ヒューマン
エラー

ep.09 - Spy out

 バーソロミュー・ブラッドフォード長官暗殺事件は、副長官であったエズラ・ホフマンを指名手配というかたちで幕を下ろす方向に向かっていた。
 連日のようにマスコミは騒ぎ立てているし、警察機関はエズラ・ホフマンの首に懸賞金を賭けてまで協力を広く募っている。しかし当のエズラ・ホフマン氏は逃走し、一向に見つからないまま、早くも一週間が経過していた。
 その間、特務機関WACEのほうは大忙しだったらしい。車椅子のパトリックがASI本部局でデスクワークをこなしながらトラヴィス・ハイドン部長に睨みを利かされていた月曜から金曜の間、アイリーンらは彼の前に一度たりとも姿を現さなかった。パトリックが自宅に戻っても、そこにアイリーンが来ることはなかった。
 しかしケイという大男が作ってくれたらしい食事は、毎朝毎晩必ず食卓の上に置かれていた。それは有難いことではあったが、パトリックには薄気味悪くも感じられていた。
「…………」
 そして、この日。パトリックは病棟のベッドに横たわっていた。先週に予約していた外科手術が終わったのだ。
 全身麻酔がもたらす倦怠感にずっしりと体を侵食されたパトリックはこの時、何をするわけでもなく、ただ院内の天井を見つめていた。というより、出来ることが何もなかったのだ。
 シリコンを注入するだけの手術。そう言われていたのだが、それは直前の検査で切り替わり、なにやら大掛かりなものに変更された。大腿骨が少し変位していたとか、縫合されていたはずの筋肉に開きがあったとかなんとかと、整形外科医は言っていた。その影響で、数十分もあれば終わるはずだった手術は、二時間以上に伸びたのだという。
 そんなこんなで、太陽も傾き始めた午後三時にパトリックは覚醒した。起き上がろうにも力の入らない体に、パトリックはうんざりと顔を顰める。
 すると、そんなパトリックの視界にひとりの女性の顔が入り込んできた。
「久しぶりね、リッキー」
 パトリックは女性の顔を見るなり、驚いたように目を見開く。
 くっきりパッチリな二重瞼に大きな目。黒檀のように深く暗い色合いの瞳。キリッと整えられた三日月眉。縮毛矯正によって長く真っ直ぐ、しかしかなり痛めつけられている黒髪。それから、ぷりっと肉厚な唇。一八〇㎝はゆうに超える長身と、褐色の肌……――彼女はパトリックの姉、ラーナー家兄五弟の三女であるミランダだ。
 肌色と身長以外はパトリックにそっくりな姉は、チビの弟を冷めた目で見下ろす。それから姉は弟に毒づいた。
「家族の誰一人としてあなたと連絡が取れなくなってから三年。あなたが最後に私たち家族と会ったのは六年前が最後。……パトリック、今までどこで何をやってたの?」
「……ミ、ミラッ……?!」
 鬼人面のような恐ろしい表情をしている姉の顔を見たパトリックは、緊張と麻酔から身動きが取れなくなる。また腕を組み仁王立ちをする姉のミランダは、怯えて縮こまる栗鼠(リス)のような弟を、依然憐れむような目で見下ろしていた。
 そして姉のミランダは、どうしようもない弟を責め立てるように言う。「尿路結石になった旦那の付き添いで病院に来てみれば、廊下で偶然すれ違ったドクター・デイヴィスに呼び止められて『あなたの弟が入院してるわよ』って言われましてねぇ? 言われたとおりの病室に来てみりゃ本当に親不孝者のどうしようもない弟が……」
「アハハ……」
「笑うな、パトリック!」
「……ッ?!」
「あなたが連絡を絶ってから、丸三年よ! あなたと来たら大学を卒業した途端、音沙汰なし。卒業式の日程すら親に知らせなかった。その後はどこで何をやってるのかも分からなくて、私たち家族がどれだけ心配したか分かってるの!? どんな仕事をしているのかも分からないし、捜索願を出しても警察は受理してくれないし! あなたは一体、何をやっていたのよ!!」
 姉のミランダは怒鳴り散らした。場所を弁えず、溜まっていた不満を吐き出し、これでもかと六年分の怒りを弟のパトリックにぶつけた。パトリックも姉の気迫には怯える他なく、何も言い返せず黙りこくってしまう。
 ――と、そこに水を差すように珍客がやってきた。特務機関WACE隊員、アイリーンだ。
「ハロー、パトリック♪ ドクター・デイヴィスが言ってたよー、あと一ヶ月は義足禁止、車椅子で居なさいーって。けど明日には退院できるって。月曜には仕事に戻っていいってさ。良かったね」
 数日ぶりに見るアイリーンは、やたらと上機嫌だった。そんなアイリーンの視界には、怒りで顔を赤くする姉のミランダのことなど入っていないらしい。鼻歌交じりに、スキップさえもしてみせるアイリーンは、そんな調子でパトリックに近付いてきた。
 上機嫌なアイリーンの登場に機嫌を更に悪くした姉は、苛立ったような足取りで病室から出ていく。パトリックは姉の背を申し訳なさそうな目で見送った。
 すると上機嫌のアイリーンが、上機嫌そうに喋り始める。彼女はこう言った。「パトリック。今回は超絶に良い仕事したよ。本当にグッジョブ」
「……何の話です?」
「ほら、この間の伝言の件。ブラッドフォード長官が、サーに教えてくれたのよ。彼が殺される直前に。間一髪だった」
 パトリックは麻酔で鈍る頭を動かし、記憶を辿る。そこで思い出したのが、ブラッドフォード長官へと託した高位技師官僚からの伝言だ。
 たしか、高位技師官僚は『ブラッドフォード長官から、モーガンに』と言っていたし、パトリックはブラッドフォード長官に『モーガンという人物に』伝えるよう言ったはずだが。ブラッドフォード長官は『モーガン』というひとではなく、黒衣の男アーサーに伝達していたようだ。
 これは高位技師官僚の望まない展開だったのでは、とパトリックは懸念しながらも、しかし割り切る。もう自分には関係のないことだと。けれども割り切っていたパトリックの横で、アイリーンは意気揚々と語り続けた。
「お陰でやっと掴めた。例の実験が何なのかーってのを。んで蓋を開けてみて、びっくり。とんでもない計画が進んでいて――」
「へぇ、そうなんですか」
 ノリノリで喋るアイリーンの言葉を、パトリックは無関心な様子で軽く受け流す。
 すると、そんなパトリックの態度にアイリーンは顔をしかめた。彼女のご機嫌な気分は終わり、彼女の顔から笑顔も消えた。そして彼女はパトリックに問う。「ねぇ、パトリック。もしかして、興味ない感じ?」
「上司にこう教わりました。業務の内容に必要以上の興味関心を抱くな。与えられたことだけをやり、与えられたもの以上のことをするな。余計な行為が秩序の崩壊を招き、罪なき人間を危険に晒すことになる」
「……ASIの鉄則ねぇ、にゃるほど……」
 蛍光グリーンの眼鏡から覗くアイリーンの目が、高い位置からパトリックを見下ろしている。だが彼はアイリーンから目を逸らした。それから彼は小声で不満を漏らす。「必要な情報は渡しました。これで私の仕事は終わりで良いですよね……」
「パトリックは、辞めたい? うちらとの仕事を」
「そうですね。可能であれば」
「そうなんだ。……でもあと少しだけ、悪いけど付き合ってもらうよ。まだ、ターゲットから完全に聞き出せたわけじゃないから」
「……私じゃなくても別に構わないのでは?」
「ううん。パトリックじゃなきゃ、多分ダメだよ。だって、あのひとが伝言を残すなんて初めてだもの。多分だけどあなたは、あのひとに気に入られた。あなたは、何かの条件を満たしたんだよ」
 パトリックは漠然と天井を見つめ、こう呟く。彼は私に同情して情報を渡してくれただけだ、と。するとアイリーンは溜息を吐く。それから彼女はこんなことを言った。「そういえば。女子刑務所でジークリット・コルヴィッツが死んだって。獄中で薬物をやっていた女が禁断症状を起こして暴れ回っていた時に、巻き込まれて撲殺されたってはなしだよ。そんで彼女が書き溜めたパトリック宛ての手紙が数十通あるらしいんだけど」
「呪いでも込められてたら嫌ですし。焼却処分なり何なりをお願いしますと伝えて下さい」
「……だよね。分かった、刑務官に伝えておくよ」
 そう言うとアイリーンは背を向けて立ち去る。だがパトリックはアイリーンを見送ることはしない。彼は目を閉じ、ベッドに沈んでいく体を重力に任せた。
「……」
 ずっしりと体にのしかかる気怠(けだる)い気分。それは頭痛を呼び起こし、頭痛は吐き気を誘発した。胸がムカムカとし始め、食道から胃液が込み上げてくる。パトリックは重い体をどうにか起こすと、仰向けの体を横向きにした。
 それから彼は枕もとに置かれた嘔吐用の平皿に、おろおろと手を伸ばす。だがその瞬間、後頭部を殴られたような頭痛がパトリックを襲った。
 喉元まで込み上げてきていたものが、瞬間にして胃袋に引っ込む。鉄の平皿がベッドから転げ落ち、カーン……と音を立てた。危ないと思ったのも束の間、パトリックの意識がぶつっと途切れる。次にベッドから落ちたのは、パトリックの小柄な体だった。
 そこに、ムカっ腹の姉ミランダが戻ってくる。姉は弟を叱りつける言葉を携え戻ってきたのだが、用意していた言葉は床に転げ落ちていた弟の姿を見るなり、どこかに吹き飛んでいた。代わりに姉は、別の言葉を大声で叫ぶ。
「誰か、手を貸して! 患者がベッドから落ちてるわ!」





 手術を終え、やがて迎えた月曜日。主治医とのひと悶着はあったが、どうにか退院できた車椅子のパトリックは彼のオフィスに、即ちASI本部局欧州情報部に戻っていた。
「お前の退院祝いにパァーっと何かをしてやりたいもんだが、そういうワケにもいかんからなぁ……」
 腕を組むトラヴィス・ハイドン部長は、うーむと眉間にしわを寄せる。――このとき、オフィスには霊妙な空気が立ちこめていた。
 長官代行という肩書を得てしまったトラヴィス・ハイドン部長に対する周囲の反応は、まちまち。異例の大抜擢に度肝を抜かされている者もいれば、妬む者もいて、良からぬ噂を流す者もいる。しかし一番混乱していたのは、任命された当の本人だった。
 一時は辞退しようとしたトラヴィス・ハイドン部長だが、しかし彼は周囲から説得され、押し止められたのだ。大統領、首相、閣僚たちに説得され……――最後はブラッドフォード長官の遺した文書にトドメを刺されたらしい。
 ブラッドフォード長官がトラヴィス・ハイドン部長に宛てて残した文書、そこに何が書かれていたのかを知るのは部長だけ。しかしそれには、部長に何らかの決意を固めさせる何かが書かれていたのだろう。
 長官代行という肩書を受け入れたトラヴィス・ハイドン部長の顔は、以前よりも勇ましかった。多分、何かが部長の中で変わったのだろう。
 ――とはいえ、それはパトリックには直接的には何も関係のないことだ。
「ラーナー、お前の容疑はとっくに晴れている。しかし、一時だけだとしても疑われたという事実は消せない。お前のことを快く思わない者が局内に居ることは、事実だ。そこを理解してくれ」
 険しい顔をしているトラヴィス・ハイドン部長は、パトリックにそう伝える。
「勿論、理解しています。それに、誰かを恨むつもりはありませんよ」
 作り笑顔を浮かべるパトリックは、そんな嘘を吐いた。
「誰かを恨んだところで、事実を消せるわけじゃないですからね……」
 誰かを恨むつもりはない? そんなわけないだろ。濡れ衣を着せやがったクソ野郎を見つけ出して、ギッタギタに切り刻んでやりたい気分だ。
 ――彼の正直な本音は、そんなところだ。だが、そんな本音など言えるわけがない。
「……」
 最後にパトリックは部長に頭を下げると、部長のデスクから離れていく。そうしてパトリックが彼のデスクに就いたときだ。パトリックの周りに、二人の同僚が集まったのだ。
 同僚たちはそれぞれ、車椅子のパトリックを憐れむような目で見る。そして慰めにもならない綺麗事を述べた。
「ラーナー。ここにいる者たちは全員……――とはいえないかもしれないが、少なくとも俺はお前の味方だからな。いつでも俺を頼ってくれ。可能な限り、手は貸すから」
 そう言ってきたのは、司法省との渉外業務にあたっているテオ・ジョンソンという名の同僚である。
「私も、あなたのことは信じてるから。あなたも、私のことを頼ってくれたら嬉しい」
 そのように言ってきたのは、先日やたらと鯖サンドを推してきた同僚、サラ・コリンズである。
 しかし、彼らとパトリックは特別に親しいわけではなかった。そのためパトリックはその言葉を話半分に聞き流す。
「ははは……。ありがとうございます」
 困ったように笑うパトリックは、視線を部長に送る。助け舟を出してほしいと、無言でアピールした。
 すると部長は一度、咳き込む。それから部内に響くよう、大声でこう言った。
「諸君、よく聞いてくれ」
 始業時刻よりも前に、部長が何かを言おうとしている。それに気付いた局員たちは、一斉に視線を部長へ向け、そして黙り込んだ。
 そうして部内が静かになったことを確認すると、部長は再度咳払いをする。それから部長は、誰も予想していなかった唐突な発表をするのだった。
「突然のことですまないが……――この欧州情報分析部は本日付で解体。そして諸君らは全員、新設された『アバロセレン犯罪対策部』に異動となる」
 静けさが破られ、ざわめきが起こる。パトリックを含めた誰もが、突然過ぎる発表に驚愕していた。
 気拙い空気が部内に流れ始めると、トラヴィス・ハイドン部長はまた咳払いをする。それから彼は言葉を続けた。
「……なんて仰々しいことを言うと、まどろっこしいよな。まあ要するに、部署名と業務内容が変わるだけだ。しばらくは混乱すると思うが、いち早く慣れてくれることを願う」
 そう言うと部長は、彼のデスクの横に置かれていたアタッシュケースに手を伸ばし、それをデスクの上に置いた。それからアタッシュケースを開けると、その中から書類の束を取り出した。
 次に部長は束を四つの山に分けると、ランダムに選んだ部下を四名呼び出し、全員に書類を配るよう指示を出す。散り散りに動き出す部下たちは、紙の山を捌いていった。
 しばらく待っていると、パトリックにも書類が渡される。お馴染みのA4規格のコピー用紙に、細かい字でぎっしりと情報が詰め込まれた書面は五枚。表紙の右上には『機密事項』の赤字。そして表紙の中央には、大きな文字で『イェラ実験に関する特命調査委員会・中間報告』と書かれていた。
 特命調査委員会とやらは、まさか……。怪訝そうな顔をするパトリックは、ある予想を立てる。そして見事、予想は的中した。
「アバロセレン犯罪対策部が担当する最初の事案。それは国営のアバロセレン工学研究所、サンレイズ研究所で行われている違法行為の摘発だ。そして今回、共同で調査をおこなッ――」
 バンッ。
 トラヴィス・ハイドン部長の言葉を遮るように、オフィスの出入り口扉が乱暴に開けられる。豪快な音を立て、大荷物と共に登場したのは、見覚えのある奇抜な衣装の女だった。
「特命調査委員会、改め特務機関WACEから派遣され、ASIに参りました。アイリーン・フィールドです」
 大荷物を背中に背負い、両腕にも複数抱えながら、更に大きなトロリーバッグも引いて歩きつつ、肩で息をしながらそう自己紹介する女、それはルーカンことアイリーン・フィールドだった。
 彼女は早口で自己紹介を済ませると、抱えていた大荷物をトラヴィス・ハイドン部長のデスクの前、その床にドサッと置く。それから最後に彼女はこう挨拶した。
「……どうぞ、宜しく、お願いします」
 アイリーンが着けていた大ぶりの眼鏡は、大きくズレていた。そして彼女の眼は、誰かにヘルプを求めるように血走っている。
 彼女が先ほどまで細い左腕で抱えていた黒鞄の中には、超薄型で厚さ四㎜ほどのラップトップコンピューターが二台。右腕に携えていたピンク色のボストンバックには、追加の紙媒体の資料――一部につき、A4コピー用紙二十五枚。それが『アバロセレン犯罪対策部』全員分、計三十五部。重さはざっと、四㎏弱だろう――が詰め込まれている。さらに背中のリュックサック――登山用と思しき大型のもの――には、細々とした機械類がギッシリと詰め込まれていて、今にもはち切れそうだ。そしてカラカラと引き摺って歩いていた深紅のトロリーバッグも、パンパンに膨れ上がっていた。
 総重量は、どのくらいになるのか? パトリックは思考を巡らせる。具体的な数字は思い浮かばなかったが、あの大荷物だ。重いことは間違いない。それを女性が、それも普段は椅子に座っていることのほうが多いようなハッカーがひとりで全部持ってきたのだ。
 さぞかし辛かっただろうに、とパトリックは思う。しかし、それだけだった。それ以上の感想は何もなかった。
 そして特務機関WACEを名乗る人間の登場に、オフィス内は騒然とし始める。アイリーンに好奇の眼差しを向ける同僚たちは、口々に噂話をし始めた。
「特務機関WACEって、あの都市伝説の?」
「……てことは、都市伝説じゃなかった、ってことだよな」
「うそでしょ。じゃあ、神出鬼没のサー・アーサーって本当に存在するのかしら」
「ど、どうなんだろう。流石に、居ないんじゃないのか? だってテレポーテーションなんて、存在するはずが」
「でもアバロセレン技士はまれに、超能力とか第六感を発現させるって聞いたことがあるわ。原因はよく分かっていないけど、アバロセレンが何らかの影響を人体に及ぼしているって」
「まさか。そんなのが現実で起こってるわけないだろ? 本気で信じてるのか」
「だって、アバロセレンよ? アルフテニアランドの悲劇を引き起こした、あのアバロセレン」
「あのなぁ、ここは現実だ。そんな、超能力なんて」
 ざわざわと落ち着きのない空気にパトリックは苛立ちを覚えるが、とはいえ何もしない。気配を消し、空気に擬態しようとした。
 しかし不幸なことにパトリックはアイリーンと目が合ってしまう。アイリーンは気配を消そうと試みているパトリックを見るなり、顔をむっとさせた。それから痺れをきらした彼女は、息も絶え絶えに言う。
「誰か、手を貸して! 機材を、運んで。資料を、配って! あんたたち、ASIなんでしょ! 察して、動きなさいよ! 言われなきゃ、分かんないの?! そんなんじゃ、現場で、役に立たないよ!」
 その瞬間にアイリーンに向けられていた好奇の眼差しは、冷やかなものに変わる。ちらほらと動き出した者が出始めたが、パトリックの同僚たちはどこか不満げな表情を見せていた。
 アルストグラン秘密情報局と、特務機関WACEの共同調査。その初っ端がこんな不穏な調子ではこの先がどうなることやら。パトリックは懸念を抱くも、やはり何もしない。車椅子という、ただでさえ場所を取る乗り物に乗っている身である彼が下手に動けば、むしろ同僚たちの邪魔になるだけだと考えたからだ。
 そういうわけで全く動かぬ彼は、ぜぇぜぇと肩を上下させながら、動きのとろいASI局員に目くじらを立てるアイリーンを見つめていた。
「機材の入った鞄とかは、とりあえず適当な机の上に置いといて。……って違う、違う! コンセントが近くにある机のうえに置いて! 少し考えりゃ、すぐ分かるでしょ! なんでそんなことも、いちいち言わなきゃいけないのよ!!」
 リュックサックを持ち上げたひとりの男が、イラッとした顔でアイリーンを睨んでいる。しかしアイリーンは冷たい視線など気にも留めず、機転の利かない――または敢えてダラダラと行動している――ASI局員らにキャンキャンと怒り散らすのだった。
「ほら、そこ! ぼーっとしてないで、資料を配る手伝いをして! 時間が惜しいの、だからテキパキと動く!」
 ひとり、ふたり……――。誰かが舌打ちをした。小声の悪態も聞こえてくる。
「そこの車椅子のクソチビ、あなたもだよ! おらおら、動け動け!!」
 遂にはパトリックも名指しされる。そこで渋々動き出したパトリックは、オフィス内をガヤガヤと動き回る同僚たちを邪魔しない限りで作業を手伝い始めた。
 そうして物の配置や資料の配布にひと段落が付いたタイミングで、アイリーンは棘のある声を放つ。彼女はピリついた様子で、ASI局員らにこう語った。
「あなたたちはまだ何も分かってないかもしれないけど、今回の案件はかなり複雑に込み入っているうえ、厄介で危ないものなの。なにせ『元老院』が関わっているから、慎重に動かなければならない」
 元老院。
 聞き覚えがあるような気もする言葉に、パトリックは身構えた。トラヴィス・ハイドン部長も、目元にぐっと力を込める。
「今日は元老院と問題の研究所について、詳しく説明する。そして明日には、もう動き出さなきゃいけない。それにこの案件は、ブラッドフォード長官暗殺事件にも深く関わっているの」
 アイリーンの言葉に、局員たちの顔つきが変わる。不平不満が止まり、誰もが固唾を呑んだ。
「ワイズ・イーグルの仇を取りたいなら、速やかに、そして指示通りに動いて。分かった?」
 誰かが無言で、こくりと頷く。同僚たちの目も、真剣なものに変わっていた。けれどもパトリックの目だけは、どんよりと曇っていく。
 彼の中にあったのは復讐心でもなく、正義でもない。不安だけ。これ以上この件に関わったら、もう元には戻れなくなると感じていたのだ。
「……元老院……」
 だがパトリックに、手を引くという選択肢は与えられていないようだ。そもそも選択する権利すら、彼には与えられていないのだろう。
 ぎらりと光るアイリーンの目が、パトリックを視界に捉え、睨みつけてくる。そんな彼女の眼は、任務から逃げたら殺すとでも脅しているかのようだった。そしてアイリーンはパトリックを睨みながら、淡々と説明を始めていく。
「さっ。それじゃ早速、元老院について説明したいと思います。新たに配布した資料の一ページを開いてください。まず、バーソロミュー・ブラッドフォード長官暗殺犯であるエズラ・ホフマン氏についてです。実を言うと彼は……――」


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