ヒューマン
エラー

ep.07 - Suspect

 パトリックが遁走を引き起こしていた間、忙しいノエミはキャンベラ国立大学病院に出向いていた。
「チーフ、彼が失踪したというのは本当なんですか!」
「ああ、本当だ」
 血痕だけが残された病室に佇むトーマス・ベネット特別捜査官は、腕を組み、患者が居なくなったベッドを見つめている。そして彼は現在の状況をノエミに教えた。
「彼の家に捜査官を送ったが、自宅には帰っていないそうだ。娘とも、同居人のケイヒル氏にも連絡は取っていないらしい。それに病院中の監視カメラの死角を掻い潜って逃げたのか、どのカメラにも彼の姿が映っていないんだ。まったく、どこに消えたんだかな……」
 そう言い終えると鼻の頭を掻くトーマス・ベネット特別捜査官は、白いシーツに染みついた血液と、床に点々と滴り落ち、窓枠の前で途切れている血痕を注視する。その横でノエミは、小さな声で言った。「彼は、窓から飛び降りたんでしょうか? けどここは三階で、下はコンクリート。落ちたら一たまりもなさそうですが……」
「空を飛んだとか? 口笛をぴゅーっと吹いて、ドラゴンを呼んでさ、背にまたがって……。それか窓から飛び降りて、忍者のように華麗な着地を決めて逃げたか」
「チーフ、ふざけないで下さい」
「そうカリカリするな、ノエミ」
 笑うトーマス・ベネット特別捜査官は、眉間に皺を寄せて力むノエミの背を、ぽんっと軽い力で叩く。それから彼はこう言った。
「それにしても、バルロッツィ高位技師官僚には困らされてばかりだ。彼が忽然と失踪することに、俺はもう慣れたよ。俺たちがわざわざ探さずとも、彼は数日もすりゃ自分から出てくる。力んだところで無駄だ」
 ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚。彼もパトリックと同じタイミングで、姿を晦ましていたのだ。





 カルロ・サントス医師の自宅で一日を過ごした、翌朝のこと。この日、パトリックは自宅で目覚めた。バスルームでシャワーを浴びて寝汗を流したパトリックは、朝食を作ろうかとキッチンに向かう。するとキッチンから、油がはねる音が聞こえてきた。
「……?」
 アイリーンが、この間の件を経てもまだ懲りずに料理でもしているのだろうか?
 パトリックは一瞬そう思い掛けたが、しかし彼は首を傾げる。今朝は焦げ臭いにおいがしていなかったからだ。それどころか、かなりいい匂いがしている。バニラのような甘い香りが家の中に充満していたのだ。
 アイリーンがまともな料理を作れるようになったのか。それともアイリーンがバニラエッセンスでもぶちまけて、大惨事を引き起こしたのか。そんな可能性を想定しつつ、パトリックはキッチンの扉を開ける。
 そこには、パトリックにとっては見覚えのない白髪の大男と、その大男に向かって一方的に話しかけ続けているアイリーンの姿があった。
「――……ッ?!」
 するとパトリックの存在に気付いたアイリーンが、彼に声を掛けてくる。アイリーンは、怒っているとも、呆れているとも、安心したともつかない顔をしていた。「はろー、パトリック。一昨日は急に消えたりして、本当に心配したんだからね」
「……すみませんでした」
「んでさ、パトリックのクローゼットの中から金属の脚みたいなのが出て来たんだけど、あれって何? 人形でも作ってるの?」
「ああ、それは私の脚ですね。義足のスペアです」
「義足? ……パトリック、義足だったの!?」
「ええ。両足ともに、膝から下が。大昔に事故というか、事件に巻き込まれまして。そのときに足がぼろぼろになって、回復が見込めないからと切除するしかなかったんです。それで、今はこんな脚に」
 そう言うとパトリックは履いていたズボンの裾をぺろっと捲ってみせる。捲れたズボンの下から覗いた黒い(くるぶし)に、アイリーンは目を丸くした。そして彼女は小さな声で言う。リアルなサイボーグだ、と。
 それからアイリーンは一度咳払いをすると、キッチンで黙々とフレンチトーストを――甘い香りの発生源は、このフレンチトーストだったようだ――焼いている白髪の大男の顔を見る。そして彼女はパトリックに白髪の大男を紹介した。
「パトリック、紹介するね。この人は、ケイ。WACEのひと。WACEきってのマッチョで料理上手。彼のことも宜しくね」
 アイリーンがそう言うと、ケイと呼ばれた男は包丁をまな板の上に置き、パトリックに握手を求めてきた。パトリックも握手に応じる。そしてパトリックも簡単な自己紹介をした。
「アルストグラン秘密情報局、欧州情報分析部のパトリック・ラーナーです。宜しくお願い致します……」
 パトリックはにこやかな作り笑顔を浮かべる。しかし内心は、自分よりも頭ふたつ分以上は大きい男を前に、ひどく緊張していた。
 パトリックは背が低い。身長は一五〇㎝もない。対してキッチンに立つ白髪の大男の身長は、ゆうに二mを越えていそうだった。そのうえ、白髪の大男は体格も良かった。肩幅も六〇センチはありそうだ。腕は、ちょっとした街路樹の幹ぐらいの太さがある。また服の上から透けて見える彼の腹筋は、煉瓦を張り付けたのではないかと思うくらい、くっきりパッキリと割れていた。
 そんな大男は皺が目立つ顔に自然な笑みを浮かべ、握手を交わすパトリックに向かって軽く頭を下げる。しかし、筋骨隆々で感じの良い初老の大男は、ひとことも言葉を発しなかった。するとアイリーンが言葉を挿む。
「ケイじーちゃんは喋れないの。ちょい昔に、鷲鼻クソ眼鏡に首を斬りつけられたことがあってね。命は助かったんだけど、声帯が壊れちゃってさー」
「鷲鼻クソ眼鏡……?」
「ペルモンド・バルロッツィのこと。軍事防衛部門の高位技師官僚」
 意外なタイミングで、アイリーンの口から飛び出した人名にパトリックは眉をひそめる。
 ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚。彼はたしかに正常では無さそうな気配を放っていた。自分を護っていた要人警護部隊を邪険に扱い、強引なやり方で追い出すぐらいの狂気は宿していたことだろう。
 しかし、だからといえ人殺しまがいの真似を……――
「……高位技師官僚が、彼を、斬った?」
「そう、ケイじーちゃんを斬ったの。それも首を狙って。――元老院から命令が下ったから特務機関WACEを壊滅させるって言って、鷲鼻クソ眼鏡は片っ端から当時の隊員を殺していった。それも一人で。そうして私たちは四人だけになったんだ。私とケイ、サーとマダムの四人だけに」
 アイリーンの言葉に、白髪の大男はこくりと頷く。しかしパトリックには、アイリーンの言葉が信じられなかった。
 と、そのとき。パトリックの携帯電話にメールが届く。差出人はノエミだった。
 パトリックはメールを開き、本文に目を通す。アイリーンも中を覗くように見た。
「……」

 明日にもASIのほうに連絡が行くとは思うけど……
 一昨日の晩、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚が失踪しました。
 もし見かけたら、私かチーフに連絡して下さい。
 追伸。カールが食中毒になりました。
 誤って食用じゃないキノコを食べたことが原因だそうです。

「高位技師官僚が、失踪……」
 高位技師官僚が失踪したことについて、パトリックは驚いていなかった。同じ時間帯に自分自身も失踪していたことも理由の一つだが……――パトリックは薄々感じていたのだ。あの人なら逃げそうだと。要人警護部隊を追い払おうとしていたのも、それが理由だったのだろう。
 しかしパトリックにとって問題は、高位技師官僚が今どこで何をしているかではない。人を探すのは連邦捜査局の仕事だ。パトリックにとって一番大事なのは、どうして彼が失踪したのかという点であり、その理由を突き止めることが――
「あぁ、そうだ。鷲鼻クソ眼鏡なら、サーが拉致したの。彼に大けがを負わせて動きを封じ、立って歩けるけれども暴れられないぐらいに回復したら連れ出して、そして尋問するのが目的だったんだ。その前の段階であなたが彼の娘か、もしくは彼本人から何か聞き出せたら、それで終わりにするつもりだったんだけど。結局、彼は口を割らなかったしね。仕方ないよ」
 アイリーンがあっさりと告白した事実に、パトリックは唖然とする。拉致して尋問、でも仕方がないと言ったアイリーンの言葉を、パトリックは受け止めきれなかった。
 しかしアイリーンは戸惑うパトリックのことなどお構いなしに話を続ける。
「サーが色々やってるらしいけど。全ッ然、口を割らないんだって。そもそも彼はサーには何も話すつもりはないっていう態度を維持してるっぽいし。うちらじゃお手上げかも」
「……それは、強敵ですね」
 犯罪行為なのでは、とツッコミを入れたくなる思いを押し殺すパトリックは、アイリーンの話の腰を折らないような苦し紛れの相槌を打つ。そうしてパトリックが話をちゃんと聞いているようなふりをしてみせれば、アイリーンはニコリと笑った。
 そして彼女はパトリックを真っ直ぐ見つめると、彼に宣告する。
「そこで、パトリックの出番ってワケ。ケイじーちゃんが作るご飯を食べてから、鷲鼻クソ眼鏡がいるとこに向かうよ。――というわけで今日は忙しくなるから、覚悟しといてね」
 そう言うとアイリーンは、パトリックに書類の束とボイスレコーダー、それと五冊の手帳を渡す。パトリックが目を瞬かせると、アイリーンは呆れたような声で言った。「この書類には、ここ二週間で私が掴んだ情報が書いてあるの。それとボイスレコーダーには、傍受した通話の音声が記録されてる。んで、この手帳は、ワイズ・イーグルから渡されたものでしょ」
「ええ、長官から私が受け取ったものです。……けれど、どうしてそれを知っているんですか?」
「もともと、この手帳一式をワイズ・イーグルが保有しているってことは掴んでいた。その手帳を、昨日私はパトリックの鞄の中から発見した。ということはワイズ・イーグルからあなたが受け取ったと考えるのが自然。そうでしょ?」
 パトリックの鞄の中を、パトリックの許可も得ずにアイリーンは漁っていたらしい。しかしパトリックはもはや驚かなくなっていた。彼はただ、アイリーンを始めとする特務機関WACEの面々の非常識さ、ないし法令などクソくらえという態度に呆れ返るのみ。
 そういうわけでパトリックが鞄の中を勝手に漁られたことについて抗議をしないでいると、これをアイリーンは許容されたと判断。そしてアイリーンは次の話題に移った。「というわけでね、パトリック。これらの記録を全部、午後三時までに頭の中に入れてね。分かった?」
「えっ、これを全部?」
「トラヴィス部長から習ったでしょ? 尋問の基本はあらかじめ相手を知っておくことだって。だからそれを全部、その大きな頭に叩き込んで」
 パトリックは壁に掛けられた時計を見る。今は午前八時ちょい前。猶予は七時間しか与えられていない。
「いやぁ、流石に七時間でこれ全部は……」
 記録の山を見ながら、パトリックはごねた。
「人の限界ってものがあるでしょう?」
 書類の束はA4規格の紙で、ざっと五百枚近くはありそうだ。そして一枚一枚に小さな文字で、情報がぎっしりと詰め込まれている。これを全部というだけで気が遠くなりそうだというのに、更にボイスレコーダーを聞かなければならず、ブラッドフォード長官から渡された故人の手記まで読まなければならない。
 それを七時間でやれとアイリーンは要求した。しかしパトリックは、そんなことは無理だと感じている。
「あんねぇ、パトリック……」
 するとアイリーンは途端に不機嫌そうな顔をした。そして彼女は、実に(もっと)もらしいことを言う。
「本当はね、一昨日の夜からこの作業に取り掛かって欲しかったの。休暇を掛け合ったのもそれが理由なの。つまりパトリックが現実逃避なんかしてなかったら、猶予はもっとあったんだよ?」
 パトリックは受け取った書類の束を、両腕でがっちりとホールドする。そして苦し紛れの笑顔を取り繕うと、彼は頷いた。
「すみませんでした。今すぐ取りかかります」
 そんなアイリーンとパトリックのやりとりを、キッチンに立ちフレンチトーストを焼いていく白髪の大男は微笑ましそうに見守っていた。
「とりあえず、イェラ実験の周りを固めといて。多分、サーが知りたい情報はそこら辺だから。緑色の付箋を貼ってあるページのあたり」
 アイリーンはそう言うと、パトリックに背を向け、この家を出て行く。彼女には彼女の仕事があるようだ。





 午後三時。予告通りの時間にパトリックの家に戻ってきたアイリーンは、パトリックをある場所に連れていった。そこはシドニーの郊外にある業務用の貸倉庫。その一角で、拷問道具一式を背にして悠然と佇む黒衣の男アーサーが彼らを待っていた。
 そして、アーサーの後ろにはもう一人の男も居た。
「……ハッ。新米くんのお出ましか」
「ペルモンド。無駄口を叩く余裕があるなら――」
「労力の無駄だと思わないのか、アーサー。俺を叩いたところで何も出てこない。ただ、邪魔な虫が進路を妨害するように湧いてくるだけだ。にも関わらずお前は無駄なあがきをする。なぜだ?」
 椅子に縛り付けられ、手足の自由を奪われ、塞がったばかりの傷口を開かれ、また腹部から血をだらだらと流し続けていてもなお、余裕そうな素振りをしてみせる男の名は、ペルモンド・バルロッツィ。軍事防衛部門を取り仕切る、高位技師官僚そのひとである。
 そしてパトリックの此度のミッションは、高位技師官僚から少しでも多く情報を絞り出すこと。
 今すぐにでも救急車を呼びたくなるような様子の高位技師官僚を前に、パトリックは彼の中に残っている善意と遵法精神を抑え付ける。そうして覚悟を決めたパトリックは椅子に縛り付けられる高位技師官僚の前に立つと、彼に挨拶をするのだった。
「……バルロッツィ高位技師官僚。暫しお付き合いを」
 そんなパトリックは断片的にだが、アーサーと最初に会った際に言われたことを出しつつあった。
「さて、まずは――エリーヌさんの話をしましょう」
「……」
「エリーヌさん、彼女はあなたの血を継ぐ娘だとはとても思えないほど、純朴で美しい方でした。高潔な彼女はしかし哀れなことに、あなたのことを何も知らない。父親の本当の顔を知ったとき、彼女はどう思うのでしょうか……?」
 道化の騎士、ディナダン卿。アーサー王伝説群に登場する彼は、大した武勲を持っていない。彼はそれなりに優れた槍の腕を持っているものの、上には上が大勢いたのだ。
 ランスロット卿、ガウェイン卿、トリスタン卿、ガレス卿、パロミデス卿、ルーカン卿、そしてアーサー王……。ディナダン卿は試合で、だいたい負けている。圧倒的な力の差で打ち負かされたり、落馬させられたり、一撃で気絶させられたり、戦わずに逃げたり。やるときはやる男なのだが、他の騎士たちと比べると勇ましいエピソードを持っていない騎士である。
 しかしディナダン卿は、武勲ではない別の場面で活躍する。彼は実に口が達者だった。その言葉は、恋に悩める情けない男たちの背を押し、そっと励ます。反面、気に入らない人間を貶めることもあった。
 そしてディナダン卿は、非常に優れた観察眼を持っていた。思慮深く、それでいて深い洞察力を持っていた彼は、仲間たちから頼られることも多く、敵からは恐れられていたのだ。
「バルロッツィ高位技師官僚、あなたはどう思います?」
 パトリックに与えられた役目は、アーサー王伝説群に登場するディナダン卿と同じ。道化であり、目なのだ。
そしてアーサーは初めて会ったとき、パトリックにこう言ってきた。君はあの男と雰囲気や目付きがどこか似ている、と。
 その言葉が意味するものを、パトリックは掴みかねていた。アーサーのあの言葉は何らかの意味があったのかもしれないし、もしかするとただその場で思ったことを言っただけだったのかもしれない。しかしパトリックには、それが何らかの意味を帯びていたように感じられていた。
 高位技師官僚と自分が引き合わされたのには何らかの理由があり、そして必然であったのかもしれない。なぜだか今は、そんな気さえもパトリックにはしていた。
「さあな、どうだか」
 しかし目の前の男は、文字通りの強敵だった。ガードが固く、付け入る隙はどこにもない。
 それに場の主導権を彼はすぐに握ってしまう。主導権を握りたいパトリックであったが、先手は空振りに終わり、高位技師官僚がイニシアチブを奪い取ってしまった。
「お前たちが何の情報を求めているのか。それくらい分かっているさ。……そしてパトリック・ラーナー、お前の立場のことも。お前には同情するよ、こんなワケの分からん事態に巻き込まれ、さぞ混乱していることだろう」
 ひどい有様の高位技師官僚は、口許だけの不敵な笑みを浮かべながらそう言う――彼の目は前に会った時と同様に、ただ冷たいだけで感情がまるでなかった。そしてパトリックは、大袈裟に肩を竦めて同情を乞うような仕草で対抗する。「意外ですね。分かっていてくれていたのですか? なら、その情報を明かしていただけると、私としては非常に有難いのですが……」
「しかし情報を手に入れたところで、どうする? アーサー、お前に出来ることなど何もないぞ」
 けれども高位技師官僚はパトリックの演技に振り回されない。彼があくまでも見ていたのは、今はパトリックの背後に控えて様子を伺っているアーサーのことだけ。そして高位技師官僚はアーサーに向けて、こう述べた。
「むしろお前が干渉するだけで、ことがひっくり返る可能性もある。お前は気まぐれすぎてアテにならないからな。だからこそ俺は俺一人で動きたいんだ。俺の邪魔をしないでくれないか」
 高位技師官僚の青紫色の唇に湛えられているのは、余裕そうな微笑。しかしその姿は、余裕があるようには見えなかった。
 ぼろぼろの体は、失血性のショック症状を見せている。顔色は悪い。呼吸は浅く、早い。四肢はときおり痙攣を起こしていた。それでも高位技師官僚は頑なに情報を漏らすことを拒んでいる。
 パトリックの手元にある情報と言えば、アイリーンが掴んだという「イェラ実験」という名前だけ。しかしイェラ実験が何なのかが、パトリックには皆目見当がつかなかった。そこでパトリックは、アイリーンから渡された資料に記されていた事項をただ復唱することにした。
「あなたはちょうど一か月前、サンレイズ研究所から掛かってきた電話に対して、怒鳴り散らしていたそうですね。あなたが出席した会議に同じく参加していた、ある議員の秘書がそう証言していたようです」
「そういや、そんなこともあったかもしれないな」
「相手は、あなたが形だけとはいえ一応所属していることになっている研究所の所長、ライオネル・ヨーク氏だという情報もこちらでは掴んでいます。会話の中でヨーク氏は、イェラ実験という単語を口走っていたようですが……」
「イェラ実験か」
 その言葉を聞いた高位技師官僚は、フッと鼻で笑う。すると高位技師官僚は、アーサーを憐れむような目で見た。「お前はまた噛みつくのか、元老たちに」
「……ほう。やはり連中が絡んでいるのか」
 パトリックの背後に立つアーサーは、高位技師官僚の言葉にそう返す。すると高位技師官僚は曖昧な答えをアーサーに与えた。
「さあ、それはどうだろうな」
 どっちとも付かない高位技師官僚の言葉に、アーサーは顔をしかめる。そしてパトリックも僅かに眉をひそめた。
 元老たち。聞いたことがあるようで無い気もする言葉に、パトリックが彼の心もとない記憶を掘り返し始めたときだ。高位技師官僚がまた何かを言いだした。
「俺は、俺の天秤に基づいて動いているだけだ。連中に従っているわけではない。娘、そして優秀だからこそ危なっかしいテレーザを守るために表向きは従う素振りをみせているだけだ。だがもう一人は違う」
「それは……――」
 アーサーもまた何かを言いかけたが、しかし彼は言い掛けた言葉を途中で呑み込み、黙る。すると倉庫の隅で機械をいじくっていたアイリーンが、大慌てで機械を片付け始めた。
 そしてアイリーンが、焦った声で言う。
「パトリックの携帯電話がハッキングされました! 彼の携帯電話から連邦捜査局に、ここの位置座標が送られています!」
 パトリックは慌てて彼の携帯電話を確認する。いつの間にか一件のメールがノエミ宛てに送られていたのを彼は発見した。
 送信済みボックスからパトリックはメールを開き、彼が書いた覚えのないメールの内容を見る。中身はアイリーンが言っていたとおり、貸倉庫の緯度経度と住所が記載されていた。
 そしてノエミからの返信も、十五分前に届いていた。

 了解。今すぐそちらに向かう。

「……まずいですね」
 連邦捜査局の動作は、驚くほど速い。まどろっこしい事務処理を極限まで簡略化し、彼らはすぐ動ける態勢を常に整えているからだ。そしてノエミからの返信が十五分前なら、ここに連邦捜査局が到着するのも時間の問題。残された時間は二、三分ぐらいだろうか。
 悪人をとっちめる側だった頃は、その速さを当然のものだと思っていたパトリックであるが、いざとっちめられる悪人側に立ってみると、その速さは実に厄介なもので……。
パトリックは腕を組み、黙りこくる。彼はなんだかもう、何もかもがどうでもよくなってきていた。そして彼は魂が抜けたような顔でこう言う。
「おそらく、連邦捜査局は五分もしないうちにここへと到着するでしょう……」
 段々と近付いてくるサイレンの音を想像しながら、パトリックは思った。ノエミに手錠を掛けられるならそれで構わない、と。
「……」
 積み上げてきたキャリアが音を立てて崩れていくような気が、パトリックにはしていた。そして彼は心の中で呟く。
 ああ、連邦捜査局時代の功績たちよ。特務機関WACEだなんて存在に目を付けられたばかりに、全てが泡あぶくのように消えて、もれなく刑務所に……――
「パトリック! 悪いけど、私たちは逃げる!」
 機械の全てを回収し終えたアイリーンは、パトリックに向かってそう言った。同時に、連邦捜査局の到来を告げるサイレンが遠くから聞こえてくる。
 そしてアイリーンはパトリックに手を振り、無責任すぎる台詞を言い放った。「連邦捜査局を、うまく誤魔化しといてね!」
「私は置き去りですか?」
「そう、その通り! 四時間後に家で落ち合おう、それじゃ!」
 機械を抱えたアイリーンは、アーサーの傍に駆け寄る。そして二人は、煙のように消えて行った。
「……誤魔化せって、そればっかりじゃないですか……」
 そうして貸倉庫に残されたのは、パトリックと高位技師官僚、それと拷問器具だけになる。パトリックは項垂れ、自分だけ取り残されたことに静かな怒りを感じていた。
 すると項垂れるパトリックに、青白い顔をした高位技師官僚が話しかけてくる。人を小馬鹿にしているような笑い声を含んだ調子で、彼は咳き込みながらこう言った。
「パトリック・ラーナー、お前はアーサーのことをどう思っている?」
「それは、その……」
 パトリックは一瞬、悩んだ。アーサーがどこかで聞いているかもしれないと。だがパトリックは遅れて気付く。アーサーらが盗聴可能な機械、つまり眼鏡型通話デバイスをこのときは着用していなかったことに。
 というわけでパトリックは判断する。それなら、まあ正直な本音を話してもいいのかもしれない、と。高位技師官僚に本音を明かせば、あわよくば助け舟を出してもらえるかもしれないという淡い期待を、パトリックは抱いてもいた。
「正直に言うと――彼というか、彼らが何をしたいのか、それが私にはさっぱり分からないんです。私は一方的に巻き込まれて、やれと命じられたことをただ遂行しているだけの身ですから。ですので、私はこの任務に関する情報を大して教えられていません。あなたから情報を引き出せと、それだけしか命じられていないぐらいです。具体的に彼らが何を求めているのか、それすら手探りの状態ですよ」
 高位技師官僚はパトリックの率直な言葉を受け取ると、ハッと高笑う。そして高位技師官僚はニヤリと笑い、何かを企むような顔でこんなことを唐突に言ってきた。「……これはひとつ、貸しだ」
「貸し?」
「この縄を解いてくれ。そしてこれから来る捜査官に言うんだ。自分が高位技師官僚を見つけ、助けたと。あとの根回しは誰かしらがやるだろう。――それから、お前のメールアカウントを乗っ取ったのはこの俺だ。悪かったよ」
 パトリックは疑うように高位技師官僚を見る。何故ならば彼は先日、見ていたからだ。高位技師官僚が一瞬で屈強な男を薙ぎ倒した場面を。パトリックも同じような目に遭うのではと、そんな気がしたのだ。
 そうして疑うパトリックに、高位技師官僚は念を押すように言う。
「ともかく今はこの場をやり過ごすことだけ考えろ。それに俺は逃げも隠れもしないさ。……少なくとも今は」
 どこまでこの男を信用するべきか。パトリックは判断に迷ったが、ここは彼に従うべきだという結論を下した。そしてパトリックは拷問器具の中からナイフを選び取ると、そのナイフで高位技師官僚の手足を縛り付けていた縄を解いた。それからパトリックはナイフを元あった場所に戻し、高位技師官僚に問う。「それで、次は何をすれば良いのでしょうか? あなたに肩を貸し、立ち上がる介助でも――」
「いや、俺に構わなくていい。それよりも、あそこに居る捜査官を丸め込むことに集中してくれ」
 高位技師官僚の蒼い目は、パトリックの後ろを見ていた。パトリックも振り返り、背後を見やる。
 そのときちょうど貸倉庫の扉が開けられ、暗かった倉庫に光が差した。逆光の中に見えた影は、拳銃を構えたノエミとトーマス・ベネット特別捜査官の二人。そしてノエミの声が聞こえてきた。「リッキー、そこに居るのね?」
「ええ、ここに居ますよ。早く、こちらに来て下さい」
 しらばっくれた顔で、パトリックは連邦捜査局の特別捜査官二人を呼び寄せる。そんなパトリックの後ろで、高位技師官僚は静かに笑顔を消していた。
 そして高位技師官僚は何かを呟くように言う。その直後、力尽きたように彼は床に倒れ込んだ。
「……高位技師官僚!?」
 パトリックは倒れ込んだ高位技師官僚の傍により、彼の首筋に触れる。脈拍は弱く、今すぐにでも途絶えてしまいそうだった。そして高位技師官僚の体は体温を失い始めていて、屍のように冷たくなりつつあった。また呼吸は止まっている。当然、意識は途絶えていた。
 今度こそ危ない。パトリックはそう感じていた。
 何故なら高位技師官僚は満身創痍の状態だった。銃弾を十何発も喰らった傷がまだ癒えていなかったというのに、今度は拘禁と尋問。幸いにも拷問道具が使用された形跡はなかったが、とはいえそれは問題ではない。
 高位技師官僚の傷口は開いていて、また侮れない量の血が出ている。早く対応しなければ最悪のことが起こりかねないだろう。
「救急車を、早く!!」
 パトリックはノエミらに向かい、叫ぶような大声でそう言った。
「急いでください!」
 しかし、そう叫ぶパトリックの頭の中で、いつか聞いたアーサーの言葉が木霊していた。
『ご安心を。あの男はくたばりませんから』


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