ディープ・スロート
//スローター

ep.11 - Speech is silver, silence is golden.

 久々に特命課が始動してから、二十二日が経過していた。
「えっと、それで。つまり……?」
 約一週間ぶりに戻るオフィスに、ニールが足を踏み入れたのが午前七時四五分のこと。そしてオフィスに入って早々、ニール・アーチャーは待ち伏せを食らっていた。
「つまり、状況は最悪ってわけだ」
 まさに不機嫌という顔で腕を組み、特命課の狭いオフィスルームの中でニールを待ち伏せしていたのは、先輩であるジェームズ・ランドール特別捜査官。ニールが休暇を取得している間、問題児であるアレクサンドラ・コールドウェルの相棒――という名のお目付け役――を任されていた、または押し付けられていた人物だ。そしてオフィスには、シドニー市警のロゴがプリントされた段ボールがいくつか積まれている。段ボールの中には、シドニー市警鑑識課による鑑定結果が入っているようだ。
「最悪、ですか。まぁ、そうなりますよね。ははは……」
「ああ、色々と酷いぞ。……仕事に関しては自分にも他人にも厳しいフォスター副支局長が不在で、事務方の連中とコールドウェルが浮かれてな。コールドウェルは問題を起こすし、事務の連中は最低限の仕事すらサボる始末で、まるでこの支局が回っていない。スミス副支局長は相変わらずの放任主義という名前の手抜きっぷりを発揮し、現場の指揮系統も滅茶苦茶だ。そのうえ、頼みの綱ともいえるセディージョ支局長は、こんなタイミングでキャンベラの本部に呼び出されてな。今日は一日中、支局長不在だ」
「ヤバいですね、それ。俺が居ない間に、この支局の雰囲気はだいぶ変わってしまったようで」
「だから言っただろう、状況は最悪だと。現場の人間からは、リリー・フォスターの早期復活を望む声が多い。……彼女は本当に、偉大だった。片一方が欠けてしまった場合でも円滑に責務を果たせるように、副支局長のポストは二つあるってのに。その副支局長がひとり欠けてみりゃ、まさかこれほどの大混乱に陥るとは。本末転倒もいいところだよ。エド・スミスは遂に解任か? ハハッ」
「笑えないですよ、ジム。現実になりそうで、怖いですって……」
 ニールも、予想はしていた。自分が居ない間、きっとコールドウェルは羽を伸ばすだろうと。それに、とあるアクシンデントのせいで、コールドウェルの宿敵であるリリー・フォスターが現在、副支局長の席を空けている。自由すぎるコールドウェルの行動に、一々目くじらを立ててくる人間が居ないのであれば……あのアレクサンドラ・コールドウェルのことだ。好き放題に暴れて回っていたに違いないだろう。
 お怒りモードで不平不満が溢れて止まらないジェームズ・ランドール特別捜査官の顔には、怒りと同時に疲労も色濃く出ている。苦笑うニールは、自分が休んでいた間に起こったであろう様々なトラブルを想像し、緊張と恐怖と居心地の悪さから体温が徐々に下がっていくのを感じていた。
 そしてジェームズ・ランドール特別捜査官が、ムッとした顔で喋り始める。と同時にジェームズ・ランドール特別捜査官は、シドニー市警の名前が表紙に印字されたファイルを、ニールに渡してきた。
「レッドラムの正体ってのが、四〇年前だかにキャンベラで騒ぎを起こした女だと確定したそうだ。捜査官により射殺されたはずの女が実は生きていて、殺しを起こしたと、そういうことらしい。四〇年前に殺しそこなった男を、再び殺しに舞い戻った、というのが現時点での仮説だ」
「四〇年前……――ああ! 市警の鑑識課、ハウエルズ主任が言っていた、あの女ですか。デボラ・ルルーシュとかいう名前の」
「その女だ。それにしても、奇妙な話だ。四〇年前に死んだはずの女が、当時とまったく同じ姿で息を吹き返すなんてな。世の中、どうなってんだか」
「本当に、それですよ。まるで現実に存在しない、実態のない亡霊を追っているようで、この事件の末路がどうなることか危ぶまれるというか……」
「あー、やめてくれ。アーチャー、それ以上は聞きたくない」
 レッドラム事件の犯人は、半世紀近く前に死んだ女。
 ある意味においては『予想通りだった』ともいえる物語の結末に対し、ニールが浮かべるのは情けないとも開き直ったともいえる笑顔。続けてニールは浮かべた笑顔をそのままに、笑えないジョークを言うのだった。
「サー・アーサーがこの支局に殴り込んできて、事件を隠蔽しろって指図してきそうデスネー」
「サー・アーサー? ……お前、そんな噂を信じているのか?」
「信じているも何も、俺は彼に会ったことありますし。それにコールドウェルの上官ですよ、神出鬼没のサー・アーサーは」
「……アレクサンドラ・コールドウェルは、ASIのエージェントじゃなかったのかァッ?!」
「いいえ。あいつの所属は、謎の特務機関ですよ。ASIにもコネがあるってだけで、アイツはASIの局員なんかじゃないです」
 サラリと衝撃の事実を告げるニールに、彼は度肝を抜かされたのだろうか。限界まで瞼を開ききったジェームズ・ランドール特別捜査官は、ニールをその目で見つめて固まっている。
 噂程度でしか――それもどちらかと言えば、明らかに信憑性の足りない情報を鵜呑みし、それを信じて疑わない、ピュアな心を持った陰謀論者たちからしか――聞いたことがない謎の特務機関が、実在するだって?
 それに“死神”アレクサンドラ・コールドウェルが、そこの人間だと?!
 実証主義が世を支配する“現実”で生きている、まっとうな人間であるジェームズ・ランドール特別捜査官がその情報を呑みこむには、多少の時間が必要であったようだ。
 ニールは、それまで浮かべていた笑顔を消す。そして代わりに表に出したのは、ジェームズ・ランドール特別捜査官の顔色をあからさまに窺うような態度だった。
「それで……――コールドウェルは、どうでしたか? アイツが、面倒なことを起こしたりしませんでしたかね」
 そんなことをニールが訊ねると、ジェームズ・ランドール特別捜査官の硬直が解ける。真顔に戻ったジェームズ・ランドール特別捜査官は、ニールが予想していた通りの答えを返してきた。「あぁ、それならたんまりとあるぞ」
「ま、ま、マジっすか……」
「まず、勤務時間外に発砲。夜中のコンビニエンスストアの駐車場で、銃を片手に、子供を盾にして強盗を働こうとした奴に向けて、発砲したんだ」
 あぁ、アイツがやりそうなことだ……。
「だが死神にしちゃ珍しく、犯人を射殺しなかったんだ。そいつが持っていた銃だけを見事に撃ち抜いて、犯人が怯んだ隙に子供を逃がしたんだ。けど、犯人は逃亡しちまったよ。真夜中だったし、暗くて顔もロクに見れなくてな。野放しになったままでいる」
「それ、ヤバいじゃないっすか」
「ああ、そうだ。ヤバイ」
 アレックスよ。お前は何故、手錠を使わなかったァッ!
「それに実況見分の際に、死神は証拠品の銃を盗みやがった。おかげで協力してくれていた市警の鑑識から俺の許にも局長の許にも苦情殺到、非難轟々でな。本当に、最悪だった」
 溜息を吐くジェームズ・ランドール特別捜査官の目の下には、ひどい隈が作られている。きっとこの数日、彼はまともに眠れなかったのだろう。
 心中お察しします、とニールは彼に声を掛ける。そしてニールは、シドニー市警から届いたバインダーと証拠品入りの段ボールを見つめた。
「結局、振り出しに戻ったってわけですね。犯人の名前はデボラ・ルルーシュ。それは分かっているのに、まるでどこにいるかが見当もつかない。まるで幽霊を探すみたいだ……」
 捜査開始から三週間。進展が少しでも見込めるかと思ってシドニー市警の鑑識課に捜査協力を願い出たのに、得られた結果は逆に働き、捜査は振り出しに戻ってしまった。
 現場から発見された、血みどろのチェーンソーにハンマー、ナイフ、その他諸々。それらか採取された指紋やDNAなどは、いずれも約四〇年前に死んだはずの女を指示している。
 デボラ・ルルーシュ。ニールは、その名前を睨むように見る。そして目に見えているようなものである全ての結末に、ニールは心の中で“NO!”を突き付けた。
「……全てを黙って見過ごせと、彼らは言っているんでしょうかね。犠牲者がこの世にたしかに生きていたという記録も、その尊厳も。ただ黙って、全てなかったことにしろと」
 しかし心の中で結末を拒否しようが、訪れることが確約された未来は人の手では変えられない。
 身に覚えのある無力感が押し寄せ、思わず独り言をボソッと呟いたニールを、ジェームズ・ランドール特別捜査官は黙って見つめる。そして目を伏せたジェームズ・ランドール特別捜査官は、無言でニールの右肩を二回ほど優しく叩き、自分の持ち場へと帰っていった。





 国道を走る黒いSUVは、制限速度をガン無視してカッ飛ばしている。運転席に座り、アクセルを強く踏み込むコールドウェルは、窓を閉め切った車内でひとり雄叫びをあげていた。
「……ぬぁーっ! こうも無性にイライラすんのは、アタシの脳味噌に糖分が足りてないからなのかねぇ? チックショオオオォォォォァァッ!」
 やはり今朝も、アイリーンとアーサーの間に漂う空気はただならぬものだった。
『この××××な死神! 悪魔なんかよりも、アンタのほうがよっぽどタチが悪い××だわ!! どういう心を持ったら、そんな酷い仕打ちが出来るのよ?! たしかに彼が仕出かそうとしたことは、一歩間違えれば大惨事だった。けど、だからって悪意から彼がその行動を選択したわけじゃないんでしょ!? なのに、どうして!! 理解出来ないわ、この×××××野郎!! アンタこそ、彼と同じ目に遭うべきよ! 昔の優しかったあなたは、どこに行ってしまったの?!』
 ……というように、ありとあらゆる口汚い言葉を並べて、アーサーを責めて立てていたのはアイリーン。
『君はすぐに感情で物を語る。冷静になれ。私情を挿むんじゃない』
 そしてアイリーンを一刀両断し切り捨てていたのは、常に私情を挿みまくる気まぐれ男のアーサーだった。
 コールドウェルらが知らない裏で何があったのかは知らないが、とにかく今のあの二人はどうかしていた。アイリーンはとても冷静だとはいえないし、アーサーの方は却って冷静すぎていて気味が悪い。どちらも異常なのだ。
 なにやら深刻なトラブルが起きているようなのは、二人の態度を見てコールドウェルも理解していた。のだが、そのトラブルの内容は皆目見当がつかない。
「……アタシとしたことが……」
 コールドウェルもかれこれ十年ほど、特務機関WACEという異常な環境に身を置いている。しかし、だ。アーサーとアイリーンという二トップが、仲違いまがいの状況に発展したのは初めてのことだ。
 アタシは、一体どうすりゃいいんだい?
 ……なんていうことは、思っていても口には出せない。だがそんなことよりも、今のコールドウェルの頭を支配していたものがあった。それは今朝、アストレアが言っていた冷たい言葉だ。
『冷蔵庫のティラミス? あぁっと、たしかそのティラミスなら、アーサーが一昨日の夜、持って行っちゃったよ』
 コールドウェルにとっては、仲間同士のイザコザよりも、密かな楽しみにしていた甘味のほうが何よりも優先事項であり、重大な事柄だったのだ。
「……やっちまったね、本当に。超甘党のオッサンの存在を、完全に見落としてたよ。アーサーは一杯の紅茶に六、七個の角砂糖をブチ込む人だったじゃないか。アイリーンはクッキーにしか興味無いし、ケイのじいさんは甘味に興味ないし、アストレアはショートケーキやらプリンやら子供っぽいもんしか興味無いから、大丈夫だと思っていたが。一番の強敵を、アタシは忘れていた。あぁー。こんなことになるなら、あの子がプリン食ってたあのときにアタシもやっぱ食べておくんだったーっ……――あぁっ、クソ!」
 そんなこんな、国道を吹きぬける風よりも早く疾走する黒いSUVが目指していたのは、キャンベラ市内にある心療内科兼精神科のクリニック。まだ開いていない時間である、なんてことはこの際コールドウェルにとってはどうでもよかった。
 だって別に、アタシは患者じゃねぇし。気を遣うような間柄でもない。
「ドクター、サントス! この大嘘吐きの精神科医がァッ!!」
 フロントガラスに向かって絶叫するコールドウェルは、カルロ・サントス医師の名前を口にする。そんなコールドウェルの隣、助手席の上には、先日アイリーンから渡されたアストレアに纏わるバインダーが置かれていたのだった。





「だから、困りますって! こんな時間帯に来られても、初診は」
「だから、診察に来たわけじゃねえってんだよ! アタシは、連邦捜査局の者だ。いいから、ここの院長先生を出しな!」
「ですから!!」
「ドクター・サントス、さっさと出て来い! アンタに、話があるんだ!!」
「院長は忙しいんです、お引き取り下さい! 第一、バッジを見せられないような方が連邦捜査局の捜査官だとは、とてもじゃないですけど……」
「っるせぇな、少しは黙れ! アタシは今、最高にイラついてんだよ」
「それは、私たちにとって一切関係のないことです! お引き取りを」
 STUFF ONLYの看板が掲げられたクリニックに、強引に押し入ろうとしたコールドウェルは、案の定そこで働くスタッフたちに止められた。
 従業員専用の出入り口で繰り広げられる押し問答。すると混乱を聞き付けた院長自身が、コールドウェルの前に現れた。
「……あぁ、アレックスくん。君という人物は、これだから……」
 呆れた、なんてもんじゃない。まさか、ここまでやるとは。
 右手を額に当て、蒼い顔をするカルロ・サントス医師は、氷水より冷たい視線をコールドウェルに送り付けていた。しかし苛立ちを募らせているコールドウェルは、その程度では止まらない。彼を睨みつけたコールドウェルは、カルロ・サントス医師に嫌味を言い放つ。
「遅いじゃないか、ドクター。アタシをどれだけ待たせるつもりだったんだ」
「あのなぁ、来るのであれば事前にアポイントを取ってくれ。この通り、スタッフが混乱してしまうだろう? 次からは」
「そんな悠長なことをやってられる余裕がなかったんだよ、こちとら! それにアンタが大事なことを黙ってなけりゃ、こんなことにゃならなかったんだぜ?」
 半ば啖呵を切るような、喧嘩を売っているようにも思える口調で、コールドウェルは捲し立てる。そして彼女がカルロ・サントス医師にちらつかせたのは、腋に挿んだ一封のリングバインダーだった。すると、呆れ顔だったカルロ・サントス医師の表情が変わる。より険しいものへと変化した。
「それは、どういう意味だ?」
「アストレアだよ。アンタ、本当は知っていたんじゃないのか?」
 カルロ・サントス医師を見るコールドウェルの目の奥には、疑いという感情が蠢いている。それも程度の軽いものではない。限りなく黒に近い容疑者を捕縛しに来た警官のような、一切の信用を抱いていないうえに、ターゲットを罪人だと信じきっている目だ。
 何の疑いを掛けられているのか。何を誤解されているのか。それは、カルロ・サントス医師には分からない。どちらにせよ、ここはコールドウェルの話を聞く必要があるように彼には思えた。それも二人きり、クリニックのスタッフたちに話を聞かれない隔離された場所で。
「すまない、私は少し外に出る。……アレックスくん、君も来い」
 スタッフたちに対してそう言うと、カルロ・サントス医師はコールドウェルの肩を掴み、強引に外へと連れ出す。そして二人が来たのは、クリニックの裏にある駐車スペース。コールドウェルが乗ってきた黒いSUVの、その目の前だった。
 コールドウェルはもとよりキツい目つきを、研ぎ澄まされた刀のように鋭くさせていた。そして彼女は緑色の瞳で、カルロ・サントス医師のダークブラウンの瞳を凝視している。ここからは如何なる嘘も許さないと、彼女は無言でメッセージを伝えていた。
「……君のその様子から察するに、あの子の検査結果が出たようだな」
 カルロ・サントス医師は、毅然とした態度を見せていた。対するコールドウェルの態度も、堂々としている。爪を尖らせた雌ライオンのような眼光に、動揺や混乱、焦りはない。あるのは、疑念から来る怒りのような感情だった。
「ああ、結果が出た。お察しの通り、あの子は人間だったよ。フィッツロイに住んでいた、普通の女の子だった。まっ、この中身を読めば分かるよ」
 コールドウェルは乱暴にそう言うと、ずっと腋に挿んでいたバインダーをカルロ・サントス医師に渡す。それを彼が受け取ると、コールドウェルは読み終えるのを待つことなく話し始めた。
「あの子の名前は、アイーダ。約三年前、母親と共に訪れていたフィッツロイの動物園で誘拐され、消えた。以後、今日に至るまで事件は未解決のままとなっている」
「…………」
「母親は内縁の夫からDVを受けており、その男との間にできた子供であるアイーダも同様に、男から虐待を受けていた。児童保護局の要監視リストに、その男の名前が載っていたくらいだ。ヘンリー・フランツマン、警備会社の若き社長だ。だからこそ警察及び連邦捜査局は、その男が子供を連れ去り、殺したと判断。しかし遺体が見つからず、男は児童虐待とDVの容疑だけで刑務所にぶち込まれ、結果的に誘拐事件は未解決となった。まっ、ここまでは、憐れなほどにありふれた悲劇だ」
 そう言いコールドウェルは、小さく笑う。ただ笑うことしか出来ない、とでもいうような、呆れ返った微小だった。それから続けて、彼女は言う。
「そしてアイーダの母親は、小さな劇団で細々と活動する売れない舞台女優だった。名前は、マルシア。ドクター、アンタには身に覚えがある名前だよな?」
 マルシアという女性の名前。カルロ・サントス医師が真顔になり、コールドウェルが浮かべていた笑顔を消す。コールドウェルが口にした名前は、この精神科医の妹の名前だったのだ。
「アイーダ・サントス、それがあの子の本名だよ。つまり、アンタの姪っ子だ。だからあの子は、アンタの名前を知っていたんだよ。アンタのことを伯父と認識しているかどうかはアタシにゃ分からねぇが、とにかくあの子はアンタの名前を覚えていたんだ」
「あの子が、妹の娘だと?」
「そうだよ、その通りだ。なら、カルロ・サントス。アンタはどうなんだ。アンタは、あの子の存在を知っていたんじゃないのか?」
 コールドウェルは、あくまでカルロ・サントス医師を疑っていた。もしかするとこの精神科医は、事実を知っていた又は気付いていたにも関わらず、黙っていたのではないか、と。しかし、カルロ・サントス医師にとってその真実は、青天霹靂の出来事でしかなかった。初耳だったのだ、何もかもが。
「いいや。あのどうしようもない妹に子供が居るなど、一度も聞いたことがなかった。今この瞬間まで、知りもしなかった。二年前の夏に妹の葬式に出たが、子供が居て、誘拐されていたなんて話はどこからも……――」
「ちょっと待て、ドクター。妹さん、死んでるのか?」
「交通事故だ。買い物帰りに歩道を歩いていたら、禁止薬物でハイになった馬鹿が運転する暴走車にタイヤで潰され、死んだそうだ。肝臓が破裂し、二〇分ももたなかったと聞かされたよ。……あぁ、そうか。救急隊員が言っていた、死の間際に“イーダ”と連呼していたうわ言は、娘の名前だったのか……」
 独り言をぶつぶつと呟くカルロ・サントス医師の視界に、もはやコールドウェルは入っていない。おい、ドクター。そう言ってコールドウェルは彼の肩を叩き、彼の意識を迷路から現実に戻らせる。そして彼からバインダーを取り上げると、コールドウェルは言った。
「あの子の諸々の事情をアンタが知らなかったことは、分かった。で、アンタはどうする? 一応、あの子の親族ってワケだし」
「それは、つまり……――あの子を、私が引き取るかどうかという質問か?」
 カルロ・サントス医師はコールドウェルに訊ねるが、コールドウェルはイエスともノーとも言わない。ただ無言で、ゆっくりと瞬きを一度しただけだった。
 うぅむ……と唸るカルロ・サントス医師。そして彼もまた、イエスでもノーでもない答えを出した。
「もしその問いが、養子がどうたら~だというものであると仮定してだ。しかし、それを決めるのはあの子自身なのではないか? あの子が私の許に来たいというなら、それ相応の態勢は私は整えよう。だが当の本人が何も言っていないのであれば、なぁ……。それに彼女は、自分のことをまだ機械だと勘違いしているままなんじゃないのか?」
 カルロ・サントス医師はそう言うと、腕を組んで目を伏せる。明確な言葉は避けたが、そのボディーランゲージが表していたのは拒絶だった。面倒事は引き受けたくない。そういうことなのだろう。
 コールドウェルは取り上げたバインダーを腋に挟み、カルロ・サントス医師に背を向ける。そして黒バンの運転席ドアを開けると、彼女は一言「急に押し掛けたりして、すまなかった」と言った。
「すまないと思うなら、このようなことは二度としないでくれたまえ……」
 ため息混じりに、カルロ・サントス医師はそう言う。するとコールドウェルは、小さな声でこんなことを言った。
「それにしてもドクターには、ちょっと幻滅したよ。無理を言ってるのはアタシのほうだってのは百も承知してるが、あからさまにそんな態度を見せられるとね。ちょっと、アレだ。あの子のことが、とてもじゃないが……――」
「…………」
「まっ、それはいい。スタッフの人たちに、悪かったと伝えといてくれ。それじゃ、邪魔者はもう行くよ」
 背を向けて、コールドウェルは手を振る。そして彼女はティアドロップ型のサングラスを着けると、黒いSUVに乗り込み、去って行った。
 珍しく安全運転をしているSUVを見送りながら、カルロ・サントス医師は組んでいた腕を解く。本日何度目かの溜息を零す彼が、そっと思い返すのは十代の頃に見た父親の背中だった。
 あの背中を、情けない大人の象徴だと嫌い、ああはなりたくないと思っていたはずなのに。気がつけば自分も父親と同じ、情けない大人の男になっていた。そして今は、嫌悪の入り混じった冷たい視線を向けられる立場に立っている。
「……俺も結局、親父と同じヤブ医者か……」
 また、溜息が零れる。すると背中から、クリニックのスタッフたちの呼び声が聞こえてきた。
「院長ー!! お怪我はありませんか?!」
「院長、警察呼びますか?!」
「さっきの女は誰なんです? ……あの乱暴なブロンド女、何さまのつもりだっての!」
 SUVが去った音を聞いたからだろうか。興奮した面持ちのスタッフたちが、ぞろぞろと駐車場へやってくる。耳まで赤くした彼ら彼女らを、院長であるカルロ・サントス医師はどーどーと宥めるのだった。
「まぁまぁ、落ち着きなさい。私は大丈夫だ。それと警察を呼ぶ必要はない。客人は帰ったから、もう心配することはないだろう」
「本当ですかね? あとから徒党を引き連れて戻ってきたりとか……」
「それは、ない。大丈夫だから、安心してくれ。さっ、それより準備が終わってないんだ。パパッと終わらせよう」
「そうですね。ええ、早く終わらせましょう。ははは……」
「やーね、もう。怖かったわー」
「二度と御免よ。あんなの」
「ねー、本当にそれよ。心臓が止まるかと思ったわ」


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