アンセム・フォー・
ラムズ

ep.07 - Innocence is bliss, wisdom is anguish

「ねぇ、アーサー。いつになったら、この拘束は解いてもらえるの?」
 それは彼の実年齢にも、そして外見の年齢にも見合わない、子供じみた喋りだった。親しい間柄の大人をおちょくるクソガキのような、そんな態度。ペストマスクに隠れた顔は、きっと憎たらしい笑みを浮かべているに違いないはずだ。
「安全を確認できるまでだ」
 アーサーは青年に着せた拘束衣の、緩んでいたバックルを締め直しながら、愛想なくそう言う。彼はもはや目の前の青年に対して、何の感情も抱かなくなっていた。すると青年が言う。「安全って? 俺は誰も傷つけやしないよ」
「信用ならない」
「……どうして?」
「他害もそうだが自害もだ。そのどちらも警戒している」
 アーサーという男は特殊な経歴ゆえに、こういった頭の壊れた者の扱いに慣れていた。空想妄想や虚言に譫言、白昼夢でも見ているような滑稽な姿は何度も見たことがあるし、肥大した自己に基づいて描かれる尊大な絵空事を聞かされることは何度もあったし、怪異なクセや理解に苦しむ仕草などを延々と見せられ続ける時間も幾度となく経験している。つまり、あらかたのことは経験していて、その対応も心得ていた。また一〇代の頃は、薬物常習者であった異母兄の、下の面倒をさせられたこともあった――“高潔な”両親はそれをやりたがらなかったため、卑しい血の混じった彼が、そのテのことは常にやらされていたのだ。
 そして、いつからか。ちょっとやそっとぐらいのことで彼は動じなくなっていた。クソガキの世話など、どうってことはない。コールドウェルを往なす際にかかる心理的負荷と比較すれば、こちらのほうが圧倒的にマシだ。
「ねぇー、アーサー。せめて、椅子から解放してくれたっていいだろー。トイレの時ぐらいしか立って歩けないなんて、体がおかしくなる」
「なら、鎮静剤にするか?」
「そうじゃないって。……カタブツだな」
「毛も生えていないクソガキが。少しは口を慎め」
「……?!」
 しかし、だ。ここまで滅茶苦茶な存在を相手にするのは、さすがのアーサーも初めてのことであった。
「誰が貴様の面倒を看てやっていると思っている? 少しは敬意を払え。今は拘束するに当たり鬱血のケアもしてやっているが、これを止めてもいいんだぞ。苦しい思いをしたいか、あ?」
 見た目はまるで、並みよりも発育がやや遅れた十五歳ほどの青年。落ちくぼんだ目は老人のように生気がないが、まだ綺麗な子供のような肌は、ヒゲすら生えたことのない子供である証。そこそこ筋肉の発達した四肢もつるんとしたもので、となれば下も同じである。尚、アーサーは世話の一環で確認済みだ。
 しかしこの青年の厳密な年齢は、二千百年の時を超えてきたマダム・モーガンと同等であるはず。そして彼が思い出すのは、今は亡き人物の言葉。特務機関WACEにかつて在籍していた医務官、ジャスパー・ルウェリン。彼女が出していた所見である。
 ――何度も死んでは幼い姿に戻り、似たような劣悪な人生を延々と繰り返し続ける怪物。
「……アーサー」
「なんだ? これ以上ダダを捏ねるのであれば、猿轡も追加するぞ」
 ジャスパー・ルウェリン。彼女の見解は正しいようにも、今のアーサーには思えていた。少なくとも、今アーサーの目の前にいる青年は外見が十五歳前後に見えるが、その精神性は確実に子供返りしている。彼女の遺した言葉を信じるなら、これから外見のほうも幼く変化していくのだろう。
 それをアーサーは不気味に感じる反面、彼は別の問題にも頭を悩まされていた。多重人格やらDIDと呼ばれる症状、それがこの青年に顕れている。それも人格が切り替わるスピードが異様に早い。ここまでめくるめく変化し、直前の記憶も継続されないために何度も同じ話を繰り返さなければいけないような事態は、彼とて初めて遭遇するものである。
「教えて。今は、西暦で言うといつなの? 分からないんだ、この状況が。どうして、俺はここに居るの? なんでいつ作られたのかも分からない俺の偽物がジジィになってて、死んでるの? 俺、ずっとなにされてた?」
「五分前も同じ質問に答えたばかりだが」
「いやだ! 答えてよ、お願い!!」
「クソガキが……――手間ばかりを掛けさせやがって。そろそろ、その口を縫って塞いでやろうか」
 今の青年の“中身”は、何かに縋りつこうとしている少年といったところか。そしてつい先ほど、コールドウェルの前で顕れた彼の姿は、昔に受けた仕打ちの再現。
 コールドウェルが現れるその前には、うんと幼い子供のような言動をこの青年はしてみせたこともあったし、かと思えば飢えた獣のように凶暴な姿を見せることもあった。そして性別が変わったかのように、男を誘うような振る舞いをしてみせることもある。そのうえ突然、大学生時代のペルモンド・バルロッツィに似た雰囲気の誰かが降りてくることもあった。……そしてまた、今のようなクソガキへと緩やかに戻る。その繰り返しだ。
「……もういやだ。家に、帰りたい。ねぇ、アーサー」
「お前の家は、ここだ。諦めろ」
「なら、ストリートにでも放り出してくれて構わないよ。今よりもずっと、マシだ」
「ここはどこよりも安全だ。薬物で汚染された裏路地に、ガキを放りだせと? 冗談じゃない」
 対応が追い付かない。図太いアーサーですら、そう感じている。となればアーサーと同等に図太い――またはイカれた――精神など持っていない他の者に、こんな化け物の相手が出来るとは思えやしなかった。この青年にやたらと固執するマダム・モーガンは、特に。大方の者はこの青年の狂気に引き込まれ、同じように狂っていくだろう。
「……ひどいよ、アーサー。こんな静かな場所、もう耐えられない。囚人になった気分だ……」
 興奮して喚き散らしては、すぐに沈んで大人しくなり、今度はめそめそと泣き始める。そんな青年の感情の起伏の激しさは、間違いなくアーサーを苛立たせていた。
 どこまでも平坦で淀んだ心を持ち、曇鏡死水であることを良くも悪くも重んじるアーサーにとって、静かな水面に波を立てる風は排除したくてたまらない邪魔者でしかない。
 それでもこの青年を見捨てることができないのは、彼にもまだ人の心が残っているからなのだろうか。それとも全てを理解しているからこそ、この哀れな青年に、彼が最も嫌っている苦しいほど穏やかな時間を与えて、木っ端微塵に壊してやろうとしているのか――
「ここには、貴様を私刑に処す身勝手な断罪人たちが居ないだけで、貴様自体は囚人のようなものだ。忘れたのか?」
 全てのバックルを直し終えたアーサーは、冷淡な声でそう吐き捨てる。青年は顔を俯かせ、何も言葉を返さなかった。
 それからアーサーは、青年が座る椅子の下に手を伸ばす。彼は、座面の裏に張り付けられていた小さな機械を掴んだ。
「――それと、アレクサンダー・コルト。このやり方は頂けない。あまりにも姑息で、品がない」
 機械は、簡素で小さな盗聴器だった。ASIで支給されるものである。舌打ちをするアーサーは、その小さな盗聴機を握りつぶしてみせた。





 ミシッ、バキバキバキ、ブツッ……――。そんな音が、車のダッシュボードの上に置かれた小型受信機のスピーカーから鳴り、そして何も聞こえなくなる。
「……あちゃー、バレてたか。騙せると思ったんだけどなぁ」
 その頃。地下を抜け出して地上に脱出し、黒いSUVの運転席に座って車のエンジンを吹かせていたコールドウェルは、仕掛けた盗聴機があっさりと見つかり、破壊されたことに苦笑いを浮かべていた。
 一晩は見つからないだろうとたかを括っていた。まさか、一時間もせずにバレるとは。それにコールドウェルが盗聴した会話も、きっとアーサーは“聞かれている”ことを前提に喋っていたのだろう。
「工作員あがりのマダム・モーガンならさておき、元一般人のアーサーなら大丈夫だと思ったんだがな。……彼は特殊な訓練や教育なんて何一つ受けてないはずだって、アイリーンは言ってたじゃないか。だとしたらポテンシャル高すぎるだろ、あのオヤジ。第六感か何かでもあるのか……?」
 これは相当、恥ずかしいかもしれない。……と、コールドウェルは感じていた。
「それにしても、あんな台詞がアーサーの口から出てくるとはね。毛も生えていないクソガキ、って……」
 そんなことを口にするのは、助手席に座るチビのアストレア。死んで久しい某ASI局員が遺した特注品であるスーツをピシッと着こなすアストレアは、慣れぬネクタイに違和感を覚えている模様。
 ワイシャツの襟首に右手の人差し指を引っかけ、首元を緩めるアストレアの横顔を、コールドウェルは横目でニタニタと笑いながら見ていた。
「アイーダ。アンタがそのスーツを着るとますます、パトリック・ラーナーに見えてくるよ。それにネクタイが嫌いなとこも、そっくりだ」
「ありがと、アレックス。それから」
「それから?」
「アイーダ・サントス・フランツマンは死んだ。僕はアストレア。その名前で呼ばないで」
 パトリック・ラーナーに容姿が似ている。……一〇年ほど前までアストレアは、その言葉を聞くたびに不愉快そうな顔をした。そして頑なに否定したものだ。彼と自分は別人だ、と。
 しかし、いつからかアストレアは己の宿命、または背負わされた因果を受け入れたらしい。
「……アンタは、アストレアである前に、アイーダなんだよ。その事実は、覆ることはない」
 たしかあれは、この奇妙な仕事にアストレアが本格的に参入しはじめたころ。場数を踏むにつれ、彼女は幼く見える容姿を巧みに利用することを覚え、同時に積極的に“パトリック・ラーナー”という男の真似をするようになったのだ。「彼は素晴らしい技術を持った諜報員で、その技術は盗むに値すると判断した」とか、なんとか。そんなことを前に、アストレアは言っていたような気がする。まるで自分に言い聞かせるような声で。
「サーだって、いつも言ってるじゃん。今の自分はアーサーであり、生前と今は別人だ、って。それにアレックスだって、外じゃアレクサンドラ・コールドウェルと名乗ってる。頑なに本名は使わないでしょ?」
「アタシは、自分のことをアレクサンダー・コルトだと思っているよ。だがこの名前で外に出るのは色々と問題がある。だから偽名を使っているだけさ。それにアーサーが、シルスウォッドなんていう変な名前の男と全くの別人だと言い切れるかい? あんなに、バルロッツィ高位技師官僚と親しくしていたってのに」
「あぁっ、だから。とにかく、僕はアストレアであってアイーダじゃない。僕がそう言うんだから、そうなの」
 そうしていつからか、アストレアは普段から演技をするようになった。それも、まるで虚勢であるかのように誇張された演技だ。
 パトリック・ラーナーという男も、なかなかのクセ者だった。勝ち気で自信家で、おしゃべりで。早口で捲し立てて人を煽っては、生まれた隙に付け込んで情報を掠め取ったり。実年齢よりもはるかに幼く見えるその容姿を利用して、女性諜報員もたじたじとするようなハニートラップをしかけたり。目的のためなら、手段を選ばない。そういう人物だった――表向きは。
「アイーダ。だから」
「ねぇ、アレックス。その二人きりになったときだけ、アイーダって呼ぶのやめてくれない?」
「なら、アタシからも言わせてくれ。二人きりになったときだけ、拗ねて子供っぽく振舞うのはやめろ。ずっと演技で通すか、それか仕事の時以外は今みたいな素でいるか。そのどちらかに絞ってくれよ、なぁ?」
 人から伝え聞くそんな男の姿を、アストレアは無理して真似していたのだ。
 上官であるアイリーンは、そんなアストレアの姿勢を良しとした。彼の技術を模倣することは良いことだとして、アイリーンはそれ以外のことに関知しようとはしなかった。
 アーサー、彼はアストレアのそんな姿勢に対して、ときおり何か物言いたげな表情を見せるが、かといって何かを言うことは一度もなかった。
 そしてケイは、まず何も言わない。あの白髪頭の大男は、一週間の献立と、暴れ回ることができる仕事以外に興味がないからだ。声帯がないから何も言えない、というのも一理あるが。
 それからラドウィグは、演技をしているアストレアの姿こそが「アストレア」であると思っているだろう。彼は、その側面しか知らない。それに随分とあっさりとしたラドウィグという青年の性格から察するに、必要以上の興味を他人に抱いていないはず。アストレアに裏の顔があるとも思っていないだろうし、裏の顔を探そうとも思わないはずだし、そこまでの興味関心を抱いているとは思えない。
「……それは、ごめん。なら今度から、改めるよ。アレックスの前でも、暴言を吐けばいいんでしょ?」
「違う、そうじゃない。だから……――ったく、面倒な子だねぇ、アンタは。アタシが言いたかったのは、後者だ。アンタには、アーサーみたいになって欲しくないんだよ」
「アーサーにはなれないよ。僕、まだ死んでないし」
「死んではいなくても、自分を殺し続けているようなもんだ。……アイーダ。アンタには必要以上に、自分の人生を否定しないで欲しいんだ。それにアイーダの人生を否定することは、アンタの母さんを否定することと同意義だよ。死ぬ間際までアンタの身を案じ、愛し続けた母さんのことすらアンタは否定するのかい?」
「偽名で生きる人に言われたくないね」
「アイーダ、だから」
「アイーダって呼ばないで」
 コールドウェルは、この通り。彼女にお節介を焼き続けている。何度も諭し、改めるよう促すが、アストレアはコールドウェルの言葉に耳を傾けない。この話題が挙がる度、アストレアは意地になり、頑として譲らない。時に不機嫌になり、噛みついてくることすらある。丁度、今のように。
「アレックスには分からないよ、僕の気持ちなんて。僕は母親と過ごした時間のことを、何も覚えてない。そういった記憶の全てを、誰かに捨てられたから。何も、覚えてないんだ。……そんな母のことを、どうやって愛せって? 無理に決まってる。ならいっそのこと、別人になったほうがマシだ。だからアンタが昔、僕につけた仮の名前で生きるんだよ。アストレアとして」
 男物のスーツを着て、成長の止まった女児の体で、偽物の人生を生きる。コールドウェルには、たしかに分からない。当人の抱える痛みなど。
 そうだ。分からないのだ。他人の心など、完全に分かりゃしない。どんなに歩み寄ろうと、理解しようと努力を重ねようと、全ては分からないのだ。
「……アンタの背中に、天秤座のシンボルマークみたいな痣があったから、天秤の乙女アストレアと仮に付けただけだ。いつまでも、仮の名前に縛られなくたっていいんだよ。所詮、仮なんだから」
「僕にとっては、その仮の名前だけが本物。その名前をもらったところからしか記憶がないから」
「はぁ。……分かったよ。名前の件は、それでいいよ。だが、性格を偽ることとそれは別だ。だって本当のアンタは可愛いものが好きで、もっと女の子らしくて……――」
 次第に険悪な空気が充満し始めた、SUVの中。すると後部座席で、何かがもぞもぞと蠢く。それから影は助手席と運転席の間から、ひょこっと顔を出した。
「姐御、いいこと聞いちゃいました。アストレアって、ちゃんと女の子だったんですね! それに、本名はアイーダか。意外と可愛い名まッ……――」
 キャッ。短い悲鳴をアストレアは上げると、彼女は肘で飛び出してきた顔を殴る。その顔の額に、肘が当たった。するとその顔、つまりラドウィグは、後ろに引きさがり、後部座席の背もたれに背中をぶつける。たちまち赤くなった額をかばうように手で押さえながら、ラドウィグは情けない声を上げるのだった。「なんだよ、もう! 今日は踏んだり蹴ったりだ、ツイてない! 肘鉄まで食らうなんて、それも顔面に!!」
「おい、ラドウィグ。アンタ、いつからそこに居たんだい?」
 バックミラーに一部だけ映る、痛がるラドウィグの姿を見ながら、コールドウェルはそう尋ねる。てっきりアストレアと二人きりだと思っていた車内に、予想もしていなかった乗客が居たとは。予想外過ぎる出来事に、コールドウェルは驚いていた。
 するとラドウィグは額から手を下ろし、正直に答える。
「ジョン・ドーの見張りをアーサーに外されて、薬品庫のドクターと交代したんです。それで、そのあとアーサーに言われたんですよ。SUVの後部座席に乗り込み、座席の下に息を潜めて隠れてろって。アーサーが妙に笑顔だったんで、なんか面白いことでもあるのかなって、それで彼に言われた通り待ってたんです。で、そしたら姐御とアストレアが来たってわけで」
「……それじゃアンタ、もしや全部聞いてたんだね?」
「えぇ、勿論。姐御たちがアーサーとジョン・ドーの会話を盗み聞いているところから、姐御とアストレアの喧嘩まで。一部始終を聞いてました。あっ、そういえば姐御。今日は珍しく安全運転なんですね!」
 先ほど食らったアストレアの肘鉄も、その前のジョン・ドーの真実も、もうそれらを全て忘れたのか。上機嫌そうにニコニコとしながら、ラドウィグはそう話す。気まずそうに尻すぼみの口笛を吹くコールドウェルの横で、アストレアは手で顔を覆い隠し、恥ずかしそうに耳まで赤く染めていた。
 どうにも能天気で、まるで調子を狂わされるラドウィグのことはさておき。コールドウェルは眉をひそめる。コールドウェルの調子を崩すのは、ラドウィグだけではなかった。
「全部お見通しってワケか、あのクソジジィめ……」
 まんまと、アーサーの掌の上で踊らされている。それも、今日のこれは完全にアーサーにおちょくられているし、彼に遊ばれている。……そう思うと無性に腹が立ってくるが、仕方がない。それが現実だ。あちらのほうが、コールドウェルよりも一枚上手であることは認めなければならない。
 アクセルを踏み込むコールドウェルは、唇をへの字に歪める。それから彼女は肺にたまったありったけの空気を、溜息として吐き出した。そしてコールドウェルは、横目でちらりとラドウィグを見やり、こんなことを言った。「ラドウィグ。アンタのことはできることなら、巻き込みたくなかったんだが。こうなりゃ、しゃぁねぇ。アンタも、アタシの仲間に加われ」
「仲間って、なんのですか?」
 また、ラドウィグは助手席と運転席の間に身を乗り出し、顔を出す。コンソールボックスの上に片膝をつく彼の姿は、礼儀正しいとは言い難いだろう。
 そんなラドウィグに、赤ら顔のアストレアは「シートベルトを着けろ!」と毒突く。渋々、座席に戻る彼は、大人しく籍に座り、シートベルトを着用した。そしてラドウィグが席に着いたことを確認すると、コールドウェルは言葉の続きを言う。「曙の女王、彼女の目論見を阻止するんだよ」
「えっ。それなら、もうオレは仲間じゃないですか。オレ、まだ控えですけど、特務機関WACEの隊員ですよ?」
「WACEじゃないんだ。ASIのアバロセレン犯罪対策部の連中なんだよ」
「……ASI?」
「そして、それはアイリーンを裏切ることになる。下手すりゃ、マダムもかもしれねぇ」
「なんだか、ヤバそうな話ですね。それで、アーサーは?」
 さらりと、コールドウェルは破壊力のある言葉を口にしたつもりだった。しかしラドウィグは、その言葉をさらりと受け流す。彼は動じていなかった。それどころか、コールドウェルの発言は彼に取って想定の範囲内だったというような顔ですらある。
 アーサーの入れ知恵か、はたまた彼の勘が冴えていたのか、もしくはラドウィグは異様に高い順応性を持っているのか。そのどれに当てはまるのかはコールドウェルには分からなかったが、今はそんなことどうでもいい。
 裏切りという言葉を聞いても、ラドウィグは乗り気な様子。いや、むしろ仲間を裏切るなんて展開を楽しみにしている様子ですらある。
「どうなんです、姐御。アーサーのことも、裏切るんですか?」
 もしかするとこの青年、十分すぎるほど悪漢の素養を持ち合わせているのかもしれない。
「あのオヤジは、アタシのこの独断専行を黙認している。まあ、アーサーって男は、目的さえ果たせれば手段は問わないってスタンスだろう。それに……」
「……?」
「謎多き特務機関も、そろそろ役目を終えるべきだ。この国の国籍すら持たない人間、もしくは人間ですらない存在が、一国の政治を牛耳るなんて、健全な国家の姿じゃねぇ。それに、一〇人も居ない組織の力なんて、所詮微々たるものさ。……改めるときが来たんだよ、きっと」
 恥ずかしさの熱も引いたのか、冷静さを取り戻したアストレアは、コールドウェルの言葉に当惑顔をしていた。そしてコールドウェル自身も、自分が口にした言葉の重みをよく感じていた。
 この三日間。様々なものが目まぐるしく変化した。様々な予想外を突き付けられた。その中で、長いこと目を逸らし続けていた現実が「じき終わる非現実ではなく、こっちを見ろ」とコールドウェルに囁いたのだ。
 そうして直視した現実は、コールドウェルにとって楽観視できるものではなかった。
「……終わりにしなきゃいけねぇんだよ、この悪行を……」
 と、そのとき。ニコニコしていたラドウィグが、笑顔を消した。それから、彼は会話と妙に噛み合っていない台詞を口にする。
「お前は、お前の人生を生きろ。俺みたいに、なるんじゃねぇぞ。……って、バルロッツィ高位技師官僚に言われました。彼と交わした最期の言葉が、それです」
「だから、どうしたの」
 場違いにも思えるラドウィグの言葉に、アストレアは不機嫌になった。アストレアの大きな目から注がれる冷たい視線に、ラドウィグはたじろぐ。こめかみを掻きながら苦笑いを浮かべ、ラドウィグは言った。「あのオッサン。人生は一度しかないから、後悔しない選択を採る努力をしろ、ってことを言いたかったんでしょうねー」
「……あぁ、なるほど」
「えっと、要するに。オレ、姐御に大賛成です。やっぱり、一〇人かそこらの組織が国をどうこうすべきじゃないんですよ」
「…………」
「オレが、まだ故郷に居た頃。オレの武術の師匠……――パヴァルって名前の、宰相に雇われ、国に仕えていた暗殺者なんですが。その人は愚かにも、それを堂々とやってまして。国政介入ってやつですね。それで結果的に、王政は叛逆っていう危機にさらされたんです。宰相の勇ましい一人娘が、国軍を束ねてクーデターまがいのことを企てちゃってね。あのときは、本当に心苦しかった。何を信じ、どこに信念をおけばいいのかが分からなくなって……」
 するとラドウィグは、珍しく真剣な面構えを見せ、こんな言葉を口にした。
「民主主義って偉大だと思うんです。正常に働いていればの話ですけど。だから、やっぱり……――現状って、どうかしてると思います」





「……今日は長い夜になりそうね。ギムレットは定時で上がっちゃったから、余計に」
 無表情の検視官バーニーは、非常に残念そうにそう呟く。
「そうですね、先生。ご遺体が、たくさん……」
 検視官助手ダヴェンポートも、そう呟いて肩を落とした。
「……ギャングたちが、殺されまくってる。悪いことをしてるとはいえ、大半は未成年なのに。まるで情けも慈悲もない犯行だわ……」
「そうですね、先生。ご遺体が、たくさん……」
「ダヴェンポート、あなた大丈夫?」
「そうですね、先生。ご遺体が……――っ」
「あーっ、ダヴェンポート! あなたまで死人にならないで! 眠いのなら、上で仮眠を取ってくるか、もう帰りなさい!!」
 モルグにも入りきらず、廊下にまで溢れてしまった遺体の列。数十年に一度かもしれないその多さに、経験の浅い検視官助手ダヴェンポートは卒倒しかけていた。これだけの山を四日以内、可能であれば明日までに、二人で捌き切るなんて……――無謀としか思えなかったからだ。
 モルグに既に収容されている遺体は、八体。そしてその遺体は、支局にもう一人いる検視官ギムレットが受け持っている案件である。それから、今日の夕方に検視官バーニーのもとに運び込まれた新規の遺体は合計三十三体。その全てが、未成年であるように見えるという、なんとも悲惨な光景が広がっていた。
 しかし、この道も長い大ベテラン、バーンハード・“バーニー”・ヴィンソンは動じない。
「シドニー大学の医学部に連絡は入れて、話を付けたわ。明日には検視官または監察医志望の学生が五人ぐらい、実習がてらにアシストで来てくれることになっている。それから連邦捜査局、捜査官育成アカデミーからも、化学捜査官候補生が八人ほどね。福祉局とか監察医局、検視局からも人を派遣してもらう予定。だからそんなに思い詰めなくても大丈夫よ、ダヴェンポート」
「あぁ、良かった……」
「パッと見た感じでは、死因は全て頸動脈をナイフで切られたことによる失血で一致しているでしょうし。まあ、調べてみればそれ以外のことも見つかるかもしれないわね。ともかく、実践学習にはもってこいの機会よ。今回のはとても痛ましい事件ではあるけれども……――」
 解剖室の解剖台は、四つしかない。一度に並行して診ることが出来るのは、四体まで。しかし検視官は一人で、助手も一人。何もかも、足りないものばかりだ。……そんなこんなで、並んでいる四体の遺体はどれも一〇代後半の青年ばかり。廊下にあるものも含めて、その全てには首に深い切り傷が刻まれていた。
 上等とはいえない、よれよれの古着。その年の青年らしいカラフルなTシャツに、ダメージばかりのジーンズや、ところどころに傷のあるジャージ。検視官バーニーには、どこか見覚えのある服装だった。
 彼らは、かつての自分と似ている。だが、違う。――検視官バーニーも少年時代は、永遠の眠りについた彼らと似たような服装をしていたものだが、しかし彼らが命を落とす原因となったであろうバカな真似はしたことがなかった。
「――被害者たちは、自業自得なのよ。危険な商売に手を出すから。当然の報いだわ」
 鬱積した不満。並大抵の努力では崩すことが出来ない、貧困層と中流階級を隔てる見えない壁。暴力と緊張ばかりの無法地帯。その中で生きるという生活の悲惨さを、検視官バーニーは身をもって知っていた。そして度を越した緊張は時として判断力を鈍らせ、容易に一線を越えさせることがあることも知っている。
「……ヴィンソン先生?」
「気にしないで、ダヴェンポート。なんでもないわ」
「あぁ、はい。そうですか……」
「それから、ダヴェンポート、あなたは帰っていいわ。もう定時はとっくに過ぎてるし。……連邦捜査局はブラックだから、残業代なんて出ないわよ。タイムカードもないし、居残るだけ損。明日のためにも、今日は帰りなさい」
 噂によれば、アバロセレンの仲買人というのは、麻薬ビジネスよりもよほど儲かるそうだ。なんらかの事情により、国によるアバロセレンの新規錬成が停止され、今や在庫は国庫にある分だけとなっている時世。アバロセレン、というものの出自が未だに世界にも国民にも、学者たちにも明かされておらず、その錬成方法も全てアルストグラン連邦共和国政府が握っている以上、第三者が新規にそれを作り出すことも出来ず、人々は世に出回っている分のアバロセレンで遣り繰りするしかない。だからこそ、アバロセレンは高値で取引されるのだ。
 そして幸いにも、アバロセレンとは消費されぬエネルギー。液化アバロセレンは個体になることはあれども、気化することはない――とされている。要は消えることもなく、尽きることもないのだ。
 だからこそ、アバロセレンは国内で循環している。闇のルートを通じて売りに出され、誰かが買い、また誰かが売りに出す。本来は、使用されなくなったものは国庫に返却しなければならないという法律があるのだが、律義にそんな法律を守っているアバロセレン研究所など少ないだろう。国庫に返却するよりも売りに出した方が良いに決まっている上に、闇のルートから入手したほうが正規ルートで手に入れるよりもよほど安くつくのだから。
 しかし闇のルートは、当然ながら安全ではない。仲買人を殺し、タダで奪おうとする連中もいる。仲買人から強奪し、はるかに値を釣り上げた額で売りに出す連中もいる。ルートを潰すため「押収」の名のもとに仲買人たちを制圧する捜査機関や、仲買人たちを鎮圧して回るASIといった諜報機関も存在する。ありったけの恨みを込めて、アバロセレンに関わる者すべてを無差別に殺戮する者もいる。
 闇のルートには危険しかない。それは分かり切った事実だ。それでも、子供たちがそれに手を染めるには理由がある。
 それだけの背景が、この国にはあるのだ。
「……そういえば、ヴィンソン先生。先生はどうして、この元ギャングたちがアバロセレン裏取引きに関連していたと考えているんですか? それを示す証拠は、まだ何も挙がってませんよね。でも、先生が勘だけで決めつける人だとは思えませんし。なにか根拠でもあるんですか?」
 ゴム手袋を外した手の甲で、検視官助手ダヴェンポートは眠たそうな目をこすりながら、そんなことを訊いてくる。それに対し、白衣の襟をゴム手袋をはめた手で正す検視官バーニーは、いつものように無表情で答えた。
「リーダー格と思しき子、つまりブランドものを身に着けている男の子たちの手を見て。どの子にも、アバロセレンに触れたと思われる痕跡があるのよ。彼らの掌を見てみなさい。ラメ入りの透明な液体糊の中に手を突っ込んだみたいにキラキラと輝いているから」
 ぽけーっとした顔で、検視官助手ダヴェンポートは彼の話を聞いている。もしかすると今のバーニーの言葉は、右から左に流れていっているのかもしれない。だとしても検視官バーニーは、投げかけられた質問には最後まで答える主義の持ち主だ。
「これは、アバロセレンの裏取引きに詳しいアレックスちゃんから教えてもらったことなのだけど。重要なことだから、よく覚えておきなさい。ハリエット・ダヴェンポート」
「はい、先生。……で、なにを?」
「アバロセレンは、どんな容器に入れても『外に漏れる』性質があるらしいのよ。金属や物体の密度に関わらず、漏れるそうよ。そういう現象が起こるメカニズムはよく分かっていないわ。でも、アバロセレンが入った容器……たとえばこの手の取引によく使われる、純タングステン製のカプセル。あの中に入れても、アバロセレンの光は漏れているのだそうよ。人の目には見えないだけで」
「光? えっと、放射線みたいなものですか? あっ、でもタングステンは放射線を防ぎますよね?」
「放射線とは違う。アバロセレンの光は、機械でも観測することが不可能だから。かといって、正体が何なのかも分かってない。……とにかく、その漏れた光は皮膚に沈着するそうよ。つまりアバロセレンを詰めた容器に素手で触れれば、ご遺体たちのようにキラキラと光る掌になる。だから掌がキラキラと光っていた場合、その手から光りそうな物質が何も検出されず、代わりにタングステンが見つかれば十中八九、そいつはアバロセレンの裏取引きに関わっていたということになるってわけ。まあ、結果は化学捜査課の回答次第だけど、この子たちはきっとアバロセレンに触れていた。だから殺されたのよ」
 理由を述べ、結論を言う検視官バーニー。一方、検視官助手ダヴェンポートは口をポカンと開けていた。
「あっと……。先生。その話、また明日にもう一回聞いても良いですか? 今はなんか、頭が動かなくて……えっと、タングステン。タングステンが掌から検出されたら、アバロセレン裏取引きと関わっていたという証拠になるんですか? うーん、タングステン。あんな重い金属と、どうしてアバロセレンが……」
「ダヴェンポート。明日、また説明してあげるから。今日は帰りなさい、さあ早く」





 時刻は夜の九時過ぎ。大都会シドニーに比較的近い場所にある片田舎、ムアバンク。そこにひっそりと建つボロボロの小屋の中で、ジュディス・ミルズは息を潜めて待っていた。
「…………」
 かつてここは、ASIが国内にいくつか用意している隠れ家のひとつだった。ジュディス・ミルズ、彼女もここに滞在したことがあった。痣だらけの稀代の天才をこの家に引きずって連れ込み、同僚と入れ代わり立ち代わりで外の見張りをしたり、彼の手当てをしたり、仕事の話を付けたり等。緊張感で張り詰めた思い出ばかりが残っている場所である。
 そんな場所を今、ASIはアレクサンドラ・コールドウェル個人に貸していた。当然ながら、それは善意からではない。事前のアポ取りなどしなくとも、ASIがコールドウェルに接触したいときに確実に会える場所として、ここを用意したのだ。
 コールドウェルは可能な限り毎晩ここに戻ることが、ASIより義務付けられている。それが、ASIがこの隠れ家を貸し与えるに際して提示された条件だった。
「……いつ帰ってくるのよ、サンドラ。この家、ほんと寒いわ……」
 この家では生活感を外部に出してはいけないため、高度一五〇〇メートルに位置するアルストグラン連邦共和国の夜がいかに冷えようと、ストーブを焚いてはならないという決まりがある。この家に斧はあるが、それで薪を割ってはいけないのだ。その斧で割っていいのは、侵入者の頭蓋だけなのだから。
 そしてこの家には一応、ガスが通っている。だが、使ってはいけない。ガス灯の設備もある。だが、使ってはいけない。明かり一つとて点けてはならない。蝋燭の明かりすら、駄目なのだ。
 そういうわけで寒さをしのぐためには、着こむか、膝掛のようなもの持ってくるしかないのである。
 しかし、今は十二月。アルストグランは真夏で、日中は道路に陽炎が立ち上るほど暑い。そんな暑い日の日中に、コートや膝掛を持ち歩く人間が居るだろうか? ……相当に用意周到な人間や、日常的に車中泊や野宿をする人間でもない限り、真夏にそんな嵩張るものなど携帯しやしないだろう。
「……今日は早く自宅に帰るつもりだったのに。九時過ぎまで仕事しなきゃならないと知ってたら、コートとか持ってきてたわよ……!」
 そんな悪態を吐いたところで、寒さが紛れるわけでもないが。あまりの寒さに、文句を口に出さずにはいられないのだ。そしてジュディス・ミルズは思う。
 一〇年前の夏の夜も、こんなに寒かっただろうか。いや、去年の夏の夜だってこんなにも寒くなかった。というか、ここ最近だけ異様に寒いような気が……そういえば最近、シドニー市警でホームレスの凍死が増えているとかいう話を聞いたような……。
「……ヤダ。私、サンドラの家で凍死しちゃうわけ? はぁ、どうせなら最前線で撃たれて殉職したかったわ。先代のレムナントみたく、英雄っぽい死に方を……」
 ジュディス・ミルズの頭に、いやな冗談が過ったとき。外から、土を踏みしめるハイヒールの音が聞こえてきた。コールドウェルが帰ってきたのだ。それから玄関ドアが開く音が鳴り、人が家の中に入ってくる。次に聞こえてきたのは、切迫した雰囲気を放つコールドウェルの声だった。
「ジュディ、居るなら今すぐ出てこい! アンタに緊急の話があるよ!」
 ――一方、その頃。コールドウェルの自宅から少し離れた、国立公園の駐車場。そこで停車するSUVではラドウィグとアストレアの二人が、コールドウェルの帰りを待っていた。
「……寒いね」
「うん、そうだね」
 ラドウィグが話しかけると、アストレアは簡単な返事はしてくれる。だが、それ以上の会話は続かない。アストレアが意図的に、会話を止めるのだ。そして二人とも沈黙し、静かな時間が流れ、また再びラドウィグが話を振る。その繰り返しを、かれこれ三〇分は続けている。「ブランケットとか、そういうのって車に積んでたりするの?」
「あるよ。後部座席の座面を、上にあげて。中が収納になってるから。その中に、防寒具とかは常備してあるはず。非常食とかも」
「……あっ、本当だ。アイーダも、ブランケット使う?」
「いらない」
「本当に? アイーダは寒くないの?」
「僕は大丈夫だから」
「なんなら一緒に、後部座席で――」
「そのブランケット。あとでちゃんと柔軟剤を使って洗濯して、さっきと同じように畳んで、また同じ場所に戻して。でないとアーサーが不機嫌になる」
「りょーかい……」
「…………」
 また、会話が止まる。後部座席の中央に座り、取り出したブランケットを肩に被るラドウィグは、気まずそうに肩を竦めた。対するアストレアは、助手席に腕を組んで座り、何をするわけでもなく、ボーっとしているように見える。
 アストレア、もしくはアイーダ。彼女は普段ラドウィグにしていた高圧的な態度を取るのは止めたようだが、今度はやけに冷たい。ラドウィグが「アイーダ」と、本名で彼女を呼び始めたことが原因だというのは、ラドウィグも分かっていた。
 しかし彼女の不機嫌の原因が、本名にあるとしても。ラドウィグは、改めた呼び名をまた戻すつもりはなかった。それは彼の性格が悪いからではない。彼のポリシーに反するからでもあるし、彼自身の悲しい体験に由来するものだ。
「アイーダ、オレに対してすごく冷たいね」
「うるさい、黙れ」
「やーだ、黙らない」
「……」
「なんで、アイーダって名前が嫌なの? 可愛い名前じゃん。アストレアって偽名より、ディナダンってコードネームより、ずっとそっちのほうがオレは好きだよ」
「あんたの意見は聞いてない」
「つーか、オレにはアイーダが羨ましい。ちゃんと、この国のひとに発音してもらえる名前なんだ。それって、すごく幸せなことだと思うよ」
「……羨むその理由が、理解できないんだけど」
「オレの名前なんて、自慢じゃないけどだっれも正確に発音してくれなかったからね? 何度オレが『ルドウィル』だって言っても、『ルートヴィッヒ』とか『ルードウィグ』とか『ラドウィグ』とか、そんな風に聞き間違えられる。『ルドウィル』って名前を認識してもらったとしても、なんか発音が違うんだ」
「あぁ、はい。そうですか」
「みんな、ルドウィルの『ウィル』を『ウィリアム』の省略形の『ウィル』で発音するけど、違うんだよ。なんて説明すればいいのか分からないけど、とにかくそのウィルの音じゃないんだ。語尾の『ル』は濁らないし巻き舌にならないしフェードアウトみたいに消えない、キチッと『ル』発音するのが正解なんだ。なのに、間違えられる。だから、もうオレ諦めてさ。間違えられるぐらいならもうラドウィグで良いよ、って。で、今日までずっと、その名前でずるずると来たんだ。悔しいんだよ、やっぱり。ラドウィグはオレの本名じゃないから。本名で、ちゃんと呼んでもらいたいんだよ! でも、オレの故郷とこの国の人たちは舌が違うみたいなんだ!」
「はいはい、そうなんですねー。可哀想に、ルドヴィグくん」
「ほら、違う! それ間違いパターンの三! 『ウィル』がなぜか『ヴィグ』に変形するパターン!」
「面倒くさいなぁ、もう。静かにしろよ……」
「そっちが間違えるからいけないんだろー」
「ホント、付き合ってらんない……」
 アストレアは、呆れたように溜息を吐く。その後ろで、ラドウィグは少し悲しそうな顔をしていた。会話は――ラドウィグが一方的に喋り続けていたようなものだが――少し続いたし、それは少し嬉しかったものの。やはり、本名を正しく言ってもらえないというのはどことなく悲しいのだ。自分という存在を、世界に否定されたようで。自分は受け入れられていない、ここに居てはいけないと感じてしまうものだ。何度同じことを繰り返しても、その感覚は慣れるものではない。
 アストレアに言わせれば、面倒な話でも。ラドウィグにとっては、それが故郷の思い出で、彼を構成する事実のひとつなのだ。
 しかしその事実は、この世界にはあってはならない出来事である。ゆえに人ひとり殺したことも、軽犯罪に手を染めたこともないラドウィグは、特務機関WACEなる闇に捕らえられてしまったわけなのだが。
「……アイーダ。だからさ、本名があるなら」
「議論の余地はない。僕にとってはアストレアという名前が本名だし、その名前で二〇年近く生きてきた。今さら、五年ぐらいしか使ったことがない名前になんて戻れない」
「お母さんのこと、嫌いなのか?」
「記憶にも残ってない人のことを、好きか嫌いかなんて判断できないでしょ。父親のことは大嫌いだけど」
「お母さんのことを思い出そうとか、痕跡を探そうとかって……したり、しないの?」
「別に。興味もない」
 愛想なくラドウィグの言葉を突っぱねるアストレアの横顔は、強がる子供のそれに似ていた。子供のように見える容姿だけではない。
「アイーダ」
「……だから」
「幼いよな、お前さ。見た目もだけど、中身も。同世代には思えないっていうか。十こ下の妹みたいな感じなんだ」
 ラドウィグは、彼女が全力で否定してきて、拗ねるかと思って、そんな発言をした。しかしアストレアは恥ずかしがるわけでもなければ、怒るわけでもない。依然、ボーっとしたような目をしている。それから彼女が口にした言葉は、ラドウィグの予想に反するものだった。
「……知ってる。だから、なに?」
 ありのままの現実を知っている。そんな達観した風を装いながらも、実際は理想と現実のジレンマに苛立ちを募らせている。それでいて、自分からは何もしようとしない――何かをしたところで、今さらどうにもならないと思い込み、悲嘆しているから。……見覚えのある姿だと、ラドウィグは感じていた。
「なんか、さ。アイーダって、ガキのころのオレと似てる。昔の自分を見てるみたいだ」
 アストレアはラドウィグのその言葉に、何の反応も示さない。
 もしかすると彼女は、今のラドウィグの言葉を嘘だと感じたのかもしれない。しかし、ラドウィグは下手な嘘の吐けない人間だ。というより、下手な嘘を繕うことを辞めた人間。思ったことしか、馬鹿正直に口に出さない。
「アイーダの気持ちは分かるよ、よく分かる。WACEって場所は、オレの父さんの同僚の人らと似てるから。悪気はないんだろうけどさ、大人連中はいつまでも子ども扱いしてくるんだよなぁ。普通はそこから飛び立って、親から離れた場所で成長しなきゃならないんだろうけど。環境が環境だから、離れられなかったりすると、弊害が……」
 ラドウィグは、助手席に座っているアストレアの横顔を後部座席から眺めながら、話続けていた。返事はないが、一方的に。するとアストレアが正面から目を逸らし、助手席側の窓のほうに顔を向ける。
 ラドウィグはそんなアストレアの動きに、自分は無視されたのだと思い込んだ。彼は途中で言葉を止め、口を噤む。そして、また沈黙が訪れると思った矢先だった。アストレアが窓を指先で小突いて、音を立てたのだ。
「……あれを見て」
 アストレアの視線の先にあるものを、ラドウィグも見た。
 遠くからSUVのほうへと走ってくる二つの人影が見えた。ひとつはコールドウェルに、もう一つは誰かは知らないが女性のように見える。そして遠くからコールドウェルの声が聞こえていた。
「お前らもこっちに来い!」





 夜の九時十五分。外はどういうわけか急激に冷え込み、気温が氷点下にまで下がっていた頃。ひとり支局の解剖室に残っていた検視官バーニーは、可能な限り冷房の温度を下げた室内で着々と明日の実習に向けた準備を整えていた。実習の前に遺体が腐ってしまわないようにと、四苦八苦しているのである。
 すると冷える地下二階に、来客が訪れる。真夏なりのフォーマルな装いをしたその客は、夏の夜にしても少し寒すぎる地下二階に踏み入るなり、肩を震わせた。そして来客は解剖室のドアを開ける。
「……バーンハード。あなた、まだ支局に居たのね?」
 来客は、呆れ顔のリリー・フォスター支局長だった。
「ええ、そうなの。ごめんなさいね、フォスター」
 リリー・フォスター支局長が呆れ顔を向けた男、検視官バーニーは、真夜中の冷たいモルグでひとり高速製氷機をフル稼働させていた。氷を作ってはポリ袋に詰め、それを遺体の脇に詰めて並べ、首の後ろに詰めて並べ、腹の上にも並べるという作業を、彼は一人で黙々と繰り返している。
 数に限りがある氷嚢もニールに貸したものが最後のひとつであったため、モルグにはもう残っていない。そして冷蔵庫には空きがなく、ドライアイスも尽きてしまった。だが何の処理もしていない遺体は、まだ廊下に十五体も残っている。
「全身冷蔵庫は満員だし、ドライアイスは使いきっちゃったし。苦肉の策で、証拠を入れるポリ袋に氷を詰めてるのよ。遺体を腐らせるわけにはいかなけど、今回ばかりは絶望的ね。一部のご遺体は、体液が漏出しはじめてるし、四日前に亡くなられたと思しきものなんて、お腹がパンパンに膨れちゃってて……――はぁ、とてもハードな内容の実習になりそうね」
 顔はいつも通り無表情な検視官バーニーだが、彼の声は慌てていて、非常に動揺していた。それでも可能な限り冷静に、最善を尽くす彼の姿勢は、尊敬に値するだろう。だが、これは無謀といえば無謀だ。
 そこでリリー・フォスター支局長は、この状況を打破する切り札を持ってモルグに降りてきた。だからこそ彼女は言う。
「バーニー。帰るチャンスを逃した人たちが地上二階に集まってるわ。テイクアウトの安くてまずい料理だけれど、人数分頼んであるから。あなたとダヴェンポートの分もあるわよ」
「ダヴェンポートなら、一時間前ぐらいに帰したわ」
「いいえ。ダヴェンポートも帰り損ねたみたいで、上で寝ているわよ」
「……帰り損ねた? また、どうして」
「最近増えている、異常気象が原因。外の気温が氷点下に下がっていて、路面が凍結してるのよ。この一時間、シドニーだけでもスリップ事故が四〇件ほど報告されていて、それに電車もバスも、交通機関は全て止まっているみたいだし。そんな危険な状況下で、部下を帰らせるわけにはいかないでしょう?」
「そしてフォスター、あなたも帰れないってわけね。……それにしても、おかしいわね。十二月は真夏じゃなかったの? それに昨日の夜は少しだけ肌寒いくらいだったけど、いきなり氷点下なんて……」
「まあ、そういうわけだから。あなたも上に来なさい。ここに居たら、体が冷えるわ」
「私は男よ。女性じゃないんだから、多少は大丈夫」
 自宅に帰るチャンスを逃した者たちは、バーニーとリリー・フォスター支局長を含めて他に六人も居た。
 ニール・クーパーと、「ママが怖くて家に帰りたくなかったから、学校帰りになんとなくパパの勤め先に来てみた」という彼の娘スカイ・クーパー。それと化学捜査課の主任マーク・ティンダルと気鋭の新人ガブリエル・マクベイン。そして仮眠を取っているうちに、帰ることが出来ない時間になってしまったハリエット・ダヴェンポート。それから、スカイ・クーパーの子守を任されていたら、同じく帰ることが出来ない時間になってしまったエドガルド・ベッツィーニ。その六人である。
 そしてリリー・フォスター支局長は、検視官助手ダヴェンポートから大方の事情は聞いていた。
「お気遣いありがとう、フォスター。でも当分、ご遺体の処理が終わりそうにないから、私は――」
「バーンハード、これは支局長からの命令よ。上に来なさい」
「……どうしたの、フォスター。何か、外で騒ぎでも起きたのかしら?」
「この地下二階を十五分後、冷蔵庫に変えるから。凍え死にたくなければ、あなたも上に来なさい」
 このシドニー支局に、ニューサウスウェールズ各地の市警察から遺体が一度に数多く運び込まれたのは、リリー・フォスター支局長も把握していた。そして寝ぼけ眼の検視官助手ダヴェンポートは、地下のモルグで起きていることをリリー・フォスター支局長にポロっと零したのだ。運び込まれた遺体の量が多すぎて、冷蔵庫が満室になりましたがまだ廊下にご遺体が溢れてます、と。
 局としては、この事態を見過ごすわけにはいかない。遺体の腐敗は捜査に支障をきたす。そして遺族に何と言われることか。それから、マスメディアも挙って糾弾することだろう。だが不幸なことに、明日の正午にはまた「ギャングを狙った連続殺人」絡みの遺体が追加で十二体ほど、この支局のモルグに運び込まれることが決まっている。
 そんなわけで、支局長にはこの問題の解決が求められた。そうしてリリー・フォスター支局長が出した答えが「地下二階を丸ごと冷蔵室に変えてしまう」という暴挙である。――ちなみに、発案者は十七歳のスカイ・クーパーだ。
「どうしても必要だったり、丁寧な扱いが求められたり、すぐには替えの利かない道具は、ひとつ上の階に運びなさい。地上からも応援を呼んでくるから」
「え、ええ。分かったわ。解剖用の道具とかは、上に持って行かなくちゃね。あと、精密機器は全部。……十五分でいけるかしら? 階段で運ぶには、少し重すぎるし何より破損する恐れが……」
「エレベーターがあるでしょう」
「あぁ、あったわね! 最近、階段しか使ってなかったのよ。存在を忘れてたわ」
「あなたは本当に奇行ばかり……――はぁ、私はひとを呼んでくるから。バーニー、あなたは運ぶものをリストアップしなさい。今すぐに!!」
 モルグのある地下二階全てを冷蔵室にするとは。衝撃的なリリー・フォスター支局長の言葉に一瞬は混乱した検視官バーニーだが、彼はすぐさま頭を切り替える。
 幸いなことに、支局長がノエミ・セディージョだった時代に受けていた『キャンベラ本部局からの嫌がらせ』により、予算が常にカツカツであったこの連邦捜査局シドニー支局は、機材がまるで揃っていない。精密機器といえど三十年以上前のものばかりで、その大半が今では故障していて使えないものばかりである。優先されてきた化学捜査課と違い、後回しにされ続けてきた解剖室は特にその傾向が顕著だ。
 つまり使っている精密機器は、ごく一部の生き残りだけ。他は、コンセントにすら繋がれていないガラクタばかり。上の階に避難させるべき機械は、ごく限られていた。
「運び出すのは、大きなものがせいぜい二、三台ってところね。それとコンピュータ二台と、モニター四台。……どうせならこの機会に、設備を一新してもらおうかしら。そうとなれば、ギムレットにも意見を仰がなきゃ……」
 計画書と予算案を頭の中で構築しつつ。検視官バーニーは高速製氷機の電源を落とす。彼が真っ先に上層へ上げる機械として選んだのは、高速製氷機だった。





 時刻は九時半を過ぎた頃。アストレアとラドウィグの二人も、ムアバンクの隠れ家に足を踏み入れる。初めてこの場所に入った二人は、どことなく緊張していた。
「今日は一段と寒いっすね。真夏なはずなのに、真冬の夜みたいに寒いや」
「…………」
 ラドウィグは、車内から持ってきたブランケットを肩から被り、床に正座をして座っていた。そして彼の横に胡坐をかいて座るアストレアも、ラドウィグのブランケットを肩に被って、床に座っている。
 ジュディス・ミルズは、コールドウェルより手渡された毛布を膝に掛け、木の椅子に座っていた。そしてコールドウェルは、前にこの家を使っていた男が遺した旧式のカセットコンロをセットし、コンロの上に水を入れたヤカンを置く。水は溜めてあった雨水を、コーヒーフィルターで軽く濾したものだ。
 雨水の量は、一リットルもあるかないか。だが、四人分のココアぐらいは作れるだけの量ではある。またはSUVから拝借したインスタント食品で、簡単な飯を作れるだけの量はあるだろう。両方とも、というのは少しキツいが。
 まあ、ココアにするか飯にするかは、お湯が沸いてから考えることにしよう。
「腹が減ってて今すぐにでも食べたいっていうならは、キッチンに缶詰の山があるからそれを食いな。塩漬けサーモンと、乾パンがある。乾パンはさておき、サーモンは絶対にお勧めしない。アタシは一回あれを食ったが、塩辛すぎてね。一缶を食べきるのに二時間も掛かったよ」
「……それ、バルロッツィ高位技師官僚が遺してった缶詰でしょ? あれ、まずくて食べられたもんじゃないわ。サンドラ、よく一缶を食べれたわね。私なんか一口だけ食べて、残りは捨てたわよ」
「貧乏性ってやつだね。もったいなくて、捨てらんねぇのさ。けど塩分の補給には丁度いいんじゃないのかい?」
「やだ、サンドラ。イカれた天才と同じこと言ってるわ! けど、あれじゃ塩分過多になるわよ。しょっぱすぎるもの」
 そんなジュディス・ミルズの言葉に対し、「彼の味覚音痴っぷりは折り紙付きですからね」とラドウィグが言葉を返して、苦笑う。するとジュディス・ミルズの目が、ラドウィグを捉えた。その途端、和やかな雰囲気は一変し、深刻なムードへと変化する。
「それで、サンドラ。本当に、この二人を信用していいの? 裏切らないっていう確証は?」
 価値を査定するようなジュディス・ミルズの目が、ラドウィグを見て、次にアストレアを見る。特にアストレアを見る彼女の眼差しは、険しいものだった。
 理由は、かつての彼女の上司に、アストレアの容姿が似ていたから。裏にあるアストレアの事情を、コールドウェルからあらかた聞かされて、ジュディス・ミルズが知っていたとしても。それでもジュディス・ミルズがアストレアに対し不快感を顕わにするのは、心を持つ人間である以上、当然の反応と言えるだろう。
 するとコールドウェルは、女性にしては無骨な手で、カセットコンロのつまみを捻る。コンロには火が灯り、ヤカンがカタカタと音を立て始めた。それからコールドウェルは、嘘偽りのない率直な言葉をジュディス・ミルズに述べる。
「正直のところ、アタシには断言が出来ない。アストレアは、WACEを裏切れないかもしれない。それにラドウィグは、野生動物と同じぐらい自由気ままだからね。自分の心の赴くままに動いて、結果的に全てを捨てるかもしれない」
「姐御、そりゃ誤解ですよ。オレだって分別ぐらいは――」
「ジュディ、この二人が裏切らないという確証はない。けど、信じるしかねぇんだよ。いつだって、そうだろう? 信用に、確証なんてもんはないんだから」
 そう言うとコールドウェルは口を閉ざし、無言でジュディス・ミルズに視線を送る。暗闇の中でも、その存在感を主張するコールドウェルの三白眼には、一歩も譲る気配がない。
「……サンドラ」
 ジュディス・ミルズはため息を零すが、コールドウェルは何も言わない。そして、カタカタカタと。年季の入った焦げ付いたヤカンは、静けさを埋めるように音を立てた。それから、睨み合いが続く。
「……」
「…………」
 そうして暫くの睨み合いの末、またジュディス・ミルズは溜息を吐いた。
「やっぱり、あなたって影の特務機関の隊員ってガラじゃないわ。義に生きる探偵って感じ。それって血筋なの?」
「ははは。なんのことだい、ジュディ」
「その苦し紛れの笑顔。バレてるって分かってるくせに」
「…………」
「ダグラス・コルトよ。あのホームレス、あなたの父親なんでしょ?」
 ようやくコールドウェルの目が、ジュディス・ミルズから逸れる。三白眼の目で心を覗かれているような不快感が無くなり、ジュディス・ミルズは心の中で安堵の一息を零した。
 そしてジュディス・ミルズは、間髪を入れずにすぐに本題を切り出す。今ならコールドウェルは静かで、余計なことは何も言わないだろうと踏んだからだ。
「それで、話は戻すけど。やっぱり私たちASIっていうのは組織の性質上、疑り深くなければいけないのよ。条件なしに、外部の人間を信用するわけにはいかない。つまり、私たちの信用を勝ち取って。それには、条件がある」
 アストレアはジュディス・ミルズの言葉に、顎を引いて腕を組んだ。先ほどジュディス・ミルズがアストレアに不快感を示したように、今度はアストレアのほうが彼女に対して不快感を示したのだ。しかし、ラドウィグのほうはというと、身を少し前へと乗り出した。どうやら彼は、ジュディス・ミルズの持ち掛けたスリリングな展開に興味津々である模様。
 そしてジュディス・ミルズは、話を続ける。ここから先が、重要なのだ。
「まず他の隊員、特にアイリーン・フィールドを葬ること。彼女は、我が国とって甚大な脅威となり得る可能性を秘めている。早急に手を打たなければならない。しかし“サー・アーサー”及び“マダム・モーガン”は人間の手に負える存在ではないとして、標的から除外」
「……」
「まあ……――ASIとしては、可能であるならば彼らを永遠に葬りたいけれど。バルロッツィ高位技師官僚は、彼ら死神を殺すことは人間には不可能だと断言していたからね。不可能を覆せとは、ASIも流石に言わないわ」
「…………」
「次に、AI:Lという機械の本体を、ASIに引き渡すこと。そして、ジョン・ドーと呼ばれている青年の身柄も、ASIに引き渡すこと。最後に、『アバロセレンの核』の在り処を探り当てASIに伝える、または見つけ次第ASIに引き渡すこと。その四つが完了したら、あなたたち二人を信用してあげてもいいわ」
 薄気味悪い笑みを浮かべて、ジュディス・ミルズはASIからの要求を伝えた。するとラドウィグは目を大きく見開き、暗闇の中に佇む猫のように瞳孔を大きく、丸くする。が、彼はそれ以上の反応を見せない。一方、アストレアは狼狽えた。そしてジュディス・ミルズの提案を突っぱねる。
「アイリーンや、ケイを殺せって? そんなこと、とてもじゃないけど出来ない。……――アレックス、なんか言ってよ! 仲間を殺すなんて、そんな……」
 しかし、コールドウェルは何も言わない。コールドウェルの顔は、ジュディス・ミルズがそのような要求を突き付けることを元より覚悟していた、もしくは自分は既に彼女と合意済みだと、無言で言うようなものだった。
 そしてアストレアに追い打ちをかけるように、ジュディス・ミルズは言う。
「これが、裏から世界を守るという仕事なのよ。いつもやっているでしょう、あなたたちも。だったら正義がどちらにあるのか、分かるわよね?」
 すると、ラドウィグが肩を竦めて溜息を吐いた。それから彼は、沈んだ声で呟く。
「……オレの宿命か、何かなんですかね。人を裏切って見捨てて、自分だけ生き延びるってのは。これで三度目だよ、もう……」
 ガクッと肩を落とし、彼は項垂れる。それからラドウィグは、自分のくせ毛で短い髪を気が済むまで?きむしると、顔を上げた。そして彼は、胸を張ってジュディス・ミルズに宣言する。
「オレは、やりますよ。……実際のとこ、オレは拉致されて、事あるごとに『しくじったら殺すぞ』って脅されながら働かされてる身ですから。そんな組織に忠誠を誓う道理はないし」
 WACEの面々の前では一度たりとも見せたことが無いような、毅然とした態度と表情を、今のラドウィグは見せていた。サバサバとしていて、情緒などないかのようにドライなその姿は、おちゃらけた普段のラドウィグとは別人であるようにも思える。
 コールドウェルは“素顔”ともいうべきラドウィグの今の姿を、感心するように見ていたが、彼の横に座っていたアストレアは違った。打ちひしがれたような目で、ラドウィグの横顔を見つめていた。
「アイーダはなんだかーんだで可愛いし、姐御はオレに良くしてくれてたんで大好きですけど、アイリーンは別にそうでもないしなぁ。それにアーサーなんか大嫌いですもん。あの男、オレの故郷を吹っ飛ばした宰相に顔が似てるから。薬品庫のドクターも、なんか薄気味悪い。……あー、でもケイのじーちゃんは見逃してやっちゃもらえませんかね? オレ、じーちゃんの作る飯は大好きなんで」
「ASIの立場から言わせてもらうと、それは認められないわね。危険因子は全て排除すべきだわ」
「あっ、ダメっすか? りょーかいです。……それで、これはオレの個人的な意見なんですけど。マダム・モーガンは目の敵にしなくてもいいんじゃないのかなって思います。彼女、意外と良い人なんですよ。たぶん彼女はうちの機関で一番の常識人だし。それに現実をちゃんと見てるのは彼女だけなんじゃないのかなぁって時々感じますし。あとマダムの優れた洞察眼は、利用価値があると思います。アーサーは腹の底で何考えてるのか分からないから即刻潰すべきだと思いますけど、マダムは……――」
「猫目くん。何度も言わせないで」
「ハハハッ、ごめんなさい。ミルズさん。これ以上は楯突きません。……なんだろう。ミルズさんの雰囲気ってマダムにそっくりだなぁ」
 いつものような軽い冗談を言うように、ラドウィグは笑っていたが。その言葉の八割以上が冗談でないことを、アストレアもコールドウェルも、ジュディス・ミルズも理解していた。
「猫目くん。あなたの雰囲気は、断片的にペルモンド・バルロッツィに似ているわね」
「そりゃそうですよ、ミルズさん。オレは彼の弟子の一人、アルフレッド工学研究所の元研究員ですから。彼から色々と学びましたし、彼の背を見て盗んだ技術とかもあります。世の渡り方とか」
 そんなこんなで、乗り気なラドウィグとは裏腹に、アストレアは暗い表情を浮かべている。というのもアストレアは『曙の女王を倒すためだけなら、ASIと協力してやってもいい』という立場だったからだ。きっとアストレアは、どちらが優位にあるのかを見誤っていたのだろう。その点、ラドウィグは良くも悪くも狡賢かったわけだ。乗るべき勝ち馬を見極めたのだから。
 そんなアストレアの反応は、コールドウェルにとって予想の範囲内。ラドウィグの反応の速さは予想外ではあったが、なにも計画に問題はない。ここから、どうやってアストレアを懐柔させるか。それはジュディス・ミルズと織り込み済みであった。
「ジュディ。なにも隊員の処分は、今すぐにじゃないだろ」
「まあね、サンドラ。そっちは曙の女王とやらが片付いてから、本腰を入れる予定だし。曙の女王を倒すまでは、WACEを存分に利用させてもらうつもりよ。けれど、アイリーン・フィールドひとりの能力より、アバロセレン犯罪対策部の電子情報課二十三名のほうが戦力としては優秀でしょうね。それにうちの主席情報分析官だって、アイリーン・フィールドに引けを取らないコンピュータオタクだし。そして執行部隊もサンドラひとりより、ASIの精鋭部隊合計七十五人のほうが偉大でしょう?」
 ASIが、特務機関WACEを壊滅させたいと願っているのは事実だ。ASIのトップがバーソロミュー・ブラッドフォードであり、特務機関WACEのトップもマダム・モーガンだった時代にあった協力関係は、今や崩れているも同然。バーソロミュー・ブラッドフォードが倒れ、特務機関WACEもサー・アーサーに代替わりした途端、全てが終わったのだ。
 アバロセレンの秘密を守ること、そしてそれに協力するアルストグラン連邦共和国を守ること。マダム・モーガンの行動原理はそれだけと、極めて単純だった。しかしサー・アーサーは違う。彼は何を考えているのかが分からない。だからこそ、ASIとしては危険因子を排除しなければならなかった。
 となればサー・アーサーに従う者を排除しなければならない。特に、神のお告げを世に下ろす神官のような役割を持った、アイリーン・フィールドを。
 しかしASIは、特務機関WACE壊滅を特段急いではいなかった。それに今は、時期尚早であることをASIは知っている。つまり葬る云々は、発破を掛けて脅かしただけ。ASIが本当に求めていたのは、以下の二つだ。
「――……だけど。ジョン・ドーは別、彼は今すぐ欲しい。それから、もっと簡単にASIの信用を勝ち取る方法もあるわ」
「…………」
「あんたら特務機関WACEの、地下本部とやらの場所を教えて。そしたらASIが突入するから。そうしたら、無駄な血は流さずに済むかもね。おねんね銃が使えるから」
 鞭の後に、差し出した飴。するとジュディス・ミルズの策略に、真っ先に、それも笑顔で食らいついた者が居た。
「ボタニー湾です。ポート・ボタニーの跡地。まあ、行けば分かりますよ」
 それは「WACEに忠誠を誓う道理はない」と言い切っていたラドウィグだった。そしてラドウィグの言葉のあと、ヤカンが笛を吹き、湯が沸いたことを知らせる。コールドウェルは慌ててカセットコンロの火を消した。
 そうして静かになる室内。すると、ラドウィグが無邪気な笑顔で余計なことを口にする。
「これでお前も後に戻れないね、アイーダ。オレたち、共謀者だ」





 凍えるように冷え込む、寒々しい真夏の異様な夜。半袖のTシャツに七分丈のカーゴパンツと、夏らしい装いの青年たちは、目の前に現れた白い髪の魔女に腰を抜かしていた。
 夏の装いの青年たちとは反対に、白い髪の魔女は真冬の装いをしていた。まるで、真夏に真冬の寒さがやってくるということを、一人だけ予見していたかのように。
 緑色のロングスカートは冬物で、キャメル色のショートブーツも、鉄紺色のレギンスも、同じく鉄紺色のカシミア手袋も冬物。そして肩に白いフェイクファーの飾りが付いた、紫色のPコートを纏い、彼女は颯爽と真夜中を歩き、暗い空を指差す。強い月の光により、空に星は見えなかった。
「月が綺麗だね。今日は満月……――の一歩手前、ってとこかな。中途半端。まるで今のこの国みたい」
「……あっ、ああ……そんな、オレらは、ただ……」
「どうして、あなたたちは怯えているの? 怯えるぐらいなら、初めからこんな商売に手を出さなければ良かったのに」
「……アバロセレンなら、や、や、やるよ! 全部! だから!!」
「小物が、生半可な覚悟で、中途半端な仕事をやる。だから、私みたいな存在に付け込まれるのよ。馬鹿ね、本当に……」
 抑揚のない声で、白い髪の女――“曙の女王”を名乗るユン、またはダイアナ――は言った。肩にかかる程度に伸びた彼女の髪が、冷たい夜風に靡く。そして彼女の顔の右半分を覆い隠すように伸びた前髪は、わずかな風に揺れ、その下の右目が一瞬だけ外界を覗いた。
 彼女の左目の瞳は柘榴のように赤く、黒い瞳孔の奥にはアバロセレンを思わせる蒼白い燐光がちらついている。しかし彼女の右目の瞳は紫色で、右目の瞳孔は黒くなく、蒼白く光り輝いていた。サー・アーサーやマダム・モーガン、死神と呼ばれる存在らと似たような目だ。
 そして、彼女が死神と似ているのは目だけではない。彼女は彼らと同じように、煙のように姿を消すことが出来たし、風のようにどこにでも姿を現すことが出来た。そしてマダム・モーガンのように目にした物の複製を、何もない場所から生み出すことも出来る。それからサー・アーサーのように、手に触れずとも物を動かすことも出来た。
 全ては、彼女という存在を創った源、アバロセレンの力。死神もアバロセレンの中から息を吹き返した存在なのだから、同じようにアバロセレンから生まれた彼女にも、死神ら二人と同じことは出来るのだ。
「アルストグランの良いところは、他のどんな国よりも空に近いところだね。そして空気が澄んでいて、それでいて高地でありながらも空気が薄くない。……素晴らしい技術だと思わない? まあ、君たちは考えたこともないんだろう。アバロセレンを胸に抱く彼が、どれほどこの国を支えているかなんて。アバロセレンの価値を、金銭なんてものでしか測れない人間なのだから」
 国内屈指の有名ホテルの駐車場から盗んできた古いオープンカーの中で、四人の青年たちは顔を蒼褪めさせ、震えていた。悠然と佇む女ひとりを相手に、なす術がなかったからだ。
 彼らはいざという時の為に、ナイフや重火器を携帯していたが、今やそれらは彼らに取って何の価値もない。何故ならば、ナイフは彼らの手を離れて空中を漂い、その切っ先は彼らの首を狙っていたからだ。そして拳銃やアサルトライフルも宙に浮かび、銃口は彼らのほうを向いている。武器の全てを、曙の女王が支配していたのだ。
 彼らの理解を超える現象が、目の前で起きていた。そして彼らは、目の前に居る白い髪の女が、自分たちを殺そうとしていることを直感的に理解していた。それから、この女の目的が自分たちの売り物であることも分かっていた。
 恐怖のあまりに動かなくなった体と頭で、それでも青年たちは生き延びようと努力していた。自分たち四人の命が助かるなら、一つ四〇万ドルは下らない、液化アバロセレン五リットルが詰まった純タングステン製のカプセルを、五本すべてを女にくれてやると思っていたし、その旨は女に伝えた。しかし、女が彼らの言葉を聞いているようには思えない。
 曙の女王は、あくまで彼らを殺して、アバロセレンを強奪するつもりらしい。その計画を、彼女は変えるつもりはない様子。
 彼女が浮かべている薄ら寒い微笑みが、無言でその意思を青年たちに伝えていた。
「アルストグラン連邦共和国には、多くの人が知らない隠された秘密がある。たとえばー……大陸を空に浮かせているもの。彼の真実を、多くの人は知らないでしょうね。バカな市民も、自分たちは聡いと思い込んでいる大統領官邸も。彼が、この国の大気を操作し、気候や気温を調整しているなんて、知るはずもない。異常気象の原因が、彼の見ている悪夢だなんてことにも気付いてすらいないでしょう。定期的にメンテナンスを行っていたエンジニアの男が、周囲に何も教えないまま、自害しちゃったんだから」
「な、なあ。だから、アバロセレンは全部やるから。見逃してくれよぉ……!」
「それから飛行機みたいに移動するわけでもないこの大陸が、どうして空に浮いているのか。その理由を考えたことがある人間なんて、そう滅多にいないでしょう。海から来る密入国者を断つためだって表向きはされてるけど、でもその為だけにこんな大掛かりな舞台が必要かな? 私には、そう思えない。密入国者云々は口実で、本当の目的がどこかに隠されているはずだって。ねぇ、君たちもそう思うでしょう?」
「話を聞けよ、クソアマァッ! だから、アバロセレンはァッ!!」
「それでね、私は仮説を立てたの。神さまは、ただ試したかっただけなんじゃないのかなって。きっと実験に最適な都合のいい場所が、この大陸だったんだよ。謂わばこの場所は、神の実験場。そして今、死神さんはこの実験場を、新世界を迎えるにあたり、我々が生き延びるための方舟にしようとしてる。でもね、私は新世界をまだ見たくないの。もう少し、人間と遊んでいたい。そのためには、彼の仕事を増やさなきゃいけないの。彼の目を、真実から逸らさせるために」
 彼女は、青年たちの声になど耳を傾けない。しかし彼らに向かって、一方的に語り掛ける。ある一人の青年は、彼女の意図に気が付いていた。
 自分たちは今、聞いてはならない話を聞かされている。そして、聞いてはならない話を聞いたが為に、自分たちは処分されることになるのだろうと。
 青年たちに残された道は、ひとつだけだった。それは、自分の信じる神に祈ること。
「アバロセレンをいっぱい盗んで、騒ぎを焚きつけるの。そして私は、盗んだアバロセレンで私の分身たちを量産する。ホムンクルスを一体作るのにも、アバロセレンは最低でも五〇リットルは必要だって聞いたからね。そのためには、彼からホムンクルスの作り方も聞かなきゃいけないんだけど……」
 ある者は、自分の首に向いたナイフの切っ先を見つめ、息を呑んだ。ある者は、市警との抗戦で命を落とした兄の形見であるロザリオを握りしめた。またある者は、俯いて目を閉じ、奇跡が起こることを願った。そしてある者は、目の前の女に慈悲を乞う。
「アバロセレンならやる、他にも何でもするから! どうか、助けて……――」
「私ね。蜂の巣は好きじゃないの。見た目がグロテスクで、ゾッとするから」
 曙の女王は最後に、満面の笑みを浮かべた。そして彼女は数歩ほど後ろに下がり、オープンカーから離れる。青年たちが奇跡を願ったと同時に、風のようにナイフが舞った。
 悲鳴は上がらず、怯えた顔でぐったりと座席に凭れかかる青年たちがそこには居る。しかし曙の女王は彼らには見向きもせず、オープンカーのトランクに詰まれたものを、いそいそと回収するのであった。


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