ヒューマン
エラー

ep.11 - Pervert

 午後一〇時に時計の針が振れる、その少し前。シドニー某所にある、夜の喧噪から少し離れたところにあるバー。その店のカウンターに三つの人影があった。
「私ね、すっごーく思ったのよ。アイリーン、彼女は本当にサイッコー。手際が早いのよ。早い、もう早すぎる。物事の十番手先まで読んでるって感じ。頼もしいハッカーよねー。彼女の力があったからこそ、あなたが一時間弱で見つかったのよ。リッキー、あとで彼女によくお礼をしておくことねー、分かったぁー?」
 お酒が入り、すっかりできあがったノエミは大口を開けて、けたけたと笑う。そんな彼女の右隣には、寝落ちしたカルロ・サントス医師の姿があった。しかし左隣りには誰も居ない。するとカウンターの内側でグラスを磨いていたバーテンダーが、ノエミに声を掛けてきた。
「お客さん。あなたの左隣には誰も居ませんよ」
「なに言ってるのよ、バーテンさん。リッキーは、あれ、リッキーは……?」
 三〇分前。そこのカウンターには、四つの人影が合った。蒼い顔をしたカルロ・サントス、アルコールで真っ赤になった顔のノエミ・セディージョ、変に上機嫌になったパトリック・ラーナー、それと冷静なバーテンダー。しかしいつの間にかパトリックが居なくなっていたのだ。
 ノエミは狭くもなく広くもない店内を見渡す。ぽつぽつと人が居る。だがパトリックの姿は見当たらない。病院で借りた車椅子に乗った、子供っぽい見た目の男は、店内に居なかった。
「ちょっと、カール! 起きて、起きてってば! リッキーが居なくなっちゃったんだけど!!」
 混乱するノエミは、隣で眠りこけるカルロ・サントス医師の肩を揺するが、彼は一向に起きる気配を見せない。あーっ、もうどうしたらいいの! ノエミは声を上げる。
「リッキーは、どこに消えたのよ!」
 そんなノエミの問いに、バーテンダーが答えた。
「車椅子に乗ってた小柄な彼なら、常連客にお持ち帰りされて行きましたよ」
「ぬぁっ!?」
 ノエミは椅子から腰を浮かし、前のめりになると、バーテンダーに詰め寄る。
「……お、お持ち帰りって、どういうこと?」
 クールにすかしたバーテンダーは、言った。「レヴィンって名前の、ブロンドの美人。小柄な彼は、レヴィンといい雰囲気になってましたよ。そのままレヴィンが彼の車椅子を押して、どっかに行ってしまったんで、まあきっと……そういうのでしょ」
「レヴィン?」
「困った常連客でしてね。レヴィンは手当たり次第、男に声を掛けるんです。特に、ちょっと気が弱そうで、ムードに流されてしまいそうな人を選んで。とはいえ大抵の客はレヴィンを相手にしないんですが、小柄な彼は人が好かったんでしょうね。もしくは、レヴィンに騙されたのか……」
 ノエミはアルコールで鈍った頭を可能な限り働かせ、記憶を辿る。そういえば先客に、ブロンドの美女が居た気がするような、しないような。くりんくりんのカールが掛かった長い金髪をしていて、濃紺のパーティードレスを着ていた……っけか?
 ということは、女性に連れて行かれたってことなの……か?
「り、リッキーは女の人に、お持ち帰りされちゃったってことなんですか?」
 あわあわとするノエミは、バーテンダーに訊く。するとバーテンダーは困ったような顔をして、真実を言った。「いいえ。その理解は少し、違いますね」
「理解が違うって、どういうこと?」
「レヴィン。あれは女装家というか……まあ、その、女性に扮したゲイってところですか? たしかにレヴィンはそこいらの女性よりもずっと綺麗なんですが、やっぱ男ですからねぇ。承知の上ならまだしも、騙されてないといいんですが……」
 なんですと。
 酔っ払ったノエミの脳内に、雷に打たれたような電流が走る。驚きの余り、開いた口が塞がらない。と、そのとき。それまで眠りこけていたカルロ・サントス医師が、むくりと起き上がる。彼は寝起きの舌ったらずな喋りで、会話に割り込んできた。
「……そのレヴィンってのは、ストリッパーのレヴィンか?」
「お客さん、よくご存じで。そうです、あのレヴィンです」
 バーテンダーは不思議そうな眼で、カルロ・サントス医師を見る。そんなバーテンダーの目は、よくそんなコアな情報を知っているな、と言いたげだった。
 するとカルロ・サントス医師は、その情報を知っているワケを話す。
「……そいつは、俺の勤務先でも常連なんだ。よくリチウム中毒を起こして搬送されてくるんで、厄介者扱いされてんだよ。はははっ。こりゃリッキー、とんでもねぇのに捕まったぞ……」
 そう言うとカルロ・サントス医師は、再び眠りにつく。その横でノエミは、駄目もとでパトリックに電話を掛けた。しかしパトリックは応答しない。
「……」
 ノエミの冷や汗は止まらない。嫌な汗も止まらない。また悪い人間に誘拐されたのではと、気が気でなかったのだ。
 そうしてノエミが通報しようかと迷った瞬間、パトリックが通話に応じた。……のだが。
「リッキー、ねえ、今どこに――」
 電話に出たと思った瞬間、ブツッと切られた。再度ノエミは掛けるも、即座に通話は切られる。これは意図的に切られているなと彼女は察した。良い感じのムードを邪魔されたという風に、ブツッと……――。
「…………」
 ノエミは静かに電話をカバンの中にしまう。そしてカウンターに突っ伏し、泣きだした。
「…………うぅっ、リッキー。そんなぁ…………!」
 するとバーテンダーがノエミの肩に、そっと手を置く。そしてこんなことを言った。「失恋ですか。それも男に、男を取られたようで」
「失恋なんかじゃないわ! ただ、なんていうか、その……」
「……と、いいますと?」
「可愛い可愛い弟が拉致された気分! もう最低最悪、なんなのよ、もう! 今朝だってリッキーは……――どうして彼は懲りないのよ?! 意味分かんないッ!!」
 バーテンダーはそっと手を離し、怒り狂うノエミを冷めた目で見る。その横で夢の世界に片足を突っ込んでいる状態のカルロ・サントス医師は、寝言で「……レッドカード……」と呟いた。





 そこはまるで生活感の無い、モデルルームのような部屋だった。
 使われた形跡があまり見られない家具たち。水あかが見当たらない、アイランドキッチンのシンク。すかすかの食器棚に、ほんの少しだけ収納された皿。劣化の見られない、ヴェルヴェットの赤いカーテン。傷が付いていないフローリングの床。服が少ないクローゼット。普段ここで彼女――もしくは、彼――が生活をしていないことは、すぐに分かった。
「人類の長い歴史の中でも、西暦三〇〇〇年代は黄金時代と呼ばれた。水瓶座が人々の心を支配する、情報飛び交う風の時代。科学は随分と進歩を遂げ、文明はそれ以上の無い最高点に到達したと言われてるわ。人々には豊かで寛容な心を、機械には独自の知性を、大地には緑を、海には青を。空を行き交う乗り物、高層ビルが立ち並ぶ街、他の惑星に移住した人々、可愛らしい動物たち。西暦四一六二年に起きた世界大戦により終わりを告げた、旧世界の美しい姿……」
「……」
「そして今の私たちの生活は、黄金時代のそれとはかけ離れている。大戦の戦火を逃れたライフラインで、辛うじて命を繋いでいる。生活水準は、二十一世紀の初頭レベルよ。科学のレベルもそれくらいに落ちた。悲しいものね」
「んー。世界史の授業ですか?」
「いいえ、そんな難しい話じゃないわ」
 ベッドの上でごろんと寝転ぶレヴィンは、ベッド脇のオットマンにただ座っているだけのパトリックにそう言うと、妖艶に微笑む。その笑みは、今朝に見た偽物のノエミよりも色っぽかった。
 そんなこんなで、話が弾んでしまった流れでレヴィンの自宅に来てしまったパトリック。酒豪が揃うラーナー家五人兄弟の中でも、桁違いにアルコール耐性のないパトリックは今、自制心と思考力を大きく欠いた状態にあった。牛乳多めで度数の低いカルーア・ミルクを少し舐めただけで、この有様だ。
 ちょっとのお酒で気持ち良くなって、なんとなくニコニコ笑っていたら、彼女――つまりレヴィン――が話しかけて来て、よく分からないけど意気投合して、それで今、こうなっている。パトリックは自分がいま置かれている状況を、冷静に把握できていなかった。
 けれども、なんとなく分かっていた。今の自分は、色々な意味であり得ない状況に置かれていると。先ほどはレヴィンにそそのかされて、ノエミからの電話をブツッと切ってしまった。今朝のこともあって、彼女はあらぬ誤解をして押しかけてくるかもしれないし。何かを誤解して今頃泣いているかもしれないだろう。
 そんなこんなでパトリックは思う。もう何もかもが、どうでも良い。どうにでもなれ、と。そんなパトリックは上機嫌そうにニコニコ笑いながら、ブロンドの長い髪を乱れさせたレヴィンを見つめていた。するとレヴィンは、持論を展開し始める。
「私はね、思うのよ。黄金時代はたしかに素晴らしかったんだろう、って。それまでは宗教的な理由でタブーみたいに扱われてた性事情が、黄金時代でぱあーっと解禁されたんですもの。男には女性型のセックスロボが作られて、女には男性型が作られた。けどね……」
「……?」
「男好きの男のためのものはないし、女好きの女のためのものも存在しないの。黄金時代にも、存在しなかった。性的少数者は、いつでも無視される。そして白い目で見られるの。同性を抱くなんて理解出来ない、って。私からすれば、冷たい機械で満足してる人種のほうがよっぽど、異常だと思うのよ。理解に苦しむわ」
「僕も、そう思います。理解出来ませんよ」
 ああ、また空気に同調してるだけの言葉が出てしまった。――頭の片隅にある冷静なパトリックはそうツッコミを入れる。その言葉は自分の意思で発せられているものではないのに、と。
 パトリックはレヴィンに後ろめたさを感じていたが、パトリックと同じくアルコールに浮かされているレヴィンは全く気付いてい無さそうだった。
「パトリック、あなた本当に最高よ!」
 機嫌を良くしたレヴィンはベッドから起き上がると、パトリックの小さな体にむぎゅっと抱きついてくる。しかし最低限の理性が発動したパトリックは、やんわりとレヴィンを引き剥がすことに成功した。
 パトリックはそれとなくレヴィンを拒否したワケだが、幸いレヴィンは気を悪くしなかった様子。再びベッドにごろんと寝転ぶレヴィンは、言葉の続きを語った。
「私、あなたみたいな人が本当に好きなの。小柄でしゅっと細い男の子。あなたはどこまでも、私の理想通り。運命のような出会いだわ。神様も時には、ご褒美をくれるものなのね!」
「うーん、褒めていただけるのは嬉しいんですけど。そういうのは受け付けてないんですよねー。お喋りだけなら付き合いますよー」
 パトリックがとぼけた声でそう答えると、レヴィンはフフフと笑いかけてくる。
「それで構わないわ。ディナーを一緒に食べながら、お喋りしてくれる相手が欲しかっただけだから」
 レヴィンの笑顔に笑顔を返すその一方で、パトリックの頭の中にはある男の顔が思い浮かんでいた。
 男はサッカーの審判に似た服を着ていて、口にホイッスルを咥えている。彼はホイッスルをピーッと吹き鳴らすと、レッドカードを掲げていた。
「あなたの手料理は最高でした」
 パトリックが見ている白昼夢の中でレッドカードを掲げていたのは、カルロ・サントス医師だ。パトリックの頭の中で彼はずっと、口に咥えたホイッスルをピーピー鳴らしている。そしてカルロ・サントス医師は言うのだ。
 リッキー、目を覚ませ! 現実に戻ってこい!!
「カルロっていう友人の作るパスタよりも、圧倒的に美味しかったです……」
 正常に働かないダメな脳をどうにか動かし、上手く回らないもつれた舌で、パトリックは適当な言葉を紡ぐ。
「……すごく、その、すごく……」
 どうしよう、続きの言葉が思いつかない。そう思った刹那、ぶつっと意識が途切れる。そこから先は、闇の中に消えた。





 そうして迎えた翌朝のこと。
「前からよく分からないトコがあるとは思ってたけど、今度の一件でリッキーのことがもっと分からなくなったわ。私は、彼をどういう目で見ればいいの? 彼は、ノンケじゃなかったの? だって、ガールフレンドが過去に居たわけだし……」
 ノエミの声が、聞こえる。
「なんで、それを俺に訊く? 俺はそこまで把握してないぞ。それに、ラーナーをどういう目で見ればいいのかってことに関しちゃ、俺が一番戸惑ってるんだが?」
 カルロの声も、聞こえる?
「まぁまぁ、お二人さん。パトリックのことは、そこらへんで終わりにしといてさ」
 アイリーンの声も、聞こえた。彼女は続けて、こう言う。
「とりあえずレヴィンが悪い人じゃないってことが分かって良かったじゃん。わざわざ酔っ払って撃沈したパトリックを、ここまで運んできてくれたわけだし」
「それにファッションセンスもギャグのセンスも最高よね、彼女。リッキーが本当に可愛く見える。これじゃまるで女の子よ……」
 そう言ったノエミの声には、どこか怒りが満ちていた。
 うっすらと意識を取り戻したパトリックは重たい瞼を閉じたまま、呼吸を浅くし、彼らの会話を盗み聞く。なんとなく、今このタイミングで起きてはいけないような気がしたのだ。
 そしてノエミが言った。
「ふりふりな水色のロリータドレス。黒髪ロングツインテールに、ぱっつん前髪のウィッグ。お顔にはバッチリとメイクが施されちゃって……。これ全部、レヴィンがやったんでしょ?」
 それに対し、アイリーンは淡々とした声で事実のみを並べていく。「って、彼女は言ってたね。その間パトリックはずっと寝ていたとも。声を掛けても揺すっても目が覚めなかったから、面白いかなって思ってドレスアップしたって」
「この女装は、少なくともリッキーの意思じゃない、ってこと……よね?」
「そう思いたいね」
 ノエミとアイリーンの間で交わされる穏やかじゃない会話に、狸寝入りを決め込みつつ耳をそばだてるパトリックは、嫌な汗が全身の毛孔から噴き出るのを感じていた。
 女装。ロリータドレス。どれもパトリックからすれば「なんのこっちゃ」という話だ。しかし、その会話が嘘だとは思えなかった。何故ならパトリックの股下が今、やけに寒いのだ。これはズボンを身に着けているような感覚ではない。そしてパトリックはその感覚に心当たりがあった。
 あれは、イーライ・グリッサムの事件のとき。パトリックは“パトリシア・ヴェラスケス”という名の、架空の少女に扮した。そのときに穿いたミニスカート。あれと似たような気持ち悪さを今、パトリックは体感している。間違いなく今、彼はスカートを穿いていたのだ。
「……で、カール。男性としては、リッキーのことをどう思う?」
 ノエミのデリカシーのない問いが、カルロ・サントス医師を責める。するとカルロ・サントス医師は、オブラートに包むことなく正直にストレートに答えた。
「ああ、そうだな。一〇〇点満点。しかしそれも女であればの話だよ。……やっぱり男は駄目だろ。男が、ここに居る女どもより可愛いなんて、そんなのはあんまりだ。理不尽すぎるぜ……」
「あ?」
 カルロ・サントス医師の言葉に、ノエミが露骨な怒りを露わにした。
 しかしカルロ・サントス医師はノエミに臆することなく、ノエミに対しても、そしてパトリックに対しても失礼な話を続けた。
「ノエミ、お前はリッキーのこの可愛さを越えられるのか? 俺には分かる、お前には無理だ。何故ならお前は、男であるリッキーよりも色気がない」
「百歩譲って、色気がないことは認めるわよ。ボーイフレンドなんか、居たためしがないし。けどね、リッキーと比較されるなんて、あんまりだわ!」
 ノエミは憤慨する。もっともな怒りだと、パトリックは思った。
 そうしてノエミがカルロ・サントス医師に掴みかかり、彼の鼻をつまんだとき。アイリーンは二人のやり取りに水を差すようなことを言う。
「……ねぇー、二人とも。その話はそろそろやめた方がいいんじゃなくて?」
 そう言うとアイリーンは、ソファーの上でがくがくと震えながら、カルロ・サントス医師を睨みつけるパトリックを指差した。
「今の話、パトリックに全部聞かれてるよ」





 私とカルロの二人は、あなたの為に休暇を取ったのよ。イーライ・グリッサムの脱獄騒動からブラッドフォード長官暗殺が立て続けに起こったあとに、あんな事件が起きたんだから、あなたのことが心配になって。精神的にぐらついてて、危ういんじゃないかって。だからあなたの傍に、今日一日は居ようかと思ったんだけど。それに対するあなたの反応が、あれなの?
 ノエミは、そう言った。あれとはつまり、レヴィンのこと。レヴィンを擁護し、彼女は何も悪くないとパトリックが言ってしまったために、ノエミの機嫌を損ねてしまったのだ。
 ならレヴィンを悪者にすれば良かったのか? ……いや、それは違う。だって彼女に付いて行ったのは、パトリック自身の意思だ。
「……」
 精神的にぐらついてて、危うい。そんなノエミの憂慮は、見事に当てはまっている。今のパトリックは万全といえる状態じゃなかった。
 だからコロっと、優しいレヴィンに落とされてしまった。けれどもレヴィンがパトリックの心の弱いところにつけ込んできたわけじゃない。パトリックのほうが付け入る隙を与えたのだ。
「……はぁーっ、さっぱりだ。理解出来ない単語ばかりが並んでる……」
 そんなレヴィンに謝罪のメールを送ったパトリックは今、自分のものではない手帳を読みこんでいた。
 聞き慣れているが、意味は理解していない精神医学の専門用語がずらりと並ぶ手帳の表紙には、ブリジット・エローラという女性の名前が書かれている。その手帳は以前、バーソロミュー・ブラッドフォード長官から渡されたものだった。
 ブラッドフォード長官は言っていた。これから先、この手帳がきっと役に立つ、と。しかし長官は、いつ、何に役に立つのかまでは教えてくれなかった。
「……解離、解離、解離。解離の文字ばっかりじゃないか。彼も、解離性障害を患っていたのか……? いや、でもここには“解離性同一性障害”って書かれてる。なんだ、この違いは……?」
 パトリックは既に、このブリジット・エローラの手帳と共に渡されたリチャード・エローラ医師の手記のほうは読み終えていた。アイリーンに急かされたが為に、急いで読んだのだ。だが、せいぜい分かったことと言えば『リチャード・エローラ医師は当時、ペルモンド・バルロッツィという青年にひどく執心していた』ということと『ペルモンド・バルロッツィという人物が、いかに奇人で偏屈であるか』ということくらい。潔癖で、豚肉が嫌いで、手が出るのが早く口も悪く、情緒不安定で、一人にされるとすぐに高所から飛び降りようとする。それぐらいのことしか分からなかった。つまり手記からの収獲はあまりなかったのだ。
 というわけで、手を伸ばしてみたのがブリジット・エローラの手帳。五冊あるうちの、一冊目だ。
「……分からない……」
 だが手帳に書かれている内容が、パトリックにはさっぱり理解出来なかった。先ほども言ったように、手帳に並んでいるのは手帳の主と同じ精神科医だけが分かる専門用語ばかり。それと分析家が好んで使いそうな、遠回しな言葉がこれでもかと綴られている。
 これじゃまるで……純文学よりも、よっぽど難解でくどい読み物を読んでいる気分だ。
「おい、リッキー。さっきから解離がどうのとか言ってるが、なぜ俺に訊かない。ここに専門家が居るってのに」
 意味の分からない文章を前に、険しい表情をしてみせるパトリックに、カルロ・サントス医師は声を掛ける。
「それにな、リッキー。俺の家に押し掛けて来ておいて、俺と一言も口を利かないってのはどうなんだ」
 ブリーフ姿ではなく、ちゃんと上下に服を着ているカルロ・サントス医師は、車椅子に座るパトリックの横に椅子を置き、そこに座った。
 パトリックは手帳を膝の上に置く。そして頭を抱え、悲鳴にも似た声で叫んだ。
「だって、私の自宅にはノエミとアイリーンが居座っているんですよ?! 二人で酒盛りして、昨晩のことで私を責めて(なじ)るんです! それにカルロ、あなたは!」
「ああ、そのだな。あれは本当に、すまなかったと思ってる。……お前が起きていて、話を聞いてると思わなかったんだよ」
 パトリックから目を逸らすカルロ・サントス医師は、鼻の頭をぽりぽりと掻く。カルロ・サントス医師はパトリックの顔を真っ直ぐに見ることができなかったのだ。そうして顔を見られない代わりに、カルロ・サントス医師はパトリックに言う。「俺が悪かった。だから、頼む。俺の前で涙目になるな」
「……涙目になんか、なってません」
「なってる」
「なってない」
「あーぁ。ったく、お前は……」
 拗ねた子供のように唇を尖らせるパトリックは、何か物言いたげな顔をしている。けれどもカルロ・サントス医師は、何も聞かない。今ここで自分が何かを言えば、パトリックは退行を起こし、感情をむき出しにしてくることが予測できていたからだ。
 ……というか、パトリックは既に退行を起こしている。レヴィンという人物にほいほい付いて行ったことが、その証明。こうして文句を言いながらも、カルロ・サントス医師のところにパトリックが来たことも、彼が退行を起こしていることを証明しているようなものだ。
 パトリックの心は、限界の寸前に迫っているのだ。過度なストレスに晒されたことにより、感情のコントロールが利かなくなっている。パトリックは見ての通り自暴自棄になっていた。そしてパトリックは安心できる居場所を求めるばかりに、言動が子供っぽくなっているのだ。
 そういうわけで自宅に居られなくなったパトリックは、理解者であるカルロ・サントス医師の家に転がり込んできたのだ。
 時刻は夕方の六時。酒盛りをするにはまだ少し早いのではと、カルロ・サントス医師は呆れる。そして彼はノエミのことで溜息を吐いた。何があってもリッキーを責めるなと忠告したはずなのに、と。
「それでだ、リッキー。その手帳、俺にも見せてくれ」
 見せてくれ、と言いながらも、カルロ・サントス医師は手帳をパトリックからふんだくった。続けて、彼はテーブルの上に置かれた残りの四冊も自身の傍に引き寄せる。そしてパトリックはカルロ・サントス医師から手帳を取り戻そうとした。
 しかし時すでに遅し。カルロ・サントス医師は手帳の表紙をまじまじと見つめる。それからカルロ・サントス医師は、パトリックを疑うような目で見た。「……リッキー。この手帳、もしやペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚の、死んだ奥さんのものじゃないのか? ブリジット・エローラって、そうだろ?」
「なっ、なんで、それを……?!」
「実は、その。臨床医としての俺の師匠は、高位技師官僚の昔の主治医だったみたいなんだよ。師匠は当該の患者については何も教えてくれなかったが、ただブリジット・エローラと敵対してたとかで、よく彼女のことをボロクソに罵っていた。だから興味があったんだ。師匠でなく、彼女の側の言い分に。だが、まあ――……どこでこれを手に入れたのかは敢えて聞かないでおく」
 カルロ・サントス医師はそう言うと、忌むような目で手帳を見つめる。だが彼の手は手帳を手放すどころか、ページを捲っていった。
「ふーむ、冒頭は彼女の愚痴か。ペルモンドに『一方的に付き纏ってくるストーカー女』呼ばわりされた、か。ストーカーについては師匠から聞いた通りだな。へぇー……」
 カルロ・サントス医師は、黙々と手帳を読み進めていく。その速度は速いもので、パトリックの倍以上はあっただろう。彼はてのひらサイズの手帳の見開きページを、二分弱というスピードで読み終えていく。
 脳が正常に働かず、何も出来ないパトリックは、カルロ・サントス医師の顔だけをじっと見ていた。困惑したような顔に、目には涙を浮かべて。
 それから十五分が経過した頃、カルロ・サントス医師が口を開く。そして彼は言った。
「差し支えなければ、この手帳をしばらく借りていいか。……実に興味深い症例が、事細かに書かれている貴重な資料だ。じっくりと読ませてもらいたい」
 カルロ、彼は何を言っているのだろう。パトリックは首を傾げ、きょとんとする。するとカルロ・サントス医師はニカッと白い歯を見せて笑い、パトリックの頭をわしわしと掴み、撫でた。
「決まりだな。読み終わったら所見を出そう。そんでお前にもこの手帳の中身が分かるように解説してやるよ」
 そのままカルロ・サントス医師はパトリックから手帳を取り上げてしまう。五冊すべてを。パトリックはおどおどと狼狽え、手帳を返してくれとせがむが、カルロ・サントス医師は返さない。
 彼の好奇心が返却することを許さない。それも、一理ある。しかし返さないということには、彼なりの考えがあった。「それで、リッキー。明日は仕事に出るのか?」
「……ええ、まあ。これ以上、特例の休暇をもらうわけにはいきませんし。部長に迷惑がかかるし、それに同僚にも……」
「そうか。なら、今晩はゆっくり休め」
「……でも自宅には、ノエミが」
「ここに泊まっていけばいいだろ」
 カルロ・サントス医師がそう言うと、パトリックは途端に嫌そうな顔した。「……なんか、それは怖いです」
「あー、分かった。分かったよ。誓って言う、男に興味は無い。俺の好みはシングルマザーだ」
「……」
「というわけだ。俺は今晩、リビングのソファーで寝る。そんでお前は、俺のベッドで寝ればいい。これでいいな?」
「ですけど」
「俺の言うことを聞いてくれ。頼むから、な?」
 するとパトリックは渋々頷いた。よし、それでいい。カルロ・サントス医師はそう言うと、パトリックの頭をぽんぽんと撫でる。子供にするような手つきだった。しかしパトリックはこれといって不快感を示さない。
「良い子だ、リッキー」
 本音を言えばカルロ・サントス医師は、パトリックは今の仕事を辞めるべきだと考えていた。パトリックはASIを辞めるべきだし、パトリックは今まさに就いている任務から離れるべきだと、そう感じていたのだ。
 カルロ・サントス医師は気付いていた。パトリックが自ら精神科を訪ねてきたときから何かが狂い始めていたと。そのときのパトリックはあやふやな記憶から、バーソロミュー・ブラッドフォード長官の名前を出した。それから間もなくして、ワイズ・イーグルは暗殺された。
 それにパトリックの過去に纏わる因縁も再浮上し始めた。イーライ・グリッサムは獄中から解き放たれ、パトリックを襲おうとした。寸でのところで神風が吹き、パトリックの体は無傷で済んだが、目には見えない精神的なダメージは計り知れない。
 それに最近、またパトリックは誘拐されたという。それもどういうわけか、ワイズ・イーグルの暗殺犯である男、エズラ・ホフマンに。あとノエミの話によれば、当初ワイズ・イーグル暗殺の容疑を掛けられていたのはパトリックであるという。
「……なあ、リッキー」
 パトリック・ラーナー。彼が何か大きなものに巻き込まれていることは分かっていた。そしてアイリーンという女が登場してから、パトリックがおかしくなりはじめたことも分かっていた。
 ならパトリックからアイリーンという女を引き剥がせば問題は解決するのだろうか? 答えはノー。カルロ・サントス医師には、それで全てが終わるとは思えなかった。それにアイリーンはアイリーンで、パトリックのことを気遣っているようだし。一方的に彼女がパトリックを利用している、というわけではなさそうだ。またアイリーンという人物は、パトリックの前の婚約者であるジークリット・コルヴィッツのような異常者ではない。それにアイリーンもまた、大きな渦に呑み込まれようとしている一人のようにも、カルロ・サントス医師には見えていた。
 ……どちらにせよ、パトリックは何か大きすぎるトラブルに巻き込まれている。巻き込まれてしまったが為に、潰されようとしていたのだ。あの手この手を相手は尽くしているし、相手は気付いているようだ。パトリックの弱点について。
 だから相手はパトリックを、命を奪うことにより潰そうとしていないようだ。心を壊して、潰そうとしている。
「お前が今、何をやっているのかは訊かないさ。ただ、その仕事から手を引くことは出来ないのか?」
 カルロ・サントス医師はそう問うが。パトリックはカルロ・サントス医師から目を逸らし、顔を俯かせる。するとパトリックの膝の上に掛けられたブランケットに、一滴の涙が落ちた。
 そしてパトリックは、震える声で本音を漏らす。「……分かんないんです、全部」
「……」
「気が付いたら、よく分からないことに巻き込まれて。抜け出せなくなったんです。先方は私が必要だって言うけど、私が居なくたって彼らは仕事をこなしてる。それに今、ASIがその仕事を引き継いで、やってるんです。私は、何もしてない。何も役に立つようなことはしてないのに、なのに、こんな……!」
 下唇を噛みしめるパトリックは、声を押し殺して泣いた。
「……悪いことを聞いたな。すまない」
 カルロ・サントス医師も分かっていた。抜けたくても抜けられない状況にパトリックは追い込まれているのだと。そしてパトリックは、望んで大きなものに巻き込まれたわけじゃない。悪い癖が発動し、成行きに身を任せてゆらゆらと揺れているうちに、取り返しのつかない事態になってしまったのだ。
 こうなってしまった以上、彼に残された道はひとつしかないのかもしれない。
「パトリック。今日は、もう寝ろ。お前は疲れている。休息が必要だ」
 目に見えた、最悪の結末。カルロ・サントス医師は結末から目を逸らし、パトリックの頭を撫でる。今の彼に出来ることは、これくらいしかなかった。


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