ジェットブラック・
ジグ

ep.01 - ***

 その部屋の隅に置かれていた年代物の蓄音機は、今や埃を被っていた。長らく――といっても、半年ほど――使われていないことは、見るからに分かる。だがその部屋には今、音楽が響いていたし、黒い海鳥の影を膝に乗せるアストレアは、その冷涼乾燥とした旋律に耳を傾けていた。
 タカタ、タカタ、と三連符の素早いリズムを刻みながら、気まぐれで短い装飾音を散りばめる弦と弓。ロ短調が醸し出す独特の薄気味悪さと冷たさ。そして演奏者の男が浮かべる薄気味悪い微笑と、松脂による汚れで白っちゃけてくすんでいるヴァイオリンのボディ。それから……――
「ミスター・アルバ。アンタほどだらしない姿勢でヴァイオリンを演奏する人、僕は初めて見るんだけど」
 通常、ヴァイオリンの演奏姿勢といえば、顎と肩の間にボディを挿んで固定する姿勢が一般的。しかしアストレアが“ミスター・アルバ”と呼んだその男は、通常とは異なる姿勢を取っている。
 彼の首は傾くことなく真っ直ぐの状態で、そして肩にヴァイオリンのボディは触れていない。その代わりヴァイオリンのエンドピンが、彼の左鎖骨のすぐ下のあたりに、彼の体に対して直角を作るよう垂直に当たっていた。
 そしてアストレアが演奏者に正直な疑問をぶつけたとき、演奏は止まって、松脂汚れが目立つ安物のヴァイオリンと弓が、演奏者の近くにあったデスクの上に置かれる。すると演奏者の男は、視界を遮るように垂れてきた自身の真っ白な前髪を掻き分けながら、溜息交じりにこう答えた。「私の死因は、頸椎の一部が砕け、一部は脱臼したことによる縊死だ。その所為で首を変に傾けると、首が痛む上に頭痛も起こるようになった。だから、首に負担を掛けない楽な姿勢でやっているんだ」
「死んで生き返った場合にも、後遺症ってのが残るの?」
「私の場合は、そうだな。ぺルモンドは違ったようだが。あいつの首を圧し折って殺したり、手首の腱を切ったこともあったが、何をしようが毎度必ず、あいつは元通りになっていた。他にも――」
「あーっ、アーッ! 詳しい話は聞きたくない。想像もしたくないよ!」
 時は西暦四二八九年。四十四世紀を間近に控えたマンハッタンの街は、随分と廃れ果てたもので。大昔には誰もが恋焦がれた大都市であったはずのその地は、今や人々に遺棄されたゴーストタウンと化している。真昼であるにも関わらず、その街には夜中に似た冷たい空気が停滞し続けていた。
 それでも二週間前までは、意地でも故郷を離れぬと粘るホームレスたちがちらほらと散見されたものだったが、その最後の一人も白髪の死神によって強制的に街から追い出されて、外のどこかへと追放された今。この寂れた旧都市に居る者は、三名だけ。ちびのアストレアと、白髪の死神アルバ、それから海鳥の影ギル。それだけだ。
 そして白髪の死神アルバが使っていたヴァイオリンは、三ヶ月前に彼がこの場所から追い出したある壮年の夫妻が、感謝の代わりにと死神へ差し出したもの。必要以上の金銭と一台の軽貨物車を、白髪の死神から押し付けられた夫妻が、マンハッタンを発つ前日に“お礼”と称して、そのヴァイオリンを白髪の死神およびアストレアに押し付け返したのである。
 とはいえそのヴァイオリンは、あまり良い品ではない。東洋の某大国にて量産された三流品、といった質でしかない。だが使い物にならないわけではないため、こうして偶に白髪の死神アルバが弾いていた。そしてアストレアと海鳥の影ギルは、アルバが奏でる気まぐれな即興演奏を必ず邪魔する。今みたく、彼の部屋に勝手に乗り込んで。
 なぜ、アストレアは彼の演奏を必ず邪魔するのか。それには理由がある。アストレアは、この即興演奏に少し不満を抱いていたのだ。そして彼女は感じた不満を、一度ぐらい咀嚼して考えるということもせずに、薄汚れた安物のハードケースにヴァイオリンをしまう演奏者に対して、思った通りのそのままの言葉を、バカ正直にぶつけてみせる。
「それにしてもさ、ミスター。アンタって、暗い曲しか弾けないわけ? アンタが弾く曲を聴くと、いつも気分が沈んでくるんだ。なんかさ、偶には明るい曲とか……作れないの?」
 肩にかかるくらいに伸びた、ダークブラウンの髪の毛先を、手持ち無沙汰でいじりながら。アストレアは子供のような顔に、心底退屈そうな表情を浮かべてみせる。
 そんなアストレアはお世辞にも、教養があるとはいえない育ち。普通の子供が十五歳ぐらいまでに覚えるような基礎学習諸々と、日常会話程度の外国語のいくつかを、十八歳になるまでに特務機関WACEで仕込まれたものの……――それ以上の教養らしい教養を、彼女は身に着けていないのだ。
 それに必要最低限の学しか備えていなければ、アストレアは娯楽もろくに知らない。文学も演劇も、音楽も。それ以外の低俗な、ハメを外すような真似も。それらに彼女は関わったこともないし、関わる機会もなかった。故に彼女には知識はあっても、その肌で得てきたものは何も無いのである。
 つまり、彼女は薄闇の世界の中で今までの人生を無益に潰してきた、と言えなくもない。そして彼女は今その空白を埋めるように、世界の隅にある暗闇の中で、少しずつ人間らしさを補おうとしていたのだ。最高で最悪な男を手本として――何せ手本となりそうなものが、この男しか居ないのだから。
 するとその手本代わりの男は、真っ黒なハードケースの留め具をカチッと締めると、アストレアに対しこんなことを言った。
「お前が言うところの『明るい曲』とやらがどんなものだかは、私は知らないが。ひとつ言うなら、そうだな……――人を踊らせるようなテンポの速い曲は、どっと疲れる。若い頃には一時間でも二時間でも、飽きずに弾けたものだが、今は無理だ。とてもじゃないが、そんな体力も気力もない」
「それってつまり、今でも少しぐらいは、やろうと思えば弾けるってことだよね?」
 退屈そうだった表情は一変。アストレアの顔は素晴らしい展開を期待するような、舐め腐った笑みへと変わる。そうして何かをねだるような視線を、アストレアは白髪の死神アルバに送り付けていたのだが……男はそんなアストレアの期待を、ぴしゃりと跳ね除けた。「明るい曲が聞きたければ、レコードを漁ればいい。何かしら見つかるだろう」
「えー。僕は、アンタが明るい曲を弾くところが見たいのに」
「それは私の知ったことではない。――ギル、支度をしろ。一時間後にはハンプシャーに向かう。あの気に食わんクソ野郎を叩きのめしに行くぞ」
 吐き捨てるようにそう言ったついでに、アストレアの膝の上に座っている海鳥の影ギルに指示も出すアルバは言い終えると、アストレアに背を向ける。それから彼は自身の身支度を整えるために、洗面所のほうへと向かおうとするのだが……――その彼の背に、ある者が声を掛けた。それはアストレアの膝の上から床へ飛び降り、その後はアルバを追うようによちよちと歩き出した海鳥の影、ギルである。
『私には何も、支度すべきことなんてありません。私は大半の三次元生物の目には見えない、幻影のような存在ですからね。肉体を持つあなたと違って、清潔にすべき皮膚も、整えるべき髪型も、着用すべき衣服もないのですから。それにあなたは、身支度に時間をかけすぎなのですよ。男のクセに、化粧をする女性よりも時間をかけるんですから……』
 ガー、ガー、ガーァッ。ギルは海鳥らしい間の抜けた汚い鳴き声を発し、同時にその鳴き声に、特定の者にしか聞こえない意味を乗せ、言葉を発する。今はアルバにのみ向けられたその意味は、アストレアには何も聞き取れず。アストレアの耳にはただ、ガー、ガーァッと汚く鳴く海鳥の影ギルの声だけが伝わっていた。しかしそんな出来事は、もはやアストレアにとって見慣れたもの。
 そして海鳥の影ギルの鳴き声の後には、呆れ顔のアルバの溜息が続くのだ。
「身支度の話をしているんじゃない、ギル。心の準備やら作戦の見直しやら、何かしらあるだろ?」
 ギルの鳴き声の後に続くアルバの発言から、ギルの発した言葉をアストレアは察して、ギルの意図を読み取る。そして彼女はひそかに笑うのだ。――ちょうど今のように、海鳥の影ギルがアルバにのみ言葉をぶつける時。その内容は大抵、アルバに対する嫌味であるからだ。
 そうしていつものように、アストレアがニヤニヤ顔をしていると。また海鳥の影ギルが、ガァガァ声で鳴いた。『いいえ、アルバ。私はあなたの後ろを、ただ付いて歩くだけですよ。あなたが求めた時には、私は私の羽根を喜んで提供しますが。それぐらいです。それに私でなくあなたが交渉に当たったほうが、物事はスムーズに進みますから。人間の落とし方をよく知るのは、やはり人間ですし』
「……ギル。お前は何もしないつもりか?」
『私はあなたに期待をしているんですよ、今日もね。あなたの舌鋒の鋭さと、有無を言わせないその目の奥の光には、何者も敵いませんから。私とてね』
「おい、勘弁してくれ」
『なんですか、アルバ』
「私はあのクソ野郎どもの相手に疲れたんだ。偶にはお前が、相手をしてくれないか。それに当初は、お前が全てを取り仕切るはずだっただろう。それなのになぜ、いつの間にか――」
『アルバ。あなたのほうが適任なんですよ。何度も言わせないでください』
 再びのアルバの呆れ顔と、呆れ返った溜息。これはギルに言い負かされたのだな、とアストレアは予想し、また彼女は口角を少し上げる。アストレア自身が彼を言い負かしたわけでは決してないのだが。普段はあまり弱腰な姿を見せないアルバという男が、海鳥の影ギルに対しては言葉を失うという情けない姿をよく見せるのだから、これ以上に見ていて気持ちが良いものもないというわけである。アルバという名の男の、あの冷ややかな笑みが崩れる瞬間。アストレアは、その瞬間を見るのが堪らなく大好きなのだ。
 そんなこんなで、まるで他人事のようにアストレアがほくそ笑んでいれば、アルバの苛立ちの矛先がアストレアへと向かうのは当然のこと。気楽なオーディエンスでいた彼女に、アルバはキツイまなざしを送りつけたうえで、こう言ってのけた。
「エスタ、お前も支度をしろ」
 顰められた眉に苛立ちを滲ませるアルバがその言葉の後に、ソファーに座るアストレアに投げたのは一着のパーティードレス。どこからともなく現れたそのドレスは、およそ新品と思われるもの。青緑色をした艶やかなサテン地に皺やヨレはなく、美しい薔薇の刺繍が施された黒いレースの肩紐は、一瞬でアストレアの心を掴んだ。
 そしてアストレアが受け取ったドレスをただ黙って見つめていると、ピリピリと緊張感に満ちたアルバの声が、ぼーっとしていたアストレアの肩を小突く。
「何をしている、クソチビ。今すぐ、それに着替えるんだ」
 青緑色をした、美しい――子供用の――ミモレ丈パーティードレス。それに着替えろとアルバに言われた直後、アストレアは驚いてしまった。自分がこんなものを着て良いものなのか、と。だが周りを見てみれば答えは分かるが、今この場にいる女性はアストレアだけ。他に居るのは、白髪頭で高身長のジジィと、海鳥である。背の高いジジィが子供用の丈のドレスなんぞ着れるわけがなく、ましてや海鳥に衣服は必要ない。
 しかし、だ。アストレアは少なくとも彼女が覚えている限りの人生において、このようなドレスは着たことがなかった。かつての同僚たち――アレクサンダー・コルトやマダム・モーガン、アイリーン・フィールドに、そしてアンドロイドのAI:L――がこのようなドレスを着ている姿は見たことがあったものの、自分がそのような煌びやかな衣装に着替えたことは一度もなかったのだ。とはいえアストレアもドレスコードのようなものを着用した経験は数度あるが、それはドレスではなく、燕尾服であったし……。つまり今まで彼女は男装ばかりをしていて、このような如何にも“女性らしい装い”とは無縁だったのだ。
 けれどもアストレアに、女性らしい装いをしたいという願望が無かったわけではない。それどころかずっと、彼女はそういったものに憧れていた。だが、いざこうして目の前に、自分が夢見ていた以上の綺麗なドレスが現れてみると、なんだか現実でないような気がしッ……――
「ところでお前は、ドレスコードに相応しい化粧のひとつぐらいは出来るんだろうな?」
 そんな夢心地なアストレアに、辛辣な言葉を投げつけて水を差すのは白髪頭のジジィ、アルバである。早くしろと急かす彼がぶつけた失礼極まりない言葉に、現実に引き戻されたアストレアは当然怒ったし、束の間感じた良い気分は全てが水泡となって消えていった。そして彼女はアルバにこう言い返す。「ミスター!! 馬鹿にしないでくれないかな、これでも僕は成人なんですけど!」
「ああ、そうか。失敬。なら、その子供用サイズのドレスも、成人女性用のものと取り換えるか?」
「そういう話じゃない!」
「あぁ、そういえばお前は二十七歳になったんだったな? まあ見た目はさておき、年齢の割には中身がまるで十二歳児。――不死者は、精神年齢の成長も止まるのか?」
「あぁン?!」
「アレクサンダー・コルトがお前ぐらいの年齢だった時には、今のお前よりも遥かに精神年齢は上だったぞ。……あれはあれで気に食わなかったが、とはいえお前は少しぐらい彼女を見習え」
 だが苛立つアルバは失礼な発言を止めることはせず、それどころか失礼に失礼を塗り重ねていく。それは完全に、八つ当たりと称するべき行為だった。だがアストレアは、そんなアルバに慣れていた。なので理不尽すぎる死神の怒りを聞き流し、アストレアはひとまず口を噤む。それから彼女はソファーを降りて立ち上がると、化粧ポーチが置いてある自室へと向かおうとした。そうして立ち上がったアストレアの背中に、アルバはとある指示を出す。
「化粧は必要最低限、敢えて童顔を強調するようにしろ。それからハンプシャーに於いては、私が合図を出し『やめていい』と伝えるまで、お前は子供らしく振舞うことだ。退屈な夜会に無理やり参加させられた子供のように、疲れた顔で、拗ねて唇を尖らせておけばいい。分かったか、エスタ」
 子供のふりをし、子供らしく振舞え。……特務機関WACEが存在して居た頃には、まあそれなりにアストレアはそのような仕事をしてきていた。時に――実年齢はさておき、外見の年齢はまるで二〇代前半かそれより若いように見えていた――アイリーン・フィールドと年の離れた姉妹のふりをして、家族連れで賑わうショッピングモールに潜入し、ある企業の重役を務める女性の家族を偵察したこともあったし。アレクサンダー・コルトとニール・アーチャーの二人と共に、喧嘩の多い夫婦とその子供のふりをして、おんぼろのアパートで捜索中の誘拐犯を待ち伏せし、囮となったアストレアが犯人を確保したこともあった。
そういうわけでアストレアは『子供のふりをしろ』という注文には慣れていたし、その役の演じ方を心得ていたが。かといってその役回りが好きなわけではない。
それにアストレアにとっては、(彼がアルバと名前を改める前の期間も含めて)アルバと表舞台で仕事を共にすることは初めてのこと――今までは彼の仕事を裏方でサポートする立場に徹していたからだ。どうせならその初めての機会、子供のふりなんてしたくはないのである。
「仮に僕が、イヤだって言ったら?」
 同伴を求めるならばせめて『子供のような外見をした大人』扱いはしてほしい、とアストレアは思っていた。例えば秘書の役とか、アシスタント扱いとか。……とはいえ、アストレアは当然分かっていた。この自分本位で身勝手なモラハラ男に、そんな我儘が通用するわけがない、と。
 そしてアストレアの予想した通りに、アルバはアストレアの我儘をぴしゃりと跳ね除ける。
「三流なりにもプロの自覚があるなら、仕事を全うすることだ。それに――初経も来ていない女を、世間は女児と呼ぶ。そのことをよく理解しておけ」
 アルバが放った更なるデリカシーのない発言。アストレアが振り返ってその男の顔を見てみれば、彼はしたり顔をしている。そして彼女は絶句した。――今のは失礼なジジィが無意識のうちに零した失言ではなく、明らかにアストレアを虚仮にしていて、意図的に彼女を傷付けようとした、明らかなクソ発言だった。
 本当に、なんてクズ野郎なんだ。黙るアストレアは表情をムッとさせ、大きなダークブラウンの瞳でアルバを睨み、無言で彼を糾弾する。すると彼はムッとするアストレアを見るなり、彼女を馬鹿にするような高笑いをしてみせた。それからアルバは彼女を虚仮にするような笑みを浮かべた顔で、どこか癪に障る発言を続ける。「これでもかつて私は、年頃の少女を育てていた父親だったんだ。気付かないとでも思っていたのか?」
「……アンタは僕のことなんか、然程興味ないとばかり思ってたからね……」
「ああな。私はお前に、あまり興味はない。だが必要だと判断すれば、お前のためにサニタリーナプキンを補充しといてやろうと考える親切心ぐらいは残っている。その親切心が、お前には必要なさそうだと判断したまでだ」
「……っていうかさ、それ、地味にコンプレックスなんだよねぇ。あんまり詮索されたくないんだけど……」
「早いうちに、現実は受け入れておいたほうがいい。お前は半永久的に、子供のままだ。成長することはない。だがせめて、頭の中身と精神年齢ぐらいは成長させておいてくれ」
 親切心が残っているなら、そんな話は持ち出さないだろう、普通は!!
 ――とアストレアは内心、怒るのだが。やはりこの男には勝てないアストレアは、両手を顔の高さに挙げて掌を見せ、降参したとの意思をアルバに伝える。
「いいよ、分かった。アンタの言う通りにする。アンタが用意した子供用のドレスを着て、子供っぽく見える素朴な化粧をして、一緒にハンプシャーに行くよ。そこで無邪気な子供のフリをするさ。だけどミスター、その前に、僕の質問にひとつ答えて」
 だが、ここで大人しく引き下がるアストレアではない。自分が心にダメージを負ったなら、相手の心にもかすり傷ぐらいは与えなければ気が済まないのだ。そして、そこでアストレアが持ちだすのは彼の弱点と思われるもの。彼の昔話と、それに関連する物事を思い出させる話題だ。
「アンタが言う“親切心”って、言い換えれば“父性”のことになるのかな? もしかして、あまりにも僕が幼く見えるから、封印していたはずの父性本能が刺激されちゃったりしちゃってるの?」
 アルバの怒りを買いたくて。彼がイラつく姿を、見たくて。敢えて挑発し揶揄するように、厭味ったらしくそんな質問をぶつけたアストレアであったのだが……――相手の方が、何枚も上手だった。アルバはイラつく素振りを見せないどころか、アストレアに向けて心底穏やかな、そしてあからさまに上辺だけの作り笑顔を浮かべてみせる。そして彼は即答したのだ。
「そうだな。否定はしない。事実、お前の中身はまるでクソガキだ。まったく、お前からは目を離していられないよ。まるで十二歳の少女を再養育している気分にさせられるからな。――十二歳は何かと面倒臭い年頃だ。ろくに自分のケツも拭けない分際でありながらも、自分は大人だと主張し始める年頃だからなぁ?」
 アルバが喧嘩を吹っ掛けて、アストレアがああ言えば、アルバはこう言い返す。いつもその繰り返しで、終わりがない。そしてアストレアはまた口を噤む。ここまで、いつもと同じ彼らの会話パターンだ。そしてまた、いつもと同じ退屈なパターンの輪が再開する。
「エスタ。お前はさっさと化粧をして、着替えろ。その間に私が、お前の髪を結っておいてやるから」
「ヘアセットぐらい自分で出来ますー」
「顔ぐらいはお前の好きにさせてやる。だがこれは、私が用意したドレスだ。故に髪型も、私が望む通りに整える。つべこべ言わずに、お前はさっさと顔を作れ」
「本当に、アンタってムカつくよ、ミスター・アルバ。自分勝手のどクズ野郎だね、本当にさ……」
 いちいち差出てくるうえに、癇に障ることしか言わない男に、アストレアが零した小言。……このあと、いつものパターン通りであれば、冷たい笑顔を浮かべるアルバからの嫌味の応酬があり、アストレアが黙りこくる展開が訪れるのだが。しかしアストレアの小言のあと、アルバからの嫌味は返って来なかった。
 その代わりに彼が見せたのは、冷たい笑みを消した真剣そうな表情。そして低い声で続いた彼の言葉は、嫌味ではなかった。
「第一印象で、全ては決まる。所詮、見かけが全てなのだよ。人も、計画も。――多少の運任せという一興も良し、だがそれも第一印象が確実に決まったうえでの遊びだ。多くのことは妥協する私としても、ここだけは譲れない。この一点だけは……」
 そう言ってアルバは、アストレアの肩まで伸びたダークブラウンの後ろ髪の一房に触れる。見た目では優しく紳士的にも見えるその手付きだが、その一方でアストレアの髪を見つめる彼の人でない目は、どことなくマネキンのウィッグを眺めて品定めをしているようでさえあった。
 時折、彼が垣間見せるその冷たさ。向けられる視線に違和感を覚えたアストレアは、瞳孔がなく不気味に光り輝く男の目……よりもやや下の部分を凝視し、男に問いかける。
「どうしたのさ、ミスター。急に真剣になって。怖いんだけど?」
 するとアルバは、アストレアの髪に触れていた手を下ろし、それから彼女からもスッと離れる――アストレアの大きな目の奥にあった、自身に向けられていた訝しみに彼はたった今、気付いたようだ。それから彼は珍しく誤魔化すような苦笑いを浮かべて、言い訳を取り繕うように、それらしい言葉を紡ぐのだった。
「最初に浮かべる笑顔ひとつで、状況は大きく変わる――ということだ。穏やかに微笑めば、相手を油断させる。見下すように冷たく笑えば、相手の怒りを焚きつけ、こちらが付け入る隙を生み出すことができる。目元を極力動かさずに、心を失くしたような乾いた笑みを浮かべれば、相手に恐怖心を植え付けて服従させやすくなる。ゆえに第一印象は大事だ。そういう話だよ」
「ふぅん?」
「幼気な少女を連れた、年齢不詳の紳士。それだけで十分に、怪しい雰囲気だ。その印象さえ決まれば、イニシアチブはこちらのもの。だから、私の指示に従え。お前が勝負に勝ちたいのであればな」
 私の指示に従え。その言葉のあと、アルバの表情は元通りの真剣なものに戻る。どうやら彼は、どうしてもアストレアを自分が望む通りの姿に仕立てたいようだ。
 彼から渡された綺麗なドレスに、心を奪われた喜びも。もはやアストレアはとっくに忘れていて、今の彼女の頭にあるのはアルバという男に対する苛立ちのみ。良く言えば“几帳面で丁寧”であり、しかし正しくいえば“異様に神経質で、病的で、猟奇的で、良心が欠片しかない”ともいえる彼の言動に、彼女はすっかり呆れていた。そんなアストレアはウンザリとした顔で溜息を零し、肩を落とす。それが彼女に可能な、最大の抗議だった。
この男はとにかく、何事も自分の思い通りにしたいらしい。そして彼にとって周りにいる者は人間でなく、操るためにある道具のひとつ。誰も、彼とは対等になることはなく、アストレアもまた彼にとっては便利な道具のひとつでしかない。――今は亡きアイリーン・フィールドの言葉を借りるなら、まさに彼は“サイコパス”で、マダム・モーガンの言葉を借りるなら“こじらせ野郎”だ。 
「分かった、分かったってば。子供のフリすりゃいいんでしょ? 拗ねた子供の演技なんて、僕にはお手のものさ。かれこれ一〇年、ずーっと。子供の演技をしていたワケだし。年相応に振舞うことが許されたのって、潜入のために金髪のアンドロイドのマネージメントをさせられてたときだけだったしね……」
 アルバにとって大事なのは、“常に勝者であり続けること”と“現実を、自分の思い描く世界に引き寄せること”の二つ――当人が、自身のその本性にどこまで気付いているかはさて措き。
 故に、いついかなる場面でも彼は勝ち続けることを望み、場を支配することを望む。今もまさに彼は無意識のうちにアストレアを下して支配しようとして、結果的に彼女の小さな怒りを煽っているのだ。そして彼は、アストレアを煽るような余計な言葉をまた零す。
「完璧だ。いかにも不満たらたらの子供に見える。演技がサマになってるじゃないか」
「違う、今のは――!」
「なんだ、エスタ。今のは演技じゃなかったのか? 完璧な演技だと誉めてつかわそうかと思ったところだったんだがな……」
 募る苛立ちと、それでも逆らうことが出来ない悔しさから、アストレアの顔はますます険悪な表情になっていく。見るからにピリピリとして、緊張感に満ちているように思えるこの二人の関係だが、それを傍で常に見守る者からすればその光景は、日常的で滑稽な茶番劇でしかない。
 故に、いつも二人を見ている海鳥の影ギルは、二人に向けてこんなことを言う。
『あなた方といえば、本当に……――コメディコンビでも組んだらどうですか?』
 海鳥の影ギルが零した、そんな呟きに対して。アルバとアストレアの二人は、同時に噛みつく。それも同じタイミングで、二人して同じ言葉で。
「黙れ、ギル」
 見事にシンクロしていた、その台詞。海鳥の影ギルはその光景におかしさを感じていたが、それ以上は何も言わず、ただ息を殺して、言われたとおりに黙ることにしたのだった。




 そうして、場所は変わって。マンハッタンとは比較的近い場所にあり、そしてマンハッタンをゆうに超える廃都市となっているボストン。剥き出しの大地の他はきれいさっぱり消え去り、雑草すらも残ってない荒野には、冷涼とする風に短い黒髪を揺らすマダム・モーガンの姿があった。
 彼女の装いはいつもどおり。特務機関WACEの制服であった黒のパンツスーツ、要するに“喪服姿”だ。そして黒いスーツと黒い髪、白いシャツと、青白く光る瞳孔のない瞳が生み出す強いコントラストは、他に何もないこの地において、気味が悪いほどに目立っている。
 そんなマダム・モーガンを目印にするように、空から一羽のカラスが大地へ降り立った。
「それで、キミア。あいつらの様子は?」
「いつも通りさね。ケケッ」
 降り立ったカラスにマダム・モーガンが声を掛ければ、カラスは嗄れた声でケケッと笑い、返事をする。というのも彼らはここで、落ち合う約束をしていたのだ。
 キミアと呼ばれたカラスは、マダム・モーガンからある頼みごとをされていた。それはマンハッタンにいる、あの三人衆の監視およびその報告だ。
 一体どちらが主人で、どちらが眷属であるのかという議論はさて措き。カラスはマダム・モーガンの依頼を終えて、こうして帰ってきた。そんなカラスの細い首には、旧式の小型で丸いフォルムが可愛らしいインスタントカメラがぶら下がっている――一昨日にマダム・モーガンがカラスに買い与えて、その使い方をカラスにレクチャーしてやったものだ。
 そのカメラを、マダム・モーガンはカラスの首から取りさらうと、カメラの背面に搭載されている赤いボタンを押す。するとカメラの背面がわずかに動き、そうして生まれた隙間から、それなりの厚みがある光沢用紙が顔を出してきた。
 カメラはギィ……ギィ……と音を立て、光沢用紙を本体の外へとゆっくり押し出していく。押し出された光沢用紙には、カラスが撮ったのであろう写真がフルカラーで印刷されていた。
「あら。鳥の足を使った割には、意外と上手に撮れてるじゃないの。凄いわね、キミア」
「当ッたり前さね。お前ェサンはヨ、俺ちんを誰だと思ってるのかェ? ケケケッ!」
 そうして印刷を待つこと五分弱。カメラは五枚の写真を吐き出し終える。カメラから出てきた写真にはマダム・モーガンの注文通り、マンハッタンにいるあの三人が映っていた。
 一枚目は、自分が起こした盗みや騒動の数々、銃撃に乱闘沙汰などを忘れたような顔で、優雅にヴァイオリンなんてものを弾いている白髪の男アルバの、その横顔。二枚目は膝に“写真には写らない何か”を乗せていて、その何かを撫でながら、ソファーに座っているジャージ姿のアストレア。三枚目は呆れ顔のアルバと、その後ろでしたり顔をしているアストレア。四枚目は、何やら綺麗な緑色のパーティードレスを手に、戸惑い顔のアストレア。そして五枚目は洗面所の鏡の前に立ち、自分の目元にアイラインを引いているアストレアと、そんな彼女の背後に立ち、彼女の柔らかくて細い髪を慣れた手つきで編んで、シニヨンにまとめているアルバの後ろ姿が映っている。
 パッと見るだけでは、過激な言い争いを毎日繰り広げていそうな、ぼちぼち仲の良い祖父と孫娘といった関係にしか見えないだろう。孫娘が何かのパーティーに行くので、その身支度を手伝っている……といったところか。
 しかし彼らの背景を知ったうえで写真を見ると、予測される可能性は一つ。
「……あらあら、まぁまぁ。ミスター・アルバはついに、アストレアを連れて仕事に出るようになったってことなの?」
「まッ、そうみてェだァ。たァいえ、そいつァ今日、初めて見たのヨ。あんましノリ気じゃァねェあン野郎の様子から見るに、今回はお嬢ちゃんのトライアルみたいなモンだろうサ」
 その可能性とは、マダム・モーガンが述べた通り。アルバがついに、表舞台にアストレアを連れて出るようになったということ。
 この半年近く。アルバという男は少なくとも、アストレアを連れて外を歩くことはしていなかった。連れて出たとしても、それはあくまで廃都市マンハッタンの中だけであり、アストレアが一人で外出をすることを許されたのも、マンハッタンの中だけ。ゆえにマダム・モーガンはこう考えていた。アストレアは、アルバという男にとっての隠し刀なのだと。いざという時までその存在を伏せておいて、ここぞという時に彼女を使うのかと、そう思っていたのだが……――どうやら、特にそういうわけではなかったようだ。マダム・モーガンは深読みをし過ぎていたらしい。
 今までは単独でやるべきことを片付けたほうがラクだったから、アストレアを連れて行かなかっただけ。そういった可能性も考えられてくる。というか、自分本位で自己中心的である彼の性格を鑑みると、そちらの可能性のほうが高いだろう。
「トライアル、か。……まあ、アストレアも仕事ができないわけじゃないからね。潜入工作は、あの年齢にしちゃ良い線いってる腕を持っていたわけだし。でも、どうしてこのタイミングで急に彼女を使おうと思ったのかしら……」
 なんと言い表せばいいのか。この、当てが外れたというか、目算が狂ったというか、虚を衝かれたというか……――。ともかく、マダム・モーガンは買いかぶりすぎていたようだ。アルバという男のことを。
 マダム・モーガンは、彼のことを用意周到な人物だと思っていた。というか、もしかしたら彼は、マダム・モーガンが思っていた以上に用意周到であったのかもしれないが……いや、もしかしたら用意周到ではないのかもしれない。
 いや、そういえばだ。思えばあの男は偶に、行き当たりばったりやら、思い付きで行動を起こす時がある。いや、振り返ってみると、いつもそうだったような気もしている。そもそもあの男が、綿密な計画を立てているところなど見たことがない。しかしだ、あの男はこんなことも以前に言っていた。計画は全て私の頭の中にだけ存在するとか、なんとかと。となると、やはり……――
「――考えたって無駄ね、あいつの頭の中のことなんて……」
 そう。アルバという男の考えていることは常に、他者には分からないのだ。彼は彼自身の意図を説明することはまず無いし、説明したとしても彼の言葉はあまりに抽象的で、凡人にはまるで理解できない。秀才でも、理解できないだろう。天才だとしても、理解できるかどうか。……つまり、彼以外の誰にも、彼の思考を理解できないというわけである。それにマダム・モーガンの知る限り、辛うじて彼の思考を理解できていると思えるのはただ一羽だけ。海鳥の影ギル、あいつだけなのだ。
 となればマダム・モーガンには、彼のことなど理解できるわけがない。仮に彼女が彼のことを、彼がまだ幼少期であった頃から観察していたとしても。彼女には、彼の考えていることがサッパリ分からないのである。
 そういうわけでマダム・モーガンは、アルバがついにアストレアを連れて外に出るようになった理由を考えることをやめる。代わりにマダム・モーガンは、彼女の足下で黒い翼を無意味にバタバタと動かしているカラスに視線をやった。
 すると視線を感じ取ったカラスは、マダム・モーガンの意図をすぐに察し、こう答えた。
「今お前ェサンが知りてェことはきっと、今のあいつらン居場所だろ? それなァら今頃はギルも連れて、三名で豪奢なパーティーに殴り込みしてんだろーサ。イングランドだか、スコットランドだかアイルランドだか、アイスランドだかグリーンランドだかポーランドだかフィンランドだかポートランドだかハイランドだか知らねェが、まァどっかの金持ちサマの邸宅のパーティーだ」
「まるで役に立たない情報をどうもありがとう。次からはもう少し地域を絞ってくれると助かるわ」
「おぅヨ。礼はいいゼ」
「それで、キミア。私に教えて。彼らがパーティーに殴りこんだ、その目的を。あんたなら知ってんでしょ?」
 マダム・モーガンからの質問に、カラスはキョトンと首をわざとらしく傾げさせる。そしてカラスはすっとぼけるような声で、こう言った。「俺ちんには分からん。俺ちんが思うに、あの相手はもうあン野郎にとって用済みなはずなんだがなァ……」
「なぁに? よく聞こえなかったんだけど」
「もう一度言うぞ、モーガン。俺ちんには、分からん。お前ェサンも今、言ってたろ。あン野郎の考えてるこたァ、いくら他者が考えたって理解できンのサ。それにあン野郎が、金持ちサマ相手にどんな脅しをしてたのかーってンなことも、サッパリ聞き取れなかったのヨ。あいつも何がしてェんだかなァ? 俺ちんにゃァ分からんのサ」
 声こそすっとぼけているが、だがこの時ばかりはこのカラスも嘘をついていなかった。カラスもマダム・モーガンと同じく、さっぱり分からなかったのである。アルバという男のことが。
「あいつの考えてるこたァ常人を超えてンだ。普通の人間の考えってモンを理解するこたァヨ、俺ちんも長~いこと頑張ってェ身に着けたモンだが。しっかーし流石の俺ちんも、元老院と対等に渡り合ってみせる、アーサーのような規格外の気狂い野郎を理解すンのは無理だゼ。ケケッ。ミジンコの感情を理解するぐれぇ困難なこったァ。ぺルモンドの本心を探ることの方が圧倒的に簡単だと思えるぐれぇ、あン野郎の思考回路は理解できんのサ。ありゃぁヨ、頭のネジが外れすぎてらァ」
 しかし、そう弱音を吐くカラスの声には切羽詰まったものが、からきしない。それどころか行動が予測できないもう一柱の眷属が、次にどんな一手を出してくるのか、それを期待しているようでさえある。そんなカラスのふざけた様子に、マダム・モーガンは苛立ちをあらわにした。
「あんたはお気楽な傍観者でいいわねぇ、キ・ミ・ア?」
 昔の名を“アーサー”といい、今は“アルバ”と名を改めた男が巻き起こす、穏やかでない騒ぎの数々のお陰で最近は、あちこちがピリついている。人間社会もそうだが、人間に見つからぬよう息を潜めて暮らしている中位の神たちの界隈にも、今は緊張感が漂っているらしい――そこの界隈に通じている、ラドウィグという情報源曰く。
 そしてこの地球という天体を統括する上位の神、慈悲深き竜神カリスのご機嫌も、近頃はナナメで荒れ模様。それで最近は、相変わらず心ここにあらずという状態ではあるものの、再び少しの会話はできるようになった“ジョン・ドー”が、マダム・モーガンの助言に従い、竜神カリスのご機嫌取りをしてくれているのだが……――その手段も、いつまで有効なものか。
 竜神カリスの怒りが限界を超えるのも、時間の問題。そして竜神カリスの怒りが限界を超えれば、地上にある生物たちの破滅は待ったなし。とはいえその最悪な未来予想図はほぼ確定で、覆すことが出来ないと分かっている今。マダム・モーガンは全てを諦めていたが……でも彼女は、出来ることならその未来を、少しは先延ばししたいと考えていた。
 そのためには可能な限り、アルバという男が企てる物騒な事件を妨害したいのだが。妨害工作に必要な情報を掻き集める役のカラスが、この通り。まるで役に立たない。というよりもカラスは、マダム・モーガンに妨害工作を行ってほしくないのだろう。カラスの態度から、その思いが滲み出ているし、カラスはそれを隠す気が無いようだ。
 そんなカラスは極めつけに、マダム・モーガンにこんな話を振るのだ。
「おぅヨ。俺ちんは気楽な傍観者サ。昔はその役に徹してたのヨ。ケケッ。その傍観者の話を聞きたいいかェ、モーガン?」
「あなたの昔話に興味はないわ、遠慮しておく」
「つれねぇな、モーガン。そう言うなって、なァ? せっかく面白ぇ話をしてやろうと思ってたのにヨォ……」
「あんたと私じゃ、面白いっていうものの判断基準が違うのよ。だから聞きたくもないわ、あんたの話なんて――」
「俺ちんの領分。可能性、ってモンの話は聞きたかねェか? たとえばだ、そう……――俺ちんが世界に干渉しなかった場合の世界。可能性は存在せず、アリアンフロドの紡ぐ糸の通りに、滞りなく運命が動いていた世界の話だ。どうだェ、興味あっか?」
 興味がない、とマダム・モーガンはカラスに言葉を返したかった。だが彼女は、嘘を吐くことが出来なかった。そんなマダム・モーガンは口を閉ざし、カラスの目をじっと見る。カラスの蒼白く光る瞳は今、カラスの提示した話題に興味を示したマダム・モーガンを逆に、興味深々に見つめていた。
 そしてカラスは言う。
「簡潔に話すかェ。――まず、だ。俺ちんは長いこと、世界を見てきた。んでヨ、人間を観察し始めたのが一〇個前の宇宙が誕生してからだ。さらにお前ェサンら、つまり今あのアーサーが起こした騒動に関わっている人間の子らをチェックし始めたのが、四つ前の宇宙からヨ。っつーのもだ、偶然俺ちんに興味を示した男が、その昔に居たのヨ。で、俺ちんもそいつに目を引かれちまったわけサ」
「……もしかして、あの子なの?」
 意味ありげなカラスの視線から、マダム・モーガンが予測した名前はひとつ。今は竜神カリスの傍にいる、あの少年のかつての名だ。だが残念ながら、その予想は外れる。カラスは馬鹿にするようにケケッと笑い、マダム・モーガンの問いに答えた。「いンや、違う。あのガキんちょじゃねぇゼ。あいつァどの世界でも、だいたい若いうちに殺されてらァ。何も成し遂げずにヨ」
「……」
「あのガキんちょについて、俺ちんが覚えてる限りで話すとだァ……あるときァ三歳で野犬に噛み殺されてた。ンで十一歳で、男どもに暴行され殺されたりもしてたゼ。さらに十五歳で死んだ時にゃァ、不注意が原因でデモ騒動に巻き込まれて、ひとり催涙弾をもろに浴びちまってなァ。右脚はゴム弾で粉砕されちまったうえに、ガスのせいで呼吸困難を起こしてな。ンで、死んじまったのヨ。ただ本を読みながら歩いてただけの、政治になんざてんで興味もない朴訥な数学少年だったのにヨ。いつでもあいつァ可哀想なやつだったんだゼ。その悲惨な死を繰り返した結果、生に執着せず、なにかと諦めが早いペルモンド・バルロッツィなる人格が完成しッ――」
「キミア。それで?」
「あー、あー。分かってらァ。教えてやんヨ、その男の正体を」
 簡潔に話す。そういっていたはずのカラスだが。カラスの話す言葉のどこが、簡潔なのだろうか。苛立ちを着々と積み重ねていくマダム・モーガンが、カラスを見降ろす目はますます冷たくなっていく。
 そうしてマダム・モーガンが、コツコツと彼女が履いているハイヒール靴の尖ったつま先を、一定のリズムを刻むように鳴らし始めると、流石のカラスも緊張感を察しとったのだろう。それまで無意味にバサバサとばたつかせ続けていた翼をカラスはしまうと、今度は気味が悪いほどしんみりとした暗いトーンで、カラスは話の続きを喋り出したのだった。
「その男はある時には、こう呼ばれていた。沈黙の小説家、となァ。そいつァ喋ることもできず、表情を作ることも出来なかったんサ。子供の頃に負ったダメージのせいでなァ。ンでそいつは叔母夫妻が営む喫茶店を手伝いながら、細々と小説を書いてたわけヨ。だから沈黙の小説家って呼ばれてたワケ。そーいうわけでェヨ、作家本人にセンセーショナルな通り名が付いちまったモンだ。バカ売れしてたゼ、そいつの書いてた小説は。映画化もされてなァ。ンでヨ、今はそいつが書いてた小説を、俺ちんが再現してるワケだァサ」
「……私の手元に、その小説があれば良かったのに……」
「ケケケッ。一個前の宇宙からその本を持ってきてやりてェがヨ、そりゃ無理な話だわサ!」
「どこまでもムカツク烏ね、アンタは」
「ケケッ! ンでヨ、そいつも、お前ェサンの弟分と同等なくらいには不幸な男だったのヨ。そいつァ親父の有り余っていた性欲のせいで生まれちまった、誰にも誕生を祝福されなかった可哀想な落とし子だったがァ――その親父に目の敵にされてなァ。五歳まで軟禁状態の下、父親からの虐待を受けながら育ち、ンでヨ、遂には六歳の時に親父の勝手な都合で、精神病院にぶち込まれちまったンサ。賄賂を受け取ったドクターが適当な病名をそのガキに与えて挙句、ドクターは健康そのものだったガキに随分と強い電流の電気ショック療法を試みてナ。その結果ガキは脳にダメージを負い、障碍者になっちまったンだ。そンでヨ、ガキは声と表情、それと歩行機能を失った。死ぬまでずっと、その状態は続いたのヨ。まあヨ、知能に問題がなかったことだけが幸いだ。だーから、あんな小説をあの男は書けたわけで……――」
「……キミア」
「たァいえ、あいつァ売れ過ぎたんだ。そんでヨ、うっかりあいつァ親父の黒い真実を自伝本で暴露しちまったンさ。そのせいでヨ、慈善家で通ってた親父の評判はガタ落ちし、親父はついに地の底に落ちた。まッ、それが原因でそいつァ親父にナイフで滅多刺しにされてヨ、助けを求める声も上げられないまま殺されちまって、暗闇の中にひとり取り残され、孤独に人生を終えたんさね」
「…………」
「俺ちんが見てきたうちの四回とも、その終わり方をしてたなァ。……あれの『肉を切らせて骨を断つ』もしくは『刺し違えてでも殺してやる』ってなリベンジャー精神は、何度人生をやり直しても変わっちゃいねぇみてェでヨ。それどころか、回数を重ねるごとに復讐が過激さを増していっていてなァ。面白ェ限りだゼ」
「キミア。それで、その男の名前は」
「そう文句言うなァ、モーガン。教えてやんヨ、名前を」
 カラスの話は、本当に長い。長すぎるのだ。そして長話のおかげでマダム・モーガンにはもう、その男の名前に見当が付いていた。
 ヒントに次ぐヒントで、もはや正解は目に見えている状態ではあるが。それでもカラスは、正解をわざわざ発表する。カラスは嘴の中にある舌を、鳥とは思えぬほど器用に動かし、ドラムロールのような音を再現する。それから飽きずにドラムロールの真似事を三〇秒ほど続けた後、カラスは正解の名前を言おうとした。のだが。
「その男のペンネームは、ウディ・A・ブレナン。本名は――」
「シスルウッド・アーサー・マッキントシュ、でしょ」
 カラスの言葉を遮るように、マダム・モーガンが割って入れた人名。そしてマダム・モーガンが言った名前は正解であったためか、カラスは不機嫌そうに右足を上げて下ろし、鋭く尖った足の爪で地面を抉る。それからカラスはマダム・モーガンに、不満をぶつけるのだ。「いつ分かったんでェィ、モーガン!」
「だいたい予想が付くわよ。父親に憎まれて育った落とし子、って時点で。それに、刺し違えてでも相手を傷つけたいだなんてこと考えそうなのは、私の知る限りその男しか思い浮かばない。それにたしか、彼の叔母夫妻の姓がブレナンだったはず。となれば、ね。あいつしかいないわ」
 シスルウッド・アーサー・マッキントシュというのは、今はアルバと名乗っているあの男の本名。少なくとも、彼を産み、そして自身の命と共に彼を捨てた彼の母親が、最初に彼に与えた名前は、それだった。
 そういうわけで、カラスが語った謎の男の正体が分かったところで。次に浮かぶのは新たな疑問。マダム・モーガンはその疑問を、ストレートにカラスへとぶつける。「つまりあんたは、もう一人の彼が描いた物語を、この世界で実現しようとしてるってことなの?」
「そういうこった」
「なぜ? 理由は?」
「暇だからでィ。やることがねェ、退屈だ。だーからヨ、退屈しのぎっつーわけ」
「もう一度聞く。――どうして、その男が書いた小説を再現したいのよ、あんたは」
 暇だから。やることがないし、退屈だから。退屈しのぎにやっている。……このカラスならば、あり得なくもない理由だが。だが流石にそれはないだろうと勘繰るマダム・モーガンは、瞳孔のない冷たい瞳でカラスを睨みつける。するとカラスはまた無意味に翼をばたつかせはじめて、ぴょこぴょことマダム・モーガンの足元で小さく飛び跳ねながら、こう言葉を返した。「俺ちんも結局は、黒狼ちゃんと同じってェことヨ。大昔の約束を忘れられずにいるってわけサ」
「もっと具体的に説明してくれないかしらねぇ、キミアさん?」
「元老院とアリアンフロド以外で初めて俺ちんの存在に気付き、対話を求めてきたヤツが、あいつだったんヨ。四つ前の宇宙で出会ったのサ。今までも俺ちんは長いこと生きてきたがァ、その大半の時間を俺ちんは、世界を傍観することだけに費やしてきた。傍観者でない生き方があることを俺ちんに示してくれたのがァ、意外なことにヤツだったンさ。その為の道筋を、あいつァ小説として俺ちんに遺してくれたンよ。で、四つ前の宇宙でのヤツの死に際に、ヤツと約束したっつーワケ。このクソったれみてェな、無意味に同じことを繰り返し続ける世界をぶっ壊し、二度と不幸を繰り返さねェようにするとヨ!」
「…………」
「なァ~ンも無くなっちまえば、何も起こらねェ。まァ仮に、全てが滅びずにまた新しい世界が始まったとしてもだァ、少なくとも今まで通りにはいかねェだろーヨ。アバロセレンがある限り、そして俺ちんが干渉し続ける限り、いくらでも世界は、今後も書き換わるサ。既定の道なんざねェ世界になるのヨ。そうなりゃヨ、予め定められた不幸は避けられるようになるってェワケさね」
 カラスはぴょこぴょこと忙しなく跳ね回り続け、飄々とした調子で昔話を語る。そして昔話の中で語られ、初めて判明したこのカラスの――意外なことに、全ての根となる部分があった――行動原理に、マダム・モーガンは驚きを隠せずにいた。だがその一方で、マダム・モーガンは思うのだ。このカラスのことだ、嘘を吐いている可能性だって十分にある、と。故に彼女はこう返す。
「まさかあんたから、そんなしんみりした話が聞ける日が来るとは思ってもなかったわね……。まあその話が事実であれば、だけど」
「今回ばかりは事実だィ!」
「さぁね。どこまで本当のことだか」
「俺ちんはこう見えても、お前ェサンらが持っている想像力ってのを与えられてねェンさ。だーからヨ、嘘は吐かないゼ? 隠し事があるだけか、俺ちんの発言の後に急遽、計画が変更になっただけサ。俺ちん、嘘は吐かんのヨ」
「あら、そうなの? まっ、あんたの言葉なんて信用に値しないけど……」
「俺ちんが抱えていた計画は全て、四つ前の宇宙に生きてたあの男が創り出したものが全ての土台ヨ。俺ちんはそれを改良しただけサ。つまり、俺ちんが考え出したモンじゃぁねぇってことヨ。俺ちん自身には想像力がねェの。そこに関しちゃァヨ、お前ェサンら人の子が羨ましい限りだゼ」
「はいはい、そういうことにしておいてあげるわ」
 繰り返し繰り返し、カラスは話が事実であると言い張り続けるが、しかしマダム・モーガンはそれを聞き流し続ける。彼女にはカラスの言葉を聞き入れる気が更々ないようだ。
 この話題はどこまで行っても、平行線を辿る一方だろう。そう判断したカラスは、話題を変えるために、小さな声でこんなことをボヤく。
「しかし、まァ……――その計画も、今回の世界でのあいつが見事にブチ壊してくれたァ。興味深い男だゼ、あいつァヨ」
「そうね、ええ。そう、興味深いわね。ええ、興味深い」
 マダム・モーガンの反応は、相変わらず適当なもの。カラスはそんなマダム・モーガンに少しの苛立ちを滲ませた視線を送りつけると、ひとつ咳ばらいをする。それからカラスはふと“こちら側”に目配せをした。
「ンじゃ、その興味深い男の過去を話してやンヨ。準備はいいかェ?」
 マダム・モーガンの足下にいるカラスは、マダム・モーガンの他の誰かに話しかけるようにそう言った。だが彼女の他に、人影らしいものは無い。なのにカラスは、何かに向かって喋っている。
「誰に話かけてるのよ?」
 マダム・モーガンが投げ掛けたその疑問に、カラスはあくまでも飄々とした調子でこう答えるのだった。
「ヒミツだっゼ」


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