ヒューマン
エラー

ep.01 - Transfer

 時は西暦四二四六年。『空中要塞アルストグラン』こと、アルストグラン連邦共和国。かつての名をオーストラリアといったその大陸は、今や高度一五〇〇メートルほどの空を漂う空中都市(エアロポリス)となっていた。
 海路からは侵入不可能で、空路からの侵入も難しい。そんな性質から、気付けば要塞とさえ呼ばれるようになったアルストグラン連邦共和国。この国を支えているのが大型で永久機関のエンジン……――だとされていた。そして永久機関の大型エンジンは、未知のエネルギー物質によって可能となったと伝えられている。
 大型エンジンを動かす動力源は、まだ未解明な部分が多く残されているエネルギー物質『アバロセレン』。ここ二、三〇年ほどの歴史しかないその物質であり、そもそも『物質なのか光子なのか、はたまた全く別の存在なのか』ということも明らかになっていないのだが。しかしそれは今やアルストグランのエネルギーの全てを賄っている状況だ。電力を生むタービンを動かしているのはアバロセレンであり、車や飛行機を動かすエンジンの動力源にもなっている。そしてアバロセレンは核爆弾以上の威力を持つ兵器にもなり得るとも言われていた。アバロセレンという存在の性質は全くと言っていいほど解明されていない状態ではあるのだが、それが何に使えるのかは分かっていたのだ。
 謎めいた恐ろしい存在であるアバロセレンは、しかし全ての夢を叶えてくれるであろう素晴らしい代物でもある。少なくとも、アルストグラン連邦共和国に住まう多くの者はそう考えていた。
 しかし、アバロセレンがもたらす恩恵はそれを使用することにより発生するリスクとはとても釣り合っていないらしい。原子力発電に用いられるウランよりもタチが悪いと、高名な学者であるペルモンド・バルロッツィ氏は過去に述べているとか、なんとか。
 事実、アバロセレンを用いた発電所は他国でとんでもない事故を引き起こしていた。たしか、あれは彼是一〇年ほど前の話。何らかの理由によって暴走したアバロセレンのエネルギーが、北米合衆国の州ひとつを丸ごと消し飛ばしている。
 とはいえあれは他国の話だし、過去のことだ。
 アルストグラン連邦共和国に住まう多くの国民は、こう信じている。今は技術も進歩して安全になっているに違いない、と。政府のプロパガンダが狙ったとおりに浸透した結果だろう。実際には当時と何も状況は変わっておらず、技術も進歩らしい進歩はしていないし。なんなら、なぜ北米合衆国であのような事故が発生したのか、その理由さえも解明されていないのだが。
「どうしたんだぁ、怖い顔をして。パトリック・ラーナーさんよぉ? あぁっと、パトリシア・ヴェラスケスちゃんだったか? ヒヒッ」
 まあ、そんなことなど一国民の知ったことではない。それは彼にとっても同じだった。
「大した用が無いのでしたら、私は帰らせていただきますが」
 童顔にして低身長な男は、目の前に座る犯罪者を睨み付けると、そのような言葉を吐き捨てる。
 男の名前はパトリック・ラーナー。くりっと大きな二重瞼の目と極太げじ眉、そんな子供と見間違うような容姿をしているその男は、そんな見た目とは裏腹に、国の諜報機関『アルストグラン秘密情報局』通称『ASI』に勤める情報局員であり、れっきとした成人男性であった。
 対して、彼と向き合う男は恰幅が良く、縦にも横にも体が大きい。お間抜けな淡い水色のつなぎというアルストグラン流の囚人服を着ているその男は、だらしないビール腹を右手でボリボリと掻きながら、舐め腐ったようなネチャネチャとした笑みを浮かべる。そして囚人の男はパトリックを挑発するようなことを言った。
「パトリシア・ヴェラスケスちゃんは、そりゃぁ可愛かったなぁ。丸襟の白いブラウスに紺色のリボンタイ、それと淡いブルーのミニスカートに、濃紺のニーハイソックス、キャメル色のローファー。水色と白の格子柄の小さなリュックサックを小柄な背中に背負った姿は、可愛い可愛い十二歳の女の子にしか見えなかったぁ。……まさかその正体が特別捜査官、それも男だとは夢にも思わなかったぜ。ハハッ!」
 ここはニューサウスウェールズ州の郊外にある刑務所、特別面会室。パトリックが面会していたのは、彼が前職――彼はつい半年前まで、連邦捜査局に勤める特別捜査官だった――の時代に捕まえたシリアルキラーである。
 パトリックがここに居る理由はひとつ。前職時代の相棒が『豚箱に入れた豚が、死刑執行前にあなたに会いたいって言っているみたいなんだけど』と伝えてきたからだ。
 そういうわけでパトリックはここに来てやっていた。これでも少しの情けはある。死ぬ前に顔が見たいというなら、まあ見せてやらなくはないと彼は思ったのだ。ついでに死刑を前にして震えている囚人の顔を見るのも悪くはないだろうと。
 だが、気持ち悪くニチャニチャと笑う犯罪者の顔を見ていい気はしない。彼は不愉快さがこみあげてくるのを感じていた。そして不愉快な顔をした犯罪者は、身の毛がよだつ気色悪い語りを続けるのだった。
「パトリシア・ヴェラスケスちゃんの髪の毛は、カールが掛かってて、さらさらしてて、綺麗な栗毛だったなぁ。まるで俺の兄貴の嫁さんに……――いや、本当は俺の嫁になるはずだったあの女に、ソーニャにそっくりだった。けど、パトリシア・ヴェラスケスちゃんの髪の毛は、残念ながらフェイクだった。リッキーの髪の毛は、ストレートで真黒。まるで東洋人だ。醜い。美しくない」
 贅肉の鎧、みすぼらしくハゲ散らかした頭、無精ひげがまだらに生えている汚い顔、歯磨きを怠ったせいか歯が平均より少なく汚い咥内……。目の前にいる犯罪者の何もかもすべてが不愉快極まりなかった。
 ここまで耐えてきたパトリックの我慢も、ついに限界に達する。彼は徐に椅子を引き、ゆったりと立ち上がると、首に巻いていた黒いネクタイを少し緩めた。それから彼は「ふぅ……」と気を沈めるように息を吐く。続いて浅く息を吸った後、パトリックはこう言った。
「そろそろ、こちらのターンと行きますかねぇ……」
 パトリックと犯罪者。その二人を別ちながらも、しかし同じくもしているステンレスの机。それをジッと見下ろしながら、パトリックは表情を消す。続いて、彼はステンレスの机、その脚に繋がれて固定された手錠の鎖を見た。
 犯罪者が相手であったとしても、公務員が正当な理由なく暴力行為を働かないと相手は知っている。だからこそ相手は挑発的な言動を働いてきた。
 だが公務員が言葉の暴力を働かないわけではない。ましてパトリックはそこまでの道徳心を持ち合わせているタイプではなかった。誰かの心を傷付ける行為を働いたところで、痛む心というやつをパトリックは少しぐらいしか持ち合わせていない。
 故にパトリックは視線を上げ、相手の目を真っ直ぐに見る。それから嫌味にニヒッと笑うと、死刑を目前にした死刑囚への(はなむけ)として、恐ろしく冷酷な言葉を次から次へと発していくのだった。
「哀れなイーライくんは、自分が恥ずかしすぎて学校に通えなかったんですよねぇ。知能が著しく低く、運動も出来なくて、同級生よりも何もかもが劣っているから、いじめられていたんでしたっけ? そして不登校になり、社会から爪弾きにされ、唯一の家族だった兄にも見捨てられ、落ちこぼれのゴミになった。そうでしたよね」
「……やめろ」
「ですからあなたは子供を襲った。大人の女性は醜いあなたの相手などしてくれるはずもないですから、自分よりも力の弱い子供を襲ったんですよね? そういうクズを世間はなんと呼ぶか、あなたは知っていますか」
「……やめろ、やめろ!」
「犯罪者。変態。死ねばいい小児性愛者。人間のクズ。息を吸う資格すらない、ゴキブリ以下の存在」
「……やめろ、やめろやめろ!」
「薬剤での死刑なんて、あなたには生温(なまぬる)い。かといって絞首や銃殺ではあまりにもあっけない。被害者たちが味わった苦痛以上の苦しみを延々とダラダラと味わいながら醜態を晒して死ぬべきです。あなたには電気椅子がお似合いでしょう。頭から湯気を立ち上らせながら、肉を焼き、脳を焼き、異臭を漂わせ、穴という穴から体液をだだ漏らしながら、三日三晩かけて死ねばよいのです」
「やめろ、やめろやめろ、やめろおおっ!」
「死刑が非人道的だと騒ぐ弁護団体もありますが、私はそうは思いません。非人道的なのは死刑という制度ではない、真に非人道的なのは死刑を宣告されるほどの罪を犯した、あなたのような犯罪者のほうなのですから。あなたのような人間のクズは、被害者が味わった以上の苦しみを味わい、悶えながら死ぬべきだ。他者を踏み付けるようなクズに生きている価値も資格もない。私が国に納める税金があなたのようなクズの餌代に回るだなんて、そんなことは納得できません。更生の余地がある者ならまだしも、あなたのように更生する気も無さそうなクズを生かしておく理由なんてないですもの。税金を貪る薄汚い豚は、殺して肉塊にするのが一番です。それが世のため、人のためってやつでしょう。そう思いませんか、イーライ・グリッサムさん」
「やめろ、やめろ、やめろおおおっ! やめろって言ってるだろ!! やめてくれ、やめろ!!」
 イーライ・グリッサムと呼ばれた犯罪者――パトリックが九カ月ほど前に逮捕した、代替ペドフィリアの犯罪者。二十三人もの子供たちを誘拐して殺害し、死体を遺棄した連続殺人犯である――は大声をあげると、暴れ始めた。机の脚に繋がれていた鉄の手錠は引きちぎれると悲鳴をあげ、カンカンッという派手で耳障りな金属音が鳴る。すると複数名の看守が特別面会室に駆け付け、暴れる男を取り押さえると、元いた独房へと囚人を連行していった。
 パトリックは静かに椅子を押し戻すと、去っていく看守たちに軽く頭を下げた。それから彼は椅子の脇に置いていた愛用の鞄――仕事に関連した書類や、関連してない書類も含めて、大量の紙が詰め込まれた黒革の鞄である――を回収する。そして鉄格子に囲まれた特別面会室から出ると、鉄格子の外で待っていた女に声を掛けた。
「ノエミ、終わりましたよ」
 その言葉に、女は頷くという反応を示す。彼女は連邦捜査局本部に勤務しているノエミ・セディージョ特別捜査官。パトリックの元同僚で、かつての相棒だ。
 大してケアもされていない黒髪のボブヘアーと、化粧っ気のない小麦色の肌。ファッションに大してこだわりがないのか、無地でシンプルなもので揃えられた飾り気がなさすぎる服装。そんな彼女の姿は、パトリックの相棒だった頃の彼女と変化がない。
 そしてノエミは以前と変わらない屈託のない笑顔をパトリックに向ける。それから彼女はいたずらっぽくこう言うのだった。「もともと毒舌だったけど、更に磨きがかかって感じ悪くなったわねぇ」
「そうですかね。私は大して変わってないと思いますよ、あなたと同じで。それに、まだ半年しか経ってないですし」
「それで、脚の調子はどう?」
「ええ、まあ。そっちも特に変わりはないですよ」
 そう言うとパトリックは最後に、ギャーギャーと騒ぐ犯罪者の声がする方向を横目で見やる。そして彼は小さな声でノエミに言った。
「……あの様子から察するに、ヤツは最期に私へ文句が言いたかっただけみたいですね。となれば最初の被害者、ミラ・モレスの遺体の在り処を吐くことはないでしょう。ヤツの死刑が執行されるのは明日の早朝だというのに。力になれそうになく申し訳ない」
「仕方無いわ。精神分析官に協力してもらって、ミラが居そうな場所を絞ることにする」
 それで見つかるといいんだけど。そう呟いたノエミは、苦々しい表情を浮かべる。それから彼女はパトリックの右肩に彼女の手を置くと、続けてこう言った。「本当にごめんなさいね、リッキー。あなたはもう連邦捜査局の人間じゃないのに。急に呼び出したりしちゃって……」
「いいんです、気にしないで下さい」
 パトリックは笑顔を取り繕い、聞こえてきている犯罪者の罵声を聞き流す。ノエミと刑務所内の暗い廊下を歩きながら、彼はどうして今がこうなってしまったのかについて考えていた。そして、思考の一部が愚痴となって外へと零れ落ちていく。「……はぁ、連邦捜査局に戻りたい。ASIなんか辞めたいですよ」
「私も同じ。あなたに戻ってきてもらいたい。というか、どうして戻ってこないのよ。そもそもなんでASIになんか異動したわけ? 連邦捜査官からASIに異動なんて、私の知る限りじゃ前代未聞よ」
 パトリックの愚痴に、ノエミは質問をぶつける。そしてパトリックは訊かれたことについて正直に答えた。「妙な話ではありますけど……そういう辞令が出たからですよ。それも連邦捜査局のダルセン長官から、フェリス首相とウェズリー大統領の連名つきで。一介の公務員は従うしかなかったんです」
「人目を引いちゃう男はツラいわねぇ。権力者に目を付けられて、小児性愛者の変態女にも近付かれちゃって。ジークリットの件は本当にご愁傷様です」
「彼女の件はほじくり返さないで下さい。未だに、手錠を掛けたときの彼女の顔が夢に出てくるんですから」
 はぁ、とパトリックは溜息を吐く。その背中をノエミは平手で、檄を飛ばすように叩いた。「シャキっとしなさいよ、リッキー。アンタの取り柄は、根拠はないけどとにかく溢れてる自信でしょう?」
「それじゃまるで私が自信過剰みたいな」
「調子に乗りやすいきらいがあるってだけ。だから、さっさとジークリットのことは忘れて、新しい女性を見つけて、明るい未来を!」
「……また次の彼女が、ジークリットみたいな小児性愛者だったら? 私はたしかに子供と見間違われても仕方ない容姿をしてますけど、ですけど子供の代替品ってのは流石に酷いと……」
「あーっ、もう。リッキー、アンタにそんな顔は似合わないって言ってるのよ。背筋をしゃんと伸ばして、偉そうなくらいに顎を上げて、そのチビな身長を威圧で誤魔化して! それでこそ、パトリック・ラーナーでしょ!」
 バン、バン、バンッ! ノエミはしつこく彼の背を叩く。パトリックは彼女の攻撃から逃れるように離れると、こう言った。
「それじゃ、私はこのへんで。さようなら」
「また何かあったら頼むわねー」
 ノエミは去っていくラーナーの背を見送りながら、腕を組み、足を開いて立つ。そんな彼女は、根拠のない嫌な予感をひしひしと感じていた。
「……ASIか。リッキーのあの顔からして、やっぱりロクなところじゃないのね……」





 アルストグラン秘密情報局、首都特別地域キャンベラ市にある本部指令局。午前の“渉外業務”を終え、局に戻ったパトリックは、オフィスに戻るなり直属の上司に呼びとめられた。
『長官がお前を待っている。急ぎ、最上階の長官室へ向かえ』
 そうしてパトリックが向かった長官室。防弾使用の鋼鉄扉を前に、彼はひとり畏まって立ちながら、緩めたままになっていたネクタイを正した。それから彼は考える、なぜ長官が管理職についているわけでもない一介の局員を呼び出したのか、と。
パトリックは半年前に鳴り物入りで入局したような存在だ。となれば長官が名前を把握していたとしてもおかしくはない、だが……――。パトリックは首を捻りながらも、長官室の扉を叩こうとする。と、その前に、鋼鉄のドアが自動で開いた。
「イーライ・グリッサムと最期の面会をしていたそうじゃないか。それも連邦捜査局の特別捜査官と。彼女は、ノエミ・セディージョといったか」
 三重に閉ざされていた鋼鉄のドアがガチャンガチャンと順番に開いていき、ようやく長官室に至る入口が現れる。パトリックは少しの緊張から背筋を正して伸ばし、出来るだけ低い身長を誤魔化そうと努力した。そしてぱっちり大きな両目で、長官室の最奥にどっしりと構えていた白髪の老人を見る。パトリックの体はほんの少しだけぶるりと震えた……ような気がした。
「イーライ・グリッサムは何を君に伝えたのかね?」
 権力の象徴、革張りの黒椅子。その椅子に無表情で座る男は、パトリックに向けてそう問いかける。デスクの上で両手を組み合せ、その手で口元を隠すような姿勢をしているその男は、老いてもなお生命力に満ちていてギラついている真黒な目で、ラーナーを見ていた。
 彼こそ、現在ASIのトップを務めている人物。士官出身の政治家、『ワイズ・イーグル(穎悟(えいご)(わし))』ことバーソロミュー・ブラッドフォード長官だ。
「それは連邦捜査局の管轄では? アルストグラン秘密情報局が口を挿む問題では……」
 イーライ・グリッサムという犯罪者は、かなり注目を集めた連続殺人犯だったとはいえ。しかしその事件は連邦捜査局の管轄内にあり、ASIが口を挿むべき事案はない。国家の転覆や国のシステムそのものに害をなそうとする、大それたことを試みるタイプの犯罪者ではなかったからだ。
 だからこそパトリックはブラッドフォード長官の問いにそう答えたのだが、しかしブラッドフォード長官は詰め寄ってくる。
「君は、長官に隠し事をするつもりかね?」
 有無を言わせぬブラッドフォード長官の威圧が、パトリックの肩に重く圧し掛かる。しかしパトリックは視線を長官から逸らさぬように努力しながら、その一方で唇をぎゅっと噤んだ。
「……」
 非権威主義的かつ反骨精神旺盛なパーソナリティーの持ち主であるパトリックだが、そんな彼も『この長官には逆らわないほうがいい』ということを直感で察した。そして彼は黙り込むという選択をしたのだ。
 ブラッドフォード長官。彼はこの四十三世紀において最強とも評されるアルストグラン共和国空軍、それも精鋭が集う航空機動部隊に所属した経歴を持つ士官出身者だ。更に、彼の軍人としての最終階級は士官の最高位にあたる大将。そして出身大学は国内随一の名門校、セントラル・ビクトリア大学防衛学部と正真正銘のエリートである。そのうえアルストグラン秘密情報局長官の前には、国軍の全てを束ね、国の防衛にあたる国防軍政省の長官に任命されていた。
 そんな彼に対し、現大統領であるセドリック・ウェズリーは絶大な信頼を寄せているというのは周知の事実である。それにバーソロミュー・ブラッドフォードという男にケチをつけるマスメディアなど存在しない。何故ならすっぱ抜かれるようなスクープの種を隠し持っていない人物だから。
 国に忠誠を誓い、国に真っ直ぐ尽くす彼に、誰もが敬意を表する。つまり彼は、敵に回してはいけない政界の重鎮なのだ。彼に挑発的行為を働くべきではなく、また彼の前で余計な言葉も発するべきではない。
「まぁ、それはいい。本題に移ろう。入りたまえ、ラーナー」
「……はい」
 パトリックは長官の言葉に従い、恐る恐る前へと足を進める。そして長官室に彼が足を踏み入れた瞬間、鋼鉄の扉はガシャンガシャンと音を立てながら、侵入者を絶対に逃すまいとばかりに閉まっていった。
 逃げ道を塞がれ、覚悟を決めたパトリックは長官の目の前に移動する。彼は幼く見える顔の表情を強張らせると、大熊を狙うハンターのような目をした老人を前に息を止める。
 そして彼は長官と視線が合った。
「……」
「……」
 パトリックが緊張と恐怖から手に汗を握った、その瞬間だった。
 長官の視線がパトリックからずれた直後、長官はクスクスと笑い始める。峻厳さを感じさせるオーラを放っていた長官だったが、それは一瞬にして溶けて消え、長官からは茶目っ気に溢れた笑顔が飛び出した。
 この大変化にパトリックはあからさまな戸惑いを見せ、頻りに瞬きを繰り返す。すると長官は笑いながら言った。
「ラーナー、君の評判は聞いている。今までに例のない新人だと。先日もランスィカヤ連邦共和国のスパイから情報を引き出し、この国に送り込まれていた暗殺者の拘束に尽力したそうじゃないか」
「……あっ、えっと、はい……」
 長官の声色は、先ほどまでの威圧に満ちたものとは正反対。まるで冗談を言うような調子だった。
 呆気にとられるパトリックは、消え入りそうな声で短く返事をすることしかできない。そんなパトリックの様子を見て更に表情を温和なものに変える長官は、パトリックを困らせるような真似をしたワケを教えるのだった。
「突然長官に呼び出されたときに、その新人はどのような反応を示してくれるのか。それが気になってな。やはり新人は新人のようだ。まだまだ可愛らしいところが残ってくれていて良かった。いやはや、実に面白い」
 つまり、試されたってことなのか?
 目をぱちくりとさせたパトリックは、面白おかしそうに笑う長官をただ見つめることしかできない。たった数分の間に起きた温度差のありすぎる遣り取りが現実のものであったと、彼は信じられずにいたのだ。
 すると長官はデスクの中から徐に、一封の書類入りの封筒を取り出す。そして書類を執務机に置くと、パトリックに対して受け取るようにと無言で促した。パトリックは執務机に近寄ってそれを手に取ると、中に入っていたものを出し、書類に目を通す。そして書類は、疑いと混乱の狭間で挙動不審にぐらぐらと揺れていた彼を、一気に混沌とした現実へ引き戻した。「長官。これは、一体……」
「見ての通り、辞令だ。特務機関WACE(ワース)へ出向してもらう」
「どういうことです? ま、まだ私はここに来たばかりで、それなのに……――出向ですか?」
 その文書はパトリックにとって見覚えのある辞令だった。その書面にはブラッドフォード長官の名前は勿論のこと、大統領と首相の連名もついている。半年前、連邦捜査局からASIに異動を命じられたときの書類とまるで似たものだった。けれども異動先はかなり特殊。
 特務機関WACE。それはラーナーも噂でしか聞いたことがない、というよりも都市伝説に等しい執行機関の名前だ。
 通称、メン・イン・ブラック。隊員は漆黒の背広に身を包み、黒のサングラスを着用していると言い伝えられていることから、そう呼ばれている。その正体は謎に包まれているし、それに実在するかどうかも怪しかった。
 影から情報を操作して世界を操っているとか、誰にも知られずに悪い奴らをとっちめてる正義の味方だとか、宇宙人を捕まえて解剖したり実験したりしているだとか。その特務機関WACEとやらには、信用に値しない噂がそこら中に溢れかえり過ぎている。いうなれば、それは都市伝説の類として語り継がれているような存在だったのだ。
 当のパトリックも今この瞬間まで、特務機関WACEなど架空の存在でしかないと思っていた。それなのに、その都市伝説の機関に出向するようにという辞令が今、彼の目の前に存在している。
「ラーナー。君には先方とこちらを繋ぐ渉外役になってもらいたいのだ」
 ブラッドフォード長官の真黒な瞳がさながら品定めでもしているように、パトリックをじっと見ていた。そんな長官の目には人の生気を吸い取ってしまいかねないような独特の眼光が宿っており、その光は自然とパトリックを震えあがらせる。だが、パトリックは己をどうにか奮い立たせて疑問点を投げかけた。「しかし、なぜ私なのですか? ASIには他にも適任が居るはずです。新参者である私ではなく、現場の経験のある者が……」
「実を言うと、君にこの大役を任せることになった一番の理由は、WACE側が君を指名したからなのだ。君が使命された理由は私にも分からない。それに君の疑問は尤もであり、私も可能であれば手練れの諜報員を送りたかったのだが……――君の評判を信用し、君に賭けることにした」
 ぎゅっと握りしめていたパトリックの掌は、もう手汗でびしょびしょになっていた。彼の大きな目は極限まで見開かれているし、脚は緊張からかプルプルと震え始めている。ズボンの下に隠れている彼の足からは、ギシギシという機械の関節部が軋むような音がかすかに鳴っていたほどだ。
 そしてパトリックを震え上がらせるとどめの一撃が、長官の口から飛び出す。
「この意味を理解できるだろう、ラーナー」
 この意味が理解出来るも何も、その『辞令』はいやというほど彼にプレッシャーを掛けていた。
 書類には長官の署名がなされていて、その下には大統領と首相の直筆と思われるサインも続いている。ここには居ない政治家から注がれている期待もとい圧を、パトリックはそのサインからひしひしと感じ取らざるを得なかった。
「……覚悟はできています」
 辞令を握るパトリックの腕が震えているし、そう言った声もぶるぶると震えている。その姿はまるで、大きな肉食獣に遭遇した栗鼠のようだ。そんなパトリックの様子に、長官は込み上げてきた笑いを喉元でグッと堪える。
 そして長官はにやけそうな口元を手で覆い隠しながら、パトリックの背後にいつからか立っていた人物に合図代わりとして声を掛けた。
「アーサー殿。大変お待たせして申し訳ない。どうぞ、彼を連れて行って下さい。ですが万が一のことがあれば」
「アルストグラン秘密情報局、そして連邦捜査局は総力を挙げてWACEを潰しに掛かる、でしたかな。……その点については心配に及びませんよ」
 パトリックの背後から聞こえてきた声。それは長官のものではなく、別の誰かのものだった。
 つい先ほどまでパトリックの背後には誰も居なかったはず。そして気配もなかったはず。それなのに今、パトリックの背後には誰かが居た。
 そしてパトリックの背後から聞こえる声は、続けて言った。
「私たちの目的はふたつだけ。犠牲者の数を最小限に抑えること、そして不死者を抹殺する術を見出すことのみ」
 パトリックが声の主の姿を一目見ようと振り返ろうとしたのと同時に、彼の肩は後ろからガシッと掴まれる。そしてパトリックは、自分の肩を掴んだ人物の顔を下から覗き込んだ。
「それに、我々が裁くのは、法の手に余る厄介な愚か者だけですよ。無辜の民や、協力者である法の番人たちをみだりに傷つけたりはしません」
 パトリックの背後に立つ男は、長官のほうを向きながら冷淡な声でそう言う。
 その男はかなりの長身であり、且つ顔色がかなり悪く、肌は土気色が掛かった蒼白いトーンをしていた。更にその男は黒い背広を着用していて、目は黒いサングラスで覆い隠している。その姿はまるで、噂に聞いたことがある特務機関WACEの隊員そのものだった。
 また顔色の悪さも相まって、その男は墓の下から這い出てきたような生気の無さを帯びていた。枯草色の髪を掻き上げて後ろへと流し、少しだけワイルドな雰囲気を演出してこそいたが……――その男のことは『死神』とでも呼ぶのが相応しいようにパトリックには思えていた。それほどまでに男は薄気味悪く、そして人間でないように感じられたのだ。
 挙句、その男は本当に背が高く、塔のように細い。靴やインソールで多少盛っているせいなのかもしれないが、その身長は一九〇㎝に近いのではとパトリックには感じられていた。身長が一五五㎝もないパトリックとは雲泥の差である。この身長差もあって、パトリックは必要以上の威圧感および脅威を感じざるを得なかった。まるで切れ味鋭い長剣のような、そんな雰囲気を男は帯びていたのだ。
「その言葉、どこまで信用すべきかな」
 長官は真意を掴みかねるような曖昧な笑みを浮かべながら、アーサーと呼んだ黒い背広の男に疑問を呈す。するとアーサーと呼ばれた男はこのように切り返した。「軍事防衛部門高位技師官僚(テクノクラート)よりかは、信用に値すると思いますがね」
「ははっ、ペルモンド・バルロッツィか。たしかに、あれよりはあなたのほうが幾分か信用できそうだ」
 アーサーの切り返しに、長官は高笑いながらそう言葉を返す。……が、その直後に長官の表情は翳った。
 長官は執務机に両肘をつくと、机の上で皴と蔓のような血管が目立つ骨ばった手を組み褪せる。それから長官はアーサーの顔を見ると、真剣な声色でこのようなことを漏らすのだった。
「……あの男だけはどうにも好かなくてな。モーガンには悪いが、私はあの男を信用することが出来ずにいる」
 顰められた長官の眉を見て、パトリックは察する。長官は本当にペルモンド・バルロッツィという人物に不信感および嫌悪感を抱いているようだ、と。
 そして長官は続けて、長々と私見を述べた。「あのような男の一声で国の一存が決まりかねないと思うと、恐ろしくて仕方がない。強い意志や明確なヴィジョンを片鱗も持たぬ者に強力な実権が与えられることほど、愚かしい事態はないだろう。まして、あれは自我が恐ろしいほど希薄でありながら、何を仕出かすのかが一切予測できない存在だ。あれほど警戒すべき怪物も他に居ないというのに、為政者たちはあれを利用してやろうと目論み続ける。私には理解に苦しむよ。一切の欲望も意思も持たぬ者が何故あそこに居るのか、その理由を考える者が居ないことも実に嘆かわしい」
「同感です。官邸の者たちはエリーヌ嬢へ差し入れる菓子を選ぶよりも前に、その父親と手を切るための道筋を立てるべきでしょう」
 長官の嘆きに、上っ面だけの笑みを浮かべるアーサーは冗談を織り交ぜながら肯定する言葉を返す。すると、長官は小さく笑った。そして長官は今この場においては無関係とも思える言葉を零す。「――それにしても、懐かしい。そのボストン訛り、学友を思い出す」
「……」
「リチャードやモーガンから、あなたのことは聞いている。彼らの言っていた通り、あの父親に似ていないようで安心したよ」
 アーサーの言葉にわずかに染み出ているボストン訛りの話から転じて、パトリックの知らぬ誰かの話が飛び出てきた。
 半ば蚊帳の外に追いやられつつあるパトリックには全く理解できぬ話だが、しかし僅かに強張ったアーサーの表情から伺うに、彼らは今パトリックを差し置いて互いの腹の探り合い、もしくは何らかの牽制をしているようだ。
「あなたのような人材が国の中枢に居れば、私も少しは安心して眠れるようになるのですがなぁ。それが何故、かようなことになったのか……」
 長官はアーサーにそんな言葉を投げかけるが、その言葉は褒めているようにも探りを入れているようにも取れる。それに対してアーサーは、パトリックの肩から手を下ろしながらこのように返答するに留めた。「買い被りすぎではないでしょうか。私はただのメッセンジャー、それ以上でも以下でもありません」
「モーガンからは、彼女が持っていた権限の多くをあなたに委譲し、引継ぎを済ませたと聞いているが」
「ええ、まあ。しかしあくまで一時的なものですよ」
「彼女は一時的では済まなさそうだと言っていたが」
「かもしれませんね。とはいえ先のことは何も分からないものです。私にも、彼女にも、他の誰にとっても」
 長官からの問いを、アーサーはそれらしいふわりとした言葉でするりと躱す。そこで彼は長官との会話を強引に打ち切った。
 替わりにアーサーはパトリックに焦点を合わせる。背後からパトリックを見下ろす彼は、温和そうな低い声で――腕怠(かったる)いという心情をそれとなく匂わせながら――こう言った。
「それでは、ラーナー、少し話をしよう。君に幾つか説明すべきことがある。ひとまずそこに座ってくれ」
 パトリックはアーサーの言葉に従い、執務机の近くに置かれていたラウンジチェアに浅く腰を下ろす。彼は緊張から背筋を正した姿勢を維持することしかできず、その椅子でくつろぐことなどできはしなかった。
 そしてパトリックは怯えた小動物のような目で、前に立つ黒衣の男を見上げる。しかし真っ黒なサングラスに隠れているアーサーの目を窺い見ることは叶わなかった。
 ただしパトリックにもひとつ分かることがある。
「まず、パトリック、君を指名した理由についてだが、生憎私は何も知らされていない。それについては君を指名した人物、アイリーン・フィールドに直接訊ねてくれ。次に、彼女は――」
 特務機関WACEに所属する黒衣の男、アーサー。彼は見た目がそれらしいだけで、まるでやる気が無さそうな男だった。





 長官から呼び出されたあとにオフィスへと戻れば、パトリックは同僚たちから何があったのかと詰め寄られた。そういう感じでなんやかんやと騒がしかったような気がする、その日の晩。パトリックが左腕に着けている腕時計の針も午後八時を過ぎたころ。
「まさかだよ。リッキー、お前のほうから受診しにくるとは」
 パトリックはこのとき、『全てにおいて国内最先端』を謳っているキャンベラ国立大学病院を訪ねていた。そして彼が顔を出していたのは、友人が勤めている精神科だった。
 一日の勤めを終えたところで、診察室からちょうど出てきたところだった友人――マレー系の温和そうな顔立ちとやや陽に焼けた肌が特徴的な男で、いかにも軟派そうな空気を漂わせる精神科所属の後期研修医カルロ・サントス――は、他に誰も居ない待合室でひとり友人を待ち伏せをしていたパトリックを見るなり苦笑う。その顔は、どうしてお前がここに居るんだとでも言いたげだった。そんな彼は表情通りのことを漏らす。「……夢にも思っていなかった。あの強情なお前が、精神科に自分から来るとは。まさかだよ」
「精神は別に大丈夫なんですよ。至って正常で冷静。ただ、今日、自分の見たものが信じられなくて、相談したかったんです」
「それなら脳神経外科か眼科に行けばいいものを。それに幻覚だと分かる幻覚なら疲労蓄積のサインでしかない。別にわざわざ精神科に来るほどじゃあ」
「ええ、そうです。だから睡眠薬を出してくれれば、それでいい。とにかく、眠って頭を整理したいので」
「はいはい、分かったよ。望み通り出してやるって」
手に持ったタブレット端末を操作するフリをし、さも処方箋を出す準備をしている風な演技をしながら、カルロ・サントスは睨むようにパトリックを見る。それからカルロ・サントスは小言を零した。「……クソッ、お前のせいでノエミとの賭けに負けたじゃないか」
 元同僚ノエミ・セディージョと友人カルロ・サントスが、自分をネタにして賭けごとをしていた。その事実をこのとき初めて知ったパトリックは、大きな目を見開いて友人に抗議の視線を送る。すると友人であるカルロ・サントスは反省の色こそ見せなかったが、賭けの内容をあっさりと白状した。「お前が自分から精神科に受診しに来る日が訪れるか、そうじゃないかで賭けてたんだ。ノエミは前者、俺は後者だった。あーっ、俺の二十ドルが……」
「なに勝手に私で賭けごとをやっているんですか」
「文句なら言い出しっぺのノエミに言ってくれ。――それで、睡眠薬で良いんだったか。今晩の分、それとオマケで明日の分だけ出してやる。……親愛なる友人に感謝しろ」
「ありがとうございます、サントス先生」
「ただ、二日分で済まなさそうだったら、今度こそちゃんと受診しに来い。その時には今回のようなインスタント受診はナシだ」
 そう文句を言いながら今度はタブレット端末をちゃんと操作し、処方箋を出す手続きを進めていくカルロ・サントスは横目でちらりとパトリックの様子を窺う。どことなくソワソワした様子のパトリックが気になったからだ。
 このとき、付き合いも長い友人であるカルロ・サントスの直感が囁いていた。友人から話を聞いた方が、いや、聞き出したほうが良さそうだと。そこでカルロ・サントスはまず直接的に切り込むことにした。「さてと。処方箋が紙になって出てくるまで、少しの待ち時間はあるわけだ。その『自分の見たものを信じられない』っていう話を、少しだけでも俺に聞かせてくれ」
「カウンセリングは要りませんよ」
 パトリックはそのように即答する。しかしこれはカルロ・サントスの想定の範囲内。案外パトリックは押しに弱いところがあることを知っているカルロ・サントスは、そこを取っ掛かりとしてグイグイと詰め寄るのだった。
「別にそんなつもりじゃないさ。ほらー……――お前はちょい前に連邦捜査局から某所に移ったわけだろ? 単に、興味があるだけだよ」
「ダメです。仕事の話を、ここで明かせるわけがないでしょう?」
「だが、医者には守秘義務ってやつがあるぜ? 俺は職務に忠実な良い医者なんだぞ」
「それでも、です」
「なぁー。なら、洩らしたって問題ない範囲で良い。細部までは求めない。大筋ぐらい教えてくれたっていいだろ? リッキー、頼むよ」
 ぐいぐい、ぐいぐい。カルロ・サントスはパトリックに詰め寄る。しつこく、うざったいほどに。
 そんな友人から注がれる好奇の視線に耐えられなくなったパトリックは、遂に周囲をざっと見渡し始める。そして自分たちの近くに誰も居ないこと、及び少し離れた場所で忙しそうにしている職員たちが彼らに興味関心を示していなさそうなことを確認してから、パトリックはぼそっと呟くように言った。「……なんか今日、長官に呼び出された気がするんですよね」
 するとカルロ・サントスは息を呑む。そして彼はパトリックを二度見すると驚いた顔をしつつ、声を顰めながらパトリックに確認してきた。「……そ、それってまさか……あのバーソロミュー・ブラッドフォードか? あの『ワイズ・イーグル』が、お前を呼び出した?」
「でも多分、幻覚だと思うんです。私みたいな新人が、いきなり長官に呼び出されるだなんてあり得ないですし。それに、あの長官があんなお茶目な笑顔を見せるわけがない。だからきっと、あれは幻覚で、気のせいだったはずなんですよ。白昼夢か何かで、現実では……」
「いや。それは多分、現実だな。安心しろ、お前が起こしているのはパニック、ひどく混乱しているだけだ」
 そう言うとカルロ・サントスは、パトリックの頭をぽんぽんっと軽く叩く――まるで取り乱した子供を宥めるように。パトリックはその手を払い除けると、カルロ・サントスに向かって言った。「カルロ、あなたが信用に値する医者だったのなら、その言葉を信じるんですけどね。あなたはまだレジデントですし、それに――」
「青天霹靂な出来事で、現実に起こったことなのか信じられないんだろ? お前が何を長官から言われたのかは知らないが、その様子から察するに、何か大きな仕事でも与えられたんだろうな。信じられないほど大きな、何か」
「……」
「まあ、な。千載一遇のチャンス、または史上最悪のピンチを目の前にして、杞憂から強い不安や恐怖を感じることは、誰にでも間々あることだ。それにお前はまだ、ジークリット・コルヴィッツの件から立ち直ってない」
「ジークリットの話はやめて下さい」
「だからこそ、まずお前がやるべきことは、こんがらがっている頭の中の整理だ。その為には、家に帰ってぐっすりと寝る。本当はカウンセリングが一番なんだが」
「カウンセリングは拒否します」
「と言うと思ったよ。だが、俺は受けるべきだと思うがな」
 するとカルロ・サントスは「少し待っていてくれ」と言うと診察室の中へ戻り、そして処方箋とメモ紙の二枚を携えて待合室へと出てくる。それから彼はパトリックに紙二枚を手渡すと、こう言った。「はいよ、処方箋だ。この病院のすぐ向かいにこじんまりとした薬局があるから、そこに行くといい。あそこなら在庫なしって言葉と縁なしだからな」
「そりゃ、どうも」
「あと、診察料。諸々込みで、ざっと七十八ドルぐらいか? というわけで、あそこの受付で支払いを宜しく。あっ、受付のミセス・ガロワにこの紙を見せれば話は通るからな。それと、彼女に払うチップを忘れずに」
 この紙、とカルロ・サントスが指差して示したメモ紙には、乱雑な殴り書きの字で『インスタント初診』と書かれていた。
 七十八ドルという想定外の額になった出費、及びインスタント初診という初めて聞く妙な言葉に驚くパトリックは、唖然とした様子で友人カルロ・サントスを見る。が、カルロ・サントスは笑顔を浮かべながらこう言うだけだった。
「悪いが、友人割引なら効かないぞ。それじゃ、今日は帰れ。ゆっくり休んで、ぐっすり寝ろよ」
 そう言うとカルロ・サントスは待合室を出て、廊下へと消えていく。そんな彼の背を見送りながら、パトリックは処方箋とメモ紙を握りしめつつ受付を見やった。
 受付のカウンター内に座っている受付係の中年女性は、パトリックに対してにこやかな笑みと冷ややかな視線を向けている。そして受付係は「こちらに来い」とでも言うように、パトリックに向けて無言の手招きをしていた。


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