ジェットブラック・
ジグ

目次
  1. 四二八九年/ASI本部
    1. 時刻は午前一時過ぎ
    2. 「エコー、ちょうどいいところに!」
  2. 四二八九年/渋滞の中で
    1. 「あぁッ、クソ。何十分、止まってんだか……」
    2. 「私はあなたに危害を加えるつもりはないよ」
  3. 四二八九年/ASI本部
    1. 「ミルズ。そこに座りなさい」
  4. 四二八九年/北米東海岸
    1. 「そうむくれるな、エスタ」
    2. そうしてアストレアがひとりぶすくれていたときのこと
    3. 「それ以上、私たちに近付かないで」
    4. 「暗愚の闇を切り捨てる一閃、薄明の覇者」
    5. 「退却する、彼女のことは諦めなさい!」
    6. 「正直に言いなさい」

ep.09 - Sacrifice of silver wheel.

 時刻は午前一時過ぎ。ジュディス・ミルズが運んできた食料――長官室の冷凍庫にて大量にストックされていたという鯖サンドをあるったけ――を胃袋に詰め込み、ひとまず普通に活動できるだけのエネルギーを確保し終えたラドウィグは、相棒である狐を伴って地上一階のエントランスホールに移動していた。
 彼らが待っていたのは、ジュディス・ミルズが呼び出していたASI局員。通称エコーと呼ばれている工作員、コービン・デーンズである。ジョン・ドーの見張り役として徴集されたエコーだが、ラドウィグには彼に伝えなければならないことがあった――その仕事がなくなった、という話を。
「……」
 深夜帯とは思えぬほど静かならざるエントランスホール。門前には、赤いランプを煌々と照らしている救急車が停まっている。そして救急車から少し離れた場所には、血だまりができていた。ジョン・ドーが飛び降りた際にできたと思われる、出来立てほやほやの血だまりである。血だまりは深夜の闇をその表面に映し、地表に漏れ出た石油のような鈍く黒い光を放っていた。
 その黒い光をぼんやりと見ていたラドウィグは、黒い光に暗い影が落ちる瞬間を目撃する。真っ黒なライダースジャケットを着た黒髪クセ毛の男が闇の中からヌルッと現れ出て、その血だまりの傍で立ち止まったのだ。その男――徴集を受けて参じた局員、コードネーム・エコーことコービン・デーンズである――は首を傾げつつ、数秒ほど血だまりを見たあと、次に停まる救急車を一瞬だけちらりと見やったのち、再び動き出す。エントランスホールで待っていたラドウィグを目掛けて、小走りに、一直線に……。
 バイクでここに来たのか、エコーは脇腹にフルフェイスのヘルメットを携えている。フルフェイスのヘルメットが放つ独特の威圧感に、ラドウィグが悪い妄想を思い浮かべて小さく身震いをしたとき。強盗と見紛う格好をしているエコーがラドウィグの前に到着し、平坦な声でこう言った。
「遅れてすまない」
 そんなこんなでラドウィグは苦手意識を抱いていたのだ。コードネーム・エコーこと、コービン・デーンズという男に。というのも、この男。ラドウィグ以上に掴みどころがない人物なのである。
 エコーはラドウィグ以上にボーっとした雰囲気を放つ男だ。しかしその言動はチャキチャキとしているし、眼光はとても鋭く、どちらかといえば強面なほうだ。それに服装もイカつく、乗りまわすバイクも大型でゴツい。が、全般的に気配がなく、動作は静かで、バイクの排気音さえも静かだ。そして彼から飛び出す発言はどこか珍妙でズレているし、やっぱりどことなく『ボーっとしている』ように見える。そのように、形容に困るよく分からない男なのだ。
「渋滞を迂回したせいでえらく時間が掛かった」
 特殊作戦班には、かつてフォネティックコード呼びの男たちが五名在籍していた。四〇代前半のアルファ、五〇代後半のブラボー、六〇代前半のチャーリー、四〇代後半のデルタ、そして三〇代前半のエコー。この五名である。大半は清潔感のないベテランのジジィであり、唯一の例外が中堅のエコーだったわけだ。
 ラドウィグが、かつてのメンツと関わりのあった時間はほんの一瞬。だが、その一瞬も同然の時間の中でも、ハッキリと分かっていたことがある。それはエコーが浮いていたということ。口を開けば猥談ばかりの不潔なジジィどもとの間に、エコーは距離があったのだ。ジジィどもはお構いなしな様子でエコーにちょっかいをかけていたが、エコーのほうはあからさまに壁を作っていた。業務に関連していない会話を、エコーはジジィどもと積極的に交わそうとしていなかったように、ラドウィグには見えていたのだ。
 アリス・スプリングスに向かっていた輸送機の中でも、アルファを除いたジジィどもは賭け事に興じて時間を潰していた横で、エコーは他の隊員らから離れた場所でひとり仮眠を取っていただけ。イヤーマフで耳を覆い隠して、あらゆるノイズを遮断している寝姿はまるで『話しかけてくれるな』と訴えているかのようだった。それに、輸送機の中でアルファがアレクサンダー・コルトを相手に怒号を上げたとき、同じ輸送機に乗り合わせていた者の中で唯一反応を示さなかったのがエコーだった。――そんなエコーの様子を見て、ラドウィグはちょっぴり思ってしまったのである。感じが悪いな、と。
 そのエコーは、ウルルでの一件のあとに療養のため休職していた。開放骨折した左腕の調子が思うように戻らずリハビリに時間が掛かっていたとか、なんとか。そして三ヶ月のデスクワークを経て、彼が現場に本格復帰したのは二週間前のこと。その間、ラドウィグと彼との間にこれといった接点はなく。対面してまともに話すのは、これが初めてとなるだろう。
「いやぁ、その……こんな時間に呼び出してしまって、申し訳ないです。謝るべきなのはコッチっスよ」
 ヘラヘラと笑いながらそれっぽいことを言うラドウィグは、言葉を発する合間で相手の様子を伺う。だがエコーの心情は掴めそうにない。真夜中に徴集されたことを不服に思う様子も見られなければ、ラドウィグに対して何らかの感情を見せるわけでもない、至ってニュートラルそのものなエコーの姿が、却ってラドウィグに妙ちくりんな緊張感を齎していた。
 すると、掴みどころのないエコーはぬるりとラドウィグの言葉をスルーする。これといって感情が宿っていない目でラドウィグを見る彼は、単調な声でスパッと問うてきた。「それで、俺は何をすればいいんだ?」
「んー。それが、状況が変わったというか……」
「収監者の監視役が必要だと聞いて、ここに来たんだが」
「その収監者が逃亡したんです。それ以外にも色々とあって状況が変わって、オレも何が何だか分からないんスよ」
「逃亡だって?」
「窓をカチ割って、飛び降りまして。それもアバロセレン犯罪対策部のオフィスから。あの血だまりが、その逃亡者のもので……」
「高層階から飛び降りて、逃亡? 死亡の間違いじゃないのか」
「いやぁ。それが……生き伸びて、逃げやがったんです」
「なら、そこにある救急車は?」
「あー、その。それはまた別件っつーか……」
 エコーは無感情な声で、無表情の顔をキープしたまま、キリッとスパッと簡潔な言葉を以てしてラドウィグを問い詰めてくる。が、やはり彼の目には何も感情がなく、曖昧な受け答えで言葉を濁すラドウィグに苛立っている様子さえ見られない。分からないことをただ訊いているだけのようだ。
 エコーによる、AI:Lよりも機械じみている受け答え。ラドウィグにはそれが、返答を急かす圧として感じられていた。そうしてラドウィグが無駄に狼狽し、答えを濁すような言葉ばかりを発していると。それを見かねた神狐リシュが動く。ラドウィグの足元にちょこんと座っていた神狐リシュは狼狽えるラドウィグを睨むように見上げたあと、呆れを帯びた溜息混じりの声でこう述べた。
『こいつが連れ帰ってきたジョン・ドーが、オフィス内で暴れた。それと同時に、曙の女王も襲来してな。ジョンソンが倒れ、指揮系統に狂いが生じた。見事だよ。怒れる死神さえやらぬ暴挙を、曙の女王はやってのけたんだからな。とんだクソッたれだ、あの女は』
 そんな神狐リシュは、エコーに自分の声が聞こえているテイで喋っている。だがエコーに神狐リシュの声が届いているのかどうかは定かではない。ラドウィグの足元にいる神狐リシュの存在に、彼が気付いているような素振りはなかった。
 ――だが。神狐リシュの言葉が終わったとき、エコーの表情が僅かに硬くなる。その変化はまるで、神狐リシュが聞こえているかのようでもあった。
 そこでラドウィグは、まさかの可能性を思い浮かべる。エコーには神狐リシュの姿が見えていて声も聞こえているが、意図的に無視をしているのではないか、と。そして神狐リシュは、エコーに自分の声が通じることを知っているのかもしれない。
 それはつまり、エコーもラドウィグと同じようなものが見えていることを意味していた。エコーも、ラドウィグと同じように神狐リシュが見えているし、それ以外の存在も、つまり死人の姿さえも見えているのかもしれない。
 だからこそエコーは無感情に、そして機械的に振舞っているのかもしれないし、他者との接点を減らしていたのだろうか。――その消極的な行動選択には、ラドウィグにも覚えがある。特務機関WACEという場所に囚われるより前のラドウィグが、そうであったからだ。
「……あの、エコー」
 周囲には見えないものが見えていると、頭がおかしいと疑われ、心配されたり笑われたり疑われたり、虐めを受けたりする。ゆえに『周囲に悟られぬよう、普通とされる姿に擬態しなければ』と努力をするのだが、いずれボロが出て、状況は逆戻り。その結果、他者と関わりを持つ行為そのものを避けるようになるのだ。接触を断って、耳を塞いで、関わってくれるなというオーラを放ち、他人を遠ざけるようになる。
 ちなみに、これは高校生時代のラドウィグのことだ。そして恐らく、エコーと呼ばれているこの男はラドウィグと同類である。
「もしかして……」
 もしかして、リシュのこと見えてます? ――ラドウィグがそう訊こうとしたとき。ラドウィグのすぐ傍で、ポンッという軽快な音が鳴る。これはエレベーターが到着したことを報せる音だ。
 そうしてラドウィグがエントランスホールの隅、エレベーター乗り場に目を向けたとき。ひとつの扉が開き、到着したエレベーターの中から七名が慌ただしく出てきた――ストレッチャーを引く救急隊員ら五名と、ストレッチャーの上に乗せられたテオ・ジョンソン部長、それから付き添いと思しき主席情報分析官リー・ダルトンら、七名である。
 ストレッチャーと救急隊員らがラドウィグらの横を通り過ぎていく。だが主席情報分析官リー・ダルトンのみがラドウィグらの傍で立ち止まった。そして主席情報分析官リー・ダルトンはエコーを見ると、彼にこう告げた。
「エコー、ちょうどいいところに! 君にはキングの付き添い、もとい警護を頼むよ。君、たしかヘルマ夫人ともアイザックとも知り合いだったろ? うまく誤魔化してくれ」
 突然切り出された命令に、エコーもラドウィグもぽかんとしていたとき。ストレッチャーの上に乗せられていたテオ・ジョンソン部長が、彼らの注意を引くべく大きく手を振りだした。それからテオ・ジョンソン部長は半ば叫ぶように、主席情報分析官リー・ダルトンに向けて異議を唱えた。「コービンにそんな芸当はできない、無理だ! それならウェスリーを呼んでくれ!」
「ありゃまあ。随分とエコーのことを信用してないんですねぇ、キング」
「コービンの演技の下手さは折り紙付きだ! それにアイザックは俺の息子だぞ?! あいつの嗅覚を舐めるな。それに――ッ!」
 大声を上げた拍子に起き上がろうとしたテオ・ジョンソン部長を、救急隊員のひとりがストレッチャーに押し戻す。そこで部長の言葉は途切れた。
 そのタイミングで、主席情報分析官リー・ダルトンはエコーのほうに向き直ると、彼からフルフェイスのヘルメットを取り上げる。それから主席情報分析官リー・ダルトンはエコーに命じた。
「ともかく。エコー、君にはキングの警護を任せたよ。後のことは追って、レムナントから指示が入るはずだ。ヘルメットは預かるから、ひとまず今は行ってくれ」
「相分かった。それは俺のデスクの上にでも置いといてくれ」
 エコーはそう返事をすると、ストレッチャーを追いかけて走り出し、救急隊員らと共に救急車に乗り込んでいく。ついさっき到着したばかりだったエコーは、そうしてあっという間にラドウィグの前から去っていった。訊きたかったことは訊けず仕舞いである。
 胸の内にモヤモヤを留め置きつつ、ラドウィグは黒いライダースジャケットを着たイカつい背中を見送る。その横で主席情報分析官リー・ダルトンは、ウェスリーという人物にコールを掛けていた。
「おはよう、ウェスリー・デーンズ。主席情報分析官のダルトンだ。こんな時間に申し訳ないが、君に出動要請が出ている。チャツウッド記念病院に向かってくれ。実は本部長が襲撃され、そこに搬送されたんだ。コービンを付き添わせているが、彼だけじゃあ不安でね。そこで彼の弟である君に、本部長の家族の対応を頼みたいんだ。今後の処遇が決まるまでの間、ご家族をうまく誤魔化してほしい。……ああ、そうだ。そっち方面ではコービンに期待していないから、君を頼っているんだ。宜しく頼んだよ、それでは」
 横で主席情報分析官リー・ダルトンの言葉を聞いていたラドウィグは、最初に彼の口から飛び出した人名に驚きを得る。ラドウィグは、エコーの弟を知っていたのだ。
 ウェスリー・デーンズ、またはウェス・デーンズ。彼もまたASI局員である。彼は心理分析官ヴィク・ザカースキーの友人で、他部門に所属する情報分析官だ。黒髪クセ毛で、ぽっちゃりとした体格の、おっとりとした雰囲気の穏やかな男だった。そんなウェス・デーンズと、ラドウィグは一度だけ顔を合わせている。心理分析官ヴィク・ザカースキーに渡す資料を彼から預かった際に、ラドウィグは彼と少しだけ話をしたのだ。
 ウェス・デーンズは心理分析官ヴィク・ザカースキーと同じく、料理が好き。そして猫が好きで、キルゴアという名のキジトラ猫と、ウーメラという名のハチわれ猫を飼っていると言っていた。たしかその猫たちはどちらも兄が拾ってきたとか、そう言っていただろうか。
 そういえばあのとき、彼はラドウィグに感謝を伝えてきていた。ラドウィグが兄の命の恩人であるとか、ラドウィグに感謝をしているとか、なんとかと。そのときはウェス・デーンズが言うところの兄が誰であるかがラドウィグには分からず、適当に受け流していたのだが、もしやその兄がエコーなのだとしたら――
「ウェスリーって、あのウェス・デーンズっスか?!」
「デーンズ兄弟は局内でも有名な二人だと思うが。知らなかったのかい?」
 突然声を張り上げたラドウィグに、ウンザリとした顔をする主席情報分析官リー・ダルトンは、ラドウィグにそう問い返す。それに対してラドウィグが首を縦に振るという反応を示せば、主席情報分析官リー・ダルトンは肩を落とした。それから主席情報分析官リー・ダルトンは言う。「彼らは、彼らがまだ子供だった頃に、キングとラーナーの二人に保護されたんだ。そうしてまだ子供だったうちからASI局員になる未来が確定してしまった。そういう特殊な存在だよ。つまり、連邦捜査局シドニー支局のアーチャー支局長みたいな存在だね」
「へー。他にもそういうケースがあったりするんスか?」
「いや。デーンズ兄弟は極めて特殊な例だ。ASIに限った話をすれば、後にも先にもその二人しかないレアなケースだよ。――局内じゃあかなり有名な話だが、本当に知らないのか? 当時、たしか猛獣アレックスも出動していた案件だぞ。彼女から何も聞いていないのか?」
 再びの主席情報分析官リー・ダルトンからの問いかけ。ラドウィグは首を横に振ってみせた。すると主席情報分析官リー・ダルトンは溜息を零したのち、ラドウィグに呆れたという視線を送ってくる。それから彼は、長々とデーンズ兄弟に関する話を語り始めるのだった。
「彼らはその昔、あるギャングの構成員に両親を奪われたんだ。彼らの父親が、正規ルートのアバロセレン輸送に直接関与していた運転手の一人だったことが理由だ。夜間にギャングの構成員数名が家に侵入し、抵抗した両親を兄弟の目の前で射殺したらしい。そして兄のコービンは怒りに任せて構成員をボッコボコにすると、弟と二人で構成員らを拷問し、ギャング団のアジトを聞き出したそうだ。そしてコービンがギャング団のアジトにひとり乗り込んで、そこに居た全員をぶちのめした。それが、コービンが一〇歳、ウェスが八歳のときだと聞いてるよ」
「一〇歳でッ?! ――いや、八歳で拷問!?」
「ちなみに、そのギャング団の構成員のほとんどは一〇代半ばのガキで、平均年齢は十四歳、最年長でも十七歳だったようだ。そのギャング団には上位の犯罪組織があり、つまりそのギャング団は犯罪組織の意のままに動く、いわば捨て駒の寄せ集めのようなものだったらしい。まあ、よくある話さ。それに上位に居た犯罪組織も、当局が連携して根も種も壊滅させたので今は存在していない」
「なるほど~。終わった件とはいえ、胸糞悪いっスね。子供が捨て駒だなんて……」
「そして、そのギャング団もとい上位の犯罪組織はアバロセレンの闇取引をシノギとしていて、コービンが大暴れしたその夜は、キングとラーナー、それから金髪の猛獣、その三人がたまたま現場を押さえに来たときだったらしい。噂によると、前高位技師官僚からの予言があったとか」
「でも、信じられないっスよ。あのエコーが、本当に?」
「僕からしたら、君もコービンも似た者同士に見えるけど。そんな驚くことかい?」
 さりげない主席情報分析官リー・ダルトンの言葉が、ラドウィグの心にプスッと刺さる。ラドウィグがエコーに対して感じていることを、周囲はラドウィグにも感じているのだなという現実を突き付けられ、ラドウィグは居心地の悪さを覚えたのだ。やはり自分は普通ならざる存在なのだな、と。
 そうしてラドウィグが苦笑いを浮かべたとき。主席情報分析官リー・ダルトンは「そんじゃ」と軽く挨拶すると、エコーのヘルメットを携えて彼の持ち場に戻っていった。
 エントランスホールに残されたのは、役目を失くしたラドウィグと神狐リシュのみとなる。そしてラドウィグは足元にいる神狐リシュを見やると、あることを尋ねた。
「そういえばなんだけどさ。オレの気のせいかもしれないけど。エコー、普通にリシュの声が聞こえてるし、姿が見えてるっぽい感じしない?」
『ああ、ヤツには見えてるさ。俺はそのつもりで喋ってたぞ』
 神狐リシュはきっぱりと断言する。続けて神狐リシュはこう言った。『ウルルの件のとき、あいつは脱出を先導してただろ? あんとき、実は俺が脱出までの道を誘導してたんだ。そしてあいつはその俺の後を確実に追ってきた。間違いなくあいつの目には俺のことが見えているし、声が聞こえてる』
「え、そうだったの? あのとき、リシュが?」
『そうだ、感謝しろ。俺が最短ルートの脱出路を示して、お前たちを助けてやったんだぜ』
「……知らなかったよ。ありがとう、リシュ」
『ちなみに、あの野郎は「このことは秘密にしろ」と俺に注文を付けて来やがったからな。人間の分際で、神族種を相手取って、それも感謝を述べるよりも先に。あれはお前よりも傲慢なやつだ。正直に言うと、あいつは気に入らねぇよ』
 意外な場所から飛び出た、あの日の意外な事実。それと共に判明したのは、やはりエコーが同類だったということ。
 感じが悪いなとしか思っていなかった男の印象が、たった一瞬のうちに大きく変わるとは。新発見に驚くと同時に、ラドウィグは自分の理解の浅さにも落胆していた。他人のこととなると、表面的なことしかまるで見られていないのだなと、そう痛感していたのだ。アレクサンダー・コルトのように、フラットな目で他人を見ることがラドウィグにはできていない。
 ――と、そこでラドウィグは思い出す。アレクサンダー・コルト、彼女がまだ局に到着していないことを。
「それにしても、サンドラの姐御は今なにしてんだろ。二〇分前に急遽呼び出されたエコーは局に着いたし。それより後に要請された救急車も到着して、部長は搬送されたのに。それよりも前に動いているはずの姐御が、まだ到着してないだなんて……」
『あの男が言ってただろう、渋滞を迂回してきたと。あの女は渋滞に巻き込まれているんじゃないのか?』
 神狐リシュの言葉を受けて、ラドウィグは思い出す。エコーはたしかに言っていた、渋滞を迂回したせいで遅れたと。
 そして神狐リシュの予想通り、アレクサンダー・コルトは渋滞に巻き込まれていた。局から支給されたジュディス・ミルズのセダン、その運転席に座っている彼女は、ふんぞり返るように座りながら絶えず舌打ちを繰り返している。チッチッチッ、と数度の舌打ちを繰り返した後に溜息をついて、髪を掻き乱す。こんなことを繰り返し続け、かれこれ四〇分が経過していた。
「あぁッ、クソ。何十分、止まってんだか……」
 ハンドルに平手打ちをしたくなる衝動を堪えつつ、アレクサンダー・コルトが何度目かの悪態をひとり零していたとき。車内のスピーカーからは聴き慣れた合成音声の声が鳴る。聞こえてきたのは、この車に搭載されている自動運転機能、それに紐づけられているAI:Lによる天の声だった。
『スリップ事故が複数発生したことにより、渋滞が発生しています。目的地到着まで二時間ほど掛かると予測』
「スリップか。はぁ~……」
 冬の到来により、一段と夜の冷え込みが強くなってきた昨今。本格的な冷え込みはまだ少し先だとアレクサンダー・コルトは思っていたのだが、しかしいつの間にかスリップ事故が発生する季節に突入していたようだ。この調子だと、雪が降り出すのも間近かもしれない。
 嫌な季節だ。そんな言葉を口パクで呟きつつ、アレクサンダー・コルトはハンドルから手を離す。彼女は着用していたジャケットの上着に入れていた携帯型通話端末を手に取るのだが、そのとき天の声が彼女に釘を刺す。『エージェント・コルト。運転中の通話は控えてください』
「分かった、分かった。スピーカーにする。それでいいだろ?」
『ですが、エージェント・コルト。スピーカーであるか否かに関わらず、運転中での通話は法律により――』
「見ての通り、渋滞だ。どうせ動きやしないんだ、ちょっとぐらい良いだろうに」
 頭の固い人工知能に、アレクサンダー・コルトは嫌味をぶつける。そうして携帯型通話端末を操作するアレクサンダー・コルトは、ある人物に連絡を試みた。すると、相手はすぐに応答する。スピーカーから発せられたのは、時間帯を考えずに大声で呆れを表現するニール・アーチャーの声だった。
『おい、アレックス! 今が何時だと思ってんだ? 時間帯ぐらい考えてくれ!』
「文句があるなら、時間帯に構わず騒ぎを起こす女王サマに言ってくれ。それにあんたはどうせ、テーブルロールの仕込みで起きてたんだろ?」
 ニール・アーチャーは夜中のうちに、翌日分のテーブルロールを仕込み始める。寝る前に生地を作って発酵器に入れ、一旦眠り、数時間後に起きて前日の夜に仕込んだ生地を焼き上げる。それが彼の日課なのだ。そして今の時間帯であれば、ちょうど生地を発酵器に入れ終えてひと段落しようとしたタイミングだろう。
 そしてニール・アーチャーから返ってきたのは、盛大な溜息だった。続けて、彼は言う。『それで、用件は? 今度は何が起きた?』
「不死身の怪物、ジョン・ドーがシドニーに現れた」
『……なッ?!』
「幸い、発見されたときにゃ黒焦げの死体だったよ。それが昨日だか一昨日だかにシドニー市警のモルグに運び込まれて、つい一時間前だかに復活。ジョン・ドーはASIのほうで確保したが、一応あんたにも知らせておこうと思ってな」
『そ、そうか。分かった。……ということは、その騒ぎの背後には曙の女王が居るってことか?』
「その線が濃厚だとアタシは考えているが、とはいえ、確証は今のところねぇよ」
『……』
「ひとまずアルフレッド工学研究所に派遣したベッツィーニにも、警戒するよう伝えてくれ。曙の女王による不意打ちの襲撃があるかもしれないからな。――それじゃ、また進展があったら連絡するよ。じゃあな、パン屋」
 アレクサンダー・コルトは最後にそう言うと、相手の反応を窺うことなく通話を切る。そうして彼女は目を閉じ、肩を落とした。
 数秒後、ウンザリとした表情と共に彼女は目を開ける。そのとき、彼女は車内に人の気配がヌルッと現れ出たのを察知した。
「はぁ~。マダム・モーガン、前にも言っただろう。運転中に急に現れ……」
 時間帯も状況も考えずに、ヌルッと現れそうな人物。そう考えたとき、アレクサンダ―・コルトの頭の中に浮かんだのはマダム・モーガンの顔だった。だからこそ彼女はそう言ったのだが、しかし三白眼をシャッキリと開いた彼女が助手席のほうを見やったとき、見つけた人物はマダム・モーガンではなかった。
 穴が開いてボロボロになった紫色の外套。闇夜の中に浮かび上がる真っ白な眩い髪と、重たく垂れさがった長い前髪で隠された顔の右半分。柘榴の果粒を思わせる濃赤色が怪しく輝く左目。――アレクサンダー・コルトの真横に悠然と座っていたのは、曙の女王そのひとだった。
「私はあなたに危害を加えるつもりはないよ。私たち、敵対する理由がない。そうでしょ?」
 薄ら笑いを唇に浮かべる曙の女王は、平坦な声色でそう言うが。しかしその内容にアレクサンダー・コルトは同意できなかった。視線を正面に戻すアレクサンダー・コルトは、ハンドルを握る力を強めながら異を唱える。「いや、残念だがアタシにはある。仕事柄、治安を乱す者を放っておくわけにゃいかないんだよ」
「でも、私はこの国を綺麗にすることに貢献してる。普通のひとには手を出してない」
「そう、愚か者を処刑して死体を増やしてくれたな。そのお陰で、怯える一般市民と怒れる遺族が増えたんだ」
「あなただって、今まで多くの犯罪者を葬ってきた。法の下では真なる裁きの鉄槌を下せない凶悪犯を、あなたは法外にある立場を利用して屠ってきた。ニールや他の捜査官たちがやりたいと思ってもできないことを、代わりにあなたが実行して、その責めを負っていたんでしょう? 私も同じだよ。私とあなた、何が違うの?」
 特務機関WACEに堕ちてから、今日に至るまでのアレクサンダー・コルトの全て。それらを見透かしているかのようなことを、曙の女王は言う。その薄気味悪さにアレクサンダー・コルトは絶句してしまう。化け物だと思っていたそれが、ただの化け物ではなく、もっと畏れ多い何かであるように感じられたのだ。
 そうしてアレクサンダー・コルトが言葉を失くしていると、曙の女王はフフッと小さく笑う。それから彼女はアレクサンダー・コルトにこう言った。
「ほら、反論できない。私とアレックスは似た者同士。似た者同士の縁で、特別に教えてあげる」
「……」
「もうすぐ新時代が来るのよ。黎明の光は意思を得て、私を選んだ。そして光は言っている。ひとつになろう、と。皆があの光の下に集って、ひとつになり、永遠に生きるのよ。ユニだって、あそこにいる。――ねぇ、アレックス。あなたもこちらにおいで。素晴らしい世界が待ってるよ」
 そう言った曙の女王の声には、恍惚に満ちていた。その語り口はさながら、新興宗教の入信勧誘。胡散臭い教祖のそれらしい言葉に陶酔した狂信者の声だ。その声は、信仰心など微塵も持たぬ者に忌避感と警戒心を抱かせる。
 顔を一段と険しくさせたアレクサンダー・コルトは、横目で睨むように曙の女王を見た。それからアレクサンダー・コルトは冷たい声で、突き放すようにこう言うのだった。「嫌なこったい。アタシにはアタシの世界がある。それに、皆とひとつになるだって? 気色悪いったらありゃしない。ンなもん、こっちから願い下げだ」
「アレックス。あなたは、平等と公正を求める人だったはず。なのに」
「悪いね。アタシも変わったんだよ。嫌いなやつができて、他人への執着もできちまった。平等なんて、無理だ」
「ジュディスのいない人生は、もう考えられない?」
 唐突に曙の女王が突き付けてきた言葉。それがアレクサンダー・コルトの胸に小さな傷を残す。曙の女王はそう言ったが、しかし今、アレクサンダー・コルトの頭の中に浮かんでいた顔は違うものだったからだ。
 遠いところに消えてしまったアストレアの横顔。拗ねてむくれるアストレアの幼稚な姿が、アレクサンダー・コルトの脳裏に浮かんでいた。その次に連想されたのが、最後にその目で見た“憤怒のコヨーテ”の顔。燃え上がる火の手を背に、天井から降り注ぐスプリンクラーの水を浴びながら、凄絶な笑みを浮かべていた彼の狂気じみていた容貌が、アレクサンダー・コルトの心を掻き乱す。――あの瞬間に、今でもアレクサンダー・コルトの心は囚われていたのだ。
 あれから多くの時を共に過ごしてきたジュディス・ミルズの顔が、けれどもこの時は浮かんでこなかった。にも関わらず突き付けられた彼女の名前に、アレクサンダー・コルトは強烈な後ろめたさを覚えてしまう。それが歯を食いしばるというかたちで表出化したとき、曙の女王が再び小さく笑った。
「でも、それでも黎明はやってくる。いつかあの光の下に皆が集う日が来る。あなたのこと、私はその場所で待ってるから。そう遠くない未来に、あなたを迎えに行くから」
「悪いが、ご遠慮ねがッ――」
「でも、黎明の向こう側に来てほしくない人もいる。例えば、ユニを困らせてたひとたち。パトリック・ラーナー、それとセオドア・ジョンソン。あの二人から受ける監視にユニは辟易してた。ユニが嫌ってた人を、黎明の向こう側には立ち入らせたくない」
「アンタ、何をしたんだい? アタシの仲間に手ェ出したってンなら、ただじゃおかねぇぞ」
 不敵な笑みを浮かべる曙の女王。彼女に、アレクサンダー・コルトは掴みかかろうとするが、その直前で曙の女王は消えてしまう。黒い靄となって霧散し、曙の女王は姿をくらませた。
 直後、アレクサンダー・コルトは盛大な舌打ちを鳴らし、握りしめた左手の拳で己の左大腿を叩く。次に、車列が永遠に続いているように見える正面を睨みつけると、苛立ちに身を任せてひとり怒声を上げ、万能の人工知能AI:Lを呼びつけた。
「レイ、教えてくれ! 局内で何が起きた?!」
 ――ところ変わって、ASI本部局アバロセレン犯罪対策部。ジョンソン部長のオフィスには、二人の女性の姿があった。
「ミルズ。そこに座りなさい」
 足を肩幅に開き、凛とした佇まいで執務机の前に居たのは、ASI長官であるサラ・コリンズだった。そして執務机と向き合うように置かれていた革張りの椅子に腰を下ろすのは、疲れ切った顔のジュディス・ミルズである。長官室に呼び出されたジュディス・ミルズは、背後に潜む眠気に支配されぬよう堪えながら、姿勢を正して座っていた。
 テオ・ジョンソン部長が負傷した、その直後に発せられた急な呼び出し。ジュディス・ミルズには分かっていた。これから長官が何を言うのか、及び自分に何が命じられるのかを。そして長官は、ジュディス・ミルズが予想していた通りの言葉を言う。
「単刀直入に言うけれど。レムナントの席を後進に明け渡しなさい。あなたにはキングの座に就いてもらう。アバロセレン犯罪対策部の部長、並びに本部長代行にあなたを任命する」
 だがジュディス・ミルズは、この昇進を受けないつもりでいた。この件にカタがついたらASIを辞める、彼女はそのつもりでいたのだ。不測の事態が起きたからといえど、彼女の決意は変わらない。故に彼女は言う。「お待ち下さい、長官。しかし私は」
「あなたにはセオドア・ジョンソンの役回りを引き継いでもらう、これは決定事項よ」
「ですが、この場合は次長職、または他部門の部長職から選任――」
「他部門の部長職に就いている者たちは、その部門で手一杯。セオドアほどのタフさと要領の良さを持ち併せている者はいない。そしてアバロセレン犯罪対策部の次長職は四名。バートランド・ファルコナー、マリア・ゴールズワージー、アラスター・コノリー、ジュリーン・フェアクロウ。いずれも野心ばかりで人望がないとの評価を、ダルトンから受け取っている。けれどもあなたは要領がよく、人望もあり、タフである。そしてあなたは、アバロセレン犯罪対策部、もといASIの象徴として最も適した人材でもある。残念だけど、運命だと思って受け入れなさい」
 拒む態度を示したジュディス・ミルズに、しかし長官はそれを上回る強硬な態度で返すのみ。しかし疲弊しきっていたジュディス・ミルズは、速やかな反論を紡ぐことができなかった。そうして彼女が言葉に詰まっていると、長官は同情を煽るようなセリフを発する。
「セオドアは恐らく復帰できないでしょう。それに、あの仕事人間を退官させてあげて。……孫の顔も見たことがないだなんて、そんな可哀想なことをこれ以上させられない」
 冷たい声色で、しかし憐憫を帯びたことを言う長官の顔には、ジュディス・ミルズに負けず劣らずの疲弊が滲んでいた。長官もまたロクに眠れていないうちの一人なのか、その目の下には濃い隈が刻まれている。疲れ切っている長官の目は、これ以上手を煩わせるようなことは止してくれと暗に伝えているかのようだった。
 だが、ジュディス・ミルズにも言い分がある。彼女はあくまでも食い下がった。「ですが、私にも人生があります。私は、この仕事をこれ以上続けるつもりは」
「私にもそう考えた愚かな時期があった。ちょうどあなたぐらいの頃に。けれども気付いたのよ、私の人生は仕事だけだった、って。ASIが私にとっての家で、家を守ることが私の務めだった。それ以外の人生を考えてみようと思った時期もあったけれど、結局のところ思い描くことすらできないのよ。私たちのように職務に全てを賭してしまった人間には、仕事以外の生き方を描けない。家庭を築いていたわけでもなく、恋人すらもおらず、友人さえいない者には、普通の人生など送れないのよ」
「けれど」
 けれど。――その後に続く言葉が、ジュディス・ミルズの口からは出てこない。長官が彼女に向けてくる冷たい眼差しに、ジュディス・ミルズの背筋が凍り付いてしまったのだ。
 そのうえ長官の言葉は彼女の胸に深く突き刺さっていた。長官の言葉は、図星をついていたのだ。ジュディス・ミルズの手の中には何もない、だからこそ与えられた役目を果たすしかないという直視したくない現実を、長官は彼女に突き付けていた。そして長官は続けて言う。
「本部長が襲撃を受けた挙句、本部局から何者かが投身自殺を図ったとなれば、責任問題に発展することは避けられない。それに、ウルルでの一件もある。私も近々ここを去ることになるでしょう。そして私の後には恐らく、アバロセレン推進派の閣僚が誰かしら送り込まれてくるはず。そうなったときにはASIの掲げる理念、アバロセレンに厳格な規制を設けるという理念を貫き通せる人間が必要。それが他でもないあなたなのよ、ミルズ。レムナントの名を長年背負い、その理念を体現してきたあなたになら、局員たちは付いていく」
「……」
「それに、あなたがキングの座を継がないと言うなら、自分は局を辞めると宣言した傍迷惑な主席情報分析官が一名いるのよ。あのバカを引き留めるのも、あなたの役目」
 主席情報分析官リー・ダルトンからも圧を掛けられている。それも、とても大きな圧を。――逃げ道を塞がれたと感じたジュディス・ミルズは、ドッと肩を落とす。彼女は観念したのだ。
「正式な通達は後日になるでしょう。それまでに覚悟を決めておきなさい」
 長官は最後にそれだけを言うと、気配を消して静かに立ち去る。そうしてテオ・ジョンソン部長のオフィスにジュディス・ミルズのみが残された。
 座っていた椅子に背中を預けて、彼女はそのまま後ろに体を大きく逸らす。――と、そんな彼女の視界に、ある男がヌルリと侵入してきた。それは、したり顔の主席情報分析官リー・ダルトンだった。
「ようこそ、ミズ・ミルズ。臣民の下僕となる道へ」
「……ダルトン。あなた、聞いてたのね?」
 ジュディス・ミルズがそう訊けば、主席情報分析官リー・ダルトンは首を縦に振る。それから彼は浮かべていた表情を消すと、彼にしては珍しい冷めた調子で釘を刺すようなことを言ってきた。
「僕は自らの意思でここに来たわけじゃあない。大義に殉じた姉の遺志を継いで、彼女が収まるべき場所に僕が彼女の代役として収まっただけのこと。そうするようにと当時のお偉方から要請ないし脅迫されたので、仕方なくここに来たんです。けれどもあなたは、自ら望んでここに来た人なんだ。逃げるだなんて無責任な行為は許しませんよ」
 逃げる。無責任。許さない。
 強い非難を帯びた言葉が矢継ぎ早に発せられる。それはリー・ダルトンという、洒脱な軽口が常套の男らしからぬ言動だった。だが、彼はすぐに普段通りの振る舞いを取り戻す。ニンマリと笑う主席情報分析官リー・ダルトンはジュディス・ミルズに軽く手を振ると、背を向けながらいつも通りの振る舞いを見せて去っていった。
「んじゃ、僕は仕事があるんで。それでは」
 その背中を、ジュディス・ミルズは天地がひっくり返った視界の中で見送る。ジュディス・ミルズよりも一足先に己の人生を諦めて捨てた者の背中が暗闇に消えていくさまを見送りながら、自分もああならなければならないのかと彼女はひとり溜息を零していた。
「……」
 そうしてASI本部局が静かならざる真夜中の帳に包まれていた頃、反対に光が差していた北米東部のマンハッタンは昼飯時前を迎えていた。
 とはいえ。拠点であるゴーストタウンに舞い戻ってきていたアルバとアストレアの二人組は、特段腹を空かせていない。数十分前に早めのランチを済ませていたからだ。だが、ここにはメシのことで腹を立てている者がいる。
「そうむくれるな、エスタ」
「……ピカディージョ、楽しみにしてたのに。予定変更なんてヒドイや」
 麻薬王の隠れ家を吹っ飛ばす予定だ。そしてお前は、取り巻きの下っ端たちを好きに撃ちまくっていいぞ。――数十分前、アルバはそう言っていた。そしてアストレアは、その展開を楽しみにしていた。ついでに、現地で食べられるであろう夕食のことも。
 スパイスの効いたピリ辛な中南米の料理。トマトの酸味とクミンの香りが絡み合い食欲をそそる、そんな素晴らしき美味を思い浮かべて、とても楽しみにしていたというのに。しかしつい先ほど、マンハッタンに帰投するなりアルバは残酷な一言をアストレアに告げてきた。予定変更だ、と。
「犯罪組織の狩りはいつでもできる。だが今は休めるうちに休んでおく必要がある、当面は何が起こるかの予測が付かないからな」
 そう言いながらアルバが向かったのは、キッチン。彼は冷蔵庫の扉を開けると、庫内から徐に林檎をひとつ取り出す。それからパタンと冷蔵庫の扉を閉めると、彼は取り出した林檎をひと口かじった。そのままの林檎を、直にかじったのである。軽く流水で洗いもせず、皮をナイフで剥きもせず、そのまま……。
 その様子を驚きと共に見ていたのが、アルバの後を追い駆けてキッチンに立ち入っていたアストレアだ。
「えっ。皮、剥かないの?」
 林檎を見ながらアストレアはそう言うが、アルバのほうは妙なことを言い出すアストレアを逆に驚きと共に見返すのみ。そして咥内に含んだ林檎をアルバは呑み込んだあと、彼はアストレアに訊き返した。「林檎の皮を剥く?」
「普通、剥くもんじゃないの? 剥いて、切って、そうやって食べるもんだと思ってたけど」
「馬鹿らしい。時間の無駄だ」
 アルバはそのようにアストレアの意見をバッサリと切り捨てたあと、再び林檎にかじり付いた。それから彼はジェスチャーで「お前もいるか?」とアストレアに訊いてくるが、アストレアはいらないと首を横に振る。というのもアストレアは知っていたのだ。その林檎は恐らくかなり酸っぱいものであり、アストレアの好みではないと。
 紅茶や珈琲といった飲料には大量の角砂糖を投入する砂糖狂のアルバだが、奇妙なことに甘い果物は好きではないらしい。この家の冷蔵庫には林檎やオレンジといった果物が定期的に補充されるのだが、アルバが買ってくる果物は大抵の場合、かなり酸味が強かった。普通の人間ならばパイやジャム作りに回すような果物を、しかしアルバはそのまま食べるのである。
 対するアストレアは、果物は甘ければ甘いだけ良いという考えの持ち主だ。酸味の強い林檎など、そのまま食べられたものではない。せめてグラニュー糖をまぶして焼いてから、シナモンと共に食べたいものだ。
「ジジィのことがよく分かんないよ。普段はお上品を気取っておきながら、そーいうところはガサツで下品なわけ?」
「私はガサツで下品な野良犬だぞ。エスタブリッシュメントを気取る演技が少々達者なだけだ。知らなかったのか?」
 もきゅもきゅと小さく音を立てながら林檎を食べつつ、アルバはそのような嫌味を返す。そしてアストレアは過去の彼の言動を思い返して、すとんと肩を落とした――よくよく考えてみれば、彼の普段の言動は下品でガサツそのものだったからだ。
 お上品を気取るのは、外行きのときだけ。普段発する言葉といえば、規制音が掛かりそうな発言ばかり。料理も雑で手抜きばかりだし、いかに包丁とフライパンを極力使わずに一品を仕上げるかということに心血を注いでいるような気もしなくない。それに彼が手を抜かないのは自身の外見を整える工程と、猫たちの爪切りだけ。つまり、彼はそれなりに荒れているクレイジーでガサツなジジィであった。
「……そーでした。ガサツで下品なコヨーテだったよ、あんたは」
 そのままの林檎を、そのまま食べるアルバを冷めた目で見つめつつ、アストレアはそう呟く。すると、そんな彼女の足許に三匹の猫たちが擦り寄ってきた。腹を空かせたトラ猫三姉妹である。それと、キッチンから少し離れた場所からアストレアらの様子を伺う母猫チャンキーの姿も見えていた。
 アストレアの目には、ネズミ捕りの仕事をしているようには見えていない猫たち。この猫たちはすっかり甘やかされており、毎日決まった時間にもらえる高級なキャットフードを日々の楽しみにしている模様。そして今は、猫たちにとってのランチ時間。昼飯の催促に来たというわけだ。
 そうして昼飯の催促に来た猫たちが、世話係のアストレアを見上げてニャーニャーと鳴き始めたとき。アルバの足元では、影が蠢き始める。床に落ちた影がにゅるりと浮かび上がり、徐々に海鳥の姿を形作る。現れ出たのは海鳥の影ギルだった。
「久しぶりに見るような気がするなぁ、ギル。お前は今までどこに消えていたんだ?」
 近頃見られていたアルバの妙な言動、及び憔悴の理由。その原因を探るため、海鳥の影ギルは暫く各地に赴いて情報収集を行っていたのだが。そんなことなど知らぬアルバは、林檎を齧りながら海鳥の影ギルに嫌味を飛ばす。そんなアルバのおどけた様子に海鳥の影ギルは呆れを示すと、輪郭をブルブルと震わせながら言った。
『その話はあとにしましょう。アルバ、あなたに至急お伝えしたいことがあります。ボストン上空のSODが消え――』
「それなら、とっくに知っている」
 しかし、アルバは海鳥の影ギルの言葉に呆れたという態度を返した。一周遅い情報を大慌てで伝えてきた海鳥の影ギルに憐れむような視線を送る彼は、再び林檎に噛り付く。すると海鳥の影ギルは、小さな怒りを表明し、水かきのついた足でペタペタと地団駄を踏み始めた。それから海鳥の影ギルは怒気を帯びた声でこう言った。
『つい先ほどのことです!! ボストンという街が復活しました。あなたが死ぬ直前に見たであろう姿のまま、突如、地上に現れたのです。SODのことなど何も知らぬかのように振舞う街人たち、あの日に消えたはずの人々が今、あの地を闊歩しています。怪我も無い綺麗な姿で。その一方、地中から這い出る大昔の死者の姿も見受けられました。そして街人たちは、地中から這い出る死者に気付いていながらも何の反応も示していない。――異常としか言いようがない事態が起きているのですよ!』
「ギル。ボストンへ来るよう、モーガンに伝えろ」
 海鳥の影ギルが悲鳴じみたグワグワ声を立てたあと、アルバの表情が途端に険しくなり、声も緊張感に満ちたものに変わった。しかし、海鳥の影ギルが何を語っていたのかが分からぬアストレアには、彼の雰囲気が変化した理由も分からない。
 そうしてアストレアがとぼけた顔を晒しながらアルバを呆然と見ていたとき、彼の目がアストレアに向く。アルバは彼女にこう言った。「エスタ、お前はここで待機してくれ」
「えっ。な、なんで?」
「私はお前のことまで護れないからだ」
「ご心配なく、戦闘の訓練は受けてるよ。非力なりに自分の身ぐらい自分で護れる。むしろ、どんくさいジジィのほうが心配だし、それに」
「人間が相手なら、お前は戦えるだろう。だが今回は恐らくそうではない」
 そう言うとアルバは齧りかけの林檎を、キッチンカウンターの天板にドンッと置く。林檎は皿の上に置かれるでもなく、ラップで包まれるでもなく、そのままの状態で放置された。それからアルバはアストレアに一瞥をくれると、煙となって消えていく。
 マンハッタンにひとり残されたアストレアは、置き去りにされた林檎を見ながら悪態を吐いていた。
「……あーあ、こういうのが嫌いなんだよなぁ。このガサツさ、変なところでだけ北米人って感じを出さないでよ。きっしょ」
 細めた目で林檎を睨み付け、アルバの雑な行為をブツブツと詰るアストレアだが、実際のところ彼女が不満に思っていたのは彼の残した林檎でも、彼のガサツさでもなかった。置いていかれたこと、それに不満を覚えていたのだ。
 ――そうしてアストレアがひとりマンハッタンにて、ムスッとぶすくれていたときのこと。ボストンのダウンタウンがあったであろう場所に座標を合わせ、そこに降り立ったアルバは、その場で目にした光景に度肝を抜かされていた。
 アルバが煙のごとくスルッと現れ出たとき、彼が真っ先に目にしたのはいつか見たのと全く同じ光景だった。
 最愛の妻に先立たれた失意の中、子供たちにのみ目を向けることでどうにか毎日を乗り越えていた時代。その当時に目にしていた光景の、その背景にあった街並みが今、彼の前に存在している。半世紀以上前に消えたはずの光景が、半世紀以上前と同じ状態で目の前に顕現していたのだ。
 街並みを行き交う人々の装いは、半世紀以上前に流行ったスタイルのまま。オーバーサイズのジャケットを崩して着る若者や、お揃いのダサいスタジャンを着て並んで歩くカップルの姿、とんちきな特大肩パッドを入れたデニムジャケットを恥ずかしげもなく着ているファッションリーダー気取りの人間など。少しの懐かしさがこみあげてくる光景が、しかし今、彼の目の前に現実として存在していたのだ。
 そんな懐かしい光景から飛び出してきた人々の時間は、その懐かしい時代で動きを長く止めていて、つい最近その動きを再開したばかりであるようだ。ちょうどアルバの横を今通り過ぎていったホワイトカラー風の男女は、大型の紙コップに入ったホットコーヒーを片手にこのような会話を交わしていたところだった。
「いやぁ。それにしてもさぁ、昨日の騒ぎは何だったんだろうね? この世の終わりかって思うぐらいサイレンが鳴っていたけれど。でも、別に何もなかったし。あれは本当に何だったんだろう……」
「ねぇー。まあ、何もなかったなら、それでいいんじゃない?」
 この世の終わりかと思わせるほどのサイレン。それはボストンが光に呑まれる直前までけたたましく鳴り続けていた避難警報のことだろう。ペルモンド・バルロッツィが市長に要請し、発出させたその警報は、しかし半世紀以上も昔に鳴りやんだはずのものである。だが、今まさにアルバの横を通り過ぎていった者たちは昨日のことのように話していた。
 その様子から、アルバは察する。この土地と共に蘇った過日の者たちは何も知らないのだと。後世では『アルテミス』や『ローグの手』と呼ばれている悲劇のことを彼らは知らず、そのような悲劇を経験してもいないのだ。
 だが、彼には分からない。なぜこのような現象が今、このときに起こっているのかが。――そうして彼がひとり顔を俯かせ、その額に手を当てたときだ。少しの苛立ち、もとい安心感さえ覚える親しみのある金切り声、即ちマダム・モーガンの怒声が彼の耳に届く。
「アルバ! 急にこんな場所へ呼び出して、一体どういうつもりなのよ。こっちはもう大変だっていうタイミングなのに――」
 格下であるアルバが己の立場も弁えず、更地のボストンに来いとマダム・モーガンを急に呼びつけた。そういう前提で彼女は、開口一番にそう言い放ったのだろう。だが彼女の言葉は途中で終わる。徐々にトーンダウンしていった彼女の声から、アルバは彼女もまた同じ景色を見て驚愕したのだということを理解した。
 そうして彼が再び顔を上げ、目を開いたとき。彼の真横には唖然とした表情で佇むマダム・モーガンの姿があった。ティアドロップ型のサングラスにより彼女の目元は覆い隠されていたが、けれども口や眉といった動きから彼女がいかに驚愕しているかの度合いが滲み漏れている。そしてマダム・モーガンは小声でアルバに問うてきた。「……待って。ここ、ボストンよね? ここは更地だったはず。何が起きたの?」
「私も先ほどギルから報せを受け、急遽跳んできたところだ。私にも分からない」
 そう答えてからアルバが足元に居る海鳥の影ギルに視線を移せば、マダム・モーガンの目もそこに向く。すると二人の人ならざる光り輝く目で見つめられた海鳥の影ギルは、僅かな緊張からその輪郭をふるふると揺るがせた。
 その後、海鳥の影ギルはその丸い頭を正面へと向ける。それから翼のように見える部位を動かすと、海鳥の影ギルは風切り羽の先でとある場所を指し示した。それから海鳥の影ギルは言う。
『二人とも。あの青色の旗が掲げられた物陰、見えますか? 明らかに時代錯誤な服飾に身を包んだ骸骨が這って動いています』
 海鳥の影ギルが指し示したのは、金融系のテナントが複数入居しているオフィスビルの物陰。隣り合う建物との狭間に掛けられていた青い旗の下では、海鳥の影ギルの言葉の通り、風になびく旗の影を浴びて動く骸骨の姿があった。
 ダウンタウンを行き交う人々が、アルバにとって懐かしいと感じられる昔風な都会の装いをしていた一方。地面を這って動く薄気味悪い死者は、気が遠くなるほど昔の男性装に身を包んでいた。それこそ、茶会事件が起きた時代の装いである。そしてアルバは小声でぼそりと呟いた。
「海水で紅茶を煮出そうとした時代の死者か? ……信じられん」
 その骸骨は間違いなく白骨化した遺体で、皮も無ければ筋肉も臓腑もなく、時間経過による風化および体液と土埃で薄汚れている汚らしいボロボロの衣類を辛うじて身に纏っているだけ。だが関節部は謎の力により接合されているらしく、完璧に漂白されている骨格が崩壊する様子は見られない。その骸骨は骨をギシギシと軋ませながら、軍人さながらの匍匐前進で歩を進めている。
 自身も生ける屍である身といえ、硬直の手前までは行っても腐敗というステージには至っていないアルバは、その骸骨を細めた目で忌避するように観察していた。――すると、彼の横に立つマダム・モーガンはより強い嫌悪感を滲ませた呻き声を洩らす。
「うわぁ、なに、あれ。今まさに地中から腐った手が出てきたんだけど……」
 彼女が見ていたのは、ダウンタウンの大通りの脇に並んでいる街路樹の根本。レンガやアスファルトで舗装された道の中で唯一、地面が露出している場所である。
 彼女の視線が向いている先をアルバも見たが、彼も直後、彼女と同様の反応を示した。彼は眉を顰めたあと、顔を逸らして目を閉じる。街路樹の根本から突き出るように出てきたもの、つまり腐敗した肉を纏った人間の右手を見つけてしまい、少しの吐き気を覚えたのだ。
 どろどろと融け落ちる黒い肉片と共に白いウジ虫をびちゃびちゃと撒き散らしながら、地中から伸び出て、何かを探るようにガサガサと動く人間の手。一度そのようなものを見てしまえば、目を閉じようが脳裏に焼き付いてしまう。ずば抜けた記憶能力の持ち主なら、なおさらに。
 ただの血肉や死体とはワケが違う。腐敗していながらも意思を持っているかのように動く死体に、嫌悪もとい恐れに似た感情を覚えたアルバが溜息を零したときだ。気を抜いていた彼の腕をマダム・モーガンが掴み、そして彼を移動させた。彼女はアーサーを彼女自身の背面に押し動かしたのである。
 何事かとアーサーが目を開けた瞬間、しかし彼は彼女の意図を察し、互いの背中をぴっちりと合わせた。直後マダム・モーガンは素早く拳銃を構えると、威嚇するようにキンと張りつめた声で言う。
「それ以上、私たちに近付かないで。でないと撃つわよ」
 彼ら二人はいつの間にか囲い込まれていたのだ。ボストンという街と共に復活した、過日から蘇りし死者たちの軍勢に。
 死者の軍勢の様子は様々だ。昔懐かしい装いをした綺麗な姿の若者や現役世代、そして老人の姿があれば、独立戦争時代の軍人のような装いをした骸骨も居て、魔女狩りの被害者のような骸骨もいる。黄金時代と呼ばれる時代区分、第三次世界大戦前の世界で定番だったという理解不能な奇抜すぎる衣装に身を包んだ骸骨もチラホラと混じっていた。また、その中には現在のスタンダード風なファッションを着ている腐乱死体も見受けられる――恐らくそれは、ここ半年の間にアルバがボストンに遺棄したごろつきどもの死体のなれの果てなのだろう。
 腐乱死体が放つ特大の悪臭に、アルバもマダム・モーガンも顔をしかめる。そして彼らの人ならざる目が、お互いの意図を確かめ合うように交錯した。それから二人は首を小さく縦に振り、頷き合う。その後、二人の視線はそれぞれの持ち場に戻っていった。
 マダム・モーガンは消音器付きの拳銃を構えると、その引き金に指を掛ける。そして彼女は、最も近い場所にいる死者を睨み付けて銃口を向けた。
 アルバは足もとにいる海鳥の影ギルに視線をやると、羽を出せと要求する。海鳥の影ギルは羽繕いをするように体を嘴でつつき、羽根を数本散らせた。そうして抜け落ちた羽根はレイピアのかたちを取り、宙に浮上する。浮かび上がった剣の切っ先は、死者の群れに狙いを定めていた。
「死んでいる、しかし、生きている。お前たちは何者だ。我々と同じではないのか?」
 マダム・モーガンの正面に立つひとりの死体が、抑揚のない単調な声でそう問いかけてきた。そして死体はマダム・モーガンにじりじりと近付いてくる。すると、歩を進めながら死体はブツブツと奇妙なことを言い出した。
「異質だ。お前たちは我々と異なっている。我々と同じ神の下にありながら、そうでない。なぜだ?」
 我々という複数形の一人称にアルバは眉をひそめる一方で、表情をより険しくさせるマダム・モーガンは近付いてきた死体の脚に向けて発砲した。
 静かながらも耳に痛い音が鳴り、そして放たれた弾丸は死体の右脚の膝蓋靭帯のあたりを撃ち抜いたのだが。正確に撃ち抜かれたはずの一発は命中こそすれ、大したダメージを与えられなかったようだ。被弾した死体は一瞬ふらついただけ。すぐに体勢を立て直し、起立した姿勢を維持する。痛がる素振りも無ければ、出血さえもない。
「クソっ。弾丸は通用しないってわけか。――アルバ、私にも剣を頂戴!!」
 精密射撃が効かないのであれば、直接的で広範囲に及ぶ攻撃で打ち払うしかない。そう判断したマダム・モーガンはアルバに対して、海鳥の影ギルの羽根をひとつ寄越せと申し立てる。が、次の瞬間、彼女の目の前に現れたのは海鳥の影ギルの羽根、つまり漆黒のレイピアではなかった。
 マダム・モーガンが拳銃を腰部ベルトに取り付けたガンホルダーに素早く収納したのとほぼ同時に、彼女の目の前に手ごろな大きさの武器がポンッと虚空から出現する。それは腕一本分ほどのリーチがある出縁型の戦棍。ぶん回してかっ飛ばすのに最適な、程よい重さと長さをしている。海鳥の影ギルの羽根よりも、この状況に適していた武器だ。
 マダム・モーガンは目の前にプカプカと浮いていた戦棍の柄を握ると、振り回す予備動作に入った。そして彼女は正面にわらわらと集い始めた死者の群れを睨みながら、背後に立つアルバを褒めるのだった。「あなたって本当に優秀な武器庫。どっからこんなものを手に入れてるんだか」
「武器は使われてこそ価値がある。邸宅のディスプレイにしておくのは勿体無い」
 暗に、どこかの金持ちの屋敷から盗んできたということを示唆するアルバの発言。それまで、アルバが来訪した先で盗みを常習的に働いていたことなど知りもしなかったマダム・モーガンは眉間に皴を寄せたが、しかし今は彼の悪行を糾弾する時間ではない。
 足を肩幅よりも広く開けて立つマダム・モーガンは、構えた戦棍を全力で振り回す。彼女に近付くべく手を伸ばし、歩を進めていた死者の数名が側頭部に打撃を食らい、次々と横倒れしていった。そして彼女は二撃目を放つべく構え直す。それから彼女はアルバに指示を出した。
「なるべく多く、こいつらを追い払って隙を作って! こんなに群がられたら、瞬間移動で脱出するのに必要な集中力すら確保できない!」
 マダム・モーガンは金切り声で叫びながら二撃目の打撃を繰り出し、次に三撃目も放つ。その背後に悠々と立つアルバは、宙に浮かぶ海鳥の影ギルの羽根たちを操作し、群がり始めた死者の群れに牽制代わりの軽い切り傷を与え続けていた。だが、これは死者の群れの歩幅を縮める程度の効果しか与えられておらず、追い払うまでには至っていない。かといってレイピアで刺すという行為が動く死体にどこまでの損害を与えられるのかも分からない。海鳥の影ギルの羽根も無限ではない以上、損失は避けたかった。羽根を失いかねない攻撃は控えたい。
 しかし、このままではキリがないのも事実だ。そして羽根の操作に気をとられている間は、脱出もできない。
 いっそ、街ごと燃やしてしまうか? 手榴弾でも投げるか、またはガソリンを……――しかしそれでは自分たちまで巻き込まれる。それなら、イチかバチかの可能性に賭けるべきか。キミアという悪神に祈りを捧げて、神風の到来を待つしかないのだろうか。
「……風か」
 打撃で殴り倒すことができるなら、風という質量も通用する。ならば暴風で吹き飛ばせばいい。
 そしてキミアの力の根源は、イメージ。願いを正確に思い描けるならば、それを実体として引き摺り下ろせるのがキミアの特性であり、アバロセレンの特質だ。
 ならば。――活路を見出したアルバは海鳥の影ギルの羽根を手元に引き寄せると、そのうちの一本を右手に握り、そして刃の先を真っ直ぐ正面に向けた。その途端、アルバの正面に集っていた死者の軍勢は歩みを早める。雪崩れ込むような勢いで突っ込んできたのだ。
 ざっと見積もって六〇人ほど。群れる足音が地響きとなり、アルバ目掛けて向かってくる。その轟音に、マダム・モーガンが息を呑む。鈍器を振り回しながら背後を見たマダム・モーガンが呼吸を止めた瞬間、彼女は強烈な横風にあおられた。
 突然、前触れもなくビュウッと吹き付けた強風。マダム・モーガンは振り回していた鈍器の先を地面に突き立てると、それを杖の代わりにして体を支え、吹き飛ばされぬようにと持ち堪える。だが支えるものを持っていなかった多くの死者は風にあおられるまま、よろめいて、脚がもつれ、タンブルウィードのように絡まりながらゴロゴロと転がり、吹き飛ばされていった。
 そうして死者の群れがあらかた転がって飛ばされていったあと、役目を終えたかのように吹き荒れていた風は収まる。偶然にしてはできすぎている強風に、驚くマダム・モーガンは即座に振り返り、アルバを凝視した。
「あなた……いつ、こんな芸当を身に着けたの?」
 アルバの仕業だと彼女が判断した理由。それは彼の鼻からポタポタと滴っている蒼白い血にある。異常な事態が発生した後に起きたアルバの状態の変化、これらに関連があるはずだと彼女は見当を付けたわけだ。
 マダム・モーガンの問いかけに、肩で息をするアルバは苦笑いを浮かべる。それから彼が何かを言おうと口を開いたのだが、しかし声が出てくることはなかった。
 代わりに彼の目が見開かれ、マダム・モーガンの肩を越えた向こう側にある場所に釘付けとなる――マダム・モーガンの背後から声が聞こえてきた。
「暗愚の闇を切り捨てる一閃、薄明の覇者。アルバ、あなたを待っていた」
 顔には恍惚が宿っているが、そう語る目は虚ろ。そして生気のない声で薄気味悪い言葉を嘯いていたのは、アルバにとっての恩人であり、マダム・モーガンの監視対象にかつて含まれていた人物の姿だった。
 毛先が耳に触れるほどの長さに切りそろえられた短めの髪と、軽い脱色によって淡くくすんだトーンになっている茶色の髪色。少し血色が悪く見える生得的な小麦色の肌。今の時代にも通用するような、洗練されたオーラを放つシンプルな服飾。華美すぎないほどに彩りが添えられた化粧の色相……。
 マダム・モーガンの背後に立っていたのは、ボストンと共に消えてしまったはずの人物。クロエ・サックウェル本人のように見えていた。だが、彼女が纏う雰囲気はまるで別人のよう。それこそ、なにか特異な生命体に寄生され、体を乗っ取られているかのような様子でさえあった。
「我々は一つ。我々は光の下に集う者。あなたもこちらに来て。ここはとても穏やかで――」
 そう言いながら、クロエ・サックウェルにそっくりなその人物は、よたよたと覚束ない不安定な足取りでマダム・モーガンとアルバの二人に近付いてくる。マダム・モーガンは体を翻すと、クロエ・サックウェルのほうに向き直り、鈍器を構え直して打撃の準備態勢に入った。
 マダム・モーガンは柄を握る手の力を強め、肩幅に開いた足で踏ん張りをきかせる。それから一際険しくさせた目でよたよた歩きの女を睨み付けると、牽制の言葉を吐こうとした。
 だが、マダム・モーガンが何かを言おうと口を開けた直後に、近付いてきていた女に異変が起こる。ぐらいついていた歩みがピタッと止まり、続けて数歩後退ったのだ。そして彼女の言動が変化する。血の気が通っていなかった声や表情に、人間らしい感情が戻ってきたのだ。
「……違う。そんなの駄目だ。あぁ、なんで私は、こんなものに呑まれたの……?!」
 恐怖に支配されて恐れ震えるような混乱のうねり。それは、余裕ぶった振る舞いが常套だった生前のクロエ・サックウェルという人物からは想像もできないような姿だったが、しかしそこに居たのはたしかにクロエ・サックウェルだった。
 鈍器の柄を握るマダム・モーガンの手から、少しだけ力が抜けていく。それと同時に、クロエ・サックウェルに近付こうとアルバが足を踏み出そうとした。――だが彼を制止するように、クロエ・サックウェルが悲鳴じみた叫び声を上げた。
「だめ! アーティー、あんたはここに来ちゃ駄目だ。元いた場所に帰れ!」
「帰る? どこにだ」
 アルバの口から、反射的に飛び出した言葉。それと同時に、彼の顔は苦虫を噛み潰したようなものに変わる。そして彼の言葉を聞いたクロエ・サックウェルは、その言葉の意味をすぐに理解できなかったのか、目を見開いたまま暫く固まっていた。
 だが、それも長くは続かない。気を持ち直したかのように彼女は首を左右にブンブン振ったあと、毅然とした目でアルバを見据える。力強い光が戻った目に薄っすらと涙を浮かべながら、クロエ・サックウェルは大声でアルバを突き放した。
「でも、あんたはこっちに来ちゃ駄目だ。帰れ、あんたの居るべきところに! ここは、何もない。ここの連中はみんな死んでる。ここは、生きてるやつが居ていい場所じゃない!」
「私とて死人だ。生きているわけでは――」
「うるさい、黙れ、バカ! そんなん知ってるよ、全部!! あんたが死んで生き返ったことも、闇の世界で活動してたってことも。あんたが不死身のバッツィを繰り返し何度もぶっ殺してたことも、そして彼にトドメを刺したことも。あんたがバカやって正真正銘のテロリストに堕ちやがったことも、全部。だからアストレアって子の元に帰れって言ってんだよ!! アルストグランって場所には、敵を作りすぎて帰れないんでしょ? アレックスって女とその関係者を怒らせたそうじゃない。だから逃亡先のマンハッタンに戻って猫でも愛でろって、そう言ってんだよ、このバカが!」
 ここに至るまでの道程。その全てを知っているかのようなクロエ・サックウェルの言葉に、アルバも、そしてマダム・モーガンも驚いていた。
 気迫に満ちた罵倒文句と、冷徹に並べられていく事実。それに押されるアルバは、黙りこくるように唇を固く結ぶ。だがクロエ・サックウェルは言葉を止めない。
 全てを知っていながらも、自業自得でここまで堕ちたバカな友人を見捨てることができない彼女は、アルバを冷徹に睨み付ける。その目に涙を溜めながら、彼女は最期の言葉を吐き捨てた。
「最期だから言う。私はキャロラインのことが大嫌いだった。あの女のこと、私は絶対に許さない。あんたは、もっとまともな人生を得られたはずだった。それなのにあの女は、あんたから何もかもを奪い取った挙句、あんたに最低な呪いをかけて死んだ。あの女を、私は絶対に許さない。キャロラインはバッツィよりも最低な人間だ!」
 クロエ・サックウェルの最期の言葉は、アルバにとっての最愛の亡き妻を口汚く罵倒するものだった。彼はそれにショックを受けると同時に、クロエ・サックウェルの意図も理解してしまい、居た堪れなさから目を伏せる。――直後、彼の腕をマダム・モーガンが乱暴に掴み、引いた。
「退却する、彼女のことは諦めなさい!」
 マダム・モーガンがそう言い、アルバの腕を引いた瞬間。アルバは別の声も聞く。とっとと失せろ、クソッたれ。アルバらに向けてそう言い放つクロエ・サックウェルの悲鳴じみた声が彼の耳にも届いた直後、彼の視界は暗転する。真っ暗闇の世界に突き落とされ、そして……――帰るべき場所に戻ってきていた。
 猫たちに餌を与え終えたところなのだろう。猫の餌が入った袋を両腕で抱きかかえていたアストレアの姿が、マダム・モーガンとアルバの目に映る。そしてアストレアも彼らの帰還に気付くと、猫の餌を手早く元あった戸棚の中に収納し、二人のもとに駆けてきた。
「ど、どうだった? その、ボストンの様子って」
 アストレアはそのように問いかけながら、まずアルバの様子を伺い、次にマダム・モーガンを見やる。すると妙に暗い顔をしていたアルバが、これだけを短く言った。
「――少し時間をくれ」
 そう言い終えると、アルバはその場を後にする。彼は書斎がある方向に向かっていった。その背中を見送りながら、マダム・モーガンはアストレアの問いに答えた。「この上なく最悪な状況よ。おそらく、私が遭遇してきた中でもトップクラスのトラブル」
「なんかヤバいことが起きたの?」
「ええ。ボストンの街が、あの日の姿のまま復活した。人間も、そう。だけどそこに居る人間は生きているようで、そうでない。何かに意識を蝕まれているような、奇怪なことを言っていたし。挙句、私たちに襲い掛かってきたのよ」
「えっ……?」
「私たちは一回死んでいる身だったから、連中を一瞬だけ誤魔化せたけれど。あの言動を見る限り、生者があの場所に足を踏み入れたら最悪なことが起こりそうね。生きたまま、連中に食いちぎられるかも。だからあなたはあの場所に連れていけないわ。何が起こるか分からないからね」
 町が復活した。それだけでも十分に驚くべき情報だが、それに続いた言葉をアストレアはすぐに理解することができなかった。そこに居る人間たちは生きているようで生きていないし、あの場所に生きている者が踏み込んだら最後どうなるかが分からないなど……――どういうことだ?
「とはいえ。そのうち、この情報を聞きつけた生者たちはボストンに足を踏み入れようとするでしょう。手始めに、スクープ欲しさに行動する恐れ知らずのジャーナリストたち。そして彼らが消息を絶ったとなれば、各国の行政府が動き出すはず。それを、今は見守るしかないのかも。自ら命を捨てようとする愚か者がどのような末路を辿ることになるのか、その情報を得たうえで状況を見極めるしかない。それまでは、あなたは絶対にあの地に立ち入ってはいけない」
 戸惑い顔のアストレアに、表情を険しくさせているマダム・モーガンは再度アストレアに忠告する。今はまだあの場所にアストレアは足を踏み入れてはいけない、と。
 詳しいことはよく分からない。だが事態の深刻さを把握したアストレアは、無言で頷く。そして彼女はこう思った。数日前、更地のボストンに初めて降り立ったときに覚えた嫌な予感。あれは当たっていたのだな、と。
 ワタリガラスの姿を騙る神が意気揚々と語っていた言葉。アバロセレンが独立した意思を獲得したという、あの話。それは本当だったのだろう。そしてアバロセレンの意思が、ボストンを復活させたのだ。そこの住民たちの尊厳を踏み躙るというかたちでの復活を。
 ――アルバが暗い顔をしていた理由。その一端をアストレアは理解する。彼にとっての嫌な時代の影も、良き日の記憶も眠っている地が、最悪のかたちで現在に蘇ってきたのだ。この状況で気丈に振舞える者がいたとしたら、そいつには心などない。
「……」
 そうして考え込むアストレアが視線を自身の足許に落としていたとき。アストレアの気を引くために、彼女の肩をマダム・モーガンが指先でトントンと叩く。それからマダム・モーガンは屈みこんでアストレアの顔の高さに自身の目線を合わせると、小声でアストレアの耳に囁きかけた。
「それから、アストレア。……いいわね?」
 たった一言の短い命令。だが重く沈んだ声色からアストレアはマダム・モーガンの意図を察する。アルバから目を離すな、見張っていろと、マダム・モーガンは言いたいのだろう。
「イエス、マム」
 アストレアも短く、それだけを返す。その声には『三流なりにもプロフェッショナル』の自覚が宿っていた。それを確認したマダム・モーガンはすくっと立ち上がると、身を翻す。消えていったアルバの後を小走りで追いかけた。
「アルバ、ちょっと待ちなさい。話がある」
 ランチのカリカリご飯を一心不乱に食べる猫たちの列を避けながら、たらたらと歩くアルバに追いつくのは容易かった。彼が猫たちの傍を通り過ぎて、少し離れたところに達したところでマダム・モーガンは一気に距離を詰める。彼女は後ろから彼の肩に掴みかかると、刺々しい声色で厳しく追及した。
「正直に言いなさい。あなた、キャロラインから何を言われたの?」
 それは彼らがボストンを立ち去る直前に、クロエ・サックウェルが発した言葉から端を発する疑問だった。彼女は何らかの意図をもってしてアルバの亡き妻キャロラインを罵倒し、非難していたが。その意図をマダム・モーガンは掴めていなかったからだ。
 アルバはマダム・モーガンの促しに従って立ち止まるも、しかし振り返りはしない。それから彼はマダム・モーガンの顔を見ることなく、小声で呟くように真相を教えた。
「キャロラインは、私がこうなることを全て予見していた。私が死んだあとに濡れ衣を被せられることも、そして蘇ることも。蘇ったあとに、薄暗闇の世界に縛り付けられることも。今のように、世界の全てを敵に回すことも。そのうえで、彼女はこう言った」
 たとえあなたが全てを敵に回したとしても、私だけはあなたの側に立つ。
 あなたは、いつだって常軌を逸しているけど。
 どこでだってお構いなく正常とは言い難いような振る舞いをするけど。
 でも、それはあなたが誰よりも正気でいるからこそのこと。
 だから、あなたの決断は全て正しい。
 そんなあなたが――
「全てを打ち滅ぼす死神になることを心の底から望むのなら、あなたはそうするべきだ。全てを葬り去って、新たな世界を築きなさい。あなたにはこの世界に復讐する権利がある。――彼女は、私にそう言った。彼女が死ぬ、その前日の晩に」
「それが、彼女の言っていた『キャロラインの呪い』なのね。なら、今までのそれはキャロラインの望みで、あなたの意思ではないってこと?」
 状況を変えうるかもしれない一縷の望みを見つけた。マダム・モーガンはそう思いかけていた。だが、未だ振り返らぬアルバは彼女の言葉を小さく鼻で笑うのみ。そして彼は言う。
「彼女の墓標に私は誓った。この誓いを、私は遂げなければならない。たとえ誰に何を言われようとも、私は……」
「立ち止まるなら、今よ」
「いいや、私は止まらない。止まるべきじゃない」
 それは、明瞭に何もかもを覚えていたからこそ、記憶の奥底に封じたままにしておきたかった記憶。翌日に起こる災いも、遠い未来に起こるであろう災いも、そのすべてを知り得ていたからこそ震えていた彼女の声の調子も、止まらない彼女の涙も、咽び泣いて縋りついてきた彼女の冷たい手の感触も。その言葉の意味を理解できず、ただ当惑しながら彼女を宥め(すか)すことしかできなかった当時の己自身の心境も。強烈な心象として臓腑に刻まれているからこそ、可能な限り目を逸らし続けていた一夜の記憶だ。
 その預言の通りにならぬよう努めていた時代も、彼にはあった。だが、心のどこかには常にキャロラインの言葉が潜んでいたのだろう。そして彼は、彼女が予言した通りの道をこうして今も進んでいる。
 それを呪いと譬えたクロエ・サックウェルの言葉は、恐らく的を射ている。だが、それは呪いでもあると同時に、ただの後押しでしかない。無明常夜すら越えて、至るべきでない場所に足を踏み入れかけた者の背をポンッと軽く押しただけの言葉でしかなく、つまるところ全ては彼自身の選択なのだ。
「残念よ。妄執の監獄にあなたが堕ちるだなんて。――本当にあなたは、それが彼女の望みだと思っているの?」
 マダム・モーガンが発するのは、悪の道に堕ちかけた者を引き留めるために用意された月並みな言葉。死者はそれを望んでいないだろうと諭して再考を促す、ありきたりな文句である。
 ありきたりな言葉は、瓦解していながらも新たな形で堂々と直立している彼の心には嵌まらない。
「ああ、そうだ。そしてそれは、私の願望でもある」
 あらゆる情緒を切り捨てた冷徹な声でそう返事をすると共に、アルバがその身を翻して振り返ったとき。そこにマダム・モーガンの姿はなく、代わりに丸々とした赤い林檎を手に持つアストレアが立っていた。
「そして僕の望みでもある。僕はジジィと一緒に行くとこまで行ってみたい。見てみたいのさ、あんたが創りたい世界ってやつを。クソったれ揃いの人間どもなんてさっさと滅ぼして、次に行こうよ」
 ニヤリと笑いながら、アストレアは言う。それから彼女はそのままの林檎にかぶりついてみるのだが、一口を口に含んですぐに渋い顔をした。それからアストレアは細めた目でアルバを見ると、彼が買ってきた林檎に対して抱いた正直な感想を述べた。
「うえっ、酸っぱ。よくこんなのを生で食えるね」
 どこまでも人の調子を狂わせる、アストレアという道化。その役回りは、彼女の顔の元の持ち主と同じようで、しかし異なっている。
 純粋な邪悪をそのまま発露し、意気揚々と得意がるアストレアの姿は子供じみているようで、それだけではない底知れ無さを関わる者に覚えさせるのだ。
「……私の味覚がイカれてることぐらい、お前も知ってるだろうに」
 保護されたばかりの頃に、彼女の背中にあった痣。その形が天秤座のシンボルマークにそっくりだったことから、アレクサンダー・コルトが『アストレア』と名付けたのだと、アルバはアイリーン・フィールドから聞かされている。
 そしてこのとき、アルバは初めてアレクサンダー・コルトに感心し、感謝もした。
「なら、その林檎はアップルパイに変えてやる。キッチンにでも置いておけ」
 星界に浮かぶ天秤の持ち主、星の如く輝く乙女アストライア。堕落した人類に愛想を尽かし、地上を去った正義の女神に由来する名前こそ彼女に相応しい。そのようにアルバには思えたのだ。


Coming soon......