アンセム・フォー・
ラムズ

ep.11 - After a storm comes a storm

 報道で、父親代わりともいえた恩師の自死を知ってから四つの夜が明け、彼の死からは六日が経っていた。しかし世間は彼女に、恩人の悲惨な死を悼む余裕を与えてくれない。彼女の登場を待ちわびるカメラのレンズは百を超え、彼女が何を語るのかを好奇の眼差しで見つめる世間の目は、もっと多く存在するだろう。
「……そうね。ええ、そう。まさに時代は、混乱の時代に突入した。穏やかだった古い時代のドグマは、現代にはもう通用しない。それに彼が、そうさせてくれないでしょうね」
 キャンベラにある大統領官邸の記者会見場、その裏手の待機スペース。アレクサンダー・コルトから借りたままになっていたサングラスを着用するラドウィグは、再び黒スーツに袖を通していた。だが彼は闇に戻ったわけではない。同じ黒スーツ黒サングラスを着用する、政府の要人警護チームのふりをしていたのだ。
 そんな彼の警護対象は、詰め寄せる報道陣の気配にびくびくと肩を震わせる女性――イザベル・クランツ高位技師官僚。彼女はラドウィグが零した言葉に返答しながら、今朝見た一枚のカードを思い出していた。
 そのカードは、RWS版タロットカードの一枚。大アルカナの十三番目。死神。今朝イザベル・クランツがASIの手配したホテルで目を覚ました時、ベッド横のサイドテーブルにそのカードが置かれていたのだ。そしてカードの傍には流麗な筆記体で書かれた文章も添えられ、さらにペストマスクも置かれていた。
「今や安全は国が保証してくれるものじゃなく、個人がお金で買う時代。防寒具、住処、そしてシェルター。つまり選ばれた金持ち連中しか生き残れず、貧しい人々には容赦なく死が襲い来る。手始めにホームレスたち、次はスラム街、その次はワーキングプアの低所得層でしょう。中流階級だって他人事じゃない、滅びるのは待ったなし。もしかするとこの国は、終わりに向かってのカウントダウンを始めたのかもね……」

 穏やかだった過去の時代のドグマは、荒れ狂う今の時代においては使い物にならないだろう。
 この時代は困難に満ちている、そして私達はこの時代と共に立ち上がらねばならない。
 私達に起こる新たな事態には、新たな思考と行動を以て、対処する必要がある。
 私達は自身の束縛を解かねばならず、また私達はこの国土を救わねばならない。

 それは十九世紀の北米に居た為政者、エイブラハム・リンカーンという男の言葉。だがこれを書いてイザベル・クランツ高位技師官僚に送った人物は、この言葉を遺したリンカーンを、そして彼女という道化を皮肉っているのだろう。逆位置に置かれていた死神のカードと、嫌味たらしいペストマスクこそ、その証。
 神に祈れば、救われる。清い心を持つ者は、救われる。そんな時代はとうの昔に終わっていて、これから訪れるのは、富める者も貧しい者も、老いも若きにも平等に訪れる無慈悲な死。終わりが来るのだ。この国にも、人にも。それはまるで、ペストのように。死が猛威を振るう時代が刻々と近付いている。
 ひとつの時代の黄昏の先にある、新時代に輝く朝露の玉。それを見ることのできる人間は居るのだろうか? ……イザベル・クランツ高位技師官僚はそれに関して、希望的観測ができなかった。
 それにきっと、今回の事件を引き起こしたという『アーサー』という男は、間違いなく人間が滅ぶことを望んでいるはずだ。彼の残した言葉、彼の残したカード、彼の残したペストマスク。それらが彼の意思を物語っている。何をしたところで避けられぬというのに、何故そこまでして人間は終わりに抗うのか、と。
「ラドウィグ、教えて。アーサーっていうあの男は、本当にミスター・ペイルと親しかったの?」
 窮屈なネクタイの締め具合を調整しながらラドウィグは、そんな質問を投げかけてきたイザベル・クランツ高位技師官僚を見る。するとラドウィグは唇をへの字に歪めた後、こう答えた。
「さぁ、オレには分かりません。そのことを、本人たちに直接聞いたことはないんで。でも、そうですね……そういう話は、サンドラの姐御の方が詳しいですよ。ペルモンド・バルロッツィと謎多き『アーティー』の過去を、彼女はよく調べてましたから。ですが、姐御は……」
「今は、回復を祈ることしかできないわ。私もあなたも工学研究者であって、医者じゃないから」
 一昨日の晩から始まった作戦は昨晩、失敗に終わった。失意の中でASI特殊作戦班の隊員たちがキャンベラに帰還したのは、日付が変わった頃。負傷者は多数、奇跡的に無傷だったのはラドウィグとイザベル・クランツ高位技師官僚の二人だけ。他の者たちは被弾したり、爆発により飛散した金属片を浴びたり、左腕を肩から失ったり、息はあっても意識は無かったり……――悲劇、という言葉だけでは片付かない。
 大陸の中心。あの場所には、残酷な真実が眠っていた。人間の理解を越えたものだけが存在していた。宇宙の法則ともいうべきものを超越したものが、あの場所には佇んでいた。
「私は彼女に、助けてもらったんだもの。だからこそ私は、私の役目を果たさなくちゃね。新たな高位技師官僚、ペルモンド・バルロッツィという扇動者の後継という役目を」
 適当な言葉を並べて、真相を誤魔化しているとばかり思っていたペルモンド・バルロッツィの言葉。あれらは嘘偽りないありのままの事実だったと思い知らされたとき、イザベル・クランツの中にあったドグマは静かに崩壊した。自分が無意識のうちに信じていた現実は、幻想でしかないと分かってしまったからだ。
 白紙の設計図が、全ての答えだった。そしてあの場所には、心臓が眠っていた。腹を割かれた姿で眠る男の胸の中で、脈を打ち続けては白く輝く蒼い血を外に垂れ流し続ける、蒼白く輝く心臓が在ったのだ。
 それを理解するのに、言葉は不要だった。ペルモンド・バルロッツィがそれを隠したがった理由も、それを見ただけですぐに分かった。それはあまりに不気味で、畏れ多くて、世界を滅ぼしかねない気配すらあって……――間違いなくそれには『死の神』と呼ぶに相応しい風格があった。
「今回の一件でよく分かったのよ。ミスター・ペイルがその道のパイオニアでありながらも、自分のフィールドであるはずのアバロセレンを廃絶するべきだと強く世間に訴え続けた理由。そしてアバロセレン工学を廃れさせるために自らアバロセレン工学の教鞭を振るうという、一見矛盾している行動のわけを」
「そういえば、彼の講義は滅茶苦茶な内容でしたね。あれはアバロセレン工学を衰退させたいとしか……」
 ふとラドウィグは約五年前の、まだ大学生であった時代のことを思い出す。義姉ロザリンドの強い勧めで医学部に入学したはずだったのに、最悪の教授に気に入られてしまったが為に、気が付いたらアバロセレン工学に転向していた頃。彼は初めて受けたアバロセレン工学科の講義で、腰を抜かしたものだ。
「初めてペルモンド・バルロッツィの講義を受けたときは、衝撃の連続でしたよ。科目はたしかにアバロセレン工学なはずなのに、中身は機械工学と熱工学を合わせたものが半分、ギリシア哲学が半分で、アバロセレンについては一切触れられず、落胆しましたねー。熱効率のあれこれを延々と喋ってると思ったら、急にソクラテスの話を始めたりして、後半はずっとアレテーの話。本当に意味不明な講義でしたよ……」
 開幕早々、一秒でも遅れた遅刻者の額に向かって、百発百中のリングバインダーが容赦なく飛び交う。そして普通ではあり得ない速度で、教授が出した問題は教授の手によりパパパッと展開されて、式は解かれていく――学生たちの理解が追い付いていないうちに。それでいて面倒臭がりな教授は、問題と答えだけを教えてプロセスの解説を省き、答えに至る道程については『自分の頭で考えろ』と学生たちに丸投げ。そのため講義はえげつない速度で幕を下ろし、残った時間は何故か哲学の話。ソクラテス関連の話が多く、時に教授自身の持論が語られることもあった――が、そんな哲学の話を聞いていた学生など居なかっただろう。
 学生たちはそんなやりたい放題の教授にまるでついて行けず、留年者も退学者も続出。ラドウィグも例に漏れず、留年を免れることはなかった。……それが、狂気の天才ペルモンド・バルロッツィの講義。彼は学生たちを容赦なく篩に掛け、エリート街道から多くの若者を蹴り出していつた。
 そうして生き残ったのは、極々一握りの選ばれし本物の才能。
 それこそイザベル・クランツのような、才能だけでなく信念も兼ね揃えた、非の打ち所がない人間だ。
「あら、あなたは分からなかったのね? 彼は学生たちに哲学の講義をするために、教職を引き受けたのよ。だから大学側は、彼の暴挙を一切咎めなかったの。彼にそう依頼したのは大学側であり、ASIであったのだから。それに彼も、彼らと同じ考えを持っていたからこそ賛同し、協力していたのよ」
「えっ? ……それ、本当ですか」
「――ミスター・ペイルは内部から変えたかったのよ、アバロセレン工学界隈を。だから彼は次代を担うに相応しい若い技師たちを育て上げ、選ばれた者にはアバロセレンの有益性ではなく危険性をこれでもかと説いた。つまり彼は、私たち若い世代に変えて欲しいんだと思う。エネルギーをアバロセレンにのみ頼る方向にシフトを切ろうとしている人間と、その選択を採れば避けることが出来なくなる破滅の未来を。だからこそ彼はソクラテスの話をよくしたのよ。人間よ決して驕るなかれ、とね」
「相変わらずイザベル先輩は難しいことばかりを考えてますね。オレは単細胞なんでサッパリだけど」
「ええ、そう。偏屈なミスター・ペイルと過ごした時間があまりにも長すぎて、思考プロセスが彼に似た結果、そうなっちゃったのよ。だから似た者同士の私が、彼の遺志を継がなきゃいけない。そして私が、世界を変えてみせる。彼の思い描いた理想の世界に、少しでも近づけるように。――それが私なりの、彼への恩返しだから。たとえ全ての神さまに笑われようと、私は私が正しいと思うことをするまでよ」
 そう言い、ラドウィグに微笑むイザベル・クランツ高位技師官僚の顔は、強い決意に満ちていた。凛とした姿はまさに『鉄の女』というあだ名に恥じない。
 彼女は報道陣のいる方向を少し睨んだ後、再びラドウィグに視線を向ける。それからイザベル・クランツ高位技師官僚は、どうにもフワッとしていて頼りがいのない顔をしたラドウィグの、男らしく鍛え上げられた胸板に、自身の握りしめた拳を軽くぶつけた。
「私は、私の役目を果たす。サー・アーサーとかいう名前のフィクサーに、負けっぱなしは嫌だからね。私は私のやり方で、闇夜を隠れ蓑にするフィクサーを正攻法で叩きのめし、人間の世界から追い出してみせる。だからあなたも、そうして。ちゃんと私を守ってよね」
「言われなくとも。それがオレの仕事ですから。ちゃんとあなたのことをお守りしますよ、女王さまよりも手厚い防御で。それにコヨーテ野郎になんか、もう負けません。だから、安心してください!」
「頼りがいのある騎士様ですこと。それじゃ、行きましょう。私たちの戦場に」


+ + +



 イザベル・クランツの一声により、ASIがドタバタと忙しくなっていた頃。ASIが用意した死体と共に、シドニー支局へとニールが帰還したのは午後三時。
「……と、まあ、そういうわけなんだ」
 検視局、監察医局、福祉局、司法省、連邦捜査局捜査官育成アカデミーなど。関係各所のあらゆるところからかき集めた検視官、監察医、および研修生たちが、あちらこちらで悲鳴を上げているモルグに、死体を積んだ担架と共にやってきたニールを出迎えたのは、蝋人形のような風貌の検視官バーニー。無論、検視官バーニーは歓迎ムードではない。
「へぇ。その死体が、ギャングを殺しまくってた犯人ねぇ……?」
 ぴくりとも動かぬ、検視官バーニーの表情筋。人形よりも生気のない彼の目は、担架に詰まれた死体に疑いを向けていた。間違いなく彼の生気のない目は見抜いていただろう、死後に白く脱色された死体の髪を。そしてその死体が、真犯人ではない別人であることを。しかし検視官バーニーは、特にコメントをしない。
 するとニールの目を、検視官バーニーの冷たい目が見る。ニールがぞわっと背筋を震わせると、検視官バーニーは溜息を吐いた。そして検視官バーニーは言う。
「クーパー特別捜査官。今、私は見ての通り忙しいから。そのご遺体はエレノア・ギムレットのほうに回してくれないかしら」
「バーニー?! この事件は、アンタの担当じゃ……」
「見ての通り、私は忙しいのよ。それに手順ってものがあるから、まずギムレットのところに行って。ほら、行った行った!」
「いやっ、でもギムレットはあくまで検視官で、監察医じゃ……――」
「現場に出るだけの人間は、暢気でいられて良いご身分ねぇ? ええ、そうよ。だからその解剖する必要があるかどうかの判断を、まず検視官のギムレットに仰ぎなさいと言っているの。彼女が必要だと判断したら、彼女がご遺体を私に、検視官であり監察医である私に回すから。まずはギムレットのところに行きなさい。彼女は今、化学捜査課でコーヒーブレイクでも楽しんでいるところでしょうから」
 そう言うと、検視官バーニーはニールに背を向ける。しかし彼はすぐには去らず、背を向けたままニールにこんな言葉を掛けた。「あなたも、随分と汚れてしまったものね。クーパー特別捜査官」
「……バーニー?」
「偽物の遺体を用意して、事件を揉み消そうとするなんて。このモルグに収容されている青年たち、そして青年たちのご家族に、あなたは顔向けできるのかしら。それとも、ASIやアレックスちゃんには確信があるの? バーソロミュー・ブラッドフォード暗殺事件のようにはならない、犯人はなんらかの方法で捕まえられるという確信が。そうでないならあなたは、あなたを見込んで引き抜いたノエミ・セディージョの顔に泥を塗ることになるけれど。ろくな学歴もない、それこそ運だけで這い上がってきたような、まるで実力も信用もないガキだったあなたを見出した彼女の顔に、恥の上塗りをしたいの? 今や大統領側近までのし上がった、裏切り者のエド・スミスみたく」
「…………」
「これでも私は、セディージョの人を見る目を信用していた。私が連邦捜査局に行こうと決めたキッカケも彼女だったし、彼女がこの支局を辞めてもまだ私がシドニーに留まっているのは、彼女がお墨付きを与えた捜査官たちを信じているからよ。だから、私を失望させないで。特にあなたは」
 検視官バーニーの棘のある言葉に、ニールはすっかり黙り込む。反論する言葉もないし、反論などすべきではない。検視官バーニーが全面的に正しかったからだ。
 そしてニールが黙り込んでいると、検視官バーニーはため息を零す。彼は自分の持ち場に戻りながら、珍しく大きな声でこう叫んだ。
「……ったく、ニューサウスウェールズ州は時代遅れなのよ! シドニーにはもうウンザリだわ!! ビクトリア州の司法システムを見習うべきよ!」





 これでもかと焚かれる、カメラのフラッシュ。イザベル・クランツ高位技師官僚は目を細め、自身の目元に手を翳し、眩しいんだとアピールをした。すると記者会見場の脇に待機していた司会者が動き、司会者はマイクに自分の口を近付ける。
「会見が始まります、カメラのフラッシュはご遠慮ください!」
 今やフラッシュなど焚かなくとも、肉眼で見える景色に遜色ない写真が撮れる時代。十分に明るいライトで照らされている記者会見場でさらにフラッシュを焚くなど、マナー違反だった――会見を開く者がまぶしい光に目を開けていられず、台本が読めなくなるためだ。
 しかし押し寄せる報道陣たちは、約半世紀ぶりに新たに任命された『高位技師官僚』に夢中だった。初めて公の場に、公人として姿を現した彼女の姿をハッキリと捉えることにばかり夢中で、肝心の被写体がどう思っているのかなどお構いなし。
 イザベル・クランツ高位技師官僚も、よく分かっていた。今の自分が、どれほど注目されているかを。
「……大丈夫ですか、高位技師官僚」
 イザベル・クランツ高位技師官僚のすぐ後ろで待機するラドウィグは、小声で彼女にそう尋ねる。普段のおちゃらけた雰囲気を一切捨て、まるで別人であるかのような仏頂面をしているラドウィグの、サングラスに隠れた目は心配そうに彼女を見つめていた。
 大丈夫よ、とイザベル・クランツ高位技師官僚は彼に小声で返す。そして彼女はひとつ深呼吸をすると、右手に携えていた――明朝、ASIのとある局員が書き上げた――台本を強く握りしめて潰す。焚かれるフラッシュの眩しさに耐えきれず、頻りに瞬きをしてみせながらも、彼女は正面を毅然と見つめた。
 アバロセレンの蒼白い光と比べれば、まだ暖かであると思えるカメラの真っ白な光。しかし肌を刺すように冷たいアバロセレンとは違い、その光は目を刺すように眩しい。そして得体の知れない寒気を呼び起こすアバロセレンの光とは違い、焚かれるフラッシュは彼女の心にじりじりと迫り、追い詰めてくるようでもあった。まるで見えない群衆に、糾弾されているかのような。そんな気分にさせられたのだ。
「んんっ。えっと、私の声が聞こえますでしょうか?」
 背後に立つラドウィグの気配に安心感を見出す努力をしながら、イザベル・クランツ高位技師官僚は記者会見場に用意された椅子にそっと腰を下ろし、テーブルに置かれていたマイクにそう喋りかけ、はにかむ。少しだけフラッシュの嵐が止み、お茶目な姿を見せた高位技師官僚に対して小さな笑いが起きた。
 やがて白い光が収まり、報道陣たちの顔が彼女の目によく見えるようになる。
「こういう表舞台に立つ仕事は、今までペルモンド・バルロッツィの仕事でしたので、私はまだ不慣れで。どうぞ皆さま、お手柔らかにお願いします」
 向けられていたのは、無機質なカメラのレンズだけじゃない。人間の好奇の目だ。それは少し気恥ずかしいが、いざその目で見てみれば、さほど不快なものでもなかった。糾弾されるのかと身構えていたイザベル・クランツ高位技師官僚だったが、少しだけその緊張を緩める。彼女に向けられていた人の目は意外にも、彼女に対する期待に満ちていたからだ。
 案外、世間は敵ばかりでもないのかもしれない。彼女はふと、そう考える。だが彼女は、世間にあまり期待してはいけないことも分かっていた。世間はすぐに掌を返す。彼女の師匠はそうして世間に捨てられ、師匠もまた世間を捨てたのだから。
 どちらにせよ、自分に対する世間の評価はこれから分かる。今は、今に集中するだけだ。
「それではまず、私には明かさなければならない事実が幾つかあります。ひとつは積極的に隠していたわけではありませんが、結果的に隠されてしまっていた事実。もうひとつは、政府によって意図的に隠されていた事実。それから、つい昨日までは誰も把握してすらいなかった事実。そして皆様にお伝えしなければならない、とても重要な事実です」
 彼女の戦争は、ここから始まる。でも彼女は、決してひとりではない。
「最初に私が話したいのは、私の師匠についてです。皆さまもご存知の、ペルモンド・バルロッツィ。不死身の人格破綻者とか人造人間とか呼ばれていた彼のことです。彼について幾つか訂正したいことがあり、そして謎多き『高位技師官僚』という肩書についても、私は今一度説明する必要があると考えています。なのでまずは、彼という人物の人となりについてお話ししましょう」
 本当は、気を抜くと声が震えそうになるほど怖くて、不安だった。脚は今にも震えてしまいそうだが、床を踏みしめることでどうにか堪えている。それにラドウィグだけでは不安だった。本当は傍にもう一人、いて欲しい人が、イザベル・クランツ高位技師官僚には居た。
 ふと脳裏を過る、懐かしい笑顔。千年氷のように蒼く、まるで人でないように冷たかったが、目が合うと安心した瞳。いつも革手袋を嵌めていた手で、頭をわしわしと掴むように撫でてくれたあの感触。彼女が大学にあがるまでは毎週土曜日に必ず、どんなに忙しくとも彼女の家であった孤児院に会いに来てくれた男。
「私は彼のことを親しみを込めて、普段はこう呼んでいました。ミスター・ペイル、と。彼は私にとって父親代わりで、彼も私のことをよく『孫娘のようなものであり、最高の助手』と言っていました。つまり、私たちの関係は単なる師弟ではありませんでした。そうなった経緯は話すと長くなるので省きますが、そういうわけで私は彼のことをそれなりによく知っています。だからこそ、言いたいのです」
 本当の父親よりも、彼と過ごした時間は長かった。二〇年に渡る歳月は長いようで、同時に短くもあった。始めの一〇年は疑似的な父娘で、束の間の幸せがあった春と夏。後半の一〇年は、加齢とストレスにより自己が破綻していた男と、彼をサポートする助手の役で、仕事へのやりがいと共に辛さを感じざるを得なかった秋と冬。一言では言い尽くせない、それはそれは色んなことがあった。
「彼は世間で言われているような男ではありません。彼は、世間が求めていたペルモンド・バルロッツィという男を演じていたピエロです。等身大の彼という人物は、世間の描いた幻想とはまるで違っています。彼はどこまでも自信のない情けない男であり、抑うつ的性格と底知れない闇と深い傷を心に抱えていて、そのおかげで常に薬漬けでした。深刻なトラウマにより発症したDID、俗に言う多重人格の症状もあり、パニックを抑える薬が無ければろくに仕事も出来ず、日常生活も送れない状態だったのです。薬が切れたときには自殺を試みることもありました。なので彼が自ら毒を飲み死んだという話に、私は何ら疑いを抱いておりません」
 上出来だ。よく出来たじゃないか。無学な娘が、すっかり天才になっちまって。……かつて、彼女に向けられた言葉は褒め言葉ばかりだった。それが次第に、謝罪ばかりになっていった。
 ありがとう、申し訳ない、すまない、ごめんな。自責するような悲しい顔で、彼にそんな言葉を言われるたびに、彼女の心は痛んだものだ。そして、何が彼の心身をぼろぼろにしたのかが気になった。散々考えた末、出た答えはこれだった。
「何故ならば、彼は強い男ではなかったからです。彼は嘘を演じることに慣れすぎていたために、嘘に飲み込まれて自分を見失っていた愚かな人物。尊大で傲慢なナルシストとは真逆の場所に居るような人物、それが彼です。ならばどうしてそんな彼が、ピエロなんかやっていたのでしょうか?」
 今は質問の時間ではない。故に、報道陣から言葉が返ってくることはない。それでも、別に構わなかった。彼女はその疑問の答えを知っていたのだから。
「彼はあらゆるものに、常に脅かされていました。政府や、安心を求める市民の皆さんに、脅かされていたんです。――皆さんにとっては、少し意外かもしれませんがね」


+ + +



 イザベル・クランツの一声で、大荒れになったASI局内。しかしそんな騒動の情報など一切入ってきていなかった地下の牢獄に“アルファ”ことヒューゴ・ナイトレイはいた。
「…………」
 ジョン・ドー。そう呼ばれる青年と、彼に付き添う金髪の見目麗しいヒューマノイド、そしてアストレアという名前の特務機関WACE元隊員が、その檻には閉じ込められている。ヒューゴ・ナイトレイも、その中にいた――収監者の監視兼護衛のためだ。
 二時間おきに、特殊作戦班の隊員が交代で監視に当たることになっていた。それで今は、ヒューゴ・ナイトレイが請け負う時間。
「…………」
 本来なら、収監者は一人のはずのこの檻。ベッドはひとつで、トイレもひとつで、そうであればスペースも狭い。その窮屈な空間の中に、四人も居る。鉄格子に凭れるように立ち、腕を組むヒューゴ・ナイトレイは、その窮屈さになんとも言い難い気分を味わっていた。
 まるで人間のようにしか見えないヒューマノイドは何も文句を言わず、冷たい床に座って静止している。そのヒューマノイドの横に座るアストレアという小柄の人物は、着ているパーカーのフードを目深に被り、頑なに顔を見せようとはしない。そしてジョン・ドーは、ベッドの上で眠っている――彼がパニックを起こし暴れたため、鎮静剤を打たれたとのことだ。
 そのジョン・ドーに、ヒューゴ・ナイトレイは違和感を覚えていた。今朝、ヒューゴ・ナイトレイが彼の体格に合わせて買った衣服が、今ではまるでぶかぶかで、その体に対し大きく見えていたのだ。それに今朝はたしかに十五歳前後に見えていたはずの青年が、今では十一歳かそこらの少年にしか見えない。
 ヒューゴ・ナイトレイがアレクサンダー・コルトと共に、ASI本部の外に出ていた間に、いったい何が起こったのか。彼の中で疑問は止まらず、胸がざわつく気配も止まらない。
 と、そのとき。牢獄に客が来る。厚底のスニーカーをどすどすと鳴らしながらガニ股で歩いてきたのは、アレクサンダー・コルトだった。
「アルファ、仕事だよ。三十分後、キャンベラの空軍参謀本部に出発する。空軍のお偉がたと諸々の話を付けた後、リッチモンドの基地からアリス・スプリングスに飛ぶことになった。そんでアリス・スプリングスで夜を明かしてから、作戦決行だとよ。だから、急いで装備を整えろ」
 檻を解錠するアレクサンダー・コルトは、片手間にヒューゴ・ナイトレイにそう伝えた。そしてヒューゴ・ナイトレイは、アレクサンダー・コルトをまじまじと眺める。「お前も、ASIに加わったんだよな。なんだかまだ、違和感があるが……」
「違和感はお互い様だろ? アタシだってまだ、気分は『特務機関WACEから派遣されたエージェント・コールドウェル』だ。かれこれ二十七年、コールドウェルの名で活動してきたわけだからね」
 ガチャガチャ。ガサツに扱われている鍵はそんなうるさい音を立て、解錠には思いのほか時間が掛かっている。思い通りに行かない鍵にアレクサンダー・コルトは眉間にしわを寄せ、ヒューゴ・ナイトレイは溜息を零した。冷静にやれよ、と彼は毒突く。
 分かってらぁ、と言葉を返すアレクサンダー・コルトだが、しかし彼女には生まれつき『丁寧さ』というものが足りていない。そうして音を立て続けるだけの鍵がようやく仕事を果たし、解錠を終えたのは約三〇秒後。そうして呆れ顔のヒューゴ・ナイトレイが鉄格子の外に一歩、踏み出したときだった。それまで寝ていたはずのジョン・ドーが突如呻き声を上げ、足をばたつかせ始めたのだ。
「――だッ、あ……ッ!!」
 ジョン・ドーの異変を察知した金髪のヒューマノイドが動く。床に座っていたヒューマノイドはすぐさま立ち上がると、彼が寝かせられていたベッドに慌てて駆け寄った。が、しかしヒューマノイドはベッドから引き剥がされて、床に突き飛ばされる。それを突き飛ばしたのは、また鉄格子の中に戻ったヒューゴ・ナイトレイだった。
 何かを振り払おうとしているかのように、そして呼吸が出来ないと苦しがるように、じたばたと体を動かすジョン・ドー。そんな彼の両腕をヒューゴ・ナイトレイは押さえつけ、ジョン・ドーの動きを封じる。その傍らでヒューゴ・ナイトレイは、ジョン・ドーに呼び掛け続ける。
「おい、ガキ! どうした?! どこか痛むのか、俺の声が聞こえていたら教えろ!」
 しかし身を仰け反らせて、痛がる子供は途切れ途切れな声で「駄目だ、ダメ」を繰り返すばかり。そして檻の中に入ったアレクサンダー・コルトは、ヒューゴ・ナイトレイの後ろで銃を構える。彼女はジョン・ドーに、通称『おねんね銃』の銃口を向けていた。
「おい、ヒューゴ! そいつを眠らせる、だから邪魔だ、どけ!」
 アレクサンダー・コルトは、ヒューゴ・ナイトレイの背中に向かってそう怒鳴る。だがヒューゴ・ナイトレイは、ジョン・ドーから離れようとしない。ヒューゴ・ナイトレイは何かを予感したのだ。
 ジョン・ドーは息苦しさにもがいている一方で、何かのメッセージを伝えようとしているように、ヒューゴ・ナイトレイには思えていた。「駄目だ」という言葉を連呼している彼は、どうやらその続きの言葉も言いたいようだが、何故かうまく呼吸ができず、それ以上の言葉が出てこないらしい。それでもジョン・ドーは、何かを言おうとしている。だからヒューゴ・ナイトレイも、その何かを汲み取ろうとしていた。
 だが邪魔が入る。痺れを切らしたアレクサンダー・コルトが、ついに発砲したのだ。
「ヒューゴ、アンタは何をもたもたと――」
「少し黙ってろ、アレックス!!」
 大腿に打ち込まれた麻酔銃の効き目は抜群で、その効果はすぐに現れた。数秒も経たぬ間にジョン・ドーは大人しくなり、ぐったりとした様子で横になる。そして良くも悪くも麻酔で息苦しさは軽減されたのか、先ほどよりもスムーズに声が出るようになったようで。ジョン・ドーは小さな声でぼそぼそと、こんな言葉を漏らす。
「……あの場所に行っちゃ、駄目だ……マトリクスが――」
「おい、ガキ! マトリクスが何だって? おい、おい!!」
 だが言葉も途中のところで、ジョン・ドーの瞼は落ち、再びの眠りに落ちていく。そしてヒューゴ・ナイトレイが後退り、ジョン・ドーから離れたときだった。彼の目に、獣が映る。
 疲れ果てて見るからに苦しそうな顔で眠るジョン・ドーのその細い首に、噛みついている狼が居た。黒い毛皮の、大きくて、随分と痩せ細っている狼。血に飢えた緑色の瞳をギラつかせながら、その狼は寝ている彼の上に覆いかぶさり、あたかもジョン・ドーの息の根を止めるように、彼の首に噛みついていたのだ。
 ヒューゴ・ナイトレイは、血の気が引いていくのを感じた。暴れるジョン・ドーを押さえていたつい先ほどまで、そんな狼など彼の目には見えていなかったからだ。
「……おい、ヒューゴ。時間が無いんだ。行くぞ」
 眠るジョン・ドーを見つめ、呆然と立ち尽くしているヒューゴ・ナイトレイに、アレクサンダー・コルトはそう声を掛ける。そして彼女は、ヒューゴ・ナイトレイの肩を引っ掴んだ。
 すると、そのとき。ジョン・ドーの上に覆い被さっていた狼が彼の首を噛むのを止め、代わりにヒューゴ・ナイトレイを見た。そして狼は顔を上げる。狼は人語で、ヒューゴ・ナイトレイにこう話しかけてきた。
『とっとと失せろ、アルファ。俺の邪魔をしようってンなら、容赦しねぇぞ。お前も、お前の婚約者みたく殺してやろうか。なんつったけかァ……あぁ、そうだ。ケイト・ウェブだったかァ?』
 その狼の姿は、ヒューゴ・ナイトレイの目にだけ見えていた。
 その狼の声は、ヒューゴ・ナイトレイにだけ聞こえていた。
「アルファ! 上で特殊作戦班の連中を全員待たせてるんだよ、ボーっとしてる暇なんざねぇぞ!」
 狼のことなど知らぬアレクサンダー・コルトは、ヒューゴ・ナイトレイを鉄格子の外に引きずり出すと、檻の戸に再び鍵を掛ける。そんな彼女は、様子のおかしなヒューゴ・ナイトレイを訝しんでいた。彼の目に浮かんでいた殺意の正体が、彼女には理解できなかったのだ。





「高位技師官僚という肩書は、それほどまでに重いものでした。軍事防衛部門となれば殊更に、その責任は重い。そして、彼の背中に圧し掛かっていたのはそれだけではありません。この国が隠しているあらゆる秘密を秘匿し続けること、彼はそれを政府より常に強要されていました。そもそも高位技師官僚というポストは、彼に秘密保持義務を負わせるためだけに用意されたようなもの。軍事防衛部門以外の四部門にポストは置かれておれど、それに任命される者が近年は誰も、半世紀以上出ていないのがその証です」
 大統領官邸、記者会見場の裏出。待機スペースに居たジュディス・ミルズは、イザベル・クランツ高位技師官僚の言葉を聞きながら、無言で頭を抱えていた。それはイザベル・クランツ高位技師官僚が、ASIが用意した台本をすべて無視し、彼女が話したいことを好き勝手に話していたからだ。
 ジュディス・ミルズには、この先の展開が読めていた。だからこそ、彼女は憂鬱だったのだ。
 ペルモンド・バルロッツィという男の真実を明らかにした後、次に流れでイザベル・クランツ高位技師官僚が明らかにするのは『ペルモンド・バルロッツィという男が、高位技師官僚という肩書のもとにやらされていた仕事』だろう。ASIも全てを把握しているわけではないが、その断片は知っている。そしてその断片ですら、国民の国家に対する信頼を揺るがすには十分すぎることも分かっていた。
 彼が作った兵器。彼が入手した情報。彼が重ねた秘密。どれも業が深すぎる。ひとつでも漏れれば、国内の混乱は避けられない。物ではない以上、形など持っていない国家というものが崩れるのも、時間の問題になるだろう。
 ジュディス・ミルズは、気が気でなかった。と同時に、期待もしていた。一歩間違えれば破滅まったなしのテーマ、それをイザベル・クランツ高位技師官僚はどう料理するのか、と。
 どちらにせよ、どうやらアルストグラン連邦共和国というものの崩壊、および人類の滅亡は時間の問題であるらしい。それが少し早まったところで……誤差の範疇だろう。――ジュディス・ミルズはそんな冷めた考えで、今の状況を俯瞰していた。というよりも、爆発寸前の感情を自分から切り離すことで、冷静さを辛うじて保っているのだろう。でなければ、とっくに気が狂っている。
 ……いや、もう彼女は狂っているのかもしれない。あんなものを見てしまった後で、仲間たちが次々と倒れていく光景も見て、挙句自分も爆風に巻き込まれ、右腕を折る怪我をしているのだから。彼女の気が少しも動転していないといえば、それは嘘になるだろう。
「……」
 しかし胸の奥底で渦巻く恐怖心はおくびにも出さず、ジュディス・ミルズは普段通りのクールさを取り繕う努力をしていた。記者会見場の裏手に立ち、腕を組みながら、彼女は無言でイザベル・クランツ高位技師官僚の背中を睨む。すると、表舞台のほうからイザベル・クランツ高位技師官僚の声が聞こえてきた。
「彼は、ある時は政府に、ひとり娘の命を人質に取られていました。ある時は政府に、私を始めとする部下や教え子たちの将来を台無しにすると脅されていました。またある時は政府に、大勢の罪なき人間を人質に取られていました。秘密を漏らせば、人質を直ちに殺すと。そう脅されていたのです」
 イザベル・クランツ高位技師官僚は、同情を買う作戦に出たらしい。これが吉と出るか、凶と出るか。それは神にも、誰にも分からないだろう。
「先ほども言ったとおり、彼は強い人間ではありません。常に圧力に屈し続け、後悔に苛まれ続けながらも、反旗を翻すことをしませんでした。ですが反面、彼は強い力を持つ人間。彼の頭脳は破壊的で、また彼は実に有能な傭兵でもありました。……これほどまでに使い勝手の良い“道具”も、早々あるものではありません。アルストグラン連邦共和国政府は彼を馬車馬のようにこき使い、国のために存在する都合の良い奴隷であることを彼に求め、そして彼がただ彼であり続けることを否定し、高位技師官僚であり続けるよう迫っていました。善良な一市民である皆さまも、他人事ではありません。あなたがたも政府により行われた印象操作を真に受け、政府に加担していたわけなのですから」
 故人に同情を求め、それでいて同情した人々をチクリと攻撃をする。なんとも『善良な一市民』たちの反感を買いそうなスピーチだと、ジュディス・ミルズは思う。だが、その一方で彼女はこうも思っていた。
 イザベル・クランツ高位技師官僚、彼女には不思議な魅力がある。彼女は細身の体からは想像もできない芯の強さを奥底に秘めた人物で、凛とした立ち姿からは若いながらも既に『大物』を予感させるオーラを放っていた。ペルモンド・バルロッツィという男がいかにも気に入りそうな若者だと、そう認めざるを得ない風格がある。
 ジュディス・ミルズが知る限り、最も気難しい男に気に入られた女性だ。気難しい世間にも、一定数は受ける可能性がある。
「彼の悪行の数々は、挙げるときりがないでしょうし、私もその全容は把握しておりませんので、そこは省きましょう。それにそのことに関してはASIのほうから、口外しないようにとの忠告を受けておりますしね。……さてと、善良な一市民の皆さま。私にはお伝えしなければならない残酷な真実があります」
 だが彼女は、危険人物でもあるだろう。要らぬことを、さらりと口にしてしまうきらいがあるのだから。
「あなた方の真実への無関心さが、此度の事件を招いたのです。そしてそれは、取り返しがつきません。我々はあらゆる技術官僚および有識者を徴収し、事態の改善に努めていますが、元の状態に戻ることは限りなく不可能に近いと言えるでしょう。異常気象はこれより悪化の一途をたどることが予想されています。酸素濃度は低くなり、平均気温も低下していくでしょう」
 表舞台がざわついている。ジュディス・ミルズには嫌な予感が、ひしひしとしていた。
 ASIがこの記者会見をセッティングしたのは、彼女という新時代の高位技師官僚のお披露目のためだけ。彼女にペルモンド・バルロッツィの本性を暴露しろとも、ましてや政府に隠すべき恥があることを明かせとも言っていない。そして最悪な未来予想図は公表してはいけないと、あれほど念を押したはずだった。
「もし皆さまが、この国を支えているというエンジン、そしてリアクターに興味関心を示し、その詳細を開示するよう政府に迫っていれば! もしかしたら、この事態は避けられたのかもしれなかったのです!! なのに、それをしなかった。これは、誰の責任ですか? 今までのように、ペルモンド・バルロッツィをスケープゴートに仕立て上げますか? それとも彼の後任である私、この情報を明かした私を糾弾しますか? そうやってまた、皆さまは真相に目を瞑るのですか?!」
 だが、イザベル・クランツ高位技師官僚は止まらない。彼女は、彼女が正しいと思うことをするだけなのだから。
「――この国にあるとされた、リアクターやエンジンなど初めから存在しなかったのです!! この国がどうして浮いているのか、そして上空に在りながらも地上とほぼ同等の気候および酸素濃度をどうやって維持してきたのか、その仕組みが何も分からないのです、今も! 全ての秘密を握っていた男は死にました、今やその詳細を知る者はいません。まだ彼が生きているうちに、情報を開示するよう迫っていれば。こんなことには、なっていないのかもしれなかったんです!! 改めて問います、これは誰の責任ですか!」


+ + +



「オレは特別に、同行が許されたんです。牢獄行きを免れました!」
 そう笑顔で話すラドウィグは、ASIアバロセレン犯罪対策部附属特殊作戦班の隊員たちと同じ戦闘服を身にまとっている。そのラドウィグの後ろでコードネーム“ブラボー”ことセルゲイ・クラシコフは残念がるように、暗いムードの曲を口笛で吹いていた。
 『C・エイヴリー』というネームの入った、空軍仕様の戦闘服――アレクサンダー・コルトの知人である、空軍士官シリル・エイヴリー少佐が貸してくれたもの――を着用したアレクサンダー・コルトは、すっかりASIの戦闘服姿が様になっているラドウィグに頬を綻ばせる。それに、様になっていたのは戦闘服だけではない。どうやらラドウィグは既に、特殊作戦班の隊員たちと打ち解けていたようだ。
 噂によるとアレクサンダー・コルトとヒューゴ・ナイトレイが局を留守にしていた日中、ラドウィグは特殊作戦班の隊員たちと研鑽を積んでいたらしい。そこで距離が縮んだようだ。
「オレ、これでも元アバロセレン技師の端くれだったんで。少しはお役に立てるかもしれないなーと思って志願したんです。ほら、リアクターにはアバロセレンが使われてるのかもしれないんでしょう? それで志願したら、案外アッサリと承認されましてね。自分でもちょっと驚いてるんです」
 そんな彼らが集まっていたのは、ニューサウスウェールズ、リッチモンドにある空軍基地。空軍が貸し出しを許可した輸送機の中に、彼らは荷物を積み込んでいた。
 集まったのはASIアバロセレン犯罪対策部附属、特殊作戦班の面々。アルファ、ブラボー、チャーリー、デルタ、エコーの五人。それとラドウィグとアレクサンダー・コルト、そしてイザベル・クランツの計八名。彼らは駄弁りながら各々の仕事をこなす傍らで、もう一人の特殊作戦班隊員であるジュディス・ミルズが、潜入先であるシドニー市警での業務を切り上げて、ここに合流するのを待っていた。
 するとニコニコ顔のラドウィグの頭を、後ろから平手でパチンッと叩く男が現れる。長年の喫煙によりヤニで黄色く染まった歯を見せながら、人が悪そうにニタニタと笑うその男は、特殊作戦班のひとり。コードネーム“チャーリー”として活動している、傭兵あがりのASI工作員フランコ・パオレッティだ。愉快で饒舌な、憎たらしくも憎めない中年オヤジである。
 コードネーム・チャーリーに叩かれた頭をさすりながら、ラドウィグはさほど痛がる素振りは見せず、へらへらと笑う。そんなラドウィグをまた、コードネーム・チャーリーは指差して笑うのだった。――どうやらラドウィグは、このチャーリーに相当気に入られたらしい。
「聞いてくれよ、サンドラ嬢! うちのエースである“ブラボー”を、この猫目坊やは蹴り一撃で失神させたんだぜ。それも素早い上に、全く読めない攻撃でな。避けられなかったんだ。他の誰も、こいつにゃ敵わなかったよ。元研究員ってのがとても信じられない。元傭兵の間違いなんじゃないのか?」
 コードネーム・チャーリーは日焼けして随分と浅黒くなった手で、ラドウィグの健康的な血色のいい頬をブニブニと抓る。不愉快そうな顔はひとつも見せず、依然へらへらとした笑顔のままのラドウィグ――しかし彼の本心は、誰にも読むことができない――は、いつも通りのおどけた調子でこう反論するのだった。
「オレは、傭兵じゃないです~。ンな金次第で何でもするような、ゲスいことは絶対にしません。オレのポリシーに反します。それに傭兵なんて、汚らわしい……」
「あァン? おい、猫目の坊や。お前、傭兵稼業がゲスだって言いたいのか?」
「それが事実でしょう、チャーリーおじさ~ん?」
「――……お前のそういうところ、本当に最高だぜラドウィグ!! そうだ、傭兵はゲスさ! だから俺ァ足を洗ったんだ!!」
 そう言い、コードネーム・チャーリーは下品にガハハと大口を開けて笑う。彼はラドウィグの肩に自分の腕を回し、問答無用で肩を組ませた。そのときラドウィグが初めて笑顔を消し去り、真顔になる。どうやら彼の顔に掛かったコードネーム・チャーリーの息が、かなりヤニ臭かったらしい。大抵のことでは動じないラドウィグも、喫煙者が放つ独特の悪臭には耐えられなかったようだ。
 そして我慢の限界を超えた途端、ラドウィグは豹変する。ラドウィグは身を屈めると、コードネーム・チャーリーの腕の中から逃げ出した。するとそれまでのフレンドリーな態度が全て嘘であったかのように、途端に彼はコードネーム・チャーリーに対して素っ気なくなる。
 ツレないな、と不満げにコードネーム・チャーリーは悪態を吐く。するとラドウィグは、チャーリーのその言葉に噛みついた。
「オレ、煙草クサいひとはマジで無理なんで。女性でも男性でも、ドン引きです。最悪、本当に鼻が曲がりそう……」
 辛辣な言葉を吐き捨てると、ラドウィグは自分の鼻を指でつまみ、いそいそと輸送機を降りていく。少しばかり不機嫌そうに、大股で早足に歩くラドウィグの背中を見送りながら、アレクサンダー・コルトは少し笑った。
 そんなラドウィグの姿に、笑みを零したのはアレクサンダー・コルトだけではなかった。
「相変わらずルートヴィッ……――ラドウィグは、謎めいてるわね。ニコニコしていたかと思ったら急に不機嫌になるし、いい子のふりをしているかと思ったら急にバカ正直になるし。ペテン師なのか、正直者なのかの判別が付かなくて、困っちゃうのよ。なかなかのクセ者よね、彼も」
 輸送機の隅で息を殺すように控えていたイザベル・クランツも、笑っていたのだ。
「チャーリーさん、あながちあなたの指摘は間違ってないわ。彼は、正確には研究員ではない。……彼は、アルフレッド工学研究所に勤める職員を守る用心棒として、ペルモンド・バルロッツィに採用された男。ラドウィグは文武両道の秀才だから、使い勝手が良かったのよ」
「文武両道だって? 俺には、武術の達人にしか見えないが。あいつ、頭も良いのか? あんな、アホみたいにへらへら笑うのにか?」
「ええ、そうよ。新アルフレッド・ディーキン総合大学の医学部に入学できるだけの頭はあるんだから、秀才であることは間違いないわ。けど性格は……――彼、すごく能天気よね。そこは否定しない」
 まあ、お気楽な本人はきっと、用心棒として雇われた事実を知らないでしょうけど。イザベル・クランツは、そんな言葉もさらりと零す。そしてコードネーム・チャーリーは「俺の言ったとおりだっただろ!」と、何故か誇らしげに威張り散らし始めた。
 いつもならば、そんなチャーリーをアルファ――つまりヒューゴ・ナイトレイ――が軽く往なす。うるさいぞフランコ、とか。タマの小さいオス猿ほどよく吠えるとかよく言うよなぁ、など。だが、その日は妙にしんとしていた。
 輸送機の座席に深々と座るヒューゴ・ナイトレイは、神妙な面持ちで腕を組み、黙りこくっている。彼の耳には、チャーリーの発する雑音など入っていないようだった。そしてヒューゴ・ナイトレイは、なにか物思いに耽っている様子。どうにもヒューゴ・ナイトレイらしくないと感じたのは、アレクサンダー・コルトだけではない。
「おい。どうしたんだ、アルファ。お前は局を出てからずっと、様子がおかしいぞ。……地下で何かあったのか?」
 そうヒューゴ・ナイトレイに声を掛けたのは、コードネーム・チャーリーだった。だがやはり、チャーリーの声はヒューゴ・ナイトレイには聞こえていないらしい。「……」
「おい、ヒューゴ。聞こえてるか、おーい?」
「…………」
「あちゃ。駄目だな、こりゃ。……急にどうしたんだ、こいつは」
 特殊作戦班の班長であるコードネーム・アルファが、この調子だ。そのせいで、出発前にも関わらず隊員たちの士気はみるみるうちに低下していく。どうにも締まらないムードが輸送機に満ちていった。
 このままではマズい。アレクサンダー・コルトは、そう思った。だが、このムードを打ち破る良い解決策がまるで思い浮かばない。そして彼女はヒューゴ・ナイトレイのように腕を組んで黙りこくる。
「……」
 と、そのとき。この空気を入れ替えてくれるであろう声が、輸送機の乗組員らに聞こえてきた。
「ハーイ、ボーイズ! 遅れてごめんなさい。凍死体が市警に続々押し寄せてて、なかなか上がらせてもらえなかったのよ。化学捜査官って、もう大変。……でも検視官と監察医のほうが仕事も盛沢山で、私なんかよりもずっと大変なんでしょうけど……」
 ジュディス・ミルズが、遅れて空軍基地にやってきたのだった。


+ + +



 サングラス越しの暗い視界の中、ラドウィグの目に見えていたのは、怪訝そうな顔をする人々の顔だった。イザベル・クランツ高位技師官僚の口から飛び出した攻撃的な言葉に、好奇の目は批難へと一瞬にして姿を変えていたのだ。
 誰も予想だにしていなかった事態。それが起きてしまった今、その責任は誰にあるのかとイザベル・クランツ高位技師官僚は問うた。目の前の報道陣に、そしてどこかに居る民衆に。しかしイザベル・クランツ高位技師官僚は問いかけたのと同時に、その答えも明かした。それは今、彼女の前にいる報道陣であり、そしてどこかで今日も普通の日常を送る、世界というものにまるで無関心な無責任すぎる民衆だと。彼女はそう断言したのだ。
 ラドウィグには、世間が彼女の言葉にどんな反応を見せるのか、その予想が付いていた。そしてイザベル・クランツ高位技師官僚にも、その予想は出来ていた。
「こんなことを言うと、皆さまこう言い返すかもしれませんね。『責任は他でもないお前にある、高位技師官僚であるお前に』と。ペルモンド・バルロッツィが死んだ今、世間は次のサンドバッグに私を選ぶことでしょう。……まあ、それでも私は一向に構いません。それを覚悟の上で、この肩書を引き受けたのですから」
 ああ、また余計なことを。ラドウィグは心の中でそう零し、手に冷や汗を握っていた。そして、彼は思う。どうして彼女は、こんな反感を買うようなことをわざわざしているのか、と。
 穏便にやり過ごす方法はいくらでもあったはずだ。そもそもASIの用意した台本を彼女がその通りに読んでいれば、彼女が世間の怒りを買うこともなかっただろう。リアクターやエンジンが存在しなかった事実だけを淡々と伝えて、それについて「解決に向けて最善を尽くす」と言えばよかっただけなのだから。なのに彼女は、敢えて反感を買うという選択をした。
 ラドウィグは、その理由を理解していた。だが、だからこそ怖かったのだ。
「いいですよ、私を叩きなさい。でも、言っておくわ。私を叩いたところで、現状は変わらない。むしろ悪化していくだけよ。そして私を好き勝手に非難するということはつまり、悪化していく現実に、あなたがたは目を逸らすという選択をしたことになる」
 彼女は、扇動しようとしている。今まで黙りこくっていた民衆に、奮起せよと訴えようとしていた。忌々しきアバロセレンをこの国から追い出したいなら、愚痴をこぼし嘆くだけでなくて、ひとりひとりが立ち上がらなければならないと、そのメッセージを伝えているのだ。
 アバロセレンの廃絶。それはたしかに、彼女の願いだろう。だがその願いは、あまりに危険な願いだ。
 それは彼女が、多いに身を削ることになる選択。それは危険に晒される道。血肉を求む魔物だらけのジャングルに、足を踏み入れるような愚かさだ。
 アバロセレンの廃絶を望まない声は、決して少なくはない。何故ならば、それを飯のタネにしている連中が多いから。そして安全よりも、目先の利益を求める民衆も多いからだ。今の生活を捨てて、アバロセレンが現れるより前の生活に、古い時代に戻れと迫られたときに、黙ってそれに従う者が居るだろうか? 今の生活を離したくないものは、一定数必ずいることだろう。代替のオプションが示されていない場合は、なおさらに。
 つまり、彼女のような面倒な扇動者を潰したい者は必ずいる。そして彼女は、非力な人間だ。先代の高位技師官僚とは話が違う。撃たれれば死ぬ。刺されれば死ぬ。斬られれば死ぬ。高所から落ちれば死ぬ。毒を飲めば死ぬ。それでいて彼女は、軍人のような訓練を受けているわけではない。
 彼女が、人々の未来を守るならば。彼女には、彼女の身を護ってくれる人間が必要だった。それこそがラドウィグの仕事。それは彼の波乱万丈な人生の中でも、この上なく重く、神経を使う仕事だった。
「叩きたいやつは、私をこき下ろすといいわ! けれど、あなたに立ち上がる意思があるのなら、私は旗を振り、行くべき場所へと導く。ペルモンド・バルロッツィの名に懸けて、私はここにそれを誓う!」
 お茶目な若い女性は、いずこへ。今、そこに居るのは、揺らがぬ覚悟を決めた鉄の女。
 ラドウィグはこんな面倒ごとに巻き込まれたことに憂う反面、誇り高き女性の傍に居られることを光栄に感じていた。


+ + +



 輸送機がリッチモンド空軍基地から飛び立ち、一時間が経過した頃。野郎どもは各々が好き放題に、ポーカーに興じたり、読書に耽っていたり、仮眠を取ったりしている。緊張している様子のイザベル・クランツには、彼女の知り合いであるラドウィグが付き添い、彼女がリラックスできるようにとサポートに努めていた。そしてジュディス・ミルズは潜入先での仕事で疲れていたようで、離陸後すぐに彼女は仮眠。しかし眠気もなければ、銃火器とナイフの点検以外にこれといった娯楽趣味を持ち合わせていないアレクサンダー・コルトは、暇を持て余していた。
 輸送機を操縦している空軍士官曰く、予定されたフライト時間は約四時間半とのこと。午後八時すぎにリッチモンド空軍基地を発った輸送機が目的地のアリス・スプリングスに到着するのは日付が変わるころ。そして今は、午後九時。時間は有り余っている。
 そんなわけでアレクサンダー・コルトが暇つぶしに目を付けたのは、まだ小難しい顔で腕を組み、無言を貫いているヒューゴ・ナイトレイだった。
「……なぁ、ヒューゴ。アンタは一体、どうしたんだい? 何にアンタは頭を悩ませてるんだ」
 普段ならば今頃コードネーム・チャーリーとコードネーム・デルタが開催するポーカーに、ヒューゴ・ナイトレイも参加して、野郎だけの賭け事大会に興じていたことだろう。だが、今日の彼は様子がおかしい。地下の牢獄を出てからずっと、彼は何かが変だった。
 そのことについて、アレクサンダー・コルトはある仮説を立てていた。それはジョン・ドーが眠りに落ちる前に、何か彼を悩ませるようなことを言ったのではないか、というもの。だが、アレクサンダー・コルトはその仮説はあまり的を射ていないだろうと考えていた。
 突然、暴れ始めたジョン・ドーが息苦しさにもがきながらも、絞り出した言葉は「あの場所に行ってはいけない」と「マトリクス」ぐらい。どちらの言葉も謎めいている――「あの場所」がどの場所かも分からないうえに、「マトリクス」というものが何なのかが想像も出来ないのだ――が、ヒューゴ・ナイトレイの性分から察するに、その言葉に彼が悩んでいるとは思えなかった。
 なにせヒューゴ・ナイトレイという男のモットーは「与えられた仕事を、自分のベストを尽くしてこなすだけ。仕事の意味は考えてはいけない」。それに彼は、謎めいた暗号のようなものに直面した際には「解読と究明は、情報分析官の仕事だ」として、いつも情報分析官に丸投げをしてきた。「マトリクス」という謎多き言葉についても、彼は局を出る前に、アバロセレン犯罪対策部に所属するある情報分析官に詳細を突き止めるよう依頼している。となると彼の中で、ジョン・ドーの謎めいた言葉については「引継ぎは済ませたから、もう自分には関係のない事柄」というカテゴリーに分類されている可能性が高い。
 だとしたら、そこで仮説は行き止まり。それに第三者があれこれと勘繰ったところで、答えは見えてこないだろう。
 ならば、本人に尋ねることが答えへ至る最短ルートだ。
「アンタ、ジョン・ドーに何か言われたのかい? やつは暴れてた時に、アンタに向かって何かを喚いてたが……」
 ヒューゴ・ナイトレイの横の座席に移り、そこに腰を下ろしながら、アレクサンダー・コルトはそう尋ねる。するとこの輸送機に乗り込んで以来初めて、彼の顔に人間らしい表情が戻った。
 隣に座ったアレクサンダー・コルトに気付いた彼は、彼女の顔をちらりと横目で見ると、すぐにまた自分の足先へと視線を落とす。次にヒューゴ・ナイトレイが浮かべたのは、物憂げな表情。そして彼は溜息を零す。それからヒューゴ・ナイトレイは一時間ぶりに口を開き、アレクサンダー・コルトの言葉にこう返答した。「あのガキじゃない。ガキの首に噛みついていた、黒い狼だ。あいつは狼を振り払おうとして、暴れてたんだよ」
「狼だって? ……いや、ジョン・ドーの近くに居たのは、レイとアストレア、それとアンタだけじゃ」
「あの狼は、幽霊みたいなもんなんじゃないのか? だが確かに、狼はあの場に居た。それに少なくともマダム・モーガンとかいう名前の女と、そこのラドウィグって名前の男にゃ、あの狼の姿が見えていたように俺には思えたが」
 幽霊のような、黒い狼。ヒューゴ・ナイトレイの発した言葉に、アレクサンダー・コルトは戦慄する。そして彼がやり玉に挙げたラドウィグに、彼女は咄嗟に視線を向けた。
 するとラドウィグにもヒューゴ・ナイトレイの声が聞こえていたようで、ラドウィグも驚いたようにこちらを見ていた。しかしラドウィグはこちらを見るだけで、それ以上のアクションは見せない。
 そしてヒューゴ・ナイトレイは、続きの言葉を口にする。
「……あの狼が、俺に言ったんだよ。邪魔をするな、お前もケイトみたく殺してやるぞ、ってな」
 ケイト。そんな女性の名を口走った途端、ヒューゴ・ナイトレイは肩を落とし、彼は自分の顔を手で覆い隠した。そんな彼の姿はまるで、触れられたくない過去を自ら晒して、過去を恥に思っているようである。と同時に、過去に亡くした人を悼み、当時の悲哀を思い出しているようでもあった。
 そんな彼の肩に、アレクサンダー・コルトは慰めるように手を置く。彼女はヒューゴ・ナイトレイの言葉の意味をいまいち理解していなかったが、ここは慰めるべきなのだろうと判断したのだ。が、彼女のその行動は逆にヒューゴ・ナイトレイの怒りを買うことになる。
 彼は肩に乗ってきたアレクサンダー・コルトの手を、慰めを拒むように振り払った。そしてヒューゴ・ナイトレイは、彼女を睨む。彼の目には今、怒りが宿っていた。
「アレックス、お前が潰した事件だ! 十七年前、同じ時期に起こった『リリー・リーケイジ』の影に紛れて揉み消された、ASI局員を狙った連続殺人と、それに付随して起きた精神科医カルロ・サントス殺しだ。……あの捜査に、お前と、お前の相棒だったニール・アーチャーが関わっているのは知っている。お前が、真相を知っていながら揉み消したこともなァッ!!」
 突然、声を荒らげたヒューゴ・ナイトレイに、輸送機の中は静まり返った。ポーカーで盛り上がっていたチャーリーは、持っていたトランプを床に落としてしまう。眠っていたジュディス・ミルズは飛び起き、イザベル・クランツは少し怯えたような顔でヒューゴ・ナイトレイを見ていた。
 しかし、今まで蓋をし続けてきた積年の恨みを解放し、そして長年抱え続けてきた怒りの導火線についに火を点けたヒューゴ・ナイトレイは、止まらない。
「レッドラムが殺したのは、パトリック・ラーナーだけだったんだろ? それ以外は他の犯人によって殺されていた、だが連邦捜査局はそれを把握していながらも、全てレッドラムの犯行だったと結論付けた。挙句レッドラムも、もう一人いる犯人も野放しのまま、事件を特務機関WACEが葬った。お得意の『コールドケース入り』だよ」
「……まさかケイトは、あのケイトか?」
「思い出したか、アレックス」
「思い出すも何も、忘れたこともない」
 リリー・リーケイジ。またの名を『ディープ・スロート: スローター作戦』。
 それは十七年前に起きたASI局員を狙った連続殺人、および当時連邦捜査局シドニー支局の支局長を勤めていたノエミ・セディージョの大統領による電撃解任騒動、そして当時シドニー支局の副支局長だったリリー・フォスターの暗殺未遂事件の総称。それらをひっくるめて『リリー・リーケイジ』と呼ぶ。
 そして『リリー・リーケイジ』の中で起きたASI局員連続殺人の被害者の中に、ケイトという名前があった。
「……ケイト・ウェブ。彼女のことか? 彼女とアンタに、何の関係が」
「彼女は、俺の婚約者だったんだ!!」
 彼女の名前は、ケイト・ウェブ。まだ未来があったはずの、若い新人局員だった。彼女の死の詳細は、未だによく分かっていない。パトリック・ラーナーの足跡を追っていた元老院の一柱、通称“エズラ・ホフマン”が彼女を拷問し、彼女を殺したのだろうと当時目星は付けていたが……――真相は闇の中だ。
 また、彼女自身の素性も謎に包まれていた。分かっていたのは、才能あふれる若い女性という情報だけ。彼女の家族は、彼女のことに触れることを頑なに拒み、彼女の死から二〇年近くが経過した今でも口を閉ざしている。職場以外の場所で、彼女にどのような交友関係があったのか。それは何も分かっていない。
 ましてや婚約者が居たなんて話は、連邦捜査局には入ってきていなかった。
「彼女が殺されたあの晩、俺はずっとシドニーの店で彼女を待ってたんだ。スペイン料理の店で飯をひとりで先に食べながら。彼女が別の場所で痛めつけられているとも知らずにな。ジャケットのポケットに、ブルートパーズの指輪を大事に抱えて……――彼女が死んだのを知らされたのは報道で、それも随分と経ってからだった。それと、大勢が死んでいながらも、連邦捜査局は犯人を逮捕することが出来ないまま、事件の捜査は終わったという話も聞いた。……分かるか、俺のこの絶望が」
 ヒューゴ・ナイトレイの絶望は、痛いほどアレクサンダー・コルトに伝わっていた。彼女は何度も見てきていたからだ。似たような絶望を。そして絶望を与えてきたのは、いつだって特務機関WACEという影。
 十七年前のあの時も、アレクサンダー・コルトは死んだ者の無念を晴らそうと彼女のベストは尽くしていたが、やはり胸の中に漠然と、諦めのようなものがあったことは否定できない。最善を尽くしたところで最後はどうせ潰される、面倒ごとを嫌がるサー・アーサーによって、と。
 アレクサンダー・コルトは黙りこくり、表情を消した顔でヒューゴ・ナイトレイをじっと見つめる。彼女には、彼に掛けるべき言葉はなかった。彼の指摘は正しく、それは間違いなく彼女の非。
 彼女は真相を知っていた。サー・アーサーの口から、ことの真相を聞かされていたのだ。にも関わらず、知り得たその情報を誰にも教えなかったのだ。ニールにも、カルロ・サントス医師にも、ASIにも、誰にも。残酷な真実は遣る瀬無さを遺された者に与えるだけだと考えて、誰にも教えなかったのだから。
「元司法省副長官、マイケル・バートン。リリー・リーケイジ以降、忽然と姿を消したあの男が、ケイト殺しに一枚噛んでいることは知っている! ただの空軍士官で捜査のノウハウなんざ知りもしなかった当時の俺にも、その事実を突き止められたんだ。お前らなんか当然、把握してたんだろ?!」
 ヒューゴ・ナイトレイは怒り、アレクサンダー・コルトを責め立て続ける。アレクサンダー・コルトは反論せず、かといって何も言わず、表情を変えずに真正面からそれを受け止めるだけ。輸送機の中には、険悪な空気が充満していった。
 そこで動いたのが、この中では誰よりも長くASIで働いていて、当時に何があったかを知る人物である、寝起きのジュディス・ミルズだった。「ナイトレイ、やめなさい。これ以上、故人を悲しませるような真似は止して」
「だが、アレックスは――」
「当時、特務機関WACEの中でもサンドラは下っ端で、まだあの頃の彼女はコヨーテに逆らえなかった。それにアーチャー特別捜査官も、当時はキャンベラ本部の上層部と折り合いが悪くて、シドニー支局に左遷されたばかりの身。あれは、力もなければ立場も危うかった二人に押し付けられた大事件だったのよ。コールドケース入りするのは目に見えていたようなものだった。なんなら、ジョンソン部長に当時のことを聞いてみたら? あの時は皆、どういう結末になるかなんて分かっていたし、期待もしていなかったから」
「……?!」
「それにナイトレイ、あなたが軍法会議に掛けられて、空軍を不名誉除隊になったのは自業自得でしょ。悲しみを紛らわすために酒に溺れるなんてバカなことをしたから、誇り高き特殊部隊に捨てられたのよ。それから、サンドラを責めたところで、今更どうなるの? ケイト・ウェブは生き返らないわ」
 ジュディス・ミルズの手心のない冷たい言葉は、ヒューゴ・ナイトレイの煮えたぎる怒りの勢いを削いでいく。アレクサンダー・コルトはジュディス・ミルズの言葉を聞きながら、そっとヒューゴ・ナイトレイから視線を逸らし、目を伏せさせた。
 ジュディス・ミルズは当時にあったことを、ありのままの事実を語ることで、アレクサンダー・コルトをフォローしようとしていたらしい。だが悲しいことに、そのありのままの事実とやらは、誰も救わない真相のことだ。
 当然、ジュディス・ミルズのフォローは、ヒューゴ・ナイトレイの怒りを鎮火させることはできたが、アレクサンダー・コルトの後悔に沈んだ心までは救わない。ジュディス・ミルズも、それは分かっていた。だが彼女は、事実を語ることをやめようとはしない。
「それにサンドラがケイト・ウェブを殺したわけじゃないし、彼女があの事件を潰したわけじゃない。サンドラもアーチャー特別捜査官も、最善を尽くしていた。残念ながら、その努力は報われなかったけどね。それにケイトもビルも、パテルも、ラーナーも。彼らの死も、今や無駄になってしまった。……彼らが命懸けで守った情報は作り話だったことが、十一年前に明らかになったのよ。ずっと踊らされいてたわけよね、ASIは」
 十七年前の、あの事件。後悔があったのは、アレクサンダー・コルトだけではないからだ。
 ジュディス・ミルズは潜入先であるシドニー市警鑑識課で、たびたび凄惨な事件現場を目撃してきた。だが、彼女が十七年前に見たものを超える衝撃を与えるものは、ひとつもない。
 シドニー市内の、ある住宅街の一角。じめじめとした建物の陰に、ひっそりと設けられたゴミ捨て場。
「あなたは多くのことを誤解しているわ、ナイトレイ」
 壊されていた車椅子、原形を為していないほどに粉砕されていた義足と義手。唯一、本物だった左腕も、根元から切り落とされて、近くに遺棄されていた。
「あなたの中にある無念の根源は、そこのサンドラが作り出したものじゃない。なんなら彼女だって、巻き込まれた被害者の一人よ。あなただってそれは、分かっているはずよね?」
 それでいて死後に凌辱されていた、その遺体。鮮血のように赤いルージュで、鎖骨に書かれていた文字に覚えた強い嫌悪感。良き先輩である悪い手本だった男の変わり果てた姿に、胸は締め付けられた。
 だがジュディス・ミルズにはその場で激高することなど、許されなかった。潜入中である以上、同僚であるASI局員のことは他人のように扱わなければならなかったのだ。
 ラーナー次長、どうしてあなたがこんな殺され方を。……その言葉は心の中にだけ留め、十七年前の彼女はそれ以上の本音は噤んだ。そして当時の彼女が絞り出した言葉は、業務連絡。
 あの時ほど、ジュディス・ミルズは自分の仕事を恨んだことがない。
「……ナイトレイ。あなたが掴んでいる情報を今一度よく精査して、その情報の全てに共通する点を見つけなさい。その点から、きっと答えに繋がるわ。そうすればサンドラがここに居る理由も、猫目くんの同行が特別に許可されたわけも、自ずと理解できるようになるでしょう」
 怒りのエネルギーを削がれたうえに、自身の汚点をやり玉に挙げられて責められたヒューゴ・ナイトレイは、すっかり大人しくなっていた。アレクサンダー・コルトも目を開けて、神妙な表情を浮かべている。
 ひとまず、雰囲気は静かになった。そこでコードネーム・チャーリーとブラボーの二人は、中断していたポーカーを再開する。と、そのとき。少しだけ目元に力を入れたラドウィグが、すくっと座席から立ち上がったのだ。
「ミルズさん。そう答えを出し渋る必要もないと思いますよ。特務機関WACEも壊滅した今、恐れるものは何もないし。……答えは、サー・アーサー。そうでしょう?」
 ラドウィグが導き出したその答えに、ジュディス・ミルズは正解だとも不正解だとも言わない。彼女は「さようなら」とでも言うように無言で手を振ると、また仮眠に戻っていった。





 テレビを点ければどこもかしこも、イザベル・クランツ高位技師官僚の記者会見ばかり。生放送で、編集されることなく流される彼女の刺々しい雰囲気に、ニールは眉を顰める。病棟内のテレビはどれも音量が小さく、言葉はろくに聞き取れないため、画面に映っている彼女が何を言っているのかはニールにはさっぱり分かっていなかったのだ。
 興奮で少しばかり顔を赤くさせ、勇ましく何かを叫んでいるイザベル・クランツ高位技師官僚の姿に、ニールが思い出したのは先日のリリー・フォスター支局長が演じた、放送事故という名の失態。
「なかなか荒れてんなぁ、新しい高位技師官僚だっていうあの彼女も。あんな女性がペルモンド・バルロッツィの後任なのかぁ……――アルストグランは大丈夫なのか?」
 そんな独り言を、ニールはリンゴの皮を果物ナイフで剥きながら零す。
 ニールが居たのは、首都特別地域キャンベラの某所。ASIが管理運営する病院施設の病棟、その個室のどこか。全身麻酔から目覚めたばかりで、珍しく大人しい金髪の猛獣が寝かされていたベッド横のソファーに座りながら、彼は持ってきた果物を一口大に切り分けていたのだ。
 時刻は午前十一時。ASIの作戦が失敗に終わり、収穫は特にないまま、ダメージを受けた特殊作戦班がリッチモンド空軍基地に帰還したのは昨晩のこと。ラドウィグとイザベル・クランツ高位技師官僚の二人は幸いにも無傷で済んだが、ジュディス・ミルズとコードネーム・エコーの二人は片腕を折る怪我を負い、アレクサンダー・コルトに至っては左腕を失うこととなった。しかし、まだ彼らの怪我は軽いほうだ。
 コードネーム・ブラボー。脱出の際に最後列に居た彼は、背面全体に大やけどを負った。コードネーム・チャーリー。彼は不意打ちの攻撃で心臓を貫かれ死に、その体は回収されていない。コードネーム・デルタ。彼は下腹部を刃物――刃渡り八十センチメートルほどのレイピア――で刺され、重症。そしてコードネーム・アルファに至っては、意識不明の重体――左の下腹部と右胸を刺され、右脚の大腿と右肩を撃たれたからだ。
「いや、ペルモンド・バルロッツィなんて男が高位技師官僚なんてポストに居た時点で、この国はどうかしてたんだよな……」
 ぶつぶつと、ニールは独り言を零し続ける。黙っているのも気まずいが、かといって起きているのか眠っているのかも分からない怪我人に話しかけるのも気が引けたため、彼は一人で喋り続けているのだ。
 そして彼が感じていたのは、気まずさだけではない。このシチュエーションになんだか覚えがあるような、既視感ともいえる苦い感覚をニールは?み潰しながら、リンゴの皮を剥いていた。
「ん? 待てよ、あの物陰に居るのって、まさかシドニー市警のバスカヴィル主任じゃ……なんで彼女が、あんな場所に……?」
 しゃく、しゃく、しゃく。新鮮とは言い難いが、まだ瑞々しさの残るリンゴは、身と皮の間にナイフが入るたびに、そんな軽快な音を立てる。踊るように、一定の調子でリズムを刻むように、ニールはナイフを操っていた――今の彼には、それぐらいしか楽しみが無かったからだ。
 そんなこんなで独り言を呟きながら、リンゴの皮を孤独にニールが剥いていると、彼の膝に冷え切った手が触れる。
「おっ、アレックス。起きたのか。オレンジとグレープフルーツとマスカット、それとリンゴを持ってきたんだが、食べっ……ん?」
 いつもならパッチリと開いているはずのアレクサンダー・コルトの三白眼も、今日ばかりは眠気から半開きの状態だった。シャキッと締まっていない彼女の姿に、ニールは面白おかしいという感想を抱く。だが、それも一瞬のことだった。
 ニールの膝に触れた彼女の右手に、力がこもる。その手は掴んだニールの膝を、握りつぶそうとしているようだった。だがすぐに、彼女は手を離す。そして投げ出されるようにだらりとベッドから垂れた右腕は、力なく揺れた。
 すると、アレクサンダー・コルトが口を開く。麻酔のせいでうまく動かぬ舌を回しながら、彼女がやっとの思いで絞り出した言葉は、これだった。
「……アーサーは、どこに消えた……?」
 思うように動かぬ舌と、嗄れた喉で絞り出された言葉には、彼女の強い怒りが滲んでいた。アレクサンダー・コルトのその声を聞いたニールは、彼女の怒りのエネルギーに背筋を震わせる。そしてすぐに彼は、一瞬でも彼女を茶化してやろうと考えた自分を反省した。
 と同時にリンゴの皮を剥き終えたニールは、ざくざくと乱雑にリンゴを小さく切り分けていく。ベッド脇のサイドテーブルの上に置いてあった皿に、ニールは切り分けたリンゴを乗せながら、彼は溜息を零した。そのことについて、どこから話せばいいのか。即座には、その切り口が思い浮かばず、また話もまとまらなかったのだ。
 そうして少し悩んだあと、ニールはぽつぽつと喋りだす。
「曙の女王、彼女の件は終わったよ。レイピアみたいな剣を五本ぐらい体に刺されて、死んでる彼女が氷漬けになったものを、サー・アーサーがご丁寧にシドニー支局の支局長室に配達してくれたんだ。まあ仮に彼女が不死身だとしても、氷漬けにされちゃ身動きもできないだろう? だから、まあ曙の女王に関しては名実ともに一件落着したんだ、幸運にも。だがバーニーが……サー・アーサーに、してやられてな」
「……バーニーが?」
「ああ。突然どこからか飛び出してきたレイピアで、ズブッと腹を突かれた。ただ俺が駆け付けたときに丁度アーサーは消えちまって、その後に彼がどこに行ったのかは……俺には分からない。それでサー・アーサーはフォスター支局長を狙ってたみたいなんだが、バーニーがそれを庇って。それで彼も、ワケありでASIの病院に運ばれってわけだ。しかしバーニーは幸運なことに当たりどころが良かったとかで、一命はとりとめたよ」
 アレクサンダー・コルトらアバロセレン犯罪対策部附属特殊作戦班が、アリス・スプリングスに向けて飛んでいた頃。連邦捜査局シドニー支局でも、ひと騒動があったのだ。
 その内容は、今ニールが語ったとおり。昨晩、蒼い顔をした検視官バーニーが、どうにかこうにかで捌き終えたギャングたちの遺体に関する報告書を、リリー・フォスター支局長に提出しに行ったとき。検視官バーニーが支局長室に入ると、そこには分厚く巨大な長方形の氷の中に閉じ込められて眠っていた曙の女王が鎮座しており、その横ではサー・アーサーとフォスター支局長が一触即発の空気の中で睨み合いをしていたのだ。そして危険なオーラを感じ取った検視官バーニーは支局長室に飛び込むように入り、彼がサー・アーサーに刺されたというわけである。
 サー・アーサーが届けてくれた、曙の女王が閉じ込められた氷の塊は現在、連邦捜査局シドニー支局のモルグに保管されており、色々と“知りすぎてしまった”検視官助手ダヴェンポートおよびエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の二人が、責任を持って氷を監視している。その氷も、今日の午後には、ASIのアバロセレン犯罪対策部に引き渡される予定だ。そして曙の女王はASIしか知らないどこか冷たい場所に移され、氷が融けぬようにと厳重に保管されることになるだろう。
 曙の女王の件には、少々強引な結末でありながらもひとまず片が付いた。しかし、肝心のサー・アーサーは野放しだ。
「それでさ、アレックス」
 それでいて今回起きた一連の出来事の全容はまるで見えていない。ペルモンド・バルロッツィという男が自殺に踏み切った理由。曙の女王がギャングを虐殺しながら、アバロセレンを掻き集めた理由。サー・アーサーが、自分の部下だった者を殺して、特務機関WACEを破滅させた理由。サー・アーサーが曙の女王を連邦捜査局に差し出し、そしてリリー・フォスター支局長の命を狙った理由。それから、サー・アーサーが特殊作戦班を襲った理由。分からないことだらけだ。いや、分からないことだらけなのは出来事だけじゃない。アバロセレンのことも、この国自体も、そして自分自身のことすらも、最早よく分からない。
 というよりも、初めから何も分かっていなかったのだろうか。知った気になっていた、分かったつもりになっていただけで、何も見えていなかったのかもしれない。
「お前も、アレクサンドラ・コールドウェルからアレクサンダー・コルトに戻れたようだし。俺も、ニール・クーパーからニール・アーチャーに戻ろうかと思ってるんだ。だから……」
 ふとニールが口走った、その言葉。ニール自身、なんでこのタイミングでそんな言葉を口にしたのかが分からなかった。すると眠たげな眼をしたアレクサンダー・コルトが、ニールの顔をじっと見る。すると彼女は言った。
「……なんにも、戻っちゃいないさ。もう戻れないんだよ、アタシらは」
「アレックス。なにもそこまで悲観に暮れることは――」
「……人生、子宮、左腕、親父、戦友たち、アイーダ。あと何を失えば、世界はアタシを許してくれるのか……」
 アレクサンダー・コルトの目が、彼女自身の左腕があった場所に向く。そして彼女の瞼が、ゆっくりと落ちていった。
 ニールは言いかけた言葉を飲み込み、二度と口に出すまいと決める。そして彼は果物ナイフを切り分けたリンゴのひとつに突き刺し、ナイフに刺したリンゴを自分の口へと運ぼうとしたが、その手を止めた。リンゴから、リンゴでない奇妙なにおいがしたのだ。炒る前の豆のような、不快な青臭さ――青酸化合物だ。
 ニールは慌てて立ち上がり、換気をするために部屋の窓を開け広げる。それから切り分けたリンゴを、持ってきたそれ以外の果物も果物ナイフも、全てゴミ箱に放り込んだ。
 そして彼は部屋にあった洗面台に立ち、ハンドソープをこれでもかと手に塗り付けると、念入りに両手を手首まで洗う。その後、彼は部屋の壁に設置されていたナースコールを押すのだった。
「クソッ、俺はどこでヘマをした?! まさか、朝市の露店で、叩き売りされてたのを買ったのがマズかったのか……?」
 リンゴの中に注入され、仕込まれていた青酸化合物は、幸いにも少量で、ひと一人を殺せる量もない。仮に食べていたとしても、胃洗浄で済んだだろう。それに切り分けられたがために空気に晒され、そのうえ部屋の換気もされた今、毒は無害になったも同然。
 そのリンゴに毒を仕込んだ男に、殺意はなかった。ただその男は、ニールを脅かしたかったのだ。私はどこにでも現れ、そしていつでも私は、君の首を、そして彼女の息の根も止められるのだ、と。
「……そういや、あのリンゴ」
 ふと、ニールが思い出したのは、今朝購入したリンゴの銘柄。昔から、酸味の強いフルーツが好きだったアレクサンダー・コルトの趣味に合わせて、甘さ控えめで酸っぱさが勝つリンゴをニールは手に取ったのだ。そしてリンゴの名前を思い出し、ニールは目を見開く。
 それは、どこかで聞いた覚えがする名前だった。
「――……マッキントシュ……?!」


+ + +



 それはリッチモンド空軍基地からアリス・スプリングスに向けて、無事に特殊作戦班を乗せた輸送機が飛び立ったとの知らせを受け、ひとまずテオ・ジョンソン部長が安堵して居た頃に起こった。曙の女王の足跡を追っていたオペレーターの一人が、悲鳴を上げたのだ。
「部長! 『曙の女王』と『コヨーテ』が接触しています!!」
 人の目に見えず、またあらゆるレーダー探知機にも見つからないステルス機能を搭載した無人航空偵察機(ドローン)より送られてくる、リアルタイムの映像。オペレーターは無人航空偵察機を遠隔操作し、うまく対象二人を視認できるよう調整しながら、部署内にある巨大モニターに映像を送る。アバロセレン犯罪対策部の大半の人間が、そのモニターに視線を送った。
 テオ・ジョンソン部長も映し出された映像を見る。そして映像を見るなり、彼は自分の背筋が凍り付くのを感じた。
「おい、嘘だろ……コヨーテ野郎は、ドローンに気付いてるぞ……?!」
 映像は、夜間の旧シドニー港の一角を移している。暗くて明瞭ではない視界を、オペレーターはガンマレベルを補正しながら、昼間のように明るい映像を維持していた。そして無人航空偵察機が中央に捉えていたのは、向き合うように立っていた一組の男女。
 女のほうは二〇代そこそこであるように若く見え、明るい紫色をしたコートを着て、どこか夜の寒さに震えているように思える。彼女の髪はアルビノのように白く、そして瞳は赤い。また顔の右半分を、垂れさがった長い前髪で隠していることから、彼女が“曙の女王”であることが予想された。
 対する男のほうは、その不穏でいて厳かなオーラを隠すことなく、堂々と佇んでいる。深夜の闇のように深い黒をしたツイード地の、それでいて少し古風なインバネスコートを纏う男は、冷たい夜風にコートとケープの裾を遊ばせている。風になびくケープを気にも留めない男――サー・アーサー、ないし『憤怒のコヨーテ』と仇名される死者――は、威圧的にも思えるしゃんとした背筋と並みよりやや高い身長で、寒さから肩を竦ませる曙の女王を見下ろしていた。
 二人がいつからそこに居たのか。それは、オペレーターには分からない。つい先ほどに偶然オペレーターが、曙の女王とサー・アーサーの二人が対峙しているこの場面を見つけただけなのだから。そして曙の女王は自分たちを上空から監視している無人航空偵察機の存在に気付いていないようだが、サー・アーサーは確実に気付いている様子だった。その証拠に彼は時折、こちらを見てくる。空を飛んでいる無人航空偵察機に取り付けられた、カメラのレンズに視線を送っていたのだ。
「どうして、ステルスドローンがバレたの? 肉眼では確かには見えないはずなのに……」
 対象二人を監視する無人航空偵察機を操作するオペレーターは、ガンマレベル補正作業を続けながらそう呟く。その呟きに、テオ・ジョンソン部長はこう返した。
「忘れたのか? コヨーテ野郎は人間じゃない、あいつは死線の向こう側に逝き、そこから帰ってきた化け物だ。これは予想だが、あいつにはきっと我々とは異なる世界が見えているんだろう。だが曙の女王は、そうでもないようだな」
 無人航空偵察機から送られてくる映像を見る限り、夜の寒さに震える曙の女王は、どことなく興奮している様子。それは憧れのロックスターに道端で遭遇したかのような、ミーハーな若い女性の姿にも似ていた。しかし対するアーサーのほうはというと、彼の顔に張り付いている薄ら笑いに邪魔をされ、まるで感情や思考が読み取れない。彼について、分かることは限られていた。
「トロッター、ガンマ補正は後回しにしろ。優先すべきは会話の内容だ、とにかく音声を拾え。彼らの会話を盗聴するんだ。――尋問班、及び心理分析官! お前たちはコヨーテ野郎を今すぐ分析しろ!!」
「はい、部長。少しお待ちを……」
「ダルトン! お前はトロッターが拾った音声の明瞭化を進めろ! ハーモン、お前はお前のドローンを、トロッターのドローンと同じ座標に送れ。別の角度から、現場を撮影するんだ!」
 どっしりと、臆するものなど何もないかのように立つアーサーの横顔からは、病的な自惚れ、ないし役になりきっている役者の気配すら感じられた。それでいて随分と肩の力が抜けている彼の姿からは、緊張感など微塵もない。ASIがこの場面を見ていることを彼は分かっていながらも、リラックスしているのだ。
 なんだか、最悪なことが起きそうな予感がする――テオ・ジョンソン部長は、そう感じていた。
「部長、音声を拾えました! そちらのスピーカーに転送します」
「よくやった、トロッター。――ダルトン、急げ!!」
「今やってますよ、キング。……リアルタイムで随時ノイズを除去するアルゴリズムを作成しているところです、音声の明瞭化も並行してやってます! ちょっと待ってくださいって……」
「お前は万能の天才じゃなかったのか、リー・ダルトン?」
「僕に発破をかけたところで、コンピュータの処理速度は変わりませんよ、キング!」
 無人航空偵察機が拾う音声は、ノイズばかり――無人航空偵察機に搭載されたマイクの質の悪さ、そしてエンコードを施され圧縮された状態で、無線より送られてくる音声の音質の悪さに由来するノイズだ。ビュゥ……という風切り音も相まって、そのままではとても人の言葉など聞き取れやしない。
 それでも、テオ・ジョンソン部長は表情をキツくさせてまで、このノイズだらけの音声から対象の会話を聞き取ろうとした。すると、途切れ途切れでありながらも、若い女の声が聞こえてくる。
『アー……――私は……ない……それを……――やめて! それじゃ……違う!!』
 アーサー。私は聞いてない、それを、一度も。冗談はやめて。それじゃ約束が違う。……曙の女王の、唇の動きも加味して読み取れた言葉はそれ。ボールペンを握るテオ・ジョンソン部長は聞き取った台詞を、近くにあったメモ紙に速記文字で素早く走り書く。そして、曙の女王の言葉は続いた。
『……テン……! 私は――今まで……きた……! その……?!』
 このペテン師! 私はあなたの為に、今まで働いてきたのよ! その仕打ちが、これ?!
「キング、ノイズ除去フィルターが完成しました!!」
「早く適用しろ、ダルトン! ……ピットマン、一部だが曙の女王の言葉を聞き取った。速記文字をラテン文字に直して、これを尋問班に渡してこい」
「了解です、部長」
 テオ・ジョンソン部長は書き上げたメモ紙を、傍に寄ってきたひとりの局員に手渡す。メモ紙を受け取った職員は尋問班が待機するコーナーに向かって歩きながら、メモ紙に書かれた速記文字に訳注を加えた。
 それから再び、テオ・ジョンソン部長は巨大モニターに映し出される二人を睨むように見る。その時、ダルトンという名の情報分析官が構築したアルゴリズムが適用され、作動する。ノイズが除去され、音の輪郭も強調されたことにより、音声は徐々に聞き取りやすくなった。そしてアルゴリズム適用後、最初に聞こえてきたのは、薄ら笑いを含んだアーサーの冷たい声だった。
『私が君に、何を約束したと? 生憎、私には君と何か取引をしたという記憶がないのだがね』
 アーサーの顔に張り付いている冷たい微笑は、ぱっと見ただけでは温厚そうな印象すら受ける。いかにも人畜無害といった雰囲気で、人が好さそうであり、少しばかり気弱で頼りない男のようにも見える彼のルックスからは、闇の中で暗躍する“フィクサー”という彼の本性など窺い知る余地もないだろう。
 笑顔の裏で、彼はいつも何かを企んでいる。だがその笑顔に邪魔され、まるで心の内が読めない。
『でも黎明の光は、アバロセレンさえ集めれば、あなたは私にニンフの作り方を教えてくれるって言ってた。それに、街に蔓延る悪いひとをこらしめれば、あなたの仕事も減るって。だから……』
 曙の女王は、そんな薄ら笑いのアーサーに動揺していた。どうやら彼女はたった今、アーサーに裏切られた様子。それが事実なのか、それとも全て彼女の一方的な思い込みであるのかどうかは、さて措き。
 すると悲嘆にくれる曙の女王を前に、アーサーは苛立ちを滲ませる。表情こそ全く変わらない彼だが、その声には明確な怒りが顕れていた。
『私の仕事が減るだと? むしろ貴様のせいで仕事が増えたところだ。現世に未練たらたらの愚かな死者を彼岸の方向へ蹴り飛ばす作業が、どれほど精神と体力を擦り減らすことか……』
『でも、黎明は!』
『黎明だかゴミ捨て場だか胃袋だか知らんが、それは私ではない。よって私には、貴様に応えなければならないという義務もなければ、貴様に取り計らう便宜もない。ぽっと出のクソガキが、何を偉そうに……――厚顔にも程がある』
 聞こえてきたアーサーの言葉を信じるならば、全ては曙の女王の思い込み、彼女が一人で勝手に暴走していたということになる。
 それに怒りや苛立ちという感情ばかりは、手練れの嘘吐きでも隠し通すことが難しく、また偽ることも至難の業。高圧的な態度を強め、不愉快さを言葉にして露骨に顕しはじめたアーサーの様子から察するに、この二人が協力関係にあるとは、テオ・ジョンソン部長には考えられなかった。
 すると曙の女王はその場に座り込むと地面に突っ伏し、幼い子供のようにみっともなく泣き始める。
「……狂ってやがる」
 その言葉を零したのは巨大モニターを見つめるテオ・ジョンソン部長であり、そしてモニターに映るサー・アーサーであった。不覚にも同じタイミングで、同じ言葉を発してしまったテオ・ジョンソン部長は咄嗟に後悔するとともに、イヤな汗で湿る手が冷たくなっていくのを感じていた。
 そしてテオ・ジョンソン部長が苦笑いを浮かべた、そのときだった。巨大モニターに映る男が、こちら――つまり、無人航空偵察機のカメラ――を見ていたのだ。人ならざる目をモニター越しのASI局員たちに向け、不敵な笑みを見せている。明らかにこちらを、アーサーは見ていたのだ。それからアーサーは無人航空偵察機のほうに体を向けると、仰々しい演技とともに声を張り上げ、こんなセリフを口にした。
『さぁ喜べ、哀れな仔羊たちよ!! 慈悲深いコヨーテからの贈り物だ! 無論、受け取ってくれるよなぁ、テオ・ジョンソン!!』
 アーサーがしてみせたオーバーな演技は、ここぞという見せ場で舞台の中央に立つ主演俳優のよう。名指しされたテオ・ジョンソン部長は、現実に起きたことをすぐには飲み込めず、固まっていた。
 そしてアーサーは、煙のように姿を消す。それに続き曙の女王も悲鳴だけを残し、夜風と共にモニター映像から消え去った。


+ + +



 ASIで一波乱があった同時刻、冷や汗を手に握っていたのはテオ・ジョンソン部長だけではなかった。
「あなたも大変ねぇ。クーパー……――いえ、アーチャー」
 分厚いファイルが数十冊と詰め込まれた大きな段ボールを二つ重ねて、それを両腕で抱え、愚痴を零すのは検視官バーニーだった。そんな彼の横には、同じ目的地に行こうとしているニールが、同じく書類の束が詰め込まれた小さな段ボールをひとつ抱えながら、蒼い顔をして立っている。偶然同じエレベーターに、同じタイミングで乗り込んだ二人は、他愛もないようで深刻でもある雑談をしていた。
 すると蒼い顔をしたニールが顔を俯かせながら、沈んだ声でこう応える。「ああ、これからが地獄だ。完全に俺は、シンシアの両親を敵に回した。だがスカイの共同親権だけは、絶対に死守してやる。愛しいひとり娘のためなら裁判も地獄の炎も、耐えてみせるさ……たぶん」
「あなたの生き地獄になりそうな未来絵図もそうだけど。私が言ってるのは、仕事のことよ。ASIに出向いて、帰ってきて、それから娘を自宅に送って、また支局に戻って、また仕事。あなた、そんなにこの仕事が好きだった?」
 ニールに向けられていた検視官バーニーの視線は、厳しさで溢れていた昼間のものとは違い、今はニールの体を案じてくれている様子。そんな検視官バーニーは珍しく無表情ではなく、声色と表情が釣り合っていて、その表情はとても優しい。ニールは無表情ではない検視官バーニーに、違和感と共になんとも形容しがたい気持ち悪さを覚えていた。「……どうした、バーニー。なんだか、あんた変だよ」
「何が? 私は平常よ。まさかあなた、私のことを死体にしか興味がない、情緒を持たない医者とでも思ってたのかしら? 私だって、生きてる人間の心配はするわよ。特に、身内の解剖はしたくないもの」
「違う。今、表情が……」
 ニールの失礼な言葉に、検視官バーニーは眉を顰める。が、次の瞬間、検視官バーニーはそんなニールを面白がるように笑った。
 なんと、あのバーンハード・ヴィンソンが笑ったのだ。目を細め、眉を上げ、口角を上げて、笑った。
「私だって、勤務時間外は笑うし、怒るわよ」
 そんな検視官バーニーの言葉に「マジかよ……――?!」とニールが驚いたのは、言うまでもない。そして検視官バーニーは言う。
「無表情なのは仕事の時と、リリー・フォスターの前だけ。……私がやっているのは死者と対話する仕事だから、死者のように振舞う必要がある。死者が鳴らす小さな音を聞き洩らさないように言葉を慎み、小さな異変も見逃さないように常に冷静で居なければいけない。だから自然と無表情で無口になるだけなのよ。流石にいつでもどこでも無口で無表情じゃ、私が疲れるわ」
「そ、そうだったのか……? 知らなかったよ、バーニー」
 ニールは、検視官バーニーの言葉に困惑する。死者と対話する仕事だから、死者のように振舞う必要がある、という言葉はプロ意識の塊のようにも思えるが、しかしだ。そこまでする必要はあるのだろうか、とも思えたのだ。
 現にニールが知る限り、常に無表情の検視官や監察医は少なく、思い浮かぶのはこのバーニーことバーンハード・ヴィンソンのみ。連邦捜査局シドニー支局に勤務するもう一人の検視官エレノア・ギムレットは、無表情とは対極の、どちらかといえばワチャワチャと騒がしいほうだし。それに市警や州警察で出会う検視官たちも、その他行政機関に所属する検視官や監察医たちも、一癖二癖ある者が多い傾向にはあるが、しかし普通の人間ばかりだ。検視官バーニーほどのぶっ飛んだ人間は、彼の他にニールは見たことがなかった。
 そんなこんなで、引っ掛かることは幾つかある。だがニールが最も引っ掛かったのは、リリー・フォスター支局長のことだった。「けど、バーニー。フォスター支局長の前でも死者のふりってのは……」
「彼女が怖いからよ。いつ熱湯が噴き出すかも分からない、間欠泉みたいな女だから」
 なんら悪びれることなく、検視官バーニーはそう即答する。それも、笑顔で。続けて検視官バーニーはこうも言う。「あのひとの怒りを買いたくないから、彼女の前では死人のように振舞うの。心を殺して、石と同化したつもりになれば、間欠泉も煮えたぎるマグマも怖くないでしょ?」
「そういうもんなのか?」
「少なくとも、私はそうね」
 次第にニールには、検視官バーニーの穏やかな笑顔がどことなく恐ろしく思えてくる。ニールは、とんでもない闇を覗き見てしまったような気分になっていた。
 いつでもどこでも、ずっと無表情で口数の少ない人物。まだ、そちらのほうがどこか人間味があると、ニールは感じた。人付き合いが下手なのかなぁ、とか。感情を表に出すことが苦手なタイプなのかなぁ、など。一定の割合で、まぁまぁ現実に存在するタイプだからだ。
 だが。仕事の時と特定の人物の前でだけは死人のように振舞い、勤務時間外は普通の人間――それもどちらかといえば、話好きの明るく穏やかな性格――として暮らす男だなんて。やはり、バーンハード・ヴィンソンという男は変わっているとしか言いようがなかった。裏表があるといえるし、極端な人物ともいえる。普通でないことは間違いないだろう。
 ますます、ニールには分からなくなる。この検視官バーニーという謎が。
「なんだかあんたの人生は、ただ生きてるだけで大変そうだ。もっと肩の力を抜いて、自然体で居ることは出来ないのか?」
 何気なく零した、ニールの正直な感想。その言葉に検視官バーニーは笑顔を消し、少しばかり何かを考え込むように、彼は眉を顰めた。すると検視官バーニーは、ニールにこんな言葉を返す。「常に自然体で居られるっていうのは、ある種の才能。誰もが肩の力を抜いて、気楽に生きられるわけじゃないわ」
「……」
「その点、あなたとアレックスちゃんは自然体の天才。あなたたちの妙な能天気さや気楽さは時に、人々の救いになることがある。……それは小さなことかもしれないけど、十分に誇るべき才能だと私は思うわ」
 褒められているのか、はたまた軽く馬鹿にされたのか。その判断は、目的の階に到着したことを教えてくれたエレベーターの音により、保留された。シドニー支局の最上階、支局長室のあるフロアに到着したのだ。
 大荷物の検視官バーニーから先にエレベーターから降りて、ニールはその後に続く。そして支局長室に至るまでの長い廊下を見るなり、検視官バーニーは溜息を零した。
「……女帝に、また何の嫌味を言われるんだかねぇ。ノエミ・セディージョの時代が懐かしいわ」
「俺もだ。あの頃は、本当に良かった……」
「…………」
「……俺も、古い時代の人間に仲間入りしたってわけだな。過去を懐かしむだなんて……」
 ボソッと零したニールの独り言は、ニールだけでなく検視官バーニーも巻き込んで、傷をつける。ニールが古い時代の人間なら、それよりも古い時代の人間である検視官バーニーは生きる化石も同然だからだ。
 人は誰しも、認めたくないものである。若さは、とっくの昔に失われているという現実を。
「……はぁ。行かなくちゃ」
「そうだな」
 そんな言葉を交わす二人の後ろで、エレベーターのドアは閉まる。そして一足先に検視官バーニーが、支局長室へと向かう歩みを進めた。ニールも彼を追って動き出そうとする。だが、その時だ。邪魔をするように、ニールの携帯電話が着信音を鳴らしたのだ。
 小さな段ボールを左腕で脇に抱え、右手でニールはジャケットのポケットに入れていた携帯電話端末――丸みを帯びたフォルムが特徴的な、一昔前の折り畳み式な旧タイプのもの――を取り出す。
「アーチャー特別捜査官、私は先に行ってるからね」
「了解、バーニー」
 電話を掛けてきたのは昼間に連絡先を交換したばかりの人物。ASI、アバロセレン犯罪対策部のテオ・ジョンソン部長だった。妙なタイミングで連絡を寄越してきたASIに、ニールは少しばかり不信感から顔を顰めさせる。そして少しばかり大股で、且つ早足に廊下を歩く検視官バーニーは、ニールが立ち止まり携帯電話と睨みあっている間に、支局長室のすぐ傍まで近づいていた。
 時刻は九時半分を過ぎたところ。こんな時間に連絡を寄越してくるのは、社会人としてはあまり常識的だとは言えないだろう。となると相手はよっぽどの非常識か、または常識に構っていられるほどの余裕がない状況だと考えるのが筋だ。
「……連邦捜査局のニール・アーチャーです。どうなさいましたか?」
 ――きっと、後者なのだろう。ニールには、そう思えていた。
 何か、マズい事態が起こったのだとしたら。ニールの頭を過ったのは、アリス・スプリングスに向けて発ったアレクサンダー・コルトの背中。『C・エイブリー』という誰かの名前が胸に刺繍された、空軍仕様の戦闘服を着た彼女の横顔。
 まさか、アイツの身に何かが。そんなことを考えてしまったニールは、手に力を込める。ぐっと握りしめた拳の内側には、中指の爪がめり込んでいく。そして聞こえてきたテオ・ジョンソン部長の声は、ニールが覚悟していたとおり緊張感に満ちていたが、しかし彼が語った台詞はニールの予想に反していた。
『アーチャー!! 君のいるフロアに、コヨーテが来ている!』
「……コヨーテが、ここに?」
『リリー・フォスターの居る部屋だ、急げ!!』
 ニールは咄嗟に携帯電話と段ボールを投げ捨て、支局長室に走り出す。ジャケットの下に着用していたショルダーホルスターに右手を伸ばし、走るニールは腋の下から拳銃を取り出した。
 だが、ニールは一歩遅かった。ニールが廊下のちょうど中間地点に辿り着いたタイミングと、検視官バーニーが支局長室のドアを開けたタイミングが同時だったのだ。
「待て、バーニー!!」
 ニールがそう叫んだ瞬間と、検視官バーニーが「隠れろ、リル!!」と声を荒らげ、部屋の中に飛び込んでいった瞬間が重なった。
 ニールが見たのは、投げ出された二箱の段ボールが床に落ち、中に入っていたものが散らばった瞬間。開け広げられたドアのすぐ傍で、冷たい笑顔を浮かべて立ち、検視官バーニーを品定めするように見つめる『コヨーテ』の横顔。巨大な氷の塊の一部。少し、飛散した血液。支局長のデスクの前に立ち塞がり、『コヨーテ』を睨む検視官バーニーの横顔と、彼の肩に突き刺さっていた黒いレイピア。床に膝を付き、デスクの影に隠れながらも拳銃を構え、反撃する機会を伺っているリリー・フォスター支局長の鬼気迫る顔。
「アーサー!!」
 そう声を荒らげたところで、状況が変わるわけではない。だがニールは叫ばずにはいられなかった。そして一足遅れて支局長室の中に突入したニールは、薄ら笑いを浮かべて悠然と佇む男に銃口を向ける。
 枯草色の髪。瞳孔がなく、それでいて光り輝いて見える蒼白い瞳。白くもあり、それでいて土気色を帯びているようでもある血色の悪い肌。人の好さそうな顔に、邪悪な笑顔を浮かべる、黒いスーツの死神。
 二十七年前。アレクサンダー・コルトのことを「手遅れだ」と偽り、闇の世界へと連れ去った男。あのサー・アーサーが、当時と大して変わらぬ姿――変化といえば、少し髪が伸びている程度――で立っていた。
 アーサーを狙う銃口は二つ。ニールが狙いを定めるそれと、リリー・フォスター支局長が構えている拳銃の二つだ。しかしアーサーは怯えも、恐怖も、緊張すらも感じていない様子だった。
 そんな彼の姿が、却って周囲に恐怖と緊張を振りまく。リリー・フォスター支局長は緊張から冷や汗を手に握り、ニールは怒りに手を震えさせ、検視官バーニーは歯を食いしばって痛みに耐えていた。
 するとアーサーが、ニールを見た。アーサーは薄ら笑いを浮かべたまま、こんなことを言う。
「どいつもこいつも、私のことを『アーサー』と呼ぶ。勘弁してもらいたいものだよ。その名で呼ばれること……――それは屈辱に他ならない」
 それは背筋が凍えるような、身の毛がよだつ低い声だった。だがアーサーの顔には、変わらず薄ら笑いが張り付いている。
 その気持ち悪さに、嫌悪感からニールは拳銃の安全装置を解除する。無言で、明確な殺意を露わにしたのだ。それでもアーサーは鼻で笑うだけ。
「よく覚えておけ、特にアーチャー。私の名は、マッキントッシュだ。シスルウッド・マッキントシュ」
 意味ありげなアーサーの微笑みが、ニールにだけ向けられる。それと同時だった。ニールが拳銃の引き金を引いたのは。
 だがニールの耳に聞こえてきたのは、リリー・フォスター支局長が上げた短い悲鳴。そしてその場に膝を付き、身を屈めさせた検視官バーニーの呻き声――彼の脇腹にはもう一本、新たにレイピアが刺さっていたのだ。そしてニールが一番望んでいたアーサーの断末魔は、ニールの耳には聞こえてきやしなかった。
 アーサーは消えていたのだ。それにニールが撃ちだした弾丸は、支局長室に置かれていた巨大な氷の塊に当たり、その中にめり込んでいた。そしてニールはその氷の塊を見るや否や、肩を落とす。
「……曙の女王が、ここに……」
 巨大な氷の中では、苦悶に顔を歪めるアルビノの女が眠っていた。そして彼女の身体には、夜闇から切り抜いたかのように、全身が真っ黒に染まっていた細いレイピアが五本、突き刺さっている。喉と右肩、胸と腹と、左の大腿。そして眠る女は、正真正銘の『曙の女王』。
 すると床に膝を付き、身を屈めていた検視官バーニーが顔を上げる。彼は氷の中で眠る曙の女王を見つめながら、独り言を呟いた。
「……あれよりかは、私のほうがマシね。レイピアが二本で済んで、氷漬けにされずに済んだんだから……!」





 肩も痛い。腹も痛い。そして生きている人間を専門に扱う医者からは、絶対安静を求められた。だが「生きているのに、死人みたく動かないでいるなんて」と考えている死人を専門に扱う医者は、病床に居てもなお仕事をする。
『氷なら、化学捜査官たちが調べているところですよ。それに病院から回してもらったレイピアもです』
 リンゴに仕込まれていた毒物の件の調査は、ASIがやることになった。そして一通りの聴取を終え、解放されたニールが次に訪れたのは、検視官バーニーが閉じ込められている部屋。その部屋に入るなり、聞こえてきた声にニールは驚く。
『レイピアのほうは、化学捜査課の結果待ちなんですが……――ティンダル主任曰く、レイピアの形をした炭素の塊である、ということ以上の結果は得られそうにないらしいです。しかしあのレイピアは人工物のようでありながらも、加工されたと思しき形跡がないとかで。……えっと、つまり、結果待ちです。すみません、ヴィンソン先生』
『化学捜査課のマクベインは“これぞまさにオーパーツ”だとか、ひとりで騒いでましてねぇ。うぜぇのなんのですよ』
『それから私が思うにあの氷は、普通の氷だと思います。水です。けれど、どうやってあんな大きな氷を、その……コヨーテさんは作ったんでしょうか? あんなに大きなものだったら、時間が掛かるはずです』
『だがASIから回してもらった情報によれば、曙の女王はフォスター支局長の前に現れる数秒前までピンピンしていたらしい。旧シドニー港で、コヨーテってヤツと口論している映像をASIが持ってたんだ』
 なんと聞こえてきたのは、検視官助手ダヴェンポートとベッツィーニ特別捜査官の声だったのだ。そして続いて聞こえてきたのは、やや元気のない検視官バーニーの声だった。
「となると……一瞬にして、氷の中に人を閉じ込めた、ってことになるわね。それって、まるで魔法よ。人間のできることじゃないわ」
 一歩一歩、わざと足音を立てながら、ニールは病床の上に居る検視官バーニーに近寄る。しかし検視官バーニーの目は、七インチのタブレット端末しか見ていない。
 タブレット端末に映っていたのは、連邦捜査局シドニー支局の地下二階、解剖室だ。そして画面の中央に並んで立っているのは、検視官助手ダヴェンポートとベッツィーニ特別捜査官の二人。……つまり検視官バーニーは、支局にいる二人とビデオ通話しているということだ。
「でも、そうね……。あのミスター・マッキントッシュさんなら、それくらいのことは出来そうだわ。瞬間移動してみたり、どこからともなくレイピアを召喚して、自分は一切動かずに相手を攻撃してみせたりできるんですもの。氷の中に人を閉じ込めるなんて、朝飯前のようにも思えるわね。いつか彼はただ睨むだけで、人間を燃やしてしまいそうだわ。それに覚醒者なんてものがいるこの時代、不可能なことなんてないのよ、きっと……」
『……バーニー。ビデオゲームの話か、それ? 覚醒者なんて噂だけだし、存在しているわけが』
『エドガルドさん?! ヴィンソン先生が、根拠のない適当な話をするわけがありません!!』
「これがビデオゲームの話だったら、どんなに良かったことか。もしそれがビデオゲームの話ならば私は今頃、病院になんかいないわ。ベッドから下りるな、なんて医者に言われてないわよ。……まあ、それは措いといて。ダヴェンポート、新しく入ったご遺体のCT画像と、開胸した写真の高解像度版は、私のメールアドレスにまで送っておいてちょうだい。まあギムレットが送ってきた現場写真と、彼女のおおまかな所見を信じるなら死因は、パジェットのチームが捜査にあたっている連続殺人と同じ。首に太いワイヤーを巻かれて、その状態で高所から突き落とされ、吊り下げられたことによる頸椎の離断でほぼ確定だと――」
「バーニー、そこまでだ」
 検視官バーニーが左手に持っていたタブレット端末を、彼に近付いたニールは取り上げる。そして取り上げたタブレット端末を操作し、ビデオ通話を強制終了するとニールは、驚いたように目を大きく開ける検視官バーニーを見やった。
 一昨日の晩に大怪我をして、昨日は危篤にも陥っていたというのに。目を覚ましたら、こうして休まずに仕事を……。ニールは心底、呆れていた。
「絶対安静って言われてたんだろ、バーニー。なのに何を元気に仕事しようとしてるんだが……」
 手持ち無沙汰でね。ニールの言葉にそう返す検視官バーニーに、反省の色はない。どことなく退屈そうな、そして気まずそうである笑みを口許に浮かべている検視官バーニーは、仕事という娯楽に飢えているようだった。
 絶対安静。ストレスなど以ての外。特別に与えられた休暇だと思って存分に休みなさい。……医師から、彼はそんな忠告を受けていたはず。だが検視官バーニーにとって休息とは、リラックスではなくストレスになるらしい。
 となると、彼に仕事をさせないためには、こうするしかない。
「この端末は、俺が預かるぞ。そんでフォスター支局長にでも渡しとくよ。あんたが退院したときに、これを――」
「アーチャー?! それは私の大事な仕事道具なのよ!?」
「だから、だよ。これがある限り、絶対安静なんてバーンハード・ヴィンソンには不可能だろ?」
 そう言って、ニールは没収したタブレット端末を、鞄の中にしまってしまう。検視官バーニーは悲嘆に暮れ、病床の上で肩を落として俯いていた。
 仕事道具を没収された挙句、行き先が最悪な上司リリー・フォスター支局長だなんて。耐えがたい屈辱だと、検視官バーニーは思っていた。それに「やることがない」という、とにかく暇すぎるこのシチュエーションは、彼にとっては初めてのこと。せわしなく動き回り続けてきた男は、突然与えられた急速に戸惑っていたのだ。
 そんな落胆する検視官バーニーを、ニールはほくそ笑みながら見ていた。というのも彼は昨日、リリー・フォスター支局長からあることを聞かされていたからだ。
「そういえばな、バーニー。体を休めて、傷を治すことに専念しろという伝言を、リルから頼まれてたんだ。休むことに集中して、傷が治ってから戻ってこいってさ。リルが、そう言ってたよ」
「……」
「いやー……ねぇ。まさか、だよ。本当に、未だに信じられない。バーンハード・ヴィンソンと、リリー・フォスターに、そんな過去があっただなんてなぁ」
 バーンハード、彼は誠実で、優秀で、いい人よ。それに昔は古風な堅気さがあって、男前だった。けれど彼は仕事に取り憑かれているのよ、今も。昔だって仕事を理由に、約束していたディナーを何度キャンセルされたことか。休日も、仕事場に新たな死体が入れば返上。私だって忙しかったけれど、どうにか調整して時間を作るよう努力をしていた。けれど彼は、そういう努力をしてくれなかったのよ、まったくね。
 だから、彼を捨てたのよ。女心を理解する努力をしてくれと、別れるときには彼を怒鳴りつけもしたわ。……その結果が、今のバーンハードよ。彼は間違った方向に努力をしたらしいわね。まあ、お陰で昔と比べれば随分と角が取れて、ひとの心情を察するってことが出来るようになったみたいだけど。私としては、男らしかった頃の彼が懐かしいわ。
 だから、もう一度だけ会いたいのよ。最低最悪の元フィアンセ、融通の利かない真面目男に。
「……アーチャー特別捜査官」
「元婚約者を間欠泉呼ばわりだなんて。リルが知ったら悲しむと思うぞ」
「三十五年も前の話よ。私は監察医で、彼女は検事補だった頃の話。要するに、大昔よ。とっくに終わった過去のことで、今はお互い、ただの同僚。あなただってそうでしょう、アーチャー特別捜査官」
 今でこそ、元気な検視官バーニーだが。昨日、彼は危篤状態にあった。その時に、彼の傍に居たリリー・フォスター支局長が暗い顔で零した言葉が、あれだったのだ。
 今、どういう関係にあるかはさておき。過去に、何らかの形で親しかった相手が、自分の目の前で死に瀕しているとき。いつもなら封じているはずの記憶がふと溢れて、過ぎた日の輝かしい思い出が恋しくなるものなのか。その感覚ばかりは、ニールにはまだ。まだ……――?
「……俺が? 何の話だよ、バーニー」
 リリー・フォスター支局長が襲われ、それを庇った検視官バーニーが重傷を負い、支局が騒然としたあの夜。そして夜が明け、朝が再び訪れ、昼が来たとき。再び聞こえてきたテオ・ジョンソン部長の声に、ニールは震えた。
 あの時にニールが思い出したのは、アーサーという男の、人ならざる冷たい目。大昔に見たアーサーの目を思い出し、その前の夜に見たアーサーの薄ら笑いを記憶に上書きして、ニールは怒りに震えた。
 ASIの作戦は失敗。特殊作戦班は半壊。アーサーという名前の死神は、特務機関WACEの元隊員をひとり連れ去って逃走。そしてアレクサンダー・コルトは――
「アレックス。彼女のことよ。彼女のほうは、今も昔も、あなたに対して気がないみたいだけど。あなたは」
「笑えない冗談はやめてくれよ、バーニー。あの野獣みたいな女に、俺が」
「でもあなたは、野獣みたいな女が好みなんでしょう? 暴れ回って怪我をして帰ってくる彼女を、手当てして労わる場所でありたいと願っている。そうじゃなくて? でも現実は、そうはいかない。何故なら彼女はガサツだけど怜悧(れいり)、だから手当てを求めるならば相応しい腕を持つ人のところに行く。それは少なくともあなたではない。だから、もどかしい。だから、執着し続けてる」
 無表情の検視官バーニーの放った指摘に、ニールは笑みを消す。気まずそうに俯き、視線を自分の足元に落とすと、ニールはこんなことを呟いた。「そうだ、その通り。俺はあいつに、執着してる」
「なら諦めなさい。それがあなたのためよ。気高い女は男を必要としないってこと、あなたならとっくに理解してるでしょうに。それにね、気高い女は気高い女とくっつくのよ。ガサツで洗練されていない男の入る隙なんて無いの。だから、諦めなさい」
 しゅんと、すっかり大人しくなったニールに、今度は検視官バーニーがしたり顔をしてみせる。そんな検視官バーニーは密かに手を伸ばし、ニールの鞄に触れようとする。ニールに没収された仕事用のタブレット端末を、取り返そうとしていたのだ。
 しかし、それも失敗に終わる。病室の扉が開かれ途端、リリー・フォスター支局長の声が部屋の中に殴りこんできたのだ。
「バーンハード・ヴィンソン!! あなたは、大人しく寝るということすらできないのかしら?!」
 早足で、スタスタと歩くリリー・フォスター支局長はニールに近付くと、タブレット端末が入った鞄をニールからひったくる。彼女は鞄の中からタブレット端末を取り出し、自分の鞄の中へと移すと、大人しくするということを知らぬ病床の怪我人を睨みつける。
 すると、リリー・フォスター支局長の手が上がった。驚いたニールが目を開け広げた瞬間、耳に痛い破裂音が鳴る。
「二週間よ! 仕事から離れて、怪我を治すことに集中しなさい。これは支局長命令よ。背いた場合は、あなたのクビを切るから。覚悟なさい、ドクター・ヴィンソン!!」
 強烈な平手打ちを頬に食らった検視官バーニーは、今ここで何が起こったのかを分かっていないようで、ひりひりと痛み始めた右頬をさすりながら呆然としている。そうして数秒後、自分が平手打ちされたのだという事実に気付いた検視官バーニーは無表情で要らぬことを呟いた。
「……噴き出したわ、間欠泉が」
 修羅場になりそうな予感を察知したニールは自分の鞄を回収すると、いそいそと病室を後にする。その直後だった。リリー・フォスター支局長の怒鳴り声が、検視官バーニーの鼓膜に大ダメージを与えたのは。
「誰が、間欠泉ですって? ――……この蝋人形男がァッ!!」
「リリー・フォスター、あんたって女は本当に怒りんぼね! 怒ってばかりで……そんなだから男も寄り付かないのよ」
「あんたに言われたくないわよ、バーンハード!」
「あー、もう。落ち着きなさいよ、フォスター。いい歳したおばさんなのに、みっともない……」
「なんですって? 私が、おばさん……!?」


+ + +



 そこに、何があったのか。そこで、何を見たのか。それらを説明することは、とても難しい。
「イザベル先輩、オレの目を見てください。落ち着いて、もう大丈夫ですから」
 取り乱すイザベル・クランツを、冷静にどっしりと構えるラドウィグは宥めようとしていた。だが、そんなラドウィグが着ている戦闘服は、すっかり人の血で赤く染まっている。その赤さは凄惨な出来事をいやでも思い起こさせ、イザベル・クランツの過呼吸は暫く収まらなかった。
「ルっ……わ、私、怖いわ。だって、あれは……あれは、何なの?」
「忘れてください、あんなもの! 考えたって分からないんです、だから忘れて!」
 磔にされたような姿で、三メートルほど宙に浮いていた男の姿。切り裂かれた腹から、零れ出ていた内蔵。皮が剥がれて、剥き出しになった肋骨の隙間から覗いて見えて、蒼白く光り輝く心臓。閉じた瞼の隙間から、涙のように流れる液化アバロセレン。
 すっかり血で汚れ、風化し茶色く染まっていたワイシャツも。グレーのストライプがうっすらと入った、ネイビーブルーのジャケットも、スラックスも。キャメル色の革靴も。元は、上等なものだったはず。それが、すっかり……。
「イザベル先輩。オレの目を見てください、ほら! もう大丈夫ですから!! 仮にコヨーテ野郎が来たとしても、オレがあなたを守りますから!!」
 死神(リーパー)だと、ラドウィグやアレクサンダー・コルトらは呼んでいた。だがイザベル・クランツは、こう思った。それは“魂を刈り取る者(リーパー)”でなく“死者の神(デス)”だと。
 地下の帝国を統べる者。老いも若きも、富める者も貧しき者も、分け隔てなく同じ場所へと導く、幽冥の神。闇の中を駆け巡る、透明な影。――イザベル・クランツが思い出したのは、子供の頃によく読んだ絵本。児童養護施設に置かれていた、ギリシャ神話の絵本だった。
 イカロスの翼。ヘラクレスの英雄譚。ペルセポネと冥府のザクロ。ペルセウスのメドゥーサ退治。覚えている物語や、神々の名前は幾つかある。だがイザベル・クランツが一番鮮明に覚えていたのは冥界の神、ハデスの名前。
 ハデスがどんな見た目なのか。それは、よく知らない。だがもし現代に居るなら、あんな見た目をしているのだろうと、イザベル・クランツは思ったのだ。そして黒い外套に身を包んだ“アーサー”という男が目の前に現れたとき、イザベル・クランツは彼こそが“死者の神”だと思った。
 それからアーサーが、宙に浮かぶ男の体――アーサーと瓜二つの顔をした死体――の中に手を突っ込み、その肋骨の内側から光り輝く心臓を掴み取った時。何かが静かに終わったような気が、イザベル・クランツにはした。
 同僚たちと語り合ったりする、穏やかな日常とか。ストレス解消のためにプレッツェルを焼くといった、ささやかな楽しみの時間とか。なんてことない普通の日々が、普通でなくなったような気がしたのだ。
 そしてアーサーが心臓を手中に収めた瞬間、聞き覚えのある声がイザベル・クランツの耳に聞こえた。伏せろ、と叫ぶ男の声が聞こえた。死んだはずの男の声だった。だがたしかに、声が聞こえた。
 声に従い、イザベル・クランツは頭を低くし、その場にしゃがんだ。その時だった。黒い槍のような影が放たれたのは。そして特殊作戦班の隊員、コードネーム・チャーリーの体が大きく後方に吹っ飛び、彼は死んだ。チャーリーの心臓には黒いレイピアのような何かが深く突き刺さっていて、彼はほぼ即死だった。
 そのあとは、血みどろの惨劇、それから爆発。宙吊りになっていた死体が心臓を抜き取られたあと、床に落ちた瞬間。どこかで何かが突然燃えて、地下のあの施設が熱気と火に包まれたのだ。そして火の手に追われながら、イザベル・クランツを守りつつ撤退していく中で、特殊作戦班の隊員たちはひとり、またひとりと負傷した。
 ジュディス・ミルズとコードネーム・エコーの二人は片腕を折る怪我を負い、アレクサンダー・コルトに至っては左腕を失うこととなった。コードネーム・ブラボーは背中に大やけどを負った。コードネーム・デルタも、チャーリーと同じレイピアのような刃物で脇腹を貫かれて重傷。そしてコードネーム・アルファに至っては、意識不明の重体だ――左の下腹部と右胸を二本のレイピアで貫かれ、右脚の大腿と右肩を九ミリ銃で撃たれたからだ。
 無傷で逃げおおせたのは、ずっと守られていたイザベル・クランツ。それと特殊な訓練を幼少期から重ね、優れた武人になるべく育てられており、且つアーサーがどのような手を使うのかを辛うじて理解していたラドウィグのみ。
「……ここに居る全員が、死ぬの? 私たちは“死”に呑まれるの?」
 震える声でそう呟くイザベル・クランツの憔悴しきった顔は、すっかり蒼褪めていた。だがラドウィグは冷静だった。
 彼はイザベル・クランツの冷たくなった白い手を、他人の血に濡れた赤く温い手で握る。
「誰もが死にます、いつかは必ず。それは誰にも覆せない。でもまだ死にたくない、あなたを死なせたくないと、オレは思います。それだけで、今は十分です」
 あの日、あのとき。作戦は失敗に終わり、死神からの猛攻を受ける中で、怪我人を抱えて敗走しながら、やっと地上に出た瞬間。太陽は一番高いところにあり、本来なら暑いはずの日中は、いやに寒くて凶暴な風が吹いていたような気がした。
 深い地下から螺旋状の階段を駆け上って抜け出し、息も絶え絶え。怪我人たちは痛みに悶え、立ち上がれて動き回れる者はラドウィグとイザベル・クランツの二人しか残っていない。そして冷静なのは、混乱を通り越して良くも悪くも頭が冷静なモードに切り替わってしまったラドウィグだけ。
 イザベル・クランツは混乱と極度の緊張により座り込んでしまっていた横で、ラドウィグだけは懸命に重傷者の手当てをしていた。ラドウィグは隊員たちがそれぞれ携帯していたスポーツタオルを掻き集めると、それぞれの状態に応じた応急処置を施していく。腕を切り落とされた者には肩口にタオルを巻き、強く締め付け、血を止める。レイピアが刺さってる者には、傷口をタオルで押さえつつ、レイピアにもうまくタオルを巻いて、動かぬようにがっちりと固定した。
 そうして一通りの準備が整った段階で、彼はイザベル・クランツに声を掛けたのだ。自分一人では手が足りないから手伝ってくれ、と。
「だからイザベル先輩、止血を手伝ってください。レイピアは絶対に抜かずに、このまま固定した状態にしておいてください。そしてレイピアを固定したタオルの下のタオルに手を当てて、全身の体重を掛けるように傷口を強く押さえて」
「私に、そんなことができるわけが……」
「やるんです、早く! イザベル先輩は、デルタの止血を。デルタの血が止まったら、アルファのをやってください。オレはまず、サンドラの姐御の処置をします」
 巨大な岩盤の亀裂の先にあった、放射能を警告するハザードシンボルがでかでかと描かれたタングステンの扉の、その奥。そこにあったのはアバロセレンの核と、絶望。永久機関のエンジンなど存在せず、怪物だけがそこに眠っていた。
 今ここにあるのは、痛みと悲しみだけ。状況を完璧には把握できず、取り乱していたイザベル・クランツには何も分かっていなかったが、ラドウィグは理解していた。怪我人を、全員助けることができないということを。誰を救い、誰を切り捨てるかの裁量が今、ラドウィグの手に委ねられているということを。
「いいですか、イザベル先輩。すぐに救援部隊のヘリが来ますから。十五分の辛抱です。だからイザベル先輩、今は耐えてください! あとでいっぱい、泣きたいだけ泣けばいいですから。今だけは耐えて!!」
 ラドウィグには直感で分かっていた。いったい誰が死ぬのかを。悲しいことだが、切り捨てなければいけない人間が居ることを、彼は理解していた。
 そして物事には優先順位がある。人手が足りない今、その判断はシビアにならざるを得ない。残念なことだが、救える見込みがない者の優先度は低い。こういった状況下では、人命にも優先度を付けなければいけないのだ。たとえそれが良心の呵責に苛まれるものだとしても。
「さぁて、サンドラの姐御。このタオルを口に噛んでてくださいよ。強烈に痛いでしょうが、こればっかりは仕方ないんで耐えてください。可能な限り暴れず、大人しく耐えてくださいよ」
 精神的苦痛が滲み出る不格好な笑顔を浮かべながらそう言ったラドウィグは、岩壁に凭れて座っていたアレクサンダー・コルトに近付く。左腕を、上腕から失くしていた彼女は、階段を駆け上った疲労と痛む肩のせいで、もはや嫌味を返す余力も残っていなかった。そんなアレクサンダー・コルトの口に、ラドウィグは彼女の首に掛かっていたスポーツタオルを押し込み、むりやり噛ませる。
 それが彼女のためだった。
「……アタシよりも、ヒューゴを診てやってくれ。アタシは、大丈夫だから……」
 タオルを押し込まれた口で、もごもごとアレクサンダー・コルトは言う。しかしラドウィグは、言葉を返さない。代わりに彼は、自分の右手を顔よりも高い場所に掲げる。
 すると、そのとき。ラドウィグが掲げた彼の手に火が点き、赤い炎が立ち上ったのだ。





 人間って生き物はつくづく、中間っていう場所にしかまともなヤツがいない。上に立つ者は良心を著しく欠いた者ばかりで、底辺には人間であることを放棄した連中ばかりだ。
 そしてまともな連中ほど、真面目な連中ほど、馬鹿を見て、理不尽にも痛い目に遭う。――今のアレクサンダー・コルトは心底、そう思っていた。
 この世界はどこまでも理不尽で、救いようがない。努力じゃ変えられない。全て、運に賭けるしかない。
 でもその運ですら、実は仕組まれたものだったら? ……そんなことを考えだすと、際限がない。
「シリル。分かった、分かったよ。だから、落ち着いてくれ」
「落ち着いてられるか、バカ野郎! 酒という邪魔さえなけりゃ向かうとこ敵なしの、あのヒューゴ・ナイトレイが、死んだんだぞ?! もしかしたらお前もって考えて、俺がどれほど心配したことか……!」
 目を真っ赤に充血させて、鼻水をしきりに啜りながら、涙を堪えつつ、ごにょごにょと口ごもるようにそう言った男の名前は、シリル・エイヴリー少佐。彼は元空軍特殊部隊所属、現在は空軍参謀本部で働いており、機密指定された文書を保管する部屋の管理を一任されている男であり、且つあまり知名度のない詩人でもある。
 引きこもりがちな仕事柄ゆえに、すっかり蒼白くなっている肌を怒りから赤くさせる彼は、病床の上で平然としている女に飛びつき、これでもかという強い力で抱き締める。一方、抱き着かれたほうであるアレクサンダー・コルトは、息苦しさから顔を顰めさせていた。「やめろ、シリル。苦しいから放せ」
「あぁ、生きてる。俺のライオンは、ちゃんと生きている、ああ……!」
「怪我人なんだよ、アタシは! 偶には大事に扱ってくれないかね」
 しかし空軍の制服がどれほど乱れようが、そしてアレクサンダー・コルトがどれだけ拒否しようが、お構いなしに歓喜のハグを続行する男には最早、周囲の景色など見えちゃいない。
 背後で冷めた目をした男が自分を見下ろしていたとしても、シリル・エイヴリー少佐は気にしないのだ。
「ニール、助けてくれ。このイカれた士官を引き?がしてくれよ」
 冷めた目というよりも、あからさまに蔑む目、というか。そんな目つきでシリル・エイヴリー少佐を見ているのは、元気な検視官バーニーと怒り狂うリリー・フォスター支局長の口論から逃げ出してきたニール・アーチャー特別捜査官だった。しかし彼はシリル・エイヴリー少佐を見下ろすだけで、助けを求めたアレクサンダー・コルトの声に応じる気配はない。
 幼馴染で、大親友だった女。一度は、惚れた女。だが、手以外の場所を気安く触わることなど一度も許してくれなかった女。そんなアレクサンダー・コルトが今、どこの馬の骨とも知れない暑苦しい空軍野郎のハグを、そこまで嫌がることなく受け入れている。それがニールにとってはとても、不愉快だったのだ。この初めて見る空軍野郎も不愉快だったが、それ以上に不愉快だったのは、空軍野郎と親しくしているアレクサンダー・コルトだ。
 なんだよ、アレックス。俺にばっかり冷たく当たりやがって。連邦捜査局の捜査官はダメで、空軍の士官ならいいのかよ。……そんな程度の低い嫉妬が、ニールの心の中では嵐のように吹き荒れていたのだ。いい年をした、それも大きな子供もいるような男であるにも関わらず。そんな自分の程度の低さにもニールは愕然としており、それが結果としてフリーズという状態を引き起こしていた。
「おい、ニール。聞いてんのか、ニール!」
「……」
「おい、ニール! ……クソっ。アタシの周りにはどうしてこうも、イカれた男しかいないのかね」
 アレクサンダー・コルトがふと鳴らした舌打ち。その音にビクッと肩を震わせたシリル・エイヴリー少佐は、慌てて彼女から離れる。それからシリル・エイヴリー少佐は苦し紛れの笑顔を取り繕うと、聞き苦しい言い訳をするのだった。
「すまない、サンドラ。嬉しくて、つい……。君は俺の、ミューズだ。だから君が永遠に消えてしまったらって考えると、俺は、俺は……!」
 言い訳をしたかと思えば、今度はめそめそと泣き始める。情緒が豊かで同時に不安定なシリル・エイヴリー少佐に、アレクサンダー・コルトは溜息を零した。そしてニールは、彼の気色悪さに引くと同時に、困り顔のアレクサンダー・コルトを見て笑う。
 たいして美人でもないこのアレックスが、創作の女神(ミューズ)だって? ニールはそんなことを思うと、おかしくて堪らなくなった――何かを面白がっていないと、ニールはこの辛すぎる状況を乗り切れなかったのだ。
 そして何かを嘲笑していないと、やっていられない気分なのはアレクサンダー・コルトも同じ。彼女は彼女で、気が滅入っていたのだ。シリル・エイヴリー少佐の機械的な白い右腕が目に入るたびに、そしてその冷たい腕で抱き着かれるたびに、痛感するのだ。自分も、彼と同じようになるのだと。
「そういやさ、シリル。あんたのその義手って、ネイピアとかいう男が作ったんだよな?」
「ああ、そうだ。アルフレッド工学研究所のアーヴィング・ネイピア博士。気さくとは言い難い人物だが、彼の技術は確かだし、見ろよ、このシンプルでクールなデザインを! それに今のこの腕は、義手と思えないぐらいに思い通りに動くし、まるで違和感がないんだ。今でも彼に、月一でメンテナンスをしてもらってるんだが、メンテナンスのたびに義手が体に馴染んでいく。素晴らしいよ」
 制服の袖をまくるシリル・エイヴリー少佐は、白く無機質な右腕を自慢するように見せつける。零れる涙を拭いながら、どうにか笑顔を取り繕う彼の優しさは、その意図が分かっているからこそ、余計にアレクサンダー・コルトに哀しみを植え付ける。
 アレクサンダー・コルトが彼と出会ったのは八年前。その時には既に、彼は義手であることが当たり前になっていて、アレクサンダー・コルトも彼のことを哀れんだことは一度もなかった。
 彼女にとってシリル・エイヴリー少佐は、空軍参謀本部に居る引きこもり士官。この通り、少々風変わりな男であり、読み手が気恥ずかしくなるようなセンチメンタルな抒情詩を書く詩人でもある。それに失くした右腕は、彼にとっての誇り。その傷があったからこそ、与えられた勲章があるわけで。だからこそ、その傷を他者が可哀想だと思う必要はなかった。
 しかし、彼はそうだとしても。彼女は違うのだ。
「そうかい。実はアタシも、その博士に義手を作ってもらえることになったんだよ。アルフレッド工学研究所の所長さんが融通してくれてね。研究目的も兼ねて、無償でやってくれるんだとさ」
 ラドウィグが初めて見せた、苦悩が隠し切れていない作り笑顔。そして彼が初めてアレクサンダー・コルトに見せた、炎を自由自在に操るという覚醒者としての能力。そして死神に切り落とされた腕からの出血を止めるためにラドウィグが強行した、断面を焼いてしまうという荒療治の苦痛。その後に、焦げた戦闘服の上から傷口に浴びせられた水筒の水の冷たさと、ひりつく痛み。――ラドウィグの表情から汲み取った苦悩も、切り落とされた自分の骨や神経が上げた悲鳴も、橙色に燃える炎の色や熱さも。アレクサンダー・コルトは今も鮮明に覚えていて、そしてその記憶が離れてくれない。
 ラドウィグとは失敗に終わったあの作戦以降、顔を合わせてすらいないし、話してもいない。鎮静剤のお陰でアレクサンダー・コルトがずっと寝ていたということもある。ラドウィグのほうは帰還した直後にすぐ別の任務を与えられて、今はそれに専念しているということもある。しかし顔を合わせなければ、連絡も取っていないことの一番の理由は、気まずさだ。
 ラドウィグは、ヒューゴ・ナイトレイを助からないとして切り捨てた。そして助かる見込みのある者の手当てを優先したのだ。しかしアレクサンダー・コルトは、彼に「ヒューゴ・ナイトレイを優先しろ」と告げた。だがラドウィグは彼女のその言葉を無視したのだ。
 ラドウィグの冷徹ともいえる判断は、間違いなく正しかっただろう。案の定ヒューゴ・ナイトレイは助からなかったし、ラドウィグが手当てを優先した者はちゃんと生き延びたのだから。それもひどい怪我を負ったにしては、ダメージが少ない状態で助かったのだ。
 アレクサンダー・コルトも、頭では分かっていた。ラドウィグの決断が正しかったと。だが彼女は、ラドウィグに“救わなければいけない者”として自分が選ばれたことに絶望していたのだ。
「無償か、そりゃ羨ましい。俺は金を取られたよ、毎月のメンテナンスもそうだ。まあ、金なんてどうだっていい。それよりも、君もネイピア博士に義手を作ってもらうのかぁ。なら俺たち、お揃いだな。……なぁ、サンドラ。どうせならお揃いの指輪も買って、俺たち帰る家もお揃いに」
 そして地下でアーサーに言われた言葉もまた、アレクサンダー・コルトの中にずっと引っ掛かっていて、頭から離れずにいる。徐々に心を蝕んでいく呪いのように、その言葉はずっと頭の中で木霊していた。
「何度も言わせないでくれ、シリル。求婚は受け付けてないよ。アンタも懲りないねぇ、まったく」
 倒れたチャーリーを蔑むような目で見つめたあと、薄ら笑いを浮かべたアーサーが“何か”をして強風が吹いたと思った瞬間に、アレクサンダー・コルトの腕が吹き飛んで行った、あの時。アーサーが彼女に、こう言ったのだ。

 コルト。君の強運は、まるで諸刃の剣だ。突拍子もない幸運を招いて、隠されていた真実を暴く反面、予想だにしていなかった事故を呼び寄せる。例えば、親しい者の死だ。
 君は、こうは考えたことはないかね? 自分が何もしなければ、誰も傷付かないで済んだかも、と。

「アタシには独り身がお似合いさ。それに子供を産めない女と結婚して、アンタはどうしたいんだい?」
 彼女はあの時に初めて、心の底から消えてしまいたいと思った。アーサーのあの言葉で、彼女は分かってしまったからだ。父、ダグラス・コルトの死の真相。父は凍死したんじゃない、アーサーに殺されたんだということが。
 それも全て、彼女がアーサーの怒りを買うような真似をしたからだ。――少なくとも、アーサーの言い分はそうであるように彼女は感じていた。
「サンドラ。それ、本気で言ってるのか?」
 しかし、何故だろう。不思議なことにアレクサンダー・コルトには、理不尽な死神に対して、怒りという感情がまったく湧いてこないのだ。己の無力さと、愚かさに対する恨みしか、湧き上がってこない。気が付けば心にはぽっかりと穴が開いていて、空虚さと絶望しか感じられなくなっている。
 そしてアレクサンダー・コルトに一番大きな傷を与えたのは、彼女の言葉を無視したラドウィグでも、彼女に理不尽な苦痛を与えたアーサーでもない。直接は何もしていないアストレアだった。
 今朝、ジュディス・ミルズが伝えてきたのだ。ダグラス・コルトは他殺だったという話と共に、ASIの地下牢からアストレアが消えたという話を。アストレアの件に関しては、監視カメラ映像と、同じ房に居たヒューマノイド、そして収監者の監視業務に当たっていた局員の証言によると、彼女は自分の意思で行ったのだという。どんな防衛システムもすり抜け、煙のように現れた“コヨーテ”が差し出した手を握って。彼と共に、どこかへ消えたのだと。
「今の求婚は冗談だけど、俺は本気で君に惚れてるんだ。君と、もっと一緒に居たいんだ」
「やめてくれ、シリル」
 アストレアは、アレクサンダー・コルトよりも、血も涙もないアーサーを選んだのだ。
 少しお節介なくらいに世話を焼いて、年の離れた妹というよりかは娘のように、アレクサンダー・コルトはあれこれとアストレアの面倒を見ていたのに。アストレアは普通の人間として生きられるかもしれないチャンスを自ら捨てて、闇の中に隠れる影であり続けることを望んだのだ。
 ジュディス・ミルズが告げた淡々とした言葉が、どれほどのショックをアレクサンダー・コルトに与えたことだろう。この十七年、アストレアと名付けた少女の為に、あれこれ自分がやってきたその全ては意味がなくて無駄だったのだと宣告されたようなものだったのだから。
 感謝や見返りを求めていたわけじゃない。だが、裏切られたことが悲しかったのだ。まさかアストレアが自分を裏切ってアーサーを選ぶだなんてことを、アレクサンダー・コルトは想像すらしていなかった。だから余計に辛かった。
 今はただ、辛かった。何もかもが嫌になっていたのだ。慰めの言葉など聞きたくもなかった。
「なぁ、サンドラ。俺は、君が女だから惚れたんじゃない。君という人柄が魅力的だったから、惚れたんだ。ウィリアム・ブレイクが恋焦がれたライオンが実在するのだとしたら、それはまさに君だと思ったから。羊と共に寝て、羊と同じ草を食み、羊を守るライオン。今までずっと夢物語だと思っていたけど、君がそれを夢じゃないと教えてくれたんだ。だから」
「そんな綺麗なもんじゃないんだよ、アタシは。傷付けるばかりで誰ひとりも守れない、ダメな女なんだからさ……」
 ネガティブな言葉を発し、俯いたアレクサンダー・コルトに対して「それは違う」とシリル・エイヴリー少佐が反論しようとした時だ。しばし黙って、二人の様子を静観していたニールが動く。ニールはシリル・エイヴリー少佐が着ていた制服の襟首を後ろからぐっと掴むと、シリル・エイヴリー少佐を後ろに引っ張り、彼を力づくで下がらせ、アレクサンダー・コルトから引き離したのだ。
 決してスマートとは言えない、不躾極まりない乱暴なニールの行動に、シリル・エイヴリー少佐は不満から表情を強張らせる。無言で凄んでみせる空軍士官の威圧感は、一線を退いてから長いとはいえ伊達ではなく、ニールは鳥肌が立ったことを否定はできなかった。しかし、だ。ニールは世界一恐ろしいといってもいいものを知っているし、二度も見ている。ASIが“コヨーテ”と呼び、アレクサンダー・コルトらは“アーサー”と呼ぶ、あの男の目と比べれば、この程度の恐怖はニールにとって恐れるに足らないものだった。
 そんなニールは、礼を欠いた行動を続ける。今度はシリル・エイヴリー少佐を突き飛ばし、病室の扉を指差して「今すぐ出て行け」と彼に言い放ったのだ。当然シリル・エイヴリー少佐は、礼儀を知らない男に対し不快感を露骨に表してみせたが、しかし俯くアレクサンダー・コルトが流していた涙の雨を見るなり、表情を変える。そうしてシリル・エイヴリー少佐はそれ以上何も言うことはなく、黙ってその部屋を後にしていった。そしてシリル・エイヴリー少佐が居なくなった後に、ニールは口を開く。
「……大人になる、親になるってのは、難儀なもんだよ。なぁ、アレックス。子供のことを考えりゃ、無謀な真似は出来ねーし。我慢しなきゃならねーことも増える。ガミガミうるさく言わなきゃならねーことも増えて、時に嫌われることもあるさ。まあ俺は幸いにも、娘との仲は良好だし。スカイは本当に良い子に育ってくれた。自慢の娘だ」
 それからニールはベッド脇のサイドテーブルの上に置かれていた箱ティッシュを見つけると、その箱ティッシュを持ち上げて、無言で泣いている女の膝の上にそれを置いた。そして、言葉を続ける。
「俺はお前のこと、よくやったほうだと思ってる。アストレア、だったっけか。あんな難しい背景のある子を、あんなクソみたいな環境でよく育てたと思う。お節介焼きのお前じゃなきゃ、きっと無理だったよ。お前に拾われていなかったら彼女はきっと、誰からも見捨てられて、もっと酷い場所に堕ちていたと思うし、きっと今頃生きていなかったと思うんだ。だから、お前は自分をもっと褒めろ。あんまり卑下するな。お前はお前のベストを尽くしてきたんだから」
 次にニールは床に置かれていたゴミ箱を足で軽く蹴り、ベッドの傍へと移動させた。怪我人が鼻をかんだチリ紙を捨てやすいようにと、怪我人の右側へと移動させる。そしてゴミ箱がちょうどいい場所に収まったとき、ちょうどアレクサンダー・コルトが涙を吹いたティッシュをゴミ箱の中に投げ入れた。そんな彼女は俯いたままで、無言のまま。
 なんとなくだが、ニールには予想がついていた。この涙が止まらなくなった状況で、ついうっかり声を漏らしてしまうようなことを、彼女は恐れているのだと。今の状態で少しでも口を開けてしまえば、嗚咽が止まらなくなることは確定。男よりも男前でクールな彼女のことだ、みっともない姿を人に見せたがるはずがない。それに涙がどうにも止まらず、その様子をニールやらシリル・エイヴリー少佐に見られたこの状況がそもそも、彼女にとっては苦痛のはず。それに彼女の性格からして、慰めの言葉は与えるだけ逆効果だろう。励まそうと思って与えることは、却って彼女を傷付けるだけなのだから。
 ならば、ありのままの現実を投影した言葉を言うしかない。
「だけど彼女は、大人なんだ。スカイはまだ高校生のガキんちょで、見張りも口出しもお節介も必要だが、アストレアはたしか二十六歳だったろ? 尊重してやらないとな、彼女の選択を。俺も、その選択を認めたくはないが。何かしらのちゃんとした考えがあって、彼女はその道を選んだんだろうから。彼女の選択を否定することは、できない。でもお前が悲しいと感じるなら、泣けばいいと思う」
 誰にとっても、今は最悪な状況。ひとりの男の自死が次々と不幸を招き、その連鎖は終わる気配を見せない。だがどこを責めるべきなのかはハッキリとせず、また何を解決すれば事態が収まるのかも分からなかった。最悪なのだ。とにかく、最悪。
 今日も、夜は冷えこむだろう。いずれ昼間さえも冷え込む時代が、そう遠くない将来に来るかもしれない。もしかしたら、今は空に浮いているアルストグラン連邦共和国が海に落ちる日が来るかもしれない。
 仕方ないのだ、何も分かっちゃいないのだから。なぜこの大陸が浮いているのかを考えたことがある者は居らず、今後もまたそれは解明されないだろう。この大陸は浮いている、ということが当たり前になっていたのだから。その当たり前を、疑問視して深く追求しようとする変人など、そうそう居ないのだから。
 また、この大陸の気候がどう操作されていたのかも分からない以上、加速する異常気象も止められないだろう。今の状況から考えるに、今後の気温はより低くなっていくはずだ。雨風やら雪やら何やらも、以前よりもずっと過酷になっていくだろう。
 きっとこの大地は、人が住まうには適さない場所になる。この国からはやがて、人が消える。
 でも、仕方ないのだ。何事にも始まりがある以上いつかは終わりが来るし、その終わりは何者にも覆すことが出来ない。人間はいつか死ぬし、人類はいつか滅びるだろうし、この大陸もいつかは地に堕ちるだろうし、この星もいつか消えるだろう。
 終わりが早まっただけだ。そう捉えることも出来る。だが、それをすんなりと受け止められるほど、人間という生き物は成熟していない。人間とは終わりに抗いたい生き物であり、明日が来ると無条件で信じている生き物である。必死の思いで努力をすれば、きっと望みが天に通じて、永遠が約束されると思っている生き物でもある。実に愚かな種族なのだ。
「俺は今日だけ、休暇を貰ったんだ。あのフォスター支局長が休みをくれたんだよ。むしろ休んで大人しくしてろと脅されたくらいだ」
 胸糞悪かろうが、なんだろうが。それが世界というもので、どうすることもできないものなのだ。
 もし世界が下した判決が「人類なんて滅びりゃいい」ならば、それを受け止めるしかないのだろう。抗ったところで、勝つことのできない大いなる力というのは存在する。残念ながら、それが世界なのだ。
「とはいっても、俺は家に居たくないんだ。シンシアに離婚を切り出した今、居場所がなくてな。だからさ、アレックス。今日はここに、居てもいいか? もしお前が嫌だっていうなら、他のとこに行くけど。けど俺としては、お前に聞きたいことが色々とあるし」
 一人にしてくれ。もし、彼女から言葉が返ってくるなら、そんな言葉だろうとニールは予想していた。だから彼は、ここに居てもいいかと聞いておきながら、帰り支度を進めている。
 すると、アレクサンダー・コルトが深呼吸をした。そして彼女は荒れる心を、一時的にだが鎮める。そうして俯いたまま、彼女がニールに返したのは意外な言葉だった。
「……アタシも、アンタにしかできない話がある。誰にも漏らさないって、約束してくれるよな」
 ニールは帰り支度をしていた手を止める。着ようとして手に取った外套を、彼は畳みなおした。そしてニールは言う。
「約束するよ、アレックス。偶には俺を信じてくれ」





 イザベル・クランツ高位技師官僚のお披露目会見が、ちょうど幕を下ろした頃。渋い顔で腕を組み、ASI長官の椅子に座るサラ・コリンズは、つい先ほど煙のように現れたマダム・モーガンを睨みつけていた。
 理由は分からないが肩を負傷している様子のマダム・モーガンは、時折痛みに苦しむような表情を浮かべる。そんな彼女はサングラスを珍しく外していて、人ならざる薄気味悪い目でサラ・コリンズ長官を見つめていた。そしてマダム・モーガンは、こんなことを口にする。
「真実っていうのはどこまでも残酷でね。実は永久機関のエンジンはあるし、リアクターもあるのよ。この大陸の北東、北西、南東、南西の四ヶ所に、点在している。けれど、結局はなにも分かってないわ。その仕組みを知っていたのは、ペルモンド・バルロッツィだけ。そして彼は永遠に、口を閉ざした」
 ASIは「存在しない」と結論付けた、永久機関のエンジンおよびリアクター。それをマダム・モーガンはあっさり「存在する」と認め、人間が出した答えを否定してみせたのだ。大抵のことでは動じないサラ・コリンズ長官も、流石にこのマダム・モーガンの言葉には絶句する。存在を知っていたならば何故教えてくれなかったのかと、サラ・コリンズ長官は憤りも感じていたし、彼女の言葉を信じるべきかを迷っていた。
 しかしマダム・モーガンはマダム・モーガンで、ASIにある憤りを感じている。
「けど幸いなことに、南東のリアクターで発生していた故障は、私が解決して復旧させたわ。燃料貯留槽の壁が破られてて、中身のアバロセレンをだいぶ持ち出されてたけど。燃料貯留槽の壁を直して、中身を補充したらなんとか動き始めたし。少なくとも、大陸が地に堕ちることはない、と思いたいわね。曙の女王が目覚めて、彼女がまた貯留槽に穴でもあけない限りは、大丈夫でしょう」
 マダム・モーガンは早口に、その結果を報告する。そんなマダム・モーガンの声色には、隠し切れていない苛立ちがひょこひょこと顔を出していた。そしてマダム・モーガンのその態度が、サラ・コリンズ長官を苛立せる。ひりつく女同士の牽制は、既に始まっていたのだ。
 言葉にはしないが態度に不満の感情を滲ませるマダム・モーガンに対し、サラ・コリンズ長官は不満を言葉にして現す。ぐっと目元に力を込めるサラ・コリンズ長官は、険しい顔でマダム・モーガンにこう問いかけた。「それで、そのリアクターの場所は? その口ぶりからすると、あなたは知っているんですよね」
「ええ、知っているわ。だって私がペイルに、それらを作らせたんだもの。でもね、場所は教えられない。私が教えない限り、あなたたちが場所を知ることはないし、あなたたちが知らなければ、情報が外に漏れることもない。あらゆるリスクを排除する必要があるのよ。理解して頂戴」
「マダム。あなたにはこの状況が見えていないのですか? 今は、情報を出し渋っている場合では――」
「ところで、あなたたちは最悪の外れくじを引き当てたようね。それもアバロセレンの核……――『根源(マトリクス)』。そして見事に、私とペイルが一番恐れていた最悪のシナリオを実現してみせた」
 サラ・コリンズ長官の攻撃に、マダム・モーガンが返したのは防御ではなく、カウンター。今のASIにとっての痛いところをチクリと刺してみせたマダム・モーガンに、再びサラ・コリンズ長官は黙り込んでしまう。
 あの作戦は、失敗だった。そのことは誰もが認めていた。曙の女王はきっとリアクターのある場所に現れるだろうと踏んだASIは、リアクターの場所を突き止め、そこで曙の女王を待ち伏せし、彼女を捕縛する腹積もりだったのだが……作戦の前提である情報は、その全てがどれも見当違い。何もかもにおいてASIは失敗していたのだ。
 イザベル・クランツ高位技師官僚の一声により、探し出した場所はリアクターのある場所ではなくて、アバロセレンの核こと『根源(マトリクス)』が封じられていた場所だったのだ。そしてASIが見つけ出したそれは、見つけ出した直後に盗まれた。ASIが『憤怒のコヨーテ』と呼んでいるその男によって、ASIの目の前で盗まれた。そしてその場に居たASI局員は痛手を負わされた挙句、あの場所は燃えて、灰だけを残した。そして派遣されていた局員等九名のうち二人が死亡し、一人が重体で二人が重傷、そして二人が軽い骨折等の軽傷を負った。無傷だったのは二人だけ。――作戦は失敗なんてものじゃない、惨敗だ。
 全てを一言でまとめるならば。これが相応しいだろう。『誰もが踊らされていたのだ、コヨーテ野郎に』。枯草色の髪をした死神の一人勝ちで、それ以外の全てが勝負に負けた。コヨーテ野郎は望みのものを手に入れて、下等な人間を打ち負かして、どこかに逃げていったのだ。
「私とペイルは、あれに関しては意見が一致していたのよ。アバロセレンの核を、アーサーにだけは見せてはいけないと。アーサーって死神の出自を紐解くと、長くてややこしくて面倒なことになるから省くけど、簡潔に言うと彼は『アバロセレンの核の半身』だった。だから私たちは、あれを隠した。割れる前のアバロセレンの核が引き起こした災害、世界最初のSODを繰り返さないためにね。だけどその半身が遂に片割れを見つけて。今や完全になった可能性さえ、ある。……あなたたちがどれほど愚かなことをしたのか、それをちゃんと分かってるの?」
 まくし立てるマダム・モーガンに、サラ・コリンズ長官は何も言えないままだった。サラ・コリンズ長官としても、勿論言い分がある。マダム・モーガンが然るべき説明してくれていれば、ASIもこんな愚かな真似をしなくて済んだはず。サラ・コリンズ長官はそう思っていた。だが、かといって犯してしまった過ちが取り返せるわけじゃない。行いが赦されるわけでもない。批難を浴びるのは当然のことで、今は黙っているしかなかったのだ。
 だが、そうだとしても。サラ・コリンズ長官も、そしてASI、及び人類は、あまりにも知らないことが多すぎた。思えば当然のように受け入れているこの『死神』という存在も、どこから湧いて出てきたのかも知らないでいる。アバロセレンだって、未だにどこから発見されたのかすら明らかにされていないのだ。
 ハッキリと、それを理解しているわけじゃないのに。それを当たり前のものだと錯覚して、深く考えることもせずに、何故だか受け入れていた。そして今、人間たちは馬鹿を見ている。
「はぁ。……もっと言いたいことはあるけど、いがみ合いはやめましょ。お互いに嫌味の応戦をしたところで、埒が明かないだろうし」
 また痛む肩の傷に表情を歪めながら、マダム・モーガンは先ほどとは違う、ゆったりとして沈んでいる声の調子でそう言う。それから彼女は痛みをこらえるように下唇を一度噛むと、深呼吸をした。そしてマダム・モーガンは顔を上げて、暗い気分と共にこんな言葉を吐き出す。
「どうにかなる。私は、そう思いたい。でも、どうかしらね。あまり希望的観測は抱けないわ」
 そんなマダム・モーガンの肩に傷を負わせたのは、コヨーテ野郎ことアーサーと共に逃亡したアストレアだった。マダム・モーガンはアーサーを問い詰めるために、彼らの潜伏先――北米合衆国の東海岸、某所――を暴き出し、そこに向かったのだが、その結果が肩の傷だ。
 そして最悪なことに、マダム・モーガンは悔しさも怒りも感じておらず、遣る瀬無さと憐みしか感じていない。アルストグラン連邦共和国に連れ戻されることを警戒し、マダム・モーガンに発砲してみせたアストレアにも、マダム・モーガンは恨みといった感情を抱いていなかった。ましてや、短い会話を交わしたアーサーに対しても怒りはなく、彼に対して抱いたのは憐憫という感情。
「物事って、単純じゃないのよ。人は物事を二極化して、光と闇とか、正義と悪、英雄と悪党っていうふうに分けたがるけど。現実はそう簡単に区分できない。正義と悪の関係は、特にね。ほら、よくあるでしょ? サイコパスと診断された犯罪加害者も、実は幼少期に虐待を受けて育った被害者だったってこと」
 何かの意図があると思われるマダム・モーガンの、その言葉。しかしサラ・コリンズ長官は、その意図を汲み取れなかった。そしてサラ・コリンズ長官が少しだけ首を傾げさせてみせると、マダム・モーガンは溜息を吐く。それからマダム・モーガンは、呟いた。真っ白な髪に変わり果てていた男の、覇気を失くした姿を思い出しながら。
「私たちは、何を罰すればいいんでしょうね。今でも私は、正義が何なのかを考えてしまうのよ。私は自分が正義の側に立っていると信じたいけど、本当にそうなのだろうか、って」
 ――そして場所は変わり、北米合衆国の東海岸、某所。南半球にあるアルストグラン連邦共和国とは違い、北半球にあるこの場所は、昼間もひどく冷え込んでいる。今は十二月。南半球の今は真夏だが、反対に北半球では冬なのだ。
 暑い場所から、光よりも早い速度で移動してきたアストレアは、その寒暖差に悩んでいる。肩を震わせて、小さくくしゃみをする彼女は、二時間前の出来事を思い出しながら、雪の降る暗い空を眺めていた。
 アストレアの目に映っていたのは、寂れた廃都市。地上では、いかにも貧乏そうな身なりをした人々が、ぽつぽつと街を歩いている。そして遠い空には小さくうっすらと、世界最初のSOD『ローグの手』ないし『アルテミス』が放つ蒼白い光が見えていた。
「マンハッタンとボストンって、すごく離れてると思ってたけど。案外、そんなに遠くないのかな? どうなの、博識のミスター」
 ボストンの上空にあるという、世界最初のSOD。写真では何度か見たことがあるが、こうして現物を目にするのは、アストレアにとって初めてのことだった。
 それにアルストグラン連邦共和国の外に出ることも、初めてのこと。更にこうして、長時間あの男と共に居ることも初めて。初めてのことで溢れていたアストレアは年齢も考えずにほんの少しだけ浮かれていた。
 しかしそんなアストレアも、楽しんでばかりいるわけでもない。今は空を見上げて現実逃避しているが、彼女にはいくつかの悩みがあった。
 アルストグランを捨て、この男の手を取ったのは、はたして正しかったのか。アレックスにさよならも告げず、彼女の許を去ったのは正しかったのか。そしてマダム・モーガンの肩を撃ちぬいたことは正しかったのか。……考えれば考えるだけ、きりがないし、後悔は止まらない。
 だが、後悔したところで後戻りは出来ないのだ。アストレアは希望に縋ることをやめて、あの男と共に悪魔のような道を歩くことを選んだのだから。
 するとアストレアがした質問に、あの男が答える。
「然程遠くもないが、近いわけでもない。シドニーとキャンベラの距離間よりも、やや遠い程度だ」
「なるほど。たしかに、近くもないし遠くもないか。……じゃあ、車さえあればボストンに行ける?」
「やめておけ。今のボストンは四方八方をコンクリートの壁で囲われて、陸の孤島と化しているし、そもそもマサチューセッツに立ち入ることさえできない。州境の近くまでは行けるだろうが、その先には入れないだろう。それに入ったところで、観光するような場所は何もないぞ。瓦礫すらも、何もないからな」
 覇気のない声で淡々とそう答えたのは、すっかりと髪の色が変わってしまった元アーサー。アルストグランでは一度も見せたことがなかった、老人のように真っ白な髪をそのままに、彼はおんぼろのソファーの上で疲れたように横になっている。
 シャツもスラックスも乱れた状態で、どうしようもなくだらけた姿勢で、濃紺のアイマスクを目には装着して――そんな男の姿は、今日は一日中寝てやるぞと意気込む、休日のだらけた親父以外の何物でもない。『憤怒のコヨーテ』と仇名されるような貫録は、どこにもなかった。
 今の彼は『憤怒のコヨーテ』というよりも『昼寝中のホッキョクギツネ』といった感じだ。
「……それでなんだけどさ、ミスター」
「なんだ、シュリンプ」
「アンタのこと、僕はなんて呼べばいいの? アンタは、アーサーって呼ばれるのがイヤ。だけどアンタの本名は長ったらしくて言いにくくて、こちらとしてはご遠慮願いたい。じゃあ、なんて呼べばいいの」
「今のままで良いんじゃないのか。ミスター、それで十分。名前など不要だ」
 それは昨日の、夕方のこと。アルストグランを抜け出して、二人で北米にやってきた直後の話だ。
 あの男に手を引かれるまま、アストレアが連れてこられたのは、今も滞在中である、このおんぼろアパートの一室。来たばかりのときは家の中はまるで埃まみれで、生活するには相応しくない環境になっていた。そこでアストレアとあの男は、食事や睡眠よりも先に、この家の掃除を始めたのである。
 そんなこんなで、埃まみれだったこの家を手早く掃除した後。シャワーを浴びてくると言って、アストレアの前から彼は消えた。そうして数十分後、彼がアストレアの前に戻ってきたとき。彼の濡れた髪は見慣れた枯草色をしておらず、老人のような、または心労に体を蝕まれた者ような、色素の抜け落ちた真っ白い状態になっていたのだ。
 予想外の出来事にアストレアが驚くと、男はシニカルに笑った。そして男はアストレアに、あるものを見せてくれたのだ。それはアストレアにとってよく見慣れた色をしたカラーワックス。ワックスの色は暗いブロンドとも、明るいブルネットとも言い難い微妙な色、枯草色としか例えようがないあの色をしていた。
 かれこれ二十五年は、これを使っている。男はカラーワックスを指差して、そう言っていた。男曰く、二十五年前から少しずつ髪が白くなり始めて、二〇年前にはこの通り真っ白に変わってしまったのだという。以降そのまま髪色は戻ることなく、しかし白髪になった自分の姿を気に入ることがなかったため、カラーワックスを使い続けているそうだ。誰とも顔を会わせる予定がない日以外は、今も。
 そして男がアストレアに対し、自分の白髪頭を見せたのは、もう気を遣う間柄ではないと判断したからだそうだ。もう自分はボスでも何でもないのだから、威厳を保つ必要もなくなった、と。
「それじゃこっちが困るんだよねー。世の中に、ミスターって呼ばれて振り返る男性がどれだけいるか、アンタはご存知かな?」
「ならお前が考えろ、シュリンプ。お前が好きなように、私を呼べばいいさ。アーサー以外で」
「ねぇ、ミスター。その“シュリンプ”って呼び方、どうにかしてくれないかな。僕にはアストレアって名前があるんですけど。それに、アンタはなんで急に言葉遣いが荒れ始めたの? 今までの、あの堅苦しい喋り方はどこに消えたのさ」
「生憎、これが素でね。今はイカれ男を演ずる余力すらないんだよ。それにクソみたいなポエムを言う男よりも、率直な男のほうがお前も付き合いやすいだろう?」
「まあね、たしかに。でも素だっていう今も十分、アンタはイカれてると僕は思うけど」
「お前をニンニクで炒めて、ガーリックシュリンプでも作るかー。夕飯はそれでいいよなー?」
「はいはい、黙りますよ……」
 アーサーといえば、アストレアにとっては恐怖の象徴でしかなかった。彼の顔といえば、ムッとしているか薄ら笑いを浮かべているかのどちらかだけ。それに彼はいつもピシッと黒いスーツを着こなしていて、綺麗にセットされている枯草色の髪には大人の男特有の威圧感があって。そして彼は堅苦しい言葉ばかりを使い、交わす言葉と言えば業務連絡だけ。とにかく彼は冷徹な、心のないサイコパス。アストレアの中にある彼のイメージは、そういうものだったのだ。
 しかし、それがどうだろう。今ソファーの上で寝ている男のどこに、恐怖を感じるのだろうか。どうにも締まらない、やる気も覇気もない弛んだ調子で話す彼は、とんでもなく程度の低い荒んだ言葉を使いまくっている。それでいて、いつものような威圧感も無いのだ。
 それはそれは、まるで別人であるように。記憶だけはそのままで、性格がガラリと変わったように。
「そうだ。アンタの仮名さ、アルバってのはどう? それか、アルバス。たしかラテン語で、白って意味でしょ。アンタのその白髪頭にぴったりな名前だと思わない?」
 ふと、アストレアは思いついた言葉を口にする。アルバという言葉が飛び出た理由は単純なものだった。それはアストレアが今言った通り。髪がすっかり白くなっているから。それだけだった。
 すると、ソファーの上で寝転がっていた男がむくりと起き上がり、アイマスクを外す。何か気に障るようなことでも言ったのだろうかとアストレアは身構えたが、しかし男が見せたのは穏やかな笑顔だった。
 少し顔を俯かせてから瞼を閉じ、口角を少し上げて歯を覘かせ、それからゆっくりと顔を上げて目を開ける。――それは以前、アレクサンダー・コルトが教えてくれたこの男の特徴。本当に、心の底から笑う時にだけ見せるという、彼の仕草だ。アレクサンダー・コルトも、約三〇年になる付き合いの中で三回ほどしか見たことがないと言っていた、それ。アストレアがそれを見るのは、初めてのことだった。
 初めて見る、この男の人間らしい優しい笑顔。そして戸惑うアストレアに、男は言う。
「アルバ、か。良いな、それ。気に入った。……お前もそう思わないか、ギル」
 ギル。男の口から出たその言葉を聞いた瞬間、アストレアは背筋が凍り付くような気がした。この場にはアストレアと男以外には、誰もいないはずなのに。この男は、見えない何かに話しかけている。
 アーサーの時とは違う、また別の種類の恐怖をアストレアは今、感じていた。


次話へ