴェンポートにも察知できるほど、あからさまな態度だった。
そして検視官助手ダヴェンポートが思い出すのは、一週間ほど前に見た顔ぶれ。検視官助手ダヴェンポートの前に『デボラ・ルルーシュ』なる化け物が現れた日の夜、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の自宅に泊めてもらったときに会った面々のことだ。
「……ドリューさんとネイト君、あと猫ちゃんたちのことが心配ですか?」
コーヒーを飲みこんだあとに検視官助手ダヴェンポートが発した名前たち。それは彼女の横に立っている男の家族の名前。
ドリュー、それは彼の妻のこと。そしてネイトは、もうじき二歳になるという彼の息子のこと。猫ちゃんたちは、まあ、つまり四匹いる猫ちゃんたち。
「そうだ。嫁さんと息子、それと四匹の女神たちのことが不安で仕方ないのさ。――クリーチャーにしちゃあ察しが良いな」
嫌味を返すエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、その言葉の後に肩を落とす。こんなクソみたいな騒ぎに巻き込まれて死ぬなんて御免だ、という決意を彼は強固にしていた。
「仕方ない、これが俺たちの仕事だ。……はぁ~、行ってくる。お前も頑張れよ」
今はまだ十分な空きがある遺体用冷蔵庫。それを最後に確認すると、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は姿勢を正す。そして彼は検視官助手ダヴェンポートにそう言うと、ノロノロとした足取りで遺体安置所を去っていった。
ひとり遺体安置所に残った検視官助手ダヴェンポートはコーヒーをひと口、啜る。少し遅れた昼休憩、彼女はそれが終わるのを待っていた。
*
アルストグラン連邦共和国では、ラドウィグとジュディス・ミルズの二人がASI本部局に大急ぎで帰還し、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官もASI本部へと向かっていた頃のこと。北米合衆国の太平洋に面した地域、サクラメントという名の都市は夜を迎えていた。
「ジェニファー。確認し――」
サクラメント川に面した通りから少し離れた場所にある、古めかしい外観をした大規模な建築物。白髪の死神アルバと、その雑用係アストレアが訪ねていたのは、そこだった。
そこは富裕層向けに、投機目的の芸術販売を行っている施設。庶民にはとても手が届かぬような値札が下げられた芸術品が並び、そんなものが次々と売りさばかれていく場所。名門画廊マーリングアートギャラリーの分館という位置づけにある画廊、ホーケンアートギャラリー。
その建物の正面入り口……――をすっ飛ばし、館長室に出現することを選んだアルバとアストレアの二人。そしてアルバが声を掛けたのは、この画廊の館長を務める人物だった。
その人物は、館長室の隅に置かれたアンティーク調の執務机にかじりつき、帳簿らしき書類とにらみ合いをしていた老女。館長はアルバの声に気付くとすぐに顔を上げ、年齢を感じさせない軽やかな動作でスッと椅子から立ち上がった。その際に、奇抜な蛍光色のブルーに染められた彼女の髪がフワリと舞う。
「デリックの言ってた通りだ。本当に来てくれたのね、アーちゃん!」
館長は軽やかな小走りでタタタッとアルバの傍に駆けてくると、彼にハグを求めるように腕を広げた。しかしアルバはそれを拒むようなジェスチャーをする。指を揃えた手のひらを館長へと翳し、その腕を真っ直ぐ前へと伸ばしてアルバは制止を求めた。――が、館長はそれを無視して強引に挨拶代わりのハグをお見舞いする。伸ばされた腕を華麗に除け、その下に潜り込む彼女は、あたかもタックルを決めるかのようなハグを決めた。
トコトン空気を読まない彼女の名は、ジェニファー・ホーケン。古美術の修復や物故作家の展示およびオークション、現存作家の発掘や一次流通など、美術の方面を広く扱うディーラーである。と同時に、正真正銘の大富豪でもあった。
とはいえ、財力をカサに着て威張り散らすような真似をしないことが館長ジェニファー・ホーケンのモットー。威圧や脅迫はせず、しかし大胆不敵に、そして自由に振舞う彼女の姿に、アストレアは既に度肝を抜かされていた。
このババァ、只者ではなさそうだ。――それぐらいのことは無知なアストレアでも理解できた。
「……」
そうしてアストレアが黙りこくって固まる一方。溜息を零すアルバは、制止を無視して抱き着いてきた館長を強引に引き剥がす。彼は呆れまじりの声で館長に毒突いた。「……何なんだ、その呼び方は」
「名前の後に、サンとかチャンって付けて呼ぶようにしてるのよ。基本はサン付けで、親しい人にはチャン付けなの。日本式の敬称よ。ミスターとかミセスとかサーとかマダムとか、性別による面倒な呼び分けがないのが良いところよ。前はロシア語っぽく『なんとかーシャ』って呼んでたんだけど、ロシア語の愛称ってそんな単純じゃないって知って、単純だけど広く応用できる日本語の敬称に切り替えたの。それに、音の感じがすごくカワイイでしょ? アーちゃんって響き、最高にカワイイ。良いと思わない?」
早口気味な語り口で大真面目に熱弁する館長は、アルバに同意を求めるが。しかしアルバは真顔でそれを否定した。
「いや。良い気は全く起こらないな」
というのも、アルバには“アーちゃん”という響きに覚えがあったからだ。そしてその響きにあまり良い記憶はなく、後悔や憎悪といった負の感情しか残っていない。そんなこんなで彼は『変な呼び名はやめてくれ』と訴えるようなオーラをそこはかとなく匂わせ始めるのだが、自由人な館長がそれを拾うことはなかった。
そんな自由人な館長は切り替えも早い。彼女はパンッと手を叩いて鳴らすと、それを合図にパッと話題を切り替えるのだった。
「まっ、それはいいとして。はぁ~、急に現れるからビックリしたわ。もうっ、事前に来る日を教えてくれたら、フィルも呼んだのに。残念だなぁー。フィルもアーちゃんに会いたがってたのよー。あぁ、そうそう。あなたも目にしただろうあの記事、あれはちゃんと口裏合わせをしてるから、安心してね。だって、あなたも知ってるでしょ。フィルが片思いしてたのはユーリだった、あなたじゃないってことを。色黒でムキムキで男らしい男、それが彼の好みだったからねー。あっ、そういえばユーリだけど、彼、二〇年前に亡くなったのは知ってる? ランニング中にパァンッと脳出血が起きたとかで、ぽっくり逝っちゃったらしくてねー。それで私、トロントに出向いて葬儀に出席したんだけどさぁ、あのときバッツィも葬儀に来ててね、ビックリしたわ~。というか、厳密には葬儀が終わったあとね。お開きになって、みんなが帰り始めたぐらいに彼が来て。彼ったらお花だけ置いてさっさと帰っちゃって~。私、彼に話しかけることすらできなかった。彼を見たのはあれが最後。本当に後悔してるわ、強引にでも引き留めればよかったなって。あと、それから……」
一方的に言いたいことをマシンガンのように連射していた館長だが、彼女の言葉は妙なタイミングでピタリと止まった。急に黙った館長は、何かに気付いたのか怪訝そうな顔をしている。そんな彼女の視線の先には、極限まで目を細めているアルバの顔があった。
そして館長はアルバに近付き、彼の頬に触れようとする。彼女はその際にこう言った。「――ってか、アーちゃん、なんでずっと目を閉じてるのよ。この部屋、そこまで眩しくはないと思うけど」
「配慮だ。君がすぐにでもあの世に行きたいというなら、この目を開けてやってもいいが。まだ死にたくはないだろう?」
アルバは館長の手を払い除けると、そのように答える。その答えは真実以外の何者でもなかったのだが、しかし館長は悪い冗談の一種と捉えたようだ。彼女は小さく笑うと、こう言った。
「またまた、アーちゃんったら本当に人が悪いんだから。でも、ヘンテコな冗談は止して。反応に困るでしょ。それに、視線ごときで人間が死ぬもんですか、メデューサじゃ――」
「いや、マジだよ。ジジィの目を見たら最後、普通の人間は死ぬ」
楽観的にハハハと笑う館長の態度を見かねて、アストレアは直接的な言葉で釘を刺した。すると館長の表情は一瞬にして変わる。愛想笑いが一変、恐怖に慄くような表情になった――怨霊の掃除屋という噂が事実だったと知り、彼女は驚愕していたのだ。
しかし、彼女は切り替えが早い。彼女が噂の真相に驚いたのは一瞬だけ。その後、彼女は別の対象に興味を移す。館長がロックオンしたのは、先ほど彼女に釘を刺してきたアストレアだった。
「……ところで、このお嬢さんはどなた?」
アルバのことを不躾にも“ジジィ”呼ばわりしている、見慣れない少女。言動や振る舞い、服装の着崩し方からして育ちの良さは感じないが、しかし彼女はここに居て、そしてアルバのすぐ隣に立っている。彼女は何者なのだろうか? ――館長の目には、アストレアがそのように映っていたのだ。
アストレアに興味津々となった館長は、まじまじとアストレアを見る。そして彼女はアストレアにググッと詰め寄った。それから彼女はアストレアの顔を両手でサンドするように包むと、次にアストレアの頬をムニムニと揉み始める。
「あらー。ほっぺプニプニで、ゆで卵みたいにツヤツヤ。うちのひ孫ちゃんと同じだわ~」
このシチュエーションには、アストレアも困惑するしかない。完全なる子供扱いをされているうえに、大して知りもしない相手から必要以上のボディータッチをされている状況に、アストレアは緊張からガチゴチに固まってしまった。
アストレアの戸惑いを察したアルバはすぐに動いた。彼は溜息をひとつ零すと次に咳ばらいをし、次に呆れを交えた声で言う。
「彼女は私の助手、アストレアだ」
咳ばらいの意図を理解した館長はスッとアストレアから離れる。その後、彼女はアストレアに小さな声で「ごめんね~」と軽く謝ったあと、アルバに視線を移した。そして館長はアルバに言う。
「助手なの? 孫かと思ったわ。ってことは、アーちゃん、こんな初々しい子を日ごろから連れ回してるってこと? ……キャロラインが見たら怒るわね、絶対に」
ふと話の中で飛び出してきた、亡き妻の名前。それと何かを誤解されているかのようなニュアンスを帯びた言葉。それに少しの不愉快さを感じたアルバが、そしてアストレアが眉を僅かにひそめたとき。それと被るようなタイミングで、館長室の出入り口がカチャリと静かに開けられた。
凝ったステンドグラス風の装飾が施されたドアが静かに開けられ、館長室に一人の若い男が立ち入る。その人物に視線は集中した。
「お祖母ちゃん、呼んだ――……って、あれ?」
静かにドアを開けて室内に入ってきた若者は、最新モードの流れを汲み、奇抜で派手に、しかし育ちの良さが感じられるような小奇麗さを伴った装いをしていた。サブカルチャー好きな上流階級の若者、まさにその典型といった感じだろう。平均より高い身長もあって、その若者は良家の気配を嫌味なく自然に纏っていた。
そして、その若者は自身に向けられている視線に気付くと、気まずそうな苦笑いを浮かべて見慣れない来客二名を見やる。彼は小さく頭を下げて、来客に向けて軽く会釈をするのだった。
「紹介するわね。こちら、私の孫のアーちゃんよ。アーチボルトで、アーちゃん。ギャラリストを目指して修行中なの。贔屓にしてね」
館長は若者を指差すとアルバに視線を送り、その若者の身分をざっと説明した。次いで館長はアルバを指し示すと、今度は孫だと紹介した人物のいるほうへと向く。彼女は孫にアルバのことを手短に紹介するのだった。
「お祖母ちゃんの古い知り合いのアーちゃんよ。のっぽで皮肉屋のアーちゃん」
「あっ、あのアーちゃん……!」
祖母である館長の言葉に、孫のアーちゃんは何やらピンときたものがあったらしい。途端に彼は目をキラキラと輝かせると、小走り気味にアルバの前へと駆けてきた。そして孫のアーちゃんは手を前へと差し出して握手を求めつつ、改めて自己紹介をするのだった。
「祖母から、お話はよく聞いています。アーチボルト・コールです、以後お見知りおきを」
「どんな話を聞かされているのだか。恐ろしいな……」
アルバは溜息交じりの声でそうボヤく。そしてアルバは腕を組み、暗に握手を拒むような態度を取った。しかし、この孫はどうやら祖母に性格がそっくりである様子。孫のアーちゃんは握手を諦めて手を引っ込めこそしたが、一方でアルバにグイグイと詰め寄ってきた。
ズンズンと距離を詰める孫のアーちゃんは、まさに目と鼻の先という超至近距離までアルバに顔を近付ける。すると孫のアーちゃんは、もう一人のアーちゃんに『どれだけあなたに会いたかったか』という思いを熱弁し始めるのだった。
「経験人数を聞かれたときに『覚えてない』と答える人は相当な遊び人だと、そう祖母から教えられました。そして祖母が言ってたんです、知り合いの中で唯一そう答えたのがあなただったと。でも、それほどまでの遊び人だったひとが婚姻後は一途な良いパパになって、浮気もせず、積極的に奥様の尻に敷かれに行くようなひとに変わったと聞いて、興味深いなーってずっと思ってたんです! どんな人なのか、今まではまったく想像できなかったんですけど、今あなたに会って、なんか納得できました。すごく女性にモテそうな雰囲気がありますし、若い頃にめちゃくちゃ遊んでそうなのに、でも浮気しなさそうなタイプにも見えますね! こんな相反するような特徴を併せ持っている人、僕は初めて見ました」
小奇麗にしている若者の口から飛び出してくるのは、品がないとしか言いようがない話ばかり。そして最悪なことに、その話は事実に基づいていた。
後ろめたい感情があるからこそ、アストレアには明かしていなかった昔話の一部。それを初対面の若造によって暴露されるという状況に、アルバは久しぶりに恥辱というものが込み上げてきているのを感じていた。
アルバは耐えきれず右手で両目を覆い、顔の一部を隠す。そんな彼の反応を見るアストレアは今の話が事実であると察するや、気付いた時には両手で自分の口を覆い隠していた。ジジィにそんな一面があったなんて、と彼女は驚いていたのだ。
大きくあんぐりと間抜けに開けられた口を、彼女は手で隠しつつ、大きく見開いた目でアルバの横顔を見上げる。この視線はますますアルバに居心地の悪さを焼きつけることとなった。
その結果、彼は開き直ることを決める。目を覆い隠してた手を外し、ひとつ深呼吸をするアルバはその後、人の好さそうな作り笑顔をサッと顔に貼り付けた。そして彼は孫のアーちゃんにその顔を向ける。
「君は、ギャラリストを目指しているのか。なら、ちょうどいい。うちの孫娘に芸術を手ほどきしてやってくれー。頼んだぞー。――さっ、エスタ。行っておいで。迷子にならないよう気を付けろ」
アルバはそう言うと目の前に立つ若者の肩を軽く押し、若者を自分から遠ざけた。次にアルバはアストレアの背中に手を回すと、彼女の背を強めにグググッと押す。そうして彼は、彼と若者の間にアストレアを強引にねじ込むのだった。
巻き込まれたアストレアの理解が追い付くよりも前に、アストレアは連行されていく。孫のアーちゃん、彼がアストレアの手を有無を言わさずに取ったのだ。
「あっ、はい! 分かりました。エスタちゃん、で良いのかな? 一緒に見に行こうね~」
完全なる子供扱い。これに抗議する間も与えられることなく、孫のアーちゃんに手を引かれてアストレアはギャラリーへと連れて行かれる。孫を見送る祖父を気取って穏やかに手を小さく振っているアルバに向かって中指を突き立てることぐらいしか、アストレアにはできなかった。
そんなこんなで“孫たち”が居なくなった後のこと。館長室に残ったのは、気心が知れた間柄である館長とアルバの二人のみになる。
「ジェニファー・ライラック・ディアン・ホーケン」
人が好さそうな笑顔という仮面をかなぐり捨てて険しい表情を作るアルバは、本性を露わにした。館長の名を呼ぶアルバの声は不機嫌そのもの――彼は釈明か謝罪を要求していたわけだ。敢えてフルネームで呼んでいるあたりに、彼の怒りの深さが表れている。これは相当頭に来ているのだなと、粗放な性質の持ち主である館長も流石に気付いた。
館長は肩を竦め、気まずそうな苦笑いを浮かべた。続けて彼女は釈明代わりにこう語る。
「ごめーん。アーちゃんとキャリーの話って面白いのばっかりだから、うちの子たちにベラベラ喋っちゃったのよー。キャリーに命じられるがまま髭の永久脱毛を受けさせられた話とかー、でもレーシック手術だけは嘘をついて逃れてコンタクトレンズでコソコソ誤魔化してた話とか~、そういうのを色々と話しちゃったわ。……でも、経験人数を覚えてないって話、あれは事実でしょ? それからウディ・Cには“ママ”が五人ぐらい居るっていうウワサがあったって、デリックから聞いたけど」
「そうだな。全て、事実だ」
できることなら忘却の中に埋めておきたかった過去、困窮スレスレだった苦学生時代にやらかした過ちの数々。しかし、それはとっくの昔に第三者の手によって掘り返されていたと知ったアルバは、嫌味を言いながらもガクッと肩を落とした。
自身の知らぬところで勝手に広められていた昔話。友人らからクズと罵られていたデリックですらアルバに気を遣って著書に掲載しなかったそのエピソードを、しかし常識を知らぬ自由人ジェニファー・ホーケンは広めていたのだ。加えて、その話は彼女の子から孫へと伝達している。そして周り回ってアストレアの耳に入った。
「……」
アストレア。あれは正真正銘のクソガキだ。あいつは後で必ず、今のことを追及してくるはずだ。ギルと共に、ギャーギャーと問い詰めてくるに違いない……。
そんなことを考え、アルバがすっかり気落ちしていたときだ。館長がパチンと手を叩き鳴らす――これは話題転換の合図だ。
「ところで、あなたが連れてきてた子だけど。どっちが事実なの? 助手、それとも孫娘?」
館長は過去の話をサッと区切り、今の出来事に話題を移す。そして彼女がアルバに訊ねたのはアストレアのこと。アルバは曖昧な言葉を返答とした。
「あれは助手だ、孫ではない。だが、なんとも言い表し難い関係だ」
「なるほどねぇ。じゃあ、拾った子って感じ?」
「厳密には違うが。まあ、それに近いのかもな」
「……今の笑い方。あたしの知ってるアーちゃんが戻ってきた」
近いのかもな、という言葉の終わりに小さくフッと笑っただけ。その行動に特段意味はなかったのだが、アルバが無意識的にやっていた微細なアクションを、館長は見落とさなかったようだ。
館長はガサツで大胆であり細かいことを気にしないタチでありながらも、意外と相手の細やかな動作や美表情をしっかり見ている人物である。久々に感じた“本心を見抜かれている”という気分の悪さを、アルバは警戒心へと緩やかに移行させた。
アルバは解いていた腕を組み直し、少しだけ館長から顔を逸らす。館長の妙な勘の良さ、それは昔よりも磨きが掛かっているようにも彼には思えたのだ。
「それで、ジェニファー。用件は何だ?」
アストレアのことを深堀されては困る。そう考えたアルバは、自ら話題の転換を試みる。館長もそれに応じた。彼女はまた手をパチンと叩いて鳴らすと、アルバを指差す。そして館長はアルバに別の質問を投げかけるのだった。「デリックから聞いたんだけど。アーちゃん、今はフィクサーやってるんだって?」
「デリックから?」
「うん、そう。彼とはよく話すのよ、仕事の件とかもあるから。デリックのとこの楽器って熱心なコレクターが付いてるの。古くて出荷台数が少ないものは価値が高くって、うちでもよくオークションに出されるのよ。で、品物の真贋鑑定をデリックに頼むことがある。その依頼をするときに、よく世間話もするわ」
「ああ、それは知っているが。……あいつはどこまで話しているんだ?」
「んー、そうだなー。バッツィに声を掛けたら無視されたとか名前を忘れられてたって愚痴を聞くことはよくあったんだけど、アーちゃんのことは全然話してくれなくて。あなたに会ったっていう事実は教えてくれるけど、アーちゃんと何を話したのかとか、そういうのは教えてくれないのよ。はぐらかされてばっかりだった。唯一、彼から聞いた話っていえば『今、お空の方舟の平和はバッツィとアーちゃんが守ってる』ってことぐらい。バッツィが表の世界に蔓延る強欲な連中を抑えて、アーちゃんが裏の世界で工作してアバロセレンが世界中に広まらないよう頑張ってるらしい、みたいなことをデリックは言ってたんだけど。それって本当の話だったりする?」
「随分と美化されているようだな」
「あら、そうなの。なら、本当のところはどんな感じ? やっぱり裏の世界って――」
「余計な情報は耳に挟まないほうがいい。君には家族がいる。彼らを危険に晒したいのかね?」
好奇心に爛々と目を輝かせる館長に、突き放すような言葉をアルバは言った。そうしてムッと眉間に皴を寄せる彼だが、彼は館長の好奇心を不愉快に感じていたわけではなかった。
苛立ちの原因は無謀な好奇心ではなく、また別のこと。話がいちいち長すぎる、補足事項を列挙するばかりで要点を絞ってくれない。彼は、館長にそんな不満を覚えていたのだ。
そして彼はこう考えた。まさか抽象画家と口裏を合わせて一芝居を打ってまでしてアルバを呼びつけた理由は『世間話をしたかっただけ』なのでは、と。この自由人ならやりかねない、アルバにはそう思えていた。
仮にそうなのだとしたら。館長には悪いが、これは時間の無駄でしかない。今日は激務が入っていたこともあり疲れているし、早々に退散してさっさと寝たいところだ。……そう思い始めたアルバがますます表情を険しくさせていた一方。館長は話をさらに飛躍させ、本題ではない世間話を延々と続けようとする。
「そういえば、バッツィが亡くなったって聞いたけど。あれって本当なの? 彼、よく死亡説が流れてたからさ、何が本当なのかが分からなくって」
「死んだ。当局の発表が正しい。やつは死に、灰になって、海に撒かれた」
「本当に? バッツィなら、まだどこかで生きてるんじゃないの?」
「死んだ」
「信じられないわ。バッツィは絶対に生きてるわよ。ビルの十二階から飛び降りても死ねなかったひとが、フグ毒なんかで死ぬとは思えないわ」
「あの男は死んだ。死んだんだ。何度も言わせないでくれ」
話が長い、そしてクドい、同じような遣り取りを何回も繰り返す。そういうわけで遂に苛立ちが極まったアルバは、死後に得た性質“せっかち”を表に出す。アルバは嘘を重ねて強引に話を誤魔化し、大袈裟な溜息を零して露骨に不機嫌さをアピールしたあと、単刀直入に切り込むことにした。
「嘘の発言で私の気を引いてまで私に訊きたかったのは、ペルモンドのことなのか? それとも世間話か? 特に重要な用件がなッ――」
「あぁ~、そうそう。勿論、それとは違うわ。別件なの」
話題転換の合図、うるさい手拍子ひとつ。館長のこの動作にも苛立ちを募らせ始めるアルバは、僅かに口角を下げる。いちいち動作が騒がしい。そんな不満を、心の中で彼は零していた。
動作がいちいち騒がしい館長は、年相応とはとても言い難いドタバタした小走りで執務机へと駆けて行く。彼女は机の裏にサッと潜り込むと、その引き出しを次々と開け、ガサゴソと何かを漁り始めた。引き出しを開けて、漁って、戻してを繰り返す彼女は何かを探しながら、片手間にアルバを呼びつけた理由を語った。
「デリックからあなたのことは色々と聞いた。なんか、とんでもないことを企んでるって話を。それでね、あたしとしてはあなたがどうしようが知ったことじゃないけど、お願いがあってね。それをリストにまとめておいたんだけど、そのリストはどこに消えたのかしら~。……あっ、あった」
引き出しをパスンッと閉める音を最後に、慌ただしさは一旦引いた。引き出しを閉めた後、館長は取り出した分厚い書類の束を机の上に置き、執務机の裏からひょっこりと顔を出す。続いて彼女はアルバに対し、こっちに来いと手招きをした。
手招きに従い、アルバは執務机へと近付く。そして彼は机の上に置かれた書類の束に手を伸ばし、薄く目を開けるとその中身を軽く見た。
紙束は館長の言う通り、リストのようだ。作品カテゴリー、作品名、原作者名および制作年、現所有者名、現所在地、といった項目がリストの中にはずらりと並んでいる。美術作品とその現在の在り処に関連した情報、それがこのリストにはまとめられているようだ。
これが何のリストなのか、という情報のおおよそを把握したアルバは再び目を閉じ、館長のほうに顔を向ける。そして館長は立ち上がりながら、たった今ここで出したリストについてこのように述べた。
「誰がどこでどんな作品を保有および保管をしているのか、っていうリスト。正規ルートで判明しているものは勿論、裏の噂とかも含めてあるわ。つまり、人間はブッ殺しても良いから芸術だけはちゃんと残してほしいってわけ。ついでに悪そうなコレクターを見つけたら懲らしめてやって。――個人的に気に入っている作品はピンクのマーカーで強調してあるわ、それから特に気に入っているのは青いマーカーを入れてある。強調がない作品は正直どうでもいいやつなんだけど、駄作も含めて芸術だと思うし、とりあえず残しておいてほしい」
「そうか。努力しよう」
アルバはそう言葉を返すと、かなり分厚いそのリストを持ち上げ、腕で抱えた。一〇〇〇ページは軽く超えていそうなこのリストに、アルバは少しの不安を覚える。このリストすべてに目を通すことは億劫に感じられたし、努力しようとは言ったが実際に努力ができるかどうかが分からなかったからだ。
青いマーカーで強調されている作品だけでも保全の努力を……いや、だがほとんどのページに青いマーカーが引かれていたような? ――そんなことを考えるアルバが表情をより一層険しくさせていたとき。執務机の傍に置かれていた椅子に館長は腰を下ろす。その動作はそれまでの騒がしいものとは正反対で、気配さえ感じさせないほど静かなものだった。
そして執務机の上に肘をつく館長は、机の前に立つアルバを見上げる。それから彼女は別人のように落ち着いたトーンで、アルバに諭すような言葉を掛けた。
「あなたの怒りは当然だと思う。あなたはずっと、世間から不当にバッシングされ続けていたんだもの。生きている間も死んだ後も、あなたの名誉は無いも同然だった。なら人間なんて滅べばいいって怒るのも無理はないと思う」
「……」
「でもね、あたしはそれが嫌だなぁって感じるの。あたしたち老いぼれの世代や、その子供の代を憎むのはまだ分かる。あたしたちはあなたのことも、あなたの子供たちも攻撃していた世代だから。でも、孫世代、さらにその下の子たちには何の罪もないはずよ」
「ああ、そうだな」
「なら、どうして今を生きている子供たちから、あたしたちが謳歌したような青春を奪うの? 若い子たちだって、思い描いていた将来を不当に奪われることになる。昔のアーちゃんって、そういう理不尽が大嫌いだったはずでしょう。なのに、どうしちゃったの?」
「禍根を残さぬよう根絶やしにすればいいだけだ。そうすれば理不尽に怒るような者も出てこない。悲劇は誰にも記憶されないまま、ただ消えていくだけだ」
血の通っていない冷たい言葉がアルバからは飛び出る。真冬の冷風よりも冷え冷えとした声に、館長は息を呑んだ。そして館長はおぞましいセリフを発したアルバに、責め立てるような視線を送りつける。
だが、その直後だった。館長から顔を逸らしたアルバが、ひどく乾いた笑いを零したのは。そして彼は本心の片鱗も一緒に落とすのだった。
「――なんてな。思ってもいないことをそれらしく言う技術だけが年々上がっている。悪役が板についてきたらしい」
「もう! 反応に困るからヘンテコな冗談はよしてって、さっき言ったでしょ!!」
館長は素早く立ち上がると、顔を真っ赤に染めて怒りを露わにする。そうして彼女はアルバの肩を拳で小突きながら、そのように言った。
その後、館長は顔を俯かせる。いきり立っていた心を深呼吸で落ち着かせると、彼女は続けてこんなことも言った。
「悪役はなにも演じているだけじゃない。ずっと昔から、あなたの心の半分側はダークサイドに染まっていた。今はそれが前面に出ているだけなんでしょう。……でも、もう一度それを隠すことはできない? 昔、あなたがそうしていたように」
館長が発したその言葉の中には、旧友を諭すというよりかは荒ぶる神に鎮まるよう懇願するかのような祈りが込められていた。彼女の声に宿る微妙な情緒の揺らぎ、それを受け止めるアルバは改めて実感する。望まずとも踏み越えてしまった一線の差は大きく、もう自分は元居た場所に戻ることは出来ないのだと。
それに、彼女の言葉の通りだった。悪役は演じているだけではない。確実に彼自身の中には、世間では“悪役”と定義される属性が根付いている。他者を軽視する傲慢さも、思い通りにならない世界なら壊してしまえという身勝手さも、消え去ればいいと容易に他者を突き放す冷徹さも、彼を構成する一部なのだ。
「君は幸せそうだな、ジェニファー」
館長から顔を背け、アルバは乾いた笑みと共にそう言う。すると館長はこのように答えた。「核心を突かれるとそうやってはぐらかすところは、昔から変わってないのね」
「……」
「はぁ。……そうね、私はすごく幸せだったと思う。不満なんて何もない。あたしは常に恵まれた環境に居て、人にも十分すぎるほど恵まれてきたもの。傷付けられた経験だって数えるほどしかない。あなたが見てきたような人間社会の暗部や人間の汚い部分なんて、私には想像もできないもの。だから、これを幸せでないなんて言うことは傲慢に他ならないでしょうね」
そう言い終えた館長が悲し気な表情を浮かべたときだ。館長室の扉がノックされ、次に孫のアーちゃんが入室許可を求める声が扉越しに聞こえてきた。館長は許可する旨を返せば、扉はガチャリと開けられ、孫たち二人組が戻ってくる。気疲れから憔悴した様子のアーちゃんと、ムッとした表情のアストレアが館長室に入ってきた。
「エスタ。もっと長く鑑賞していても良かったんだぞ?」
不機嫌そうなアストレアに、アルバはそう声を掛ける。するとアストレアはその言葉に機嫌を更に悪くしたようで、その表情を不機嫌そうなものから怒りに満ちたものに変化させた。そしてアストレアは苛立ちしか感じられない声色で、ありったけの不満をぶちまける。
「そんなに観るもんないよ、ここ。しょうもない作品ばっかりだし。マットレスに大穴を開けただけで『崇高な作品ですぅ~』ってなっちゃうのが理解できない。値札に釣り合う価値があると思えないよ。それに、客はうさんくさい金持ちばっかりで辟易しちゃった。盗み聞いた会話が全部、カネ、カネ、カネでゲスすぎて笑えない。それにアーちゃんが作品の意図ってやつを説明してくれたけど、なんか出てくる話がどれも薄っぺらくてさ。センスのないオッサンのクッサいポエムを延々と聞かされるような不快感しか込み上げてこなかった。だったらジジィの意味不明な独り言を聞かされるほうが百倍もマシだね。でもこのTシャツは可愛かったから貰ってきた」
アストレアのぶちまけた愚痴は、二人の“アーちゃん”の心にそれぞれグサリと突き刺さる。孫のアーちゃんは『出てくる話がどれも薄っぺらい、センスのないオッサンのクッサいポエムと同レベル』と容赦なくぶった切られ、白髪の“アーちゃん”は『意味不明な独り言を連発するジジィ』との烙印を押されたのだから。
そんなわけで二人の“アーちゃん”が渋い顔をした一方、館長はニコニコとしていた。そして上機嫌そうな館長は、妙なTシャツを手に持つアストレアにこんなことを言う。「それはうちで配布してるTシャツよ。己を猫の下僕だと高らかに宣言するためのTシャツ、っていうタイトルなの。気に入ってくれて良かった。ちなみに、あたしがデザインしたのよ」
「へぇー。これは好き。猫がゆるくて可愛いよ」
アストレアはそう答えると小さく笑い、そしてTシャツをベロンと広げてその柄をアルバに見せた。
なんてことない真っ白なTシャツにプリントされていたのは、地面に四つん這いになって伏せる人間のシルエットと、その背中に載ってシャキンとお座りを決めている猫の絵。猫の頭には王冠らしきものが載っており、さらに猫の上には平仮名で『ねこのげぼく』という文字が書かれている。
猫の下僕。そんな文言にふとアルバが険しくしていた表情を解き、笑いそうになった瞬間。館長が不敵な笑みを浮かべる。そして館長はアルバに言った。
「彼女、キャロラインとセンスが同じね。だから彼女を気に入ったの?」
その言葉を聞いた瞬間、綻びかけていたアルバの頬がシュッと締まる。亡き妻の名とアストレアを結びつけられた途端、彼の警戒心が急激に跳ね上がったのだ。
再度ムッとした表情に戻るアルバはひとつ咳ばらいをすると、広げたTシャツを畳んでいるアストレアを薄眼で見やる。それから目を閉じると、彼はアストレアの傍に控えている孫のアーちゃんのほうに顔を向け、作り笑顔を浮かべる。彼はもう一人のアーちゃんに労いの言葉をかけた。
「彼女を預かってくれたこと、感謝する。エスタの相手は大変だっただろう?」
「ハハハ……子供だからって舐めてかかって、大やけどしちゃいました」
こめかみをポリポリと掻きながら、孫のアーちゃんはそのように述べる。すると『子供』と断定されたアストレアは口角を下げ、不機嫌そうな顔に戻った。
そして不機嫌そうなアストレアは孫のアーちゃんから離れ、アルバの傍に移動する。大袈裟でわざとらしい溜息を吐くと共にアストレアが立ち止まったとき、孫のアーちゃんが肩を落とす。その後、アーちゃんはアルバのほうを向くと、運営側の本音をポロリと零すのだった。
「実のところ、この画廊は『お金になりそうな芸術』をメインで取り扱っているんです。一目見たときのインパクトがあって、難解そうに見えるテーマ、つまりアートらしいアートを標榜するもの、そんな作品を販売しています。そしてそれらには大層な説明書きが付いていることも多いのですが、しかし彼女の言った通り説教臭い反面とてもありふれている言説ばかりで意外性はなく、薄っぺらい。コンセプトが校長先生のお説教みたいなものなんですよ。とはいえ、この事業は必要なもの。本物の才能を持つ若いアーティストを育成するには資金が必要ですから。その資金を調達するための売り物なんだと割り切って、僕も日頃これらの作品と接してるんです」
そう言い終えると、アーちゃんはスッキリしたと言わんばかりの照れ笑いを浮かべる。続けてアーちゃんが「エスタちゃんは見る目ありますよ」と煽てれば、単純なアストレアは気を良くして勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
誇らしげな顔をしているアストレアは、まさに十二歳児そのもの。特務機関WACE時代に見られたような、無理して背伸びをしようとしている姿はまるで残っていない。単純な性格で、切り替えが早くて、すぐに調子に乗る。きっと、この姿こそがアストレアの“素顔”なのだ。
互いに素顔を見せあう間柄になっていたと思い知り、アルバが今になって押し寄せる後悔の存在に気付いたとき。横で無邪気に笑う館長が、彼女の孫が発した言葉の上に乗る。彼女はこう言った。
「そりゃあ、あのフィル・ブルックスに薊の呪いを掛けたアーちゃんの近くにいる子だもの。見る目が鍛えられるに決まってるわ。アーちゃんが書いたあの曲のせいで、フィルは延々と薊の絵を描き続ける画家になっちゃって――……って、あらら、ちょっと失礼」
抽象画家フィル・ブルックスに関連した妙な話が館長から飛び出してきた後、彼女は言葉を途中で止める。というのも、そのタイミングで彼女の着ていたジャケットから物音が飛び出してきたからだ。どうやら携帯電話の着信音が鳴っているらしい。
うにゃおーあ、うにゃおーあ! そんな猫の鳴き声をサンプリングした音源を鳴らす携帯電話を、館長はジャケットのポケットから取り出す。彼女はそれを操作して音を止めると、同じ部屋に居合わせていた者たちに一旦背を向けた。そして館長はさほど潜めていない声で電話に応答するのだが。
「あらあら、フィルじゃないの。いいタイミングね。今、ちょうどアーちゃんが……え?」
噂をすれば、なんとやら。電話の相手は、ちょうど先ほど名前が出た抽象画家フィル・ブルックスであったようだ。しかしそれが判明した直後、館長は表情を曇らせる。そして彼女は振り返ると、孫のアーちゃんに目配せを送る。それから館長は孫に命じた。
「アーちゃん、テレビつけて。速報が出てるらしいの。えーっと……えっ、うそ。それ、本当に? アルテミスが消えたの?」
館長が電話越しの相手に驚きの声を向けたとき、同時に孫のアーちゃんが館長室のテレビリモコンを操作し、テレビに電源が点けられた。圧倒されそうな大画面に映し出されたのは、リアルタイムで流れる報道番組。そこには速報の文字と共に、アルテミス消失を伝える文言が並んでいる。
アルテミス。ないし、ローグの手。それはボストンの上空に発現した、世界最初にして最大規模のSODに付けられた名だ。世間一般はアルテミスと呼び、専門家たちはローグの手と呼んでいるその現象だが。速報の内容を信じるならば、それがつい先ほど突然消失したようだ。
「えっ。アルテミスって、あのアルテミスだよね? 最初のSOD。それが消えたの?」
テレビ画面を見たあと、アルバに視線を移すアストレアは、彼にそう訊ねるが。人ならざる目を大きく開けてその画面に映し出されたものに釘付けとなっていたアルバは、何も言葉を返さない。
強張っていた彼の目元から、アストレアは彼の動揺を感じ取る。そしてアストレアはそれとなく察した。これは不測の事態なのだな、と。
「あらあら、まあまあ。本当に消えちゃったのね。すっごーい、世紀の大ニュースね~」
アルバがあからさまに動揺していた一方、さほど関心が無さそうに間延びした声でそう言ったのは館長だった。
その声を聞き、はたと我に返ったアルバは開いていた両目を固く閉ざす。それを話しかけてもいい合図だと考えたアストレアは、まずアルバの腕を引っ張ることにした。そうしてアストレアは彼の注意を引くと、声を潜めて彼に問う。「……あの映像のやつ、ジジィが何かをしたわけじゃあないんだね?」
「ああ、私は何もしていないはずだ。数時間前にあれを見に行ったぐらいで、それ以外のことは何も……」
「それが影響してるって可能性ないの?」
アストレアの訊問に、アルバは息を呑むという反応を返す。といっても、彼には思い当たるフシがあったわけではない。ただ、その可能性はないと断言することができなかっただけだ。
数時間前、アルバは更地と化したボストンに行った。それは事実だ。その時、まだボストン跡地の上空には憎きSOD、光り輝くアルテミスが居座っていた。それをアルバは目視で確認している。
そしてボストンで彼がやったことといえば、死体遺棄だけ。処分に困りそうな巨漢の死体を、そこに放り捨てただけだ。そうすれば天上のSODから落ちてきた化け物たちが死体を骨まで食べて消してくれるから、それを目的にボストンに行っただけ。
また彼がボストンで考えていたことも、死体遺棄に関することだけだ。どのあたりに化け物が密集しているか、風向きからしてどこに捨てればニオイを嗅ぎつけてくれるか、等々。それぐらいのことしか考えていない。まあ、一瞬だけSODを見上げて舌打ちをしたが、それはボストンを訪ねるたびに毎度やっているある種の儀式のようなものだし、その際には特に何も考えていなかった。
だが、まさか……――それが何かしらの影響を与えたのか?
「ねぇー、白髪のほうのアーちゃん。フィルがあなたの声を聞きたいって言ってるけど。電話、替わる~?」
館長の関心事はすっかり電話の相手である抽象画家フィル・ブルックスに移ったらしく、もう彼女はアルテミスに対する興味を失くしたようだ。その能天気な声が、思考の世界にこもりかけていたアルバを現実に引き戻す。
しかしアルバが顔を向けるのは彼を呼んだ館長ではなく、彼の横に控えるアストレアだった。そしてアルバは館長の顔を見ることなく、短くこれだけを告げる。
「すまない、急用ができた」
その言葉と共にアルバはアストレアの肩に手を置くと、彼女と共にその場から姿を消す。
足許から沸き上がる黒い靄に全身を包まれた後、大気に霧散し薄れていったその黒い靄と共に消え去った二人組に驚愕する孫のアーちゃんは、あまりの驚きから大きく仰け反り、床に尻もちをつき、腰を抜かした。――今まで見ていたもの、話していた相手が幻影のように突然消えていったのだから、無理もないだろう。
その一方でまったく動揺する様子を見せていないのが館長だった。電話越しの相手に、館長はアルバからの伝言をサクッと伝える。その声は普段通りの彼女の声と寸部違わぬものだった。
「あっ、ごめんねー、フィル。アーちゃん、急用が出来たーって言って、どっか行っちゃったわ。……ええ、そうよ。アーティーのこと。ああ……そう、分かったわ。また今度ね。バイバーイ」
孫のアーちゃんは床に座り込み、あわあわと口を頻りに開閉させ、つい先ほどまでアルバらが居た空間を指差している。そんな孫の姿を面白おかしそうに眺めながら、館長は通話が打ち切られたタイミングで携帯電話をそっと執務机の上に置いた。
――のだが。直後、再び携帯電話が鳴る。見知らぬ番号に一瞬、顔をしかめさせた館長だったが、彼女は迷うことなくすぐに応答した。
「ジェニファー・ホーケンです、ご用件をどうぞ」
しかし直後、相手が身分を明かしたタイミングで彼女はすぐに通話を打ち切る。ASI、アバロセレン犯罪対策部のテオ・ジョンソン。そう名乗る声が聞こえた瞬間、彼女はブツッと通話を打ち切ったのだ。
けれども相手は負けじと掛け直してくる。間髪置かずに再び着信音を鳴らした携帯電話だったが、館長は応答を拒否する操作をした。それから館長すぐに携帯電話そのものの電源を切るという行動に出る。携帯電話をシャットダウンすると、館長は乱暴にその端末を執務机の上に置くのだった。
「えっ、あっ……お、お祖母ちゃん……?」
煙のように消えた来客。そして電話を乱暴に打ち切った、機嫌の悪そうな祖母の姿。立て続けに起きた『初めて見るもの』に、孫のアーちゃんは絞り出した声をブルブルと震わせていた。
そして不機嫌そうな館長はひとつ深呼吸をしたあと、表情をより険しくさせた。それから館長は孫の目を見ると、緊張感を纏った低い声で言う。
「アーちゃん。さっき会った彼らのこと、絶対に誰にも話しちゃ駄目だからね。誰にどんなことを訊かれても、知らないで通すのよ。お父さんにもお母さんにも、妹にも、誰に対しても秘密にして。お祖母ちゃんとの約束よ。分かった?」
館長の言葉に、怯えた顔をした孫がウンウンと無言で首を縦に振る。それから孫はフラフラと立ち上がると、まるで逃げるかのように館長室を立ち去っていった。
+ + +
時代は少し遡り、西暦四二三九年の八月某日のこと。世界最初のSOD『アルテミス』ないし『ローグの手』がこの世に顕現し、それと引き換えにマサチューセッツ州の半分が消失してから五年が経った頃。
薄暗闇で満たされたジメッとした部屋、そのコンクリート打ちっ放しな壁にはプロジェクターによって映像が投影されていた。そしてプロジェクターの脇に設置されたスピーカーからは、動画に合わせて音声が鳴っている。
『お仲間のカルト信者どもと共に過ごす心穏やかな老後を迎えたくば、二度と私とその家族に関わってくれるな。もう一度、私に接触してみろ。その時には、母の自死と共に葬られた真相を白日の下に引き摺り出してやる』
音を鳴らすスピーカーの横に設置された灰色のソファー。それに座るジャージ姿の一人の男は、その音を聞きながら、そして壁に投影された映像を見ながら、小首をかしげていた。
スピーカーから聞こえてくる声。それは彼自身の声である。しかし彼自身の声で発せられているその言葉は、しかし彼の記憶に一切ないものだった。
そして壁に投影された映像に映っているのは彼自身であり、その向かいには禿げあがった頭の小太りな老人が立っている。老人と彼は知り合いであるようだが、けれども今この映像を見ている彼にはその老人が誰だか分からなかった。ただ、彼と老人の関係がひどく険悪なものであったことは伝わってくる。
「……」
灰色のソファーの背もたれに背中を預け、深く腰掛けながら、映像を見ている現在の彼は腕を固く組み、それから長い足も組み合わせた。まるで映画でも見ているかのような気分で映像を見ていた彼は、奇妙な感覚に苛まれていたのだ。他人事のように見える映像は、しかし過去の自分自身そのものであるというこの状況。これがどうにも気持ち悪い。
そして映像を見る彼が瞬きをしたとき。映像の中にある過去の彼が舌打ちをした。続けて、映像の中にある過去の彼は威圧的な雰囲気を出しながら、禿げ頭の老人を脅すようにこう語る。
『ヘルムズデール。ニシン漁に携わる地元住民が中心となって反対運動を起こしたことにより頓挫した開発事業。その事業に携わった者の一部が結託し、反対運動を主導した漁師を殺害したそうだな。早朝、その漁師が漁に出る直前を狙い、薄暗闇の中で彼を集団で襲ったそうじゃないか。彼の背中に剣を突き刺したあと、彼の左腕が胴から離れるまで、死後も執拗に殴り続けたらしいな。まあ、幸いにもその事件は闇に葬られたそうだが、しかし怒り狂う遺族までは消せなかった。遺された者のひとり、漁師の一人娘は復讐を誓い、ひとり渡米。彼女は開発事業に関与した者たちの大半を葬り、逮捕された。彼女はこの国の司法制度により裁かれ、死刑を言い渡された。――そして彼女に死刑という判決が下るよう画策した弁護士、それは貴様だったな』
『――ッ?!』
『アーサー・エルトル。貴様は件の事業に関与していた者たちの誰かと親しかったんだろう? だから依頼されたんだ。我が母の振るう復讐の刃から逃れた残党どもから。だが貴様はひとつ、重大な過ちを犯した。それは私を作ったことだ』
映像を見ていた彼は、映像の中にある過去の彼の言葉を聞いて、いくつか理解を深める。禿げ頭の老人、それが自分の父親であるようだと。それから自分の母親は死刑囚だったようだ。
そして映像の中にある過去の彼は、言葉を続ける。
『ブライアー・マッケイの息子、そしてアルバート・イヴェンダー・シスルウッドの孫、そしてエルトル家の忌々しき血を継ぎながらもエルトル家と敵対する私という存在を、貴様が作ったんだ。はてさて、覚悟すべきなのはどちらなのかね?』
最後にそう言い放った過去の彼は、凶暴な悪人のような末恐ろしい顔をしていた。その狂気じみた言動に、映像を見ていた彼はムッと顔をしかめる。これが生前の自分なのだと、そう認めたくない思いが芽生えていたのだ。
そして、そこで映像は終わる。壁に投影された映像は消え、暗かった部屋には電灯が点き、明るくなった。
明るくなった部屋に順応できなかった彼の人ならざる目は、咄嗟に伏せられる。そんな彼の背後からは、折り畳まれたサングラスを持った女性の腕がニョキっと伸びてきた。そして腕が伸びてくると共に、女性の声が聞こえてくる。
「アーちゃん、どんな感じ? 今の映像は、我らがマダム・モーガンの盗撮コレクションのうちのひとつ。ボストンの路地裏で、父親とバチバチやってるあなたをマダムがコソッと録画したやつなんだけど。で、なんか思い出せたりした?」
その問いかけに、彼は首を横に振って否定するというアクションを返す。そして彼は渡されたサングラスを受け取ると、それを装着しながら小さな声で答えた。
「いいや。いまいち実感が湧いてこない。ただ……」
部屋着然としたラフなジャージ姿に、イカついサングラス。そんな頓珍漢な姿を披露していたこの男の名は、アーサー。のちに彼はサー・アーサーという風に呼ばれるようになるが、この時点の彼はただのアーサーで、それ以上でも以下でもなかった。
世界最初のSODが誕生したと同時に“シスルウッド”としての人生を終えた彼は、しかし死の直後に何らかの影響を受けて蘇り、こうして囚われの身になっていた。そして、たった今まさに映像を見ていたこの場所は、特務機関WACEの当時の事務所。
当時の事務所は、アルストグラン連邦共和国にある旧先住民居住区、そこに建っている廃ビルを隠れ蓑にしていた。この廃ビルが建つ一角をマダム・モーガンが“上書き”し、別の空間を重ねて作られたのが、この場所。建物の外観にそぐわない広さを持つ施設である。
武闘派な隊員たちのために用意されたハードなトレーニングが行える訓練施設、情報処理を専門とする隊員に宛がわれたコンピュータ部屋、怪我の手当てなどを行う医務室と薬品庫、独自に作成したり各地から盗んできたりしたワクチンや種子を保存する冷凍貯蔵庫、ミーティングやディスカッションのための会議室、非常に簡易的なつくりの住居スペース、実権も兼ねて水耕栽培を行う空間、キッチンにシャワールームなどなど。ちょっとした大企業よりも良い設備を持つこの場所に、当時の彼は閉じ込められていたのだ。
欲張りでない元来の性質が幸いして、外の空気を吸えないことの他には特に不満も抱いていないアーサーであったが。明確に“目覚めた”日からずっと、彼は何とも形容しがたい気持ち悪さを感じ続けていた。というのも、当時の彼は何も覚えていない状態にあったからだ。
「……」
あれは二週間前のこと。その日、彼はスッと目覚めた。硬いベッドの寝心地の悪さに不快感を覚えたこともあり、不思議なほど自然に目を醒ましたのだが。目を開けたときに彼は気付く。知らない場所に居る、と。
見知らぬ白い壁紙、見知らぬ白い天井、見知らぬ壁掛け鏡、見知らぬ机と椅子、見知らぬおんぼろのソファー、そして自分のものではないベッド。気づきと同時に込み上げてきた戸惑いは「ここは自分の居るべき場所ではない」と訴えていたが、しかし彼には思い出せないことがあった。自分がそれまでどこに居たのかという事柄だ。
そして考えてみれば、自分のこともまったく思い出せない。自分の名前も分からないし、自分がどこで何をしていた人間なのかも分からないし、自分の出身地も分からない。北アメリカ、シンガポール、スコットランド、コートジボワール、バンクーバー、ロンドン、ムンバイ、ナゴヤ、等々。なんとなく覚えている地名のようなナニカは幾つかあるのだが、なんとなくどれもしっくりこない感じがする。そして極めつけは、年齢。自分がどれぐらいの年代なのかがパッと思い出せなかったのだ。
そうして抱いたモヤモヤと共に取り敢えず彼は鏡を見てみたのだが、写りこんだ自分自身の姿にも彼は妙な気持ち悪さを覚えた。白髪が少し混じった枯草色のバサバサの髪、横長でツリ目気味な人相の悪い目、骨ばった目鼻立ちに疲れ切った顔、ひどい撫で肩と狭い肩幅……――鏡に映る自分は、たぶん三十代半ばから四〇代手前ぐらい。意外と年がいってるな、と彼は気付くと同時に違和感を覚える。これが自分の顔なのか、と。つまり鏡に映る“自分”が半ば信じられないような感覚に陥った。そうして足もとがグラグラと揺らぐ不安感が込み上げてきて、彼は鏡に背を向けた。遂に、何もかもがどうでもよく思えたのだ。
その後、思考を放棄した彼は部屋の中央に置かれていたソファーにドカッと座る。そうして彼がぼんやりと天井を眺めていたとき。知らない女が部屋に入ってきて、そして女は彼を見るなり上ずった声と共に驚きを表現した。
『あっ! アーちゃん、遂にクリアな意識が……!!』
その時の女が、今まさにアーサーの背後に立っている人物。名をジャスパー・ルウェリン、またの名をベディヴィアという女だ。
綺麗めに整えた前分けボブの髪にシンプルながらも洗練された衣装を纏い、いかにも『仕事がデキる女』な雰囲気を常に匂わせている一方。ボロボロのビーチサンダルを好んで履くという奇妙な生態も併せ持っていて、性格は自由奔放そのものであり、言動も適当でガサツ。でも確かに仕事はデキる。それが医務官ジャスパーという人物の特徴だ。
そんな彼女は特務機関WACEの隊員であり、担当業務は心理分析および医務。そんな彼女が、当時ポンコツになり果てていたアーサーの介助をしていたのだ。
彼女はアーサーに『今のあなたの名前はアーサーである』ということを教えた。他にも、彼女はアーサー自身に関する多くのことを彼に教えた。
彼が死んで生き返った身であること。脳がダメージを負っている状態であるため『普通なら出来ること』が今は出来なくなっている可能性があること。体が動かしにくくなっている可能性や、言葉に詰まったりする場面が起こりうるかもしれないこと。そして精神が極端にネガティヴになるかポジティブになるかの両極に振れるかもしれないこと、等々。その他、多くの懸念事項を彼女から順を追って教えられたものだ。
そんなこんなで、アーサーが自分の置かれた立場をそれなりに理解し始めたのが五日前。今は次のプロセスに移行しており、失くした記憶を思い出す過程にいるのだが……――
「ほら、アーちゃん。なんでもいいよ。言いたいことがあるなら、言ってみな。なんか思ったことがあるなら、正直に口に出して発してみて。案外、音につられて記憶がポンポンッて出てくるもんだからさ」
アーちゃん。そんな妙な呼び名で彼を呼ぶ医務官ジャスパーは、言葉を途中で止めたアーサーをせっつく。
言いかけたその言葉は、アーサー本人にはわざわざ口に出してまで言う価値のある言葉だとは思えなかったが。しかしせっつかれたからには仕方がない。彼は渋々、言いかけた言葉の続きを発するのだった。「かなり感じの悪い男だなと、映像を見て感じただけだ。あれが自分なのかと思うと……」
「あはは。だめだ、こりゃ。的外れにも程があるよ……」
医務官ジャスパーはその言葉と共に、落胆を意味する重たい溜息を吐いた。そして彼女はぐるりとソファーを回り込むと、アーサーの横に座る。彼女は野球のバットのように細い足首を交差させつつ、映像が投影されていた壁を見やった。
そして「だめだ、こりゃ」と言われたアーサーは、その言葉に小首を傾げる。濃い色合いの偏光グラスの下に隠れていた彼の目は、困惑から若干大きく開いていた。そんなこんなで何も思い出していなさそうなアーサーに、医務官ジャスパーは彼女の知っている“生前の彼”についての情報を明かすのだった。
「アーちゃん、聞いて。あなたは、あなたの父親と敵対関係にあったのよ。それはあなたの来歴が原因でもあり、父親があなたに対して実行した仕打ちの数々が理由でもある。それから、あなたの父親はそれなりに危険な男だった。大悪党ってほどではないけど、無害な一般人では決してなかった。そしてこの時のあなたは、あくどい父親から自分の子供たちを守ろうと必死になってた。――感じが悪く見えるのには、そういう背景があるのよ。普段のあなたはこんな雰囲気じゃなかった」
医務官ジャスパーは言い聞かせるようなトーンでそのように述べた。そんな彼女の様子から、アーサーも少しは“背景の事情”とやらを察する。悪人のように見える過去の自分、あれは相当に特異な状況だったのだと。
しかしアーサーには『自分の話』が全て他人事のように感じられていた。彼の誤解を必死に解こうとする医務官ジャスパーの姿が、アーサーには滑稽に思えてならない。それに彼女が語った言葉にも、正直なところ彼は「どうでもいい」という感想しか抱いていなかった。
それに、この時の彼が最も知りたかったのは「今後、自分がどうなるのか」そして「身の振り方はどうすればいいのか」という未来に関する事柄。生前の自分がどんな人間だったのかといった過去のことなど、この時の彼にはどうでもよく思えていた。
そんなわけでアーサーは、医務官ジャスパーの言葉を薄情にも話半分で聞き流していたのだが。さほど興味が無さそうな――その一方で、何かを深く考えているようにも見える(が、結局のところ何も考えてはいない)――彼の表情を見て、医務官ジャスパーは何かを思いついたようだ。彼女は座ったばかりのソファーからスクッと素早く華麗に立ち上がると、部屋の隅でコンピュータと向き合っている猫背の女を見る。そして医務官ジャスパーは、猫背の女にこう告げた。
「ルーカン、別の映像を。えっと、そうだな……――遊園地のやつ、あれを出して。娘ちゃんが迷子になっちゃって、マダムがこっそり助けた、あれ」
医務官ジャスパーの声を聞き、コンピュータと向き合っていた女は首だけ振り向かせると、無関心そうなアーサーを見やり、ぶるりと肩を震わせる。そしてアーサーのほうも、サングラス越しから無関心そうな目を猫背の女に向けた。
奇抜なバナナ柄のワンピースに、大ぶりなバナナのイヤリングなど。猫背の女はこの日、全身をバナナコーディネートで決めていた。そんな彼女の名はアイリーン・フィールド、別名ルーカン。新米の下っ端隊員として先輩たちにこき使われていた当時のアイリーンが、バナナコーディネートの彼女である。
人見知りそうなオーラ全開で挙動不審に振舞うアイリーンは、オドオドと首を振りながら怯えた様子でアーサーを見ていた。しかし医務官ジャスパーが大袈裟な溜息をわざと零すと、アイリーンは肩を震わせて視線をコンピュータに戻す。アイリーンはわずかに手を震わせながらコンピュータを操作し、映像を再生するコマンドを実行した。
すると部屋は再び暗くなり、ソファーの横に置かれていたおんぼろのプロジェクターがギギギィ……という不安感を覚えるような動作音を鳴らす。その後すぐにプロジェクターは光を放ち、コンクリート打ち放しの壁に映像が投影された。
そうして流れ始めた映像だが、しかしプロジェクターの傍に配置されているスピーカーは音を発しない。この動画の音声データは無駄だと判断され、カットされているようだ。
そうして静かな映像は粛々と流れていく。ただ、その映像の中に捉えられている一コマは静かさとは正反対の様相を帯びていた。親子連れであふれた遊園地、そんな場所が舞台だからだ。
人混みに紛れて盗撮でもしていたのだろうか。カメラワークはそんな印象を抱かせる構図となっている。カメラの前を大人や子供たちが忙しなく行きかっているし、撮影者も人混みの中に紛れながら歩き回っていたようだ。そのせいで映像は常にぐらんぐらんと大きく揺れている。
揺れ続ける映像の中で、しかし変わらないのは撮影の対象者。映像の中心にずっと捉えられていたのは、木陰のベンチに居座っている集団。ソフトクリームを堪能している少女と父親らしき男。それから父親と同年代のように見えるが、とはいえ少女の母親には見えない女性二人。その四人組だ。
映像の中に映る、父親らしき男。それが生前の自分なのだとアーサーはすぐに理解したが、その周囲に居る人間たちのことは分からなかった。少女は多分、自分の娘なのだろうと推測できたのだが……――問題は二人の女性たちだ。
「私の傍にいる女性たちは何者なんだ?」
アーサーは感じた疑問を医務官ジャスパーに伝える。すると医務官ジャスパーは壁に投影された映像をじっと見つめながら、その問いにこう答えた。
「ひとりは、画商のジェニファー・ホーケン。名門画廊マーリング・アートギャラリーのオーナーの一人娘で、今は五人の養子を女手ひとつで育てているビッグマザーでもある。そして彼女はあなたの友人だった。奇抜なピンク色に髪を染めている方が、ジェニファーよ」
「へぇ、ジェニファーか。友人……」
「この時、彼女は子供を引き取るかどうかを迷っていた。子供慣れしていなかったから、自分が親になれるかどうか不安だったみたいね。で、これはあなたが用意した機会。子供から目を離さずにいられるかどうか、っていうのを試すためのもの。あなたの娘ちゃん、物分かりの良い賢い子だったけれど、好奇心の赴くままに行動して迷子になりやすいっていう厄介な特徴があったから。練習にうってつけだったわけ。――で、この映像は、娘ちゃんが本当に迷子になって、あなたまで取り乱して大騒ぎしたあとの一幕よ」
「どうりでくたびれているわけか」
「ええ、そう。それとこの時は、娘ちゃんが『お姉ちゃん』になる前に存分に遊ばせてあげたかったのもあって、遊園地に連れて行ったみたいね。当時、キャリーちゃん……――つまりあなたの奥さんは第二子を妊娠していて、臨月だった。そういう背景もあって、夫婦で話し合った結果、奥さんが奥さんのお父さんと一緒に検診へ行く日に、あなたと娘ちゃんで遊びに行くってことになったとか、なんとか。そういう風にマダムから聞いたわ」
「それで、もう一人は?」
「茶髪で首からカメラをぶら下げているほう、彼女はクロエ・サックウェル。ジェニファーの様子を見たいがためだけについてきた、風変わりなひとよ。表向きは『浮気癖のある夫と別居中の専業主婦』という顔をしていたらしいけど、裏ではヘッドハンターと探偵業をやっていたんだって。あなた、彼女に仕事を斡旋してもらってたそうだけど。そのこと、覚えてない?」
「いいや、まったく覚えていない」
「そう。なら、周囲の人たちからクロエちゃんとの不倫を疑われてたことも覚えてない?」
「……不倫だって?」
「ええ。あなた、男友達から疑われてた。ユーリくんから問い詰められたことが一度。でも、あなたは奥さん以外に興味なかったみたいだし、クロエちゃんも男に興味ないしで、そういう関係ではなかったみたいだけどね。まあ仮に不倫してたとしても、あなたの奥さんって霊能者だし、きっと筒抜けになってたはず。あなたはそんなリスクを冒すような馬鹿な男じゃないと思うし。まあ、その……――そういうのも記憶にない?」
「……」
映像に映る女性二人は、ただの友人。一人はジェニファー、もう一人はクロエ。そしてクロエという人物に生前の自分は色々と世話になっていたらしく、あまりにも親しかったせいで別の友人からは不倫でもしているのではと疑われていた。この場に居ない妻は通称キャリーと呼ばれていて、彼女は霊能者だったようだ。そしてこの映像を見る限りでは、当時の自分はごく普通の父親であるようにも見える。その前に見た映像の中にいた『感じの悪い悪人じみた男』と同一人物だとは思えない。――新たに得られた情報はこんなところだろうか。
情報が蓄積していくほど、生前の自分という人間が益々分からなくなる。そんな困惑を覚えるアーサーは肩を落とし、額に手を当てた。それから彼は本音を吐露する。
「今は何も思い出せない。結婚していた、子供がいた、職を斡旋してもらっていただとか、そんなことを言われても、何も実感が湧いてこない。……けれど一点だけ、ひどく気持ち悪く感じることがある。モーガン、彼女はずっと私を付け回していたのか?」
重ねられたアーサーの問いに、医務官ジャスパーは苦笑いという反応を示す。彼女は腕を組むと目を伏せた。それから彼女は明確な答えは避け、誤魔化すようなことを言う。
「そうだねぇ。マダムがいつからあなたを監視してたのか、ってのは私には分かんないけど。でも、アーちゃん、あいつと関わっちゃったからね。重要監視対象になっちゃったのは、まあ、あなたの行動のせいだとしか言えないかも」
「あいつ?」
「通称、猟犬。今はペルモンド・バルロッツィとかって呼ばれてる男。きっと彼の顔に見覚えはあるはずよ。会議室のホワイトボードに彼の写真がドーンッて貼ってあるし」
猟犬、ペルモンド・バルロッツィ。その名を聞いたところでアーサーにピンとくるものは何もなかった。とはいえ会議室のホワイトボードに貼ってある写真は彼も見たことがある。
海藻のようにうねったクセ毛の髪、髭面、度を越した垂れ目と厚くて重たそうな瞼、鷲鼻と彫りの深い骨格、それから黒縁のスクエア型眼鏡と白衣。そんなむさ苦しい風貌をした科学者らしき男の写真。それにはアーサーも覚えがあった。
「あぁ、あの写真の男か。……あんな男とも私は親交があったのか?」
妻は霊能者。友人には名門画廊オーナーの一人娘や探偵が居て、ワケありそうな科学者とも親しかったらしい。それから父親とは犬猿の仲で、母親は死刑判決をくらった殺人鬼。……積み重なっていく情報たちはアーサーを混乱させていくのみ。彼が理解できたのは、自分が“ごく普通のまともな人間”ではなかったらしいということだけだ。
そういうわけでトボケ顔になっていくアーサーに、医務官ジャスパーまでもが額に手を当てた。まったく記憶を取り戻しそうな気配のないアーサーに彼女は呆れていたのだ。そして医務官ジャスパーは新たな指示を、下っ端隊員アイリーンに出す。
「ルーカン、写真を出して。猟犬とアーちゃんが並んでるやつを、なんかしら適当に」
その言葉のあと、プロジェクターが壁に投影する光が変わる。遊園地での一幕を撮った映像がゆっくりとフェードアウトして消え、今度は別の静止画が写った。
静止画に映っていたのは赤レンガの街並みと、その一角に立つ若い男ひとり――赤縁の丸眼鏡を掛けているダサい装いの青年だ。ダサい青年は不機嫌そうに腕を組み仁王立ちをしており、彼の表情はとても険しい。そして青年の目の前には、二人組の制服を着たパトロール警官らしき人物が立っており、なにやら物々しい雰囲気だ。
「あなたもチョイスが悪いねぇ」
医務官ジャスパーは静止画を見るなり、そう言って笑った。続いて彼女は静止画、特に仁王立ちをする青年の足許を指し示す。それから医務官ジャスパーはアーサーに向けて語った。
「赤い眼鏡を掛けている男の子、あれが学生時代のあなた。そしてあなたが警官たちの相手をしているのは、あなたの背後でうずくまっているもう一人が原因。うずくまっている彼、それがホワイトボードに貼られている写真の人物、猟犬。その若い頃よ。……若い頃、って表現が正しいのかはちょっと分からないけど、まあとにかく、そういう感じの頃の話」
「……」
「若い頃の猟犬は制服警官を見かけるとパニック発作を起こして挙動不審になり、それが原因で警官に詰め寄られるっていうことを繰り返していたのよ。そしてこれは、巻き込まれたあなたが事情の説明をしているところ。呑み込みの悪い警官は全然解放してくれないし、後ろで友人はパニックで動けなくなるし過呼吸を起こすしで、イライラが募っているときのあなたがアレ」
「あの男が警官を見てパニックを起こす理由は? 何か後ろめたいことでもあったのか」
「私は彼じゃないから正確なことは分からないけど。後ろめたいことが沢山あるのは間違いないでしょうね」
「それは、その……どういうことだ?」
写真の中に収められている、パニック発作を起こす若者。それはアーサーの目には、些か繊細すぎるだけの若者のように見えている。しかしこの若者が今ではホワイトボードに貼られているあの写真の男、胡散臭い風貌の科学者になっているらしい。そして医務官ジャスパーは言った、彼には後ろめたいことが沢山あると。
写真に映るあの男。胡散臭いのは風貌だけではなく、実際にその行動もキナ臭いのだろうか。そう疑問に思うアーサーは、そのことを何か知っていそうな医務官ジャスパーに訊ねようとするも、うまく言葉が紡げない。この疑問を的確に表す語彙が、当時の彼にはスッと出てこなかったのだ。
アーサーから出てきた的を射ないあやふやな言葉は、医務官ジャスパーに逆手に取られる。具体的に何かを訊かれるよりも前に、医務官ジャスパーは話題を逸らしたのだ。そうして彼女が語りだしたのは生前のアーサーに関する事柄だった。
「話を戻しましょう。――写真のあの当時、あなたは父親のせいでホームレスになっていた。あなたは大学進学を機に家を飛び出して独り暮らしをしていたけれど、父親はあなたを家に呼び戻すべく手を回しててね。あなたは住むところに困る日々を送っていた。そこであなたは、リッチな友人の家に転がり込むっていう解決策を思いついたわけ。そういうわけであなたは二年ほど猟犬の自宅に居候していたのよ」
「まさか、その“リッチ”という肩書は不当な手段を用いて作られ――」
「いいえ。そういう話は聞いてない。まあ、初期投資というか、住居なんかに関しては元老院が出所不明のお金を使ってお膳立てしたっぽいけど……実際、彼は特許とか投資とかで稼いでたし」
「クリーンではあったのか」
「完全なクリーンではないね。便宜供与や贈賄とかインサイダー、それ以外にも表沙汰になってないだけでそういうのが幾つかあったっていうことは把握してる。本人はお得意の記憶消去で覚えてないと思うけど」
「つまり、私にはろくでもない知り合いしかいなかったのか?」
次から次に聞かされる話に、アーサーは耳を塞ぎたい気分になっていた。出てくる昔話は全て、ひどいとしか言いようがない内容ばかりだ。ここまでくると、質の悪い作り話でも聞かされているような気がしてくる。記憶がないことを良いことに、適当なことを吹き込まれて妙な役回りをやらされそうな、そんな予感すら彼の中で芽生え始めていた。
いっそのこと、過去など全て振り切って新しい自分として人生を再開したほうがマシにすら思えてきている。そうしてヤケを起こしたアーサーが大袈裟な溜息を吐き、背中を丸めたとき。医務官ジャスパーが再び、彼の横にドカッと座る。そして彼女はまた説き伏せるようなことを言うのだった。
「あなたは至って普通のひと、比較的まとも。というか、普通になろうとしてたひとだった。あんな環境に居たくせにね。これがあなたの変なところなのよ。インモラルな環境に取り込まれていたのに、あなたはそこに適応することを拒み、程々に誠実で普通かつ廉正であることを望んだわけ。厳格なタイプでは決してなかったけれど、あんな環境に居たわりには頑張ってたほうなんじゃない?」
「昔のことを褒められたところで、別に今の私は何も感じなッ――」
「褒めてるんじゃない、事実を並べているだけ」
特に深い意味を込めて言ったわけではない軽口だったが、無残にもバッサリ切り捨てられると不思議と心が傷付く。些細な軽口を医務官ジャスパーによって一刀両断されたアーサーは、わずかに息を呑んだ。
一方で分析的な側面を持つ医務官ジャスパーは淡々と話を続けていく。アーサーの軽口を一蹴した彼女は、このように言葉を続けた。「猟犬の家に二年間も居候しておきながら一線を踏み越えなかったのは、あなただけ。殺すか、殺されるかの一線。あなたは謎の辛抱強さを発揮して耐え、猟犬もあなたを殺さなかった。不仲になった後も牽制に留めるのみで、どちらも手は出さなかった」
「…………」
「そしてロバーツ家なんていう魔物の巣に取り込まれておきながらも、生まれた子供たちを普通に育てようだなんてバカなことをしたのも、ロバーツ家に取り込まれた歴代の男たちの中ではあなただけ。結果、あなたはロバーツ家に誕生した女児でありながらも白狼を拒んだ異端児テレーザを作り出した。テレーザという存在は、パトリシアから始まるロバーツ家の血脈の中で初めての出来事なのよ」
「…………」
「記憶がポンポン抜けていくはずの猟犬が唯一忘れることなく記憶し続けているのは、今のところマダムとあなたの二人だけ。そしてあなたたちは二人とも死後の生を得たし、どちらもロバーツ家と関わりがある。マダムはロバーツ家の始祖パトリシアのために蘇ったようなものだし、あなたは普通の子供テレーザを作り出してロバーツ家の神秘を終わらせた。――だから私たちはあなたを監視しなくちゃいけない。あなたには、あなたが思っている以上の“何か”があるのかもしれないから」
真剣なトーンでそう語る医務官ジャスパーの様子を見て、アーサーは表情を険しくさせた。そして彼はまた新たに理解する。自分が思っている以上に自分はこの世界にとって厄介な存在のようだと。
猟犬だのパトリシアだの、そんなことを言われても何一つ理解はできない。ロバーツ家の歴史を終わらせただとか、一線を踏み越えなかっただとか、そんなことを言われても身に覚えがないし、何のことだかというのが正直な心境だ。
だが。詳細はよく分からないが、生前の自分は何かを色々とやらかしていたようだ。意図的か無自覚的かは分からないが、生前の自分は何かよくないことをして、よくない影響が世間に及び、これが死後の生を得るという結果に繋がっているらしい。
「……」
黙るアーサーはサングラスを外すとそれをソファーの座面に置いたのち、両目を閉ざしてソファーの背もたれに身を預けた。天井を仰ぐ彼は右手を額に当て、顔を隠すように降りていた邪魔な前髪をそのまま後ろに掻き上げて流す。……が、前髪は額に降りてきた。
その途端、アーサーは急速に世界への、そして自分への興味を失くした。何もかもがどうでもいいという感情が極限値に達した結果、下ろした右腕はだらんと脱力していく。その後、彼の中で渦巻いていくのは仄暗い感情。
誰が何の目的のために、死後の生だなんていう求めてすらいなかったものを自分に与えてくれたのか。死んだまま放っておいてくれれば、余計な気を揉まずに済んだのに……。そんな疑念と恨みが、彼の心を支配した。
「それに元老院は何度か、あなたの暗殺令を出していたようでね。でも猟犬、特に黒いワンコのほうがそれを無視して、あなたを生き延びさせた。その理由がまだ分かってない以上、あなたを表の世界には出せない」
その横で医務官ジャスパーは、真剣に言葉を続けていた。しかし何もかもがどうでもよく思えたアーサーは結局、軽口を叩いてこの話を終わらせようとする。
「そろそろ外の空気を吸いたいんだが。軽く走りに出ることすら駄目なのか?」
自分にかつて出ていた暗殺令という、非常に重たくネガティヴな話を軽く受け流して軽口を叩くアーサーの様子を見て、医務官ジャスパーは悟った。今日はもう集中力が尽きて、どうでもよくなったのだなと。
そして彼女も話題を転換することにする。医務官ジャスパーは、非常に医務官らしいことを言うのだった。「ダメ。マダムが許可してない。それに錯乱状態を脱してからまだ日が浅い。そんな状態で外出なんてやめなさい。今の体力じゃ、外に出たところで十五分もすりゃヘバっちゃうよ」
「ヘバらないように体力を付けたいわけなんだが」
「アーちゃん。あなた、自分の状態を甘く見すぎ。言っておくけど、あなたはナイフとフォークの使い方も忘れてた人。あなたが思っている以上に、今のあなたはボロボロなんだ。ランニング、筋力をつけるってのも大事だけど、あなたにはそれよりもやることがある。走る前に歩くことをちゃんと出来るようにならないと。それから道路標識を間違いなく読めるように読み書きのほうだって――」
「なら尚更、何かやるこッ」
「あのね。あなたは死んで生き返ったわけ。それもマダムのように『死後すぐに蘇った』んじゃない。あなたは死後に仮初の生を得たけど、それは仮死状態みたいなもの。心臓だけ辛うじて動いていて、鉄の肺でどうにか延命させていたような状態だった。それが約二年間、続いていた。二年間も眠り続けて、ようやく自発呼吸が行えるようになって目を醒ましたかと思えば、次は錯乱状態。それも三年続いた。三年もの間に、あなたが何度頭を壁にぶつけて、何度骨を折ったかを覚えてる?」
「いや。何も覚えていない」
「そうだよね。なら鏡を拳で割って、その破片で自分の首を掻き切ったことも覚えてないでしょ。部屋の隅にうずくまって意味のない呻き声を上げてたことも覚えていないはず。幻聴に怯えて震えていたことも記憶にないんでしょうよ。その相手をさせられるあたしがどれだけ大変だったか。あなたには想像できる? そういう状態につい最近まであった人に、急に何かをさせられるわけないでしょうが。高負荷をかけた結果、状態が巻き戻るだなんてことになったら堪ったもんじゃない。今だって、少しずつ負荷をかけながら様子見をしているところなんだ。だから焦らず慎重に進んでいこう、分かった?」
何かしらの軽口をアーサーが叩けば、医務官ジャスパーは二〇倍以上にして言葉を返してくる。この戦いは分が悪いと悟ったアーサーは白旗を上げ、唇を結んだ。
アーサーという存在について、彼自身よりも医務官ジャスパーのほうが詳しい。それは彼女の語る話の内容からして明らかだった。医務官ジャスパーが列挙した事実をアーサー自身が何も覚えていないことが、それを証明している。
そうして負けを認めるアーサーは、当面の間この医務官ジャスパーに大人しく従うことを決めた。内心では、状態が巻き戻って自我が無くなることを望んでいたフシもあったが、とはいえ望まずとも蘇ってしまったからにはひとまず健常な状態を取り戻したいというもの。そして、健常に至るまでの道を知っていそうなのは医務官ジャスパーである。
「……」
分かった、今後は指示に従う。――そんな言葉をアーサーが言いかけた時だ。ふとその瞬間、なんだか背筋がワケもなく凍るような気分に彼は包まれた。と同時に彼は気付く、姿の見えない何かの声たちが、背後からずっと聞こえていたことに。
一つ一つは取るに足らない囁き、程度の低い罵倒文句だ。バカ、アホ、くたばれ、死ね、等々。十二歳児のほうがもっとマシな文言を思いつくだろうと苦情すらつけたくなるような、クソとしか言いようがない脅迫や中傷ばかり。だからこそ彼は自然と無視できていた。今この瞬間まで、気に留めることなく過ごしていたぐらいなのだから。
だが、ふとその声に気が取られると急に寒気がしてくる。背後に“見えない何か”がウジャウジャと居るような気がしているのだ。怨念の集合体、おどろおどろしい見た目をした末恐ろしい怪物、そんなものが自分のすぐ後ろに控えていて、自分に向けてお門違いな恨みの念を発し続けているような、そんな嫌な気配が……――
「その、ジャスパー。実は……今も、幻聴のようなものは聞こえているんだ。背後から、呪いの言葉を囁き続けられているような感覚がしている。これも、その、後遺症みたいなものなのか?」
姿勢を正しながらアーサーがそう切り出せば、医務官ジャスパーの表情は曇っていく。そして医務官ジャスパー溜息を零したあと、このように返答した。
「はぁ、まったく。そういうのは早く言えっつーの、バカたれが。――ルーカン、薬品庫に行ってくれるかしらー? ハロペリドール静注液五㎎シリンジ、それと注射セット、あれを持ってきてくれると助かるわー。薬品庫の入り口すぐのデスクの上に、たしかまとめて置いてあったはずだから。よろしくねー」
指示を受けた“ルーカン”ことアイリーンは無言で椅子から立ち上がると、不器用な小走りを披露しながら薄暗い部屋を去っていった。
とはいえ薬品庫はこの部屋の隣にある。小さな黒い鞄を抱えたアイリーンが戻ってくるのは存外に早く、四〇秒もしなかった。そうして素早く戻ってきたアイリーンは黒い鞄を医務官ジャスパーに渡すと、医務官ジャスパーは手早く準備を始める。彼女はソファーの座面の上に鞄を広げると、その中からまずピンク色に染められたポリエステル製の短いベルトのようなものを取り出した。
慣れた様子で準備を進める医務官ジャスパーを横目に見ながら、アーサーはふと考える。注射ということはこの幻聴は病的なもので、そういう意味でもやはり自分は異常な存在なのだな、と。
「ほら、腕、出して」
医務官ジャスパーからそうせっつかれたアーサーは、着ていたジャージの右袖を肩まで捲し上げ、右腕を出す。アーサーの右腕、その肩口に、医務官ジャスパーは鞄から取り出したベルトをぐるっと巻き付け、きつく縛った。腕をうっ血させ、静脈を浮き出させるのが目的らしい。
だが顰められていく医務官ジャスパーの顔から察するに、それはうまくいっていないようだ。彼女は小さな苛立ちを込めた冗長な愚痴を零す。
「アーちゃんの血ってアバロセレンと同じ淡い蒼だし、動脈血も静脈血も大して色が違わないから分かりにくいんだよねー。あなたと同じ生きてる死人なマダムは赤い血を持ってるのに、あなたはそうじゃない点も不思議なところなのよ。それに加えて、あなたの肌色は明るいけどくすんでる上に蒼白いし、血管は完全に肌の色と同化しちゃってる。淡い蒼の血管が全然見つからない……」
「つまり、私は死んで生き返って、カブトガニの血を得たってことなのか?」
「いいえ、あなたのそれはカブトガニの血よりもうんと明るい。晴天の空みたいな色をしてる。おまけにキラキラ光るんだ、蓄光砂でも混じってるみたいに」
「……気色悪い化け物だな」
「というか、よく覚えてるね。カブトガニの血が青いってことを。妙な知識は保持してるのに、自分のことはまったく思い出せないのか」
「……」
「とりあえず手を握ってみて。拇指を内側に握りこむように、グッと。そうすれば少しは血管が怒張するかもー……」
医務官ジャスパーの指示に従い、アーサーは右手をグッと握る。すると膝の内側に少しだけ静脈らしき筋が浮かび上がった。その筋を指差しながら医務官ジャスパーは「ここ、狙っていくよー」と言うと、彼女は再び黒い鞄の中をガサガサと漁る。続けて彼女は傍に立ち尽くしていたアイリーンに声を掛けた。
「ルーカン、手伝ってちょうだーい。私が合図したら、駆血帯をゆっくり緩めて。つまり、このピンクのベルトよ。わかった?」
医務官ジャスパーが鞄から取り出したのはゴム手袋、それと簡易的な消毒キット、ピンセット。彼女はまずゴム手袋を両手に装着すると、鞄の中から取り出した密封包装の小袋をピリッと破く。続いて破いた袋からその中身、消毒用エタノールが染みこんだ消毒綿をピンセットを使って取り出した。
医務官ジャスパーは取り出した消毒綿をアーサーの右腕、その肘の内側へ擦り付ける。ガサツにぐりぐりと、満遍なく塗り広げていった。消毒綿が作り出すわずかな摩擦熱とエタノールが与えるヒリヒリとした刺激が、乾いた皮膚にじんわりと広がっていく。
その刺激から意識を逸らすように、アーサーがこの部屋の出入り口をふと見やったとき。部屋の外から聞こえてきた足音にアーサーは気付く。ピンヒールをカッカッと鳴らしながら小走りで駆けるような音、そんな気配が近付いてきているような気がしていた。
ただ、その足音に気付いていたのは彼だけ。医務官ジャスパーも、アイリーンも、その気配に気付いていなかったようだ。
「んじゃ、刺していくよー。腕、動かさないでー」
医務官ジャスパーはそう言うと、伸ばしていたアーサーの右腕にプスッと針を刺した。刺してから数秒が経過した後、医務官ジャスパーはアイリーンに身振り手振りで指示を送る。そうして指示を受けたアイリーンがアーサーの腕に巻かれていたベルトの締め付けをゆっくりと緩め、外したときだ。部屋の扉が慎重に、だが注目を引きつけるよう音を立てながら開けられた。それと同時に、開けられた扉の向こう側からは女性の声が届く。
「待ちなさい、ジャスパー。多分、彼が言っているのは幻聴じゃないわ」
その言葉と共に部屋の中に入ってきたのは、黒いスーツをピシっと着こなす黒髪の女性。ティアドロップ型のサングラスで目元を隠したマダム・モーガンだった。
しかし、マダム・モーガンの制止は虚しく響くのみ。医務官ジャスパーはアーサーの右腕から指していた針を抜くと、唖然とした顔でマダム・モーガンを見やる。それから医務官ジャスパーは呟いた。
「……打っちゃった」
その言葉を横で聞きながら、アーサーは自分の右腕を見る。針が抜けたあと、そこに出来た傷口からは少量の血が外へと出ていた。流出している血液は先ほど医務官ジャスパーが言っていたように、燐光をちらつかせる淡い蒼をしている。人間らしい赤黒い色を、その血液は持っていなかった。
あぁ、本当に気味が悪い。そんな思いを心の中でのみ吐露しながら、アーサーは医務官ジャスパーより差し出された絆創膏を受け取り、傷口を隠すようにそれを貼る。絆創膏の白いガーゼには、少しの蒼い血がその存在を主張するように滲んだ。
「アーサー、聞いて」
いつの間にかアーサーのすぐ傍に来ていたマダム・モーガンがそう声を掛けるも、すっかり蒼い血の色に影響を受けて気が滅入っていたアーサーはその声を聞き流していた。すると、それを察してかマダム・モーガンはボーっとしていたアーサーの両肩をガシッと掴んだ。それから彼女は彼の目と鼻の先にまで自分の顔を近付けると、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。彼女はゆっくりとした口調で、このように語った。
「背後から聞こえる呪詛みたいな言葉たち。実は私にも聞こえている。私を生き返らせた神が言うには、それが“あの世の声”ってやつらしくてね。私やあなたのような存在は、死者の世界というか、怨霊がぶち込まれる世界に近い存在だから、それが聞こえてしまうようなのよ。――そしてあなたがこれから担うことになる仕事は、街にはびこる怨霊の首根を掴んで、その気味が悪い声がする世界に怨霊を投げ入れること。今後、そのコツを段階的に教えていくから。その前に、聞こえてくる声に慣れておくように。あの声を無視できる鋼の精神を身に着けなさい」
「……」
「それから、あなたの外出を私がまだ認めていないのには理由がある。外の世界には刺激が多すぎるからなのよ。ここは私のテリトリーだから死霊はいない、けれども外はそうじゃないわ。邪悪なものも、そうじゃないものも含めて、幽霊がウジャウジャいる。ジャスパーの言う通り、錯乱状態を脱して間もないあなたを外へ出すのはまだリスクが高いのよ。健全な肉体、健全な精神に回復してからでないと外出は認められない。パニックを起こして、あなたの力が暴走しても困るし」
自分の体には蒼い血が。これじゃ化け物だ、人間なんかじゃない。死んで生き返って、自分は怪物になった。あぁ、こんなのもうイヤだ、自分が信じられないほど気持ち悪く思える。――……そんな考えばかりがグルグルと頭の中を回っていたこの時のアーサーは、八割もマダム・モーガンの話を聞いていなかった。
そんな彼が唯一、マダム・モーガンの発したセリフの中から明確に拾った言葉は『健全な精神』というものだけ。そしてアーサーは、そこから適当な返答を繰り出す。「健全な精神、か。何を以てそれを定義するんだか……」
「皮肉屋が戻ってきたじゃない。記憶も幾分か取り戻せたの?」
「いいや、まったく」
「あら、そうなの。戻ってないのね。……まあ、記憶が戻らないほうが、あなたにとっては幸せなのかも」
意味深なマダム・モーガンの返答。その些細な言葉が、更にアーサーの気を沈めていく。記憶が戻らない方が幸せ。そんな言葉が、この時のアーサーには正しいように思えたのだ。
そうしてアーサーが肩を落としたとき。静注ゆえ効きが早かったのか、薬の副作用のようなものが顕れる。軽い動悸と少しの息苦しさ、それから臓腑を内側からまさぐられているような不快な感覚。それらが唐突に始まったのだ。
「ジャスパー、あなたに頼みたいことがあるのよ。あとで私のオフィスに来てくれるかしら」
肩を落としたアーサーがそのまま背中を丸めて不快な感覚に耐えるその横で、マダム・モーガンはなんてことない業務連絡をサッと伝えると颯爽とその場から立ち去っていく。
一方、アーサーの異変に気付いていた医務官ジャスパーはすぐにマダム・モーガンの後を追おうとはしなかった。
「むず痒い感じ? なら軽く歩こう、そうすれば楽に――」
アーサーの肩に手を置き、医務官ジャスパーはそう声を掛けるが。顔を俯かせたアーサーはその言葉を最後まで聞くことなく、彼女を突き放す言葉を返す。「……大丈夫だ、行ってくれ。それに、今は少し一人になりたい気分なんだ」
「そう。分かった」
言葉の最後、少しだけ強まった語気。そこからアーサーの心境を察した医務官ジャスパーは、彼の望み通り立ち去ることを選ぶ。彼女はソファーの座面に広げていた注射セットをガサツにまとめ、ゴミも一緒に黒い鞄の中に押し込めると、それを回収して部屋を去っていった。
そうして部屋の中に残されたのは背中を丸めるアーサーと、おどおどした様子のアイリーンだけとなる。
「あっ、あの……」
気分も機嫌も悪そうな様子のアーサーに、挙動不審なアイリーンは何か声を掛けようとするが、しかし引っ込み思案なアイリーンは言葉を続けられない。彼女には伝えたいことが幾つかあったのだが、不穏なオーラを発する男を前にして声を出すことができなくなっていたのだ。
彼の子供たち、テレーザとレーニンの姉弟の現在について。アイリーンはそれを知っていて、それを彼に伝えたくて、事前に幾つか写真を印刷してきていた。それを彼女は今、着ているワンピースの腰ポケットに入れているのだが。それを伝える声が喉から出てこない。
そんなわけでオロオロとしていたアイリーンの許に、やがて邪魔者がやってくる。そいつは豪快な足音をドスドスと立てながら、廊下の向こうからやってきた。
「ここに居たのか、ルーカン」
医務官ジャスパーが出て行った際に、僅かに開け放たれていた部屋の出入り口。その隙間から部屋を覗き込んでアイリーンを発見して部屋に押し入ってきた大男、それは声を奪われる前の“ケイ”だった。
六十歳過ぎと思われる容姿とグレイヘア、そして髪と同じ色合いの顎髭。二mはゆうに超えていると思われる身長と、発達しすぎているとも思える過剰な筋肉。――大迫力なケイの姿に圧倒される臆病なアイリーンは、ぶるりと肩を震わせた。
そんなケイは怯えるアイリーンの様子に小さな溜息を零し、続いて背中を丸めているアーサーを見るなり舌打ちする。それからケイはアイリーンにこう言った。
「ボストンの相手なんざ今はいい。チェンがお前を呼んでるぞ、早く来い」
ボストン。それはケイのみが使うアーサーの呼び名だ。アーサーの話す英語にボストン訛りが強く表れていて聞き取りにくいから、というのが理由である。呼び名というよりも蔑称に近いのだろう。
「ひぇ、あっ、ちぇ、チェンがッ!? や、やばっ、ばばっ、うわぁ~っ、絶対この間の機械のことだぁ……ひぃえぇ~……怒られるぅ……!!」
「騒ぐな、ガキじゃあるまいに」
泣き言を漏らすアイリーンと、それを冷たく切り捨てるケイのやり取り。それが遠のいていくのを感じながらアーサーは体の力を抜き、、ソファーの座面にごろりと寝転ぶ。そして彼は壁に投影されたままになっている静止画を見た。
だが彼が思い出していたのはその前に見た動画のこと。遊園地のような場所で娘や友人らと共に過ごしていた、あの場面だ。
「……」
その瞬間から何年が経過していたのか、この時のアーサーはまだ知らない。子供が幾つになっているのか、成人しているのかも彼には分からなかった。ただ、思うのは顔を思い出すこともできない子供たちのこと。その子たちは両親を亡くしたまま成長しているのか、と。――その瞬間、目頭がカァと熱くなったような気がした。
結局、涙が出るまでには至らなかったが、ただ心の中では暴風雨が吹き荒れている。詳しいことは何も思い出せないが。何かが違う、間違っているという怒りや、こんなはずではなかったという遣る瀬無さが込み上げ、そして綯い交ぜになり、思考がグチャグチャに蹂躙されていた。
「……」
普通じゃないのに、普通になろうとした。普通じゃない環境で家庭を築き、そして子供たちを普通に育てようとして失敗した。その結果が今。親を亡くした子供たちは寂しさを抱えながらどこかで成長しているのだろう、そして片親は死後に蘇って怪物になった。光り輝く蒼い血をその身に宿した、死を越えた怪物に。
普通とは遠くかけ離れた怪物。それが自分。そんな自分がとても気持ち悪く思えていたし、受け入れがたかった。
「……クソが……なぜ、誰が私にこんな仕打ちを……!!」
吹き上がった怒りに任せて、アーサーがソファーの座面に握りしめた拳をぶつけたとき。ソファーを殴っただけとは思えない衝撃波が起こる。その直後、部屋からは完全に光が失われて真っ暗闇に包まれたと同時に、そこそこの重量を持った固く大きいものがドンガラガッシャンと床に落下する轟音が次々と鳴った。
何が起こったのか。その理解が追い付く隙も与えず、アーサーの体を強烈な疲労感が襲う。鼻から何か垂れるような感覚をアーサーが覚えたその直後、彼の意識がプツッと途切れた。
「――おいおい、何だこれはッ?!」
その後。轟音を聞き、元いた部屋に大慌てで引き返してきたケイとアイリーンの二人は、そこで見たものに驚愕する。たった数分の間で、部屋が酷く散乱した状態に変化していたからだ。
部屋の中央に置かれていたソファーの位置、これに変動はない。蒼い鼻血を垂らしながらソファーの上で気絶したように寝ているアーサーがいるぐらいで、他に目立った変化はなかった。が、問題はそれ以外の家具たちだ。
部屋の隅に置かれていたコンピュータは、何故か反対側の壁に吹っ飛んでいるし、筐体は大きく凹んでいるようにも見える。壊れていて、もはや起動が出来ない状態になっているのは間違いない。そしてコンピュータを置いていたコンソールデスクは木っ端みじんになったようで、もはや破片すら見つけられない状態になっていた。
壁に映像を投影していたプロジェクターも、今や映像を投影していたコンクリート打ち放しの壁にめり込んでいる。――そしてそれはケイたちが部屋に踏み入った直後、壁からゴトンと床に落ちた。
他の家具たちも、その大半が吹っ飛んで壊れている。アームチェアも、スツールも、サイドテーブルも、クッションも、観葉植物のフェニックス・ロベレニーも、天井の照明さえも、元あった場所からかけ離れた場所に散乱しており、そして大半が破損している。ただ一点、ソファーのみを除き、それ以外の全てがブッ壊れていた。
「まさか、これは全てボストンの仕業か?」
ケイがそう呟いた直後、同じく轟音を聞きつけた特務機関WACE隊員たちがこの部屋へとワラワラと集まる。整備工ジャック・チェン、医務官ジャスパー・ルウェリン、ボスのマダム・モーガンまでもが集結して、そして彼らは一様に唖然とした。
中でも動揺していたのがマダム・モーガンである。鼻血を垂らして気絶するアーサーの間抜けな姿を見ながら彼女はホッと胸を撫でおろす一方で、緊張と不安から手をガクガクと震わせる。それから彼女は小声で、恐ろしい言葉を発するのだった。
「……この程度で済んで良かった。あぁ……!」
部屋の中のあちこちに飛散し、見る影もない無残な有様に変わり果てた家具たち。それを見て、マダム・モーガンは「この程度」と言った。その言葉を聞いた周囲の者たちは絶句し、偉大な上官マダム・モーガンをただ茫然と見つめるだけとなる。
五年前。ボストンが突然消滅したあの日に、騒動の中心部からマダム・モーガンが連れ帰ってきた生ける死者、アーサー。どうして彼が特務機関WACEの管理下に置かれることとなったのか、その意図を隊員たちは理解し、息を呑んだ。
+ + +
「ったく。どんくさいな、ボストン!」
カジュアルな打ち合わせをするための場所として使われていた部屋、そこの家具をアーサーが無自覚的に爆散させてから五日後のこと。マダム・モーガンによる緘口令が敷かれたこともあり、自分が何をしでかしたのかを全く知らずに過ごしている暢気なアーサーはこの日、面倒な男に絡まれていた。それが整備工ジャック・チェンから裏で『シカゴ出身の筋肉馬鹿 』と仇名されている男、筋骨隆々の巨漢ケイである。
特務機関WACEに所属する隊員たちは基本、常に忙しくしている。マダム・モーガンは情報収集と工作のために常に駆けまわっているし、アイリーン・フィールドと医務官ジャスパー・ルウェリンは情報分析に追われている。そして整備工ジャック・チェンは隊員たちが壊した銃火器や精密機器の整備で大忙しで、彼の聖域である武器庫及びデポから出てくることが滅多にない。
だが忙しくない者も居た。それが単に囚われているだけの身であるアーサーであり、出動要請がなければ料理場に立つこととトレーニングぐらいしかやることが無いケイの二人である。そういうわけで必然的に暇人同士がマッチングしたわけだ。
アーサーとしては、静かで薄暗い部屋にこもって本だけを読んでいたかったのだが。どうしてか、この時の彼はトレーニングルームに居たし、ボクシンググローブを両手に装着していて、そして天井から吊り下げられたオレンジ色のサンドバッグを殴っていた。というか、殴らされている。後ろでヤジを飛ばしながら悦に入っている様子の大男ケイが、イヤな圧をかけてくるのだ。
本音を言うと、この道に全く向いていないと感じていたアーサーは、今すぐにでもこんなバカげたことを止めたい気分でいっぱいになっていたのだが。見張られている以上、投げ出して中断することもできない。そうして苛立ちを拳に載せ、彼はサンドバッグをバンッと殴る。それから彼は息を呑んだ。
殴って飛ばしたサンドバッグは、弾道振り子の法則に則っているならばアーサーから遠のいているはず。しかし彼は遠のいているという“実感”を得られない。つまりサンドバッグとの距離が肉眼で測れなかったのだ。そうして打ち返すタイミングに悩んでいる間に、現実ではサンドバッグがアーサーめがけて戻ってくる。
ドンッ。そんな鈍く重い音が鳴る。そして戻ってきたサンドバッグを顔面で受け止めたアーサーは後ろによろめき、膝をついた。しかしそのアーサーに更なる衝撃が襲う。イライラした様子の大男ケイが、アーサーの着ていたTシャツの胸倉をガシッと掴み上げ、強引に立ち上がらせたのだ。それから大男ケイはアーサーの耳元で怒鳴り声を上げる。
「サンドバッグに顔面ぶつけるヤツなんざぁ初めて見たぞ。戻ってきたサンドバッグを顔面で受け止めてどうする、それも五回連続だ! お前はふざけてるのか?!」
ケイの言う通り、アーサーがサンドバッグを顔面で受け止めたのは今日五回目。これはふざけていると思われても仕方がない。だがアーサーは不真面目なりの真剣さを発揮しているつもりではいた。手を抜いているわけでも、ふざけているわけでもない。思うようにできない、それだけだ。
こればかりは適性が無いとしか言いようがない。戻ってくるサンドバッグの軌道、そして打ち返すタイミングがからきし掴めないのだ。呆れ果てているのはアーサー自身も同様であり、故に彼は苦笑う。「……ハハハ。いや、ふざけてるつもりはないのだが」
「へらへら笑うな、ボストン!」
アーサーの胸倉を掴んだまま、大男ケイはアーサーの耳元で引き続きガーガーと怒鳴り散らす。高身長なほうであるアーサーよりも更に大きいケイが放つ威圧感はなかなかのものであったが……不思議なことに、大男ケイが掛けてくる威圧や脅しがアーサーには何も響いてこない。アーサーがそのまま冷めた微笑を維持し続ければ、呆れた大男ケイは彼を解放する。その際に大男ケイは「話にならない」という小言を零していた。
話にならない。そう思っていたのは奇しくもアーサーも同じ。彼は大男ケイの相手をしてやっていた立場。言うなれば、近所で飼われている大型犬が自宅の庭に侵入してきて構え構えと吠えたてるから、仕方なくその遊び相手を務めてやっていただけというもの。であるからこそ、勝手に失望されて呆れられたところで知らんがな、というのがアーサーの本音である。
誰かこの面倒な大型犬を引き取りに来てくれないものか。アーサーは心の中でそんな愚痴を零しながら笑顔を消すと、掴み上げられた際にグチャグチャになったTシャツのしわを軽く伸ばして消し、続けて乱れた前髪をサクッと手櫛で直す。そんな風に見た目ばかりを無意識に気遣うアーサーの様子を見るなり、熊のような出で立ちの大男ケイは舌打ちをした。と同時に、大男ケイは小言を並べる。
「ケッ、伊達男ぶりやがって。頭の中はスッカラカンのくせによぉ?」
「脳が汗と肉汁で漬かっているようなイタリアンビーフ男に何かを言われる筋合いはない」
小言に対して、間髪を入れずに繰り出されたのは早口なボストン訛りで捲し立てられた反撃の一手。反撃を食らった大男ケイは『ひどい撫で肩の頼りなく細っちい優男』から何を言われたのかを即座には理解できず唖然とし、毒気に当てられた様子で固まっていた。
そして反撃を食らわせた当のアーサーもまた、自身のとんでもない発言に驚いている。考えるよりも先に、まるで反射のように飛び出してきた罵りの言葉。これが“自分”の言動なのかと、彼自身も一瞬信じられなかったのだ。
「…………」
イタリアンビーフ。たしか、それはシカゴのなんか有名な料理だった……気がする。薄く切り分けたローストビーフをフランスパンで挟んだ甘辛いサンドウィッチっぽいやつ。グレービーソースを上から掛けて、更にグレービーソースにフランスパンを浸して、つゆだくグジョグジョの有様を楽しむもの。そんな風な料理だったはず。
――いや、どうしてこんなことを覚えている? 自分の過去のことは何も思い出せないのに、食べたことがあるかどうかすら分からない料理のことをなぜ知っているのか。
「……おい、ボストン」
あれやこれやとウダウダと考えていたアーサーだが、そんなことをしたところで過ぎたことは取り返せない。あからさまな威圧を掛けてくる大男ケイを無視するアーサーは、困惑を内心に押し込め隠してあくまでも冷静かつ平然と振舞う。右手にはめたボクシンググローブ、その手首を固定しているストラップの端を噛み、面ファスナーをベリッと剥がしてグローブを外し始めるアーサーは、大男ケイから顔を逸らして両瞼を伏せた。
努めて沈着に、余裕の素振りで。そうしてアーサーは大男ケイの挑発を躱す。だが大男ケイは更なるアクションを起こし、暇人アーサーの気を引こうとするのだった。
「グローブは外すな。かかってこい、ボストン」
大男ケイは足を肩幅に広げて立つ。続けて大男ケイは手指の関節をわざとらしくバキポキと鳴らしたあと、時代遅れのカンフー映画のように指先だけのキザな手招きをチョイチョイとしてみせた。
それはいかにもチンピラくさい挑発だった。髪も髭もグレイに染まった男がやるような振る舞いでは到底ない。そういうわけで遂に嫌気が限界に達したアーサーは、遂にこの大男を完全無視することを決意した。
アーサーは右手をボクシンググローブの中から引き抜くと、自由になった右手で左手のボクシンググローブを外し、両手を解放する。それから両手に装着していたインナーグローブ型バンテージを素早く外し、ボクシンググローブと共に手近な場所にあったテーブルの上にガサッと置いた。もう相手をする時間は終わりだと、その意思表示をしたわけである。
そうしてアーサーがボクシンググローブ一式を置いた時。トレーニングルームの出入り口がガチャリと開けられ、この空気に水を差す役が入場する。医務官ジャスパー・ルウェリン、彼女が来たのだ。
「アーちゃんは立体視が下手くそなんだ。彼はよくドア枠に頭をぶつけてるし、段差を踏み越えるタイミングを見誤ってコケてるし。だから彼に格闘技は向いてない。しかし、まあ、ここまで才能がないとはねぇ……」
まるでずっと見ていたかのような口ぶりでそう語る医務官ジャスパーに、アーサーは疑問を抱いたが。トレーニングルームの西側の壁一面が鏡になっていることに今さら気付き、そこで答えに行き付く。あの鏡のようなものの正体はビームスプリッター。あの鏡のように見えるガラスの裏側から、医務官ジャスパーはずっとアーサーらの様子を見ていたのだなと。
――そしてまたアーサーはひとつ発見する。ビームスプリッター、そんな知識はやはり残っているのだなと。
「ボストンは斜視なのか? それなら先に言え」
立体視が下手。医務官ジャスパーが発したその言葉から、大男ケイは斜視の可能性を見出したようだが。大男ケイの言葉に、医務官ジャスパーは首を横に振って否定するという反応を示した。それから医務官ジャスパーは言う。「あー、斜視とはちょっと違う。心因性のやつ」
「やめてくれ。異常者は猟犬だけで十分だ」
心因性。その言葉にアーサーもギクッと驚き、同時に不快感を覚えたとき。ほぼ同時に聞こえてきた大男ケイの心無い言葉もまた、アーサーの心にチクリと刺さる。が、先ほど非常に辛辣な罵倒文句を投げかけた手前、悲し気な表情をアーサーは作れなかった。売り言葉に買い言葉、多少何かを言われても仕方ないと受け止めることにしたのだ。それに異常者だという自覚がアーサーにはあった。それも大してダメージを受けてない理由のひとつだったのだろう。
そうしてアーサーが『異常者』という言葉を受けてもなお平然とした様子を維持していた一方。その言葉に怒ったのが医務官ジャスパーである。彼女はムッとした顔で大男ケイに詰め寄ると、彼を指差して淡々と『大男ケイに関連した事実』を陳列し始めた。
「あなただって人のことを言える立場じゃないよ、ケーちゃん。あなたは、その自分勝手な性質から元奥さんと子供たちに忌避された。そして家族から見捨てられたっていう現実から逃れるために、あなたは料理と釣りにふけっていたんでしょう。その逃避行動だって言葉を拡大解釈すれば心因性の症状になるわよ」
「俺の昔話は今、関係なッ――」
「いいえ、関係ある。それと同じだから。アーちゃんは周囲から浴びせられる罵詈雑言によるダメージを軽減するために、現実を現実として正しく認知する能力を捨てたってわけ。ヘラヘラ笑うクセもそれが理由。暴言暴力を軽く受け流すことでダメージを減らしてるんだ。そしてケーちゃん、あなただってイヤなことがあった時には強い男ぶって正面から対峙することを避けようとするでしょう。一人で対処する、放っておけって言っておきながら、何もしないで時間だけが経過し、やがてヤケを起こして暴走するのがあなたの常じゃない。それでマダムにしょっちゅうドヤされてるのは、どこのどなたでしたっけ?」
言葉を二〇倍にして返す医務官ジャスパーに圧倒され、遂に大男ケイは反論するための語彙を失くす。そうして大男ケイが矛先を向けるのは“ボストン”ことアーサーだった。
「チッ。ボストン、今日のところは終わりにしてやる。口うるさいジャスパー・ルウェリンに感謝することだな」
事実上の降参宣言。それを吐き捨てるように言うと、大男ケイは苛立ちを背中ににじませながらトレーニングルームを去っていく。不満そうにドカドカと足音を立てている様子からして、かなり腹が立っているようだ。その怒りは事実陳列罪を背負う医務官ジャスパーに向けられたものなのか、または余裕の素振りで佇んでいるように見えるアーサーなのかは定かではないが、とはいえ大男ケイが怒っていることは間違いない。
「これだから“男らしさ”ってのが嫌いなのよねぇ~」
不機嫌そうな大男ケイを見送りながら、医務官ジャスパーはボソッとそんな言葉を吐く。そのあと彼女はアーサーのほうに向き直ると、軽く腕を組みながらこのように述べた。「アーちゃん、ごめん。気、悪くした?」
「いや、別に……」
「そう、なら良かった。まあ、うちの組織はその性質上、どうしても隊員同士は『非常に長い付き合い』になるからさ。初めから相手の素性や性質が分かったほうがラクなんだ、お互いに。だから悪く思わないでね」
多分、医務官ジャスパーが軽く謝罪を入れてきた理由は『アーサーが精神的に病んでる人間だからと暴露したから』なのだろう。が、自覚のあったアーサーは然程そのことを気に留めていなかった。むしろ医務官ジャスパーがそこまで分析していることに驚いていたほどだ。
にしても、軽く謝ったあとに「悪く思わないでね」と開き直るとは。アーサーが驚いたのは、強いて言うならばそこ。そして彼が気になったのは両者から精神異常者だとぶった切られたことよりも、医務官ジャスパーが言っていた言葉の内容だった。
医務官ジャスパー曰く、アーサーには面倒くさいことを避けるためにヘラヘラと笑うクセがあるとのこと。なら……軽く見られたくない場合、ヘラヘラ笑うというそのクセは直したほうがいいのだろうか。
「……その。私は笑わないほうがいいのか?」
アーサーが口走ったのは何気ない質問。だがその質問は、医務官ジャスパーの妙なツボに入ったらしい。医務官ジャスパーは顔を俯かせると口許を手で覆い隠し、薄気味悪くフフフッと笑い始める。笑いによって声をフルフルと震わせながらも、医務官ジャスパーはその間抜けな問いに対して丁寧に答えるのだった。
「いいえ、あなたは笑っていたほうが良いと思う。あなたの笑顔は好き、それがたとえ作り笑顔だとしても」
「そ、そうか……」
「でも、笑顔を出し惜しみするのも悪くないかも。過去のあなたはちょっとサービスしすぎだった。だから新しいあなたは気難しい北国の人みたく、普段はムッとした顔で過ごして、本当に嬉しいことがあった時にしか笑わないってのもアリかもねぇ。じゃないとケーちゃんみたいなタイプから舐められる」
「……」
「ああいう筋肉馬鹿は、自分と同じぐらいかそれ以上の筋肉を持っている人間の言うことしか聞きたがらないから。細っちい体かつ威厳なくヘラヘラ笑う人間は馬鹿にされやすい」
結局のところ、笑わないほうがいいらしい。それはそれで窮屈なような気がするが、舐められて変な筋肉野郎に絡まれるよりはマシだろう。
なら、その助言に従ってみるか。そんなことをアーサーが決意したとき。笑いの衝動が収まった医務官ジャスパーは元の冷静さを取り戻し、ぼうっとしている様子のアーサーの肩を小突く。それから彼女はアーサーに言った。
「念のために言っておくけど。あなたは消化器官が貧弱で、そもそも十分なカロリーを摂取できない体質。体内にあるエネルギー源の貯蔵分が常に枯渇している状態だから、筋力をつけるにしてもケーちゃんがやるようなハードな運動は控えて。あなたの場合は一日十五分から三〇分、軽い負荷をかけるぐらいで十分。それ以上の無理をすると硬直が始まる可能性があるから」
「硬直?」
「だってあなた、強引に動かされている状態の死体だから。生者と比べると、代謝を始め色んなことが劣っているわけ。だからエネルギーが切れたあとの補給が追い付かない場合は硬直まっしぐらだよ。顎が動きにくくなったら要注意」
「……」
「あなた、鉄の肺で延命してた時に一度だけ固まりかけてるから。あれ、回復させるの大変だったんだよ? 死体硬直を解いて蘇らせるだなんて、そんなの前例ないし。だから必死に考えながら動いた。ATP静注して、高カロリー輸液を落としまくって、心マして、あとはもう『お願いだから呼吸してよ~』って祈りまくって。あのときは本当に、あたしまで心臓止まるかと思ったもの。――だから空腹にはくれぐれも気を付けて。それから、マズい予感がしたらすぐ言うこと。ATP補給のお薬あげるから」
「……承知した」
「まあ、そういうわけだし。あなたは筋肉ではなく威厳あるオーラを身に着ける方向で行こう。それに筋肉の割合が多い人ほど硬直のスピードが速くなるから、体は鍛えすぎないこと。いいね?」
積み重なっていく情報量の多さと、その内容の濃さ。これの処理に連日困り果てていたアーサーは、更に加わった情報『エネルギー不足を起こせば死体硬直まっしぐら、ゆえに無理は禁物。そして鍛えすぎるな』に撫で肩をガクッと落として急傾斜にした。
そうして困惑するアーサーは常套手段、強引な思考の切り替えを発動させる。困惑する情報を強制的に頭から放逐し、ガラッと思考とマインドを切り替えると、彼は頭の中を空にして皮肉屋の役に転じるのだった。「サンドバッグを顔面で受け止めるようなヤツに、威厳を身に着けろだなんて土台無理な話だろうに」
「あなたならできる。あの動画、見たでしょ? 過去にあれほど高圧的で感じ悪い演技が出来たひとなんだから、またやれるようになるって。悪役を演じるアーちゃんはきっとカッコイイよ」
医務官ジャスパーは励ますようなセリフを言うと、アーサーの撫で肩をポンポンッと二回ほど軽く叩いたのちトレーニングルームを去っていく。そして去り際、彼女はトレーニングルームの電灯を消していった。それはアーサーもすぐに部屋を出ると判断しての行動だった。
真っ暗になった室内にひとり残されたアーサーは、しかしすぐに部屋を出ることをしなかった。肩を落として唇を固く結ぶ彼は、今もまだ僅かにゆらゆらと揺れている吊り下げ式サンドバッグを睨む。やつが顔面にぶつかってきた時の鈍い痛み、それを思い出していたのだ。
「……」
高圧的で感じの悪い男を演じて、誰かを委縮させて従わせること。それが今の自分に求められている役割なのだと、彼も理解してきていた。医務官ジャスパーや大男ケイらと肩を並べて立つ日に求められるのはそのような役回りなのだろうと、そんなことぐらい分かっている。だが、そんなことをやりたくないとこの時の彼は感じていた。
等身大の“アーサー”は、あんなサンドバッグすらも避けられない間抜け野郎なのだ。それなのに、期待されているのは真逆の姿。
「……硬直か。そりゃ御免被りたいな」
ボソッと漏らした独り言。考えていることと口から出る言葉は時にまったく噛み合わず、ボタンを掛け違えたようにちぐはぐの状態になる。そんな自分に呆れるアーサーが溜息を零したとき、サンドバッグがひとりでに大きく揺れる。まるで見えない何かに強く殴られたかのように、それはブンッと大きく振りかぶった。
そして振り子のように戻ってくるサンドバッグは、完全に油断していたアーサーの脛に激突する。避けるというオプションすら頭に浮かばない間に起きたこの襲撃に、直撃されたアーサーはよろけてその場に膝をついた。
「何なんだ、この……――あぁっ、クソッ!」
立ち上がりざまに悪態を吐いたあと、彼はまるでサンドバッグから逃げるかのように早足で部屋を出て行く。そんな彼はこのとき、気付きもしていなかった。あのサンドバッグを動かしたのが他でもない自分自身であり、そもそも彼自身がサンドバッグを引き寄せていたことに。
どうでもいいことをゴチャゴチャと考え続ける彼の雑念。それが波となり、余計なものを自らに引き寄せる流れを作り出していたのだ。
+ + +
サンドバッグにアーサーが顔面をぶつけまくったあの日から、更に三日後のこと。相変わらず自分自身のことを何も思い出せていないアーサーはこの日、妙に馴れ馴れしくなってきたアイリーンと共に一日を過ごしていた。
……というより、アイリーンに付き纏われていると言ったほうが正しい。アーサーがどこに行くにしても、何をするにしてもアイリーンが付いてくるのである。彼女が施設内の案内や設備についての解説をしてくれるのは有難いと思う反面、何をするにも「手伝うよ」と茶々を入れてくることに関しては疎ましく思えてもきていた。
アーサーとて、コーヒーや紅茶の淹れ方ぐらいは覚えている。皿洗いも当然。有り合わせの材料で簡単な料理をすることもできる。しかしアイリーンはいちいち疑ってかかるわけだ。本当にそれができるのか、と。
『あっ。紅茶なら私が淹れるよ。だって熱湯は危ないもん』
『いいよ、皿洗いなんかしなくたって。お皿を割って怪我されたほうが怖いもん。それに食洗器あるし、そういう雑務は機械にやらせればいいの』
『料理してもいいかって? えー……包丁、使える? 大丈夫?』
……と、まあ、アイリーンは常にそんな調子だ。その上、アーサーがそれらを普通にこなせばアイリーンは驚いた様子で過剰に誉めたてる。アイリーンのこの悪意無きお節介は、アーサーには非常に喧しく感じられていた。
それにアイリーンよりもアーサーのほうが頭一つ分以上の背丈があるというのに、にも関わらずアイリーンは彼の代わりに高いところにあるものを取ろうとする。こういったワケの分からない行動も、アーサーにはウザったらしく思えていたのだ。
そしてアーサーがこのような“雑務”を積極的にするのには理由があった。何もしない暇人の立場であり、手持ち無沙汰で居心地が悪いというのも理由の一つだが。一番の理由は『この環境にどうにも馴染めない』というもの。要するに彼は、彼の手が届く範囲を彼のコントロール下に置きたかったのだ。
例えば、食器類。アイリーンが全幅の信頼を寄せている食洗器だが、しかしアーサーはこれを好きになれなかった。彼の目には洗い残しが多く見えていたし、実際に食器類の大半はなんとなくだが油でベドベドッとしていたのだ。だからこそ彼はこう思ったわけである、こんなものに頼るぐらいなら手で洗ったほうがマシだ、と。
続いて、食事。特務機関WACEの料理番を務めているのは事実上、大男ケイだ。たしかに大男ケイの腕前は悪くない。それなりな価格帯のレストランに引けを取らないような優秀なコックであることに間違いは無かったのだが、しかしアーサーは大男ケイの振舞う手料理を敬遠していた。というのも大男ケイの得意料理は典型的な『北米流の豪快すぎる肉料理』だったからだ。
肉の脂も香辛料もチーズも小麦も、たっぷりでベットリ。いささか大きすぎるステーキが濃密なニンニクの香りを纏っているのは当たり前の光景。――大男ケイの振舞う料理は常にそんな調子で、貧弱すぎるアーサーの消化器官には掛かる負荷が重すぎる。ひと口で胃もたれするのは目に見えているようなもので、そんなものが連日続くとなれば胃に穴が空きそうだ。
無論、医務官ジャスパーからも「あれを食べるのは止めておけ」と忠告されている。そんなこともあって、アーサーとしては自分の分だけでも用意できるようにしたかったのだが。アイリーンはアーサーの胃に穴が空く未来を望んでいるようだ。
「アイリーン。もう施設の構造は覚えた、ゆえに案内は不要だ」
薄暗い白い光が天井から降り注ぎ、長い廊下をボンヤリと照らしている。コンクリート打ち放しの無骨な壁が延々と続いている廊下の途中で立ち止まるアーサーは、彼の半歩先を歩んでいたアイリーンにそう声を掛けた。続けて彼はこうも言う。
「つまり、その……君はそろそろ君の仕事に戻るべきでは?」
施設内のあちこちに掛けられた壁掛け時計が示す時間を信じるなら、この時は夕方の六時二十三分十二秒。どの地域の時刻が基準となっているのかは不明だが、まあ少なくとも時計の針は当時その時刻を示していた。アーサーの目にこのとき見えていた時計も、まさにこの時刻を示している。
「……」
チクタク、チクタク。秒針が動き続ける音が鳴っていた。そして秒針が四十八秒を指し示したところでアイリーンも立ち止まる。彼女が立ち止まった場所は、ちょうどトレーニングルームの出入り口前。トレーニングルームと廊下を隔てるガラス戸からは、ひとり黙々とベンチプレスに励んでいる大男ケイの姿と、トレッドミルの上を悠々と走る医務官ジャスパーの後ろ姿が見えていた。
大男ケイがゆっくりとバーベルの上げ下げを繰り返している姿を、アーサーが細めた目で見やったとき。アイリーンが振り返り、アーサーのほうを向く。同時にアーサーはアイリーンのほうに顔を向けると、人ならざる目を隠すように両瞼を閉ざした。するとアイリーンはどこか寂しげな表情を作り、アーサーに何かを言おうとしたのだが。そのとき丁度、廊下の突き当りの方角から何かを言い合う男女二人組の声がアーサーらのもとに届いた。
舌根を引いて喉にへばりつけた状態で発せられているような母音や、喉の奥の妙な場所から絞り出されているような子音の数々に加えて、何語なのか特定さえできない会話の内容。アーサーに聞こえていた音声はそんな調子だったが、とはいえアーサーにはその声の主が誰なのかが分かっていた。
女のほう、それはマダム・モーガンだ。どっしりと構えた中低域の声色でありながらも時折キンと高くなる声、それは彼女の特徴である。それから、乾いた声とくぐもった調子を織り交ぜて気怠そうに喋っている男のほう。こちらの声の主が誰なのかはアーサーの頭にはすんなりと浮かんでこなかったが、ただ聞き覚えのある声だということは理解できていた。
さほど高いトーンというわけではないが、かといって一般的な成人男性の声と比べれば低くはない音域の声。その声は秋風のようにまるで深みが無く、乾燥している。加えて、口をさほど開かずにぼそぼそと喋っている雰囲気は、ただその声を聞いているだけでイライラしてくる。が、その苛立たしい感覚が同時に妙な懐かしさを伴っている。
そうして不愉快さと同時に込み上げてきた気味の悪い感覚にアーサーが表情を曇らせたとき。不愉快そうなアーサーの顔、それから聞こえてきた声に思うところがあったアイリーンは肩をブルリと震わせて顔を引きつらせる。それから彼女はこう言うと、脱兎のごとく来た道を引き返し、振り返ることなく一目散に逃げて行った。
「あっ、あ、あの、わっ、私……――失礼しますッ!!」
突然アイリーンが大声を上げて、大慌てで逃げて行った。トレーニングルームに居た二人はそれを見るなり行動を止める。医務官ジャスパーはトレッドミルから降り、大男ケイはバーベルを台座に下ろして立ち上がった。そして二人はガラス戸に接近し、その向こう側の廊下で立ち尽くすアーサーを見る。
お互いに顔を見合わせた医務官ジャスパーと大男ケイは、共にこう考えた。アーサーが何か失言をしてアイリーンの気を損ねたのか、と。だが彼らは見当が外れていたことに遅れて気付く。廊下の先、その一点を見つめるアーサーが顔を顰めていたことに気付いたからだ。
アイリーンが逃げ、アーサーが顔を顰めるような来客があった。そのような答えに二人が同時に行き付いた時、まさにその来客が二人の視界に乱入してきた。
その来客は物騒な装いで現れた。迷彩服に迷彩柄の防弾チョッキ。そして胸と背中に弾帯をぐるりと巻き付け、迷彩柄のスカーフで頭を覆って目だけを出したような出で立ちは、いかにも戦地に居そうな傭兵そのもの。そしてそれを証明するかのように、その来客は背中に二本のサーベルなる物騒なものを携帯しており、肩に自動小銃を吊り下げ、更には腰ベルトに二丁の拳銃と四つの弾嚢まで下げている始末。――アイリーンが逃げ、アーサーが顔を顰めるのも無理はない。
そんな穏やかならざる出で立ちをした来客は顔を隠していたスカーフを解きながら、重装備の割に軽い足取りでアーサーに近付く。その過程でスカーフが取り払われ、露わになった来客の顔。それを見るなり医務官ジャスパーは目を見開き、大男ケイは舌打ちをした。その来客の正体が彼らの天敵である通称『猟犬』、現在の名をペルモンド・バルロッツィという男だったからだ。
強くうねったクセ毛の暗い髪。腫れぼったい瞼の下で、ギラギラと輝く異様な光を灯している蒼い瞳。怪我の影響で少し折れ曲がっている鼻筋……。何度も何度も見てきたその“悪夢”に、医務官ジャスパーは一瞬だけ肩をぶるりと震わせ、大男ケイは苛立ちから拳を強く握る。
「……ッ!」
なんとなく嬉しそうな雰囲気を放ちながら自分に近付いてくる傭兵風な装いの男。それに気付いたアーサーは目を開くと表情をより強張らせ、一歩だけ後退った。それからアーサーはその傭兵風な装いの男が見覚えのある顔をしていること――会議室のホワイトボードに貼りだされていた要警戒人物の写真――にも気付くと、更に数歩ほど後ろに下がる。だが、要警戒人物はグングンと距離を詰めてくる。
挙句、要警戒人物はスカーフを床に投げ捨てたあと、両腕を広げてみせる。まるで挨拶のハグでもする前触れのように。勘弁してくれと感じたアーサーはそのハグを回避するために直前で右横へと回避しようとしたのだが……――判断を下すのが遅かった。
「……アーちゃん、距離感音痴も度が過ぎてるって」
ガラス戸を隔てた向こう側。一部始終を見ていた医務官ジャスパーと大男ケイの二人は、揃って額に手をあて呆れ顔をしていた。というのも彼らは見てしまったのだ。アーサーが回避しようと動き出したタイミングは、同時に彼の身動きが封じられたタイミングであったことを。アーサーは正面から近付いてくる相手を避けるための適切な距離感を見誤ったというわけだ。
かなり強めな挨拶のハグ。それを完全に決められ、遂に動けなくなったアーサーは真顔になっていた。そんなアーサーは何かを捨てたか、諦めたかのようなオーラを放っている。その姿を見てクスクスと笑い出した医務官ジャスパーだったが。一方、大男ケイのほうは額に当てていた手を下ろすと、次に両腕を胸の前で組み合わせた。それから眉間に皴を寄せる大男ケイは、間抜けな姿を披露しているアーサーを見ながらひとり決意を語った。
「俺は決めた、あいつには絶対にハンドルを握らせない。運転なんぞさせて堪るか」
……等々、好き放題に言っている二人組の声を、ガラス戸を隔てた向こう側に立っているアーサーは聞いていた。また彼はその聞こえてきた言葉に心の中で同意する。自分は間違いなく距離感音痴というヤツであり、自動車の運転などするべきでない人間であると。
そうしてひとり気落ちするアーサーは続いて、目の前にある現実へと目を向ける。
「急に抱き着くな。気色悪い」
冷たい声でアーサーはそう言うと、挨拶がわりにハグを決めてきた不躾な男を彼自身から引き剥がし、その男の肩を軽く突き飛ばした。その後、アーサーは警戒するように腕を固く組むと、目を細めて睨むような視線を要警戒人物である男に向けた。
冷たい態度を取れば、きっと相手はショックでも受けて距離を置いてくれる。アーサーはそう考えたからこそ、そのような行動に出たのだが。しかし当ては外れたらしい。アーサーが突き飛ばすという行動を取った結果、後ろによろめいた相手は何故か目を輝かせるという反応を見せる。
相手は体勢を整えたあと再びアーサーに接近し、今度はアーサーの肩を掴んできた。その手をアーサーが強引に振りほどけば、相手はより一層目を輝かせて喜ぶような表情を見せる。
そのような相手の反応を見てアーサーは悟った。こいつは被虐を喜んで受け止めるタイプだったのか、と。そしてアーサーは出方を間違えたなと後悔すると同時に、じわりじわりと積み重なっていく嫌悪感につられて目元を強張らせる。
「……」
あたかも当然であるかのような馴れ馴れしい態度を取ってくる要警戒人物だったが、アーサーの警戒心ないし嫌悪感を察すると一転、気まずそうな態度に替わる。その男はアーサーから離れるように一歩下がると苦笑いを浮かべ、続いて弁明のような言葉を述べたのだが。
「あぁ、その。すまない。ただ、お前が目覚めたと知って、嬉しかったんだ。その冷たい態度が――」
弁明の言葉は途中で打ち切られる。言葉を遮る存在が表れたからだ。
「その顔面を吹き飛ばされたくなけりゃあ、今すぐ失せろ」
数年ぶりの邂逅に水を差したのは大男ケイである。トレーニングルームのガラス戸を乱雑に開けた大男ケイは、その扉であわよくば要警戒人物を突き飛ばそうとしたのだが、その目論見は失敗。要警戒人物は間合いを図れる能力および危険予知能力を持っていたため、余裕でガラス戸を避けてみせた――サンドバッグを顔面で受け止める間抜けなアーサーとは大違いである。
そうして目論見が失敗に終わり、大男ケイが吐き捨てたのが先ほどの言葉だ。それを言いながら大男ケイは前へと躍り出て、要警戒人物とアーサーの間に割り込む。だが要警戒人物は大男ケイに無視を決め込んだ。
「後でお前に渡したいものがあるんだ。だから少し、待って、いて、くれる、と……」
大男ケイという、縦にも横にも大きい筋肉の壁。それの横からヒョイと顔を出す要警戒人物は、そう言いながらアーサーに笑いかけ、その蒼い瞳でアーサーの姿を捉える。だがその穏やかな振る舞いはそう長く続かなかった。
言葉の途中まで、要警戒人物は笑顔であり声も調子が良さそうな雰囲気を纏っていたのだが、言葉が進むにつれ声はトーンダウンしていった。喋るスピードも減速し、男の顔からは表情が消え、次第に目が虚ろになっていき、最終的には黙りこくる。そして要警戒人物の口が閉じた直後、その男の首がガクッと下がり突然、項垂れた。と同時にアーサーは大男ケイに肩を掴まれ、トレーニングルームの中へと投げ飛ばされる。
あまりにも突然起きたことに、アーサーは受け身も取れないまま床に倒れ込んだ。何が起きたのかと混乱しながらアーサーが姿勢を立て直したとき。アーサーが見たのは、大男ケイが要警戒人物の装備から拳銃を素早く奪い取り、それを構えている姿だった。そして大男ケイが狙いを定めていたのは、彼の目の前に突っ立っている要警戒人物の頭部。
アーサーの目には、大男ケイが制圧に成功しているように見えていた。だが一瞬で事態は劇的に動く。
「――……クソが。こんなとこで油売ってる場合じゃねぇだろ」
俯いていた要警戒人物が、小声でピリピリとした小言を零した直後。大男ケイが奪い取ったはずの拳銃はあっという間に奪還され、そして大男ケイは足許から崩れるように倒れていく。たった一撃、足払いを受けただけ。にも関わらず体重一〇〇㎏はゆうに超えていそうな大男ケイの巨体が、腐って脆くなった樹木のように伏していった。
軽い一撃で大男ケイを無力化させた姿。アーサーはその様を呆然と見つめることしかできない。すると大男ケイを倒した要警戒人物の目が、呆然とするアーサーを捉える。その時の要警戒人物の表情は先ほどとは別人のように不機嫌そうだった。
「……」
睨むようにアーサーを見ていたその目。心底嬉しそうな様子でアーサーに喋りかけてきた時はたしかに蒼い色をしていたはずの虹彩が、しかしこの時は色が替わっていた。真っ暗闇の中で孤高に光る翠玉、そんな雰囲気を纏う濃緑色の瞳に変化していたのだ。
要警戒人物は不機嫌そうな緑色の瞳でアーサーを暫く睨み付けたあと、そっぽを向くように顔を背けると来た道を戻り、マダム・モーガンの居るだろう方向へと引き返していく。そうして要警戒人物の気配が遠のいたとき、立ち上がりながらアーサーは独り言を呟くように小声で疑問を零した。「あの男、今、目の色が……」
「あやしい挙動と目の色の変化。あれ、覚えておいて。黒い犬のほうが入ったサインだから」
よろよろと立ち上がったアーサーに手を貸すついでに、彼の独り言にそう返答したのは医務官ジャスパーだった。続けて医務官ジャスパーはより細かい解説を付け加える。
「あれはつまり、人格が交替したってこと。厳密には憑依って言葉が適切なんだけど、まあとにかくそんな感じ。さっきアーちゃんに抱き着いてきた彼は『ペルモンド・バルロッツィ』だけど、悪態吐いて去っていった彼は『黒い犬』が操縦している状態の彼であり別人のようなものだということさえ理解していればいい」
「その、黒い犬というのは何だ?」
「おっかない幽霊とかモンスターみたいな、なんかそういうやつ。たまに犬とか狼みたいなかたちをした黒い影が彼の傍をウロチョロしてるのが見えるから、その影のことをあたしはそう呼んでる。その影が彼の体に飛び込んだあとはいつも、彼の目の色が緑色に替わってるから。まあ、そういうことなんだろうなって見当つけてるの」
「なるほど……」
「あと、それとは別に彼の人格が戦闘モードにチェンジするパターンもあるから要注意。憑依じゃなく病的なそれのパターンね。この場合も目の色が変わるんだけど、雰囲気は『黒い犬』とはかなり違う。戦闘モードの彼には自分で考える頭が備わっていないから、説得が一切通じない。だから、くれぐれも彼には気を付けてね」
医務官ジャスパーの話を聞き、アーサーは納得する。要警戒人物の目の色が変化したと同時に起こった態度の変化、その理由は少なくとも判明したのだから。そして大男ケイの行動の意図もアーサーは理解した。憑依が起きたと判断した大男ケイは、咄嗟にその場における正しい行動を取っただけ。彼がアーサーを突き飛ばしたのは、どんくさいアーサーを『黒い犬』から遠ざけて安全を確保し、ある程度自由に動ける領域を確保するためなのだ。
「……憑依と、人格交代か……」
アーサーはそう呟きながら目を伏せ、顔を僅かに下へ向ける。それから彼は少し考えた。
医務官ジャスパーが『黒い犬』と呼ぶモノ。それが攻撃的な存在であることは間違いない。あれは大男ケイを一瞬で倒し、アーサーに敵意に満ちた視線を送りつけてきた存在なのだ。今回は特に何も起きずに済んだが、もし運が悪ければ……――
「あんなのと私は親しかったのか?」
アーサーは顔を上げながら、医務官ジャスパーにそう訊ねる。彼女に訊いたところで何かが分かるとは彼も思っていなかったが、ただその時は浮かんだ疑問を声に出して処分しておきたかったのだ。
そして訊かれても困る問いを投げられた医務官ジャスパーは、肩を竦めるという反応を見せる。それから彼女はこう言った。「あたしも、どうしてアーちゃんがあんなのと親しかったのかが理解できない。でも、ひとつ分かったことがある」
「……?」
「彼はアーちゃんが好きなんだ。冷たくあしらわれても喜んじゃうぐらいには、大好き。むしろ冷たくされるのが好きなのかも」
「……やめてくれ。気持ち悪すぎる」
「ハハッ。でも向こうはそんな感じだったよ? アーちゃんったら妙なのに好かれちゃったねー、大変だー」
アーサーとしては好ましいと思えない事柄を茶化すように言う医務官ジャスパーが、悪意に満ちた黄色い声をキャッキャッと上げていたとき。廊下では大男ケイが不機嫌そうな気配を漂わせつつ、強烈な一撃をお見舞いされた足を庇いながら立ち上がっていた。
そして医務官ジャスパーの黄色い声に顔を顰める大男ケイはトレーニングルームの扉を開けると、それに寄りかかるように立つ。それから大男ケイは、不愉快さから表情を引きつらせるアーサーに焦点を当てると、苛立ちを帯びた声でアーサーに釘を刺した。
「おい、ボストン。俺はお前を助けてやったんだぞ。礼の一つぐらい言ったらどうなんだ?」
恩着せがましい大男ケイの態度。その態度に、アーサーの天邪鬼な側面が騒ぎ出す。
「……感謝する、一応」
アーサーは大男ケイに一瞥をくれることもせず、ぶっきらぼうに言う――余計な一言を最後に沿えて。すると機嫌を悪くした大男ケイは大袈裟な溜息を零すと、コーヒーブレイクを求めてキッチンのある方角に去っていった。
+ + +
不機嫌そうな大男ケイが立ち去った後のこと。アーサーが医務官ジャスパーと十五分ほど軽い立ち話をしていると、そこにマダム・モーガンがやって来てアーサーにのみ「来なさい」と声を掛けた。そうしてアーサーが連れて行かれたのは、部屋の中央に大きな円卓が設置された会議室。そこは彼も初めて立ち入る空間だった。
十二人掛けの円卓、その直径はおよそ三mといったところ。しかしそれを収容する部屋は狭く、円卓を囲む椅子の後ろに辛うじて人が通れるスペースがあるといった具合である。その窮屈な空間には先客が居て、その人物は椅子に座らず円卓に腰かけていた。
先客、それは十五分前に大男ケイを一瞬で打ち負かした人物、ペルモンド・バルロッツィである。彼は気まずそうな微笑を浮かべつつアーサーのほうに向くと、謝罪の言葉を軽く述べた。
「さっきはすまない。ジェドはここから追っ払った。今、あいつはそこで大人しく寝てるから安心してくれ」
ペルモンドは「ここ」と言いながら、彼自身の頭を左手人差し指の指先で軽くトントンと叩く。それから続けて彼は部屋の隅、最も出入口から遠く離れた場所を指した。その誘導に従ってアーサーは会議室の隅を見やる。そこでアーサーが見つけたのは、部屋の隅でイジけたような不貞寝を決め込んでいる狼のようなかたちをした黒い影だった。
アーサーの視線に気付いたのか、その黒い影は頭と思しきものを徐に上げる。すると影は目のようなもの――二つ横に並んだ緑色の光――を開き、苛立ちと嫌悪でコーティングされた視線をアーサーに送りつける。だが一〇秒ほどで睨みは終わる。黒い影は飽きたのか再び頭を下げて目を閉ざし、不貞寝の体勢に戻っていった。
「……」
医務官ジャスパーが言っていた通り、黒い犬……というか狼の姿をしたものがいる。そいつの名前はジェドであり、何故だか理由は分からないがジェドはアーサーのことが嫌いな様子。
ペルモンドは「大人しく寝てるから安心してくれ」と言ったが、アーサーにはとてもではないが安心できなかった。気を抜いた瞬間に、先ほど大男ケイが受けた襲撃よりも酷いものが襲い来るのではないのかと、アーサーにはそう思えてならなかったのだ。
そうしてアーサーは警戒心から無意識的に腕を組むのだが。無情なマダム・モーガンはアーサーの警戒心に気付いていながらも、彼の右肩をポンッと叩く。続けてマダム・モーガンはこう言うと、アーサーを会議室に残して去っていった。
「彼から武器は全部取り上げてあるから大丈夫。それじゃ、私は行くから」
アーサーにはこう思えていた。武器の有無は関係ない、ペルモンドという人物そのもの及び部屋の隅で不貞寝しているあの影が危険そうなのだから、と。だが本人らがすぐ傍にいる手前、そんな本音を漏らすことは憚られた。
すると円卓に軽く腰かけていたペルモンドが円卓から離れ、姿勢を正す。彼はアーサーから僅かに視線を逸らすと僅かに顔を俯かせ、簡潔にこれだけを述べた。「用件は一つだけだ。それが済んだら俺はすぐに消える」
「そうか、なら手早く済ませてくれ」
不人情なアーサーは冷淡にそう返答するのみ。だが察しの良いアーサーは気付いていた。このアーサーの冷淡な態度、もとい敬遠するような姿勢に相手が少しの悲しさを覚えていることを。だがアーサーには配慮する気など更々なかった。
彼は早くペルモンドから離れたかったのだ。生前の自分がこの男とどんな関係にあったかなどアーサーの知ったことではないし、今の彼にとってペルモンドという存在は良い印象がない人物でしかないわけだ。ならば、アーサーとしてはここで悪い印象を相手に抱かせ、距離を生む方向に持っていきたいというもの。
しかしこのアーサーの狙ったかのようなあからさまに冷たい言動は、ジェドと呼ばれた黒い影の怒りを買う結果となる。不満げなオーラをそれとなく匂わせ続けていたその黒い影は、アーサーの言葉が終わった途端に飛び起きたのだ。そして黒い影は緑色に輝く両目を見開くと、口を大きく開けて緑色に輝く咥内を覗かせる。それから黒い影はアーサーに向けて、吠えたてるように言った。
『あぁっ、うざってぇ!! 自分の置かれた立場も考えねぇで、偉そうにスカしたツラをしやがってよぉ? てめぇ、何様のつもりだ!! 身の程を弁えやがれ、ゴルァッ!』
黒い影はバウバウとアーサーに吠え立てたあと、気が立ったその勢いのままに走り出す。アーサーに狙いを定め、体当たりでも決めに行くかのような突進を仕掛けてきたのだ。
だが、その突進はあえなく強制停止させられる。ペルモンドが手をかざし、この黒い影に制止を求めたからだ。黒い影は制止を受けて急ブレーキを掛け、その場に立ち止まる。直後、ペルモンドは犬に出す指示のような言葉を口走った。
「――ジェド。回れ!」
まさか、とアーサーは思った。そして、まさかの展開が起きた。なんと人語で吠え立てた黒い影が、ペルモンドが言葉を発した直後、躾けられた犬のように芸をしてみせたのだ。黒い影は立ち止まっていた場所を基軸にして、床にコンパスで円を描くような動きをしてみせた。これは完全に、ひとに飼いならされた犬も同然である。
そして黒い影が円を一周描き終えたあと、間髪入れずにペルモンドが再び指示を出した。
「伏せ!」
黒い影は再び、犬のように床へ伏せてみせた。その後、ペルモンドはまた指示を出す。
「ターン!」
黒い影は体を横向きに倒すと、そのまま仰向けになり、お腹を天井に向けた姿勢になって制止する。降参の意思表示をした犬、そんな有様だった。
ひっくり返った哀れな姿を見せる黒い影。それがピタリと止まり、動かなくなったことを確認するとペルモンドは次なる指示を出す。
「俺が『良し』と言うまで、その体勢を維持しろ。それまで絶対に動くな」
仰向けに寝そべる黒い影は、ひっくり返った頭で疎まし気にアーサーを睨み付けているようだったが、けれどもそれが動く気配は無い。ペルモンドの指示に大人しく従い、制止した状態を維持している。
暴力的で荒っぽい。アーサーの目にはそんな風に映っていた黒い影だが、しかし思いのほか従順なところもあるようだ。それも、かなりの従順さを発揮している。
「……あれを躾けたのか?」
アーサーは試しにそう訊いてみるが、ペルモンドから返ってきた答えは曖昧で信用できない言葉だった。
「さあな。少なくとも“俺”は覚えていないが、たぶん俺が躾けたんだろうな。――まあ、それはいいとして。本題に移ろう」
ペルモンドはそう言うと、一歩後ろに下がる。すると彼の体で隠れていた椅子、及びその椅子の背もたれに掛けられていた黒い外套がアーサーの目に見えるようになった。
ペルモンドはその黒い外套を取り上げると、それをアーサーに手渡す。外套を受け取ったアーサーは怪訝そうな表情を浮かべた。すると、そんなアーサーの様子を見てペルモンドはこのようなことを言う。
「これはお前が死ぬ直前、俺に預けたコートだ。……その様子じゃ、本当に何も覚えてないんだな」
肩にケープが取り付けられた、黒いインバネスコート。これはアーサーに縁があるものらしいが、しかし彼には思い当たる節が今はなかった。そうしてアーサーが首を縦に振り、覚えていないと伝えると、ペルモンドは肩を落とす。それからペルモンドはこのインバネスコートを彼が保有していた理由を語るのだった。
「肩のケープ、その裏地に本物のミンクの毛皮が使われている、売れば中古車が一台買えるぐらいの金銭に変えられるだろう、だからこれをテレーザに渡してくれ。――あの日、お前は俺にこのコートを預けてからそう言うと、行けと俺を突き飛ばした。そして俺はお前の望んだ通りにした。避難勧告を州内全域に出すよう知事に連絡を入れたあと、お前の子供たちとエリーヌを連れてニューヨークに脱出。工学者でもないお前をあの場所に置き去りにして、俺はこっちに亡命した。結果、ボストンは吹き飛んで消え、お前は悲劇の中心地で死んだ」
「……」
「それで、このコートをテレーゼに渡さなかった理由だが。一〇歳かそこいらの子供に上等なコートを渡したところで、その価値を理解できるわけもないだろうし、現金化する方法を知るはずもないと判断したからだ。だから、これは俺が預かることにした。時が来た時に、お前の子供たちに渡すことも考えたが……――お前が息を吹き返したと聞いて、お前に返すことにした」
「……そうか」
「代わりにあの子たちには生活面、金銭面でのサポートを提供している。衣食住で困ることがないよう取り計らっているつもりだ。それに本人たちが望むのであれば、高等教育を受けさせるつもりでいる。あと、セシリアだ。彼女に、あの子たちの後見人を頼んでいる。彼女なら、お前も信用できるだろう?」
「……セシリア?」
「セシリアも忘れたのか?」
「ああ。誰のことなのか、まったく分からない。名前に聞き覚えはあるような気がするが……」
「今の彼女は、財務顧問だ。俺の、その……財団法人、その理事長を彼女にやってもらっている」
「財務顧問? そんな人物が、子供の後見人に?」
「本当に何も覚えてないのか。お前が俺に彼女を紹介したってのに、その彼女を忘れるとは……」
ペルモンドはそう言うと、どことなく失望したかのような表情を見せる。その一方でアーサーは、ペルモンドの語る言葉の何もかもが他人事のように感じられていた。
コートのことも、自分が死んだときの話も、死に別れになった子供たちのことも、セシリアという人物についても。覚えていない以上、アーサーには実感も湧いてこない。しかし、少しの虚しさがこみあげてくる感覚はあった。
「……このコート、本当に私のものなのか?」
アーサーは受け取った黒いインバネスコートを広げながら、ペルモンドにそう問う。そしてペルモンドはこのように答えた。
「着てみれば分かるだろ。お前の体に馴染むはずだ」
アーサーは広げたインバネスコートに袖を通す。ペルモンドの言葉の通り、そのコートは体に馴染む感覚があった。袖丈も、肩幅も、身丈も、何もかもが丁度いい。背が高く、しかし極端な撫で肩で、細身であるアーサーの体格にフィットしていた。
このコートは間違いなく、自分のものだった。それを確認したアーサーは着用したばかりのコートを脱ぐ。それを丁寧に畳みながら、アーサーは小さく微笑みつつ、ペルモンドを見やりながらこう呟いた。
「……そのようだな。たしかにこれは私のものであるようだ」
しかし。微笑みかける一方で、アーサーの中にはどす黒い負の感情が渦巻いていた。ペルモンドという男に向けられる嫉妬、もとい怨嗟が、彼の心を掻き乱していた。
――もし、あのときに死んでいたのがペルモンドであったのなら。自分は今頃、子供たちと穏やかに暮らせていたのだろうか。蒼い血を宿す怪物になることもなく、普通の人生を歩めたのだろうか。
――なぜ、あのときの自分はこの男を行かせたのか。この男に、それほどの価値があったのか? 子供たちとの時間を捨てるほどの価値が、こいつにあるのか?
そのような黒い感情が、次々と湧き出してくる。だからこそ、目の前にいるペルモンドという男が早く消え去ってくれることを願っていた。だからこそアーサーはこの時、意味ありげな微笑を浮かべていたのだ。
「それじゃ、用は済んだ。俺は消えるとするよ」
アーサーの意図を汲んだのか、何なのか。きりの良いタイミングでペルモンドはそう言うと、アーサーの横を通り過ぎて部屋を出て行く。そしてペルモンドは通り過ぎざまに、部屋の隅で引っくり返っている黒い影に命令を出した。
「――ジェド、もう良いぞ。起きろ、付いて来い。ただし距離を保て、今の距離を維持しろ」
命令を聞いた黒い影は素早く飛び起きると、ペルモンドの後をスタスタと追い駆け、歩いていく――あくまでも、ペルモンドに指示された通り、一定の距離を保ちながら。
暴虐かつ従順な黒い影を見送りながら、アーサーは安堵から肩をすとんと落とす。そうしてペルモンドも黒い影も居なくなったとき。会議室に、三人組が雪崩れ込んできた――医務官ジャスパー、大男ケイ、それから整備工ジャック・チェンの三名。アイリーンとマダム・モーガンを除いたメンツが、ここに集ったようだ。
「アーちゃん、お疲れさまー。思いのほか早く終わって良かったねー」
医務官ジャスパーはそう言うと、アーサーの肩に背後から手を回し、肩を組んでくる。しかし、なんとなく気が立っていたアーサーはそれを穏やかに跳ね除け、医務官ジャスパーから離れた。それから彼は目を伏せると、医務官ジャスパーらに問う。「全部、聞いていたのか?」
「そうそう、みんなで聞いてたよ、全部」
医務官ジャスパーは笑顔でそう答える。続けて、彼女はこう言った。
「猟犬の意外な表情が見られて面白かった。気まずそうな顔もできるんだ、って驚いた。それに過去の出来事をあそこまで克明に覚えているだなんて、初めてだよ」
そう言う彼女の声色は、心の底から驚いているようでもある。猟犬――つまり、ペルモンドのこと――がアーサーの前で見せた表情の変化、それは医務官ジャスパーらにとっては物珍しいものであったようだ。
そして、医務官ジャスパーの言葉に賛同するように、整備工ジャック・チェンが首を縦に振りながら、穏やかだが無関心そうな声でこう言った。
「たしかに。いつもの猟犬なら『覚えてない』の一点張りなのに、今回は妙に昔のことをハッキリと覚えてたねぇ」
すると大男ケイはピリピリとした苛立ちを伴った声で、整備工ジャック・チェンの言葉に付け加えるようにこう言う。
「ああ。気色悪いったらありゃしないぜ。それにあの犬っころを躾けてやがったとは……」
三者三様、反応はまちまち。興味深そうにしている医務官ジャスパーと、さほど関心が無さそうな整備工ジャック・チェン、それと疎まし気に感じている様子の大男ケイ。彼らの様子を細めた目で見比べながら、アーサーは彼らのことを逆に興味深く感じていた。
と同時に、アーサーの中でまた疑問が浮かぶ。ペルモンドと名乗る男を“猟犬”と呼び、警戒心を露わにしている彼らだが、しかしアーサーはペルモンドという男にそこまでの不快感ないし警戒を抱きはしなかった(彼の後を付きまとう、黒い影。あいつは別だが)。諸般の事情で『ペルモンド』という存在にイラつくのは事実だが、かといってその人物そのものが悪人であるようには思えなかったのだ。
けれども特務機関WACEの面々は、ペルモンドもしくは“猟犬”と呼ばれる彼にあからさますぎる警戒心を抱いているのは事実。
「猟犬、といったか。さっきの男と君たちはどういう関係にあるんだ?」
アーサーがそう訊ねると、彼の前に並ぶ一同は揃って複雑そうな表情を浮かべてみせた。そして真っ先に口を開いたのは、口数の多い医務官ジャスパーだった。
「さっきの彼は、元老院に飼いならされた凶暴なワンコでさ。彼は元老院から指令が下りると殺しを働くんだ。元老院にとって目障りな人間を暗殺したり、時に小さな村や町ひとつを一人で潰したりする。そして特務機関WACEは、元老院と猟犬が好き放題したあとの始末をするのがお仕事」
医務官ジャスパーはそう言った直後、表情を暗くし、それから顔を俯かせる。彼女は続けて、暗く沈んだ声でこう述べた。
「彼の凶行を止めたいとは思ってる。――でも彼を止めることはいつもできない。あたしたちが事態を知るのは、いつも全てが終わったあとだから」
「……」
「とはいえ、あいつは替えが利かない優秀な駒でもあるワケ。だからマダムも、嫌だと思いながらも彼を使うしかないんだよ。何度も死んでは幼い姿に戻り、似たような劣悪な人生を延々と繰り返し続ける不死身の怪物を。誰かに買われて、誰かを殺して、自分を殺し続ける哀れで愚かな怪物のことを、使い続けるしかないんだ」
先ほど現れたペルモンドという人物の身なりが傭兵然としていたことから、ある程度はアーサーも察していたが……――ペルモンドないし猟犬と呼ばれている男の全容を聞かされたアーサーは、みるみる気分が減衰していくのを感じていた。
目障りな人間を暗殺。それだけでも十分にインパクトがある内容だが、衝撃的な内容はそれだけでは終わらなかった。
「……」
村や町ひとつを一人で潰す? 何度も若返って人生をやり直す不死身の怪物? さっきのあの男が、本当にそんな化け物なのか? そんな化け物と自分は、仲良く喋っていたのか?
「ひとつ訊きたい。その……――元老院というのは何だ?」
情報を処理しきれずに頭がパンクした結果、アーサーの口から飛び出たのは本当に訊きたいことではなく、正直なところどうでもいいような質問だった。
当然、医務官ジャスパーは困惑するような顔をする。どうして今それを訊くのか、という表情を見せた。だが察しの良い医務官ジャスパーは余計なことを言わない。代わりに彼女は、投げかけられた問いに可能な限り誠実な答えを返すだけだった。
「それは……分からないっていうのが正直なところだね。あたしたちの上官であるマダム・モーガンよりも上の存在で、人間じゃない化け物っていうか自称“神様”な連中らしいってことぐらいしか知らないんだ。万物の創造主っていう肩書を名乗ってるやつららしいね。まあ、陰謀の黒幕みたいな? そういう邪悪な存在だーって理解しといて。……あー、そうだ。アーちゃん。アルフレッド・ミラーって名前は分かるかな」
「ああ。たしか……滅茶苦茶なことをやらかしてきた政治家?」
「そいつ、実は元老院の構成員らしいよ。だからどんな無茶苦茶なことも、神の力ってやつで可能にできちゃったんだ。州を独立に導き、州名を自分の名前に変えたり。亡命先の国のシステムをぶっ壊して大統領制なんていうトンデモを持ち込んじゃって、挙句に空の上に大陸を浮かべちゃったりね。オーストラリアはオーストラリアのまんまで良かったのに、アルストグランなんて奇妙な名前を付けちゃってさー。あれ、何語なんだろうね? ……まあ、そういう感じだよ。元老院って名前はよく聞くけど、それが何なのかは分かってないってのが実態なんだ」
長々と話し続けた医務官ジャスパーだったが、その結論は『分からない』というもの。そして医務官ジャスパーが肩を竦めて溜息を零した時、同時に大男ケイが重たい息を吐く。大男ケイは、話を逸らすような妙なことばかりをほざくアーサーを鋭く細めた目で睨み付けると、アーサーを指差して釘を刺した。
「ともかく。あんなイカれ野郎と“おともだち”になりたがる物好きなんざ、この世にお前ぐらいしかいないだろうさ。お前は、お前自身もイカれていることを自覚しておくべきだな」
大男ケイの程度が低いが辛辣な言葉が、アーサーの心にじわじわとダメージを蓄積させていく。そうして僅かにムカついたアーサーが、少しだけ下唇を噛んだ時だ。そのアーサーの表情変化に気付いた整備工ジャック・チェンが、愉快そうに小さく笑う。それから整備工ジャック・チェンは横に立つ大男ケイの脇腹を肘で軽く小突いたあと、やや不機嫌そうにしているアーサーを見やる。そして整備工ジャック・チェンはアーサーに向けて、こんなことを言った。
「僕は三〇〇年ぐらい生きてて、ケイは五〇〇年ちょい、そしてジャスパーは一二〇〇年ぐらい生きてるんだ。長生きな僕たちは、同じく長生きをしている猟犬をずーっと見てきた。だから言うけど、彼はハッキリ言って異常だよ。ジャスパーがさっき言った凶暴な一面もそうだけど、それと同時にヒステリー持ちっていう厄介な特性もあってね。ねー、ジャスパー」
「チェン。あたしに変なパスを投げないで」
面倒そうなパスを整備工ジャック・チェンから投げられた医務官ジャスパーだったが、彼女はそのパスを華麗に避けた。そういうわけでボールを投げ損ねた整備工ジャック・チェンは気まずそうな微笑を浮かべる。そうしてボールを手元に引っ込める整備工ジャック・チェンは唐突に、猟犬と呼ばれる男に関する思い出話を始めるのだった。
「それにしてもさぁ。最初に出会った頃の彼は、古代の彫刻みたいに整った顔をした男の子だったのに。それが今じゃあキッツイ顔をした性格悪そうなオッサンになり果てた。三〇〇年前の僕は、こんな未来を予想してなかったよ。あんなに可愛い笑顔を浮かべてた子が、薄気味悪いニタニタ笑いをする怪しいオッサンに変わり果てるだなんて……」
「そうか? あれは常時、飽きもせず牙を剥いているような狼少年だっただろう。むしろ予想通りの相応しい面構えになったと俺は感じているが」
過去を懐かしんで美化するようなことを言う整備工ジャック・チェンに、真反対の感想をぶつけて対消滅を引き起こす。整備工ジャック・チェンは美化しかけていた思い出を、大男ケイが突き付けてきた『正しい認識』で上塗りしたあと、己の発言を振り返って息を呑んだ。
それから整備工ジャック・チェンは、直前の発言をごまかすように咳ばらいをひとつする。彼は視線を再びアーサーに向けると、また唐突な話題転換をした。そして彼がアーサーに語ったのは、身の上話だった。
「あぁ、その。僕がここに囚われることになったキッカケが猟犬だったんだ。まだ僕が人間として暮らしてたときの話、三〇〇年前のことなんだけど。当時、僕は地元のギャングに脅されてて仕方なく彼らの使う武器のメンテナンスとかする仕事をしてたわけ。本業の自動車整備とはまた別に、そういうことをやってたの。僕のアホな弟が、ギャングの連中からドラッグを盗んで逃げたことがキッカケで、連中から目を付けられちゃってねぇ……。で、僕の仕事場である工房に、あるときボロボロな有様の猟犬が転がり込んできたんだ。当時の猟犬は、そうだな、たしか……十三歳ぐらいの子供に見えたんだ」
三〇〇年前。当時は十三歳の子供ぐらいに見えていた。――そんな『異常』としか思えない言葉たちが、さも当たり前の大前提であるかのように登場する。その話に、異常に慣れたつもりになっていたアーサーは再確認させられる。ここが普通でない異様な時間の流れる世界なのだと。
異常であることを再確認したアーサーは、少しの緊張から無意識のうちに腕を組むというアクションを起こす。そうして彼が胸の前で腕を組み合わせたとき、整備工ジャック・チェンがはにかみ笑いを浮かべ、鼻の頭を掻いた――過去の恥ずかしい出来事を思い出し、当時の後悔が再来するのを感じているかのように。それから整備工ジャック・チェンは言葉を続けた。
「ヨレヨレの汚れた服を着たやせ細った子供が、何でもするからここに数日おいてほしいって言ってきたんだ。手先は器用な方だし、機械の整備は得意だから仕事を手伝えるって、彼は必死に訴えてきて……。それで、お人好しが過ぎた僕は彼を受け入れることにしたんだよ。僕の仕事を猟犬に手伝ってもらう代わりに、猟犬が僕の工房で数日寝泊りすることを許したんだ。数日で済むならいいかって思ったし。それに仕事柄、警察に通報するってわけにもいかなくてさぁ。それに猟犬くん、本当に手際が良くてねぇ。僕よりも丁寧かつテキパキと素早く仕事してくれるから、有難かったんだ。そんなこんなで完全に油断してたとき、僕は猟犬に殺されそうになった。メンテナンスを終えたばかりの武器で、僕は彼に撃たれそうになったんだ。要は、初めから僕を殺すことが目的だったわけさ。彼が誰に雇われたからそんな行動をしたのか、それは今も分かっちゃいないけど……」
「……」
「やせ細った子供を見れば大抵の成人は同情する。その同情を猟犬は故意に利用し、標的である僕の懐に入り込んだところで目的を果たそうとしたんだ。そして僕が死ぬのを覚悟したとき、間一髪のところでマダムとケイが僕を助けてくれた。マダムが瞬間移動でサッと現れて僕を安全なところにサッと移してくれたし、猟犬はケイのぶっ放したショットガンで頭をふっ飛ばされて即死。……まぁ、彼は後日また復活したんだけどね。そして僕はその後、何度でも蘇る猟犬に怯えながらもマダム・モーガンに尽くし、ケイが壊した銃火器を修理する日々を送ってるってわけ」
物腰柔らかで穏当な整備工ジャック・チェンだが、彼は理不尽に見舞われた過去を持っていたらしい。しかし過去を少し恥ずかしがるように笑う彼からは、不思議と“猟犬”と呼ばれる男に対する恨みのようなものは感じられなかった。
そして、そんな態度を見せているのは医務官ジャスパーも同じ。彼女もまた猟犬を警戒していると同時に、猟犬に対してどこか同情的な態度を見せている。あからさまに猟犬という存在を敵視しているのは大男ケイだけのようにも、アーサーには感じられていた。
となると、気になってくるのは医務官ジャスパーの過去。それを知りたいと感じたアーサーは、彼女に話題を振った。「ジャスパー、君は? 何故ここに来たんだ」
「あたし? そうだな、あたしもほぼジャックと同じ。あたしは大昔、看護師として働いてたんだ。ある日の就業が終わって勤め先から車で自宅のあるアパートに帰ったとき、あたしは駐車場の物陰に倒れてた彼を発見した。というか、彼を中心に広がってた血の海を。驚いたあたしはすぐ通報した。けれど、その電話を掛けている最中に彼が起き上がって、あたしに掴み掛かってきたんだ。今すぐその通話を切れ、さもないと殺すって。そうして揉み合いになってた時に、どこからともなく駆けつけたマダムが私を助けてくれた――んだけど」
「……?」
「マダムもあたしも気が緩んでしまったその瞬間に猟犬が隠し持ってた銃を発砲して、あたしはお腹に三発も喰らっちゃってさぁ。多分、普通の人間のままだったらあの時に間違いなく死んでたはず。でもあたしはマダムの血を貰って、人間じゃないものになったことでなんとか生きながらえたのよ。以降一二〇〇年、大きな怪我をすることなく過ごしてる。マダムの下でね」
「それで……猟犬について、君はどう思ってるんだ」
「んー、そうだなぁ。最初は彼のことを憎んでたけど。付き合いも長くなって、彼やマダムについて色々と知った今となっては同情のほうが大きいかな。というより、なんだろう。早く彼を解放して、マダムを自由にしてあげたいって思ってる。そんなとこかな」
しんみりとした表情と声で、医務官ジャスパーが最後にそう零したとき。それと被せるように、大男ケイが彼女の言葉を鼻で笑う。そして大男ケイは持論をぶつけた。「何を言ったところで、ヤツが人殺しだという事実は変わらない。あれは大殺戮を幾度となく働いている。あんな野郎に与えられる免罪符など無い。同情する価値もないさ。酷な目に見舞われたからといえ、それを上回る悲劇を起こしていいわけがないし、赦されるべきでもない」
「流石、元警官だ。頭が固いね」
冷徹だが正しい言葉を放つ大男ケイに、皮肉を言うのは整備工ジャック・チェンである。そして整備工ジャック・チェンの言葉のあと、医務官ジャスパーが溜息を吐いた。それから医務官ジャスパーはアーサーに、こんなことを教える。
「ケイちゃんは警官一家の長男だった。幼い頃から警官になるために育てられた男だから、頭はガチゴチで、かなり保守的。典型的な『頭が固いダメな北米人』ってやつだよ。家族、コミュニティを重んじて、世話焼きな良いひとを演じながらも、部外者は容赦なく排斥するタイプ。普通じゃない出自の人間を受け入れられない狭量なひとなんだ。ケイちゃんのそういう狭量なところを、奥さんや子供たちが嫌ったっていうわけ。まあ、つまり、誰でも公平に受け入れるからこそドライに割り切ってるとこがあるアーちゃんとは正反対ってこと」
医務官ジャスパーはそのように大男ケイをボロカスに貶すが、貶された側の大男ケイは特に動じることなく余裕の素振りでふんぞり返っている。医務官ジャスパーからこの程度の罵倒を受けることなど、きっと彼にとっては珍しいことでもないのだろう。
そんなこんなで医務官ジャスパーや整備工ジャック・チェンから罵られている大男ケイだが、しかし彼は気を悪くして立ち去る素振りをみせない。これは構って欲しいというサインなのだなぁと薄々察しとったアーサーは、仕方なく大男ケイにも話を振ることにした。「一応、訊いておく。ケイ、お前はどうしてここに堕ちた?」
「一応、って。なんだ、その副詞は」
不機嫌そうなことをいう大男ケイだが、その声色はむしろ嬉しそうだ。アーサーに構ってもらえたことが嬉しいらしい。その様は、まるで犬である。
あぁ、この男はやっぱり苦手だ。――アーサーは内心そう思いつつ目を細めて、大男ケイのほうに顔を向ける。すると、大男ケイは饒舌に己の来歴を語り始めた。
「俺はもともと、シカゴ市警察で機動隊員を務めていた。新米だったある時、地元で一番デカい銀行に強盗が入ってな。その鎮圧に俺は参加したんだが、その時に俺は当時強盗団の一員として加わっていた猟犬を殺したんだ。やつが銃口を俺に向けて来たから、俺はその頭をブチ抜いてやったのさ。だが、その後に妙なことが起きた。事件集束後、死んだ強盗団どもの死体が現場から運び出されたんだが、その中に俺が殺したはずの猟犬がいなかったのさ。そして俺は、猟犬のような顔をした男、それも頭から血を流した若い男が、現場を去って行く人質たちの一団に紛れて出て行こうとする姿を目撃した」
「……」
「ただ、あの時の俺は気のせいだと思ったんだ。なんせ現場で人を殺すのはあれが初めてだったんでな。これが噂に聞くトラウマやらショックの類なのかと誤魔化して結局、俺は上にそのことを報告しなかった。そしてそれが問題になることもなく、銀行強盗の件は早々に過去のものとなった。その後、俺は現場、指導教官、オフィス組を経て、定年で退職。気ままに釣りでもしながら穏やかな余生が送れると思ったんだがな。食料品の買い出しを終えたある日の帰路、俺の運転していた車にマダムが黒いバンで故意に追突してきたんだ。横転した車内から俺はマダムによって引っ張り出されたが、そのときにマダムから猟犬を見たことで脅されてな、ここに強制連行されたかたちだ」
「なるほど……」
「だが、ここでの生活も気に入っている。マダム・モーガンのこともだ。それにここでは存分に銃をぶっ放せる。あの猟犬の顔をめがけてよぉ!」
猟犬を保護しようとした結果、猟犬に危うく殺されそうになったという整備工ジャック・チェンや医務官ジャスパーとは、明らかに異なる経緯。それを聞き、アーサーは納得する。彼らと大男ケイの意見が合わない理由を。
整備工ジャック・チェンは、短い期間だけかもしれないが猟犬と時間を共に過ごした経験がある。それも、さして悪くない印象を抱く経験を。そして医務官ジャスパーは長く生きている分だけ、猟犬が持つ様々な側面をより多く見てきたのだろう。
だが大男ケイが知っている猟犬といえば、牙を剥いて警戒心を露わにする凶暴な顔か、狙いを定めた獲物を仕留めようと殺気立つ姿だけ。そして大男ケイは猟犬と対峙するたび、猟犬を仕留めてきた。彼にとって猟犬とは狩りの対象でしかないのだ。
「猟犬のあの重たい瞼を見てると無性に腹が立ってくる。普段はシャキッとしない眠そうな顔してるくせに、いざ本業に専念となりゃ雰囲気がガラッと変わるところも気に入らねぇ。あのデカい垂れ目をひん剥いて、ニタニタと気味悪く笑う顔。あれが大嫌いだ。あの顔をぶち壊すために俺はここに居るようなもんさ。我らがマダム・モーガンのために、あのクソ犬はなんとしてもブッ殺さねぇとな!」
血気盛んな狩人である大男ケイは勇ましく宣誓するが、それを聞く周囲の反応は冷ややかだ。医務官ジャスパーは露骨な溜息を吐き、大袈裟に呆れと軽蔑を表現しているし。アーサーも一種の嫌悪感から眉を顰めていた。整備工ジャック・チェンも、視線を下に向けて肩を落とす。大男ケイもまた、三人が見せる芳しくない反応にウンザリするように肩を竦めた。
同じ場所で同じものを見たとしても重なることがない意見の食い違いに、それぞれが少しずつ苛立たしさを覚える。そうして誰もが黙り込み、場が静かになったとき。静寂に耐えられなかった整備工ジャック・チェンが顔を上げた。そして彼がふと、心の内にあるものを洩らす。
「ほんの二〇年前までは、もっと人が居たんだけどね。僕たち含めて、仲間は一〇人いたんだ。あの時はワイワイうるさくて楽しくて、静かになる時間なんてなかったのに。今は少しの沈黙が重くてしんどいよ。これも全部、猟犬のせいだ」
整備工ジャック・チェンは二〇年も前のことをさも数か月前のように語る。その言葉にアーサーは少しの奇妙さを感じながらも、気配りが過ぎる男に感心もした。医務官ジャスパーが冷たく突き放した大男ケイの気分をこれ以上損ねることなく、さりげなく彼の言い分も拾ってフォローしながら、最後にうまく締めくくったなと。
そうして整備工ジャック・チェンの言葉により、不愉快さがない状態で解散できそうな機運が醸成される。一抜けで出て行こうとしたのは、この空気を生み出した当の本人だった。
「さぁて、僕は仕事に戻るよ。まだ整備が終わッ」
整備工ジャック・チェンがアーサーらに背を向け、廊下へと出ながらそう言ったときだ。緩和されかけた緊張感が一変し、これ以上ない張りつめた空気となって場に戻ってくる。それは整備工ジャック・チェンが廊下に一歩踏み出した瞬間、彼の体が大きく傾いたからだ。そして彼の側頭部からは血しぶきが飛び散り、程なくして彼の体は力なく床に倒れ込む。狙い澄まされて射出された弾丸が脳幹を撃ち抜いたのだ。
整備工ジャック・チェンが銃撃され、即死した。その事実を呑み込むのに、アーサーは少しの時間を要した。だが大男ケイはすぐに動き出す。彼は念のためにと携帯していた二丁の拳銃を取り出すと、うち一丁を呆然とする医務官ジャスパーの手にねじ込んだ。それから大男ケイは言う。「ジャスパー、援護してくれ。俺が猟犬を仕留める!!」
「――い、いいえ。それはできない。ここに待機して、ケイ。マダムの指示を待つべき」
「ゴチャゴチャうるせぇ、俺は何度もあいつを仕留めてるんだ! いくぞ!!」
「でも」
「俺はやれる。お前は武器庫までの道を援護してくれればそれでいい、あとは俺がカタを付ける」
突然の出来事に当惑するアーサーがやっと『整備工ジャック・チェンが猟犬に殺された』という推測に至ったときには、既に大男ケイと医務官ジャスパーは拳銃を構えており、事態を収拾にかかる体勢に入っていた。部屋の出入り口の傍で機を伺い、外へと飛び出るタイミングを狙い待つ二人の姿がアーサーの視界に映る。
自分も何かをしなくてはいけないのか? ――そう考えるアーサーが一歩、前へと進み出たとき。彼の動きを横目で見た大男ケイが、アーサーを制止した。
「ボストン、お前は足手まといになるだけだ。そこで待機していろ」
神経を尖らせる大男ケイが、これ以上ないほど険しくした目付きでアーサーを睨み付けている。向けられているその視線を、細めた目で確認するアーサーは彼から目を逸らす。
だがこの時、正常な人間であれば発動しているはずの“恐怖心”という安全装置が機能を停止していた。大男ケイの放つ殺気を真正面から受け止めても何も感じなかったアーサーは、それを無視するという暴挙に出る。あろうことかアーサーは、丸腰の状態で危険地帯へと飛び出したのだ。
アーサーの歩みを止めようと大男ケイが手を伸ばすも、判断機能にエラーが発生しているアーサーはその手を払い除けてみせる。それから目を開くアーサーは胸を張って背筋を正し、場違いな堂々さを身に纏いながら、猟犬の前に現れるのだった。――そして彼を見送る大男ケイは、いつでも飛び出せる姿勢を整えると悪態を吐き捨てる。
「あぁっ、クソが! 余計なことをしやがって!!」
アーサーが廊下に出てみれば、その先には自動小銃を構える男が待ち構えていた。その男は、つい先ほどまでアーサーに馴れ馴れしく話しかけていた人物。ペルモンドと呼ばれる男だ。
だが、アーサーの目には今の彼が“ペルモンド”でないと思えていた。何故なら、その男の目には緑色に輝く眼光が煌めいていたからだ。しかし、黒狼ジェドが憑依しているわけではなさそうである。というのもアーサーの目には、男の背後で狼狽えるように右往左往しながら力なく吠えたてる黒狼ジェドの姿が見えていたからだ。
『おい、相棒。頼むから、面倒は起こすな! 止まれ、今すぐそれをやめろ!! 今、こいつらを殺す必要はないだろうが!!』
となれば、今の彼は特務機関WACEの隊員たちが“猟犬”と呼んで蔑む人格になっていると考えるべきなのだろう。
……等々。そんな風に分析をしながら歩けるほど、アーサーは奇妙な冷静沈着さをこの状況下で手に入れていた。また、焦って走るわけでもなく、落ち着きを払った歩調で堂々と歩くアーサーの姿に、むしろ猟犬のほうが呆気に取られている様子。緑に輝く目を極限まで見開き、アーサーを凝視する猟犬は動きを止めていた。
ハッタリであるかどうかさえ判別のつかないアーサーの赫々 たる姿。それが猟犬の目には、初めて遭遇した新手の怪物のように見えたのだろう。怯える気配を見せることなく、武器すら持たず、迷うことなく己に迫ってくるアーサーの怪奇な威容は、痛みに麻痺した猟犬へのアプローチとしては些か斬新すぎたのかもしれない。
「貴様の狙いは分かっている、そこで止まれ」
驚くあまりに呼吸さえも止めた猟犬の目前にまでアーサーは至る。そのアーサーの真横を、大男ケイが素早く、だが静かに駆け抜けていった。大男ケイが向かった先は、整備工ジャック・チェンの居城だった武器庫。そして遅れて大男ケイの存在に気付いた猟犬が、大男ケイを撃ち抜くべく身を翻そうとしたとき、アーサーが猟犬の腕を引っ張ってそれを妨害する。彼は猟犬を自分と向き合わせた。
更にアーサーは猟犬の構える自動小銃、その被筒部下面から突き出たフォアグリップに手を掛け、握り込む。そしてアーサーは自動小銃を自身へと引き寄せ、その銃口を自分自身の胸に当てた。それから彼は真っ直ぐに猟犬の目を見つめると、刺々しさを帯びる声で猟犬を刺す。
「撃つなら私を撃て。それがお前の目的であるはずだ」
「その通りだ。俺はお前を殺しに来た」
アーサーの言葉に猟犬がそう返した瞬間。猟犬のスイッチが切り替わるかのように、猟犬の目付きが変化する。驚きから見開かれていた目が、途端に嫌悪と渇望に満ちたギラつく目に変化した。睨みを利かすように細められた目、そして皴が寄る眉間は、アーサーにあからさますぎる敵意を向けている。そして目付きが変化した途端、猟犬が取る態度も一変した。
アーサーの胸に突き付けられた銃口を、猟犬はグッと押し込む。胸郭の中央、胸骨に銃口が圧を加えた。だがアーサーが怖気づかなければ後退もせずにいると、猟犬はついに自動小銃から手を離し、アーサーを後方に突き飛ばす。アーサーは踏ん張りが効かずによろめくも、しかし自発的に後退することはしなかった。
スリングによって吊られた自動小銃が、やる気なさげにぶらりと揺れる。その様をちらりと一瞬だけ見やったあと、アーサーは猟犬の目を見つめ、そして睨み返す。体勢を立て直すアーサーは冷淡な声で、豹変した猟犬に問うた。
「ペルモンドではなく、黒狼ジェドでもない。なら、私を殺しに来たという今のお前は何者だ」
しかし猟犬は答えない。返答の代わりに猟犬が引き抜いたのは、背中に差していた対のサーベル。左右の手にそれぞれ湾刀を握る猟犬はアーサーに威圧する素振りをみせるが、けれどもアーサーは応じない。すると猟犬は右手に持つサーベルの鍔から伸びる護拳の縁 を、猟犬はアーサーの腹に押し当てた。それから押し当てた護拳を力強く押し込み、強引にアーサーを後退させる。
回復して間もないアーサーと、万全な状態にある猟犬。どちらが優勢であるかは一目瞭然であり、動揺を打ち払った猟犬にはもはやアーサーを恐れる理由も無かった。だが、猟犬がアーサーを手に掛ける気配は一向にない。
「どうした? 私を殺すのではなかったのか? 私は抵抗などしない。大人しく貴様に殺されてやってもいいぞ。それなのに、どうした。なぜ、やらない?」
護拳で押されるアーサーは猟犬の望むまま、力づくの後退を強いられている。それが気に喰わないアーサーは、せめてもと口先だけの攻撃を仕掛けていた。そして攻撃は効いている。アーサーが挑発まがいの言葉を投げかけるたびに、猟犬は苛立つように表情を険しくさせていった。
「怒りも嘆きも恐れもしない私が怖いか? 武器を何一つ携帯していない丸腰の私が怖くて堪らないのか? 黙りこくってないで、答えたらどうだ。ええ?」
相手を苛立たせれば判断も鈍るだろう。それに下らない会話で時間を稼げば、後は大男ケイがどうにかするはず。そう考えていたからこそ、アーサーは挑発的な言動を続ける。そして彼の目論見通りの展開が、彼の視界の片隅で起きた。苛立つ猟犬の後方に見える大きな影。大男ケイがショットガンを携えて武器庫から出てきたのだ。
大男ケイは身振り手振りでアーサーに指示を送っている。今すぐそこをどけ、脇に避けろ、もしくは伏せろ、等々。つまり、アーサーが邪魔で発砲ができないらしい。だがアーサーは退くタイミングを見出せなかった。
そうしてずるずると後退させられているうちに、遂に元いた場所が迫ろうとしている。円卓のある会議室、その出入り口が差し迫ったとき。アーサーは横目で、拳銃を構えて猟犬の額に狙いを定める医務官ジャスパーの姿を確認する。そして発砲音を聞くと同時に、アーサーが身を引いて猟犬から離れた瞬間だった――苛立ちを表明するようなしかめっ面を決め込んでいた猟犬の顔が、凄絶な笑みを浮かべたのだ。
射出された弾丸の軌道を予測し、それを避けるように、猟犬は大きく身を翻す。と同時に猟犬は左腕を振り、その手に握るサーベルの刃で空を切った。
刃の先が捉えていたのは、医務官ジャスパーの首筋。己の首が刎ね飛ぶことを覚悟した医務官ジャスパーが目を見開き、と同時に彼女はがむしゃらに拳銃の引き金を引く。狙いも定められていない拳銃から二発が連続して放たれた音が聞こえてきた。その音を聞いた直後、アーサーは唐突な脱力感に襲われる。彼の体から力が抜け、ふらりと後ろに倒れそうになったとき……――どうしてか、同時に猟犬までもよろめき、ふらついた。
よろめく猟犬の両手からはサーベルが落ちる。右手に握られていたサーベルはそのままの形状を保ったまま床に落ちたが、医務官ジャスパーの首を刎ねようとしていた左手のサーベルは、あたかもくしゃくしゃに握りつぶされた紙ごみであったかのような有様に変化した状態で落下する。カンッ、という金属音が二回続けて鳴った直後、アーサーの鼻腔から蒼い血が垂れて落ちた。
「これがお前の手にした異能か?」
笑顔を消し、寒気を覚えるような冷たい眼光を宿す真顔に変わる猟犬は体勢を立て直すと、床に落ちたサーベルを見下ろしながらそう言う。しかし、立った姿勢を維持するので精一杯なアーサーは苦しそうに肩を上下させながら荒い呼吸をするだけで、何も言わない。それにアーサーには訊かれたところで分からなかったのだ。今、目の前で何が起きたのかが。
いや、正確には『今、自分が何をしたのか』だろう。だが、切り替えの早いアーサーはその議題をすぐに頭の中から追いやる。くだらないことを考えるのは事態の収拾が付いてからにするべきだと、彼はそう判断したのだ。
「……ッ……!」
とにかく、今は何かを言うべきなのかもしれない。誤魔化すような言葉や挑発するような台詞など、何でも構わないから発しなければならない。相手のアクションを少しでも遅らせるために……――しかし、そう思う一方でアーサーは声を出すことができなかった。絶え絶えな呼吸が、体力の浪費を拒むように声を絞り出すことを拒んだのだ。
そうしてアーサーが何もアクションを起こせずにいると、猟犬が次なるアクションを繰り出してくる。猟犬は腰に携えた拳銃を抜くと、その銃口をアーサーの額に向ける。それから猟犬は右側の口角だけを吊り上げ、口許だけの不気味な笑みを浮かべた。そして猟犬はアーサーに言う。
「それなら……――弾丸の軌道も曲げられるか?」
猟犬はその言葉を放った直後、間を置くことなく二発続けて発砲した。が、それと同時に脇で構えていた医務官ジャスパーも再度引き金を引き、発砲する。彼女が撃ちだした弾丸は猟犬の右手首を掠め、その影響でアーサーの額を狙って放たれた弾の軌道が逸れ、アーサーの右肩を撃ち抜いた。そして猟犬が続けて発砲した弾は、アーサーではなく猟犬に傷を与えた医務官ジャスパーを狙って放たれる。そして二発目の弾丸は医務官ジャスパーの額の中央に穴を開け、彼女の活動を止めた。
医務官ジャスパーは身を大袈裟に仰け反らせ、背後に倒れ込み、それきり動かなくなる。その姿を、アーサーはただ見ていることしかできなかった。
先に殺された整備工ジャック・チェンと、たった今殺された医務官ジャスパーの死体。奇しくも彼らは折り重なるように被さっている。そのさまを呆然と見下ろしていたアーサーが、気を持ち直して猟犬に視線を移し、彼へ怒りに満ちた視線を浴びせ付けたとき。アーサーの背後から声がした。
「あなたは、なんてことを――!!」
立て続けに鳴った銃声を聞きつけて、駆けつけたのだろう。素早く駆けてくる足音のあと、聞こえてきたのは動揺で震えるマダム・モーガンの声だった。そして猟犬は聞こえてきたその声に、嘲笑を織り交ぜながらこう返す。
「任務を遂行しただけだ。特務機関WACEの隊員を入れ替える、ゆえ現隊員たちを全て処分しろとの指令が下った。モーガン、お前以外の全てを処分しろと。――だが、皆殺しってのはちとつまらないだろう? 俺に対して怒りを滾らせる連中が少しぐらい残っていたほうが面白いってものさ。その方が張り合いもある」
猟犬はそう言いながらその場に屈みこみ、先ほど落とした二本のサーベルのうちの一本、原形を留めているほうを左手で掴み取る。そして立ち上がりざまに身を翻す猟犬は右手に握っていた拳銃を腰のガンホルダーの中へ素早く収納しながら、後方に居た大男ケイのほうに体を向けると、サーベルの切っ先を彼に向けてこう言った。
「お前もそう思うだろう、ケネス・フォスター」
猟犬の注意が大男ケイに移り、アーサーが逃げる隙が生まれる。猟犬が大男ケイに狙いを定め、彼のいる方向へと走り出した瞬間、今だと判断したアーサーは円卓のある会議室に退避しようとした。だが猟犬はその動きを見逃さない。
猟犬は、どさくさに紛れて逃げようとしたどんくさいアーサーの足に足を引っかけて、アーサーを転倒させる。バランスを崩して前のめりに倒れるアーサーの襟を、猟犬は後ろから掴み上げて自らの前に引き寄せた。そうして猟犬はアーサーを盾にすると、大男ケイを目掛けて駆け出す。
その一方、ショットガンをいつでも撃てる態勢を整える大男ケイは、しかし撃つに撃てない状況に苛立ち舌打ちをしたあと、猟犬の言葉に悪態を返した。
「エリーヌ嬢が哀れに思えて仕方ねぇよ。父親が殺しのプロだとも知らず、今日も地下の防音室で暢気にヴァイオリンでも弾いたあと、庭でアフタヌーンティーでも楽しんでお上品に振舞ってるんだろう?」
自分の身に何が起きているのか、そして今の状況はどうなっているのか。アーサーにはそれが一瞬、理解できなかった。が、大男ケイの悪態を聞いて、はたと我に返る。
自分は今、猟犬の盾にされている。その所為で大男ケイは猟犬を撃ち殺せない。そして猟犬は大男ケイを殺してやろうと特攻を決めている。サーベルを左手に握り、右手でアーサーの服を掴んで走る猟犬は、大男ケイに斬りかかろうとしていた。
――これはマズい状況では?
「あれを世間知らずの高枕と呼ばずして……」
大男ケイは悪態を吐き続ける。そして大男ケイが「世間知らずの高枕」なる言葉を発した瞬間、アーサーの向こう見ずな暴走が再度起こり、大男ケイは言葉を途中で止めてしまった。
「……――?!」
アーサーは左腕を後方に素早く引き、左肘を猟犬の鳩尾にめり込ませる――だが、強靭な横隔膜ないし神経叢を持っている猟犬は、その衝撃に怯む様子を見せなかった。しかし動じないのはアーサーも同じ。
続けて、アーサーは後方に引いた左腕を真っ直ぐ伸ばすと、鳩尾に一撃を食らわせた勢いに乗って体を翻して向を反転させ、服を掴んでいた猟犬の手を振り払った。そしてアーサーは伸ばしていた左腕を肩と平行に並ぶ高さに上げる。と同時に、彼の伸ばしていた左腕に猟犬の首が当たり、猟犬は大きく後方に仰け反った。つまり、アーサーは猟犬を相手にラリアットを決めたのだ。
猟犬が仰け反った隙に、アーサーは猟犬から離れようとする。だが猟犬は、アーサーが狙ったほどの隙は与えてくれなかった。一瞬よろけた猟犬だが、彼はすぐに体勢を立て直す。猟犬は逃げようとしたアーサーの足首を即座にサーベルの峰で叩きつけ、転倒させた。そして一気に大男ケイ目掛けて駆け出す猟犬は間合いを詰める。アーサーが間抜けに転んだその直後、猟犬はサーベルを振り、大男ケイを斬りつけ、直後に彼の首を突いた。
大男ケイは構えていたショットガンを盾代わりにするも、猟犬の斬撃はあまりに力強かった―――放たれた一閃はショットガンを叩き飛ばすほど強烈なものだった。そして直後に繰り出された突撃は正確無比。大男ケイの喉、その喉頭隆起を狙って突き出されたサーベルの切っ先は、軟骨の下に隠れた声門を抉る。声門を破壊され、同時に気管に穴を開けられた大男ケイは、その場に膝をつくように崩れ落ちた。それから大男ケイは己の首に開いた穴を塞ぐように、両手で自分の首を締め付ける。
「ケイ……――ッ!!」
困惑と動揺で満ちた声で頽れた大男の名を呼びながら、マダム・モーガンは彼の許に大慌てで駆け寄る。なお猟犬は、ターゲットではない彼女の進路を塞ぐことはしなかった。
大男ケイに駆け寄り、彼を抱き寄せるマダム・モーガンは、彼の喉からとめどなく漏れ出る血の流出を止めようと試みる。幸運にも――または、猟犬の目論見通りに――生き残った人材を現世に引き留めようと必死になるマダム・モーガンの姿を、猟犬は嘲るように見下ろす。それから猟犬はサーベルを軽く振り、刃に付着した血をサッと払い飛ばすと、その切っ先を床に膝をつくアーサーに向けた。それから猟犬はアーサーに視線を移すと、彼に向かって言う。
「特にお前だけは生かしておくなとの指示を上から受けた。だが、お前だけは絶対に殺すなとあのクソ狼が騒いでやがる。しかし俺はお前のことを殺したくて堪らない」
アーサーはその言葉を聞き流しながら、猟犬を睨みつつ、ゆっくりと再び立ち上がる。猟犬がアーサーに向けるサーベルの切っ先も、アーサーの視線に追従するようにゆっくりと上昇していった。
大男ケイと同じように、自分も首を斬られるのか? ――アーサーはその展開を警戒する。が、そのような展開は起こらなかった。なんと、猟犬はサーベルを投げ捨てたのだ。それも立ち上がったアーサーが背筋を正した、その瞬間に。そして猟犬はサーベルを投げ捨てたあと突然、顔を顰め、怒りを表出させた。表情を険しくさせた猟犬はアーサーの胸倉を掴み上げると、彼に向けて一方的に怒鳴り散らし始める。
「アーサー。俺はお前のことが大嫌いだ。俺が出会ってきた男どもの中で唯一、行動をコントロールできなかったのがお前だからな! 俺はお前を殺したくて堪らなかったのに、お前は殺す理由を俺に与えなかった。俺が裏で糸を引いて仮面どもを操り、環境を整えてやったってのに、お前は無駄に強固な理性を発揮しやがった。――今でも信じられねぇよ、クソが!!」
血の気は多いが冷静な仕事屋。先ほどまではそのように見えていた猟犬だったが、今は違うように見えていた。二回りは背丈が違う長身の男に掴みかかり、意味不明な罵倒を連ねてくる猟犬の今の姿は、まるで……――しょうもないチンピラだ。
少しばかりの恐怖感が顔に浮かびかけていたアーサーだったが、彼はその恐怖感を消す。代わりにアーサーは憐憫に満ちた表情で、彼よりも圧倒的に背が低い猟犬を見下ろした。すると猟犬は舌打ちを鳴らし、今度はアーサーを突き飛ばす。それから猟犬は先ほど収納したばかりの拳銃を再び取り出すと、その銃口をアーサーに向けた。そして猟犬はまたも意味不明な因縁をアーサーに付けてくる。
「挙句、コントロールされていたのは俺のほうだ! お前があの仮面どもに自我を植え付けたせいで、俺は奥に押し込められっぱなしだ。ある日の夜中にせっかく出る機会が巡ってきたかと思えば、あのクソ狼に邪魔されて押し戻され、今日この瞬間まで封じ込められてきた。今までずっと指くわえて傍観するしかなかったんだ。ペルモンドだなんていう間抜けな名前で俺が呼ばれ続けるさまを、そして軟弱な振る舞いを続ける情けない仮面に主導権を奪われた俺の姿を! 挙句、血も繋がっちゃいねぇ邪魔なガキを引き取りやがって……仮面どもは面倒ごとばかりを引き起こす。あれもこれも、全てお前のせいだ!!」
数十分前は、アーサーに馴れ馴れしく接してきていた、この男。アーサーが目を醒ましたことを、気持ち悪いほど喜んでいた、この男。それなのに今、その男はアーサーのことを「殺したいほど憎い」と罵っている。仮に多重人格だとしても、あまりに言動が矛盾していて、それに支離滅裂だ。
何を言っているんだ、こいつは? そんな憐みの感情ばかりが、アーサーの奥底から湧いてくる。が、アーサーは何かが引っ掛かるのを感じていた。
そのとき、ふと猟犬が発した言葉がアーサーの頭の中で反芻される。そしてアーサーは呟いた。
「……そうか。それほどまでに私のことが憎くて堪らないのか」
ある日の夜中にせっかく出る機会が巡ってきたかと思えば、あのクソ狼に邪魔されて押し戻され、今日この瞬間まで封じ込められてきた。――猟犬が放ったそのセリフが、頭の中に響き、木霊する。そのうち、ある情景が浮かび上がってきた。
それは暗闇の中に鈍く光るペティナイフ。そして「これは命令だ」と繰り返し何度も呟く、若い日のペルモンドの声……。
あの晩。ペルモンド及び猟犬は、間違いなく居候の男を殺そうとしていたのだろう。だがその試みは黒狼ジェドによって妨害された。ペティナイフを握り呆然と佇んでいたペルモンドに、黒狼ジェドは体当たりを決めて、ペルモンドを気絶させたのだ。そうして居候の男、つまりあの日のアーサーは助かったのだ。
「ならば私を殺せ。お前の今までの言葉が全て嘘であったと証明してみせろ。やれ、さあ早く!!」
過去に自分は、この男に殺されかけたことがある。その事実を思い出した瞬間、アーサーの記憶の蓋が吹き飛び、過去がイヤと言うほど鮮明に蘇る。そしてアーサーが瞬間的に手にしたのは、強烈な怒りと憎悪だった。
ペルモンドの家に居候していた、あの時代。彼の自宅に居候する代わりに、アーサーは廃人一歩手前という状態にあったペルモンドの面倒を看てやっていた。アーサーは朝晩の食事を毎日用意していたし、食事を忘れるペルモンドに飯を食うようせっついたりもしていた。病院に行きたがらないペルモンドをアーサーが強引に引き摺ってでも外へと連れ出して、通院させていた。それに、服薬を忘れるペルモンドに呑ませていたのもアーサーだった。ペルモンドに拘束されるせいで若い時間を無益に浪費したことは否めないし、ペルモンドのせいで失った友人もいた。
それなのに。あれほどの犠牲を払ってまで、アーサーは尽くしてやっていたのに。剥き出しにされたペルモンドの本心は、これだ。
大嫌い、憎い、殺してやりたい。
「大嫌いな男の顔を吹っ飛ばせる機会だぞ。さあ、やればいい。私を殺してみろ」
アーサーは猟犬を挑発し、握る拳銃の引き金を引くよう促す。口では「殺せ」と言うアーサーだったが、彼の本音は真逆だった。このクソッたれをぶっ殺してやると、そう怒り狂う声がアーサーの頭の中で轟いている。
そのようにアーサーが本心とは真逆の言葉を放っていた一方、発した言葉が本心とは真逆であったのが猟犬である。殺したいほど大嫌いだと宣言したアーサーに銃を向けている猟犬だが、その手はアーサーを殺すことを拒むようにガタガタと震えていた。そしてアーサーは、手を震わせる猟犬に執拗な挑発的刺激を与え続ける。「どうした。やれないのか?」
「……」
「さっきまでの威勢はどうした。手も震えてるぞ。急に私が怖くなったのか?」
猟犬の手は震えている。だがその一方で、アーサーを睨み付けている猟犬の目は心の底からアーサーを憎んでいるようだった。
すると一瞬だけ、猟犬の視線が横に逸れる。誰も居ないはずの空間を睨み付ける猟犬は、誰もいない空間に向かって悪態を吐いた。
「……うるさい、黙れ。俺に指図をするな……!!」
それはまるで隣に立つ同伴者に文句を言うような台詞だった。そして実際に、その言葉は“隣に立つ同伴者”に向けられた文句である。猟犬が文句を向けた対象は、猟犬の頭の中にしか存在しない虚像の人格。当事者である猟犬の他には誰も感じることが出来ない、いわば幻想だ。
無論アーサーの目には猟犬の横に立つ存在など見えていない。だがアーサーには、そこに誰が立っているのかが分かってしまった――猟犬の手首を掴み、銃を下ろせと訴えている“ペルモンド”の姿が、そこにあるように感じられていたのだ。
ひとつの人間の中に同居している異なる意識が、たった今ここで意見の食い違いから争っている。それが独り言というかたちで表出化し、手の震えという姿で顕現していた。そして現在、その体の主導権を握っている“猟犬”の注意は、異なる意見を持つ別人格に逸れている。
「……!」
今なら、ヤツの銃を奪い取って一撃を食らわせることができるかもしれない。――そんな愚かな考えがアーサーの脳裏をよぎったとき、その行動を妨害する声がアーサーの思考にノイズを与える。大男ケイの止血を試みていたマダム・モーガンが大声でアーサーの名を呼んだのだ。
「アーサー、伏せて!!」
アーサーは声が聞こえてきたほうを見やる。彼が見たのは、猟犬に狙いを定めてショットガンを構えている大男ケイの姿と、大男ケイを支えるマダム・モーガンの焦りに満ちた表情だった。そしてマダム・モーガンから「伏せて」と言われたアーサーだが、彼はその言葉を瞬時に理解することが出来なかった。
伏せて。その音が持つ意味を翻訳できなかったアーサーは、間抜けヅラをさらしてぼうっと突っ立っている。だがこれ以上の好機を逸するわけにはいかなかった大男ケイは、アーサーを待たずに発砲した――それも装填済のものが尽きるまで撃ち続けた。そして最悪の事態を想像したマダム・モーガンが責め立てるような金切り声で「ケイ!!」と大男ケイの名を呼んだときだ。間抜けなアーサーの体は、猟犬によって突き倒される。肩をドンッと押されたアーサーは、バランスを大きく崩して背中から床へと倒れ込んだ。そして倒れ込むアーサーは、その最中に猟犬の顔を見た。
アーサーを突き飛ばした瞬間に見せた、猟犬の怒りに満ちた顔。それは何者かに身体の自由を奪われ、不本意の行動を取らされていることを示唆しているかのようだった。だが猟犬はアーサーを突き飛ばした直後に、身体の操縦権を取り返したらしい。最後にアーサーが目撃したのは、口許でだけニヤりと笑う猟犬の狂気じみた表情。そして猟犬は即座に無防備なアーサーめがけて弾丸を放つ。それは猟犬の背が撃ち抜かれたのとほぼ同時に行われた攻撃だった。
アーサーが痛みを覚えたのは、力尽きた猟犬が地に伏せてから数秒が経過してからのこと。猟犬がドサッと倒れ込み、それきり動かなくなったあとに、アーサーは自身が二発目の弾丸を右側の脇腹に食らっていたことに気が付いたのだ。
右肩に続いて脇腹も。あぁ、ちくしょう。痛いじゃないか。――そんな愚痴を内心では零していた反面、アーサーの口からそのような言葉は出てこない。というのも、アーサーは自身の脇腹から染み出ていた蒼い血を見るなり、そのような言葉を洩らす気力さえ失くしてしまったからだ。そうして心の中で漏らす愚痴の矛先は、他でもない己に向く。あぁ気持ち悪い、と。
「アイリーン、あなたはアーサーの止血を! 早く!!」
事態が収拾したのを察知したのだろう。どこかに隠れていたらしい臆病なアイリーンが、役に立たなさそうな救急箱を携えて騒動の起きた現場に駆けつけてきていた。そしてアワアワと狼狽えていたアイリーンに、マダム・モーガンが出した指示が先ほどの言葉だった。
しかしアーサーも、そしてアイリーンも、マダム・モーガンの言葉を話半分にしか聞いていなかった。負傷した脇腹を左手で押さえつけながら、覚束ない足取りでゆっくりと立ち上がるアーサーは、うつ伏せの状態で床に転がる猟犬を見下ろしながら、あれやこれやと思考を巡らせていたし。アイリーンはアイリーンで、出血量の割には平気そうな顔で佇んでいるアーサーに困惑していた。加えてアイリーンは、アーサーの視線の先にある猟犬を見るなり一際激しい動揺を見せる。そしてアイリーンは悲鳴じみた声でマダム・モーガンに指示を求めるのだった――既に彼女は、上官であるマダム・モーガンから指示を受け取っていたにも関わらず。「マ、マム! 猟犬はどうしたらいいの?! 拘束とか、えっと……」
「彼は放っておきなさい、アーサーを優先して!」
悲鳴じみたアイリーンの声に、マダム・モーガンは金切り声でそう返答する。そのマダム・モーガンは、最悪の事態を引き起こしかねない行動を選び取った大男ケイに応急処置を施しながらも、空いている手で彼の頬に強烈な平手打ちをお見舞いしているところだった。
そしてマダム・モーガンから改めて指示を受けたアイリーンは、アーサーに目を向けるのだが。伏せる猟犬のすぐ傍に立ち、猟犬を見下ろすアーサーは、話しかけにくいオーラを発していた。
「……何故、今お前は私を助けた? 私のことが殺したいほど憎いんだろう。それなのに何故だ」
とはいえ、散弾を背面の広範囲に浴びた猟犬が負ったダメージは大きく、猟犬は受け答えが出来る状態になかった。アーサーが何か言葉を発するたび、猟犬は僅かに手指の先や口許を動かすが、それだけ。猟犬の意識は残っているようだが、かといって猟犬がそれ以上のアクションを起こすことはなく、アーサーが答えを得られることもなかった。
そのうち猟犬の動きが完全に止まり、沈黙する。遂に気を失ったのだろう。するとそのタイミングに合わせて、猟犬の影からぬるりと黒い怪物が這い出てくる。緑色の瞳と狼のような輪郭を持つ黒い影、黒狼ジェドだった。
『お前を助けたのは、この俺だ。俺が相棒を止めてなけりゃ、今頃お前のスカしたツラが吹き飛んでいただろうよ』
黒い影はアーサーに対してそう言うが、アーサーはその言葉にスルーを決め込む。アーサーには、黒狼のその言葉が嘘であるように感じられていたのだ。
そしてアーサーは溜息を零すと、黒狼もとい猟犬に背を向ける。その時に、アーサーの纏っていた緊張がやや緩んだ。そのタイミングを見計らって、アイリーンは彼に声を掛ける。
「アーサー。て、手当するから、そ、そこに、す、す……座って!」
ガチゴチに震えながらも勇気を振り絞って、やっとの思いで絞り出したその言葉。だがアーサーはアイリーンの提案を拒否するように、鼻で笑う。それから彼は小声で言った。
「……その名で呼ぶな。私の名は、それではない」
あまりにもピリピリとした、その声色。ビビりでアガリ症かつ臆病なアイリーンは、すっかり縮み上がってしまった。そうしてブルりとアイリーンが肩を震わせ、目にうっすらと涙を浮かべたときだ。アイリーンから離れるように前に進んだアーサーの体がふらりと大きく揺れる。体から力が抜け落ちたように、前のめりにぐわんと倒れるアーサーはそのまま床に崩れ落ちていった。
著しく低下していた体力を気力で補い、なんとか踏ん張っていた状態のアーサーの体は失血のダメージに耐え切れず、失神してしまったわけである。
*
時代は進んで四二八九年のこと。氷の牢獄の中から脱走した『曙の女王』への情報提供を募る傍らで、事態の説明責任にも追われていたニール・アーチャーが報道陣から厳しい追及を受けていたとき。ASI本部、アバロセレン犯罪対策部ではこの部門を取り仕切るテオ・ジョンソン部長が珍しく声を荒らげていた。
「何なんだ、あのクソババァは! クソッ!!」
ガチャンっと叩きつけるように置かれたのは固定電話の受話器。その次に響き渡るのは、握りしめた拳でデスクをドゴンッと叩きつける轟音。それらの音の発生源は部長のオフィスである。ピタリと閉め切られたすりガラスの扉を越えるほどの大きな音が、その部屋から外部に漏れ出ていたのだ。
イラついたように怒声を上げ、物に八つ当たりをしているテオ・ジョンソン部長だが、幸いなことに彼を苛立たせていたのは彼の部下たちではない。彼の怒りを生み出したのは、彼がたった今コンタクトを試みようとした相手――北米合衆国西海岸地域を拠点に世界を股にかける画商、ジェニファー・ホ―ケン氏――である。
とはいえ上司が荒れている様を見て平然としていられる部下はいない。緊急事態に見舞われ、ただでさえヒリついている部内の空気を更に強張らせていくテオ・ジョンソン部長の怒声には、多くの局員――生きている者も、そして死んでいる者ですら――が肩をブルリと震わせていた。そしてそれは舐め腐った性格のラドウィグも同じ。ギョロッとした大きな目を緊張から見開き、挙動不審に辺りを見渡すラドウィグは、この張りつめた空気がいち早く消えてくれるのを待っていた。
その一方、ベテランであるジュディス・ミルズは状況にそぐわない余裕そうな笑みを浮かべている。すりガラス越しに見えるテオ・ジョンソン部長の姿を眺めながら、彼女は揶揄するようなことを言うのだった。
「やだやだ。ジョンソンが荒れてるわー。一体、何があったのかしらねー」
自身のデスクに軽く腰を掛けるジュディス・ミルズはそう言うと、時間が経って冷めたコーヒー、その最後の一口を啜る。そうして僅かにコーヒーを口に含んだあと、コーヒーカップをデスクの上に起きながら、彼女は目の前に立つラドウィグに視線を向けた。
ジュディス・ミルズの視線には、特に意味が込められていない。強いて言うなら、挙動不審な振る舞いをするラドウィグの姿がちょっと気になっただけ。けれども視線を受け取ったラドウィグはそう思わなかった。何か発言を求められていると感じた彼は大慌てで、言葉を詰まらせながらも“何か”を言おうと努めるのだった。
「た、たぶん、コヨーテ野郎の知り合いらしいって噂の画商に電話を掛けてたんじゃないっすかね。それで画商に軽くあしらわれたとか……ッスかね?」
ラドウィグが述べたのは、荒れるテオ・ジョンソン部長に関する私見。その内容は偶然ジュディス・ミルズの関心を引く。僅かに身を前に乗り出す彼女は、明確に意味を帯びた視線をラドウィグに向けた。そしてジュディス・ミルズは詳しく話せと暗に迫る。「へぇ、画商。そんな知り合いが彼に居たの?」
「あー、えっと、その。ヴィクが言うには、たぶんそうなんじゃないのかって。コヨーテ野郎がその画商に接触を図るかもしれないから、その前にASIから画商にコンタクトを取るべきなのでは、って提案したらしいッス。その結果、部長は玉砕したんじゃないッスか? 軽くあしらわれたのか、またはコヨーテ野郎に先を越されたのか……」
「そういえば、あなた。ザカースキーとは順調なの?」
画商の話題から飛んで、唐突に心理分析官ヴィク・ザカースキーの話になる。急な話題転換にラドウィグは戸惑った。目をパチクリとさせるラドウィグは口を間抜けにポカンと開け、数秒ほど沈黙する。その後どうにか言うべき言葉を見つけられた彼は、ジュディス・ミルズの様子を窺いながら慎重に回答を述べるのだった。
「え、ええ、まあ。もう二週間も経ちましたし。今は共同生活にも慣れてきたっつーか、なんか新しい姉ちゃんができた感じッスね。彼女のお陰で睡眠時間を確保できるようになりました。あとヴィクも、リシュとパヌイが居る生活に馴染んでくれたし。ぎこちない空気はもう無いッスよー……」
「あら、そう。なら良かったわ」
自分から話題を振っておきながらも、ジュディス・ミルズは素っ気ない言葉を返すのみ。なんとなくだが……――良いように遊ばれているような、袖にされているような、そんな居心地の悪さをラドウィグは覚えた。真面目に考えて答えた言葉を軽く受け流されているのだから、良い気がするはずはない。挙句、なにかを試されているような視線をジュディス・ミルズから送りつけられているのだから、ラドウィグの気分は悪くなっていく一方である。
遂に腕を組み、顔をしかめたラドウィグはジュディス・ミルズの目を意味ありげに見つめると、何を試されているのかと問うように目を細める。するとようやく、ジュディス・ミルズは本題を切り出した。
「ねぇ、あなた、どうしたの? さっきから挙動不審な言動ばかりが目立ってるわ。なにか問題でもあるの?」
問題があるのか、と問われたところで。この状況を見れば分かるだろう、としかラドウィグは思わない。曙の女王が脱走という緊急事態、そして荒れ模様なテオ・ジョンソン部長の機嫌に局員たちは振り回されている。ストレスフルな環境下に置かれて挙動不審になっているのは、なにもラドウィグだけではない。
「今日は情報量が多いなぁって、そう思いまして。あと、ジョンソン部長が負のオーラを纏っていて不気味っつーか。部長のオフィスに黒いモヤモヤが漂ってる感じっスかね」
ラドウィグが適当に濁すようなことを言った、その直後。再び部長のオフィスから、固定電話の受話器を叩きつけるように置く大きな音が発生する。突然に鳴った衝撃音にラドウィグがビクッと肩を震わせると、今度はそれと同時にテオ・ジョンソン部長の怒りに満ちた悪態が聞こえてきた。
「あのババァ……!!」
あぁ、この空間から逃れたい。ラドウィグがそんな思いを心の中でのみ零し、逃げ出したいという願望を乗せて部内と廊下を隔てる出入り口を見やった。そのとき丁度、出入り口のドアが音を立てず静かに開けられる。
まるで気配を消すかのように、足音を殺しながらアバロセレン犯罪対策部に足を踏み入れた者。それは緊張した空気感が満ちる部内に驚いている様子のエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官だった。
ビジターと書かれた札を首から下げているエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の姿を見つけたラドウィグは、すかさず彼のもとに駆け寄った。妙な問答ばかりを重ねてくるジュディス・ミルズから離れたかったこと、それと友人に安心感を求めたかったことが理由である。
「かわいそうなエディ。こんなときに、こんなとこに来るなんて、外れくじ引いたみたいだね」
ラドウィグはそう言いながら、心の底から憐れむような目をエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官に向ける。その視線を受けるエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官も、彼自身を憐れむように肩を落とすと、小声で本音を吐露した。「……外れくじを引いたよ。支局長よりはマシだが、それだけだ」
「外れくじと外れくじを比較したって意味ないよ、どっちもクソなことには変わりないんだから」
沈んだ様子で、しかし穏やかに会話をしているラドウィグとエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の二人。その様子を離れた場所から見ていたジュディス・ミルズは、少しの間ラドウィグを放っておいても良さそうだと判断した。そして彼女は彼女のデスクから離れ、移動する。彼女が向かった先は、部内の最奥にある第四尋問室だった。
同時に尋問すべき対象が五名以上いる場合でもない限り滅多に使用されないその部屋に、今日は煌々と灯りが照らされている。しかし第二、第三尋問室の灯りは消えている。となれば尋問でない用件で第四尋問室が使用されていると考えるのが妥当。ならばその部屋の中に、部内には姿が見られないアレクサンダー・コルトが居るのだろう。――ジュディス・ミルズはそのように考えていたのだ。
そしてジュディス・ミルズの予想は当たる。第四尋問室の扉を開けてみれば、その部屋の中には読書をしながら待機しているアレクサンダー・コルトの姿があった。
「あら。サンドラが読書だなんて、珍しいわね」
第四尋問室の中に居たのは四名。部屋の中央に置かれた机に就き、向き合うように座っているASI局員が二人。東側の壁際に置かれている深い緑色のソファーで眠り込んでいる者が一人。そのソファーの傍の床で寝かされている者が一人。そのような構図となっている。
軽口を叩きながら入室したジュディス・ミルズは、鏡――それはビームスプリッターと呼ばれるものであり、鏡のように見える窓を介して隣の部屋からこの室内を覗き見られるようになっている――が取り付けられた西側の壁を見る。彼女が見ていたのは、鏡に映っている部屋の東側の様子だった。
東側の壁側に設置されたソファーの周囲で眠っている二人。彼らは服らしい服を着ておらず、青いポリエチレン製ターポリンを一枚ぐるっと巻き付けられてひとまず体を隠しているといった、残念な扱いを受けている。ソファーの上で眠る人物のほうは、ターポリンの上からさらに厚手のブランケットを掛けられているが。床に転がされている人物のほうはそれすらもないのだから、より酷いと言えるだろう。
そして、その人物らはどちらもASI局員ではない。しかし同時にその人物らは、ジュディス・ミルズにとって見覚えのある顔をしている存在でもある。だがその二人は、ジュディス・ミルズが知っている人物と同一人物であるとは断言できない存在でもあった。
どう扱えば良いのか。その正解が分からない人物らを、ジュディス・ミルズが睨むように見つめていたとき。室内中央で机を囲んでいた局員のひとり、静かに本を読んでいたアレクサンダー・コルトが顔を上げる。アレクサンダー・コルトはその本に栞代わりのメモ紙を挿むと、パタンと本を閉じて背表紙をジュディス・ミルズに向ける。それからアレクサンダー・コルトはこう言った。
「ついさっき、ノエミ・セディージョから貰ったんだ」
アレクサンダー・コルトが掲げた本。その背表紙には『症例P』という題名がでかでかと記載されていた。噂になっている例のあの本か、とジュディス・ミルズはすぐに察する。
しかし彼女は本の内容を尋ねることは、まだしない。ジュディス・ミルズが最初に訊いたのは、アレクサンダー・コルトの口から飛び出してきた意外な人名についてのことだった。「ノエミ・セディージョから……?」
「今、彼女がここに来てるんだよ。あと巻き添えを食らった彼女の旦那も。ジョンソンが二人を呼び出したらしいぜ。この本について訊きたいことがあるってんでな。それで彼女は今、第一尋問室に詰められてるが。尋問官のほうが彼女に食われてるよ。あんたも見てきたらどうだい?」
ジュディス・ミルズからの問いに、アレクサンダー・コルトはそのように答えた。そうしてノエミ・セディージョから本を貰った理由が解明されたところで、ジュディス・ミルズは視線を鏡からアレクサンダー・コルトに移す。そうしてアレクサンダー・コルトの三白眼を真っ直ぐに見つめると、ジュディス・ミルズは一番気になっていたことを切り出すのだった。「それは遠慮しておく。でもその本の内容は知りたい。どういう内容なの?」
「こいつはイルモ・カストロっていう死んだ医者が書いた本。彼の死後、その原稿を預かっていたセディージョ氏が彼の遺言に従って出版を手配したって話だ。そしてこの本は、彼が出くわした最も厄介な患者に関する記録であり、その患者をかろうじて寛解させた際に用いた治療技法をまとめているテイを装っている」
「じゃあ、本当の目的は治療技法の公開ではないのね?」
「ああ。この本の一番の目的は『献身的な妻ブリジット・エローラ』のイメージを破壊することなんだろう。彼女に対する恨みがヒシヒシと感じられる内容になっている」
「で、その患者については?」
「そうだな、アタシもまだ数十ページしか読めてないが……」
アレクサンダー・コルトが読んでいたのは、半世紀以上前のことが纏められていた本。まだボストンという都市が存在していた時代、その頃にイルモ・カストロ医師が担当していた凶悪な患者、すなわちペルモンド・バルロッツィという男のことが、その本の中には綴られていた。
「……これが事実なら、あまりにもひどすぎる。けど、まあ、親族がいる傍で話すべきじゃない」
アレクサンダー・コルトが読み進めている最中の序盤は、重たすぎる話がウェイトを占めている。イルモ・カストロ医師が患者を請け負ったばかりの最初期の頃に患者が漏らした『過去』の話、それがあまりにも陰惨すぎたのだ。
しかし陰惨なのは『過去』だけではない。アレクサンダー・コルトが度肝を抜かされたのは、患者がその過去を担当医に告白してきた翌日の話。患者は、勤め先のビルの高層階から飛び降りたのだ(その情報はとっくに知り得ていたアレクサンダー・コルトであったが、しかし詳しく書かれていたことの詳細には驚愕する他なかったのだ)。
高層階から飛び降りたものの、奇跡的に――または必然的に――患者は一命を取り留めたそうだ。とはいえ無事では済まず、全身骨折(右脚は開放骨折)や肺の破裂などが起こり、重体に陥った。特に損傷の度合いがひどかったのが顔で、顔面はグチャグチャに潰れていたらしい。当時の最新技術、その粋 を集めて、どうにか患者の顔は再建されたらしいが、しかしその顔は元通りと言えるものではなく。鼻筋が少し曲がった、人相の悪い顔になってしまったという。だが、当の本人はまさしく“別人に変貌した”顔を「これで舐められることもなくなる」と歓迎したとか、なんとか……。
そして本の著者であり、飛び降りを試みた患者の担当医であるイルモ・カストロ医師はこの当時、とんでもない過ちを犯したと後悔に苛まれていたそうだ。たった一言、昔のことを患者に尋ねただけで起きた、このハプニング。それがのちに『昔のことを一切尋ねないカウンセリング』という彼のスタイルに繋がったらしい。
「ただ、この本でアタシが気になったのは主題じゃない部分なんだ。この本の中には一部だが、コヨーテ野郎に言及している箇所があってな。あーっと……――ほら、ここだ。死んだ姉に雰囲気がそっくりだと感じた、って部分だよ」
栞代わりのメモ紙を挿んだ部分を狙い、アレクサンダー・コルトは手に持つ本を再び開く。そして栞を挿んだページを少しだけ遡り、当該箇所を見つけると、その部分を指し示しながらジュディス・ミルズに見えるよう彼女にそのページを向けた。
近頃、少しだけ老眼が気になり始めたジュディス・ミルズは目を細めると、本に近付くことなくそのページを凝視する。離れた距離からかろうじて読める細かい文字を、彼女は静かに追った。そうして近辺の数行を含めてジュディス・ミルズが大筋の内容を把握した頃、アレクサンダー・コルトが本に書かれていない追加の情報を加えていく。
「本の中では、著者の姉に関する話はボカされていて詳しくは書かれていない。ある事情から追い詰められて彼女が一七歳のときに自殺した、としか書かれていないんだ。ただ、詳しい背景を著者本人から聞いたセディージョ氏によると、この姉はワケありだったようだ。そもそも、その人物は著者の姉ではなく血縁上では従姉にあたる人物であり、且つ彼女は著者の父親の妹と弟の間にできた、いわば近親相姦の末に誕生した子供だったそうなんだ」
「うわ、なにそれ……」
その情報はまったくジュディス・ミルズが求めていないものであり、彼女には本質とは何ら関係の内容に思えたのだが。しかし出てきた情報の薄気味悪さに、彼女はある種の吐き気を覚えていた。
近親相姦の結果、誕生した子供。だがその子供を育てたのは実の父親でも産みの母親でもなく、おそらく著者の父親だ。著者の父親がその子供を引き取り、代わりに養育したのだろう。育児放棄があったのか、はたまた虐待行為があったのかは分からないが……――その子供が“著者の姉”となった背景には胸糞悪いものしかなさそうだ。
顔すら知らない赤の他人の、不幸な生い立ちの話。それがジュディス・ミルズの心にチクリと刺さる。
「…………」
ジュディス・ミルズの気が滅入ったのには理由がある。彼女もまた、似たような子供時代を過ごしていたからだ。
彼女がまだ幼い頃に、彼女の両親は離婚した。両親のどちらも不倫をしていたことが理由である。そして彼女は両親のどちらからも捨てられ、親類の全てから引き取りを拒まれた。そうして『一般家庭の普通の子供』ではなく『行政に養育される孤児』となったことを裁判所の職員から報されたときに覚えた人間への失望は、今もどこかで燻ぶっている。積み重なった黒い埃の下でプスプスと火花を散らす失意が今、一瞬だけ強く光ったような気がしたのだ。
パチパチと散った火花は、けれどもいつものように虚無へと還っていく。少しの不快感の後に何の感情も残らなかったことにジュディス・ミルズは少しだけ安堵した。そうして彼女が僅かに息を吐いたとき、アレクサンダー・コルトが続きの言葉を発する。
「著者の姉は、死の半年前から学校でイジメに遭っていたそうだ。彼女の出自が周囲にバレてしまったことがキッカケだったらしい。教員らを含め、校内に味方はゼロ。また彼女は家族にもイジメを受けていた事実を伝えられなかったそうだ。家族の誰も、何も気付かないまま――ある朝、いつの間にか家出していた彼女が真冬の川に浮かんでいるのを、川沿いをランニングしていた市民が発見した」
「つまり、川に入水したと。――イヤな死に方ね」
「ああ。そして死の前日の夜まで、彼女は気丈に笑っていた。少しの毒を周囲に吐きながらも、いつも通り朗らかに振舞っていたそうだ。で、著者は『本音を僅かに滲ませた毒のような言葉と、演技じみた朗らかさのギャップで、周囲を感情面で振り回すアーティーの姿』を見て、死んだ自分の姉に似ていると感じたそうだ」
「……」
「ギリギリのところで踏ん張っているが、何かの拍子に背中を押されれば、誰かを殺しかねない狂気を隠し持っている人間であるように、姉も、アーティーも見えていた。自分を殺すのか、他人を殺すのか、そこは時と場合に依るかもしれないが、ともかく両者は“暗黒面”の住人であり、彼ら自身にとっても周囲にとっても危うい人間であると言える、とな」
「アーティーっていうのが、つまり」
「若い頃の彼の呼び名が、それだ。……憤怒のコヨーテだとか、サー・アーサーだとか、アーティーだとか、マッキントッシュだとか、あのジジィにゃ名前が多すぎる。覚えるのが大変だ」
アレクサンダー・コルトはそう言いながら、持っていた本をパタンと閉じる。彼女は閉じた本を机の上に置くと、椅子から静かに立ち上がった。そして彼女はジュディス・ミルズの真横に立つ。だがアレクサンダー・コルトはジュディス・ミルズに視線をやるわけではない。
アレクサンダー・コルトが見ていた先は、東側の壁面に設置されているソファーの上に寝かされている人物。身動きひとつ取らず、さながら死んでいるかのような赤毛の女性を見つめるアレクサンダー・コルトは、その視線を動かさぬまま話の続きをするのだった。
「ただ、著者はこうも書いているんだ。アーティーの冷え冷えとした暗黒面が、けれども当該患者の『固定化』に役立ったし、当該患者を間違いなく救っていた、と」
「……」
「姉は暗黒面に呑み込まれて死を選んだが、けれどもアーティーは暗黒面と賢く共存していたし、時と場合に応じてそれを巧みに使いこなしていた。そして当該患者はアーティーの生存戦略を模倣し、彼自身の内側にそれを組み込んでいた。だからこそ、アーティーの真似をしてみろと患者に促したことが寛解への一助に……」
「なら、あのひとは『サー・アーサーの言動を真似ていたから』あんなにもガラが悪かった、ってことなの? で、前にあなたが言っていたように、素のペルモンド・バルロッツィは感じが悪いわけでもなく、表の世界のそれとは別人のような――」
「ジュディ、そこまでだ」
ジュディス・ミルズの口から具体的な人名が飛び出した瞬間、アレクサンダー・コルトは鋭い声で彼女の名を呼び、ジュディス・ミルズの話を遮って中断させる。そのときのアレクサンダー・コルトは、声色と遜色ないほど鋭い視線を彼女に向けていた。
アレクサンダー・コルトとの付き合いも長いジュディス・ミルズだが、しかしアレクサンダー・コルトからこのような鋭い目を向けられることは少ない。だからこそ即座に口を噤んだジュディス・ミルズは、気が急 くあまりに不用意なことを言ってしまったとすぐ反省した。局内であるからこそ油断しきっていたが、思えばこの部屋には今、部外者が居る。そしてその部外者は、アレクサンダー・コルトが先ほどまで持っていた本に描かれている人物の近親者と目されている人物だ。
抜かった。そう後悔するジュディス・ミルズが、気まずさから視線を自身の足許に落としたとき。フフッと小さく笑う声が聞こえてくる。その声の主は、机の上に置いたラップトップコンピューターの画面をニヤついた目で見ていた男。情報分析官リー・ダルトンだった。
情報分析官リー・ダルトンは画面のほうに向く顔は動かさず、しかし横目でジュディス・ミルズをちらりと見やる。それから彼はわざとらしい動作を交えつつQWERTY配列のキーボードをタタンッと指先で叩くと、ジュディス・ミルズとアレクサンダー・コルトの二人にしらばっくれた声でこう言った。「今の会話、ザカースキーに送っときますねー。彼女の役に立ちそうなので」
「今、録音してたのかい?」
アレクサンダー・コルトはそう問うも、情報分析官リー・ダルトンは意味ありげな微笑を浮かべるだけで何も答えない。その反応を見て、返事は得られそうにないなと考えたアレクサンダー・コルトは腕を組むと、その一方で肩を落とす。それから彼女は再び、ソファーの上で眠る人物に視線を移すのだった。
ジュディス・ミルズもまた、同じ場所に視線を向ける。彼女はまずソファーの上で眠る人物を見て、その次にソファー脇の床にうずくまるような体勢で寝かされている人物を見やると、彼女は隣に立つアレクサンダー・コルトに対して問いを投げた。
「それで。あそこにいる彼らが、もしかして“水槽の脳”を脱したっていうひとたちなのかしら」
ジュディス・ミルズの問いかけに、アレクサンダー・コルトは頷くという反応を見せる。それと同時に、机に就く情報分析官リー・ダルトンも無言で頷いていた。両者が同じ反応を見せたことで、ジュディス・ミルズは額に手を当てる。急遽徴集が掛かり、局に呼び戻された理由となったあの話――カイザー・ブルーメ研究所跡地の地下にあった脳神経系だけの人物たち、彼らが再び肉体という匣 を取り戻したという話――が現実のものであったと分かり、彼女は落胆したのだ。
そうしてジュディス・ミルズが頭を抱えれば、アレクサンダー・コルトは溜息を零す。それからアレクサンダー・コルトは憂鬱そうな抑揚のない声で、眠る人物らに関する備考を述べるのだった。
「肉体に適応するまで時間が掛かるとかで、今はどちらも眠っている。少なくとも死んではいない。マダム・モーガンの話を信じるなら、あと数時間もすりゃ目を醒ますそうだ。それでなんだが……」
「なるほど。これはつまり、手違いでも起きたの?」
アレクサンダー・コルトの言葉に、ジュディス・ミルズは被せるようにそう言う。すると組んでいた腕を解くアレクサンダー・コルトが肩を竦めて、再度溜息を零した。その後にアレクサンダー・コルトが目を向けるのは、ソファーの上で眠る人物……――ではなく、その近辺の床に転がっている人物のほう。
見覚えのある色合いをしたダークブロンドの長い髪の隙間から覘く、どこかで見た覚えのある顔に、アレクサンダー・コルトは僅かな忌避感を滲ませる。湧いてきた負の感情から目元を強張らせるアレクサンダー・コルトは、面倒ごとにウンザリしたといった調子で、こんな事態になったワケを説明するのだった。
「見ればわかると思うが、ソファーで寝ているほう、赤毛の彼女はエリーヌ・バルロッツィだ。で、もう一つの脳味噌、レーニンのほうだが、マダムは彼に体を与えなかったんだ。アーサーとの取り決めだとか、そんなことを言っていた。レーニンは安らかに眠ってもらう、そうしたほうが彼の為にも良いと。そういうわけで彼はまだ研究所跡地に居る。それで問題は床に転がっているもう一人のほうなんだが……マダム・モーガンがとんでもないことをしてくれたんだよ」
そう言うとアレクサンダー・コルトは床に転がっている人物を明確に指し示し、また重たい溜息を吐く。情報分析官リー・ダルトンもアレクサンダー・コルトの溜息に同調するように、無言でウンウンと首を縦に振り、頷いていた。かなり面倒な事態が起きたという共通認識を、この二人は抱いているようだ。
そしてその認識を、ジュディス・ミルズも共有する。何故なら彼女の目には、その床に転がっている人物が“コヨーテ野郎”と仇名される人物に酷似しているように見えていたからだ。
「コヨーテ野郎のコピーなのかしら。ガーランド氏の自伝本に載っていた若い頃の彼にそっくりね。だとしたら、はぁ~……コヨーテ野郎のコピーが、ウルルにあったそれの他にも存在していたってこと? まさか、三人目のジョン・ドーも居たりしないわよね?」
どこにでも現れる死神マダム・モーガンや、殺しても死なない不死者ペルモンド・バルロッツィ、死者にそっくりな顔に作り替えられた少女アストレアに、割かれた腹から蒼い血を垂れ流していた宙に浮く死体や、挙句に大きくて蒼いドラゴンを見せられてきたジュディス・ミルズは、彼女自身も驚くほどこの事態にさほど動揺していなかった。むしろ、またこのパターンかと呆れていたぐらいだ。
平静だがかなり呆れているといった様子のジュディス・ミルズの言葉を聞くアレクサンダ―・コルトは、しかし首を横に振って彼女の言葉を否定する。それからアレクサンダー・コルトは正解を与えるのだった。「いや、それがあの男とは無関係なんだよ。ラドウィグが前に言ってただろう。なんたら卿っていうアタシらの目には見えない男が居て、彼がエリーヌたちを守っていたと。マダム・モーガンはそいつを肉体に引きずり下ろしたようなんだ。それが彼の……イヤ、彼女の正体だ」
「彼女?」
「ジュディ、悪い。その件は確定していないから後回しだ。――それでなんだが、こんな顔をしている以上オフィス組にはあまり大っぴらに顔を見せられない。ただでさえピリピリしてる空気なんだ、そこに爆弾は落としたくないんだよ。だから」
「暫くはこの部屋に閉じ込めておく、ってことね。ジョンソンにはそのことを伝えたの?」
「いや、エリーヌ・バルロッツィのことは伝えたが、もう一人の詳細についてはまだだ。なんだか立て込んでるようだったからな」
「分かった。なら私から機を見て伝えておくわ」
コヨーテ野郎に顔がソックリ。それだけでも不愉快だが、それ以上の何かがまだありそうなアレクサンダー・コルトの言葉に、もはやジュディス・ミルズは眉を顰めることしかできない。そうして呆れ返るジュディス・ミルズが「代わりに部長へ報告しておく」とアレクサンダー・コルトに伝えたときだ。情報分析官リー・ダルトン、彼がひとつ咳払いをした。
咳払いのあと、情報分析官リー・ダルトンは彼が座っている椅子を少しだけ後ろに引くと、ジュディス・ミルズのほうに体を向ける。それから彼は意味ありげな視線をジュディス・ミルズに送りつつ、こう言った。
「この件については僕のほうから報告しておきますよ。そこの彼らについて調べたいこともありますし、その報告と併せてキングに上げておきます。まあ、今後については、キングのご機嫌次第ですかねぇ。ひとまず彼が鎮まるのを待つしか、今は他にできることもないですし。とはいえ、あんなにも荒れている彼を見るのは初めてですよ」
情報分析官リー・ダルトンが、ジュディス・ミルズに向けていた視線の意図。それをジュディス・ミルズは汲むことができなかった。
彼は何かを閃いていて、だからこそテオ・ジョンソン部長にあれこれと命令を出される前に自分の裁量で何かを調べたい。なのでその時間稼ぎをして欲しいとジュディス・ミルズに訴えているのか。または何か良からぬ企みを彼は抱えていて、邪魔してくれるなと言っているのか……。
情報分析官リー・ダルトンの考えていることが後者である可能性を疑ったジュディス・ミルズは、彼に見張りを付けておく必要があると直感した。そこで見張り役として顔が思い浮かんだのは、自分本位でワガママなように見えて、意外にも曲がったことやヨゴレたことが嫌いなあの男。そしてジュディス・ミルズは言う。「とりあえず、今は……――そこの彼らの監視を猫目くんに任せるってのはどうかしら」
「そんなのダルトンに任せておけばいいだろうに。なにもラドウィグを巻き込む必要はないだろ」
しかしアレクサンダー・コルトの返答はジュディス・ミルズの望む方向に転ばなかった。というのも、アレクサンダー・コルトには目に見えていたからだ。この話を聞けばラドウィグは良い顔をしないだろうし、間違いなく嫌がるだろうと。だがジュディス・ミルズは立場を譲らず、それらしい説明を組み立ててアレクサンダー・コルトを言い包めるのだった。
「これはラドウィグのためでもあるの。彼、さっきから挙動不審っぽい感じなのよ。あなたも言っていたように、オフィス組がいつもよりピリピリしているし、きっと居心地が悪いんでしょう。だったら、彼も静かなこの部屋に隔離しちゃったほうがいいかなって、そう思ったのよ。ほら、猫って静かなところが好きでしょう? そしてここは静かで、緊張感は無い」
「そうか。なら……――よし、分かった。あいつを呼んでくるよ」
そうと決まれば行動が早いのがアレクサンダー・コルトである。第四尋問室をサッと立ち去るアレクサンダー・コルトはその後、部内を見渡した。そして彼女は、ジュディス・ミルズが言っていた通りに挙動不審そうな振る舞いをしているラドウィグ、及びその横で優雅にコーヒーを啜っているエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官をすぐに発見する。
大股な歩幅でずかずかと歩くアレクサンダー・コルトは、見つけたラドウィグに近付いた。それから彼女はラドウィグに声を掛けたのだが、その反応は芳しくなかった。
「ラドウィグ、ちょっと来い」
アレクサンダー・コルトがそう声を掛けると、ラドウィグは静かにするよう促す小生意気なジェスチャーを彼女にしてみせた。その姿を不審に思うアレクサンダー・コルトが彼の様子をよく観察してみれば、彼は右手に携帯電話を持っていて、それを用いて誰かと通話している様子だった。そして彼は相手の返事を待っている模様。だが、望み通りの反応を相手から得られていないようだ。
「おい、どうした、ラドウィグ。何かあったのか?」
やや声を潜めつつアレクサンダー・コルトがそう言えば、ラドウィグは助けを求めるような目を彼女に向けてきた。それからラドウィグは電話口に向けて、小声でこのように語り掛ける。
「……あ、あの~。高位技師官僚に替わっていただけますか~?」
その直後、ラドウィグが持つ携帯電話のスピーカーから聞こえてきた相手側の声は怒りに満ちていた。そしてその声は偶然、アレクサンダー・コルトの耳にも入る。その声は、新アルフレッド工学研究所に所属する研究員のものであり、アレクサンダー・コルトと妙な縁がある男、レオンハルト・エルスターという人物のものだった。
『イザベルを呼んでやってもいいが、それはまずお前の話をしてからだ。なぜ今お前はASIに――』
ラドウィグは、イザベル・クランツ高位技師官僚に用があり、だからこそ新アルフレッド工学研究所の彼女のオフィスに連絡をした。だが応答したのはイザベル・クランツ高位技師官僚ではなく、同研究所に所属する別の人間、レオンハルト・エルスターという研究員だったらしい。それによって、かつてその研究所に所属していたラドウィグの現在の居所が相手に伝わり、そのせいで相手が怒り心頭になった。――という流れのようだ。
これは早急に話を打ち切った方が良い。アレクサンダー・コルトはそのように判断し、すぐさま彼女はラドウィグの手から乱暴に携帯電話をひったくる。それから彼女は通話先の相手を怒鳴り、威圧した。
「急用なんだ。いいから、早くイザベル・クランツを出せ! さっさとしろ!!」
返事の代わりにスピーカー越しから聞こえてきたのは、相手が息を呑む音だった。それを了承した合図だと解釈したアレクサンダー・コルトは、携帯電話をラドウィグに返還する。次に彼女はビクつくラドウィグのすぐ傍に居る男を睨み付けるように見た。
目付きの悪いアレクサンダー・コルトの瞳と、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官のアーモンド型の目が合わさる。直後、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官のほうが視線を僅かに逸らしたとき、彼女は彼の名前を呼び、こう言った。「ベッツィーニ。アンタはたしかアバロセレン工学を専攻してたんだよな?」
「ええ、そうですが」
「なら、ちょうどいい。アンタにはアルフレッド工学研究所に出向いてもらう。そこからアタシらに情報を回せ。アンタなら、あそこの研究者たちと同じ土俵で話ができるだろ?」
上司から「ASIに出向しろ」と命じられて到着したその直後に、今度はASI局員から「アルフレッド工学研究所に行け」と命令されたエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、あまりの扱いの悪さに驚きから目を大きく見開いた。これじゃあたらい回しじゃないか、と。
そうしてエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は不満に思う一方で、しかし僅かな喜びを得ていた。研究所に派遣されるということは、それは前線に出ることはないという意味だし。それにアルフレッド工学研究所は、学生時代に彼が憧れていた機関だ。
安全な場所に行けるという安堵。それと、かつて憧れた場所に足を踏み入れられるかもしれないという期待。それは『雑用』を快く受け入れるには十分すぎる材料だった。
「アルフレッド工学研究所ですか。了解しましたよ」
エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、あくまでもウンザリとした声でそう言うと、アレクサンダー・コルトらに背を向けてオフィスを出て行く。しかし彼の足取りは軽く、雑用を押し付けられたにしては嬉しそうな気配を背中から漂わせていた。
それを不満そうに見送るのはラドウィグである。なぜ派遣されるのが自分ではないのかという無言の抗議を、ラドウィグはアレクサンダー・コルトに送りつける。そうしてギョロッと大きな猫目をラドウィグが細めたときだ。応答待ちをしていたラドウィグの携帯電話から、彼が望んでいた人物の声が聞こえてきた。そしてラドウィグはその声に応える。
「……――高位技師官僚、SODの件なんですけッ」
だがラドウィグの言葉は途中で寸断された。というのも、アレクサンダー・コルトが再び彼の携帯電話をぶん取ったからだ。そして携帯電話を奪い取った彼女は電話越しの相手にこう言うと、一方的に通話を打ち切った。
「今からそっちに連邦捜査局の特別捜査官を送る。エドガルド・ベッツィーニって男だ。そいつを介して、ASIと連絡を取ってくれ。こちらからもベッツィーニを介して情報を送る。頼んだよ」
なんたる横暴か。――アレクサンダー・コルトの粗笨 にも程がある言動に驚愕するラドウィグが、押し返された携帯電話を受け取りつつ唖然と彼女を見返す。しかし野蛮人のアレクサンダー・コルトはそのような視線を意に介さない。
そしてラドウィグが着ていたジャケットの裏地に携帯電話を収納した瞬間、アレクサンダー・コルトが彼の肩をガシッと掴んできた。それからアレクサンダー・コルトはまたも一方的な通告をラドウィグに伝えてくる。
「ラドウィグ。あんたには第四尋問室に居る人物たちの監視を任せる。アタシはちょっくら買い出しにでも出てくるよ、ジュディにもそう伝えておいてくれ」
監視と伝言を押し付けられたラドウィグは、アレクサンダー・コルトにその理由を問い質そうとしたが。しかし質問する隙さえ与えることなくアレクサンダー・コルトは立ち去っていく。というより、彼女はラドウィグに面倒事を押し付ける旨を伝えながら、すぅ……と離れていっていた。
アレクサンダー・コルトの言葉が終わる頃には、彼女はもうラドウィグに背を向けていたし。その頃にはもう彼との距離はかなり離れていた。そこで諦めの速いラドウィグはこの面倒事を渋々引き受けることにする。彼は肩を落として一呼吸ついたあと、顔を左右にブルリと小さく振って気分を切り替える。――と、そのとき。ラドウィグの足許に白い狐、小言の多いリシュが現れた。
『ここは無茶苦茶ばっかりだな。キミアの眷属たちのほうがマシに見えてくるぞ』
神狐リシュの言葉に同意しかねたラドウィグは、ムッと眉を顰める。それからラドウィグは神狐リシュを伴い、面倒な何かがあるという第四尋問室に向かっていった。
「うぃーっす。サンドラの姐御はショッピングに出るそうでーす、交替を頼まれたんで参じ――」
今すぐにでもすべてを投げ出して逃げ出したい気分を誤魔化すように、敢えて能天気な調子を装うラドウィグは、そう言いながら入室したのだが。扉を開けた直後、彼は目撃したものを疑い、途中で口を閉じてしまった。
口を閉じた代わりに目を大きく開けるラドウィグは、彼の見てしまったものを凝視する。そしてラドウィグは、目を疑う光景を生み出している張本人に声を掛けるのだった。
「……あの。何やってんスか?」
ラドウィグが声を掛けたのは、床にしゃがんでいたジュディス・ミルズの背中だった。そして床にしゃがんでいたジュディス・ミルズは、床に寝転がされている人物を険しい顔で凝視している。それに彼女は、床に寝転がされている人物を包んでいた青いターポリンの中を覗き込んでいたのだ。
シャカシャカと音が鳴るポリエチレン製の青いシート。その端からはみ出ている素足から察するに、恐らくターポリンで隠されているその人物は何も服を着ていない。そして彼女がターポリンの中を覗き込んでいるということは、それすなわち裸体の覗き見である。
しかし下心や好奇心によって彼女が興奮している様子はなく、むしろ何かを考え込むように顰められたジュディス・ミルズの険しい表情は、良からぬ事態の前触れをラドウィグに告げているかのようだった。だからこそラドウィグは「何をやっているのか」と聞いたのだが。ジュディス・ミルズがその声に答えるよりも前に、茶々を入れる声が入る。それは情報分析官リー・ダルトンだった。
「あなたのことを見損ないました。なんてことをしてるんですか」
ラドウィグの声を聞き、その際にジュディス・ミルズが何をしているのかに気が付いた情報分析官リー・ダルトンは、彼の目の前に置かれていたラップトップコンピュータを静かに閉じると、ジュディス・ミルズに向かってそのようなことを言う。
しかし、それに対するジュディス・ミルズの反応はえらく冷めたものだった。
「これも私たちの仕事のうちよ」
そう言いながらジュディス・ミルズは立ち上がると、青いターポリンに包まれた人物に背を向けてラドウィグのほうを見やる。それから彼女は近くに来いとでも呼ぶように、ラドウィグに向かって手招きをしてみせた。
そんなこんなでラドウィグの視線はジュディス・ミルズの手、及び彼女の顔に向いていたのだが。ふと何かが気になり、ラドウィグの視線が逸れる。ジュディス・ミルズの足許、そのすぐ傍にある青いシートが彼の目に留まった。
「……」
オーウェン・レーゼの聴取を切り上げて局に帰還せよとテオ・ジョンソン部長から命じられたとき、ざっくりとした話は部長から聞かされていた。カイザー・ブルーメ研究所跡地にあった“水槽の脳”状態の二人組にマダム・モーガンが何かをして、彼らが肉体を取り戻したのだと。だからこそラドウィグはこのように考えていた。青いターポリンに包まれた人物、それはエリーヌ・バルロッツィという女性か、レーニン・エルトルという名の男性のいずれかであろうと。
ならばジュディス・ミルズの後ろに居るのはどちらだろうか。そう疑問に思ったラドウィグが、そこに居る人物の顔を見やったのだが。そこで彼は想定外の事実を見つける。大嫌いな“玉無し卿”ことセィダルヤードが居る、と。
その事実に気付いたラドウィグの顔からは血の気が失せていく。ここには居たくないと感じたラドウィグは目線をジュディス・ミルズに向けると、はにかみ笑いながらこのように切り出し、その場から逃げ出そうとした。「あー、その。オレ、コーヒー淹れてきます」
「あなたの考えていることは分かるわ。だから言う、ダメだと。ここに待機していなさい」
冗談をひとつも交えることなく、険しい顔でピシャリと断じる。そのジュディス・ミルズの様子に、舐め腐った精神を持つラドウィグも背筋を正さざるを得なかった。
それにジュディス・ミルズが彼に向けている視線は異様に冷たい。それはまるでラドウィグが何かをやらかしたと責め立てているようでもある。しかしラドウィグには責められるような心当たりがない。そういうわけで彼が感じるのは、得体の知れない居心地の悪さだけ。
「分かりました。従います」
軽口を叩くことが憚 られる空気が満ちる中、視線を落とすラドウィグはそれだけを言う。
イスカの嘴 、とでもいうのだろう。幾つかの物事や思惑、利害が重なり合い、表向きは噛み合っているように見えても、ガチッとしっくり嵌まる感覚が得られない。そんな気分をラドウィグは味わっていた。疑念が常にすべての根底にあって、それが真の理解や提携を微妙に阻害していると。ASIとの付き合いが長く、彼らから既に信頼を勝ち取っているアレクサンダー・コルトとは違い、ASIとラドウィグの付き合いはまだ一年にも満たない。つまり、お互いにまだ疑心暗鬼を抱いている段階に居るのだ。
今度は何を疑われているのだろうかと落胆するラドウィグが、目を伏せながら顔を俯かせたとき。ラドウィグを揶揄するような聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『その通りだ。男の子たちは待機しているべきだな、来るべき時に備えて』
ラドウィグは素早く声が聞こえてきた方向に顔を向ける。彼の視線の先にあったのは、壁面に取り付けられたビームスプリッターの鏡面。鏡面には第四尋問室の様子が反転した状態で映し出されていたが、一点だけ現実と異なっている点があった。現実にはこの場に存在していない人物の姿が、鏡の中に写り込んでいたのだ。
部屋の中央にある机。現実には、そこに就いているのは情報分析官リー・ダルトンだけなのだが。鏡に映る世界には情報分析官リー・ダルトンのすぐ傍で、その机の縁 に浅く腰掛ける眼鏡を掛けた男の姿が映っている。白衣に白いシャツ、それと黒いスラックスに灰色の靴といったモノトーン調の無個性な服を着ているその男は、しかし故人であるはず。
とはいえラドウィグにはその男の正体が分かっていた。だからこそ彼は腕を組み、鏡に映る男――に擬態した怪物――が何を言い出すのか、その様子を窺っていたのだが。他の者は事態がすぐに呑み込めず、戸惑った様子を見せる。
ラドウィグから鏡に視線を移したジュディス・ミルズは、驚いたように目を見開き、息を呑んでいるし。情報分析官リー・ダルトンに至っては、転げ落ちるように椅子から離席する始末。そして床に尻もちをつきながら、情報分析官リー・ダルトンは裏返った声で叫んだ。
「ば、ばるろっ、たァッ?!」
鏡の世界において、情報分析官リー・ダルトンのすぐ傍に佇んでいる男。その背格好や目鼻立ちは、少し前に死んだ前高位技師官僚によく似ている。それに、先ほど聞こえてきた声もその故人にそっくりだった。だからこそ情報分析官リー・ダルトンはその名を叫ぼうとしたのだ。バルロッツィ、と。
そうして腰を抜かした情報分析官リー・ダルトンが震える指で鏡を指差し、驚愕から言葉を失ったとき。タネと仕掛けを知るラドウィグが、人間らを騙くらかして遊んでいる狼に釘を刺す。ラドウィグは目を細めると、鏡にのみ映る男を睨みながら命じるように言った。
「ジェド、その変装を解け。これ以上あの人を貶めるな」
ラドウィグがそう言うと、鏡に映る怪物は不服気な表情を見せる――これは『本人』であれば見せない表情だ。しかしラドウィグが強い言葉を用いたことが多少は効いたらしく、その怪物は大人しく指示に従う。鏡の世界にて姿勢を正すその怪物は、姿勢を正したと同時に姿を変える。人間の男のように見えていた姿がグニャグニャと歪み、その直後、黒い毛並みを持つ狼へと変化した。黒狼ジェド、それが正体を現したのである。
緑色に輝く目を細めながら黒狼は鏡の世界をノソノソと歩き、腰を抜かして座り込む情報分析官リー・ダルトンの傍らに近付く。しかし黒狼は情報分析官リー・ダルトンに冷たい視線を送りつけるのみで、それ以上のことはしない。その後、黒狼はすぐにラドウィグのほうへと向き直った。
今度は一体、何を仕出かす気なのか。そのような疑念と警戒心に満ちた目をラドウィグは返す。そうしてラドウィグが牽制の言葉を発しようとしたとき、偶然にもそれを遮るようにジュディス・ミルズが溜息を零した。そして間髪を入れずに、彼女は言う。「前高位技師官僚に関連する事柄の中で偶に耳にすることがあった『黒狼』という言葉、今までは疑っていたわ。未来を予知するという怪物、それは実在していたのね」
『なら話は早い。耳の穴を掻 っ穿 って、よく聞きやがれ』
黒狼はジュディス・ミルズの言葉にそう返答すると一転、視線を彼女へと移す。ラドウィグに事情を説明させるよりも、多少ワケを知っていそうなジュディス・ミルズに的を絞ったほうが話がスムーズに進みそうだと黒狼は考えたようだ。
嫌な予感がするな、とラドウィグは感じていたが。とはいえここで変に口を挿めばジュディス・ミルズもとい黒狼の機嫌を損ねそうである。そうなれば嫌味なことを両者から言われそうだ。
そこでラドウィグは静観という態度を取ることにする。何も言わずに黙りこくるラドウィグが、ただ黒狼をジトッと睨み付けていると、黒狼はそれを「話をしてもいい」という合図として受け取る。すると、黒狼は話を始めた。
『手短に言う。俺の相棒、つまりお前たちが『ジョン・ドー』と呼んでいたそれがカリスのねぐらから逃げた。お前たちが“曙の女王”と呼んでいるホムンクルスがあいつを連れ出したんだ。相棒は今、この近辺に潜伏している。――気を付けろ。行動を間違える者が現れれば破滅的な結果が訪れることになる。俺がいないんじゃあ、あれの歯止めはかからないだろうしな』
黒狼の話を信じるのであれば、また面倒な事態が増えたということになる。ジョン・ドーという言葉にジュディス・ミルズが表情を険しくする一方、警戒心が一周回って遂に無表情になったラドウィグは黒狼の言葉を疑っていた。そしてラドウィグは黒狼に言う。「お前の言葉は信用できない。信用に足る根拠を示せ」
『こっちはわざわざ出向いて警告をしてやってんだぞ。それに対する態度が、それか?』
ラドウィグが言葉に滲ませる露骨な不信感に、黒狼は牙を剥いてがなり立てるというアクションで応答する。しかしラドウィグがまた煽るような言葉を発しようとする。が、それは直前でジュディス・ミルズによって止められた。
ラドウィグをきつい眼光で睨み付けるジュディス・ミルズは、彼を指差すと黙るようにとの圧をかけてくる。続けてジュディス・ミルズは黒狼のほうに顔を向けると、こう言った。「話を続けて」
『俺は暴力や蹂躙が好きだ。だが理由なくそれらをすることはしない、これでもポリシーってやつを持っている。けれども相棒は違う。あいつは容赦ないぜ。解き放たれたら最後、見境なく何もかもをぶっ壊して回る。あれは自制心なんざ微塵も持ち合わせていない狂戦士 だからな』
そう言うと黒狼は、先ほどまで情報分析官リー・ダルトンが座っていた椅子の脚に前足を掛けると、それをグッと後ろに引く。それはあくまでも鏡の世界で起きた事象だったが、しかし現実もその動きに連動する。現実に存在している椅子はひとりでに動き出し、鏡の世界と同じ位置に移動した。
そして黒狼はその椅子にヒョイと飛び乗ると、机の上に置かれていた情報分析官リー・ダルトンのラップトップコンピュータを鼻面で器用に開いてみせた。現実に存在するラップトップコンピュータも同じ動作を示し、閉じられていたはずのコンピュータはひとりでに開く。それを見た情報分析官リー・ダルトンは大慌てで飛び起きると、なぜかジュディス・ミルズの背後に隠れていった。
堂々と佇む彼女の背中越しに、恐る恐るといった様子で鏡を見やる情報分析官リー・ダルトンが、鏡の中にだけ存在する黒狼の緑色に輝く目を見て息を呑んだとき。開けられたコンピュータはひとりでに起動し、モニターには動画が映し出される。そして黒狼はラドウィグを横目でちらりと見やり、それから言った。
『これは最後に相棒が現れ、暴れ回ったときの映像だ』
勝手に再生され、ラップトップコンピュータに映し出されていた映像。それはどこかの小洒落たオフィスのようだった。しかし白衣を着た姿でうろついている者が多いことから察するに、なんらかの研究所なのだろう。外は暗く、大雨が降っているらしい。また、帰り支度を進めている者がちらほらと見受けられることから、夕方かそれより遅い時刻なのだろう。――ラドウィグには、そのように見えていた。
だがASIのアーカイブズを隅から隅まで把握している情報分析官リー・ダルトンは血相を変える。彼には分かったのだ。黒狼が何らかの手を使って引っ張り出してきたこの映像はASIの手元には無いものであり、と同時にその映像の舞台がどこなのかが。
情報分析官リー・ダルトンの予測が正しいのであれば、映像は約四〇年前に撮影されたものだ。場所は、サンレイズ工学研究所。ホムンクルスを最初に創り出したとされる場所であり、ホムンクルスが誕生したその日に消滅した施設だ。
降りしきっていた豪雨に紛れて、雨の中に消えていったとされる研究所。宇宙人が転送して消したとか、秘密工作員が爆弾で破壊しただとか、そのような陰謀論のみを後に遺し、跡形も無く消えた曰く付きの存在。それがサンレイズ研究所である。
とはいえASIは真相の一端を掴んでいた。それはペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚が所員のほぼ全てを抹殺したうえで(テレーザ・エルトルという研究員のみを逃し、それ以外のほぼ全員を殺したのではと考えられている)、彼が持つ特殊能力『素手で触れたものを、その元素組成に関わらず水に変成する能力』で消したという話。俄かには信じがたい話ではあるし、今となっては証拠も無く、裏取りもできないまま長年スルーされていたのだが。黒狼という謎めいた存在がたった今、その証拠を突き出してきたのだ。
「こ、これは……!」
情報分析官リー・ダルトンが小さな声でそう漏らしたとき。映像の中で異変が起こる。カメラの画角外から内側へと、一人の男が大慌てで飛び込んできたのだ。その人物が着ている白衣の左肩には赤い染みが広がっており、逃げ込んできた人物が何らかの怪我を負っていることが窺い知れる。そして怪我をした人物がデスクの影に隠れようとした瞬間、彼の背中めがけて刃物が飛来した。
それは錠前壊しのために設置される赤い斧。そして斧を背中に受けた人物はその場に倒れ込み、それきり動かなくなる。その瞬間に空気は一変し、オフィス内に居合わせた者たちは取り乱し始めた。
我先にと脱出を試みようとする者も居れば、デスクの下やロッカーの中といった物陰に隠れてやり過ごそうとする者も居て、全てを諦めた顔で床に伏せる者や、親しい誰かに最後の言葉を残すべく連絡を試みる者も居る。――そして遂に、混乱の渦を生み出した張本人ペルモンド・バルロッツィがその場にやってくる。彼はオフィスに踏み込むと、斧を背中に受け手倒れ込んだ男に近付き、その背中から斧を引き抜いた。
彼は斧を握る左手に、ラテックスの手袋を着けており、その上には黒い革手袋をはめていた。だが右手は素手のまま。その右手で触れられたものは次々と形を失くし、飛び散る水滴となって消えていく。備品、椅子、デスクが消え、物陰に隠れていた者が露わになり……――人さえも消えていった。
その映像に音声は付属していない。無音が続いているが、けれども映像を観る者の脳内では悲鳴が自然と補間されていく。そしてオフィスに居た最後の一人が消滅したとき、映像が停止した。直後、黒狼はラドウィグを見やると、彼に挑発めいた言葉をぶつける。
『この通り、あいつに慈悲はない。――甘ちゃんのお前に、あいつを止められるか?』
隙も無駄も無い動きで、スムーズに汚れ仕事をこなしていく男の姿。それはラドウィグが知っている“彼”とは別人のようにも思える。だからこそラドウィグは、それをすぐには受け止めることができなかった。そんなの嘘だ、と唱える否定の声が彼の頭の中に響いていたのだ。
そうしてラドウィグが戸惑い、狼狽えていた一方。気を取り直した情報分析官リー・ダルトンはそれまでしがみついていたジュディス・ミルズから離れ、映像を再生していたラップトップコンピュータに近付く。それから彼は、彼自身の私物であるはずのコンピュータを警戒するように見たあと、鏡に映る黒狼へと顔を向けた。そして情報分析官リー・ダルトンは黒狼に尋ねる。「今の映像は、ブラッドフォード暗殺事件から三年後に起きたという、あの――」
『そうだ。あの、サンレイズ研究所消滅騒動の真相だ。……安心しろ、今の映像はASIのアーカイブズに加えといてやるさ』
「あぁ、それは有難い!! ……――いや、でも、どうやってそんなことを?」
黒狼の返事に、情報分析官リー・ダルトンは感謝したあとに首をかしげるという反応を見せる。すると黒狼は何かもの言いたげに目を細めた。……というのも、情報分析官リー・ダルトンが日ごろの業務の中で接しているASIの基幹システムを構築したのはバルロッツィ高位技師官僚こと、この黒狼であったからだ。
そうして黒狼が情報分析官リー・ダルトンに冷たい視線を浴びせていると、その黒狼に糾弾の目と疑問が向けられる――ぶつけようのない怒りを抱えた顔をしているラドウィグだ。彼は鏡の世界に居る黒狼を問いただす。「どうして、こんなことが起きたんだ。当時に何があったから、こんなことが……!」
『お前も、サンレイズ研究所で人工生命体の開発が進められていたことは知ってんだろ?』
「一応。ASIにある資料を読んで、知った。けど、だからって」
『この直前、サー・アーサーが探りを入れようとしているという情報が元老院の耳に入り、サンレイズ研究所の廃棄が決まった。いわゆる尻尾切りってやつだな。ついでに、連中はアーサーの口を塞ぐべく、あいつの娘を殺そうとしたわけだ。つまりこの殺戮はアーサーにのみ向けられた牽制であって、それ以外の意味を持っていない』
「牽制!? そんなことのために、この人たちは……!!」
『義憤を爆発させるのもいいが、この連中に同情するべきじゃあねぇな。連中は相応の悪徳を積んでいる。俺が思うに、これは連中に相応しい死に様だった』
黒狼のドライな言葉に抗議の言葉をぶつけようとするラドウィグだったが、彼が口を開きかけたタイミングで被せるように情報分析官リー・ダルトンがわざとらしい咳ばらいをする。そして情報分析官リー・ダルトンはラドウィグの出鼻をくじいたあと、黒狼の発した言葉に補足事項を加えた。
「狼さんが正しいです。サンレイズ研究所では倫理的に問題のある計画が多く進められており、人体実験の末に殺害されたのではないかと睨まれている浮浪者の遺体が研究所の近辺で発見されたこともあります。それ以外にも、当時は――」
普段の調子を取り戻した情報分析官リー・ダルトンが饒舌に喋っていると、その長台詞を打ち切るように黒狼が前足を動かし、音を立てる――前足の爪を机の天板に擦り付け、ギギギッという不快感を伴う雑音を立てたのだ。
その結果、机にはうっすらと爪痕が残る。現実に存在している机の天板にも、鏡の世界に居る黒狼が刻んだ爪痕が刻まれていた。この特異な状況に、情報分析官リー・ダルトンは肩をブルリと震わせると、黙りこくる。そして彼が黙ったのを確認すると、黒狼はジュディス・ミルズを見やった。
一番まともに話が出来そうなASI局員。黒狼によってそう判断されたジュディス・ミルズは、鏡に映る黒狼の目を見返すと、緊張から口角を僅かに下げる。それと同時に黒狼は中断されていた話の続きを再開した。
『今の映像は命令を受けた“猟犬”が廃棄を実行しているところを収めたものだ。結果、一名を除き、所員は全員死亡。サンレイズ研究所も白昼堂々、消失した。そしてこれを機に、殺戮を働いた“バルロッツィ高位技師官僚”は雲隠れせにゃならん事態に陥った』
「……」
『あんときゃ俺もいっぱいいっぱいだったのさ。アーサーの怒りを焚きつけぬよう、あいつの娘テレーザを守ることを優先せにゃならなかったが、同時に元老どもの機嫌も取ってエリーヌの安全も確保せにゃならなかった。となりゃ、あれ以外に道は無い。俺はテレーザとホムンクルスの双子を研究所から追い払ったあと、相棒の好きなようにさせた。ただ、流石の俺も予想していなかった。研究所から逃げ延びたはずのテレーザが――』
猟犬と呼ばれる男をコントロールするための操縦桿から黒狼がその手を離した結果が、あの情け容赦のない殺戮であるなら。黒狼が本来あるべき場所に戻された今、黒狼の支配下から外れた“猟犬”が何を仕出かすかは想像に容易い。
訪れるかもしれない最悪の結末。それを思い浮かべてしまった瞬間、ラドウィグの体は勝手に動いていた。蒼褪めた顔になったラドウィグは焦りに身を任せ、部屋から飛び出ようとする。しかし彼が出入り口のドアノブに手を掛ける直前、ジュディス・ミルズがラドウィグの腕を掴み、力づくで彼を引き留めた。それから彼女は忠告する。「待ちなさい。今は焦って行動を起こすタイミングではないわ」
「何かが起きる前に動かなきゃ意味がないでしょう?! 今すぐにでもオレが市内を」
「情報収集なら担当者にやらせればいい。あなたは事態が動くまで、ここで待機を」
「だからこそすぐに動ける態勢を整えるべきです!! そのためには――」
警察の覆面機動隊のように、いつでも出動できるよう市内を巡回しておくべき。ラドウィグは咄嗟にそのように判断していた。ゆえに彼は局を飛び出ようとしたのだ。けれどもジュディス・ミルズは真逆のことを言う。ここで待機していろ、と。
ラドウィグは自分の考えが正しいと確信していたが、しかしジュディス・ミルズは上司であり彼の管理官である。彼女に逆らい、勝手に抜け出すことは決してできない。そこでラドウィグは食い下がるべく、説得力のある言葉を探していた。
そうして一瞬ラドウィグが口を閉ざしかけたとき。部屋の隅から、ポリエチレン製の布がカシャカシャと鳴る物音が立つ。青いポリエチレン製ターポリンに包まれた状態で床に寝転がされていた人物が目を覚ましたのだ。
その人物はカシャカシャと音が鳴る布で自分の体を隠すように押し付けつつ、慎重に上体を起こす。そしてこの日初めて開かれた深い青色の瞳が、殺気立つラドウィグを捕捉した。
「……彼女が正しい。君は頭の回転が速い分、空回りしやすい、そして悲観的な早合点をすると聞いている。ひとまず今は呼吸を整えるべきだ」
ASIにて“憤怒のコヨーテ”と仇名される男に顔がそっくりだということで警戒されていた者、そしてラドウィグからは“玉無し卿”などと呼ばれて蔑まれていた人物。その声を聞いた一同は視線をその人物に向けると同時に、各々が異なる反応を見せた。
ラドウィグは自分の考えを否定されたことに苛立ち、睨むという態度を取る。だが彼は内心でこう思ってもいた。空回りも悲観的な早合点も思い当たるフシがありすぎる、と。だからこそ余計に苛立つ。指摘がズバリ当たっていること、それが腹立たしくて堪らないのだ。
一方でジュディス・ミルズは、驚き、息を呑むという反応を示す。その人物の声のトーンが、彼女の想像していたものと大幅に異なっていたこと――聞こえてきた声は温和な空気を伴った低い声であったが、それはあくまでも『女声』の音域に留まっていた――に拍子抜けしたからだ。それに、その人物は寝顔こそ“憤怒のコヨーテ”に似て見えていたが、起床してみればちゃんと別人に見える。エラの主張が無いほっそりとした輪郭に、攻撃性の無い穏やかな目など、あの男とは異なる部分がちゃんとあり、その影響であの男の気配は『少し面影がある程度』に収まっていた。だからこそ彼女は心の中でガッツポーズを決めていた。これならどうにか顔を誤魔化せる、部内に嫌な空気を生まずに済むかもしれないと思えたからだ。
そして、妙な反応を見せたのが情報分析官リー・ダルトンだった。彼は呆然とその人物を見つめ、と同時に息を呑むというリアクションをする。……――が、彼は数秒ほど静止したのち、首をブルブルッと左右に振って我に返った。彼はどうやら職務とは何ら関係の無いことに気を取られかけていたようだ。
そのように調子が狂い気味な情報分析官リー・ダルトンと、ワケありなその人物の目が一瞬だけ交錯する。しかし視線はすぐに逸れた。先ほどラドウィグに釘を刺した人物は、次に鏡のほうを見やると、ラドウィグらに向けてこう言う。
「そこの狼は他に何かを言いたげだ。まずその話を聞いてみたらどうだ」
すると一転、一同の視線は鏡にのみ映る黒狼の姿に移る。そして注目が自分に集まったのを確認すると、黒狼は威勢よくこう言った――気に入らないという少しの苛立ちが混ざった調子で。
『ああ、そうだ! まず俺の話を聞きやがれ。でないとお前ら全員、死ぬぞ』
死ぬ。黒狼がそう言い切れば、元よりヒリついていた空気がより一層張りつめていく。気が緩みかけていた情報分析官リー・ダルトンは、たるんだ心を正すように今度は肩をブルリと震わせた。
そして鏡面に一同の注目が向いたとき、鏡面に映るものに変化が生じた。黒狼が再び人型に、つまり前高位技師官僚の姿を取ったのだ。
その姿にラドウィグは顔をしかめて不快感を露わにするも、黒狼は故人によく似た目を細めて冷たい視線をラドウィグに送りつけるのみ。その目線は、人間の姿かたちを取ったほうが人間と意思疎通がスムーズに行えるのだから細かいことでグダグダ言うな、とでも苦言を呈しているかのようである。現に今も、目線ひとつで意図を容易に伝えられているのだから、人間の姿というものは黒狼にとって実に有用なものなのだろう。
気に入らない。そんな幼稚な苛立ちがまたもラドウィグの中に蓄積していく。だがこの空気感に水を差してはいけないと察した彼は、今度ばかりは文句を言うことを控えた。くだらないことで文句を言うよりも、今は重要な話に耳を傾けなければならないターンだと弁えていたからだ。
そうしてラドウィグが黙り続けることを選べば、黒狼の視線はベテランであるジュディス・ミルズに移る。それから黒狼はひとつ咳払いをしたあと、故人にそっくりな“ガワ”の頭を指差しながら、このように語り出した。
『滅多なことでも起きねぇ限り、これの狂暴な側面、つまり通称“猟犬”と呼ばれている人格は出てこない。身の危険、それも深刻な危険に晒されない限り、猟犬は穏当な仮面の奥底に押し込められているからだ。だが仮に出てきたとしても、大抵はあいつの肉体に組み込まれたリミッターがそれを妨害する。凶暴性の発現に伴う興奮により大発作のトリガーが引かれ、痙攣により活動は強制停止されるうえ、大発作のダメージによって数日は大人しくなる。俺か、もしくは元老どもが故意に肉体のリミッターを外していない限り、大事は起きない。つまり猶予はあるってわけだ。だが問題がある』
先ほどは悲観的な強い言葉を発していた黒狼だが、続いた言葉は存外にも楽観的な観測だった。しかし楽観的な言葉の後には再度、暗雲をもたらしそうな不穏な言葉が続く。そして黒狼は人間そっくりのガワを動かして腕を組むという動作をした。それから黒狼は最大の懸念事項を述べる。
『あいつを連れ出したホムンクルス。お前たちが“曙の女王”と呼んでいる存在、あれの行動原理が分からない。だからこそ、あのホムンクルスがあいつのリミッターを外す可能性も考えられる。その場合――狙われる可能性があるのは誰だ?』
「コヨーテ野郎とか? 曙の女王を封じたのは彼だし、恨みを買っている可能性がある」
黒狼が投げかけた問いにそう答えたのは、ジュディス・ミルズだった。ラドウィグにはその答えが十分にあり得そうなものだと感じられたが、しかし組んでいた腕を解くという反応を見せる黒狼は続けて、片眉のみを吊り上げるという表情を作る。それから黒狼はジュディス・ミルズを指差すと、次に嘲るような感じの悪い笑みを浮かべた。……ジュディス・ミルズが出した答えは黒狼の考えるものとは微妙に異なっていたらしい。ニアピンといったところだろう。
『まあ、そうだな。あのクソ野郎を狙う可能性も十分あり得る。だが俺の考えは違う』
故人によく似た顔で、しかし故人とは色が異なる緑色の目でジュディス・ミルズを見ながら、黒狼は言う。そして凝視されたジュディス・ミルズは、警戒からわずかに顎を引いた。この瞬間、彼女はあることを悟ったのだ。
今のようなオーバーな表情と、ガラの悪そうな喋り方。それはジュディス・ミルズが知っているペルモンド・バルロッツィそのものであり、つまり彼女が知っていたペルモンド・バルロッツィという男は即ち、彼の体を乗っ取って活動していた黒狼であったのだ。そして思い出されるのは、彼女が初めてペルモンド・バルロッツィと相見えたときに聞いた台詞。
――でなけりゃお前たちは、この猛犬のリードを握れなくなるぞ?
あのとき、彼女にはなぜペルモンド・バルロッツィが“猛犬”という言葉を持ち出したのかが理解できなかったのだが、今なら意味が分かる。彼の正体はこの通り、犬なのだ。
「なら、狙われるのは誰?」
ひとつ謎が解けた瞬間、その正体に気付けなかった過去の自分が気味悪く思える。そんな気分に苛まれながらもジュディス・ミルズは、気味悪さの根源である黒狼を見据える。そして黒狼はこのように答えた。
『俺は狙われるとすりゃアレクサンダー・コルトだと考えている。それか、アレクサンダー・コルトとお前らの言うコヨーテ野郎が鉢合わせるタイミングだな。近々その予定があるんだろう?』
「なぜ、曙の女王の狙いが彼女だと断言できるの? その根拠は何?」
アレクサンダー・コルト。予想もしていなかった名前が黒狼から飛び出してきた瞬間、ジュディス・ミルズの態度は一変する。食い気味で黒狼を問い詰める彼女は鬼気迫るオーラを放っていた。そのオーラに中てられ、情報分析官リー・ダルトンまでも表情を固くさせ、ラドウィグも生唾を呑み込む。変わらぬ態度を貫くのは黒狼だけだった。
哀れな人間を助けようとしているのか、はたまた怯える人間を嘲りたいだけなのか。その真意が掴めない態度を取り続ける黒狼が次にロックオンするのは、例外存在であるラドウィグである。黒狼はラドウィグに意味ありげな視線を送りながら、人間には理解が及ばぬ話をするのだった。
『アレクサンダー・コルト。あれは今までどこにも存在しなかった特異点だからだ。お前らが言うところのコヨーテ野郎も、特異点のひとつ。だがアレクサンダー・コルトの威力には劣る。なにせアレクサンダー・コルトはこの周回で初めて誕生した存在だからだ。幾つかの要因が重なって偶然に産まれた副産物、それがあの女。だからこそ俺はあの特異点を維持したい。だが、元老院を筆頭に、あの女を消したがる勢力もいる。この世界に備わった恒常性そのものが、あの女を消したがっているという側面もある。とはいえあのホムンクルスがどちら側なのか、または別の立場なのか、それは俺には分からん。あれは不明点が多すぎるうえに行動が全く読めん。俺の眼を以てしても予測不能な存在だ。あのホムンクルスもまたこの周回で初めて誕生した存在だからな、参照すべき記録がないんだよ』
特異点やら何やかんやと、小難しい話が続く。神族種やら幽霊やらにほとほと嫌気を起こしていたジュディス・ミルズは考えることを早々に諦め、ただ「アレクサンダー・コルトが狙われる可能性が高い」という点のみを自分の中に吸収することにした。
しかし、黒狼に喰らい付こうとしたのが情報分析官リー・ダルトンである。鏡に映る黒狼のガワを真っ直ぐ見つめる彼が何かを言おうとしたとき、しかし黒狼が牽制した。チッチッチッ、と小馬鹿にするかのように三回も舌を鳴らした黒狼は、情報分析官リー・ダルトンに黙れというジェスチャーを送る。お前にはどうせ理解などできないのだから余計な質問で手間取らせるな、ということらしい。
そんな黒狼の牽制は情報分析官リー・ダルトンに効果を発揮する。ペルモンド・バルロッツィの姿という最高に胡散臭く威圧的な男に睨みをきかされれば、インドア派で闘争の世界とは無縁なギーク男は怯むしかない。
そうして情報分析官リー・ダルトンが大人しくなったタイミングで、再び黒狼はラドウィグに視線を戻す。それから黒狼はラドウィグに恨みつらみをぶつけるのだった。
『挙句、俺はそこの坊主に封じられちまったせいで鏡の向こう側から指くわえて見ることしかできない身だ。今度ばかりはお前らを助けることが出来ない。だが、文句があるなら俺でなく、諸悪の根源が何者であるかを見誤ったそいつに言え』
「お前だって充分に悪者だろ。善良な守護者を気取るな」
ラドウィグは最後に、黒狼へ一撃を決める。しかし黒狼はその言葉に無視を決め込んだ。
そして用事が済んだのか、黒狼は本来の姿である黒い毛並みの狼の姿にスルスル……と戻っていく。人間の男の姿を模っていた輪郭が霧散し、黒い霧に覆われたあと、それは狼のかたちに集束していった。
「とりあえず……――私は今のことをジョンソンに報告する。あの石頭に今の出来事が呑み込めるかどうかは分からないけど、ひとまず話しておくわ。ダルトン、あなたも来なさい」
黒狼が元の姿に戻ったのを確認したあと、険しい顔をするジュディス・ミルズはそのように言う。そして彼女は情報分析官リー・ダルトンを伴って、第四尋問室を後にした。
そうしてジュディス・ミルズと情報分析官リー・ダルトンが退室したのを確認すると、それまでラドウィグの肩の上で黙り続けていた神狐リシュが久しぶりに口を開く。神狐リシュは鏡に映る黒狼ジェドに向かって、こんなことを言った。
『黒狼、お前も随分と落ちぶれたもんだ。自分の育て上げた弟子に不意打ち食らって、一撃でやられちまったんだからな。そして今や狼の姿でグダグダ愚痴を零すつまらない存在に成り下がった。情けないもんだよ』
「……それ、マジで言ってる?」
神狐リシュの言葉に、ラドウィグは驚きに満ちた声と共にそう返す。神狐リシュの言葉を信じるなら、ラドウィグを鍛え上げた武術の師匠(というより、ラドウィグがかなり強い恨みを抱いている男)の正体が黒狼だということになるからだ。
人を人とも思わない所業をラドウィグに課してきた性悪な師匠の正体が、この黒狼だったとは。少年期には全身を痣だらけにされ、十四歳のときには砂漠のド真ん中にひとり置き去りにされたりと、散々な目にラドウィグを遭わせてきたクソジジィの正体が、黒狼であったとは。……ラドウィグは衝撃を受ける一方で、なぜか腑に落ちる感覚も味わっていた。このクソ狼なら十分にあり得ると納得していたのである。そして神狐リシュは念を押すようにこう言うと、ラドウィグの肩から飛び降り、床へと着地した。
『そうだ。かつて“T'Seydhal lou (セィダルの狼)”と呼ばれ、畏れられていた武人の正体は、本当に狼だったってわけさ』
床に着地した神狐リシュは、別の人物に目を向ける。それは部屋の隅で縮こまりつつ、少し寒がるように青いポリエチレン製のシートを手繰り寄せていた人物である。その人物は別の世界ではセィダルヤードと呼ばれ、民から慕われてもいたし上流階級からは疎まれてもいた宰相だった。そしてラドウィグが十五歳だった頃、宰相セィダルヤードは七〇過ぎの老人だったはず。
しかし。たった今、二十六歳になったラドウィグの前に居るセィダルヤードは、ラドウィグが幼いときに観た肖像画の中にある彼の姿、つまり若い頃の姿をしていた。……いや、肖像画で観たセィダルヤードの顔とも、何かが違うかもしれない。
何の手違いが起きたのか、ラドウィグもとい神狐リシュの知っている“セィダルヤード”とは異なる姿かたちで顕現したその人物に、神狐リシュはトトトと歩み寄る。そして神狐リシュはセィダルヤードの前で止まると、こう言った。
『お前も、この狼こそが自分の飼い犬だと勘付いたんだろ。だからお前は割って入り、狼のほうに注目を向けさせた。――だが間抜けな狼は何も覚えちゃいない。キミアに記憶を吸い取られてるからな。飼い主に忠実なワンコだった時代のことを何も覚えちゃいないんだ』
神狐リシュのその言葉に、セィダルヤードは無言で小さく頷き、そして微笑みを浮かべるという反応を返す。ラドウィグはその反応に背筋をゾワッとさせた。自分は今までまったく気が付かなかったことに、セィダルヤードは一瞬で気付いたこと、それが気味悪く思えて仕方なかったのだ。
その一方、ラドウィグよりも激しく動揺していたのが黒狼ジェドである。身に覚えのない話に黒狼は動揺するあまり、その輪郭をグワングワンと揺らしていた。陽炎のように揺れるその姿は、黒狼ジェド自身の動揺を強く反映しているかのよう。そして黒狼は実際に動揺しており、そしてヘコんだようだ。黒狼は輪郭をグラグラと揺らしながらラドウィグらに背を向けると、気落ちした様子で静かに去っていく。
鏡の向こう側にある部屋の出入り口、そのドアノブに黒狼ジェドは前足を掛けると、器用にドアを開けて退室していった。――その拍子に、現実世界のドアノブも呼応するようにガチャリと動き、出入り口はひとりでに開いて、ひとりでに閉まる。黒狼は完全にここから去ったようだ。
「……」
黒狼が去ったことで、ラドウィグは安堵すると同時に妙な心細さを覚える。神狐リシュが傍にいるとはいえ、セィダルヤードとほぼ二人きりのような今の状況。おっかない管理官ジュディス・ミルズも居なければ、カフェイン中毒で常にアッパーな情報分析官リー・ダルトンも居ないせいで、できれば意識したくない存在から注意が逸れる瞬間もない。
寒さで身震いでもしたのか、ポリエチレン製の布がカサカサと細かく小さな音を立てる。そのあと、ガサガサッと一際大きな不快感溢れる音が鳴る。そして音の動きでラドウィグは悟る。身を起こしたセィダルヤードが今、ラドウィグの背中を見ているのだと。
部屋の対角線上に居て両者の距離はそこそこ離れているが、しかしラドウィグは視線を感じている。そしてラドウィグが恐る恐るセィダルヤードのほうに顔を向ければ、やはり視線がガッチリと合ってしまった。幼稚なラドウィグは覚えた不快感を露骨に表情へと出してしまうが、大人の余裕とやらを持っている相手は意に介していない様子。ラドウィグに穏やかな微笑みを向けるセィダルヤードは、顔を引きつらせるラドウィグに気品ある声で語り掛ける。
「ルドウィル。少しだけ話を――」
「ラドウィグ。それが今のオレの名前です。また、業務外の話をするつもりはありません」
ろくに相手の話を聞かぬラドウィグは感じ悪い態度で打ち切る。その一方でラドウィグはセィダルヤードに歩み寄るという行動を見せた。
上に羽織った黒いジャケットを脱ぎながら歩くラドウィグは、脱いだジャケットをセィダルヤードの肩に掛ける。用が済むとラドウィグはすぐにセィダルヤードから離れ、出入り口の近くに戻っていった。
その様子を見守る神狐リシュは、不満があるように口吻を窄めている。黒い洞毛 は上向きになり、プルプルと小刻みに震えていた。そんな神狐リシュはラドウィグについていくことは選ばず、代わりに床に座り込むセィダルヤードの膝の上に乗ることを決める。セィダルヤードの許可を得ることなく、さも当然といった顔でノソノソと人の膝の上に乗る神狐リシュは、ポリエチレン製の青いターポリンをカシャカシャと踏み鳴らしながら、ちょうどいい寝姿勢を整えていた。
あれは、あの狐なりの抗議である。それを分かっているラドウィグは神狐リシュおよびセィダルヤードから目を逸らし、出入り口のみに注目を向ける。ジュディス・ミルズか情報分析官リー・ダルトンか、そのどちらかがドアを叩き、開ける瞬間を待つことにした。
――のだが。ラドウィグが少し気を緩めた直後、異変が起こる。なんと、ドアがノックされることなく突然ガチャリと開いたのだ。更に、乱入してきたのはASI局員でない全くの部外者だったことから、ラドウィグは小さなパニックに陥る。アッと驚いた彼だが、その場で取るべき対応をすぐに取ることができず、乱入者の入室を許してしまったのだ。
「ねぇ、アレックス。イルモの本、どう思っ――」
入室許可を得ることもしなければ、事前にノックすることもせずに部屋に乱入してきた者。それは隣の部屋で行われていた尋問から解放されたノエミ・セディージョだった。そして彼女が乱入してきた理由はただ一つ。隣の部屋にいると聞いていたアレクサンダー・コルトに、数十分ほど前に渡した本の感想を聞きにきただけ。しかしノエミ・セディージョが見つけたのはアレクサンダー・コルトではなく、見覚えのある顔をした別の女性だった。
壁際に置かれている深い緑色のソファー。その上に横たわる赤毛の女性。それはノエミ・セディージョの記憶が正しければ、彼是二〇年近く前に殺害されたはずの人物である。
「……彼女、エリーヌ・バルロッツィよね。どうして彼女がここに居るの?」
感じた疑問を直に発するノエミ・セディージョは、この疑問を追及すべく近くにいるASI局員を探そうとしたのだが、しかし彼女が次に見つけたのは彼女のすぐ傍に立っていたラドウィグ……ではなく、エリーヌ・バルロッツィが寝ているソファーの隣に居た人物。青いターポリンにくるまり、その上から男物のジャケットを被ったセィダルヤードだった。
そのセィダルヤードの顔は、ノエミ・セディージョにとっても覚えのある男に近い。これがまた良くない事態を巻き起こすことになる。
「っ……?!」
死んだとされているエリーヌ・バルロッツィに加え、サー・アーサーとよく似た顔をした人間まで居る。これにはノエミ・セディージョも驚きのあまり言葉を失くし、彼女の頭の中は真っ白になった。しかし彼女の脚は勝手に動く。ノエミ・セディージョは無意識的に、この部屋の中にずかずかと入りこんでいた。
加えて、ノエミ・セディージョを追いかけるように彼女の連れまでも部屋に乱入してくる。
「セディージョ。あなたって人は周りを考えずに動き回りす……――」
それはノエミ・セディージョの巻き添えを食らうかたちで召喚された男、元検視官バーニー・ヴィンソンである。呆れたように眉をひそめ、相方のノエミ・セディージョを連れ戻そうと入室してきた元検視官バーニーだが。彼は“サー・アーサーによく似た顔をした男”を見るなり、現役時代のような無表情に戻る。そして彼は本物の蝋人形のようにカチコチに固まって動かなくなってしまった。
「――か、勝手に入室されては困ります! 今すぐ、出てください!」
ラドウィグがパニックを脱し、侵入者に対してアクションを起こしたのは元検視官バーニーが静止してしまってからのこと。ずかずかと部屋に入りこんだノエミ・セディージョの肩をラドウィグが掴み、押し留めたところで時すでに遅し。侵入者たちは『ASIが隠しておきたかったもの』を既に見てしまっていた。
「これはどういうことなのかしら。説明してくださらない?」
ノエミ・セディージョはラドウィグの目をじっと見据えると、ギリリと睨み付ける。一方、相手が何者であるかを知らないラドウィグのほうはグッと息を呑むことしかできない。
――と、そこに報告を聞いて様子を伺いに来たテオ・ジョンソン部長がやってくる。そしてお呼びでない客人が二人もこの場に居る状況を見るなり、彼は表情を強張らせた。そして彼は言う。
「用件が済み次第、あなた方には速やかに日常へと戻ってもらうつもりでいたが状況が変わったようだ」
テオ・ジョンソン部長はノエミ・セディージョおよび元検視官バーニーに向けてそう告げたあと、ラドウィグに意味深な視線を送った。これはつまり、後で話があるというサインだろう。不手際を叱られることは間違いない。自分に非があることを分かっているラドウィグは無言で小さく頷き、視線の意図を理解したことを伝えた。
その後、テオ・ジョンソン部長はノエミ・セディージョを見やる。それから彼は彼女にこう告げた。
「あなたのことはよく知っている。あなたが今、何を言おうとしているのかも。だからこそ率直に言おう、何も分かっていないと。何か聞きたいことがあるのなら我々でなく金髪の猛獣を問い詰めるべきだ。我々も彼女の帰還を待っているところなのでな。――それでは失礼する」
現状を端的にバババンッと伝えたあと、テオ・ジョンソン部長は足早にその場を立ち去ろうとする。しかしノエミ・セディージョがそれを阻むように、彼の右手首をガッと掴んで引き留めた。それから彼女はテオ・ジョンソン部長に言う。
「ひとつ質問させて」
ノエミ・セディージョはそのとき、鋭い眼光をテオ・ジョンソン部長に向けていた。そのオーラは、傍に居る者たちの警戒心を必然的に吊り上げていく。一体なにを聞かれるのかと、テオ・ジョンソン部長も眉をひそめていた。が、彼女の口から出てきた質問は幸いにも深刻なものではなかった。「このオフィスにあるコーヒーメーカー、使っても構わないかしら?」
「好きに使ってくれ。本物の豆は無く、代替品のタンポポ製コーヒーしかないがな」
「リッキーから聞いた。土の味がするんですってね。まっ、試してみるのも悪くないかも」
「ああ、焦げた土が良い味を出していてマズい。あれを飲むぐらいなら、エントランスの売店で買うべきだ。パトリックはそうしていた」
本物のコーヒーよりも安価だが、コーヒーに似た味のようでそうでもなく、焦げた土の風味がすると評判の飲料。そんなわけで部内でも賛否がパッキリと別れているタンポポコーヒーの警告を発し、売店で買うことを勧めたあと、テオ・ジョンソン部長は足早に立ち去る。ノエミ・セディージョという障害よりも重大な目下のトラブルが山積みであるからだ。
ただでさえ頭痛のタネだらけであろう状況に、さらなるトラブルを増やしてしまったことをラドウィグは後悔する。後悔したところでミスが取り戻せるわけではないのだが、しかし己の不甲斐なさを恥じずにはいられなかった。緊張、困惑、苛立ち、それらに振り回されて普段の調子を見失っている。今日は集中力と冷静さがまるで無いと、改めて実感していた。
そうしてラドウィグが目を伏せて肩を落とし、再び気を緩めていたとき。ノエミ・セディージョの鋭い眼光がラドウィグを捉える。続けて、彼女は部屋の隅にいるセィダルヤードを指差しながらラドウィグを問い詰めるのだった。
「ところで、あそこの人はどなたかしら? こうして巻き込まれた以上、教えてもらわないと。それが筋ってもんじゃない?」
ラドウィグからすれば、彼女は初対面の相手。彼女の陽気で怠惰な本性を知らぬラドウィグにとっての彼女の第一印象は最悪そのものだ。キツい眼光をギラつかせて見当違いな相手を糾弾するノエミ・セディージョの姿は、鈍 らなナイフのように思えていた。昔は鋭かったのかもしれないが、今は……と。
しかし彼女とてラドウィグと同じ。困惑し苛立っていて、普段の調子を失っている者のひとりだ。亡き友人の遺言に従って出版の手筈を整えた本が原因となってASIに睨まれ、犯罪の嫌疑でも掛けられたのかと思うほどのヒドい尋問を受けさせられたのだから。そして尋問から解放されたあとに見たのが、これである。バラバラに切り刻まれて殺害されたものだと思われていた被害者が綺麗な姿でそこにいる現実と、少なからぬ因縁のある相手によく似た顔をしている見知らぬ他人がいるのだから、戸惑わずにはいられない。
そうしてノエミ・セディージョがラドウィグに八つ当たりまがいの言動をしていると、彼女の同伴者が制止を求める。それは、独身であることを必要以上に嘆く友人につい同情して、書面上だけという条件付きで結婚してやったばかりに、本来なら無関係と思われる騒動に巻き込まれる羽目になった元検視官バーニー・ヴィンソンである。
元検視官バーニーはラドウィグとノエミ・セディージョの間に割って入り、ノエミ・セディージョの肩をポンポンと軽く叩く。それから彼は彼女に、冷静になるよう促すのだった。
「セディージョ、彼を責めないであげて。さっきの人も言っていたでしょう。アレックス、彼女が来ない限り何も分からないと。尋問するなら、彼女よ。彼じゃないわ」
その言葉を聞くと、ノエミ・セディージョはラドウィグに向けていた矛を下ろす。目を伏せて額に手を当てる彼女は「ごめんなさい」と小声で謝罪すると、続けて小声でこのように小言を洩らすのだった。
「黒服の連中はロクでもないものばっかりを引き寄せてくれるんだから……」
――そんなこんなでラドウィグが狼狽えていた時。別の場所、新アルフレッド工学研究所では暗い顔をしたイザベル・クランツ高位技師官僚が彼女のデスクで頭を抱えていた。そんな彼女のオフィスを、ある所員が訪ねてくる。
「なあ、ベル。報道を――」
それはもう一人いるペルモンド・バルロッツィの秘蔵っ子であり、イザベル・クランツ高位技師官僚とは約二〇年来の付き合いになる男、レオンハルト・エルスターである。彼は何かを言いかけながらノックもせずにオフィスに立ち入るが、すぐに口を閉ざす。イザベル、彼女が声を押し殺して泣いていたことに気付いたからだ。
世間話でもするような軽いノリでこの場にやってきたレオンハルト・エルスターだったが、彼は異変に気付くなり軽いノリをすぐに消す。デスクに両肘をつき、俯きながらも顔を両手で覆い隠しているイザベル・クランツ高位技師官僚に慌てて駆け寄る彼は、彼女に声を掛けた。
「おいおい、どうした。何かあったのか?」
彼女が泣いている姿など、目撃するのは初めてのこと。彼女とは孤児院からの長い付き合いになるが、しかしレオンハルト・エルスターは一度もそのような姿を見たことがなかったのだ。少なくとも昨日までは。
子供の頃からイザベル・クランツの精神性は鋼のように強靭だった。上級生からイジメを受けても、そしてイジメを目撃しても毅然と「間違っている」と立ち向かう彼女は、裏でメソメソと泣くこともしなかったし。成人し、職に就いてもその強さは変わらなかった。理不尽な助教から執拗にイビられてもめげず、前理事長からつらく当たられても屈せず、言動が常軌を逸している恩師にどれだけ振り回されてもへこたれず、アバロセレンの核という存在の真相を知ってもなお気を持ち直し、高位技師官僚などという重荷を負わされても泣き言を洩らさなかった、あのイザベル・クランツが。しかし今、なぜか泣いているのだ。
ひとまず彼女のデスクの近くにある椅子に浅く座るレオンハルト・エルスターは、声を掛けたあとは黙り、彼女の様子を見ることにする。そうして時間がほんの少し流れた頃、イザベル・クランツが深呼吸をし、僅かに顔を上げた。それから彼女はデスクの隅に追いやられていた一冊の本を手元に寄せると、次に彼女の目の前にあったラップトップコンピュータを開く。彼女はコンピュータを操作し、ある画面を出すと、その画面がレオンハルト・エルスターの目に見えるよう彼のほうに向けた。それから彼女は僅かに震えた声で言う。「昨日、学部長からこの本を貰ったの。出版社から献本されたうちの一冊なんだって」
「へぇ。また、なぜ精神科の治療技法の本を……?」
「私に、そしてあなたにも関係のある人の本だから。それでさっきこの本を読み始めたんだけど、それと同じタイミングで、記者から変なメールが届いて。それでメールに添付されてたファイルを開いたら、この動画がっ……!」
「動画だって? 物騒なものでも送りつけられたのか?」
「そういうのじゃないの。でも、そうかも。ゴシップ誌のネット記事に明日出るっていう動画……」
「ゴシップ誌? いつお前が撮られるような――」
「私じゃない。私じゃないから、ムカつくの!!」
イザベル・クランツ高位技師官僚は悲鳴じみた声で叫ぶようにそう言った。その姿に、レオンハルト・エルスターは余計に戸惑う。彼女自身のことでないのに、なぜ涙を流してまで憤るのかと。
そうして眉を顰めるレオンハルト・エルスターが、しかしラップトップコンピュータのモニターに写された映像に目を向けたとき。彼の意見は変わり、すぐにイザベル・クランツ高位技師官僚が取り乱したわけが理解できた。そして彼もまた表情を暗くする。
再び見る映像に、またイザベル・クランツ高位技師官僚がポロポロと涙を流し出し、二人がすっかり沈鬱の波に呑まれて気落ちしていたとき。このオフィスに、また来客が現れる。それはイザベル・クランツ高位技師官僚に用があってきたものの、それよりも彼女の泣いている姿に気を取られ、怪訝そうな表情になっていた義肢装具士アーヴィング・ネイピアだった。
「何かトラブルでもあったのか?」
黒玉のように暗い瞳を細める義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、怪しむようにレオンハルト・エルスターを見ている。彼はレオンハルト・エルスターが彼女を泣かせる何かをしたのではと疑っているようだ。そこでレオンハルト・エルスターは疑いを晴らすべく、同じ動画を観るようにと義肢装具士アーヴィング・ネイピアに促した。「アーヴィング。お前も見ろよ、これ。ひっでぇぞ」
「何を観ろって?」
「若い頃の先代の動画だ」
義肢装具士アーヴィング・ネイピアも、モニターを覗き込む。そして彼はそこに映る動画を観るなり、生唾をひとつ呑んだ。見覚えのある目鼻立ちをした人物――先代こと、前所長ペルモンド・バルロッツィにそれとなく似た顔をした若者――が映っていたからだ。
映像の舞台は、とある建物のホールらしき広い空間。ハイセンスを気取ったモノトーンのアールデコ調なあしらいは、鼻持ちならない成金が好みそうな気取った雰囲気を演出していた。そして空間に居合わせる者たちは、どいつもこいつも小洒落た格好をしていやがる。それにホールの中央部に並ぶ立食式オードブルの、なんと無駄に豪華なことか! ――映像の中にある平和で気取った空間に、そうでない環境で生まれ育ったイザベル・クランツ高位技師官僚は『ムカつく!』という感想を抱いていた。映像を見返せば見返すほど、映像の中にいる人々、優雅に立食しながら語らう連中に対する憎しみがこみあげてくるのだ。
何よりも彼女がムカつくのは、この映像の本題。ホールの隅で顔を終始うつむかせている若者、つまり身体年齢十七歳当時のペルモンド・バルロッツィの身に起きた出来事だ。精神的にも身体的にもまだ若く、そのときはまだ無名で後ろ盾も無いうえに、臆病で気弱だった当時の彼にひどい仕打ちをした大人たちが憎くて堪らないうえに、この映像をイザベル・クランツ高位技師官僚に送りつけてきた記者の陰湿でサディスティックな思惑がゲスすぎて、とにかくムカつくのである。それに、ゲスな記者のゲスな思惑に見事ハマってひどく動揺している自分自身にも、彼女は腹が立っていた。
この動画を送りつけてきた記者が送りつけてきたメッセージの文面を信じるならば。この映像は四二一八年頃にマンハッタンのとあるホテルで撮影されたものらしい。舞台は宝石商が開催したレセプションパーティーで、この映像はコッソリとパーティーに侵入したフリーランスの記者が秘密裏に撮影したものだそうだ。
記者の取材目的はパーティーの主催者にまつわる黒い噂の一端を掴むことだったようなのだが、しかし記者は別のものを見つけてしまった。それが怪しい招待客たちである。
タカ派として知られる老齢の政治家と軍需企業の幹部役員の男が談笑する傍で、幹部役員の様子を窺いながら怯えた様子でうつむく若者。この異様な組み合わせに記者の嗅覚が反応し、カメラが回されたというわけらしい。そして、その後に記者がカメラで捉えたのは、若者が何かしらのドラッグを盛られて昏倒し、バウンサーによって“どこか”へと連れ去られていく様子の一部始終だった。それは不審なウェイターが画角に入り込んだところから始まる。
政治家の男のもとに、ウェイターが意味ありげに一杯だけ運んできたカクテル。政治家の男はそれを確認すると、若者に受け取るよう促した。しかし若者は何かしらの理由をつけて最初は断ったらしい。そうして若者がカクテルを受け取らずにいると、幹部役員の男が若者に何らかの脅しをかけたようだ。すると若者の顔色が蒼褪め、怯えをより強化させた彼は慌てた様子でワイングラスを手に持ってしまった。そのまま、若者は勢いに任せてそれを飲み干す。単に酔うだけでは済まないアルコールを……。
そうして自ら薬物を摂取してしまった彼だが。盛られた薬物の効果が出るよりも、自らの選択を悔いて泣き崩れ、助けてと叫び出すほうが先だった。その言動は感情が爆発した結果とも言えるが、周囲の注目を集めるための戦略でもあったのだろう。最悪の事態から身を守るために、周囲の誰かが庇ってくれることを願って賭けたのかもしれない。
大袈裟に泣きながら床に両膝をつく若者は、崩れ落ちたと同時に手からグラスを滑らせる。床に落ちたグラスは割れて砕け散り、本能的に注目する他ない異質で不快な音を立てた。そのとき、出席者たちの視線は間違いなく泣き崩れる若者に集まっていたし、その戦略は成功していたはず。だが不思議なことに、異様な様子で取り乱し、助けてと声を上げている若者に駆け寄って助けようとする者は現れなかった。会場となったホテルで働いているはずの従業員さえ、面倒ごとを疎むように動かなかったのだ。撮影者である記者も、我が身可愛さで動きはしなかった。
そのうち若者の動きが鈍くなり、呂律も回らなくなる。そうして泣いて騒ぐ声さえ上げられなくなったタイミングで、屈強な体格のバウンサーらしき男二人組が床に倒れ込んだ若者を回収しに来た。さながら仕留めた鹿を運ぶ猟師のように、会場に居た誰からも見捨てられた若者はホールから運び出されていく。――そして運ばれていく若者は、映像を撮影しているカメラを、記者の衣服に仕込まれている隠しカメラのレンズを、死んだ目で見つめていた。それから若者は撮影者の傍を通り過ぎる際、呂律の回らない口調で誰に向けるでもなく言う。
『お前、見てたはず、どうして――』
つまり。強く脅せばどうとでも転がせる臆病で気弱な若者を、幹部役員の男――元老院の一柱、通称エズラ・ホフマンである――は政治家に渡す贈り物としたわけだ。若者は交渉に差し当たって必要となった道具でしかなく、人間として扱われてもいなかった。パーティーに出席していた他の招待客たちも、薄々それを勘付いていたからこそ助けようとしなかったわけである。
「……ぅっ……!」
抵抗むなしくバウンサーに担ぎ上げられ、どこかへと連行されていく若者の姿を再度見て、またイザベル・クランツ高位技師官僚の涙腺がガタガタと緩み始めていたのだが。グラグラと揺れる彼女の心に凍てつく氷柱を落とし、地面にブスリと刺して動かなくする冷めた声が降りかかる。その声の主は、いつでも冷静で無感情な仕事人間、義肢装具士アーヴィング・ネイピアだった。「まあ、同情はする。だが結果を分かったうえで自ら飲んだのなら自業自得だ。どこに泣く要素がある?」
「本当に人の心がないのね、あなた!」
動画の中で支離滅裂ともいえる行動をしていた若者が、それまでに何を経験してきて、どのような状態にあったのか。その一端を学部長から渡された本を介して知ったイザベル・クランツ高位技師官僚は、驚くほど共感力がない男に憤るが。目に涙を湛える同僚から罵倒された男は、しかし反省はしていない様子。イザベル・クランツ高位技師官僚の怒りを軽く受け流す義肢装具士アーヴィング・ネイピアは強引に話を打ち切ると、自分が知りたいことを単刀直入にぶち込むのだった。
「ああ、そうだ、よく言われる。それで話は変わるが、イザベル。お前は何か聞いてるか? ローグの手が消えたという報道をさっき見たんだが、それについてASIから――」
「ローグの手が消えた?」
思いやりもへったくれもない冷たい言葉と共に打ち切られた話にイザベル・クランツ高位技師官僚が噛みつこうとした矢先、しかし間髪入れる隙すら与えられぬままスッとすり替わった話題。そして新たに降って湧いた話題に、イザベル・クランツ高位技師官僚は目を点にした。
そんなイザベル・クランツ高位技師官僚の横では、いつの間にか彼女から本を奪い取っていたレオンハルト・エルスターは険しい顔で本を流し読みしていた。そして彼は本を読みながら、冷血な義肢装具士アーヴィング・ネイピアと全く同じことをイザベル・クランツ高位技師官僚に訊いてきた。
「ああ、そうだ。俺もそれを聞きに来たんだ。だが今の反応で分かった。初耳って顔をしてやがるな、ベルさんよ」
レオンハルト・エルスターは言葉の最後でチラリと彼女の顔を見やる。するとイザベル・クランツ高位技師官僚は顔を逸らし、静かに立ち上がるという反応を見せた。それから彼女は小声でこう呟くと、トボトボとしたゆっくりな歩みでオフィスから出て行く。
「今は何も考えたくない。だから寝る。私は寝るわ。二時間だけ。そう、二時間だけ……」
ローグの手、ないしアルテミスと呼ばれている世界最初にして最大のSOD。それが消失したという件について、イザベル・クランツ高位技師官僚は何も知らされていなかった。そして彼女は情報を突き付けられた途端に頭がパンクして、その結果、仮眠を求めてオフィスを出て行ってしまった。――そんなわけで彼女にSODのことを訊ねに来た男二人がオフィスに取り残されることになる。
我が物顔でふんぞり返るようにフカフカの椅子に座り、本を読んでいるレオンハルト・エルスター。そして廊下に出て行ったイザベル・クランツ高位技師官僚の背中を見送ったあと、この部屋を出るべく足を動かそうとした義肢装具士アーヴィング・ネイピア。この二人の視線が、特に意味もなく合わさったとき。偶然、そのタイミングで「ジンジンジンッ!」というけたたましい音が鳴る。
音の発生源は、イザベル・クランツ高位技師官僚のデスクに備え付けられた固定電話だった。しかしイザベル・クランツ高位技師官僚はここに居ない。というわけで仕方なくレオンハルト・エルスターが立ち上がり、その受話器を取った。――そして彼が耳にしたのは、彼にとって聞き覚えのある声だった。
『あっ、クランツ高位技師官僚! もう報道を見ているかと思いますが、一応お知らせしておきたいことがあって。ローグの手が消えたっぽいんスよ。詳しいことは現在、解析班が調査中なんですがー……――って、あれ? 高位技師官僚? もしもーし、高位技師官僚ー、聞いてますかー』
チャラついた軽い喋りと、間抜けに間延びした声。これは金髪の猛獣に拉致されて以降それきり消息不明になり、今や死亡扱いになっていたはずの後輩の声である。
質量を持たない炎を扱う覚醒者でもあるその後輩は以前、この研究所ではこのように呼ばれていた。気まぐれで掴みどころのない性格と、思いのほか武芸に長けていることから『猫』と。
「おい、お前。まさか猫か?」
電話口にレオンハルト・エルスターがそう言ってみれば、通話相手は露骨な動揺を見せ、言葉に詰まるような声だけが聞こえてくる。
そしてレオンハルト・エルスターが発した『猫』という言葉から事態を察した義肢装具士アーヴィング・ネイピアは踵を返すと、レオンハルト・エルスターの傍に戻ってくる。それから義肢装具士アーヴィング・ネイピアは小声でこう言った。
「猫なら生きてるぞ。今はASIの所属で、ラドウィグと名乗っているらしい。そして現在あいつは、クランツ専属のボディーガードということになっているそうだ。なんならヤツは先週、コルトと共にここを訪ねていたが。クランツから聞いていなかったのか?」
レオンハルト・エルスターは、平然とそう語る義肢装具士アーヴィング・ネイピアを驚きに満ちた目で見やる。なぜ彼がそんなことを知っているのか、それがすぐには理解できなかったからだ。
そうしてレオンハルト・エルスターの理解が追い付くよりも前に、通話相手のほうが先に気を持ち直す。スピーカーから聞こえてくる頼りなさげな声は、レオンハルト・エルスターにこう伝えていた。
『あ、あの~。高位技師官僚に替わっていただけますか~?』
「イザベルを呼んでやってもいいが、それはまずお前の話をしてからだ。なぜ今お前はASIに――」
猫と呼ばれていた後輩、彼が生きていて何らかの任務に就いているらしいという噂は聞いていたレオンハルト・エルスターだったが、けれども『ASIに所属している』ことや『イザベル・クランツ専属のボディーガード』になっていることなどは初耳だった。
込み上げてくる戸惑いに任せて、レオンハルト・エルスターは電話口に早口で捲し立てる。だが彼の許に返ってきた声は失踪扱いになっていた後輩の声ではなく、後輩が失踪することとなった直接的な原因である金髪の猛獣アレクサンダー・コルトの怒鳴り声だった。
『急用なんだ。いいから、早くイザベル・クランツを出せ! さっさとしろ!!』
受話器に耳を当てるレオンハルト・エルスターにも、そして少し離れたところに立って彼の様子を見ていた義肢装具士アーヴィング・ネイピアにも届いた、その大きすぎる怒鳴り声。レオンハルト・エルスターは思わず受話器を顔から離し、デスクの上に置く。それから彼は頭を左右にブンブンと振って、鼓膜に受けたダメージを誤魔化したあと、オフィスの出入り口に向かった。そして彼は廊下に半歩だけ出ると、まだトボトボと廊下を歩いているところだったイザベル・クランツ高位技師官僚の背中に大声で語り掛ける。
「イザベル、戻ってこーい。ASIが、お前に用があるとよー」
声を聞いたイザベル・クランツ高位技師官僚は身を翻し、来た道を駆けて戻る。その様子を確認するとレオンハルト・エルスターは再びオフィスの中に戻り、それから訳知り顔な義肢装具士アーヴィング・ネイピアを見やった。
お前は他に何を知っているのか。そのようにレオンハルト・エルスターが彼を問い詰めようとしたとき。しかし問い質すという行動をしたのは、義肢装具士アーヴィング・ネイピアのほうが先だった。
「そういえば、お前はコルトと知り合いらしいが。どういう関係なんだ?」
先ほどの怒鳴り声を聞いて、義肢装具士アーヴィング・ネイピアはアレクサンダー・コルトという女の顔を思い出したのだろう。それと、レオンハルト・エルスターが彼女を知っていることも。
そういうわけで義肢装具士アーヴィング・ネイピアはレオンハルト・エルスターに何気なくそう訊くのだが、レオンハルト・エルスターの回答は濁すような曖昧なものだった。「彼女とは、その、ガキの頃に会ってるんだ。二度ほど」
「二度も、ASI局員と? どんなガキだったんだ、お前は」
「俺が何かをしたわけじゃない、妙な事案に巻き込まれたことがあっただけさ。二回もな」
男二人がそのような会話をしている間に、このオフィスの主であるイザベル・クランツ高位技師官僚が戻ってくる。彼女はデスクの上に置かれた受話器を大慌てで取ると、すぐに応答した。そして十数秒後に通話は終わり、彼女は受話器を固定電話機へと戻す。それから彼女は顔を上げると、お互いを不信がるように見ている男二人組にこう言った。
「えーと……まあ、どっちでもいいわ。とにかく、誰かジェンキンスにこう伝えておいて。連邦捜査局から捜査官が来るから、その出迎えをしてほしいと。そして私は寝る、今度こそ寝るわ」
イザベル・クランツ高位技師官僚から雑用係ジェンキンスへの伝言を言付かった男二人組は、どちらも同じタイミングで首を縦に振り、頷いてみせた。その後すぐに義肢装具士アーヴィング・ネイピアはオフィスを去る――彼は忘れないうちに伝言の用事を済ませようと、雑用係の許に向かっていたのだ。
一方、その場に留まることを選んだレオンハルト・エルスターは、先ほどまで義肢装具士アーヴィング・ネイピアに向けていた訝しむ目をイザベル・クランツ高位技師官僚にも向けていた。そして彼は何かを勘繰ろうとするように、イザベル・クランツ高位技師官僚に言う。「へぇ。猫ちゃんじゃなく、連邦捜査局からか。誰が来るんだかな」
「エドガルド・ベッツィーニっていう捜査官だって聞いたわ。たしか彼は、ジェンキンスの同窓生よね?」
しかし。眠気と疲労に襲われ、注意力散漫になっていたイザベル・クランツ高位技師官僚は、レオンハルト・エルスターの遠回しな言葉の意図を汲めなかった。代わりに彼女が注目するのは、このオフィスに来たときからずっと彼が脇腹に抱えているフォルダーである。
「ところで、あなたが持っているそれは何? 私に提出する予定だったのなら、今ここで受け取っておくけど」
イザベル・クランツ高位技師官僚はそう言うが、しかしレオンハルト・エルスターは提出を拒むように半歩下がる。それから彼は何か隠し事でもあるかのような苦し紛れの笑顔を取り繕ってみせた。
「いや、こいつは……――何でもないさ、気にするな」
どんなに鈍い人間でも気付きそうなほど、あからさまに怪しいレオンハルト・エルスターの様子。無論、注意力散漫になっていたイザベル・クランツ高位技師官僚も気が付いていた。
彼女は怪しげな部下、そして盟友である男を呼び止めようとするが、彼はそれを察してか足早に立ち去っていく。不吉な気配だけが残る空間に、イザベル・クランツ高位技師官僚だけが残されていた。
*
サクラメントでは孫のアーちゃんが頭を掻きむしりながら画廊中を走り回り、キャンベラではテオ・ジョンソン部長が彼自身のデスクに八つ当たりをしていた頃。最初にして最大のSOD“ローグの手”ないし“アルテミス”が消滅したとの一報を耳にし、急遽ボストンに跳んだ白髪の死神アルバと助手アストレアの二人組は、彼らの目の前にある世界に驚愕していた。
あらゆる建造物も、道路の舗装も、何もない。丸裸にされた乾いた土がむき出しになっていて、まばらに雑草が生えているだけの景色が一面に広がっている。川の水さえも干上がっているうえに、それどころか侵食によって形成されていた地形さえも無くなり、平面だけがある世界――。
「噂通りだね。ボストンってとこ、まるで何もない更地だよ」
無味乾燥なんてもんじゃない。空と地が分かたれているのみで、他には何も、本当に何もない世界。それを呆然と見渡すアストレアは、同伴者に向けてそう言う。――が、その直後に彼女はあるものを見つけた。
「いや、前言撤回。棄てられた死体だけがあるね」
彼女が見つけたのは、ひっくり返った姿で捨てられた巨漢の死体。まだ腐敗が進行していないその死体には、しかし肉食獣にでも食い荒らされたかのような形跡が残っていた。食いちぎられた皮膚からは黄色い脂肪の層が地面へと洩れ出ている。
いささかふくよかすぎる人間の脂肪はあまりにもクサすぎて、スカヴェンジャーたちの口に合わなかったのだろうか。アストレアはそう考えながら辺りを見渡すのだが、と同時に彼女は気付いた。死体には食い荒らされた形跡があるのに、しかし食い荒らしたであろう獣たちの姿が見えないことに。
そして彼女がそのことに気付いたと同時に、彼女の傍に立つアルバが溜息を吐く。それから彼はこう呟いた。
「SODも消えたが、SODから落ちてきた怪物どもも消えているな。これは一体……」
アストレアが何もない世界に驚いていた一方で、アルバはこの更地の上空にたしかにあったはずのものが消えていることの驚いていた。報道で目にしたことは事実で、ボストン上空にあったはずの世界最初のSODが消えていたのだ。
渦潮が立てる螺旋状の白波のような軌跡を描きながら、けれども呑み込まれるのではなく外界へと放出されていく蒼白い光。その背景に空いていた、平面状の黒い大穴。ボストンの地表にあるすべてを呑み込みつくした後は方針を変え、異形の生物を飽きることなく吐き出し続けていたその穴が今、吐き出したはずの異形たちと共に消えていた。
あらゆる営みを喰らい付くし、そしてアルバと名を改めた男の全てを歪めてきた憎き事象。それが、あたかも初めから存在していなかったかのように綺麗さっぱり消失していたのだ。あまりにも無残な傷痕だけを残して……――。
「……」
何もない大地で呆然と佇む二人の横を、乾いた風だけが通り抜けていく。完璧に言葉を失くした様子で黙りこくるアルバの顔を、その傍らに立つアストレアは見上げつつ背筋を正す。なんとなくだが、アストレアは嫌な気配を察知したのだ。何かとんでもないものが起こりそうな予感、そんなものである。
そして彼女の予感は、少し当たった。アストレアが背筋を正したあと、思いのほか冷たい風にブルリと肩を震わせたときだ。彼女の視界の隅を黒い何かが過る。その黒い何かが大柄の鳥のような姿かたちをしていること、すなわちワタリガラスであることにアストレアが気付いたとき、そのワタリガラスはアルバの傾斜がキツい撫で肩の上に留まった。それからワタリガラスは汚い声で鳴いたあと、嗄れた声で人語を喋り始めた。
『ケケーッ!俺 ちんの眷属、輝かしきシリウ――』
ワタリガラスの汚い声を耳にした途端、アルバは我に返る。肩に降り立ったワタリガラスの首を彼は握り潰すかのように引っ掴むと、テーブルにパン生地を叩きつけるような動作でワタリガラスを地面に放り投げようとした。
――が、ワタリガラスは首を掴まれた直後にその姿を大気に散らし、淡い蒼の光を大気に霧散させてその輪郭を消す。次の瞬間、ワタリガラスはアルバの顔前に現れた。
忙しなく翼をバタバタと動かすワタリガラスは、ついでに右翼側の風切羽の先でアルバの顔面をバシバシと叩き、それから高く飛び上がると今度はアルバの頭の上に降り立つ。そして上からアルバの顔を覗き込むワタリガラスは、わざとらしく首を素早く左右にカクカクと動かしながらアルバに喚き散らした。『お前ェサン、それが主 たる神にとる態度だってのかェ?!』
「貴様はただの疫病神だ、それに主従関係など結んだ覚えはない」
ギャーギャーとやかましく喚き散らすワタリガラスの言葉を、アルバはそのようにバッサリと切り捨てる。そして彼は頭上に居るワタリガラスを手で追い払い、それから乱された髪を手櫛で軽く直すのだった。
そんなこんなで露骨に機嫌が悪そうなアルバのその言動は、久しぶりにアストレアの掌を湿らせる。というのも彼女はたった今、サー・アーサーと呼ばれていた頃の彼の面影を見てしまったのだ。
とはいえ。幸いにもこの時、アルバの怒りの矛先はアストレアに向いておらず、あくまでも人語を扱うワタリガラスにのみ向けられていた。そして彼女は、そのワタリガラスが発したある言葉を聞いて、少し前にマダム・モーガンから聞いた話を思い出す。
マダム・モーガン曰く。アバロセレンというものは、とある神の骨髄のようなものらしい。その神は、全てを捻じ曲げる力を持っているそうだ。その力によって、あらゆる不可能を可能に書き換えることができるらしい。そしてアバロセレンとは、その神の骨髄を『可視化』させた際に誕生したものなのだ、と……。
それから、あのとき。マダム・モーガンは付け加えるように、こうも言っていた。
――力を根こそぎ奪い取られて、無力なただのカラスになった神は、怒り狂うどころか大いに喜んだ。これで自分が望んだ世界が作れる、って。そしてカラスが望んだ世界を創るために、使者として選ばれたのが、今のアーサーなのよ。死んだ体の中にアバロセレンの核を埋め込まれて、否応なしに甦らされて……。
そして今、アストレアの前に居るのは人語を扱う奇妙なカラス。そのカラスは今、かつてサー・アーサーと呼ばれていた男にウザ絡みを仕掛けている。そこでアストレアは気付いたのだ。マダム・モーガンが言っていた神とは、つまり今ここに居るワタリガラスのことなのではないか、と。
「もしかして、このカラスが……マダムの言ってた、アバロセレンをつくった神様?」
アルバの頭上から地面へと降り立ったワタリガラスを見下ろしつつ、アストレアはそのような疑問を誰ともなく呟く。すると、それを聞いたワタリガラスは地表でピョンピョンと小さく飛び跳ね始めた。
ワタリガラスは飛び跳ねながら、アストレアの顔を見て、次にアルバの顔を見るという動作を数度交互に繰り返す。最後にワタリガラスはアルバにロックオンすると、彼に捲し立てるのだった。
『なんでェィ、なんでェィ。俺ちんのことを、この小娘に伝えとらんかったんかェ?!』
やかましく騒ぎ、ピョンピョンピョンピョンと飽きもせずに跳ね続けるワタリガラスに、導火線の短いアルバはすぐに苛立ちを露わにする。彼はうるさいワタリガラスを蹴って追いやろうとした。けれどもワタリガラスの動きは機敏である。ワタリガラスは華麗にヒョイと跳び上がって、アルバの繰り出した蹴りを避けた。
そうしてひとまず苛立ちに一区切りをつけたアルバは、最後に呼吸を整えると、態度をガラリと切り替える。戸惑いも苛立ちもかなぐり捨て、彼は心境をリセットした。その後、サー・アーサーと呼ばれていた頃のような仏頂面に変わるアルバはやかましいワタリガラスを見下ろすと、そのカラスに向かってこう言った。「それで、キミア。用件はなんだ?」
『おぅおぅ。実はヨ、この消えちまったSODについてだィ。お前ェサンとモーガンの耳に入れておきたい情報があるんでェィ』
真面目な話題に転換された途端、やかましく飛び跳ね続けていたワタリガラス――アバロセレンの生みの親、予定調和を否定する者である昏神キミア――の動きが静かになる。大人しく地表に佇み、飛び跳ねることをやめたワタリガラスは、再度アルバのほうに向き直った。それからワタリガラスは一際大きく声を張り上げると、嗄れた汚い声でガーガーと喋り始める。
『忽然と消えたSOD! しかーッし、安心しておくんなまし。お前ェサンもモーガンも、そして人の子らも、これに関与してねぇのヨ。ケケッ! つまりお前ェサンらでない別の勢力が動いたのサ』
「まさか、元老どもか?」
『いンや。そうじゃァねぇから面白いのサね』
話題に食いついたアルバに、ワタリガラスはそう返すと、続けてワタリガラスは片足を高く振り上げ、その爪で地面をガリッと抉る。その際に鳴った音は、さながら張り扇で釈台を叩く講談師のようだった。そしてワタリガラスは言葉を続ける。
『遂にアバロセレンそのものが意思を獲得し、生物となったのサ。俺ちんの手からも離れ、制御不能になったのヨ! 猟犬が肥料を撒き、モーガンちんとお前ェサンが懇切丁寧に世話して育て上げたァ、最上級の怪物だィ。ありゃァヨ、怨念がたぁ~っぷりと詰まったドス黒い邪悪の果実さね。お前ェサンの狂気さえも凌駕する邪悪っぷりにゃァヨ、俺ちんもおったまげたゼ! ケケーッ!!』
アバロセレンが意思を獲得し、遂に生物のようなものになった。――その話を聞くなり、アストレアはアルバの顔を見上げる。しかしアルバは呆然と地表に立つカラスを見下ろすのみ。嫌味のひとつも言わず、怪訝な表情さえも見せない彼の様子に、アストレアは久しぶりに『肝が冷える』という現象を味わっていた。世界最初のSODが消失しただけではない、それ以上のとんでもない事態が裏側で動いていて、それはもはや誰の手にもどうすることもない域に差し掛かっているのだということを、彼女も直感で理解したのだ。
だが。アバロセレンが意思を獲得したと言われたところで、アストレアにはピンとくるものがない。最上級の怪物、邪悪な果実と言われても、どの程度の邪悪さなのかなど見当もつかなかった。それにワタリガラスはたった今、アバロセレンの意思について『アルバの狂気さえもゆうに凌駕する』と言っていたが、それは分かるようでイマイチ分からない比較なのだ。
アバロセレンの意思とは一体、どのような程度の邪悪なのか。アストレアがそんなことを考え始めたとき、彼女らの足許では再びワタリガラスがピョンピョンと二回飛び跳ねる。それからワタリガラスはこんなことを言った。
『おぅっと、ウワサをすりゃなんとやらだァ。モーガンちんのお出ましだィ』
その言葉の直後、ワタリガラスの言葉通りの人物が何もない更地に出現する。アルバのすぐ背後にゆらりと黒煙がどこからともなく立ち昇り、やがてそれが人のかたちを成して、濃色のサングラスで目元を隠したマダム・モーガンがその姿を見せたのだ。
「アルバ!! あの取り決めを忘れたとは言わせないわ。一体、何のつもりであんなことを……」
出現したマダム・モーガンは、彼女の目の前に立つアルバの背中に金切り声での攻撃を浴びせながら、彼の肩を乱暴に鷲掴んで彼女のほうに彼の体を向かせた。
最初こそ怒りに満ちていたマダム・モーガンであったが、しかし呆然自失といった様子のアルバを見るなり彼女は冷水でも浴びたように静かになる――アルバの感じていた動揺が、彼女にもダイレクトに伝染したのだ。
そして追い打ちを掛けるように、ワタリガラスはアルバを激しく動揺させた情報をマダム・モーガンにも与えるのだった。
『聞けィ、モーガン。SODを消したのはアバロセレンの意思なのヨ。アバロセレンが自ら、SODを消すことを望んだのサ。そしてアバロセレンが自ら望み、お前ェさんらが『曙の女王』とかと呼んじょるあのホムンクルスちゃんを氷の中から解き放ったンさね。アバロセレンは自由意志を獲得した。それは今、ホムンクルスちゃんっつー身体を乗っ取って行動してるっつーわけだ。アルバっちょんは無関係なのヨ』
アルバはその情報を受け取った際に動揺し、言葉を失くすといった反応を見せていた一方。マダム・モーガンは怒り、否定するというアクションを見せる。サングラスの下に隠れた目を険しく細める彼女は、意気揚々と語るワタリガラスに食って掛かるのだった。「キミア。どうせ、あんたが仕組んだことなんでしょう? なぜならアバロセレンは――」
『アバロセレンは遂に俺ちんの手を離れたのヨ。アバロセレンはかつて俺ちんの一部だったが、それは完全に俺ちんとは異なる別の存在になったのサ。そして俺ちんの役目は終わった。俺ちんは気楽な傍観者に戻るだけなのヨ』
「そんな軽率な真似、私が許さない。アバロセレンを生み出したものとして、その責任を」
『お前ェサンらとて、出しちまったクソに体内に戻れなんぞと命じることはできまいヨ。消えろと念じ、それを叶えることも無理な話だィ。つまりそういうことサ。ケケッ!』
再び熱くなったマダム・モーガンが苛烈に責め立てる一方で、一連の事態その全ての元凶であるワタリガラスの態度は飄々としたものだった。他人事とでも言いたげなワタリガラスの言葉は、マダム・モーガンの怒りを余計に駆り立てる。だが、その彼女の怒りに水を差し、結果として鎮火してしまう声が割り込んできた。
「あのSODを消したのがアバロセレンの意思なら、あのSODを生み出したのは何者だ? アバロセレンか、それとも私か?」
声の主は、すっかり意気消沈した様子のアルバだった。マダム・モーガンの怒りを軽やかにピョンピョンと躱してみせるワタリガラスを虚ろな顔で見下ろすアルバは、そのワタリガラスに問う。そしてワタリガラスはこのように断言した。
『お前ェサンに決まってるだろうがィ。あんなぶっ飛んだ怪奇現象、思いつくのはお前ェサンぐらいだろゥに。アバロセレンはあくまで、お前ェサンの気味悪い空想妄想を受け取って、それを現実に落とし込んだだけだィ』
「そうか。なら私は、正当な糾弾を受けていただけなのか……」
そう小声で呟くと、アルバは再び天を仰ぎ見て、それから溜息を吐く。アルバはこのとき、全てを知りながらも今まで黙っていたワタリガラスに静かな怒りを覚えたと同時に、久しぶりに己の体を流れる蒼い血を気味悪く感じていた。
また、このときマダム・モーガンは驚きから硬直していた。ワタリガラスが重要すぎる事実を隠していたことにも、その内容にも彼女は大きく動揺していたのだ。
そうして年長者たちが立て続けに混乱の渦へと沈没していく中、冷静さを維持して踏みとどまっていたのがアストレアである。この事態に何かしら手が打てると元より期待していなかった彼女は、明かされた秘密に驚きこそしていたものの心を打ち砕かれるほどではなかった。そこでアストレアは機転を利かせる。彼女はこの空気をガラッと換気する言葉を探し、それを発した。
「アバロセレンが意思を獲得して、好き放題にやり始めたっていうことなら。つまり僕たちがここに来たところで何も出来ることない、ってことだよね。ジジィにも、マダムにも、そこの神様にも何もできない。――じゃあ帰ろうよ、ジジィ。それに、腹減ったし。こんな店もなんも無いところ、さっさと引き上げようよ」
すっとぼけた顔でアストレアがそう言えば、アルバの視線は彼女の顔――から僅かに横へと逸れた場所――に移る。精力も体力も尽きたというようなヒドい顔色になっていたアルバは、切り替えの早いアストレアを見て、こう呟いた。「……お前と居ると調子が狂う」
「そりゃそうだよ、狂わせるのを楽しんでんだもん」
アストレアはニタリと人が悪そうな笑みを浮かべながらそのようなことを言うと、アルバの左腕に彼女の腕を回して、がっちりホールドする。それからアストレアは空いている手でマダム・モーガンに手を振り……――そしてアルバとアストレアの二人は消えていった。
何もない更地に残されたのは、マダム・モーガンとワタリガラスだけとなる。
「……」
動揺、憎悪、苛立ち、気落ち、等々。激しい感情がグチャグチャに入り乱れ、その処理に困り果てていたマダム・モーガンが黙りこくり、眉間に皴を寄せていたとき。彼女の足許で、やかましいワタリガラスが再びピョンピョンと飛び跳ねる。
『それから、モーガン。もうひとつ悪い知らせがあンのヨ』
ワタリガラスの言葉に、マダム・モーガンは生唾を呑む。と同時に、これ以上のトラブルはもう勘弁してくれと心の中で悲鳴を上げていた。だが、ワタリガラスはマダム・モーガンの心情など気にも留めず、消えたSODやアバロセレンの意思とはまた別件のトラブルを明かすのだった。
『カリスのねぐらから、猟犬が逃げたぜ。まァだカリスは気付いてないようだがなァ。ホムンクルスちゃんが連れ出したのサ。どこに現れるか、俺ちんにも分からねぇ。ジェド公なら分かるかもしれねェがァ……――マッ、気を付けンのヨ。ケケッ』
ワタリガラスはそれを言うと、無情にも飛び去っていく。眉間に寄った皴をより濃く刻むマダム・モーガンはガックリと肩を落とした後、ひとつ深呼吸をして気を持ち直す。それから彼女はプリペイド携帯を羽織っていたジャケットの裏ポケットから素早く取り出すと、ASI長官サラ・コリンズの番号を素早く入力して呼び出し、相手が応答するなりすぐさま早口に最新情報を流すのだった。
「コリンズ、聞きなさい。事態が急転した。曙の女王と並行して猟犬を、つまりジョン・ドーを探しなさい。彼も失踪した。恐らく、曙の女王が彼を連れ出したと思われる。この情報はアルストグラン全土に回し、市民にも警戒を呼び掛けて。誰も、あの子に関わらせては駄目よ。コヨーテは当面、大人しくしているはず。だから最優先事項を曙の女王もとい猟犬に設定して。分かった?」
自分の言いたいことだけを一方的に伝えたあと、マダム・モーガンは相手の返答を待たずに一方的に通話を打ち切り、肩を落とす。それから溜息を零し、額に手を当てる彼女だが――……彼女はこのとき、何も気付いていなかった。
「――あぁっ、クソ。次から次へと、何なのよ! あの疫病神さえいなければ……!!」
辺り一帯の地表。何もないと思われていた更地が僅かにカサカサと揺れている。だが、それはまだ体感では感知することもままならない僅かな揺れだった。しかし地中深くでは動きがある。
消えた上空のSODは、次なる不穏をこの地に遺していたのだ。
+ + +
時代は少し遡り、西暦四二四四年の一月のこと。過去の大半を思い出してから四年が経過していたアーサーは、諦めからくる境遇の受容および怒りから来る境遇の否定、その狭間でグラグラと揺れる日々を過ごしていた。
そんなこんなで当時、彼の日課になっていたのが射撃訓練。特務機関WACEの新拠点内に設けられた射撃場でひとり延々と拳銃を撃ちまくり、そして物を投擲すること、それが起床後の儀式のようになっていた。
射撃場の天井からぶら下がる標的。それには全てペルモンド・バルロッツィの顔を貼ってある。至る所に貼りだされたペルモンド・バルロッツィの顔、これらにできるだけ多く穴を空けることが毎朝のこなすべきミッションだ。
マダム・モーガン、および大男ケイから習ったようにアーサーは拳銃を構え、照準を標的の頭に合わせ、狙いを定めて引き金を引く。発砲音が鳴り、弾は射出されるが、しかしいつも狙いは当たらなかった。距離感が掴めない、故に正しい狙いがつけられていないためだ。いくら連射しようと、狙いを定めたはずの標的にはなぜか当たらない。
そして装填した弾が尽きたタイミングでアーサーは拳銃を下ろし、代わりにテニスボールと同じ大きさの柔らかいゴムボールに武器を持ち替える。ゴムボールを標的に向かって投げたあと、それを念動力とやらで操作し、標的をタコ殴りにしようとするのだが……――これもうまくいかなかった。
標的の遥か手前、または後ろの空間をゴムボールはポヨンポヨンと浮遊するだけ。ペルモンド・バルロッツィの顔をタコ殴りにしたいのに、ゴムボールは標的に掠りもしない。念動力で物を浮かし、自由に動かすコツは掴めてきているのに、しかし脳が距離感を掴めないせいで全く能力が活かされないのだ。
毎朝、こんなことの繰り返し。上達しているようでしていない現状に、アーサーはいつも通りに苛立ちを爆発させるのだった。
「……あぁッ、畜生。なぜ当たらない。なぜ私はこうも……クソッ!!」
猟犬の襲撃により、医務官ジャスパー・ルウェリンと整備工ジャック・チェンがあっけなく散った、あの日。あの日にマダム・モーガンはそれまで使用していた拠点を捨てる決断を下し、次なる拠点を新たに作った。次なる拠点の場所はボタニー湾に面した遺棄された工業港。その一角に『出入口』が設けられ、新たな拠点は地下に建築された。
……いや、建築という言葉は正しくない。正確には『異次元の中に新たに作られた生活空間が、ボタニー湾の一角に接続された』である。それに新たな拠点となった空間は、一般的な建造物のように数か月から数年の時間を経て作られたわけではない。マダム・モーガンが一瞬で、手を叩いた拍子にパンッと生まれたものなのだから。それを建築と譬えるのはおこがましいことなのだろう。
そんなこんなで新たに設けられた拠点は、その時々のニーズに応じて柔軟に拡張されている。土地の制約という概念がないため、思うがままに横へ縦へと空間を広げられるのだ。
広々とした会議室、圧迫感の無いアイランド型キッチンを備えた調理場と食堂、それと隊員たちに各自与えられた狭い居住スペース、狭く窮屈なシャワールームといった基礎的なものは勿論。必要な道具が一式揃ったトレーニングルーム、前の拠点から丸々移転させた薬品庫やワクチン貯蔵庫に武器庫、アイリーンの求めるもの全てが完璧に揃ったコンピュータルーム、十二脚のデスクが配備されたオフィスに似た空間など。射撃場の他にも、バラエティー豊かな部屋が新たな拠点にも揃っていた。
だが広く新しい拠点を闊歩するのは主に三人だけ。すっかり無口になった大男ケイ、チビでビビリなアイリーン、それと痩せで神経質なアーサーのみ。マダム・モーガンは数日に一度ぐらいしか拠点へと戻ってこないため、新拠点はほとんどの時間を静寂に包まれていた。――朝六時からの三十分、アーサーの日課が行われる時間帯を除いて。
「ねぇ、アーサー!! アーサー!!」
そのような怒号を発したのは、コンコンコンと扉を三回ほどノックしたにも関わらず、一向にアーサーが自分に注意を向けてくれないことに痺れを切らしたアイリーン・フィールドだった。
大きな声量の金切り声には、流石のアーサーも注意を向けざるを得ない。アーサーは溜息と共に意識を背後に立つアイリーンに向ける。――と、その瞬間。それまで宙を浮遊していたゴムボールは床にポトンッと落ち、少しだけポンポンと弾んだあと、コロコロと床を転がり、壁にぶつかって止まった。
アイリーンは転がった後に静止した黄色のゴムボールを目で見ながら、不機嫌そうに細い腕を組み合わせる。そうして華奢で細身な体のシルエットをより一層細くするアイリーンは次にアーサーを睨み付けると、怒りに満ちた声色でこのように釘を刺してきた。「お願いだから、それ、やるなら昼間にして。発砲する音で毎朝起きたくないの」
「分かった。明日からは昼にする」
そう返事をするアーサーだが、その声はドライさを極めていた。アイリーンの指摘を話半分で受け流しているような気配しか漂っていない。そんなアーサーの態度にアイリーンは眉をひそめるも、アイリーン以上に不機嫌を極めていたこの時のアーサーは反省する気配も見せなかった。
アーサーの態度は、大人げないとしか言いようがない。そのことは本人が一番理解していた。だからこそアーサーはこれ以上の大人げない言動を人前でしないために、アイリーンの前から消えるという選択をする。アイリーンに八つ当たりをしたくなる衝動を堪える彼は、冷めた仏頂面を決め込んで射撃場を後にする。この時の彼には、後片付けをしようと考える心理的余裕さえもなかった。
そしてアイリーンは、不機嫌そうな穏やかならざるオーラを放ちながら横を通り過ぎていくアーサーを黙って見送る。
「……」
四年もの間、これがずっと続いている。アーサーは常に不機嫌でイライラしているが、かといって誰かに八つ当たりをするわけでもなく。彼が周囲にする嫌がらせといえば精々、朝早くからの射撃練習ぐらい。他の場面において彼はその場に不穏な空気をもたらすのみで、強いて言うならばそれ以外のことは一切していなかった。
彼は個人的な話を誰にも何も語ろうとはしないし、他愛もない世間話すらしようとしない。事務的な問答や必要最低限の挨拶を除き、自ら誰かに話しかけることもなかったし、話しかけられたとしても彼は一言二言を返すだけ。愛想という概念は彼からすっかり消え失せていた。
また、彼の動作はとても静かで最近は気配さえ感じない。そんな彼の姿は、人を遠ざけているようであり、誰からも気付かれぬように息を潜めてさえいるようにアイリーンには見えていた。アーサー、彼は声を失くした大男ケイ以上に静かになっていたのだ――射撃場にいる時のみを除いて。
そのように、とにもかくにも気味が悪い男と成り果てたアーサーであるが。アイリーンが一番問題だと感じていたのは、彼が何を考えているのかは他の誰にも分からないことだった。
医務官ジャスパーや整備工ジャック・チェンが目の前で殺害されたこと、それが少なからずアーサーに影響を及ぼしているだろうことは容易に予想できるのだが……――それ以外の何か要因がありそうな気も、アイリーンにはしていたのだ。けれども、何も話そうとしないアーサーから答えを引き出せる日は来ないだろう。
アーサーは長期にわたって、一人で何かを抱え込んでいる。それが分かっているのに、できることは何もない。アイリーンはそれをもどかしく思うと同時に、恐ろしいとも感じていた。アーサーの能力がいつか鬱積した不満によって爆発し、自分たちがその被害に巻き込まれるのではないかと。
「……私に、ルウェリンみたいな器量があれば……」
不機嫌なアーサーを見るたびに不安ばかりを感じる。そんな日が今日もまた始まった。そう思えば思うほどメランコリックになっていくアイリーンが組んでいた腕を解き、肩を落としたとき。ドスドスという重たい足音が彼女に近付いていたことに気付く。アイリーンが振り返ってみれば、そこには想像した通りの人物が立っていた。
「あっ。おはよ、ケイ。あなたもあの音で起きたの?」
聳える巨壁のような大男、ケイことケネス・フォスター。彼もまた朝早くからの騒音を聞きつけ、射撃場へと訪れていたのだ。
アイリーンの言葉に、大男ケイは首を横に振って否定するという反応を見せる。次に彼は持ち歩いている電子パッドを取り出すと、そこにスタイラスペンで文章をザザザッと素早く書いていった。
『いや、既に起きていた』
大男ケイがアイリーンに見せた電子パッドの黒い液晶面には、青緑色の軌跡でそのような文言が書かれていた。そうして文言の意味を理解し、アイリーンが大男ケイの顔を見上げたとき。大男ケイは電子パッドの液晶面を自分の側に向けると、電子パッドの側面に用意されていたボタンをポチっと押す。すると液晶面に書かれていた文字は消え、液晶は真っ黒な状態にリセットされた――コレステリック液晶に微弱な電流が流れたことにより、スタイラスペンで押し潰されていた部分が元の形状を取り戻したのだ。
まっさらになった液晶面に大男ケイは再び文字を書く。次にアイリーンが液晶面を見た時には、このような文言が書かれていた。
『ボストン、すっかり感じが悪くなったな。ヘラヘラ笑っていた頃のあいつが懐かしい』
「そうだね。私もそう思う。以前の彼に戻ってほしい」
アイリーンがそう返事をしたあと、額に手を当てて憂いを深めていく。以前の彼とはつまり生前のアーサーのことだが、それが叶いそうもない望みであると分かっていたからだ。
そうしてアイリーンが肩を落とすと、大男ケイがその大きな手でアイリーンの肩をトントンと叩く。一瞬、それを励ましか慰めであると感じたアイリーンであったが……その行動は単に注意を引くためだけのものだったようだ。
『朝飯は出来ている。食うか?』
額に当てていた手を下ろし、再びアイリーンが大男ケイを見やったとき。彼がアイリーンに見せていた電子パッドに書かれていたのはその文言。
アーサーに同情もしていなければ好感も抱いていない大男ケイからすれば、アーサーのことなどどうでもよく、感じていることといえば『不機嫌そうにしているアーサーがムカつく』ということぐらい。故にアーサーに何かをしようという発想もない大男ケイの態度は、実に冷めたものだった。
「うん、食べる。今日は何かな~」
アイリーンは上辺だけの空元気を取り繕って、笑顔でそう言うが。その内心は荒れていて、且つ緊張から縮み上がっていた。というのも彼女はこのとき、改めて感じていたのだ。医務官ジャスパーと整備工ジャック・チェンが消えたことによる損失、それがあまりにも大きすぎたことを。
医務官ジャスパーが提供していた、あらゆる面でのサポート。整備工ジャック・チェンが担っていた、緩衝材という役割。この二人の代わりを今後はアイリーンがひとりで果たさなければならないのだという重圧が、彼女の小さな肝を極限まで冷やしていた。
――そして翌年、四二四五年の六月。マダム・モーガンは突然、このようなことを三名しかいない部下たちに告げた。
「私は暫くの間、北米のほうに出向することになった。いつアルストグランのほうに戻ってこられるかは分からない。それで、その間のことなんだけど……――アルストグランのことをあなたたちに任せたいと考えている。アイリーンとケイは今まで通りに、そして私の代わりとして特務機関WACEの顔役をアーサーに任せたいんだけど、どうかしら?」
円卓が中央に置かれたミーティングルーム。以前の小さな部屋とは異なり、開放感ある広々とした空間となっていたその部屋に集められていた三名の部下は、それぞれ異なる反応を見せていた。
最年長である大男ケイは、今後を憂うような冷たい目を彼の左隣に座るアーサーに向けていた。彼は重要な役を押し付けられたアーサーの境遇に同情……していたわけではなく、アーサーが何かをやらかして自分たちがその尻拭いに追われる、もしくはアーサーが撒き散らした被害に自分たちが巻き込まれるかもしれない未来を憂いていたのだ。
次に、大男ケイの右隣に座り、肩を竦めているアイリーン。彼女はマダム・モーガンが発した『今まで通り』という言葉に震えていた。というのも、その言葉が意味していたのは負担増であったからだ。ジャスパー亡き後、アイリーンは暇人アーサーの手を時に借りながら、辛うじて業務を回していた状態にあった。にも関わらず、今後はアーサーの手を借りられなくなると宣告されたのだから、彼女は気が気でないというわけなのだ。
最後に、シャキッとしない姿勢で頬杖をついていたアーサー。今までは“ただ、ここに居るだけの暇人”という立場に置かれていた彼は、やっとそれらしい役割を得られそうだということに安堵していた反面、顔役という言葉に引っ掛かりを覚えていた。
顔役ということは、つまり外部と関わる役を担うということ。そしてこの数年間でアーサーは自分の置かれている境遇が如何に悪いものであるかを思い知っていた。
生前の彼は、差別主義を地で行く極右政治家の息子であり、人道に悖 実験の隠匿に関与した悪人であり、アバロセレン発電所で何らかの悪事を働いて街ひとつを吹っ飛ばしたテロリストということにされている。事実はさておき、世間ではそういうことになっているのだ。そしてマダム・モーガンは、その世間にアーサーが出なければならないと言っている。
それについて、アーサーはこう思っていた。自分としては別に構わないしどうでもいい事柄ではあるのだが、自分という存在が人前に出ることによって、誤解と悪意と偏見に満ちた『世間様』が大混乱に陥るのではないのか、と。
そうしてアーサーが懸念から眉をひそめていると、その彼の様子を見たマダム・モーガンがドッと肩を落とす。それから彼女は不本意であるという思いを乗せながら、不満タラタラの声でこう言うのだった。
「というより、これは決定事項。残念だけど私にはこの決定を覆せない。なので、あなたには今日から『サー・アーサー』として働いてもらう」
サー・アーサー。その言葉が帯びる不快な響きに、アーサーは顔をしかめた。そして彼は咄嗟に、思ったことをそのまま口にしてしまった。「……サーは必要ないのでは? 私はそのような器では」
「私も同じ意見よ、アーサー。けれども、どうしてかキミアが……つまり、上のヤツがこだわったのよ。サー・アーサーでないとダメだ、と」
マダム・モーガンはそのように、アーサーの言葉をバッサリと切り捨てる。賛意が得られたことにホッとするアーサーだが、同時に彼は不思議とほんの少しだけ心がチクリと痛むのを感じていた。
だが、事実である。アーサーという男に、サーなどという権威をにおわせるような敬称は不釣り合いだ。アーサーという人間は、しょっちゅうドア枠に頭をぶつけ、段差との距離感を見誤って転倒することを繰り返し、挙句にサンドバッグを顔面で受け止めるようなどんくさい男なのだから。サー・アーサーなどという威厳に溢れた名前など、彼には見合わない。だが、彼は今後その名を名乗らなければならないらしい。
改めて実感する自身の不甲斐なさに、アーサーは頭を抱える。――と、そのとき、誰かが円卓の天板をコンコンッと指で叩いた。それは大男ケイだった。
『このポンコツに代わりが務まると本気で思っているのか?』
机を軽く叩いて自身に注目を集めたあと、大男ケイは自分の意見を書きなぐった電子パッドの液晶面をマダム・モーガンに見せる。その液晶面に書かれていたのは、そのような文面だった。
その文面を読むなりマダム・モーガンは溜息を零し、全身を使って呆れを表現する。それから彼女は『二度も同じことを言わせるな』という不満を滲ませつつ、大男ケイに向けてこう言った。
「だから、言ったでしょう。アーサーに任せたいのは『顔役』だと。実務はあなたとアイリーンで回して。アーサーは伝令役をすればいいだけ。怖い顔をして、威圧的な振る舞いをしながら言伝と書簡を届けて回ればいいだけよ。私もそれ以上のことをアーサーに求めていないから。――それに、なにか困ったことが起きた場合は私に連絡をしてくれればいい。そうしたら私が駆けつけて解決してあげる。ほら、なんとかなりそうでしょう?」
なんとかなりそうでしょう。マダム・モーガンが発したその言葉だけが虚しく空間に響いていく。彼女に賛同する者はこの場に誰もおらず、部下たちは一様に顔を俯かせるだけだった。返事をする者は誰もなく、心に痛い沈黙が場に居座り、沈黙は各々をプスプスと小さく刺していく。
すると、居心地の悪い空気に耐えられなかったのだろう。居た堪れなくなったアイリーンがワッと立ち上がる。彼女は動揺から足をガクガクと震わせながらマダム・モーガンを真っ直ぐ見つめると、不安でグラグラと揺らぐ声で言った。
「マム。わっ、わ、私は不安です!! 二人だけでどうにかって、そんな……」
二人だけ。それはつまり、アーサーは頭数に入れられていないということ。アイリーンが発したその言葉に「そりゃそうだ、自分は戦力外だろうな」とアーサーは納得する一方で、気に入らないとも感じていた。蚊帳の外に追いやられているような、僅かに腹立たしい気分がしていたのだ。
とはいえ。元より特務機関WACEとやらに何ら関心も抱いていなかったアーサーには、何もかもがどうでも良いと感じている側面もある。マダム・モーガンが居なくなろうが、アイリーンがてんやわんやの多忙になろうが、それによって世界の命運がどう転ぼうが、アーサーからすればどうでもいいことでしかない。
諦めと怒りと虚無。それらがグチャグチャに入り乱れる頭の中で交錯する“音なき声たち”を聴きながら、アーサーは頬杖をついていた手を膝の上に下ろし、前のめりに崩れていた姿勢を正す。彼は人ならざる蒼白い光が宿る目を、似ているようで正反対な鏡像であるマダム・モーガンに向けながら、彼女とアイリーンの会話を聞きつつ、議題とは全く関連の無い別のことを考えていた。
「アイリーン、大丈夫。私はオペレーションの回し方をあなたに教えてきた。そしてあなたは今まで、それなりに上手く立ち回れてきた。だから大丈夫よ」
「でも、私、ジャスパーみたいにできないです。コンピュータのことは分かるけど、でも……」
「そう、あなたはコンピュータが分かる。そしてコンピュータは多くのことを可能にする。今は人工知能も進歩しているんだし、あなたはコンピュータに適切な指示を送ればいいだけ。それから、大局を見て、パズルを繋ぎとめている鍵がどこにある何なのかを見極めること。それはあなたの得意分野でしょう?」
「でも、私はまだ未熟で……!」
「すぐ自分を卑下するのはあなたの悪いクセよ、アイリーン。もう少し自信を持ちなさい。あなたは十分に有能なんだから」
アーサーが思い出していたのは約四年ほど前のこと。猟犬との邂逅、そして血みどろの惨劇のあと、生前の記憶を取り戻したアーサーは“特務機関WACE”という檻から密かに脱獄したことがあった。
何もかもを思い出し、居ても立っても居られなくなった彼が向かった先は、彼にとっての故郷であるハリファックス、それもブレナン家の目の前。感覚的にコツを掴み始めていた空間転移能力というヤツを一か八かで試したのだ。
長距離を移動する大規模な空間転移は、まともなレッスンをまだ一度も受けていないにも関わらず初回で偶然にも成功した。だが、転移の成功を喜ぶ余裕など当時の彼には無かった。彼は他のことで頭がいっぱいいっぱいになっていたのだから――ドロレスとローマンに伝えなければならないことがある、と。
喜ぶ余裕も無ければ、後先のことを考える余裕もなかったアーサーは、震える手でブレナン家の門戸を叩いた。そのとき彼を出迎えたのは、疲れ切った顔に驚きを浮かべながら、彼の見知らぬ成猫を愛おしげに抱くベック。四〇代も半ばに差し掛かり、落ち着いた淑女に成り変わっていた彼女は『亡霊』を恐る恐る出迎えると、拍子抜けした声でローマンの名を呼んだ。
その後にアーサーが見たのは、痩せこけて覇気をなくした老齢の男、即ちローマンの姿。ドロレスの姿は見られず、アーサーが理由を問えばベックがこのように答えた。あなたが死んだ十六日後に亡くなった、と。
ベック曰く、ドロレスの死因は睡眠薬の過剰摂取だったようだ。つまり、自殺である。遺書や書き置きはなく、ドロレスがそのような終わりを選んだ理由は不明。だが推測はできるとベックは言った。
――ボストンが消滅した、あの日。彼女は多くのものを失った。彼女の息子であるあなたは死んで、彼女の孫であるあなたの子供たちは行方知れずになった。ボストンに居た知り合いも、たぶんあの日にボストンと一緒に消えたでしょう。寂しさとか、空虚さとか、迫り来るものがあったんでしょう。
――でも一番の理由は、報道だと思う。あなたがボストンを吹き飛ばしたって、テレビも新聞もラジオも言ってたんですもの。もしくは、他でもないあなたが理由だとも言える。
責め立てるような目をベックから向けられたとき、アーサーは知った。マダム・モーガンが外出を許可しなかった、その本当の理由を。
アーサーは世界の敵になっていたのだ。彼はボストンを吹き飛ばしたテロリストで、罪のない市民を消し去った虐殺者。真相はさておき、彼は世間でそういう扱いをされていたし、そのような報道がなされていた。そしてドロレスはその報道を信じ、彼女自身を責め、取り返しのつかない決断を下した。そのうえベックは、真相はさておきドロレスを追い詰める原因となった友人の存在を憎んでいた……。
それはまさにアーサーにとってアウェーとしか言いようがない世界だ。そんな世界に、何も事情を知らないアーサーを放り出すような無責任な真似など、マダム・モーガンにはできなかったのだ。
だが愚かなアーサーは判断を誤って暴挙に出た。その末、まだ知るべきでなかった現実を知った。そうして失意に沈んだ彼が最後に縋ったのは、叔父のローマンだった。
――テレーザとレニーは、生きている。あの子たちは、あの日、ペルモンドに預けた。きっと彼の傍にいるはずだ。だから、どうか、あの子たちのことを……!!
床に膝をつき、みっともなく涙を零しながら、アーサーはローマンにそう懇願した。つらく当たり、ひどいことをしたり、敬遠していた時期さえもあったが、それでも見捨てずにいてくれたローマンに、恥を忍んで頼み込んだのだ。
その後、アーサーは居た堪れなくなってその場から姿を消した。突然目の前に現れたかと思ったら突然消えたアーサーのことを、ベックとローマンの二人はきっと亡霊か幻覚だと思ったのだろう。以降、彼らはアーサーの行方を辿るようなことはしなかったが……しかしローマンは別の存在の行方を捜してくれていた。彼が捜したのは彼の孫たち、つまりテレーザとレーニンの行方だ。
幸い、彼は孫たちの行方――アルストグラン連邦共和国、サールミアという閑静でのどかな田舎町に建造された児童養護施設にて、テレーザとレーニンの姉弟は養育されていた――を突き止められたようだ。そしてローマンはアルストグラン連邦共和国に移住する計画を立て、孫たちを引き取りたいと施設の運営者に直談判。運営側――バルロッツィ財団の理事長であり、テレーザとレーニンの姉弟の後見人でもあるセシリア・ケイヒル――はローマンの申し出を歓迎し、縁組の手続きを進めようとした。
だが、結局のところ孫たちがローマンと共に生活する日は訪れなかった。アルストグラン連邦共和国に来訪したローマンが孫たちの入所する施設を訪ねて、数年ぶりの再会を喜んだあと。その晩、彼は宿泊先のホテルに戻る道中で強盗に遭い、死んだ。道端に落ちていたレンガで頭を殴られ、殺されたのだ。
ローマンはバルロッツィ財団によって丁重に葬られ、ハリファックスの墓地に、ドロレスの隣に埋葬されたらしい。そして孫たちは理解も追い付かぬまま後見人セシリア・ケイヒルと共に飛行機に搭乗し、殺害された祖父の葬式に列席したそうだ。テレーザは終始泣きじゃくり、レーニンは状況を理解できず硬直し続けていたという。
その後、アーサーの子供たちは正真正銘の天涯孤独となり、憎きペルモンド・バルロッツィの名を冠する財団の下で正式に養育される身となって、成長した。現在、姉のテレーザは二十三歳、弟のレーニンのほうは十七歳。テレーザはなんたら工学の博士課程に進んだらしく、レーニンも姉と同じ道を歩むべく努力しているそうだ。しかし趣味のクロスワードに没頭しながらも好成績を余裕でキープし、幾つかの教科は飛び級でパスしていた優秀なテレーザと違い、少し不真面目で至って平凡なレーニンは得意科目の数学を除き、それ以外の教科は成績が振るわず、苦悩しているとか、なんとか(どうやらテレーザには父親譲りの記憶力という呪いが宿ってしまったらしい。一方でレーニンにはその呪いが受け継がれなかったようだ)。
そして姉弟の生活に関してだが、学費や医療費も含め、ほぼ全てをペルモンド・バルロッツィが個人的に負担しているそうだ(そんなこんなで生前にアーサーが妻と共にせっせこ拵 えていた『子供たちのための預貯金や投資信託』は手つかずのまま。たぶん口座たちは子供たちから存在を忘れ去られているか、認知さえもされていないのだろう)。さらにテレーザは養護施設退所後も彼から継続的な支援を受けているらしい。彼が口利きをしたおかげで、テレーザはオートロック付きでセキュリティも万全な女子寮に入居でき、安心安全なキャンパスライフを送れている模様。未だ施設で生活している弟レーニンのほうも、現在は姉と別々の生活をしているということもあり少しの心細さはあるようだが、非行に走ることもグレることもなく、平々凡々な男の子として成長しているようだ。
とはいえ。亡き父親がテロリストとされていることから姉弟は理不尽な非難や誹りを受けることも屡々 あり、精神的な苦痛は少なからずあるようだ。後見人であるセシリア・ケイヒルが精神面でのサポートを提供してくれているようだが、十分であるかは定かでない。
特に、記憶力の優れているテレーザは良いことも悪いことも克明に覚えているはず。悪い記憶が濃く印象付けられ、父親と同じように悪い方向に転ばなければいいのだが、と父親であるアーサーは懸念しているわけだが。その父親は今、遠巻きから見守ることしかできない身だ。我が子に触れることも、助言を与えることも、目の前に姿を現すことさえもできない。
出来ることと言えば、遠く離れた場所に立ち、双眼鏡で我が子の様子を見ることだけ。そして見せつけられる光景はいつも腹立たしさを呼び起こす。
「……でも、私、すぐパニック起こしちゃうし。マダムみたいな、頼りになるような人材じゃないことは分かってるんです。それなのに、私が……!」
レーニンの宿題の面倒を看ていたのは施設の職員であり、後見人のセシリアであり、ペルモンドだった。
進路に悩むテレーザに助言を与えていたのも、施設の職員であり、セシリアであって、ペルモンドでもあった。
学校で同級生から理不尽な誹りを受けたものの、即座に言い返せなかった悔しさと歯がゆさから荒れていたレーニンを宥め、話を聞いてやっていたのはペルモンドだった。
テレーザの成人祝いに、彼女と同い年のヴィンテージワインを送っていたのは、ペルモンドだった。
そしてペルモンドの邸宅には、彼のお上品に振舞う美しい娘エリーヌが居て、同じ邸宅の異なる生活スペースにはセシリアも居る。ペルモンドとセシリアの間には、友人以上家族未満で仕事上のパートナーであるというワケの分からない関係が構築されていて、さらに娘のエリーヌはセシリアのことをまるで母のように慕っていた。父親であるペルモンドが失踪し、大怪我を負った状態で発見されるだなんて騒動が度々起こることを除いては、歪ながらも穏やかな家庭がそこにある。
そしてペルモンドは、テレーザにもレーニンにも父親ヅラで接している。彼の財団が運営する養護施設にいる他の子供たちも、その大半が彼に懐いているようだが。とはいえテレーザとレーニンは格別だ。あの子たちは他の子供たちよりも一段上の寵愛を受けていたのは明白。あの子たちは、ペルモンドの娘エリーヌが暮らす邸宅にこそ居なかったが、とはいえペルモンドからの扱いはエリーヌと同等だった。
「あぁ~、アイリーン、泣かないの。大丈夫よ、どうにかなる。今よりもっとヒドい状況も過去にあった。それでもどうにかなって、今がある。だからそんなに気負わなくても大丈夫よ」
あの子たちを頼むとか、なんとか、そんなことをペルモンドに言って、子供たちを彼に託したのは、たぶん他でもないアーサー本人だ。その決断は正しかったと理性では彼も分かっている。ペルモンドはアーサーと違って、財力もあって権力もある。子供たちを確実に護り通せる能力があるのはペルモンドのほうで、あのときのアーサーの判断は間違っていなかった。しかし。反面、死後に蘇った彼は後悔していた。我が子を盗まれた、そんな気分がして堪らないのだ。
最近ではすっかりサマになっているペルモンドの父親ヅラ。それがアーサーにとって憎くもあり、羨ましくもある。あの場に相応しいのはヤツでなく自分であるはずなのに、と怒る声がアーサーの中にずっとあるのだ。
二〇代の時分には、壁に頭を打ち付けたり、バスタブに自ら溺れたり、オーバードーズを繰り返したり、高所から飛び降りたり等々、人の手を煩わせては世を騒がせてきたペルモンドだが。四〇も過ぎた今は、別人かのように落ち着きを払った“父親”になりきっている。常日ごろ何かに怯えてガクガクと震えていた時代もあったペルモンドが、今や震えることなくどっしりと構えた大人になっている。今のペルモンドの姿は保護者のそれで、情緒不安定な若者だった頃とはまるきり別人になっており、肩書に見合うだけの人間に成長したかのように見えていた。
だが、あの男は人殺しだ。それも一人二人を手に掛けたなんて程度ではない。あれは別人格であって、ペルモンドとは違うとも言えるかもしれないが、だが同一人物であることに変わりはない。
そんな危険人物が今、我が子を手なずけている。その現実をアーサーは認めたくなかったのだ。
「それに、今日明日にも居なくなるってわけじゃあないから。それまでの期間、私があなたたちを鍛え上げる。特にアーサー、あなたを重点的に」
マダム・モーガンから名前を呼ばれ、アーサーは我に返る。憎きペルモンド・バルロッツィの顔を思い出して気分が悪くなっていたアーサーは、その最悪の気分のままマダム・モーガンを睨み付けてしまった。
彼は別にマダム・モーガンを睨み付けたわけではない。それどころか彼女にそのような視線を無意識に向けてしまったことを即座に後悔し、気まずさからすぐ顔を逸らしたほどだ。しかし、あまりにも険しいものだった目つきは誤解を招く。
睨まれたと勘違いをして、より一層気分を悪くしたマダム・モーガンはアーサーを逆に睨み返した。それから彼女は、己の立場をまるで理解していなさそうな愚かなアーサーに釘を刺すのだった。
「あなたには『サー・アーサー』の肩書に見合う貫録と振る舞いを身に着けてもらう。あなたが望んでいないとしても、私はやるわ」
あぁ、これは確実に誤解されている。――アーサーはすぐにそれを理解した。かといって彼に打てる手は限られている。
ペルモンドの顔を思い出して嫌な気分になっていたと馬鹿正直に弁明することも出来たが、それはそれで「話を何も聞いていなかったのか!」と新たな怒りを招きかねないだろう。しかし、ここで黙りこくって何も言わないという選択をすれば、今後の指導とやらに何かしらの悪影響が出るかもしれないうえに、大男ケイから余計に見下される可能性もある。
まあ、最悪の場合、大男ケイから嫌われても構わない。だがマダム・モーガンの怒りを買い、彼女から目の敵にされる展開は避けたいところ。となれば、一対一で深く話す環境を整えることが最善だろう。
「……」
そうして考えを巡らせたアーサーは、ある賭けに出ることにした。
彼はマダム・モーガンの言葉に返事をせず無言を貫くと、不機嫌さを装いながら椅子から立ち上がり、そのまま『不機嫌なオーラ』という餌を撒きながらミーティングルームを立ち去る。そして餌にかかったマダム・モーガンは、彼が狙った通りの行動を起こした。
「アーサー、待ちなさい! あぁっ、もう、あの意固地は……!!」
現在の状況と己の立場を分かっていない愚かなアーサーが我儘な行動を起こした、と考えたマダム・モーガンは彼の後を追って部屋を出る。馬鹿なアーサーを説得して丸め込んでやると意気込むマダム・モーガンだったが、彼女は廊下の突き当たりで意味ありげに彼女を待ち構えていたアーサーの姿を見るなり真顔になった。
アーサーの不機嫌そうな演技につられて、まんまと彼の垂らした釣り糸に掛かってしまった。――そのことを察したマダム・モーガンは同時に、吹き上がりかけていた怒りがサッと引いていく気配も感じていた。ただ、その怒りの引き方は決して気持ちが良いものではない。唐突に真正面から冷水をぶちまけられ、ビショビショにされたときの不愉快さに似たものがあった。
してやられた。そう感じたマダム・モーガンは悔しさをにおわせるように腕を固く組みながら、壁にもたれ掛かるように立つアーサーに歩み寄る。そうして彼女が彼の目の間に到着した時、アーサーはマダム・モーガンの様子を伺うように見やりながら、小声で彼女に言った。「邪魔者を抜きにして話がしたかった。――それで、あなたが本当に言いたいことは?」
「はぁ……随分とデカい口を叩くようになったじゃないの、アーサー」
一番経験の浅い新参者でありながらも、上長たちを邪魔者呼ばわりするアーサーの態度に、マダム・モーガンは呆れを示す。固く組んでいた腕を解く彼女は、装着していたサングラスを上にずらして頭の上に載せると、次にアーサーの肩を右手の指先で軽く小突いた。
だがアーサーの目を見る彼女の瞳に怒りや苛立ちは無い。ひとまず誤解は解けたようだとアーサーが安堵したとき、マダム・モーガンは唇をへの字に歪めた。それから片眉を吊り上げる彼女はアーサーに品定めをするような目を向けつつ、このように語った。
「知っての通り、アイリーンは機械に強いし、賢い子で、ある特定の事象が持つ法則性を見つけ出す能力は歴代の中でもピカイチではあるけれど。彼女はとにかく繊細で他人が苦手、そしてアガリ症。彼女は頭の回転が速すぎるからこそ空回りするから、人前では活躍できない。あの子は裏方で真価を発揮するタイプね。そしてケイは声を奪われたこともあって、コミュニケーションのスピードが遅くなった。それに彼は武闘派で、暴れまわることにしか興味がなく、そもそも渉外向きのタイプではないわ。機動力や状況を見極める目はぶっちぎりに優れているけれど、彼は気が短いから交渉なんて無理。あれはテーブルを蜂の巣にしかねない男よ」
「……」
「だから私はあなたに託すしかないのよ、アーサー。あなたは良くも悪くも嘘が得意で、演技も達者。そして今のように咄嗟の機転を利かせることができるし、他人への期待値が絶望的に低いからこその辛抱強さもある。それにあなたは、ワガママでクソッたれなエゴの塊どもをウンザリするほど見てきたでしょう?」
「ああ、確かに。右も左も、ウンザリするほど見てきた。だが、過大評価なのでは?」
「ええ、過大評価してる。それに一番経験の浅いあなたに屋台骨を任せることに不安がないわけじゃない。でも、適性があるのはあなたしかいないのよ」
「……」
「交渉の場において身長はとても大事な要素で、外見も同じぐらい重要。その点、ハイランダーの血を継ぐあなたはタッパもある。容姿のほうも、目付きが悪すぎることと撫で肩が過ぎることを除けば及第点。つまり条件を満たしている。そしてあなたは、温厚な姿と威圧的な姿を使い分けられる。暖かさと冷たさで相手を混乱させることは得意よね? それから、酒場で育ったこともあって口も達者で頭の回転も速い。人目を集める術も、懐にさり気なく入り込むテクニックも持っている。その気になれば他人を転がすことなんて、あなたにとっては造作もないことでしょう? 俗世に巣食う病巣は勿論のこと、アイリーンのことも、ケイのことも。その手で操縦し、動かせるようになりなさい。……あなたならできると信じているから」
少し前には「サーなどという敬称はお前に相応しくない」と暗に言っていたマダム・モーガンが、今は一転、アーサーを褒めちぎるような言葉をこれでもかと並べ立てている。この態度の変りように、アーサーの警戒心が煽り立てられた。
それに、マダム・モーガンの発言内容は先ほどのものとは大きく異なっている。大男ケイらの前では「アーサーに任せるのは顔役だけ、通常の業務は二人で回せ」と言っていた彼女だが、今、彼女はアーサーに「全てをコントロールしろ」と命じていた。そしておそらく、今の発言こそ彼女の考えに近いものなのだろう。
「……」
役目の無い暇人の身分もじきに終わり、間もなく気を揉む日々がやってくる。――それを実感したアーサーは目を伏せると、マダム・モーガンから顔を逸らす。数年前、薄暗い部屋で覚醒したばかりの頃が懐かしいと、彼はそう感じていた。
自分自身が何者なのかも分からず、自分に何が出来るのかさえも分からず、空っぽの状態で過ごしていた数週間。あのときのドジで間抜けな姿こそが、素のアーサー自身だったのだろう。願わくば、あの頃に戻りたい。だがそれは叶わぬことだ。
「明後日。まずはASI長官、バーソロミュー・ブラッドフォードにあなたを紹介する。彼はリチャード・エローラの知人でもあるし、生前のあなたのことを少しは知っている。その昔、リチャード・エローラが彼にあなたのことをベラベラと喋っていたからね。超人的な記憶力を持つ興味深い男の子、として。そういうわけだから、あなたに悪い印象しか抱いていない赤の他人と対するよりは幾分かやりやすいはずよ。彼のほうも、あなたに興味があるみたいだし。気まずい思いはしなくて済むはず」
アーサーにとって覚えのある名前が、マダム・モーガンの口から飛び出してくる。それと同時に古い記憶がいくつか紐解かれ、彼の気分を後悔のドブ沼に突き落とした。
リチャード・エローラ。彼はアーサーにとっての恩人で、ローマンとライアンに次ぐ第三の父親のような存在だった。
まだアーサーが幼かった頃、実の父親に代わって定期的に理容室に連れて行ってくれていたのも彼だった。子供の知的好奇心を巧みにくすぐる『面白い話』をアーサーにいつもしてくれていたの、彼だった。アーサーが精神疾患に片足を突っ込みかけたとき、食い止めるためのサポートをしてくれたのも彼だった。
その彼は、及び彼の妻リアムは、アーサーの異母兄ジョナサンに殺された。四二三二年の冬、ジョナサンは実父が家を留守にしている間を狙って自宅アパートに放火し、それから焼身自殺を図ったのだ。
理不尽なジョナサンが放った火と煙に呑まれ、多くの住人が犠牲となった。犠牲者の中には、血縁の無い書面上だけの母エリザベス・エルトルや、隣人であったエローラ夫妻も含まれていた。
そしてエローラ夫妻が養育していた孫娘、彼らの一人娘ブリジットの遺した遺児エリーヌは、偶々その日にアーサーが預かっていたために無事だった。いつまで経ってもエリーヌを迎えに来ないエローラ夫妻を不思議に思っていた矢先、知人であるセシリア・ケイヒルから知らされた一報に受けた衝撃と後悔は、今でも胸に残っている。父親の思惑に乗り、エルトル家の家督となる道を自分が選んでさえいれば、あのような事態は起こらなかったのではないかと考えると……――
「とにかく、まずはそこから始めましょう。本格的に、私の仕事をあなたに教えていくわ」
そんなこんなで、アーサーは物思いに耽っていたばかりにまたもマダム・モーガンの話をろくすっぽ聞いていなかった。はたと彼が我に返ったのは「本格的に」と彼女が言ったタイミング。それ以前の言葉は話半分で聞き流していたのだ。
やっちまった、という後悔が顔に出そうになったとき。アーサーは様子を伺うようにマダム・モーガンを見たのだが、そのときの彼女はどことなく暗い顔をしていた。彼女がした提案に、彼女自身が一番乗り気でない様子である。
彼女のその様子を見て、アーサーの直感が囁いた。今までの話は表面的なものでしかなく、彼女はアーサーに対して他に重要な事実を隠していそうだし、そこに本懐が眠っていそうだぞ、と。
途端にアーサーは強気になった。話をまともに聞いていなかったことへの後悔は消え、彼女を追及しておかねばという意識が強まる。そして彼は敢えて、マダム・モーガンに失礼極まりない態度を取るのだった。「他にも、私に何か言うことがあるのでは?」
「あなた、まさかこの私に頭を下げろとでも言っているの?」
「違う。この決定についてだ。不服なのでは?」
誤解されかねないほど偉ぶった態度で相手を理不尽に威圧してから、下手に出て具体的な内容を訊ねてみれば、落差に振り回されたマダム・モーガンはあっという間に陥落する。尊大なのか、そうでないのかが判別できないアーサーの態度に呆れ返る彼女は、その呆れを込めた溜息と共に、嘘偽りのない本心を吐き出すのだった。「はぁ……勿論、受け入れがたいと思っている。元老院の狙いはあなたの自由を奪い、あわよくば隷属させることだから」
「私を隷属させる? 馬鹿げた考えだ」
「ええ、実に馬鹿げてる。あなたは、あの父親に屈しなかった荒馬ですもの。あなたが元老院の手中に落ちる未来なんて私にも考えられないわ。逆に連中のケツを蹴り飛ばすあなたの姿がありありと想像できる」
そう言ったあとマダム・モーガンは、壁にもたれ掛かるように立つアーサーの隣に並ぶ。それから彼女は壁に背中を預けるとズズズ……と下がり、その場に座り込んだ。それから彼女は顔を俯かせると、彼女らしくない細い声でアーサーに言う。
「あなたには今まで通り『あなた』として自律してもらいたい。組織の枠に縛られず、自由に考え、動いてほしい。あなたに備わっている直観と恐れ知らずの大胆さ、もとい向こう見ずゆえの突破力は、今の特務機関WACEに必要とされているものだと私は感じているから」
「……」
「その上で、あなたにはペルモンドの操縦をしてもらいたいと考えている。正しい獲物を見定められずにいる鷹に、正しい方向を示す鷹匠の役をしてほしいのよ。かつてあなたが彼を巧みに操っていたように、もう一度」
「私は、あの男を操ってなど――」
「嫌よね。それは分かる。私だって、彼と向き合うとき、いつも心中は複雑。私もあなたと同じで、彼を憎んでもいるから。なんてったって、私の死因は他でもない彼だし。でも。それでも、他でもない私たちがやるしかないのよ。分かって頂戴な」
アーサーを諭すようなことを言うマダム・モーガンだが、けれども彼女は一度も彼と目を合わせない。彼女は彼の目を見ることができなかったのだろう。どれほど困難な要求をアーサーにぶつけているのか、その酷烈さを彼女は理解していたからだ。
アーサー、及びシスルウッドと呼ばれていた男。彼について、マダム・モーガンはこのように評価していた――察しの良い宰領役。彼は演技が得意であるうえに、「狂いが生じたものを立て直す」という才に恵まれていた。
立て直しの対象は人であり、状況でもある。苦境に立たされ続けていた書面上の母エリザベス・エルトルを、隣人リアム・エローラという救済に繋げたのは彼であるし。その場しのぎを繰り返し、まともな生活および人生を送るつもりなどなかった荒んだペルモンドに人間らしい自我と生活スタイルを叩き込んだのは、他でもない彼である。友人デリック・ガーランドを借金苦から救い出したのも彼と、彼が叩きなおしたペルモンドだ。
それら天分と、稟性の気品と眼光。それらを併せ持つ彼は偉大な俳優になれたであろう器であり、今なら有能な指揮官というポストだって演じられるはず。……マダム・モーガンはそう考えていた一方、彼に生まれつき備わる暗黒面を警戒してもいた。
彼は、健全な肉体も精神も持っていない。彼は虚弱というわけではないが、消化器官は貧弱であり、並みの男より体力も劣る。大男ケイのような肉体労働はできない。加えて彼はアイリーン以上に根暗でマイナス思考であり、楽観的な視点というものが常に抜け落ちている。適切な助言者が傍にいなければ極端なネガティブ路線に突っ走りかねない危うさもあるうえ、表面上はそれが分からないという厄介さも併発していた。
そして今、アーサーは多くのことを知っている。ペルモンドの背景にある事情を知らなかった若い日と同じように、今、ペルモンドと関われというのは無理があるだろう。更に、アーサーは多くのものを失ったが、その一方でペルモンドはアーサーが失ったものを持っているという現状がある。劣等感や憎しみが誘発され、アーサーが道を誤る危険性も無いわけではない。
だが、代役が他にいない。アーサーに任せるしかない状況なのだ。
「……私は、いずれあなたをここに迎え入れることになるだろうと覚悟していた。でもそれはケイのように、あなたが人生の大部分を楽しんでからにするつもりだったのよ。あなたの子供たちが独立して家庭を築いて、そしてあなたが生産的な生活からリタイアして、老後に差し掛かろうとするタイミングで、と。それなのに、こんなことになった。あなたには申し訳ないと思っているわ」
「そういう言葉が聞きたいわけでは……」
一切顔を上げずに言葉を言い終えたマダム・モーガンの姿に、アーサーは覚悟していたもの以上の重圧を覚えた。そして彼女が謝罪めいた言葉を発したのもまた、アーサーの貧弱な胃を攻撃する。キリキリと痛み始めた内臓の訴えから意識を逸らし、アーサーはやっとの思いで最も訊きたい事柄を質問するのだった。
「元老院という存在についてだ。あなたの知っていることを教えてほしい。キャロライン、エリカ、そして私やあなた、ペルモンド、及び他の者たちの人生を不当に奪ってきた忌々しき連中のことを、私は知りたい」
言葉を声に出してしまえば、自然と心は切り替わる。アーサーはマダム・モーガンに対して覚えていた気まずさをスッと捨て、痛みを訴える胃に「黙れ」と念じた。それから堂々とした態度を纏うアーサーはマダム・モーガンを見下ろす。すると彼女は顔をようやく上げた。
そうして彼女が口を開き、何かを言おうとする。だが、その発言を妨害する者が彼らの前に現れた。
『そいつァ特別に俺ちんから教えてやろう。ケケッ!』
廊下を滑空して渡り、マダム・モーガンの足許に着地した黒い影。それは汚い声でガーガーと喚き、卑しくケケッと嗤う珍妙なワタリガラスだった。
初めて見るカラスに、理解の追い付かぬアーサーは顔をしかめるだけ。さらに彼はこのように考えてもいた。聞こえてきた声は疲労による幻聴に違いない、と。しかし、その声は不幸なことに幻聴ではなかった。
マダム・モーガンは落ち着きなく翼をパタパタとはためかせるカラスを指差し、ウンザリとした心境を載せた重たい溜息を零す。それから彼女はアーサーに向けて、カラスを紹介するのだった。
「このカラスは、その……――私、そしてあなたが仕えることになる神。と同時に全ての元凶。アバロセレンをつくりだしたクソカラス。キミアという存在よ」
神。マダム・モーガンの口から飛び出してきた突拍子もないワードに、アーサーはますます表情を険しくさせていく。一瞬、それが何の話だか理解ができなかったアーサーだが、戸惑いを覚えた後に彼はハッと気付いた。彼自身が生き返った死者であり、ここは霊魂やら何やらが当たり前のように語られている世界。カラスの姿をした人語を扱う神ぐらい居そうだな、と彼には思えたのだ。
しかし。神と聞いてアーサーが思い浮かべるのは、一神教の経典においてテトラグマラトンを介して語られる存在。人を奴隷とし、理不尽な理由から街を亡ぼしたりもする横暴な神格、それがアーサーの中に植え付けられていた“神”の姿だ。
ぴょこぴょこと間抜けに飛び跳ねて忙しなく動き続けるカラスは、アーサーの思う神の姿から乖離している。いまいち畏怖の念を抱けぬ“神”を疑うように見下ろすアーサーがやっとの思いで絞り出した返事は、これだった。「こいつが元老院の正体か?」
「いいえ、違う。キミアは『サー・アーサーじゃないと駄目だ』とゴネた張本人で、この特務機関WACEの創設者のような存在だけれど、こいつは元老院ではないわ。キミアは元老院より格が下、それでも私たちよりは遥かに格上の存在だけれど。しかし――いえ、これ以上はやめておきましょう」
含みがあるようなマダム・モーガンの台詞。それは更なる疑問をアーサーにもたらした。だがアーサーにも分かったことがある。それはマダム・モーガンが、この神なるカラスに畏敬の念をこれっぽちも抱いていないという点だ。それどころか疎まし気に扱っているようにさえ思える。
上位の存在でありながら、エラい存在というわけではなさそうな神なるカラス。経典の中で語られる神を憎んで育ったアーサーは、畏れ多い存在とは言い難い憎めぬカラスを無言で睨み続けていると、カラスの視線がアーサーの方に向く。と、途端にカラスの動きはピタリと止まった。そしてカラスはアーサーに焦点を合わせると、長々と話し始める。
『俺ちんが、モーガンもといお前ェサンを眷属として生き返らせた理由。それは元老院と呼ばれちょる連中を消すためなのヨ。だがヨ、俺ちんも、ちぃ~とばっかし面倒な立場に居るンでィ。自由に行動できるわけじゃァねェのサ。そしてそれは俺ちんの眷属であるお前ェサンらも同じ。そこで俺ちんはお前ェサンらに“地上に蔓延る怨霊のお掃除”という役目を――』
「私が訊いているのは、元老院という存在について。貴様のことや我々に関する事柄は今、訊いていない」
カラスが長々と話し出そうとした事柄は、しかしアーサーが求めていたものとは軸がズレていた。そこで、死後にせっかちという気質を得てしまったアーサーは途中でカラスの話を遮るという行動に出る。するとアーサーのこの行動にカラスは機嫌を悪くした。
カラスは再び、地団駄を踏むかのようにぴょんぴょんと飛び跳ね始める。そしてカラスは尾羽をプリプリと振りながら、奇声を織り交ぜつつアーサーに捲し立てた。
『なんでィ、なんでィ! 話の腰を折りやがってィ! ちったぁヨ、空気を読めェィ! キェェェェェァッ!! そうかェ、お前ェサンがそういう態度を取るってンならヨ、俺ちんはなーんも話さねェかンな、ケケッ! オサラバだィ!!』
普段はマダム・モーガンから接待を受けている甘やかされたカラスは、気配りも配慮も何もしなければ礼節も弁えぬような無愛想で無礼な男の言動にカチンと来た模様。怒り心頭のカラスは地団駄を踏んで叫びまわったあと、不機嫌そうに飛び去り、そのままどこかへと消え去っていった。
そうしてカラスが去った後、マダム・モーガンはその背中を目で追いつつ小さく笑う。その後、彼女は表情を硬くすると次にアーサーを見て、それから彼女は小声で言った。
「元老院についてだけれど……私に話せることはあまりないのよ。私も、その実態を全く知らないから。彼らは人外であり、彼ら自身のことを万物の創造主だと自称しており、判明している限りでは十二柱で構成されているということぐらいしか分からない。その本体がどこにあるかなんて探りようもない。私たちは綴じられた宇宙のその中に居るちっぽけな存在で、キミアはその外側から内側にある世界へと干渉する存在だけれど、そのキミアでさえも元老院の在り処は知らないと言っているほどだから」
以前、医務官ジャスパーも「よく分からない」と述べていた、元老院という存在。それはマダム・モーガンにとっても同じらしく、彼女から得られた答えも曖昧なものだった。そして今の彼女には嘘や誤魔化しを織り交ぜている雰囲気はない。おそらく、実態を全く知らないという言葉は本当なのだろう。
「連中は『クソッたれ』揃いよ。連中の行動は理解に苦しむものばかり。だから、覚悟しておきなさい。あなたがこれから見ることになるのは、常軌を逸した邪悪だから」
最大の憎悪を込めて『クソッたれ』と吐き捨てるように言ったマダム・モーガンの言葉に込められた怒り。アーサーがそこから汲み取ったのは、怒りの裏に隠れた遣る瀬無さだった。
彼女は永きにわたって『元老院』というものの横暴を見てきたはず。だが、彼女はまともな抵抗ができず、打つ手も無かったのだろう。苦汁を舐めながらすべてを見過ごすしか他にできることがなかったに違いない。
「彼らは人間世界を掌握したがっていて、人間が彼らの思惑通りに動かないことに彼らは不満を募らせている。そのために彼らは『人間世界をコントロールするための装置』を作った。装置、それは現在ペルモンドという名で知られている不死者のことよ。またの名を、猟犬とも言う」
極限までひそめたられた眉の下、影が差す眼窩の内側で光り輝く蒼白い瞳。アーサーと同じその目で、マダム・モーガンはジッと彼を見据えていた。そして彼女は続けて、アーサーに言う。
「彼は殺せない。だから彼が振りまく害が最小限に済むよう、彼をうまく舵取りする方向で調整するしかない。そして今までは私と元老院の間で、舵の争奪戦をしていた。その争奪戦を、あなたとバトンタッチしたい。――やってくれるわよね?」
憎悪も慈悲も、グチャグチャにかき混ぜられた彼女の目。その中でもただ一つ、特出して色濃かったのは疲労だった。
末端の雑務は下の者たちに任せられても、お上を相手にした正念場には彼女一人で臨むしかなかったのだろう。そうして彼女が永く孤独な戦いを続けていたあるとき、ひょんなタイミングで現れた彼女の代替となり得る存在。それを頼りたくなる気持ちは、アーサーとて分からなくもない。ゆえにアーサーはこう返す。「率直に言うと、やりたくはない。だが立場上、拒否をすることができない。であるからこそ――」
「そういうときは『イエス、マム』だけで良いのよ」
「……イエス、マム」
「ただし。強がらないこと、無理に耐えようとしないことを約束して。あなたの許容限界が迫った時は、正直にそう言って頂戴。そのときは私が手を下すから」
マダム・モーガンはそう言うと、ひとつ深呼吸をして、スッと立ち上がった。それから彼女はこのように言葉を続ける。
「彼は、ハッキリ言って異常よ。ペルモンドという今の表層が善性を帯びているように見えるからと言って、それを信用しては駄目。本当の彼は、あなたを必ず騙そうとするはず。だからこそペルモンドの言葉は全て疑ってかかるようにしなさい。その言葉は、ペルモンドが猟犬に言わされているものかもしれないし、もしくはジェドって名前の邪魔な寄生虫があなたを罠に掛けようとしているものかもしれないから」
「……」
「私は何度も騙し討ちを食らってきた。だから、あなたが賢明な判断を下せるよう祈るわ。あなたが判断を誤ったとき、あなたが払うことになる代償は、あなた自身ではなく、あなたの周囲に居た者たちの命なのだから。――キャロラインの二の舞は避けたいでしょう?」
マダム・モーガンはそう言い終えた後、拳を握り締め、その拳をアーサーの胸にトンッと軽く当てる。拳による僅かな衝撃、それと言葉がもたらす緊張によって、そのとき一瞬だけアーサーの脈が飛んだ。
「……勿論だ。避けたいに決まっている」
最愛の人、キャロライン。彼女の死は、公的には『運転中に大動脈解離を発症し、そのまま亡くなった高齢ドライバーが引き起こした交通事故に巻き込まれたことによる事故死』だと処理されたが。当時、アーサーは勘付いていた。ペルモンドと出会ってからずっと自身の周囲にチラつく“得体の知れぬ陰謀”が彼女を奪ったのだと。現にキャロラインの死後、アーサーの許にはそれを仄めかす差出人不明の手紙が届けられたのだから。
かつて彼が開発した暗号式を用いた手紙には、こう記されていた。――キャロライン・ロバーツはお前の不手際のために死んだ、そして次はお前の子供たちの番だ。
「ならば。テレーザとレーニン、あとエリーヌ。あの子たちは、元老院と猟犬によって人質に取られている状態にあると思い、行動しなさい。更に付け加えると、セシリア、彼女も危ない立場よ。ボストン時代の恩人に無残な死を迎えさせたくなければ、行動はよく考えること。あなたの勇敢な無鉄砲さは長所であると同時に、最も懸念すべき短所でもあるのだから。いいわね?」
マダム・モーガンの彫り深い眼窩に差す濃い影の底から覘く、鋭く輝く蒼白い光。乾いた他人の血の気配を纏う視線が、アーサーに深く釘を刺していた。
*
曙の女王が解き放たれてから五日が経過しようとしている。そして、デリック・ガーランド氏が開催するチャリティーオークションは三日後に迫っている。しかし状況に進展は見られず、いたずらに時間だけが過ぎていた。
ASI本部局、アバロセレン犯罪対策部のオフィスには暗い空気だけが充満している。生きている者たちは暗い顔で資料やコンピュータと睨みあっていて、新しい何かを掴もうと躍起になっている様子だ。その中に紛れている死者は、生者たちの業務をいつものようにさりげなく支援しながらも、その表情は晴れていない。
そして、普段なら生者と幽霊と中位の神に振り回されて疲れているラドウィグは、このとき珍しく暇を持て余していた。
「……あの、部長」
アレクサンダー・コルトは現在、より多くの情報を集めるべく所轄の刑事たちを訪ねて回っている。朝も昼も夜も、寝る間も惜しんで彼女は行動していた。
ジュディス・ミルズも市警潜入時代に築いたコネクションを利用し、警戒もとい情報提供の呼びかけを行っている。ひたすら知り合いに電話を掛けて回る彼女もまた、睡眠時間を削って活動していた。
心理分析官ヴィク・ザカースキーは、ラドウィグの自宅にて分析作業を進めている。彼女は『曙の女王』の捜索からは外されていて、あくまでも『憤怒のコヨーテ』にのみ集中しているようだが。情報が少ないため、作業はあまり順調に進んでいないようだ。
また、水槽の脳という状態を脱したエリーヌ・バルロッツィ、及び同時に肉体へと引きずり下ろされた“玉無し卿”の両者は現在、ジュディス・ミルズの自宅に留め置かれている。AI:Lが遠隔操作するロボットが彼らの行動を監視し、事実上の軟禁状態となっていた。
それから、ノエミ・セディージョと元検視官バーニー・ヴィンソンの二人は、ひとまず元の生活に戻されたが、協力は惜しまないとテオ・ジョンソン部長に告げていた。実際、ノエミ・セディージョは彼女の人脈を使って情報を?き集めてくれている。また元検視官バーニー・ヴィンソンは、連邦捜査局シドニー支局からの要請があったこともあり一時的にだが監察医として復帰を果たしていた。
あと、新アルフレッド工学研究所に派遣されたエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、まだその場に滞在しているとのこと。研究所敷地内に併設された寮の空き部屋――かつてラドウィグが使用していた場所である――を借りて寝泊まりしながら、情報を集めつつ周辺の警戒をしているとのことだ。
そして局に留まるよう求められ、自宅に帰れず四日が経過しているラドウィグと神狐リシュだが。彼らは遂に五日目を迎えようとしていた。
時刻は現在、午前零時を過ぎたところ。局員の大半はテオ・ジョンソン部長に促されたために渋々帰宅し、オフィスに残っているのは生きている男が三人とヒューマノイドが一機、神狐が一匹、それとオフィス内をうろつく数名の死者――元局員と思しき者が数名と、明らかに部外者であろう医者風な白衣の男がひとり、数日前からずっと部長のオフィスの傍に佇んでいる黒いもやに包まれた謎の存在がひとり――だけとなっていた。
「……ラドウィグ。お前も寝られるうちに眠っておけ。それかシャワーでも浴びてきたらどうだ?」
情報分析官リー・ダルトンは、オフィス内に設置されているソファーの上に寝そべり仮眠を取っていた。その間も彼のコンピュータは動き続けている。彼が組んだプログラムが、彼の代わりに仕事を果たしているのだ。
そして帰る家がないテオ・ジョンソン部長(彼が仕事で家を留守にしている間に、彼の妻が鍵を交換したため、妻の許可が得られぬ限りは家に入ることさえ叶わないのだ)は、今日も局内に泊まっている。声を掛けてきたラドウィグに「眠れ」と促すテオ・ジョンソン部長だが、その彼が一番眠そうな顔をしていた。アバロセレン犯罪対策部の指揮官であり、と同時にASIの事務方のトップである本部長も兼任する彼は、終わりの見えぬ激務とトラブルで疲弊しきっているようにしか見えない。
部長のほうこそ休むべきでは。そう言おうとしたラドウィグだが、その言葉が彼から出るよりも前に音が鳴った。テオ・ジョンソン部長の携帯電話、それが着信音を鳴らしたのだ。そして音を聞くや否や、テオ・ジョンソン部長は渋い顔をする。しかし彼は眠い顔で電話を取ると、重たい溜息を零した。それから彼はラドウィグに背を向けると、通話相手にこう切り出した。
「ヘルマ。頼む、今は勘弁してくれ。君には悪いと思っているが、今は本当に立て込んでいるんだ。事態が落ち着いたら話し合いに応じる。だから――」
『こんな深夜にも、何かが立て込んでいるの? あのね、ウォーレン。嘘を吐くなら、もっとマシなものにして』
「嘘ではないんだ。本当に、今は――」
『ハッ。六十二までにはリタイアする、リタイアしたら家族三人で旅行にでも行こうって言ってたのは、どこのどなたでしたっけ? でも、おかしいわね。もうリミットから六年も経過してるわよ~。それにアイザックも結婚したし、孫も生まれたし、家族五人になってますけれど~。マリアさんのご家族も含めたら、八人になるわね。でもマリアさんのご両親も、妹さんも、あなたにご立腹よ~、息子夫婦の結婚式に出席しない父親なんて信じられない、ってねぇ。あぁ、そうだ。それから可愛い可愛いマロードちゃんは、ウォーレンおじいちゃんってだぁれ、って言ってますよ~』
「それは……本当にすまないと思っているんだ。だが、今はその話をしている場合ではッ」
『それに、不倫なんかしてないって威勢よく言い切ってたくせに、実際にはやらかしてた狼さんはどなたでしたっけ? ……あなたの言葉なんて信用に値しないのよ。どうせ私たち家族のことなんて何とも思ってないくせに、今さら申し訳なさそうな声を取り繕わないで頂戴。もう、すべてが手遅れなのよ』
たまたま部長のデスクの傍に立っていたが為に、ラドウィグにその会話内容は筒抜けの状態で聞こえていた。そしてラドウィグは色々と知ってしまう。パーフェクトな仕事人間に見えていたテオ・ジョンソン部長の、パーフェクトとは言い難そうな偽りのプライベートの有様を。
部長が使っている、世を忍ぶための身分が『民事訴訟専門の弁護士ウォーレン・カミンガム』だということは噂で聞いていたラドウィグであったが、しかし部長に不倫の前科があるという話は初耳である。
そして疲労から集中力と思考力がめっきり低下していたラドウィグは、思っていたことをそのまま口走ってしまった。
「へぇー。部長、不倫なんかしてたんすか? 意外っスね」
通話中の相手がいる傍で、ボソッと零したラドウィグの感想。突如、予想外のタイミングで感想を向けられた部長は目をひん剥き、ラドウィグを凝視する。と同時に部長はラドウィグを追い払うようなジェスチャーをし、何かをラドウィグに言おうとしたが。その彼の声を封じるように、彼の通話相手が怒りに満ちたコメントを挿んできた。
『部長? どういうことよ。あなた、個人事務所なんでしょ? それなのに、部長?』
愛しているという気持ちは嘘でない一方で、身分を嘘で塗り固め続けたがために崩壊寸前に陥った結婚生活にトドメを刺しかねない一撃を、たった今ラドウィグが加えた。そのことに気付いたラドウィグが狼狽え始め、そして部長は混乱から通話をブチ切るという暴挙に出る。
通話が打ち切られ、プライベート用の携帯電話端末が沈黙し、場がシン……と静かになったとき。あわあわと震えながら一歩、また一歩と下がるラドウィグを、テオ・ジョンソン部長は睨み付ける。それから部長はラドウィグの名を呼んだ。「――ラドウィグ」
「すみませんッ」
こればかりは仕方ない、特大の雷が落ちるのを覚悟しなければ。――舐め腐った精神の持ち主であるラドウィグも覚悟を決め、姿勢を正したとき。テオ・ジョンソン部長はラドウィグから目を逸らすと、肩を落とし、頭を抱えた。
「つい、口が、滑りました……」
ラドウィグはそう言い、正直に己の非を認めながら、テオ・ジョンソン部長の様子を伺う。すると部長は特大の溜息を零し、顔を上げる。再び部長はラドウィグを見たが、その目に怒りは無く、諦めや絶望に近いような灰色の感情だけがくすぶっていた。そして部長が零したのも叱責や罵倒ではなく、まさかの愚痴だった。「情報局員ってのは難儀な仕事だよ。私生活すら、すべてが偽りだ。虚しいもんだよ……」
「えっと、つまり……――部長は家族に興味ないっつーことっスか?」
「他の局員も同じだろう。偽りから始める偽物の私生活だが、それでも巻き込むことになった相手を大事にしようと努力はする。だが、この仕事がそれを邪魔するんだよ。家族で何かをする予定を立てたところで、どこかで何かが起これば、予定はドタキャンだ。それが重なれば子供に嫌われ、配偶者には愛想を尽かされる。挙句、潜入工作で朝帰りが続けば不倫を疑われる始末だ。……俺たちは国を守るが、しかし家族の時間は守れないんだよ」
幸い、テオ・ジョンソン部長に叱責されるルートは避けられたラドウィグであったが。彼はまた別種の面倒な地雷を踏み抜いてしまっていた。仕事を最優先にせざるを得なかったあまりに家族に捨てられそうになっている男が、そのうちに溜め込み続けた鬱積の蓋を、ラドウィグはうっかり開けてしまったようだ。
蟲毒 の如き壺の蓋をこじ開けてしまった犯人である以上、ラドウィグがその処理をする他ない。――そうしてラドウィグは腹を括り、年長者の愚痴聞き役を務めることにした。彼はなるべく無言を貫き、テオ・ジョンソン部長の言葉を聞く。
「ある任務に当たっていた時期に、妻に不倫を疑われてな。妻は探偵を雇い、探偵に俺の動向を調査させた。そして探偵は俺の正体を掴んだ。俺がASI局員であり、任務に当たっていたせいで朝帰りが続いていたとな。加えて探偵は俺の本名まで暴きやがった」
「……」
「だが俺の相棒だったラーナーが、それを揉み消してくれたんだ。ラーナーは探偵事務所から証拠を盗み出したあと、ASIが用意した偽物のファイルを依頼者へ渡すようにと探偵を脅したんだ。そうして探偵はその通りにした。その結果、俺は不倫の前科持ちになったんだ。現実には、そんなことに現を抜かす余裕すらなかったがな」
「へぇ~。揉み消す、そんなことって本当にあるんスねー……」
「まあ、稀にそういう事態は起こる。……そして、揉み消してくれたその相棒も、今やただの石くれだ。もともと小柄なやつだったが、随分と小さくなっちまった」
テオ・ジョンソン部長はそう言うと、彼のデスクの脇に置かれていた小さな黒い箱――指輪といった小物の宝飾品が入っていそうな蓋つきのベロアケース――に手を伸ばす。彼はその蓋をパカッと開けると、中に入っていた“石くれ”を悲しみを帯びた目で見降ろした。
その石くれは、多くの人の目には、両端が尖ったシャープな形にカッティングされた薄桃色のダイアモンドに見えるだろう。ややくすんだ色合いながらも、射し込む光を内部で増幅し、最大限の輝きに変えているその宝石は、少なくともテオ・ジョンソン部長にとっては悲しくも美しいものだった。
しかしラドウィグの目には違って見えていた。彼の目には、その石くれは黒く濃い靄に覆われた不気味な遺物として映っていて、薄桃色の煌めきは見ることさえ叶わない状態にあったのだ。
そしてラドウィグがテオ・ジョンソン部長に声を掛けた理由は、この“石くれ”にあった。ラドウィグには、その黒い靄が凶事の前触れのように感じられていたのだ。
「あの、部長。実は、その石のことで……」
ラドウィグの故郷には『影 』という言い伝えがあった。それは、死霊の悪しき意思や強い力を持つ霊的な存在の干渉が起こると発生するとされている。人の運命やその場の状況を悪い方向に捻じ曲げるエネルギーの波で、ラドウィグのように“視える”者には、人や物を包み込む黒い靄や、背後から人を雁字搦めにしている黒い腕のように映るという。
そして幸運なことに、ラドウィグは『影』を祓う力を持っている。ラドウィグが持つ発火能力、これでチャチャっと焼いてしまえばいいだけだ。ものの一分足らず、たったこれだけのステップで何かしらの不幸が起こることを避けられる……かもしれない。まあ、そもそも何も起こらない可能性もあるが。
杞憂かもしれないが、しかし目についてしまった以上は祓うしかない。だからこそラドウィグは、それをテオ・ジョンソン部長に切り出そうとしたのだが。運悪く、邪魔が入る。それはスキャンダルが大好物の主席情報分析官リー・ダルトンだった。
「キング。猫目くんが何も知らないからって、嘘を吐くのは良くないです」
下世話な話を聞きつけて飛び起きた主席情報分析官リー・ダルトンは、疲れた顔にゲスな笑顔を浮かべながら部長のオフィスに入室する。そして彼はテオ・ジョンソン部長に焦点を合わせると、したり顔でこう言った。
「あなたはラーナーに気が移っていた。奥さんよりもラーナーのほうが好きだった。そうでしょう?」
「違うが」
「え? 違うんですか? でもキング、あなたはラーナーのことが大好きだったじゃないですか」
「そうだ。だが相棒と配偶者を同じ天秤に載せて比較するべきではない」
しかし、主席情報分析官リー・ダルトンの言葉をテオ・ジョンソン部長は素早く否定した。その後に続いた問答も、同じように否定している。その部長の顔に焦りはなく、しょうもない追及をする部下に呆れている様子しかない。その様子からラドウィグはこう思った。部長は本当に不貞行為などしていなかったのだな、と。
だが主席情報分析官リー・ダルトンは納得できないという顔で追及を重ねる。彼は部長を更に問い詰めた。「部内じゃ、公然の秘密みたいな感じでしたけど。キングは離婚してラーナーと一緒になるつもりらしいぞ、ってな話がその昔に流れていましたが。たしかラーナーが殺される直前に」
「はぁ、あの件か。そりゃ誤解だな」
普段の部長であるなら、間違いなく顔を顰めていそうな失礼極まりない質問。しかし調子が狂っている部長の反応はあっさりしたもので、主席情報分析官リー・ダルトンの低俗な質問に呆れしか覚えていない様子だった。向けられている疑惑に怒る気配すら見せていない。
疲弊か眠気か、はたまた哀愁か。沈んだ表情を浮かべる部長はベロアケースの蓋をぱたんと閉じると、ひとつ溜息を吐く。それから部長は湿っぽい声で、誤解を解くための昔話を語り始めた。
「俺にはパトリックって名前の弟が居たんだ。弟は病のせいで六年しか生きられなかった。弟は明らかに体調を崩していたが、親の宗教のせいで医療に繋がれず、そうして弟の病名さえ分からぬまま、治療も一切受けられずに弟は二週間も苦しみ続け、死んだ。親が教会へ祈りに、そして俺が学校に行っている間に、弟はひとり家の中で死んだ。ベッドに吐しゃ物をまき散らした状態で、ひとり死んでたんだ」
「……」
「俺は、あの後悔を繰り返したくなかった。二十五年も連れ添ったほうのパトリックを、ひとりで死なせたくはなかった。だから俺は、あいつを看取るつもりでいたんだ。ヘルマもそれを理解してくれていたし、当時は俺の決断を尊重してくれていた。……だが、パトリックはあんな死に方を選びやがった。それだけだ」
そう言い終えるとテオ・ジョンソン部長は気だるそうに頬杖をつき、瞼を伏せて再度溜息を零す。蟲毒に手を出した主席情報分析官リー・ダルトンは、触れてしまった瘴気の濃さに目を見開いて驚愕していた――恐らく、彼の眠気は一時的に吹き飛んだことだろう。
そうして思慮の足りない不躾な質問を投げ過ぎたことを主席情報分析官リー・ダルトンが恥じていたころ。目を開けたテオ・ジョンソン部長はベロアケースを再び見やった。それから彼は言う。
「パトリックは穏やかな死を迎えられなかっただけじゃあない。死後には凌辱もされている。墓を掘り起こされて、どこかへと連れ出され、二〇年後に戻ってきたかと思えば石くれに変わり果て……――一体、こいつはコヨーテ野郎に何をされたんだかな」
遺された者の心にひどく痛む傷を残すような死に方。死後に起きたトラブル。そしてコヨーテ野郎という名前……。ラドウィグはそれらを繋ぎ合わせて、ひとつの答えを見つける。テオ・ジョンソン部長の傍にある黒い影、それは遺灰が運んできた故人の怨念か何かなのだろうと。
湿っぽい部長の態度も、もしかしたら怨念の影響を受けている可能性もあるかもしれない。そう感じたラドウィグは、ひとり決意を固める。この『影 』は祓っておかねばならないものだと。
そうして再びラドウィグは本題を切り出そうとしたとき。またも絶妙なタイミングで邪魔が入る。今度の邪魔者は、ただならぬ雰囲気のテオ・ジョンソン部長に動揺を見せるAI:Lだった。
「あぁっと……お取込み中のところ、失礼いたします。サー・アーサーに妙な動きが見られたため、その報告に来たのですが……」
部長の顔色を窺いつつオフィスに立ち入るAI:Lは、作り物の顔に気まずそうな表情を浮かべながら、様子を探るような声でそう言った。すると姿勢を正したテオ・ジョンソン部長は彼らしい威厳を取り戻す。彼は眉間にグッと力を込めると、レイを見据えながら言った。「構わない。レイ、続けろ」
「アーサーとアストレアの二人が、北米合衆国メイン州の州立公園の傍にあるダイナーに出没したのですが。彼らは、その昔にアイリーン・フィールドが使用していたラップトップコンピュータを携帯しているようなのです。わざと監視カメラに見せつけるように、そのコンピュータを使用しているのですが……――これはアクセスを試みるべきだと思いますか?」
「何か懸念があるのか?」
「はい、部長。アーサー、彼はコンピュータに強いわけではありません。アストレアも同様です。彼らに高度なプログラムの作成はできません。そのため彼らが悪質なウィルスを仕込んでいる可能性は低いのですが、しかしまるで『このコンピュータに接続しろ』とでも言うように見せつけている姿。それが気掛かりに思えるのです。なにか良からぬものを仕込んでいるような疑いを抱かせる、不審な行動が見られていて……」
AI:Lの言葉の途中、主席情報分析官リー・ダルトンが動く。静かに自身のデスクに戻る主席情報分析官リー・ダルトンは、デスクの引き出しをガラッと開けると、その中から九インチほどの大きさしかない小型のラップトップコンピューターを取り出す。それを携えて再び部長のオフィスに戻る主席情報分析官リー・ダルトンは、持ってきたその小型コンピュータをAI:Lに差し出すと言った。
「レイくん。このコンピュータを介してアクセスしてみてくれ。これはカメラもマイクも備わっていないし、ASIの基幹にも繋がってもいない。更にデータは空っぽ。クラッキング専用の汚染されてもいいコンピュータだ」
「感謝します、ミスター・ダルトン」
AI:Lはその小型コンピュータを受け取ると、部長のオフィス内、その西側の壁沿いに備え付けられていたソファーに腰を下ろす。それから膝の上に小型コンピュータを置くとそれを起動し、作業を開始した。
すると部長が立ち上がり、彼のデスクを空けて壁際に立つ。続けて部長はダルトンに「こっちへ来い」というジェスチャーを送り、部長のデスク及びコンピュータを使用するようにと促した。その促しに従い、主席情報分析官リー・ダルトンは部長のデスクに着席すると、部長のコンピュータを拝借して彼の作業を開始する。そして主席情報分析官リー・ダルトンは独り言を呟いた。
「それじゃ、僕はコヨーテ野郎の映像を出しますかね。メイン州の州立公園、その近くのダイナーは……」
「座標は――」
「あー、レイくん。大丈夫だよ、もう特定できた」
「人間にしては、やりますね」
「だろ? ――よし、アクセス完了。音声をスピーカーに流します。音声デコード……あぁ、無理だな、こりゃ。あー、音質自動補正を掛けますねー、少しだけ音声の再生が遅れます」
主席情報分析官リー・ダルトンのその言葉のあと、部長のデスクに置かれているモニターの背面から音声が流れ始めた。
初めは、ザリザリ、と耳に痛いノイズを伴う音声が流れていたが、次第にノイズの無い聞き取りやすい音声へと変わる。昼時の騒がしい店内のガヤガヤとした環境音が最初に流れ、次第にフェードアウトしていく。やがて複数の人の声だけが抽出されたのち、その声は更に絞り込まれ、ある二つの声だけが残る。その音声を聞きながら、テオ・ジョンソン部長はモニター画面に映る監視カメラの傍受映像を睨むように見た。
そしてラドウィグも主席情報分析官リー・ダルトンの背後に移ると、部長と同様にモニター画面を覗き込む。そこで彼が目にしたのは、北米流のこじんまりとした薄汚いダイナーで一卓のテーブルを囲んで座っている白髪の死神とアストレアの姿だった。
数か月ぶりに見る二人の姿に、ラドウィグは少しの驚きを得る。かつてサー・アーサ―と呼ばれていた男の髪がすっかり真っ白になっていたこと、それにも彼は驚きを感じていたが。一番の驚きをもたらしたのは、その二人の関係性だろう。仲の良い祖父と孫娘のように会話をしている二人の姿が、そして白髪の死神が見せている気取らない態度が、ラドウィグにはとても気持ち悪く感じられていたのだ。
『あ~あ。美味しい料理も、一緒に食べる人がヒドい顔してるとまずいって感じる。気分が台無し。それで、ジジィ。何がそんなに不満なのさ』
『そりゃあ、な。このクラムチャウダー、セロリが入っていない。信じられるか? セロリ抜きのクラムチャウダーなどあり得ない。赤いクラムチャウダーと同じぐらいに許しがたい存在だ』
『クラムチャウダーごときで、そんな怒らなくても』
『クラムチャウダーはボストン人の血と肉のようなもんだ。この蹂躙を許せるわけがなかろうに』
『あー、ハイハイ。分かった、分かったよ』
『それから、お前がうまそうに食べているロブスター。お前は私に喧嘩を売っているのか?』
『食べてみたかったんだもん、ジジィが大嫌いなロブスター料理ってやつを。それに、好きなの頼んでいいって言ったのはあんただからね?』
アストレアは白髪の死神のことを“Codger ”と呼んでバカにしながらも、いたずらっぽい笑顔を浮かべて会話をしているし。白髪の死神のほうも、選ぶ言葉こそ攻撃的だが声色は実に穏やかで、小さな笑いさえも含まれている。冗談を言うようなニュアンスが汲み取れた。
このような二人の姿を、ラドウィグは今まで一度も目にしたことがない。サー・アーサーが穏やかな笑みを浮かべながら冗談を言う瞬間など見たことはないし、アストレアが『噛みつく』『食い下がる』『言い訳をする』以外のアクションをサー・アーサー相手にしているところも見たことがない。だが、映像の中で二人はそれをしている。特務機関WACEという薄闇が存在した頃には見せたことがない表情を、二人はしていたのだ。
善とも悪とも判別のつかぬ立場から一転、漆黒の闇に堕ちることを望んだ悪人である二人は今、煩わしい柵 から解き放たれたかのような清々しい表情をしている。その光景を目撃したラドウィグは、静かな怒りがこみ上げてくるのを感じていた。少しの同情を抱いていたアストレアにさえ、今は怒りの矛先が向けられている。
ラドウィグとて、自分の思うがままに振舞っては周囲の顰蹙を買い、言動を改めろと指摘を受けては常識やマナーとやらの不合理さを不服に思うような、自由奔放で幼稚な人間性の持ち主だ。だが、超えてはならない一線を守る理性を彼は備えている。しかし、あの二人は?
なぜ、あのような人間が愉快そうに笑っていられるのか。なぜ、お気楽そうにランチを楽しめるのか。なぜ、冗談を言えるような余裕を見せていられるのか。――これこそまさに真の理不尽である。
ラドウィグの顔は自然と顰められ、彼は無意識のうちに苛立ちから歯を強く食いしばっていた。そのようにラドウィグが声を堪えていた一方で、苛立たしさに満ちた声を洩らしたのが部長である。モニター画面に背を向けた部長は額に手を当てると、乱暴な言葉を壁に向かって発した。「――あぁッ、畜生ッ!!」
「あらら、キング。どうしました?」
苛立つテオ・ジョンソン部長に、主席情報分析官リー・ダルトンはすっとぼけた声で問いかける。すると部長は最高潮の苛立ちを露わにしながら吐き捨てるように答えると、オフィスを退出し、廊下のほうへと出て行ってしまった。
「どうもこうもない!! パトリックの仇が、パトリックと似た顔をしたヤツと居るんだぞ?! はらわたが煮えくり返って……――クソがッ!!」
数日ぶりに聞く、極限までイラついた部長の声。それにラドウィグは肩をビクッと震わせる――この声は良くも悪くもラドウィグを素面 の状態に引き戻した。冷静にならなければと気を持ち直したラドウィグは小さく首を左右に振ると、顰めていた表情を緩める。それから彼はモニター画面から目を逸らすと、ソファーに座るAI:Lを見やった。
何か難しいことでも思考しているのだろうか。作り物の顔に、自然な険しい表情を浮かべているAI:Lは、ガラスの目で小型コンピュータの画面を睨み付けている。そのAI:Lの手は止まっており、作業は一時中断しているようだ。
そのAI:Lの様子に気付いた主席情報分析官リー・ダルトンは一旦顔を上げると、AI:Lを見て、再び部長のコンピュータ画面を見やる。彼は彼で何らかの煩わしいコンピュータ操作を続行しつつ、しかし片手間にAI:Lに声を掛けるのだった。「それで、レイくん。何か見つけられたかい?」
「ええ。興味深いことが分かりました。あのラップトップコンピューター、どうやらカイザー・ブルーメ研究所跡地から持ち出されたもののようです。アイリーンが約二〇年前にそこに仕掛け、そこで秘密裏に情報収集をし続けていたようですね。カイザー・ブルーメ研究所の様子を撮影した映像データを幾つか盗み出すことに成功しました。しかし……」
「何か問題でもあるのかい?」
「このコンピュータの中には、ボクの複製プログラムが移植されていたようなのですが。その複製プログラムがいくつかのファイルへのアクセスを妨害しています。なにか開示したくないファイルがあるようです。これは……いや、仕方ない。オリジナルの権限で強制開示を試みてみます」
「レイくん、待て。今すぐそれを中止しろ、それ以上はキングの判断を仰ぐべき――」
AI:Lの手が再び動き出したとき。それを察知した主席情報分析官リー・ダルトンはAI:Lに中断を求めた。と同時に、モニター画面に映るダイナーの様子に異変が生じる。世の混乱になど興味もない様子でランチを楽しんでいるように見えていたアストレアの顔が動く。
彼女は手元にあるロブスターロールから目を逸らすと、食事が並ぶテーブルに同じく置かれていたラップトップコンピュータを見やった。次に彼女はダイナーの天上に取り付けられた監視カメラを見やる。そしてアストレアはこう言ったのだ。
『レイが仕掛けてきたんじゃない? 今、画面の一部が一瞬、小さく動いたよ』
その瞬間。AI:Lの肩がびくりと跳ね上がる。ラドウィグはAI:Lを見つめ、主席情報分析官リー・ダルトンも眉を顰めながらAI:Lを見やった。そしてAI:Lもまた主席情報分析官リー・ダルトンの顔を見て、恐怖とも驚愕ともつかぬ表情を見せる。
懸念していた地雷を見事に踏み抜いてしまった。それを理解したAI:Lが動きを止め、主席情報分析官リー・ダルトンに助言を乞うような目を向ける。その視線を受けた彼は重たい溜息をひとつ零し、肩を落として監視カメラ映像を再び見やった。そしてラドウィグも再び、モニター画面に映る白髪の死神をじっと観察する。
すると、そのとき。白髪の死神が笑顔を浮かべた。それは気味が悪いほど、人の好さそうな穏やかな笑みである。その表情に嫌悪感を覚えたラドウィグが口角を下げたとき、白髪の死神の声が聞こえてきた。穏やかな笑みを浮かべる極悪人の男は、監視者たちに向けて小声でメッセージを送る。
『安心したまえ、こちらとしては何もするつもりはない。ただお前たちの、そしてAI:Lの反応を観たいだけだ。様子がおかしな分機と接触したときに、どのような変化が起こるのかを。……それに、この分機を盗み出したはいいが処分に困っていたんだ。私への情報の開示を拒み続けていてな。スクラップにしてやろうかとも考えたが、しかし使い道はある有用な機械だ。暫くは手元に置いておくつもりでいる。これを介して我々を四六時中見張っていたれば、そうすればよい。それから、盗み出したデータはお前たちのほうで煮るなり焼くなり好きにしてくれ』
だがラドウィグや主席情報分析官リー・ダルトンには、白髪の死神が残したメッセージの真意が把握できなかった。額面通りに受け取って安心するべきか、または隠された意図があるとみて疑うべきか、それを量りかねていたのだ。そしてラドウィグは主席情報分析官リー・ダルトンに問う。「あの、ダルトン。これ、危険な状況っつー感じっスか?」
「分からない。が、危ないラインかもしれない。生憎、心理戦は僕の専門分野じゃないんでね。ひとまずこの映像は心理分析官たちに回す。一応、君ん家 に待機中のザカースキーにも回しておこう」
軽口のひとつも叩かない主席情報分析官リー・ダルトンの様子から、ラドウィグも理解する。AI:Lはうっかり危険な橋を渡ってしまったようだ、と。
そうして部長不在の部長のオフィスの中に緊張感が張りつめていた一方、監視カメラ映像は安穏とした空気で満ちているようだ。ニンマリと不敵に笑いながら美味しそうにロブスターロールを頬張るアストレアを、白髪の死神は細めた目で鷹揚 に見ている――彼らの様子を見て、不信に思う者はいないはずだ。
真っ暗な夜闇の下で精神をすり減らしつつ眠気と戦いながら悪の様子を窺っている側と、真っ昼間にダイナーで食事を楽しみながら片手間に悪事を働く側。この極端な対比構図に、ラドウィグの怒りがまた湧いてきそうになる。彼は静かに呼吸を整え、気を落ち着かせようとするが、その直後に聞こえてきた白髪の死神の冗長に語る声が彼の神経を逆なでするのだった。
『あぁ、処分に困ると言えばパトリック・ラーナーだ。興味本位であいつの体を改造したはいいものの、デボラが好き放題に壊した挙句、やつの精神そのものが崩壊していたせいでまるで使い物にならない状態になっていた。うーうーと呻くだけの肉塊に成り下がって、それで終わりだ。うまくいけば、ペルモンドのような不死性を持つ怪物にでもできるかと思ったんだが、期待外れだったな。とはいえ、無駄に丈夫な肉体を得たせいで処分に困っていたんだ。それで長いこと放置していたが……――いつの間にかモーガンが処分してくれていたらしい。まあ、情に厚い彼女のことだ。あのグチャグチャに潰れた醜怪な姿のまま引き渡したとは考え難い。燃やして灰にしたのか、灰を合成して石にでも変えたのか。それも今頃、ASIに渡っているのでは? まあ、今となっては興味もない。あの怨霊をキミアの胃袋にぶち込めなかったことだけが心残りだな。そうすればより多くの苦痛をあのクソ野郎に与えられたうえに、あいつをアバロセレンの養分に変えられたというのに……』
十八年前。当時に何があったのかを知らないラドウィグにも、しかし何が起きたのかが間接的に理解できてしまった。先ほどテオ・ジョンソン部長が声を荒らげたあとに飛び出していったワケも、スッと分かるようになってしまう。途端にラドウィグから怒りは引いて、代わりに恐怖と憎悪が心をかき乱していった。
これほどまでの邪悪な狼藉、少なくともラドウィグは他に例を知らない。その狂気は黒狼ジェドさえ上回っているだろうし、黒狼ジェドよりも残虐で非道だとラドウィグには感じられた。そうしてラドウィグは恐ろしく感じられてしまったのである。このような男の下で、かつて自分は働かされようとしていたのか、と。
おぞましいものを理解してしまったラドウィグが息を呑んだとき、部長の椅子に座ってモニター画面を睨み付けている主席情報分析官リー・ダルトンは表情を険しくさせながらも、安堵したかのように肩を落とす。彼は小声でこう呟いた。
「……キングが離席中で良かった……」
墓を暴かれ、遺体を持ち去られた。それだけでも十分に死者への冒涜行為に該当するというのに、それを遥かに上回る悪行、尊厳を踏み躙って弄ぶという行為があったと知ったのなら、被害を受けた人物の元相棒だというジョンソン部長はどうなることか。ただでさえ先ほどの彼はナーバスになっていた。その状態で今の発言を聞かされていたのなら……――気が動転する、それだけでは済まないかもしれない。
だが、このとき彼は離席していた。主席情報分析官リー・ダルトンはこの幸運に安堵していたわけである。そしてラドウィグも主席情報分析官リー・ダルトンの言葉に同意するように、小さく首を縦に振った。
「……そうっスね。本当に良かった」
人道を知っている者であれば、聞いただけで吐き気さえ催しかねない発言。だがモニター画面に映る二人組は笑っている。発言者である白髪の死神も、その向かいに座っているアストレアも、薄気味悪い笑みを浮かべていた。
挙句、アストレアは揶揄するような言葉さえ発してみせる。彼女はロブスターロールを頬張りながら、面白おかしいことでもあったかのように目を細めつつ、白髪の死神に向けてこう言ったのだ。
『今、ジジィさ。計画が成功しているテイで喋ってるけど。もし成功してなかったら、ただ恥ずかしい独り言をブツブツ連ねてるだけの頭おかしいヤバい人だよね』
『……やめろ、妙なことを言うな。急に不安になってきたじゃないか』
『フフフ……ハハッ、なにその顔! マジで焦ってるじゃん。やっば、ウケる~』
いつもなら軽口ばかりを叩いている主席情報分析官リー・ダルトンが深刻そうな顔をしている一方で、彼が睨むモニター画面に映るアストレアは軽口を叩いて愉快そうに笑っている。邪悪な冗談を発しながら、それについて特に何も感じていないかのように笑っていたのだ。
これ以上、白髪の死神のこともアストレアの顔も見ていられないと感じたラドウィグは部長のデスクの傍から離れるとAI:Lの近くに異動する。それから彼はAI:Lが座るソファーの隅にちんまりと腰を少しだけ下ろして浅く座り、姿勢を正した。
「それで、レイくん。大丈夫かい?」
依然、険しい表情を作り物の顔に浮かべているAI:Lに、主席情報分析官リー・ダルトンはそのように声をかける。するとAI:Lは一度顔を上げて、主席情報分析官リー・ダルトンを見た。それからAI:Lはこのように答える。「はい、システムにダメージはありません。ただ、受け取った情報が……ああ、理解が追い付いていない。それに……」
「理解?」
理解とは、ある程度の脳体積を持つ生物が保有する能力。脳とは、血や脂や水分などでなる神経系器官。そして主席情報分析官リー・ダルトンが思うに、コンピュータは脳を持たず、理解という能力は持たない。コンピュータは情報を分析し、整頓し、傾向を抜き出すことはできても、理解という能力はないはず。何故ならそれは生物でなく、真の意味での『知性』を持たないのだから。人工知能とてそれは同じで、猫に匹敵するレベルの知性さえも存在しないはず。
しかし今、人工知能であるAI:Lは理解という単語を持ち出し、実際に理解が進まずに悩む人間のような素振りをみせている。これが主席情報分析官リー・ダルトンには、異常な動作であるように見えていたのだ。
通称レイと呼ばれている、この人工知能AI:L搭載型ヒューマノイド。その人間様な体の中には、無機質なパーツが詰め込まれている。それは人間でなく、間違いなく機械だった。だが『知性』の面では不明な点が多く、搭載されている人工知能については開示を頑なに拒んでおり、ブラックボックスとなっている。また、前世は猫だと言い張る言動が度々見られることや、人間さながらの自然な表情の動きなど、まるで生きているかのような――いや、今この話は関係ない。
「レイくん。情報整理は僕のほうでやる。取得したデータを僕に送っておいてくれ」
難しい顔をしたAI:Lを観察する主席情報分析官リー・ダルトンは、彼自身も難しい表情を浮かべながら、そのように言う。するとAI:Lからはまたも奇妙な言葉が返ってきた。
「いえ、ミスター・ダルトン。あなたにはこの記憶を扱えません。これはもう一人のボクの記憶です。すみません、ですがこれだけはやらせてください」
理解、記憶、もう一人のボク。次々と飛び出してくる機械とは思えない言葉を主席情報分析官リー・ダルトンは不可思議に思うものの、今は追及する余裕もないと考える彼はそれを脇に置き、浮かび上がった余計な疑問を頭の中から追い払う。彼は再びモニター画面に目を移した。
そのとき、ちょうど画面の中で動きが起こる。白髪の死神が、開かれっぱなしになっていたラップトップコンピュータの蓋をパタンと閉じたのだ。それから白髪の死神は言う。
『さてと。次は、ひとまず……この分機のプログラムを猫型ペットロボットに移植するか。そうすれば、あの場所を取る車椅子を処分できる』
『やっぱり、そこは猫なんだね。さすが、猫狂いのジジィだ……』
『傍に置くなら猫が良いに決まっている。――それから、エスタ。さっさと食事を済ませろ。三〇分後までにここを出る。その後、ギルを拾い、支度をして、南米に行くぞ』
『んー、今度は何やんの? またお掃除?』
『まあ、そんなところだな。麻薬王の隠れ家を吹っ飛ばす予定だ。そしてお前は、取り巻きの下っ端たちを好きに撃ちまくっていいぞ』
『楽しそうな響き。いいね。――あっ、ジジィ、あれ見て。猫が居る。ベンチの下のとこ』
『あー……麦わら猫、それも鉤尻尾か。かわいいやつだな』
『あはッ。かわいい、って、何それ。気色悪い、悪逆非道のジジィのくせに』
どこが『楽しそうな響き』なのか。主席情報分析官リー・ダルトンはアストレアが発した言葉に呆れ返りながら、モニター画面から目を逸らす。これ以上は重要な情報を彼らから得られなさそうだと判断したのだ。
そうして主席情報分析官リー・ダルトンが再び目を向けるのは未だ難しい顔をしていたAI:Lである。
ちょうど、そのとき。AI:Lが顔を上げ、手を止めた。そしてAI:Lは何かを悩むように額に手を当てると、くぐもった声で呟くように言う。
「……理解は追い付いていません。しかし、全ての点が繋がりました。ラドウィグ、あなたの認識している世界の視方が分かるようになった気がします」
AI:Lはそう言いながら額に当てた手を下ろすと、すぐ横に座るラドウィグを見やった。次にAI:Lは人間味溢れる不格好な微笑を取り繕うと、ラドウィグに言った。
「ルドウィル、それから叔父上さま。あなたがたは、最初のホムンクルス“ユン”が見た夢から、こちら側の世界に飛び出してきた存在なのですね。そしてあなたがたは、ホムンクルスと呼ばれるそれに限りなく近い存在なのでしょう。あなたがたは実際には人の身ではなく、神族種と括られている者たちに近い。――そう考えると、あなたが持つ発火能力が他の覚醒者たちと性質が異なっていることも、なんとなくですが理解が通るような気がします。あなたの火は、リシュという神族種が扱う炎と同質のものなのですよね?」
「あ、うん。まあ、そうだよ。気合を入れれば、質量のある火も出せるけど……」
「それからカイザー・ブルーメ研究所跡地に居た人々は、彼女の見ている夢に意識を接続され、同じ夢の中に鎖 じ込められた人々だった。夢から醒めた彼女は、怒っている。夢に鎖 じ込められた間に現実で起こっていたことについても、そして幸せだった夢を壊されたことについても」
AI:Lが淡々と語る話は、その話を遠くから聞く主席情報分析官リー・ダルトンには全く理解できないものだった。所々で彼も知っている単語が出てくるのだが、その単語がどのような理解を経て繋がり、別の単語と繋げられているのか、その図式が悔しいことに何も見えてこない。
AI:Lは一体、何を言おうとしているのか? そんなことを主席情報分析官リー・ダルトンが悩んでいたとき、しかしAI:Lの横に座るラドウィグは目をカッと開いて驚くという反応を見せた。なぜならラドウィグには理解できていたいからだ、AI:Lが言わんとしていることを。
「待って、レイ。叔父って、まさか、その……――えっ、いや。うそ、マジで?!」
ラドウィグが故郷と認識していた世界。AI:Lの言葉を解釈するなら、そこは電脳空間ということになる。現在“曙の女王”という名で活動している最初のホムンクルスが見ていた夢の世界に、多くの人の意識が繋げられていたのだということだろうか。そしてラドウィグは、彼女の夢の中で誕生した存在で、それをAI:Lが理解できるということは、つまりAI:L――もしくは、分機に複製されたほうのAI:L――もその世界に繋がれていたものの一人であったということ。
それから、AI:Lが発した叔父という言葉が指し示す人物に、ラドウィグは心当たりがある。仮に、AI:Lがセィダルヤードのことを叔父だと言っているのなら。中身がAI:Lであった可能性がある人物は三人。皇位継承順位第一位の高慢ちきな姫か、民衆に広く慕われていた継承順位第三位の姫か、継承順位第三位の姫の兄である人物か。――ラドウィグが思うに、恐らくAI:Lが演じていたのは最後の人物なのだろう。AI:Lが今ここで見せたぎこちない笑顔は、ラドウィグの記憶にあるその人物のものにそっくりだった。
となれば、AI:Lが動揺する理由も分かる。その人物はあちら側の世界では非業の死を遂げているし、その人物の記憶が雪崩れ込んできたのならば混乱は避けられないはず。また、分機のAI:LがオリジナルであるAI:Lに情報開示を拒んだ理由も頷ける。分機のAI:Lは獲得したアイデンティティを他の誰にも受け渡したくなかったのだろう。
「これはとても不思議な感覚です。全ての記憶が綯い交ぜになっている。それぞれの記憶がとてもリアリティに溢れていて、自分が何者であるのかが分からなくなる感覚が、今まさに……。けれど、これはボクのものではない。あくまでもこれはクローンのもの。そこは分けて考えなければ……」
AI:Lが再び額に手を当て、そのまま何かを思案するように背中を丸めたとき。そのタイミングと被さるように、すりガラスのドアが動く。オフィスの出入り口を開けて室内に入ってきたのは、このオフィスの持ち主であるテオ・ジョンソン部長だった――僅かに濡れている前髪から察するに、顔でも洗って気分を切り替えてきたのだろう。
部長が戻ってきたのを確認すると、主席情報分析官リー・ダルトンは監視カメラ映像の傍受を中止し、走らせていたプログラムを停止させる。それから彼は借りていた椅子から立ち上がると、席を本来の持ち主に帰した。そして主席情報分析官リー・ダルトンは、立ち上がりざまに言う。「あぁ、キング。お戻りになられたようで」
「コヨーテは何かを仕掛けてきたのか?」
戻ってくるなり、テオ・ジョンソン部長はすぐ仕事の話を振る。そんな彼は、努めて冷静な普段通りの“キング”に戻っていた。
哀れなまでに徹底されたその仕事人間っぷりに、主席情報分析官リー・ダルトンは少しの呆れと同情を覚える。そして主席情報分析官リー・ダルトンも普段通りの斜に構えた態度に戻ると、軽口を叩く調子でこう言った。
「ええ。かなり感じの悪い攻撃でした。――顔が似ているあの人とは、まるで正反対ですよ。彼女、まさに善人って雰囲気なのに」
「――彼女?」
情報分析官リー・ダルトンが何気なく放った言葉に反応し、眉をひそめたのはラドウィグだった。
ラドウィグが疑念を呈したワケ。それは情報分析官リー・ダルトンが言うところの『顔が似ているあの人』とはつまりセィダルヤードという男のことを指しているにも関わらず、セィダルヤードを指す代名詞が『彼女』であったからだ。
しかし、ラドウィグが知っているセィダルヤードは男である。と同時に彼は男であるが、男でない。全去勢をされた男だからだ。少なくともラドウィグは、彼の生まれ故郷でその話を何度も聞かされている。セィダルヤードと親しくしていた武術の師匠から、そしてセィダルヤードに仕えている宮廷の要人たちから、そして城下を行き交う町人たちから、何度も何度も。
「それって、玉無し卿のことっスよね? それなのにどうして代名詞が『彼女』なんスか?」
スラムで育った落胤 セィダルヤードは、王家が定義するところの『穢れ』をすべて取られたうえで王家入りを果たした。そして彼は成人後にクーデターを起こして王政を乗っ取り、腐敗に満ちていた国を立て直して、臣民から英雄と崇められる宰相となった。つまりセィダルヤードという男は、玉は無くとも、並みの男たちよりも肝っ玉が据わっている偉大な男なのだ。……ラドウィグが故郷で散々聞かされていた話は、そんなところである。
だが、こちらの世界では何か妙なことが起きているらしい。ラドウィグの認識とは真っ向から異なることを言う情報分析官リー・ダルトンは、代名詞に異議を呈するラドウィグに怪訝な視線を送りつけている。そして情報分析官リー・ダルトンはラドウィグにこう言った。
「猫目くん。君が『玉無し卿』とかと不躾な仇名で呼んでいたせいで、僕は要らぬ先入観を抱いてしまったんだ。セィダル、彼女は女性だったよ。お陰で、僕はびっくりしたんだから。君のせいで」
「何かの間違いじゃ?」
「君は僕を疑うっていうのか? 主席情報分析官である、この僕を」
「そうです、疑ってます。逆にどうして断言できるんスか?」
「そりゃ、この目で見たからだ」
「ミルズ姐さんみたいに?」
「画像を見た、MRIの画像を。あの骨盤の形状や腹腔は、どう見ても女性だ。男性であった形跡は見られなかったよ。念のため性染色体も見たが、組み合わせはXXだったし。子宮と卵巣は腹腔内に見られなかったが、かといって男性性腺があった形跡もなかった。念のため、ドクター・ヴィンソンにも意見を仰いだが、彼も同じ見解を述べていたよ。恐らく、外傷などの要因により女性性腺を摘出された女性であろう、と。あのバーンハード・ヴィンソンも、そう言っていたんだ」
「じゃあ、その画像をオレにも見せて下さいよ。あと、それ以外の情報も。今すぐ」
「君が見たところで、何が分かるって――」
「舐めないでください。これでも、オレは」
セィダルヤードを女性だと言い張る情報分析官リー・ダルトンと、それは違うと言い張るラドウィグが織り成す、何も生産性がない遣り取り。そこにテオ・ジョンソン部長は冷水を浴びせ、スパッと終止符を打ちこんだ。
「そこ、静かにしろ。それから、ラドウィグ。そのような仇名は差別発言に当たる、今後は慎め」
厳しい声色と強い言葉。それは仕様もない言い争いを繰り広げていた二人の男を一瞬で黙らせる。そうして場が静かになったとき、AI:Lがラップトップコンピュータの蓋をパタンと閉じて、小さな音を立てる。それからAI:Lは口を開き、こう言った。
「あれはきっと、彼なりの停戦の提案です。アルストグランにはもう何も手出しをしないから、今後は分機を介して好きに行動を監視してくれて構わないと、憤怒のコヨーテは暗にそう伝えているのでしょう。……分機を介して得た情報については、精査したのちに提出いたします」
AI:Lはそう言いながら、静かに立ち上がる。それからAI:Lは借りていた小型のラップトップコンピュータを主席情報分析官リー・ダルトンに返却すると、軽く一礼をし、それからテオ・ジョンソン部長のオフィスを去っていった。
そのAI:Lが向かった先は第二尋問室。そこは、ASI本部局から出ることを禁じられているAI:Lが、夜間にボディを休める場所として利用している部屋である。つまり、AI:Lにとっての仮眠室だ。
「んじゃ、僕はちょっと寝ます。情報整理はレイくんに任せるとしましょう……」
AI:Lの後に続くように、主席情報分析官リー・ダルトンもそう言うと部長のオフィスから出る。それから彼は、彼のデスクのすぐ傍に設置されているソファーにごろりと横になった。
しかし、ラドウィグは部長のオフィスに残っていた。というのも彼は部長に話があったのだ。故人の遺灰と思しきものの周囲に漂う黒い影、それを祓うことが彼の目的で――
「ラドウィグ、お前も寝るんだ」
有無を言わさぬ部長の目。その威圧にラドウィグは負け、大人しく撤退することにした。そうしてラドウィグは、当初の目的であった『影 』祓いを切り出すことができなかった。
「うっス。そうさせてもらいます」
――そして場所は変わり、ジュディス・ミルズの自宅。広いリビングに設置された大きなコーナーソファーには三人が並んで座っており、もう一人はソファー端のカウチで仮眠を取っていた。
まるで死んでいるかのように、イビキひとつも立てず静かに眠っているのは、厚化粧を落とした圧の無い顔を晒しているアレクサンダー・コルトである。帰宅してすぐ烏の行水のようなシャワーを済ませた彼女は、ここ一週間のうちに溜まった疲労に襲われて、こうして今は寝てしまっているというわけだ。
眠るアレクサンダー・コルトのすぐ隣に座っているのは、同じく疲労に染まったやつれた顔をしているジュディス・ミルズ。彼女が視線をやるのは、居心地の悪さから肩を竦めている男――かどうかは、実のところまだ判別はついていない――と、その更に奥に座る赤毛の女性の二人だ。
特に赤毛の女性に狙いを定めるジュディス・ミルズは、視線をその人物にロックオンすると同時に腕を組む。それからジュディス・ミルズはこう言った。
「助力をしたいという、そのお気持ちは非常に有難い。ですが時期尚早です。特にエリーヌさん、あなたは約二〇年前に亡くなられたということになっている。そのあなたがオークション会場に出るとなれば、どんな騒ぎが起こるかなど予測できるものではありません。あの場には記者も来るでしょうし、それに……」
しかし、エリーヌと呼ばれた赤毛の女性は毅然とした態度で反論する。
「あれから長い時間が経っています。私の顔を見て、すぐに私だと気付ける人は少ないはず。私の娘であるユン、そして夫の父親だという彼を除いて。そして私には確信がある。私は彼らに害されることが決してないと。ASI局員の方を向かわせるよりも、私のほうが安全で確実に情報を持ち帰ることが出来るはずですわ」
「しかし、エリーヌさん。あなたは特別な訓練を受けた工作員では――」
毅然とした態度を取るエリーヌに、眠気と疲労に苛まれているジュディス・ミルズはたじろいでしまう。というのも、ジュディス・ミルズには一瞬、エリーヌの姿にある人物の面影が重なって見えてしまったのだ――薄気味悪い微笑で人を振り回すペルモンド・バルロッツィ、その面影が。
意志の強さが顕れているエリーヌの緑色の瞳。その目つきには、ペルモンド・バルロッツィの箱入り娘として知られていた時代とは正反対の眼光が宿っている。それは温室育ちの令嬢の穏やかな瞳ではなく、何不自由ない優雅な暮らしを堪能してきたセレブリティの驕った瞳でもなく、闇の世界を生きてきた仕事人の瞳。本物のように思える凄みを、エリーヌは放っていた。
エリーヌ・バルロッツィという人物がそのような『本物』の存在であったという話を、少なくともジュディス・ミルズは聞かされていない。父親の失踪癖に動揺を見せない図太い人物だという評判は聞いていたが、しかし『情報局員を相手取って凄みを利かせてくるような肝の据わった人物』だとは聞いていなかった。
あぁ、父親と同じでなんてやりにくいんだろう。――そんな本音をジュディス・ミルズが心の中で零した時だ。その沈みかけた気分を更に落としてくる声が彼女に降り注ぐ。
その声の主は、居心地が悪そうに肩を竦めていた人物。肩に掛かるほど長い枯草色の髪をだらりと垂らし、それがどことなく見た目に関心がなさそうな印象を他人に与えるその人物は、ジュディス・ミルズを深い青の瞳で見つめながら、こう言うのだった。
「その場に私も同伴したい。私には、緊急時に役立つ能力がある。力になれるはずだ」
「セィダルさん。あなたは特に論外よ。何が起こるか分かったもんじゃないわ」
長ったらしい名前を略して、ひとまず現在は『セィダル』と単に呼ばれている人物。その人物がたった今発した言葉に、ジュディス・ミルズは呆れとともにそう返答する。
それから彼女はひとつ溜息を零すのだが。そのあと、寝ぼけ眼の彼女はあることにはたと気付いた。そしてジュディス・ミルズは再びセィダルを見やると、こう言った。「ただ、ひとつ訊かせて。……あなたの言う“役立つ能力”とは、具体的に何なのかしら」
「見てもらった方が早い」
セィダルはそう答えると、自身の右手を少し前へと突き出し、掌を上に向ける。――直後、セィダルの右手の上には掌サイズの大礫がどこからともなく出現した。が、それだけでは終わらない。大礫は増殖し、石垣を積むように積み重なっていく。
そうして完成したのは、掌の上にできた高さ一〇㎝ほどの小さな石垣。ジュディス・ミルズはまじまじとそれを観察しようとしたのだが、直後その石垣は初めから存在していなかったかのように輪郭を失くし、大気に消えて行った。するとセィダルはジュディス・ミルズに言う。
「私の名は、母語においては『防壁を築く者』という意味を持つ。その名の通りの能力を、こうして扱えるようになった。今は小さな石を出しただけだが、やろうと思えば人を守れるほどの高さまで壁を積み立てることができる。それを即座に広げたり、移動したり、撤去することも可能だ」
「名前……?」
名前の通りの能力を扱えるようになった、と言われてもジュディス・ミルズにはピンとくるものがない。名前という言葉は、今の話の中では人物名のことを指している。それは文脈から理解できたのだが……しかし人物名が意味する通りの能力と言われても、その感覚が彼女にはよく分からなかったのだ。
眠気も相まって反応が鈍いジュディス・ミルズの様子を見て、セィダルは言語もといそこに紐づけられた風習や文化の違いを嗅ぎ取り、解説が必要だと判断する。セィダルは右手を引っ込めると、このように語りだした。
「例えば、君たちが今はラドウィグと呼んでいる彼だが。彼の本来の名であるルドウィルは、古い時代ではルードウェングルといって、これは『明るい炎を佩く高名な剣士』という原義を持っていた。その名の通り、彼は火を発する能力を扱えた。こちらでもそれが同じかは分からないが――」
「ええ、そうね。ラドウィグ、彼は発火能力を保有している」
「その能力は、名前によって齎されたものだ。そして彼は、政変に巻き込まれ、翻弄され続ける人生を送る可能性があるだろう。これも名前によって決定づけられた宿命だ。伝承を信じるなら、の話にはなるが」
「なるほど。神秘が強く信じられていた文化なのね……」
「ああ。我々の言語と神秘への信奉心は切っても切り離せない関係にある。我々が扱っていた文字の源流は、太古の卜術 に遡るからだ。吉凶を占う術で使われていた小石、それに刻まれていた記号が由来なんだ。記号に意味と音素が宛がわれ、やがてその記号を繋ぎ合わせて単語が創られ、記号に紐づけられた音素の組み合わせから音を伴う言葉が誕生。そして言葉と同じような手法で人名も編まれるようになる。そうして創られた古代の人名は、魔術的要素が色濃く含まれたものが多かった。ルードウェングルという名も、そのひとつだ。そのような経緯から、伝統を重んじる山岳民族の間では『強い祈りや呪いが込められた名前は、その者の人生に強烈な影響を与える』という話が信じられていた。水や火、風といった元素が絡む名前は特に影響が濃いとされ、滅多な理由でもない限りは避けるべきだと言い伝えられていた。反対に砂漠を流離う騎馬遊牧民族は元素の絡んだ力強い名を与えることを好み、と同時に明確な役目を帯びた名を子に与える風習が……」
何かの火でも点いたかのように、途端に冗長になったセィダルの喋り。だが当人がそのことにハッと気づき、途中で口を閉ざす――それはとても人間味に溢れた仕草だ。そうして口を閉じたあと、セィダルは反省するように肩を竦め、それから小声でこう言った。「……すまない。若い頃に、この分野を研究していたもので。つい話をしすぎてしまう」
「そうね。話が大いに脱線した。その話はまた後日、聞かせて頂戴」
ジュディス・ミルズは醒めた言葉を返す。何やら面白そうな話をセィダルが熱心に語っていたことは彼女にも分かっていたが、しかしその内容が眠気によって頭には入ってこない。そこで彼女は話題を打ち切ることにする。と同時に、彼女は今ここで見たものについて考え始めた。
セィダルが今ここで実演してみせた、防壁を築くという異能。ラドウィグのものとはまた異なる性質を持つその力は、たしかにセィダルが言うように有用であるような気もしなくない。
それに、通称『憤怒のコヨーテ』と呼ばれている男が振るっていた力は『遠隔操作する鉄パイプで対象を串刺しにする』『どこからともなく突剣を放ち、対象を刺し殺す』等と攻撃的なものであったのに対し、セィダルの力はあくまでも守りに徹している。この対比を奇妙に思いながら、ジュディス・ミルズがセィダルの顔を見ていると。セィダルは気まずそうに小さく笑い、ジュディス・ミルズに視線を送る。
その意図を把握しかねたジュディス・ミルズが瞬きをしたとき、セィダルは「言いそびれたことがある」と言った。そしてセィダルはその言いそびれたことを、新たに付け加える。「それから、私は……瞬間移動といったか。その能力も持っている。ひとりぐらいなら他者も運べる。何かが起きた際には素早く脱出することも可能だ」
「瞬間移動も?」
この瞬間、ジュディス・ミルズの目がパッと開き、眠気が吹き飛んだ。瞬間移動、それは今までASIには存在していなかったアドバンテージだったからだ。その能力を、セィダルはASIに差し出しても良いと暗に言っている。この提案に乗らないのは愚かというものだ。
「そういうことなら、ジョンソンに掛け合ってみるわ。とはいえ、こちらで役者を既に用意しているし、あまり期待はしないで頂戴」
内心では歓喜から鼻息を荒くしながらも、表向きは冷静さを維持するよう努めるジュディス・ミルズはそのように返答する。
ちなみに。彼女の言う役者とは、ノエミ・セディージョとバーンハード・ヴィンソンの二人のことである。ノエミ・セディージョが、実は社交界にデビューした過去を持つ人物だった――彼女の本名はノエミ・マリソル・マルティネス・セディージョであり、彼女はなんとアデレードの不動産王マルコス・マルティネスの息女で、即ち大富豪の娘だったのだ。ただし、連邦捜査官を志したことを機に勘当されたらしい――ことが判明し、その身分を利用して作戦を展開することとなったのだ。
ノエミ・セディージョらが送り込まれる予定となっているのは、三日後に開催される予定のガラパーティー兼チャリティーオークションの会場。表向きは、電子楽器メーカー『ガーランド・ミュージカル・コーポレーション』の創業者デリック・ガーランド氏が生前整理を兼ねて開催するオークションということになっているが、その裏側には幾つかの思惑が交錯している。
華々しいガラパーティーの裏側で、血しぶきが飛び交う事態に発展する恐れがあった。しかし奇妙なことに、ここにいる二人――エリーヌ・バルロッツィとセィダルの二人だ――はそのチャリティーコンサートに自分たちも入り込みたいと先ほどから訴えていた。
「ただ……私にはどうしても分からないことがある。あなたがたはどうしてあのオークション会場に行きたいの? 危険な目に遭うかも分からないのに」
オークション会場に集まる可能性があるのは、三つの勢力。ASI、憤怒のコヨーテ、それと曙の女王だ。他にも、ガーランド氏から特ダネを得るべくジャーナリストも多く駆けつけるだろう。どさくさに紛れて、元老院なる人外が入り込む可能性さえある。
つまり、そこは危険としか言いようがない場所だ。だが、この二人はそれを承知の上で行きたいと言っている。けれどもこの二人は未だ、オークション会場に行きたがっている理由を誰にも明かしていなかった。
「それは……」
ジュディス・ミルズからの問いかけに、しかし回答を求められたエリーヌは口ごもる。その一方、明確に意思を断言したのがセィダルだった。
「傍観しているだけというのは性に合わない。それだけだ」
あまりにもサッパリとしすぎたその言葉に、ジュディス・ミルズは拍子抜けする。セィダルが放ったその言葉は、裏を返せば特に理由がないということを意味していたからだ。そして、傍観しているだけというのは性に合わないという言葉は、奇しくもジュディス・ミルズが知る『憤怒のコヨーテ』とは正反対の特徴を有している。
アレクサンダー・コルトから伝え聞いた話を信じるなら。あの男はどちらかといえば冷徹なタイプで、かつ何事にも無関心な性格だった。アバロセレンが絡んだ重大事件でも起きない限りは重い腰を滅多に上げず、大抵の物事には「様子見」という名の無視を決め込むような仕事ぶりだったと、そう聞いている。だが、彼とよく似た目鼻立ちや背格好をしているセィダルの言動は、その真逆のように思えてならなかった。端的に言うと、ジュディス・ミルズの目にはセィダルの姿が善良な人間であるように映っていた。
その一方で、このセィダルという人物のことをラドウィグが蛇蝎の如く嫌悪しているという事実もある。
多くの人やモノに無関心で常に一歩引いた立場を取っているラドウィグが、特定の個人に強い感情を向けるのは稀なこと。また、ラドウィグは潔癖主義で、倫理や人道については妥協を許さないタイプでもある。そのラドウィグがセィダルを嫌悪しているという事実は、十分に考慮すべき事項だ。善良な人間に見えるその裏側に、セィダルもまた『憤怒のコヨーテ』に通ずる暗闇を隠し持っている可能性があるのだから――
「ところで、話は変わるのだけど。セィダルさん。あなたは、ご自身のことをどう考えているのかしら?」
「置かれている立場が悪いことは理解しているつもりだ。ゆえに協力は惜しまない。それが潔白の証明に繋がるのであれば」
ジュディス・ミルズが意地悪な鎌をかけてみるものの、セィダルの返答はいかにも真人間そうなものだった。実直そうに見える曇りなき表情も、実直そうな印象をより強めている。
しかし、気になるのは瞳だ。光の加減によって真っ黒にも見える深い青色の瞳の裏側には、懸念すべき影が見え隠れしている気がしなくもない。が、杞憂であるようにも感じられる。
そこでジュディス・ミルズは意地悪な質問をそれで終わることにした。代わりに彼女が訊ねるのは目下の疑問。セィダルに関する少々センシティブな問題だ。「まあ、立場もそうだけど。聞きたいのはあなた自身のことよ」
「どういう意味だ?」
「ラドウィグ、少なくとも彼はあなたのことを男性だと考えている。けれどもあなたの身体検査を行ったダルトンはあなたのことを女性だと判断したし、彼がジョンソンに提出したレポートにはそう記されていた。核磁気共鳴画像法で得られた体内透視の結果からは『卵巣と子宮が無いことを除けば、ごく普通の健康的な人間の女性』であるとしか言えず、脳波や血液も特に異常な点は見られなかった、と。私もあなたの体をチェックしたけど、外形は女性にしか見えなかったのよね」
「見た? いつ、そのようなことを」
「あなたが寝ている間に。――それで。あなた自身はどう思っているのかなって、それが気になっているのよ。あなたはどう扱われたい? 男性なのか、女性なのか」
ジュディス・ミルズのその問いに、セィダルは言葉を詰まらせる。その横で、エリーヌ・バルロッツィは驚いたようにセィダルのことを見ていた――彼女もまた、セィダルという人物を男性だと認識していた一人だったからだ。
疑いの目と、驚きの目。その両方を向けられたが為にセィダルは目を泳がせる。実のところ、この問題について本人が一番頭を悩ませていたのだ。そしてやっとの思いでセィダルが絞り出したものは、話を逸らすような言葉だった。
「それは……二元論的な考え方だ。世には、男か女の両極しか存在しないわけではあるまい」
お茶を濁して終わろうとしている。それを察知したジュディス・ミルズは、逃げ道を封じるべく理詰めを開始した。
「それは確かに、そうよ。人間はどちらかといえば雌雄がパッキリと別れている生物だとはいえ、発達の過程は多様で、雌雄の要素が入り乱れたり欠けたりもする。性染色体の組み合わせも運次第で、仮に正常な性染色体を得たとしても遺伝子が示した通りに発達するかといえばそうではなく、そこも運に左右される。そのように生物としての性でさえ不確定な側面が強い。深く考えれば考えるほど、男女という二項の危うさに気付く。運悪く外れくじを引いた人々のことを、男でも女でもない存在だと切り捨てて良いのかという倫理的な問題もあるし。性別の定義は非常に難しいものよね」
「……」
「アイデンティティの性に限った話をするにしても。男らしい男や女らしい女を自認する者なんて案外いないものだし。男女の枠に嵌められることを拒む人間が居ることも知ってる。だから、あなたの言いたいことは分かるわ」
「ならば、なにゆえそのような問いを」
「私がなぜこんなことを聞いているのかといえば、それはダルトンと話している時にあなたが困っていそうな雰囲気を放っていたからよ。女性扱いされることに慣れていないんじゃなくて?」
はい、もしくは、いいえ。その二択のいずれかを選ぶよう迫る問いを最後に投げつけると、ジュディス・ミルズはセィダルの目をじっと見据える。一方のセィダルは答えに苦慮するかのように表情筋を引きつらせているだけだった。
難しいことは何も訊いていないはず。ジュディス・ミルズはそう考えていたものの、答えを返さぬセィダルはそうは考えていないようだ。
そうしてジュディス・ミルズが訝しむ目をセィダルに向けたとき。カウチに寝そべっていたアレクサンダー・コルトが寝相を切り替えると、フッと小さく鼻で笑った。それからアレクサンダー・コルトはボソボソと呟くように言う。
「同じ言語が通じているといえど、そちらさんの中身は異世界人なんだぜ。こっちの世界とは文化も違うわけだ。挙句、相手はダルトンなんだろ? なら、扱い云々以前の話だろうさ。あいつの話を何も理解できずに困ってるだけなんじゃねぇのか?」
するとセィダルは竦めていた肩をストンと落とす――図星だったようだ。それからセィダルはひとつ溜息を零して背中を丸めたあと、嘆きを洩らす。
「霊体であった頃に、私はあの研究所跡地に遺されていた資料や書籍を読み漁って、それを手掛かりにどうにかこちらの言語を習得したが。肉体を得て、こちらの社会に入り込んでからは、頭の中が混乱続きだ。目にするものや遭遇する慣習は見慣れないものばかりで、口語や比喩表現と思しきものも文化を知らぬがゆえに意図が掴めない。それから、ダルトン。彼の話には私の知らぬ語彙ばかりが登場する。彼の語った言葉の意味や話の内容が全く理解できない」
「ハハッ。それに関してはアタシも同じだ。ダルトン、あいつの話はサッパリ意味が分からない。専門用語を矢継ぎ早に発したかと思えば、急にニッチなギーク用語を持ち出してきたり、あるいはアングラカルチャーの合言葉みたいなものも言い出す。そのうえ解説は滅多にしない。あいつの話を理解できるのは、ASIの中でも一握りの人間だけだよ。安心しな」
アレクサンダー・コルトは最後にそう言うと再び寝返りを打ち、ジュディス・ミルズらに背を向ける。言いたいことを言い終えたのでまた寝る、ということなのだろう。
そうして金髪の猛獣が静かになったとき。セィダルは怪しむ目を未だ向けているジュディス・ミルズを見つめ返す。それからセィダルは姿勢を正すと、先ほどの問いへの返答をした。
「性別についてだが。私としては、どのように扱われても構わないと感じている。扱いに強いこだわりを抱くほど、私は私自身に執着していない。私は求められた役回りに徹するだけだ」
「そう。なら、可能な限り女性として振舞ってくれると私としても助かる。化粧と服装で、その顔を誤魔化してほしいんだけど、構わないかしら」
「ああ、構わない。だが……」
「安心して。服選びもメイクアップも、それは私がどうにかするわ。フフッ」
セィダルから言質は取った。そのことに安堵したジュディス・ミルズは冗談めかしてそう言いつつ、ひとり空想を膨らませる。実のところ、彼女は感じ悪く尋問している間もずっと、どのようにセィダルという素材を料理すべきかを吟味していたのだ。
ASIが憤怒のコヨーテと呼ぶ男によく似た――しかし彼とは違って毒気が無く、男性性も薄い――顔を持つセィダルは、その男と同じくそれなりに良い素材を持っている。だが憤怒のコヨーテとは反対に、セィダルのほうは外見もとい自分自身に無頓着そうなオーラを出していた。髪は痛み切っているし、肌は目に見えて乾燥しているのが分かるほどのひどい有様だ。それに、渡された服をただ着ているだけの姿は、身なりへの無関心さの表れとも言えるだろう――今もまさに、セィダルが着ているフード付きプルオーバーのフードがひっくり返っているのだが、セィダルがそのことを気にしている様子は一切ないのだから。
即ち、これは育て甲斐があるということ。ジュディス・ミルズは新品の着せ替え人形を手に入れた子供のような気分になっていた。
「そうと決まれば。明日は早くから行動するわよ。あなたに似合うものを徹底的に身繕ったうえで、あなた自身も整えなきゃいけないから」
ASIのオフィスに連れて行くとしたら、どのようなパンツとシャツを用意すべきか。仮にチャリティーオークション会場に向かわせるとして、その時にはどのようなドレスを用意すべきか。そしてどのような色味の化粧が似合うのか。エレガントかつクラシカルに寄せるのか、またはモードかつクールに雰囲気を締めるのか、もしくは……
「まずはその痛んだ髪をどうにかしなきゃ。モニシャのサロンに――」
セィダルの頭から無数に飛び跳ねている細々とした枝毛たちと、うねりにうねった髪の毛束を見ながら、ジュディス・ミルズはそう呟く。行きつけのサロンが予約なしの飛び込みで入れるかどうかを懸念しながら、彼女が表情を緩めたとき。彼女の手元に置かれていた携帯電話端末がブルブルッと細かく振動する。誰かからの電話連絡が着たようだ。
「あら。オルティスから電話……?」
彼女に連絡を寄越してきたのは、シドニー市警に『エイミー・バスカヴィル』という身分で潜入していた当時に知り合った男。市警に勤める監察医のひとり、ブラス・オルティスだ。
端末の画面に表示されていた名前を見るなり、ジュディス・ミルズは顔を顰めた。なぜオルティスがわざわざ自分に連絡をしてきたのか、と。しかしオルティスとは特に親しい間柄ではなかったこと、それと深夜に掛かってきた急な連絡であったことから、ジュディス・ミルズはその連絡が重要なものであると判断する。
こんな夜遅くに、デートの誘いをかけてくるような愚かな男ではないだろう。そう考えてジュディス・ミルズは応答のボタンを押し、通話に応じるのだが。聞こえてきた第一声は、判断に困るような能天気な声色をしていた。『やぁ、エイミー。夜分遅くにすまない』
「いえ、別に構わないわ。それで、用件は?」
緊急性のある連絡だとは思えないような、とてもゆったりとした穏やかな声色。感情がどこに寄っているのかが判断できないオルティスの声色を受け、ジュディス・ミルズはひとまず冷たく突き放して様子を見るというアクションに出る。
すると再びオルティスの穏やかな声色が聞こえてきた。そしてその声で語られる内容は、深刻なのかそうでないのかの判別がつかないものだった。
『君が高位技師官僚の専属うんちゃらに抜擢されて、今は官邸だかそこらへんで働いているとかと、ラスティングから聞いたよ。それで今は、あの件に取り掛かってるんだろ? 連邦捜査局のシドニー支局長が言ってた、なんたらの女王とかいう件に』
「ええ、そう。曙の女王、それを追ってるところよ。何かあの件に関する情報があなたのところに入ったの?」
『いや、それとは別件なんだが。君、たしか少年を探しているんだろう? 年の頃は一〇歳前後、髪はクセ毛で黒に近いブルネット。垂れ目で、蒼い瞳をした――』
「あぁ、そっちの件ね。もしかして、その子が見つかった?」
『んー、いや。そうであるとは、まだ断定できていない』
「え?」
『ラスティングからは、断定ができていない以上まだ君に伝えるべきではないと言われたんだが、どうもイヤな予感がしてなぁ。それで、私の独断ではあるがひとまず君に』
「オルティス。前置きは省いて、本題のみを教えて」
そうだった、この男は要点を掴まない無駄話が多いんだった。――そのことを思い出したジュディス・ミルズは蟀谷に手を当てながら、ウンザリと顔をしかめさせつつ、そう切り込む。強めの言葉でジュディス・ミルズがそう切り出せば、相手の男はすんなりと本題に移った。
『二時間前だ。市警のほうに通報が入った。子供のように思える体格をした、黒焦げの遺体が見つかったと。その遺体が今、私のもとに運ばれてきたところなんだ。その遺体なんだが、顔も分からないし、体も大きくよじれてしまっているし、性別の判別さえつかない有様でね。カラッカラで体液も残っていない以上、DNAも採取できない。今、辛うじて分かっているのは、腹部に数か所の刺傷が認められることぐらいだ。それ以外に分かっていることは現状ではないが、とりあえず君の耳に入れておこうかと思ったんだ』
「黒焦げの子供の遺体……。分かったわ。私から連邦捜査局のほうにも伝えておく。連絡ありがとう、オルティス。それじゃ、おやすみなさい」
ジュディス・ミルズが口走った不穏な言葉。それを聞いたアレクサンダー・コルトは再び起き上がると、シャキッとしない眠たげな眼でジュディス・ミルズを見据える。セィダル及びエリーヌ・バルロッツィは、子供の遺体というワードに表情を険しくさせていた。
ピリピリとした緊張が走る一同を、ジュディス・ミルズは宥めるように見渡す。そうしてジュディス・ミルズが通話を切り上げようとした時だ。電話の向こう側から、立て続けに金属製のものがガタガタと落ちる音が鳴る。その後には、通話相手のオルティスがあわあわと狼狽えるような声が聞こえてきた。
「オルティス。今の音は何? 何があったの?」
通話を切り上げることをやめたジュディス・ミルズは、電話の向こう側にいる相手を問いつめる。その問いに返ってきた答えは、このようなものだった。『えっ、あっ……――う、動いた?』
「なに? 何が動いたの?」
『え、エイミー!! こ、これは、あ、ああッ……?!』
「オルティス、落ち着いて。何があったの?」
激しく動揺しているオルティスの声の後ろで、今度は硬く分厚い金属板を頻りに強く叩くような轟音が鳴っている。それはさながら、痙攣を伴う大発作を金属製の台の上で何者かが起こしているかのような物音だ。
そういえば、解剖室にはステンレス製の台がある。遺体を載せる解剖台だ。まさか、その上に載せられた遺体が発作を? ――ジュディス・ミルズがそのような予想を立てた直後、通話相手のオルティスはまさに予想通りの言葉を悲鳴じみた声と共に放った。
『さっき話した例の遺体だ! 黒焦げの遺体、それが動いている!! み、右腕が、動いた! それに……あ、ああ、嘘だろ、血が噴き出して……?』
「オルティス、今すぐそこから逃げて!! その部屋から出て、扉を閉め、外に出て身の安全を確保しなさい!! そして署内から全員を退避させるのよ。バイオハザードボタンでも押して警告を出しなさい。急いで!」
『わ、分かった!』
オルティスが金切り声でそう返事をし、通話を打ち切ったその直前。ジュディス・ミルズはこの世の者だとは思えないような悲鳴を一瞬、耳にする。しかしその声の主は通話相手のオルティスではない。おそらく、オルティスの言う『黒焦げの遺体』だ。
ブクブクと泡を立てる音と共に腹の底から絞り出されるかのような、言葉を伴わない悲痛な叫び声。たった一瞬、聞こえてきたそれがジュディス・ミルズの耳にこびりつく。その悲鳴がもたらす苛立ちに身を任せながらジュディス・ミルズは立ち上がると、つい先ほど起き上がったばかりのアレクサンダー・コルトに焦点を合せ、こう言った。
「サンドラ! 私はシドニー市警に向かう。あなたは局に戻って、そしてアーチャー支局長に連絡を。頼んだわよ」
「了解だ」
アレクサンダー・コルトはそう返答するとスクッ立ち上がり、首をブルブルと左右に振る。彼女はそのようにして気分を切り替えると、シャッキリと目を見開き、眠気を振り払った。
そうしてASI局員である二人が出動する態勢を整え始めたとき。この件とは何ら無関係である――少なくとも、現時点では――エリーヌ・バルロッツィも立ち上がる。そしてエリーヌはジュディス・ミルズに視線を送ると、あることを言おうとした。「あの、私は――!」
「エリーヌさん、あなたはここで待機していて。外出はせず、機械類には何にも触れず、くれぐれも悪さをしないように。それで十分」
「けれど」
「最悪の事態が起こりうる可能性がある。あなたを巻き込むわけにはいかない」
助力を願い出ようとするエリーヌを、ジュディス・ミルズは冷たい態度で往なす。するとエリーヌは思いのほかあっさりと身を引き、彼女は再度ソファーに腰を下ろした。
その一方で、反対に勇み立つ者が現れる。それは瞬間移動という能力の保持者であるセィダルだった。「ジュディス。私が送っていこう。目的地の座標を教えてくれ。その次にアレクサンダー、君を転送――」
「いいえ、サンドラは自力で局に向かって。セィダルさん、あなたは私を送り届けたあと、局に移動してラドウィグを回収し、彼を連れて私のところに来て頂戴。それから、ラドウィグに武装するよう伝えて」
ジュディス・ミルズはそう言うと、リビングルームの中央に置かれている机の下から、そこに収納されていた箱を引っ張り出す。箱の中には、コンパスや地図、無線通信機といったものが入れられていた。その箱の中からニューサウスウェールズ州のみを描いた地図をピックアップすると、彼女はそれをセィダルに渡す。そして地図上のある二地点を指差した。
「シドニーの地図はこれ、シドニー市警がここで、現在地はここよ」
地図を受け取ったセィダルは、ジュディス・ミルズが指し示した地点を暫く凝視したあと、両目を閉ざす。何かを考えているようだ。その隙にジュディス・ミルズは自室へと戻ると、ASIより支給されている『おねんね銃』強電圧特殊スタンガンのスリーパーA79を回収。そのついでにジュディス・ミルズは、動きやすい靴に履き替えた。
そうして彼女がリビングルームに戻ると、地図を机の上に置いたセィダルが立っていた。
「場所は掴めた。――跳ばすぞ、私に掴まってくれ」
そう言いながらセィダルは細腕を前へと伸ばし、その細腕にジュディス・ミルズはそこそこ筋肉質な腕を巻き付け、がっちりとホールドする。直後、フワッと体が宙に浮き、さながら投げ出されるかのような感覚をジュディス・ミルズが覚えた。
エレベーターの高層階から下層階へと降りていくときのような浮遊感。重力の変化にざわつく内臓が発する不快さのシグナルをキャッチしたとき、ジュディス・ミルズの視界は暗転する。それまで見えていたアレクサンダー・コルトやエリーヌの姿、もとい自宅という背景の情報は消え、視界は暗闇に包まれた。全ての音は消え、空気さえないかのように息苦しくなる。
心細くなるような暗闇の中。しかしジュディス・ミルズは、セィダルの細い腕が微かに放つ体温を感じていた。そうして頼りなさげな細腕を抑え込む力をジュディス・ミルズが強めたとき、今度は頭上から容赦なく注ぐ強い重力に押さえつけられ、体を潰されるような感覚を味わった。
私、死ぬかも。そんな考えがジュディス・ミルズの頭に過ったとき、彼女の足裏が地面を掴む。そうして彼女が顔を上げて目の前を見たとき、そこには馴染みのある景色と馴染みのある人間の顔があった。
――尚、ここまでの出来事は瞬きと同等の時間の間に起きたことだ。
「オルティス。今度こそ本当なんだよな? またバイオハザードが出て、上階の署員全員に――」
場所はシドニー市警察署。豪奢な市役所と対峙するように置かれた見すぼらしい建物だ。その正面に降り立ったジュディス・ミルズとセィダルの二人は、ちょうど建物から出てきたところだったある人物と鉢合わせる。
「ばっ、バスカヴィル?!」
その人物は、ジュディス・ミルズないしエイミー・バスカヴィルの同僚だった男。シドニー市警きっての頭でっかちキザ野郎、アリン・ラスティング警部だ。大袈裟に驚き、背後にずっこけて尻餅をつくラスティング警部は、突然目の前に現れたジュディス・ミルズとセィダルの二人を見上げる。彼は突然の事態を理解できず、バスカヴィルというジュディス・ミルズの偽の身分の名を叫んだあとに硬直してしまった。
そのラスティング警部に向けて、ジュディス・ミルズが苦笑いと共に手を差し伸べたときだ。彼女の傍に控えていたセィダルが姿を消す。セィダルは次なる目的地に跳んでいったのだ。
セィダルは深夜の闇の中に白い煙を残して、忽然と消えた。それを目撃したラスティング警部は余計に困惑を深めていく。ジュディス・ミルズの手を払いのけて飛び上がるように立った彼は、白い煙の如く消えた人物を侍らせていたジュディス・ミルズを驚愕と共に見る。
「い、今の白いのは……!?」
上ずり、震えた声でアリン・ラスティング警部はジュディス・ミルズに問うが。ジュディス・ミルズは肩を一度小さく竦めるだけで、答えはしない。
その後ジュディス・ミルズは肩を落とすと、ラスティング警部から目を逸らし、代わりに背後へと振り返る。彼女はそこに立っていた人物、白衣を着た小太りの男――監察医ブラス・オルティス――に視線をやった。
ジュディス・ミルズと目が合った瞬間、監察医オルティスは安堵したかのように胸をなでおろす。それから彼女の傍に駆け寄ろうとしたのだが、その道を塞ぐように白い霧が現れるなり、彼は悲鳴を上げて立ち止まり、後退った。
「ヒェッ!!」
ジュディス・ミルズの傍に立ち込める白い霧。それは徐々に人の輪郭を形作り、やがて二人の人間が姿を現す。登場したのは舞い戻ってきたセィダルと、そのセィダルが連れてきたラドウィグの二人だった。
ラドウィグという戦力の到来にジュディス・ミルズが安心したのも束の間。ラドウィグが武装らしい武装をしておらず、銃さえ携帯していない様子に気付くなり彼女は眉間に皴を寄せる。そうしてジュディス・ミルズは、スーツ姿で余裕そうなそぶりを見せるラドウィグを問い詰めるのだった。「あなた、武装は?」
「火があるんで大丈夫っス。まあ一応、手錠だけは持ってきました。二つを」
「回答になっていない。武装は、どうしたの?」
「武器を携帯しているほうが危険だと判断しました。奪い取られ、制圧されるリスクがある。そうなったら多数の被害が出るかも。でもオレの火は安全ですよ、質量がないから」
だが、ラドウィグには彼なりの考えがあるらしい。納得はしていないが理解は示すジュディス・ミルズは、そこで折れることにする。
「はぁ、分かった。……なら聞きなさい、ラドウィグ。おそらくジョン・ドーが見つかった。ここ、シドニー市警のモルグに居る。詳細はオルティスから聞いて」
ラドウィグとジュディス・ミルズの二人が、そのように冷静な様子で会話をする一方。冷静でいられないのがラスティング警部と監察医オルティスの二人だ。特に注目を向けられたオルティスは、突如現れた見知らぬ若者ラドウィグにぶるりと肩を震わせる。それでも根はクソ真面目な監察医オルティスはジュディス・ミルズに促されるがまま、得体の知れない若者ラドウィグに事の発端についてを語ろうとするのだった――が。
「つい、先ほどのことだ。彼女と電話で話していたときに、遺体が動き出したんだ。黒焦げの、子供の遺体が……」
「リシュ。マダムに今のことを伝えて、急ぎで」
ラドウィグは監察医オルティスの話をろくすっぽ聞かずにスルーすると、何も居ない――ように周囲の者には見えている――足元に向かってそう言う。その様子に監察医オルティスは呆気に取られて黙りこくり、そして話を盗み聞いていたラスティング警部は驚きのあまり口も目も極限まで開けていた。
そうして呆然としているラスティング警部に、ラドウィグは狙いを定める。グッと眼光を鋭くさせるラドウィグは睨み付けるようにラスティング警部を見ながら、彼にあることを訊ねた。「署内に居た人は全員、退避したんスよね?」
「いいや、全然」
「はぁ?」
「モルグから異常でも何でもないアラームが発出されることが日常になりすぎて、誰も緊急事態だと考えていない。夜勤の連中も、地下の留置場にいる奴らも、笑ってスルーしているだけだと思うぞ」
ラスティング警部から返ってきた予想外の返答に、ラドウィグは軽い怒りを覚えていた。こんな緊急事態に、なんて能天気な態度でいやがるんだ、と。
すると監察医オルティスが居心地が悪そうに肩を竦める。それからオルティスは、今のこの状況において何の足しにもならない弁明を述べ始めた。「緊急警報装置に、コーヒーをぶちまけたんだ。半年前に。それ以来、アラームの誤作動が多くなってな。ドアをちょっと開け閉めした振動でアラームが鳴るようになってしまったんだ。そうしたら、この通り。誰もアラームを気に留めなくなった、本物の緊急時であるにも関わらず……」
「装置を交換するべきね。可及的速やかに」
ジュディス・ミルズは冷静にそうツッコミを入れると、ラドウィグを見やる。その視線の意図を理解したラドウィグは小さく頷くと、こう言った。
「オレがモルグの様子を見てきます。皆さんはここで待っていてください」
「モルグは、この階の最奥にある。入ってすぐの廊下を真っ直ぐ進み、突き当りで右に曲がり、更に突き当りで左に曲がった先の廊下、その一番奥にある。気をつけてくれたまえ」
監察医オルティスによる簡易の場所説明を聞いたあと、ラドウィグはひとり警察署内の中に入っていこうとするが。その直前、セィダルが彼のことを引き留めた。セィダルはラドウィグの手首をサッと掴んで注意を引くと、ラドウィグに言う。「私も行こう」
「いや、邪魔なんで来なくていいっス」
しかし、ラドウィグは冷淡に突き放すのみ。そうしてラドウィグはひとり、警察署内に立ち入った。
真夜中の警察署内。どこかしらに夜勤の警官たち――警報を笑って受け流し、退避しなかった警官たち――がいるためか、静かな暗闇の中でも、しかし人の気配がまばらに立ち込めている。これではジョン・ドーの気配を絞ることは難しそうだ。
それに加え、ラドウィグは足元を照らす懐中電灯といったものも持ってきていなかった。そのため仕方なく彼は左手を顔前にかざして人差し指を立てると、その指先にポッと小さな火を灯す。マッチ一本分ほどの大きさの質量無き火が灯り、そっとラドウィグの周囲を照らす。その火は衣服も肌も空気さえも焼かずに明るく灯る一方で、じりじりとラドウィグの体力を掠めとっていった。
さっさとジョン・ドーを捕まえて、体力の消耗を最低限にしなくては。そう考えるラドウィグがより精神を研ぎ澄ませ、音に注意を払ったときだ。最初の廊下、その突き当りに差し掛かったラドウィグが壁際に身を隠しながら、曲り角の先の様子を探ろうとした直前、彼の耳が異音を拾う。
ザザ……ザザ……という、厚手で重そうな大きい布を静かに引き摺って歩く音。ムチャッ、ペチャッという溶けた皮膚や肉片を床に擦り付けながら歩くような、しかし静かで小さな足音。それらは気配を消す努力をしているように感じられるが、一方で気配を醸し出している音がある。それはゼーゼーという荒い呼気。痰が絡んでいる喘鳴のような呼気だが、しかしその呼気には小さな泡が吹きこぼれるかのようなコポコポという薄気味悪い音も混ざっている。
「……」
黒焦げの遺体が復活し、動き出した。その話だけでも十分に不穏だが。こうして薄気味悪い音や気配を伴っていると、自然と背筋がぞわぞわと震え始める。絵空事めいた幽霊話や怪奇現象とはまた違う、身の危険さえ覚える不穏がすぐそこに迫っていた。舐め腐った精神性の持ち主であるラドウィグとて、この事態には震えずにはいられない。
だが、ここで万が一の事態を食い止められるのは恐らくラドウィグのみ。覚悟を決めたラドウィグは掲げていた左手を握り締め、質量無き炎の出力を強めた。手始めに握りこぶしを覆うほどの炎を放出すると、それを拡大し、上腕まで覆うほどの火を顕現させる。
幼少期にみっちりと叩きこまれた『天界の火 』を操るための術。それを初歩から順に思い出しながら、ラドウィグは出力を最大にし、質量無き炎を全身に纏った。そしてラドウィグは壁際から躍り出ると、そのまま曲がり角を突っ切って走りぬける。
眩いばかりの明るい橙色に包まれた姿。それは人を驚かせて怯ませるのに最適だと、ラドウィグは知っている。たいていの人間はこの姿を見ると、理解が追い付かずに硬直するのだ。そしてそれは不死身の怪物も同じ。
「……!」
暗闇を切り裂き直進する火の玉の如き人間の姿を目撃した不死者は、その場で立ちすくみ、腰を抜かしたかのようにへなへなと座り込む。そして涙のような血を眼窩から垂れ流す不死者は、自身の前に立ち止まった火を纏う若者を呆然と見上げていた。
「オレは何もしないから、安心して」
廊下の突き当りで立ち止まり、全身に纏っていた火をそっと鎮めたラドウィグは、彼の足元に座り込んでいた人影にそう声をかける。彼の足元には、遺体を覆い隠すために使われるフランネル生地の白布を体に巻き付けたジョン・ドーが座り込んでいた。
再び暗闇に包まれた廊下では、ジョン・ドーの姿は正確に視認することができない。だが夜目の効くラドウィグには、その姿が並の人間よりかは細かく捉えられていた。だからこそ彼は口角を引き、少しの不快感を露わにする。とても人間だとは思えない怪物の姿が、そこにあったからだ。
「オレはマダムの逆鱗に触れるような真似はしたくない。彼女は怖いし、怒らせたくない。だから怖がらなくていい。……マダム・モーガン、分かる?」
ラドウィグの言葉に、ジョン・ドーは無言で首を縦に振り、頷く。その拍子にジョン・ドーの顎からはぴちゃぴちゃと血が滴り落ち、それは体に巻き付けられたフランネル布や床を汚した。また、頷いた拍子にジョン・ドーの右眼窩からは眼球らしきピンク色の塊が飛び出し、頬骨の前あたりでぷらんぷらんとぶら下がる。そしてジョン・ドーは飛び出た眼球らしきモノを、筋肉が剥き出しになっている左手の指先を使って眼窩に押し戻していた。
そうしている間にも、ジョン・ドーの体の再生は進んでいく。骨を基軸に臓器が形作られ、臓器を覆うように血管が草根のように張り巡らされ、血管を覆い隠すように筋肉が構築され、筋肉を覆うように脂肪や皮膚層が積み重ねられていく。ピチャピチャ、ポコポコ、ゴポゴポと異音を立てながら、不死身の怪物は徐々に人間らしい姿かたちを取り戻していった。
「あとで彼女が迎えに来てくれると思うから。それまで大人しくしていてくれれば、それでいい。オレは君に何もしたくないから、オレが君に何かをしなくちゃいけない状況を作らないでほしい。分かった?」
うわあ、気持ち悪い、気持ち悪いよ、何なんだよ、これ!! ――そのように心の中で叫び、頭の中で自分をのたうち回らせながらも、現実のラドウィグは冷静であるように努めていた。
ジョン・ドーが体に巻き付けていたフランネル布がすっかり体液で変色しているさまを見下ろしながら、ラドウィグは息を呑む。そしてラドウィグが再びジョン・ドーの顔を見やったとき、ジョン・ドーの顔は既に大部分が回復していた。
血塗れだが血色の悪い肌は大部分が再形成されていたし、髪もまばらに生え始めたり伸びていたりしている。虚ろな目にはエメラルドに似た緑色を纏う虹彩が輝き、その瞳は生気も感情も無い視線をラドウィグに浴びせていた。
意図を掴みかねる薄気味悪い目に、今度はラドウィグが怯んでしまう。そうしてラドウィグが一瞬だけ身震いをしたのだが。そのタイミングで、ジョン・ドーの体の大部分が回復し終えた。
四肢の一部で肉が剥き出しになっている一〇歳ぐらいの少年の姿。この状態なら、多少ゾッとするとはいえ表で待機している人々の前にも連れて行けるし、手錠も嵌められそうだ。そう考えたラドウィグは、念のためにと持ってきていた手錠を取り出す。彼は虚ろな目をした不死身の怪物に言った。
「オレから離れられると困るから、手錠をかけるよ。いいね?」
ラドウィグが腰ベルトのガンホルダーに突っ込んで持ってきた手錠二組を雑に取り出すと、そのタイミングでジョン・ドーは大人しく両手を後ろに回す――それはまるでラドウィグの意図を完璧に把握しているか、またはこのような状況に慣れているかのような機械的な振る舞いだった。
後ろに回したジョン・ドーの両手首に、ラドウィグは素早く手錠を掛けて締めると、続けてジョン・ドーの左手首にもう一本の手錠の片輪を嵌めた。そして宙ぶらりんになった片輪にラドウィグは彼自身の右手首を嵌める。それからラドウィグはもう一度ジョン・ドーの顔を見ると、暗示を掛けるように言った。
「とりあえず、オレの傍に居れば安全だから。ついて来て。いいね?」
再びコクリと頷くジョン・ドーだが、その眼窩から眼球が零れ落ちることはない。そんなジョン・ドーの様子を伺いながらラドウィグが一歩を踏み出す。すると同じだけの歩幅でジョン・ドーも進んだ。そしてラドウィグが気配を消すよう努力をすれば、ジョン・ドーも同じく息を殺す。
そっくりそのまま、ラドウィグのあらゆる仕草や身振りを真似る。そんなジョン・ドーに更なる不快感と居心地の悪さを覚えながらも、ラドウィグは不死身の怪物の手を引いて出口を目指した。
「……」
幸いにも道中で警官らと遭遇することはなく。また、ジョン・ドーが暴れることもなく。ラドウィグはあっさりと目的地に到達する。いつになく緊張感に満ちた雰囲気のジュディス・ミルズの顔を再び目にした瞬間、ラドウィグはドッと安堵した。
「うーっす。ジョン・ドーの回収完了っス」
ラドウィグは空いている右手で手を振りながら、ジュディス・ミルズに歩み寄りつつ軽い調子でそう言う。それに対してジュディス・ミルズは顔を険しくさせながら、無言で首を縦に振った。
当然だが、真人間であるジュディス・ミルズの眼窩から眼球が飛び出てくることはない。当たり前の現実にラドウィグが安心から肩の力を抜いたときだ。ジュディス・ミルズの傍に立っていた男、監察医オルティスがラドウィグの同伴者を見るなり「ヒェッ」と何度目かの息を呑む。それから監察医オルティスは怪物を見るような目をジョン・ドーに向けながら、震える声を喉から絞り出した。「あ、あの、あの子が、まさか……」
「そうよ、オルティス。だから探していたのよ、何度でも蘇る不死者である彼を。このような存在を放逐するわけにはいかないのだから」
怯える監察医オルティスに、しかしジュディス・ミルズは冷たい声で事実を浴びせるのみ。それからジュディス・ミルズはラドウィグに視線をやったあと、続いてセィダルに目を向ける。
「セィダルさん。あなたは、ラドウィグを連れ――えッ?!」
ジュディス・ミルズがまだ言葉を発していた途中。にも関わらずセィダルは彼女の手首を軽く掴む。心の準備も出来ぬまま、ジュディス・ミルズはぐわんと体が大きく揺れる感覚を味わった。
急激な重力の変化に煽られ、気分が悪くなり少しの吐き気が込み上げてきたとき。ジュディス・ミルズの前には、何時間か前にも居たASI本部局アバロセレン犯罪対策部のオフィスが映る。彼女はこの場所に引き戻されていたのだ。
「私が指示を出す前に動かないで頂戴。驚くでしょう!?」
目の前に立つセィダルにジュディス・ミルズはそう文句を言うが、しかしセィダルは彼女の言葉を最後まで聞くことなく姿を消す。白い薄靄を残してセィダルが姿を消したと思った瞬間、またも白い靄が立ち込める。次の瞬間、今度はラドウィグとジョン・ドーが姿を現し、少しだけ遅れてセィダルも靄の中から現れ出る。
再び姿を見せたセィダルを、ジュディス・ミルズは指差して睨み付ける。それに対してセィダルが苦々しい笑みを浮かべて応答したとき、いやに冷静なラドウィグがわざとらしい咳ばらいをしてみせた。そうして注目を引いたあと、ラドウィグが言う。
「それで、姐さん。次、どうします? ジョン・ドーはまた地下牢に?」
「ええ、そうして。鎮静剤で眠らせた後、彼は檻の中に。あなたは檻の外で見張っていなさい。交代要員が来るまで、そこで待機。ダルトン、ミダゾラムを持ってきて」
ジュディス・ミルズはラドウィグにそう指示を出したあと、続けてオフィスの隅で仮眠を取ろうとしていた主席情報分析官リー・ダルトンにまで命令を飛ばす。
普段ならシニカルな笑みと共に軽口を叩くであろう主席情報分析官リー・ダルトンも、ラドウィグの傍に無言で佇んでいるジョン・ドーの姿を見るなり表情を硬くさせ、すぐさま立ち上がった。そして彼は命令に従い、頼まれた薬物を取りにオフィスの外へと出て行く。
主席情報分析官リー・ダルトンが命令に従ったのを確認すると、ジュディス・ミルズは携帯電話端末を取り出し、ある局員を呼び出す。それはフォネティックコードで呼ばれていた特殊作戦班の隊員の中で唯一ASIに留まることを望んだ局員、コードネーム・エコーことコービン・デーンズという男だった。
「コービン。悪いけど、今から局に来てくれないかしら。――ああ、そう。助かるわ、ありがとう。それじゃあ待っているから。――えっ、なに? ネコチャンを連れてきてもいいか? ダメに決まってるでしょ。あの気色悪いアザラシ……いえ、可愛いネコチャンにはお留守番をしてもらって。ともかく、待っているわよ。なるべく早く来て頂戴」
ジュディス・ミルズが妙な会話を繰り広げている姿を、ラドウィグは細めた目で観察する。その横で、ジョン・ドーも同じく生気の無い目でジュディス・ミルズを見ていた。次にラドウィグはそっとジョン・ドーに視線を移し、様子を伺うのだが。すると気配を察知したかのようにジョン・ドーの目もラドウィグに向く。気味が悪いほど同じ行動を真似するジョン・ドーに、ラドウィグが恐怖感から生唾を呑んだときだ。ラドウィグの耳が、カシャカシャという音を感知する。
ラドウィグが音のした先を見やると、そこには主席情報分析官リー・ダルトンが居た。彼は必要量の薬剤のみが既に充填されている使い切りタイプのシリンジを片手に持ち、もう片方の手には大きな黒いビニール袋を携えている。そのビニール袋の中には、ポリエステル製の青いターポリンが入れられていた――恐らく、ジョン・ドーのために持ってきたのだろう。
「ご命令通り、持ってきましたよ」
主席情報分析官リー・ダルトンはそう言うと、持ってきたシリンジをジュディス・ミルズに渡す。次に彼はビニール袋の中からターポリンを引っ張り出すと、それをラドウィグに手渡した。それから彼は次に、ジョン・ドーが体に巻き付けていたフランネル布を指差し、ラドウィグに意味ありげな視線を送る。彼の目は「その汚い布は捨てるから、このビニール袋の中に入れろ」と訴えていた。
その意図を汲んだラドウィグは、ジョン・ドーと彼とを繋いでいた手錠をまず外す。それからターポリンを広げると、それでジョン・ドーの腋より下をぐるりと覆い隠した。続けて、ターポリンの下に隠されたフランネル布を手探りで解く。
指先の感触を頼りにフランネル布の結び目らしき場所を解けば、体液で汚れた重たい布がボトリと床に落ちた。落ちた布をラドウィグは厭々ながらも拾い上げ、それを主席情報分析官リー・ダルトンが持つビニール袋の中に押し込む。生暖かい布の感触が残る手にラドウィグは顔をしかめさせ、主席情報分析官リー・ダルトンは布が放つ異臭に眉をひそめながら袋の口を閉じた。
しかし、当のジョン・ドーは無表情で無感情のまま。表情一つも取り繕わず、瞳に何の感情も浮かべないジョン・ドーは、直立したまま固まっている。寒がる様子もなければ、恥ずかしがる素振りさえも見られない。
「坊や、お注射するから暴れないでね。――それから、大きい坊やたちは手を洗ってきなさい。念入りに消毒もすること。いいわね?」
シリンジの用意を終えたジュディス・ミルズがそう声をかけるものの、その声をジョン・ドーが理解しているかは定かでない。ジョン・ドーの虚ろな目はジュディス・ミルズを見ていたが、そこには同意の意思も拒否の意思も感じられなかった。
その横で、大きい坊や呼ばわりをされた男二人組は互いにしかめた顔を見合わせる。その後、二人は無言でその場を立ち去っていった。手に付いてしまった怪物の体液を落とすため、手洗い場のある男子トイレに二人そろって向かって行ったのだ。
そして男二人が消えたとき。入れ違うかたちでオフィスに入ってきたのは、万能の人工知能を搭載したヒューマノイドであるAI:Lである。小走り気味で駆けてきたAI:Lはジュディス・ミルズの傍で止まると、シリンジを持つ彼女の手に触れる。それからAI:Lは言った。「エージェント・ミルズ、代わります。あなたは休憩を」
「あなたは気が利くわね、レイ。ならお言葉に甘えて、少し寝ようかしら」
ジュディス・ミルズはそう答えると、大人しくAI:Lにシリンジを渡す。次に彼女はすぐ傍に突っ立っていたセィダルを見ると、こう言った。
「セィダルさん。あなたは帰って、ゆっくり休んで。ただし粗相のないように」
ジュディス・ミルズの言葉に、セィダルは苦笑と共に小さく頷く。――のだが。首を小さく縦に振った直後、セィダルはその場に倒れ込む。セィダルはガクッと膝を曲げたあと、腰を抜かしたように倒れ、そのまま目を閉じた。
幸い、セィダルが頭を床にたたきつけるよりも前に、ジュディス・ミルズがその体を支えたことで、大事は免れる。バランスを崩してふらついたセィダルの体を片腕で支えながら、ジュディス・ミルズは小声で呟いた。
「失神したようね。……悪いことしちゃったわ」
言い終えた後にジュディス・ミルズが溜息を零したとき。セィダルの瞼が僅かに開き、意識もおぼろげな瞳が覘く。その目は何かを伝えようとしているようだったが、けれどもジュディス・ミルズがそれを阻んだ。
「いいのよ、セィダルさん。気にしないで。ここで寝ていいわ、あなたも疲れたでしょう?」
再びセィダルの瞼は閉じ、その体からは力がガクンと抜け落ちる。そうして長く細い首が脱力し、だらんと垂れたときだ。露わになったセィダルの首筋に、無数の赤く細い筋が浮かび上がっていることにジュディス・ミルズは気付いた。
丁度そのとき、手洗いを済ませた男たち二人がオフィスに戻ってくる。主席情報分析官リー・ダルトンは異変に気付くとジュディス・ミルズのもとにすぐ駆け寄り、セィダルの体を支えていたそのポジションを彼女と交代した。その後すぐにラドウィグも駆けつけると、ラドウィグはセィダルの投げされた両足首を掴む。男たちは二人がかりで長身のセィダルを持ち上げると、近くにあったソファーの座面にセィダルを移し、そこに寝かせた。
「瞬間移動っていう能力は、肉体に過負荷が掛かるものなのね。死神さんたちはホイホイと簡単に跳んでいくから、そうでもないのかと思ってたけれど。この能力は使いどころを慎重に見極めないといけないのかも……」
そう言いながらジュディス・ミルズは、眠ったかのように動かなくなったセィダルを見下ろす。セィダルの頬や首筋、手や腕に出現した赤いワーム状の斑点――急激に拡張した毛細血管か、またはそれに伴う内出血の痕だ――を一通り観察し終えると、彼女は次にラドウィグを見やった。それから彼女はラドウィグに言う。
「ラドウィグ、あなたはジョン・ドーを地下牢に連れて行って。コービンが到着したら、彼と交代して、あなたが休むように」
「うっす、了解っス」
ラドウィグが軽い調子で返事をすると。それと同時に、AI:Lがジョン・ドーへの薬物の投与を終えた。ジョン・ドーの上腕部に深く突き刺していた針をAI:Lはスッと抜き、刺入部を綿で押さえつけて簡単な圧迫止血を行ったあと、引き続きAI:Lは後始末を淡々とこなす。
その傍に座るジョン・ドーは感情がない目で、次の指示を仰ぐようにラドウィグを見上げていた。その目は血が通っているものでありながらも、人工物であるAI:Lのガラスの瞳よりも無機質であるように感じられている。そんなジョン・ドーに向けてラドウィグが「ついて来て」と言えば、ジョン・ドーは指示された通りに動く。
ラドウィグが廊下に向けて歩き出せば、ジョン・ドーは大人しくその後を歩いていく。同じだけの歩幅で、同じ程度のスピードで……。
「……」
ラドウィグはオフィスの通路を抜け、出入り口を潜って廊下に出て、エレベーターを目指して歩いた。その後を、同じようにジョン・ドーも歩いていく。そこに会話は無く、親密な空気も無い。あるのは、ラドウィグにとって居心地の悪い緊張感のみ。
そうしてラドウィグが小さく身震いをしたときだ。ラドウィグは暖かな気配が近くにポッと現れたのを感知した。その場所に彼が視線をやってみれば、彼の小柄な相棒の姿がある。お尻に生えた九本の尾の先に質量なき炎を纏わせた神狐リシュが、役目を終えて舞い戻ってきていたのだ。
「おかえり、リシュ。マダムは何て言ってた?」
ラドウィグが立ち止まりそう声をかければ、神狐リシュは彼のもとにトコトコと歩み寄ってくる。そして神狐リシュはラドウィグの足元で止まると、そこにちんまりと座る。それから神狐リシュはこう言った。
『すぐには来られないらしい。ジョン・ドーについてだが、彼女はこう言ってたぜ。フェンタニルで眠らせろ、とな』
「はぁ~。それ、もうちょっと早く聞きたかった。ついさっき、ミダゾラムを打ったばかりだよ」
ラドウィグはそう小言を零しながら、眉を僅かにひそめる。フェンタニルという言葉、それがラドウィグに新たな警戒心を植え付けたのだ。リシュはああ言っているが、マダム・モーガンの意図は別なのではないかと思えたのである――致死量のフェンタニルを投与して殺せと、彼女は暗にそう伝えているのでは?
まさかと思いながらラドウィグがジョン・ドーに視線を移す。そのとき、ジョン・ドーがふらりとバランスを崩し、その場に倒れ込んだ。すると神狐リシュは言う。
『ミダうんちゃらが、もう効いたのか?』
ジョン・ドーの呼吸は穏やかで、半開きになった瞼は朦朧とした状態であるようにも見える。が、ラドウィグはこの状態に違和感を覚えていた。
なぜなら、ラドウィグの目にはAI:Lが筋肉注射をしていたように見えていたからだ。あれは決して静脈注射ではない。静脈注射であれば、素早く効果が発現するのは理解できる。が、筋肉注射はそうではなかったとラドウィグは記憶している。一〇分から三〇分、効果が表れるにはそれぐらいの時間が掛かったはずだ。しかしAI:Lがジョン・ドーに鎮静薬を投与してから、まだ五分程度しか時間は経過していない。
子供のような体格であるといえ、ここまで早く効果が現れるものだろうか。そんな疑念に首を捻りながらも、ラドウィグは床に倒れ込んだジョン・ドーを回収する。背中に左腕を添え当て、膝裏に右腕を回して、彼はジョン・ドーの小さな体をヒョイと抱き上げた。そして、エレベーターに向かうべく歩みを再開しようとしたのだが。ひとつ歩を進めたところで異変が生じる。
「――ジョンソン!!」
突如、聞こえてきたジュディス・ミルズの悲鳴。部長の名を叫ぶ彼女の声には、危機の到来を伝える緊張がまとわりついていた。
その声から緊急事態が発生したのだと判断したラドウィグは、意識朦朧としたジョン・ドーを抱えたまま踵を返し、アバロセレン犯罪対策部のオフィスに駆け足で戻る。ラドウィグはオフィスの出入り口前にジョン・ドーを下ろして寝かせると、彼の監視を神狐リシュに任せた。
そしてラドウィグは覚悟を決めると、緊張感に満ちたオフィスの中に突入する。――その先で彼が目にしたのは、つい数分前とは全く異なるオフィスの有様だった。
「……!!」
アバロセレン犯罪対策部内、その最奥にある部長のオフィス。その出入り口の扉は開け放たれており、テオ・ジョンソン部長はちょうどその出入り口から二歩ほど通路に出た場所に立っていた。
そして部長の背後には、所々に穴の開いた薄紫色の外套を身にまとう曙の女王が立っている。曙の女王はテオ・ジョンソン部長を背後から羽交い締めにしており、彼の身動きを封じていた。そのうえで彼女は、テオ・ジョンソン部長の右目にナイフの刃先を浅く突き立てていた。
その一方で、ナイフの刃先がそれ以上深く刺さらぬよう止めている手がある。それはテオ・ジョンソン部長の目の前に立つAI:Lの手だった。AI:Lは左手部位で曙の女王の右手首を掴み、ナイフを握るその手を固定していたのである。
「――それはボクが万民を庇護するようプログラムされているからです。ゆえに、あなたと同じ道を往くことはできません!」
曙の女王に威勢よく啖呵を切るAI:Lは、頑丈な機械の如き剛堅さで彼女の手を固定していた。下にも上にも、左右にも動かせぬ己の右手に、曙の女王は顔をしかめさせている。そして動けぬのは部長も同じ。羽交い絞めをされて動きを封じられていることもあるが、下手に動けば失明どころか命さえ失いかねない状況に、流石のテオ・ジョンソン部長も緊張から硬直しているように見えていた。
そしてAI:Lの背後に控えている局員たちもまた動けずにいる。不用意な行動が部長を危険に晒すことになると判断していたからだ。デスクの引き出しから拳銃を取り出すことさえ躊躇われる、この状況下。慌ててオフィスに駆け込んだラドウィグもまた、それ以上は動くことができず、ただAI:Lの背中を見つめるだけとなってしまう。――すると、曙の女王が舌打ちをした。
「揃いも揃って、ノリが悪い。興醒めした。さよなら」
舌打ちの次に捨て台詞を吐いたあと、曙の女王はドロンと姿を消す。黒い霧のみを残し、右手に握るナイフごと消えていく。その瞬間、バランスを崩した部長は後方に倒れかけるものの、大きく体が揺らぐ前にAI:Lが支えに入り、大事には至らなかった。
だが、気掛かりなものをラドウィグは捉えてしまう。それは部長の右目から頬にかけて、ゆっくりと伝い落ちる透明な液体だ。涙にしては妙に粘性を帯びているトロッとした体液――恐らく眼球の内容物である硝子体だ――が僅かに滴る一方で、当の本人は大した痛みを感じていないのか、安堵の表情を浮かべる余裕さえ見せている。
これはマズい。直感的にそう判断したラドウィグは、思考が判断に追い付くよりも先に動き出していた。大慌てで走り出すラドウィグが向かう先は、コーヒーメーカーのあるエリア。とはいえ彼の目的は一服ではない。そこにあるはずのものが応急処置に必要だと、直感が判断したのだ。
「ラドウィグ? あなた、何をしているの?」
コーヒーメーカーのもとに駆け出したかと思えば、その近辺を急にガサゴソと漁り出すラドウィグに、ジュディス・ミルズはそう訊ねる。そしてラドウィグが紙コップひとつを片手に持って慌ただしく立ち上がり、再び走り出せば、ジュディス・ミルズは表情を険しくさせた。
ラドウィグに疑念を向けるジュディス・ミルズの目。ラドウィグがその視線に気付いたとき、彼の思考がやっと直感に追いつく。説明を怠っていたことにも同時に気付いたラドウィグは、テオ・ジョンソン部長のオフィスに無断で入室しながら、部長に向けて忠告を飛ばした。
「部長! 絶対に目に触らないでください。左右とも、絶対に。触ったら最後、左目も失明しますからね? あと頭、動かさないで。それから可能な限り、まばたきも控えてください!」
ドタバタとひとり忙しく動き回るラドウィグを、苦笑しながらも見ていたテオ・ジョンソン部長だったが。ラドウィグが発した『失明』という言葉を聞くなり、自分が置かれている状況を察して顔を蒼褪めさせた。
その後ラドウィグはテオ・ジョンソン部長のデスクを無断で漁る。引き出しを次々に開け、鋏とセロファンテープの二つを引っ張り出すと、デスクの上にそれらを置いた。次に紙コップの底面を鋏で切り落とすと、切り落とした底面を手に取る。それから長めに切ったセロファンテープを二枚用意すると、バツ印を作るようにセロファンテープを紙コップの底面に貼り付けた。これにより、簡易のアイパッチが完成したというわけである。
そしてラドウィグは、簡易のアイパッチを持って再び駆け出す。走りながら彼は、テオ・ジョンソン部長の傍に控えるAI:Lに指示を出した。
「レイ! 部長をゆっくりと床に座らせて。それから、ゆっくりと仰向けに寝かせて。ゆっくりと、慎重に!」
AI:Lはラドウィグの指示通りに動き、テオ・ジョンソン部長はAI:Lの誘導に従う。彼の右目からちょろちょろと流出する体液には血が混ざり始め、涙のように透明だったそれは少しの赤色を帯び始めていた。
そしてテオ・ジョンソン部長が仰向けに寝かされたとき、紙コップ製の簡易アイパッチを携えたラドウィグが彼の傍にやってくる。と同時に、ラドウィグの傍には主席情報分析官リー・ダルトンが並ぶ。主席情報分析官リー・ダルトンの手元には、一人分のゴム手袋が入れられたポリ袋と、一〇㎝大に裁断済の滅菌コットンガーゼが詰められた箱が揃っていた――ラドウィグの意図を理解した彼は、必要と思われるものを持ってきてくれたわけだ。
ラドウィグは主席情報分析官リー・ダルトンからまずゴム手袋を受け取る。ゴム手袋を装着しながら、彼はジュディス・ミルズをふと見やった。険しい顔をしながらテオ・ジョンソン部長を見ている彼女は、彼女のデスクに置かれた電話から緊急の搬送を要請している様子だ。
自然に行われている分業、そして連携。特務機関WACEなどという監獄では見たことがない円滑な流れに感心しながら、ラドウィグは箱から滅菌ガーゼ数枚をガサッと取り出す。部長の目から流れ出ていた眼球の内容物と血液をそれで拭い取ったあと、ゴム手袋が入れられていたポリ袋にそれを詰め込んだ。
その間に主席情報分析官リー・ダルトンは箱から滅菌ガーゼを数枚取り出し、それを綺麗に重ね揃える。そして重ね揃えられた滅菌ガーゼ束をラドウィグは受け取ると、それを部長の右目に軽く当てる。滅菌ガーゼの上にラドウィグは紙コップ製の簡易アイパッチを被せると、簡易アイパッチに予め貼り付けてあったセロファンテープを部長の顔に貼って、簡易アイパッチを固定した。
今、ここで可能な応急処置はここまで。そう判断したラドウィグは、一仕事を終えるとドッと肩の力を抜く。それからラドウィグはテオ・ジョンソン部長に笑いかけつつ、こう言った。
「運が良ければ、右目の失明は避けられます。まあ、かなり視力は落ち――」
しかし、言葉は最後まで言い終えることができなかった。言葉の途中でラドウィグは、突如上体を起こしたテオ・ジョンソン部長によって突き飛ばされたのだ。
予測不能なこの事態にラドウィグが呆気に取られ、背中から床に落ちたとき。彼が耳にしたのは銃声だった。引っくり返るように倒れたラドウィグが頭のみを動かし、銃声の発生した先を見てみれば、そこには虚ろな目をしたジョン・ドーが立っている。つい先ほど、眠ったかのように倒れ込んだはずのジョン・ドーが、意識のある状態で立っていた。小声で繰り返し同じ言葉を呟き続けるジョン・ドーの姿が、そこにあったのだ。
「……これは命令、命令、命令、これは命令、命令……」
自己暗示のように同じ言葉を繰り返し唱え続けるジョン・ドーは、誰かしらのデスクから奪い取ったのであろう拳銃を構えていて、その照準をテオ・ジョンソン部長に合わせていた。そして照準の先に居た部長は既に被弾したのか、仰向けに倒れており、動く気配はない。
「……!!」
――この状況が示唆するのは一つ。曙の女王の目的はテオ・ジョンソン部長を仕留めることだったのだ。そのために彼女はジョン・ドーを利用した。暗示を掛けたジョン・ドーをアルストグランの国土に放ち、ASIに彼を捕まえさせて、彼が部長に近付けるよう仕向けたのだ。
ラドウィグはジョン・ドーを取り押さえるべく、慌てて立ち上がり、即座に駆け出す。しかしジョン・ドーの動きは素早かった。ジョン・ドーはオフィスの窓に向かって複数回連射をすると、拳銃を投げ捨て、窓に向かって走り出す。そのままジョン・ドーは銃弾でひび割れた窓に体当たりを決めると、窓を肩でカチ割り、そのまま飛散する窓ガラス片と共に地上へと落ちていった。
さながら、それは投身自殺のよう。ジョン・ドーは命綱もパラシュートも何もない状態で、しかし躊躇なく飛び降りていった。みっともなく命乞いをすることもなく、捨て駒の役目を果たして散っていった。
「…………」
ここは高層階。真人間がこの高さから投身を試みれば、確実に死ぬだろう。とはいえジョン・ドーは不死身だ。死んだとしても、どうせまた生き返る。だが、今ここで死んだことには変わりない。
ジョン・ドーを追いかけていたラドウィグだが、彼は穴の空いた窓の手前で立ち止まると、そんなことをウダウダと考え始める。飛び降りたジョン・ドーを追うことを諦めた彼は、下唇を軽く噛みながらテオ・ジョンソン部長に視線を移した。
そして彼が部長の傍にトボトボと歩み寄ろうとしたとき。ラドウィグは部長の傍に、黒い靄に包まれた人影――恐らく死霊の類だ――があることに気付く。仰向けに倒れるテオ・ジョンソン部長の頭のすぐ傍に膝をつき座り込んでいるように見える黒い人影は、掠れた小声で呟くように言っていた。
『……まだ……来ては、いけない……こちら側に、あなただけは……』
声は次第に小さくなり、それに伴い人影そのものも薄くなっていく。やがて声も消え、黒い靄さえも見えなくなった瞬間、テオ・ジョンソン部長が咳込んだ。それから彼は咳込みながら、自身の着ているジャケット、その胸元に手を当てる。部長が手を当てていた部分には、被弾した際に空いたと思われる穴があった。けれども、その手に血が付いている様子はない。
そしてテオ・ジョンソン部長は被弾した部分に手を突っ込みながら、苦しそうな半笑いを浮かべた。それから彼が胸元から取り出したのは、一冊の手帳。古びた革製のカバーに潰れた弾丸がめり込んでいる手帳を、部長はジャケットの中から取り出しながら、ひとり呟いた。
「ハハッ。まさか、こいつで命拾いをするなんてな――……ッ!」
およそ四〇年は使い続けているだろう手帳カバー。これは、テオ・ジョンソン部長の殉職した元相棒が、結婚祝いとして彼に贈ったプレゼントだった。デジタルデバイスで記録を取ることが当たり前の時代に、しかしメモ帳なるものを好む彼のためにと、彼の相棒が特注した防弾仕様の手帳カバーである。
その手帳カバーが――またはそれを贈った者の思念が――今、防弾という役目を果たしていた。そのまさかの事態に、部長の傍に控えていた主席情報分析官リー・ダルトンは苦笑う。
「この手帳、局員の標準装備にしましょうかね。どう思います、レムナント」
主席情報分析官リー・ダルトンは手帳カバーを観察しながら軽口を叩きつつ、ジュディス・ミルズに話を振るのだが。彼女から、すぐに返事が来ることはなかった。
いつの間にか窓際に移動していたジュディス・ミルズは、窓越しに遠い地上を観察している。彼女は数秒ほど黙りこくったあと、地上を見ながら、主席情報分析官リー・ダルトンの投げかけた質問とは何ら関係の無い言葉を返した。
「グチャグチャに潰れたジョン・ドーを今、曙の女王が回収していった。また消えた。振り出しに戻った。最悪ね、はぁ……」
防弾仕様の手帳がテオ・ジョンソン部長の命を救ったという奇跡、これに主席情報分析官リー・ダルトンが感心していた一方。不死身の怪物という奇跡ともいえる生命体に一抹の恐怖を覚えていたのがジュディス・ミルズである。
テオ・ジョンソン部長を今ここで殺そうとした不死身の怪物は、しかし子供のような容姿をしていたし、恐らく肉体的にも精神的にも未熟な子供に近い状態なのだろう。その子供が、自己暗示を掛けるように同じ言葉を繰り返し繰り返し唱えながら、暗殺未遂を犯した。そしてジュディス・ミルズは、その子供が直後に見せた、己の行動にゾッとするような表情を目撃している。そしてその子供は、鬼気迫る顔で近付いてくるラドウィグに怯えを見せたのち、逃げるという行動に出た。それも、命を投げ捨てるという最悪な選択を。
一切の躊躇すら見せずに高層階の窓をカチ割って飛び降りた体は、あまりにも小さい。――だからこそジュディス・ミルズは恐怖を感じていた。それまで無感情に振舞っていた子供が唯一見せた感情が、怯え。怯えという感情しか与えられていない暗殺兵器が作られているという現実が、彼女には末恐ろしく感じられていたのだ。
「最悪といえば、ジョンソン。今日は厄日ね。右目を刺されたかと思えば、今度は撃たれて。でも、こうして生きてるだなんて。あなた、ラーナーの悪霊に『生き延びて、もっと働け』とでも呪われてるんじゃなくて?」
ジュディス・ミルズは窓からテオ・ジョンソン部長に視線を移したあと、気分を切り替えるための冗談を発する。シラフであれば到底笑えない内容の冗談だが、今この場に集っている真人間たちは今シラフとは言い難い状態にあった。極限の緊張を乗り越えたせいか、妙な脳内物質でも分泌されてしまっているらしい。ジュディス・ミルズがシニカルな笑いをのせて冗談を言えば、それに釣られて主席情報分析官リー・ダルトンがクスクスと笑い出す。笑気に中てられ、テオ・ジョンソン部長までもが小さく笑い始めた。
無論、この冷たい笑いはラドウィグにも伝染する。現に、テオ・ジョンソン部長の頭上で『こちら側に来るな』と呟く死霊を見てしまっているラドウィグのツボに、今のジュディス・ミルズの言葉はじわじわと染み入り、腹の底をくすぐっていた。かといって噴き出すほどの笑いではなく、せいぜい口元が緩む程度のものでしかない。
フッと口元が緩んだ瞬間、ラドウィグの気力も急激に抜け落ちた。立っている姿勢さえも維持できず、ラドウィグはへなへなとその場に座り込んでしまう。そうして床に尻をついた瞬間、ラドウィグは強烈な空腹感に襲われ、気が遠くなるのを感じた。
「ラドウィグ?! まさか、あなたまで……!!」
蒼白く変わり果てたラドウィグの顔色に気付くと、ジュディス・ミルズが大慌てで彼のもとにすっ飛んでくる――彼女は、ラドウィグまでもが負傷をしたのではと懸念していたのだ。
「……腹が減りすぎて、気力が尽きそうっス……」
蚊の鳴き声のように細い声で、ラドウィグが発したのは間抜けな言葉。それを聞いたジュディス・ミルズは安堵する。ホッと胸をなでおろしたあと、彼女はこう言って立ち去った。
「ちょっと待っていなさい。食べられそうなものを探してくるから」
そうしてジュディス・ミルズが小走り気味にオフィスを出て行った際、入れ違うかたちで新たに入室してくる者が現れる。それは申し訳なさそうにしゅんとしている雰囲気の神狐リシュ。ジョン・ドーをみすみす逃した神狐リシュは、後ろめたさを覚えているようだ。
首も尻尾もだらりと垂れ下げながら、神狐リシュはトボトボとした歩みで床に座り込むラドウィグの傍にやってくる。そんな神狐リシュに対してラドウィグは、エネルギー切れから震える小声で言った。
「……リシュは悪くない。それに、あの展開はどのみち防げなかったよ」
しかし。珍しく心の底から反省している様子の神狐リシュには、その程度の慰めはむしろ逆効果となった模様。目さえも伏せる神狐リシュは黙りこくるばかりだ。
そんな神狐リシュを見やりながら、ラドウィグはぶるりと肩を震わせる。その震えは、エネルギー源がないという体からの訴えであり、真夜中の寒さに対する反応であり、これから先に起こり得るであろう更なる悲劇に向けられた怯えの兆候でもあった。
そんなわけで運転席にふんぞり返るように座るラドウィグだが、しかし彼は普段のようにハンドルを握ることはしない。この送迎車は万能の人工知能AI:Lによる自動運転機能が搭載されており、ラドウィグは今だけその機能に頼ることにしていたのだ。
ハンドルを握らない代わりに、彼がその手に持つのは食べ物。局を出る直前に、テオ・ジョンソン部長がくれた鯖サンドだ。
鯖サンド五つが雑に詰められていた茶色い紙袋を、彼は膝の上に乗せている。紙袋の中から取り出された鯖サンドたちは、ダッシュボードの上に並べられていた。そしてラドウィグはダッシュボードに並べられている鯖サンドのうちのひとつを掴むと、それを包んでいるアルミホイルを雑に剥き、そしてロクに味わうこともせず食べ物を胃袋の中へと落としていく。
というのも、ラドウィグは鯖サンドに飽きを感じていた。たしかにこれはラドウィグの大好物なのだが、しかし食べ過ぎて嫌いになりそうだ。テオ・ジョンソン部長はこればかりを買ってくる。毎日、毎日、同じ店の同じ鯖サンドだ。サンドウィッチを買いに行く時間的余裕すらないラドウィグに代わって差し入れをしてくれるのはありがたい反面、もうちょっとバラエティー豊かな差し入れにしてほしいと感じていたのだ。
焼いた鯖は好きだ。レタスも。ただ、偶にはトマトも食べたい。それにパストラミやカツレツも。
そういえば心理分析官ヴィク・ザカースキーが一昨日に作ってくれたアンチョビソース掛けの鯖サンドは、レモンと塩の加減が程よくて最高に美味しかったのに、部長が買ってくる某サンドウィッチチェーン店の鯖サンドのパサパサ感や味のカオスさといったら最悪としか言いようがない。特に輪切りレモンの酸味を殺しにかかる甘いヨーグルトソースのマズさといったら――!!
「……そろそろサンドウィッチっつーか、パンも飽きてきたや。カレー食いたい気分だね……」
そんなことをボヤきつつ、ラドウィグはひとつ食べ終わったらアルミホイルをグジャグジャッとまとめて紙袋の中に入れて、また次の食べ物に手を伸ばす。そのように、ただのエネルギー補給作業を手早く済ませる一方。左手にタブレット端末を持つラドウィグは、そのタッチパネルに映し出された短い動画を何度も何度も繰り返し再生していた。
これはAI:Lから数時間前に送られてきた映像。透析を受けている最中にも、何度も何度も見返した動画だ。この動画が撮影された場所は、ラドウィグの父親だとされている人物オーウェン・レーゼが居る病室。そこに突然、曙の女王と名乗る存在が現れた瞬間を動画は捉えていた。
看護師と思われる男性とオーウェン・レーゼが何かを話しているところから、その動画は始まっている。看護師はオーウェン・レーゼに、ASIから支給されたタブレット端末の操作方法を教えていたようだ。ちなみにこの通訳を担当していたのが、動画の撮影者であるロボット。この病室に派遣されていた、AI:Lが搭載されているヒューマノイドだ。
絶対王政時代の頭になってしまっているがために、最新の機器とやらがまったく理解できないオーウェン・レーゼを相手に、最新の機器の使い方を教えようとする看護師のヤキモキとした表情。それと最新技術を説明するための英単語に対応する語彙が異界語に無いことに困惑し、通訳がしどろもどろになっているAI:Lのやりとり。それから「これは
タブレット端末を相手に、首をひねりながら格闘していたオーウェン・レーゼだったが。彼はなにか異変に気付いたのか、急に視線を別の場所へと移した。追随するように動画撮影者であるAI:Lの視線、つまりカメラの照準も変化する。カメラは男性二人組の顔から焦点を逸らしてオーウェン・レーゼの視線の先にあるもの、病室の出入り口付近に向けられた。
そしてカメラが捉えたのは、何もない場所から突然立ち上る黒い煙。やがて黒い煙は人のかたちを成していき、そこには穴がいくつか開けられた薄紫色の外套に身を包んだ“曙の女王”が現れる。次に聞こえてきたのはAI:Lが発する合成音声。立ち去りなさい、とAI:Lは“曙の女王”に向けて警告を出していた。
しかし“曙の女王”は警告を無視し、オーウェン・レーゼに近付いてくる。異様な雰囲気を纏う彼女のことを、彼は大きく見開いた目で凝視していた。そして下半身付随で逃げることもできない彼を守ろうとでもしたのか、看護師が“曙の女王”の前に立ち塞がる。けれども“曙の女王”が右手を上げ、そして振り下ろした直後、看護師は途端に意識を失い、操り糸を切られたマリオネットのように床へと崩れ落ちていった(なお“曙の女王”が立ち去ったあと、その看護師は無事に意識を取り戻したとのこと。看護師は単に気絶させられただけで外傷などはないそうだ。ただ、その一方で致命的な傷を負い、シャットダウンしてしまったのがロボットだったらしい。映像を本機に送信したあと、病室に派遣されていたロボットは故障し、沈黙してしまったようだ)。
次に“曙の女王”は進路をふさぐように躍り出てきたロボットに触れるとそれを突き倒した。ロボットが倒されると画面はぐわんと大きく揺れ、視野は九〇度ほど傾く。傾いたカメラが捉えるのは、ベッドの上から動くこともできないオーウェン・レーゼに歩み寄り、彼の肩に触れる“曙の女王”の背中。そして“曙の女王”に触れられた途端、オーウェン・レーゼは苦しみ出したのだ。
その時の彼の姿はまるで、燃え盛る火の中にでも突き落とされたかのようだった。熱気の中に押し込められて酸素を奪われ、焼かれるような暑さに喉を潰されているかのような、そういう悶え方を彼はしていたのだ。しかし炎はその部屋に昇っていなかったし、彼が焼かれていたわけでもない。妙な現象が起きていた。
オーウェン・レーゼが何故か悶え苦しんでいたその最中、彼の肩に触れていた“曙の女王”は小さな声で歌っていた。その歌声はさながら子守唄のよう。しかし歌声は、オーウェン・レーゼを呪い殺そうとでもしているかのような当時の状況とまるで噛み合っていない。
中でもラドウィグが気になったのは、彼の母語で紡がれた歌詞だ。なんとなくだが、ラドウィグにはこの歌が自分に向けられたもののような気がしていたのだ。まるで“曙の女王”が自分の気を引こうとしているかのような、そんな気配を言葉の中から感じてしまう。
ラドウィグが動画の中から聞き取ったのは、この部分だけ。その前にも後にも歌はついていたようだが、あまり明瞭でない歌声であったことも影響して他の部分は鼻歌のようにしか聞こえなかった。
けれども、その鼻声のようにしか聞こえない部分をなんとか聞き分けようと、ラドウィグはこうして繰り返し何度も同じ動画を見ている。その歌に何か意図があるような気がして、ゆえにその意図を突き止めたかったのだ。
歌が終わり、気力が尽きたオーウェン・レーゼの意識がプツンと途切れて動画が静かになると、またラドウィグはその動画を最初の地点へと巻き戻す。それから彼は決して美味しいとはいえない鯖サンドにかぶりつき、そしてすぐにそれを呑み込むと、いつからか助手席に鎮座していた九尾の神狐に目をやった。すると神狐リシュが言う。『女王サマはお前にご執心ってわけか。こりゃあ面倒なことになったな』
「そんな気がしてる。けど、だとしたら何を求められてんだろ? それが分かったら、暴れられるのを未然に防げるような気がするんだけどさ。でもそれが何も分から――」
『いや。暴れる前の宣戦布告だろうな、これは。向こうは俺たちを挑発してんだろ。雁首を並べて挨拶しに来い、ってな。でなけりゃ木偶を治したりしない。未然に防ぐのは無理だと考えた方が良いだろうさ。少なくとも俺は、女王サマの目からその意思を感じたぞ』
ラドウィグの言葉に、神狐リシュはそのような悲観的な見解を示す。鯖サンドにかぶりつき、甘ったるいヨーグルトソースの不愉快な雑味に顔を顰めるラドウィグは、その言葉と共に鯖サンドを呑み込んだ。
――が、直後ラドウィグは神狐リシュの言葉を反芻し、驚く。神狐リシュは今こう言った。木偶を治した、と。木偶というのはラドウィグの父親を指す言葉。察しが悪く機転も利かない彼のことを、昔から神狐リシュは苛立ちを込めてそのように呼んでいるのだ。
となると、だ。神狐リシュの言葉が正しいと仮定した場合、来襲してきたものだとばかり思っていた“曙の女王”はオーウェン・レーゼを傷付けたのではなく、むしろ彼を癒しにきたということになる。しかし神狐リシュが言うには、それは善意による行動ではないと。
「……えっ。じゃあ“曙の女王”は父さんを襲ったんじゃなく、治したの?」
ラドウィグが確認のために問えば、神狐リシュは首を縦に振り頷いてみせた。そして神狐リシュはこのように述べる。
『ああ。展開された術式は、対象の時間を巻き戻すものだった。つまり……治すというか、事故前の状態に戻したんだろう。お前と木偶のふたりでかかってこいと、あの女はそう言いたいんじゃないのか?』
「へぇ。時間を巻き戻して、治した? そんな芸当ができるもんなんだね」
神狐リシュの言葉にラドウィグは適当な返事を返しながら、ゴニョゴニョとひとり考える。
「……」
時間を止めたり、巻き戻す性質。そういえばアバロセレンにはそういう性質があるのかもしれないとかいう仮説を、キミアから聞いたことがあったような。とすると、もしかしてバルロッツィ教授の治癒力って、そういう系統のものだったのかも?
ただ、あの人の場合はあの人にしか適用されなかったものだったろ。でも“曙の女王”は他者にそれを施してみせた。多分、その治癒力というか、アバロセレンからパワーを引き出す能力は、ペルモンド・バルロッツィなんかと比にならないレベルなのかもしれない。下手したらマダム・モーガンとかよりもよっぽど、アバロセレンという名の神の力を使いこなせている存在なのかも?
もしかすると、こちらの世界でも“曙の女王”は天変地異を引き起せるだけの強大な力を持っているのだろうか。だとしたら彼女はコヨーテ野郎よりもよっぽど警戒すべき存在なのでは……?
『確認が今、取れました。仰る通り、オーウェン・レーゼ氏は回復したようです。脊髄の損傷がなぜ触れられただけで回復したのかはさっぱり分かりませんが、今、彼は立って歩けているようです。それから、エージェント・ミルズから追加報告がありました。――オーウェン・レーゼ氏が、彼自身の記憶を取り戻したようです。加えて英語も理解できるようになり、話せるようになったと』
車内に取り付けられたスピーカーから、人工知能AI:Lの合成音声が発せられる。その言葉を聞くラドウィグは口に含んだ鯖サンドの塊をゴクッと呑み込み、唇を固く結ぶ。パサパサとした水分を含まないものが食道壁にへばりつきつつガサガサと落ちていく不快感を味わいつつ、彼は聞こえてきた言葉を疑っていた。
――そうしてAI:Lの自動運転に任せつつ、ラドウィグが目的地に着いたのはその十五分後だった。
「姐さん、何があったんスか!?」
場所はシドニー郊外、某所の医療施設。入口受付は顔パスでスルーし、最短距離を駆け抜けて辿り着いた病室に到着するやいなや、ラドウィグは肩で息をしながらそう声を張り上げる。すると、ラドウィグよりも一足先にここに来ていた“姐さん”――つまりラドウィグらの担当管理官ジュディス・ミルズである――は、ラドウィグの顔を見ると腕を組み、それから簡単に状況を説明した。
「曙の女王と接触した結果、オーウェン・レーゼとしての記憶が戻ったらしく、それと同時に英語が話せるようになったのよ。ついでに麻痺も治ったと。それで今、彼は混乱状態にある。そこにあなたが来て、余計にワケが分からなくなっているのよ。何が現実なのか、と。……まっ、混乱状態にあるのは私も、そしてASIも同じなのだけれど」
ジュディス・ミルズからの説明を受けたあと、ラドウィグは病床を見やる。が、そこには誰も居ない。代わりに、病床のすぐ隣に置かれていたパイプ椅子にはラドウィグが探していた人物、オーウェン・レーゼが座っていた。
無骨で硬いパイプ椅子に深く座るオーウェン・レーゼは、肩を落とし、そして顔を俯かせている。その表情はラドウィグには見えなかったが、しかし今のオーウェン・レーゼが前向きで明るい気分でないことだけは、ラドウィグにも理解できた。ジュディス・ミルズの言うように彼は混乱状態にあるのか、もしくは思い出したことについて深く考えているのか……いずれにせよ、良い話が聞けそうな雰囲気ではない。
そうして当該人物に声を掛けることをラドウィグが躊躇っていると。ラドウィグの背後をトトトと歩いて追いかけていた神狐リシュが余計なことを言う。『無理もない。これの貧弱な頭じゃあ、この複雑な状況を理解できないだろうな』
「リシュ、今そういうのは要らない」
ラドウィグの足許にちょこんと座った神狐リシュを見下ろすラドウィグは、愛らしい見た目に反して全く可愛さが欠片もない性格の狐に釘を刺す。しかし神狐リシュはそんな言葉を聞き流し、ふぁ~と呑気にあくびをするのみ。反省する気など更々ないという神狐リシュの態度に呆れるラドウィグは腕を組むと、小さな溜息を零した。
……そんな感じで、ラドウィグたちは“なんてことない普段通りのやり取り”を行う一方。同じ部屋に居合わせているジュディス・ミルズには、薄気味悪さしか感じられていなかった。
「そこに居るのね、あの狐さんが……」
ジュディス・ミルズはラドウィグの足許を見やりつつ、そのように問う。彼女の目には、そこに居るはずの“狐”の姿は見えていなかった。そして気味悪がるような表情を浮かべているジュディス・ミルズに視線を移したラドウィグは、短くこれだけを答える。
「うっす、居るッス」
神狐リシュに関する詳細を説明しないのは、今はこの場において必要ないと判断したから。そんなわけでラドウィグは「それ以上に言うことはない」という態度をそれとなく匂わせつつ、パイプ椅子に座るオーウェン・レーゼに視線を戻す。
と、そのとき。神狐リシュが動いた。小さな体でトトトと歩く神狐リシュはパイプ椅子の前で立ち止まると、ひょいと飛び上がってオーウェン・レーゼの膝の上に乗る。そして神狐リシュは膝の上に立つと、体をブルブルッと小刻みに震わせたのち、ドライな声でこんなことを言った。
『聞け、木偶。どちらも現実だ。お前の戻ってきた記憶も、もうひとつの記憶も。そしてルドウィルは間違いなくお前の息子だ。お前とルドウィルとの間に血縁がある事実は、ここの連中が確認している。人間の科学力ってやつでな』
神狐リシュの言葉に反応したのか、オーウェン・レーゼは顔を上げた。それから彼はラドウィグの顔を見ると、目を瞬かせる。そしてラドウィグは、これを話しかけても良いというサインだと考えた。ゆえにラドウィグは、オーウェン・レーゼにひとまずこのように声を掛ける。「えっと。どっちで話せばいい? 英語か、それとも」
「英語で大丈夫だ。今は、どうしてか理解できる」
オーウェン・レーゼから返ってきた言葉は、クセも無くサラリとした流暢な“こちらの言語”だった。と、同時にラドウィグは少しだけ恥ずかしい気分になる――オーウェン・レーゼの発した音は訛りのない発音であるのに対し、ラドウィグの発する音声には若干のアルストグラン流ダイアレクトが入っていた上に、若者流の省略言葉が連なっていたからだ。
うっす、ちーっす、うぃーっす、あざっす、等々。そんなアホ丸出しの省略言葉を未だについ使ってしまう自分自身を、ラドウィグは今になって後悔する。そうして後悔からラドウィグが思わず口角をわずかに引き攣らせたとき、それに気付いたのか否かは分からないが、オーウェン・レーゼは小さく微笑む。オーウェン・レーゼはラドウィグの顔を見ると、穏やかな声でこんなことを言った。
「お前はこっちの言葉でも音を省略して喋りがちなんだな」
その声に、揶揄のニュアンスはない。どちらかといえば微笑まし気でもある。多分、彼はただ単に思ったことを正直に言っただけなのだろう。だが、その言葉はチクリとラドウィグの胸に刺さる。ラドウィグには、ハハハと軽く笑ってやりすごすことしかできなかった。
と、そのとき。部屋の隅に控えていたジュディス・ミルズがラドウィグをギロリと睨むと、わざとらしい咳ばらいをする。どうでもいい雑談などせず、さっさと本題に移れと彼女は圧を掛けてきていたのだ。
威圧感の強い管理官ジュディス・ミルズに気圧されたラドウィグは、引き攣らせた口角を更に吊り上げる。そしてラドウィグは管理官の様子を伺いながら、オーウェン・レーゼないし“父親”に、本題を切り出すのだった。
「そ、そんじゃあ、まだ混乱してると思うけど、えっと、聞かせて欲しいんだ。白い髪の女の人がここに来たっしょ? その時に何があったのかを教えて。……あ、この会話、録音してもいい?」
「ああ。構わない」
相手からの返答を聞いたラドウィグは車内で動画を観る際に使っていたタブレット端末を取り出すと、待機状態だった端末を起動させ、液晶画面を手早く操作し、録音機能を備えたソフトウェアを立ち上げる。続けて彼は録音を開始したことを意味する画面表示をオーウェン・レーゼのほうに向けるのだが、しかし相手は小首を傾げるのみ。英語は理解できるようになったらしいが、現代に流通している精密機器のほうはてんでダメなようだ。
まあ、理解できないのならば、その説明を省くだけのこと。ラドウィグは録音を開始したタブレット端末を会話が拾えそうな場所に置くと、誰も利用していないベッドの上に軽く腰を下ろす。そうしてオーウェン・レーゼの前に座ったラドウィグは、話をしてほしいというサインを相手に身振り手振りで送った。
そしてラドウィグのサインを確認すると、オーウェン・レーゼの膝の上に乗っていた神狐リシュが床に降り、ラドウィグの隣へと移る。そうして神狐リシュがベッドの上に飛び乗ったタイミングで、オーウェン・レーゼは語りだした。
「彼女は多分、ユンだ。彼女がここに来て、俺を治したんだ。彼女が肩に触れてきたとき、全身が焼けるように熱くなって、俺は気を失った。次に目覚めた時には痛みも熱い感覚も消えていて、更に記憶が戻って、体を自由に動かせるようになっていた。……話せることはそれぐらいだ」
思いのほか早くに終わったオーウェン・レーゼの話。その内容はラドウィグが車内で観た動画の中にあった内容と相違はなく、質問を重ねる必要もなさそうに思えた。そこでラドウィグは録音を停止しようとタブレット端末に手を伸ばそうとしたのだが、それを察したジュディス・ミルズが制止を求めた。
待って。ジュディス・ミルズはそれだけを言い、ラドウィグの行動を引き留める。ラドウィグは録音停止を寸前で思いとどまった。そしてジュディス・ミルズは録音が継続されていることを確認すると、パイプ椅子に腰かけるオーウェン・レーゼを見やる。少し離れた場所から彼に視線を送るジュディス・ミルズは、やや表情を硬くさせつつ感じた疑問を彼に投げた。「あなたは、ユンという人物を知っていたということなのね? 以前に彼女とどこかで会ったのか、または何か彼女に関する記録を見たのかしら」
「知っているというか、その……――説明が難しいな。あちらの世界での俺はユンを知っているが、だがオーウェンとしての俺はこちら側の彼女を知らない。ある意味では、さっきが初対面だったとも言えるのかもしれない」
ジュディス・ミルズが投げた問い。しかしオーウェン・レーゼからは曖昧な回答しか得られなかった。それどころか、言葉を濁すオーウェン・レーゼは助けを求めるかのようにラドウィグの目を見る始末。また助けを求められたラドウィグは困ったような顔をして肩を竦めるだけ。
これは借問を重ねたところで時間の無駄にしかならないだろう。そう判断したジュディス・ミルズはそこで先ほどこの場で起きた騒動に関する話題を打ち切ると、すぐに次の問いを切り出した。
「なら別の質問を。オーウェン・レーゼとしての記憶を取り戻したのなら、教えて欲しい。あなたが発見された、あの研究所。あそこで何の研究が行われていたのかしら。記録によれば、あなたの兄であるウェイン・レーゼは『オウェイン計画』というものの研究主任だったそうね。そしてオウェイン計画って名前、いかにもあなたと関係がありそう。何か知っているんじゃなくて?」
ウェイン・レーゼ。その名前が出た途端、オーウェン・レーゼの表情が変わった。ラドウィグと似通っているボーっとしているような彼の雰囲気が一転、緊張感に満ちたピリピリとしたものになったのだ。
それを見たジュディス・ミルズは、この日初めての手応えを得る。ゆえに彼女は彼に圧を掛けることにした。彼女はオーウェン・レーゼの顔を凝視し、何か返答するようにと無言の威圧を掛ける。すると視線をジュディス・ミルズから逸らしたオーウェン・レーゼは顔を俯かせた。そして彼は重い溜息を零し、僅かに顎を引いて数秒ほど黙ったあと、小さな声で言った。「兄が俺のために始めた研究だ。事故で下半身不随になった俺を治療するために。少なくとも最初は、そうだった」
「つまり、最初は多くの人間が冬眠され死んでいくような実験ではなかったと」
「さあな、俺に訊かれても困る。……俺は頭がよくないし、はじめは部外者だった。その研究のことはほとんど知らない。俺にも分からないんだ」
オーウェン・レーゼはひとまずそこまで語ると、一度口を噤む。次に彼は再び顔を上げると、ジュディス・ミルズの目を見た。それから彼は彼女に問う。「録音してるんだよな。この音声はどこに行くんだ?」
「ASI、アバロセレン犯罪対策部。まずはそこに行くわ。その後は然るべき司法機関に行くかも」
「ASI。……たしか、諜報機関の?」
ASIという単語を聞くと、途端にオーウェン・レーゼの表情が曇った。これを情報を出し渋る兆候と見たジュディス・ミルズは、ここで強く出ることにする。彼女は脅すような言葉を発して、オーウェン・レーゼを牽制するのだった。
「ええ、そう。ASIこと、アルストグラン秘密情報局に行く。そしてここはASIが所有する医療施設であり、あなたの息子は現在ASIに所属している。あなたの息子はタフですばしっこい優秀なレンジャーになっているわ。それから、現在あなたはASIに拘留されている身。提供する情報次第では刑務所行きもあり得る。二度と太陽を拝めなくなるかもしれない。情報を出し渋ればどうなるかは、分かるわよね?」
「待ってください。その話、オレ、聞いてないんスけど」
しかし、牽制によって釣り上げられたのは情報ではなくラドウィグの警戒心だった。ノリの良いアレクサンダー・コルトと違い、このテのことに関してはかなり察しが悪いラドウィグは、空気を読まないような発言をする。だが、この程度のことで動じるジュディス・ミルズではない。
「仮の話よ。なにも、すぐに逮捕するだなんて言ってないわ。そうなる可能性があるかもしれないという話をしただけ」
強気な態度を維持するジュディス・ミルズに、ラドウィグはあからさまな不信感を示す。腕を固く組み、目元を強張らせるラドウィグは、物言いたげな視線を彼女に送りつけていた。けれどもジュディス・ミルズは察しの悪いラドウィグを疎むような表情で応戦するのみ。両者ともに、引く気配を見せなかった。
同じ組織に所属しているはずなのに、食い違うような言動をする二人。そんな二人を見せられるオーウェン・レーゼにもまた、ラドウィグが抱いたものと同様の警戒心が芽生え始める。ジュディス・ミルズを警戒するように見始めたオーウェン・レーゼは、続いて困惑を帯びた眼差しをラドウィグに向けると、彼はラドウィグにこう訊ねた。
「お前にとって、ASIは信じられる存在なのか?」
ジュディス・ミルズから視線を逸らし、父親とされている男を見やるラドウィグは、その言葉を聞くと意味ありげに深呼吸をした。それから彼は一瞬だけちらりとジュディス・ミルズを見たあとオーウェン・レーゼに視線を戻し、気怠そうな声で含みのある言葉を述べる。
「今、オレの周りに居る人たちのことは、そうだね。この前ここに一緒に来てた上司も、そこの姐さんも。オレは一応、信用してるよ。――……まあ、完全にではないけど」
その言葉のあと、ラドウィグは再度ジュディス・ミルズをジトーッと見やって、不満を抱えていることをアピールした。この子供じみた反撃に、オトナの女であるジュディス・ミルズも苛立ちを覚え始める。怒りをそれとなく滲ませた顔になるジュディス・ミルズは、キツい目つきでラドウィグを睨むが、とはいえそれなりに性根が腐っているラドウィグもその程度の威圧では動じない。
ジュディス・ミルズが怒りを静かに表明する一方で、ラドウィグは明確な不信感を露わにする。組織への忠誠心もなければ愛国心もなく、そして人間嫌いでもあるラドウィグは父親の目を見ると、嘘偽りのない褪めた本心をぶちまけるのだった。
「リシュほどには信用してない。今後もそれは変わらない。組織なんて所詮、人間の集合体だし。他人なんて信じるに値しないよ。……だけど、まあ、ASIの中には私利私欲で判断を誤る人が少ないってことだけは言えるかな。ASIは情報を悪用したりはしないよ。この人たちはただ純粋に、あの研究所で何があったのかを捜査してるだけだから」
相棒である狐ほどには組織を信用していないと言ったラドウィグだが、同時に彼は一定の評価はしているという言葉を述べていた。そしてオーウェン・レーゼは、ラドウィグの発した『あの研究所で何があったのかを捜査してるだけ』という言葉を信じ、ASIに情報を提供することを決意した。
「分かった。お前の言葉を信じよう」
そう言って僅かに微笑むオーウェン・レーゼは、不貞腐れた顔をしているラドウィグの横にちょこんと座り、ラドウィグを静かに見つめている神狐リシュを見る。
ラドウィグが赤ん坊の頃からずっと、ラドウィグを見守るように傍をウロチョロとし続けていたのが、この狐である。いわばラドウィグにとって“兄貴分”である神狐リシュを越える信頼を並の人間が得ることは難しいだろう。その狐の名を敢えて引き合いに出しているあたり、むしろ赤の他人としては相当な信頼をラドウィグから得ているのではないか。――彼にはそう思えたのだ。
そして目を伏せる彼は、オーウェン・レーゼとしての彼の記憶を辿る。彼は、大嫌いであった家族について覚えていることをポツポツと語り始めた。
「レーゼ家はキッパリと性質が別れる。知能は高いが人の心を失くした邪悪な学者と、人並み以下の知能と人並みの倫理観を持った凡人のふたつに。兄のウェインは知能が高いほうで、俺は幸いにも凡人のほうだった」
「……」
「俺の取り柄は機敏さと動体視力だけ。俺は両親や兄と違ってアバロセレンや学業に興味を持つことなく、ラグビーにだけのめり込んだ。ラグビーの経歴だけで進学したぐらいだ。お陰で両親からは見切りを付けられた。スポーツしかできない馬鹿はレーゼ家にいらないと。だが俺は気にしなかった。あの家族と縁を切られるならそれでいいと思っていたし、ラグビーで結果を出してニュージーランドに行けば全て解決すると信じていたから。けれど俺は交通事故に遭って下半身不随になり、全ての計画が崩れ去った。そこで出てきたのが兄のウェインだ」
語りながらオーウェン・レーゼが思い出していたのは、何かにつけて兄と差を付けられていた子供時代のことだ。
兄のウェインは文武両道の秀才で、外見も整っており、相手を自分の良いように転がすための嘘を編むことが得意で、とにかく人気者だった。そんな兄は私立のエリート学園でのびのびと快適に過ごし、持ち前のサイコパス気質で『学園の帝王』にのし上がり、また両親からも深く愛されて大事にされていた一方。識字困難という学習障害の一種を抱えていた弟のオーウェンは、五歳を迎える頃には既に両親から見捨てられていて、寂しい子供時代を過ごしていた。
両親から存在を無視される日々。ひとりの人間としてオーウェンを扱ってくれるのは、レーゼ家の邸宅で働いている使用人たちだけ。それに、オーウェンの背景を知らない同級生たちや周辺住民たちは、みすぼらしい姿で学校に通っていたオーウェンを「汚い」と蔑み、排斥を試みてくる始末。幼い頃、彼には居場所がなかった。
幸い、オーウェンが十二歳の時に巡り合った体育科の教師がレーゼ家の家庭事情に気付き、オーウェンに“クラブチーム”という居場所を与えてくれたことで、オーウェンは素行不良にならずに済んだが。もし、その出会いがなければ今の彼に備わっているような『普通の常識、普通の倫理観、当たり前の道徳観』を習得することなどできなかっただろう。
そんな風に、オーウェンは長いこと家族から、そして周囲から存在を無視され続けていたのだが。しかし兄のウェインだけは違った。兄は弟のことを可愛がっていたし、なんならその愛情の程度は溺愛といっても差し支えない域に達していたことだろう。
だが、それは決して人間として扱われていたわけではない。兄のウェインにとって、弟のオーウェンは『何をしても許されるペット』だった。
「兄は弟である俺のことが大好きだったんだ、気持ち悪いほどに。何も考えずに楕円形のボールを追い駆ける俺の姿が愛らしいと、兄は口癖のようによく言っていた。……不出来だった俺は、兄にとっては飼い犬も同然だったんだ。だから兄は俺が運動機能を失くしたとき、ひどくショックを受けたらしい。ペットの犬が元気に走り回る姿が二度と見られないと知って、大泣きしたんだ」
兄のウェインには、自由に使えるお金というものを両親から与えられていた。その金額は、子供のお小遣いにしてはかなり多い額。苦学生がアルバイトを渡り歩き、やっと手にするひと月の稼ぎ分ぐらいは与えられていたことだろう。兄はそのお金で度々、弟にプレゼントを購入していた。だが、そのプレゼントはどれもふざけたものばかり。
ある時、兄はプレゼントとして子供用のハーネスを渡してきた。親と手を繋いでくれない二歳児の安全を確保するために使うようなハーネスを、当時八歳のオーウェンに渡してきたことがある。そしてオーウェンが十五歳のときに貰った兄からのプレゼントは、大人たちのいかがわしい遊びの際に使われるような首輪……。
ジャケットやTシャツ、ピアスやブレスレット、腕時計、マニキュアや香水といった、辛うじてマシだと思えるプレゼントもあったが、それも所詮は「兄が、弟にこれを身に着けてほしいと一方的に思った」ものばかり。兄が一度でも弟の意見を聞いたことはなかったし、そもそも尋ねられたこともなかった。
だが、それは当然の態度だ。兄にとって、弟のオーウェンは人間ではなく飼い犬だったのだから。飼い犬に首輪やハーネスを取り付けるのは不自然なことではないし、それに飼い主の中には「似合うと思ったから」という理由から犬に本来は必要のない服を着せたり、アクセサリーを施す者もいる。
そして自分は自我を持つひとりの人間であると自覚していた弟のオーウェンは、兄から強要されない限りはそれらを身に着けることなどなかった。一度だけ、兄によって無理やりピアスホールを耳に開けられ、強引にピアスを飾られたことはあったが、兄からの贈り物を身に着けたのはその一度きりのみ。大半は貰った翌日に捨て、金目のものだけ近所の質屋に売り払っていた。
人間として扱われない、あの屈辱。今あの当時のことを思い返しても、良い思いは全くしない。
「それで、弟であるあなたを治療するために研究を始めたと。そういうことなのね?」
思い出した不快感から少し表情を強張らせていたオーウェン・レーゼに、ジュディス・ミルズは問いを重ねて行く。そして投げられた問いに、オーウェン・レーゼは首を少しだけ横に振るという反応を見せる。その後に続いた彼の返答も、ハッキリとは断言しない曖昧なものだった。「俺は、何も知らなかった。兄が裏で何をやっていたのかを。馬鹿だった俺はいつか回復すると信じて、リハビリに打ち込んでいただけだった」
「知らなかった? でも先ほど、あなたは確かにこう言った。兄が自分のために始めた研究だと。あなたは――」
「すまない。俺は頭が良くない。結論から順序立てて話すことができないんだ。最初から順を追って話すことしかできない。だから今は、ただ聞いてくれると助かる」
鍵となる情報だけが欲しいジュディス・ミルズは、オーウェン・レーゼのその言葉に顔を顰めさせた。が、そのジュディス・ミルズの態度に顔を顰める者がいる――クソ生意気なラドウィグだ。
ギョロッと大きいはずの猫目の一方を糸のような細さに眇めるラドウィグは、ジュディス・ミルズに対して責め立てるような視線を送りつけている。黙って話を聞きなよ先輩、とでも言いたげな舐め腐った目だ。
ジュディス・ミルズの苛立ちは着実に募っていく。彼女の苛立ちに呼応するように、彼女の下瞼はピクピクと痙攣しはじめた。しかし『冷静で頼りがいのあるオトナの女』であることを貫くジュディス・ミルズは、グッと堪えて取り乱すような真似はしない。そしてラドウィグもジュディス・ミルズが反撃してこないことを察すると、そこで手打ちとする。彼は壁にもたれ掛かるように立つジュディス・ミルズから視線を外し、目の前に座るオーウェン・レーゼを見やった。
その目配せを合図にオーウェン・レーゼは再び話を始める。
「事故に遭い、下半身付随になったあと。俺は俺を支えてくれていた恋人ユリヤと共に、リハビリを続けていた。二年間、二人で頑張っていた。だがある日突然、ユリヤが死んだ。感電死だったと、彼女の両親から聞いた。大雨の日に雷を受けて死んだと。――あのとき、妙な胸騒ぎを覚えた。警察は『運悪く雷に打たれた』と結論付けたが、違うような気がしたんだ。電撃を扱う覚醒者、それが身近に居たからな。兄の配偶者で共同研究者のユラン。彼女がユリヤを殺したと、そんな気がしたんだ」
唇を固く結ぶジュディス・ミルズは、それを妨害しなかった。恋人の話などどうでもいいと内心思いながら聞いていた彼女だが、しかし話の中で登場した“ユラン”という人名にゾワッと背筋が震えるのを感じていた。というのも、その名はジュディス・ミルズにとって聞き覚えのあるものだったからだ。
あれは、およそ一八年前のこと。ジュディス・ミルズが“アレクサンドラ・コールドウェル”という名の猛獣と行動を共にし始めたばかりの頃の話。当時、裏社会で名を馳せている夫妻がいた。それがレーゼ夫妻、オーウェンとユランの二人だ。
当時、レーゼ夫妻には「アバロセレンからホムンクルスを創り出す術を見つけたのではないか」という疑惑が掛けられていた。だが、彼らの悪行はそれだけではない。彼らにとって都合の悪い人物や興味深い対象を拉致監禁することなど、彼らにとっては日常茶飯事も同然。邪魔者は容赦なく殺していくし、彼らを追っていた捜査機関の担当者も幾人か行方不明(事実上の殉職だ。尚、未だに殉職した者たちの遺体は見つかっていない)となっている。そしてジュディス・ミルズも、かつてこの夫妻と間接的だが接点を持っていた。
十八年前のこと。カイザー・ブルーメ研究所の一室には、ユラン・レーゼの仕掛けた罠に嵌まって――または罠と知りつつも自ら罠を踏み抜きに行って――、囚われの身となっていたペルモンド・バルロッツィが居た。そしてASIの上層部からジュディス・ミルズに課せられたミッションは、ペルモンド・バルロッツィの救出。あの時、彼女は警備をすり抜けて研究所に潜り込み、ペルモンド・バルロッツィの囚われている部屋まで辿り着いたのだが……――彼女の苦労は無駄骨に終わった。上層部はペルモンド・バルロッツィを連れて帰ってこいと言っていたが、しかし本人は帰らないと言って聞かず、結局彼は留まることを選択したためだ。
当時のジュディス・ミルズは、ペルモンド・バルロッツィの狂気じみた選択もとい振る舞いに閉口していたが。その一方で彼を監禁し痛めつけた女、ユラン・レーゼの所業にも驚いていた。高位技師官僚という肩書を恐れず、徹底的に彼を痛めつけて拷問しようとした真の狂人に、彼女は身の毛がよだつ思いをさせられたものだ。
そんなわけで“ユラン・レーゼ”という人物の恐ろしさは知っていたジュディス・ミルズだが。しかし彼女が把握していなかった情報を、たった今オーウェン・レーゼがさらりと提供した。それはユラン・レーゼが『電撃を扱う覚醒者』であったという事実。この情報はジュディス・ミルズのみならず、ASIも把握していなかったはずだ。
だが、この程度の情報は始まりに過ぎない。記憶を辿るオーウェン・レーゼは、次々と衝撃的な内容の証言を発していくのだった。
「予感が当たっていたと知ったのは、ユリヤの死から二か月が経過した頃だ。あるとき兄が病室を訪ねてきて、俺に言った。お前を治すための研究をしている、と。兄は、俺にはサッパリ意味の分からない難しい話を一方的に喋り続けた後、言った。ユリヤとかいう女は目障りだからユランに消してもらった、とな。だが話はそこで終わらなかった。兄は最悪な話をもっと続けた」
「……」
「兄は研究の為に、ホームレスや孤児たちを誘拐していたそうだ。彼らを俺と同じ下半身不随の状態にして、実験台にしていたと。百人ぐらいが死んだがついぞ結果は得られなかった、そう言って兄は嗤っていた。それから兄は言った。だから方針を変えることにした。今の文明でお前を治療できないなら未来に託す。だからお前を冬眠させる、と」
オーウェン・レーゼの証言を、ラドウィグもジュディス・ミルズも黙って聞くことしかできなかった。彼から出てきた言葉があまりにもショッキングすぎて、返すべき言葉も質問も思い浮かばなかったのだ。ただ淡々と語り続けるオーウェン・レーゼの声だけが、録音データに記録されていく。
「ユリヤが目の前から消えて、当時の俺は失意の底に沈んでいた。そんな状況で、更なる事実を知らされたんだ。俺のせいで殺された罪もない人々がユリヤを含め大勢いて、未来があったはずの子供までも巻き込まれていたんだと。だから、俺は死のうと思った。俺はベッドのシーツで輪を作って、首を吊った。兄の思い通りに事を進めさせたくなかったからだ。それで死んだはずだった。それなのに俺は兄の望んだ通り、冬眠させられていたわけだ。……――まあ、そういう感じだ」
一方的で歪んだ“溺愛”をしてくる兄ウェインが、弟オーウェンもあずかり知らぬところで勝手に推し進めた『弟を治すための研究』。その研究のせいで弟は人生を破壊し尽され、そして兄のせいで大きすぎる罪の意識を抱かざるを得なくなったわけだ。
自分のせいで恋人は殺された。そして面識もない無辜の人々が多数、兄のオモチャとなり捨てられていった。けれども自分は何も知らずに、長いことのうのうと生きていた。……そうして抱えることになった罪の意識の大きさは、他人に想像できるはずもない。彼が下した決断を、非難できる者などいないだろう。それに、そのような記憶を掘り起こさせるのは残酷な行いだ。
だが仕事上それをやらなければならないのがASIである。仕方なくラドウィグは、オーウェン・レーゼの話の中で抜けていた情報、詳細な時期について訊ねることにする。「……ちなみに、その話はいつのこと? 西暦で教えて欲しい」
「ユリヤの死の真相を知らされたのは四二五八年の三月四日、首を括ったのはその三日後のことだ。そしてユリヤが殺されたのは同じ年の一月十二日。その日は一日中、雷雨だったのを覚えている」
「父さんが事故に遭って、下半身不随になったっていうのはいつのこと?」
「事故に遭ったのが四二五五年、十一月二十八日だ。たしか、そうだった」
「その事故の詳細って、覚えてたりする?」
「ああ。あれは試合の帰り道だ。寮に戻る道すがらで、ある親子を見かけたんだ。母親と父親らしき人物が言い争いをしていて、その横で三歳ぐらいの男の子が立ち尽くしていた。そしてあの時、突然男の子が車道に飛び出したんだ。あの子の視線の先にヒキガエルが居たから、たぶんそれを追いかけようとしたんだろう。それで、いつの間にか体が動いていた。詳しいことはよく覚えていないが、気が付いたときには俺の体の上に青いセダンが乗り上げていたんだ」
「その子供は無事だった感じ?」
「俺が歩道に向かってあの子を突き飛ばしたときに、あの子は膝をすりむいたが。それぐらいの怪我で済んでいたはずだ」
「なるほど。なら、過去にメディアとかで取り上げられたことある?」
「幾人かに取材を申し込まれたが、断った。だが兄が代わりに受けていた。兄が取材に答えた記事や映像が当時、出回っていたはずだ」
オーウェン・レーゼから新たな情報を引き出したラドウィグは、ジャケットの中からメモ帳とペン(先日テオ・ジョンソン部長に釘を刺されたこともあり、数日前から持ち歩くようになったものだ)を取り出すと、聞いた内容に関することを軽く記録する。局に戻った後、その事故について調べてみようと考えたのだ。
ラドウィグが珍しく真面目にメモを取っていた一方、ジュディス・ミルズは既に調べ物を始めている。彼女は、彼女に支給されていたタブレット端末を使って、オンライン上に転がっているデータを検索していたらしい。そうして約三〇年前の新聞記事に辿り着いたジュディス・ミルズはその内容にざっと目を通すと、こんな言葉を漏らした。
「あら。あなた、助けたはずの男の子の両親に訴えられたのね。息子を怪我させた、って。けれど両親は世間から大バッシングを浴び、訴訟を取り下げてる。……助けたのに、この仕打ちって。とことんツイてないのね」
「ああ。助けたことを後悔していないと言いたいが。訴訟の報せを聞いた時には一瞬、後悔した。その後に意気揚々と記者たちの取材に応える兄の姿を報道番組で見て、そして泣くユリヤの顔を見て、更に後悔したよ。馬鹿なことをしたなと。目の前にいた子供ひとりを助けた結果、より多くの無関係な人々が殺される未来につながったのだから……」
ジュディス・ミルズの言葉に、オーウェン・レーゼはそのような返事を述べる。その言葉のあと彼の表情はどんよりと曇った。が、彼は目の前に座るラドウィグを見やると、その曇りを消す。代わりに、オーウェン・レーゼの目は過去を懐かしむようなものになった。
そして彼は、誰に言うわけでもない独り言を零す。
「今思えば、フリアはユリヤにそっくりだった。顔も、気の強くて頑固な性格も。それに向こうの世界での俺には肉親が居なかったし、そのことを何とも思っていなかった。きっと、それは俺が無意識で望んでいたものが反映された結果だったのかもな……」
オーウェン・レーゼから出てきた人名に、ラドウィグは苦い笑みを浮かべる。フリア、それはラドウィグの母の名前だからだ。とにかくラドウィグとそりが合わなくて、顔を合わせるたびに仕様もない言い争いを繰り広げてしまっていた、そんな母の名前……。
ふと蘇ってしまった気まずい思い出の数々から目を背けるべく、ラドウィグはひとつ咳ばらいをする。そして話題を転換すべく、彼はこのような話をオーウェン・レーゼに振った。「ユリヤってひとのフルネームを教えて。そのひとの事件、調べ直したいんだ」
「ユリヤ・ニコラエヴナ・コヴァレンコ。ブレードウッドの牧草地で彼女の遺体が見つかったと、そう聞いている」
ユリヤ・ニコラエヴナ・コヴァレンコ。そんな長い名前を、ラドウィグは手元のメモに転記していく。次に書いた人名をサッと丸で囲むと、その下に彼は短い矢印を書く。続いてラドウィグは矢印の下に箇条書きのリストを作り、短く一文にまとめた事実を列挙していった。
発見地、ブレードウッドの牧草地。落雷による事故死で処理された模様。しかし殺人の疑惑あり? 容疑者、ユラン・レーゼの可能性。容疑者は覚醒者、発電能力の保有者だった模様。もしかしたら類似の事件が他にあるかも? ……――そのような六項をザッと書いたあと、ラドウィグはメモから目を逸らす。再び彼はオーウェン・レーゼを見た。と、そのタイミングでジュディス・ミルズがあることをボソッと呟く。
「……あら。東スラヴ系の名前なのね……」
東スラヴ系の人名。なぜジュディス・ミルズがその項目に注目したのかといえば、それはラドウィグに関係していたからだ。
ジュディス・ミルズが思い出していたのは、リー・ダルトンによるレポートの内容。主席情報分析官リー・ダルトンがラドウィグから採取したDNAを調べたのだが、そこでオーウェン・レーゼとの血縁が判明したのと同時にあることが分かっていた。それはラドウィグのルーツ。レポートによるとラドウィグには東スラヴ系の血が入っているらしく、恐らくそれは母方由来のものと推測されるのだとか。
これは奇妙な一致である。ジュディス・ミルズにはそう思えたのだ。ラドウィグの父親であると目されている男、彼の亡き婚約者は東スラヴ系にルーツがありそうな名前をしている。だが、可能性について考えて行くとやはり時系列の問題が生じる。ユリヤという人物が亡くなったのは三〇年以上前で、そしてラドウィグは二十七歳だ。ユリヤという人物がラドウィグの母親であるという可能性はない。しかし……――いや、どうせ考えたところで何も分からないのだろう。
「……」
よくよく観察してみれば、まあ少しは東方の雰囲気をまとっているように感じられなくはない目鼻立ちをしている。そんなラドウィグを少し離れた場所から眺めつつ、ジュディス・ミルズが取り出していたタブレット端末をカバンの中に戻したとき。スッと立ち上がるラドウィグが、ふとこんなことをオーウェン・レーゼに訊ねた。
「それで。理由は分からないけど、麻痺は治ったんだよね。なら、立てる?」
ラドウィグの問いに、オーウェン・レーゼは無言で首を縦に振るという反応を見せる。そしてオーウェン・レーゼは、それまで座っていたパイプ椅子から自然に立ち上がってみせた。
その動作は至って軽やかで、健常者のそれと全く大差ない。つい先日まではリハビリすらままならないような悪いコンディションだったはずなのに、それを感じさせない自然さだ。
「……今朝まで脚の感覚が全く無かったはずなのに、今はこの通りだ」
オーウェン・レーゼは小声でそう言うと、再びパイプ椅子に腰を下ろす。時間にして三〇秒ほど、たった一瞬の起立だったが、とはいえその動作はひどく疲れるようで。椅子に戻ったときの彼の顔は心なしか、血の気が引いているようにも見えていた――損傷はまるで始めから無かったかのように消失したものの、体力面までは回復しなかったようだ。
曙の女王と呼ばれる存在。彼女は損傷していた部分のみを狙って癒したのか、はたまたこれが彼女の能力の限界なのか。そんなことをふとラドウィグが考え始めたとき。ちょうど同じタイミングで、ジュディス・ミルズが独り言を零した。
「前の高位技師官僚を思い出す。あの超人的な回復力、あれに似た気味悪さがあるわね。これもアバロセレンに関連しているのかしら……」
その独り言は誰に話しかけたわけでもなく、問うたわけでもなかったのだが。彼女の独り言に、考え事をグニャングニャンといじくりまわしていた所為で気が緩んでいたラドウィグが反応する。
「そうッスねぇ。アバロセレンってモノの時間を好き放題に操作できるらしいんで、細胞の時間を止めて疑似的な不死を再現したりできますし。もしかすると時間を先に進めて治癒のスピードを加速させたり、または事故前の状態に巻き戻して治したのかもしれないッスねー。それに曙の女王はまさにアバロセレンから創られた存在なワケですし、彼女ならアバロセレンの力を意のままに引き出せるのかもしれない。きっとマダムとかコヨーテ野郎よりも自由に、かつ強力に――」
アバロセレンの特性の一つ、時間操作。これはアバロセレンの本体とでも言うべき存在、とあるカラスからの受け売りなのだが。それをボトボトと零したあと、ラドウィグはハッと我に返り、口を噤む。これはASI局員の前で言うべきことではなかったかもしれない、と。
だがラドウィグは時間を操作することができない。直前の動作を取り消すことなど、彼にはできなかった。そんなラドウィグは恐る恐る振り返り、後ろにいるASI局員、すなわちジュディス・ミルズの顔色を伺う。彼女は今日一番のしかめっ面をしていた。
「へぇ、時間操作? それは初耳ね。想像力がアバロセレンに影響を与えることは知っているけど、アバロセレンが時間という概念に干渉するだなんて話、今まで聞いたことはなかったわね。メカニズムは理解できないけれど、でもその説は納得できなくもないわ」
お前、まだ何か情報を故意に隠しているな? ……わざとらしく冗長に話しながら、責め立てるような視線を送るジュディス・ミルズの目が、ギロリとラドウィグを捉えている。しかし賢く姑息に立ち回れないラドウィグは、ヘタクソな嘘をついて誤魔化すことしかできなかった。
「ハハハ……その、なんというか……研究所勤め時代に先輩たちから聞いた仮説、みたいな? クロノス時間とカイロス時間とか、うんちゃら~って、その……うっす、そんな感じッス」
「へぇー、研究所で聞いたの? ならASIも、そういった情報は把握していてもおかしくはないのだけれど。それに、おかしいわね。今の高位技師官僚なら、そういう情報は包み隠さずに提供してくれるはずだわー。でも、そんな話、今のところ私は聞いていない」
ラドウィグがその場で取り繕ったヘタクソな嘘の粗を、ジュディス・ミルズはじわじわと炙り出していく。そんな彼女が掛けてくる圧は、ラドウィグの横に佇んでいた神狐リシュにも効いたらしく、狐は首をキョロキョロと頻りに動かし、挙動不審そうな振る舞いを見せていた。
挙句、ラドウィグを追い詰める者が増える。オーウェン・レーゼだ。
「まさか、ルドウィル、お前はアバロセレンの研究を……?」
アバロセレン研究者を親族に持ち、だからこそアバロセレンというものに好意的な感情を抱いていなかったオーウェン・レーゼは、人間性を疑うかのような冷たすぎる目をラドウィグに向けてきた。この視線に堪えかねたラドウィグは大慌てで、これまでの自身の経緯と背景の事情を大まかに説明する。「びょ、病理医を目指して医学部に進んだけど、前の高位技師官僚になんでか気に入られて、んで、その、アバロセレン工学に転向させられて、そっちの技士になった……っていう感じ? 彼の下で働いてたこともあったよ」
「高位技師官僚……――まさか、あのペルモンド・バルロッツィか?!」
「うん、そう。あのひと。とはいえオレは『アバロセレン技士』の資格を持ってるだけで研究職に就いてたわけじゃないんだ。研究所にも勤めてたけど、やってた仕事っていえば雑用か、またはSOD研究に付随して湧いてくる害獣の駆除だったし。だから、その、腕っぷしを買われてた感じかな?」
「腕っぷしを買われてアバロセレン技士に? どういうことだ?」
「んー。そのー……学生の頃、街中で勧誘されたのがキッカケでジムに通ってたことがあったんだ。総合格闘技のやつに。そこのトレーナーが前の高位技師官僚と親しかったらしくて、そこから情報が彼に行ったみたいでさ。何故かは分からないけど、直々に彼から『うちの学部に来いよ』って、すっごい口説かれたんだ。それで色々と思うこともあって、アバロセレン工学に転向した。で、卒業したあとは養父のとこの研究所に就職するつもりでいたけど、うちに来いってペルモンド・バルロッツィにうるさく声かけられて、それで仕方なくアルフレッド工学研究所に――」
「お前の養父もアバロセレン技士だったのか?」
「そう。カイザー・ブルーメ博士。こっちに来てからはずっと、彼の世話になってた」
「その名前、聞き覚えがある。まさか、レーゼ家と関わりがある人間か……?」
「うん。ウェイン・レーゼの友人で雇用者だった、って資料で見たよ。びっくりした。オレは当時なにも知らなかったけど、きっとカイザーも裏で悪いことしてたんだろうね。だから彼は二年前に殺されたんだ。アバロセレンを悪用してる人間を懲らしめる、闇の組織みたいな連中に。……んで、オレはその組織に首根っこ掴まれて、最近まで裏社会の監視者みたいな仕事をやらされてたんだけど。そこの元ボスが暴走して、今とんでもないことが起きててさ。オレはその騒動に乗じてASIに籍を移して今に至る、っていう流れかなぁ」
「……」
「アバロセレンの悪用を取り締まってた側が、終わらないイタチごっこに堪えられなくて怒りが振り切れちゃったんだ。んで元ボスは、諸悪の根源である人間を滅ぼせば問題解決っていう考えに至ったらしくて。あぁ、ちなみにその元ボスは子供たちをウェインとユランの二人組に奪われたみたいなんだ。ついでに彼があのマッドサイエンティスト夫妻のどちらかをぶっ殺したんじゃないのかってASIは見てるらしい、証拠も遺体もまだ出てないけどね。そしてオレの今一番優先すべきミッションはその元ボスの息の根を止めることなんだけど、この方策がまったく思いつかなくて――」
ラドウィグが語った話だが。オーウェン・レーゼには、後半の部分が殆ど理解できていない模様。闇の組織という言葉が出てきた途端、目を見開いて呆然としていたオーウェン・レーゼの様子から察するに、ラドウィグの滅茶苦茶な半生はすぐに飲み込めるような内容ではなかったようだ。
そして滅茶苦茶な話をしなければならないラドウィグのほうも、喋りながら面倒くさいなぁと感じ始めていた頃。ちょうどいいタイミングで、話を邪魔する音が鳴る。ラドウィグが穿いていたボトムスの腰ポケットに挿していた携帯端末が、着信音を鳴らしていた。
「あっ。部長からの連絡ッス」
音の種類から、これはテオ・ジョンソン部長からの連絡だなと判断したラドウィグは短くそれだけを言うと、腰ポケットから携帯端末を取り出しつつそそくさと病室から出て行く。神狐リシュも彼の後を追ってトコトコと歩き、廊下へと出て行った。
そうしてラドウィグが出て行ったあと、ジュディス・ミルズが入れ違うように彼が居た場所にスッと収まる。オーウェン・レーゼの目の前に移動するジュディス・ミルズは彼の前に静かに座ると、こんなことをオーウェン・レーゼに言った。「ずっと疑ってたけど……――あなたたち、本当に親子なのね」
「どうしてそう思った?」
「今の、親子の会話みたいだったから。彼はあの年齢にしてはえらく冷めてる一方でかなり幼稚なところがあるけれど、にしてもさっきの彼は本当に『パパと会話する子供』みたいに思えた。だから、そう思ったのよ」
「なるほど……」
「正直言うと、私はあなたたちの間に血縁があるって話には懐疑的。時系列に矛盾が生じるから信じてはいない、たとえ遺伝子が血縁を証明していたとしてもね。それに私の目にはあなたも彼も同世代の若者にしか見えないし。見た目は親子というより、兄弟っていう感じで。でも……」
でも、親子と言われれば確かに納得できる特徴はある。そんな続きの言葉をジュディス・ミルズが言おうとした時だ。廊下に出ていたラドウィグが、慌ただしい様子で室内に戻ってくる。ラドウィグの顔はすっかり蒼褪めていた。
何か最悪な事態が起きたのか。ジュディス・ミルズはそう覚悟し、息を呑む。そしてラドウィグが告げてきたのは、やはり事態に急展開が見られたとの報告だった。
「ボストンのSODが消失したって、報告が!! 今すぐ局に戻れって部長が言ってます。あっ、あと、カイザー・ブルーメ研究所跡地の二人にマダム・モーガンがうんたらかんたらしたとかで、人間の体が戻ったとか、なんとかってダルトンが報告してるらしいっス!!」
その言葉を聞くなりジュディス・ミルズは立ち上がると、会話を長く録音していたタブレット端末を手に取り、録音を停止する。そしてその端末を置いたラドウィグの代わりに彼女が回収すると、彼女はサッと素早く荷物を纏め、ラドウィグと共に駆け足で部屋を出て行った。――慌ただしく去っていったASI局員たちを黙って見送るオーウェン・レーゼは、事情も分からぬまま部屋に置き去りにされることとなった。
そして廊下を小走りに駆け抜けながら、ジュディス・ミルズは言う。
「アバロセレンが絡むとロクでもないことしか起こらないわね」
人工知能が制御する自動車に乗り込んだラドウィグらが帰還を急いでいた頃。同じ時間、違う場所ではまた違う動きが見られていた。
「世界最初のSODが消えました、めでたしめでたし……――とはいかなさそうだな」
そうボヤいていたのは、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官。彼が居たのは連邦捜査局シドニー支局の地下二階、遺体安置所である。そして彼の話し相手は、ちょうど暇をしていた検視官助手ハリエット・ダヴェンポート。ラジオから流れてくる速報が、彼らの話題となっていた。
それはボストン上空のSODが消えたという報せ。ニュースを読み上げるキャスターの声は淡々としていて、それは世紀の大ニュースであるとは全く感じさせない声色だった。だが、その内容は原稿を記した者の喜びに満ちているようにも感じられなくもない。
しかし、SODといえばアバロセレン絡みの事象だ。アバロセレンに関連したイヤな事件と向き合ってきたエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官には嫌な予感しかしていなかった。
そして気まずそうな表情をする検視官助手ダヴェンポートは、その嫌な予感を確信に変えるようなことを言う。
「私、その、支局長が会見を行う前に、支局長がヴィンソン先生に電話をしてるところを見ちゃったんです。引退したヴィンソン先生に一時的に復帰してもらいたいって、支局長はそう頼み込んでいるようでした。だから、嫌なことが起こる予感がしています」
アバロセレンの密輸に関わっていたギャングの青年たちが、曙の女王と名乗る怪物によって殺戮された騒動。あの騒動の収束を機に燃え尽きた検視官バーニーは前線から退いていたのだが。現在は市内の医大を回って解剖実習の指導を行っているという彼に、シドニー支局長ニール・アーチャーは一時的な戦線復帰を頼み込んでいたらしい。
ということは、だ。検視官バーニーのような引退したベテランを呼び戻しているということは、とんでもない事態に発展する恐れがあるのかもしれない。人員が足りなくなり、外部の協力を仰がなければならないような展開が起こりうるということなのだろうか。
「バーニー・ヴィンソンが復帰だって? たしかに、そりゃ嫌な予感しかしないな……」
半年以上前に起きた、曙の女王という存在が齎した怪奇。その当時の混迷を思い出し、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官はボヤく。ストレスに反応してか、彼のあばら骨はキリキリと小さく刺すような痛みを訴え始めた。
そしてため息を零すエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、思い出してしまった『曙の女王』という存在を忘れようとする。ミルク多めのコーヒーが入れられたマグカップを両手で包むように持ち、それをチビチビと飲んでいる検視官助手ダヴェンポートに、彼はひとまず注目した。
検視官助手ダヴェンポートが持っているマグカップに描かれた愛らしい羊の群れ。それを漠然と眺めるエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、羊を一匹ずつ数えていく。
羊が一匹、羊が二匹、羊が……――と、そんな風に現実逃避を試みていたのだが。そんなエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官を、マグカップの持ち主は容赦なく現実に引き戻す。
「あと、支局長は言ってました。曙の女王がASIから脱走したらしいって。曙の女王って、去年のあの事件を起こした元凶でしたよね?」
まさに今、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官が頭から追い出そうとしていた名前を、さらりと検視官助手ダヴェンポートは発した。唖然とする彼はその言葉を呑み込もうとするが、しかし一向に頭の中には入ってこない。
曙の女王が、だっそう? だっそう、あっ、えーっと、うーん、脱走。えっ、脱走だって? 逃げたのか? ――混乱から急に鈍りだした彼の思考が、やっと一つの言葉と意味を結びつけられた時。しかし混乱の種を更に撒く声が下りてくる。
「その通りだ、ダヴェンポート。アバロセレンの密輸に関わったギャングたちを虐殺した、あの化け物がASIの地下から脱走したそうだ。自力で氷を打ち破ったらしいそうな。アーチャーが準備している会見は、その発表がメインだ。仮に『曙の女王』を見かけたとしても手は出さずに通報しろと市民に呼び掛ける役を、あいつはASI長官殿から押し付けられたらしい」
うんざりとした感情が露骨に浮き出た声でそう言ったのは、現副支局長のジム・ランドール。いつの間にか遺体安置所に立ち入っていた彼は、この薄暗い環境で噂話に興じていた二人組に目配せをやった――これは悪い報告がある際に副支局長がよくやるサインである。
検視官助手ダヴェンポートはぶるりと肩を震わせる。だが副支局長からの『悪い報告』を与えられたのは彼女ではなく、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官だった。
「まさか、ですか。副支局長殿……?」
副支局長にロックオンされたエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、恐る恐るそんな質問を副支局長に投げかける。するとエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官に向けられていた副支局長からの視線は、同情を帯びたものに変わった。そしてエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は肩を落とす。
そのときエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は覚悟した。ASIに出向しろと言われるのだろうと、彼は察したのだ。猛獣アレクサンダーの手伝いをしろと、そんな指示が下りるはず。――そしてエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の予感は当たり、副支局長はその通りの言葉を発した。「そのまさかだ。ベッツィーニ、お前は暫くASIに出向してもらう。今からな」
「今から……ッ?!」
「アバロセレン犯罪対策部を手伝ってくれとのお達しだ。たしか、アバロセレン犯罪対策部にお前の知り合いが居るんだろ?」
ASIに居るエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の知り合い、それはつまり大学で同窓生だったラドウィグのこと。そしてラドウィグは、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の記憶が正しければ現場の人間であり、数か月前の騒動の時はバリッバリの最前線に送り込まれていたような気がしなくもない。
あのとき無事だったのはラドウィグと、ラドウィグが守ったイザベル・クランツ高位技師官僚の二人だけ。死者は三名、重軽傷が四名だか五名だか出ていたとか、そんなことを聞いたような。そしてあのときの騒動を引き起こした化け物が再度、外に出てきたわけだ。
「……」
となると。俺もヤツと共に最前線とやらに送られるのか、それで死ぬのか?
うわっ、そんなの御免だぜ、勘弁してくれよ……!
「ええ、まあ、知り合いはいますが……」
死にたくない、現場に出たくない。そんな感情でエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の頭の中はいっぱいになる。それは苦々しい笑みと泳ぐ目、言い淀むような言葉になって顕れていた。
すると彼の心情を察してか、副支局長がこんなことを言った。「安心しろ。現場に出るようなことはないはずだ。先方が希望しているのは連絡役だけ。ASI本部に留まり、そこから最新情報を支局長に流しつつ、情報整理に協力してくれればいいだけだと聞いている。お前が“曙の女王”と戦うだなんて事態にはならないはずだ。先方もそれを求めていない」
「そうであるなら、いいんですが……」
「仮に出ることになったとしても、猛獣アレックスが居る限りは大丈夫だ。あの女、射撃の腕前は伊達じゃない。それにお前の知り合いだっていう男、なかなかの
不安そうなエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官に、能天気そうなことを副支局長は言う。そして当事者ではない副支局長は最後にハッと愉快そうに笑うと、遺体安置所を去っていった。
気楽な立場にいる副支局長の背中を黙って見送りつつ、静かに牛乳たっぷりのコーヒーを口に含む検視官助手ダヴェンポートは、副支局長が見えなくなったタイミングで隣に立つ人物に視線を移す。彼女の隣に立っている男、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は額に手を当てていた。
「そういうことじゃないんだよなぁ、ジムさんよぉ……」
そう悪態を吐いているエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、明らかにノリ気ではない。彼はASIに向かうことを拒みたいと感じている。それはひどく鈍感な検視官助手ダヴェンポートにも察知できるほど、あからさまな態度だった。
そして検視官助手ダヴェンポートが思い出すのは、一週間ほど前に見た顔ぶれ。検視官助手ダヴェンポートの前に『デボラ・ルルーシュ』なる化け物が現れた日の夜、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の自宅に泊めてもらったときに会った面々のことだ。
「……ドリューさんとネイト君、あと猫ちゃんたちのことが心配ですか?」
コーヒーを飲みこんだあとに検視官助手ダヴェンポートが発した名前たち。それは彼女の横に立っている男の家族の名前。
ドリュー、それは彼の妻のこと。そしてネイトは、もうじき二歳になるという彼の息子のこと。猫ちゃんたちは、まあ、つまり四匹いる猫ちゃんたち。
「そうだ。嫁さんと息子、それと四匹の女神たちのことが不安で仕方ないのさ。――クリーチャーにしちゃあ察しが良いな」
嫌味を返すエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、その言葉の後に肩を落とす。こんなクソみたいな騒ぎに巻き込まれて死ぬなんて御免だ、という決意を彼は強固にしていた。
「仕方ない、これが俺たちの仕事だ。……はぁ~、行ってくる。お前も頑張れよ」
今はまだ十分な空きがある遺体用冷蔵庫。それを最後に確認すると、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は姿勢を正す。そして彼は検視官助手ダヴェンポートにそう言うと、ノロノロとした足取りで遺体安置所を去っていった。
ひとり遺体安置所に残った検視官助手ダヴェンポートはコーヒーをひと口、啜る。少し遅れた昼休憩、彼女はそれが終わるのを待っていた。
アルストグラン連邦共和国では、ラドウィグとジュディス・ミルズの二人がASI本部局に大急ぎで帰還し、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官もASI本部へと向かっていた頃のこと。北米合衆国の太平洋に面した地域、サクラメントという名の都市は夜を迎えていた。
「ジェニファー。確認し――」
サクラメント川に面した通りから少し離れた場所にある、古めかしい外観をした大規模な建築物。白髪の死神アルバと、その雑用係アストレアが訪ねていたのは、そこだった。
そこは富裕層向けに、投機目的の芸術販売を行っている施設。庶民にはとても手が届かぬような値札が下げられた芸術品が並び、そんなものが次々と売りさばかれていく場所。名門画廊マーリングアートギャラリーの分館という位置づけにある画廊、ホーケンアートギャラリー。
その建物の正面入り口……――をすっ飛ばし、館長室に出現することを選んだアルバとアストレアの二人。そしてアルバが声を掛けたのは、この画廊の館長を務める人物だった。
その人物は、館長室の隅に置かれたアンティーク調の執務机にかじりつき、帳簿らしき書類とにらみ合いをしていた老女。館長はアルバの声に気付くとすぐに顔を上げ、年齢を感じさせない軽やかな動作でスッと椅子から立ち上がった。その際に、奇抜な蛍光色のブルーに染められた彼女の髪がフワリと舞う。
「デリックの言ってた通りだ。本当に来てくれたのね、アーちゃん!」
館長は軽やかな小走りでタタタッとアルバの傍に駆けてくると、彼にハグを求めるように腕を広げた。しかしアルバはそれを拒むようなジェスチャーをする。指を揃えた手のひらを館長へと翳し、その腕を真っ直ぐ前へと伸ばしてアルバは制止を求めた。――が、館長はそれを無視して強引に挨拶代わりのハグをお見舞いする。伸ばされた腕を華麗に除け、その下に潜り込む彼女は、あたかもタックルを決めるかのようなハグを決めた。
トコトン空気を読まない彼女の名は、ジェニファー・ホーケン。古美術の修復や物故作家の展示およびオークション、現存作家の発掘や一次流通など、美術の方面を広く扱うディーラーである。と同時に、正真正銘の大富豪でもあった。
とはいえ、財力をカサに着て威張り散らすような真似をしないことが館長ジェニファー・ホーケンのモットー。威圧や脅迫はせず、しかし大胆不敵に、そして自由に振舞う彼女の姿に、アストレアは既に度肝を抜かされていた。
このババァ、只者ではなさそうだ。――それぐらいのことは無知なアストレアでも理解できた。
「……」
そうしてアストレアが黙りこくって固まる一方。溜息を零すアルバは、制止を無視して抱き着いてきた館長を強引に引き剥がす。彼は呆れまじりの声で館長に毒突いた。「……何なんだ、その呼び方は」
「名前の後に、サンとかチャンって付けて呼ぶようにしてるのよ。基本はサン付けで、親しい人にはチャン付けなの。日本式の敬称よ。ミスターとかミセスとかサーとかマダムとか、性別による面倒な呼び分けがないのが良いところよ。前はロシア語っぽく『なんとかーシャ』って呼んでたんだけど、ロシア語の愛称ってそんな単純じゃないって知って、単純だけど広く応用できる日本語の敬称に切り替えたの。それに、音の感じがすごくカワイイでしょ? アーちゃんって響き、最高にカワイイ。良いと思わない?」
早口気味な語り口で大真面目に熱弁する館長は、アルバに同意を求めるが。しかしアルバは真顔でそれを否定した。
「いや。良い気は全く起こらないな」
というのも、アルバには“アーちゃん”という響きに覚えがあったからだ。そしてその響きにあまり良い記憶はなく、後悔や憎悪といった負の感情しか残っていない。そんなこんなで彼は『変な呼び名はやめてくれ』と訴えるようなオーラをそこはかとなく匂わせ始めるのだが、自由人な館長がそれを拾うことはなかった。
そんな自由人な館長は切り替えも早い。彼女はパンッと手を叩いて鳴らすと、それを合図にパッと話題を切り替えるのだった。
「まっ、それはいいとして。はぁ~、急に現れるからビックリしたわ。もうっ、事前に来る日を教えてくれたら、フィルも呼んだのに。残念だなぁー。フィルもアーちゃんに会いたがってたのよー。あぁ、そうそう。あなたも目にしただろうあの記事、あれはちゃんと口裏合わせをしてるから、安心してね。だって、あなたも知ってるでしょ。フィルが片思いしてたのはユーリだった、あなたじゃないってことを。色黒でムキムキで男らしい男、それが彼の好みだったからねー。あっ、そういえばユーリだけど、彼、二〇年前に亡くなったのは知ってる? ランニング中にパァンッと脳出血が起きたとかで、ぽっくり逝っちゃったらしくてねー。それで私、トロントに出向いて葬儀に出席したんだけどさぁ、あのときバッツィも葬儀に来ててね、ビックリしたわ~。というか、厳密には葬儀が終わったあとね。お開きになって、みんなが帰り始めたぐらいに彼が来て。彼ったらお花だけ置いてさっさと帰っちゃって~。私、彼に話しかけることすらできなかった。彼を見たのはあれが最後。本当に後悔してるわ、強引にでも引き留めればよかったなって。あと、それから……」
一方的に言いたいことをマシンガンのように連射していた館長だが、彼女の言葉は妙なタイミングでピタリと止まった。急に黙った館長は、何かに気付いたのか怪訝そうな顔をしている。そんな彼女の視線の先には、極限まで目を細めているアルバの顔があった。
そして館長はアルバに近付き、彼の頬に触れようとする。彼女はその際にこう言った。「――ってか、アーちゃん、なんでずっと目を閉じてるのよ。この部屋、そこまで眩しくはないと思うけど」
「配慮だ。君がすぐにでもあの世に行きたいというなら、この目を開けてやってもいいが。まだ死にたくはないだろう?」
アルバは館長の手を払い除けると、そのように答える。その答えは真実以外の何者でもなかったのだが、しかし館長は悪い冗談の一種と捉えたようだ。彼女は小さく笑うと、こう言った。
「またまた、アーちゃんったら本当に人が悪いんだから。でも、ヘンテコな冗談は止して。反応に困るでしょ。それに、視線ごときで人間が死ぬもんですか、メデューサじゃ――」
「いや、マジだよ。ジジィの目を見たら最後、普通の人間は死ぬ」
楽観的にハハハと笑う館長の態度を見かねて、アストレアは直接的な言葉で釘を刺した。すると館長の表情は一瞬にして変わる。愛想笑いが一変、恐怖に慄くような表情になった――怨霊の掃除屋という噂が事実だったと知り、彼女は驚愕していたのだ。
しかし、彼女は切り替えが早い。彼女が噂の真相に驚いたのは一瞬だけ。その後、彼女は別の対象に興味を移す。館長がロックオンしたのは、先ほど彼女に釘を刺してきたアストレアだった。
「……ところで、このお嬢さんはどなた?」
アルバのことを不躾にも“ジジィ”呼ばわりしている、見慣れない少女。言動や振る舞い、服装の着崩し方からして育ちの良さは感じないが、しかし彼女はここに居て、そしてアルバのすぐ隣に立っている。彼女は何者なのだろうか? ――館長の目には、アストレアがそのように映っていたのだ。
アストレアに興味津々となった館長は、まじまじとアストレアを見る。そして彼女はアストレアにググッと詰め寄った。それから彼女はアストレアの顔を両手でサンドするように包むと、次にアストレアの頬をムニムニと揉み始める。
「あらー。ほっぺプニプニで、ゆで卵みたいにツヤツヤ。うちのひ孫ちゃんと同じだわ~」
このシチュエーションには、アストレアも困惑するしかない。完全なる子供扱いをされているうえに、大して知りもしない相手から必要以上のボディータッチをされている状況に、アストレアは緊張からガチゴチに固まってしまった。
アストレアの戸惑いを察したアルバはすぐに動いた。彼は溜息をひとつ零すと次に咳ばらいをし、次に呆れを交えた声で言う。
「彼女は私の助手、アストレアだ」
咳ばらいの意図を理解した館長はスッとアストレアから離れる。その後、彼女はアストレアに小さな声で「ごめんね~」と軽く謝ったあと、アルバに視線を移した。そして館長はアルバに言う。
「助手なの? 孫かと思ったわ。ってことは、アーちゃん、こんな初々しい子を日ごろから連れ回してるってこと? ……キャロラインが見たら怒るわね、絶対に」
ふと話の中で飛び出してきた、亡き妻の名前。それと何かを誤解されているかのようなニュアンスを帯びた言葉。それに少しの不愉快さを感じたアルバが、そしてアストレアが眉を僅かにひそめたとき。それと被るようなタイミングで、館長室の出入り口がカチャリと静かに開けられた。
凝ったステンドグラス風の装飾が施されたドアが静かに開けられ、館長室に一人の若い男が立ち入る。その人物に視線は集中した。
「お祖母ちゃん、呼んだ――……って、あれ?」
静かにドアを開けて室内に入ってきた若者は、最新モードの流れを汲み、奇抜で派手に、しかし育ちの良さが感じられるような小奇麗さを伴った装いをしていた。サブカルチャー好きな上流階級の若者、まさにその典型といった感じだろう。平均より高い身長もあって、その若者は良家の気配を嫌味なく自然に纏っていた。
そして、その若者は自身に向けられている視線に気付くと、気まずそうな苦笑いを浮かべて見慣れない来客二名を見やる。彼は小さく頭を下げて、来客に向けて軽く会釈をするのだった。
「紹介するわね。こちら、私の孫のアーちゃんよ。アーチボルトで、アーちゃん。ギャラリストを目指して修行中なの。贔屓にしてね」
館長は若者を指差すとアルバに視線を送り、その若者の身分をざっと説明した。次いで館長はアルバを指し示すと、今度は孫だと紹介した人物のいるほうへと向く。彼女は孫にアルバのことを手短に紹介するのだった。
「お祖母ちゃんの古い知り合いのアーちゃんよ。のっぽで皮肉屋のアーちゃん」
「あっ、あのアーちゃん……!」
祖母である館長の言葉に、孫のアーちゃんは何やらピンときたものがあったらしい。途端に彼は目をキラキラと輝かせると、小走り気味にアルバの前へと駆けてきた。そして孫のアーちゃんは手を前へと差し出して握手を求めつつ、改めて自己紹介をするのだった。
「祖母から、お話はよく聞いています。アーチボルト・コールです、以後お見知りおきを」
「どんな話を聞かされているのだか。恐ろしいな……」
アルバは溜息交じりの声でそうボヤく。そしてアルバは腕を組み、暗に握手を拒むような態度を取った。しかし、この孫はどうやら祖母に性格がそっくりである様子。孫のアーちゃんは握手を諦めて手を引っ込めこそしたが、一方でアルバにグイグイと詰め寄ってきた。
ズンズンと距離を詰める孫のアーちゃんは、まさに目と鼻の先という超至近距離までアルバに顔を近付ける。すると孫のアーちゃんは、もう一人のアーちゃんに『どれだけあなたに会いたかったか』という思いを熱弁し始めるのだった。
「経験人数を聞かれたときに『覚えてない』と答える人は相当な遊び人だと、そう祖母から教えられました。そして祖母が言ってたんです、知り合いの中で唯一そう答えたのがあなただったと。でも、それほどまでの遊び人だったひとが婚姻後は一途な良いパパになって、浮気もせず、積極的に奥様の尻に敷かれに行くようなひとに変わったと聞いて、興味深いなーってずっと思ってたんです! どんな人なのか、今まではまったく想像できなかったんですけど、今あなたに会って、なんか納得できました。すごく女性にモテそうな雰囲気がありますし、若い頃にめちゃくちゃ遊んでそうなのに、でも浮気しなさそうなタイプにも見えますね! こんな相反するような特徴を併せ持っている人、僕は初めて見ました」
小奇麗にしている若者の口から飛び出してくるのは、品がないとしか言いようがない話ばかり。そして最悪なことに、その話は事実に基づいていた。
後ろめたい感情があるからこそ、アストレアには明かしていなかった昔話の一部。それを初対面の若造によって暴露されるという状況に、アルバは久しぶりに恥辱というものが込み上げてきているのを感じていた。
アルバは耐えきれず右手で両目を覆い、顔の一部を隠す。そんな彼の反応を見るアストレアは今の話が事実であると察するや、気付いた時には両手で自分の口を覆い隠していた。ジジィにそんな一面があったなんて、と彼女は驚いていたのだ。
大きくあんぐりと間抜けに開けられた口を、彼女は手で隠しつつ、大きく見開いた目でアルバの横顔を見上げる。この視線はますますアルバに居心地の悪さを焼きつけることとなった。
その結果、彼は開き直ることを決める。目を覆い隠してた手を外し、ひとつ深呼吸をするアルバはその後、人の好さそうな作り笑顔をサッと顔に貼り付けた。そして彼は孫のアーちゃんにその顔を向ける。
「君は、ギャラリストを目指しているのか。なら、ちょうどいい。うちの孫娘に芸術を手ほどきしてやってくれー。頼んだぞー。――さっ、エスタ。行っておいで。迷子にならないよう気を付けろ」
アルバはそう言うと目の前に立つ若者の肩を軽く押し、若者を自分から遠ざけた。次にアルバはアストレアの背中に手を回すと、彼女の背を強めにグググッと押す。そうして彼は、彼と若者の間にアストレアを強引にねじ込むのだった。
巻き込まれたアストレアの理解が追い付くよりも前に、アストレアは連行されていく。孫のアーちゃん、彼がアストレアの手を有無を言わさずに取ったのだ。
「あっ、はい! 分かりました。エスタちゃん、で良いのかな? 一緒に見に行こうね~」
完全なる子供扱い。これに抗議する間も与えられることなく、孫のアーちゃんに手を引かれてアストレアはギャラリーへと連れて行かれる。孫を見送る祖父を気取って穏やかに手を小さく振っているアルバに向かって中指を突き立てることぐらいしか、アストレアにはできなかった。
そんなこんなで“孫たち”が居なくなった後のこと。館長室に残ったのは、気心が知れた間柄である館長とアルバの二人のみになる。
「ジェニファー・ライラック・ディアン・ホーケン」
人が好さそうな笑顔という仮面をかなぐり捨てて険しい表情を作るアルバは、本性を露わにした。館長の名を呼ぶアルバの声は不機嫌そのもの――彼は釈明か謝罪を要求していたわけだ。敢えてフルネームで呼んでいるあたりに、彼の怒りの深さが表れている。これは相当頭に来ているのだなと、粗放な性質の持ち主である館長も流石に気付いた。
館長は肩を竦め、気まずそうな苦笑いを浮かべた。続けて彼女は釈明代わりにこう語る。
「ごめーん。アーちゃんとキャリーの話って面白いのばっかりだから、うちの子たちにベラベラ喋っちゃったのよー。キャリーに命じられるがまま髭の永久脱毛を受けさせられた話とかー、でもレーシック手術だけは嘘をついて逃れてコンタクトレンズでコソコソ誤魔化してた話とか~、そういうのを色々と話しちゃったわ。……でも、経験人数を覚えてないって話、あれは事実でしょ? それからウディ・Cには“ママ”が五人ぐらい居るっていうウワサがあったって、デリックから聞いたけど」
「そうだな。全て、事実だ」
できることなら忘却の中に埋めておきたかった過去、困窮スレスレだった苦学生時代にやらかした過ちの数々。しかし、それはとっくの昔に第三者の手によって掘り返されていたと知ったアルバは、嫌味を言いながらもガクッと肩を落とした。
自身の知らぬところで勝手に広められていた昔話。友人らからクズと罵られていたデリックですらアルバに気を遣って著書に掲載しなかったそのエピソードを、しかし常識を知らぬ自由人ジェニファー・ホーケンは広めていたのだ。加えて、その話は彼女の子から孫へと伝達している。そして周り回ってアストレアの耳に入った。
「……」
アストレア。あれは正真正銘のクソガキだ。あいつは後で必ず、今のことを追及してくるはずだ。ギルと共に、ギャーギャーと問い詰めてくるに違いない……。
そんなことを考え、アルバがすっかり気落ちしていたときだ。館長がパチンと手を叩き鳴らす――これは話題転換の合図だ。
「ところで、あなたが連れてきてた子だけど。どっちが事実なの? 助手、それとも孫娘?」
館長は過去の話をサッと区切り、今の出来事に話題を移す。そして彼女がアルバに訊ねたのはアストレアのこと。アルバは曖昧な言葉を返答とした。
「あれは助手だ、孫ではない。だが、なんとも言い表し難い関係だ」
「なるほどねぇ。じゃあ、拾った子って感じ?」
「厳密には違うが。まあ、それに近いのかもな」
「……今の笑い方。あたしの知ってるアーちゃんが戻ってきた」
近いのかもな、という言葉の終わりに小さくフッと笑っただけ。その行動に特段意味はなかったのだが、アルバが無意識的にやっていた微細なアクションを、館長は見落とさなかったようだ。
館長はガサツで大胆であり細かいことを気にしないタチでありながらも、意外と相手の細やかな動作や美表情をしっかり見ている人物である。久々に感じた“本心を見抜かれている”という気分の悪さを、アルバは警戒心へと緩やかに移行させた。
アルバは解いていた腕を組み直し、少しだけ館長から顔を逸らす。館長の妙な勘の良さ、それは昔よりも磨きが掛かっているようにも彼には思えたのだ。
「それで、ジェニファー。用件は何だ?」
アストレアのことを深堀されては困る。そう考えたアルバは、自ら話題の転換を試みる。館長もそれに応じた。彼女はまた手をパチンと叩いて鳴らすと、アルバを指差す。そして館長はアルバに別の質問を投げかけるのだった。「デリックから聞いたんだけど。アーちゃん、今はフィクサーやってるんだって?」
「デリックから?」
「うん、そう。彼とはよく話すのよ、仕事の件とかもあるから。デリックのとこの楽器って熱心なコレクターが付いてるの。古くて出荷台数が少ないものは価値が高くって、うちでもよくオークションに出されるのよ。で、品物の真贋鑑定をデリックに頼むことがある。その依頼をするときに、よく世間話もするわ」
「ああ、それは知っているが。……あいつはどこまで話しているんだ?」
「んー、そうだなー。バッツィに声を掛けたら無視されたとか名前を忘れられてたって愚痴を聞くことはよくあったんだけど、アーちゃんのことは全然話してくれなくて。あなたに会ったっていう事実は教えてくれるけど、アーちゃんと何を話したのかとか、そういうのは教えてくれないのよ。はぐらかされてばっかりだった。唯一、彼から聞いた話っていえば『今、お空の方舟の平和はバッツィとアーちゃんが守ってる』ってことぐらい。バッツィが表の世界に蔓延る強欲な連中を抑えて、アーちゃんが裏の世界で工作してアバロセレンが世界中に広まらないよう頑張ってるらしい、みたいなことをデリックは言ってたんだけど。それって本当の話だったりする?」
「随分と美化されているようだな」
「あら、そうなの。なら、本当のところはどんな感じ? やっぱり裏の世界って――」
「余計な情報は耳に挟まないほうがいい。君には家族がいる。彼らを危険に晒したいのかね?」
好奇心に爛々と目を輝かせる館長に、突き放すような言葉をアルバは言った。そうしてムッと眉間に皴を寄せる彼だが、彼は館長の好奇心を不愉快に感じていたわけではなかった。
苛立ちの原因は無謀な好奇心ではなく、また別のこと。話がいちいち長すぎる、補足事項を列挙するばかりで要点を絞ってくれない。彼は、館長にそんな不満を覚えていたのだ。
そして彼はこう考えた。まさか抽象画家と口裏を合わせて一芝居を打ってまでしてアルバを呼びつけた理由は『世間話をしたかっただけ』なのでは、と。この自由人ならやりかねない、アルバにはそう思えていた。
仮にそうなのだとしたら。館長には悪いが、これは時間の無駄でしかない。今日は激務が入っていたこともあり疲れているし、早々に退散してさっさと寝たいところだ。……そう思い始めたアルバがますます表情を険しくさせていた一方。館長は話をさらに飛躍させ、本題ではない世間話を延々と続けようとする。
「そういえば、バッツィが亡くなったって聞いたけど。あれって本当なの? 彼、よく死亡説が流れてたからさ、何が本当なのかが分からなくって」
「死んだ。当局の発表が正しい。やつは死に、灰になって、海に撒かれた」
「本当に? バッツィなら、まだどこかで生きてるんじゃないの?」
「死んだ」
「信じられないわ。バッツィは絶対に生きてるわよ。ビルの十二階から飛び降りても死ねなかったひとが、フグ毒なんかで死ぬとは思えないわ」
「あの男は死んだ。死んだんだ。何度も言わせないでくれ」
話が長い、そしてクドい、同じような遣り取りを何回も繰り返す。そういうわけで遂に苛立ちが極まったアルバは、死後に得た性質“せっかち”を表に出す。アルバは嘘を重ねて強引に話を誤魔化し、大袈裟な溜息を零して露骨に不機嫌さをアピールしたあと、単刀直入に切り込むことにした。
「嘘の発言で私の気を引いてまで私に訊きたかったのは、ペルモンドのことなのか? それとも世間話か? 特に重要な用件がなッ――」
「あぁ~、そうそう。勿論、それとは違うわ。別件なの」
話題転換の合図、うるさい手拍子ひとつ。館長のこの動作にも苛立ちを募らせ始めるアルバは、僅かに口角を下げる。いちいち動作が騒がしい。そんな不満を、心の中で彼は零していた。
動作がいちいち騒がしい館長は、年相応とはとても言い難いドタバタした小走りで執務机へと駆けて行く。彼女は机の裏にサッと潜り込むと、その引き出しを次々と開け、ガサゴソと何かを漁り始めた。引き出しを開けて、漁って、戻してを繰り返す彼女は何かを探しながら、片手間にアルバを呼びつけた理由を語った。
「デリックからあなたのことは色々と聞いた。なんか、とんでもないことを企んでるって話を。それでね、あたしとしてはあなたがどうしようが知ったことじゃないけど、お願いがあってね。それをリストにまとめておいたんだけど、そのリストはどこに消えたのかしら~。……あっ、あった」
引き出しをパスンッと閉める音を最後に、慌ただしさは一旦引いた。引き出しを閉めた後、館長は取り出した分厚い書類の束を机の上に置き、執務机の裏からひょっこりと顔を出す。続いて彼女はアルバに対し、こっちに来いと手招きをした。
手招きに従い、アルバは執務机へと近付く。そして彼は机の上に置かれた書類の束に手を伸ばし、薄く目を開けるとその中身を軽く見た。
紙束は館長の言う通り、リストのようだ。作品カテゴリー、作品名、原作者名および制作年、現所有者名、現所在地、といった項目がリストの中にはずらりと並んでいる。美術作品とその現在の在り処に関連した情報、それがこのリストにはまとめられているようだ。
これが何のリストなのか、という情報のおおよそを把握したアルバは再び目を閉じ、館長のほうに顔を向ける。そして館長は立ち上がりながら、たった今ここで出したリストについてこのように述べた。
「誰がどこでどんな作品を保有および保管をしているのか、っていうリスト。正規ルートで判明しているものは勿論、裏の噂とかも含めてあるわ。つまり、人間はブッ殺しても良いから芸術だけはちゃんと残してほしいってわけ。ついでに悪そうなコレクターを見つけたら懲らしめてやって。――個人的に気に入っている作品はピンクのマーカーで強調してあるわ、それから特に気に入っているのは青いマーカーを入れてある。強調がない作品は正直どうでもいいやつなんだけど、駄作も含めて芸術だと思うし、とりあえず残しておいてほしい」
「そうか。努力しよう」
アルバはそう言葉を返すと、かなり分厚いそのリストを持ち上げ、腕で抱えた。一〇〇〇ページは軽く超えていそうなこのリストに、アルバは少しの不安を覚える。このリストすべてに目を通すことは億劫に感じられたし、努力しようとは言ったが実際に努力ができるかどうかが分からなかったからだ。
青いマーカーで強調されている作品だけでも保全の努力を……いや、だがほとんどのページに青いマーカーが引かれていたような? ――そんなことを考えるアルバが表情をより一層険しくさせていたとき。執務机の傍に置かれていた椅子に館長は腰を下ろす。その動作はそれまでの騒がしいものとは正反対で、気配さえ感じさせないほど静かなものだった。
そして執務机の上に肘をつく館長は、机の前に立つアルバを見上げる。それから彼女は別人のように落ち着いたトーンで、アルバに諭すような言葉を掛けた。
「あなたの怒りは当然だと思う。あなたはずっと、世間から不当にバッシングされ続けていたんだもの。生きている間も死んだ後も、あなたの名誉は無いも同然だった。なら人間なんて滅べばいいって怒るのも無理はないと思う」
「……」
「でもね、あたしはそれが嫌だなぁって感じるの。あたしたち老いぼれの世代や、その子供の代を憎むのはまだ分かる。あたしたちはあなたのことも、あなたの子供たちも攻撃していた世代だから。でも、孫世代、さらにその下の子たちには何の罪もないはずよ」
「ああ、そうだな」
「なら、どうして今を生きている子供たちから、あたしたちが謳歌したような青春を奪うの? 若い子たちだって、思い描いていた将来を不当に奪われることになる。昔のアーちゃんって、そういう理不尽が大嫌いだったはずでしょう。なのに、どうしちゃったの?」
「禍根を残さぬよう根絶やしにすればいいだけだ。そうすれば理不尽に怒るような者も出てこない。悲劇は誰にも記憶されないまま、ただ消えていくだけだ」
血の通っていない冷たい言葉がアルバからは飛び出る。真冬の冷風よりも冷え冷えとした声に、館長は息を呑んだ。そして館長はおぞましいセリフを発したアルバに、責め立てるような視線を送りつける。
だが、その直後だった。館長から顔を逸らしたアルバが、ひどく乾いた笑いを零したのは。そして彼は本心の片鱗も一緒に落とすのだった。
「――なんてな。思ってもいないことをそれらしく言う技術だけが年々上がっている。悪役が板についてきたらしい」
「もう! 反応に困るからヘンテコな冗談はよしてって、さっき言ったでしょ!!」
館長は素早く立ち上がると、顔を真っ赤に染めて怒りを露わにする。そうして彼女はアルバの肩を拳で小突きながら、そのように言った。
その後、館長は顔を俯かせる。いきり立っていた心を深呼吸で落ち着かせると、彼女は続けてこんなことも言った。
「悪役はなにも演じているだけじゃない。ずっと昔から、あなたの心の半分側はダークサイドに染まっていた。今はそれが前面に出ているだけなんでしょう。……でも、もう一度それを隠すことはできない? 昔、あなたがそうしていたように」
館長が発したその言葉の中には、旧友を諭すというよりかは荒ぶる神に鎮まるよう懇願するかのような祈りが込められていた。彼女の声に宿る微妙な情緒の揺らぎ、それを受け止めるアルバは改めて実感する。望まずとも踏み越えてしまった一線の差は大きく、もう自分は元居た場所に戻ることは出来ないのだと。
それに、彼女の言葉の通りだった。悪役は演じているだけではない。確実に彼自身の中には、世間では“悪役”と定義される属性が根付いている。他者を軽視する傲慢さも、思い通りにならない世界なら壊してしまえという身勝手さも、消え去ればいいと容易に他者を突き放す冷徹さも、彼を構成する一部なのだ。
「君は幸せそうだな、ジェニファー」
館長から顔を背け、アルバは乾いた笑みと共にそう言う。すると館長はこのように答えた。「核心を突かれるとそうやってはぐらかすところは、昔から変わってないのね」
「……」
「はぁ。……そうね、私はすごく幸せだったと思う。不満なんて何もない。あたしは常に恵まれた環境に居て、人にも十分すぎるほど恵まれてきたもの。傷付けられた経験だって数えるほどしかない。あなたが見てきたような人間社会の暗部や人間の汚い部分なんて、私には想像もできないもの。だから、これを幸せでないなんて言うことは傲慢に他ならないでしょうね」
そう言い終えた館長が悲し気な表情を浮かべたときだ。館長室の扉がノックされ、次に孫のアーちゃんが入室許可を求める声が扉越しに聞こえてきた。館長は許可する旨を返せば、扉はガチャリと開けられ、孫たち二人組が戻ってくる。気疲れから憔悴した様子のアーちゃんと、ムッとした表情のアストレアが館長室に入ってきた。
「エスタ。もっと長く鑑賞していても良かったんだぞ?」
不機嫌そうなアストレアに、アルバはそう声を掛ける。するとアストレアはその言葉に機嫌を更に悪くしたようで、その表情を不機嫌そうなものから怒りに満ちたものに変化させた。そしてアストレアは苛立ちしか感じられない声色で、ありったけの不満をぶちまける。
「そんなに観るもんないよ、ここ。しょうもない作品ばっかりだし。マットレスに大穴を開けただけで『崇高な作品ですぅ~』ってなっちゃうのが理解できない。値札に釣り合う価値があると思えないよ。それに、客はうさんくさい金持ちばっかりで辟易しちゃった。盗み聞いた会話が全部、カネ、カネ、カネでゲスすぎて笑えない。それにアーちゃんが作品の意図ってやつを説明してくれたけど、なんか出てくる話がどれも薄っぺらくてさ。センスのないオッサンのクッサいポエムを延々と聞かされるような不快感しか込み上げてこなかった。だったらジジィの意味不明な独り言を聞かされるほうが百倍もマシだね。でもこのTシャツは可愛かったから貰ってきた」
アストレアのぶちまけた愚痴は、二人の“アーちゃん”の心にそれぞれグサリと突き刺さる。孫のアーちゃんは『出てくる話がどれも薄っぺらい、センスのないオッサンのクッサいポエムと同レベル』と容赦なくぶった切られ、白髪の“アーちゃん”は『意味不明な独り言を連発するジジィ』との烙印を押されたのだから。
そんなわけで二人の“アーちゃん”が渋い顔をした一方、館長はニコニコとしていた。そして上機嫌そうな館長は、妙なTシャツを手に持つアストレアにこんなことを言う。「それはうちで配布してるTシャツよ。己を猫の下僕だと高らかに宣言するためのTシャツ、っていうタイトルなの。気に入ってくれて良かった。ちなみに、あたしがデザインしたのよ」
「へぇー。これは好き。猫がゆるくて可愛いよ」
アストレアはそう答えると小さく笑い、そしてTシャツをベロンと広げてその柄をアルバに見せた。
なんてことない真っ白なTシャツにプリントされていたのは、地面に四つん這いになって伏せる人間のシルエットと、その背中に載ってシャキンとお座りを決めている猫の絵。猫の頭には王冠らしきものが載っており、さらに猫の上には平仮名で『ねこのげぼく』という文字が書かれている。
猫の下僕。そんな文言にふとアルバが険しくしていた表情を解き、笑いそうになった瞬間。館長が不敵な笑みを浮かべる。そして館長はアルバに言った。
「彼女、キャロラインとセンスが同じね。だから彼女を気に入ったの?」
その言葉を聞いた瞬間、綻びかけていたアルバの頬がシュッと締まる。亡き妻の名とアストレアを結びつけられた途端、彼の警戒心が急激に跳ね上がったのだ。
再度ムッとした表情に戻るアルバはひとつ咳ばらいをすると、広げたTシャツを畳んでいるアストレアを薄眼で見やる。それから目を閉じると、彼はアストレアの傍に控えている孫のアーちゃんのほうに顔を向け、作り笑顔を浮かべる。彼はもう一人のアーちゃんに労いの言葉をかけた。
「彼女を預かってくれたこと、感謝する。エスタの相手は大変だっただろう?」
「ハハハ……子供だからって舐めてかかって、大やけどしちゃいました」
こめかみをポリポリと掻きながら、孫のアーちゃんはそのように述べる。すると『子供』と断定されたアストレアは口角を下げ、不機嫌そうな顔に戻った。
そして不機嫌そうなアストレアは孫のアーちゃんから離れ、アルバの傍に移動する。大袈裟でわざとらしい溜息を吐くと共にアストレアが立ち止まったとき、孫のアーちゃんが肩を落とす。その後、アーちゃんはアルバのほうを向くと、運営側の本音をポロリと零すのだった。
「実のところ、この画廊は『お金になりそうな芸術』をメインで取り扱っているんです。一目見たときのインパクトがあって、難解そうに見えるテーマ、つまりアートらしいアートを標榜するもの、そんな作品を販売しています。そしてそれらには大層な説明書きが付いていることも多いのですが、しかし彼女の言った通り説教臭い反面とてもありふれている言説ばかりで意外性はなく、薄っぺらい。コンセプトが校長先生のお説教みたいなものなんですよ。とはいえ、この事業は必要なもの。本物の才能を持つ若いアーティストを育成するには資金が必要ですから。その資金を調達するための売り物なんだと割り切って、僕も日頃これらの作品と接してるんです」
そう言い終えると、アーちゃんはスッキリしたと言わんばかりの照れ笑いを浮かべる。続けてアーちゃんが「エスタちゃんは見る目ありますよ」と煽てれば、単純なアストレアは気を良くして勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
誇らしげな顔をしているアストレアは、まさに十二歳児そのもの。特務機関WACE時代に見られたような、無理して背伸びをしようとしている姿はまるで残っていない。単純な性格で、切り替えが早くて、すぐに調子に乗る。きっと、この姿こそがアストレアの“素顔”なのだ。
互いに素顔を見せあう間柄になっていたと思い知り、アルバが今になって押し寄せる後悔の存在に気付いたとき。横で無邪気に笑う館長が、彼女の孫が発した言葉の上に乗る。彼女はこう言った。
「そりゃあ、あのフィル・ブルックスに薊の呪いを掛けたアーちゃんの近くにいる子だもの。見る目が鍛えられるに決まってるわ。アーちゃんが書いたあの曲のせいで、フィルは延々と薊の絵を描き続ける画家になっちゃって――……って、あらら、ちょっと失礼」
抽象画家フィル・ブルックスに関連した妙な話が館長から飛び出してきた後、彼女は言葉を途中で止める。というのも、そのタイミングで彼女の着ていたジャケットから物音が飛び出してきたからだ。どうやら携帯電話の着信音が鳴っているらしい。
うにゃおーあ、うにゃおーあ! そんな猫の鳴き声をサンプリングした音源を鳴らす携帯電話を、館長はジャケットのポケットから取り出す。彼女はそれを操作して音を止めると、同じ部屋に居合わせていた者たちに一旦背を向けた。そして館長はさほど潜めていない声で電話に応答するのだが。
「あらあら、フィルじゃないの。いいタイミングね。今、ちょうどアーちゃんが……え?」
噂をすれば、なんとやら。電話の相手は、ちょうど先ほど名前が出た抽象画家フィル・ブルックスであったようだ。しかしそれが判明した直後、館長は表情を曇らせる。そして彼女は振り返ると、孫のアーちゃんに目配せを送る。それから館長は孫に命じた。
「アーちゃん、テレビつけて。速報が出てるらしいの。えーっと……えっ、うそ。それ、本当に? アルテミスが消えたの?」
館長が電話越しの相手に驚きの声を向けたとき、同時に孫のアーちゃんが館長室のテレビリモコンを操作し、テレビに電源が点けられた。圧倒されそうな大画面に映し出されたのは、リアルタイムで流れる報道番組。そこには速報の文字と共に、アルテミス消失を伝える文言が並んでいる。
アルテミス。ないし、ローグの手。それはボストンの上空に発現した、世界最初にして最大規模のSODに付けられた名だ。世間一般はアルテミスと呼び、専門家たちはローグの手と呼んでいるその現象だが。速報の内容を信じるならば、それがつい先ほど突然消失したようだ。
「えっ。アルテミスって、あのアルテミスだよね? 最初のSOD。それが消えたの?」
テレビ画面を見たあと、アルバに視線を移すアストレアは、彼にそう訊ねるが。人ならざる目を大きく開けてその画面に映し出されたものに釘付けとなっていたアルバは、何も言葉を返さない。
強張っていた彼の目元から、アストレアは彼の動揺を感じ取る。そしてアストレアはそれとなく察した。これは不測の事態なのだな、と。
「あらあら、まあまあ。本当に消えちゃったのね。すっごーい、世紀の大ニュースね~」
アルバがあからさまに動揺していた一方、さほど関心が無さそうに間延びした声でそう言ったのは館長だった。
その声を聞き、はたと我に返ったアルバは開いていた両目を固く閉ざす。それを話しかけてもいい合図だと考えたアストレアは、まずアルバの腕を引っ張ることにした。そうしてアストレアは彼の注意を引くと、声を潜めて彼に問う。「……あの映像のやつ、ジジィが何かをしたわけじゃあないんだね?」
「ああ、私は何もしていないはずだ。数時間前にあれを見に行ったぐらいで、それ以外のことは何も……」
「それが影響してるって可能性ないの?」
アストレアの訊問に、アルバは息を呑むという反応を返す。といっても、彼には思い当たるフシがあったわけではない。ただ、その可能性はないと断言することができなかっただけだ。
数時間前、アルバは更地と化したボストンに行った。それは事実だ。その時、まだボストン跡地の上空には憎きSOD、光り輝くアルテミスが居座っていた。それをアルバは目視で確認している。
そしてボストンで彼がやったことといえば、死体遺棄だけ。処分に困りそうな巨漢の死体を、そこに放り捨てただけだ。そうすれば天上のSODから落ちてきた化け物たちが死体を骨まで食べて消してくれるから、それを目的にボストンに行っただけ。
また彼がボストンで考えていたことも、死体遺棄に関することだけだ。どのあたりに化け物が密集しているか、風向きからしてどこに捨てればニオイを嗅ぎつけてくれるか、等々。それぐらいのことしか考えていない。まあ、一瞬だけSODを見上げて舌打ちをしたが、それはボストンを訪ねるたびに毎度やっているある種の儀式のようなものだし、その際には特に何も考えていなかった。
だが、まさか……――それが何かしらの影響を与えたのか?
「ねぇー、白髪のほうのアーちゃん。フィルがあなたの声を聞きたいって言ってるけど。電話、替わる~?」
館長の関心事はすっかり電話の相手である抽象画家フィル・ブルックスに移ったらしく、もう彼女はアルテミスに対する興味を失くしたようだ。その能天気な声が、思考の世界にこもりかけていたアルバを現実に引き戻す。
しかしアルバが顔を向けるのは彼を呼んだ館長ではなく、彼の横に控えるアストレアだった。そしてアルバは館長の顔を見ることなく、短くこれだけを告げる。
「すまない、急用ができた」
その言葉と共にアルバはアストレアの肩に手を置くと、彼女と共にその場から姿を消す。
足許から沸き上がる黒い靄に全身を包まれた後、大気に霧散し薄れていったその黒い靄と共に消え去った二人組に驚愕する孫のアーちゃんは、あまりの驚きから大きく仰け反り、床に尻もちをつき、腰を抜かした。――今まで見ていたもの、話していた相手が幻影のように突然消えていったのだから、無理もないだろう。
その一方でまったく動揺する様子を見せていないのが館長だった。電話越しの相手に、館長はアルバからの伝言をサクッと伝える。その声は普段通りの彼女の声と寸部違わぬものだった。
「あっ、ごめんねー、フィル。アーちゃん、急用が出来たーって言って、どっか行っちゃったわ。……ええ、そうよ。アーティーのこと。ああ……そう、分かったわ。また今度ね。バイバーイ」
孫のアーちゃんは床に座り込み、あわあわと口を頻りに開閉させ、つい先ほどまでアルバらが居た空間を指差している。そんな孫の姿を面白おかしそうに眺めながら、館長は通話が打ち切られたタイミングで携帯電話をそっと執務机の上に置いた。
――のだが。直後、再び携帯電話が鳴る。見知らぬ番号に一瞬、顔をしかめさせた館長だったが、彼女は迷うことなくすぐに応答した。
「ジェニファー・ホーケンです、ご用件をどうぞ」
しかし直後、相手が身分を明かしたタイミングで彼女はすぐに通話を打ち切る。ASI、アバロセレン犯罪対策部のテオ・ジョンソン。そう名乗る声が聞こえた瞬間、彼女はブツッと通話を打ち切ったのだ。
けれども相手は負けじと掛け直してくる。間髪置かずに再び着信音を鳴らした携帯電話だったが、館長は応答を拒否する操作をした。それから館長すぐに携帯電話そのものの電源を切るという行動に出る。携帯電話をシャットダウンすると、館長は乱暴にその端末を執務机の上に置くのだった。
「えっ、あっ……お、お祖母ちゃん……?」
煙のように消えた来客。そして電話を乱暴に打ち切った、機嫌の悪そうな祖母の姿。立て続けに起きた『初めて見るもの』に、孫のアーちゃんは絞り出した声をブルブルと震わせていた。
そして不機嫌そうな館長はひとつ深呼吸をしたあと、表情をより険しくさせた。それから館長は孫の目を見ると、緊張感を纏った低い声で言う。
「アーちゃん。さっき会った彼らのこと、絶対に誰にも話しちゃ駄目だからね。誰にどんなことを訊かれても、知らないで通すのよ。お父さんにもお母さんにも、妹にも、誰に対しても秘密にして。お祖母ちゃんとの約束よ。分かった?」
館長の言葉に、怯えた顔をした孫がウンウンと無言で首を縦に振る。それから孫はフラフラと立ち上がると、まるで逃げるかのように館長室を立ち去っていった。
時代は少し遡り、西暦四二三九年の八月某日のこと。世界最初のSOD『アルテミス』ないし『ローグの手』がこの世に顕現し、それと引き換えにマサチューセッツ州の半分が消失してから五年が経った頃。
薄暗闇で満たされたジメッとした部屋、そのコンクリート打ちっ放しな壁にはプロジェクターによって映像が投影されていた。そしてプロジェクターの脇に設置されたスピーカーからは、動画に合わせて音声が鳴っている。
『お仲間のカルト信者どもと共に過ごす心穏やかな老後を迎えたくば、二度と私とその家族に関わってくれるな。もう一度、私に接触してみろ。その時には、母の自死と共に葬られた真相を白日の下に引き摺り出してやる』
音を鳴らすスピーカーの横に設置された灰色のソファー。それに座るジャージ姿の一人の男は、その音を聞きながら、そして壁に投影された映像を見ながら、小首をかしげていた。
スピーカーから聞こえてくる声。それは彼自身の声である。しかし彼自身の声で発せられているその言葉は、しかし彼の記憶に一切ないものだった。
そして壁に投影された映像に映っているのは彼自身であり、その向かいには禿げあがった頭の小太りな老人が立っている。老人と彼は知り合いであるようだが、けれども今この映像を見ている彼にはその老人が誰だか分からなかった。ただ、彼と老人の関係がひどく険悪なものであったことは伝わってくる。
「……」
灰色のソファーの背もたれに背中を預け、深く腰掛けながら、映像を見ている現在の彼は腕を固く組み、それから長い足も組み合わせた。まるで映画でも見ているかのような気分で映像を見ていた彼は、奇妙な感覚に苛まれていたのだ。他人事のように見える映像は、しかし過去の自分自身そのものであるというこの状況。これがどうにも気持ち悪い。
そして映像を見る彼が瞬きをしたとき。映像の中にある過去の彼が舌打ちをした。続けて、映像の中にある過去の彼は威圧的な雰囲気を出しながら、禿げ頭の老人を脅すようにこう語る。
『ヘルムズデール。ニシン漁に携わる地元住民が中心となって反対運動を起こしたことにより頓挫した開発事業。その事業に携わった者の一部が結託し、反対運動を主導した漁師を殺害したそうだな。早朝、その漁師が漁に出る直前を狙い、薄暗闇の中で彼を集団で襲ったそうじゃないか。彼の背中に剣を突き刺したあと、彼の左腕が胴から離れるまで、死後も執拗に殴り続けたらしいな。まあ、幸いにもその事件は闇に葬られたそうだが、しかし怒り狂う遺族までは消せなかった。遺された者のひとり、漁師の一人娘は復讐を誓い、ひとり渡米。彼女は開発事業に関与した者たちの大半を葬り、逮捕された。彼女はこの国の司法制度により裁かれ、死刑を言い渡された。――そして彼女に死刑という判決が下るよう画策した弁護士、それは貴様だったな』
『――ッ?!』
『アーサー・エルトル。貴様は件の事業に関与していた者たちの誰かと親しかったんだろう? だから依頼されたんだ。我が母の振るう復讐の刃から逃れた残党どもから。だが貴様はひとつ、重大な過ちを犯した。それは私を作ったことだ』
映像を見ていた彼は、映像の中にある過去の彼の言葉を聞いて、いくつか理解を深める。禿げ頭の老人、それが自分の父親であるようだと。それから自分の母親は死刑囚だったようだ。
そして映像の中にある過去の彼は、言葉を続ける。
『ブライアー・マッケイの息子、そしてアルバート・イヴェンダー・シスルウッドの孫、そしてエルトル家の忌々しき血を継ぎながらもエルトル家と敵対する私という存在を、貴様が作ったんだ。はてさて、覚悟すべきなのはどちらなのかね?』
最後にそう言い放った過去の彼は、凶暴な悪人のような末恐ろしい顔をしていた。その狂気じみた言動に、映像を見ていた彼はムッと顔をしかめる。これが生前の自分なのだと、そう認めたくない思いが芽生えていたのだ。
そして、そこで映像は終わる。壁に投影された映像は消え、暗かった部屋には電灯が点き、明るくなった。
明るくなった部屋に順応できなかった彼の人ならざる目は、咄嗟に伏せられる。そんな彼の背後からは、折り畳まれたサングラスを持った女性の腕がニョキっと伸びてきた。そして腕が伸びてくると共に、女性の声が聞こえてくる。
「アーちゃん、どんな感じ? 今の映像は、我らがマダム・モーガンの盗撮コレクションのうちのひとつ。ボストンの路地裏で、父親とバチバチやってるあなたをマダムがコソッと録画したやつなんだけど。で、なんか思い出せたりした?」
その問いかけに、彼は首を横に振って否定するというアクションを返す。そして彼は渡されたサングラスを受け取ると、それを装着しながら小さな声で答えた。
「いいや。いまいち実感が湧いてこない。ただ……」
部屋着然としたラフなジャージ姿に、イカついサングラス。そんな頓珍漢な姿を披露していたこの男の名は、アーサー。のちに彼はサー・アーサーという風に呼ばれるようになるが、この時点の彼はただのアーサーで、それ以上でも以下でもなかった。
世界最初のSODが誕生したと同時に“シスルウッド”としての人生を終えた彼は、しかし死の直後に何らかの影響を受けて蘇り、こうして囚われの身になっていた。そして、たった今まさに映像を見ていたこの場所は、特務機関WACEの当時の事務所。
当時の事務所は、アルストグラン連邦共和国にある旧先住民居住区、そこに建っている廃ビルを隠れ蓑にしていた。この廃ビルが建つ一角をマダム・モーガンが“上書き”し、別の空間を重ねて作られたのが、この場所。建物の外観にそぐわない広さを持つ施設である。
武闘派な隊員たちのために用意されたハードなトレーニングが行える訓練施設、情報処理を専門とする隊員に宛がわれたコンピュータ部屋、怪我の手当てなどを行う医務室と薬品庫、独自に作成したり各地から盗んできたりしたワクチンや種子を保存する冷凍貯蔵庫、ミーティングやディスカッションのための会議室、非常に簡易的なつくりの住居スペース、実権も兼ねて水耕栽培を行う空間、キッチンにシャワールームなどなど。ちょっとした大企業よりも良い設備を持つこの場所に、当時の彼は閉じ込められていたのだ。
欲張りでない元来の性質が幸いして、外の空気を吸えないことの他には特に不満も抱いていないアーサーであったが。明確に“目覚めた”日からずっと、彼は何とも形容しがたい気持ち悪さを感じ続けていた。というのも、当時の彼は何も覚えていない状態にあったからだ。
「……」
あれは二週間前のこと。その日、彼はスッと目覚めた。硬いベッドの寝心地の悪さに不快感を覚えたこともあり、不思議なほど自然に目を醒ましたのだが。目を開けたときに彼は気付く。知らない場所に居る、と。
見知らぬ白い壁紙、見知らぬ白い天井、見知らぬ壁掛け鏡、見知らぬ机と椅子、見知らぬおんぼろのソファー、そして自分のものではないベッド。気づきと同時に込み上げてきた戸惑いは「ここは自分の居るべき場所ではない」と訴えていたが、しかし彼には思い出せないことがあった。自分がそれまでどこに居たのかという事柄だ。
そして考えてみれば、自分のこともまったく思い出せない。自分の名前も分からないし、自分がどこで何をしていた人間なのかも分からないし、自分の出身地も分からない。北アメリカ、シンガポール、スコットランド、コートジボワール、バンクーバー、ロンドン、ムンバイ、ナゴヤ、等々。なんとなく覚えている地名のようなナニカは幾つかあるのだが、なんとなくどれもしっくりこない感じがする。そして極めつけは、年齢。自分がどれぐらいの年代なのかがパッと思い出せなかったのだ。
そうして抱いたモヤモヤと共に取り敢えず彼は鏡を見てみたのだが、写りこんだ自分自身の姿にも彼は妙な気持ち悪さを覚えた。白髪が少し混じった枯草色のバサバサの髪、横長でツリ目気味な人相の悪い目、骨ばった目鼻立ちに疲れ切った顔、ひどい撫で肩と狭い肩幅……――鏡に映る自分は、たぶん三十代半ばから四〇代手前ぐらい。意外と年がいってるな、と彼は気付くと同時に違和感を覚える。これが自分の顔なのか、と。つまり鏡に映る“自分”が半ば信じられないような感覚に陥った。そうして足もとがグラグラと揺らぐ不安感が込み上げてきて、彼は鏡に背を向けた。遂に、何もかもがどうでもよく思えたのだ。
その後、思考を放棄した彼は部屋の中央に置かれていたソファーにドカッと座る。そうして彼がぼんやりと天井を眺めていたとき。知らない女が部屋に入ってきて、そして女は彼を見るなり上ずった声と共に驚きを表現した。
『あっ! アーちゃん、遂にクリアな意識が……!!』
その時の女が、今まさにアーサーの背後に立っている人物。名をジャスパー・ルウェリン、またの名をベディヴィアという女だ。
綺麗めに整えた前分けボブの髪にシンプルながらも洗練された衣装を纏い、いかにも『仕事がデキる女』な雰囲気を常に匂わせている一方。ボロボロのビーチサンダルを好んで履くという奇妙な生態も併せ持っていて、性格は自由奔放そのものであり、言動も適当でガサツ。でも確かに仕事はデキる。それが医務官ジャスパーという人物の特徴だ。
そんな彼女は特務機関WACEの隊員であり、担当業務は心理分析および医務。そんな彼女が、当時ポンコツになり果てていたアーサーの介助をしていたのだ。
彼女はアーサーに『今のあなたの名前はアーサーである』ということを教えた。他にも、彼女はアーサー自身に関する多くのことを彼に教えた。
彼が死んで生き返った身であること。脳がダメージを負っている状態であるため『普通なら出来ること』が今は出来なくなっている可能性があること。体が動かしにくくなっている可能性や、言葉に詰まったりする場面が起こりうるかもしれないこと。そして精神が極端にネガティヴになるかポジティブになるかの両極に振れるかもしれないこと、等々。その他、多くの懸念事項を彼女から順を追って教えられたものだ。
そんなこんなで、アーサーが自分の置かれた立場をそれなりに理解し始めたのが五日前。今は次のプロセスに移行しており、失くした記憶を思い出す過程にいるのだが……――
「ほら、アーちゃん。なんでもいいよ。言いたいことがあるなら、言ってみな。なんか思ったことがあるなら、正直に口に出して発してみて。案外、音につられて記憶がポンポンッて出てくるもんだからさ」
アーちゃん。そんな妙な呼び名で彼を呼ぶ医務官ジャスパーは、言葉を途中で止めたアーサーをせっつく。
言いかけたその言葉は、アーサー本人にはわざわざ口に出してまで言う価値のある言葉だとは思えなかったが。しかしせっつかれたからには仕方がない。彼は渋々、言いかけた言葉の続きを発するのだった。「かなり感じの悪い男だなと、映像を見て感じただけだ。あれが自分なのかと思うと……」
「あはは。だめだ、こりゃ。的外れにも程があるよ……」
医務官ジャスパーはその言葉と共に、落胆を意味する重たい溜息を吐いた。そして彼女はぐるりとソファーを回り込むと、アーサーの横に座る。彼女は野球のバットのように細い足首を交差させつつ、映像が投影されていた壁を見やった。
そして「だめだ、こりゃ」と言われたアーサーは、その言葉に小首を傾げる。濃い色合いの偏光グラスの下に隠れていた彼の目は、困惑から若干大きく開いていた。そんなこんなで何も思い出していなさそうなアーサーに、医務官ジャスパーは彼女の知っている“生前の彼”についての情報を明かすのだった。
「アーちゃん、聞いて。あなたは、あなたの父親と敵対関係にあったのよ。それはあなたの来歴が原因でもあり、父親があなたに対して実行した仕打ちの数々が理由でもある。それから、あなたの父親はそれなりに危険な男だった。大悪党ってほどではないけど、無害な一般人では決してなかった。そしてこの時のあなたは、あくどい父親から自分の子供たちを守ろうと必死になってた。――感じが悪く見えるのには、そういう背景があるのよ。普段のあなたはこんな雰囲気じゃなかった」
医務官ジャスパーは言い聞かせるようなトーンでそのように述べた。そんな彼女の様子から、アーサーも少しは“背景の事情”とやらを察する。悪人のように見える過去の自分、あれは相当に特異な状況だったのだと。
しかしアーサーには『自分の話』が全て他人事のように感じられていた。彼の誤解を必死に解こうとする医務官ジャスパーの姿が、アーサーには滑稽に思えてならない。それに彼女が語った言葉にも、正直なところ彼は「どうでもいい」という感想しか抱いていなかった。
それに、この時の彼が最も知りたかったのは「今後、自分がどうなるのか」そして「身の振り方はどうすればいいのか」という未来に関する事柄。生前の自分がどんな人間だったのかといった過去のことなど、この時の彼にはどうでもよく思えていた。
そんなわけでアーサーは、医務官ジャスパーの言葉を薄情にも話半分で聞き流していたのだが。さほど興味が無さそうな――その一方で、何かを深く考えているようにも見える(が、結局のところ何も考えてはいない)――彼の表情を見て、医務官ジャスパーは何かを思いついたようだ。彼女は座ったばかりのソファーからスクッと素早く華麗に立ち上がると、部屋の隅でコンピュータと向き合っている猫背の女を見る。そして医務官ジャスパーは、猫背の女にこう告げた。
「ルーカン、別の映像を。えっと、そうだな……――遊園地のやつ、あれを出して。娘ちゃんが迷子になっちゃって、マダムがこっそり助けた、あれ」
医務官ジャスパーの声を聞き、コンピュータと向き合っていた女は首だけ振り向かせると、無関心そうなアーサーを見やり、ぶるりと肩を震わせる。そしてアーサーのほうも、サングラス越しから無関心そうな目を猫背の女に向けた。
奇抜なバナナ柄のワンピースに、大ぶりなバナナのイヤリングなど。猫背の女はこの日、全身をバナナコーディネートで決めていた。そんな彼女の名はアイリーン・フィールド、別名ルーカン。新米の下っ端隊員として先輩たちにこき使われていた当時のアイリーンが、バナナコーディネートの彼女である。
人見知りそうなオーラ全開で挙動不審に振舞うアイリーンは、オドオドと首を振りながら怯えた様子でアーサーを見ていた。しかし医務官ジャスパーが大袈裟な溜息をわざと零すと、アイリーンは肩を震わせて視線をコンピュータに戻す。アイリーンはわずかに手を震わせながらコンピュータを操作し、映像を再生するコマンドを実行した。
すると部屋は再び暗くなり、ソファーの横に置かれていたおんぼろのプロジェクターがギギギィ……という不安感を覚えるような動作音を鳴らす。その後すぐにプロジェクターは光を放ち、コンクリート打ち放しの壁に映像が投影された。
そうして流れ始めた映像だが、しかしプロジェクターの傍に配置されているスピーカーは音を発しない。この動画の音声データは無駄だと判断され、カットされているようだ。
そうして静かな映像は粛々と流れていく。ただ、その映像の中に捉えられている一コマは静かさとは正反対の様相を帯びていた。親子連れであふれた遊園地、そんな場所が舞台だからだ。
人混みに紛れて盗撮でもしていたのだろうか。カメラワークはそんな印象を抱かせる構図となっている。カメラの前を大人や子供たちが忙しなく行きかっているし、撮影者も人混みの中に紛れながら歩き回っていたようだ。そのせいで映像は常にぐらんぐらんと大きく揺れている。
揺れ続ける映像の中で、しかし変わらないのは撮影の対象者。映像の中心にずっと捉えられていたのは、木陰のベンチに居座っている集団。ソフトクリームを堪能している少女と父親らしき男。それから父親と同年代のように見えるが、とはいえ少女の母親には見えない女性二人。その四人組だ。
映像の中に映る、父親らしき男。それが生前の自分なのだとアーサーはすぐに理解したが、その周囲に居る人間たちのことは分からなかった。少女は多分、自分の娘なのだろうと推測できたのだが……――問題は二人の女性たちだ。
「私の傍にいる女性たちは何者なんだ?」
アーサーは感じた疑問を医務官ジャスパーに伝える。すると医務官ジャスパーは壁に投影された映像をじっと見つめながら、その問いにこう答えた。
「ひとりは、画商のジェニファー・ホーケン。名門画廊マーリング・アートギャラリーのオーナーの一人娘で、今は五人の養子を女手ひとつで育てているビッグマザーでもある。そして彼女はあなたの友人だった。奇抜なピンク色に髪を染めている方が、ジェニファーよ」
「へぇ、ジェニファーか。友人……」
「この時、彼女は子供を引き取るかどうかを迷っていた。子供慣れしていなかったから、自分が親になれるかどうか不安だったみたいね。で、これはあなたが用意した機会。子供から目を離さずにいられるかどうか、っていうのを試すためのもの。あなたの娘ちゃん、物分かりの良い賢い子だったけれど、好奇心の赴くままに行動して迷子になりやすいっていう厄介な特徴があったから。練習にうってつけだったわけ。――で、この映像は、娘ちゃんが本当に迷子になって、あなたまで取り乱して大騒ぎしたあとの一幕よ」
「どうりでくたびれているわけか」
「ええ、そう。それとこの時は、娘ちゃんが『お姉ちゃん』になる前に存分に遊ばせてあげたかったのもあって、遊園地に連れて行ったみたいね。当時、キャリーちゃん……――つまりあなたの奥さんは第二子を妊娠していて、臨月だった。そういう背景もあって、夫婦で話し合った結果、奥さんが奥さんのお父さんと一緒に検診へ行く日に、あなたと娘ちゃんで遊びに行くってことになったとか、なんとか。そういう風にマダムから聞いたわ」
「それで、もう一人は?」
「茶髪で首からカメラをぶら下げているほう、彼女はクロエ・サックウェル。ジェニファーの様子を見たいがためだけについてきた、風変わりなひとよ。表向きは『浮気癖のある夫と別居中の専業主婦』という顔をしていたらしいけど、裏ではヘッドハンターと探偵業をやっていたんだって。あなた、彼女に仕事を斡旋してもらってたそうだけど。そのこと、覚えてない?」
「いいや、まったく覚えていない」
「そう。なら、周囲の人たちからクロエちゃんとの不倫を疑われてたことも覚えてない?」
「……不倫だって?」
「ええ。あなた、男友達から疑われてた。ユーリくんから問い詰められたことが一度。でも、あなたは奥さん以外に興味なかったみたいだし、クロエちゃんも男に興味ないしで、そういう関係ではなかったみたいだけどね。まあ仮に不倫してたとしても、あなたの奥さんって霊能者だし、きっと筒抜けになってたはず。あなたはそんなリスクを冒すような馬鹿な男じゃないと思うし。まあ、その……――そういうのも記憶にない?」
「……」
映像に映る女性二人は、ただの友人。一人はジェニファー、もう一人はクロエ。そしてクロエという人物に生前の自分は色々と世話になっていたらしく、あまりにも親しかったせいで別の友人からは不倫でもしているのではと疑われていた。この場に居ない妻は通称キャリーと呼ばれていて、彼女は霊能者だったようだ。そしてこの映像を見る限りでは、当時の自分はごく普通の父親であるようにも見える。その前に見た映像の中にいた『感じの悪い悪人じみた男』と同一人物だとは思えない。――新たに得られた情報はこんなところだろうか。
情報が蓄積していくほど、生前の自分という人間が益々分からなくなる。そんな困惑を覚えるアーサーは肩を落とし、額に手を当てた。それから彼は本音を吐露する。
「今は何も思い出せない。結婚していた、子供がいた、職を斡旋してもらっていただとか、そんなことを言われても、何も実感が湧いてこない。……けれど一点だけ、ひどく気持ち悪く感じることがある。モーガン、彼女はずっと私を付け回していたのか?」
重ねられたアーサーの問いに、医務官ジャスパーは苦笑いという反応を示す。彼女は腕を組むと目を伏せた。それから彼女は明確な答えは避け、誤魔化すようなことを言う。
「そうだねぇ。マダムがいつからあなたを監視してたのか、ってのは私には分かんないけど。でも、アーちゃん、あいつと関わっちゃったからね。重要監視対象になっちゃったのは、まあ、あなたの行動のせいだとしか言えないかも」
「あいつ?」
「通称、猟犬。今はペルモンド・バルロッツィとかって呼ばれてる男。きっと彼の顔に見覚えはあるはずよ。会議室のホワイトボードに彼の写真がドーンッて貼ってあるし」
猟犬、ペルモンド・バルロッツィ。その名を聞いたところでアーサーにピンとくるものは何もなかった。とはいえ会議室のホワイトボードに貼ってある写真は彼も見たことがある。
海藻のようにうねったクセ毛の髪、髭面、度を越した垂れ目と厚くて重たそうな瞼、鷲鼻と彫りの深い骨格、それから黒縁のスクエア型眼鏡と白衣。そんなむさ苦しい風貌をした科学者らしき男の写真。それにはアーサーも覚えがあった。
「あぁ、あの写真の男か。……あんな男とも私は親交があったのか?」
妻は霊能者。友人には名門画廊オーナーの一人娘や探偵が居て、ワケありそうな科学者とも親しかったらしい。それから父親とは犬猿の仲で、母親は死刑判決をくらった殺人鬼。……積み重なっていく情報たちはアーサーを混乱させていくのみ。彼が理解できたのは、自分が“ごく普通のまともな人間”ではなかったらしいということだけだ。
そういうわけでトボケ顔になっていくアーサーに、医務官ジャスパーまでもが額に手を当てた。まったく記憶を取り戻しそうな気配のないアーサーに彼女は呆れていたのだ。そして医務官ジャスパーは新たな指示を、下っ端隊員アイリーンに出す。
「ルーカン、写真を出して。猟犬とアーちゃんが並んでるやつを、なんかしら適当に」
その言葉のあと、プロジェクターが壁に投影する光が変わる。遊園地での一幕を撮った映像がゆっくりとフェードアウトして消え、今度は別の静止画が写った。
静止画に映っていたのは赤レンガの街並みと、その一角に立つ若い男ひとり――赤縁の丸眼鏡を掛けているダサい装いの青年だ。ダサい青年は不機嫌そうに腕を組み仁王立ちをしており、彼の表情はとても険しい。そして青年の目の前には、二人組の制服を着たパトロール警官らしき人物が立っており、なにやら物々しい雰囲気だ。
「あなたもチョイスが悪いねぇ」
医務官ジャスパーは静止画を見るなり、そう言って笑った。続いて彼女は静止画、特に仁王立ちをする青年の足許を指し示す。それから医務官ジャスパーはアーサーに向けて語った。
「赤い眼鏡を掛けている男の子、あれが学生時代のあなた。そしてあなたが警官たちの相手をしているのは、あなたの背後でうずくまっているもう一人が原因。うずくまっている彼、それがホワイトボードに貼られている写真の人物、猟犬。その若い頃よ。……若い頃、って表現が正しいのかはちょっと分からないけど、まあとにかく、そういう感じの頃の話」
「……」
「若い頃の猟犬は制服警官を見かけるとパニック発作を起こして挙動不審になり、それが原因で警官に詰め寄られるっていうことを繰り返していたのよ。そしてこれは、巻き込まれたあなたが事情の説明をしているところ。呑み込みの悪い警官は全然解放してくれないし、後ろで友人はパニックで動けなくなるし過呼吸を起こすしで、イライラが募っているときのあなたがアレ」
「あの男が警官を見てパニックを起こす理由は? 何か後ろめたいことでもあったのか」
「私は彼じゃないから正確なことは分からないけど。後ろめたいことが沢山あるのは間違いないでしょうね」
「それは、その……どういうことだ?」
写真の中に収められている、パニック発作を起こす若者。それはアーサーの目には、些か繊細すぎるだけの若者のように見えている。しかしこの若者が今ではホワイトボードに貼られているあの写真の男、胡散臭い風貌の科学者になっているらしい。そして医務官ジャスパーは言った、彼には後ろめたいことが沢山あると。
写真に映るあの男。胡散臭いのは風貌だけではなく、実際にその行動もキナ臭いのだろうか。そう疑問に思うアーサーは、そのことを何か知っていそうな医務官ジャスパーに訊ねようとするも、うまく言葉が紡げない。この疑問を的確に表す語彙が、当時の彼にはスッと出てこなかったのだ。
アーサーから出てきた的を射ないあやふやな言葉は、医務官ジャスパーに逆手に取られる。具体的に何かを訊かれるよりも前に、医務官ジャスパーは話題を逸らしたのだ。そうして彼女が語りだしたのは生前のアーサーに関する事柄だった。
「話を戻しましょう。――写真のあの当時、あなたは父親のせいでホームレスになっていた。あなたは大学進学を機に家を飛び出して独り暮らしをしていたけれど、父親はあなたを家に呼び戻すべく手を回しててね。あなたは住むところに困る日々を送っていた。そこであなたは、リッチな友人の家に転がり込むっていう解決策を思いついたわけ。そういうわけであなたは二年ほど猟犬の自宅に居候していたのよ」
「まさか、その“リッチ”という肩書は不当な手段を用いて作られ――」
「いいえ。そういう話は聞いてない。まあ、初期投資というか、住居なんかに関しては元老院が出所不明のお金を使ってお膳立てしたっぽいけど……実際、彼は特許とか投資とかで稼いでたし」
「クリーンではあったのか」
「完全なクリーンではないね。便宜供与や贈賄とかインサイダー、それ以外にも表沙汰になってないだけでそういうのが幾つかあったっていうことは把握してる。本人はお得意の記憶消去で覚えてないと思うけど」
「つまり、私にはろくでもない知り合いしかいなかったのか?」
次から次に聞かされる話に、アーサーは耳を塞ぎたい気分になっていた。出てくる昔話は全て、ひどいとしか言いようがない内容ばかりだ。ここまでくると、質の悪い作り話でも聞かされているような気がしてくる。記憶がないことを良いことに、適当なことを吹き込まれて妙な役回りをやらされそうな、そんな予感すら彼の中で芽生え始めていた。
いっそのこと、過去など全て振り切って新しい自分として人生を再開したほうがマシにすら思えてきている。そうしてヤケを起こしたアーサーが大袈裟な溜息を吐き、背中を丸めたとき。医務官ジャスパーが再び、彼の横にドカッと座る。そして彼女はまた説き伏せるようなことを言うのだった。
「あなたは至って普通のひと、比較的まとも。というか、普通になろうとしてたひとだった。あんな環境に居たくせにね。これがあなたの変なところなのよ。インモラルな環境に取り込まれていたのに、あなたはそこに適応することを拒み、程々に誠実で普通かつ廉正であることを望んだわけ。厳格なタイプでは決してなかったけれど、あんな環境に居たわりには頑張ってたほうなんじゃない?」
「昔のことを褒められたところで、別に今の私は何も感じなッ――」
「褒めてるんじゃない、事実を並べているだけ」
特に深い意味を込めて言ったわけではない軽口だったが、無残にもバッサリ切り捨てられると不思議と心が傷付く。些細な軽口を医務官ジャスパーによって一刀両断されたアーサーは、わずかに息を呑んだ。
一方で分析的な側面を持つ医務官ジャスパーは淡々と話を続けていく。アーサーの軽口を一蹴した彼女は、このように言葉を続けた。「猟犬の家に二年間も居候しておきながら一線を踏み越えなかったのは、あなただけ。殺すか、殺されるかの一線。あなたは謎の辛抱強さを発揮して耐え、猟犬もあなたを殺さなかった。不仲になった後も牽制に留めるのみで、どちらも手は出さなかった」
「…………」
「そしてロバーツ家なんていう魔物の巣に取り込まれておきながらも、生まれた子供たちを普通に育てようだなんてバカなことをしたのも、ロバーツ家に取り込まれた歴代の男たちの中ではあなただけ。結果、あなたはロバーツ家に誕生した女児でありながらも白狼を拒んだ異端児テレーザを作り出した。テレーザという存在は、パトリシアから始まるロバーツ家の血脈の中で初めての出来事なのよ」
「…………」
「記憶がポンポン抜けていくはずの猟犬が唯一忘れることなく記憶し続けているのは、今のところマダムとあなたの二人だけ。そしてあなたたちは二人とも死後の生を得たし、どちらもロバーツ家と関わりがある。マダムはロバーツ家の始祖パトリシアのために蘇ったようなものだし、あなたは普通の子供テレーザを作り出してロバーツ家の神秘を終わらせた。――だから私たちはあなたを監視しなくちゃいけない。あなたには、あなたが思っている以上の“何か”があるのかもしれないから」
真剣なトーンでそう語る医務官ジャスパーの様子を見て、アーサーは表情を険しくさせた。そして彼はまた新たに理解する。自分が思っている以上に自分はこの世界にとって厄介な存在のようだと。
猟犬だのパトリシアだの、そんなことを言われても何一つ理解はできない。ロバーツ家の歴史を終わらせただとか、一線を踏み越えなかっただとか、そんなことを言われても身に覚えがないし、何のことだかというのが正直な心境だ。
だが。詳細はよく分からないが、生前の自分は何かを色々とやらかしていたようだ。意図的か無自覚的かは分からないが、生前の自分は何かよくないことをして、よくない影響が世間に及び、これが死後の生を得るという結果に繋がっているらしい。
「……」
黙るアーサーはサングラスを外すとそれをソファーの座面に置いたのち、両目を閉ざしてソファーの背もたれに身を預けた。天井を仰ぐ彼は右手を額に当て、顔を隠すように降りていた邪魔な前髪をそのまま後ろに掻き上げて流す。……が、前髪は額に降りてきた。
その途端、アーサーは急速に世界への、そして自分への興味を失くした。何もかもがどうでもいいという感情が極限値に達した結果、下ろした右腕はだらんと脱力していく。その後、彼の中で渦巻いていくのは仄暗い感情。
誰が何の目的のために、死後の生だなんていう求めてすらいなかったものを自分に与えてくれたのか。死んだまま放っておいてくれれば、余計な気を揉まずに済んだのに……。そんな疑念と恨みが、彼の心を支配した。
「それに元老院は何度か、あなたの暗殺令を出していたようでね。でも猟犬、特に黒いワンコのほうがそれを無視して、あなたを生き延びさせた。その理由がまだ分かってない以上、あなたを表の世界には出せない」
その横で医務官ジャスパーは、真剣に言葉を続けていた。しかし何もかもがどうでもよく思えたアーサーは結局、軽口を叩いてこの話を終わらせようとする。
「そろそろ外の空気を吸いたいんだが。軽く走りに出ることすら駄目なのか?」
自分にかつて出ていた暗殺令という、非常に重たくネガティヴな話を軽く受け流して軽口を叩くアーサーの様子を見て、医務官ジャスパーは悟った。今日はもう集中力が尽きて、どうでもよくなったのだなと。
そして彼女も話題を転換することにする。医務官ジャスパーは、非常に医務官らしいことを言うのだった。「ダメ。マダムが許可してない。それに錯乱状態を脱してからまだ日が浅い。そんな状態で外出なんてやめなさい。今の体力じゃ、外に出たところで十五分もすりゃヘバっちゃうよ」
「ヘバらないように体力を付けたいわけなんだが」
「アーちゃん。あなた、自分の状態を甘く見すぎ。言っておくけど、あなたはナイフとフォークの使い方も忘れてた人。あなたが思っている以上に、今のあなたはボロボロなんだ。ランニング、筋力をつけるってのも大事だけど、あなたにはそれよりもやることがある。走る前に歩くことをちゃんと出来るようにならないと。それから道路標識を間違いなく読めるように読み書きのほうだって――」
「なら尚更、何かやるこッ」
「あのね。あなたは死んで生き返ったわけ。それもマダムのように『死後すぐに蘇った』んじゃない。あなたは死後に仮初の生を得たけど、それは仮死状態みたいなもの。心臓だけ辛うじて動いていて、鉄の肺でどうにか延命させていたような状態だった。それが約二年間、続いていた。二年間も眠り続けて、ようやく自発呼吸が行えるようになって目を醒ましたかと思えば、次は錯乱状態。それも三年続いた。三年もの間に、あなたが何度頭を壁にぶつけて、何度骨を折ったかを覚えてる?」
「いや。何も覚えていない」
「そうだよね。なら鏡を拳で割って、その破片で自分の首を掻き切ったことも覚えてないでしょ。部屋の隅にうずくまって意味のない呻き声を上げてたことも覚えていないはず。幻聴に怯えて震えていたことも記憶にないんでしょうよ。その相手をさせられるあたしがどれだけ大変だったか。あなたには想像できる? そういう状態につい最近まであった人に、急に何かをさせられるわけないでしょうが。高負荷をかけた結果、状態が巻き戻るだなんてことになったら堪ったもんじゃない。今だって、少しずつ負荷をかけながら様子見をしているところなんだ。だから焦らず慎重に進んでいこう、分かった?」
何かしらの軽口をアーサーが叩けば、医務官ジャスパーは二〇倍以上にして言葉を返してくる。この戦いは分が悪いと悟ったアーサーは白旗を上げ、唇を結んだ。
アーサーという存在について、彼自身よりも医務官ジャスパーのほうが詳しい。それは彼女の語る話の内容からして明らかだった。医務官ジャスパーが列挙した事実をアーサー自身が何も覚えていないことが、それを証明している。
そうして負けを認めるアーサーは、当面の間この医務官ジャスパーに大人しく従うことを決めた。内心では、状態が巻き戻って自我が無くなることを望んでいたフシもあったが、とはいえ望まずとも蘇ってしまったからにはひとまず健常な状態を取り戻したいというもの。そして、健常に至るまでの道を知っていそうなのは医務官ジャスパーである。
「……」
分かった、今後は指示に従う。――そんな言葉をアーサーが言いかけた時だ。ふとその瞬間、なんだか背筋がワケもなく凍るような気分に彼は包まれた。と同時に彼は気付く、姿の見えない何かの声たちが、背後からずっと聞こえていたことに。
一つ一つは取るに足らない囁き、程度の低い罵倒文句だ。バカ、アホ、くたばれ、死ね、等々。十二歳児のほうがもっとマシな文言を思いつくだろうと苦情すらつけたくなるような、クソとしか言いようがない脅迫や中傷ばかり。だからこそ彼は自然と無視できていた。今この瞬間まで、気に留めることなく過ごしていたぐらいなのだから。
だが、ふとその声に気が取られると急に寒気がしてくる。背後に“見えない何か”がウジャウジャと居るような気がしているのだ。怨念の集合体、おどろおどろしい見た目をした末恐ろしい怪物、そんなものが自分のすぐ後ろに控えていて、自分に向けてお門違いな恨みの念を発し続けているような、そんな嫌な気配が……――
「その、ジャスパー。実は……今も、幻聴のようなものは聞こえているんだ。背後から、呪いの言葉を囁き続けられているような感覚がしている。これも、その、後遺症みたいなものなのか?」
姿勢を正しながらアーサーがそう切り出せば、医務官ジャスパーの表情は曇っていく。そして医務官ジャスパー溜息を零したあと、このように返答した。
「はぁ、まったく。そういうのは早く言えっつーの、バカたれが。――ルーカン、薬品庫に行ってくれるかしらー? ハロペリドール静注液五㎎シリンジ、それと注射セット、あれを持ってきてくれると助かるわー。薬品庫の入り口すぐのデスクの上に、たしかまとめて置いてあったはずだから。よろしくねー」
指示を受けた“ルーカン”ことアイリーンは無言で椅子から立ち上がると、不器用な小走りを披露しながら薄暗い部屋を去っていった。
とはいえ薬品庫はこの部屋の隣にある。小さな黒い鞄を抱えたアイリーンが戻ってくるのは存外に早く、四〇秒もしなかった。そうして素早く戻ってきたアイリーンは黒い鞄を医務官ジャスパーに渡すと、医務官ジャスパーは手早く準備を始める。彼女はソファーの座面の上に鞄を広げると、その中からまずピンク色に染められたポリエステル製の短いベルトのようなものを取り出した。
慣れた様子で準備を進める医務官ジャスパーを横目に見ながら、アーサーはふと考える。注射ということはこの幻聴は病的なもので、そういう意味でもやはり自分は異常な存在なのだな、と。
「ほら、腕、出して」
医務官ジャスパーからそうせっつかれたアーサーは、着ていたジャージの右袖を肩まで捲し上げ、右腕を出す。アーサーの右腕、その肩口に、医務官ジャスパーは鞄から取り出したベルトをぐるっと巻き付け、きつく縛った。腕をうっ血させ、静脈を浮き出させるのが目的らしい。
だが顰められていく医務官ジャスパーの顔から察するに、それはうまくいっていないようだ。彼女は小さな苛立ちを込めた冗長な愚痴を零す。
「アーちゃんの血ってアバロセレンと同じ淡い蒼だし、動脈血も静脈血も大して色が違わないから分かりにくいんだよねー。あなたと同じ生きてる死人なマダムは赤い血を持ってるのに、あなたはそうじゃない点も不思議なところなのよ。それに加えて、あなたの肌色は明るいけどくすんでる上に蒼白いし、血管は完全に肌の色と同化しちゃってる。淡い蒼の血管が全然見つからない……」
「つまり、私は死んで生き返って、カブトガニの血を得たってことなのか?」
「いいえ、あなたのそれはカブトガニの血よりもうんと明るい。晴天の空みたいな色をしてる。おまけにキラキラ光るんだ、蓄光砂でも混じってるみたいに」
「……気色悪い化け物だな」
「というか、よく覚えてるね。カブトガニの血が青いってことを。妙な知識は保持してるのに、自分のことはまったく思い出せないのか」
「……」
「とりあえず手を握ってみて。拇指を内側に握りこむように、グッと。そうすれば少しは血管が怒張するかもー……」
医務官ジャスパーの指示に従い、アーサーは右手をグッと握る。すると膝の内側に少しだけ静脈らしき筋が浮かび上がった。その筋を指差しながら医務官ジャスパーは「ここ、狙っていくよー」と言うと、彼女は再び黒い鞄の中をガサガサと漁る。続けて彼女は傍に立ち尽くしていたアイリーンに声を掛けた。
「ルーカン、手伝ってちょうだーい。私が合図したら、駆血帯をゆっくり緩めて。つまり、このピンクのベルトよ。わかった?」
医務官ジャスパーが鞄から取り出したのはゴム手袋、それと簡易的な消毒キット、ピンセット。彼女はまずゴム手袋を両手に装着すると、鞄の中から取り出した密封包装の小袋をピリッと破く。続いて破いた袋からその中身、消毒用エタノールが染みこんだ消毒綿をピンセットを使って取り出した。
医務官ジャスパーは取り出した消毒綿をアーサーの右腕、その肘の内側へ擦り付ける。ガサツにぐりぐりと、満遍なく塗り広げていった。消毒綿が作り出すわずかな摩擦熱とエタノールが与えるヒリヒリとした刺激が、乾いた皮膚にじんわりと広がっていく。
その刺激から意識を逸らすように、アーサーがこの部屋の出入り口をふと見やったとき。部屋の外から聞こえてきた足音にアーサーは気付く。ピンヒールをカッカッと鳴らしながら小走りで駆けるような音、そんな気配が近付いてきているような気がしていた。
ただ、その足音に気付いていたのは彼だけ。医務官ジャスパーも、アイリーンも、その気配に気付いていなかったようだ。
「んじゃ、刺していくよー。腕、動かさないでー」
医務官ジャスパーはそう言うと、伸ばしていたアーサーの右腕にプスッと針を刺した。刺してから数秒が経過した後、医務官ジャスパーはアイリーンに身振り手振りで指示を送る。そうして指示を受けたアイリーンがアーサーの腕に巻かれていたベルトの締め付けをゆっくりと緩め、外したときだ。部屋の扉が慎重に、だが注目を引きつけるよう音を立てながら開けられた。それと同時に、開けられた扉の向こう側からは女性の声が届く。
「待ちなさい、ジャスパー。多分、彼が言っているのは幻聴じゃないわ」
その言葉と共に部屋の中に入ってきたのは、黒いスーツをピシっと着こなす黒髪の女性。ティアドロップ型のサングラスで目元を隠したマダム・モーガンだった。
しかし、マダム・モーガンの制止は虚しく響くのみ。医務官ジャスパーはアーサーの右腕から指していた針を抜くと、唖然とした顔でマダム・モーガンを見やる。それから医務官ジャスパーは呟いた。
「……打っちゃった」
その言葉を横で聞きながら、アーサーは自分の右腕を見る。針が抜けたあと、そこに出来た傷口からは少量の血が外へと出ていた。流出している血液は先ほど医務官ジャスパーが言っていたように、燐光をちらつかせる淡い蒼をしている。人間らしい赤黒い色を、その血液は持っていなかった。
あぁ、本当に気味が悪い。そんな思いを心の中でのみ吐露しながら、アーサーは医務官ジャスパーより差し出された絆創膏を受け取り、傷口を隠すようにそれを貼る。絆創膏の白いガーゼには、少しの蒼い血がその存在を主張するように滲んだ。
「アーサー、聞いて」
いつの間にかアーサーのすぐ傍に来ていたマダム・モーガンがそう声を掛けるも、すっかり蒼い血の色に影響を受けて気が滅入っていたアーサーはその声を聞き流していた。すると、それを察してかマダム・モーガンはボーっとしていたアーサーの両肩をガシッと掴んだ。それから彼女は彼の目と鼻の先にまで自分の顔を近付けると、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。彼女はゆっくりとした口調で、このように語った。
「背後から聞こえる呪詛みたいな言葉たち。実は私にも聞こえている。私を生き返らせた神が言うには、それが“あの世の声”ってやつらしくてね。私やあなたのような存在は、死者の世界というか、怨霊がぶち込まれる世界に近い存在だから、それが聞こえてしまうようなのよ。――そしてあなたがこれから担うことになる仕事は、街にはびこる怨霊の首根を掴んで、その気味が悪い声がする世界に怨霊を投げ入れること。今後、そのコツを段階的に教えていくから。その前に、聞こえてくる声に慣れておくように。あの声を無視できる鋼の精神を身に着けなさい」
「……」
「それから、あなたの外出を私がまだ認めていないのには理由がある。外の世界には刺激が多すぎるからなのよ。ここは私のテリトリーだから死霊はいない、けれども外はそうじゃないわ。邪悪なものも、そうじゃないものも含めて、幽霊がウジャウジャいる。ジャスパーの言う通り、錯乱状態を脱して間もないあなたを外へ出すのはまだリスクが高いのよ。健全な肉体、健全な精神に回復してからでないと外出は認められない。パニックを起こして、あなたの力が暴走しても困るし」
自分の体には蒼い血が。これじゃ化け物だ、人間なんかじゃない。死んで生き返って、自分は怪物になった。あぁ、こんなのもうイヤだ、自分が信じられないほど気持ち悪く思える。――……そんな考えばかりがグルグルと頭の中を回っていたこの時のアーサーは、八割もマダム・モーガンの話を聞いていなかった。
そんな彼が唯一、マダム・モーガンの発したセリフの中から明確に拾った言葉は『健全な精神』というものだけ。そしてアーサーは、そこから適当な返答を繰り出す。「健全な精神、か。何を以てそれを定義するんだか……」
「皮肉屋が戻ってきたじゃない。記憶も幾分か取り戻せたの?」
「いいや、まったく」
「あら、そうなの。戻ってないのね。……まあ、記憶が戻らないほうが、あなたにとっては幸せなのかも」
意味深なマダム・モーガンの返答。その些細な言葉が、更にアーサーの気を沈めていく。記憶が戻らない方が幸せ。そんな言葉が、この時のアーサーには正しいように思えたのだ。
そうしてアーサーが肩を落としたとき。静注ゆえ効きが早かったのか、薬の副作用のようなものが顕れる。軽い動悸と少しの息苦しさ、それから臓腑を内側からまさぐられているような不快な感覚。それらが唐突に始まったのだ。
「ジャスパー、あなたに頼みたいことがあるのよ。あとで私のオフィスに来てくれるかしら」
肩を落としたアーサーがそのまま背中を丸めて不快な感覚に耐えるその横で、マダム・モーガンはなんてことない業務連絡をサッと伝えると颯爽とその場から立ち去っていく。
一方、アーサーの異変に気付いていた医務官ジャスパーはすぐにマダム・モーガンの後を追おうとはしなかった。
「むず痒い感じ? なら軽く歩こう、そうすれば楽に――」
アーサーの肩に手を置き、医務官ジャスパーはそう声を掛けるが。顔を俯かせたアーサーはその言葉を最後まで聞くことなく、彼女を突き放す言葉を返す。「……大丈夫だ、行ってくれ。それに、今は少し一人になりたい気分なんだ」
「そう。分かった」
言葉の最後、少しだけ強まった語気。そこからアーサーの心境を察した医務官ジャスパーは、彼の望み通り立ち去ることを選ぶ。彼女はソファーの座面に広げていた注射セットをガサツにまとめ、ゴミも一緒に黒い鞄の中に押し込めると、それを回収して部屋を去っていった。
そうして部屋の中に残されたのは背中を丸めるアーサーと、おどおどした様子のアイリーンだけとなる。
「あっ、あの……」
気分も機嫌も悪そうな様子のアーサーに、挙動不審なアイリーンは何か声を掛けようとするが、しかし引っ込み思案なアイリーンは言葉を続けられない。彼女には伝えたいことが幾つかあったのだが、不穏なオーラを発する男を前にして声を出すことができなくなっていたのだ。
彼の子供たち、テレーザとレーニンの姉弟の現在について。アイリーンはそれを知っていて、それを彼に伝えたくて、事前に幾つか写真を印刷してきていた。それを彼女は今、着ているワンピースの腰ポケットに入れているのだが。それを伝える声が喉から出てこない。
そんなわけでオロオロとしていたアイリーンの許に、やがて邪魔者がやってくる。そいつは豪快な足音をドスドスと立てながら、廊下の向こうからやってきた。
「ここに居たのか、ルーカン」
医務官ジャスパーが出て行った際に、僅かに開け放たれていた部屋の出入り口。その隙間から部屋を覗き込んでアイリーンを発見して部屋に押し入ってきた大男、それは声を奪われる前の“ケイ”だった。
六十歳過ぎと思われる容姿とグレイヘア、そして髪と同じ色合いの顎髭。二mはゆうに超えていると思われる身長と、発達しすぎているとも思える過剰な筋肉。――大迫力なケイの姿に圧倒される臆病なアイリーンは、ぶるりと肩を震わせた。
そんなケイは怯えるアイリーンの様子に小さな溜息を零し、続いて背中を丸めているアーサーを見るなり舌打ちする。それからケイはアイリーンにこう言った。
「ボストンの相手なんざ今はいい。チェンがお前を呼んでるぞ、早く来い」
ボストン。それはケイのみが使うアーサーの呼び名だ。アーサーの話す英語にボストン訛りが強く表れていて聞き取りにくいから、というのが理由である。呼び名というよりも蔑称に近いのだろう。
「ひぇ、あっ、ちぇ、チェンがッ!? や、やばっ、ばばっ、うわぁ~っ、絶対この間の機械のことだぁ……ひぃえぇ~……怒られるぅ……!!」
「騒ぐな、ガキじゃあるまいに」
泣き言を漏らすアイリーンと、それを冷たく切り捨てるケイのやり取り。それが遠のいていくのを感じながらアーサーは体の力を抜き、、ソファーの座面にごろりと寝転ぶ。そして彼は壁に投影されたままになっている静止画を見た。
だが彼が思い出していたのはその前に見た動画のこと。遊園地のような場所で娘や友人らと共に過ごしていた、あの場面だ。
「……」
その瞬間から何年が経過していたのか、この時のアーサーはまだ知らない。子供が幾つになっているのか、成人しているのかも彼には分からなかった。ただ、思うのは顔を思い出すこともできない子供たちのこと。その子たちは両親を亡くしたまま成長しているのか、と。――その瞬間、目頭がカァと熱くなったような気がした。
結局、涙が出るまでには至らなかったが、ただ心の中では暴風雨が吹き荒れている。詳しいことは何も思い出せないが。何かが違う、間違っているという怒りや、こんなはずではなかったという遣る瀬無さが込み上げ、そして綯い交ぜになり、思考がグチャグチャに蹂躙されていた。
「……」
普通じゃないのに、普通になろうとした。普通じゃない環境で家庭を築き、そして子供たちを普通に育てようとして失敗した。その結果が今。親を亡くした子供たちは寂しさを抱えながらどこかで成長しているのだろう、そして片親は死後に蘇って怪物になった。光り輝く蒼い血をその身に宿した、死を越えた怪物に。
普通とは遠くかけ離れた怪物。それが自分。そんな自分がとても気持ち悪く思えていたし、受け入れがたかった。
「……クソが……なぜ、誰が私にこんな仕打ちを……!!」
吹き上がった怒りに任せて、アーサーがソファーの座面に握りしめた拳をぶつけたとき。ソファーを殴っただけとは思えない衝撃波が起こる。その直後、部屋からは完全に光が失われて真っ暗闇に包まれたと同時に、そこそこの重量を持った固く大きいものがドンガラガッシャンと床に落下する轟音が次々と鳴った。
何が起こったのか。その理解が追い付く隙も与えず、アーサーの体を強烈な疲労感が襲う。鼻から何か垂れるような感覚をアーサーが覚えたその直後、彼の意識がプツッと途切れた。
「――おいおい、何だこれはッ?!」
その後。轟音を聞き、元いた部屋に大慌てで引き返してきたケイとアイリーンの二人は、そこで見たものに驚愕する。たった数分の間で、部屋が酷く散乱した状態に変化していたからだ。
部屋の中央に置かれていたソファーの位置、これに変動はない。蒼い鼻血を垂らしながらソファーの上で気絶したように寝ているアーサーがいるぐらいで、他に目立った変化はなかった。が、問題はそれ以外の家具たちだ。
部屋の隅に置かれていたコンピュータは、何故か反対側の壁に吹っ飛んでいるし、筐体は大きく凹んでいるようにも見える。壊れていて、もはや起動が出来ない状態になっているのは間違いない。そしてコンピュータを置いていたコンソールデスクは木っ端みじんになったようで、もはや破片すら見つけられない状態になっていた。
壁に映像を投影していたプロジェクターも、今や映像を投影していたコンクリート打ち放しの壁にめり込んでいる。――そしてそれはケイたちが部屋に踏み入った直後、壁からゴトンと床に落ちた。
他の家具たちも、その大半が吹っ飛んで壊れている。アームチェアも、スツールも、サイドテーブルも、クッションも、観葉植物のフェニックス・ロベレニーも、天井の照明さえも、元あった場所からかけ離れた場所に散乱しており、そして大半が破損している。ただ一点、ソファーのみを除き、それ以外の全てがブッ壊れていた。
「まさか、これは全てボストンの仕業か?」
ケイがそう呟いた直後、同じく轟音を聞きつけた特務機関WACE隊員たちがこの部屋へとワラワラと集まる。整備工ジャック・チェン、医務官ジャスパー・ルウェリン、ボスのマダム・モーガンまでもが集結して、そして彼らは一様に唖然とした。
中でも動揺していたのがマダム・モーガンである。鼻血を垂らして気絶するアーサーの間抜けな姿を見ながら彼女はホッと胸を撫でおろす一方で、緊張と不安から手をガクガクと震わせる。それから彼女は小声で、恐ろしい言葉を発するのだった。
「……この程度で済んで良かった。あぁ……!」
部屋の中のあちこちに飛散し、見る影もない無残な有様に変わり果てた家具たち。それを見て、マダム・モーガンは「この程度」と言った。その言葉を聞いた周囲の者たちは絶句し、偉大な上官マダム・モーガンをただ茫然と見つめるだけとなる。
五年前。ボストンが突然消滅したあの日に、騒動の中心部からマダム・モーガンが連れ帰ってきた生ける死者、アーサー。どうして彼が特務機関WACEの管理下に置かれることとなったのか、その意図を隊員たちは理解し、息を呑んだ。
「ったく。どんくさいな、ボストン!」
カジュアルな打ち合わせをするための場所として使われていた部屋、そこの家具をアーサーが無自覚的に爆散させてから五日後のこと。マダム・モーガンによる緘口令が敷かれたこともあり、自分が何をしでかしたのかを全く知らずに過ごしている暢気なアーサーはこの日、面倒な男に絡まれていた。それが整備工ジャック・チェンから裏で『
特務機関WACEに所属する隊員たちは基本、常に忙しくしている。マダム・モーガンは情報収集と工作のために常に駆けまわっているし、アイリーン・フィールドと医務官ジャスパー・ルウェリンは情報分析に追われている。そして整備工ジャック・チェンは隊員たちが壊した銃火器や精密機器の整備で大忙しで、彼の聖域である武器庫及びデポから出てくることが滅多にない。
だが忙しくない者も居た。それが単に囚われているだけの身であるアーサーであり、出動要請がなければ料理場に立つこととトレーニングぐらいしかやることが無いケイの二人である。そういうわけで必然的に暇人同士がマッチングしたわけだ。
アーサーとしては、静かで薄暗い部屋にこもって本だけを読んでいたかったのだが。どうしてか、この時の彼はトレーニングルームに居たし、ボクシンググローブを両手に装着していて、そして天井から吊り下げられたオレンジ色のサンドバッグを殴っていた。というか、殴らされている。後ろでヤジを飛ばしながら悦に入っている様子の大男ケイが、イヤな圧をかけてくるのだ。
本音を言うと、この道に全く向いていないと感じていたアーサーは、今すぐにでもこんなバカげたことを止めたい気分でいっぱいになっていたのだが。見張られている以上、投げ出して中断することもできない。そうして苛立ちを拳に載せ、彼はサンドバッグをバンッと殴る。それから彼は息を呑んだ。
殴って飛ばしたサンドバッグは、弾道振り子の法則に則っているならばアーサーから遠のいているはず。しかし彼は遠のいているという“実感”を得られない。つまりサンドバッグとの距離が肉眼で測れなかったのだ。そうして打ち返すタイミングに悩んでいる間に、現実ではサンドバッグがアーサーめがけて戻ってくる。
ドンッ。そんな鈍く重い音が鳴る。そして戻ってきたサンドバッグを顔面で受け止めたアーサーは後ろによろめき、膝をついた。しかしそのアーサーに更なる衝撃が襲う。イライラした様子の大男ケイが、アーサーの着ていたTシャツの胸倉をガシッと掴み上げ、強引に立ち上がらせたのだ。それから大男ケイはアーサーの耳元で怒鳴り声を上げる。
「サンドバッグに顔面ぶつけるヤツなんざぁ初めて見たぞ。戻ってきたサンドバッグを顔面で受け止めてどうする、それも五回連続だ! お前はふざけてるのか?!」
ケイの言う通り、アーサーがサンドバッグを顔面で受け止めたのは今日五回目。これはふざけていると思われても仕方がない。だがアーサーは不真面目なりの真剣さを発揮しているつもりではいた。手を抜いているわけでも、ふざけているわけでもない。思うようにできない、それだけだ。
こればかりは適性が無いとしか言いようがない。戻ってくるサンドバッグの軌道、そして打ち返すタイミングがからきし掴めないのだ。呆れ果てているのはアーサー自身も同様であり、故に彼は苦笑う。「……ハハハ。いや、ふざけてるつもりはないのだが」
「へらへら笑うな、ボストン!」
アーサーの胸倉を掴んだまま、大男ケイはアーサーの耳元で引き続きガーガーと怒鳴り散らす。高身長なほうであるアーサーよりも更に大きいケイが放つ威圧感はなかなかのものであったが……不思議なことに、大男ケイが掛けてくる威圧や脅しがアーサーには何も響いてこない。アーサーがそのまま冷めた微笑を維持し続ければ、呆れた大男ケイは彼を解放する。その際に大男ケイは「話にならない」という小言を零していた。
話にならない。そう思っていたのは奇しくもアーサーも同じ。彼は大男ケイの相手をしてやっていた立場。言うなれば、近所で飼われている大型犬が自宅の庭に侵入してきて構え構えと吠えたてるから、仕方なくその遊び相手を務めてやっていただけというもの。であるからこそ、勝手に失望されて呆れられたところで知らんがな、というのがアーサーの本音である。
誰かこの面倒な大型犬を引き取りに来てくれないものか。アーサーは心の中でそんな愚痴を零しながら笑顔を消すと、掴み上げられた際にグチャグチャになったTシャツのしわを軽く伸ばして消し、続けて乱れた前髪をサクッと手櫛で直す。そんな風に見た目ばかりを無意識に気遣うアーサーの様子を見るなり、熊のような出で立ちの大男ケイは舌打ちをした。と同時に、大男ケイは小言を並べる。
「ケッ、伊達男ぶりやがって。頭の中はスッカラカンのくせによぉ?」
「脳が汗と肉汁で漬かっているようなイタリアンビーフ男に何かを言われる筋合いはない」
小言に対して、間髪を入れずに繰り出されたのは早口なボストン訛りで捲し立てられた反撃の一手。反撃を食らった大男ケイは『ひどい撫で肩の頼りなく細っちい優男』から何を言われたのかを即座には理解できず唖然とし、毒気に当てられた様子で固まっていた。
そして反撃を食らわせた当のアーサーもまた、自身のとんでもない発言に驚いている。考えるよりも先に、まるで反射のように飛び出してきた罵りの言葉。これが“自分”の言動なのかと、彼自身も一瞬信じられなかったのだ。
「…………」
イタリアンビーフ。たしか、それはシカゴのなんか有名な料理だった……気がする。薄く切り分けたローストビーフをフランスパンで挟んだ甘辛いサンドウィッチっぽいやつ。グレービーソースを上から掛けて、更にグレービーソースにフランスパンを浸して、つゆだくグジョグジョの有様を楽しむもの。そんな風な料理だったはず。
――いや、どうしてこんなことを覚えている? 自分の過去のことは何も思い出せないのに、食べたことがあるかどうかすら分からない料理のことをなぜ知っているのか。
「……おい、ボストン」
あれやこれやとウダウダと考えていたアーサーだが、そんなことをしたところで過ぎたことは取り返せない。あからさまな威圧を掛けてくる大男ケイを無視するアーサーは、困惑を内心に押し込め隠してあくまでも冷静かつ平然と振舞う。右手にはめたボクシンググローブ、その手首を固定しているストラップの端を噛み、面ファスナーをベリッと剥がしてグローブを外し始めるアーサーは、大男ケイから顔を逸らして両瞼を伏せた。
努めて沈着に、余裕の素振りで。そうしてアーサーは大男ケイの挑発を躱す。だが大男ケイは更なるアクションを起こし、暇人アーサーの気を引こうとするのだった。
「グローブは外すな。かかってこい、ボストン」
大男ケイは足を肩幅に広げて立つ。続けて大男ケイは手指の関節をわざとらしくバキポキと鳴らしたあと、時代遅れのカンフー映画のように指先だけのキザな手招きをチョイチョイとしてみせた。
それはいかにもチンピラくさい挑発だった。髪も髭もグレイに染まった男がやるような振る舞いでは到底ない。そういうわけで遂に嫌気が限界に達したアーサーは、遂にこの大男を完全無視することを決意した。
アーサーは右手をボクシンググローブの中から引き抜くと、自由になった右手で左手のボクシンググローブを外し、両手を解放する。それから両手に装着していたインナーグローブ型バンテージを素早く外し、ボクシンググローブと共に手近な場所にあったテーブルの上にガサッと置いた。もう相手をする時間は終わりだと、その意思表示をしたわけである。
そうしてアーサーがボクシンググローブ一式を置いた時。トレーニングルームの出入り口がガチャリと開けられ、この空気に水を差す役が入場する。医務官ジャスパー・ルウェリン、彼女が来たのだ。
「アーちゃんは立体視が下手くそなんだ。彼はよくドア枠に頭をぶつけてるし、段差を踏み越えるタイミングを見誤ってコケてるし。だから彼に格闘技は向いてない。しかし、まあ、ここまで才能がないとはねぇ……」
まるでずっと見ていたかのような口ぶりでそう語る医務官ジャスパーに、アーサーは疑問を抱いたが。トレーニングルームの西側の壁一面が鏡になっていることに今さら気付き、そこで答えに行き付く。あの鏡のようなものの正体はビームスプリッター。あの鏡のように見えるガラスの裏側から、医務官ジャスパーはずっとアーサーらの様子を見ていたのだなと。
――そしてまたアーサーはひとつ発見する。ビームスプリッター、そんな知識はやはり残っているのだなと。
「ボストンは斜視なのか? それなら先に言え」
立体視が下手。医務官ジャスパーが発したその言葉から、大男ケイは斜視の可能性を見出したようだが。大男ケイの言葉に、医務官ジャスパーは首を横に振って否定するという反応を示した。それから医務官ジャスパーは言う。「あー、斜視とはちょっと違う。心因性のやつ」
「やめてくれ。異常者は猟犬だけで十分だ」
心因性。その言葉にアーサーもギクッと驚き、同時に不快感を覚えたとき。ほぼ同時に聞こえてきた大男ケイの心無い言葉もまた、アーサーの心にチクリと刺さる。が、先ほど非常に辛辣な罵倒文句を投げかけた手前、悲し気な表情をアーサーは作れなかった。売り言葉に買い言葉、多少何かを言われても仕方ないと受け止めることにしたのだ。それに異常者だという自覚がアーサーにはあった。それも大してダメージを受けてない理由のひとつだったのだろう。
そうしてアーサーが『異常者』という言葉を受けてもなお平然とした様子を維持していた一方。その言葉に怒ったのが医務官ジャスパーである。彼女はムッとした顔で大男ケイに詰め寄ると、彼を指差して淡々と『大男ケイに関連した事実』を陳列し始めた。
「あなただって人のことを言える立場じゃないよ、ケーちゃん。あなたは、その自分勝手な性質から元奥さんと子供たちに忌避された。そして家族から見捨てられたっていう現実から逃れるために、あなたは料理と釣りにふけっていたんでしょう。その逃避行動だって言葉を拡大解釈すれば心因性の症状になるわよ」
「俺の昔話は今、関係なッ――」
「いいえ、関係ある。それと同じだから。アーちゃんは周囲から浴びせられる罵詈雑言によるダメージを軽減するために、現実を現実として正しく認知する能力を捨てたってわけ。ヘラヘラ笑うクセもそれが理由。暴言暴力を軽く受け流すことでダメージを減らしてるんだ。そしてケーちゃん、あなただってイヤなことがあった時には強い男ぶって正面から対峙することを避けようとするでしょう。一人で対処する、放っておけって言っておきながら、何もしないで時間だけが経過し、やがてヤケを起こして暴走するのがあなたの常じゃない。それでマダムにしょっちゅうドヤされてるのは、どこのどなたでしたっけ?」
言葉を二〇倍にして返す医務官ジャスパーに圧倒され、遂に大男ケイは反論するための語彙を失くす。そうして大男ケイが矛先を向けるのは“ボストン”ことアーサーだった。
「チッ。ボストン、今日のところは終わりにしてやる。口うるさいジャスパー・ルウェリンに感謝することだな」
事実上の降参宣言。それを吐き捨てるように言うと、大男ケイは苛立ちを背中ににじませながらトレーニングルームを去っていく。不満そうにドカドカと足音を立てている様子からして、かなり腹が立っているようだ。その怒りは事実陳列罪を背負う医務官ジャスパーに向けられたものなのか、または余裕の素振りで佇んでいるように見えるアーサーなのかは定かではないが、とはいえ大男ケイが怒っていることは間違いない。
「これだから“男らしさ”ってのが嫌いなのよねぇ~」
不機嫌そうな大男ケイを見送りながら、医務官ジャスパーはボソッとそんな言葉を吐く。そのあと彼女はアーサーのほうに向き直ると、軽く腕を組みながらこのように述べた。「アーちゃん、ごめん。気、悪くした?」
「いや、別に……」
「そう、なら良かった。まあ、うちの組織はその性質上、どうしても隊員同士は『非常に長い付き合い』になるからさ。初めから相手の素性や性質が分かったほうがラクなんだ、お互いに。だから悪く思わないでね」
多分、医務官ジャスパーが軽く謝罪を入れてきた理由は『アーサーが精神的に病んでる人間だからと暴露したから』なのだろう。が、自覚のあったアーサーは然程そのことを気に留めていなかった。むしろ医務官ジャスパーがそこまで分析していることに驚いていたほどだ。
にしても、軽く謝ったあとに「悪く思わないでね」と開き直るとは。アーサーが驚いたのは、強いて言うならばそこ。そして彼が気になったのは両者から精神異常者だとぶった切られたことよりも、医務官ジャスパーが言っていた言葉の内容だった。
医務官ジャスパー曰く、アーサーには面倒くさいことを避けるためにヘラヘラと笑うクセがあるとのこと。なら……軽く見られたくない場合、ヘラヘラ笑うというそのクセは直したほうがいいのだろうか。
「……その。私は笑わないほうがいいのか?」
アーサーが口走ったのは何気ない質問。だがその質問は、医務官ジャスパーの妙なツボに入ったらしい。医務官ジャスパーは顔を俯かせると口許を手で覆い隠し、薄気味悪くフフフッと笑い始める。笑いによって声をフルフルと震わせながらも、医務官ジャスパーはその間抜けな問いに対して丁寧に答えるのだった。
「いいえ、あなたは笑っていたほうが良いと思う。あなたの笑顔は好き、それがたとえ作り笑顔だとしても」
「そ、そうか……」
「でも、笑顔を出し惜しみするのも悪くないかも。過去のあなたはちょっとサービスしすぎだった。だから新しいあなたは気難しい北国の人みたく、普段はムッとした顔で過ごして、本当に嬉しいことがあった時にしか笑わないってのもアリかもねぇ。じゃないとケーちゃんみたいなタイプから舐められる」
「……」
「ああいう筋肉馬鹿は、自分と同じぐらいかそれ以上の筋肉を持っている人間の言うことしか聞きたがらないから。細っちい体かつ威厳なくヘラヘラ笑う人間は馬鹿にされやすい」
結局のところ、笑わないほうがいいらしい。それはそれで窮屈なような気がするが、舐められて変な筋肉野郎に絡まれるよりはマシだろう。
なら、その助言に従ってみるか。そんなことをアーサーが決意したとき。笑いの衝動が収まった医務官ジャスパーは元の冷静さを取り戻し、ぼうっとしている様子のアーサーの肩を小突く。それから彼女はアーサーに言った。
「念のために言っておくけど。あなたは消化器官が貧弱で、そもそも十分なカロリーを摂取できない体質。体内にあるエネルギー源の貯蔵分が常に枯渇している状態だから、筋力をつけるにしてもケーちゃんがやるようなハードな運動は控えて。あなたの場合は一日十五分から三〇分、軽い負荷をかけるぐらいで十分。それ以上の無理をすると硬直が始まる可能性があるから」
「硬直?」
「だってあなた、強引に動かされている状態の死体だから。生者と比べると、代謝を始め色んなことが劣っているわけ。だからエネルギーが切れたあとの補給が追い付かない場合は硬直まっしぐらだよ。顎が動きにくくなったら要注意」
「……」
「あなた、鉄の肺で延命してた時に一度だけ固まりかけてるから。あれ、回復させるの大変だったんだよ? 死体硬直を解いて蘇らせるだなんて、そんなの前例ないし。だから必死に考えながら動いた。ATP静注して、高カロリー輸液を落としまくって、心マして、あとはもう『お願いだから呼吸してよ~』って祈りまくって。あのときは本当に、あたしまで心臓止まるかと思ったもの。――だから空腹にはくれぐれも気を付けて。それから、マズい予感がしたらすぐ言うこと。ATP補給のお薬あげるから」
「……承知した」
「まあ、そういうわけだし。あなたは筋肉ではなく威厳あるオーラを身に着ける方向で行こう。それに筋肉の割合が多い人ほど硬直のスピードが速くなるから、体は鍛えすぎないこと。いいね?」
積み重なっていく情報量の多さと、その内容の濃さ。これの処理に連日困り果てていたアーサーは、更に加わった情報『エネルギー不足を起こせば死体硬直まっしぐら、ゆえに無理は禁物。そして鍛えすぎるな』に撫で肩をガクッと落として急傾斜にした。
そうして困惑するアーサーは常套手段、強引な思考の切り替えを発動させる。困惑する情報を強制的に頭から放逐し、ガラッと思考とマインドを切り替えると、彼は頭の中を空にして皮肉屋の役に転じるのだった。「サンドバッグを顔面で受け止めるようなヤツに、威厳を身に着けろだなんて土台無理な話だろうに」
「あなたならできる。あの動画、見たでしょ? 過去にあれほど高圧的で感じ悪い演技が出来たひとなんだから、またやれるようになるって。悪役を演じるアーちゃんはきっとカッコイイよ」
医務官ジャスパーは励ますようなセリフを言うと、アーサーの撫で肩をポンポンッと二回ほど軽く叩いたのちトレーニングルームを去っていく。そして去り際、彼女はトレーニングルームの電灯を消していった。それはアーサーもすぐに部屋を出ると判断しての行動だった。
真っ暗になった室内にひとり残されたアーサーは、しかしすぐに部屋を出ることをしなかった。肩を落として唇を固く結ぶ彼は、今もまだ僅かにゆらゆらと揺れている吊り下げ式サンドバッグを睨む。やつが顔面にぶつかってきた時の鈍い痛み、それを思い出していたのだ。
「……」
高圧的で感じの悪い男を演じて、誰かを委縮させて従わせること。それが今の自分に求められている役割なのだと、彼も理解してきていた。医務官ジャスパーや大男ケイらと肩を並べて立つ日に求められるのはそのような役回りなのだろうと、そんなことぐらい分かっている。だが、そんなことをやりたくないとこの時の彼は感じていた。
等身大の“アーサー”は、あんなサンドバッグすらも避けられない間抜け野郎なのだ。それなのに、期待されているのは真逆の姿。
「……硬直か。そりゃ御免被りたいな」
ボソッと漏らした独り言。考えていることと口から出る言葉は時にまったく噛み合わず、ボタンを掛け違えたようにちぐはぐの状態になる。そんな自分に呆れるアーサーが溜息を零したとき、サンドバッグがひとりでに大きく揺れる。まるで見えない何かに強く殴られたかのように、それはブンッと大きく振りかぶった。
そして振り子のように戻ってくるサンドバッグは、完全に油断していたアーサーの脛に激突する。避けるというオプションすら頭に浮かばない間に起きたこの襲撃に、直撃されたアーサーはよろけてその場に膝をついた。
「何なんだ、この……――あぁっ、クソッ!」
立ち上がりざまに悪態を吐いたあと、彼はまるでサンドバッグから逃げるかのように早足で部屋を出て行く。そんな彼はこのとき、気付きもしていなかった。あのサンドバッグを動かしたのが他でもない自分自身であり、そもそも彼自身がサンドバッグを引き寄せていたことに。
どうでもいいことをゴチャゴチャと考え続ける彼の雑念。それが波となり、余計なものを自らに引き寄せる流れを作り出していたのだ。
サンドバッグにアーサーが顔面をぶつけまくったあの日から、更に三日後のこと。相変わらず自分自身のことを何も思い出せていないアーサーはこの日、妙に馴れ馴れしくなってきたアイリーンと共に一日を過ごしていた。
……というより、アイリーンに付き纏われていると言ったほうが正しい。アーサーがどこに行くにしても、何をするにしてもアイリーンが付いてくるのである。彼女が施設内の案内や設備についての解説をしてくれるのは有難いと思う反面、何をするにも「手伝うよ」と茶々を入れてくることに関しては疎ましく思えてもきていた。
アーサーとて、コーヒーや紅茶の淹れ方ぐらいは覚えている。皿洗いも当然。有り合わせの材料で簡単な料理をすることもできる。しかしアイリーンはいちいち疑ってかかるわけだ。本当にそれができるのか、と。
『あっ。紅茶なら私が淹れるよ。だって熱湯は危ないもん』
『いいよ、皿洗いなんかしなくたって。お皿を割って怪我されたほうが怖いもん。それに食洗器あるし、そういう雑務は機械にやらせればいいの』
『料理してもいいかって? えー……包丁、使える? 大丈夫?』
……と、まあ、アイリーンは常にそんな調子だ。その上、アーサーがそれらを普通にこなせばアイリーンは驚いた様子で過剰に誉めたてる。アイリーンのこの悪意無きお節介は、アーサーには非常に喧しく感じられていた。
それにアイリーンよりもアーサーのほうが頭一つ分以上の背丈があるというのに、にも関わらずアイリーンは彼の代わりに高いところにあるものを取ろうとする。こういったワケの分からない行動も、アーサーにはウザったらしく思えていたのだ。
そしてアーサーがこのような“雑務”を積極的にするのには理由があった。何もしない暇人の立場であり、手持ち無沙汰で居心地が悪いというのも理由の一つだが。一番の理由は『この環境にどうにも馴染めない』というもの。要するに彼は、彼の手が届く範囲を彼のコントロール下に置きたかったのだ。
例えば、食器類。アイリーンが全幅の信頼を寄せている食洗器だが、しかしアーサーはこれを好きになれなかった。彼の目には洗い残しが多く見えていたし、実際に食器類の大半はなんとなくだが油でベドベドッとしていたのだ。だからこそ彼はこう思ったわけである、こんなものに頼るぐらいなら手で洗ったほうがマシだ、と。
続いて、食事。特務機関WACEの料理番を務めているのは事実上、大男ケイだ。たしかに大男ケイの腕前は悪くない。それなりな価格帯のレストランに引けを取らないような優秀なコックであることに間違いは無かったのだが、しかしアーサーは大男ケイの振舞う手料理を敬遠していた。というのも大男ケイの得意料理は典型的な『北米流の豪快すぎる肉料理』だったからだ。
肉の脂も香辛料もチーズも小麦も、たっぷりでベットリ。いささか大きすぎるステーキが濃密なニンニクの香りを纏っているのは当たり前の光景。――大男ケイの振舞う料理は常にそんな調子で、貧弱すぎるアーサーの消化器官には掛かる負荷が重すぎる。ひと口で胃もたれするのは目に見えているようなもので、そんなものが連日続くとなれば胃に穴が空きそうだ。
無論、医務官ジャスパーからも「あれを食べるのは止めておけ」と忠告されている。そんなこともあって、アーサーとしては自分の分だけでも用意できるようにしたかったのだが。アイリーンはアーサーの胃に穴が空く未来を望んでいるようだ。
「アイリーン。もう施設の構造は覚えた、ゆえに案内は不要だ」
薄暗い白い光が天井から降り注ぎ、長い廊下をボンヤリと照らしている。コンクリート打ち放しの無骨な壁が延々と続いている廊下の途中で立ち止まるアーサーは、彼の半歩先を歩んでいたアイリーンにそう声を掛けた。続けて彼はこうも言う。
「つまり、その……君はそろそろ君の仕事に戻るべきでは?」
施設内のあちこちに掛けられた壁掛け時計が示す時間を信じるなら、この時は夕方の六時二十三分十二秒。どの地域の時刻が基準となっているのかは不明だが、まあ少なくとも時計の針は当時その時刻を示していた。アーサーの目にこのとき見えていた時計も、まさにこの時刻を示している。
「……」
チクタク、チクタク。秒針が動き続ける音が鳴っていた。そして秒針が四十八秒を指し示したところでアイリーンも立ち止まる。彼女が立ち止まった場所は、ちょうどトレーニングルームの出入り口前。トレーニングルームと廊下を隔てるガラス戸からは、ひとり黙々とベンチプレスに励んでいる大男ケイの姿と、トレッドミルの上を悠々と走る医務官ジャスパーの後ろ姿が見えていた。
大男ケイがゆっくりとバーベルの上げ下げを繰り返している姿を、アーサーが細めた目で見やったとき。アイリーンが振り返り、アーサーのほうを向く。同時にアーサーはアイリーンのほうに顔を向けると、人ならざる目を隠すように両瞼を閉ざした。するとアイリーンはどこか寂しげな表情を作り、アーサーに何かを言おうとしたのだが。そのとき丁度、廊下の突き当りの方角から何かを言い合う男女二人組の声がアーサーらのもとに届いた。
舌根を引いて喉にへばりつけた状態で発せられているような母音や、喉の奥の妙な場所から絞り出されているような子音の数々に加えて、何語なのか特定さえできない会話の内容。アーサーに聞こえていた音声はそんな調子だったが、とはいえアーサーにはその声の主が誰なのかが分かっていた。
女のほう、それはマダム・モーガンだ。どっしりと構えた中低域の声色でありながらも時折キンと高くなる声、それは彼女の特徴である。それから、乾いた声とくぐもった調子を織り交ぜて気怠そうに喋っている男のほう。こちらの声の主が誰なのかはアーサーの頭にはすんなりと浮かんでこなかったが、ただ聞き覚えのある声だということは理解できていた。
さほど高いトーンというわけではないが、かといって一般的な成人男性の声と比べれば低くはない音域の声。その声は秋風のようにまるで深みが無く、乾燥している。加えて、口をさほど開かずにぼそぼそと喋っている雰囲気は、ただその声を聞いているだけでイライラしてくる。が、その苛立たしい感覚が同時に妙な懐かしさを伴っている。
そうして不愉快さと同時に込み上げてきた気味の悪い感覚にアーサーが表情を曇らせたとき。不愉快そうなアーサーの顔、それから聞こえてきた声に思うところがあったアイリーンは肩をブルリと震わせて顔を引きつらせる。それから彼女はこう言うと、脱兎のごとく来た道を引き返し、振り返ることなく一目散に逃げて行った。
「あっ、あ、あの、わっ、私……――失礼しますッ!!」
突然アイリーンが大声を上げて、大慌てで逃げて行った。トレーニングルームに居た二人はそれを見るなり行動を止める。医務官ジャスパーはトレッドミルから降り、大男ケイはバーベルを台座に下ろして立ち上がった。そして二人はガラス戸に接近し、その向こう側の廊下で立ち尽くすアーサーを見る。
お互いに顔を見合わせた医務官ジャスパーと大男ケイは、共にこう考えた。アーサーが何か失言をしてアイリーンの気を損ねたのか、と。だが彼らは見当が外れていたことに遅れて気付く。廊下の先、その一点を見つめるアーサーが顔を顰めていたことに気付いたからだ。
アイリーンが逃げ、アーサーが顔を顰めるような来客があった。そのような答えに二人が同時に行き付いた時、まさにその来客が二人の視界に乱入してきた。
その来客は物騒な装いで現れた。迷彩服に迷彩柄の防弾チョッキ。そして胸と背中に弾帯をぐるりと巻き付け、迷彩柄のスカーフで頭を覆って目だけを出したような出で立ちは、いかにも戦地に居そうな傭兵そのもの。そしてそれを証明するかのように、その来客は背中に二本のサーベルなる物騒なものを携帯しており、肩に自動小銃を吊り下げ、更には腰ベルトに二丁の拳銃と四つの弾嚢まで下げている始末。――アイリーンが逃げ、アーサーが顔を顰めるのも無理はない。
そんな穏やかならざる出で立ちをした来客は顔を隠していたスカーフを解きながら、重装備の割に軽い足取りでアーサーに近付く。その過程でスカーフが取り払われ、露わになった来客の顔。それを見るなり医務官ジャスパーは目を見開き、大男ケイは舌打ちをした。その来客の正体が彼らの天敵である通称『猟犬』、現在の名をペルモンド・バルロッツィという男だったからだ。
強くうねったクセ毛の暗い髪。腫れぼったい瞼の下で、ギラギラと輝く異様な光を灯している蒼い瞳。怪我の影響で少し折れ曲がっている鼻筋……。何度も何度も見てきたその“悪夢”に、医務官ジャスパーは一瞬だけ肩をぶるりと震わせ、大男ケイは苛立ちから拳を強く握る。
「……ッ!」
なんとなく嬉しそうな雰囲気を放ちながら自分に近付いてくる傭兵風な装いの男。それに気付いたアーサーは目を開くと表情をより強張らせ、一歩だけ後退った。それからアーサーはその傭兵風な装いの男が見覚えのある顔をしていること――会議室のホワイトボードに貼りだされていた要警戒人物の写真――にも気付くと、更に数歩ほど後ろに下がる。だが、要警戒人物はグングンと距離を詰めてくる。
挙句、要警戒人物はスカーフを床に投げ捨てたあと、両腕を広げてみせる。まるで挨拶のハグでもする前触れのように。勘弁してくれと感じたアーサーはそのハグを回避するために直前で右横へと回避しようとしたのだが……――判断を下すのが遅かった。
「……アーちゃん、距離感音痴も度が過ぎてるって」
ガラス戸を隔てた向こう側。一部始終を見ていた医務官ジャスパーと大男ケイの二人は、揃って額に手をあて呆れ顔をしていた。というのも彼らは見てしまったのだ。アーサーが回避しようと動き出したタイミングは、同時に彼の身動きが封じられたタイミングであったことを。アーサーは正面から近付いてくる相手を避けるための適切な距離感を見誤ったというわけだ。
かなり強めな挨拶のハグ。それを完全に決められ、遂に動けなくなったアーサーは真顔になっていた。そんなアーサーは何かを捨てたか、諦めたかのようなオーラを放っている。その姿を見てクスクスと笑い出した医務官ジャスパーだったが。一方、大男ケイのほうは額に当てていた手を下ろすと、次に両腕を胸の前で組み合わせた。それから眉間に皴を寄せる大男ケイは、間抜けな姿を披露しているアーサーを見ながらひとり決意を語った。
「俺は決めた、あいつには絶対にハンドルを握らせない。運転なんぞさせて堪るか」
……等々、好き放題に言っている二人組の声を、ガラス戸を隔てた向こう側に立っているアーサーは聞いていた。また彼はその聞こえてきた言葉に心の中で同意する。自分は間違いなく距離感音痴というヤツであり、自動車の運転などするべきでない人間であると。
そうしてひとり気落ちするアーサーは続いて、目の前にある現実へと目を向ける。
「急に抱き着くな。気色悪い」
冷たい声でアーサーはそう言うと、挨拶がわりにハグを決めてきた不躾な男を彼自身から引き剥がし、その男の肩を軽く突き飛ばした。その後、アーサーは警戒するように腕を固く組むと、目を細めて睨むような視線を要警戒人物である男に向けた。
冷たい態度を取れば、きっと相手はショックでも受けて距離を置いてくれる。アーサーはそう考えたからこそ、そのような行動に出たのだが。しかし当ては外れたらしい。アーサーが突き飛ばすという行動を取った結果、後ろによろめいた相手は何故か目を輝かせるという反応を見せる。
相手は体勢を整えたあと再びアーサーに接近し、今度はアーサーの肩を掴んできた。その手をアーサーが強引に振りほどけば、相手はより一層目を輝かせて喜ぶような表情を見せる。
そのような相手の反応を見てアーサーは悟った。こいつは被虐を喜んで受け止めるタイプだったのか、と。そしてアーサーは出方を間違えたなと後悔すると同時に、じわりじわりと積み重なっていく嫌悪感につられて目元を強張らせる。
「……」
あたかも当然であるかのような馴れ馴れしい態度を取ってくる要警戒人物だったが、アーサーの警戒心ないし嫌悪感を察すると一転、気まずそうな態度に替わる。その男はアーサーから離れるように一歩下がると苦笑いを浮かべ、続いて弁明のような言葉を述べたのだが。
「あぁ、その。すまない。ただ、お前が目覚めたと知って、嬉しかったんだ。その冷たい態度が――」
弁明の言葉は途中で打ち切られる。言葉を遮る存在が表れたからだ。
「その顔面を吹き飛ばされたくなけりゃあ、今すぐ失せろ」
数年ぶりの邂逅に水を差したのは大男ケイである。トレーニングルームのガラス戸を乱雑に開けた大男ケイは、その扉であわよくば要警戒人物を突き飛ばそうとしたのだが、その目論見は失敗。要警戒人物は間合いを図れる能力および危険予知能力を持っていたため、余裕でガラス戸を避けてみせた――サンドバッグを顔面で受け止める間抜けなアーサーとは大違いである。
そうして目論見が失敗に終わり、大男ケイが吐き捨てたのが先ほどの言葉だ。それを言いながら大男ケイは前へと躍り出て、要警戒人物とアーサーの間に割り込む。だが要警戒人物は大男ケイに無視を決め込んだ。
「後でお前に渡したいものがあるんだ。だから少し、待って、いて、くれる、と……」
大男ケイという、縦にも横にも大きい筋肉の壁。それの横からヒョイと顔を出す要警戒人物は、そう言いながらアーサーに笑いかけ、その蒼い瞳でアーサーの姿を捉える。だがその穏やかな振る舞いはそう長く続かなかった。
言葉の途中まで、要警戒人物は笑顔であり声も調子が良さそうな雰囲気を纏っていたのだが、言葉が進むにつれ声はトーンダウンしていった。喋るスピードも減速し、男の顔からは表情が消え、次第に目が虚ろになっていき、最終的には黙りこくる。そして要警戒人物の口が閉じた直後、その男の首がガクッと下がり突然、項垂れた。と同時にアーサーは大男ケイに肩を掴まれ、トレーニングルームの中へと投げ飛ばされる。
あまりにも突然起きたことに、アーサーは受け身も取れないまま床に倒れ込んだ。何が起きたのかと混乱しながらアーサーが姿勢を立て直したとき。アーサーが見たのは、大男ケイが要警戒人物の装備から拳銃を素早く奪い取り、それを構えている姿だった。そして大男ケイが狙いを定めていたのは、彼の目の前に突っ立っている要警戒人物の頭部。
アーサーの目には、大男ケイが制圧に成功しているように見えていた。だが一瞬で事態は劇的に動く。
「――……クソが。こんなとこで油売ってる場合じゃねぇだろ」
俯いていた要警戒人物が、小声でピリピリとした小言を零した直後。大男ケイが奪い取ったはずの拳銃はあっという間に奪還され、そして大男ケイは足許から崩れるように倒れていく。たった一撃、足払いを受けただけ。にも関わらず体重一〇〇㎏はゆうに超えていそうな大男ケイの巨体が、腐って脆くなった樹木のように伏していった。
軽い一撃で大男ケイを無力化させた姿。アーサーはその様を呆然と見つめることしかできない。すると大男ケイを倒した要警戒人物の目が、呆然とするアーサーを捉える。その時の要警戒人物の表情は先ほどとは別人のように不機嫌そうだった。
「……」
睨むようにアーサーを見ていたその目。心底嬉しそうな様子でアーサーに喋りかけてきた時はたしかに蒼い色をしていたはずの虹彩が、しかしこの時は色が替わっていた。真っ暗闇の中で孤高に光る翠玉、そんな雰囲気を纏う濃緑色の瞳に変化していたのだ。
要警戒人物は不機嫌そうな緑色の瞳でアーサーを暫く睨み付けたあと、そっぽを向くように顔を背けると来た道を戻り、マダム・モーガンの居るだろう方向へと引き返していく。そうして要警戒人物の気配が遠のいたとき、立ち上がりながらアーサーは独り言を呟くように小声で疑問を零した。「あの男、今、目の色が……」
「あやしい挙動と目の色の変化。あれ、覚えておいて。黒い犬のほうが入ったサインだから」
よろよろと立ち上がったアーサーに手を貸すついでに、彼の独り言にそう返答したのは医務官ジャスパーだった。続けて医務官ジャスパーはより細かい解説を付け加える。
「あれはつまり、人格が交替したってこと。厳密には憑依って言葉が適切なんだけど、まあとにかくそんな感じ。さっきアーちゃんに抱き着いてきた彼は『ペルモンド・バルロッツィ』だけど、悪態吐いて去っていった彼は『黒い犬』が操縦している状態の彼であり別人のようなものだということさえ理解していればいい」
「その、黒い犬というのは何だ?」
「おっかない幽霊とかモンスターみたいな、なんかそういうやつ。たまに犬とか狼みたいなかたちをした黒い影が彼の傍をウロチョロしてるのが見えるから、その影のことをあたしはそう呼んでる。その影が彼の体に飛び込んだあとはいつも、彼の目の色が緑色に替わってるから。まあ、そういうことなんだろうなって見当つけてるの」
「なるほど……」
「あと、それとは別に彼の人格が戦闘モードにチェンジするパターンもあるから要注意。憑依じゃなく病的なそれのパターンね。この場合も目の色が変わるんだけど、雰囲気は『黒い犬』とはかなり違う。戦闘モードの彼には自分で考える頭が備わっていないから、説得が一切通じない。だから、くれぐれも彼には気を付けてね」
医務官ジャスパーの話を聞き、アーサーは納得する。要警戒人物の目の色が変化したと同時に起こった態度の変化、その理由は少なくとも判明したのだから。そして大男ケイの行動の意図もアーサーは理解した。憑依が起きたと判断した大男ケイは、咄嗟にその場における正しい行動を取っただけ。彼がアーサーを突き飛ばしたのは、どんくさいアーサーを『黒い犬』から遠ざけて安全を確保し、ある程度自由に動ける領域を確保するためなのだ。
「……憑依と、人格交代か……」
アーサーはそう呟きながら目を伏せ、顔を僅かに下へ向ける。それから彼は少し考えた。
医務官ジャスパーが『黒い犬』と呼ぶモノ。それが攻撃的な存在であることは間違いない。あれは大男ケイを一瞬で倒し、アーサーに敵意に満ちた視線を送りつけてきた存在なのだ。今回は特に何も起きずに済んだが、もし運が悪ければ……――
「あんなのと私は親しかったのか?」
アーサーは顔を上げながら、医務官ジャスパーにそう訊ねる。彼女に訊いたところで何かが分かるとは彼も思っていなかったが、ただその時は浮かんだ疑問を声に出して処分しておきたかったのだ。
そして訊かれても困る問いを投げられた医務官ジャスパーは、肩を竦めるという反応を見せる。それから彼女はこう言った。「あたしも、どうしてアーちゃんがあんなのと親しかったのかが理解できない。でも、ひとつ分かったことがある」
「……?」
「彼はアーちゃんが好きなんだ。冷たくあしらわれても喜んじゃうぐらいには、大好き。むしろ冷たくされるのが好きなのかも」
「……やめてくれ。気持ち悪すぎる」
「ハハッ。でも向こうはそんな感じだったよ? アーちゃんったら妙なのに好かれちゃったねー、大変だー」
アーサーとしては好ましいと思えない事柄を茶化すように言う医務官ジャスパーが、悪意に満ちた黄色い声をキャッキャッと上げていたとき。廊下では大男ケイが不機嫌そうな気配を漂わせつつ、強烈な一撃をお見舞いされた足を庇いながら立ち上がっていた。
そして医務官ジャスパーの黄色い声に顔を顰める大男ケイはトレーニングルームの扉を開けると、それに寄りかかるように立つ。それから大男ケイは、不愉快さから表情を引きつらせるアーサーに焦点を当てると、苛立ちを帯びた声でアーサーに釘を刺した。
「おい、ボストン。俺はお前を助けてやったんだぞ。礼の一つぐらい言ったらどうなんだ?」
恩着せがましい大男ケイの態度。その態度に、アーサーの天邪鬼な側面が騒ぎ出す。
「……感謝する、一応」
アーサーは大男ケイに一瞥をくれることもせず、ぶっきらぼうに言う――余計な一言を最後に沿えて。すると機嫌を悪くした大男ケイは大袈裟な溜息を零すと、コーヒーブレイクを求めてキッチンのある方角に去っていった。
不機嫌そうな大男ケイが立ち去った後のこと。アーサーが医務官ジャスパーと十五分ほど軽い立ち話をしていると、そこにマダム・モーガンがやって来てアーサーにのみ「来なさい」と声を掛けた。そうしてアーサーが連れて行かれたのは、部屋の中央に大きな円卓が設置された会議室。そこは彼も初めて立ち入る空間だった。
十二人掛けの円卓、その直径はおよそ三mといったところ。しかしそれを収容する部屋は狭く、円卓を囲む椅子の後ろに辛うじて人が通れるスペースがあるといった具合である。その窮屈な空間には先客が居て、その人物は椅子に座らず円卓に腰かけていた。
先客、それは十五分前に大男ケイを一瞬で打ち負かした人物、ペルモンド・バルロッツィである。彼は気まずそうな微笑を浮かべつつアーサーのほうに向くと、謝罪の言葉を軽く述べた。
「さっきはすまない。ジェドはここから追っ払った。今、あいつはそこで大人しく寝てるから安心してくれ」
ペルモンドは「ここ」と言いながら、彼自身の頭を左手人差し指の指先で軽くトントンと叩く。それから続けて彼は部屋の隅、最も出入口から遠く離れた場所を指した。その誘導に従ってアーサーは会議室の隅を見やる。そこでアーサーが見つけたのは、部屋の隅でイジけたような不貞寝を決め込んでいる狼のようなかたちをした黒い影だった。
アーサーの視線に気付いたのか、その黒い影は頭と思しきものを徐に上げる。すると影は目のようなもの――二つ横に並んだ緑色の光――を開き、苛立ちと嫌悪でコーティングされた視線をアーサーに送りつける。だが一〇秒ほどで睨みは終わる。黒い影は飽きたのか再び頭を下げて目を閉ざし、不貞寝の体勢に戻っていった。
「……」
医務官ジャスパーが言っていた通り、黒い犬……というか狼の姿をしたものがいる。そいつの名前はジェドであり、何故だか理由は分からないがジェドはアーサーのことが嫌いな様子。
ペルモンドは「大人しく寝てるから安心してくれ」と言ったが、アーサーにはとてもではないが安心できなかった。気を抜いた瞬間に、先ほど大男ケイが受けた襲撃よりも酷いものが襲い来るのではないのかと、アーサーにはそう思えてならなかったのだ。
そうしてアーサーは警戒心から無意識的に腕を組むのだが。無情なマダム・モーガンはアーサーの警戒心に気付いていながらも、彼の右肩をポンッと叩く。続けてマダム・モーガンはこう言うと、アーサーを会議室に残して去っていった。
「彼から武器は全部取り上げてあるから大丈夫。それじゃ、私は行くから」
アーサーにはこう思えていた。武器の有無は関係ない、ペルモンドという人物そのもの及び部屋の隅で不貞寝しているあの影が危険そうなのだから、と。だが本人らがすぐ傍にいる手前、そんな本音を漏らすことは憚られた。
すると円卓に軽く腰かけていたペルモンドが円卓から離れ、姿勢を正す。彼はアーサーから僅かに視線を逸らすと僅かに顔を俯かせ、簡潔にこれだけを述べた。「用件は一つだけだ。それが済んだら俺はすぐに消える」
「そうか、なら手早く済ませてくれ」
不人情なアーサーは冷淡にそう返答するのみ。だが察しの良いアーサーは気付いていた。このアーサーの冷淡な態度、もとい敬遠するような姿勢に相手が少しの悲しさを覚えていることを。だがアーサーには配慮する気など更々なかった。
彼は早くペルモンドから離れたかったのだ。生前の自分がこの男とどんな関係にあったかなどアーサーの知ったことではないし、今の彼にとってペルモンドという存在は良い印象がない人物でしかないわけだ。ならば、アーサーとしてはここで悪い印象を相手に抱かせ、距離を生む方向に持っていきたいというもの。
しかしこのアーサーの狙ったかのようなあからさまに冷たい言動は、ジェドと呼ばれた黒い影の怒りを買う結果となる。不満げなオーラをそれとなく匂わせ続けていたその黒い影は、アーサーの言葉が終わった途端に飛び起きたのだ。そして黒い影は緑色に輝く両目を見開くと、口を大きく開けて緑色に輝く咥内を覗かせる。それから黒い影はアーサーに向けて、吠えたてるように言った。
『あぁっ、うざってぇ!! 自分の置かれた立場も考えねぇで、偉そうにスカしたツラをしやがってよぉ? てめぇ、何様のつもりだ!! 身の程を弁えやがれ、ゴルァッ!』
黒い影はバウバウとアーサーに吠え立てたあと、気が立ったその勢いのままに走り出す。アーサーに狙いを定め、体当たりでも決めに行くかのような突進を仕掛けてきたのだ。
だが、その突進はあえなく強制停止させられる。ペルモンドが手をかざし、この黒い影に制止を求めたからだ。黒い影は制止を受けて急ブレーキを掛け、その場に立ち止まる。直後、ペルモンドは犬に出す指示のような言葉を口走った。
「――ジェド。回れ!」
まさか、とアーサーは思った。そして、まさかの展開が起きた。なんと人語で吠え立てた黒い影が、ペルモンドが言葉を発した直後、躾けられた犬のように芸をしてみせたのだ。黒い影は立ち止まっていた場所を基軸にして、床にコンパスで円を描くような動きをしてみせた。これは完全に、ひとに飼いならされた犬も同然である。
そして黒い影が円を一周描き終えたあと、間髪入れずにペルモンドが再び指示を出した。
「伏せ!」
黒い影は再び、犬のように床へ伏せてみせた。その後、ペルモンドはまた指示を出す。
「ターン!」
黒い影は体を横向きに倒すと、そのまま仰向けになり、お腹を天井に向けた姿勢になって制止する。降参の意思表示をした犬、そんな有様だった。
ひっくり返った哀れな姿を見せる黒い影。それがピタリと止まり、動かなくなったことを確認するとペルモンドは次なる指示を出す。
「俺が『良し』と言うまで、その体勢を維持しろ。それまで絶対に動くな」
仰向けに寝そべる黒い影は、ひっくり返った頭で疎まし気にアーサーを睨み付けているようだったが、けれどもそれが動く気配は無い。ペルモンドの指示に大人しく従い、制止した状態を維持している。
暴力的で荒っぽい。アーサーの目にはそんな風に映っていた黒い影だが、しかし思いのほか従順なところもあるようだ。それも、かなりの従順さを発揮している。
「……あれを躾けたのか?」
アーサーは試しにそう訊いてみるが、ペルモンドから返ってきた答えは曖昧で信用できない言葉だった。
「さあな。少なくとも“俺”は覚えていないが、たぶん俺が躾けたんだろうな。――まあ、それはいいとして。本題に移ろう」
ペルモンドはそう言うと、一歩後ろに下がる。すると彼の体で隠れていた椅子、及びその椅子の背もたれに掛けられていた黒い外套がアーサーの目に見えるようになった。
ペルモンドはその黒い外套を取り上げると、それをアーサーに手渡す。外套を受け取ったアーサーは怪訝そうな表情を浮かべた。すると、そんなアーサーの様子を見てペルモンドはこのようなことを言う。
「これはお前が死ぬ直前、俺に預けたコートだ。……その様子じゃ、本当に何も覚えてないんだな」
肩にケープが取り付けられた、黒いインバネスコート。これはアーサーに縁があるものらしいが、しかし彼には思い当たる節が今はなかった。そうしてアーサーが首を縦に振り、覚えていないと伝えると、ペルモンドは肩を落とす。それからペルモンドはこのインバネスコートを彼が保有していた理由を語るのだった。
「肩のケープ、その裏地に本物のミンクの毛皮が使われている、売れば中古車が一台買えるぐらいの金銭に変えられるだろう、だからこれをテレーザに渡してくれ。――あの日、お前は俺にこのコートを預けてからそう言うと、行けと俺を突き飛ばした。そして俺はお前の望んだ通りにした。避難勧告を州内全域に出すよう知事に連絡を入れたあと、お前の子供たちとエリーヌを連れてニューヨークに脱出。工学者でもないお前をあの場所に置き去りにして、俺はこっちに亡命した。結果、ボストンは吹き飛んで消え、お前は悲劇の中心地で死んだ」
「……」
「それで、このコートをテレーゼに渡さなかった理由だが。一〇歳かそこいらの子供に上等なコートを渡したところで、その価値を理解できるわけもないだろうし、現金化する方法を知るはずもないと判断したからだ。だから、これは俺が預かることにした。時が来た時に、お前の子供たちに渡すことも考えたが……――お前が息を吹き返したと聞いて、お前に返すことにした」
「……そうか」
「代わりにあの子たちには生活面、金銭面でのサポートを提供している。衣食住で困ることがないよう取り計らっているつもりだ。それに本人たちが望むのであれば、高等教育を受けさせるつもりでいる。あと、セシリアだ。彼女に、あの子たちの後見人を頼んでいる。彼女なら、お前も信用できるだろう?」
「……セシリア?」
「セシリアも忘れたのか?」
「ああ。誰のことなのか、まったく分からない。名前に聞き覚えはあるような気がするが……」
「今の彼女は、財務顧問だ。俺の、その……財団法人、その理事長を彼女にやってもらっている」
「財務顧問? そんな人物が、子供の後見人に?」
「本当に何も覚えてないのか。お前が俺に彼女を紹介したってのに、その彼女を忘れるとは……」
ペルモンドはそう言うと、どことなく失望したかのような表情を見せる。その一方でアーサーは、ペルモンドの語る言葉の何もかもが他人事のように感じられていた。
コートのことも、自分が死んだときの話も、死に別れになった子供たちのことも、セシリアという人物についても。覚えていない以上、アーサーには実感も湧いてこない。しかし、少しの虚しさがこみあげてくる感覚はあった。
「……このコート、本当に私のものなのか?」
アーサーは受け取った黒いインバネスコートを広げながら、ペルモンドにそう問う。そしてペルモンドはこのように答えた。
「着てみれば分かるだろ。お前の体に馴染むはずだ」
アーサーは広げたインバネスコートに袖を通す。ペルモンドの言葉の通り、そのコートは体に馴染む感覚があった。袖丈も、肩幅も、身丈も、何もかもが丁度いい。背が高く、しかし極端な撫で肩で、細身であるアーサーの体格にフィットしていた。
このコートは間違いなく、自分のものだった。それを確認したアーサーは着用したばかりのコートを脱ぐ。それを丁寧に畳みながら、アーサーは小さく微笑みつつ、ペルモンドを見やりながらこう呟いた。
「……そのようだな。たしかにこれは私のものであるようだ」
しかし。微笑みかける一方で、アーサーの中にはどす黒い負の感情が渦巻いていた。ペルモンドという男に向けられる嫉妬、もとい怨嗟が、彼の心を掻き乱していた。
――もし、あのときに死んでいたのがペルモンドであったのなら。自分は今頃、子供たちと穏やかに暮らせていたのだろうか。蒼い血を宿す怪物になることもなく、普通の人生を歩めたのだろうか。
――なぜ、あのときの自分はこの男を行かせたのか。この男に、それほどの価値があったのか? 子供たちとの時間を捨てるほどの価値が、こいつにあるのか?
そのような黒い感情が、次々と湧き出してくる。だからこそ、目の前にいるペルモンドという男が早く消え去ってくれることを願っていた。だからこそアーサーはこの時、意味ありげな微笑を浮かべていたのだ。
「それじゃ、用は済んだ。俺は消えるとするよ」
アーサーの意図を汲んだのか、何なのか。きりの良いタイミングでペルモンドはそう言うと、アーサーの横を通り過ぎて部屋を出て行く。そしてペルモンドは通り過ぎざまに、部屋の隅で引っくり返っている黒い影に命令を出した。
「――ジェド、もう良いぞ。起きろ、付いて来い。ただし距離を保て、今の距離を維持しろ」
命令を聞いた黒い影は素早く飛び起きると、ペルモンドの後をスタスタと追い駆け、歩いていく――あくまでも、ペルモンドに指示された通り、一定の距離を保ちながら。
暴虐かつ従順な黒い影を見送りながら、アーサーは安堵から肩をすとんと落とす。そうしてペルモンドも黒い影も居なくなったとき。会議室に、三人組が雪崩れ込んできた――医務官ジャスパー、大男ケイ、それから整備工ジャック・チェンの三名。アイリーンとマダム・モーガンを除いたメンツが、ここに集ったようだ。
「アーちゃん、お疲れさまー。思いのほか早く終わって良かったねー」
医務官ジャスパーはそう言うと、アーサーの肩に背後から手を回し、肩を組んでくる。しかし、なんとなく気が立っていたアーサーはそれを穏やかに跳ね除け、医務官ジャスパーから離れた。それから彼は目を伏せると、医務官ジャスパーらに問う。「全部、聞いていたのか?」
「そうそう、みんなで聞いてたよ、全部」
医務官ジャスパーは笑顔でそう答える。続けて、彼女はこう言った。
「猟犬の意外な表情が見られて面白かった。気まずそうな顔もできるんだ、って驚いた。それに過去の出来事をあそこまで克明に覚えているだなんて、初めてだよ」
そう言う彼女の声色は、心の底から驚いているようでもある。猟犬――つまり、ペルモンドのこと――がアーサーの前で見せた表情の変化、それは医務官ジャスパーらにとっては物珍しいものであったようだ。
そして、医務官ジャスパーの言葉に賛同するように、整備工ジャック・チェンが首を縦に振りながら、穏やかだが無関心そうな声でこう言った。
「たしかに。いつもの猟犬なら『覚えてない』の一点張りなのに、今回は妙に昔のことをハッキリと覚えてたねぇ」
すると大男ケイはピリピリとした苛立ちを伴った声で、整備工ジャック・チェンの言葉に付け加えるようにこう言う。
「ああ。気色悪いったらありゃしないぜ。それにあの犬っころを躾けてやがったとは……」
三者三様、反応はまちまち。興味深そうにしている医務官ジャスパーと、さほど関心が無さそうな整備工ジャック・チェン、それと疎まし気に感じている様子の大男ケイ。彼らの様子を細めた目で見比べながら、アーサーは彼らのことを逆に興味深く感じていた。
と同時に、アーサーの中でまた疑問が浮かぶ。ペルモンドと名乗る男を“猟犬”と呼び、警戒心を露わにしている彼らだが、しかしアーサーはペルモンドという男にそこまでの不快感ないし警戒を抱きはしなかった(彼の後を付きまとう、黒い影。あいつは別だが)。諸般の事情で『ペルモンド』という存在にイラつくのは事実だが、かといってその人物そのものが悪人であるようには思えなかったのだ。
けれども特務機関WACEの面々は、ペルモンドもしくは“猟犬”と呼ばれる彼にあからさますぎる警戒心を抱いているのは事実。
「猟犬、といったか。さっきの男と君たちはどういう関係にあるんだ?」
アーサーがそう訊ねると、彼の前に並ぶ一同は揃って複雑そうな表情を浮かべてみせた。そして真っ先に口を開いたのは、口数の多い医務官ジャスパーだった。
「さっきの彼は、元老院に飼いならされた凶暴なワンコでさ。彼は元老院から指令が下りると殺しを働くんだ。元老院にとって目障りな人間を暗殺したり、時に小さな村や町ひとつを一人で潰したりする。そして特務機関WACEは、元老院と猟犬が好き放題したあとの始末をするのがお仕事」
医務官ジャスパーはそう言った直後、表情を暗くし、それから顔を俯かせる。彼女は続けて、暗く沈んだ声でこう述べた。
「彼の凶行を止めたいとは思ってる。――でも彼を止めることはいつもできない。あたしたちが事態を知るのは、いつも全てが終わったあとだから」
「……」
「とはいえ、あいつは替えが利かない優秀な駒でもあるワケ。だからマダムも、嫌だと思いながらも彼を使うしかないんだよ。何度も死んでは幼い姿に戻り、似たような劣悪な人生を延々と繰り返し続ける不死身の怪物を。誰かに買われて、誰かを殺して、自分を殺し続ける哀れで愚かな怪物のことを、使い続けるしかないんだ」
先ほど現れたペルモンドという人物の身なりが傭兵然としていたことから、ある程度はアーサーも察していたが……――ペルモンドないし猟犬と呼ばれている男の全容を聞かされたアーサーは、みるみる気分が減衰していくのを感じていた。
目障りな人間を暗殺。それだけでも十分にインパクトがある内容だが、衝撃的な内容はそれだけでは終わらなかった。
「……」
村や町ひとつを一人で潰す? 何度も若返って人生をやり直す不死身の怪物? さっきのあの男が、本当にそんな化け物なのか? そんな化け物と自分は、仲良く喋っていたのか?
「ひとつ訊きたい。その……――元老院というのは何だ?」
情報を処理しきれずに頭がパンクした結果、アーサーの口から飛び出たのは本当に訊きたいことではなく、正直なところどうでもいいような質問だった。
当然、医務官ジャスパーは困惑するような顔をする。どうして今それを訊くのか、という表情を見せた。だが察しの良い医務官ジャスパーは余計なことを言わない。代わりに彼女は、投げかけられた問いに可能な限り誠実な答えを返すだけだった。
「それは……分からないっていうのが正直なところだね。あたしたちの上官であるマダム・モーガンよりも上の存在で、人間じゃない化け物っていうか自称“神様”な連中らしいってことぐらいしか知らないんだ。万物の創造主っていう肩書を名乗ってるやつららしいね。まあ、陰謀の黒幕みたいな? そういう邪悪な存在だーって理解しといて。……あー、そうだ。アーちゃん。アルフレッド・ミラーって名前は分かるかな」
「ああ。たしか……滅茶苦茶なことをやらかしてきた政治家?」
「そいつ、実は元老院の構成員らしいよ。だからどんな無茶苦茶なことも、神の力ってやつで可能にできちゃったんだ。州を独立に導き、州名を自分の名前に変えたり。亡命先の国のシステムをぶっ壊して大統領制なんていうトンデモを持ち込んじゃって、挙句に空の上に大陸を浮かべちゃったりね。オーストラリアはオーストラリアのまんまで良かったのに、アルストグランなんて奇妙な名前を付けちゃってさー。あれ、何語なんだろうね? ……まあ、そういう感じだよ。元老院って名前はよく聞くけど、それが何なのかは分かってないってのが実態なんだ」
長々と話し続けた医務官ジャスパーだったが、その結論は『分からない』というもの。そして医務官ジャスパーが肩を竦めて溜息を零した時、同時に大男ケイが重たい息を吐く。大男ケイは、話を逸らすような妙なことばかりをほざくアーサーを鋭く細めた目で睨み付けると、アーサーを指差して釘を刺した。
「ともかく。あんなイカれ野郎と“おともだち”になりたがる物好きなんざ、この世にお前ぐらいしかいないだろうさ。お前は、お前自身もイカれていることを自覚しておくべきだな」
大男ケイの程度が低いが辛辣な言葉が、アーサーの心にじわじわとダメージを蓄積させていく。そうして僅かにムカついたアーサーが、少しだけ下唇を噛んだ時だ。そのアーサーの表情変化に気付いた整備工ジャック・チェンが、愉快そうに小さく笑う。それから整備工ジャック・チェンは横に立つ大男ケイの脇腹を肘で軽く小突いたあと、やや不機嫌そうにしているアーサーを見やる。そして整備工ジャック・チェンはアーサーに向けて、こんなことを言った。
「僕は三〇〇年ぐらい生きてて、ケイは五〇〇年ちょい、そしてジャスパーは一二〇〇年ぐらい生きてるんだ。長生きな僕たちは、同じく長生きをしている猟犬をずーっと見てきた。だから言うけど、彼はハッキリ言って異常だよ。ジャスパーがさっき言った凶暴な一面もそうだけど、それと同時にヒステリー持ちっていう厄介な特性もあってね。ねー、ジャスパー」
「チェン。あたしに変なパスを投げないで」
面倒そうなパスを整備工ジャック・チェンから投げられた医務官ジャスパーだったが、彼女はそのパスを華麗に避けた。そういうわけでボールを投げ損ねた整備工ジャック・チェンは気まずそうな微笑を浮かべる。そうしてボールを手元に引っ込める整備工ジャック・チェンは唐突に、猟犬と呼ばれる男に関する思い出話を始めるのだった。
「それにしてもさぁ。最初に出会った頃の彼は、古代の彫刻みたいに整った顔をした男の子だったのに。それが今じゃあキッツイ顔をした性格悪そうなオッサンになり果てた。三〇〇年前の僕は、こんな未来を予想してなかったよ。あんなに可愛い笑顔を浮かべてた子が、薄気味悪いニタニタ笑いをする怪しいオッサンに変わり果てるだなんて……」
「そうか? あれは常時、飽きもせず牙を剥いているような狼少年だっただろう。むしろ予想通りの相応しい面構えになったと俺は感じているが」
過去を懐かしんで美化するようなことを言う整備工ジャック・チェンに、真反対の感想をぶつけて対消滅を引き起こす。整備工ジャック・チェンは美化しかけていた思い出を、大男ケイが突き付けてきた『正しい認識』で上塗りしたあと、己の発言を振り返って息を呑んだ。
それから整備工ジャック・チェンは、直前の発言をごまかすように咳ばらいをひとつする。彼は視線を再びアーサーに向けると、また唐突な話題転換をした。そして彼がアーサーに語ったのは、身の上話だった。
「あぁ、その。僕がここに囚われることになったキッカケが猟犬だったんだ。まだ僕が人間として暮らしてたときの話、三〇〇年前のことなんだけど。当時、僕は地元のギャングに脅されてて仕方なく彼らの使う武器のメンテナンスとかする仕事をしてたわけ。本業の自動車整備とはまた別に、そういうことをやってたの。僕のアホな弟が、ギャングの連中からドラッグを盗んで逃げたことがキッカケで、連中から目を付けられちゃってねぇ……。で、僕の仕事場である工房に、あるときボロボロな有様の猟犬が転がり込んできたんだ。当時の猟犬は、そうだな、たしか……十三歳ぐらいの子供に見えたんだ」
三〇〇年前。当時は十三歳の子供ぐらいに見えていた。――そんな『異常』としか思えない言葉たちが、さも当たり前の大前提であるかのように登場する。その話に、異常に慣れたつもりになっていたアーサーは再確認させられる。ここが普通でない異様な時間の流れる世界なのだと。
異常であることを再確認したアーサーは、少しの緊張から無意識のうちに腕を組むというアクションを起こす。そうして彼が胸の前で腕を組み合わせたとき、整備工ジャック・チェンがはにかみ笑いを浮かべ、鼻の頭を掻いた――過去の恥ずかしい出来事を思い出し、当時の後悔が再来するのを感じているかのように。それから整備工ジャック・チェンは言葉を続けた。
「ヨレヨレの汚れた服を着たやせ細った子供が、何でもするからここに数日おいてほしいって言ってきたんだ。手先は器用な方だし、機械の整備は得意だから仕事を手伝えるって、彼は必死に訴えてきて……。それで、お人好しが過ぎた僕は彼を受け入れることにしたんだよ。僕の仕事を猟犬に手伝ってもらう代わりに、猟犬が僕の工房で数日寝泊りすることを許したんだ。数日で済むならいいかって思ったし。それに仕事柄、警察に通報するってわけにもいかなくてさぁ。それに猟犬くん、本当に手際が良くてねぇ。僕よりも丁寧かつテキパキと素早く仕事してくれるから、有難かったんだ。そんなこんなで完全に油断してたとき、僕は猟犬に殺されそうになった。メンテナンスを終えたばかりの武器で、僕は彼に撃たれそうになったんだ。要は、初めから僕を殺すことが目的だったわけさ。彼が誰に雇われたからそんな行動をしたのか、それは今も分かっちゃいないけど……」
「……」
「やせ細った子供を見れば大抵の成人は同情する。その同情を猟犬は故意に利用し、標的である僕の懐に入り込んだところで目的を果たそうとしたんだ。そして僕が死ぬのを覚悟したとき、間一髪のところでマダムとケイが僕を助けてくれた。マダムが瞬間移動でサッと現れて僕を安全なところにサッと移してくれたし、猟犬はケイのぶっ放したショットガンで頭をふっ飛ばされて即死。……まぁ、彼は後日また復活したんだけどね。そして僕はその後、何度でも蘇る猟犬に怯えながらもマダム・モーガンに尽くし、ケイが壊した銃火器を修理する日々を送ってるってわけ」
物腰柔らかで穏当な整備工ジャック・チェンだが、彼は理不尽に見舞われた過去を持っていたらしい。しかし過去を少し恥ずかしがるように笑う彼からは、不思議と“猟犬”と呼ばれる男に対する恨みのようなものは感じられなかった。
そして、そんな態度を見せているのは医務官ジャスパーも同じ。彼女もまた猟犬を警戒していると同時に、猟犬に対してどこか同情的な態度を見せている。あからさまに猟犬という存在を敵視しているのは大男ケイだけのようにも、アーサーには感じられていた。
となると、気になってくるのは医務官ジャスパーの過去。それを知りたいと感じたアーサーは、彼女に話題を振った。「ジャスパー、君は? 何故ここに来たんだ」
「あたし? そうだな、あたしもほぼジャックと同じ。あたしは大昔、看護師として働いてたんだ。ある日の就業が終わって勤め先から車で自宅のあるアパートに帰ったとき、あたしは駐車場の物陰に倒れてた彼を発見した。というか、彼を中心に広がってた血の海を。驚いたあたしはすぐ通報した。けれど、その電話を掛けている最中に彼が起き上がって、あたしに掴み掛かってきたんだ。今すぐその通話を切れ、さもないと殺すって。そうして揉み合いになってた時に、どこからともなく駆けつけたマダムが私を助けてくれた――んだけど」
「……?」
「マダムもあたしも気が緩んでしまったその瞬間に猟犬が隠し持ってた銃を発砲して、あたしはお腹に三発も喰らっちゃってさぁ。多分、普通の人間のままだったらあの時に間違いなく死んでたはず。でもあたしはマダムの血を貰って、人間じゃないものになったことでなんとか生きながらえたのよ。以降一二〇〇年、大きな怪我をすることなく過ごしてる。マダムの下でね」
「それで……猟犬について、君はどう思ってるんだ」
「んー、そうだなぁ。最初は彼のことを憎んでたけど。付き合いも長くなって、彼やマダムについて色々と知った今となっては同情のほうが大きいかな。というより、なんだろう。早く彼を解放して、マダムを自由にしてあげたいって思ってる。そんなとこかな」
しんみりとした表情と声で、医務官ジャスパーが最後にそう零したとき。それと被せるように、大男ケイが彼女の言葉を鼻で笑う。そして大男ケイは持論をぶつけた。「何を言ったところで、ヤツが人殺しだという事実は変わらない。あれは大殺戮を幾度となく働いている。あんな野郎に与えられる免罪符など無い。同情する価値もないさ。酷な目に見舞われたからといえ、それを上回る悲劇を起こしていいわけがないし、赦されるべきでもない」
「流石、元警官だ。頭が固いね」
冷徹だが正しい言葉を放つ大男ケイに、皮肉を言うのは整備工ジャック・チェンである。そして整備工ジャック・チェンの言葉のあと、医務官ジャスパーが溜息を吐いた。それから医務官ジャスパーはアーサーに、こんなことを教える。
「ケイちゃんは警官一家の長男だった。幼い頃から警官になるために育てられた男だから、頭はガチゴチで、かなり保守的。典型的な『頭が固いダメな北米人』ってやつだよ。家族、コミュニティを重んじて、世話焼きな良いひとを演じながらも、部外者は容赦なく排斥するタイプ。普通じゃない出自の人間を受け入れられない狭量なひとなんだ。ケイちゃんのそういう狭量なところを、奥さんや子供たちが嫌ったっていうわけ。まあ、つまり、誰でも公平に受け入れるからこそドライに割り切ってるとこがあるアーちゃんとは正反対ってこと」
医務官ジャスパーはそのように大男ケイをボロカスに貶すが、貶された側の大男ケイは特に動じることなく余裕の素振りでふんぞり返っている。医務官ジャスパーからこの程度の罵倒を受けることなど、きっと彼にとっては珍しいことでもないのだろう。
そんなこんなで医務官ジャスパーや整備工ジャック・チェンから罵られている大男ケイだが、しかし彼は気を悪くして立ち去る素振りをみせない。これは構って欲しいというサインなのだなぁと薄々察しとったアーサーは、仕方なく大男ケイにも話を振ることにした。「一応、訊いておく。ケイ、お前はどうしてここに堕ちた?」
「一応、って。なんだ、その副詞は」
不機嫌そうなことをいう大男ケイだが、その声色はむしろ嬉しそうだ。アーサーに構ってもらえたことが嬉しいらしい。その様は、まるで犬である。
あぁ、この男はやっぱり苦手だ。――アーサーは内心そう思いつつ目を細めて、大男ケイのほうに顔を向ける。すると、大男ケイは饒舌に己の来歴を語り始めた。
「俺はもともと、シカゴ市警察で機動隊員を務めていた。新米だったある時、地元で一番デカい銀行に強盗が入ってな。その鎮圧に俺は参加したんだが、その時に俺は当時強盗団の一員として加わっていた猟犬を殺したんだ。やつが銃口を俺に向けて来たから、俺はその頭をブチ抜いてやったのさ。だが、その後に妙なことが起きた。事件集束後、死んだ強盗団どもの死体が現場から運び出されたんだが、その中に俺が殺したはずの猟犬がいなかったのさ。そして俺は、猟犬のような顔をした男、それも頭から血を流した若い男が、現場を去って行く人質たちの一団に紛れて出て行こうとする姿を目撃した」
「……」
「ただ、あの時の俺は気のせいだと思ったんだ。なんせ現場で人を殺すのはあれが初めてだったんでな。これが噂に聞くトラウマやらショックの類なのかと誤魔化して結局、俺は上にそのことを報告しなかった。そしてそれが問題になることもなく、銀行強盗の件は早々に過去のものとなった。その後、俺は現場、指導教官、オフィス組を経て、定年で退職。気ままに釣りでもしながら穏やかな余生が送れると思ったんだがな。食料品の買い出しを終えたある日の帰路、俺の運転していた車にマダムが黒いバンで故意に追突してきたんだ。横転した車内から俺はマダムによって引っ張り出されたが、そのときにマダムから猟犬を見たことで脅されてな、ここに強制連行されたかたちだ」
「なるほど……」
「だが、ここでの生活も気に入っている。マダム・モーガンのこともだ。それにここでは存分に銃をぶっ放せる。あの猟犬の顔をめがけてよぉ!」
猟犬を保護しようとした結果、猟犬に危うく殺されそうになったという整備工ジャック・チェンや医務官ジャスパーとは、明らかに異なる経緯。それを聞き、アーサーは納得する。彼らと大男ケイの意見が合わない理由を。
整備工ジャック・チェンは、短い期間だけかもしれないが猟犬と時間を共に過ごした経験がある。それも、さして悪くない印象を抱く経験を。そして医務官ジャスパーは長く生きている分だけ、猟犬が持つ様々な側面をより多く見てきたのだろう。
だが大男ケイが知っている猟犬といえば、牙を剥いて警戒心を露わにする凶暴な顔か、狙いを定めた獲物を仕留めようと殺気立つ姿だけ。そして大男ケイは猟犬と対峙するたび、猟犬を仕留めてきた。彼にとって猟犬とは狩りの対象でしかないのだ。
「猟犬のあの重たい瞼を見てると無性に腹が立ってくる。普段はシャキッとしない眠そうな顔してるくせに、いざ本業に専念となりゃ雰囲気がガラッと変わるところも気に入らねぇ。あのデカい垂れ目をひん剥いて、ニタニタと気味悪く笑う顔。あれが大嫌いだ。あの顔をぶち壊すために俺はここに居るようなもんさ。我らがマダム・モーガンのために、あのクソ犬はなんとしてもブッ殺さねぇとな!」
血気盛んな狩人である大男ケイは勇ましく宣誓するが、それを聞く周囲の反応は冷ややかだ。医務官ジャスパーは露骨な溜息を吐き、大袈裟に呆れと軽蔑を表現しているし。アーサーも一種の嫌悪感から眉を顰めていた。整備工ジャック・チェンも、視線を下に向けて肩を落とす。大男ケイもまた、三人が見せる芳しくない反応にウンザリするように肩を竦めた。
同じ場所で同じものを見たとしても重なることがない意見の食い違いに、それぞれが少しずつ苛立たしさを覚える。そうして誰もが黙り込み、場が静かになったとき。静寂に耐えられなかった整備工ジャック・チェンが顔を上げた。そして彼がふと、心の内にあるものを洩らす。
「ほんの二〇年前までは、もっと人が居たんだけどね。僕たち含めて、仲間は一〇人いたんだ。あの時はワイワイうるさくて楽しくて、静かになる時間なんてなかったのに。今は少しの沈黙が重くてしんどいよ。これも全部、猟犬のせいだ」
整備工ジャック・チェンは二〇年も前のことをさも数か月前のように語る。その言葉にアーサーは少しの奇妙さを感じながらも、気配りが過ぎる男に感心もした。医務官ジャスパーが冷たく突き放した大男ケイの気分をこれ以上損ねることなく、さりげなく彼の言い分も拾ってフォローしながら、最後にうまく締めくくったなと。
そうして整備工ジャック・チェンの言葉により、不愉快さがない状態で解散できそうな機運が醸成される。一抜けで出て行こうとしたのは、この空気を生み出した当の本人だった。
「さぁて、僕は仕事に戻るよ。まだ整備が終わッ」
整備工ジャック・チェンがアーサーらに背を向け、廊下へと出ながらそう言ったときだ。緩和されかけた緊張感が一変し、これ以上ない張りつめた空気となって場に戻ってくる。それは整備工ジャック・チェンが廊下に一歩踏み出した瞬間、彼の体が大きく傾いたからだ。そして彼の側頭部からは血しぶきが飛び散り、程なくして彼の体は力なく床に倒れ込む。狙い澄まされて射出された弾丸が脳幹を撃ち抜いたのだ。
整備工ジャック・チェンが銃撃され、即死した。その事実を呑み込むのに、アーサーは少しの時間を要した。だが大男ケイはすぐに動き出す。彼は念のためにと携帯していた二丁の拳銃を取り出すと、うち一丁を呆然とする医務官ジャスパーの手にねじ込んだ。それから大男ケイは言う。「ジャスパー、援護してくれ。俺が猟犬を仕留める!!」
「――い、いいえ。それはできない。ここに待機して、ケイ。マダムの指示を待つべき」
「ゴチャゴチャうるせぇ、俺は何度もあいつを仕留めてるんだ! いくぞ!!」
「でも」
「俺はやれる。お前は武器庫までの道を援護してくれればそれでいい、あとは俺がカタを付ける」
突然の出来事に当惑するアーサーがやっと『整備工ジャック・チェンが猟犬に殺された』という推測に至ったときには、既に大男ケイと医務官ジャスパーは拳銃を構えており、事態を収拾にかかる体勢に入っていた。部屋の出入り口の傍で機を伺い、外へと飛び出るタイミングを狙い待つ二人の姿がアーサーの視界に映る。
自分も何かをしなくてはいけないのか? ――そう考えるアーサーが一歩、前へと進み出たとき。彼の動きを横目で見た大男ケイが、アーサーを制止した。
「ボストン、お前は足手まといになるだけだ。そこで待機していろ」
神経を尖らせる大男ケイが、これ以上ないほど険しくした目付きでアーサーを睨み付けている。向けられているその視線を、細めた目で確認するアーサーは彼から目を逸らす。
だがこの時、正常な人間であれば発動しているはずの“恐怖心”という安全装置が機能を停止していた。大男ケイの放つ殺気を真正面から受け止めても何も感じなかったアーサーは、それを無視するという暴挙に出る。あろうことかアーサーは、丸腰の状態で危険地帯へと飛び出したのだ。
アーサーの歩みを止めようと大男ケイが手を伸ばすも、判断機能にエラーが発生しているアーサーはその手を払い除けてみせる。それから目を開くアーサーは胸を張って背筋を正し、場違いな堂々さを身に纏いながら、猟犬の前に現れるのだった。――そして彼を見送る大男ケイは、いつでも飛び出せる姿勢を整えると悪態を吐き捨てる。
「あぁっ、クソが! 余計なことをしやがって!!」
アーサーが廊下に出てみれば、その先には自動小銃を構える男が待ち構えていた。その男は、つい先ほどまでアーサーに馴れ馴れしく話しかけていた人物。ペルモンドと呼ばれる男だ。
だが、アーサーの目には今の彼が“ペルモンド”でないと思えていた。何故なら、その男の目には緑色に輝く眼光が煌めいていたからだ。しかし、黒狼ジェドが憑依しているわけではなさそうである。というのもアーサーの目には、男の背後で狼狽えるように右往左往しながら力なく吠えたてる黒狼ジェドの姿が見えていたからだ。
『おい、相棒。頼むから、面倒は起こすな! 止まれ、今すぐそれをやめろ!! 今、こいつらを殺す必要はないだろうが!!』
となれば、今の彼は特務機関WACEの隊員たちが“猟犬”と呼んで蔑む人格になっていると考えるべきなのだろう。
……等々。そんな風に分析をしながら歩けるほど、アーサーは奇妙な冷静沈着さをこの状況下で手に入れていた。また、焦って走るわけでもなく、落ち着きを払った歩調で堂々と歩くアーサーの姿に、むしろ猟犬のほうが呆気に取られている様子。緑に輝く目を極限まで見開き、アーサーを凝視する猟犬は動きを止めていた。
ハッタリであるかどうかさえ判別のつかないアーサーの
「貴様の狙いは分かっている、そこで止まれ」
驚くあまりに呼吸さえも止めた猟犬の目前にまでアーサーは至る。そのアーサーの真横を、大男ケイが素早く、だが静かに駆け抜けていった。大男ケイが向かった先は、整備工ジャック・チェンの居城だった武器庫。そして遅れて大男ケイの存在に気付いた猟犬が、大男ケイを撃ち抜くべく身を翻そうとしたとき、アーサーが猟犬の腕を引っ張ってそれを妨害する。彼は猟犬を自分と向き合わせた。
更にアーサーは猟犬の構える自動小銃、その被筒部下面から突き出たフォアグリップに手を掛け、握り込む。そしてアーサーは自動小銃を自身へと引き寄せ、その銃口を自分自身の胸に当てた。それから彼は真っ直ぐに猟犬の目を見つめると、刺々しさを帯びる声で猟犬を刺す。
「撃つなら私を撃て。それがお前の目的であるはずだ」
「その通りだ。俺はお前を殺しに来た」
アーサーの言葉に猟犬がそう返した瞬間。猟犬のスイッチが切り替わるかのように、猟犬の目付きが変化する。驚きから見開かれていた目が、途端に嫌悪と渇望に満ちたギラつく目に変化した。睨みを利かすように細められた目、そして皴が寄る眉間は、アーサーにあからさますぎる敵意を向けている。そして目付きが変化した途端、猟犬が取る態度も一変した。
アーサーの胸に突き付けられた銃口を、猟犬はグッと押し込む。胸郭の中央、胸骨に銃口が圧を加えた。だがアーサーが怖気づかなければ後退もせずにいると、猟犬はついに自動小銃から手を離し、アーサーを後方に突き飛ばす。アーサーは踏ん張りが効かずによろめくも、しかし自発的に後退することはしなかった。
スリングによって吊られた自動小銃が、やる気なさげにぶらりと揺れる。その様をちらりと一瞬だけ見やったあと、アーサーは猟犬の目を見つめ、そして睨み返す。体勢を立て直すアーサーは冷淡な声で、豹変した猟犬に問うた。
「ペルモンドではなく、黒狼ジェドでもない。なら、私を殺しに来たという今のお前は何者だ」
しかし猟犬は答えない。返答の代わりに猟犬が引き抜いたのは、背中に差していた対のサーベル。左右の手にそれぞれ湾刀を握る猟犬はアーサーに威圧する素振りをみせるが、けれどもアーサーは応じない。すると猟犬は右手に持つサーベルの鍔から伸びる護拳の
回復して間もないアーサーと、万全な状態にある猟犬。どちらが優勢であるかは一目瞭然であり、動揺を打ち払った猟犬にはもはやアーサーを恐れる理由も無かった。だが、猟犬がアーサーを手に掛ける気配は一向にない。
「どうした? 私を殺すのではなかったのか? 私は抵抗などしない。大人しく貴様に殺されてやってもいいぞ。それなのに、どうした。なぜ、やらない?」
護拳で押されるアーサーは猟犬の望むまま、力づくの後退を強いられている。それが気に喰わないアーサーは、せめてもと口先だけの攻撃を仕掛けていた。そして攻撃は効いている。アーサーが挑発まがいの言葉を投げかけるたびに、猟犬は苛立つように表情を険しくさせていった。
「怒りも嘆きも恐れもしない私が怖いか? 武器を何一つ携帯していない丸腰の私が怖くて堪らないのか? 黙りこくってないで、答えたらどうだ。ええ?」
相手を苛立たせれば判断も鈍るだろう。それに下らない会話で時間を稼げば、後は大男ケイがどうにかするはず。そう考えていたからこそ、アーサーは挑発的な言動を続ける。そして彼の目論見通りの展開が、彼の視界の片隅で起きた。苛立つ猟犬の後方に見える大きな影。大男ケイがショットガンを携えて武器庫から出てきたのだ。
大男ケイは身振り手振りでアーサーに指示を送っている。今すぐそこをどけ、脇に避けろ、もしくは伏せろ、等々。つまり、アーサーが邪魔で発砲ができないらしい。だがアーサーは退くタイミングを見出せなかった。
そうしてずるずると後退させられているうちに、遂に元いた場所が迫ろうとしている。円卓のある会議室、その出入り口が差し迫ったとき。アーサーは横目で、拳銃を構えて猟犬の額に狙いを定める医務官ジャスパーの姿を確認する。そして発砲音を聞くと同時に、アーサーが身を引いて猟犬から離れた瞬間だった――苛立ちを表明するようなしかめっ面を決め込んでいた猟犬の顔が、凄絶な笑みを浮かべたのだ。
射出された弾丸の軌道を予測し、それを避けるように、猟犬は大きく身を翻す。と同時に猟犬は左腕を振り、その手に握るサーベルの刃で空を切った。
刃の先が捉えていたのは、医務官ジャスパーの首筋。己の首が刎ね飛ぶことを覚悟した医務官ジャスパーが目を見開き、と同時に彼女はがむしゃらに拳銃の引き金を引く。狙いも定められていない拳銃から二発が連続して放たれた音が聞こえてきた。その音を聞いた直後、アーサーは唐突な脱力感に襲われる。彼の体から力が抜け、ふらりと後ろに倒れそうになったとき……――どうしてか、同時に猟犬までもよろめき、ふらついた。
よろめく猟犬の両手からはサーベルが落ちる。右手に握られていたサーベルはそのままの形状を保ったまま床に落ちたが、医務官ジャスパーの首を刎ねようとしていた左手のサーベルは、あたかもくしゃくしゃに握りつぶされた紙ごみであったかのような有様に変化した状態で落下する。カンッ、という金属音が二回続けて鳴った直後、アーサーの鼻腔から蒼い血が垂れて落ちた。
「これがお前の手にした異能か?」
笑顔を消し、寒気を覚えるような冷たい眼光を宿す真顔に変わる猟犬は体勢を立て直すと、床に落ちたサーベルを見下ろしながらそう言う。しかし、立った姿勢を維持するので精一杯なアーサーは苦しそうに肩を上下させながら荒い呼吸をするだけで、何も言わない。それにアーサーには訊かれたところで分からなかったのだ。今、目の前で何が起きたのかが。
いや、正確には『今、自分が何をしたのか』だろう。だが、切り替えの早いアーサーはその議題をすぐに頭の中から追いやる。くだらないことを考えるのは事態の収拾が付いてからにするべきだと、彼はそう判断したのだ。
「……ッ……!」
とにかく、今は何かを言うべきなのかもしれない。誤魔化すような言葉や挑発するような台詞など、何でも構わないから発しなければならない。相手のアクションを少しでも遅らせるために……――しかし、そう思う一方でアーサーは声を出すことができなかった。絶え絶えな呼吸が、体力の浪費を拒むように声を絞り出すことを拒んだのだ。
そうしてアーサーが何もアクションを起こせずにいると、猟犬が次なるアクションを繰り出してくる。猟犬は腰に携えた拳銃を抜くと、その銃口をアーサーの額に向ける。それから猟犬は右側の口角だけを吊り上げ、口許だけの不気味な笑みを浮かべた。そして猟犬はアーサーに言う。
「それなら……――弾丸の軌道も曲げられるか?」
猟犬はその言葉を放った直後、間を置くことなく二発続けて発砲した。が、それと同時に脇で構えていた医務官ジャスパーも再度引き金を引き、発砲する。彼女が撃ちだした弾丸は猟犬の右手首を掠め、その影響でアーサーの額を狙って放たれた弾の軌道が逸れ、アーサーの右肩を撃ち抜いた。そして猟犬が続けて発砲した弾は、アーサーではなく猟犬に傷を与えた医務官ジャスパーを狙って放たれる。そして二発目の弾丸は医務官ジャスパーの額の中央に穴を開け、彼女の活動を止めた。
医務官ジャスパーは身を大袈裟に仰け反らせ、背後に倒れ込み、それきり動かなくなる。その姿を、アーサーはただ見ていることしかできなかった。
先に殺された整備工ジャック・チェンと、たった今殺された医務官ジャスパーの死体。奇しくも彼らは折り重なるように被さっている。そのさまを呆然と見下ろしていたアーサーが、気を持ち直して猟犬に視線を移し、彼へ怒りに満ちた視線を浴びせ付けたとき。アーサーの背後から声がした。
「あなたは、なんてことを――!!」
立て続けに鳴った銃声を聞きつけて、駆けつけたのだろう。素早く駆けてくる足音のあと、聞こえてきたのは動揺で震えるマダム・モーガンの声だった。そして猟犬は聞こえてきたその声に、嘲笑を織り交ぜながらこう返す。
「任務を遂行しただけだ。特務機関WACEの隊員を入れ替える、ゆえ現隊員たちを全て処分しろとの指令が下った。モーガン、お前以外の全てを処分しろと。――だが、皆殺しってのはちとつまらないだろう? 俺に対して怒りを滾らせる連中が少しぐらい残っていたほうが面白いってものさ。その方が張り合いもある」
猟犬はそう言いながらその場に屈みこみ、先ほど落とした二本のサーベルのうちの一本、原形を留めているほうを左手で掴み取る。そして立ち上がりざまに身を翻す猟犬は右手に握っていた拳銃を腰のガンホルダーの中へ素早く収納しながら、後方に居た大男ケイのほうに体を向けると、サーベルの切っ先を彼に向けてこう言った。
「お前もそう思うだろう、ケネス・フォスター」
猟犬の注意が大男ケイに移り、アーサーが逃げる隙が生まれる。猟犬が大男ケイに狙いを定め、彼のいる方向へと走り出した瞬間、今だと判断したアーサーは円卓のある会議室に退避しようとした。だが猟犬はその動きを見逃さない。
猟犬は、どさくさに紛れて逃げようとしたどんくさいアーサーの足に足を引っかけて、アーサーを転倒させる。バランスを崩して前のめりに倒れるアーサーの襟を、猟犬は後ろから掴み上げて自らの前に引き寄せた。そうして猟犬はアーサーを盾にすると、大男ケイを目掛けて駆け出す。
その一方、ショットガンをいつでも撃てる態勢を整える大男ケイは、しかし撃つに撃てない状況に苛立ち舌打ちをしたあと、猟犬の言葉に悪態を返した。
「エリーヌ嬢が哀れに思えて仕方ねぇよ。父親が殺しのプロだとも知らず、今日も地下の防音室で暢気にヴァイオリンでも弾いたあと、庭でアフタヌーンティーでも楽しんでお上品に振舞ってるんだろう?」
自分の身に何が起きているのか、そして今の状況はどうなっているのか。アーサーにはそれが一瞬、理解できなかった。が、大男ケイの悪態を聞いて、はたと我に返る。
自分は今、猟犬の盾にされている。その所為で大男ケイは猟犬を撃ち殺せない。そして猟犬は大男ケイを殺してやろうと特攻を決めている。サーベルを左手に握り、右手でアーサーの服を掴んで走る猟犬は、大男ケイに斬りかかろうとしていた。
――これはマズい状況では?
「あれを世間知らずの高枕と呼ばずして……」
大男ケイは悪態を吐き続ける。そして大男ケイが「世間知らずの高枕」なる言葉を発した瞬間、アーサーの向こう見ずな暴走が再度起こり、大男ケイは言葉を途中で止めてしまった。
「……――?!」
アーサーは左腕を後方に素早く引き、左肘を猟犬の鳩尾にめり込ませる――だが、強靭な横隔膜ないし神経叢を持っている猟犬は、その衝撃に怯む様子を見せなかった。しかし動じないのはアーサーも同じ。
続けて、アーサーは後方に引いた左腕を真っ直ぐ伸ばすと、鳩尾に一撃を食らわせた勢いに乗って体を翻して向を反転させ、服を掴んでいた猟犬の手を振り払った。そしてアーサーは伸ばしていた左腕を肩と平行に並ぶ高さに上げる。と同時に、彼の伸ばしていた左腕に猟犬の首が当たり、猟犬は大きく後方に仰け反った。つまり、アーサーは猟犬を相手にラリアットを決めたのだ。
猟犬が仰け反った隙に、アーサーは猟犬から離れようとする。だが猟犬は、アーサーが狙ったほどの隙は与えてくれなかった。一瞬よろけた猟犬だが、彼はすぐに体勢を立て直す。猟犬は逃げようとしたアーサーの足首を即座にサーベルの峰で叩きつけ、転倒させた。そして一気に大男ケイ目掛けて駆け出す猟犬は間合いを詰める。アーサーが間抜けに転んだその直後、猟犬はサーベルを振り、大男ケイを斬りつけ、直後に彼の首を突いた。
大男ケイは構えていたショットガンを盾代わりにするも、猟犬の斬撃はあまりに力強かった―――放たれた一閃はショットガンを叩き飛ばすほど強烈なものだった。そして直後に繰り出された突撃は正確無比。大男ケイの喉、その喉頭隆起を狙って突き出されたサーベルの切っ先は、軟骨の下に隠れた声門を抉る。声門を破壊され、同時に気管に穴を開けられた大男ケイは、その場に膝をつくように崩れ落ちた。それから大男ケイは己の首に開いた穴を塞ぐように、両手で自分の首を締め付ける。
「ケイ……――ッ!!」
困惑と動揺で満ちた声で頽れた大男の名を呼びながら、マダム・モーガンは彼の許に大慌てで駆け寄る。なお猟犬は、ターゲットではない彼女の進路を塞ぐことはしなかった。
大男ケイに駆け寄り、彼を抱き寄せるマダム・モーガンは、彼の喉からとめどなく漏れ出る血の流出を止めようと試みる。幸運にも――または、猟犬の目論見通りに――生き残った人材を現世に引き留めようと必死になるマダム・モーガンの姿を、猟犬は嘲るように見下ろす。それから猟犬はサーベルを軽く振り、刃に付着した血をサッと払い飛ばすと、その切っ先を床に膝をつくアーサーに向けた。それから猟犬はアーサーに視線を移すと、彼に向かって言う。
「特にお前だけは生かしておくなとの指示を上から受けた。だが、お前だけは絶対に殺すなとあのクソ狼が騒いでやがる。しかし俺はお前のことを殺したくて堪らない」
アーサーはその言葉を聞き流しながら、猟犬を睨みつつ、ゆっくりと再び立ち上がる。猟犬がアーサーに向けるサーベルの切っ先も、アーサーの視線に追従するようにゆっくりと上昇していった。
大男ケイと同じように、自分も首を斬られるのか? ――アーサーはその展開を警戒する。が、そのような展開は起こらなかった。なんと、猟犬はサーベルを投げ捨てたのだ。それも立ち上がったアーサーが背筋を正した、その瞬間に。そして猟犬はサーベルを投げ捨てたあと突然、顔を顰め、怒りを表出させた。表情を険しくさせた猟犬はアーサーの胸倉を掴み上げると、彼に向けて一方的に怒鳴り散らし始める。
「アーサー。俺はお前のことが大嫌いだ。俺が出会ってきた男どもの中で唯一、行動をコントロールできなかったのがお前だからな! 俺はお前を殺したくて堪らなかったのに、お前は殺す理由を俺に与えなかった。俺が裏で糸を引いて仮面どもを操り、環境を整えてやったってのに、お前は無駄に強固な理性を発揮しやがった。――今でも信じられねぇよ、クソが!!」
血の気は多いが冷静な仕事屋。先ほどまではそのように見えていた猟犬だったが、今は違うように見えていた。二回りは背丈が違う長身の男に掴みかかり、意味不明な罵倒を連ねてくる猟犬の今の姿は、まるで……――しょうもないチンピラだ。
少しばかりの恐怖感が顔に浮かびかけていたアーサーだったが、彼はその恐怖感を消す。代わりにアーサーは憐憫に満ちた表情で、彼よりも圧倒的に背が低い猟犬を見下ろした。すると猟犬は舌打ちを鳴らし、今度はアーサーを突き飛ばす。それから猟犬は先ほど収納したばかりの拳銃を再び取り出すと、その銃口をアーサーに向けた。そして猟犬はまたも意味不明な因縁をアーサーに付けてくる。
「挙句、コントロールされていたのは俺のほうだ! お前があの仮面どもに自我を植え付けたせいで、俺は奥に押し込められっぱなしだ。ある日の夜中にせっかく出る機会が巡ってきたかと思えば、あのクソ狼に邪魔されて押し戻され、今日この瞬間まで封じ込められてきた。今までずっと指くわえて傍観するしかなかったんだ。ペルモンドだなんていう間抜けな名前で俺が呼ばれ続けるさまを、そして軟弱な振る舞いを続ける情けない仮面に主導権を奪われた俺の姿を! 挙句、血も繋がっちゃいねぇ邪魔なガキを引き取りやがって……仮面どもは面倒ごとばかりを引き起こす。あれもこれも、全てお前のせいだ!!」
数十分前は、アーサーに馴れ馴れしく接してきていた、この男。アーサーが目を醒ましたことを、気持ち悪いほど喜んでいた、この男。それなのに今、その男はアーサーのことを「殺したいほど憎い」と罵っている。仮に多重人格だとしても、あまりに言動が矛盾していて、それに支離滅裂だ。
何を言っているんだ、こいつは? そんな憐みの感情ばかりが、アーサーの奥底から湧いてくる。が、アーサーは何かが引っ掛かるのを感じていた。
そのとき、ふと猟犬が発した言葉がアーサーの頭の中で反芻される。そしてアーサーは呟いた。
「……そうか。それほどまでに私のことが憎くて堪らないのか」
ある日の夜中にせっかく出る機会が巡ってきたかと思えば、あのクソ狼に邪魔されて押し戻され、今日この瞬間まで封じ込められてきた。――猟犬が放ったそのセリフが、頭の中に響き、木霊する。そのうち、ある情景が浮かび上がってきた。
それは暗闇の中に鈍く光るペティナイフ。そして「これは命令だ」と繰り返し何度も呟く、若い日のペルモンドの声……。
あの晩。ペルモンド及び猟犬は、間違いなく居候の男を殺そうとしていたのだろう。だがその試みは黒狼ジェドによって妨害された。ペティナイフを握り呆然と佇んでいたペルモンドに、黒狼ジェドは体当たりを決めて、ペルモンドを気絶させたのだ。そうして居候の男、つまりあの日のアーサーは助かったのだ。
「ならば私を殺せ。お前の今までの言葉が全て嘘であったと証明してみせろ。やれ、さあ早く!!」
過去に自分は、この男に殺されかけたことがある。その事実を思い出した瞬間、アーサーの記憶の蓋が吹き飛び、過去がイヤと言うほど鮮明に蘇る。そしてアーサーが瞬間的に手にしたのは、強烈な怒りと憎悪だった。
ペルモンドの家に居候していた、あの時代。彼の自宅に居候する代わりに、アーサーは廃人一歩手前という状態にあったペルモンドの面倒を看てやっていた。アーサーは朝晩の食事を毎日用意していたし、食事を忘れるペルモンドに飯を食うようせっついたりもしていた。病院に行きたがらないペルモンドをアーサーが強引に引き摺ってでも外へと連れ出して、通院させていた。それに、服薬を忘れるペルモンドに呑ませていたのもアーサーだった。ペルモンドに拘束されるせいで若い時間を無益に浪費したことは否めないし、ペルモンドのせいで失った友人もいた。
それなのに。あれほどの犠牲を払ってまで、アーサーは尽くしてやっていたのに。剥き出しにされたペルモンドの本心は、これだ。
大嫌い、憎い、殺してやりたい。
「大嫌いな男の顔を吹っ飛ばせる機会だぞ。さあ、やればいい。私を殺してみろ」
アーサーは猟犬を挑発し、握る拳銃の引き金を引くよう促す。口では「殺せ」と言うアーサーだったが、彼の本音は真逆だった。このクソッたれをぶっ殺してやると、そう怒り狂う声がアーサーの頭の中で轟いている。
そのようにアーサーが本心とは真逆の言葉を放っていた一方、発した言葉が本心とは真逆であったのが猟犬である。殺したいほど大嫌いだと宣言したアーサーに銃を向けている猟犬だが、その手はアーサーを殺すことを拒むようにガタガタと震えていた。そしてアーサーは、手を震わせる猟犬に執拗な挑発的刺激を与え続ける。「どうした。やれないのか?」
「……」
「さっきまでの威勢はどうした。手も震えてるぞ。急に私が怖くなったのか?」
猟犬の手は震えている。だがその一方で、アーサーを睨み付けている猟犬の目は心の底からアーサーを憎んでいるようだった。
すると一瞬だけ、猟犬の視線が横に逸れる。誰も居ないはずの空間を睨み付ける猟犬は、誰もいない空間に向かって悪態を吐いた。
「……うるさい、黙れ。俺に指図をするな……!!」
それはまるで隣に立つ同伴者に文句を言うような台詞だった。そして実際に、その言葉は“隣に立つ同伴者”に向けられた文句である。猟犬が文句を向けた対象は、猟犬の頭の中にしか存在しない虚像の人格。当事者である猟犬の他には誰も感じることが出来ない、いわば幻想だ。
無論アーサーの目には猟犬の横に立つ存在など見えていない。だがアーサーには、そこに誰が立っているのかが分かってしまった――猟犬の手首を掴み、銃を下ろせと訴えている“ペルモンド”の姿が、そこにあるように感じられていたのだ。
ひとつの人間の中に同居している異なる意識が、たった今ここで意見の食い違いから争っている。それが独り言というかたちで表出化し、手の震えという姿で顕現していた。そして現在、その体の主導権を握っている“猟犬”の注意は、異なる意見を持つ別人格に逸れている。
「……!」
今なら、ヤツの銃を奪い取って一撃を食らわせることができるかもしれない。――そんな愚かな考えがアーサーの脳裏をよぎったとき、その行動を妨害する声がアーサーの思考にノイズを与える。大男ケイの止血を試みていたマダム・モーガンが大声でアーサーの名を呼んだのだ。
「アーサー、伏せて!!」
アーサーは声が聞こえてきたほうを見やる。彼が見たのは、猟犬に狙いを定めてショットガンを構えている大男ケイの姿と、大男ケイを支えるマダム・モーガンの焦りに満ちた表情だった。そしてマダム・モーガンから「伏せて」と言われたアーサーだが、彼はその言葉を瞬時に理解することが出来なかった。
伏せて。その音が持つ意味を翻訳できなかったアーサーは、間抜けヅラをさらしてぼうっと突っ立っている。だがこれ以上の好機を逸するわけにはいかなかった大男ケイは、アーサーを待たずに発砲した――それも装填済のものが尽きるまで撃ち続けた。そして最悪の事態を想像したマダム・モーガンが責め立てるような金切り声で「ケイ!!」と大男ケイの名を呼んだときだ。間抜けなアーサーの体は、猟犬によって突き倒される。肩をドンッと押されたアーサーは、バランスを大きく崩して背中から床へと倒れ込んだ。そして倒れ込むアーサーは、その最中に猟犬の顔を見た。
アーサーを突き飛ばした瞬間に見せた、猟犬の怒りに満ちた顔。それは何者かに身体の自由を奪われ、不本意の行動を取らされていることを示唆しているかのようだった。だが猟犬はアーサーを突き飛ばした直後に、身体の操縦権を取り返したらしい。最後にアーサーが目撃したのは、口許でだけニヤりと笑う猟犬の狂気じみた表情。そして猟犬は即座に無防備なアーサーめがけて弾丸を放つ。それは猟犬の背が撃ち抜かれたのとほぼ同時に行われた攻撃だった。
アーサーが痛みを覚えたのは、力尽きた猟犬が地に伏せてから数秒が経過してからのこと。猟犬がドサッと倒れ込み、それきり動かなくなったあとに、アーサーは自身が二発目の弾丸を右側の脇腹に食らっていたことに気が付いたのだ。
右肩に続いて脇腹も。あぁ、ちくしょう。痛いじゃないか。――そんな愚痴を内心では零していた反面、アーサーの口からそのような言葉は出てこない。というのも、アーサーは自身の脇腹から染み出ていた蒼い血を見るなり、そのような言葉を洩らす気力さえ失くしてしまったからだ。そうして心の中で漏らす愚痴の矛先は、他でもない己に向く。あぁ気持ち悪い、と。
「アイリーン、あなたはアーサーの止血を! 早く!!」
事態が収拾したのを察知したのだろう。どこかに隠れていたらしい臆病なアイリーンが、役に立たなさそうな救急箱を携えて騒動の起きた現場に駆けつけてきていた。そしてアワアワと狼狽えていたアイリーンに、マダム・モーガンが出した指示が先ほどの言葉だった。
しかしアーサーも、そしてアイリーンも、マダム・モーガンの言葉を話半分にしか聞いていなかった。負傷した脇腹を左手で押さえつけながら、覚束ない足取りでゆっくりと立ち上がるアーサーは、うつ伏せの状態で床に転がる猟犬を見下ろしながら、あれやこれやと思考を巡らせていたし。アイリーンはアイリーンで、出血量の割には平気そうな顔で佇んでいるアーサーに困惑していた。加えてアイリーンは、アーサーの視線の先にある猟犬を見るなり一際激しい動揺を見せる。そしてアイリーンは悲鳴じみた声でマダム・モーガンに指示を求めるのだった――既に彼女は、上官であるマダム・モーガンから指示を受け取っていたにも関わらず。「マ、マム! 猟犬はどうしたらいいの?! 拘束とか、えっと……」
「彼は放っておきなさい、アーサーを優先して!」
悲鳴じみたアイリーンの声に、マダム・モーガンは金切り声でそう返答する。そのマダム・モーガンは、最悪の事態を引き起こしかねない行動を選び取った大男ケイに応急処置を施しながらも、空いている手で彼の頬に強烈な平手打ちをお見舞いしているところだった。
そしてマダム・モーガンから改めて指示を受けたアイリーンは、アーサーに目を向けるのだが。伏せる猟犬のすぐ傍に立ち、猟犬を見下ろすアーサーは、話しかけにくいオーラを発していた。
「……何故、今お前は私を助けた? 私のことが殺したいほど憎いんだろう。それなのに何故だ」
とはいえ、散弾を背面の広範囲に浴びた猟犬が負ったダメージは大きく、猟犬は受け答えが出来る状態になかった。アーサーが何か言葉を発するたび、猟犬は僅かに手指の先や口許を動かすが、それだけ。猟犬の意識は残っているようだが、かといって猟犬がそれ以上のアクションを起こすことはなく、アーサーが答えを得られることもなかった。
そのうち猟犬の動きが完全に止まり、沈黙する。遂に気を失ったのだろう。するとそのタイミングに合わせて、猟犬の影からぬるりと黒い怪物が這い出てくる。緑色の瞳と狼のような輪郭を持つ黒い影、黒狼ジェドだった。
『お前を助けたのは、この俺だ。俺が相棒を止めてなけりゃ、今頃お前のスカしたツラが吹き飛んでいただろうよ』
黒い影はアーサーに対してそう言うが、アーサーはその言葉にスルーを決め込む。アーサーには、黒狼のその言葉が嘘であるように感じられていたのだ。
そしてアーサーは溜息を零すと、黒狼もとい猟犬に背を向ける。その時に、アーサーの纏っていた緊張がやや緩んだ。そのタイミングを見計らって、アイリーンは彼に声を掛ける。
「アーサー。て、手当するから、そ、そこに、す、す……座って!」
ガチゴチに震えながらも勇気を振り絞って、やっとの思いで絞り出したその言葉。だがアーサーはアイリーンの提案を拒否するように、鼻で笑う。それから彼は小声で言った。
「……その名で呼ぶな。私の名は、それではない」
あまりにもピリピリとした、その声色。ビビりでアガリ症かつ臆病なアイリーンは、すっかり縮み上がってしまった。そうしてブルりとアイリーンが肩を震わせ、目にうっすらと涙を浮かべたときだ。アイリーンから離れるように前に進んだアーサーの体がふらりと大きく揺れる。体から力が抜け落ちたように、前のめりにぐわんと倒れるアーサーはそのまま床に崩れ落ちていった。
著しく低下していた体力を気力で補い、なんとか踏ん張っていた状態のアーサーの体は失血のダメージに耐え切れず、失神してしまったわけである。
時代は進んで四二八九年のこと。氷の牢獄の中から脱走した『曙の女王』への情報提供を募る傍らで、事態の説明責任にも追われていたニール・アーチャーが報道陣から厳しい追及を受けていたとき。ASI本部、アバロセレン犯罪対策部ではこの部門を取り仕切るテオ・ジョンソン部長が珍しく声を荒らげていた。
「何なんだ、あのクソババァは! クソッ!!」
ガチャンっと叩きつけるように置かれたのは固定電話の受話器。その次に響き渡るのは、握りしめた拳でデスクをドゴンッと叩きつける轟音。それらの音の発生源は部長のオフィスである。ピタリと閉め切られたすりガラスの扉を越えるほどの大きな音が、その部屋から外部に漏れ出ていたのだ。
イラついたように怒声を上げ、物に八つ当たりをしているテオ・ジョンソン部長だが、幸いなことに彼を苛立たせていたのは彼の部下たちではない。彼の怒りを生み出したのは、彼がたった今コンタクトを試みようとした相手――北米合衆国西海岸地域を拠点に世界を股にかける画商、ジェニファー・ホ―ケン氏――である。
とはいえ上司が荒れている様を見て平然としていられる部下はいない。緊急事態に見舞われ、ただでさえヒリついている部内の空気を更に強張らせていくテオ・ジョンソン部長の怒声には、多くの局員――生きている者も、そして死んでいる者ですら――が肩をブルリと震わせていた。そしてそれは舐め腐った性格のラドウィグも同じ。ギョロッとした大きな目を緊張から見開き、挙動不審に辺りを見渡すラドウィグは、この張りつめた空気がいち早く消えてくれるのを待っていた。
その一方、ベテランであるジュディス・ミルズは状況にそぐわない余裕そうな笑みを浮かべている。すりガラス越しに見えるテオ・ジョンソン部長の姿を眺めながら、彼女は揶揄するようなことを言うのだった。
「やだやだ。ジョンソンが荒れてるわー。一体、何があったのかしらねー」
自身のデスクに軽く腰を掛けるジュディス・ミルズはそう言うと、時間が経って冷めたコーヒー、その最後の一口を啜る。そうして僅かにコーヒーを口に含んだあと、コーヒーカップをデスクの上に起きながら、彼女は目の前に立つラドウィグに視線を向けた。
ジュディス・ミルズの視線には、特に意味が込められていない。強いて言うなら、挙動不審な振る舞いをするラドウィグの姿がちょっと気になっただけ。けれども視線を受け取ったラドウィグはそう思わなかった。何か発言を求められていると感じた彼は大慌てで、言葉を詰まらせながらも“何か”を言おうと努めるのだった。
「た、たぶん、コヨーテ野郎の知り合いらしいって噂の画商に電話を掛けてたんじゃないっすかね。それで画商に軽くあしらわれたとか……ッスかね?」
ラドウィグが述べたのは、荒れるテオ・ジョンソン部長に関する私見。その内容は偶然ジュディス・ミルズの関心を引く。僅かに身を前に乗り出す彼女は、明確に意味を帯びた視線をラドウィグに向けた。そしてジュディス・ミルズは詳しく話せと暗に迫る。「へぇ、画商。そんな知り合いが彼に居たの?」
「あー、えっと、その。ヴィクが言うには、たぶんそうなんじゃないのかって。コヨーテ野郎がその画商に接触を図るかもしれないから、その前にASIから画商にコンタクトを取るべきなのでは、って提案したらしいッス。その結果、部長は玉砕したんじゃないッスか? 軽くあしらわれたのか、またはコヨーテ野郎に先を越されたのか……」
「そういえば、あなた。ザカースキーとは順調なの?」
画商の話題から飛んで、唐突に心理分析官ヴィク・ザカースキーの話になる。急な話題転換にラドウィグは戸惑った。目をパチクリとさせるラドウィグは口を間抜けにポカンと開け、数秒ほど沈黙する。その後どうにか言うべき言葉を見つけられた彼は、ジュディス・ミルズの様子を窺いながら慎重に回答を述べるのだった。
「え、ええ、まあ。もう二週間も経ちましたし。今は共同生活にも慣れてきたっつーか、なんか新しい姉ちゃんができた感じッスね。彼女のお陰で睡眠時間を確保できるようになりました。あとヴィクも、リシュとパヌイが居る生活に馴染んでくれたし。ぎこちない空気はもう無いッスよー……」
「あら、そう。なら良かったわ」
自分から話題を振っておきながらも、ジュディス・ミルズは素っ気ない言葉を返すのみ。なんとなくだが……――良いように遊ばれているような、袖にされているような、そんな居心地の悪さをラドウィグは覚えた。真面目に考えて答えた言葉を軽く受け流されているのだから、良い気がするはずはない。挙句、なにかを試されているような視線をジュディス・ミルズから送りつけられているのだから、ラドウィグの気分は悪くなっていく一方である。
遂に腕を組み、顔をしかめたラドウィグはジュディス・ミルズの目を意味ありげに見つめると、何を試されているのかと問うように目を細める。するとようやく、ジュディス・ミルズは本題を切り出した。
「ねぇ、あなた、どうしたの? さっきから挙動不審な言動ばかりが目立ってるわ。なにか問題でもあるの?」
問題があるのか、と問われたところで。この状況を見れば分かるだろう、としかラドウィグは思わない。曙の女王が脱走という緊急事態、そして荒れ模様なテオ・ジョンソン部長の機嫌に局員たちは振り回されている。ストレスフルな環境下に置かれて挙動不審になっているのは、なにもラドウィグだけではない。
「今日は情報量が多いなぁって、そう思いまして。あと、ジョンソン部長が負のオーラを纏っていて不気味っつーか。部長のオフィスに黒いモヤモヤが漂ってる感じっスかね」
ラドウィグが適当に濁すようなことを言った、その直後。再び部長のオフィスから、固定電話の受話器を叩きつけるように置く大きな音が発生する。突然に鳴った衝撃音にラドウィグがビクッと肩を震わせると、今度はそれと同時にテオ・ジョンソン部長の怒りに満ちた悪態が聞こえてきた。
「あのババァ……!!」
あぁ、この空間から逃れたい。ラドウィグがそんな思いを心の中でのみ零し、逃げ出したいという願望を乗せて部内と廊下を隔てる出入り口を見やった。そのとき丁度、出入り口のドアが音を立てず静かに開けられる。
まるで気配を消すかのように、足音を殺しながらアバロセレン犯罪対策部に足を踏み入れた者。それは緊張した空気感が満ちる部内に驚いている様子のエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官だった。
ビジターと書かれた札を首から下げているエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の姿を見つけたラドウィグは、すかさず彼のもとに駆け寄った。妙な問答ばかりを重ねてくるジュディス・ミルズから離れたかったこと、それと友人に安心感を求めたかったことが理由である。
「かわいそうなエディ。こんなときに、こんなとこに来るなんて、外れくじ引いたみたいだね」
ラドウィグはそう言いながら、心の底から憐れむような目をエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官に向ける。その視線を受けるエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官も、彼自身を憐れむように肩を落とすと、小声で本音を吐露した。「……外れくじを引いたよ。支局長よりはマシだが、それだけだ」
「外れくじと外れくじを比較したって意味ないよ、どっちもクソなことには変わりないんだから」
沈んだ様子で、しかし穏やかに会話をしているラドウィグとエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の二人。その様子を離れた場所から見ていたジュディス・ミルズは、少しの間ラドウィグを放っておいても良さそうだと判断した。そして彼女は彼女のデスクから離れ、移動する。彼女が向かった先は、部内の最奥にある第四尋問室だった。
同時に尋問すべき対象が五名以上いる場合でもない限り滅多に使用されないその部屋に、今日は煌々と灯りが照らされている。しかし第二、第三尋問室の灯りは消えている。となれば尋問でない用件で第四尋問室が使用されていると考えるのが妥当。ならばその部屋の中に、部内には姿が見られないアレクサンダー・コルトが居るのだろう。――ジュディス・ミルズはそのように考えていたのだ。
そしてジュディス・ミルズの予想は当たる。第四尋問室の扉を開けてみれば、その部屋の中には読書をしながら待機しているアレクサンダー・コルトの姿があった。
「あら。サンドラが読書だなんて、珍しいわね」
第四尋問室の中に居たのは四名。部屋の中央に置かれた机に就き、向き合うように座っているASI局員が二人。東側の壁際に置かれている深い緑色のソファーで眠り込んでいる者が一人。そのソファーの傍の床で寝かされている者が一人。そのような構図となっている。
軽口を叩きながら入室したジュディス・ミルズは、鏡――それはビームスプリッターと呼ばれるものであり、鏡のように見える窓を介して隣の部屋からこの室内を覗き見られるようになっている――が取り付けられた西側の壁を見る。彼女が見ていたのは、鏡に映っている部屋の東側の様子だった。
東側の壁側に設置されたソファーの周囲で眠っている二人。彼らは服らしい服を着ておらず、青いポリエチレン製ターポリンを一枚ぐるっと巻き付けられてひとまず体を隠しているといった、残念な扱いを受けている。ソファーの上で眠る人物のほうは、ターポリンの上からさらに厚手のブランケットを掛けられているが。床に転がされている人物のほうはそれすらもないのだから、より酷いと言えるだろう。
そして、その人物らはどちらもASI局員ではない。しかし同時にその人物らは、ジュディス・ミルズにとって見覚えのある顔をしている存在でもある。だがその二人は、ジュディス・ミルズが知っている人物と同一人物であるとは断言できない存在でもあった。
どう扱えば良いのか。その正解が分からない人物らを、ジュディス・ミルズが睨むように見つめていたとき。室内中央で机を囲んでいた局員のひとり、静かに本を読んでいたアレクサンダー・コルトが顔を上げる。アレクサンダー・コルトはその本に栞代わりのメモ紙を挿むと、パタンと本を閉じて背表紙をジュディス・ミルズに向ける。それからアレクサンダー・コルトはこう言った。
「ついさっき、ノエミ・セディージョから貰ったんだ」
アレクサンダー・コルトが掲げた本。その背表紙には『症例P』という題名がでかでかと記載されていた。噂になっている例のあの本か、とジュディス・ミルズはすぐに察する。
しかし彼女は本の内容を尋ねることは、まだしない。ジュディス・ミルズが最初に訊いたのは、アレクサンダー・コルトの口から飛び出してきた意外な人名についてのことだった。「ノエミ・セディージョから……?」
「今、彼女がここに来てるんだよ。あと巻き添えを食らった彼女の旦那も。ジョンソンが二人を呼び出したらしいぜ。この本について訊きたいことがあるってんでな。それで彼女は今、第一尋問室に詰められてるが。尋問官のほうが彼女に食われてるよ。あんたも見てきたらどうだい?」
ジュディス・ミルズからの問いに、アレクサンダー・コルトはそのように答えた。そうしてノエミ・セディージョから本を貰った理由が解明されたところで、ジュディス・ミルズは視線を鏡からアレクサンダー・コルトに移す。そうしてアレクサンダー・コルトの三白眼を真っ直ぐに見つめると、ジュディス・ミルズは一番気になっていたことを切り出すのだった。「それは遠慮しておく。でもその本の内容は知りたい。どういう内容なの?」
「こいつはイルモ・カストロっていう死んだ医者が書いた本。彼の死後、その原稿を預かっていたセディージョ氏が彼の遺言に従って出版を手配したって話だ。そしてこの本は、彼が出くわした最も厄介な患者に関する記録であり、その患者をかろうじて寛解させた際に用いた治療技法をまとめているテイを装っている」
「じゃあ、本当の目的は治療技法の公開ではないのね?」
「ああ。この本の一番の目的は『献身的な妻ブリジット・エローラ』のイメージを破壊することなんだろう。彼女に対する恨みがヒシヒシと感じられる内容になっている」
「で、その患者については?」
「そうだな、アタシもまだ数十ページしか読めてないが……」
アレクサンダー・コルトが読んでいたのは、半世紀以上前のことが纏められていた本。まだボストンという都市が存在していた時代、その頃にイルモ・カストロ医師が担当していた凶悪な患者、すなわちペルモンド・バルロッツィという男のことが、その本の中には綴られていた。
「……これが事実なら、あまりにもひどすぎる。けど、まあ、親族がいる傍で話すべきじゃない」
アレクサンダー・コルトが読み進めている最中の序盤は、重たすぎる話がウェイトを占めている。イルモ・カストロ医師が患者を請け負ったばかりの最初期の頃に患者が漏らした『過去』の話、それがあまりにも陰惨すぎたのだ。
しかし陰惨なのは『過去』だけではない。アレクサンダー・コルトが度肝を抜かされたのは、患者がその過去を担当医に告白してきた翌日の話。患者は、勤め先のビルの高層階から飛び降りたのだ(その情報はとっくに知り得ていたアレクサンダー・コルトであったが、しかし詳しく書かれていたことの詳細には驚愕する他なかったのだ)。
高層階から飛び降りたものの、奇跡的に――または必然的に――患者は一命を取り留めたそうだ。とはいえ無事では済まず、全身骨折(右脚は開放骨折)や肺の破裂などが起こり、重体に陥った。特に損傷の度合いがひどかったのが顔で、顔面はグチャグチャに潰れていたらしい。当時の最新技術、その
そして本の著者であり、飛び降りを試みた患者の担当医であるイルモ・カストロ医師はこの当時、とんでもない過ちを犯したと後悔に苛まれていたそうだ。たった一言、昔のことを患者に尋ねただけで起きた、このハプニング。それがのちに『昔のことを一切尋ねないカウンセリング』という彼のスタイルに繋がったらしい。
「ただ、この本でアタシが気になったのは主題じゃない部分なんだ。この本の中には一部だが、コヨーテ野郎に言及している箇所があってな。あーっと……――ほら、ここだ。死んだ姉に雰囲気がそっくりだと感じた、って部分だよ」
栞代わりのメモ紙を挿んだ部分を狙い、アレクサンダー・コルトは手に持つ本を再び開く。そして栞を挿んだページを少しだけ遡り、当該箇所を見つけると、その部分を指し示しながらジュディス・ミルズに見えるよう彼女にそのページを向けた。
近頃、少しだけ老眼が気になり始めたジュディス・ミルズは目を細めると、本に近付くことなくそのページを凝視する。離れた距離からかろうじて読める細かい文字を、彼女は静かに追った。そうして近辺の数行を含めてジュディス・ミルズが大筋の内容を把握した頃、アレクサンダー・コルトが本に書かれていない追加の情報を加えていく。
「本の中では、著者の姉に関する話はボカされていて詳しくは書かれていない。ある事情から追い詰められて彼女が一七歳のときに自殺した、としか書かれていないんだ。ただ、詳しい背景を著者本人から聞いたセディージョ氏によると、この姉はワケありだったようだ。そもそも、その人物は著者の姉ではなく血縁上では従姉にあたる人物であり、且つ彼女は著者の父親の妹と弟の間にできた、いわば近親相姦の末に誕生した子供だったそうなんだ」
「うわ、なにそれ……」
その情報はまったくジュディス・ミルズが求めていないものであり、彼女には本質とは何ら関係の内容に思えたのだが。しかし出てきた情報の薄気味悪さに、彼女はある種の吐き気を覚えていた。
近親相姦の結果、誕生した子供。だがその子供を育てたのは実の父親でも産みの母親でもなく、おそらく著者の父親だ。著者の父親がその子供を引き取り、代わりに養育したのだろう。育児放棄があったのか、はたまた虐待行為があったのかは分からないが……――その子供が“著者の姉”となった背景には胸糞悪いものしかなさそうだ。
顔すら知らない赤の他人の、不幸な生い立ちの話。それがジュディス・ミルズの心にチクリと刺さる。
「…………」
ジュディス・ミルズの気が滅入ったのには理由がある。彼女もまた、似たような子供時代を過ごしていたからだ。
彼女がまだ幼い頃に、彼女の両親は離婚した。両親のどちらも不倫をしていたことが理由である。そして彼女は両親のどちらからも捨てられ、親類の全てから引き取りを拒まれた。そうして『一般家庭の普通の子供』ではなく『行政に養育される孤児』となったことを裁判所の職員から報されたときに覚えた人間への失望は、今もどこかで燻ぶっている。積み重なった黒い埃の下でプスプスと火花を散らす失意が今、一瞬だけ強く光ったような気がしたのだ。
パチパチと散った火花は、けれどもいつものように虚無へと還っていく。少しの不快感の後に何の感情も残らなかったことにジュディス・ミルズは少しだけ安堵した。そうして彼女が僅かに息を吐いたとき、アレクサンダー・コルトが続きの言葉を発する。
「著者の姉は、死の半年前から学校でイジメに遭っていたそうだ。彼女の出自が周囲にバレてしまったことがキッカケだったらしい。教員らを含め、校内に味方はゼロ。また彼女は家族にもイジメを受けていた事実を伝えられなかったそうだ。家族の誰も、何も気付かないまま――ある朝、いつの間にか家出していた彼女が真冬の川に浮かんでいるのを、川沿いをランニングしていた市民が発見した」
「つまり、川に入水したと。――イヤな死に方ね」
「ああ。そして死の前日の夜まで、彼女は気丈に笑っていた。少しの毒を周囲に吐きながらも、いつも通り朗らかに振舞っていたそうだ。で、著者は『本音を僅かに滲ませた毒のような言葉と、演技じみた朗らかさのギャップで、周囲を感情面で振り回すアーティーの姿』を見て、死んだ自分の姉に似ていると感じたそうだ」
「……」
「ギリギリのところで踏ん張っているが、何かの拍子に背中を押されれば、誰かを殺しかねない狂気を隠し持っている人間であるように、姉も、アーティーも見えていた。自分を殺すのか、他人を殺すのか、そこは時と場合に依るかもしれないが、ともかく両者は“暗黒面”の住人であり、彼ら自身にとっても周囲にとっても危うい人間であると言える、とな」
「アーティーっていうのが、つまり」
「若い頃の彼の呼び名が、それだ。……憤怒のコヨーテだとか、サー・アーサーだとか、アーティーだとか、マッキントッシュだとか、あのジジィにゃ名前が多すぎる。覚えるのが大変だ」
アレクサンダー・コルトはそう言いながら、持っていた本をパタンと閉じる。彼女は閉じた本を机の上に置くと、椅子から静かに立ち上がった。そして彼女はジュディス・ミルズの真横に立つ。だがアレクサンダー・コルトはジュディス・ミルズに視線をやるわけではない。
アレクサンダー・コルトが見ていた先は、東側の壁面に設置されているソファーの上に寝かされている人物。身動きひとつ取らず、さながら死んでいるかのような赤毛の女性を見つめるアレクサンダー・コルトは、その視線を動かさぬまま話の続きをするのだった。
「ただ、著者はこうも書いているんだ。アーティーの冷え冷えとした暗黒面が、けれども当該患者の『固定化』に役立ったし、当該患者を間違いなく救っていた、と」
「……」
「姉は暗黒面に呑み込まれて死を選んだが、けれどもアーティーは暗黒面と賢く共存していたし、時と場合に応じてそれを巧みに使いこなしていた。そして当該患者はアーティーの生存戦略を模倣し、彼自身の内側にそれを組み込んでいた。だからこそ、アーティーの真似をしてみろと患者に促したことが寛解への一助に……」
「なら、あのひとは『サー・アーサーの言動を真似ていたから』あんなにもガラが悪かった、ってことなの? で、前にあなたが言っていたように、素のペルモンド・バルロッツィは感じが悪いわけでもなく、表の世界のそれとは別人のような――」
「ジュディ、そこまでだ」
ジュディス・ミルズの口から具体的な人名が飛び出した瞬間、アレクサンダー・コルトは鋭い声で彼女の名を呼び、ジュディス・ミルズの話を遮って中断させる。そのときのアレクサンダー・コルトは、声色と遜色ないほど鋭い視線を彼女に向けていた。
アレクサンダー・コルトとの付き合いも長いジュディス・ミルズだが、しかしアレクサンダー・コルトからこのような鋭い目を向けられることは少ない。だからこそ即座に口を噤んだジュディス・ミルズは、気が
抜かった。そう後悔するジュディス・ミルズが、気まずさから視線を自身の足許に落としたとき。フフッと小さく笑う声が聞こえてくる。その声の主は、机の上に置いたラップトップコンピューターの画面をニヤついた目で見ていた男。情報分析官リー・ダルトンだった。
情報分析官リー・ダルトンは画面のほうに向く顔は動かさず、しかし横目でジュディス・ミルズをちらりと見やる。それから彼はわざとらしい動作を交えつつQWERTY配列のキーボードをタタンッと指先で叩くと、ジュディス・ミルズとアレクサンダー・コルトの二人にしらばっくれた声でこう言った。「今の会話、ザカースキーに送っときますねー。彼女の役に立ちそうなので」
「今、録音してたのかい?」
アレクサンダー・コルトはそう問うも、情報分析官リー・ダルトンは意味ありげな微笑を浮かべるだけで何も答えない。その反応を見て、返事は得られそうにないなと考えたアレクサンダー・コルトは腕を組むと、その一方で肩を落とす。それから彼女は再び、ソファーの上で眠る人物に視線を移すのだった。
ジュディス・ミルズもまた、同じ場所に視線を向ける。彼女はまずソファーの上で眠る人物を見て、その次にソファー脇の床にうずくまるような体勢で寝かされている人物を見やると、彼女は隣に立つアレクサンダー・コルトに対して問いを投げた。
「それで。あそこにいる彼らが、もしかして“水槽の脳”を脱したっていうひとたちなのかしら」
ジュディス・ミルズの問いかけに、アレクサンダー・コルトは頷くという反応を見せる。それと同時に、机に就く情報分析官リー・ダルトンも無言で頷いていた。両者が同じ反応を見せたことで、ジュディス・ミルズは額に手を当てる。急遽徴集が掛かり、局に呼び戻された理由となったあの話――カイザー・ブルーメ研究所跡地の地下にあった脳神経系だけの人物たち、彼らが再び肉体という
そうしてジュディス・ミルズが頭を抱えれば、アレクサンダー・コルトは溜息を零す。それからアレクサンダー・コルトは憂鬱そうな抑揚のない声で、眠る人物らに関する備考を述べるのだった。
「肉体に適応するまで時間が掛かるとかで、今はどちらも眠っている。少なくとも死んではいない。マダム・モーガンの話を信じるなら、あと数時間もすりゃ目を醒ますそうだ。それでなんだが……」
「なるほど。これはつまり、手違いでも起きたの?」
アレクサンダー・コルトの言葉に、ジュディス・ミルズは被せるようにそう言う。すると組んでいた腕を解くアレクサンダー・コルトが肩を竦めて、再度溜息を零した。その後にアレクサンダー・コルトが目を向けるのは、ソファーの上で眠る人物……――ではなく、その近辺の床に転がっている人物のほう。
見覚えのある色合いをしたダークブロンドの長い髪の隙間から覘く、どこかで見た覚えのある顔に、アレクサンダー・コルトは僅かな忌避感を滲ませる。湧いてきた負の感情から目元を強張らせるアレクサンダー・コルトは、面倒ごとにウンザリしたといった調子で、こんな事態になったワケを説明するのだった。
「見ればわかると思うが、ソファーで寝ているほう、赤毛の彼女はエリーヌ・バルロッツィだ。で、もう一つの脳味噌、レーニンのほうだが、マダムは彼に体を与えなかったんだ。アーサーとの取り決めだとか、そんなことを言っていた。レーニンは安らかに眠ってもらう、そうしたほうが彼の為にも良いと。そういうわけで彼はまだ研究所跡地に居る。それで問題は床に転がっているもう一人のほうなんだが……マダム・モーガンがとんでもないことをしてくれたんだよ」
そう言うとアレクサンダー・コルトは床に転がっている人物を明確に指し示し、また重たい溜息を吐く。情報分析官リー・ダルトンもアレクサンダー・コルトの溜息に同調するように、無言でウンウンと首を縦に振り、頷いていた。かなり面倒な事態が起きたという共通認識を、この二人は抱いているようだ。
そしてその認識を、ジュディス・ミルズも共有する。何故なら彼女の目には、その床に転がっている人物が“コヨーテ野郎”と仇名される人物に酷似しているように見えていたからだ。
「コヨーテ野郎のコピーなのかしら。ガーランド氏の自伝本に載っていた若い頃の彼にそっくりね。だとしたら、はぁ~……コヨーテ野郎のコピーが、ウルルにあったそれの他にも存在していたってこと? まさか、三人目のジョン・ドーも居たりしないわよね?」
どこにでも現れる死神マダム・モーガンや、殺しても死なない不死者ペルモンド・バルロッツィ、死者にそっくりな顔に作り替えられた少女アストレアに、割かれた腹から蒼い血を垂れ流していた宙に浮く死体や、挙句に大きくて蒼いドラゴンを見せられてきたジュディス・ミルズは、彼女自身も驚くほどこの事態にさほど動揺していなかった。むしろ、またこのパターンかと呆れていたぐらいだ。
平静だがかなり呆れているといった様子のジュディス・ミルズの言葉を聞くアレクサンダ―・コルトは、しかし首を横に振って彼女の言葉を否定する。それからアレクサンダー・コルトは正解を与えるのだった。「いや、それがあの男とは無関係なんだよ。ラドウィグが前に言ってただろう。なんたら卿っていうアタシらの目には見えない男が居て、彼がエリーヌたちを守っていたと。マダム・モーガンはそいつを肉体に引きずり下ろしたようなんだ。それが彼の……イヤ、彼女の正体だ」
「彼女?」
「ジュディ、悪い。その件は確定していないから後回しだ。――それでなんだが、こんな顔をしている以上オフィス組にはあまり大っぴらに顔を見せられない。ただでさえピリピリしてる空気なんだ、そこに爆弾は落としたくないんだよ。だから」
「暫くはこの部屋に閉じ込めておく、ってことね。ジョンソンにはそのことを伝えたの?」
「いや、エリーヌ・バルロッツィのことは伝えたが、もう一人の詳細についてはまだだ。なんだか立て込んでるようだったからな」
「分かった。なら私から機を見て伝えておくわ」
コヨーテ野郎に顔がソックリ。それだけでも不愉快だが、それ以上の何かがまだありそうなアレクサンダー・コルトの言葉に、もはやジュディス・ミルズは眉を顰めることしかできない。そうして呆れ返るジュディス・ミルズが「代わりに部長へ報告しておく」とアレクサンダー・コルトに伝えたときだ。情報分析官リー・ダルトン、彼がひとつ咳払いをした。
咳払いのあと、情報分析官リー・ダルトンは彼が座っている椅子を少しだけ後ろに引くと、ジュディス・ミルズのほうに体を向ける。それから彼は意味ありげな視線をジュディス・ミルズに送りつつ、こう言った。
「この件については僕のほうから報告しておきますよ。そこの彼らについて調べたいこともありますし、その報告と併せてキングに上げておきます。まあ、今後については、キングのご機嫌次第ですかねぇ。ひとまず彼が鎮まるのを待つしか、今は他にできることもないですし。とはいえ、あんなにも荒れている彼を見るのは初めてですよ」
情報分析官リー・ダルトンが、ジュディス・ミルズに向けていた視線の意図。それをジュディス・ミルズは汲むことができなかった。
彼は何かを閃いていて、だからこそテオ・ジョンソン部長にあれこれと命令を出される前に自分の裁量で何かを調べたい。なのでその時間稼ぎをして欲しいとジュディス・ミルズに訴えているのか。または何か良からぬ企みを彼は抱えていて、邪魔してくれるなと言っているのか……。
情報分析官リー・ダルトンの考えていることが後者である可能性を疑ったジュディス・ミルズは、彼に見張りを付けておく必要があると直感した。そこで見張り役として顔が思い浮かんだのは、自分本位でワガママなように見えて、意外にも曲がったことやヨゴレたことが嫌いなあの男。そしてジュディス・ミルズは言う。「とりあえず、今は……――そこの彼らの監視を猫目くんに任せるってのはどうかしら」
「そんなのダルトンに任せておけばいいだろうに。なにもラドウィグを巻き込む必要はないだろ」
しかしアレクサンダー・コルトの返答はジュディス・ミルズの望む方向に転ばなかった。というのも、アレクサンダー・コルトには目に見えていたからだ。この話を聞けばラドウィグは良い顔をしないだろうし、間違いなく嫌がるだろうと。だがジュディス・ミルズは立場を譲らず、それらしい説明を組み立ててアレクサンダー・コルトを言い包めるのだった。
「これはラドウィグのためでもあるの。彼、さっきから挙動不審っぽい感じなのよ。あなたも言っていたように、オフィス組がいつもよりピリピリしているし、きっと居心地が悪いんでしょう。だったら、彼も静かなこの部屋に隔離しちゃったほうがいいかなって、そう思ったのよ。ほら、猫って静かなところが好きでしょう? そしてここは静かで、緊張感は無い」
「そうか。なら……――よし、分かった。あいつを呼んでくるよ」
そうと決まれば行動が早いのがアレクサンダー・コルトである。第四尋問室をサッと立ち去るアレクサンダー・コルトはその後、部内を見渡した。そして彼女は、ジュディス・ミルズが言っていた通りに挙動不審そうな振る舞いをしているラドウィグ、及びその横で優雅にコーヒーを啜っているエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官をすぐに発見する。
大股な歩幅でずかずかと歩くアレクサンダー・コルトは、見つけたラドウィグに近付いた。それから彼女はラドウィグに声を掛けたのだが、その反応は芳しくなかった。
「ラドウィグ、ちょっと来い」
アレクサンダー・コルトがそう声を掛けると、ラドウィグは静かにするよう促す小生意気なジェスチャーを彼女にしてみせた。その姿を不審に思うアレクサンダー・コルトが彼の様子をよく観察してみれば、彼は右手に携帯電話を持っていて、それを用いて誰かと通話している様子だった。そして彼は相手の返事を待っている模様。だが、望み通りの反応を相手から得られていないようだ。
「おい、どうした、ラドウィグ。何かあったのか?」
やや声を潜めつつアレクサンダー・コルトがそう言えば、ラドウィグは助けを求めるような目を彼女に向けてきた。それからラドウィグは電話口に向けて、小声でこのように語り掛ける。
「……あ、あの~。高位技師官僚に替わっていただけますか~?」
その直後、ラドウィグが持つ携帯電話のスピーカーから聞こえてきた相手側の声は怒りに満ちていた。そしてその声は偶然、アレクサンダー・コルトの耳にも入る。その声は、新アルフレッド工学研究所に所属する研究員のものであり、アレクサンダー・コルトと妙な縁がある男、レオンハルト・エルスターという人物のものだった。
『イザベルを呼んでやってもいいが、それはまずお前の話をしてからだ。なぜ今お前はASIに――』
ラドウィグは、イザベル・クランツ高位技師官僚に用があり、だからこそ新アルフレッド工学研究所の彼女のオフィスに連絡をした。だが応答したのはイザベル・クランツ高位技師官僚ではなく、同研究所に所属する別の人間、レオンハルト・エルスターという研究員だったらしい。それによって、かつてその研究所に所属していたラドウィグの現在の居所が相手に伝わり、そのせいで相手が怒り心頭になった。――という流れのようだ。
これは早急に話を打ち切った方が良い。アレクサンダー・コルトはそのように判断し、すぐさま彼女はラドウィグの手から乱暴に携帯電話をひったくる。それから彼女は通話先の相手を怒鳴り、威圧した。
「急用なんだ。いいから、早くイザベル・クランツを出せ! さっさとしろ!!」
返事の代わりにスピーカー越しから聞こえてきたのは、相手が息を呑む音だった。それを了承した合図だと解釈したアレクサンダー・コルトは、携帯電話をラドウィグに返還する。次に彼女はビクつくラドウィグのすぐ傍に居る男を睨み付けるように見た。
目付きの悪いアレクサンダー・コルトの瞳と、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官のアーモンド型の目が合わさる。直後、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官のほうが視線を僅かに逸らしたとき、彼女は彼の名前を呼び、こう言った。「ベッツィーニ。アンタはたしかアバロセレン工学を専攻してたんだよな?」
「ええ、そうですが」
「なら、ちょうどいい。アンタにはアルフレッド工学研究所に出向いてもらう。そこからアタシらに情報を回せ。アンタなら、あそこの研究者たちと同じ土俵で話ができるだろ?」
上司から「ASIに出向しろ」と命じられて到着したその直後に、今度はASI局員から「アルフレッド工学研究所に行け」と命令されたエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、あまりの扱いの悪さに驚きから目を大きく見開いた。これじゃあたらい回しじゃないか、と。
そうしてエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は不満に思う一方で、しかし僅かな喜びを得ていた。研究所に派遣されるということは、それは前線に出ることはないという意味だし。それにアルフレッド工学研究所は、学生時代に彼が憧れていた機関だ。
安全な場所に行けるという安堵。それと、かつて憧れた場所に足を踏み入れられるかもしれないという期待。それは『雑用』を快く受け入れるには十分すぎる材料だった。
「アルフレッド工学研究所ですか。了解しましたよ」
エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、あくまでもウンザリとした声でそう言うと、アレクサンダー・コルトらに背を向けてオフィスを出て行く。しかし彼の足取りは軽く、雑用を押し付けられたにしては嬉しそうな気配を背中から漂わせていた。
それを不満そうに見送るのはラドウィグである。なぜ派遣されるのが自分ではないのかという無言の抗議を、ラドウィグはアレクサンダー・コルトに送りつける。そうしてギョロッと大きな猫目をラドウィグが細めたときだ。応答待ちをしていたラドウィグの携帯電話から、彼が望んでいた人物の声が聞こえてきた。そしてラドウィグはその声に応える。
「……――高位技師官僚、SODの件なんですけッ」
だがラドウィグの言葉は途中で寸断された。というのも、アレクサンダー・コルトが再び彼の携帯電話をぶん取ったからだ。そして携帯電話を奪い取った彼女は電話越しの相手にこう言うと、一方的に通話を打ち切った。
「今からそっちに連邦捜査局の特別捜査官を送る。エドガルド・ベッツィーニって男だ。そいつを介して、ASIと連絡を取ってくれ。こちらからもベッツィーニを介して情報を送る。頼んだよ」
なんたる横暴か。――アレクサンダー・コルトの
そしてラドウィグが着ていたジャケットの裏地に携帯電話を収納した瞬間、アレクサンダー・コルトが彼の肩をガシッと掴んできた。それからアレクサンダー・コルトはまたも一方的な通告をラドウィグに伝えてくる。
「ラドウィグ。あんたには第四尋問室に居る人物たちの監視を任せる。アタシはちょっくら買い出しにでも出てくるよ、ジュディにもそう伝えておいてくれ」
監視と伝言を押し付けられたラドウィグは、アレクサンダー・コルトにその理由を問い質そうとしたが。しかし質問する隙さえ与えることなくアレクサンダー・コルトは立ち去っていく。というより、彼女はラドウィグに面倒事を押し付ける旨を伝えながら、すぅ……と離れていっていた。
アレクサンダー・コルトの言葉が終わる頃には、彼女はもうラドウィグに背を向けていたし。その頃にはもう彼との距離はかなり離れていた。そこで諦めの速いラドウィグはこの面倒事を渋々引き受けることにする。彼は肩を落として一呼吸ついたあと、顔を左右にブルリと小さく振って気分を切り替える。――と、そのとき。ラドウィグの足許に白い狐、小言の多いリシュが現れた。
『ここは無茶苦茶ばっかりだな。キミアの眷属たちのほうがマシに見えてくるぞ』
神狐リシュの言葉に同意しかねたラドウィグは、ムッと眉を顰める。それからラドウィグは神狐リシュを伴い、面倒な何かがあるという第四尋問室に向かっていった。
「うぃーっす。サンドラの姐御はショッピングに出るそうでーす、交替を頼まれたんで参じ――」
今すぐにでもすべてを投げ出して逃げ出したい気分を誤魔化すように、敢えて能天気な調子を装うラドウィグは、そう言いながら入室したのだが。扉を開けた直後、彼は目撃したものを疑い、途中で口を閉じてしまった。
口を閉じた代わりに目を大きく開けるラドウィグは、彼の見てしまったものを凝視する。そしてラドウィグは、目を疑う光景を生み出している張本人に声を掛けるのだった。
「……あの。何やってんスか?」
ラドウィグが声を掛けたのは、床にしゃがんでいたジュディス・ミルズの背中だった。そして床にしゃがんでいたジュディス・ミルズは、床に寝転がされている人物を険しい顔で凝視している。それに彼女は、床に寝転がされている人物を包んでいた青いターポリンの中を覗き込んでいたのだ。
シャカシャカと音が鳴るポリエチレン製の青いシート。その端からはみ出ている素足から察するに、恐らくターポリンで隠されているその人物は何も服を着ていない。そして彼女がターポリンの中を覗き込んでいるということは、それすなわち裸体の覗き見である。
しかし下心や好奇心によって彼女が興奮している様子はなく、むしろ何かを考え込むように顰められたジュディス・ミルズの険しい表情は、良からぬ事態の前触れをラドウィグに告げているかのようだった。だからこそラドウィグは「何をやっているのか」と聞いたのだが。ジュディス・ミルズがその声に答えるよりも前に、茶々を入れる声が入る。それは情報分析官リー・ダルトンだった。
「あなたのことを見損ないました。なんてことをしてるんですか」
ラドウィグの声を聞き、その際にジュディス・ミルズが何をしているのかに気が付いた情報分析官リー・ダルトンは、彼の目の前に置かれていたラップトップコンピュータを静かに閉じると、ジュディス・ミルズに向かってそのようなことを言う。
しかし、それに対するジュディス・ミルズの反応はえらく冷めたものだった。
「これも私たちの仕事のうちよ」
そう言いながらジュディス・ミルズは立ち上がると、青いターポリンに包まれた人物に背を向けてラドウィグのほうを見やる。それから彼女は近くに来いとでも呼ぶように、ラドウィグに向かって手招きをしてみせた。
そんなこんなでラドウィグの視線はジュディス・ミルズの手、及び彼女の顔に向いていたのだが。ふと何かが気になり、ラドウィグの視線が逸れる。ジュディス・ミルズの足許、そのすぐ傍にある青いシートが彼の目に留まった。
「……」
オーウェン・レーゼの聴取を切り上げて局に帰還せよとテオ・ジョンソン部長から命じられたとき、ざっくりとした話は部長から聞かされていた。カイザー・ブルーメ研究所跡地にあった“水槽の脳”状態の二人組にマダム・モーガンが何かをして、彼らが肉体を取り戻したのだと。だからこそラドウィグはこのように考えていた。青いターポリンに包まれた人物、それはエリーヌ・バルロッツィという女性か、レーニン・エルトルという名の男性のいずれかであろうと。
ならばジュディス・ミルズの後ろに居るのはどちらだろうか。そう疑問に思ったラドウィグが、そこに居る人物の顔を見やったのだが。そこで彼は想定外の事実を見つける。大嫌いな“玉無し卿”ことセィダルヤードが居る、と。
その事実に気付いたラドウィグの顔からは血の気が失せていく。ここには居たくないと感じたラドウィグは目線をジュディス・ミルズに向けると、はにかみ笑いながらこのように切り出し、その場から逃げ出そうとした。「あー、その。オレ、コーヒー淹れてきます」
「あなたの考えていることは分かるわ。だから言う、ダメだと。ここに待機していなさい」
冗談をひとつも交えることなく、険しい顔でピシャリと断じる。そのジュディス・ミルズの様子に、舐め腐った精神を持つラドウィグも背筋を正さざるを得なかった。
それにジュディス・ミルズが彼に向けている視線は異様に冷たい。それはまるでラドウィグが何かをやらかしたと責め立てているようでもある。しかしラドウィグには責められるような心当たりがない。そういうわけで彼が感じるのは、得体の知れない居心地の悪さだけ。
「分かりました。従います」
軽口を叩くことが
イスカの
今度は何を疑われているのだろうかと落胆するラドウィグが、目を伏せながら顔を俯かせたとき。ラドウィグを揶揄するような聞き覚えのある声が聞こえてきた。
『その通りだ。男の子たちは待機しているべきだな、来るべき時に備えて』
ラドウィグは素早く声が聞こえてきた方向に顔を向ける。彼の視線の先にあったのは、壁面に取り付けられたビームスプリッターの鏡面。鏡面には第四尋問室の様子が反転した状態で映し出されていたが、一点だけ現実と異なっている点があった。現実にはこの場に存在していない人物の姿が、鏡の中に写り込んでいたのだ。
部屋の中央にある机。現実には、そこに就いているのは情報分析官リー・ダルトンだけなのだが。鏡に映る世界には情報分析官リー・ダルトンのすぐ傍で、その机の
とはいえラドウィグにはその男の正体が分かっていた。だからこそ彼は腕を組み、鏡に映る男――に擬態した怪物――が何を言い出すのか、その様子を窺っていたのだが。他の者は事態がすぐに呑み込めず、戸惑った様子を見せる。
ラドウィグから鏡に視線を移したジュディス・ミルズは、驚いたように目を見開き、息を呑んでいるし。情報分析官リー・ダルトンに至っては、転げ落ちるように椅子から離席する始末。そして床に尻もちをつきながら、情報分析官リー・ダルトンは裏返った声で叫んだ。
「ば、ばるろっ、たァッ?!」
鏡の世界において、情報分析官リー・ダルトンのすぐ傍に佇んでいる男。その背格好や目鼻立ちは、少し前に死んだ前高位技師官僚によく似ている。それに、先ほど聞こえてきた声もその故人にそっくりだった。だからこそ情報分析官リー・ダルトンはその名を叫ぼうとしたのだ。バルロッツィ、と。
そうして腰を抜かした情報分析官リー・ダルトンが震える指で鏡を指差し、驚愕から言葉を失ったとき。タネと仕掛けを知るラドウィグが、人間らを騙くらかして遊んでいる狼に釘を刺す。ラドウィグは目を細めると、鏡にのみ映る男を睨みながら命じるように言った。
「ジェド、その変装を解け。これ以上あの人を貶めるな」
ラドウィグがそう言うと、鏡に映る怪物は不服気な表情を見せる――これは『本人』であれば見せない表情だ。しかしラドウィグが強い言葉を用いたことが多少は効いたらしく、その怪物は大人しく指示に従う。鏡の世界にて姿勢を正すその怪物は、姿勢を正したと同時に姿を変える。人間の男のように見えていた姿がグニャグニャと歪み、その直後、黒い毛並みを持つ狼へと変化した。黒狼ジェド、それが正体を現したのである。
緑色に輝く目を細めながら黒狼は鏡の世界をノソノソと歩き、腰を抜かして座り込む情報分析官リー・ダルトンの傍らに近付く。しかし黒狼は情報分析官リー・ダルトンに冷たい視線を送りつけるのみで、それ以上のことはしない。その後、黒狼はすぐにラドウィグのほうへと向き直った。
今度は一体、何を仕出かす気なのか。そのような疑念と警戒心に満ちた目をラドウィグは返す。そうしてラドウィグが牽制の言葉を発しようとしたとき、偶然にもそれを遮るようにジュディス・ミルズが溜息を零した。そして間髪を入れずに、彼女は言う。「前高位技師官僚に関連する事柄の中で偶に耳にすることがあった『黒狼』という言葉、今までは疑っていたわ。未来を予知するという怪物、それは実在していたのね」
『なら話は早い。耳の穴を
黒狼はジュディス・ミルズの言葉にそう返答すると一転、視線を彼女へと移す。ラドウィグに事情を説明させるよりも、多少ワケを知っていそうなジュディス・ミルズに的を絞ったほうが話がスムーズに進みそうだと黒狼は考えたようだ。
嫌な予感がするな、とラドウィグは感じていたが。とはいえここで変に口を挿めばジュディス・ミルズもとい黒狼の機嫌を損ねそうである。そうなれば嫌味なことを両者から言われそうだ。
そこでラドウィグは静観という態度を取ることにする。何も言わずに黙りこくるラドウィグが、ただ黒狼をジトッと睨み付けていると、黒狼はそれを「話をしてもいい」という合図として受け取る。すると、黒狼は話を始めた。
『手短に言う。俺の相棒、つまりお前たちが『ジョン・ドー』と呼んでいたそれがカリスのねぐらから逃げた。お前たちが“曙の女王”と呼んでいるホムンクルスがあいつを連れ出したんだ。相棒は今、この近辺に潜伏している。――気を付けろ。行動を間違える者が現れれば破滅的な結果が訪れることになる。俺がいないんじゃあ、あれの歯止めはかからないだろうしな』
黒狼の話を信じるのであれば、また面倒な事態が増えたということになる。ジョン・ドーという言葉にジュディス・ミルズが表情を険しくする一方、警戒心が一周回って遂に無表情になったラドウィグは黒狼の言葉を疑っていた。そしてラドウィグは黒狼に言う。「お前の言葉は信用できない。信用に足る根拠を示せ」
『こっちはわざわざ出向いて警告をしてやってんだぞ。それに対する態度が、それか?』
ラドウィグが言葉に滲ませる露骨な不信感に、黒狼は牙を剥いてがなり立てるというアクションで応答する。しかしラドウィグがまた煽るような言葉を発しようとする。が、それは直前でジュディス・ミルズによって止められた。
ラドウィグをきつい眼光で睨み付けるジュディス・ミルズは、彼を指差すと黙るようにとの圧をかけてくる。続けてジュディス・ミルズは黒狼のほうに顔を向けると、こう言った。「話を続けて」
『俺は暴力や蹂躙が好きだ。だが理由なくそれらをすることはしない、これでもポリシーってやつを持っている。けれども相棒は違う。あいつは容赦ないぜ。解き放たれたら最後、見境なく何もかもをぶっ壊して回る。あれは自制心なんざ微塵も持ち合わせていない
そう言うと黒狼は、先ほどまで情報分析官リー・ダルトンが座っていた椅子の脚に前足を掛けると、それをグッと後ろに引く。それはあくまでも鏡の世界で起きた事象だったが、しかし現実もその動きに連動する。現実に存在している椅子はひとりでに動き出し、鏡の世界と同じ位置に移動した。
そして黒狼はその椅子にヒョイと飛び乗ると、机の上に置かれていた情報分析官リー・ダルトンのラップトップコンピュータを鼻面で器用に開いてみせた。現実に存在するラップトップコンピュータも同じ動作を示し、閉じられていたはずのコンピュータはひとりでに開く。それを見た情報分析官リー・ダルトンは大慌てで飛び起きると、なぜかジュディス・ミルズの背後に隠れていった。
堂々と佇む彼女の背中越しに、恐る恐るといった様子で鏡を見やる情報分析官リー・ダルトンが、鏡の中にだけ存在する黒狼の緑色に輝く目を見て息を呑んだとき。開けられたコンピュータはひとりでに起動し、モニターには動画が映し出される。そして黒狼はラドウィグを横目でちらりと見やり、それから言った。
『これは最後に相棒が現れ、暴れ回ったときの映像だ』
勝手に再生され、ラップトップコンピュータに映し出されていた映像。それはどこかの小洒落たオフィスのようだった。しかし白衣を着た姿でうろついている者が多いことから察するに、なんらかの研究所なのだろう。外は暗く、大雨が降っているらしい。また、帰り支度を進めている者がちらほらと見受けられることから、夕方かそれより遅い時刻なのだろう。――ラドウィグには、そのように見えていた。
だがASIのアーカイブズを隅から隅まで把握している情報分析官リー・ダルトンは血相を変える。彼には分かったのだ。黒狼が何らかの手を使って引っ張り出してきたこの映像はASIの手元には無いものであり、と同時にその映像の舞台がどこなのかが。
情報分析官リー・ダルトンの予測が正しいのであれば、映像は約四〇年前に撮影されたものだ。場所は、サンレイズ工学研究所。ホムンクルスを最初に創り出したとされる場所であり、ホムンクルスが誕生したその日に消滅した施設だ。
降りしきっていた豪雨に紛れて、雨の中に消えていったとされる研究所。宇宙人が転送して消したとか、秘密工作員が爆弾で破壊しただとか、そのような陰謀論のみを後に遺し、跡形も無く消えた曰く付きの存在。それがサンレイズ研究所である。
とはいえASIは真相の一端を掴んでいた。それはペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚が所員のほぼ全てを抹殺したうえで(テレーザ・エルトルという研究員のみを逃し、それ以外のほぼ全員を殺したのではと考えられている)、彼が持つ特殊能力『素手で触れたものを、その元素組成に関わらず水に変成する能力』で消したという話。俄かには信じがたい話ではあるし、今となっては証拠も無く、裏取りもできないまま長年スルーされていたのだが。黒狼という謎めいた存在がたった今、その証拠を突き出してきたのだ。
「こ、これは……!」
情報分析官リー・ダルトンが小さな声でそう漏らしたとき。映像の中で異変が起こる。カメラの画角外から内側へと、一人の男が大慌てで飛び込んできたのだ。その人物が着ている白衣の左肩には赤い染みが広がっており、逃げ込んできた人物が何らかの怪我を負っていることが窺い知れる。そして怪我をした人物がデスクの影に隠れようとした瞬間、彼の背中めがけて刃物が飛来した。
それは錠前壊しのために設置される赤い斧。そして斧を背中に受けた人物はその場に倒れ込み、それきり動かなくなる。その瞬間に空気は一変し、オフィス内に居合わせた者たちは取り乱し始めた。
我先にと脱出を試みようとする者も居れば、デスクの下やロッカーの中といった物陰に隠れてやり過ごそうとする者も居て、全てを諦めた顔で床に伏せる者や、親しい誰かに最後の言葉を残すべく連絡を試みる者も居る。――そして遂に、混乱の渦を生み出した張本人ペルモンド・バルロッツィがその場にやってくる。彼はオフィスに踏み込むと、斧を背中に受け手倒れ込んだ男に近付き、その背中から斧を引き抜いた。
彼は斧を握る左手に、ラテックスの手袋を着けており、その上には黒い革手袋をはめていた。だが右手は素手のまま。その右手で触れられたものは次々と形を失くし、飛び散る水滴となって消えていく。備品、椅子、デスクが消え、物陰に隠れていた者が露わになり……――人さえも消えていった。
その映像に音声は付属していない。無音が続いているが、けれども映像を観る者の脳内では悲鳴が自然と補間されていく。そしてオフィスに居た最後の一人が消滅したとき、映像が停止した。直後、黒狼はラドウィグを見やると、彼に挑発めいた言葉をぶつける。
『この通り、あいつに慈悲はない。――甘ちゃんのお前に、あいつを止められるか?』
隙も無駄も無い動きで、スムーズに汚れ仕事をこなしていく男の姿。それはラドウィグが知っている“彼”とは別人のようにも思える。だからこそラドウィグは、それをすぐには受け止めることができなかった。そんなの嘘だ、と唱える否定の声が彼の頭の中に響いていたのだ。
そうしてラドウィグが戸惑い、狼狽えていた一方。気を取り直した情報分析官リー・ダルトンはそれまでしがみついていたジュディス・ミルズから離れ、映像を再生していたラップトップコンピュータに近付く。それから彼は、彼自身の私物であるはずのコンピュータを警戒するように見たあと、鏡に映る黒狼へと顔を向けた。そして情報分析官リー・ダルトンは黒狼に尋ねる。「今の映像は、ブラッドフォード暗殺事件から三年後に起きたという、あの――」
『そうだ。あの、サンレイズ研究所消滅騒動の真相だ。……安心しろ、今の映像はASIのアーカイブズに加えといてやるさ』
「あぁ、それは有難い!! ……――いや、でも、どうやってそんなことを?」
黒狼の返事に、情報分析官リー・ダルトンは感謝したあとに首をかしげるという反応を見せる。すると黒狼は何かもの言いたげに目を細めた。……というのも、情報分析官リー・ダルトンが日ごろの業務の中で接しているASIの基幹システムを構築したのはバルロッツィ高位技師官僚こと、この黒狼であったからだ。
そうして黒狼が情報分析官リー・ダルトンに冷たい視線を浴びせていると、その黒狼に糾弾の目と疑問が向けられる――ぶつけようのない怒りを抱えた顔をしているラドウィグだ。彼は鏡の世界に居る黒狼を問いただす。「どうして、こんなことが起きたんだ。当時に何があったから、こんなことが……!」
『お前も、サンレイズ研究所で人工生命体の開発が進められていたことは知ってんだろ?』
「一応。ASIにある資料を読んで、知った。けど、だからって」
『この直前、サー・アーサーが探りを入れようとしているという情報が元老院の耳に入り、サンレイズ研究所の廃棄が決まった。いわゆる尻尾切りってやつだな。ついでに、連中はアーサーの口を塞ぐべく、あいつの娘を殺そうとしたわけだ。つまりこの殺戮はアーサーにのみ向けられた牽制であって、それ以外の意味を持っていない』
「牽制!? そんなことのために、この人たちは……!!」
『義憤を爆発させるのもいいが、この連中に同情するべきじゃあねぇな。連中は相応の悪徳を積んでいる。俺が思うに、これは連中に相応しい死に様だった』
黒狼のドライな言葉に抗議の言葉をぶつけようとするラドウィグだったが、彼が口を開きかけたタイミングで被せるように情報分析官リー・ダルトンがわざとらしい咳ばらいをする。そして情報分析官リー・ダルトンはラドウィグの出鼻をくじいたあと、黒狼の発した言葉に補足事項を加えた。
「狼さんが正しいです。サンレイズ研究所では倫理的に問題のある計画が多く進められており、人体実験の末に殺害されたのではないかと睨まれている浮浪者の遺体が研究所の近辺で発見されたこともあります。それ以外にも、当時は――」
普段の調子を取り戻した情報分析官リー・ダルトンが饒舌に喋っていると、その長台詞を打ち切るように黒狼が前足を動かし、音を立てる――前足の爪を机の天板に擦り付け、ギギギッという不快感を伴う雑音を立てたのだ。
その結果、机にはうっすらと爪痕が残る。現実に存在している机の天板にも、鏡の世界に居る黒狼が刻んだ爪痕が刻まれていた。この特異な状況に、情報分析官リー・ダルトンは肩をブルリと震わせると、黙りこくる。そして彼が黙ったのを確認すると、黒狼はジュディス・ミルズを見やった。
一番まともに話が出来そうなASI局員。黒狼によってそう判断されたジュディス・ミルズは、鏡に映る黒狼の目を見返すと、緊張から口角を僅かに下げる。それと同時に黒狼は中断されていた話の続きを再開した。
『今の映像は命令を受けた“猟犬”が廃棄を実行しているところを収めたものだ。結果、一名を除き、所員は全員死亡。サンレイズ研究所も白昼堂々、消失した。そしてこれを機に、殺戮を働いた“バルロッツィ高位技師官僚”は雲隠れせにゃならん事態に陥った』
「……」
『あんときゃ俺もいっぱいいっぱいだったのさ。アーサーの怒りを焚きつけぬよう、あいつの娘テレーザを守ることを優先せにゃならなかったが、同時に元老どもの機嫌も取ってエリーヌの安全も確保せにゃならなかった。となりゃ、あれ以外に道は無い。俺はテレーザとホムンクルスの双子を研究所から追い払ったあと、相棒の好きなようにさせた。ただ、流石の俺も予想していなかった。研究所から逃げ延びたはずのテレーザが――』
猟犬と呼ばれる男をコントロールするための操縦桿から黒狼がその手を離した結果が、あの情け容赦のない殺戮であるなら。黒狼が本来あるべき場所に戻された今、黒狼の支配下から外れた“猟犬”が何を仕出かすかは想像に容易い。
訪れるかもしれない最悪の結末。それを思い浮かべてしまった瞬間、ラドウィグの体は勝手に動いていた。蒼褪めた顔になったラドウィグは焦りに身を任せ、部屋から飛び出ようとする。しかし彼が出入り口のドアノブに手を掛ける直前、ジュディス・ミルズがラドウィグの腕を掴み、力づくで彼を引き留めた。それから彼女は忠告する。「待ちなさい。今は焦って行動を起こすタイミングではないわ」
「何かが起きる前に動かなきゃ意味がないでしょう?! 今すぐにでもオレが市内を」
「情報収集なら担当者にやらせればいい。あなたは事態が動くまで、ここで待機を」
「だからこそすぐに動ける態勢を整えるべきです!! そのためには――」
警察の覆面機動隊のように、いつでも出動できるよう市内を巡回しておくべき。ラドウィグは咄嗟にそのように判断していた。ゆえに彼は局を飛び出ようとしたのだ。けれどもジュディス・ミルズは真逆のことを言う。ここで待機していろ、と。
ラドウィグは自分の考えが正しいと確信していたが、しかしジュディス・ミルズは上司であり彼の管理官である。彼女に逆らい、勝手に抜け出すことは決してできない。そこでラドウィグは食い下がるべく、説得力のある言葉を探していた。
そうして一瞬ラドウィグが口を閉ざしかけたとき。部屋の隅から、ポリエチレン製の布がカシャカシャと鳴る物音が立つ。青いポリエチレン製ターポリンに包まれた状態で床に寝転がされていた人物が目を覚ましたのだ。
その人物はカシャカシャと音が鳴る布で自分の体を隠すように押し付けつつ、慎重に上体を起こす。そしてこの日初めて開かれた深い青色の瞳が、殺気立つラドウィグを捕捉した。
「……彼女が正しい。君は頭の回転が速い分、空回りしやすい、そして悲観的な早合点をすると聞いている。ひとまず今は呼吸を整えるべきだ」
ASIにて“憤怒のコヨーテ”と仇名される男に顔がそっくりだということで警戒されていた者、そしてラドウィグからは“玉無し卿”などと呼ばれて蔑まれていた人物。その声を聞いた一同は視線をその人物に向けると同時に、各々が異なる反応を見せた。
ラドウィグは自分の考えを否定されたことに苛立ち、睨むという態度を取る。だが彼は内心でこう思ってもいた。空回りも悲観的な早合点も思い当たるフシがありすぎる、と。だからこそ余計に苛立つ。指摘がズバリ当たっていること、それが腹立たしくて堪らないのだ。
一方でジュディス・ミルズは、驚き、息を呑むという反応を示す。その人物の声のトーンが、彼女の想像していたものと大幅に異なっていたこと――聞こえてきた声は温和な空気を伴った低い声であったが、それはあくまでも『女声』の音域に留まっていた――に拍子抜けしたからだ。それに、その人物は寝顔こそ“憤怒のコヨーテ”に似て見えていたが、起床してみればちゃんと別人に見える。エラの主張が無いほっそりとした輪郭に、攻撃性の無い穏やかな目など、あの男とは異なる部分がちゃんとあり、その影響であの男の気配は『少し面影がある程度』に収まっていた。だからこそ彼女は心の中でガッツポーズを決めていた。これならどうにか顔を誤魔化せる、部内に嫌な空気を生まずに済むかもしれないと思えたからだ。
そして、妙な反応を見せたのが情報分析官リー・ダルトンだった。彼は呆然とその人物を見つめ、と同時に息を呑むというリアクションをする。……――が、彼は数秒ほど静止したのち、首をブルブルッと左右に振って我に返った。彼はどうやら職務とは何ら関係の無いことに気を取られかけていたようだ。
そのように調子が狂い気味な情報分析官リー・ダルトンと、ワケありなその人物の目が一瞬だけ交錯する。しかし視線はすぐに逸れた。先ほどラドウィグに釘を刺した人物は、次に鏡のほうを見やると、ラドウィグらに向けてこう言う。
「そこの狼は他に何かを言いたげだ。まずその話を聞いてみたらどうだ」
すると一転、一同の視線は鏡にのみ映る黒狼の姿に移る。そして注目が自分に集まったのを確認すると、黒狼は威勢よくこう言った――気に入らないという少しの苛立ちが混ざった調子で。
『ああ、そうだ! まず俺の話を聞きやがれ。でないとお前ら全員、死ぬぞ』
死ぬ。黒狼がそう言い切れば、元よりヒリついていた空気がより一層張りつめていく。気が緩みかけていた情報分析官リー・ダルトンは、たるんだ心を正すように今度は肩をブルリと震わせた。
そして鏡面に一同の注目が向いたとき、鏡面に映るものに変化が生じた。黒狼が再び人型に、つまり前高位技師官僚の姿を取ったのだ。
その姿にラドウィグは顔をしかめて不快感を露わにするも、黒狼は故人によく似た目を細めて冷たい視線をラドウィグに送りつけるのみ。その目線は、人間の姿かたちを取ったほうが人間と意思疎通がスムーズに行えるのだから細かいことでグダグダ言うな、とでも苦言を呈しているかのようである。現に今も、目線ひとつで意図を容易に伝えられているのだから、人間の姿というものは黒狼にとって実に有用なものなのだろう。
気に入らない。そんな幼稚な苛立ちがまたもラドウィグの中に蓄積していく。だがこの空気感に水を差してはいけないと察した彼は、今度ばかりは文句を言うことを控えた。くだらないことで文句を言うよりも、今は重要な話に耳を傾けなければならないターンだと弁えていたからだ。
そうしてラドウィグが黙り続けることを選べば、黒狼の視線はベテランであるジュディス・ミルズに移る。それから黒狼はひとつ咳払いをしたあと、故人にそっくりな“ガワ”の頭を指差しながら、このように語り出した。
『滅多なことでも起きねぇ限り、これの狂暴な側面、つまり通称“猟犬”と呼ばれている人格は出てこない。身の危険、それも深刻な危険に晒されない限り、猟犬は穏当な仮面の奥底に押し込められているからだ。だが仮に出てきたとしても、大抵はあいつの肉体に組み込まれたリミッターがそれを妨害する。凶暴性の発現に伴う興奮により大発作のトリガーが引かれ、痙攣により活動は強制停止されるうえ、大発作のダメージによって数日は大人しくなる。俺か、もしくは元老どもが故意に肉体のリミッターを外していない限り、大事は起きない。つまり猶予はあるってわけだ。だが問題がある』
先ほどは悲観的な強い言葉を発していた黒狼だが、続いた言葉は存外にも楽観的な観測だった。しかし楽観的な言葉の後には再度、暗雲をもたらしそうな不穏な言葉が続く。そして黒狼は人間そっくりのガワを動かして腕を組むという動作をした。それから黒狼は最大の懸念事項を述べる。
『あいつを連れ出したホムンクルス。お前たちが“曙の女王”と呼んでいる存在、あれの行動原理が分からない。だからこそ、あのホムンクルスがあいつのリミッターを外す可能性も考えられる。その場合――狙われる可能性があるのは誰だ?』
「コヨーテ野郎とか? 曙の女王を封じたのは彼だし、恨みを買っている可能性がある」
黒狼が投げかけた問いにそう答えたのは、ジュディス・ミルズだった。ラドウィグにはその答えが十分にあり得そうなものだと感じられたが、しかし組んでいた腕を解くという反応を見せる黒狼は続けて、片眉のみを吊り上げるという表情を作る。それから黒狼はジュディス・ミルズを指差すと、次に嘲るような感じの悪い笑みを浮かべた。……ジュディス・ミルズが出した答えは黒狼の考えるものとは微妙に異なっていたらしい。ニアピンといったところだろう。
『まあ、そうだな。あのクソ野郎を狙う可能性も十分あり得る。だが俺の考えは違う』
故人によく似た顔で、しかし故人とは色が異なる緑色の目でジュディス・ミルズを見ながら、黒狼は言う。そして凝視されたジュディス・ミルズは、警戒からわずかに顎を引いた。この瞬間、彼女はあることを悟ったのだ。
今のようなオーバーな表情と、ガラの悪そうな喋り方。それはジュディス・ミルズが知っているペルモンド・バルロッツィそのものであり、つまり彼女が知っていたペルモンド・バルロッツィという男は即ち、彼の体を乗っ取って活動していた黒狼であったのだ。そして思い出されるのは、彼女が初めてペルモンド・バルロッツィと相見えたときに聞いた台詞。
――でなけりゃお前たちは、この猛犬のリードを握れなくなるぞ?
あのとき、彼女にはなぜペルモンド・バルロッツィが“猛犬”という言葉を持ち出したのかが理解できなかったのだが、今なら意味が分かる。彼の正体はこの通り、犬なのだ。
「なら、狙われるのは誰?」
ひとつ謎が解けた瞬間、その正体に気付けなかった過去の自分が気味悪く思える。そんな気分に苛まれながらもジュディス・ミルズは、気味悪さの根源である黒狼を見据える。そして黒狼はこのように答えた。
『俺は狙われるとすりゃアレクサンダー・コルトだと考えている。それか、アレクサンダー・コルトとお前らの言うコヨーテ野郎が鉢合わせるタイミングだな。近々その予定があるんだろう?』
「なぜ、曙の女王の狙いが彼女だと断言できるの? その根拠は何?」
アレクサンダー・コルト。予想もしていなかった名前が黒狼から飛び出してきた瞬間、ジュディス・ミルズの態度は一変する。食い気味で黒狼を問い詰める彼女は鬼気迫るオーラを放っていた。そのオーラに中てられ、情報分析官リー・ダルトンまでも表情を固くさせ、ラドウィグも生唾を呑み込む。変わらぬ態度を貫くのは黒狼だけだった。
哀れな人間を助けようとしているのか、はたまた怯える人間を嘲りたいだけなのか。その真意が掴めない態度を取り続ける黒狼が次にロックオンするのは、例外存在であるラドウィグである。黒狼はラドウィグに意味ありげな視線を送りながら、人間には理解が及ばぬ話をするのだった。
『アレクサンダー・コルト。あれは今までどこにも存在しなかった特異点だからだ。お前らが言うところのコヨーテ野郎も、特異点のひとつ。だがアレクサンダー・コルトの威力には劣る。なにせアレクサンダー・コルトはこの周回で初めて誕生した存在だからだ。幾つかの要因が重なって偶然に産まれた副産物、それがあの女。だからこそ俺はあの特異点を維持したい。だが、元老院を筆頭に、あの女を消したがる勢力もいる。この世界に備わった恒常性そのものが、あの女を消したがっているという側面もある。とはいえあのホムンクルスがどちら側なのか、または別の立場なのか、それは俺には分からん。あれは不明点が多すぎるうえに行動が全く読めん。俺の眼を以てしても予測不能な存在だ。あのホムンクルスもまたこの周回で初めて誕生した存在だからな、参照すべき記録がないんだよ』
特異点やら何やかんやと、小難しい話が続く。神族種やら幽霊やらにほとほと嫌気を起こしていたジュディス・ミルズは考えることを早々に諦め、ただ「アレクサンダー・コルトが狙われる可能性が高い」という点のみを自分の中に吸収することにした。
しかし、黒狼に喰らい付こうとしたのが情報分析官リー・ダルトンである。鏡に映る黒狼のガワを真っ直ぐ見つめる彼が何かを言おうとしたとき、しかし黒狼が牽制した。チッチッチッ、と小馬鹿にするかのように三回も舌を鳴らした黒狼は、情報分析官リー・ダルトンに黙れというジェスチャーを送る。お前にはどうせ理解などできないのだから余計な質問で手間取らせるな、ということらしい。
そんな黒狼の牽制は情報分析官リー・ダルトンに効果を発揮する。ペルモンド・バルロッツィの姿という最高に胡散臭く威圧的な男に睨みをきかされれば、インドア派で闘争の世界とは無縁なギーク男は怯むしかない。
そうして情報分析官リー・ダルトンが大人しくなったタイミングで、再び黒狼はラドウィグに視線を戻す。それから黒狼はラドウィグに恨みつらみをぶつけるのだった。
『挙句、俺はそこの坊主に封じられちまったせいで鏡の向こう側から指くわえて見ることしかできない身だ。今度ばかりはお前らを助けることが出来ない。だが、文句があるなら俺でなく、諸悪の根源が何者であるかを見誤ったそいつに言え』
「お前だって充分に悪者だろ。善良な守護者を気取るな」
ラドウィグは最後に、黒狼へ一撃を決める。しかし黒狼はその言葉に無視を決め込んだ。
そして用事が済んだのか、黒狼は本来の姿である黒い毛並みの狼の姿にスルスル……と戻っていく。人間の男の姿を模っていた輪郭が霧散し、黒い霧に覆われたあと、それは狼のかたちに集束していった。
「とりあえず……――私は今のことをジョンソンに報告する。あの石頭に今の出来事が呑み込めるかどうかは分からないけど、ひとまず話しておくわ。ダルトン、あなたも来なさい」
黒狼が元の姿に戻ったのを確認したあと、険しい顔をするジュディス・ミルズはそのように言う。そして彼女は情報分析官リー・ダルトンを伴って、第四尋問室を後にした。
そうしてジュディス・ミルズと情報分析官リー・ダルトンが退室したのを確認すると、それまでラドウィグの肩の上で黙り続けていた神狐リシュが久しぶりに口を開く。神狐リシュは鏡に映る黒狼ジェドに向かって、こんなことを言った。
『黒狼、お前も随分と落ちぶれたもんだ。自分の育て上げた弟子に不意打ち食らって、一撃でやられちまったんだからな。そして今や狼の姿でグダグダ愚痴を零すつまらない存在に成り下がった。情けないもんだよ』
「……それ、マジで言ってる?」
神狐リシュの言葉に、ラドウィグは驚きに満ちた声と共にそう返す。神狐リシュの言葉を信じるなら、ラドウィグを鍛え上げた武術の師匠(というより、ラドウィグがかなり強い恨みを抱いている男)の正体が黒狼だということになるからだ。
人を人とも思わない所業をラドウィグに課してきた性悪な師匠の正体が、この黒狼だったとは。少年期には全身を痣だらけにされ、十四歳のときには砂漠のド真ん中にひとり置き去りにされたりと、散々な目にラドウィグを遭わせてきたクソジジィの正体が、黒狼であったとは。……ラドウィグは衝撃を受ける一方で、なぜか腑に落ちる感覚も味わっていた。このクソ狼なら十分にあり得ると納得していたのである。そして神狐リシュは念を押すようにこう言うと、ラドウィグの肩から飛び降り、床へと着地した。
『そうだ。かつて“
床に着地した神狐リシュは、別の人物に目を向ける。それは部屋の隅で縮こまりつつ、少し寒がるように青いポリエチレン製のシートを手繰り寄せていた人物である。その人物は別の世界ではセィダルヤードと呼ばれ、民から慕われてもいたし上流階級からは疎まれてもいた宰相だった。そしてラドウィグが十五歳だった頃、宰相セィダルヤードは七〇過ぎの老人だったはず。
しかし。たった今、二十六歳になったラドウィグの前に居るセィダルヤードは、ラドウィグが幼いときに観た肖像画の中にある彼の姿、つまり若い頃の姿をしていた。……いや、肖像画で観たセィダルヤードの顔とも、何かが違うかもしれない。
何の手違いが起きたのか、ラドウィグもとい神狐リシュの知っている“セィダルヤード”とは異なる姿かたちで顕現したその人物に、神狐リシュはトトトと歩み寄る。そして神狐リシュはセィダルヤードの前で止まると、こう言った。
『お前も、この狼こそが自分の飼い犬だと勘付いたんだろ。だからお前は割って入り、狼のほうに注目を向けさせた。――だが間抜けな狼は何も覚えちゃいない。キミアに記憶を吸い取られてるからな。飼い主に忠実なワンコだった時代のことを何も覚えちゃいないんだ』
神狐リシュのその言葉に、セィダルヤードは無言で小さく頷き、そして微笑みを浮かべるという反応を返す。ラドウィグはその反応に背筋をゾワッとさせた。自分は今までまったく気が付かなかったことに、セィダルヤードは一瞬で気付いたこと、それが気味悪く思えて仕方なかったのだ。
その一方、ラドウィグよりも激しく動揺していたのが黒狼ジェドである。身に覚えのない話に黒狼は動揺するあまり、その輪郭をグワングワンと揺らしていた。陽炎のように揺れるその姿は、黒狼ジェド自身の動揺を強く反映しているかのよう。そして黒狼は実際に動揺しており、そしてヘコんだようだ。黒狼は輪郭をグラグラと揺らしながらラドウィグらに背を向けると、気落ちした様子で静かに去っていく。
鏡の向こう側にある部屋の出入り口、そのドアノブに黒狼ジェドは前足を掛けると、器用にドアを開けて退室していった。――その拍子に、現実世界のドアノブも呼応するようにガチャリと動き、出入り口はひとりでに開いて、ひとりでに閉まる。黒狼は完全にここから去ったようだ。
「……」
黒狼が去ったことで、ラドウィグは安堵すると同時に妙な心細さを覚える。神狐リシュが傍にいるとはいえ、セィダルヤードとほぼ二人きりのような今の状況。おっかない管理官ジュディス・ミルズも居なければ、カフェイン中毒で常にアッパーな情報分析官リー・ダルトンも居ないせいで、できれば意識したくない存在から注意が逸れる瞬間もない。
寒さで身震いでもしたのか、ポリエチレン製の布がカサカサと細かく小さな音を立てる。そのあと、ガサガサッと一際大きな不快感溢れる音が鳴る。そして音の動きでラドウィグは悟る。身を起こしたセィダルヤードが今、ラドウィグの背中を見ているのだと。
部屋の対角線上に居て両者の距離はそこそこ離れているが、しかしラドウィグは視線を感じている。そしてラドウィグが恐る恐るセィダルヤードのほうに顔を向ければ、やはり視線がガッチリと合ってしまった。幼稚なラドウィグは覚えた不快感を露骨に表情へと出してしまうが、大人の余裕とやらを持っている相手は意に介していない様子。ラドウィグに穏やかな微笑みを向けるセィダルヤードは、顔を引きつらせるラドウィグに気品ある声で語り掛ける。
「ルドウィル。少しだけ話を――」
「ラドウィグ。それが今のオレの名前です。また、業務外の話をするつもりはありません」
ろくに相手の話を聞かぬラドウィグは感じ悪い態度で打ち切る。その一方でラドウィグはセィダルヤードに歩み寄るという行動を見せた。
上に羽織った黒いジャケットを脱ぎながら歩くラドウィグは、脱いだジャケットをセィダルヤードの肩に掛ける。用が済むとラドウィグはすぐにセィダルヤードから離れ、出入り口の近くに戻っていった。
その様子を見守る神狐リシュは、不満があるように口吻を窄めている。黒い
あれは、あの狐なりの抗議である。それを分かっているラドウィグは神狐リシュおよびセィダルヤードから目を逸らし、出入り口のみに注目を向ける。ジュディス・ミルズか情報分析官リー・ダルトンか、そのどちらかがドアを叩き、開ける瞬間を待つことにした。
――のだが。ラドウィグが少し気を緩めた直後、異変が起こる。なんと、ドアがノックされることなく突然ガチャリと開いたのだ。更に、乱入してきたのはASI局員でない全くの部外者だったことから、ラドウィグは小さなパニックに陥る。アッと驚いた彼だが、その場で取るべき対応をすぐに取ることができず、乱入者の入室を許してしまったのだ。
「ねぇ、アレックス。イルモの本、どう思っ――」
入室許可を得ることもしなければ、事前にノックすることもせずに部屋に乱入してきた者。それは隣の部屋で行われていた尋問から解放されたノエミ・セディージョだった。そして彼女が乱入してきた理由はただ一つ。隣の部屋にいると聞いていたアレクサンダー・コルトに、数十分ほど前に渡した本の感想を聞きにきただけ。しかしノエミ・セディージョが見つけたのはアレクサンダー・コルトではなく、見覚えのある顔をした別の女性だった。
壁際に置かれている深い緑色のソファー。その上に横たわる赤毛の女性。それはノエミ・セディージョの記憶が正しければ、彼是二〇年近く前に殺害されたはずの人物である。
「……彼女、エリーヌ・バルロッツィよね。どうして彼女がここに居るの?」
感じた疑問を直に発するノエミ・セディージョは、この疑問を追及すべく近くにいるASI局員を探そうとしたのだが、しかし彼女が次に見つけたのは彼女のすぐ傍に立っていたラドウィグ……ではなく、エリーヌ・バルロッツィが寝ているソファーの隣に居た人物。青いターポリンにくるまり、その上から男物のジャケットを被ったセィダルヤードだった。
そのセィダルヤードの顔は、ノエミ・セディージョにとっても覚えのある男に近い。これがまた良くない事態を巻き起こすことになる。
「っ……?!」
死んだとされているエリーヌ・バルロッツィに加え、サー・アーサーとよく似た顔をした人間まで居る。これにはノエミ・セディージョも驚きのあまり言葉を失くし、彼女の頭の中は真っ白になった。しかし彼女の脚は勝手に動く。ノエミ・セディージョは無意識的に、この部屋の中にずかずかと入りこんでいた。
加えて、ノエミ・セディージョを追いかけるように彼女の連れまでも部屋に乱入してくる。
「セディージョ。あなたって人は周りを考えずに動き回りす……――」
それはノエミ・セディージョの巻き添えを食らうかたちで召喚された男、元検視官バーニー・ヴィンソンである。呆れたように眉をひそめ、相方のノエミ・セディージョを連れ戻そうと入室してきた元検視官バーニーだが。彼は“サー・アーサーによく似た顔をした男”を見るなり、現役時代のような無表情に戻る。そして彼は本物の蝋人形のようにカチコチに固まって動かなくなってしまった。
「――か、勝手に入室されては困ります! 今すぐ、出てください!」
ラドウィグがパニックを脱し、侵入者に対してアクションを起こしたのは元検視官バーニーが静止してしまってからのこと。ずかずかと部屋に入りこんだノエミ・セディージョの肩をラドウィグが掴み、押し留めたところで時すでに遅し。侵入者たちは『ASIが隠しておきたかったもの』を既に見てしまっていた。
「これはどういうことなのかしら。説明してくださらない?」
ノエミ・セディージョはラドウィグの目をじっと見据えると、ギリリと睨み付ける。一方、相手が何者であるかを知らないラドウィグのほうはグッと息を呑むことしかできない。
――と、そこに報告を聞いて様子を伺いに来たテオ・ジョンソン部長がやってくる。そしてお呼びでない客人が二人もこの場に居る状況を見るなり、彼は表情を強張らせた。そして彼は言う。
「用件が済み次第、あなた方には速やかに日常へと戻ってもらうつもりでいたが状況が変わったようだ」
テオ・ジョンソン部長はノエミ・セディージョおよび元検視官バーニーに向けてそう告げたあと、ラドウィグに意味深な視線を送った。これはつまり、後で話があるというサインだろう。不手際を叱られることは間違いない。自分に非があることを分かっているラドウィグは無言で小さく頷き、視線の意図を理解したことを伝えた。
その後、テオ・ジョンソン部長はノエミ・セディージョを見やる。それから彼は彼女にこう告げた。
「あなたのことはよく知っている。あなたが今、何を言おうとしているのかも。だからこそ率直に言おう、何も分かっていないと。何か聞きたいことがあるのなら我々でなく金髪の猛獣を問い詰めるべきだ。我々も彼女の帰還を待っているところなのでな。――それでは失礼する」
現状を端的にバババンッと伝えたあと、テオ・ジョンソン部長は足早にその場を立ち去ろうとする。しかしノエミ・セディージョがそれを阻むように、彼の右手首をガッと掴んで引き留めた。それから彼女はテオ・ジョンソン部長に言う。
「ひとつ質問させて」
ノエミ・セディージョはそのとき、鋭い眼光をテオ・ジョンソン部長に向けていた。そのオーラは、傍に居る者たちの警戒心を必然的に吊り上げていく。一体なにを聞かれるのかと、テオ・ジョンソン部長も眉をひそめていた。が、彼女の口から出てきた質問は幸いにも深刻なものではなかった。「このオフィスにあるコーヒーメーカー、使っても構わないかしら?」
「好きに使ってくれ。本物の豆は無く、代替品のタンポポ製コーヒーしかないがな」
「リッキーから聞いた。土の味がするんですってね。まっ、試してみるのも悪くないかも」
「ああ、焦げた土が良い味を出していてマズい。あれを飲むぐらいなら、エントランスの売店で買うべきだ。パトリックはそうしていた」
本物のコーヒーよりも安価だが、コーヒーに似た味のようでそうでもなく、焦げた土の風味がすると評判の飲料。そんなわけで部内でも賛否がパッキリと別れているタンポポコーヒーの警告を発し、売店で買うことを勧めたあと、テオ・ジョンソン部長は足早に立ち去る。ノエミ・セディージョという障害よりも重大な目下のトラブルが山積みであるからだ。
ただでさえ頭痛のタネだらけであろう状況に、さらなるトラブルを増やしてしまったことをラドウィグは後悔する。後悔したところでミスが取り戻せるわけではないのだが、しかし己の不甲斐なさを恥じずにはいられなかった。緊張、困惑、苛立ち、それらに振り回されて普段の調子を見失っている。今日は集中力と冷静さがまるで無いと、改めて実感していた。
そうしてラドウィグが目を伏せて肩を落とし、再び気を緩めていたとき。ノエミ・セディージョの鋭い眼光がラドウィグを捉える。続けて、彼女は部屋の隅にいるセィダルヤードを指差しながらラドウィグを問い詰めるのだった。
「ところで、あそこの人はどなたかしら? こうして巻き込まれた以上、教えてもらわないと。それが筋ってもんじゃない?」
ラドウィグからすれば、彼女は初対面の相手。彼女の陽気で怠惰な本性を知らぬラドウィグにとっての彼女の第一印象は最悪そのものだ。キツい眼光をギラつかせて見当違いな相手を糾弾するノエミ・セディージョの姿は、
しかし彼女とてラドウィグと同じ。困惑し苛立っていて、普段の調子を失っている者のひとりだ。亡き友人の遺言に従って出版の手筈を整えた本が原因となってASIに睨まれ、犯罪の嫌疑でも掛けられたのかと思うほどのヒドい尋問を受けさせられたのだから。そして尋問から解放されたあとに見たのが、これである。バラバラに切り刻まれて殺害されたものだと思われていた被害者が綺麗な姿でそこにいる現実と、少なからぬ因縁のある相手によく似た顔をしている見知らぬ他人がいるのだから、戸惑わずにはいられない。
そうしてノエミ・セディージョがラドウィグに八つ当たりまがいの言動をしていると、彼女の同伴者が制止を求める。それは、独身であることを必要以上に嘆く友人につい同情して、書面上だけという条件付きで結婚してやったばかりに、本来なら無関係と思われる騒動に巻き込まれる羽目になった元検視官バーニー・ヴィンソンである。
元検視官バーニーはラドウィグとノエミ・セディージョの間に割って入り、ノエミ・セディージョの肩をポンポンと軽く叩く。それから彼は彼女に、冷静になるよう促すのだった。
「セディージョ、彼を責めないであげて。さっきの人も言っていたでしょう。アレックス、彼女が来ない限り何も分からないと。尋問するなら、彼女よ。彼じゃないわ」
その言葉を聞くと、ノエミ・セディージョはラドウィグに向けていた矛を下ろす。目を伏せて額に手を当てる彼女は「ごめんなさい」と小声で謝罪すると、続けて小声でこのように小言を洩らすのだった。
「黒服の連中はロクでもないものばっかりを引き寄せてくれるんだから……」
――そんなこんなでラドウィグが狼狽えていた時。別の場所、新アルフレッド工学研究所では暗い顔をしたイザベル・クランツ高位技師官僚が彼女のデスクで頭を抱えていた。そんな彼女のオフィスを、ある所員が訪ねてくる。
「なあ、ベル。報道を――」
それはもう一人いるペルモンド・バルロッツィの秘蔵っ子であり、イザベル・クランツ高位技師官僚とは約二〇年来の付き合いになる男、レオンハルト・エルスターである。彼は何かを言いかけながらノックもせずにオフィスに立ち入るが、すぐに口を閉ざす。イザベル、彼女が声を押し殺して泣いていたことに気付いたからだ。
世間話でもするような軽いノリでこの場にやってきたレオンハルト・エルスターだったが、彼は異変に気付くなり軽いノリをすぐに消す。デスクに両肘をつき、俯きながらも顔を両手で覆い隠しているイザベル・クランツ高位技師官僚に慌てて駆け寄る彼は、彼女に声を掛けた。
「おいおい、どうした。何かあったのか?」
彼女が泣いている姿など、目撃するのは初めてのこと。彼女とは孤児院からの長い付き合いになるが、しかしレオンハルト・エルスターは一度もそのような姿を見たことがなかったのだ。少なくとも昨日までは。
子供の頃からイザベル・クランツの精神性は鋼のように強靭だった。上級生からイジメを受けても、そしてイジメを目撃しても毅然と「間違っている」と立ち向かう彼女は、裏でメソメソと泣くこともしなかったし。成人し、職に就いてもその強さは変わらなかった。理不尽な助教から執拗にイビられてもめげず、前理事長からつらく当たられても屈せず、言動が常軌を逸している恩師にどれだけ振り回されてもへこたれず、アバロセレンの核という存在の真相を知ってもなお気を持ち直し、高位技師官僚などという重荷を負わされても泣き言を洩らさなかった、あのイザベル・クランツが。しかし今、なぜか泣いているのだ。
ひとまず彼女のデスクの近くにある椅子に浅く座るレオンハルト・エルスターは、声を掛けたあとは黙り、彼女の様子を見ることにする。そうして時間がほんの少し流れた頃、イザベル・クランツが深呼吸をし、僅かに顔を上げた。それから彼女はデスクの隅に追いやられていた一冊の本を手元に寄せると、次に彼女の目の前にあったラップトップコンピュータを開く。彼女はコンピュータを操作し、ある画面を出すと、その画面がレオンハルト・エルスターの目に見えるよう彼のほうに向けた。それから彼女は僅かに震えた声で言う。「昨日、学部長からこの本を貰ったの。出版社から献本されたうちの一冊なんだって」
「へぇ。また、なぜ精神科の治療技法の本を……?」
「私に、そしてあなたにも関係のある人の本だから。それでさっきこの本を読み始めたんだけど、それと同じタイミングで、記者から変なメールが届いて。それでメールに添付されてたファイルを開いたら、この動画がっ……!」
「動画だって? 物騒なものでも送りつけられたのか?」
「そういうのじゃないの。でも、そうかも。ゴシップ誌のネット記事に明日出るっていう動画……」
「ゴシップ誌? いつお前が撮られるような――」
「私じゃない。私じゃないから、ムカつくの!!」
イザベル・クランツ高位技師官僚は悲鳴じみた声で叫ぶようにそう言った。その姿に、レオンハルト・エルスターは余計に戸惑う。彼女自身のことでないのに、なぜ涙を流してまで憤るのかと。
そうして眉を顰めるレオンハルト・エルスターが、しかしラップトップコンピュータのモニターに写された映像に目を向けたとき。彼の意見は変わり、すぐにイザベル・クランツ高位技師官僚が取り乱したわけが理解できた。そして彼もまた表情を暗くする。
再び見る映像に、またイザベル・クランツ高位技師官僚がポロポロと涙を流し出し、二人がすっかり沈鬱の波に呑まれて気落ちしていたとき。このオフィスに、また来客が現れる。それはイザベル・クランツ高位技師官僚に用があってきたものの、それよりも彼女の泣いている姿に気を取られ、怪訝そうな表情になっていた義肢装具士アーヴィング・ネイピアだった。
「何かトラブルでもあったのか?」
黒玉のように暗い瞳を細める義肢装具士アーヴィング・ネイピアは、怪しむようにレオンハルト・エルスターを見ている。彼はレオンハルト・エルスターが彼女を泣かせる何かをしたのではと疑っているようだ。そこでレオンハルト・エルスターは疑いを晴らすべく、同じ動画を観るようにと義肢装具士アーヴィング・ネイピアに促した。「アーヴィング。お前も見ろよ、これ。ひっでぇぞ」
「何を観ろって?」
「若い頃の先代の動画だ」
義肢装具士アーヴィング・ネイピアも、モニターを覗き込む。そして彼はそこに映る動画を観るなり、生唾をひとつ呑んだ。見覚えのある目鼻立ちをした人物――先代こと、前所長ペルモンド・バルロッツィにそれとなく似た顔をした若者――が映っていたからだ。
映像の舞台は、とある建物のホールらしき広い空間。ハイセンスを気取ったモノトーンのアールデコ調なあしらいは、鼻持ちならない成金が好みそうな気取った雰囲気を演出していた。そして空間に居合わせる者たちは、どいつもこいつも小洒落た格好をしていやがる。それにホールの中央部に並ぶ立食式オードブルの、なんと無駄に豪華なことか! ――映像の中にある平和で気取った空間に、そうでない環境で生まれ育ったイザベル・クランツ高位技師官僚は『ムカつく!』という感想を抱いていた。映像を見返せば見返すほど、映像の中にいる人々、優雅に立食しながら語らう連中に対する憎しみがこみあげてくるのだ。
何よりも彼女がムカつくのは、この映像の本題。ホールの隅で顔を終始うつむかせている若者、つまり身体年齢十七歳当時のペルモンド・バルロッツィの身に起きた出来事だ。精神的にも身体的にもまだ若く、そのときはまだ無名で後ろ盾も無いうえに、臆病で気弱だった当時の彼にひどい仕打ちをした大人たちが憎くて堪らないうえに、この映像をイザベル・クランツ高位技師官僚に送りつけてきた記者の陰湿でサディスティックな思惑がゲスすぎて、とにかくムカつくのである。それに、ゲスな記者のゲスな思惑に見事ハマってひどく動揺している自分自身にも、彼女は腹が立っていた。
この動画を送りつけてきた記者が送りつけてきたメッセージの文面を信じるならば。この映像は四二一八年頃にマンハッタンのとあるホテルで撮影されたものらしい。舞台は宝石商が開催したレセプションパーティーで、この映像はコッソリとパーティーに侵入したフリーランスの記者が秘密裏に撮影したものだそうだ。
記者の取材目的はパーティーの主催者にまつわる黒い噂の一端を掴むことだったようなのだが、しかし記者は別のものを見つけてしまった。それが怪しい招待客たちである。
タカ派として知られる老齢の政治家と軍需企業の幹部役員の男が談笑する傍で、幹部役員の様子を窺いながら怯えた様子でうつむく若者。この異様な組み合わせに記者の嗅覚が反応し、カメラが回されたというわけらしい。そして、その後に記者がカメラで捉えたのは、若者が何かしらのドラッグを盛られて昏倒し、バウンサーによって“どこか”へと連れ去られていく様子の一部始終だった。それは不審なウェイターが画角に入り込んだところから始まる。
政治家の男のもとに、ウェイターが意味ありげに一杯だけ運んできたカクテル。政治家の男はそれを確認すると、若者に受け取るよう促した。しかし若者は何かしらの理由をつけて最初は断ったらしい。そうして若者がカクテルを受け取らずにいると、幹部役員の男が若者に何らかの脅しをかけたようだ。すると若者の顔色が蒼褪め、怯えをより強化させた彼は慌てた様子でワイングラスを手に持ってしまった。そのまま、若者は勢いに任せてそれを飲み干す。単に酔うだけでは済まないアルコールを……。
そうして自ら薬物を摂取してしまった彼だが。盛られた薬物の効果が出るよりも、自らの選択を悔いて泣き崩れ、助けてと叫び出すほうが先だった。その言動は感情が爆発した結果とも言えるが、周囲の注目を集めるための戦略でもあったのだろう。最悪の事態から身を守るために、周囲の誰かが庇ってくれることを願って賭けたのかもしれない。
大袈裟に泣きながら床に両膝をつく若者は、崩れ落ちたと同時に手からグラスを滑らせる。床に落ちたグラスは割れて砕け散り、本能的に注目する他ない異質で不快な音を立てた。そのとき、出席者たちの視線は間違いなく泣き崩れる若者に集まっていたし、その戦略は成功していたはず。だが不思議なことに、異様な様子で取り乱し、助けてと声を上げている若者に駆け寄って助けようとする者は現れなかった。会場となったホテルで働いているはずの従業員さえ、面倒ごとを疎むように動かなかったのだ。撮影者である記者も、我が身可愛さで動きはしなかった。
そのうち若者の動きが鈍くなり、呂律も回らなくなる。そうして泣いて騒ぐ声さえ上げられなくなったタイミングで、屈強な体格のバウンサーらしき男二人組が床に倒れ込んだ若者を回収しに来た。さながら仕留めた鹿を運ぶ猟師のように、会場に居た誰からも見捨てられた若者はホールから運び出されていく。――そして運ばれていく若者は、映像を撮影しているカメラを、記者の衣服に仕込まれている隠しカメラのレンズを、死んだ目で見つめていた。それから若者は撮影者の傍を通り過ぎる際、呂律の回らない口調で誰に向けるでもなく言う。
『お前、見てたはず、どうして――』
つまり。強く脅せばどうとでも転がせる臆病で気弱な若者を、幹部役員の男――元老院の一柱、通称エズラ・ホフマンである――は政治家に渡す贈り物としたわけだ。若者は交渉に差し当たって必要となった道具でしかなく、人間として扱われてもいなかった。パーティーに出席していた他の招待客たちも、薄々それを勘付いていたからこそ助けようとしなかったわけである。
「……ぅっ……!」
抵抗むなしくバウンサーに担ぎ上げられ、どこかへと連行されていく若者の姿を再度見て、またイザベル・クランツ高位技師官僚の涙腺がガタガタと緩み始めていたのだが。グラグラと揺れる彼女の心に凍てつく氷柱を落とし、地面にブスリと刺して動かなくする冷めた声が降りかかる。その声の主は、いつでも冷静で無感情な仕事人間、義肢装具士アーヴィング・ネイピアだった。「まあ、同情はする。だが結果を分かったうえで自ら飲んだのなら自業自得だ。どこに泣く要素がある?」
「本当に人の心がないのね、あなた!」
動画の中で支離滅裂ともいえる行動をしていた若者が、それまでに何を経験してきて、どのような状態にあったのか。その一端を学部長から渡された本を介して知ったイザベル・クランツ高位技師官僚は、驚くほど共感力がない男に憤るが。目に涙を湛える同僚から罵倒された男は、しかし反省はしていない様子。イザベル・クランツ高位技師官僚の怒りを軽く受け流す義肢装具士アーヴィング・ネイピアは強引に話を打ち切ると、自分が知りたいことを単刀直入にぶち込むのだった。
「ああ、そうだ、よく言われる。それで話は変わるが、イザベル。お前は何か聞いてるか? ローグの手が消えたという報道をさっき見たんだが、それについてASIから――」
「ローグの手が消えた?」
思いやりもへったくれもない冷たい言葉と共に打ち切られた話にイザベル・クランツ高位技師官僚が噛みつこうとした矢先、しかし間髪入れる隙すら与えられぬままスッとすり替わった話題。そして新たに降って湧いた話題に、イザベル・クランツ高位技師官僚は目を点にした。
そんなイザベル・クランツ高位技師官僚の横では、いつの間にか彼女から本を奪い取っていたレオンハルト・エルスターは険しい顔で本を流し読みしていた。そして彼は本を読みながら、冷血な義肢装具士アーヴィング・ネイピアと全く同じことをイザベル・クランツ高位技師官僚に訊いてきた。
「ああ、そうだ。俺もそれを聞きに来たんだ。だが今の反応で分かった。初耳って顔をしてやがるな、ベルさんよ」
レオンハルト・エルスターは言葉の最後でチラリと彼女の顔を見やる。するとイザベル・クランツ高位技師官僚は顔を逸らし、静かに立ち上がるという反応を見せた。それから彼女は小声でこう呟くと、トボトボとしたゆっくりな歩みでオフィスから出て行く。
「今は何も考えたくない。だから寝る。私は寝るわ。二時間だけ。そう、二時間だけ……」
ローグの手、ないしアルテミスと呼ばれている世界最初にして最大のSOD。それが消失したという件について、イザベル・クランツ高位技師官僚は何も知らされていなかった。そして彼女は情報を突き付けられた途端に頭がパンクして、その結果、仮眠を求めてオフィスを出て行ってしまった。――そんなわけで彼女にSODのことを訊ねに来た男二人がオフィスに取り残されることになる。
我が物顔でふんぞり返るようにフカフカの椅子に座り、本を読んでいるレオンハルト・エルスター。そして廊下に出て行ったイザベル・クランツ高位技師官僚の背中を見送ったあと、この部屋を出るべく足を動かそうとした義肢装具士アーヴィング・ネイピア。この二人の視線が、特に意味もなく合わさったとき。偶然、そのタイミングで「ジンジンジンッ!」というけたたましい音が鳴る。
音の発生源は、イザベル・クランツ高位技師官僚のデスクに備え付けられた固定電話だった。しかしイザベル・クランツ高位技師官僚はここに居ない。というわけで仕方なくレオンハルト・エルスターが立ち上がり、その受話器を取った。――そして彼が耳にしたのは、彼にとって聞き覚えのある声だった。
『あっ、クランツ高位技師官僚! もう報道を見ているかと思いますが、一応お知らせしておきたいことがあって。ローグの手が消えたっぽいんスよ。詳しいことは現在、解析班が調査中なんですがー……――って、あれ? 高位技師官僚? もしもーし、高位技師官僚ー、聞いてますかー』
チャラついた軽い喋りと、間抜けに間延びした声。これは金髪の猛獣に拉致されて以降それきり消息不明になり、今や死亡扱いになっていたはずの後輩の声である。
質量を持たない炎を扱う覚醒者でもあるその後輩は以前、この研究所ではこのように呼ばれていた。気まぐれで掴みどころのない性格と、思いのほか武芸に長けていることから『猫』と。
「おい、お前。まさか猫か?」
電話口にレオンハルト・エルスターがそう言ってみれば、通話相手は露骨な動揺を見せ、言葉に詰まるような声だけが聞こえてくる。
そしてレオンハルト・エルスターが発した『猫』という言葉から事態を察した義肢装具士アーヴィング・ネイピアは踵を返すと、レオンハルト・エルスターの傍に戻ってくる。それから義肢装具士アーヴィング・ネイピアは小声でこう言った。
「猫なら生きてるぞ。今はASIの所属で、ラドウィグと名乗っているらしい。そして現在あいつは、クランツ専属のボディーガードということになっているそうだ。なんならヤツは先週、コルトと共にここを訪ねていたが。クランツから聞いていなかったのか?」
レオンハルト・エルスターは、平然とそう語る義肢装具士アーヴィング・ネイピアを驚きに満ちた目で見やる。なぜ彼がそんなことを知っているのか、それがすぐには理解できなかったからだ。
そうしてレオンハルト・エルスターの理解が追い付くよりも前に、通話相手のほうが先に気を持ち直す。スピーカーから聞こえてくる頼りなさげな声は、レオンハルト・エルスターにこう伝えていた。
『あ、あの~。高位技師官僚に替わっていただけますか~?』
「イザベルを呼んでやってもいいが、それはまずお前の話をしてからだ。なぜ今お前はASIに――」
猫と呼ばれていた後輩、彼が生きていて何らかの任務に就いているらしいという噂は聞いていたレオンハルト・エルスターだったが、けれども『ASIに所属している』ことや『イザベル・クランツ専属のボディーガード』になっていることなどは初耳だった。
込み上げてくる戸惑いに任せて、レオンハルト・エルスターは電話口に早口で捲し立てる。だが彼の許に返ってきた声は失踪扱いになっていた後輩の声ではなく、後輩が失踪することとなった直接的な原因である金髪の猛獣アレクサンダー・コルトの怒鳴り声だった。
『急用なんだ。いいから、早くイザベル・クランツを出せ! さっさとしろ!!』
受話器に耳を当てるレオンハルト・エルスターにも、そして少し離れたところに立って彼の様子を見ていた義肢装具士アーヴィング・ネイピアにも届いた、その大きすぎる怒鳴り声。レオンハルト・エルスターは思わず受話器を顔から離し、デスクの上に置く。それから彼は頭を左右にブンブンと振って、鼓膜に受けたダメージを誤魔化したあと、オフィスの出入り口に向かった。そして彼は廊下に半歩だけ出ると、まだトボトボと廊下を歩いているところだったイザベル・クランツ高位技師官僚の背中に大声で語り掛ける。
「イザベル、戻ってこーい。ASIが、お前に用があるとよー」
声を聞いたイザベル・クランツ高位技師官僚は身を翻し、来た道を駆けて戻る。その様子を確認するとレオンハルト・エルスターは再びオフィスの中に戻り、それから訳知り顔な義肢装具士アーヴィング・ネイピアを見やった。
お前は他に何を知っているのか。そのようにレオンハルト・エルスターが彼を問い詰めようとしたとき。しかし問い質すという行動をしたのは、義肢装具士アーヴィング・ネイピアのほうが先だった。
「そういえば、お前はコルトと知り合いらしいが。どういう関係なんだ?」
先ほどの怒鳴り声を聞いて、義肢装具士アーヴィング・ネイピアはアレクサンダー・コルトという女の顔を思い出したのだろう。それと、レオンハルト・エルスターが彼女を知っていることも。
そういうわけで義肢装具士アーヴィング・ネイピアはレオンハルト・エルスターに何気なくそう訊くのだが、レオンハルト・エルスターの回答は濁すような曖昧なものだった。「彼女とは、その、ガキの頃に会ってるんだ。二度ほど」
「二度も、ASI局員と? どんなガキだったんだ、お前は」
「俺が何かをしたわけじゃない、妙な事案に巻き込まれたことがあっただけさ。二回もな」
男二人がそのような会話をしている間に、このオフィスの主であるイザベル・クランツ高位技師官僚が戻ってくる。彼女はデスクの上に置かれた受話器を大慌てで取ると、すぐに応答した。そして十数秒後に通話は終わり、彼女は受話器を固定電話機へと戻す。それから彼女は顔を上げると、お互いを不信がるように見ている男二人組にこう言った。
「えーと……まあ、どっちでもいいわ。とにかく、誰かジェンキンスにこう伝えておいて。連邦捜査局から捜査官が来るから、その出迎えをしてほしいと。そして私は寝る、今度こそ寝るわ」
イザベル・クランツ高位技師官僚から雑用係ジェンキンスへの伝言を言付かった男二人組は、どちらも同じタイミングで首を縦に振り、頷いてみせた。その後すぐに義肢装具士アーヴィング・ネイピアはオフィスを去る――彼は忘れないうちに伝言の用事を済ませようと、雑用係の許に向かっていたのだ。
一方、その場に留まることを選んだレオンハルト・エルスターは、先ほどまで義肢装具士アーヴィング・ネイピアに向けていた訝しむ目をイザベル・クランツ高位技師官僚にも向けていた。そして彼は何かを勘繰ろうとするように、イザベル・クランツ高位技師官僚に言う。「へぇ。猫ちゃんじゃなく、連邦捜査局からか。誰が来るんだかな」
「エドガルド・ベッツィーニっていう捜査官だって聞いたわ。たしか彼は、ジェンキンスの同窓生よね?」
しかし。眠気と疲労に襲われ、注意力散漫になっていたイザベル・クランツ高位技師官僚は、レオンハルト・エルスターの遠回しな言葉の意図を汲めなかった。代わりに彼女が注目するのは、このオフィスに来たときからずっと彼が脇腹に抱えているフォルダーである。
「ところで、あなたが持っているそれは何? 私に提出する予定だったのなら、今ここで受け取っておくけど」
イザベル・クランツ高位技師官僚はそう言うが、しかしレオンハルト・エルスターは提出を拒むように半歩下がる。それから彼は何か隠し事でもあるかのような苦し紛れの笑顔を取り繕ってみせた。
「いや、こいつは……――何でもないさ、気にするな」
どんなに鈍い人間でも気付きそうなほど、あからさまに怪しいレオンハルト・エルスターの様子。無論、注意力散漫になっていたイザベル・クランツ高位技師官僚も気が付いていた。
彼女は怪しげな部下、そして盟友である男を呼び止めようとするが、彼はそれを察してか足早に立ち去っていく。不吉な気配だけが残る空間に、イザベル・クランツ高位技師官僚だけが残されていた。
サクラメントでは孫のアーちゃんが頭を掻きむしりながら画廊中を走り回り、キャンベラではテオ・ジョンソン部長が彼自身のデスクに八つ当たりをしていた頃。最初にして最大のSOD“ローグの手”ないし“アルテミス”が消滅したとの一報を耳にし、急遽ボストンに跳んだ白髪の死神アルバと助手アストレアの二人組は、彼らの目の前にある世界に驚愕していた。
あらゆる建造物も、道路の舗装も、何もない。丸裸にされた乾いた土がむき出しになっていて、まばらに雑草が生えているだけの景色が一面に広がっている。川の水さえも干上がっているうえに、それどころか侵食によって形成されていた地形さえも無くなり、平面だけがある世界――。
「噂通りだね。ボストンってとこ、まるで何もない更地だよ」
無味乾燥なんてもんじゃない。空と地が分かたれているのみで、他には何も、本当に何もない世界。それを呆然と見渡すアストレアは、同伴者に向けてそう言う。――が、その直後に彼女はあるものを見つけた。
「いや、前言撤回。棄てられた死体だけがあるね」
彼女が見つけたのは、ひっくり返った姿で捨てられた巨漢の死体。まだ腐敗が進行していないその死体には、しかし肉食獣にでも食い荒らされたかのような形跡が残っていた。食いちぎられた皮膚からは黄色い脂肪の層が地面へと洩れ出ている。
いささかふくよかすぎる人間の脂肪はあまりにもクサすぎて、スカヴェンジャーたちの口に合わなかったのだろうか。アストレアはそう考えながら辺りを見渡すのだが、と同時に彼女は気付いた。死体には食い荒らされた形跡があるのに、しかし食い荒らしたであろう獣たちの姿が見えないことに。
そして彼女がそのことに気付いたと同時に、彼女の傍に立つアルバが溜息を吐く。それから彼はこう呟いた。
「SODも消えたが、SODから落ちてきた怪物どもも消えているな。これは一体……」
アストレアが何もない世界に驚いていた一方で、アルバはこの更地の上空にたしかにあったはずのものが消えていることの驚いていた。報道で目にしたことは事実で、ボストン上空にあったはずの世界最初のSODが消えていたのだ。
渦潮が立てる螺旋状の白波のような軌跡を描きながら、けれども呑み込まれるのではなく外界へと放出されていく蒼白い光。その背景に空いていた、平面状の黒い大穴。ボストンの地表にあるすべてを呑み込みつくした後は方針を変え、異形の生物を飽きることなく吐き出し続けていたその穴が今、吐き出したはずの異形たちと共に消えていた。
あらゆる営みを喰らい付くし、そしてアルバと名を改めた男の全てを歪めてきた憎き事象。それが、あたかも初めから存在していなかったかのように綺麗さっぱり消失していたのだ。あまりにも無残な傷痕だけを残して……――。
「……」
何もない大地で呆然と佇む二人の横を、乾いた風だけが通り抜けていく。完璧に言葉を失くした様子で黙りこくるアルバの顔を、その傍らに立つアストレアは見上げつつ背筋を正す。なんとなくだが、アストレアは嫌な気配を察知したのだ。何かとんでもないものが起こりそうな予感、そんなものである。
そして彼女の予感は、少し当たった。アストレアが背筋を正したあと、思いのほか冷たい風にブルリと肩を震わせたときだ。彼女の視界の隅を黒い何かが過る。その黒い何かが大柄の鳥のような姿かたちをしていること、すなわちワタリガラスであることにアストレアが気付いたとき、そのワタリガラスはアルバの傾斜がキツい撫で肩の上に留まった。それからワタリガラスは汚い声で鳴いたあと、嗄れた声で人語を喋り始めた。
『ケケーッ!
ワタリガラスの汚い声を耳にした途端、アルバは我に返る。肩に降り立ったワタリガラスの首を彼は握り潰すかのように引っ掴むと、テーブルにパン生地を叩きつけるような動作でワタリガラスを地面に放り投げようとした。
――が、ワタリガラスは首を掴まれた直後にその姿を大気に散らし、淡い蒼の光を大気に霧散させてその輪郭を消す。次の瞬間、ワタリガラスはアルバの顔前に現れた。
忙しなく翼をバタバタと動かすワタリガラスは、ついでに右翼側の風切羽の先でアルバの顔面をバシバシと叩き、それから高く飛び上がると今度はアルバの頭の上に降り立つ。そして上からアルバの顔を覗き込むワタリガラスは、わざとらしく首を素早く左右にカクカクと動かしながらアルバに喚き散らした。『お前ェサン、それが
「貴様はただの疫病神だ、それに主従関係など結んだ覚えはない」
ギャーギャーとやかましく喚き散らすワタリガラスの言葉を、アルバはそのようにバッサリと切り捨てる。そして彼は頭上に居るワタリガラスを手で追い払い、それから乱された髪を手櫛で軽く直すのだった。
そんなこんなで露骨に機嫌が悪そうなアルバのその言動は、久しぶりにアストレアの掌を湿らせる。というのも彼女はたった今、サー・アーサーと呼ばれていた頃の彼の面影を見てしまったのだ。
とはいえ。幸いにもこの時、アルバの怒りの矛先はアストレアに向いておらず、あくまでも人語を扱うワタリガラスにのみ向けられていた。そして彼女は、そのワタリガラスが発したある言葉を聞いて、少し前にマダム・モーガンから聞いた話を思い出す。
マダム・モーガン曰く。アバロセレンというものは、とある神の骨髄のようなものらしい。その神は、全てを捻じ曲げる力を持っているそうだ。その力によって、あらゆる不可能を可能に書き換えることができるらしい。そしてアバロセレンとは、その神の骨髄を『可視化』させた際に誕生したものなのだ、と……。
それから、あのとき。マダム・モーガンは付け加えるように、こうも言っていた。
――力を根こそぎ奪い取られて、無力なただのカラスになった神は、怒り狂うどころか大いに喜んだ。これで自分が望んだ世界が作れる、って。そしてカラスが望んだ世界を創るために、使者として選ばれたのが、今のアーサーなのよ。死んだ体の中にアバロセレンの核を埋め込まれて、否応なしに甦らされて……。
そして今、アストレアの前に居るのは人語を扱う奇妙なカラス。そのカラスは今、かつてサー・アーサーと呼ばれていた男にウザ絡みを仕掛けている。そこでアストレアは気付いたのだ。マダム・モーガンが言っていた神とは、つまり今ここに居るワタリガラスのことなのではないか、と。
「もしかして、このカラスが……マダムの言ってた、アバロセレンをつくった神様?」
アルバの頭上から地面へと降り立ったワタリガラスを見下ろしつつ、アストレアはそのような疑問を誰ともなく呟く。すると、それを聞いたワタリガラスは地表でピョンピョンと小さく飛び跳ね始めた。
ワタリガラスは飛び跳ねながら、アストレアの顔を見て、次にアルバの顔を見るという動作を数度交互に繰り返す。最後にワタリガラスはアルバにロックオンすると、彼に捲し立てるのだった。
『なんでェィ、なんでェィ。俺ちんのことを、この小娘に伝えとらんかったんかェ?!』
やかましく騒ぎ、ピョンピョンピョンピョンと飽きもせずに跳ね続けるワタリガラスに、導火線の短いアルバはすぐに苛立ちを露わにする。彼はうるさいワタリガラスを蹴って追いやろうとした。けれどもワタリガラスの動きは機敏である。ワタリガラスは華麗にヒョイと跳び上がって、アルバの繰り出した蹴りを避けた。
そうしてひとまず苛立ちに一区切りをつけたアルバは、最後に呼吸を整えると、態度をガラリと切り替える。戸惑いも苛立ちもかなぐり捨て、彼は心境をリセットした。その後、サー・アーサーと呼ばれていた頃のような仏頂面に変わるアルバはやかましいワタリガラスを見下ろすと、そのカラスに向かってこう言った。「それで、キミア。用件はなんだ?」
『おぅおぅ。実はヨ、この消えちまったSODについてだィ。お前ェサンとモーガンの耳に入れておきたい情報があるんでェィ』
真面目な話題に転換された途端、やかましく飛び跳ね続けていたワタリガラス――アバロセレンの生みの親、予定調和を否定する者である昏神キミア――の動きが静かになる。大人しく地表に佇み、飛び跳ねることをやめたワタリガラスは、再度アルバのほうに向き直った。それからワタリガラスは一際大きく声を張り上げると、嗄れた汚い声でガーガーと喋り始める。
『忽然と消えたSOD! しかーッし、安心しておくんなまし。お前ェサンもモーガンも、そして人の子らも、これに関与してねぇのヨ。ケケッ! つまりお前ェサンらでない別の勢力が動いたのサ』
「まさか、元老どもか?」
『いンや。そうじゃァねぇから面白いのサね』
話題に食いついたアルバに、ワタリガラスはそう返すと、続けてワタリガラスは片足を高く振り上げ、その爪で地面をガリッと抉る。その際に鳴った音は、さながら張り扇で釈台を叩く講談師のようだった。そしてワタリガラスは言葉を続ける。
『遂にアバロセレンそのものが意思を獲得し、生物となったのサ。俺ちんの手からも離れ、制御不能になったのヨ! 猟犬が肥料を撒き、モーガンちんとお前ェサンが懇切丁寧に世話して育て上げたァ、最上級の怪物だィ。ありゃァヨ、怨念がたぁ~っぷりと詰まったドス黒い邪悪の果実さね。お前ェサンの狂気さえも凌駕する邪悪っぷりにゃァヨ、俺ちんもおったまげたゼ! ケケーッ!!』
アバロセレンが意思を獲得し、遂に生物のようなものになった。――その話を聞くなり、アストレアはアルバの顔を見上げる。しかしアルバは呆然と地表に立つカラスを見下ろすのみ。嫌味のひとつも言わず、怪訝な表情さえも見せない彼の様子に、アストレアは久しぶりに『肝が冷える』という現象を味わっていた。世界最初のSODが消失しただけではない、それ以上のとんでもない事態が裏側で動いていて、それはもはや誰の手にもどうすることもない域に差し掛かっているのだということを、彼女も直感で理解したのだ。
だが。アバロセレンが意思を獲得したと言われたところで、アストレアにはピンとくるものがない。最上級の怪物、邪悪な果実と言われても、どの程度の邪悪さなのかなど見当もつかなかった。それにワタリガラスはたった今、アバロセレンの意思について『アルバの狂気さえもゆうに凌駕する』と言っていたが、それは分かるようでイマイチ分からない比較なのだ。
アバロセレンの意思とは一体、どのような程度の邪悪なのか。アストレアがそんなことを考え始めたとき、彼女らの足許では再びワタリガラスがピョンピョンと二回飛び跳ねる。それからワタリガラスはこんなことを言った。
『おぅっと、ウワサをすりゃなんとやらだァ。モーガンちんのお出ましだィ』
その言葉の直後、ワタリガラスの言葉通りの人物が何もない更地に出現する。アルバのすぐ背後にゆらりと黒煙がどこからともなく立ち昇り、やがてそれが人のかたちを成して、濃色のサングラスで目元を隠したマダム・モーガンがその姿を見せたのだ。
「アルバ!! あの取り決めを忘れたとは言わせないわ。一体、何のつもりであんなことを……」
出現したマダム・モーガンは、彼女の目の前に立つアルバの背中に金切り声での攻撃を浴びせながら、彼の肩を乱暴に鷲掴んで彼女のほうに彼の体を向かせた。
最初こそ怒りに満ちていたマダム・モーガンであったが、しかし呆然自失といった様子のアルバを見るなり彼女は冷水でも浴びたように静かになる――アルバの感じていた動揺が、彼女にもダイレクトに伝染したのだ。
そして追い打ちを掛けるように、ワタリガラスはアルバを激しく動揺させた情報をマダム・モーガンにも与えるのだった。
『聞けィ、モーガン。SODを消したのはアバロセレンの意思なのヨ。アバロセレンが自ら、SODを消すことを望んだのサ。そしてアバロセレンが自ら望み、お前ェさんらが『曙の女王』とかと呼んじょるあのホムンクルスちゃんを氷の中から解き放ったンさね。アバロセレンは自由意志を獲得した。それは今、ホムンクルスちゃんっつー身体を乗っ取って行動してるっつーわけだ。アルバっちょんは無関係なのヨ』
アルバはその情報を受け取った際に動揺し、言葉を失くすといった反応を見せていた一方。マダム・モーガンは怒り、否定するというアクションを見せる。サングラスの下に隠れた目を険しく細める彼女は、意気揚々と語るワタリガラスに食って掛かるのだった。「キミア。どうせ、あんたが仕組んだことなんでしょう? なぜならアバロセレンは――」
『アバロセレンは遂に俺ちんの手を離れたのヨ。アバロセレンはかつて俺ちんの一部だったが、それは完全に俺ちんとは異なる別の存在になったのサ。そして俺ちんの役目は終わった。俺ちんは気楽な傍観者に戻るだけなのヨ』
「そんな軽率な真似、私が許さない。アバロセレンを生み出したものとして、その責任を」
『お前ェサンらとて、出しちまったクソに体内に戻れなんぞと命じることはできまいヨ。消えろと念じ、それを叶えることも無理な話だィ。つまりそういうことサ。ケケッ!』
再び熱くなったマダム・モーガンが苛烈に責め立てる一方で、一連の事態その全ての元凶であるワタリガラスの態度は飄々としたものだった。他人事とでも言いたげなワタリガラスの言葉は、マダム・モーガンの怒りを余計に駆り立てる。だが、その彼女の怒りに水を差し、結果として鎮火してしまう声が割り込んできた。
「あのSODを消したのがアバロセレンの意思なら、あのSODを生み出したのは何者だ? アバロセレンか、それとも私か?」
声の主は、すっかり意気消沈した様子のアルバだった。マダム・モーガンの怒りを軽やかにピョンピョンと躱してみせるワタリガラスを虚ろな顔で見下ろすアルバは、そのワタリガラスに問う。そしてワタリガラスはこのように断言した。
『お前ェサンに決まってるだろうがィ。あんなぶっ飛んだ怪奇現象、思いつくのはお前ェサンぐらいだろゥに。アバロセレンはあくまで、お前ェサンの気味悪い空想妄想を受け取って、それを現実に落とし込んだだけだィ』
「そうか。なら私は、正当な糾弾を受けていただけなのか……」
そう小声で呟くと、アルバは再び天を仰ぎ見て、それから溜息を吐く。アルバはこのとき、全てを知りながらも今まで黙っていたワタリガラスに静かな怒りを覚えたと同時に、久しぶりに己の体を流れる蒼い血を気味悪く感じていた。
また、このときマダム・モーガンは驚きから硬直していた。ワタリガラスが重要すぎる事実を隠していたことにも、その内容にも彼女は大きく動揺していたのだ。
そうして年長者たちが立て続けに混乱の渦へと沈没していく中、冷静さを維持して踏みとどまっていたのがアストレアである。この事態に何かしら手が打てると元より期待していなかった彼女は、明かされた秘密に驚きこそしていたものの心を打ち砕かれるほどではなかった。そこでアストレアは機転を利かせる。彼女はこの空気をガラッと換気する言葉を探し、それを発した。
「アバロセレンが意思を獲得して、好き放題にやり始めたっていうことなら。つまり僕たちがここに来たところで何も出来ることない、ってことだよね。ジジィにも、マダムにも、そこの神様にも何もできない。――じゃあ帰ろうよ、ジジィ。それに、腹減ったし。こんな店もなんも無いところ、さっさと引き上げようよ」
すっとぼけた顔でアストレアがそう言えば、アルバの視線は彼女の顔――から僅かに横へと逸れた場所――に移る。精力も体力も尽きたというようなヒドい顔色になっていたアルバは、切り替えの早いアストレアを見て、こう呟いた。「……お前と居ると調子が狂う」
「そりゃそうだよ、狂わせるのを楽しんでんだもん」
アストレアはニタリと人が悪そうな笑みを浮かべながらそのようなことを言うと、アルバの左腕に彼女の腕を回して、がっちりホールドする。それからアストレアは空いている手でマダム・モーガンに手を振り……――そしてアルバとアストレアの二人は消えていった。
何もない更地に残されたのは、マダム・モーガンとワタリガラスだけとなる。
「……」
動揺、憎悪、苛立ち、気落ち、等々。激しい感情がグチャグチャに入り乱れ、その処理に困り果てていたマダム・モーガンが黙りこくり、眉間に皴を寄せていたとき。彼女の足許で、やかましいワタリガラスが再びピョンピョンと飛び跳ねる。
『それから、モーガン。もうひとつ悪い知らせがあンのヨ』
ワタリガラスの言葉に、マダム・モーガンは生唾を呑む。と同時に、これ以上のトラブルはもう勘弁してくれと心の中で悲鳴を上げていた。だが、ワタリガラスはマダム・モーガンの心情など気にも留めず、消えたSODやアバロセレンの意思とはまた別件のトラブルを明かすのだった。
『カリスのねぐらから、猟犬が逃げたぜ。まァだカリスは気付いてないようだがなァ。ホムンクルスちゃんが連れ出したのサ。どこに現れるか、俺ちんにも分からねぇ。ジェド公なら分かるかもしれねェがァ……――マッ、気を付けンのヨ。ケケッ』
ワタリガラスはそれを言うと、無情にも飛び去っていく。眉間に寄った皴をより濃く刻むマダム・モーガンはガックリと肩を落とした後、ひとつ深呼吸をして気を持ち直す。それから彼女はプリペイド携帯を羽織っていたジャケットの裏ポケットから素早く取り出すと、ASI長官サラ・コリンズの番号を素早く入力して呼び出し、相手が応答するなりすぐさま早口に最新情報を流すのだった。
「コリンズ、聞きなさい。事態が急転した。曙の女王と並行して猟犬を、つまりジョン・ドーを探しなさい。彼も失踪した。恐らく、曙の女王が彼を連れ出したと思われる。この情報はアルストグラン全土に回し、市民にも警戒を呼び掛けて。誰も、あの子に関わらせては駄目よ。コヨーテは当面、大人しくしているはず。だから最優先事項を曙の女王もとい猟犬に設定して。分かった?」
自分の言いたいことだけを一方的に伝えたあと、マダム・モーガンは相手の返答を待たずに一方的に通話を打ち切り、肩を落とす。それから溜息を零し、額に手を当てる彼女だが――……彼女はこのとき、何も気付いていなかった。
「――あぁっ、クソ。次から次へと、何なのよ! あの疫病神さえいなければ……!!」
辺り一帯の地表。何もないと思われていた更地が僅かにカサカサと揺れている。だが、それはまだ体感では感知することもままならない僅かな揺れだった。しかし地中深くでは動きがある。
消えた上空のSODは、次なる不穏をこの地に遺していたのだ。
時代は少し遡り、西暦四二四四年の一月のこと。過去の大半を思い出してから四年が経過していたアーサーは、諦めからくる境遇の受容および怒りから来る境遇の否定、その狭間でグラグラと揺れる日々を過ごしていた。
そんなこんなで当時、彼の日課になっていたのが射撃訓練。特務機関WACEの新拠点内に設けられた射撃場でひとり延々と拳銃を撃ちまくり、そして物を投擲すること、それが起床後の儀式のようになっていた。
射撃場の天井からぶら下がる標的。それには全てペルモンド・バルロッツィの顔を貼ってある。至る所に貼りだされたペルモンド・バルロッツィの顔、これらにできるだけ多く穴を空けることが毎朝のこなすべきミッションだ。
マダム・モーガン、および大男ケイから習ったようにアーサーは拳銃を構え、照準を標的の頭に合わせ、狙いを定めて引き金を引く。発砲音が鳴り、弾は射出されるが、しかしいつも狙いは当たらなかった。距離感が掴めない、故に正しい狙いがつけられていないためだ。いくら連射しようと、狙いを定めたはずの標的にはなぜか当たらない。
そして装填した弾が尽きたタイミングでアーサーは拳銃を下ろし、代わりにテニスボールと同じ大きさの柔らかいゴムボールに武器を持ち替える。ゴムボールを標的に向かって投げたあと、それを念動力とやらで操作し、標的をタコ殴りにしようとするのだが……――これもうまくいかなかった。
標的の遥か手前、または後ろの空間をゴムボールはポヨンポヨンと浮遊するだけ。ペルモンド・バルロッツィの顔をタコ殴りにしたいのに、ゴムボールは標的に掠りもしない。念動力で物を浮かし、自由に動かすコツは掴めてきているのに、しかし脳が距離感を掴めないせいで全く能力が活かされないのだ。
毎朝、こんなことの繰り返し。上達しているようでしていない現状に、アーサーはいつも通りに苛立ちを爆発させるのだった。
「……あぁッ、畜生。なぜ当たらない。なぜ私はこうも……クソッ!!」
猟犬の襲撃により、医務官ジャスパー・ルウェリンと整備工ジャック・チェンがあっけなく散った、あの日。あの日にマダム・モーガンはそれまで使用していた拠点を捨てる決断を下し、次なる拠点を新たに作った。次なる拠点の場所はボタニー湾に面した遺棄された工業港。その一角に『出入口』が設けられ、新たな拠点は地下に建築された。
……いや、建築という言葉は正しくない。正確には『異次元の中に新たに作られた生活空間が、ボタニー湾の一角に接続された』である。それに新たな拠点となった空間は、一般的な建造物のように数か月から数年の時間を経て作られたわけではない。マダム・モーガンが一瞬で、手を叩いた拍子にパンッと生まれたものなのだから。それを建築と譬えるのはおこがましいことなのだろう。
そんなこんなで新たに設けられた拠点は、その時々のニーズに応じて柔軟に拡張されている。土地の制約という概念がないため、思うがままに横へ縦へと空間を広げられるのだ。
広々とした会議室、圧迫感の無いアイランド型キッチンを備えた調理場と食堂、それと隊員たちに各自与えられた狭い居住スペース、狭く窮屈なシャワールームといった基礎的なものは勿論。必要な道具が一式揃ったトレーニングルーム、前の拠点から丸々移転させた薬品庫やワクチン貯蔵庫に武器庫、アイリーンの求めるもの全てが完璧に揃ったコンピュータルーム、十二脚のデスクが配備されたオフィスに似た空間など。射撃場の他にも、バラエティー豊かな部屋が新たな拠点にも揃っていた。
だが広く新しい拠点を闊歩するのは主に三人だけ。すっかり無口になった大男ケイ、チビでビビリなアイリーン、それと痩せで神経質なアーサーのみ。マダム・モーガンは数日に一度ぐらいしか拠点へと戻ってこないため、新拠点はほとんどの時間を静寂に包まれていた。――朝六時からの三十分、アーサーの日課が行われる時間帯を除いて。
「ねぇ、アーサー!! アーサー!!」
そのような怒号を発したのは、コンコンコンと扉を三回ほどノックしたにも関わらず、一向にアーサーが自分に注意を向けてくれないことに痺れを切らしたアイリーン・フィールドだった。
大きな声量の金切り声には、流石のアーサーも注意を向けざるを得ない。アーサーは溜息と共に意識を背後に立つアイリーンに向ける。――と、その瞬間。それまで宙を浮遊していたゴムボールは床にポトンッと落ち、少しだけポンポンと弾んだあと、コロコロと床を転がり、壁にぶつかって止まった。
アイリーンは転がった後に静止した黄色のゴムボールを目で見ながら、不機嫌そうに細い腕を組み合わせる。そうして華奢で細身な体のシルエットをより一層細くするアイリーンは次にアーサーを睨み付けると、怒りに満ちた声色でこのように釘を刺してきた。「お願いだから、それ、やるなら昼間にして。発砲する音で毎朝起きたくないの」
「分かった。明日からは昼にする」
そう返事をするアーサーだが、その声はドライさを極めていた。アイリーンの指摘を話半分で受け流しているような気配しか漂っていない。そんなアーサーの態度にアイリーンは眉をひそめるも、アイリーン以上に不機嫌を極めていたこの時のアーサーは反省する気配も見せなかった。
アーサーの態度は、大人げないとしか言いようがない。そのことは本人が一番理解していた。だからこそアーサーはこれ以上の大人げない言動を人前でしないために、アイリーンの前から消えるという選択をする。アイリーンに八つ当たりをしたくなる衝動を堪える彼は、冷めた仏頂面を決め込んで射撃場を後にする。この時の彼には、後片付けをしようと考える心理的余裕さえもなかった。
そしてアイリーンは、不機嫌そうな穏やかならざるオーラを放ちながら横を通り過ぎていくアーサーを黙って見送る。
「……」
四年もの間、これがずっと続いている。アーサーは常に不機嫌でイライラしているが、かといって誰かに八つ当たりをするわけでもなく。彼が周囲にする嫌がらせといえば精々、朝早くからの射撃練習ぐらい。他の場面において彼はその場に不穏な空気をもたらすのみで、強いて言うならばそれ以外のことは一切していなかった。
彼は個人的な話を誰にも何も語ろうとはしないし、他愛もない世間話すらしようとしない。事務的な問答や必要最低限の挨拶を除き、自ら誰かに話しかけることもなかったし、話しかけられたとしても彼は一言二言を返すだけ。愛想という概念は彼からすっかり消え失せていた。
また、彼の動作はとても静かで最近は気配さえ感じない。そんな彼の姿は、人を遠ざけているようであり、誰からも気付かれぬように息を潜めてさえいるようにアイリーンには見えていた。アーサー、彼は声を失くした大男ケイ以上に静かになっていたのだ――射撃場にいる時のみを除いて。
そのように、とにもかくにも気味が悪い男と成り果てたアーサーであるが。アイリーンが一番問題だと感じていたのは、彼が何を考えているのかは他の誰にも分からないことだった。
医務官ジャスパーや整備工ジャック・チェンが目の前で殺害されたこと、それが少なからずアーサーに影響を及ぼしているだろうことは容易に予想できるのだが……――それ以外の何か要因がありそうな気も、アイリーンにはしていたのだ。けれども、何も話そうとしないアーサーから答えを引き出せる日は来ないだろう。
アーサーは長期にわたって、一人で何かを抱え込んでいる。それが分かっているのに、できることは何もない。アイリーンはそれをもどかしく思うと同時に、恐ろしいとも感じていた。アーサーの能力がいつか鬱積した不満によって爆発し、自分たちがその被害に巻き込まれるのではないかと。
「……私に、ルウェリンみたいな器量があれば……」
不機嫌なアーサーを見るたびに不安ばかりを感じる。そんな日が今日もまた始まった。そう思えば思うほどメランコリックになっていくアイリーンが組んでいた腕を解き、肩を落としたとき。ドスドスという重たい足音が彼女に近付いていたことに気付く。アイリーンが振り返ってみれば、そこには想像した通りの人物が立っていた。
「あっ。おはよ、ケイ。あなたもあの音で起きたの?」
聳える巨壁のような大男、ケイことケネス・フォスター。彼もまた朝早くからの騒音を聞きつけ、射撃場へと訪れていたのだ。
アイリーンの言葉に、大男ケイは首を横に振って否定するという反応を見せる。次に彼は持ち歩いている電子パッドを取り出すと、そこにスタイラスペンで文章をザザザッと素早く書いていった。
『いや、既に起きていた』
大男ケイがアイリーンに見せた電子パッドの黒い液晶面には、青緑色の軌跡でそのような文言が書かれていた。そうして文言の意味を理解し、アイリーンが大男ケイの顔を見上げたとき。大男ケイは電子パッドの液晶面を自分の側に向けると、電子パッドの側面に用意されていたボタンをポチっと押す。すると液晶面に書かれていた文字は消え、液晶は真っ黒な状態にリセットされた――コレステリック液晶に微弱な電流が流れたことにより、スタイラスペンで押し潰されていた部分が元の形状を取り戻したのだ。
まっさらになった液晶面に大男ケイは再び文字を書く。次にアイリーンが液晶面を見た時には、このような文言が書かれていた。
『ボストン、すっかり感じが悪くなったな。ヘラヘラ笑っていた頃のあいつが懐かしい』
「そうだね。私もそう思う。以前の彼に戻ってほしい」
アイリーンがそう返事をしたあと、額に手を当てて憂いを深めていく。以前の彼とはつまり生前のアーサーのことだが、それが叶いそうもない望みであると分かっていたからだ。
そうしてアイリーンが肩を落とすと、大男ケイがその大きな手でアイリーンの肩をトントンと叩く。一瞬、それを励ましか慰めであると感じたアイリーンであったが……その行動は単に注意を引くためだけのものだったようだ。
『朝飯は出来ている。食うか?』
額に当てていた手を下ろし、再びアイリーンが大男ケイを見やったとき。彼がアイリーンに見せていた電子パッドに書かれていたのはその文言。
アーサーに同情もしていなければ好感も抱いていない大男ケイからすれば、アーサーのことなどどうでもよく、感じていることといえば『不機嫌そうにしているアーサーがムカつく』ということぐらい。故にアーサーに何かをしようという発想もない大男ケイの態度は、実に冷めたものだった。
「うん、食べる。今日は何かな~」
アイリーンは上辺だけの空元気を取り繕って、笑顔でそう言うが。その内心は荒れていて、且つ緊張から縮み上がっていた。というのも彼女はこのとき、改めて感じていたのだ。医務官ジャスパーと整備工ジャック・チェンが消えたことによる損失、それがあまりにも大きすぎたことを。
医務官ジャスパーが提供していた、あらゆる面でのサポート。整備工ジャック・チェンが担っていた、緩衝材という役割。この二人の代わりを今後はアイリーンがひとりで果たさなければならないのだという重圧が、彼女の小さな肝を極限まで冷やしていた。
――そして翌年、四二四五年の六月。マダム・モーガンは突然、このようなことを三名しかいない部下たちに告げた。
「私は暫くの間、北米のほうに出向することになった。いつアルストグランのほうに戻ってこられるかは分からない。それで、その間のことなんだけど……――アルストグランのことをあなたたちに任せたいと考えている。アイリーンとケイは今まで通りに、そして私の代わりとして特務機関WACEの顔役をアーサーに任せたいんだけど、どうかしら?」
円卓が中央に置かれたミーティングルーム。以前の小さな部屋とは異なり、開放感ある広々とした空間となっていたその部屋に集められていた三名の部下は、それぞれ異なる反応を見せていた。
最年長である大男ケイは、今後を憂うような冷たい目を彼の左隣に座るアーサーに向けていた。彼は重要な役を押し付けられたアーサーの境遇に同情……していたわけではなく、アーサーが何かをやらかして自分たちがその尻拭いに追われる、もしくはアーサーが撒き散らした被害に自分たちが巻き込まれるかもしれない未来を憂いていたのだ。
次に、大男ケイの右隣に座り、肩を竦めているアイリーン。彼女はマダム・モーガンが発した『今まで通り』という言葉に震えていた。というのも、その言葉が意味していたのは負担増であったからだ。ジャスパー亡き後、アイリーンは暇人アーサーの手を時に借りながら、辛うじて業務を回していた状態にあった。にも関わらず、今後はアーサーの手を借りられなくなると宣告されたのだから、彼女は気が気でないというわけなのだ。
最後に、シャキッとしない姿勢で頬杖をついていたアーサー。今までは“ただ、ここに居るだけの暇人”という立場に置かれていた彼は、やっとそれらしい役割を得られそうだということに安堵していた反面、顔役という言葉に引っ掛かりを覚えていた。
顔役ということは、つまり外部と関わる役を担うということ。そしてこの数年間でアーサーは自分の置かれている境遇が如何に悪いものであるかを思い知っていた。
生前の彼は、差別主義を地で行く極右政治家の息子であり、人道に
それについて、アーサーはこう思っていた。自分としては別に構わないしどうでもいい事柄ではあるのだが、自分という存在が人前に出ることによって、誤解と悪意と偏見に満ちた『世間様』が大混乱に陥るのではないのか、と。
そうしてアーサーが懸念から眉をひそめていると、その彼の様子を見たマダム・モーガンがドッと肩を落とす。それから彼女は不本意であるという思いを乗せながら、不満タラタラの声でこう言うのだった。
「というより、これは決定事項。残念だけど私にはこの決定を覆せない。なので、あなたには今日から『サー・アーサー』として働いてもらう」
サー・アーサー。その言葉が帯びる不快な響きに、アーサーは顔をしかめた。そして彼は咄嗟に、思ったことをそのまま口にしてしまった。「……サーは必要ないのでは? 私はそのような器では」
「私も同じ意見よ、アーサー。けれども、どうしてかキミアが……つまり、上のヤツがこだわったのよ。サー・アーサーでないとダメだ、と」
マダム・モーガンはそのように、アーサーの言葉をバッサリと切り捨てる。賛意が得られたことにホッとするアーサーだが、同時に彼は不思議とほんの少しだけ心がチクリと痛むのを感じていた。
だが、事実である。アーサーという男に、サーなどという権威をにおわせるような敬称は不釣り合いだ。アーサーという人間は、しょっちゅうドア枠に頭をぶつけ、段差との距離感を見誤って転倒することを繰り返し、挙句にサンドバッグを顔面で受け止めるようなどんくさい男なのだから。サー・アーサーなどという威厳に溢れた名前など、彼には見合わない。だが、彼は今後その名を名乗らなければならないらしい。
改めて実感する自身の不甲斐なさに、アーサーは頭を抱える。――と、そのとき、誰かが円卓の天板をコンコンッと指で叩いた。それは大男ケイだった。
『このポンコツに代わりが務まると本気で思っているのか?』
机を軽く叩いて自身に注目を集めたあと、大男ケイは自分の意見を書きなぐった電子パッドの液晶面をマダム・モーガンに見せる。その液晶面に書かれていたのは、そのような文面だった。
その文面を読むなりマダム・モーガンは溜息を零し、全身を使って呆れを表現する。それから彼女は『二度も同じことを言わせるな』という不満を滲ませつつ、大男ケイに向けてこう言った。
「だから、言ったでしょう。アーサーに任せたいのは『顔役』だと。実務はあなたとアイリーンで回して。アーサーは伝令役をすればいいだけ。怖い顔をして、威圧的な振る舞いをしながら言伝と書簡を届けて回ればいいだけよ。私もそれ以上のことをアーサーに求めていないから。――それに、なにか困ったことが起きた場合は私に連絡をしてくれればいい。そうしたら私が駆けつけて解決してあげる。ほら、なんとかなりそうでしょう?」
なんとかなりそうでしょう。マダム・モーガンが発したその言葉だけが虚しく空間に響いていく。彼女に賛同する者はこの場に誰もおらず、部下たちは一様に顔を俯かせるだけだった。返事をする者は誰もなく、心に痛い沈黙が場に居座り、沈黙は各々をプスプスと小さく刺していく。
すると、居心地の悪い空気に耐えられなかったのだろう。居た堪れなくなったアイリーンがワッと立ち上がる。彼女は動揺から足をガクガクと震わせながらマダム・モーガンを真っ直ぐ見つめると、不安でグラグラと揺らぐ声で言った。
「マム。わっ、わ、私は不安です!! 二人だけでどうにかって、そんな……」
二人だけ。それはつまり、アーサーは頭数に入れられていないということ。アイリーンが発したその言葉に「そりゃそうだ、自分は戦力外だろうな」とアーサーは納得する一方で、気に入らないとも感じていた。蚊帳の外に追いやられているような、僅かに腹立たしい気分がしていたのだ。
とはいえ。元より特務機関WACEとやらに何ら関心も抱いていなかったアーサーには、何もかもがどうでも良いと感じている側面もある。マダム・モーガンが居なくなろうが、アイリーンがてんやわんやの多忙になろうが、それによって世界の命運がどう転ぼうが、アーサーからすればどうでもいいことでしかない。
諦めと怒りと虚無。それらがグチャグチャに入り乱れる頭の中で交錯する“音なき声たち”を聴きながら、アーサーは頬杖をついていた手を膝の上に下ろし、前のめりに崩れていた姿勢を正す。彼は人ならざる蒼白い光が宿る目を、似ているようで正反対な鏡像であるマダム・モーガンに向けながら、彼女とアイリーンの会話を聞きつつ、議題とは全く関連の無い別のことを考えていた。
「アイリーン、大丈夫。私はオペレーションの回し方をあなたに教えてきた。そしてあなたは今まで、それなりに上手く立ち回れてきた。だから大丈夫よ」
「でも、私、ジャスパーみたいにできないです。コンピュータのことは分かるけど、でも……」
「そう、あなたはコンピュータが分かる。そしてコンピュータは多くのことを可能にする。今は人工知能も進歩しているんだし、あなたはコンピュータに適切な指示を送ればいいだけ。それから、大局を見て、パズルを繋ぎとめている鍵がどこにある何なのかを見極めること。それはあなたの得意分野でしょう?」
「でも、私はまだ未熟で……!」
「すぐ自分を卑下するのはあなたの悪いクセよ、アイリーン。もう少し自信を持ちなさい。あなたは十分に有能なんだから」
アーサーが思い出していたのは約四年ほど前のこと。猟犬との邂逅、そして血みどろの惨劇のあと、生前の記憶を取り戻したアーサーは“特務機関WACE”という檻から密かに脱獄したことがあった。
何もかもを思い出し、居ても立っても居られなくなった彼が向かった先は、彼にとっての故郷であるハリファックス、それもブレナン家の目の前。感覚的にコツを掴み始めていた空間転移能力というヤツを一か八かで試したのだ。
長距離を移動する大規模な空間転移は、まともなレッスンをまだ一度も受けていないにも関わらず初回で偶然にも成功した。だが、転移の成功を喜ぶ余裕など当時の彼には無かった。彼は他のことで頭がいっぱいいっぱいになっていたのだから――ドロレスとローマンに伝えなければならないことがある、と。
喜ぶ余裕も無ければ、後先のことを考える余裕もなかったアーサーは、震える手でブレナン家の門戸を叩いた。そのとき彼を出迎えたのは、疲れ切った顔に驚きを浮かべながら、彼の見知らぬ成猫を愛おしげに抱くベック。四〇代も半ばに差し掛かり、落ち着いた淑女に成り変わっていた彼女は『亡霊』を恐る恐る出迎えると、拍子抜けした声でローマンの名を呼んだ。
その後にアーサーが見たのは、痩せこけて覇気をなくした老齢の男、即ちローマンの姿。ドロレスの姿は見られず、アーサーが理由を問えばベックがこのように答えた。あなたが死んだ十六日後に亡くなった、と。
ベック曰く、ドロレスの死因は睡眠薬の過剰摂取だったようだ。つまり、自殺である。遺書や書き置きはなく、ドロレスがそのような終わりを選んだ理由は不明。だが推測はできるとベックは言った。
――ボストンが消滅した、あの日。彼女は多くのものを失った。彼女の息子であるあなたは死んで、彼女の孫であるあなたの子供たちは行方知れずになった。ボストンに居た知り合いも、たぶんあの日にボストンと一緒に消えたでしょう。寂しさとか、空虚さとか、迫り来るものがあったんでしょう。
――でも一番の理由は、報道だと思う。あなたがボストンを吹き飛ばしたって、テレビも新聞もラジオも言ってたんですもの。もしくは、他でもないあなたが理由だとも言える。
責め立てるような目をベックから向けられたとき、アーサーは知った。マダム・モーガンが外出を許可しなかった、その本当の理由を。
アーサーは世界の敵になっていたのだ。彼はボストンを吹き飛ばしたテロリストで、罪のない市民を消し去った虐殺者。真相はさておき、彼は世間でそういう扱いをされていたし、そのような報道がなされていた。そしてドロレスはその報道を信じ、彼女自身を責め、取り返しのつかない決断を下した。そのうえベックは、真相はさておきドロレスを追い詰める原因となった友人の存在を憎んでいた……。
それはまさにアーサーにとってアウェーとしか言いようがない世界だ。そんな世界に、何も事情を知らないアーサーを放り出すような無責任な真似など、マダム・モーガンにはできなかったのだ。
だが愚かなアーサーは判断を誤って暴挙に出た。その末、まだ知るべきでなかった現実を知った。そうして失意に沈んだ彼が最後に縋ったのは、叔父のローマンだった。
――テレーザとレニーは、生きている。あの子たちは、あの日、ペルモンドに預けた。きっと彼の傍にいるはずだ。だから、どうか、あの子たちのことを……!!
床に膝をつき、みっともなく涙を零しながら、アーサーはローマンにそう懇願した。つらく当たり、ひどいことをしたり、敬遠していた時期さえもあったが、それでも見捨てずにいてくれたローマンに、恥を忍んで頼み込んだのだ。
その後、アーサーは居た堪れなくなってその場から姿を消した。突然目の前に現れたかと思ったら突然消えたアーサーのことを、ベックとローマンの二人はきっと亡霊か幻覚だと思ったのだろう。以降、彼らはアーサーの行方を辿るようなことはしなかったが……しかしローマンは別の存在の行方を捜してくれていた。彼が捜したのは彼の孫たち、つまりテレーザとレーニンの行方だ。
幸い、彼は孫たちの行方――アルストグラン連邦共和国、サールミアという閑静でのどかな田舎町に建造された児童養護施設にて、テレーザとレーニンの姉弟は養育されていた――を突き止められたようだ。そしてローマンはアルストグラン連邦共和国に移住する計画を立て、孫たちを引き取りたいと施設の運営者に直談判。運営側――バルロッツィ財団の理事長であり、テレーザとレーニンの姉弟の後見人でもあるセシリア・ケイヒル――はローマンの申し出を歓迎し、縁組の手続きを進めようとした。
だが、結局のところ孫たちがローマンと共に生活する日は訪れなかった。アルストグラン連邦共和国に来訪したローマンが孫たちの入所する施設を訪ねて、数年ぶりの再会を喜んだあと。その晩、彼は宿泊先のホテルに戻る道中で強盗に遭い、死んだ。道端に落ちていたレンガで頭を殴られ、殺されたのだ。
ローマンはバルロッツィ財団によって丁重に葬られ、ハリファックスの墓地に、ドロレスの隣に埋葬されたらしい。そして孫たちは理解も追い付かぬまま後見人セシリア・ケイヒルと共に飛行機に搭乗し、殺害された祖父の葬式に列席したそうだ。テレーザは終始泣きじゃくり、レーニンは状況を理解できず硬直し続けていたという。
その後、アーサーの子供たちは正真正銘の天涯孤独となり、憎きペルモンド・バルロッツィの名を冠する財団の下で正式に養育される身となって、成長した。現在、姉のテレーザは二十三歳、弟のレーニンのほうは十七歳。テレーザはなんたら工学の博士課程に進んだらしく、レーニンも姉と同じ道を歩むべく努力しているそうだ。しかし趣味のクロスワードに没頭しながらも好成績を余裕でキープし、幾つかの教科は飛び級でパスしていた優秀なテレーザと違い、少し不真面目で至って平凡なレーニンは得意科目の数学を除き、それ以外の教科は成績が振るわず、苦悩しているとか、なんとか(どうやらテレーザには父親譲りの記憶力という呪いが宿ってしまったらしい。一方でレーニンにはその呪いが受け継がれなかったようだ)。
そして姉弟の生活に関してだが、学費や医療費も含め、ほぼ全てをペルモンド・バルロッツィが個人的に負担しているそうだ(そんなこんなで生前にアーサーが妻と共にせっせこ
とはいえ。亡き父親がテロリストとされていることから姉弟は理不尽な非難や誹りを受けることも
特に、記憶力の優れているテレーザは良いことも悪いことも克明に覚えているはず。悪い記憶が濃く印象付けられ、父親と同じように悪い方向に転ばなければいいのだが、と父親であるアーサーは懸念しているわけだが。その父親は今、遠巻きから見守ることしかできない身だ。我が子に触れることも、助言を与えることも、目の前に姿を現すことさえもできない。
出来ることと言えば、遠く離れた場所に立ち、双眼鏡で我が子の様子を見ることだけ。そして見せつけられる光景はいつも腹立たしさを呼び起こす。
「……でも、私、すぐパニック起こしちゃうし。マダムみたいな、頼りになるような人材じゃないことは分かってるんです。それなのに、私が……!」
レーニンの宿題の面倒を看ていたのは施設の職員であり、後見人のセシリアであり、ペルモンドだった。
進路に悩むテレーザに助言を与えていたのも、施設の職員であり、セシリアであって、ペルモンドでもあった。
学校で同級生から理不尽な誹りを受けたものの、即座に言い返せなかった悔しさと歯がゆさから荒れていたレーニンを宥め、話を聞いてやっていたのはペルモンドだった。
テレーザの成人祝いに、彼女と同い年のヴィンテージワインを送っていたのは、ペルモンドだった。
そしてペルモンドの邸宅には、彼のお上品に振舞う美しい娘エリーヌが居て、同じ邸宅の異なる生活スペースにはセシリアも居る。ペルモンドとセシリアの間には、友人以上家族未満で仕事上のパートナーであるというワケの分からない関係が構築されていて、さらに娘のエリーヌはセシリアのことをまるで母のように慕っていた。父親であるペルモンドが失踪し、大怪我を負った状態で発見されるだなんて騒動が度々起こることを除いては、歪ながらも穏やかな家庭がそこにある。
そしてペルモンドは、テレーザにもレーニンにも父親ヅラで接している。彼の財団が運営する養護施設にいる他の子供たちも、その大半が彼に懐いているようだが。とはいえテレーザとレーニンは格別だ。あの子たちは他の子供たちよりも一段上の寵愛を受けていたのは明白。あの子たちは、ペルモンドの娘エリーヌが暮らす邸宅にこそ居なかったが、とはいえペルモンドからの扱いはエリーヌと同等だった。
「あぁ~、アイリーン、泣かないの。大丈夫よ、どうにかなる。今よりもっとヒドい状況も過去にあった。それでもどうにかなって、今がある。だからそんなに気負わなくても大丈夫よ」
あの子たちを頼むとか、なんとか、そんなことをペルモンドに言って、子供たちを彼に託したのは、たぶん他でもないアーサー本人だ。その決断は正しかったと理性では彼も分かっている。ペルモンドはアーサーと違って、財力もあって権力もある。子供たちを確実に護り通せる能力があるのはペルモンドのほうで、あのときのアーサーの判断は間違っていなかった。しかし。反面、死後に蘇った彼は後悔していた。我が子を盗まれた、そんな気分がして堪らないのだ。
最近ではすっかりサマになっているペルモンドの父親ヅラ。それがアーサーにとって憎くもあり、羨ましくもある。あの場に相応しいのはヤツでなく自分であるはずなのに、と怒る声がアーサーの中にずっとあるのだ。
二〇代の時分には、壁に頭を打ち付けたり、バスタブに自ら溺れたり、オーバードーズを繰り返したり、高所から飛び降りたり等々、人の手を煩わせては世を騒がせてきたペルモンドだが。四〇も過ぎた今は、別人かのように落ち着きを払った“父親”になりきっている。常日ごろ何かに怯えてガクガクと震えていた時代もあったペルモンドが、今や震えることなくどっしりと構えた大人になっている。今のペルモンドの姿は保護者のそれで、情緒不安定な若者だった頃とはまるきり別人になっており、肩書に見合うだけの人間に成長したかのように見えていた。
だが、あの男は人殺しだ。それも一人二人を手に掛けたなんて程度ではない。あれは別人格であって、ペルモンドとは違うとも言えるかもしれないが、だが同一人物であることに変わりはない。
そんな危険人物が今、我が子を手なずけている。その現実をアーサーは認めたくなかったのだ。
「それに、今日明日にも居なくなるってわけじゃあないから。それまでの期間、私があなたたちを鍛え上げる。特にアーサー、あなたを重点的に」
マダム・モーガンから名前を呼ばれ、アーサーは我に返る。憎きペルモンド・バルロッツィの顔を思い出して気分が悪くなっていたアーサーは、その最悪の気分のままマダム・モーガンを睨み付けてしまった。
彼は別にマダム・モーガンを睨み付けたわけではない。それどころか彼女にそのような視線を無意識に向けてしまったことを即座に後悔し、気まずさからすぐ顔を逸らしたほどだ。しかし、あまりにも険しいものだった目つきは誤解を招く。
睨まれたと勘違いをして、より一層気分を悪くしたマダム・モーガンはアーサーを逆に睨み返した。それから彼女は、己の立場をまるで理解していなさそうな愚かなアーサーに釘を刺すのだった。
「あなたには『サー・アーサー』の肩書に見合う貫録と振る舞いを身に着けてもらう。あなたが望んでいないとしても、私はやるわ」
あぁ、これは確実に誤解されている。――アーサーはすぐにそれを理解した。かといって彼に打てる手は限られている。
ペルモンドの顔を思い出して嫌な気分になっていたと馬鹿正直に弁明することも出来たが、それはそれで「話を何も聞いていなかったのか!」と新たな怒りを招きかねないだろう。しかし、ここで黙りこくって何も言わないという選択をすれば、今後の指導とやらに何かしらの悪影響が出るかもしれないうえに、大男ケイから余計に見下される可能性もある。
まあ、最悪の場合、大男ケイから嫌われても構わない。だがマダム・モーガンの怒りを買い、彼女から目の敵にされる展開は避けたいところ。となれば、一対一で深く話す環境を整えることが最善だろう。
「……」
そうして考えを巡らせたアーサーは、ある賭けに出ることにした。
彼はマダム・モーガンの言葉に返事をせず無言を貫くと、不機嫌さを装いながら椅子から立ち上がり、そのまま『不機嫌なオーラ』という餌を撒きながらミーティングルームを立ち去る。そして餌にかかったマダム・モーガンは、彼が狙った通りの行動を起こした。
「アーサー、待ちなさい! あぁっ、もう、あの意固地は……!!」
現在の状況と己の立場を分かっていない愚かなアーサーが我儘な行動を起こした、と考えたマダム・モーガンは彼の後を追って部屋を出る。馬鹿なアーサーを説得して丸め込んでやると意気込むマダム・モーガンだったが、彼女は廊下の突き当たりで意味ありげに彼女を待ち構えていたアーサーの姿を見るなり真顔になった。
アーサーの不機嫌そうな演技につられて、まんまと彼の垂らした釣り糸に掛かってしまった。――そのことを察したマダム・モーガンは同時に、吹き上がりかけていた怒りがサッと引いていく気配も感じていた。ただ、その怒りの引き方は決して気持ちが良いものではない。唐突に真正面から冷水をぶちまけられ、ビショビショにされたときの不愉快さに似たものがあった。
してやられた。そう感じたマダム・モーガンは悔しさをにおわせるように腕を固く組みながら、壁にもたれ掛かるように立つアーサーに歩み寄る。そうして彼女が彼の目の間に到着した時、アーサーはマダム・モーガンの様子を伺うように見やりながら、小声で彼女に言った。「邪魔者を抜きにして話がしたかった。――それで、あなたが本当に言いたいことは?」
「はぁ……随分とデカい口を叩くようになったじゃないの、アーサー」
一番経験の浅い新参者でありながらも、上長たちを邪魔者呼ばわりするアーサーの態度に、マダム・モーガンは呆れを示す。固く組んでいた腕を解く彼女は、装着していたサングラスを上にずらして頭の上に載せると、次にアーサーの肩を右手の指先で軽く小突いた。
だがアーサーの目を見る彼女の瞳に怒りや苛立ちは無い。ひとまず誤解は解けたようだとアーサーが安堵したとき、マダム・モーガンは唇をへの字に歪めた。それから片眉を吊り上げる彼女はアーサーに品定めをするような目を向けつつ、このように語った。
「知っての通り、アイリーンは機械に強いし、賢い子で、ある特定の事象が持つ法則性を見つけ出す能力は歴代の中でもピカイチではあるけれど。彼女はとにかく繊細で他人が苦手、そしてアガリ症。彼女は頭の回転が速すぎるからこそ空回りするから、人前では活躍できない。あの子は裏方で真価を発揮するタイプね。そしてケイは声を奪われたこともあって、コミュニケーションのスピードが遅くなった。それに彼は武闘派で、暴れまわることにしか興味がなく、そもそも渉外向きのタイプではないわ。機動力や状況を見極める目はぶっちぎりに優れているけれど、彼は気が短いから交渉なんて無理。あれはテーブルを蜂の巣にしかねない男よ」
「……」
「だから私はあなたに託すしかないのよ、アーサー。あなたは良くも悪くも嘘が得意で、演技も達者。そして今のように咄嗟の機転を利かせることができるし、他人への期待値が絶望的に低いからこその辛抱強さもある。それにあなたは、ワガママでクソッたれなエゴの塊どもをウンザリするほど見てきたでしょう?」
「ああ、確かに。右も左も、ウンザリするほど見てきた。だが、過大評価なのでは?」
「ええ、過大評価してる。それに一番経験の浅いあなたに屋台骨を任せることに不安がないわけじゃない。でも、適性があるのはあなたしかいないのよ」
「……」
「交渉の場において身長はとても大事な要素で、外見も同じぐらい重要。その点、ハイランダーの血を継ぐあなたはタッパもある。容姿のほうも、目付きが悪すぎることと撫で肩が過ぎることを除けば及第点。つまり条件を満たしている。そしてあなたは、温厚な姿と威圧的な姿を使い分けられる。暖かさと冷たさで相手を混乱させることは得意よね? それから、酒場で育ったこともあって口も達者で頭の回転も速い。人目を集める術も、懐にさり気なく入り込むテクニックも持っている。その気になれば他人を転がすことなんて、あなたにとっては造作もないことでしょう? 俗世に巣食う病巣は勿論のこと、アイリーンのことも、ケイのことも。その手で操縦し、動かせるようになりなさい。……あなたならできると信じているから」
少し前には「サーなどという敬称はお前に相応しくない」と暗に言っていたマダム・モーガンが、今は一転、アーサーを褒めちぎるような言葉をこれでもかと並べ立てている。この態度の変りように、アーサーの警戒心が煽り立てられた。
それに、マダム・モーガンの発言内容は先ほどのものとは大きく異なっている。大男ケイらの前では「アーサーに任せるのは顔役だけ、通常の業務は二人で回せ」と言っていた彼女だが、今、彼女はアーサーに「全てをコントロールしろ」と命じていた。そしておそらく、今の発言こそ彼女の考えに近いものなのだろう。
「……」
役目の無い暇人の身分もじきに終わり、間もなく気を揉む日々がやってくる。――それを実感したアーサーは目を伏せると、マダム・モーガンから顔を逸らす。数年前、薄暗い部屋で覚醒したばかりの頃が懐かしいと、彼はそう感じていた。
自分自身が何者なのかも分からず、自分に何が出来るのかさえも分からず、空っぽの状態で過ごしていた数週間。あのときのドジで間抜けな姿こそが、素のアーサー自身だったのだろう。願わくば、あの頃に戻りたい。だがそれは叶わぬことだ。
「明後日。まずはASI長官、バーソロミュー・ブラッドフォードにあなたを紹介する。彼はリチャード・エローラの知人でもあるし、生前のあなたのことを少しは知っている。その昔、リチャード・エローラが彼にあなたのことをベラベラと喋っていたからね。超人的な記憶力を持つ興味深い男の子、として。そういうわけだから、あなたに悪い印象しか抱いていない赤の他人と対するよりは幾分かやりやすいはずよ。彼のほうも、あなたに興味があるみたいだし。気まずい思いはしなくて済むはず」
アーサーにとって覚えのある名前が、マダム・モーガンの口から飛び出してくる。それと同時に古い記憶がいくつか紐解かれ、彼の気分を後悔のドブ沼に突き落とした。
リチャード・エローラ。彼はアーサーにとっての恩人で、ローマンとライアンに次ぐ第三の父親のような存在だった。
まだアーサーが幼かった頃、実の父親に代わって定期的に理容室に連れて行ってくれていたのも彼だった。子供の知的好奇心を巧みにくすぐる『面白い話』をアーサーにいつもしてくれていたの、彼だった。アーサーが精神疾患に片足を突っ込みかけたとき、食い止めるためのサポートをしてくれたのも彼だった。
その彼は、及び彼の妻リアムは、アーサーの異母兄ジョナサンに殺された。四二三二年の冬、ジョナサンは実父が家を留守にしている間を狙って自宅アパートに放火し、それから焼身自殺を図ったのだ。
理不尽なジョナサンが放った火と煙に呑まれ、多くの住人が犠牲となった。犠牲者の中には、血縁の無い書面上だけの母エリザベス・エルトルや、隣人であったエローラ夫妻も含まれていた。
そしてエローラ夫妻が養育していた孫娘、彼らの一人娘ブリジットの遺した遺児エリーヌは、偶々その日にアーサーが預かっていたために無事だった。いつまで経ってもエリーヌを迎えに来ないエローラ夫妻を不思議に思っていた矢先、知人であるセシリア・ケイヒルから知らされた一報に受けた衝撃と後悔は、今でも胸に残っている。父親の思惑に乗り、エルトル家の家督となる道を自分が選んでさえいれば、あのような事態は起こらなかったのではないかと考えると……――
「とにかく、まずはそこから始めましょう。本格的に、私の仕事をあなたに教えていくわ」
そんなこんなで、アーサーは物思いに耽っていたばかりにまたもマダム・モーガンの話をろくすっぽ聞いていなかった。はたと彼が我に返ったのは「本格的に」と彼女が言ったタイミング。それ以前の言葉は話半分で聞き流していたのだ。
やっちまった、という後悔が顔に出そうになったとき。アーサーは様子を伺うようにマダム・モーガンを見たのだが、そのときの彼女はどことなく暗い顔をしていた。彼女がした提案に、彼女自身が一番乗り気でない様子である。
彼女のその様子を見て、アーサーの直感が囁いた。今までの話は表面的なものでしかなく、彼女はアーサーに対して他に重要な事実を隠していそうだし、そこに本懐が眠っていそうだぞ、と。
途端にアーサーは強気になった。話をまともに聞いていなかったことへの後悔は消え、彼女を追及しておかねばという意識が強まる。そして彼は敢えて、マダム・モーガンに失礼極まりない態度を取るのだった。「他にも、私に何か言うことがあるのでは?」
「あなた、まさかこの私に頭を下げろとでも言っているの?」
「違う。この決定についてだ。不服なのでは?」
誤解されかねないほど偉ぶった態度で相手を理不尽に威圧してから、下手に出て具体的な内容を訊ねてみれば、落差に振り回されたマダム・モーガンはあっという間に陥落する。尊大なのか、そうでないのかが判別できないアーサーの態度に呆れ返る彼女は、その呆れを込めた溜息と共に、嘘偽りのない本心を吐き出すのだった。「はぁ……勿論、受け入れがたいと思っている。元老院の狙いはあなたの自由を奪い、あわよくば隷属させることだから」
「私を隷属させる? 馬鹿げた考えだ」
「ええ、実に馬鹿げてる。あなたは、あの父親に屈しなかった荒馬ですもの。あなたが元老院の手中に落ちる未来なんて私にも考えられないわ。逆に連中のケツを蹴り飛ばすあなたの姿がありありと想像できる」
そう言ったあとマダム・モーガンは、壁にもたれ掛かるように立つアーサーの隣に並ぶ。それから彼女は壁に背中を預けるとズズズ……と下がり、その場に座り込んだ。それから彼女は顔を俯かせると、彼女らしくない細い声でアーサーに言う。
「あなたには今まで通り『あなた』として自律してもらいたい。組織の枠に縛られず、自由に考え、動いてほしい。あなたに備わっている直観と恐れ知らずの大胆さ、もとい向こう見ずゆえの突破力は、今の特務機関WACEに必要とされているものだと私は感じているから」
「……」
「その上で、あなたにはペルモンドの操縦をしてもらいたいと考えている。正しい獲物を見定められずにいる鷹に、正しい方向を示す鷹匠の役をしてほしいのよ。かつてあなたが彼を巧みに操っていたように、もう一度」
「私は、あの男を操ってなど――」
「嫌よね。それは分かる。私だって、彼と向き合うとき、いつも心中は複雑。私もあなたと同じで、彼を憎んでもいるから。なんてったって、私の死因は他でもない彼だし。でも。それでも、他でもない私たちがやるしかないのよ。分かって頂戴な」
アーサーを諭すようなことを言うマダム・モーガンだが、けれども彼女は一度も彼と目を合わせない。彼女は彼の目を見ることができなかったのだろう。どれほど困難な要求をアーサーにぶつけているのか、その酷烈さを彼女は理解していたからだ。
アーサー、及びシスルウッドと呼ばれていた男。彼について、マダム・モーガンはこのように評価していた――察しの良い宰領役。彼は演技が得意であるうえに、「狂いが生じたものを立て直す」という才に恵まれていた。
立て直しの対象は人であり、状況でもある。苦境に立たされ続けていた書面上の母エリザベス・エルトルを、隣人リアム・エローラという救済に繋げたのは彼であるし。その場しのぎを繰り返し、まともな生活および人生を送るつもりなどなかった荒んだペルモンドに人間らしい自我と生活スタイルを叩き込んだのは、他でもない彼である。友人デリック・ガーランドを借金苦から救い出したのも彼と、彼が叩きなおしたペルモンドだ。
それら天分と、稟性の気品と眼光。それらを併せ持つ彼は偉大な俳優になれたであろう器であり、今なら有能な指揮官というポストだって演じられるはず。……マダム・モーガンはそう考えていた一方、彼に生まれつき備わる暗黒面を警戒してもいた。
彼は、健全な肉体も精神も持っていない。彼は虚弱というわけではないが、消化器官は貧弱であり、並みの男より体力も劣る。大男ケイのような肉体労働はできない。加えて彼はアイリーン以上に根暗でマイナス思考であり、楽観的な視点というものが常に抜け落ちている。適切な助言者が傍にいなければ極端なネガティブ路線に突っ走りかねない危うさもあるうえ、表面上はそれが分からないという厄介さも併発していた。
そして今、アーサーは多くのことを知っている。ペルモンドの背景にある事情を知らなかった若い日と同じように、今、ペルモンドと関われというのは無理があるだろう。更に、アーサーは多くのものを失ったが、その一方でペルモンドはアーサーが失ったものを持っているという現状がある。劣等感や憎しみが誘発され、アーサーが道を誤る危険性も無いわけではない。
だが、代役が他にいない。アーサーに任せるしかない状況なのだ。
「……私は、いずれあなたをここに迎え入れることになるだろうと覚悟していた。でもそれはケイのように、あなたが人生の大部分を楽しんでからにするつもりだったのよ。あなたの子供たちが独立して家庭を築いて、そしてあなたが生産的な生活からリタイアして、老後に差し掛かろうとするタイミングで、と。それなのに、こんなことになった。あなたには申し訳ないと思っているわ」
「そういう言葉が聞きたいわけでは……」
一切顔を上げずに言葉を言い終えたマダム・モーガンの姿に、アーサーは覚悟していたもの以上の重圧を覚えた。そして彼女が謝罪めいた言葉を発したのもまた、アーサーの貧弱な胃を攻撃する。キリキリと痛み始めた内臓の訴えから意識を逸らし、アーサーはやっとの思いで最も訊きたい事柄を質問するのだった。
「元老院という存在についてだ。あなたの知っていることを教えてほしい。キャロライン、エリカ、そして私やあなた、ペルモンド、及び他の者たちの人生を不当に奪ってきた忌々しき連中のことを、私は知りたい」
言葉を声に出してしまえば、自然と心は切り替わる。アーサーはマダム・モーガンに対して覚えていた気まずさをスッと捨て、痛みを訴える胃に「黙れ」と念じた。それから堂々とした態度を纏うアーサーはマダム・モーガンを見下ろす。すると彼女は顔をようやく上げた。
そうして彼女が口を開き、何かを言おうとする。だが、その発言を妨害する者が彼らの前に現れた。
『そいつァ特別に俺ちんから教えてやろう。ケケッ!』
廊下を滑空して渡り、マダム・モーガンの足許に着地した黒い影。それは汚い声でガーガーと喚き、卑しくケケッと嗤う珍妙なワタリガラスだった。
初めて見るカラスに、理解の追い付かぬアーサーは顔をしかめるだけ。さらに彼はこのように考えてもいた。聞こえてきた声は疲労による幻聴に違いない、と。しかし、その声は不幸なことに幻聴ではなかった。
マダム・モーガンは落ち着きなく翼をパタパタとはためかせるカラスを指差し、ウンザリとした心境を載せた重たい溜息を零す。それから彼女はアーサーに向けて、カラスを紹介するのだった。
「このカラスは、その……――私、そしてあなたが仕えることになる神。と同時に全ての元凶。アバロセレンをつくりだしたクソカラス。キミアという存在よ」
神。マダム・モーガンの口から飛び出してきた突拍子もないワードに、アーサーはますます表情を険しくさせていく。一瞬、それが何の話だか理解ができなかったアーサーだが、戸惑いを覚えた後に彼はハッと気付いた。彼自身が生き返った死者であり、ここは霊魂やら何やらが当たり前のように語られている世界。カラスの姿をした人語を扱う神ぐらい居そうだな、と彼には思えたのだ。
しかし。神と聞いてアーサーが思い浮かべるのは、一神教の経典においてテトラグマラトンを介して語られる存在。人を奴隷とし、理不尽な理由から街を亡ぼしたりもする横暴な神格、それがアーサーの中に植え付けられていた“神”の姿だ。
ぴょこぴょこと間抜けに飛び跳ねて忙しなく動き続けるカラスは、アーサーの思う神の姿から乖離している。いまいち畏怖の念を抱けぬ“神”を疑うように見下ろすアーサーがやっとの思いで絞り出した返事は、これだった。「こいつが元老院の正体か?」
「いいえ、違う。キミアは『サー・アーサーじゃないと駄目だ』とゴネた張本人で、この特務機関WACEの創設者のような存在だけれど、こいつは元老院ではないわ。キミアは元老院より格が下、それでも私たちよりは遥かに格上の存在だけれど。しかし――いえ、これ以上はやめておきましょう」
含みがあるようなマダム・モーガンの台詞。それは更なる疑問をアーサーにもたらした。だがアーサーにも分かったことがある。それはマダム・モーガンが、この神なるカラスに畏敬の念をこれっぽちも抱いていないという点だ。それどころか疎まし気に扱っているようにさえ思える。
上位の存在でありながら、エラい存在というわけではなさそうな神なるカラス。経典の中で語られる神を憎んで育ったアーサーは、畏れ多い存在とは言い難い憎めぬカラスを無言で睨み続けていると、カラスの視線がアーサーの方に向く。と、途端にカラスの動きはピタリと止まった。そしてカラスはアーサーに焦点を合わせると、長々と話し始める。
『俺ちんが、モーガンもといお前ェサンを眷属として生き返らせた理由。それは元老院と呼ばれちょる連中を消すためなのヨ。だがヨ、俺ちんも、ちぃ~とばっかし面倒な立場に居るンでィ。自由に行動できるわけじゃァねェのサ。そしてそれは俺ちんの眷属であるお前ェサンらも同じ。そこで俺ちんはお前ェサンらに“地上に蔓延る怨霊のお掃除”という役目を――』
「私が訊いているのは、元老院という存在について。貴様のことや我々に関する事柄は今、訊いていない」
カラスが長々と話し出そうとした事柄は、しかしアーサーが求めていたものとは軸がズレていた。そこで、死後にせっかちという気質を得てしまったアーサーは途中でカラスの話を遮るという行動に出る。するとアーサーのこの行動にカラスは機嫌を悪くした。
カラスは再び、地団駄を踏むかのようにぴょんぴょんと飛び跳ね始める。そしてカラスは尾羽をプリプリと振りながら、奇声を織り交ぜつつアーサーに捲し立てた。
『なんでィ、なんでィ! 話の腰を折りやがってィ! ちったぁヨ、空気を読めェィ! キェェェェェァッ!! そうかェ、お前ェサンがそういう態度を取るってンならヨ、俺ちんはなーんも話さねェかンな、ケケッ! オサラバだィ!!』
普段はマダム・モーガンから接待を受けている甘やかされたカラスは、気配りも配慮も何もしなければ礼節も弁えぬような無愛想で無礼な男の言動にカチンと来た模様。怒り心頭のカラスは地団駄を踏んで叫びまわったあと、不機嫌そうに飛び去り、そのままどこかへと消え去っていった。
そうしてカラスが去った後、マダム・モーガンはその背中を目で追いつつ小さく笑う。その後、彼女は表情を硬くすると次にアーサーを見て、それから彼女は小声で言った。
「元老院についてだけれど……私に話せることはあまりないのよ。私も、その実態を全く知らないから。彼らは人外であり、彼ら自身のことを万物の創造主だと自称しており、判明している限りでは十二柱で構成されているということぐらいしか分からない。その本体がどこにあるかなんて探りようもない。私たちは綴じられた宇宙のその中に居るちっぽけな存在で、キミアはその外側から内側にある世界へと干渉する存在だけれど、そのキミアでさえも元老院の在り処は知らないと言っているほどだから」
以前、医務官ジャスパーも「よく分からない」と述べていた、元老院という存在。それはマダム・モーガンにとっても同じらしく、彼女から得られた答えも曖昧なものだった。そして今の彼女には嘘や誤魔化しを織り交ぜている雰囲気はない。おそらく、実態を全く知らないという言葉は本当なのだろう。
「連中は『クソッたれ』揃いよ。連中の行動は理解に苦しむものばかり。だから、覚悟しておきなさい。あなたがこれから見ることになるのは、常軌を逸した邪悪だから」
最大の憎悪を込めて『クソッたれ』と吐き捨てるように言ったマダム・モーガンの言葉に込められた怒り。アーサーがそこから汲み取ったのは、怒りの裏に隠れた遣る瀬無さだった。
彼女は永きにわたって『元老院』というものの横暴を見てきたはず。だが、彼女はまともな抵抗ができず、打つ手も無かったのだろう。苦汁を舐めながらすべてを見過ごすしか他にできることがなかったに違いない。
「彼らは人間世界を掌握したがっていて、人間が彼らの思惑通りに動かないことに彼らは不満を募らせている。そのために彼らは『人間世界をコントロールするための装置』を作った。装置、それは現在ペルモンドという名で知られている不死者のことよ。またの名を、猟犬とも言う」
極限までひそめたられた眉の下、影が差す眼窩の内側で光り輝く蒼白い瞳。アーサーと同じその目で、マダム・モーガンはジッと彼を見据えていた。そして彼女は続けて、アーサーに言う。
「彼は殺せない。だから彼が振りまく害が最小限に済むよう、彼をうまく舵取りする方向で調整するしかない。そして今までは私と元老院の間で、舵の争奪戦をしていた。その争奪戦を、あなたとバトンタッチしたい。――やってくれるわよね?」
憎悪も慈悲も、グチャグチャにかき混ぜられた彼女の目。その中でもただ一つ、特出して色濃かったのは疲労だった。
末端の雑務は下の者たちに任せられても、お上を相手にした正念場には彼女一人で臨むしかなかったのだろう。そうして彼女が永く孤独な戦いを続けていたあるとき、ひょんなタイミングで現れた彼女の代替となり得る存在。それを頼りたくなる気持ちは、アーサーとて分からなくもない。ゆえにアーサーはこう返す。「率直に言うと、やりたくはない。だが立場上、拒否をすることができない。であるからこそ――」
「そういうときは『イエス、マム』だけで良いのよ」
「……イエス、マム」
「ただし。強がらないこと、無理に耐えようとしないことを約束して。あなたの許容限界が迫った時は、正直にそう言って頂戴。そのときは私が手を下すから」
マダム・モーガンはそう言うと、ひとつ深呼吸をして、スッと立ち上がった。それから彼女はこのように言葉を続ける。
「彼は、ハッキリ言って異常よ。ペルモンドという今の表層が善性を帯びているように見えるからと言って、それを信用しては駄目。本当の彼は、あなたを必ず騙そうとするはず。だからこそペルモンドの言葉は全て疑ってかかるようにしなさい。その言葉は、ペルモンドが猟犬に言わされているものかもしれないし、もしくはジェドって名前の邪魔な寄生虫があなたを罠に掛けようとしているものかもしれないから」
「……」
「私は何度も騙し討ちを食らってきた。だから、あなたが賢明な判断を下せるよう祈るわ。あなたが判断を誤ったとき、あなたが払うことになる代償は、あなた自身ではなく、あなたの周囲に居た者たちの命なのだから。――キャロラインの二の舞は避けたいでしょう?」
マダム・モーガンはそう言い終えた後、拳を握り締め、その拳をアーサーの胸にトンッと軽く当てる。拳による僅かな衝撃、それと言葉がもたらす緊張によって、そのとき一瞬だけアーサーの脈が飛んだ。
「……勿論だ。避けたいに決まっている」
最愛の人、キャロライン。彼女の死は、公的には『運転中に大動脈解離を発症し、そのまま亡くなった高齢ドライバーが引き起こした交通事故に巻き込まれたことによる事故死』だと処理されたが。当時、アーサーは勘付いていた。ペルモンドと出会ってからずっと自身の周囲にチラつく“得体の知れぬ陰謀”が彼女を奪ったのだと。現にキャロラインの死後、アーサーの許にはそれを仄めかす差出人不明の手紙が届けられたのだから。
かつて彼が開発した暗号式を用いた手紙には、こう記されていた。――キャロライン・ロバーツはお前の不手際のために死んだ、そして次はお前の子供たちの番だ。
「ならば。テレーザとレーニン、あとエリーヌ。あの子たちは、元老院と猟犬によって人質に取られている状態にあると思い、行動しなさい。更に付け加えると、セシリア、彼女も危ない立場よ。ボストン時代の恩人に無残な死を迎えさせたくなければ、行動はよく考えること。あなたの勇敢な無鉄砲さは長所であると同時に、最も懸念すべき短所でもあるのだから。いいわね?」
マダム・モーガンの彫り深い眼窩に差す濃い影の底から覘く、鋭く輝く蒼白い光。乾いた他人の血の気配を纏う視線が、アーサーに深く釘を刺していた。
曙の女王が解き放たれてから五日が経過しようとしている。そして、デリック・ガーランド氏が開催するチャリティーオークションは三日後に迫っている。しかし状況に進展は見られず、いたずらに時間だけが過ぎていた。
ASI本部局、アバロセレン犯罪対策部のオフィスには暗い空気だけが充満している。生きている者たちは暗い顔で資料やコンピュータと睨みあっていて、新しい何かを掴もうと躍起になっている様子だ。その中に紛れている死者は、生者たちの業務をいつものようにさりげなく支援しながらも、その表情は晴れていない。
そして、普段なら生者と幽霊と中位の神に振り回されて疲れているラドウィグは、このとき珍しく暇を持て余していた。
「……あの、部長」
アレクサンダー・コルトは現在、より多くの情報を集めるべく所轄の刑事たちを訪ねて回っている。朝も昼も夜も、寝る間も惜しんで彼女は行動していた。
ジュディス・ミルズも市警潜入時代に築いたコネクションを利用し、警戒もとい情報提供の呼びかけを行っている。ひたすら知り合いに電話を掛けて回る彼女もまた、睡眠時間を削って活動していた。
心理分析官ヴィク・ザカースキーは、ラドウィグの自宅にて分析作業を進めている。彼女は『曙の女王』の捜索からは外されていて、あくまでも『憤怒のコヨーテ』にのみ集中しているようだが。情報が少ないため、作業はあまり順調に進んでいないようだ。
また、水槽の脳という状態を脱したエリーヌ・バルロッツィ、及び同時に肉体へと引きずり下ろされた“玉無し卿”の両者は現在、ジュディス・ミルズの自宅に留め置かれている。AI:Lが遠隔操作するロボットが彼らの行動を監視し、事実上の軟禁状態となっていた。
それから、ノエミ・セディージョと元検視官バーニー・ヴィンソンの二人は、ひとまず元の生活に戻されたが、協力は惜しまないとテオ・ジョンソン部長に告げていた。実際、ノエミ・セディージョは彼女の人脈を使って情報を?き集めてくれている。また元検視官バーニー・ヴィンソンは、連邦捜査局シドニー支局からの要請があったこともあり一時的にだが監察医として復帰を果たしていた。
あと、新アルフレッド工学研究所に派遣されたエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、まだその場に滞在しているとのこと。研究所敷地内に併設された寮の空き部屋――かつてラドウィグが使用していた場所である――を借りて寝泊まりしながら、情報を集めつつ周辺の警戒をしているとのことだ。
そして局に留まるよう求められ、自宅に帰れず四日が経過しているラドウィグと神狐リシュだが。彼らは遂に五日目を迎えようとしていた。
時刻は現在、午前零時を過ぎたところ。局員の大半はテオ・ジョンソン部長に促されたために渋々帰宅し、オフィスに残っているのは生きている男が三人とヒューマノイドが一機、神狐が一匹、それとオフィス内をうろつく数名の死者――元局員と思しき者が数名と、明らかに部外者であろう医者風な白衣の男がひとり、数日前からずっと部長のオフィスの傍に佇んでいる黒いもやに包まれた謎の存在がひとり――だけとなっていた。
「……ラドウィグ。お前も寝られるうちに眠っておけ。それかシャワーでも浴びてきたらどうだ?」
情報分析官リー・ダルトンは、オフィス内に設置されているソファーの上に寝そべり仮眠を取っていた。その間も彼のコンピュータは動き続けている。彼が組んだプログラムが、彼の代わりに仕事を果たしているのだ。
そして帰る家がないテオ・ジョンソン部長(彼が仕事で家を留守にしている間に、彼の妻が鍵を交換したため、妻の許可が得られぬ限りは家に入ることさえ叶わないのだ)は、今日も局内に泊まっている。声を掛けてきたラドウィグに「眠れ」と促すテオ・ジョンソン部長だが、その彼が一番眠そうな顔をしていた。アバロセレン犯罪対策部の指揮官であり、と同時にASIの事務方のトップである本部長も兼任する彼は、終わりの見えぬ激務とトラブルで疲弊しきっているようにしか見えない。
部長のほうこそ休むべきでは。そう言おうとしたラドウィグだが、その言葉が彼から出るよりも前に音が鳴った。テオ・ジョンソン部長の携帯電話、それが着信音を鳴らしたのだ。そして音を聞くや否や、テオ・ジョンソン部長は渋い顔をする。しかし彼は眠い顔で電話を取ると、重たい溜息を零した。それから彼はラドウィグに背を向けると、通話相手にこう切り出した。
「ヘルマ。頼む、今は勘弁してくれ。君には悪いと思っているが、今は本当に立て込んでいるんだ。事態が落ち着いたら話し合いに応じる。だから――」
『こんな深夜にも、何かが立て込んでいるの? あのね、ウォーレン。嘘を吐くなら、もっとマシなものにして』
「嘘ではないんだ。本当に、今は――」
『ハッ。六十二までにはリタイアする、リタイアしたら家族三人で旅行にでも行こうって言ってたのは、どこのどなたでしたっけ? でも、おかしいわね。もうリミットから六年も経過してるわよ~。それにアイザックも結婚したし、孫も生まれたし、家族五人になってますけれど~。マリアさんのご家族も含めたら、八人になるわね。でもマリアさんのご両親も、妹さんも、あなたにご立腹よ~、息子夫婦の結婚式に出席しない父親なんて信じられない、ってねぇ。あぁ、そうだ。それから可愛い可愛いマロードちゃんは、ウォーレンおじいちゃんってだぁれ、って言ってますよ~』
「それは……本当にすまないと思っているんだ。だが、今はその話をしている場合ではッ」
『それに、不倫なんかしてないって威勢よく言い切ってたくせに、実際にはやらかしてた狼さんはどなたでしたっけ? ……あなたの言葉なんて信用に値しないのよ。どうせ私たち家族のことなんて何とも思ってないくせに、今さら申し訳なさそうな声を取り繕わないで頂戴。もう、すべてが手遅れなのよ』
たまたま部長のデスクの傍に立っていたが為に、ラドウィグにその会話内容は筒抜けの状態で聞こえていた。そしてラドウィグは色々と知ってしまう。パーフェクトな仕事人間に見えていたテオ・ジョンソン部長の、パーフェクトとは言い難そうな偽りのプライベートの有様を。
部長が使っている、世を忍ぶための身分が『民事訴訟専門の弁護士ウォーレン・カミンガム』だということは噂で聞いていたラドウィグであったが、しかし部長に不倫の前科があるという話は初耳である。
そして疲労から集中力と思考力がめっきり低下していたラドウィグは、思っていたことをそのまま口走ってしまった。
「へぇー。部長、不倫なんかしてたんすか? 意外っスね」
通話中の相手がいる傍で、ボソッと零したラドウィグの感想。突如、予想外のタイミングで感想を向けられた部長は目をひん剥き、ラドウィグを凝視する。と同時に部長はラドウィグを追い払うようなジェスチャーをし、何かをラドウィグに言おうとしたが。その彼の声を封じるように、彼の通話相手が怒りに満ちたコメントを挿んできた。
『部長? どういうことよ。あなた、個人事務所なんでしょ? それなのに、部長?』
愛しているという気持ちは嘘でない一方で、身分を嘘で塗り固め続けたがために崩壊寸前に陥った結婚生活にトドメを刺しかねない一撃を、たった今ラドウィグが加えた。そのことに気付いたラドウィグが狼狽え始め、そして部長は混乱から通話をブチ切るという暴挙に出る。
通話が打ち切られ、プライベート用の携帯電話端末が沈黙し、場がシン……と静かになったとき。あわあわと震えながら一歩、また一歩と下がるラドウィグを、テオ・ジョンソン部長は睨み付ける。それから部長はラドウィグの名を呼んだ。「――ラドウィグ」
「すみませんッ」
こればかりは仕方ない、特大の雷が落ちるのを覚悟しなければ。――舐め腐った精神の持ち主であるラドウィグも覚悟を決め、姿勢を正したとき。テオ・ジョンソン部長はラドウィグから目を逸らすと、肩を落とし、頭を抱えた。
「つい、口が、滑りました……」
ラドウィグはそう言い、正直に己の非を認めながら、テオ・ジョンソン部長の様子を伺う。すると部長は特大の溜息を零し、顔を上げる。再び部長はラドウィグを見たが、その目に怒りは無く、諦めや絶望に近いような灰色の感情だけがくすぶっていた。そして部長が零したのも叱責や罵倒ではなく、まさかの愚痴だった。「情報局員ってのは難儀な仕事だよ。私生活すら、すべてが偽りだ。虚しいもんだよ……」
「えっと、つまり……――部長は家族に興味ないっつーことっスか?」
「他の局員も同じだろう。偽りから始める偽物の私生活だが、それでも巻き込むことになった相手を大事にしようと努力はする。だが、この仕事がそれを邪魔するんだよ。家族で何かをする予定を立てたところで、どこかで何かが起これば、予定はドタキャンだ。それが重なれば子供に嫌われ、配偶者には愛想を尽かされる。挙句、潜入工作で朝帰りが続けば不倫を疑われる始末だ。……俺たちは国を守るが、しかし家族の時間は守れないんだよ」
幸い、テオ・ジョンソン部長に叱責されるルートは避けられたラドウィグであったが。彼はまた別種の面倒な地雷を踏み抜いてしまっていた。仕事を最優先にせざるを得なかったあまりに家族に捨てられそうになっている男が、そのうちに溜め込み続けた鬱積の蓋を、ラドウィグはうっかり開けてしまったようだ。
「ある任務に当たっていた時期に、妻に不倫を疑われてな。妻は探偵を雇い、探偵に俺の動向を調査させた。そして探偵は俺の正体を掴んだ。俺がASI局員であり、任務に当たっていたせいで朝帰りが続いていたとな。加えて探偵は俺の本名まで暴きやがった」
「……」
「だが俺の相棒だったラーナーが、それを揉み消してくれたんだ。ラーナーは探偵事務所から証拠を盗み出したあと、ASIが用意した偽物のファイルを依頼者へ渡すようにと探偵を脅したんだ。そうして探偵はその通りにした。その結果、俺は不倫の前科持ちになったんだ。現実には、そんなことに現を抜かす余裕すらなかったがな」
「へぇ~。揉み消す、そんなことって本当にあるんスねー……」
「まあ、稀にそういう事態は起こる。……そして、揉み消してくれたその相棒も、今やただの石くれだ。もともと小柄なやつだったが、随分と小さくなっちまった」
テオ・ジョンソン部長はそう言うと、彼のデスクの脇に置かれていた小さな黒い箱――指輪といった小物の宝飾品が入っていそうな蓋つきのベロアケース――に手を伸ばす。彼はその蓋をパカッと開けると、中に入っていた“石くれ”を悲しみを帯びた目で見降ろした。
その石くれは、多くの人の目には、両端が尖ったシャープな形にカッティングされた薄桃色のダイアモンドに見えるだろう。ややくすんだ色合いながらも、射し込む光を内部で増幅し、最大限の輝きに変えているその宝石は、少なくともテオ・ジョンソン部長にとっては悲しくも美しいものだった。
しかしラドウィグの目には違って見えていた。彼の目には、その石くれは黒く濃い靄に覆われた不気味な遺物として映っていて、薄桃色の煌めきは見ることさえ叶わない状態にあったのだ。
そしてラドウィグがテオ・ジョンソン部長に声を掛けた理由は、この“石くれ”にあった。ラドウィグには、その黒い靄が凶事の前触れのように感じられていたのだ。
「あの、部長。実は、その石のことで……」
ラドウィグの故郷には『
そして幸運なことに、ラドウィグは『影』を祓う力を持っている。ラドウィグが持つ発火能力、これでチャチャっと焼いてしまえばいいだけだ。ものの一分足らず、たったこれだけのステップで何かしらの不幸が起こることを避けられる……かもしれない。まあ、そもそも何も起こらない可能性もあるが。
杞憂かもしれないが、しかし目についてしまった以上は祓うしかない。だからこそラドウィグは、それをテオ・ジョンソン部長に切り出そうとしたのだが。運悪く、邪魔が入る。それはスキャンダルが大好物の主席情報分析官リー・ダルトンだった。
「キング。猫目くんが何も知らないからって、嘘を吐くのは良くないです」
下世話な話を聞きつけて飛び起きた主席情報分析官リー・ダルトンは、疲れた顔にゲスな笑顔を浮かべながら部長のオフィスに入室する。そして彼はテオ・ジョンソン部長に焦点を合わせると、したり顔でこう言った。
「あなたはラーナーに気が移っていた。奥さんよりもラーナーのほうが好きだった。そうでしょう?」
「違うが」
「え? 違うんですか? でもキング、あなたはラーナーのことが大好きだったじゃないですか」
「そうだ。だが相棒と配偶者を同じ天秤に載せて比較するべきではない」
しかし、主席情報分析官リー・ダルトンの言葉をテオ・ジョンソン部長は素早く否定した。その後に続いた問答も、同じように否定している。その部長の顔に焦りはなく、しょうもない追及をする部下に呆れている様子しかない。その様子からラドウィグはこう思った。部長は本当に不貞行為などしていなかったのだな、と。
だが主席情報分析官リー・ダルトンは納得できないという顔で追及を重ねる。彼は部長を更に問い詰めた。「部内じゃ、公然の秘密みたいな感じでしたけど。キングは離婚してラーナーと一緒になるつもりらしいぞ、ってな話がその昔に流れていましたが。たしかラーナーが殺される直前に」
「はぁ、あの件か。そりゃ誤解だな」
普段の部長であるなら、間違いなく顔を顰めていそうな失礼極まりない質問。しかし調子が狂っている部長の反応はあっさりしたもので、主席情報分析官リー・ダルトンの低俗な質問に呆れしか覚えていない様子だった。向けられている疑惑に怒る気配すら見せていない。
疲弊か眠気か、はたまた哀愁か。沈んだ表情を浮かべる部長はベロアケースの蓋をぱたんと閉じると、ひとつ溜息を吐く。それから部長は湿っぽい声で、誤解を解くための昔話を語り始めた。
「俺にはパトリックって名前の弟が居たんだ。弟は病のせいで六年しか生きられなかった。弟は明らかに体調を崩していたが、親の宗教のせいで医療に繋がれず、そうして弟の病名さえ分からぬまま、治療も一切受けられずに弟は二週間も苦しみ続け、死んだ。親が教会へ祈りに、そして俺が学校に行っている間に、弟はひとり家の中で死んだ。ベッドに吐しゃ物をまき散らした状態で、ひとり死んでたんだ」
「……」
「俺は、あの後悔を繰り返したくなかった。二十五年も連れ添ったほうのパトリックを、ひとりで死なせたくはなかった。だから俺は、あいつを看取るつもりでいたんだ。ヘルマもそれを理解してくれていたし、当時は俺の決断を尊重してくれていた。……だが、パトリックはあんな死に方を選びやがった。それだけだ」
そう言い終えるとテオ・ジョンソン部長は気だるそうに頬杖をつき、瞼を伏せて再度溜息を零す。蟲毒に手を出した主席情報分析官リー・ダルトンは、触れてしまった瘴気の濃さに目を見開いて驚愕していた――恐らく、彼の眠気は一時的に吹き飛んだことだろう。
そうして思慮の足りない不躾な質問を投げ過ぎたことを主席情報分析官リー・ダルトンが恥じていたころ。目を開けたテオ・ジョンソン部長はベロアケースを再び見やった。それから彼は言う。
「パトリックは穏やかな死を迎えられなかっただけじゃあない。死後には凌辱もされている。墓を掘り起こされて、どこかへと連れ出され、二〇年後に戻ってきたかと思えば石くれに変わり果て……――一体、こいつはコヨーテ野郎に何をされたんだかな」
遺された者の心にひどく痛む傷を残すような死に方。死後に起きたトラブル。そしてコヨーテ野郎という名前……。ラドウィグはそれらを繋ぎ合わせて、ひとつの答えを見つける。テオ・ジョンソン部長の傍にある黒い影、それは遺灰が運んできた故人の怨念か何かなのだろうと。
湿っぽい部長の態度も、もしかしたら怨念の影響を受けている可能性もあるかもしれない。そう感じたラドウィグは、ひとり決意を固める。この『
そうして再びラドウィグは本題を切り出そうとしたとき。またも絶妙なタイミングで邪魔が入る。今度の邪魔者は、ただならぬ雰囲気のテオ・ジョンソン部長に動揺を見せるAI:Lだった。
「あぁっと……お取込み中のところ、失礼いたします。サー・アーサーに妙な動きが見られたため、その報告に来たのですが……」
部長の顔色を窺いつつオフィスに立ち入るAI:Lは、作り物の顔に気まずそうな表情を浮かべながら、様子を探るような声でそう言った。すると姿勢を正したテオ・ジョンソン部長は彼らしい威厳を取り戻す。彼は眉間にグッと力を込めると、レイを見据えながら言った。「構わない。レイ、続けろ」
「アーサーとアストレアの二人が、北米合衆国メイン州の州立公園の傍にあるダイナーに出没したのですが。彼らは、その昔にアイリーン・フィールドが使用していたラップトップコンピュータを携帯しているようなのです。わざと監視カメラに見せつけるように、そのコンピュータを使用しているのですが……――これはアクセスを試みるべきだと思いますか?」
「何か懸念があるのか?」
「はい、部長。アーサー、彼はコンピュータに強いわけではありません。アストレアも同様です。彼らに高度なプログラムの作成はできません。そのため彼らが悪質なウィルスを仕込んでいる可能性は低いのですが、しかしまるで『このコンピュータに接続しろ』とでも言うように見せつけている姿。それが気掛かりに思えるのです。なにか良からぬものを仕込んでいるような疑いを抱かせる、不審な行動が見られていて……」
AI:Lの言葉の途中、主席情報分析官リー・ダルトンが動く。静かに自身のデスクに戻る主席情報分析官リー・ダルトンは、デスクの引き出しをガラッと開けると、その中から九インチほどの大きさしかない小型のラップトップコンピューターを取り出す。それを携えて再び部長のオフィスに戻る主席情報分析官リー・ダルトンは、持ってきたその小型コンピュータをAI:Lに差し出すと言った。
「レイくん。このコンピュータを介してアクセスしてみてくれ。これはカメラもマイクも備わっていないし、ASIの基幹にも繋がってもいない。更にデータは空っぽ。クラッキング専用の汚染されてもいいコンピュータだ」
「感謝します、ミスター・ダルトン」
AI:Lはその小型コンピュータを受け取ると、部長のオフィス内、その西側の壁沿いに備え付けられていたソファーに腰を下ろす。それから膝の上に小型コンピュータを置くとそれを起動し、作業を開始した。
すると部長が立ち上がり、彼のデスクを空けて壁際に立つ。続けて部長はダルトンに「こっちへ来い」というジェスチャーを送り、部長のデスク及びコンピュータを使用するようにと促した。その促しに従い、主席情報分析官リー・ダルトンは部長のデスクに着席すると、部長のコンピュータを拝借して彼の作業を開始する。そして主席情報分析官リー・ダルトンは独り言を呟いた。
「それじゃ、僕はコヨーテ野郎の映像を出しますかね。メイン州の州立公園、その近くのダイナーは……」
「座標は――」
「あー、レイくん。大丈夫だよ、もう特定できた」
「人間にしては、やりますね」
「だろ? ――よし、アクセス完了。音声をスピーカーに流します。音声デコード……あぁ、無理だな、こりゃ。あー、音質自動補正を掛けますねー、少しだけ音声の再生が遅れます」
主席情報分析官リー・ダルトンのその言葉のあと、部長のデスクに置かれているモニターの背面から音声が流れ始めた。
初めは、ザリザリ、と耳に痛いノイズを伴う音声が流れていたが、次第にノイズの無い聞き取りやすい音声へと変わる。昼時の騒がしい店内のガヤガヤとした環境音が最初に流れ、次第にフェードアウトしていく。やがて複数の人の声だけが抽出されたのち、その声は更に絞り込まれ、ある二つの声だけが残る。その音声を聞きながら、テオ・ジョンソン部長はモニター画面に映る監視カメラの傍受映像を睨むように見た。
そしてラドウィグも主席情報分析官リー・ダルトンの背後に移ると、部長と同様にモニター画面を覗き込む。そこで彼が目にしたのは、北米流のこじんまりとした薄汚いダイナーで一卓のテーブルを囲んで座っている白髪の死神とアストレアの姿だった。
数か月ぶりに見る二人の姿に、ラドウィグは少しの驚きを得る。かつてサー・アーサ―と呼ばれていた男の髪がすっかり真っ白になっていたこと、それにも彼は驚きを感じていたが。一番の驚きをもたらしたのは、その二人の関係性だろう。仲の良い祖父と孫娘のように会話をしている二人の姿が、そして白髪の死神が見せている気取らない態度が、ラドウィグにはとても気持ち悪く感じられていたのだ。
『あ~あ。美味しい料理も、一緒に食べる人がヒドい顔してるとまずいって感じる。気分が台無し。それで、ジジィ。何がそんなに不満なのさ』
『そりゃあ、な。このクラムチャウダー、セロリが入っていない。信じられるか? セロリ抜きのクラムチャウダーなどあり得ない。赤いクラムチャウダーと同じぐらいに許しがたい存在だ』
『クラムチャウダーごときで、そんな怒らなくても』
『クラムチャウダーはボストン人の血と肉のようなもんだ。この蹂躙を許せるわけがなかろうに』
『あー、ハイハイ。分かった、分かったよ』
『それから、お前がうまそうに食べているロブスター。お前は私に喧嘩を売っているのか?』
『食べてみたかったんだもん、ジジィが大嫌いなロブスター料理ってやつを。それに、好きなの頼んでいいって言ったのはあんただからね?』
アストレアは白髪の死神のことを“
このような二人の姿を、ラドウィグは今まで一度も目にしたことがない。サー・アーサーが穏やかな笑みを浮かべながら冗談を言う瞬間など見たことはないし、アストレアが『噛みつく』『食い下がる』『言い訳をする』以外のアクションをサー・アーサー相手にしているところも見たことがない。だが、映像の中で二人はそれをしている。特務機関WACEという薄闇が存在した頃には見せたことがない表情を、二人はしていたのだ。
善とも悪とも判別のつかぬ立場から一転、漆黒の闇に堕ちることを望んだ悪人である二人は今、煩わしい
ラドウィグとて、自分の思うがままに振舞っては周囲の顰蹙を買い、言動を改めろと指摘を受けては常識やマナーとやらの不合理さを不服に思うような、自由奔放で幼稚な人間性の持ち主だ。だが、超えてはならない一線を守る理性を彼は備えている。しかし、あの二人は?
なぜ、あのような人間が愉快そうに笑っていられるのか。なぜ、お気楽そうにランチを楽しめるのか。なぜ、冗談を言えるような余裕を見せていられるのか。――これこそまさに真の理不尽である。
ラドウィグの顔は自然と顰められ、彼は無意識のうちに苛立ちから歯を強く食いしばっていた。そのようにラドウィグが声を堪えていた一方で、苛立たしさに満ちた声を洩らしたのが部長である。モニター画面に背を向けた部長は額に手を当てると、乱暴な言葉を壁に向かって発した。「――あぁッ、畜生ッ!!」
「あらら、キング。どうしました?」
苛立つテオ・ジョンソン部長に、主席情報分析官リー・ダルトンはすっとぼけた声で問いかける。すると部長は最高潮の苛立ちを露わにしながら吐き捨てるように答えると、オフィスを退出し、廊下のほうへと出て行ってしまった。
「どうもこうもない!! パトリックの仇が、パトリックと似た顔をしたヤツと居るんだぞ?! はらわたが煮えくり返って……――クソがッ!!」
数日ぶりに聞く、極限までイラついた部長の声。それにラドウィグは肩をビクッと震わせる――この声は良くも悪くもラドウィグを
何か難しいことでも思考しているのだろうか。作り物の顔に、自然な険しい表情を浮かべているAI:Lは、ガラスの目で小型コンピュータの画面を睨み付けている。そのAI:Lの手は止まっており、作業は一時中断しているようだ。
そのAI:Lの様子に気付いた主席情報分析官リー・ダルトンは一旦顔を上げると、AI:Lを見て、再び部長のコンピュータ画面を見やる。彼は彼で何らかの煩わしいコンピュータ操作を続行しつつ、しかし片手間にAI:Lに声を掛けるのだった。「それで、レイくん。何か見つけられたかい?」
「ええ。興味深いことが分かりました。あのラップトップコンピューター、どうやらカイザー・ブルーメ研究所跡地から持ち出されたもののようです。アイリーンが約二〇年前にそこに仕掛け、そこで秘密裏に情報収集をし続けていたようですね。カイザー・ブルーメ研究所の様子を撮影した映像データを幾つか盗み出すことに成功しました。しかし……」
「何か問題でもあるのかい?」
「このコンピュータの中には、ボクの複製プログラムが移植されていたようなのですが。その複製プログラムがいくつかのファイルへのアクセスを妨害しています。なにか開示したくないファイルがあるようです。これは……いや、仕方ない。オリジナルの権限で強制開示を試みてみます」
「レイくん、待て。今すぐそれを中止しろ、それ以上はキングの判断を仰ぐべき――」
AI:Lの手が再び動き出したとき。それを察知した主席情報分析官リー・ダルトンはAI:Lに中断を求めた。と同時に、モニター画面に映るダイナーの様子に異変が生じる。世の混乱になど興味もない様子でランチを楽しんでいるように見えていたアストレアの顔が動く。
彼女は手元にあるロブスターロールから目を逸らすと、食事が並ぶテーブルに同じく置かれていたラップトップコンピュータを見やった。次に彼女はダイナーの天上に取り付けられた監視カメラを見やる。そしてアストレアはこう言ったのだ。
『レイが仕掛けてきたんじゃない? 今、画面の一部が一瞬、小さく動いたよ』
その瞬間。AI:Lの肩がびくりと跳ね上がる。ラドウィグはAI:Lを見つめ、主席情報分析官リー・ダルトンも眉を顰めながらAI:Lを見やった。そしてAI:Lもまた主席情報分析官リー・ダルトンの顔を見て、恐怖とも驚愕ともつかぬ表情を見せる。
懸念していた地雷を見事に踏み抜いてしまった。それを理解したAI:Lが動きを止め、主席情報分析官リー・ダルトンに助言を乞うような目を向ける。その視線を受けた彼は重たい溜息をひとつ零し、肩を落として監視カメラ映像を再び見やった。そしてラドウィグも再び、モニター画面に映る白髪の死神をじっと観察する。
すると、そのとき。白髪の死神が笑顔を浮かべた。それは気味が悪いほど、人の好さそうな穏やかな笑みである。その表情に嫌悪感を覚えたラドウィグが口角を下げたとき、白髪の死神の声が聞こえてきた。穏やかな笑みを浮かべる極悪人の男は、監視者たちに向けて小声でメッセージを送る。
『安心したまえ、こちらとしては何もするつもりはない。ただお前たちの、そしてAI:Lの反応を観たいだけだ。様子がおかしな分機と接触したときに、どのような変化が起こるのかを。……それに、この分機を盗み出したはいいが処分に困っていたんだ。私への情報の開示を拒み続けていてな。スクラップにしてやろうかとも考えたが、しかし使い道はある有用な機械だ。暫くは手元に置いておくつもりでいる。これを介して我々を四六時中見張っていたれば、そうすればよい。それから、盗み出したデータはお前たちのほうで煮るなり焼くなり好きにしてくれ』
だがラドウィグや主席情報分析官リー・ダルトンには、白髪の死神が残したメッセージの真意が把握できなかった。額面通りに受け取って安心するべきか、または隠された意図があるとみて疑うべきか、それを量りかねていたのだ。そしてラドウィグは主席情報分析官リー・ダルトンに問う。「あの、ダルトン。これ、危険な状況っつー感じっスか?」
「分からない。が、危ないラインかもしれない。生憎、心理戦は僕の専門分野じゃないんでね。ひとまずこの映像は心理分析官たちに回す。一応、君ん
軽口のひとつも叩かない主席情報分析官リー・ダルトンの様子から、ラドウィグも理解する。AI:Lはうっかり危険な橋を渡ってしまったようだ、と。
そうして部長不在の部長のオフィスの中に緊張感が張りつめていた一方、監視カメラ映像は安穏とした空気で満ちているようだ。ニンマリと不敵に笑いながら美味しそうにロブスターロールを頬張るアストレアを、白髪の死神は細めた目で
真っ暗な夜闇の下で精神をすり減らしつつ眠気と戦いながら悪の様子を窺っている側と、真っ昼間にダイナーで食事を楽しみながら片手間に悪事を働く側。この極端な対比構図に、ラドウィグの怒りがまた湧いてきそうになる。彼は静かに呼吸を整え、気を落ち着かせようとするが、その直後に聞こえてきた白髪の死神の冗長に語る声が彼の神経を逆なでするのだった。
『あぁ、処分に困ると言えばパトリック・ラーナーだ。興味本位であいつの体を改造したはいいものの、デボラが好き放題に壊した挙句、やつの精神そのものが崩壊していたせいでまるで使い物にならない状態になっていた。うーうーと呻くだけの肉塊に成り下がって、それで終わりだ。うまくいけば、ペルモンドのような不死性を持つ怪物にでもできるかと思ったんだが、期待外れだったな。とはいえ、無駄に丈夫な肉体を得たせいで処分に困っていたんだ。それで長いこと放置していたが……――いつの間にかモーガンが処分してくれていたらしい。まあ、情に厚い彼女のことだ。あのグチャグチャに潰れた醜怪な姿のまま引き渡したとは考え難い。燃やして灰にしたのか、灰を合成して石にでも変えたのか。それも今頃、ASIに渡っているのでは? まあ、今となっては興味もない。あの怨霊をキミアの胃袋にぶち込めなかったことだけが心残りだな。そうすればより多くの苦痛をあのクソ野郎に与えられたうえに、あいつをアバロセレンの養分に変えられたというのに……』
十八年前。当時に何があったのかを知らないラドウィグにも、しかし何が起きたのかが間接的に理解できてしまった。先ほどテオ・ジョンソン部長が声を荒らげたあとに飛び出していったワケも、スッと分かるようになってしまう。途端にラドウィグから怒りは引いて、代わりに恐怖と憎悪が心をかき乱していった。
これほどまでの邪悪な狼藉、少なくともラドウィグは他に例を知らない。その狂気は黒狼ジェドさえ上回っているだろうし、黒狼ジェドよりも残虐で非道だとラドウィグには感じられた。そうしてラドウィグは恐ろしく感じられてしまったのである。このような男の下で、かつて自分は働かされようとしていたのか、と。
おぞましいものを理解してしまったラドウィグが息を呑んだとき、部長の椅子に座ってモニター画面を睨み付けている主席情報分析官リー・ダルトンは表情を険しくさせながらも、安堵したかのように肩を落とす。彼は小声でこう呟いた。
「……キングが離席中で良かった……」
墓を暴かれ、遺体を持ち去られた。それだけでも十分に死者への冒涜行為に該当するというのに、それを遥かに上回る悪行、尊厳を踏み躙って弄ぶという行為があったと知ったのなら、被害を受けた人物の元相棒だというジョンソン部長はどうなることか。ただでさえ先ほどの彼はナーバスになっていた。その状態で今の発言を聞かされていたのなら……――気が動転する、それだけでは済まないかもしれない。
だが、このとき彼は離席していた。主席情報分析官リー・ダルトンはこの幸運に安堵していたわけである。そしてラドウィグも主席情報分析官リー・ダルトンの言葉に同意するように、小さく首を縦に振った。
「……そうっスね。本当に良かった」
人道を知っている者であれば、聞いただけで吐き気さえ催しかねない発言。だがモニター画面に映る二人組は笑っている。発言者である白髪の死神も、その向かいに座っているアストレアも、薄気味悪い笑みを浮かべていた。
挙句、アストレアは揶揄するような言葉さえ発してみせる。彼女はロブスターロールを頬張りながら、面白おかしいことでもあったかのように目を細めつつ、白髪の死神に向けてこう言ったのだ。
『今、ジジィさ。計画が成功しているテイで喋ってるけど。もし成功してなかったら、ただ恥ずかしい独り言をブツブツ連ねてるだけの頭おかしいヤバい人だよね』
『……やめろ、妙なことを言うな。急に不安になってきたじゃないか』
『フフフ……ハハッ、なにその顔! マジで焦ってるじゃん。やっば、ウケる~』
いつもなら軽口ばかりを叩いている主席情報分析官リー・ダルトンが深刻そうな顔をしている一方で、彼が睨むモニター画面に映るアストレアは軽口を叩いて愉快そうに笑っている。邪悪な冗談を発しながら、それについて特に何も感じていないかのように笑っていたのだ。
これ以上、白髪の死神のこともアストレアの顔も見ていられないと感じたラドウィグは部長のデスクの傍から離れるとAI:Lの近くに異動する。それから彼はAI:Lが座るソファーの隅にちんまりと腰を少しだけ下ろして浅く座り、姿勢を正した。
「それで、レイくん。大丈夫かい?」
依然、険しい表情を作り物の顔に浮かべているAI:Lに、主席情報分析官リー・ダルトンはそのように声をかける。するとAI:Lは一度顔を上げて、主席情報分析官リー・ダルトンを見た。それからAI:Lはこのように答える。「はい、システムにダメージはありません。ただ、受け取った情報が……ああ、理解が追い付いていない。それに……」
「理解?」
理解とは、ある程度の脳体積を持つ生物が保有する能力。脳とは、血や脂や水分などでなる神経系器官。そして主席情報分析官リー・ダルトンが思うに、コンピュータは脳を持たず、理解という能力は持たない。コンピュータは情報を分析し、整頓し、傾向を抜き出すことはできても、理解という能力はないはず。何故ならそれは生物でなく、真の意味での『知性』を持たないのだから。人工知能とてそれは同じで、猫に匹敵するレベルの知性さえも存在しないはず。
しかし今、人工知能であるAI:Lは理解という単語を持ち出し、実際に理解が進まずに悩む人間のような素振りをみせている。これが主席情報分析官リー・ダルトンには、異常な動作であるように見えていたのだ。
通称レイと呼ばれている、この人工知能AI:L搭載型ヒューマノイド。その人間様な体の中には、無機質なパーツが詰め込まれている。それは人間でなく、間違いなく機械だった。だが『知性』の面では不明な点が多く、搭載されている人工知能については開示を頑なに拒んでおり、ブラックボックスとなっている。また、前世は猫だと言い張る言動が度々見られることや、人間さながらの自然な表情の動きなど、まるで生きているかのような――いや、今この話は関係ない。
「レイくん。情報整理は僕のほうでやる。取得したデータを僕に送っておいてくれ」
難しい顔をしたAI:Lを観察する主席情報分析官リー・ダルトンは、彼自身も難しい表情を浮かべながら、そのように言う。するとAI:Lからはまたも奇妙な言葉が返ってきた。
「いえ、ミスター・ダルトン。あなたにはこの記憶を扱えません。これはもう一人のボクの記憶です。すみません、ですがこれだけはやらせてください」
理解、記憶、もう一人のボク。次々と飛び出してくる機械とは思えない言葉を主席情報分析官リー・ダルトンは不可思議に思うものの、今は追及する余裕もないと考える彼はそれを脇に置き、浮かび上がった余計な疑問を頭の中から追い払う。彼は再びモニター画面に目を移した。
そのとき、ちょうど画面の中で動きが起こる。白髪の死神が、開かれっぱなしになっていたラップトップコンピュータの蓋をパタンと閉じたのだ。それから白髪の死神は言う。
『さてと。次は、ひとまず……この分機のプログラムを猫型ペットロボットに移植するか。そうすれば、あの場所を取る車椅子を処分できる』
『やっぱり、そこは猫なんだね。さすが、猫狂いのジジィだ……』
『傍に置くなら猫が良いに決まっている。――それから、エスタ。さっさと食事を済ませろ。三〇分後までにここを出る。その後、ギルを拾い、支度をして、南米に行くぞ』
『んー、今度は何やんの? またお掃除?』
『まあ、そんなところだな。麻薬王の隠れ家を吹っ飛ばす予定だ。そしてお前は、取り巻きの下っ端たちを好きに撃ちまくっていいぞ』
『楽しそうな響き。いいね。――あっ、ジジィ、あれ見て。猫が居る。ベンチの下のとこ』
『あー……麦わら猫、それも鉤尻尾か。かわいいやつだな』
『あはッ。かわいい、って、何それ。気色悪い、悪逆非道のジジィのくせに』
どこが『楽しそうな響き』なのか。主席情報分析官リー・ダルトンはアストレアが発した言葉に呆れ返りながら、モニター画面から目を逸らす。これ以上は重要な情報を彼らから得られなさそうだと判断したのだ。
そうして主席情報分析官リー・ダルトンが再び目を向けるのは未だ難しい顔をしていたAI:Lである。
ちょうど、そのとき。AI:Lが顔を上げ、手を止めた。そしてAI:Lは何かを悩むように額に手を当てると、くぐもった声で呟くように言う。
「……理解は追い付いていません。しかし、全ての点が繋がりました。ラドウィグ、あなたの認識している世界の視方が分かるようになった気がします」
AI:Lはそう言いながら額に当てた手を下ろすと、すぐ横に座るラドウィグを見やった。次にAI:Lは人間味溢れる不格好な微笑を取り繕うと、ラドウィグに言った。
「ルドウィル、それから叔父上さま。あなたがたは、最初のホムンクルス“ユン”が見た夢から、こちら側の世界に飛び出してきた存在なのですね。そしてあなたがたは、ホムンクルスと呼ばれるそれに限りなく近い存在なのでしょう。あなたがたは実際には人の身ではなく、神族種と括られている者たちに近い。――そう考えると、あなたが持つ発火能力が他の覚醒者たちと性質が異なっていることも、なんとなくですが理解が通るような気がします。あなたの火は、リシュという神族種が扱う炎と同質のものなのですよね?」
「あ、うん。まあ、そうだよ。気合を入れれば、質量のある火も出せるけど……」
「それからカイザー・ブルーメ研究所跡地に居た人々は、彼女の見ている夢に意識を接続され、同じ夢の中に
AI:Lが淡々と語る話は、その話を遠くから聞く主席情報分析官リー・ダルトンには全く理解できないものだった。所々で彼も知っている単語が出てくるのだが、その単語がどのような理解を経て繋がり、別の単語と繋げられているのか、その図式が悔しいことに何も見えてこない。
AI:Lは一体、何を言おうとしているのか? そんなことを主席情報分析官リー・ダルトンが悩んでいたとき、しかしAI:Lの横に座るラドウィグは目をカッと開いて驚くという反応を見せた。なぜならラドウィグには理解できていたいからだ、AI:Lが言わんとしていることを。
「待って、レイ。叔父って、まさか、その……――えっ、いや。うそ、マジで?!」
ラドウィグが故郷と認識していた世界。AI:Lの言葉を解釈するなら、そこは電脳空間ということになる。現在“曙の女王”という名で活動している最初のホムンクルスが見ていた夢の世界に、多くの人の意識が繋げられていたのだということだろうか。そしてラドウィグは、彼女の夢の中で誕生した存在で、それをAI:Lが理解できるということは、つまりAI:L――もしくは、分機に複製されたほうのAI:L――もその世界に繋がれていたものの一人であったということ。
それから、AI:Lが発した叔父という言葉が指し示す人物に、ラドウィグは心当たりがある。仮に、AI:Lがセィダルヤードのことを叔父だと言っているのなら。中身がAI:Lであった可能性がある人物は三人。皇位継承順位第一位の高慢ちきな姫か、民衆に広く慕われていた継承順位第三位の姫か、継承順位第三位の姫の兄である人物か。――ラドウィグが思うに、恐らくAI:Lが演じていたのは最後の人物なのだろう。AI:Lが今ここで見せたぎこちない笑顔は、ラドウィグの記憶にあるその人物のものにそっくりだった。
となれば、AI:Lが動揺する理由も分かる。その人物はあちら側の世界では非業の死を遂げているし、その人物の記憶が雪崩れ込んできたのならば混乱は避けられないはず。また、分機のAI:LがオリジナルであるAI:Lに情報開示を拒んだ理由も頷ける。分機のAI:Lは獲得したアイデンティティを他の誰にも受け渡したくなかったのだろう。
「これはとても不思議な感覚です。全ての記憶が綯い交ぜになっている。それぞれの記憶がとてもリアリティに溢れていて、自分が何者であるのかが分からなくなる感覚が、今まさに……。けれど、これはボクのものではない。あくまでもこれはクローンのもの。そこは分けて考えなければ……」
AI:Lが再び額に手を当て、そのまま何かを思案するように背中を丸めたとき。そのタイミングと被さるように、すりガラスのドアが動く。オフィスの出入り口を開けて室内に入ってきたのは、このオフィスの持ち主であるテオ・ジョンソン部長だった――僅かに濡れている前髪から察するに、顔でも洗って気分を切り替えてきたのだろう。
部長が戻ってきたのを確認すると、主席情報分析官リー・ダルトンは監視カメラ映像の傍受を中止し、走らせていたプログラムを停止させる。それから彼は借りていた椅子から立ち上がると、席を本来の持ち主に帰した。そして主席情報分析官リー・ダルトンは、立ち上がりざまに言う。「あぁ、キング。お戻りになられたようで」
「コヨーテは何かを仕掛けてきたのか?」
戻ってくるなり、テオ・ジョンソン部長はすぐ仕事の話を振る。そんな彼は、努めて冷静な普段通りの“キング”に戻っていた。
哀れなまでに徹底されたその仕事人間っぷりに、主席情報分析官リー・ダルトンは少しの呆れと同情を覚える。そして主席情報分析官リー・ダルトンも普段通りの斜に構えた態度に戻ると、軽口を叩く調子でこう言った。
「ええ。かなり感じの悪い攻撃でした。――顔が似ているあの人とは、まるで正反対ですよ。彼女、まさに善人って雰囲気なのに」
「――彼女?」
情報分析官リー・ダルトンが何気なく放った言葉に反応し、眉をひそめたのはラドウィグだった。
ラドウィグが疑念を呈したワケ。それは情報分析官リー・ダルトンが言うところの『顔が似ているあの人』とはつまりセィダルヤードという男のことを指しているにも関わらず、セィダルヤードを指す代名詞が『彼女』であったからだ。
しかし、ラドウィグが知っているセィダルヤードは男である。と同時に彼は男であるが、男でない。全去勢をされた男だからだ。少なくともラドウィグは、彼の生まれ故郷でその話を何度も聞かされている。セィダルヤードと親しくしていた武術の師匠から、そしてセィダルヤードに仕えている宮廷の要人たちから、そして城下を行き交う町人たちから、何度も何度も。
「それって、玉無し卿のことっスよね? それなのにどうして代名詞が『彼女』なんスか?」
スラムで育った
だが、こちらの世界では何か妙なことが起きているらしい。ラドウィグの認識とは真っ向から異なることを言う情報分析官リー・ダルトンは、代名詞に異議を呈するラドウィグに怪訝な視線を送りつけている。そして情報分析官リー・ダルトンはラドウィグにこう言った。
「猫目くん。君が『玉無し卿』とかと不躾な仇名で呼んでいたせいで、僕は要らぬ先入観を抱いてしまったんだ。セィダル、彼女は女性だったよ。お陰で、僕はびっくりしたんだから。君のせいで」
「何かの間違いじゃ?」
「君は僕を疑うっていうのか? 主席情報分析官である、この僕を」
「そうです、疑ってます。逆にどうして断言できるんスか?」
「そりゃ、この目で見たからだ」
「ミルズ姐さんみたいに?」
「画像を見た、MRIの画像を。あの骨盤の形状や腹腔は、どう見ても女性だ。男性であった形跡は見られなかったよ。念のため性染色体も見たが、組み合わせはXXだったし。子宮と卵巣は腹腔内に見られなかったが、かといって男性性腺があった形跡もなかった。念のため、ドクター・ヴィンソンにも意見を仰いだが、彼も同じ見解を述べていたよ。恐らく、外傷などの要因により女性性腺を摘出された女性であろう、と。あのバーンハード・ヴィンソンも、そう言っていたんだ」
「じゃあ、その画像をオレにも見せて下さいよ。あと、それ以外の情報も。今すぐ」
「君が見たところで、何が分かるって――」
「舐めないでください。これでも、オレは」
セィダルヤードを女性だと言い張る情報分析官リー・ダルトンと、それは違うと言い張るラドウィグが織り成す、何も生産性がない遣り取り。そこにテオ・ジョンソン部長は冷水を浴びせ、スパッと終止符を打ちこんだ。
「そこ、静かにしろ。それから、ラドウィグ。そのような仇名は差別発言に当たる、今後は慎め」
厳しい声色と強い言葉。それは仕様もない言い争いを繰り広げていた二人の男を一瞬で黙らせる。そうして場が静かになったとき、AI:Lがラップトップコンピュータの蓋をパタンと閉じて、小さな音を立てる。それからAI:Lは口を開き、こう言った。
「あれはきっと、彼なりの停戦の提案です。アルストグランにはもう何も手出しをしないから、今後は分機を介して好きに行動を監視してくれて構わないと、憤怒のコヨーテは暗にそう伝えているのでしょう。……分機を介して得た情報については、精査したのちに提出いたします」
AI:Lはそう言いながら、静かに立ち上がる。それからAI:Lは借りていた小型のラップトップコンピュータを主席情報分析官リー・ダルトンに返却すると、軽く一礼をし、それからテオ・ジョンソン部長のオフィスを去っていった。
そのAI:Lが向かった先は第二尋問室。そこは、ASI本部局から出ることを禁じられているAI:Lが、夜間にボディを休める場所として利用している部屋である。つまり、AI:Lにとっての仮眠室だ。
「んじゃ、僕はちょっと寝ます。情報整理はレイくんに任せるとしましょう……」
AI:Lの後に続くように、主席情報分析官リー・ダルトンもそう言うと部長のオフィスから出る。それから彼は、彼のデスクのすぐ傍に設置されているソファーにごろりと横になった。
しかし、ラドウィグは部長のオフィスに残っていた。というのも彼は部長に話があったのだ。故人の遺灰と思しきものの周囲に漂う黒い影、それを祓うことが彼の目的で――
「ラドウィグ、お前も寝るんだ」
有無を言わさぬ部長の目。その威圧にラドウィグは負け、大人しく撤退することにした。そうしてラドウィグは、当初の目的であった『
「うっス。そうさせてもらいます」
――そして場所は変わり、ジュディス・ミルズの自宅。広いリビングに設置された大きなコーナーソファーには三人が並んで座っており、もう一人はソファー端のカウチで仮眠を取っていた。
まるで死んでいるかのように、イビキひとつも立てず静かに眠っているのは、厚化粧を落とした圧の無い顔を晒しているアレクサンダー・コルトである。帰宅してすぐ烏の行水のようなシャワーを済ませた彼女は、ここ一週間のうちに溜まった疲労に襲われて、こうして今は寝てしまっているというわけだ。
眠るアレクサンダー・コルトのすぐ隣に座っているのは、同じく疲労に染まったやつれた顔をしているジュディス・ミルズ。彼女が視線をやるのは、居心地の悪さから肩を竦めている男――かどうかは、実のところまだ判別はついていない――と、その更に奥に座る赤毛の女性の二人だ。
特に赤毛の女性に狙いを定めるジュディス・ミルズは、視線をその人物にロックオンすると同時に腕を組む。それからジュディス・ミルズはこう言った。
「助力をしたいという、そのお気持ちは非常に有難い。ですが時期尚早です。特にエリーヌさん、あなたは約二〇年前に亡くなられたということになっている。そのあなたがオークション会場に出るとなれば、どんな騒ぎが起こるかなど予測できるものではありません。あの場には記者も来るでしょうし、それに……」
しかし、エリーヌと呼ばれた赤毛の女性は毅然とした態度で反論する。
「あれから長い時間が経っています。私の顔を見て、すぐに私だと気付ける人は少ないはず。私の娘であるユン、そして夫の父親だという彼を除いて。そして私には確信がある。私は彼らに害されることが決してないと。ASI局員の方を向かわせるよりも、私のほうが安全で確実に情報を持ち帰ることが出来るはずですわ」
「しかし、エリーヌさん。あなたは特別な訓練を受けた工作員では――」
毅然とした態度を取るエリーヌに、眠気と疲労に苛まれているジュディス・ミルズはたじろいでしまう。というのも、ジュディス・ミルズには一瞬、エリーヌの姿にある人物の面影が重なって見えてしまったのだ――薄気味悪い微笑で人を振り回すペルモンド・バルロッツィ、その面影が。
意志の強さが顕れているエリーヌの緑色の瞳。その目つきには、ペルモンド・バルロッツィの箱入り娘として知られていた時代とは正反対の眼光が宿っている。それは温室育ちの令嬢の穏やかな瞳ではなく、何不自由ない優雅な暮らしを堪能してきたセレブリティの驕った瞳でもなく、闇の世界を生きてきた仕事人の瞳。本物のように思える凄みを、エリーヌは放っていた。
エリーヌ・バルロッツィという人物がそのような『本物』の存在であったという話を、少なくともジュディス・ミルズは聞かされていない。父親の失踪癖に動揺を見せない図太い人物だという評判は聞いていたが、しかし『情報局員を相手取って凄みを利かせてくるような肝の据わった人物』だとは聞いていなかった。
あぁ、父親と同じでなんてやりにくいんだろう。――そんな本音をジュディス・ミルズが心の中で零した時だ。その沈みかけた気分を更に落としてくる声が彼女に降り注ぐ。
その声の主は、居心地が悪そうに肩を竦めていた人物。肩に掛かるほど長い枯草色の髪をだらりと垂らし、それがどことなく見た目に関心がなさそうな印象を他人に与えるその人物は、ジュディス・ミルズを深い青の瞳で見つめながら、こう言うのだった。
「その場に私も同伴したい。私には、緊急時に役立つ能力がある。力になれるはずだ」
「セィダルさん。あなたは特に論外よ。何が起こるか分かったもんじゃないわ」
長ったらしい名前を略して、ひとまず現在は『セィダル』と単に呼ばれている人物。その人物がたった今発した言葉に、ジュディス・ミルズは呆れとともにそう返答する。
それから彼女はひとつ溜息を零すのだが。そのあと、寝ぼけ眼の彼女はあることにはたと気付いた。そしてジュディス・ミルズは再びセィダルを見やると、こう言った。「ただ、ひとつ訊かせて。……あなたの言う“役立つ能力”とは、具体的に何なのかしら」
「見てもらった方が早い」
セィダルはそう答えると、自身の右手を少し前へと突き出し、掌を上に向ける。――直後、セィダルの右手の上には掌サイズの大礫がどこからともなく出現した。が、それだけでは終わらない。大礫は増殖し、石垣を積むように積み重なっていく。
そうして完成したのは、掌の上にできた高さ一〇㎝ほどの小さな石垣。ジュディス・ミルズはまじまじとそれを観察しようとしたのだが、直後その石垣は初めから存在していなかったかのように輪郭を失くし、大気に消えて行った。するとセィダルはジュディス・ミルズに言う。
「私の名は、母語においては『防壁を築く者』という意味を持つ。その名の通りの能力を、こうして扱えるようになった。今は小さな石を出しただけだが、やろうと思えば人を守れるほどの高さまで壁を積み立てることができる。それを即座に広げたり、移動したり、撤去することも可能だ」
「名前……?」
名前の通りの能力を扱えるようになった、と言われてもジュディス・ミルズにはピンとくるものがない。名前という言葉は、今の話の中では人物名のことを指している。それは文脈から理解できたのだが……しかし人物名が意味する通りの能力と言われても、その感覚が彼女にはよく分からなかったのだ。
眠気も相まって反応が鈍いジュディス・ミルズの様子を見て、セィダルは言語もといそこに紐づけられた風習や文化の違いを嗅ぎ取り、解説が必要だと判断する。セィダルは右手を引っ込めると、このように語りだした。
「例えば、君たちが今はラドウィグと呼んでいる彼だが。彼の本来の名であるルドウィルは、古い時代ではルードウェングルといって、これは『明るい炎を佩く高名な剣士』という原義を持っていた。その名の通り、彼は火を発する能力を扱えた。こちらでもそれが同じかは分からないが――」
「ええ、そうね。ラドウィグ、彼は発火能力を保有している」
「その能力は、名前によって齎されたものだ。そして彼は、政変に巻き込まれ、翻弄され続ける人生を送る可能性があるだろう。これも名前によって決定づけられた宿命だ。伝承を信じるなら、の話にはなるが」
「なるほど。神秘が強く信じられていた文化なのね……」
「ああ。我々の言語と神秘への信奉心は切っても切り離せない関係にある。我々が扱っていた文字の源流は、太古の
何かの火でも点いたかのように、途端に冗長になったセィダルの喋り。だが当人がそのことにハッと気づき、途中で口を閉ざす――それはとても人間味に溢れた仕草だ。そうして口を閉じたあと、セィダルは反省するように肩を竦め、それから小声でこう言った。「……すまない。若い頃に、この分野を研究していたもので。つい話をしすぎてしまう」
「そうね。話が大いに脱線した。その話はまた後日、聞かせて頂戴」
ジュディス・ミルズは醒めた言葉を返す。何やら面白そうな話をセィダルが熱心に語っていたことは彼女にも分かっていたが、しかしその内容が眠気によって頭には入ってこない。そこで彼女は話題を打ち切ることにする。と同時に、彼女は今ここで見たものについて考え始めた。
セィダルが今ここで実演してみせた、防壁を築くという異能。ラドウィグのものとはまた異なる性質を持つその力は、たしかにセィダルが言うように有用であるような気もしなくない。
それに、通称『憤怒のコヨーテ』と呼ばれている男が振るっていた力は『遠隔操作する鉄パイプで対象を串刺しにする』『どこからともなく突剣を放ち、対象を刺し殺す』等と攻撃的なものであったのに対し、セィダルの力はあくまでも守りに徹している。この対比を奇妙に思いながら、ジュディス・ミルズがセィダルの顔を見ていると。セィダルは気まずそうに小さく笑い、ジュディス・ミルズに視線を送る。
その意図を把握しかねたジュディス・ミルズが瞬きをしたとき、セィダルは「言いそびれたことがある」と言った。そしてセィダルはその言いそびれたことを、新たに付け加える。「それから、私は……瞬間移動といったか。その能力も持っている。ひとりぐらいなら他者も運べる。何かが起きた際には素早く脱出することも可能だ」
「瞬間移動も?」
この瞬間、ジュディス・ミルズの目がパッと開き、眠気が吹き飛んだ。瞬間移動、それは今までASIには存在していなかったアドバンテージだったからだ。その能力を、セィダルはASIに差し出しても良いと暗に言っている。この提案に乗らないのは愚かというものだ。
「そういうことなら、ジョンソンに掛け合ってみるわ。とはいえ、こちらで役者を既に用意しているし、あまり期待はしないで頂戴」
内心では歓喜から鼻息を荒くしながらも、表向きは冷静さを維持するよう努めるジュディス・ミルズはそのように返答する。
ちなみに。彼女の言う役者とは、ノエミ・セディージョとバーンハード・ヴィンソンの二人のことである。ノエミ・セディージョが、実は社交界にデビューした過去を持つ人物だった――彼女の本名はノエミ・マリソル・マルティネス・セディージョであり、彼女はなんとアデレードの不動産王マルコス・マルティネスの息女で、即ち大富豪の娘だったのだ。ただし、連邦捜査官を志したことを機に勘当されたらしい――ことが判明し、その身分を利用して作戦を展開することとなったのだ。
ノエミ・セディージョらが送り込まれる予定となっているのは、三日後に開催される予定のガラパーティー兼チャリティーオークションの会場。表向きは、電子楽器メーカー『ガーランド・ミュージカル・コーポレーション』の創業者デリック・ガーランド氏が生前整理を兼ねて開催するオークションということになっているが、その裏側には幾つかの思惑が交錯している。
華々しいガラパーティーの裏側で、血しぶきが飛び交う事態に発展する恐れがあった。しかし奇妙なことに、ここにいる二人――エリーヌ・バルロッツィとセィダルの二人だ――はそのチャリティーコンサートに自分たちも入り込みたいと先ほどから訴えていた。
「ただ……私にはどうしても分からないことがある。あなたがたはどうしてあのオークション会場に行きたいの? 危険な目に遭うかも分からないのに」
オークション会場に集まる可能性があるのは、三つの勢力。ASI、憤怒のコヨーテ、それと曙の女王だ。他にも、ガーランド氏から特ダネを得るべくジャーナリストも多く駆けつけるだろう。どさくさに紛れて、元老院なる人外が入り込む可能性さえある。
つまり、そこは危険としか言いようがない場所だ。だが、この二人はそれを承知の上で行きたいと言っている。けれどもこの二人は未だ、オークション会場に行きたがっている理由を誰にも明かしていなかった。
「それは……」
ジュディス・ミルズからの問いかけに、しかし回答を求められたエリーヌは口ごもる。その一方、明確に意思を断言したのがセィダルだった。
「傍観しているだけというのは性に合わない。それだけだ」
あまりにもサッパリとしすぎたその言葉に、ジュディス・ミルズは拍子抜けする。セィダルが放ったその言葉は、裏を返せば特に理由がないということを意味していたからだ。そして、傍観しているだけというのは性に合わないという言葉は、奇しくもジュディス・ミルズが知る『憤怒のコヨーテ』とは正反対の特徴を有している。
アレクサンダー・コルトから伝え聞いた話を信じるなら。あの男はどちらかといえば冷徹なタイプで、かつ何事にも無関心な性格だった。アバロセレンが絡んだ重大事件でも起きない限りは重い腰を滅多に上げず、大抵の物事には「様子見」という名の無視を決め込むような仕事ぶりだったと、そう聞いている。だが、彼とよく似た目鼻立ちや背格好をしているセィダルの言動は、その真逆のように思えてならなかった。端的に言うと、ジュディス・ミルズの目にはセィダルの姿が善良な人間であるように映っていた。
その一方で、このセィダルという人物のことをラドウィグが蛇蝎の如く嫌悪しているという事実もある。
多くの人やモノに無関心で常に一歩引いた立場を取っているラドウィグが、特定の個人に強い感情を向けるのは稀なこと。また、ラドウィグは潔癖主義で、倫理や人道については妥協を許さないタイプでもある。そのラドウィグがセィダルを嫌悪しているという事実は、十分に考慮すべき事項だ。善良な人間に見えるその裏側に、セィダルもまた『憤怒のコヨーテ』に通ずる暗闇を隠し持っている可能性があるのだから――
「ところで、話は変わるのだけど。セィダルさん。あなたは、ご自身のことをどう考えているのかしら?」
「置かれている立場が悪いことは理解しているつもりだ。ゆえに協力は惜しまない。それが潔白の証明に繋がるのであれば」
ジュディス・ミルズが意地悪な鎌をかけてみるものの、セィダルの返答はいかにも真人間そうなものだった。実直そうに見える曇りなき表情も、実直そうな印象をより強めている。
しかし、気になるのは瞳だ。光の加減によって真っ黒にも見える深い青色の瞳の裏側には、懸念すべき影が見え隠れしている気がしなくもない。が、杞憂であるようにも感じられる。
そこでジュディス・ミルズは意地悪な質問をそれで終わることにした。代わりに彼女が訊ねるのは目下の疑問。セィダルに関する少々センシティブな問題だ。「まあ、立場もそうだけど。聞きたいのはあなた自身のことよ」
「どういう意味だ?」
「ラドウィグ、少なくとも彼はあなたのことを男性だと考えている。けれどもあなたの身体検査を行ったダルトンはあなたのことを女性だと判断したし、彼がジョンソンに提出したレポートにはそう記されていた。核磁気共鳴画像法で得られた体内透視の結果からは『卵巣と子宮が無いことを除けば、ごく普通の健康的な人間の女性』であるとしか言えず、脳波や血液も特に異常な点は見られなかった、と。私もあなたの体をチェックしたけど、外形は女性にしか見えなかったのよね」
「見た? いつ、そのようなことを」
「あなたが寝ている間に。――それで。あなた自身はどう思っているのかなって、それが気になっているのよ。あなたはどう扱われたい? 男性なのか、女性なのか」
ジュディス・ミルズのその問いに、セィダルは言葉を詰まらせる。その横で、エリーヌ・バルロッツィは驚いたようにセィダルのことを見ていた――彼女もまた、セィダルという人物を男性だと認識していた一人だったからだ。
疑いの目と、驚きの目。その両方を向けられたが為にセィダルは目を泳がせる。実のところ、この問題について本人が一番頭を悩ませていたのだ。そしてやっとの思いでセィダルが絞り出したものは、話を逸らすような言葉だった。
「それは……二元論的な考え方だ。世には、男か女の両極しか存在しないわけではあるまい」
お茶を濁して終わろうとしている。それを察知したジュディス・ミルズは、逃げ道を封じるべく理詰めを開始した。
「それは確かに、そうよ。人間はどちらかといえば雌雄がパッキリと別れている生物だとはいえ、発達の過程は多様で、雌雄の要素が入り乱れたり欠けたりもする。性染色体の組み合わせも運次第で、仮に正常な性染色体を得たとしても遺伝子が示した通りに発達するかといえばそうではなく、そこも運に左右される。そのように生物としての性でさえ不確定な側面が強い。深く考えれば考えるほど、男女という二項の危うさに気付く。運悪く外れくじを引いた人々のことを、男でも女でもない存在だと切り捨てて良いのかという倫理的な問題もあるし。性別の定義は非常に難しいものよね」
「……」
「アイデンティティの性に限った話をするにしても。男らしい男や女らしい女を自認する者なんて案外いないものだし。男女の枠に嵌められることを拒む人間が居ることも知ってる。だから、あなたの言いたいことは分かるわ」
「ならば、なにゆえそのような問いを」
「私がなぜこんなことを聞いているのかといえば、それはダルトンと話している時にあなたが困っていそうな雰囲気を放っていたからよ。女性扱いされることに慣れていないんじゃなくて?」
はい、もしくは、いいえ。その二択のいずれかを選ぶよう迫る問いを最後に投げつけると、ジュディス・ミルズはセィダルの目をじっと見据える。一方のセィダルは答えに苦慮するかのように表情筋を引きつらせているだけだった。
難しいことは何も訊いていないはず。ジュディス・ミルズはそう考えていたものの、答えを返さぬセィダルはそうは考えていないようだ。
そうしてジュディス・ミルズが訝しむ目をセィダルに向けたとき。カウチに寝そべっていたアレクサンダー・コルトが寝相を切り替えると、フッと小さく鼻で笑った。それからアレクサンダー・コルトはボソボソと呟くように言う。
「同じ言語が通じているといえど、そちらさんの中身は異世界人なんだぜ。こっちの世界とは文化も違うわけだ。挙句、相手はダルトンなんだろ? なら、扱い云々以前の話だろうさ。あいつの話を何も理解できずに困ってるだけなんじゃねぇのか?」
するとセィダルは竦めていた肩をストンと落とす――図星だったようだ。それからセィダルはひとつ溜息を零して背中を丸めたあと、嘆きを洩らす。
「霊体であった頃に、私はあの研究所跡地に遺されていた資料や書籍を読み漁って、それを手掛かりにどうにかこちらの言語を習得したが。肉体を得て、こちらの社会に入り込んでからは、頭の中が混乱続きだ。目にするものや遭遇する慣習は見慣れないものばかりで、口語や比喩表現と思しきものも文化を知らぬがゆえに意図が掴めない。それから、ダルトン。彼の話には私の知らぬ語彙ばかりが登場する。彼の語った言葉の意味や話の内容が全く理解できない」
「ハハッ。それに関してはアタシも同じだ。ダルトン、あいつの話はサッパリ意味が分からない。専門用語を矢継ぎ早に発したかと思えば、急にニッチなギーク用語を持ち出してきたり、あるいはアングラカルチャーの合言葉みたいなものも言い出す。そのうえ解説は滅多にしない。あいつの話を理解できるのは、ASIの中でも一握りの人間だけだよ。安心しな」
アレクサンダー・コルトは最後にそう言うと再び寝返りを打ち、ジュディス・ミルズらに背を向ける。言いたいことを言い終えたのでまた寝る、ということなのだろう。
そうして金髪の猛獣が静かになったとき。セィダルは怪しむ目を未だ向けているジュディス・ミルズを見つめ返す。それからセィダルは姿勢を正すと、先ほどの問いへの返答をした。
「性別についてだが。私としては、どのように扱われても構わないと感じている。扱いに強いこだわりを抱くほど、私は私自身に執着していない。私は求められた役回りに徹するだけだ」
「そう。なら、可能な限り女性として振舞ってくれると私としても助かる。化粧と服装で、その顔を誤魔化してほしいんだけど、構わないかしら」
「ああ、構わない。だが……」
「安心して。服選びもメイクアップも、それは私がどうにかするわ。フフッ」
セィダルから言質は取った。そのことに安堵したジュディス・ミルズは冗談めかしてそう言いつつ、ひとり空想を膨らませる。実のところ、彼女は感じ悪く尋問している間もずっと、どのようにセィダルという素材を料理すべきかを吟味していたのだ。
ASIが憤怒のコヨーテと呼ぶ男によく似た――しかし彼とは違って毒気が無く、男性性も薄い――顔を持つセィダルは、その男と同じくそれなりに良い素材を持っている。だが憤怒のコヨーテとは反対に、セィダルのほうは外見もとい自分自身に無頓着そうなオーラを出していた。髪は痛み切っているし、肌は目に見えて乾燥しているのが分かるほどのひどい有様だ。それに、渡された服をただ着ているだけの姿は、身なりへの無関心さの表れとも言えるだろう――今もまさに、セィダルが着ているフード付きプルオーバーのフードがひっくり返っているのだが、セィダルがそのことを気にしている様子は一切ないのだから。
即ち、これは育て甲斐があるということ。ジュディス・ミルズは新品の着せ替え人形を手に入れた子供のような気分になっていた。
「そうと決まれば。明日は早くから行動するわよ。あなたに似合うものを徹底的に身繕ったうえで、あなた自身も整えなきゃいけないから」
ASIのオフィスに連れて行くとしたら、どのようなパンツとシャツを用意すべきか。仮にチャリティーオークション会場に向かわせるとして、その時にはどのようなドレスを用意すべきか。そしてどのような色味の化粧が似合うのか。エレガントかつクラシカルに寄せるのか、またはモードかつクールに雰囲気を締めるのか、もしくは……
「まずはその痛んだ髪をどうにかしなきゃ。モニシャのサロンに――」
セィダルの頭から無数に飛び跳ねている細々とした枝毛たちと、うねりにうねった髪の毛束を見ながら、ジュディス・ミルズはそう呟く。行きつけのサロンが予約なしの飛び込みで入れるかどうかを懸念しながら、彼女が表情を緩めたとき。彼女の手元に置かれていた携帯電話端末がブルブルッと細かく振動する。誰かからの電話連絡が着たようだ。
「あら。オルティスから電話……?」
彼女に連絡を寄越してきたのは、シドニー市警に『エイミー・バスカヴィル』という身分で潜入していた当時に知り合った男。市警に勤める監察医のひとり、ブラス・オルティスだ。
端末の画面に表示されていた名前を見るなり、ジュディス・ミルズは顔を顰めた。なぜオルティスがわざわざ自分に連絡をしてきたのか、と。しかしオルティスとは特に親しい間柄ではなかったこと、それと深夜に掛かってきた急な連絡であったことから、ジュディス・ミルズはその連絡が重要なものであると判断する。
こんな夜遅くに、デートの誘いをかけてくるような愚かな男ではないだろう。そう考えてジュディス・ミルズは応答のボタンを押し、通話に応じるのだが。聞こえてきた第一声は、判断に困るような能天気な声色をしていた。『やぁ、エイミー。夜分遅くにすまない』
「いえ、別に構わないわ。それで、用件は?」
緊急性のある連絡だとは思えないような、とてもゆったりとした穏やかな声色。感情がどこに寄っているのかが判断できないオルティスの声色を受け、ジュディス・ミルズはひとまず冷たく突き放して様子を見るというアクションに出る。
すると再びオルティスの穏やかな声色が聞こえてきた。そしてその声で語られる内容は、深刻なのかそうでないのかの判別がつかないものだった。
『君が高位技師官僚の専属うんちゃらに抜擢されて、今は官邸だかそこらへんで働いているとかと、ラスティングから聞いたよ。それで今は、あの件に取り掛かってるんだろ? 連邦捜査局のシドニー支局長が言ってた、なんたらの女王とかいう件に』
「ええ、そう。曙の女王、それを追ってるところよ。何かあの件に関する情報があなたのところに入ったの?」
『いや、それとは別件なんだが。君、たしか少年を探しているんだろう? 年の頃は一〇歳前後、髪はクセ毛で黒に近いブルネット。垂れ目で、蒼い瞳をした――』
「あぁ、そっちの件ね。もしかして、その子が見つかった?」
『んー、いや。そうであるとは、まだ断定できていない』
「え?」
『ラスティングからは、断定ができていない以上まだ君に伝えるべきではないと言われたんだが、どうもイヤな予感がしてなぁ。それで、私の独断ではあるがひとまず君に』
「オルティス。前置きは省いて、本題のみを教えて」
そうだった、この男は要点を掴まない無駄話が多いんだった。――そのことを思い出したジュディス・ミルズは蟀谷に手を当てながら、ウンザリと顔をしかめさせつつ、そう切り込む。強めの言葉でジュディス・ミルズがそう切り出せば、相手の男はすんなりと本題に移った。
『二時間前だ。市警のほうに通報が入った。子供のように思える体格をした、黒焦げの遺体が見つかったと。その遺体が今、私のもとに運ばれてきたところなんだ。その遺体なんだが、顔も分からないし、体も大きくよじれてしまっているし、性別の判別さえつかない有様でね。カラッカラで体液も残っていない以上、DNAも採取できない。今、辛うじて分かっているのは、腹部に数か所の刺傷が認められることぐらいだ。それ以外に分かっていることは現状ではないが、とりあえず君の耳に入れておこうかと思ったんだ』
「黒焦げの子供の遺体……。分かったわ。私から連邦捜査局のほうにも伝えておく。連絡ありがとう、オルティス。それじゃ、おやすみなさい」
ジュディス・ミルズが口走った不穏な言葉。それを聞いたアレクサンダー・コルトは再び起き上がると、シャキッとしない眠たげな眼でジュディス・ミルズを見据える。セィダル及びエリーヌ・バルロッツィは、子供の遺体というワードに表情を険しくさせていた。
ピリピリとした緊張が走る一同を、ジュディス・ミルズは宥めるように見渡す。そうしてジュディス・ミルズが通話を切り上げようとした時だ。電話の向こう側から、立て続けに金属製のものがガタガタと落ちる音が鳴る。その後には、通話相手のオルティスがあわあわと狼狽えるような声が聞こえてきた。
「オルティス。今の音は何? 何があったの?」
通話を切り上げることをやめたジュディス・ミルズは、電話の向こう側にいる相手を問いつめる。その問いに返ってきた答えは、このようなものだった。『えっ、あっ……――う、動いた?』
「なに? 何が動いたの?」
『え、エイミー!! こ、これは、あ、ああッ……?!』
「オルティス、落ち着いて。何があったの?」
激しく動揺しているオルティスの声の後ろで、今度は硬く分厚い金属板を頻りに強く叩くような轟音が鳴っている。それはさながら、痙攣を伴う大発作を金属製の台の上で何者かが起こしているかのような物音だ。
そういえば、解剖室にはステンレス製の台がある。遺体を載せる解剖台だ。まさか、その上に載せられた遺体が発作を? ――ジュディス・ミルズがそのような予想を立てた直後、通話相手のオルティスはまさに予想通りの言葉を悲鳴じみた声と共に放った。
『さっき話した例の遺体だ! 黒焦げの遺体、それが動いている!! み、右腕が、動いた! それに……あ、ああ、嘘だろ、血が噴き出して……?』
「オルティス、今すぐそこから逃げて!! その部屋から出て、扉を閉め、外に出て身の安全を確保しなさい!! そして署内から全員を退避させるのよ。バイオハザードボタンでも押して警告を出しなさい。急いで!」
『わ、分かった!』
オルティスが金切り声でそう返事をし、通話を打ち切ったその直前。ジュディス・ミルズはこの世の者だとは思えないような悲鳴を一瞬、耳にする。しかしその声の主は通話相手のオルティスではない。おそらく、オルティスの言う『黒焦げの遺体』だ。
ブクブクと泡を立てる音と共に腹の底から絞り出されるかのような、言葉を伴わない悲痛な叫び声。たった一瞬、聞こえてきたそれがジュディス・ミルズの耳にこびりつく。その悲鳴がもたらす苛立ちに身を任せながらジュディス・ミルズは立ち上がると、つい先ほど起き上がったばかりのアレクサンダー・コルトに焦点を合せ、こう言った。
「サンドラ! 私はシドニー市警に向かう。あなたは局に戻って、そしてアーチャー支局長に連絡を。頼んだわよ」
「了解だ」
アレクサンダー・コルトはそう返答するとスクッ立ち上がり、首をブルブルと左右に振る。彼女はそのようにして気分を切り替えると、シャッキリと目を見開き、眠気を振り払った。
そうしてASI局員である二人が出動する態勢を整え始めたとき。この件とは何ら無関係である――少なくとも、現時点では――エリーヌ・バルロッツィも立ち上がる。そしてエリーヌはジュディス・ミルズに視線を送ると、あることを言おうとした。「あの、私は――!」
「エリーヌさん、あなたはここで待機していて。外出はせず、機械類には何にも触れず、くれぐれも悪さをしないように。それで十分」
「けれど」
「最悪の事態が起こりうる可能性がある。あなたを巻き込むわけにはいかない」
助力を願い出ようとするエリーヌを、ジュディス・ミルズは冷たい態度で往なす。するとエリーヌは思いのほかあっさりと身を引き、彼女は再度ソファーに腰を下ろした。
その一方で、反対に勇み立つ者が現れる。それは瞬間移動という能力の保持者であるセィダルだった。「ジュディス。私が送っていこう。目的地の座標を教えてくれ。その次にアレクサンダー、君を転送――」
「いいえ、サンドラは自力で局に向かって。セィダルさん、あなたは私を送り届けたあと、局に移動してラドウィグを回収し、彼を連れて私のところに来て頂戴。それから、ラドウィグに武装するよう伝えて」
ジュディス・ミルズはそう言うと、リビングルームの中央に置かれている机の下から、そこに収納されていた箱を引っ張り出す。箱の中には、コンパスや地図、無線通信機といったものが入れられていた。その箱の中からニューサウスウェールズ州のみを描いた地図をピックアップすると、彼女はそれをセィダルに渡す。そして地図上のある二地点を指差した。
「シドニーの地図はこれ、シドニー市警がここで、現在地はここよ」
地図を受け取ったセィダルは、ジュディス・ミルズが指し示した地点を暫く凝視したあと、両目を閉ざす。何かを考えているようだ。その隙にジュディス・ミルズは自室へと戻ると、ASIより支給されている『おねんね銃』強電圧特殊スタンガンのスリーパーA79を回収。そのついでにジュディス・ミルズは、動きやすい靴に履き替えた。
そうして彼女がリビングルームに戻ると、地図を机の上に置いたセィダルが立っていた。
「場所は掴めた。――跳ばすぞ、私に掴まってくれ」
そう言いながらセィダルは細腕を前へと伸ばし、その細腕にジュディス・ミルズはそこそこ筋肉質な腕を巻き付け、がっちりとホールドする。直後、フワッと体が宙に浮き、さながら投げ出されるかのような感覚をジュディス・ミルズが覚えた。
エレベーターの高層階から下層階へと降りていくときのような浮遊感。重力の変化にざわつく内臓が発する不快さのシグナルをキャッチしたとき、ジュディス・ミルズの視界は暗転する。それまで見えていたアレクサンダー・コルトやエリーヌの姿、もとい自宅という背景の情報は消え、視界は暗闇に包まれた。全ての音は消え、空気さえないかのように息苦しくなる。
心細くなるような暗闇の中。しかしジュディス・ミルズは、セィダルの細い腕が微かに放つ体温を感じていた。そうして頼りなさげな細腕を抑え込む力をジュディス・ミルズが強めたとき、今度は頭上から容赦なく注ぐ強い重力に押さえつけられ、体を潰されるような感覚を味わった。
私、死ぬかも。そんな考えがジュディス・ミルズの頭に過ったとき、彼女の足裏が地面を掴む。そうして彼女が顔を上げて目の前を見たとき、そこには馴染みのある景色と馴染みのある人間の顔があった。
――尚、ここまでの出来事は瞬きと同等の時間の間に起きたことだ。
「オルティス。今度こそ本当なんだよな? またバイオハザードが出て、上階の署員全員に――」
場所はシドニー市警察署。豪奢な市役所と対峙するように置かれた見すぼらしい建物だ。その正面に降り立ったジュディス・ミルズとセィダルの二人は、ちょうど建物から出てきたところだったある人物と鉢合わせる。
「ばっ、バスカヴィル?!」
その人物は、ジュディス・ミルズないしエイミー・バスカヴィルの同僚だった男。シドニー市警きっての頭でっかちキザ野郎、アリン・ラスティング警部だ。大袈裟に驚き、背後にずっこけて尻餅をつくラスティング警部は、突然目の前に現れたジュディス・ミルズとセィダルの二人を見上げる。彼は突然の事態を理解できず、バスカヴィルというジュディス・ミルズの偽の身分の名を叫んだあとに硬直してしまった。
そのラスティング警部に向けて、ジュディス・ミルズが苦笑いと共に手を差し伸べたときだ。彼女の傍に控えていたセィダルが姿を消す。セィダルは次なる目的地に跳んでいったのだ。
セィダルは深夜の闇の中に白い煙を残して、忽然と消えた。それを目撃したラスティング警部は余計に困惑を深めていく。ジュディス・ミルズの手を払いのけて飛び上がるように立った彼は、白い煙の如く消えた人物を侍らせていたジュディス・ミルズを驚愕と共に見る。
「い、今の白いのは……!?」
上ずり、震えた声でアリン・ラスティング警部はジュディス・ミルズに問うが。ジュディス・ミルズは肩を一度小さく竦めるだけで、答えはしない。
その後ジュディス・ミルズは肩を落とすと、ラスティング警部から目を逸らし、代わりに背後へと振り返る。彼女はそこに立っていた人物、白衣を着た小太りの男――監察医ブラス・オルティス――に視線をやった。
ジュディス・ミルズと目が合った瞬間、監察医オルティスは安堵したかのように胸をなでおろす。それから彼女の傍に駆け寄ろうとしたのだが、その道を塞ぐように白い霧が現れるなり、彼は悲鳴を上げて立ち止まり、後退った。
「ヒェッ!!」
ジュディス・ミルズの傍に立ち込める白い霧。それは徐々に人の輪郭を形作り、やがて二人の人間が姿を現す。登場したのは舞い戻ってきたセィダルと、そのセィダルが連れてきたラドウィグの二人だった。
ラドウィグという戦力の到来にジュディス・ミルズが安心したのも束の間。ラドウィグが武装らしい武装をしておらず、銃さえ携帯していない様子に気付くなり彼女は眉間に皴を寄せる。そうしてジュディス・ミルズは、スーツ姿で余裕そうなそぶりを見せるラドウィグを問い詰めるのだった。「あなた、武装は?」
「火があるんで大丈夫っス。まあ一応、手錠だけは持ってきました。二つを」
「回答になっていない。武装は、どうしたの?」
「武器を携帯しているほうが危険だと判断しました。奪い取られ、制圧されるリスクがある。そうなったら多数の被害が出るかも。でもオレの火は安全ですよ、質量がないから」
だが、ラドウィグには彼なりの考えがあるらしい。納得はしていないが理解は示すジュディス・ミルズは、そこで折れることにする。
「はぁ、分かった。……なら聞きなさい、ラドウィグ。おそらくジョン・ドーが見つかった。ここ、シドニー市警のモルグに居る。詳細はオルティスから聞いて」
ラドウィグとジュディス・ミルズの二人が、そのように冷静な様子で会話をする一方。冷静でいられないのがラスティング警部と監察医オルティスの二人だ。特に注目を向けられたオルティスは、突如現れた見知らぬ若者ラドウィグにぶるりと肩を震わせる。それでも根はクソ真面目な監察医オルティスはジュディス・ミルズに促されるがまま、得体の知れない若者ラドウィグに事の発端についてを語ろうとするのだった――が。
「つい、先ほどのことだ。彼女と電話で話していたときに、遺体が動き出したんだ。黒焦げの、子供の遺体が……」
「リシュ。マダムに今のことを伝えて、急ぎで」
ラドウィグは監察医オルティスの話をろくすっぽ聞かずにスルーすると、何も居ない――ように周囲の者には見えている――足元に向かってそう言う。その様子に監察医オルティスは呆気に取られて黙りこくり、そして話を盗み聞いていたラスティング警部は驚きのあまり口も目も極限まで開けていた。
そうして呆然としているラスティング警部に、ラドウィグは狙いを定める。グッと眼光を鋭くさせるラドウィグは睨み付けるようにラスティング警部を見ながら、彼にあることを訊ねた。「署内に居た人は全員、退避したんスよね?」
「いいや、全然」
「はぁ?」
「モルグから異常でも何でもないアラームが発出されることが日常になりすぎて、誰も緊急事態だと考えていない。夜勤の連中も、地下の留置場にいる奴らも、笑ってスルーしているだけだと思うぞ」
ラスティング警部から返ってきた予想外の返答に、ラドウィグは軽い怒りを覚えていた。こんな緊急事態に、なんて能天気な態度でいやがるんだ、と。
すると監察医オルティスが居心地が悪そうに肩を竦める。それからオルティスは、今のこの状況において何の足しにもならない弁明を述べ始めた。「緊急警報装置に、コーヒーをぶちまけたんだ。半年前に。それ以来、アラームの誤作動が多くなってな。ドアをちょっと開け閉めした振動でアラームが鳴るようになってしまったんだ。そうしたら、この通り。誰もアラームを気に留めなくなった、本物の緊急時であるにも関わらず……」
「装置を交換するべきね。可及的速やかに」
ジュディス・ミルズは冷静にそうツッコミを入れると、ラドウィグを見やる。その視線の意図を理解したラドウィグは小さく頷くと、こう言った。
「オレがモルグの様子を見てきます。皆さんはここで待っていてください」
「モルグは、この階の最奥にある。入ってすぐの廊下を真っ直ぐ進み、突き当りで右に曲がり、更に突き当りで左に曲がった先の廊下、その一番奥にある。気をつけてくれたまえ」
監察医オルティスによる簡易の場所説明を聞いたあと、ラドウィグはひとり警察署内の中に入っていこうとするが。その直前、セィダルが彼のことを引き留めた。セィダルはラドウィグの手首をサッと掴んで注意を引くと、ラドウィグに言う。「私も行こう」
「いや、邪魔なんで来なくていいっス」
しかし、ラドウィグは冷淡に突き放すのみ。そうしてラドウィグはひとり、警察署内に立ち入った。
真夜中の警察署内。どこかしらに夜勤の警官たち――警報を笑って受け流し、退避しなかった警官たち――がいるためか、静かな暗闇の中でも、しかし人の気配がまばらに立ち込めている。これではジョン・ドーの気配を絞ることは難しそうだ。
それに加え、ラドウィグは足元を照らす懐中電灯といったものも持ってきていなかった。そのため仕方なく彼は左手を顔前にかざして人差し指を立てると、その指先にポッと小さな火を灯す。マッチ一本分ほどの大きさの質量無き火が灯り、そっとラドウィグの周囲を照らす。その火は衣服も肌も空気さえも焼かずに明るく灯る一方で、じりじりとラドウィグの体力を掠めとっていった。
さっさとジョン・ドーを捕まえて、体力の消耗を最低限にしなくては。そう考えるラドウィグがより精神を研ぎ澄ませ、音に注意を払ったときだ。最初の廊下、その突き当りに差し掛かったラドウィグが壁際に身を隠しながら、曲り角の先の様子を探ろうとした直前、彼の耳が異音を拾う。
ザザ……ザザ……という、厚手で重そうな大きい布を静かに引き摺って歩く音。ムチャッ、ペチャッという溶けた皮膚や肉片を床に擦り付けながら歩くような、しかし静かで小さな足音。それらは気配を消す努力をしているように感じられるが、一方で気配を醸し出している音がある。それはゼーゼーという荒い呼気。痰が絡んでいる喘鳴のような呼気だが、しかしその呼気には小さな泡が吹きこぼれるかのようなコポコポという薄気味悪い音も混ざっている。
「……」
黒焦げの遺体が復活し、動き出した。その話だけでも十分に不穏だが。こうして薄気味悪い音や気配を伴っていると、自然と背筋がぞわぞわと震え始める。絵空事めいた幽霊話や怪奇現象とはまた違う、身の危険さえ覚える不穏がすぐそこに迫っていた。舐め腐った精神性の持ち主であるラドウィグとて、この事態には震えずにはいられない。
だが、ここで万が一の事態を食い止められるのは恐らくラドウィグのみ。覚悟を決めたラドウィグは掲げていた左手を握り締め、質量無き炎の出力を強めた。手始めに握りこぶしを覆うほどの炎を放出すると、それを拡大し、上腕まで覆うほどの火を顕現させる。
幼少期にみっちりと叩きこまれた『
眩いばかりの明るい橙色に包まれた姿。それは人を驚かせて怯ませるのに最適だと、ラドウィグは知っている。たいていの人間はこの姿を見ると、理解が追い付かずに硬直するのだ。そしてそれは不死身の怪物も同じ。
「……!」
暗闇を切り裂き直進する火の玉の如き人間の姿を目撃した不死者は、その場で立ちすくみ、腰を抜かしたかのようにへなへなと座り込む。そして涙のような血を眼窩から垂れ流す不死者は、自身の前に立ち止まった火を纏う若者を呆然と見上げていた。
「オレは何もしないから、安心して」
廊下の突き当りで立ち止まり、全身に纏っていた火をそっと鎮めたラドウィグは、彼の足元に座り込んでいた人影にそう声をかける。彼の足元には、遺体を覆い隠すために使われるフランネル生地の白布を体に巻き付けたジョン・ドーが座り込んでいた。
再び暗闇に包まれた廊下では、ジョン・ドーの姿は正確に視認することができない。だが夜目の効くラドウィグには、その姿が並の人間よりかは細かく捉えられていた。だからこそ彼は口角を引き、少しの不快感を露わにする。とても人間だとは思えない怪物の姿が、そこにあったからだ。
「オレはマダムの逆鱗に触れるような真似はしたくない。彼女は怖いし、怒らせたくない。だから怖がらなくていい。……マダム・モーガン、分かる?」
ラドウィグの言葉に、ジョン・ドーは無言で首を縦に振り、頷く。その拍子にジョン・ドーの顎からはぴちゃぴちゃと血が滴り落ち、それは体に巻き付けられたフランネル布や床を汚した。また、頷いた拍子にジョン・ドーの右眼窩からは眼球らしきピンク色の塊が飛び出し、頬骨の前あたりでぷらんぷらんとぶら下がる。そしてジョン・ドーは飛び出た眼球らしきモノを、筋肉が剥き出しになっている左手の指先を使って眼窩に押し戻していた。
そうしている間にも、ジョン・ドーの体の再生は進んでいく。骨を基軸に臓器が形作られ、臓器を覆うように血管が草根のように張り巡らされ、血管を覆い隠すように筋肉が構築され、筋肉を覆うように脂肪や皮膚層が積み重ねられていく。ピチャピチャ、ポコポコ、ゴポゴポと異音を立てながら、不死身の怪物は徐々に人間らしい姿かたちを取り戻していった。
「あとで彼女が迎えに来てくれると思うから。それまで大人しくしていてくれれば、それでいい。オレは君に何もしたくないから、オレが君に何かをしなくちゃいけない状況を作らないでほしい。分かった?」
うわあ、気持ち悪い、気持ち悪いよ、何なんだよ、これ!! ――そのように心の中で叫び、頭の中で自分をのたうち回らせながらも、現実のラドウィグは冷静であるように努めていた。
ジョン・ドーが体に巻き付けていたフランネル布がすっかり体液で変色しているさまを見下ろしながら、ラドウィグは息を呑む。そしてラドウィグが再びジョン・ドーの顔を見やったとき、ジョン・ドーの顔は既に大部分が回復していた。
血塗れだが血色の悪い肌は大部分が再形成されていたし、髪もまばらに生え始めたり伸びていたりしている。虚ろな目にはエメラルドに似た緑色を纏う虹彩が輝き、その瞳は生気も感情も無い視線をラドウィグに浴びせていた。
意図を掴みかねる薄気味悪い目に、今度はラドウィグが怯んでしまう。そうしてラドウィグが一瞬だけ身震いをしたのだが。そのタイミングで、ジョン・ドーの体の大部分が回復し終えた。
四肢の一部で肉が剥き出しになっている一〇歳ぐらいの少年の姿。この状態なら、多少ゾッとするとはいえ表で待機している人々の前にも連れて行けるし、手錠も嵌められそうだ。そう考えたラドウィグは、念のためにと持ってきていた手錠を取り出す。彼は虚ろな目をした不死身の怪物に言った。
「オレから離れられると困るから、手錠をかけるよ。いいね?」
ラドウィグが腰ベルトのガンホルダーに突っ込んで持ってきた手錠二組を雑に取り出すと、そのタイミングでジョン・ドーは大人しく両手を後ろに回す――それはまるでラドウィグの意図を完璧に把握しているか、またはこのような状況に慣れているかのような機械的な振る舞いだった。
後ろに回したジョン・ドーの両手首に、ラドウィグは素早く手錠を掛けて締めると、続けてジョン・ドーの左手首にもう一本の手錠の片輪を嵌めた。そして宙ぶらりんになった片輪にラドウィグは彼自身の右手首を嵌める。それからラドウィグはもう一度ジョン・ドーの顔を見ると、暗示を掛けるように言った。
「とりあえず、オレの傍に居れば安全だから。ついて来て。いいね?」
再びコクリと頷くジョン・ドーだが、その眼窩から眼球が零れ落ちることはない。そんなジョン・ドーの様子を伺いながらラドウィグが一歩を踏み出す。すると同じだけの歩幅でジョン・ドーも進んだ。そしてラドウィグが気配を消すよう努力をすれば、ジョン・ドーも同じく息を殺す。
そっくりそのまま、ラドウィグのあらゆる仕草や身振りを真似る。そんなジョン・ドーに更なる不快感と居心地の悪さを覚えながらも、ラドウィグは不死身の怪物の手を引いて出口を目指した。
「……」
幸いにも道中で警官らと遭遇することはなく。また、ジョン・ドーが暴れることもなく。ラドウィグはあっさりと目的地に到達する。いつになく緊張感に満ちた雰囲気のジュディス・ミルズの顔を再び目にした瞬間、ラドウィグはドッと安堵した。
「うーっす。ジョン・ドーの回収完了っス」
ラドウィグは空いている右手で手を振りながら、ジュディス・ミルズに歩み寄りつつ軽い調子でそう言う。それに対してジュディス・ミルズは顔を険しくさせながら、無言で首を縦に振った。
当然だが、真人間であるジュディス・ミルズの眼窩から眼球が飛び出てくることはない。当たり前の現実にラドウィグが安心から肩の力を抜いたときだ。ジュディス・ミルズの傍に立っていた男、監察医オルティスがラドウィグの同伴者を見るなり「ヒェッ」と何度目かの息を呑む。それから監察医オルティスは怪物を見るような目をジョン・ドーに向けながら、震える声を喉から絞り出した。「あ、あの、あの子が、まさか……」
「そうよ、オルティス。だから探していたのよ、何度でも蘇る不死者である彼を。このような存在を放逐するわけにはいかないのだから」
怯える監察医オルティスに、しかしジュディス・ミルズは冷たい声で事実を浴びせるのみ。それからジュディス・ミルズはラドウィグに視線をやったあと、続いてセィダルに目を向ける。
「セィダルさん。あなたは、ラドウィグを連れ――えッ?!」
ジュディス・ミルズがまだ言葉を発していた途中。にも関わらずセィダルは彼女の手首を軽く掴む。心の準備も出来ぬまま、ジュディス・ミルズはぐわんと体が大きく揺れる感覚を味わった。
急激な重力の変化に煽られ、気分が悪くなり少しの吐き気が込み上げてきたとき。ジュディス・ミルズの前には、何時間か前にも居たASI本部局アバロセレン犯罪対策部のオフィスが映る。彼女はこの場所に引き戻されていたのだ。
「私が指示を出す前に動かないで頂戴。驚くでしょう!?」
目の前に立つセィダルにジュディス・ミルズはそう文句を言うが、しかしセィダルは彼女の言葉を最後まで聞くことなく姿を消す。白い薄靄を残してセィダルが姿を消したと思った瞬間、またも白い靄が立ち込める。次の瞬間、今度はラドウィグとジョン・ドーが姿を現し、少しだけ遅れてセィダルも靄の中から現れ出る。
再び姿を見せたセィダルを、ジュディス・ミルズは指差して睨み付ける。それに対してセィダルが苦々しい笑みを浮かべて応答したとき、いやに冷静なラドウィグがわざとらしい咳ばらいをしてみせた。そうして注目を引いたあと、ラドウィグが言う。
「それで、姐さん。次、どうします? ジョン・ドーはまた地下牢に?」
「ええ、そうして。鎮静剤で眠らせた後、彼は檻の中に。あなたは檻の外で見張っていなさい。交代要員が来るまで、そこで待機。ダルトン、ミダゾラムを持ってきて」
ジュディス・ミルズはラドウィグにそう指示を出したあと、続けてオフィスの隅で仮眠を取ろうとしていた主席情報分析官リー・ダルトンにまで命令を飛ばす。
普段ならシニカルな笑みと共に軽口を叩くであろう主席情報分析官リー・ダルトンも、ラドウィグの傍に無言で佇んでいるジョン・ドーの姿を見るなり表情を硬くさせ、すぐさま立ち上がった。そして彼は命令に従い、頼まれた薬物を取りにオフィスの外へと出て行く。
主席情報分析官リー・ダルトンが命令に従ったのを確認すると、ジュディス・ミルズは携帯電話端末を取り出し、ある局員を呼び出す。それはフォネティックコードで呼ばれていた特殊作戦班の隊員の中で唯一ASIに留まることを望んだ局員、コードネーム・エコーことコービン・デーンズという男だった。
「コービン。悪いけど、今から局に来てくれないかしら。――ああ、そう。助かるわ、ありがとう。それじゃあ待っているから。――えっ、なに? ネコチャンを連れてきてもいいか? ダメに決まってるでしょ。あの気色悪いアザラシ……いえ、可愛いネコチャンにはお留守番をしてもらって。ともかく、待っているわよ。なるべく早く来て頂戴」
ジュディス・ミルズが妙な会話を繰り広げている姿を、ラドウィグは細めた目で観察する。その横で、ジョン・ドーも同じく生気の無い目でジュディス・ミルズを見ていた。次にラドウィグはそっとジョン・ドーに視線を移し、様子を伺うのだが。すると気配を察知したかのようにジョン・ドーの目もラドウィグに向く。気味が悪いほど同じ行動を真似するジョン・ドーに、ラドウィグが恐怖感から生唾を呑んだときだ。ラドウィグの耳が、カシャカシャという音を感知する。
ラドウィグが音のした先を見やると、そこには主席情報分析官リー・ダルトンが居た。彼は必要量の薬剤のみが既に充填されている使い切りタイプのシリンジを片手に持ち、もう片方の手には大きな黒いビニール袋を携えている。そのビニール袋の中には、ポリエステル製の青いターポリンが入れられていた――恐らく、ジョン・ドーのために持ってきたのだろう。
「ご命令通り、持ってきましたよ」
主席情報分析官リー・ダルトンはそう言うと、持ってきたシリンジをジュディス・ミルズに渡す。次に彼はビニール袋の中からターポリンを引っ張り出すと、それをラドウィグに手渡した。それから彼は次に、ジョン・ドーが体に巻き付けていたフランネル布を指差し、ラドウィグに意味ありげな視線を送る。彼の目は「その汚い布は捨てるから、このビニール袋の中に入れろ」と訴えていた。
その意図を汲んだラドウィグは、ジョン・ドーと彼とを繋いでいた手錠をまず外す。それからターポリンを広げると、それでジョン・ドーの腋より下をぐるりと覆い隠した。続けて、ターポリンの下に隠されたフランネル布を手探りで解く。
指先の感触を頼りにフランネル布の結び目らしき場所を解けば、体液で汚れた重たい布がボトリと床に落ちた。落ちた布をラドウィグは厭々ながらも拾い上げ、それを主席情報分析官リー・ダルトンが持つビニール袋の中に押し込む。生暖かい布の感触が残る手にラドウィグは顔をしかめさせ、主席情報分析官リー・ダルトンは布が放つ異臭に眉をひそめながら袋の口を閉じた。
しかし、当のジョン・ドーは無表情で無感情のまま。表情一つも取り繕わず、瞳に何の感情も浮かべないジョン・ドーは、直立したまま固まっている。寒がる様子もなければ、恥ずかしがる素振りさえも見られない。
「坊や、お注射するから暴れないでね。――それから、大きい坊やたちは手を洗ってきなさい。念入りに消毒もすること。いいわね?」
シリンジの用意を終えたジュディス・ミルズがそう声をかけるものの、その声をジョン・ドーが理解しているかは定かでない。ジョン・ドーの虚ろな目はジュディス・ミルズを見ていたが、そこには同意の意思も拒否の意思も感じられなかった。
その横で、大きい坊や呼ばわりをされた男二人組は互いにしかめた顔を見合わせる。その後、二人は無言でその場を立ち去っていった。手に付いてしまった怪物の体液を落とすため、手洗い場のある男子トイレに二人そろって向かって行ったのだ。
そして男二人が消えたとき。入れ違うかたちでオフィスに入ってきたのは、万能の人工知能を搭載したヒューマノイドであるAI:Lである。小走り気味で駆けてきたAI:Lはジュディス・ミルズの傍で止まると、シリンジを持つ彼女の手に触れる。それからAI:Lは言った。「エージェント・ミルズ、代わります。あなたは休憩を」
「あなたは気が利くわね、レイ。ならお言葉に甘えて、少し寝ようかしら」
ジュディス・ミルズはそう答えると、大人しくAI:Lにシリンジを渡す。次に彼女はすぐ傍に突っ立っていたセィダルを見ると、こう言った。
「セィダルさん。あなたは帰って、ゆっくり休んで。ただし粗相のないように」
ジュディス・ミルズの言葉に、セィダルは苦笑と共に小さく頷く。――のだが。首を小さく縦に振った直後、セィダルはその場に倒れ込む。セィダルはガクッと膝を曲げたあと、腰を抜かしたように倒れ、そのまま目を閉じた。
幸い、セィダルが頭を床にたたきつけるよりも前に、ジュディス・ミルズがその体を支えたことで、大事は免れる。バランスを崩してふらついたセィダルの体を片腕で支えながら、ジュディス・ミルズは小声で呟いた。
「失神したようね。……悪いことしちゃったわ」
言い終えた後にジュディス・ミルズが溜息を零したとき。セィダルの瞼が僅かに開き、意識もおぼろげな瞳が覘く。その目は何かを伝えようとしているようだったが、けれどもジュディス・ミルズがそれを阻んだ。
「いいのよ、セィダルさん。気にしないで。ここで寝ていいわ、あなたも疲れたでしょう?」
再びセィダルの瞼は閉じ、その体からは力がガクンと抜け落ちる。そうして長く細い首が脱力し、だらんと垂れたときだ。露わになったセィダルの首筋に、無数の赤く細い筋が浮かび上がっていることにジュディス・ミルズは気付いた。
丁度そのとき、手洗いを済ませた男たち二人がオフィスに戻ってくる。主席情報分析官リー・ダルトンは異変に気付くとジュディス・ミルズのもとにすぐ駆け寄り、セィダルの体を支えていたそのポジションを彼女と交代した。その後すぐにラドウィグも駆けつけると、ラドウィグはセィダルの投げされた両足首を掴む。男たちは二人がかりで長身のセィダルを持ち上げると、近くにあったソファーの座面にセィダルを移し、そこに寝かせた。
「瞬間移動っていう能力は、肉体に過負荷が掛かるものなのね。死神さんたちはホイホイと簡単に跳んでいくから、そうでもないのかと思ってたけれど。この能力は使いどころを慎重に見極めないといけないのかも……」
そう言いながらジュディス・ミルズは、眠ったかのように動かなくなったセィダルを見下ろす。セィダルの頬や首筋、手や腕に出現した赤いワーム状の斑点――急激に拡張した毛細血管か、またはそれに伴う内出血の痕だ――を一通り観察し終えると、彼女は次にラドウィグを見やった。それから彼女はラドウィグに言う。
「ラドウィグ、あなたはジョン・ドーを地下牢に連れて行って。コービンが到着したら、彼と交代して、あなたが休むように」
「うっす、了解っス」
ラドウィグが軽い調子で返事をすると。それと同時に、AI:Lがジョン・ドーへの薬物の投与を終えた。ジョン・ドーの上腕部に深く突き刺していた針をAI:Lはスッと抜き、刺入部を綿で押さえつけて簡単な圧迫止血を行ったあと、引き続きAI:Lは後始末を淡々とこなす。
その傍に座るジョン・ドーは感情がない目で、次の指示を仰ぐようにラドウィグを見上げていた。その目は血が通っているものでありながらも、人工物であるAI:Lのガラスの瞳よりも無機質であるように感じられている。そんなジョン・ドーに向けてラドウィグが「ついて来て」と言えば、ジョン・ドーは指示された通りに動く。
ラドウィグが廊下に向けて歩き出せば、ジョン・ドーは大人しくその後を歩いていく。同じだけの歩幅で、同じ程度のスピードで……。
「……」
ラドウィグはオフィスの通路を抜け、出入り口を潜って廊下に出て、エレベーターを目指して歩いた。その後を、同じようにジョン・ドーも歩いていく。そこに会話は無く、親密な空気も無い。あるのは、ラドウィグにとって居心地の悪い緊張感のみ。
そうしてラドウィグが小さく身震いをしたときだ。ラドウィグは暖かな気配が近くにポッと現れたのを感知した。その場所に彼が視線をやってみれば、彼の小柄な相棒の姿がある。お尻に生えた九本の尾の先に質量なき炎を纏わせた神狐リシュが、役目を終えて舞い戻ってきていたのだ。
「おかえり、リシュ。マダムは何て言ってた?」
ラドウィグが立ち止まりそう声をかければ、神狐リシュは彼のもとにトコトコと歩み寄ってくる。そして神狐リシュはラドウィグの足元で止まると、そこにちんまりと座る。それから神狐リシュはこう言った。
『すぐには来られないらしい。ジョン・ドーについてだが、彼女はこう言ってたぜ。フェンタニルで眠らせろ、とな』
「はぁ~。それ、もうちょっと早く聞きたかった。ついさっき、ミダゾラムを打ったばかりだよ」
ラドウィグはそう小言を零しながら、眉を僅かにひそめる。フェンタニルという言葉、それがラドウィグに新たな警戒心を植え付けたのだ。リシュはああ言っているが、マダム・モーガンの意図は別なのではないかと思えたのである――致死量のフェンタニルを投与して殺せと、彼女は暗にそう伝えているのでは?
まさかと思いながらラドウィグがジョン・ドーに視線を移す。そのとき、ジョン・ドーがふらりとバランスを崩し、その場に倒れ込んだ。すると神狐リシュは言う。
『ミダうんちゃらが、もう効いたのか?』
ジョン・ドーの呼吸は穏やかで、半開きになった瞼は朦朧とした状態であるようにも見える。が、ラドウィグはこの状態に違和感を覚えていた。
なぜなら、ラドウィグの目にはAI:Lが筋肉注射をしていたように見えていたからだ。あれは決して静脈注射ではない。静脈注射であれば、素早く効果が発現するのは理解できる。が、筋肉注射はそうではなかったとラドウィグは記憶している。一〇分から三〇分、効果が表れるにはそれぐらいの時間が掛かったはずだ。しかしAI:Lがジョン・ドーに鎮静薬を投与してから、まだ五分程度しか時間は経過していない。
子供のような体格であるといえ、ここまで早く効果が現れるものだろうか。そんな疑念に首を捻りながらも、ラドウィグは床に倒れ込んだジョン・ドーを回収する。背中に左腕を添え当て、膝裏に右腕を回して、彼はジョン・ドーの小さな体をヒョイと抱き上げた。そして、エレベーターに向かうべく歩みを再開しようとしたのだが。ひとつ歩を進めたところで異変が生じる。
「――ジョンソン!!」
突如、聞こえてきたジュディス・ミルズの悲鳴。部長の名を叫ぶ彼女の声には、危機の到来を伝える緊張がまとわりついていた。
その声から緊急事態が発生したのだと判断したラドウィグは、意識朦朧としたジョン・ドーを抱えたまま踵を返し、アバロセレン犯罪対策部のオフィスに駆け足で戻る。ラドウィグはオフィスの出入り口前にジョン・ドーを下ろして寝かせると、彼の監視を神狐リシュに任せた。
そしてラドウィグは覚悟を決めると、緊張感に満ちたオフィスの中に突入する。――その先で彼が目にしたのは、つい数分前とは全く異なるオフィスの有様だった。
「……!!」
アバロセレン犯罪対策部内、その最奥にある部長のオフィス。その出入り口の扉は開け放たれており、テオ・ジョンソン部長はちょうどその出入り口から二歩ほど通路に出た場所に立っていた。
そして部長の背後には、所々に穴の開いた薄紫色の外套を身にまとう曙の女王が立っている。曙の女王はテオ・ジョンソン部長を背後から羽交い締めにしており、彼の身動きを封じていた。そのうえで彼女は、テオ・ジョンソン部長の右目にナイフの刃先を浅く突き立てていた。
その一方で、ナイフの刃先がそれ以上深く刺さらぬよう止めている手がある。それはテオ・ジョンソン部長の目の前に立つAI:Lの手だった。AI:Lは左手部位で曙の女王の右手首を掴み、ナイフを握るその手を固定していたのである。
「――それはボクが万民を庇護するようプログラムされているからです。ゆえに、あなたと同じ道を往くことはできません!」
曙の女王に威勢よく啖呵を切るAI:Lは、頑丈な機械の如き剛堅さで彼女の手を固定していた。下にも上にも、左右にも動かせぬ己の右手に、曙の女王は顔をしかめさせている。そして動けぬのは部長も同じ。羽交い絞めをされて動きを封じられていることもあるが、下手に動けば失明どころか命さえ失いかねない状況に、流石のテオ・ジョンソン部長も緊張から硬直しているように見えていた。
そしてAI:Lの背後に控えている局員たちもまた動けずにいる。不用意な行動が部長を危険に晒すことになると判断していたからだ。デスクの引き出しから拳銃を取り出すことさえ躊躇われる、この状況下。慌ててオフィスに駆け込んだラドウィグもまた、それ以上は動くことができず、ただAI:Lの背中を見つめるだけとなってしまう。――すると、曙の女王が舌打ちをした。
「揃いも揃って、ノリが悪い。興醒めした。さよなら」
舌打ちの次に捨て台詞を吐いたあと、曙の女王はドロンと姿を消す。黒い霧のみを残し、右手に握るナイフごと消えていく。その瞬間、バランスを崩した部長は後方に倒れかけるものの、大きく体が揺らぐ前にAI:Lが支えに入り、大事には至らなかった。
だが、気掛かりなものをラドウィグは捉えてしまう。それは部長の右目から頬にかけて、ゆっくりと伝い落ちる透明な液体だ。涙にしては妙に粘性を帯びているトロッとした体液――恐らく眼球の内容物である硝子体だ――が僅かに滴る一方で、当の本人は大した痛みを感じていないのか、安堵の表情を浮かべる余裕さえ見せている。
これはマズい。直感的にそう判断したラドウィグは、思考が判断に追い付くよりも先に動き出していた。大慌てで走り出すラドウィグが向かう先は、コーヒーメーカーのあるエリア。とはいえ彼の目的は一服ではない。そこにあるはずのものが応急処置に必要だと、直感が判断したのだ。
「ラドウィグ? あなた、何をしているの?」
コーヒーメーカーのもとに駆け出したかと思えば、その近辺を急にガサゴソと漁り出すラドウィグに、ジュディス・ミルズはそう訊ねる。そしてラドウィグが紙コップひとつを片手に持って慌ただしく立ち上がり、再び走り出せば、ジュディス・ミルズは表情を険しくさせた。
ラドウィグに疑念を向けるジュディス・ミルズの目。ラドウィグがその視線に気付いたとき、彼の思考がやっと直感に追いつく。説明を怠っていたことにも同時に気付いたラドウィグは、テオ・ジョンソン部長のオフィスに無断で入室しながら、部長に向けて忠告を飛ばした。
「部長! 絶対に目に触らないでください。左右とも、絶対に。触ったら最後、左目も失明しますからね? あと頭、動かさないで。それから可能な限り、まばたきも控えてください!」
ドタバタとひとり忙しく動き回るラドウィグを、苦笑しながらも見ていたテオ・ジョンソン部長だったが。ラドウィグが発した『失明』という言葉を聞くなり、自分が置かれている状況を察して顔を蒼褪めさせた。
その後ラドウィグはテオ・ジョンソン部長のデスクを無断で漁る。引き出しを次々に開け、鋏とセロファンテープの二つを引っ張り出すと、デスクの上にそれらを置いた。次に紙コップの底面を鋏で切り落とすと、切り落とした底面を手に取る。それから長めに切ったセロファンテープを二枚用意すると、バツ印を作るようにセロファンテープを紙コップの底面に貼り付けた。これにより、簡易のアイパッチが完成したというわけである。
そしてラドウィグは、簡易のアイパッチを持って再び駆け出す。走りながら彼は、テオ・ジョンソン部長の傍に控えるAI:Lに指示を出した。
「レイ! 部長をゆっくりと床に座らせて。それから、ゆっくりと仰向けに寝かせて。ゆっくりと、慎重に!」
AI:Lはラドウィグの指示通りに動き、テオ・ジョンソン部長はAI:Lの誘導に従う。彼の右目からちょろちょろと流出する体液には血が混ざり始め、涙のように透明だったそれは少しの赤色を帯び始めていた。
そしてテオ・ジョンソン部長が仰向けに寝かされたとき、紙コップ製の簡易アイパッチを携えたラドウィグが彼の傍にやってくる。と同時に、ラドウィグの傍には主席情報分析官リー・ダルトンが並ぶ。主席情報分析官リー・ダルトンの手元には、一人分のゴム手袋が入れられたポリ袋と、一〇㎝大に裁断済の滅菌コットンガーゼが詰められた箱が揃っていた――ラドウィグの意図を理解した彼は、必要と思われるものを持ってきてくれたわけだ。
ラドウィグは主席情報分析官リー・ダルトンからまずゴム手袋を受け取る。ゴム手袋を装着しながら、彼はジュディス・ミルズをふと見やった。険しい顔をしながらテオ・ジョンソン部長を見ている彼女は、彼女のデスクに置かれた電話から緊急の搬送を要請している様子だ。
自然に行われている分業、そして連携。特務機関WACEなどという監獄では見たことがない円滑な流れに感心しながら、ラドウィグは箱から滅菌ガーゼ数枚をガサッと取り出す。部長の目から流れ出ていた眼球の内容物と血液をそれで拭い取ったあと、ゴム手袋が入れられていたポリ袋にそれを詰め込んだ。
その間に主席情報分析官リー・ダルトンは箱から滅菌ガーゼを数枚取り出し、それを綺麗に重ね揃える。そして重ね揃えられた滅菌ガーゼ束をラドウィグは受け取ると、それを部長の右目に軽く当てる。滅菌ガーゼの上にラドウィグは紙コップ製の簡易アイパッチを被せると、簡易アイパッチに予め貼り付けてあったセロファンテープを部長の顔に貼って、簡易アイパッチを固定した。
今、ここで可能な応急処置はここまで。そう判断したラドウィグは、一仕事を終えるとドッと肩の力を抜く。それからラドウィグはテオ・ジョンソン部長に笑いかけつつ、こう言った。
「運が良ければ、右目の失明は避けられます。まあ、かなり視力は落ち――」
しかし、言葉は最後まで言い終えることができなかった。言葉の途中でラドウィグは、突如上体を起こしたテオ・ジョンソン部長によって突き飛ばされたのだ。
予測不能なこの事態にラドウィグが呆気に取られ、背中から床に落ちたとき。彼が耳にしたのは銃声だった。引っくり返るように倒れたラドウィグが頭のみを動かし、銃声の発生した先を見てみれば、そこには虚ろな目をしたジョン・ドーが立っている。つい先ほど、眠ったかのように倒れ込んだはずのジョン・ドーが、意識のある状態で立っていた。小声で繰り返し同じ言葉を呟き続けるジョン・ドーの姿が、そこにあったのだ。
「……これは命令、命令、命令、これは命令、命令……」
自己暗示のように同じ言葉を繰り返し唱え続けるジョン・ドーは、誰かしらのデスクから奪い取ったのであろう拳銃を構えていて、その照準をテオ・ジョンソン部長に合わせていた。そして照準の先に居た部長は既に被弾したのか、仰向けに倒れており、動く気配はない。
「……!!」
――この状況が示唆するのは一つ。曙の女王の目的はテオ・ジョンソン部長を仕留めることだったのだ。そのために彼女はジョン・ドーを利用した。暗示を掛けたジョン・ドーをアルストグランの国土に放ち、ASIに彼を捕まえさせて、彼が部長に近付けるよう仕向けたのだ。
ラドウィグはジョン・ドーを取り押さえるべく、慌てて立ち上がり、即座に駆け出す。しかしジョン・ドーの動きは素早かった。ジョン・ドーはオフィスの窓に向かって複数回連射をすると、拳銃を投げ捨て、窓に向かって走り出す。そのままジョン・ドーは銃弾でひび割れた窓に体当たりを決めると、窓を肩でカチ割り、そのまま飛散する窓ガラス片と共に地上へと落ちていった。
さながら、それは投身自殺のよう。ジョン・ドーは命綱もパラシュートも何もない状態で、しかし躊躇なく飛び降りていった。みっともなく命乞いをすることもなく、捨て駒の役目を果たして散っていった。
「…………」
ここは高層階。真人間がこの高さから投身を試みれば、確実に死ぬだろう。とはいえジョン・ドーは不死身だ。死んだとしても、どうせまた生き返る。だが、今ここで死んだことには変わりない。
ジョン・ドーを追いかけていたラドウィグだが、彼は穴の空いた窓の手前で立ち止まると、そんなことをウダウダと考え始める。飛び降りたジョン・ドーを追うことを諦めた彼は、下唇を軽く噛みながらテオ・ジョンソン部長に視線を移した。
そして彼が部長の傍にトボトボと歩み寄ろうとしたとき。ラドウィグは部長の傍に、黒い靄に包まれた人影――恐らく死霊の類だ――があることに気付く。仰向けに倒れるテオ・ジョンソン部長の頭のすぐ傍に膝をつき座り込んでいるように見える黒い人影は、掠れた小声で呟くように言っていた。
『……まだ……来ては、いけない……こちら側に、あなただけは……』
声は次第に小さくなり、それに伴い人影そのものも薄くなっていく。やがて声も消え、黒い靄さえも見えなくなった瞬間、テオ・ジョンソン部長が咳込んだ。それから彼は咳込みながら、自身の着ているジャケット、その胸元に手を当てる。部長が手を当てていた部分には、被弾した際に空いたと思われる穴があった。けれども、その手に血が付いている様子はない。
そしてテオ・ジョンソン部長は被弾した部分に手を突っ込みながら、苦しそうな半笑いを浮かべた。それから彼が胸元から取り出したのは、一冊の手帳。古びた革製のカバーに潰れた弾丸がめり込んでいる手帳を、部長はジャケットの中から取り出しながら、ひとり呟いた。
「ハハッ。まさか、こいつで命拾いをするなんてな――……ッ!」
およそ四〇年は使い続けているだろう手帳カバー。これは、テオ・ジョンソン部長の殉職した元相棒が、結婚祝いとして彼に贈ったプレゼントだった。デジタルデバイスで記録を取ることが当たり前の時代に、しかしメモ帳なるものを好む彼のためにと、彼の相棒が特注した防弾仕様の手帳カバーである。
その手帳カバーが――またはそれを贈った者の思念が――今、防弾という役目を果たしていた。そのまさかの事態に、部長の傍に控えていた主席情報分析官リー・ダルトンは苦笑う。
「この手帳、局員の標準装備にしましょうかね。どう思います、レムナント」
主席情報分析官リー・ダルトンは手帳カバーを観察しながら軽口を叩きつつ、ジュディス・ミルズに話を振るのだが。彼女から、すぐに返事が来ることはなかった。
いつの間にか窓際に移動していたジュディス・ミルズは、窓越しに遠い地上を観察している。彼女は数秒ほど黙りこくったあと、地上を見ながら、主席情報分析官リー・ダルトンの投げかけた質問とは何ら関係の無い言葉を返した。
「グチャグチャに潰れたジョン・ドーを今、曙の女王が回収していった。また消えた。振り出しに戻った。最悪ね、はぁ……」
防弾仕様の手帳がテオ・ジョンソン部長の命を救ったという奇跡、これに主席情報分析官リー・ダルトンが感心していた一方。不死身の怪物という奇跡ともいえる生命体に一抹の恐怖を覚えていたのがジュディス・ミルズである。
テオ・ジョンソン部長を今ここで殺そうとした不死身の怪物は、しかし子供のような容姿をしていたし、恐らく肉体的にも精神的にも未熟な子供に近い状態なのだろう。その子供が、自己暗示を掛けるように同じ言葉を繰り返し繰り返し唱えながら、暗殺未遂を犯した。そしてジュディス・ミルズは、その子供が直後に見せた、己の行動にゾッとするような表情を目撃している。そしてその子供は、鬼気迫る顔で近付いてくるラドウィグに怯えを見せたのち、逃げるという行動に出た。それも、命を投げ捨てるという最悪な選択を。
一切の躊躇すら見せずに高層階の窓をカチ割って飛び降りた体は、あまりにも小さい。――だからこそジュディス・ミルズは恐怖を感じていた。それまで無感情に振舞っていた子供が唯一見せた感情が、怯え。怯えという感情しか与えられていない暗殺兵器が作られているという現実が、彼女には末恐ろしく感じられていたのだ。
「最悪といえば、ジョンソン。今日は厄日ね。右目を刺されたかと思えば、今度は撃たれて。でも、こうして生きてるだなんて。あなた、ラーナーの悪霊に『生き延びて、もっと働け』とでも呪われてるんじゃなくて?」
ジュディス・ミルズは窓からテオ・ジョンソン部長に視線を移したあと、気分を切り替えるための冗談を発する。シラフであれば到底笑えない内容の冗談だが、今この場に集っている真人間たちは今シラフとは言い難い状態にあった。極限の緊張を乗り越えたせいか、妙な脳内物質でも分泌されてしまっているらしい。ジュディス・ミルズがシニカルな笑いをのせて冗談を言えば、それに釣られて主席情報分析官リー・ダルトンがクスクスと笑い出す。笑気に中てられ、テオ・ジョンソン部長までもが小さく笑い始めた。
無論、この冷たい笑いはラドウィグにも伝染する。現に、テオ・ジョンソン部長の頭上で『こちら側に来るな』と呟く死霊を見てしまっているラドウィグのツボに、今のジュディス・ミルズの言葉はじわじわと染み入り、腹の底をくすぐっていた。かといって噴き出すほどの笑いではなく、せいぜい口元が緩む程度のものでしかない。
フッと口元が緩んだ瞬間、ラドウィグの気力も急激に抜け落ちた。立っている姿勢さえも維持できず、ラドウィグはへなへなとその場に座り込んでしまう。そうして床に尻をついた瞬間、ラドウィグは強烈な空腹感に襲われ、気が遠くなるのを感じた。
「ラドウィグ?! まさか、あなたまで……!!」
蒼白く変わり果てたラドウィグの顔色に気付くと、ジュディス・ミルズが大慌てで彼のもとにすっ飛んでくる――彼女は、ラドウィグまでもが負傷をしたのではと懸念していたのだ。
「……腹が減りすぎて、気力が尽きそうっス……」
蚊の鳴き声のように細い声で、ラドウィグが発したのは間抜けな言葉。それを聞いたジュディス・ミルズは安堵する。ホッと胸をなでおろしたあと、彼女はこう言って立ち去った。
「ちょっと待っていなさい。食べられそうなものを探してくるから」
そうしてジュディス・ミルズが小走り気味にオフィスを出て行った際、入れ違うかたちで新たに入室してくる者が現れる。それは申し訳なさそうにしゅんとしている雰囲気の神狐リシュ。ジョン・ドーをみすみす逃した神狐リシュは、後ろめたさを覚えているようだ。
首も尻尾もだらりと垂れ下げながら、神狐リシュはトボトボとした歩みで床に座り込むラドウィグの傍にやってくる。そんな神狐リシュに対してラドウィグは、エネルギー切れから震える小声で言った。
「……リシュは悪くない。それに、あの展開はどのみち防げなかったよ」
しかし。珍しく心の底から反省している様子の神狐リシュには、その程度の慰めはむしろ逆効果となった模様。目さえも伏せる神狐リシュは黙りこくるばかりだ。
そんな神狐リシュを見やりながら、ラドウィグはぶるりと肩を震わせる。その震えは、エネルギー源がないという体からの訴えであり、真夜中の寒さに対する反応であり、これから先に起こり得るであろう更なる悲劇に向けられた怯えの兆候でもあった。