ジェットブラック・
ジグ

目次
  1. 四二八九年/ASI本部
    1. 時刻は午前一時過ぎ
    2. 「エコー、ちょうどいいところに!」
  2. 四二八九年/渋滞の中で
    1. 「あぁッ、クソ。何十分、止まってんだか……」
    2. 「私はあなたに危害を加えるつもりはないよ」
  3. 四二八九年/ASIキャンベラ本部
    1. 「ミルズ。そこに座りなさい」
  4. 四二八九年/北米東海岸
    1. 「そうむくれるな、エスタ」
    2. そうしてアストレアがひとりぶすくれていたときのこと
    3. 「それ以上、私たちに近付かないで」
    4. 「暗愚の闇を切り捨てる一閃、薄明の覇者」
    5. 「退却する、彼女のことは諦めなさい!」
    6. 「正直に言いなさい」
  5. 四二四六年/特務機関WACE旧本部
    1. 時は四二四六年、一月某日
    2. 「あなた、ますます目が死んできたわね」
    3. 「あなたの精神って、呆れるほどタフで鈍麻」
    4. そうしてアーサーが苦い笑みを僅かに浮かべた折
  6. 四二四六年/特務機関WACE旧本部
    1. 『魔法の言葉』を教えられた、その三日後のこと
    2. 「ないの? 議員の息子なのに?」
    3. 数日後、アイリーンから恐ろしい書類を提示される
  7. 四二八九年/チャツウッド記念病院
    1. 時代は進んで四二八九年のこと
    2. 「なぜ、あなたがここに……」
    3. 軽い気持ちで、テオ・ジョンソンはそう答える
  8. 四二八九年/男子禁制の女の花園
    1. とある女性専用の美容サロンにて
    2. 「……売り上げに貢献できているなら、何よりだわ」
    3. 「そら誰かて気になるやろ」
    4. 昨晩、ふらりと倒れて以降
    5. 「セイディの顔。どっかで見たことある気ぃするんや」
  9. 四二八九年/バルロッツィ財団
    1. オフィス街に聳える建造物の中にアレクサンダーは居た
    2. 「お帰りなさい、エリーヌ」
    3. 「レイ、あの部屋に案内してあげて」
    4. 「あら。あの猫の絵が気になるの?」
    5. 「これはあなた宛てのドレス。渡すよう頼まれていたものよ」
    6. 「私が彼と出会ったのは、お互い二〇代半ばだった頃のこと」
    7. 「ハハッ。こりゃ綺麗だ、予想していた以上に」
    8. 「それについては、まあ、善処しますよ」
    9. 「戻れるのならば、ボストンに住んでいた頃に戻りたいものね」
    10. 「会長、緊急のご報告が。例の、タブロイド紙の件で……」

ep.09 - Sacrifice of silver wheel.

 時刻は午前一時過ぎ。ジュディス・ミルズが運んできた食料――長官室の冷凍庫にて大量にストックされていたという鯖サンドをあるったけ――を胃袋に詰め込み、ひとまず普通に活動できるだけのエネルギーを確保し終えたラドウィグは、相棒である狐を伴って地上一階のエントランスホールに移動していた。
 彼らが待っていたのは、ジュディス・ミルズが呼び出していたASI局員。通称エコーと呼ばれている工作員、コービン・デーンズである。ジョン・ドーの見張り役として徴集されたエコーだが、ラドウィグには彼に伝えなければならないことがあった――その仕事がなくなった、という話を。
「……」
 深夜帯とは思えぬほど静かならざるエントランスホール。門前には、赤いランプを煌々と照らしている救急車が停まっている。そして救急車から少し離れた場所には、血だまりができていた。ジョン・ドーが飛び降りた際にできたと思われる、出来立てほやほやの血だまりである。血だまりは深夜の闇をその表面に映し、地表に漏れ出た石油のような鈍く黒い光を放っていた。
 その黒い光をぼんやりと見ていたラドウィグは、黒い光に暗い影が落ちる瞬間を目撃する。真っ黒なライダースジャケットを着た黒髪クセ毛の男が闇の中からヌルッと現れ出て、その血だまりの傍で立ち止まったのだ。その男――徴集を受けて参じた局員、コードネーム・エコーことコービン・デーンズである――は首を傾げつつ、数秒ほど血だまりを見たあと、次に停まる救急車を一瞬だけちらりと見やったのち、再び動き出す。エントランスホールで待っていたラドウィグを目掛けて、小走りに、一直線に……。
 バイクでここに来たのか、エコーは脇腹にフルフェイスのヘルメットを携えている。フルフェイスのヘルメットが放つ独特の威圧感に、ラドウィグが悪い妄想を思い浮かべて小さく身震いをしたとき。強盗と見紛う格好をしているエコーがラドウィグの前に到着し、平坦な声でこう言った。
「遅れてすまない」
 そんなこんなでラドウィグは苦手意識を抱いていたのだ。コードネーム・エコーこと、コービン・デーンズという男に。というのも、この男。ラドウィグ以上に掴みどころがない人物なのである。
 エコーはラドウィグ以上にボーっとした雰囲気を放つ男だ。しかしその言動はチャキチャキとしているし、眼光はとても鋭く、どちらかといえば強面なほうだ。それに服装もイカつく、乗りまわすバイクも大型でゴツい。が、全般的に気配がなく、動作は静かで、バイクの排気音さえも静かだ。そして彼から飛び出す発言はどこか珍妙でズレているし、やっぱりどことなく『ボーっとしている』ように見える。そのように、形容に困るよく分からない男なのだ。
「渋滞を迂回したせいでえらく時間が掛かった」
 特殊作戦班には、かつてフォネティックコード呼びの男たちが五名在籍していた。四〇代前半のアルファ、五〇代後半のブラボー、六〇代前半のチャーリー、四〇代後半のデルタ、そして三〇代前半のエコー。この五名である。大半は清潔感のないベテランのジジィであり、唯一の例外が中堅のエコーだったわけだ。
 ラドウィグが、かつてのメンツと関わりのあった時間はほんの一瞬。だが、その一瞬も同然の時間の中でも、ハッキリと分かっていたことがある。それはエコーが浮いていたということ。口を開けば猥談ばかりの不潔なジジィどもとの間に、エコーは距離があったのだ。ジジィどもはお構いなしな様子でエコーにちょっかいをかけていたが、エコーのほうはあからさまに壁を作っていた。業務に関連していない会話を、エコーはジジィどもと積極的に交わそうとしていなかったように、ラドウィグには見えていたのだ。
 アリス・スプリングスに向かっていた輸送機の中でも、アルファを除いたジジィどもは賭け事に興じて時間を潰していた横で、エコーは他の隊員らから離れた場所でひとり仮眠を取っていただけ。イヤーマフで耳を覆い隠して、あらゆるノイズを遮断している寝姿はまるで『話しかけてくれるな』と訴えているかのようだった。それに、輸送機の中でアルファがアレクサンダー・コルトを相手に怒号を上げたとき、同じ輸送機に乗り合わせていた者の中で唯一反応を示さなかったのがエコーだった。――そんなエコーの様子を見て、ラドウィグはちょっぴり思ってしまったのである。感じが悪いな、と。
 そのエコーは、ウルルでの一件のあとに療養のため休職していた。開放骨折した左腕の調子が思うように戻らずリハビリに時間が掛かっていたとか、なんとか。そして三ヶ月のデスクワークを経て、彼が現場に本格復帰したのは二週間前のこと。その間、ラドウィグと彼との間にこれといった接点はなく。対面してまともに話すのは、これが初めてとなるだろう。
「いやぁ、その……こんな時間に呼び出してしまって、申し訳ないです。謝るべきなのはコッチっスよ」
 ヘラヘラと笑いながらそれっぽいことを言うラドウィグは、言葉を発する合間で相手の様子を伺う。だがエコーの心情は掴めそうにない。真夜中に徴集されたことを不服に思う様子も見られなければ、ラドウィグに対して何らかの感情を見せるわけでもない、至ってニュートラルそのものなエコーの姿が、却ってラドウィグに妙ちくりんな緊張感を齎していた。
 すると、掴みどころのないエコーはぬるりとラドウィグの言葉をスルーする。これといって感情が宿っていない目でラドウィグを見る彼は、単調な声でスパッと問うてきた。「それで、俺は何をすればいいんだ?」
「んー。それが、状況が変わったというか……」
「収監者の監視役が必要だと聞いて、ここに来たんだが」
「その収監者が逃亡したんです。それ以外にも色々とあって状況が変わって、オレも何が何だか分からないんスよ」
「逃亡だって?」
「窓をカチ割って、飛び降りまして。それもアバロセレン犯罪対策部のオフィスから。あの血だまりが、その逃亡者のもので……」
「高層階から飛び降りて、逃亡? 死亡の間違いじゃないのか」
「いやぁ。それが……生き伸びて、逃げやがったんです」
「なら、そこにある救急車は?」
「あー、その。それはまた別件っつーか……」
 エコーは無感情な声で、無表情の顔をキープしたまま、キリッとスパッと簡潔な言葉を以てしてラドウィグを問い詰めてくる。が、やはり彼の目には何も感情がなく、曖昧な受け答えで言葉を濁すラドウィグに苛立っている様子さえ見られない。分からないことをただ訊いているだけのようだ。
 エコーによる、AI:Lよりも機械じみている受け答え。ラドウィグにはそれが、返答を急かす圧として感じられていた。そうしてラドウィグが無駄に狼狽し、答えを濁すような言葉ばかりを発していると。それを見かねた神狐リシュが動く。ラドウィグの足元にちょこんと座っていた神狐リシュは狼狽えるラドウィグを睨むように見上げたあと、呆れを帯びた溜息混じりの声でこう述べた。
『こいつが連れ帰ってきたジョン・ドーが、オフィス内で暴れた。それと同時に、曙の女王も襲来してな。ジョンソンが倒れ、指揮系統に狂いが生じた。見事だよ。怒れる死神さえやらぬ暴挙を、曙の女王はやってのけたんだからな。とんだクソッたれだ、あの女は』
 そんな神狐リシュは、エコーに自分の声が聞こえているテイで喋っている。だがエコーに神狐リシュの声が届いているのかどうかは定かではない。ラドウィグの足元にいる神狐リシュの存在に、彼が気付いているような素振りはなかった。
 ――だが。神狐リシュの言葉が終わったとき、エコーの表情が僅かに硬くなる。その変化はまるで、神狐リシュが聞こえているかのようでもあった。
 そこでラドウィグは、まさかの可能性を思い浮かべる。エコーには神狐リシュの姿が見えていて声も聞こえているが、意図的に無視をしているのではないか、と。そして神狐リシュは、エコーに自分の声が通じることを知っているのかもしれない。
 それはつまり、エコーもラドウィグと同じようなものが見えていることを意味していた。エコーも、ラドウィグと同じように神狐リシュが見えているし、それ以外の存在も、つまり死人の姿さえも見えているのかもしれない。
 だからこそエコーは無感情に、そして機械的に振舞っているのかもしれないし、他者との接点を減らしていたのだろうか。――その消極的な行動選択には、ラドウィグにも覚えがある。特務機関WACEという場所に囚われるより前のラドウィグが、そうであったからだ。
「……あの、エコー」
 周囲には見えないものが見えていると、頭がおかしいと疑われ、心配されたり笑われたり疑われたり、虐めを受けたりする。ゆえに『周囲に悟られぬよう、普通とされる姿に擬態しなければ』と努力をするのだが、いずれボロが出て、状況は逆戻り。その結果、他者と関わりを持つ行為そのものを避けるようになるのだ。接触を断って、耳を塞いで、関わってくれるなというオーラを放ち、他人を遠ざけるようになる。
 ちなみに、これは高校生時代のラドウィグのことだ。そして恐らく、エコーと呼ばれているこの男はラドウィグと同類である。
「もしかして……」
 もしかして、リシュのこと見えてます? ――ラドウィグがそう訊こうとしたとき。ラドウィグのすぐ傍で、ポンッという軽快な音が鳴る。これはエレベーターが到着したことを報せる音だ。
 そうしてラドウィグがエントランスホールの隅、エレベーター乗り場に目を向けたとき。ひとつの扉が開き、到着したエレベーターの中から七名が慌ただしく出てきた――ストレッチャーを引く救急隊員ら五名と、ストレッチャーの上に乗せられたテオ・ジョンソン部長、それから付き添いと思しき主席情報分析官リー・ダルトンら、七名である。
 ストレッチャーと救急隊員らがラドウィグらの横を通り過ぎていく。だが主席情報分析官リー・ダルトンのみがラドウィグらの傍で立ち止まった。そして主席情報分析官リー・ダルトンはエコーを見ると、彼にこう告げた。
「エコー、ちょうどいいところに! 君にはキングの付き添い、もとい警護を頼むよ。君、たしかヘルマ夫人ともアイザックとも知り合いだったろ? うまく誤魔化してくれ」
 突然切り出された命令に、エコーもラドウィグもぽかんとしていたとき。ストレッチャーの上に乗せられていたテオ・ジョンソン部長が、彼らの注意を引くべく大きく手を振りだした。それからテオ・ジョンソン部長は半ば叫ぶように、主席情報分析官リー・ダルトンに向けて異議を唱えた。「コービンにそんな芸当はできない、無理だ! それならウェスリーを呼んでくれ!」
「ありゃまあ。随分とエコーのことを信用してないんですねぇ、キング」
「コービンの演技の下手さは折り紙付きだ! それにアイザックは俺の息子だぞ?! あいつの嗅覚を舐めるな。それに――ッ!」
 大声を上げた拍子に起き上がろうとしたテオ・ジョンソン部長を、救急隊員のひとりがストレッチャーに押し戻す。そこで部長の言葉は途切れた。
 そのタイミングで、主席情報分析官リー・ダルトンはエコーのほうに向き直ると、彼からフルフェイスのヘルメットを取り上げる。それから主席情報分析官リー・ダルトンはエコーに命じた。
「ともかく。エコー、君にはキングの警護を任せたよ。後のことは追って、レムナントから指示が入るはずだ。ヘルメットは預かるから、ひとまず今は行ってくれ」
「相分かった。それは俺のデスクの上にでも置いといてくれ」
 エコーはそう返事をすると、ストレッチャーを追いかけて走り出し、救急隊員らと共に救急車に乗り込んでいく。ついさっき到着したばかりだったエコーは、そうしてあっという間にラドウィグの前から去っていった。訊きたかったことは訊けず仕舞いである。
 胸の内にモヤモヤを留め置きつつ、ラドウィグは黒いライダースジャケットを着たイカつい背中を見送る。その横で主席情報分析官リー・ダルトンは、ウェスリーという人物にコールを掛けていた。
「おはよう、ウェスリー・デーンズ。主席情報分析官のダルトンだ。こんな時間に申し訳ないが、君に出動要請が出ている。チャツウッド記念病院に向かってくれ。実は本部長が襲撃され、そこに搬送されたんだ。コービンを付き添わせているが、彼だけじゃあ不安でね。そこで彼の弟である君に、本部長の家族の対応を頼みたいんだ。今後の処遇が決まるまでの間、ご家族をうまく誤魔化してほしい。……ああ、そうだ。そっち方面ではコービンに期待していないから、君を頼っているんだ。宜しく頼んだよ、それでは」
 横で主席情報分析官リー・ダルトンの言葉を聞いていたラドウィグは、最初に彼の口から飛び出した人名に驚きを得る。ラドウィグは、エコーの弟を知っていたのだ。
 ウェスリー・デーンズ、またはウェス・デーンズ。彼もまたASI局員である。彼は心理分析官ヴィク・ザカースキーの友人で、他部門に所属する情報分析官だ。黒髪クセ毛で、ぽっちゃりとした体格の、おっとりとした雰囲気の穏やかな男だった。そんなウェス・デーンズと、ラドウィグは一度だけ顔を合わせている。心理分析官ヴィク・ザカースキーに渡す資料を彼から預かった際に、ラドウィグは彼と少しだけ話をしたのだ。
 ウェス・デーンズは心理分析官ヴィク・ザカースキーと同じく、料理が好き。そして猫が好きで、キルゴアという名のキジトラ猫と、ウーメラという名のハチわれ猫を飼っていると言っていた。たしかその猫たちはどちらも兄が拾ってきたとか、そう言っていただろうか。
 そういえばあのとき、彼はラドウィグに感謝を伝えてきていた。ラドウィグが兄の命の恩人であるとか、ラドウィグに感謝をしているとか、なんとかと。そのときはウェス・デーンズが言うところの兄が誰であるかがラドウィグには分からず、適当に受け流していたのだが、もしやその兄がエコーなのだとしたら――
「ウェスリーって、あのウェス・デーンズっスか?!」
「デーンズ兄弟は局内でも有名な二人だと思うが。知らなかったのかい?」
 突然声を張り上げたラドウィグに、ウンザリとした顔をする主席情報分析官リー・ダルトンは、ラドウィグにそう問い返す。それに対してラドウィグが首を縦に振るという反応を示せば、主席情報分析官リー・ダルトンは肩を落とした。それから主席情報分析官リー・ダルトンは言う。「彼らは、彼らがまだ子供だった頃に、キングとラーナーの二人に保護されたんだ。そうしてまだ子供だったうちからASI局員になる未来が確定してしまった。そういう特殊な存在だよ。つまり、連邦捜査局シドニー支局のアーチャー支局長みたいな存在だね」
「へー。他にもそういうケースがあったりするんスか?」
「いや。デーンズ兄弟は極めて特殊な例だ。ASIに限った話をすれば、後にも先にもその二人しかないレアなケースだよ。――局内じゃあかなり有名な話だが、本当に知らないのか? 当時、たしか猛獣アレックスも出動していた案件だぞ。彼女から何も聞いていないのか?」
 再びの主席情報分析官リー・ダルトンからの問いかけ。ラドウィグは首を横に振ってみせた。すると主席情報分析官リー・ダルトンは溜息を零したのち、ラドウィグに呆れたという視線を送ってくる。それから彼は、長々とデーンズ兄弟に関する話を語り始めるのだった。
「彼らはその昔、あるギャングの構成員に両親を奪われたんだ。彼らの父親が、正規ルートのアバロセレン輸送に直接関与していた運転手の一人だったことが理由だ。夜間にギャングの構成員数名が家に侵入し、抵抗した両親を兄弟の目の前で射殺したらしい。そして兄のコービンは怒りに任せて構成員をボッコボコにすると、弟と二人で構成員らを拷問し、ギャング団のアジトを聞き出したそうだ。そしてコービンがギャング団のアジトにひとり乗り込んで、そこに居た全員をぶちのめした。それが、コービンが一〇歳、ウェスが八歳のときだと聞いてるよ」
「一〇歳でッ?! ――いや、八歳で拷問!?」
「ちなみに、そのギャング団の構成員のほとんどは一〇代半ばのガキで、平均年齢は十四歳、最年長でも十七歳だったようだ。そのギャング団には上位の犯罪組織があり、つまりそのギャング団は犯罪組織の意のままに動く、いわば捨て駒の寄せ集めのようなものだったらしい。まあ、よくある話さ。それに上位に居た犯罪組織も、当局が連携して根も種も壊滅させたので今は存在していない」
「なるほど~。終わった件とはいえ、胸糞悪いっスね。子供が捨て駒だなんて……」
「そして、そのギャング団もとい上位の犯罪組織はアバロセレンの闇取引をシノギとしていて、コービンが大暴れしたその夜は、キングとラーナー、それから金髪の猛獣、その三人がたまたま現場を押さえに来たときだったらしい。噂によると、前高位技師官僚からの予言があったとか」
「でも、信じられないっスよ。あのエコーが、本当に?」
「僕からしたら、君もコービンも似た者同士に見えるけど。そんな驚くことかい?」
 さりげない主席情報分析官リー・ダルトンの言葉が、ラドウィグの心にプスッと刺さる。ラドウィグがエコーに対して感じていることを、周囲はラドウィグにも感じているのだなという現実を突き付けられ、ラドウィグは居心地の悪さを覚えたのだ。やはり自分は普通ならざる存在なのだな、と。
 そうしてラドウィグが苦笑いを浮かべたとき。主席情報分析官リー・ダルトンは「そんじゃ」と軽く挨拶すると、エコーのヘルメットを携えて彼の持ち場に戻っていった。
 エントランスホールに残されたのは、役目を失くしたラドウィグと神狐リシュのみとなる。そしてラドウィグは足元にいる神狐リシュを見やると、あることを尋ねた。
「そういえばなんだけどさ。オレの気のせいかもしれないけど。エコー、普通にリシュの声が聞こえてるし、姿が見えてるっぽい感じしない?」
『ああ、ヤツには見えてるさ。俺はそのつもりで喋ってたぞ』
 神狐リシュはきっぱりと断言する。続けて神狐リシュはこう言った。『ウルルの件のとき、あいつは脱出を先導してただろ? あんとき、実は俺が脱出までの道を誘導してたんだ。そしてあいつはその俺の後を確実に追ってきた。間違いなくあいつの目には俺のことが見えているし、声が聞こえてる』
「え、そうだったの? あのとき、リシュが?」
『そうだ、感謝しろ。俺が最短ルートの脱出路を示して、お前たちを助けてやったんだぜ』
「……知らなかったよ。ありがとう、リシュ」
『ちなみに、あの野郎は「このことは秘密にしろ」と俺に注文を付けて来やがったからな。人間の分際で、神族種を相手取って、それも感謝を述べるよりも先に。あれはお前よりも傲慢なやつだ。正直に言うと、あいつは気に入らねぇよ』
 意外な場所から飛び出た、あの日の意外な事実。それと共に判明したのは、やはりエコーが同類だったということ。
 感じが悪いなとしか思っていなかった男の印象が、たった一瞬のうちに大きく変わるとは。新発見に驚くと同時に、ラドウィグは自分の理解の浅さにも落胆していた。他人のこととなると、表面的なことしかまるで見られていないのだなと、そう痛感していたのだ。アレクサンダー・コルトのように、フラットな目で他人を見ることがラドウィグにはできていない。
 ――と、そこでラドウィグは思い出す。アレクサンダー・コルト、彼女がまだ局に到着していないことを。
「それにしても、サンドラの姐御は今なにしてんだろ。二〇分前に急遽呼び出されたエコーは局に着いたし。それより後に要請された救急車も到着して、部長は搬送されたのに。それよりも前に動いているはずの姐御が、まだ到着してないだなんて……」
『あの男が言ってただろう、渋滞を迂回してきたと。あの女は渋滞に巻き込まれているんじゃないのか?』
 神狐リシュの言葉を受けて、ラドウィグは思い出す。エコーはたしかに言っていた、渋滞を迂回したせいで遅れたと。
 そして神狐リシュの予想通り、アレクサンダー・コルトは渋滞に巻き込まれていた。局から支給されたジュディス・ミルズのセダン、その運転席に座っている彼女は、ふんぞり返るように座りながら絶えず舌打ちを繰り返している。チッチッチッ、と数度の舌打ちを繰り返した後に溜息をついて、髪を掻き乱す。こんなことを繰り返し続け、かれこれ四〇分が経過していた。
「あぁッ、クソ。何十分、止まってんだか……」
 ハンドルに平手打ちをしたくなる衝動を堪えつつ、アレクサンダー・コルトが何度目かの悪態をひとり零していたとき。車内のスピーカーからは聴き慣れた合成音声の声が鳴る。聞こえてきたのは、この車に搭載されている自動運転機能、それに紐づけられているAI:Lによる天の声だった。
『スリップ事故が複数発生したことにより、渋滞が発生しています。目的地到着まで二時間ほど掛かると予測』
「スリップか。はぁ~……」
 冬の到来により、一段と夜の冷え込みが強くなってきた昨今。本格的な冷え込みはまだ少し先だとアレクサンダー・コルトは思っていたのだが、しかしいつの間にかスリップ事故が発生する季節に突入していたようだ。この調子だと、雪が降り出すのも間近かもしれない。
 嫌な季節だ。そんな言葉を口パクで呟きつつ、アレクサンダー・コルトはハンドルから手を離す。彼女は着用していたジャケットの上着に入れていた携帯型通話端末を手に取るのだが、そのとき天の声が彼女に釘を刺す。『エージェント・コルト。運転中の通話は控えてください』
「分かった、分かった。スピーカーにする。それでいいだろ?」
『ですが、エージェント・コルト。スピーカーであるか否かに関わらず、運転中での通話は法律により――』
「見ての通り、渋滞だ。どうせ動きやしないんだ、ちょっとぐらい良いだろうに」
 頭の固い人工知能に、アレクサンダー・コルトは嫌味をぶつける。そうして携帯型通話端末を操作するアレクサンダー・コルトは、ある人物に連絡を試みた。すると、相手はすぐに応答する。スピーカーから発せられたのは、時間帯を考えずに大声で呆れを表現するニール・アーチャーの声だった。
『おい、アレックス! 今が何時だと思ってんだ? 時間帯ぐらい考えてくれ!』
「文句があるなら、時間帯に構わず騒ぎを起こす女王サマに言ってくれ。それにあんたはどうせ、テーブルロールの仕込みで起きてたんだろ?」
 ニール・アーチャーは夜中のうちに、翌日分のテーブルロールを仕込み始める。寝る前に生地を作って発酵器に入れ、一旦眠り、数時間後に起きて前日の夜に仕込んだ生地を焼き上げる。それが彼の日課なのだ。そして今の時間帯であれば、ちょうど生地を発酵器に入れ終えてひと段落しようとしたタイミングだろう。
 そしてニール・アーチャーから返ってきたのは、盛大な溜息だった。続けて、彼は言う。『それで、用件は? 今度は何が起きた?』
「不死身の怪物、ジョン・ドーがシドニーに現れた」
『……なッ?!』
「幸い、発見されたときにゃ黒焦げの死体だったよ。それが昨日だか一昨日だかにシドニー市警のモルグに運び込まれて、つい一時間前だかに復活。ジョン・ドーはASIのほうで確保したが、一応あんたにも知らせておこうと思ってな」
『そ、そうか。分かった。……ということは、その騒ぎの背後には曙の女王が居るってことか?』
「その線が濃厚だとアタシは考えているが、とはいえ、確証は今のところねぇよ」
『……』
「ひとまずアルフレッド工学研究所に派遣したベッツィーニにも、警戒するよう伝えてくれ。曙の女王による不意打ちの襲撃があるかもしれないからな。――それじゃ、また進展があったら連絡するよ。じゃあな、パン屋」
 アレクサンダー・コルトは最後にそう言うと、相手の反応を窺うことなく通話を切る。そうして彼女は目を閉じ、肩を落とした。
 数秒後、ウンザリとした表情と共に彼女は目を開ける。そのとき、彼女は車内に人の気配がヌルッと現れ出たのを察知した。
「はぁ~。マダム・モーガン、前にも言っただろう。運転中に急に現れ……」
 時間帯も状況も考えずに、ヌルッと現れそうな人物。そう考えたとき、アレクサンダ―・コルトの頭の中に浮かんだのはマダム・モーガンの顔だった。だからこそ彼女はそう言ったのだが、しかし三白眼をシャッキリと開いた彼女が助手席のほうを見やったとき、見つけた人物はマダム・モーガンではなかった。
 穴が開いてボロボロになった紫色の外套。闇夜の中に浮かび上がる真っ白な眩い髪と、重たく垂れさがった長い前髪で隠された顔の右半分。柘榴の果粒を思わせる濃赤色が怪しく輝く左目。――アレクサンダー・コルトの真横に悠然と座っていたのは、曙の女王そのひとだった。
「私はあなたに危害を加えるつもりはないよ。私たち、敵対する理由がない。そうでしょ?」
 薄ら笑いを唇に浮かべる曙の女王は、平坦な声色でそう言うが。しかしその内容にアレクサンダー・コルトは同意できなかった。視線を正面に戻すアレクサンダー・コルトは、ハンドルを握る力を強めながら異を唱える。「いや、残念だがアタシにはある。仕事柄、治安を乱す者を放っておくわけにゃいかないんだよ」
「でも、私はこの国を綺麗にすることに貢献してる。普通のひとには手を出してない」
「そう、愚か者を処刑して死体を増やしてくれたな。そのお陰で、怯える一般市民と怒れる遺族が増えたんだ」
「あなただって、今まで多くの犯罪者を葬ってきた。法の下では真なる裁きの鉄槌を下せない凶悪犯を、あなたは法外にある立場を利用して屠ってきた。ニールや他の捜査官たちがやりたいと思ってもできないことを、代わりにあなたが実行して、その責めを負っていたんでしょう? 私も同じだよ。私とあなた、何が違うの?」
 特務機関WACEに堕ちてから、今日に至るまでのアレクサンダー・コルトの全て。それらを見透かしているかのようなことを、曙の女王は言う。その薄気味悪さにアレクサンダー・コルトは絶句してしまう。化け物だと思っていたそれが、ただの化け物ではなく、もっと畏れ多い何かであるように感じられたのだ。
 そうしてアレクサンダー・コルトが言葉を失くしていると、曙の女王はフフッと小さく笑う。それから彼女はアレクサンダー・コルトにこう言った。
「ほら、反論できない。私とアレックスは似た者同士。似た者同士の縁で、特別に教えてあげる」
「……」
「もうすぐ新時代が来るのよ。黎明の光は意思を得て、私を選んだ。そして光は言っている。ひとつになろう、と。皆があの光の下に集って、ひとつになり、永遠に生きるのよ。ユニだって、あそこにいる。――ねぇ、アレックス。あなたもこちらにおいで。素晴らしい世界が待ってるよ」
 そう言った曙の女王の声には、恍惚に満ちていた。その語り口はさながら、新興宗教の入信勧誘。胡散臭い教祖のそれらしい言葉に陶酔した狂信者の声だ。その声は、信仰心など微塵も持たぬ者に忌避感と警戒心を抱かせる。
 顔を一段と険しくさせたアレクサンダー・コルトは、横目で睨むように曙の女王を見た。それからアレクサンダー・コルトは冷たい声で、突き放すようにこう言うのだった。「嫌なこったい。アタシにはアタシの世界がある。それに、皆とひとつになるだって? 気色悪いったらありゃしない。ンなもん、こっちから願い下げだ」
「アレックス。あなたは、平等と公正を求める人だったはず。なのに」
「悪いね。アタシも変わったんだよ。嫌いなやつができて、他人への執着もできちまった。平等なんて、無理だ」
「ジュディスのいない人生は、もう考えられない?」
 唐突に曙の女王が突き付けてきた言葉。それがアレクサンダー・コルトの胸に小さな傷を残す。曙の女王はそう言ったが、しかし今、アレクサンダー・コルトの頭の中に浮かんでいた顔は違うものだったからだ。
 遠いところに消えてしまったアストレアの横顔。拗ねてむくれるアストレアの幼稚な姿が、アレクサンダー・コルトの脳裏に浮かんでいた。その次に連想されたのが、最後にその目で見た“憤怒のコヨーテ”の顔。燃え上がる火の手を背に、天井から降り注ぐスプリンクラーの水を浴びながら、凄絶な笑みを浮かべていた彼の狂気じみていた容貌が、アレクサンダー・コルトの心を掻き乱す。――あの瞬間に、今でもアレクサンダー・コルトの心は囚われていたのだ。
 あれから多くの時を共に過ごしてきたジュディス・ミルズの顔が、けれどもこの時は浮かんでこなかった。にも関わらず突き付けられた彼女の名前に、アレクサンダー・コルトは強烈な後ろめたさを覚えてしまう。それが歯を食いしばるというかたちで表出化したとき、曙の女王が再び小さく笑った。
「でも、それでも黎明はやってくる。いつかあの光の下に皆が集う日が来る。あなたのこと、私はその場所で待ってるから。そう遠くない未来に、あなたを迎えに行くから」
「悪いが、ご遠慮ねがッ――」
「でも、黎明の向こう側に来てほしくない人もいる。例えば、ユニを困らせてたひとたち。パトリック・ラーナー、それとセオドア・ジョンソン。あの二人から受ける監視にユニは辟易してた。ユニが嫌ってた人を、黎明の向こう側には立ち入らせたくない」
「アンタ、何をしたんだい? アタシの仲間に手ェ出したってンなら、ただじゃおかねぇぞ」
 不敵な笑みを浮かべる曙の女王。彼女に、アレクサンダー・コルトは掴みかかろうとするが、その直前で曙の女王は消えてしまう。黒い靄となって霧散し、曙の女王は姿をくらませた。
 直後、アレクサンダー・コルトは盛大な舌打ちを鳴らし、握りしめた左手の拳で己の左大腿を叩く。次に、車列が永遠に続いているように見える正面を睨みつけると、苛立ちに身を任せてひとり怒声を上げ、万能の人工知能AI:Lを呼びつけた。
「レイ、教えてくれ! 局内で何が起きた?!」
 ――ところ変わって、ASI本部局アバロセレン犯罪対策部。ジョンソン部長のオフィスには、二人の女性の姿があった。
「ミルズ。そこに座りなさい」
 足を肩幅に開き、凛とした佇まいで執務机の前に居たのは、ASI長官であるサラ・コリンズだった。そして執務机と向き合うように置かれていた革張りの椅子に腰を下ろすのは、疲れ切った顔のジュディス・ミルズである。部長のオフィスに呼び出されたジュディス・ミルズは、背後に潜む眠気に支配されぬよう堪えながら、姿勢を正して座っていた。
 テオ・ジョンソン部長が負傷した、その直後に発せられた急な呼び出し。ジュディス・ミルズには分かっていた。これから長官が何を言うのか、及び自分に何が命じられるのかを。そして長官は、ジュディス・ミルズが予想していた通りの言葉を言う。
「単刀直入に言うけれど。レムナントの席を後進に明け渡しなさい。あなたにはキングの座に就いてもらう。アバロセレン犯罪対策部の部長、並びに本部長代行にあなたを任命する」
 だがジュディス・ミルズは、この昇進を受けないつもりでいた。この件にカタがついたらASIを辞める、彼女はそのつもりでいたのだ。不測の事態が起きたからといえど、彼女の決意は変わらない。故に彼女は言う。「お待ち下さい、長官。しかし私は」
「あなたにはセオドア・ジョンソンの役回りを引き継いでもらう、これは決定事項よ」
「ですが、この場合は次長職、または他部門の部長職から選任――」
「他部門の部長職に就いている者たちは、その部門で手一杯。セオドアほどのタフさと要領の良さを持ち併せている者はいない。そしてアバロセレン犯罪対策部の次長職は四名。バートランド・ファルコナー、マリア・ゴールズワージー、アラスター・コノリー、ジュリーン・フェアクロウ。いずれも野心ばかりで人望がないとの評価を、ダルトンから受け取っている。けれどもあなたは要領がよく、人望もあり、タフである。そしてあなたは、アバロセレン犯罪対策部、もといASIの象徴として最も適した人材でもある。残念だけど、運命だと思って受け入れなさい」
 拒む態度を示したジュディス・ミルズに、しかし長官はそれを上回る強硬な態度で返すのみ。しかし疲弊しきっていたジュディス・ミルズは、速やかな反論を紡ぐことができなかった。そうして彼女が言葉に詰まっていると、長官は同情を煽るようなセリフを発する。
「セオドアは恐らく復帰できないでしょう。それに、あの仕事人間を退官させてあげて。……孫の顔も見たことがないだなんて、そんな可哀想なことをこれ以上させられない」
 冷たい声色で、しかし憐憫を帯びたことを言う長官の顔には、ジュディス・ミルズに負けず劣らずの疲弊が滲んでいた。長官もまたロクに眠れていないうちの一人なのか、その目の下には濃い隈が刻まれている。疲れ切っている長官の目は、これ以上手を煩わせるようなことは止してくれと暗に伝えているかのようだった。
 だが、ジュディス・ミルズにも言い分がある。彼女はあくまでも食い下がった。「ですが、私にも人生があります。私は、この仕事をこれ以上続けるつもりは」
「私にもそう考えた愚かな時期があった。ちょうどあなたぐらいの頃に。けれども気付いたのよ、私の人生は仕事だけだった、って。ASIが私にとっての家で、家を守ることが私の務めだった。それ以外の人生を考えてみようと思った時期もあったけれど、結局のところ思い描くことすらできないのよ。私たちのように職務に全てを賭してしまった人間には、仕事以外の生き方を描けない。家庭を築いていたわけでもなく、恋人すらもおらず、友人さえいない者には、普通の人生など送れないのよ」
「けれど」
 けれど。――その後に続く言葉が、ジュディス・ミルズの口からは出てこない。長官が彼女に向けてくる冷たい眼差しに、ジュディス・ミルズの背筋が凍り付いてしまったのだ。
 そのうえ長官の言葉は彼女の胸に深く突き刺さっていた。長官の言葉は、図星をついていたのだ。ジュディス・ミルズの手の中には何もない、だからこそ与えられた役目を果たすしかないという直視したくない現実を、長官は彼女に突き付けていた。そして長官は続けて言う。
「本部長が襲撃を受けた挙句、本部局から何者かが投身自殺を図ったとなれば、責任問題に発展することは避けられない。それに、ウルルでの一件もある。私も近々ここを去ることになるでしょう。そして私の後には恐らく、アバロセレン推進派の閣僚が誰かしら送り込まれてくるはず。そうなったときにはASIの掲げる理念、アバロセレンに厳格な規制を設けるという理念を貫き通せる人間が必要。それが他でもないあなたなのよ、ミルズ。レムナントの名を長年背負い、その理念を体現してきたあなたになら、局員たちは付いていく」
「……」
「それに、あなたがキングの座を継がないと言うなら、自分は局を辞めると宣言した傍迷惑な主席情報分析官が一名いるのよ。あのバカを引き留めるのも、あなたの役目」
 主席情報分析官リー・ダルトンからも圧を掛けられている。それも、とても大きな圧を。――逃げ道を塞がれたと感じたジュディス・ミルズは、ドッと肩を落とす。彼女は観念したのだ。
「正式な通達は後日になるでしょう。それまでに覚悟を決めておきなさい」
 長官は最後にそれだけを言うと、気配を消して静かに立ち去る。そうしてテオ・ジョンソン部長のオフィスにジュディス・ミルズのみが残された。
 座っていた椅子に背中を預けて、彼女はそのまま後ろに体を大きく逸らす。――と、そんな彼女の視界に、ある男がヌルリと侵入してきた。それは、したり顔の主席情報分析官リー・ダルトンだった。
「ようこそ、ミズ・ミルズ。臣民の下僕となる道へ」
「……ダルトン。あなた、聞いてたのね?」
 ジュディス・ミルズがそう訊けば、主席情報分析官リー・ダルトンは首を縦に振る。それから彼は浮かべていた表情を消すと、彼にしては珍しい冷めた調子で釘を刺すようなことを言ってきた。
「僕は自らの意思でここに来たわけじゃあない。大義に殉じた姉の遺志を継いで、彼女が収まるべき場所に僕が彼女の代役として収まっただけのこと。そうするようにと当時のお偉方から要請ないし脅迫されたので、仕方なくここに来たんです。けれどもあなたは、自ら望んでここに来た人なんだ。逃げるだなんて無責任な行為は許しませんよ」
 逃げる。無責任。許さない。
 強い非難を帯びた言葉が矢継ぎ早に発せられる。それはリー・ダルトンという、洒脱な軽口が常套の男らしからぬ言動だった。だが、彼はすぐに普段通りの振る舞いを取り戻す。ニンマリと笑う主席情報分析官リー・ダルトンはジュディス・ミルズに軽く手を振ると、背を向けながらいつも通りの振る舞いを見せて去っていった。
「んじゃ、僕は仕事があるんで。それでは」
 その背中を、ジュディス・ミルズは天地がひっくり返った視界の中で見送る。ジュディス・ミルズよりも一足先に己の人生を諦めて捨てた者の背中が暗闇に消えていくさまを見送りながら、自分もああならなければならないのかと彼女はひとり溜息を零していた。
「……」
 そうしてASI本部局が静かならざる真夜中の帳に包まれていた頃、反対に光が差していた北米東部のマンハッタンは昼飯時前を迎えていた。
 とはいえ。拠点であるゴーストタウンに舞い戻ってきていたアルバとアストレアの二人組は、特段腹を空かせていない。数十分前に早めのランチを済ませていたからだ。だが、ここにはメシのことで腹を立てている者がいる。
「そうむくれるな、エスタ」
「……ピカディージョ、楽しみにしてたのに。予定変更なんてヒドイや」
 麻薬王の隠れ家を吹っ飛ばす予定だ。そしてお前は、取り巻きの下っ端たちを好きに撃ちまくっていいぞ。――数十分前、アルバはそう言っていた。そしてアストレアは、その展開を楽しみにしていた。ついでに、現地で食べられるであろう夕食のことも。
 スパイスの効いたピリ辛な中南米の料理。トマトの酸味とクミンの香りが絡み合い食欲をそそる、そんな素晴らしき美味を思い浮かべて、とても楽しみにしていたというのに。しかしつい先ほど、マンハッタンに帰投するなりアルバは残酷な一言をアストレアに告げてきた。予定変更だ、と。
「犯罪組織の狩りはいつでもできる。だが今は休めるうちに休んでおく必要がある、当面は何が起こるかの予測が付かないからな」
 そう言いながらアルバが向かったのは、キッチン。彼は冷蔵庫の扉を開けると、庫内から徐に林檎をひとつ取り出す。それからパタンと冷蔵庫の扉を閉めると、彼は取り出した林檎をひと口かじった。そのままの林檎を、直にかじったのである。軽く流水で洗いもせず、皮をナイフで剥きもせず、そのまま……。
 その様子を驚きと共に見ていたのが、アルバの後を追い駆けてキッチンに立ち入っていたアストレアだ。
「えっ。皮、剥かないの?」
 林檎を見ながらアストレアはそう言うが、アルバのほうは妙なことを言い出すアストレアを逆に驚きと共に見返すのみ。そして咥内に含んだ林檎をアルバは呑み込んだあと、彼はアストレアに訊き返した。「林檎の皮を剥く?」
「普通、剥くもんじゃないの? 剥いて、切って、そうやって食べるもんだと思ってたけど」
「馬鹿らしい。時間の無駄だ」
 アルバはそのようにアストレアの意見をバッサリと切り捨てたあと、再び林檎にかじり付いた。それから彼はジェスチャーで「お前もいるか?」とアストレアに訊いてくるが、アストレアはいらないと首を横に振る。というのもアストレアは知っていたのだ。その林檎は恐らくかなり酸っぱいものであり、アストレアの好みではないと。
 紅茶や珈琲といった飲料には大量の角砂糖を投入する砂糖狂のアルバだが、奇妙なことに甘い果物は好きではないらしい。この家の冷蔵庫には林檎やオレンジといった果物が定期的に補充されるのだが、アルバが買ってくる果物は大抵の場合、かなり酸味が強かった。普通の人間ならばパイやジャム作りに回すような果物を、しかしアルバはそのまま食べるのである。
 対するアストレアは、果物は甘ければ甘いだけ良いという考えの持ち主だ。酸味の強い林檎など、そのまま食べられたものではない。せめてグラニュー糖をまぶして焼いてから、シナモンと共に食べたいものだ。
「ジジィのことがよく分かんないよ。普段はお上品を気取っておきながら、そーいうところはガサツで下品なわけ?」
「私はガサツで下品な野良犬だぞ。エスタブリッシュメントを気取る演技が少々達者なだけだ。知らなかったのか?」
 もきゅもきゅと小さく音を立てながら林檎を食べつつ、アルバはそのような嫌味を返す。そしてアストレアは過去の彼の言動を思い返して、すとんと肩を落とした――よくよく考えてみれば、彼の普段の言動は下品でガサツそのものだったからだ。
 お上品を気取るのは、外行きのときだけ。普段発する言葉といえば、規制音が掛かりそうな発言ばかり。料理も雑で手抜きばかりだし、いかに包丁とフライパンを極力使わずに一品を仕上げるかということに心血を注いでいるような気もしなくない。それに彼が手を抜かないのは自身の外見を整える工程と、猫たちの爪切りだけ。つまり、彼はそれなりに荒れているクレイジーでガサツなジジィであった。
「……そーでした。ガサツで下品なコヨーテだったよ、あんたは」
 そのままの林檎を、そのまま食べるアルバを冷めた目で見つめつつ、アストレアはそう呟く。すると、そんな彼女の足許に三匹の猫たちが擦り寄ってきた。腹を空かせたトラ猫三姉妹である。それと、キッチンから少し離れた場所からアストレアらの様子を伺う母猫チャンキーの姿も見えていた。
 アストレアの目には、ネズミ捕りの仕事をしているようには見えていない猫たち。この猫たちはすっかり甘やかされており、毎日決まった時間にもらえる高級なキャットフードを日々の楽しみにしている模様。そして今は、猫たちにとってのランチ時間。昼飯の催促に来たというわけだ。
 そうして昼飯の催促に来た猫たちが、世話係のアストレアを見上げてニャーニャーと鳴き始めたとき。アルバの足元では、影が蠢き始める。床に落ちた影がにゅるりと浮かび上がり、徐々に海鳥の姿を形作る。現れ出たのは海鳥の影ギルだった。
「久しぶりに見るような気がするなぁ、ギル。お前は今までどこに消えていたんだ?」
 近頃見られていたアルバの妙な言動、及び憔悴の理由。その原因を探るため、海鳥の影ギルは暫く各地に赴いて情報収集を行っていたのだが。そんなことなど知らぬアルバは、林檎を齧りながら海鳥の影ギルに嫌味を飛ばす。そんなアルバのおどけた様子に海鳥の影ギルは呆れを示すと、輪郭をブルブルと震わせながら言った。
『その話はあとにしましょう。アルバ、あなたに至急お伝えしたいことがあります。ボストン上空のSODが消え――』
「それなら、とっくに知っている」
 しかし、アルバは海鳥の影ギルの言葉に呆れたという態度を返した。一周遅い情報を大慌てで伝えてきた海鳥の影ギルに憐れむような視線を送る彼は、再び林檎に噛り付く。すると海鳥の影ギルは、小さな怒りを表明し、水かきのついた足でペタペタと地団駄を踏み始めた。それから海鳥の影ギルは怒気を帯びた声でこう言った。
『つい先ほどのことです!! ボストンという街が復活しました。あなたが死ぬ直前に見たであろう姿のまま、突如、地上に現れたのです。SODのことなど何も知らぬかのように振舞う街人たち、あの日に消えたはずの人々が今、あの地を闊歩しています。怪我も無い綺麗な姿で。その一方、地中から這い出る大昔の死者の姿も見受けられました。そして街人たちは、地中から這い出る死者に気付いていながらも何の反応も示していない。――異常としか言いようがない事態が起きているのですよ!』
「ギル。ボストンへ来るよう、モーガンに伝えろ」
 海鳥の影ギルが悲鳴じみたグワグワ声を立てたあと、アルバの表情が途端に険しくなり、声も緊張感に満ちたものに変わった。しかし、海鳥の影ギルが何を語っていたのかが分からぬアストレアには、彼の雰囲気が変化した理由も分からない。
 そうしてアストレアがとぼけた顔を晒しながらアルバを呆然と見ていたとき、彼の目がアストレアに向く。アルバは彼女にこう言った。「エスタ、お前はここで待機してくれ」
「えっ。な、なんで?」
「私はお前のことまで護れないからだ」
「ご心配なく、戦闘の訓練は受けてるよ。非力なりに自分の身ぐらい自分で護れる。むしろ、どんくさいジジィのほうが心配だし、それに」
「人間が相手なら、お前は戦えるだろう。だが今回は恐らくそうではない」
 そう言うとアルバは齧りかけの林檎を、キッチンカウンターの天板にドンッと置く。林檎は皿の上に置かれるでもなく、ラップで包まれるでもなく、そのままの状態で放置された。それからアルバはアストレアに一瞥をくれると、煙となって消えていく。
 マンハッタンにひとり残されたアストレアは、置き去りにされた林檎を見ながら悪態を吐いていた。
「……あーあ、こういうのが嫌いなんだよなぁ。このガサツさ、変なところでだけ北米人って感じを出さないでよ。きっしょ」
 細めた目で林檎を睨み付け、アルバの雑な行為をブツブツと詰るアストレアだが、実際のところ彼女が不満に思っていたのは彼の残した林檎でも、彼のガサツさでもなかった。置いていかれたこと、それに不満を覚えていたのだ。
 ――そうしてアストレアがひとりマンハッタンにて、ムスッとぶすくれていたときのこと。ボストンのダウンタウンがあったであろう場所に座標を合わせ、そこに降り立ったアルバは、その場で目にした光景に度肝を抜かされていた。
 アルバが煙のごとくスルッと現れ出たとき、彼が真っ先に目にしたのはいつか見たのと全く同じ光景だった。
 最愛の妻に先立たれた失意の中、子供たちにのみ目を向けることでどうにか毎日を乗り越えていた時代。その当時に目にしていた光景の、その背景にあった街並みが今、彼の前に存在している。半世紀以上前に消えたはずの光景が、半世紀以上前と同じ状態で目の前に顕現していたのだ。
 街並みを行き交う人々の装いは、半世紀以上前に流行ったスタイルのまま。オーバーサイズのジャケットを崩して着る若者や、お揃いのダサいスタジャンを着て並んで歩くカップルの姿、とんちきな特大肩パッドを入れたデニムジャケットを恥ずかしげもなく着ているファッションリーダー気取りの人間など。少しの懐かしさがこみあげてくる光景が、しかし今、彼の目の前に現実として存在していたのだ。
 そんな懐かしい光景から飛び出してきた人々の時間は、その懐かしい時代で動きを長く止めていて、つい最近その動きを再開したばかりであるようだ。ちょうどアルバの横を今通り過ぎていったホワイトカラー風の男女は、大型の紙コップに入ったホットコーヒーを片手にこのような会話を交わしていたところだった。
「いやぁ。それにしてもさぁ、昨日の騒ぎは何だったんだろうね? この世の終わりかって思うぐらいサイレンが鳴っていたけれど。でも、別に何もなかったし。あれは本当に何だったんだろう……」
「ねぇー。まあ、何もなかったなら、それでいいんじゃない?」
 この世の終わりかと思わせるほどのサイレン。それはボストンが光に呑まれる直前までけたたましく鳴り続けていた避難警報のことだろう。ペルモンド・バルロッツィが市長に要請し、発出させたその警報は、しかし半世紀以上も昔に鳴りやんだはずのものである。だが、今まさにアルバの横を通り過ぎていった者たちは昨日のことのように話していた。
 その様子から、アルバは察する。この土地と共に蘇った過日の者たちは何も知らないのだと。後世では『アルテミス』や『ローグの手』と呼ばれている悲劇のことを彼らは知らず、そのような悲劇を経験してもいないのだ。
 だが、彼には分からない。なぜこのような現象が今、このときに起こっているのかが。――そうして彼がひとり顔を俯かせ、その額に手を当てたときだ。少しの苛立ち、もとい安心感さえ覚える親しみのある金切り声、即ちマダム・モーガンの怒声が彼の耳に届く。
「アルバ! 急にこんな場所へ呼び出して、一体どういうつもりなのよ。こっちはもう大変だっていうタイミングなのに――」
 格下であるアルバが己の立場も弁えず、更地のボストンに来いとマダム・モーガンを急に呼びつけた。そういう前提で彼女は、開口一番にそう言い放ったのだろう。だが彼女の言葉は途中で終わる。徐々にトーンダウンしていった彼女の声から、アルバは彼女もまた同じ景色を見て驚愕したのだということを理解した。
 そうして彼が再び顔を上げ、目を開いたとき。彼の真横には唖然とした表情で佇むマダム・モーガンの姿があった。ティアドロップ型のサングラスにより彼女の目元は覆い隠されていたが、けれども口や眉といった動きから彼女がいかに驚愕しているかの度合いが滲み漏れている。そしてマダム・モーガンは小声でアルバに問うてきた。「……待って。ここ、ボストンよね? ここは更地だったはず。何が起きたの?」
「私も先ほどギルから報せを受け、急遽跳んできたところだ。私にも分からない」
 そう答えてからアルバが足元に居る海鳥の影ギルに視線を移せば、マダム・モーガンの目もそこに向く。すると二人の人ならざる光り輝く目で見つめられた海鳥の影ギルは、僅かな緊張からその輪郭をふるふると揺るがせた。
 その後、海鳥の影ギルはその丸い頭を正面へと向ける。それから翼のように見える部位を動かすと、海鳥の影ギルは風切り羽の先でとある場所を指し示した。それから海鳥の影ギルは言う。
『二人とも。あの青色の旗が掲げられた物陰、見えますか? 明らかに時代錯誤な服飾に身を包んだ骸骨が這って動いています』
 海鳥の影ギルが指し示したのは、金融系のテナントが複数入居しているオフィスビルの物陰。隣り合う建物との狭間に掛けられていた青い旗の下では、海鳥の影ギルの言葉の通り、風になびく旗の影を浴びて動く骸骨の姿があった。
 ダウンタウンを行き交う人々が、アルバにとって懐かしいと感じられる昔風な都会の装いをしていた一方。地面を這って動く薄気味悪い死者は、気が遠くなるほど昔の男性装に身を包んでいた。それこそ、茶会事件が起きた時代の装いである。そしてアルバは小声でぼそりと呟いた。
「海水で紅茶を煮出そうとした時代の死者か? ……信じられん」
 その骸骨は間違いなく白骨化した遺体で、皮も無ければ筋肉も臓腑もなく、時間経過による風化および体液と土埃で薄汚れている汚らしいボロボロの衣類を辛うじて身に纏っているだけ。だが関節部は謎の力により接合されているらしく、完璧に漂白されている骨格が崩壊する様子は見られない。その骸骨は骨をギシギシと軋ませながら、軍人さながらの匍匐前進で歩を進めている。
 自身も生ける屍である身といえ、硬直の手前までは行っても腐敗というステージには至っていないアルバは、その骸骨を細めた目で忌避するように観察していた。――すると、彼の横に立つマダム・モーガンはより強い嫌悪感を滲ませた呻き声を洩らす。
「うわぁ、なに、あれ。今まさに地中から腐った手が出てきたんだけど……」
 彼女が見ていたのは、ダウンタウンの大通りの脇に並んでいる街路樹の根本。レンガやアスファルトで舗装された道の中で唯一、地面が露出している場所である。
 彼女の視線が向いている先をアルバも見たが、彼も直後、彼女と同様の反応を示した。彼は眉を顰めたあと、顔を逸らして目を閉じる。街路樹の根本から突き出るように出てきたもの、つまり腐敗した肉を纏った人間の右手を見つけてしまい、少しの吐き気を覚えたのだ。
 どろどろと融け落ちる黒い肉片と共に白いウジ虫をびちゃびちゃと撒き散らしながら、地中から伸び出て、何かを探るようにガサガサと動く人間の手。一度そのようなものを見てしまえば、目を閉じようが脳裏に焼き付いてしまう。ずば抜けた記憶能力の持ち主なら、なおさらに。
 ただの血肉や死体とはワケが違う。腐敗していながらも意思を持っているかのように動く死体に、嫌悪もとい恐れに似た感情を覚えたアルバが溜息を零したときだ。気を抜いていた彼の腕をマダム・モーガンが掴み、そして彼を移動させた。彼女はアーサーを彼女自身の背面に押し動かしたのである。
 何事かとアーサーが目を開けた瞬間、しかし彼は彼女の意図を察し、互いの背中をぴっちりと合わせた。直後マダム・モーガンは素早く拳銃を構えると、威嚇するようにキンと張りつめた声で言う。
「それ以上、私たちに近付かないで。でないと撃つわよ」
 彼ら二人はいつの間にか囲い込まれていたのだ。ボストンという街と共に復活した、過日から蘇りし死者たちの軍勢に。
 死者の軍勢の様子は様々だ。昔懐かしい装いをした綺麗な姿の若者や現役世代、そして老人の姿があれば、独立戦争時代の軍人のような装いをした骸骨も居て、魔女狩りの被害者のような骸骨もいる。黄金時代と呼ばれる時代区分、第三次世界大戦前の世界で定番だったという理解不能な奇抜すぎる衣装に身を包んだ骸骨もチラホラと混じっていた。また、その中には現在のスタンダード風なファッションを着ている腐乱死体も見受けられる――恐らくそれは、ここ半年の間にアルバがボストンに遺棄したごろつきどもの死体のなれの果てなのだろう。
 腐乱死体が放つ特大の悪臭に、アルバもマダム・モーガンも顔をしかめる。そして彼らの人ならざる目が、お互いの意図を確かめ合うように交錯した。それから二人は首を小さく縦に振り、頷き合う。その後、二人の視線はそれぞれの持ち場に戻っていった。
 マダム・モーガンは消音器付きの拳銃を構えると、その引き金に指を掛ける。そして彼女は、最も近い場所にいる死者を睨み付けて銃口を向けた。
 アルバは足もとにいる海鳥の影ギルに視線をやると、羽を出せと要求する。海鳥の影ギルは羽繕いをするように体を嘴でつつき、羽根を数本散らせた。そうして抜け落ちた羽根はレイピアのかたちを取り、宙に浮上する。浮かび上がった剣の切っ先は、死者の群れに狙いを定めていた。
「死んでいる、しかし、生きている。お前たちは何者だ。我々と同じではないのか?」
 マダム・モーガンの正面に立つひとりの死体が、抑揚のない単調な声でそう問いかけてきた。そして死体はマダム・モーガンにじりじりと近付いてくる。すると、歩を進めながら死体はブツブツと奇妙なことを言い出した。
「異質だ。お前たちは我々と異なっている。我々と同じ神の下にありながら、そうでない。なぜだ?」
 我々という複数形の一人称にアルバは眉をひそめる一方で、表情をより険しくさせるマダム・モーガンは近付いてきた死体の脚に向けて発砲した。
 静かながらも耳に痛い音が鳴り、そして放たれた弾丸は死体の右脚の膝蓋靭帯のあたりを撃ち抜いたのだが。正確に撃ち抜かれたはずの一発は命中こそすれ、大したダメージを与えられなかったようだ。被弾した死体は一瞬ふらついただけ。すぐに体勢を立て直し、起立した姿勢を維持する。痛がる素振りも無ければ、出血さえもない。
「クソっ。弾丸は通用しないってわけか。――アルバ、私にも剣を頂戴!!」
 精密射撃が効かないのであれば、直接的で広範囲に及ぶ攻撃で打ち払うしかない。そう判断したマダム・モーガンはアルバに対して、海鳥の影ギルの羽根をひとつ寄越せと申し立てる。が、次の瞬間、彼女の目の前に現れたのは海鳥の影ギルの羽根、つまり漆黒のレイピアではなかった。
 マダム・モーガンが拳銃を腰部ベルトに取り付けたガンホルダーに素早く収納したのとほぼ同時に、彼女の目の前に手ごろな大きさの武器がポンッと虚空から出現する。それは腕一本分ほどのリーチがある出縁型の戦棍。ぶん回してかっ飛ばすのに最適な、程よい重さと長さをしている。海鳥の影ギルの羽根よりも、この状況に適していた武器だ。
 マダム・モーガンは目の前にプカプカと浮いていた戦棍の柄を握ると、振り回す予備動作に入った。そして彼女は正面にわらわらと集い始めた死者の群れを睨みながら、背後に立つアルバを褒めるのだった。「あなたって本当に優秀な武器庫。どっからこんなものを手に入れてるんだか」
「武器は使われてこそ価値がある。邸宅のディスプレイにしておくのは勿体無い」
 暗に、どこかの金持ちの屋敷から盗んできたということを示唆するアルバの発言。それまで、アルバが来訪した先で盗みを常習的に働いていたことなど知りもしなかったマダム・モーガンは眉間に皴を寄せたが、しかし今は彼の悪行を糾弾する時間ではない。
 足を肩幅よりも広く開けて立つマダム・モーガンは、構えた戦棍を全力で振り回す。彼女に近付くべく手を伸ばし、歩を進めていた死者の数名が側頭部に打撃を食らい、次々と横倒れしていった。そして彼女は二撃目を放つべく構え直す。それから彼女はアルバに指示を出した。
「なるべく多く、こいつらを追い払って隙を作って! こんなに群がられたら、瞬間移動で脱出するのに必要な集中力すら確保できない!」
 マダム・モーガンは金切り声で叫びながら二撃目の打撃を繰り出し、次に三撃目も放つ。その背後に悠々と立つアルバは、宙に浮かぶ海鳥の影ギルの羽根たちを操作し、群がり始めた死者の群れに牽制代わりの軽い切り傷を与え続けていた。だが、これは死者の群れの歩幅を縮める程度の効果しか与えられておらず、追い払うまでには至っていない。かといってレイピアで刺すという行為が動く死体にどこまでの損害を与えられるのかも分からない。海鳥の影ギルの羽根も無限ではない以上、損失は避けたかった。羽根を失いかねない攻撃は控えたい。
 しかし、このままではキリがないのも事実だ。そして羽根の操作に気をとられている間は、脱出もできない。
 いっそ、街ごと燃やしてしまうか? 手榴弾でも投げるか、またはガソリンを……――しかしそれでは自分たちまで巻き込まれる。それなら、イチかバチかの可能性に賭けるべきか。キミアという悪神に祈りを捧げて、神風の到来を待つしかないのだろうか。
「……風か」
 打撃で殴り倒すことができるなら、風という質量も通用する。ならば暴風で吹き飛ばせばいい。
 そしてキミアの力の根源は、イメージ。願いを正確に思い描けるならば、それを実体として引き摺り下ろせるのがキミアの特性であり、アバロセレンの特質だ。
 ならば。――活路を見出したアルバは海鳥の影ギルの羽根を手元に引き寄せると、そのうちの一本を右手に握り、そして刃の先を真っ直ぐ正面に向けた。その途端、アルバの正面に集っていた死者の軍勢は歩みを早める。雪崩れ込むような勢いで突っ込んできたのだ。
 ざっと見積もって六〇人ほど。群れる足音が地響きとなり、アルバ目掛けて向かってくる。その轟音に、マダム・モーガンが息を呑む。鈍器を振り回しながら背後を見たマダム・モーガンが呼吸を止めた瞬間、彼女は強烈な横風にあおられた。
 突然、前触れもなくビュウッと吹き付けた強風。マダム・モーガンは振り回していた鈍器の先を地面に突き立てると、それを杖の代わりにして体を支え、吹き飛ばされぬようにと持ち堪える。だが支えるものを持っていなかった多くの死者は風にあおられるまま、よろめいて、脚がもつれ、タンブルウィードのように絡まりながらゴロゴロと転がり、吹き飛ばされていった。
 そうして死者の群れがあらかた転がって飛ばされていったあと、役目を終えたかのように吹き荒れていた風は収まる。偶然にしてはできすぎている強風に、驚くマダム・モーガンは即座に振り返り、アルバを凝視した。
「あなた……いつ、こんな芸当を身に着けたの?」
 アルバの仕業だと彼女が判断した理由。それは彼の鼻からポタポタと滴っている蒼白い血にある。異常な事態が発生した後に起きたアルバの状態の変化、これらに関連があるはずだと彼女は見当を付けたわけだ。
 マダム・モーガンの問いかけに、肩で息をするアルバは苦笑いを浮かべる。それから彼が何かを言おうと口を開いたのだが、しかし声が出てくることはなかった。
 代わりに彼の目が見開かれ、マダム・モーガンの肩を越えた向こう側にある場所に釘付けとなる――マダム・モーガンの背後から声が聞こえてきた。
「暗愚の闇を切り捨てる一閃、薄明の覇者。アルバ、あなたを待っていた」
 顔には恍惚が宿っているが、そう語る目は虚ろ。そして生気のない声で薄気味悪い言葉を嘯いていたのは、アルバにとっての恩人であり、マダム・モーガンの監視対象にかつて含まれていた人物の姿だった。
 毛先が耳に触れるほどの長さに切りそろえられた短めの髪と、軽い脱色によって淡くくすんだトーンになっている茶色の髪色。少し血色が悪く見える生得的な小麦色の肌。今の時代にも通用するような、洗練されたオーラを放つシンプルな服飾。華美すぎないほどに彩りが添えられた化粧の色相……。
 マダム・モーガンの背後に立っていたのは、ボストンと共に消えてしまったはずの人物。クロエ・サックウェル本人のように見えていた。だが、彼女が纏う雰囲気はまるで別人のよう。それこそ、なにか特異な生命体に寄生され、体を乗っ取られているかのような様子でさえあった。
「我々は一つ。我々は光の下に集う者。あなたもこちらに来て。ここはとても穏やかで――」
 そう言いながら、クロエ・サックウェルにそっくりなその人物は、よたよたと覚束ない不安定な足取りでマダム・モーガンとアルバの二人に近付いてくる。マダム・モーガンは体を翻すと、クロエ・サックウェルのほうに向き直り、鈍器を構え直して打撃の準備態勢に入った。
 マダム・モーガンは柄を握る手の力を強め、肩幅に開いた足で踏ん張りをきかせる。それから一際険しくさせた目でよたよた歩きの女を睨み付けると、牽制の言葉を吐こうとした。
 だが、マダム・モーガンが何かを言おうと口を開けた直後に、近付いてきていた女に異変が起こる。ぐらいついていた歩みがピタッと止まり、続けて数歩後退ったのだ。そして彼女の言動が変化する。血の気が通っていなかった声や表情に、人間らしい感情が戻ってきたのだ。
「……違う。そんなの駄目だ。あぁ、なんで私は、こんなものに呑まれたの……?!」
 恐怖に支配されて恐れ震えるような混乱のうねり。それは、余裕ぶった振る舞いが常套だった生前のクロエ・サックウェルという人物からは想像もできないような姿だったが、しかしそこに居たのはたしかにクロエ・サックウェルだった。
 鈍器の柄を握るマダム・モーガンの手から、少しだけ力が抜けていく。それと同時に、クロエ・サックウェルに近付こうとアルバが足を踏み出そうとした。――だが彼を制止するように、クロエ・サックウェルが悲鳴じみた叫び声を上げた。
「だめ! アーティー、あんたはここに来ちゃ駄目だ。元いた場所に帰れ!」
「帰る? どこにだ」
 アルバの口から、反射的に飛び出した言葉。それと同時に、彼の顔は苦虫を噛み潰したようなものに変わる。そして彼の言葉を聞いたクロエ・サックウェルは、その言葉の意味をすぐに理解できなかったのか、目を見開いたまま暫く固まっていた。
 だが、それも長くは続かない。気を持ち直したかのように彼女は首を左右にブンブン振ったあと、毅然とした目でアルバを見据える。力強い光が戻った目に薄っすらと涙を浮かべながら、クロエ・サックウェルは大声でアルバを突き放した。
「でも、あんたはこっちに来ちゃ駄目だ。帰れ、あんたの居るべきところに! ここは、何もない。ここの連中はみんな死んでる。ここは、生きてるやつが居ていい場所じゃない!」
「私とて死人だ。生きているわけでは――」
「うるさい、黙れ、バカ! そんなん知ってるよ、全部!! あんたが死んで生き返ったことも、闇の世界で活動してたってことも。あんたが不死身のバッツィを繰り返し何度もぶっ殺してたことも、そして彼にトドメを刺したことも。あんたがバカやって正真正銘のテロリストに堕ちやがったことも、全部。だからアストレアって子の元に帰れって言ってんだよ!! アルストグランって場所には、敵を作りすぎて帰れないんでしょ? アレックスって女とその関係者を怒らせたそうじゃない。だから逃亡先のマンハッタンに戻って猫でも愛でろって、そう言ってんだよ、このバカが!」
 ここに至るまでの道程。その全てを知っているかのようなクロエ・サックウェルの言葉に、アルバも、そしてマダム・モーガンも驚いていた。
 気迫に満ちた罵倒文句と、冷徹に並べられていく事実。それに押されるアルバは、黙りこくるように唇を固く結ぶ。だがクロエ・サックウェルは言葉を止めない。
 全てを知っていながらも、自業自得でここまで堕ちたバカな友人を見捨てることができない彼女は、アルバを冷徹に睨み付ける。その目に涙を溜めながら、彼女は最期の言葉を吐き捨てた。
「最期だから言う。私はキャロラインのことが大嫌いだった。あの女のこと、私は絶対に許さない。あんたは、もっとまともな人生を得られたはずだった。それなのにあの女は、あんたから何もかもを奪い取った挙句、あんたに最低な呪いをかけて死んだ。あの女を、私は絶対に許さない。キャロラインはバッツィよりも最低な人間だ!」
 クロエ・サックウェルの最期の言葉は、アルバにとっての最愛の亡き妻を口汚く罵倒するものだった。彼はそれにショックを受けると同時に、クロエ・サックウェルの意図も理解してしまい、居た堪れなさから目を伏せる。――直後、彼の腕をマダム・モーガンが乱暴に掴み、引いた。
「退却する、彼女のことは諦めなさい!」
 マダム・モーガンがそう言い、アルバの腕を引いた瞬間。アルバは別の声も聞く。とっとと失せろ、クソッたれ。アルバらに向けてそう言い放つクロエ・サックウェルの悲鳴じみた声が彼の耳にも届いた直後、彼の視界は暗転する。真っ暗闇の世界に突き落とされ、そして……――帰るべき場所に戻ってきていた。
 猫たちに餌を与え終えたところなのだろう。猫の餌が入った袋を両腕で抱きかかえていたアストレアの姿が、マダム・モーガンとアルバの目に映る。そしてアストレアも彼らの帰還に気付くと、猫の餌を手早く元あった戸棚の中に収納し、二人のもとに駆けてきた。
「ど、どうだった? その、ボストンの様子って」
 アストレアはそのように問いかけながら、まずアルバの様子を伺い、次にマダム・モーガンを見やる。すると妙に暗い顔をしていたアルバが、これだけを短く言った。
「――少し時間をくれ」
 そう言い終えると、アルバはその場を後にする。彼は書斎がある方向に向かっていった。その背中を見送りながら、マダム・モーガンはアストレアの問いに答えた。「この上なく最悪な状況よ。おそらく、私が遭遇してきた中でもトップクラスのトラブル」
「なんかヤバいことが起きたの?」
「ええ。ボストンの街が、あの日の姿のまま復活した。人間も、そう。だけどそこに居る人間は生きているようで、そうでない。何かに意識を蝕まれているような、奇怪なことを言っていたし。挙句、私たちに襲い掛かってきたのよ」
「えっ……?」
「私たちは一回死んでいる身だったから、連中を一瞬だけ誤魔化せたけれど。あの言動を見る限り、生者があの場所に足を踏み入れたら最悪なことが起こりそうね。生きたまま、連中に食いちぎられるかも。だからあなたはあの場所に連れていけないわ。何が起こるか分からないからね」
 町が復活した。それだけでも十分に驚くべき情報だが、それに続いた言葉をアストレアはすぐに理解することができなかった。そこに居る人間たちは生きているようで生きていないし、あの場所に生きている者が踏み込んだら最後どうなるかが分からないなど……――どういうことだ?
「とはいえ。そのうち、この情報を聞きつけた生者たちはボストンに足を踏み入れようとするでしょう。手始めに、スクープ欲しさに行動する恐れ知らずのジャーナリストたち。そして彼らが消息を絶ったとなれば、各国の行政府が動き出すはず。それを、今は見守るしかないのかも。自ら命を捨てようとする愚か者がどのような末路を辿ることになるのか、その情報を得たうえで状況を見極めるしかない。それまでは、あなたは絶対にあの地に立ち入ってはいけない」
 戸惑い顔のアストレアに、表情を険しくさせているマダム・モーガンは再度アストレアに忠告する。今はまだあの場所にアストレアは足を踏み入れてはいけない、と。
 詳しいことはよく分からない。だが事態の深刻さを把握したアストレアは、無言で頷く。そして彼女はこう思った。数日前、更地のボストンに初めて降り立ったときに覚えた嫌な予感。あれは当たっていたのだな、と。
 ワタリガラスの姿を騙る神が意気揚々と語っていた言葉。アバロセレンが独立した意思を獲得したという、あの話。それは本当だったのだろう。そしてアバロセレンの意思が、ボストンを復活させたのだ。そこの住民たちの尊厳を踏み躙るというかたちでの復活を。
 ――アルバが暗い顔をしていた理由。その一端をアストレアは理解する。彼にとっての嫌な時代の影も、良き日の記憶も眠っている地が、最悪のかたちで現在に蘇ってきたのだ。この状況で気丈に振舞える者がいたとしたら、そいつには心などない。
「……」
 そうして考え込むアストレアが視線を自身の足許に落としていたとき。アストレアの気を引くために、彼女の肩をマダム・モーガンが指先でトントンと叩く。それからマダム・モーガンは屈みこんでアストレアの顔の高さに自身の目線を合わせると、小声でアストレアの耳に囁きかけた。
「それから、アストレア。……いいわね?」
 たった一言の短い命令。だが重く沈んだ声色からアストレアはマダム・モーガンの意図を察する。アルバから目を離すな、見張っていろと、マダム・モーガンは言いたいのだろう。
「イエス、マム」
 アストレアも短く、それだけを返す。その声には『三流なりにもプロフェッショナル』の自覚が宿っていた。それを確認したマダム・モーガンはすくっと立ち上がると、身を翻す。消えていったアルバの後を小走りで追いかけた。
「アルバ、ちょっと待ちなさい。話がある」
 ランチのカリカリご飯を一心不乱に食べる猫たちの列を避けながら、たらたらと歩くアルバに追いつくのは容易かった。彼が猫たちの傍を通り過ぎて、少し離れたところに達したところでマダム・モーガンは一気に距離を詰める。彼女は後ろから彼の肩に掴みかかると、刺々しい声色で厳しく追及した。
「正直に言いなさい。あなた、キャロラインから何を言われたの?」
 それは彼らがボストンを立ち去る直前に、クロエ・サックウェルが発した言葉から端を発する疑問だった。彼女は何らかの意図をもってしてアルバの亡き妻キャロラインを罵倒し、非難していたが。その意図をマダム・モーガンは掴めていなかったからだ。
 アルバはマダム・モーガンの促しに従って立ち止まるも、しかし振り返りはしない。それから彼はマダム・モーガンの顔を見ることなく、小声で呟くように真相を教えた。
「キャロラインは、私がこうなることを全て予見していた。私が死んだあとに濡れ衣を被せられることも、そして蘇ることも。蘇ったあとに、薄暗闇の世界に縛り付けられることも。今のように、世界の全てを敵に回すことも。そのうえで、彼女はこう言った」
 たとえあなたが全てを敵に回したとしても、私だけはあなたの側に立つ。
 あなたは、いつだって常軌を逸しているけど。
 どこでだってお構いなく正常とは言い難いような振る舞いをするけど。
 でも、それはあなたが誰よりも正気でいるからこそのこと。
 だから、あなたの決断は全て正しい。
 そんなあなたが――
「全てを打ち滅ぼす死神になることを心の底から望むのなら、あなたはそうするべきだ。全てを葬り去って、新たな世界を築きなさい。あなたにはこの世界に復讐する権利がある。――彼女は、私にそう言った。彼女が死ぬ、その前日の晩に」
「それが、彼女の言っていた『キャロラインの呪い』なのね。なら、今までのそれはキャロラインの望みで、あなたの意思ではないってこと?」
 状況を変えうるかもしれない一縷の望みを見つけた。マダム・モーガンはそう思いかけていた。だが、未だ振り返らぬアルバは彼女の言葉を小さく鼻で笑うのみ。そして彼は言う。
「彼女の墓標に私は誓った。この誓いを、私は遂げなければならない。たとえ誰に何を言われようとも、私は……」
「立ち止まるなら、今よ」
「いいや、私は止まらない。止まるべきじゃない」
 それは、明瞭に何もかもを覚えていたからこそ、記憶の奥底に封じたままにしておきたかった記憶。翌日に起こる災いも、遠い未来に起こるであろう災いも、そのすべてを知り得ていたからこそ震えていた彼女の声の調子も、止まらない彼女の涙も、咽び泣いて縋りついてきた彼女の冷たい手の感触も。その言葉の意味を理解できず、ただ当惑しながら彼女を宥め(すか)すことしかできなかった当時の己自身の心境も。強烈な心象として臓腑に刻まれているからこそ、可能な限り目を逸らし続けていた一夜の記憶だ。
 その預言の通りにならぬよう努めていた時代も、彼にはあった。だが、心のどこかには常にキャロラインの言葉が潜んでいたのだろう。そして彼は、彼女が予言した通りの道をこうして今も進んでいる。
 それを呪いと譬えたクロエ・サックウェルの言葉は、恐らく的を射ている。だが、それは呪いでもあると同時に、ただの後押しでしかない。無明常夜すら越えて、至るべきでない場所に足を踏み入れかけた者の背をポンッと軽く押しただけの言葉でしかなく、つまるところ全ては彼自身の選択なのだ。
「残念よ。妄執の監獄にあなたが堕ちるだなんて。――本当にあなたは、それが彼女の望みだと思っているの?」
 マダム・モーガンが発するのは、悪の道に堕ちかけた者を引き留めるために用意された月並みな言葉。死者はそれを望んでいないだろうと諭して再考を促す、ありきたりな文句である。
 ありきたりな言葉は、瓦解していながらも新たな形で堂々と直立している彼の心には嵌まらない。
「ああ、そうだ。そしてそれは、私の願望でもある」
 あらゆる情緒を切り捨てた冷徹な声でそう返事をすると共に、アルバがその身を翻して振り返ったとき。そこにマダム・モーガンの姿はなく、代わりに丸々とした赤い林檎を手に持つアストレアが立っていた。
「そして僕の望みでもある。僕はジジィと一緒に行くとこまで行ってみたい。見てみたいのさ、あんたが創りたい世界ってやつを。クソったれ揃いの人間どもなんてさっさと滅ぼして、次に行こうよ」
 ニヤリと笑いながら、アストレアは言う。それから彼女はそのままの林檎にかぶりついてみるのだが、一口を口に含んですぐに渋い顔をした。それからアストレアは細めた目でアルバを見ると、彼が買ってきた林檎に対して抱いた正直な感想を述べた。
「うえっ、酸っぱ。よくこんなのを生で食えるね」
 どこまでも人の調子を狂わせる、アストレアという道化。その役回りは、彼女の顔の元の持ち主と同じようで、しかし異なっている。
 純粋な邪悪をそのまま発露し、意気揚々と得意がるアストレアの姿は子供じみているようで、それだけではない底知れ無さを関わる者に覚えさせるのだ。
「……私の味覚がイカれてることぐらい、お前も知ってるだろうに」
 保護されたばかりの頃に、彼女の背中にあった痣。その形が天秤座のシンボルマークにそっくりだったことから、アレクサンダー・コルトが『アストレア』と名付けたのだと、アルバはアイリーン・フィールドから聞かされている。
 そしてこのとき、アルバは初めてアレクサンダー・コルトに感心し、感謝もした。
「なら、その林檎はアップルパイに変えてやる。キッチンにでも置いておけ」
 星界に浮かぶ天秤の持ち主、星の如く輝く乙女アストライア。堕落した人類に愛想を尽かし、地上を去った正義の女神に由来する名前こそ彼女に相応しい。そのようにアルバには思えたのだ。


+ + +



 時は四二四六年、一月某日。場所はマダム・モーガンが放棄を決断した、特務機関WACEの旧本部。人間の足では踏み入ることができないが、人間を越えた者であれば踏み入ることができる領域となったその場所に、サーという嬉しくない称号を得たアーサーは立ち入っていた。
「……」
 ここはアイリーンや大男ケイが立ち入ることがない場所。それ故、静かで邪魔が入ることもない。ひとりで考え事をしたいときに、アーサーはここに来ることがあった。が、近頃はそれ以外の理由でここに出入りしている。それも頻繁に。
 その目的は、ここに収蔵されている資料。マダム・モーガンが各地から収集し、医務官ジャスパー・ルウェリンが分類した膨大な資料の山。その中でも、猟犬に関係した情報たちに狙いを絞って、目を通していた。
 空いている時間を見つけてはこうしてここに舞い戻り、目を覆いたくなるような映像と写真、文書と睨み合いをする。それが、その頃のアーサーの日課になっていた。
 この日も、同様の日課を行っていただけ。眉間にしわを寄せて顔をしかめながら、年代物のモニターを長時間睨み付けていたアーサーは、一時間ぶりに顔を上げる。そのまま座っている椅子の背もたれに背中を預け、天井を仰ぎ見る彼は、瞼を閉ざした。さすがに目が疲れてきたなと、そう感じたのだ。
 目の奥は小石が押し付けられたかのようにズーンと重くなり、蟀谷は拳で殴られた打撲痕のようにジンジンと痛む――なかなかの度合いにまで進行した眼精疲労が、そろそろ休憩を挿めと訴えてきたのだ。
「……はぁーっ……」
 心労よりも先に、蓄積された肉体の疲労が彼に待ったを掛ける。実に自分らしいと呆れるアーサーは、目を開けると共に小さく笑った。
「……私も成長がないな。はぁ……」
 マダム・モーガンの北米出向、事実上の更迭が決定してから、四ヶ月。アーサーはマダム・モーガンからみっちりとレクチャーを受けてきた。裏側から見る各国の情勢や政争分布、犯罪組織の勢力図、首根を掴むべき要人のリストと弱み一覧から、効果的な拷問と尋問の仕方や、昏神キミアの眷属に与えられる能力の使いこなし方、猟犬の仕留め方や良心の押し込め方まで。短期間のうちにあらゆることを仕込まれたことだろう。実戦を経験させられたこともある。それもあって最近は幾分か、サー・アーサーという名に相応しいだけの振る舞いはできるようになった。
 とはいえ。幸か不幸か、アーサーにはアドバンテージがある。憎き父親アーサー・エルトルの背を見て育ったという経験、それが皮肉にも今に活きていた。感じの悪い、上流階級育ちの白人。そのような演技を、アーサーは自然に行える。物悲しくもあるが、それこそがマダム・モーガンが『アーサーこそ適任』だと太鼓判を押した一番の理由でもあった。
「……本当に、成長がない……」
 子供の頃、あるいは青年であった時代にパーティーの会場で観た父親の姿を真似して、その父親の支援者たちの姿を模倣して、高貴に、且つ心証悪く、薄気味悪く微笑んで、軽くあしらうように鼻で笑って……――そうして『何か』を削っていく。
 削られるのは、名誉か、評判か、人望か。いや、アーサー自身の心そのものなのだろう。現に今、彼の心は何を観ても動かない。どんな惨たらしい仕打ちを見ても、いかなる悲鳴や涙を見ても、何も感情らしいものが湧いてこないのだ。
 つい先ほどまでアーサーが見ていたものも、十分に悲惨な瞬間を捉えた動画だった。だが、彼はこの通り。何も感じていない。
「……」
 おぼろげな天井の光。淡く暖かい色合いの光を見上げながら、アーサーが瞬きをする。再び目を開けたとき、彼の視界にマダム・モーガンの顔が割り込んできた。
「あなた、ますます目が死んできたわね。無理をしてまで、こんなものは見なくてもいいのに」
 マダム・モーガンはそう言い終えると、他にも何かを言いたげに唇を歪めつつ、暗い顔をしたアーサーを見下ろす。それから彼女はおんぼろのモニターを見やって、溜息を零した。
 すると、マダム・モーガンの溜息にアーサーはこのような答えを返した。「私はこれを見なければならない。そして、知っておかねばならない。そんな気がしているからだ」
「根詰めて倒れられちゃあ困るのよ。程々にしなさい」
「心得ておく」
「それに、ここにあるものは見ていて気持ちのいい映像ではないでしょう。闇に引っ張られないよう線引きはしておきなさいよ」
「その点は心配に及ばない。ここにあるのは、私にとって良くも悪くも馴染みがあるものばかりだ。快感も無ければ不快感も無い。それに、正直なことを言うと謎解きの答え合わせをしているような気分がしている」
 アーサーはそう言いながら、再びモニター画面に視線を戻す。映像は、錯乱して暴れた猟犬が射殺された瞬間で止められていた。元老院の一柱、通称エズラ・ホフマンと呼ばれている存在と思しき男の手によって側頭部を撃ち抜かれ、猟犬が床に倒れ込んだ瞬間で映像は止められている。
 モニター画面に映る静止したワンシーン――真っ白な床に飛び散る猟犬の血と、怯えた表情のまま死んだ猟犬の顔――を見ながら、アーサーは思い出す。映像で見たものと、映像と同じように錯乱して暴れたのちに気絶した『ペルモンド・バルロッツィ』の若き日の姿。その二つの対比を。
「例えば、この映像。私はこの映像の中にいるヤツと、全く同じ言動をするヤツの姿を見たことがある。声の調子も、怯えた表情も、取り乱して暴れる姿も、寸部たがわず同じだった」
 映像に記されていたタイムコードは、四二〇四年四月十八日午後一〇時三十九分。それはアーサーがまだ三歳だった年の春を示していた。だが、その映像にあった猟犬の姿は十五歳前後に見えている。生前のアーサーは、ペルモンド・バルロッツィこと猟犬を『一つ年下』だと認識していたが、それは正しくないことが明らかになっていた――まあ、それはさして重要な事柄ではない。
 映像は、静かな暗闇から始まる。だが闇は突然、強烈な白い光によって追いやられた。太陽光よりも凶悪に照り付けるシーリングライトの冷たい光によって、その空間の全容が明らかになる。そこは、まるで何もない部屋だった。
 くすんだ白い壁、ツルツルの白い床、シングルベッドほどの大きさがある白いクッション、仕切りも覆いもなく剥き出しになっている便器と手洗い場。部屋にあるものは、それだけ。留置場よりも人権意識のない殺風景な監禁部屋の隅で、猟犬は膝を丸めてうずくまりながら、束の間の睡眠をとっているようだった。
 だがその睡眠は攻撃的な照明光によって妨害される。光に気付いた猟犬がビクッと飛び起きた直後、その監禁部屋には大音量の音楽が響き渡り、猟犬は手で耳を塞いだ。そして猟犬は気が狂ったように叫び続け、みっともなく泣いて、繰り返し何度も頭を壁に打ち付ける。呂律の回らぬ舌で、なんら言葉として成立していない叫喚を上げながら、額を壁に打ち付け、後頭部を床に打ち付けて、のたうち回って暴れて叫んで……。
「……何もかもが、同じだったんだ」
 流れている音楽そのものは、なんてことはないクラシック音楽だ。とても穏やかな曲調であり、気が狂いそうな要素はどこにも無い。アイネクライネナハトムジーク、時代を越えて愛される優美な夜想曲であって、アグレッシヴな雑音ばかりのヘヴィメタルでもなければ、聴く者を混乱させるようなエクスペリメンタル・ロックでもない。だが、たとえ曲そのものが優美であろうとも、部屋の四方八方から流される音量が桁違いに大きければ、それは聴覚に振るわれる暴力にしかならない。
 音の暴力と、光の暴力。猟犬はこれら避けようがない暴力に、日常的に晒されていたのだ。よだれさえも垂れ流して叫び続けるその姿に理性はなく、言葉を紡ぐ思考力さえ奪われるほどの境地に追い詰められているようにも見える。きっと、自我すらも見失っているのだろう。
 光に怯える姿も、音に脅かされている姿も。全てのリアクションは反射的なものでしかなく、そこには感情と呼ぶに値するものすら存在し得ない。泣き叫ぶという反応は、前頭前野というブレーキを喪失している扁桃体が、際限なく与えられる刺激に過剰反応を示して暴走しているがために起こっているだけのこと。そこに、本当の意味での怯えや恐怖という情動は無い。
 四つ足の獣でさえ持っている“情動”を持ち得ないその猟犬の姿は、虫や魚と大差ないと言えるのかもしれない。彼をその場所に収監していた者たちも、彼のことをそう思っていたのだろう。
「……」
 映像の中で猟犬は、泣き叫んでのたうち回って、ひとり騒ぎ続けていた。そうして三分ほどの時間が経過した頃、痺れを切らした監視者エズラ・ホフマンが、殺風景な部屋に入室してくる。苛立ちを隠さぬ様子で拳銃と共に入室したエズラ・ホフマンを見るなり、猟犬は途端に血相を変え、静かになる。猟犬は怯えた目でエズラ・ホフマンを見上げながら、無言で涙を流していた。絶対に勝ち目のない相手を見て、猟犬はこれから自分の身に起こる出来事を悟ったのだろう。そして、猟犬はあっさりと殺された。エズラ・ホフマンは猟犬の左耳の上に銃口を押し当て、直後、表情一つ変えずに拳銃の引き金を引き、猟犬を射殺。猟犬も、抵抗することなく大人しく殺された。
 その後、エズラ・ホフマンはすぐにその場を立ち去る。後に残されたのは、白い背景の中に広がる血だまりと、そこに倒れ込んでいる猟犬の姿だけ。
「私がペルモンドの家に居候し始めたばかりの頃の話だ。あるとき、デリックが大掛かりな音響設備をペルモンドの家に運び込んできた。嫌がるペルモンドの反応を無視して、デリックは半ば強引にリビングルームにスピーカーを設置して。そしてあいつは、大音量でヘヴィメタルを流した。直後、ペルモンドはパニックを起こし、ウォークインクローゼットに逃げていった。私がその後を追い駆けてクローゼットに向かえば、やつは部屋の隅に座り込み、ハンガーラックに掛けられた大量の服の裏側に隠れて、泣き喚いていた。止めてくれと叫びながら、頭を繰り返し何度も壁に打ち付けて……やがて唐突に気を失った。頭を銃撃されたかのように、体を弓なりに歪めながら床に倒れ込んで、それきりその日は目覚めなかった。怯えたような表情で眠りこくるペルモンドの顔を、よく覚えている」
「……」
「当時の私には、ペルモンドがパニックを起こした理由が全く理解できなかった。だが、今なら分かる。大きな音は運悪く、あいつの記憶に眠る地雷を踏み抜いたわけだ。煌々と照り付けて睡眠を許さぬシーリングライトと、轟音のような音楽が絶え間なく流れ続ける拷問によって心身が破壊されたときの記憶を、うっかり掘り起こしたということなのだろう。――だからあいつは、全ての音楽を嫌っていた。音楽にポジティヴな記憶が紐づけられていないのだから、仕方もないことだな」
「そうでもないわよ。彼、私が弾くハーディー・ガーディーの演奏を穏やかに聴いてくれるし」
「あなたが傍に居るときは、危険な目に遭うことがないと知っている。それだけのことでしかない。あなたの演奏を録音した音源をスピーカーで流して聞かせてやれば、あいつは発狂するはずだ」
「はぁ~。――たしかに。ええ、そうね。そうなりそうな気がするわ」
 その肉体に刻まれたあらゆる傷の記憶に、言動さえも否応なしに支配される。猟犬のその姿は憐れむべきものであると同時に、アーサーの目には滑稽であるようにも映っていた。そして、滑稽であるという今の感想は、あの日にアーサーが抱かなかったものでもある。
 若い時分であれば、アーサーは怒っていたことだろう。滑稽だと思うだなんて人間としてどうかしている、といった風に正義感を翳して激怒したはずだ。だが、彼は変わった。
「少しでも元老院に手向かえば、あのような拷問を長時間に渡って受けることになる。しかし元老院に従って手を汚せば、人々から憎まれ、あなたに失望される。だが大人しく息を潜めていたとしても、元老院によって傷付けられるだけ。実験という名のもとに、得体の知れない薬剤を投与され、拘禁され、ありとあらゆる死に方を経験する。そして時には性的な接待をするよう強要されたり、異常者に捧げられて嬲り殺しにされたりもする。元老院に従おうが歯向かおうが、救いは何処にもない。――こんな経験を積み重ねて、正気でいられる方がおかしい。あの映像の中のあいつのように、泣き喚いてのたうち回って暴れている姿のほうが正常な姿であるように見える」
「……」
「だが今のあいつは正気で冷静だ。全てが普通で人並みであるとは言い難いが、しかし言動は世間で普通と定義されている姿に近付いている。今のペルモンドの姿が、私にはまるで信じられない。泣き叫んでは過呼吸を起こし、高所から飛び降り、首を吊り、入水を繰り返していた、あのペルモンドと同一人物だとは到底思えなくてな……」
 アーサーはそう言い終えると肩を竦めて、マダム・モーガンを見やる。するとマダム・モーガンも肩を竦めた。それから彼女は眉をひそめて目を細めると、アーサーの顔をジトっと見つめる。それからマダム・モーガンは溜息を零したあと、アーサーに向かってこう言った。「あなたの精神って、呆れるほどタフで鈍麻。こんなものを見続けられるうえに、謎解きの答え合わせだと感じるだなんて、イカれてるわ」
「かもしれない。だが、あなたには遠く及ばない」
「私は、キリギリスを担いだ蟻たちの向かう先を追うだなんて愚かな行為はしないし、蟻の巣穴の構造を理解しようともしない。足を全てもがれたキリギリスがジタバタし続けるさまを眺め続けたりもしない。キリギリスの介錯をすることはあるけど、それぐらいよ。一線を引いている、それだけのこと。でもあなたは違う。のめり込み過ぎよ」
 なんとなく分かるようでイマイチ分からない譬えに、今度はアーサーが眉をひそめて目を細めた。するとマダム・モーガンは竦めていた肩を落とす。続けて彼女はアーサーの肩に手を置くと、ある簡単な命令を彼に与えた。
「今すぐ拠点に戻って、休みなさい。これは上官からの命令。頭を休めて、余計な考えは頭から追い払うこと。文字を読むのも、映像を観るのも、昔のことを思い出して余計なことを考えるのも、今日は禁止。朝食を済ませて、その後は音楽でも聴きながら寝なさい。いいわね?」
「まだ朝の――」
「まだ朝の六時半だっていうことも、あなたが早朝の三時からここにいることも、あなたがここ二週間ほど二時間睡眠を繰り返していることも知ってる。とにかく、今は寝なさい。寝る努力をしなさい。なぜならあなたは、体力が人並み以下の貧弱な死人だから。同じ死人だけれど、健康で体力もある私とは違うのよ。それを忘れないで」
 貧弱な死人。そうアーサーに突き付けてきたマダム・モーガンの目はどこまでも冷たい。己のキャパシティーを考えずに突っ走る愚か者の首根を引っ掴み、引き留めようとする上官の冷めた目をしている――鬼軍曹の睨みよりも背筋が凍える視線だ。そして鬼軍曹よりも恐ろしい目をしたマダム・モーガンは、より厳しい言葉を投げかけてくる。
「格好ばかりを気にするあなたが、ここ最近は鏡を見ていない。髪の毛もボサボサのパサパサ。肌もカサカサ。目の下は真っ黒。猫背になってるし、雰囲気もシャッキリしていない。――あなたは、あなたが思っている以上に精神をすり減らしているはずよ、それをあなた自身が自覚していないだけで」
「……」
「もうこんなものを見るのは止しなさい。ジャスパーがこれらと対峙できたのは、彼女が赤の他人だったからよ。彼女は、普通の人間として生きていた彼を知らないからこそ、そして彼とまともに言葉を交わしたこともないからこそ、単なる分析対象として彼を見ることができた。でもあなたは違う。これら情報はあなたにとって何の足しにもならないわ」
 マダム・モーガンはアーサーを睨むように見ながらそう言うと、右手の親指と中指の指先を擦り合わせてパチンと音を鳴らす。すると映像を映し出していたモニター画面が暗くなり、電源が落ちた。続けてマダム・モーガンは、アーサーに向けて「椅子から立て」と促すようなジェスチャーを送る。その促しに従い、アーサーは渋々立ち上がった。
 ――と、そのとき。立ち上がった瞬間、アーサーの体はふらりと揺れる。彼の視界が暗転し、脚から力が抜けそうになった。いわゆる立ち眩みである。幸い転倒こそせず、アーサーはすぐに持ち直したが。復帰した視界で最初に彼が捉えたのは、しかめっ面をしたマダム・モーガンの姿だった。そのマダム・モーガンは溜息を零したあと、アーサーに釘を刺す。「言わんこっちゃない。体は正直ね」
「……そのようだ」
 苦笑いを浮かべながら両手を上げ、アーサーはそう返事をした。決定的な瞬間を目撃された以上、それらしい言い訳を重ねる行為に意味はない。
 降参の意を表明するアーサーは、大人しくその場を立ち去ろうとする。だがそのアーサーを引き留めるように、マダム・モーガンが彼の腕を掴んだ。そしてマダム・モーガンは言う。
「胃が痛くなったら正直に言うのよ。あなたの場合、シャレにならないから」
 強く念を押すような、その言葉。アーサーはその言葉にブルリと震える。かつて医務官ジャスパーから受け取った忠告が思い出されたのだ。
 そうしてアーサーが苦い笑みを僅かに浮かべた折、マダム・モーガンの表情が少しだけ曇る。すると、彼女はアーサーに諫めるような内容でない別のセリフを囁いた。「一応、あなたにも教えておく。どうしても仕留めてもらいたいマトがいるときに使える、猟犬を従わせるための魔法の言葉を」
「物騒な魔法のようだな」
「ええ。物騒だけど、いざという時に使える便利なコマンドよ。そしてこれは、元老院の足止めをしたい時にも有効。標的に元老院の何者かを指定すれば、そのコマンドが言われたときだけ猟犬は元老院にも襲い掛かる。通称エズラ・ホフマンには特に効く。――ただし、私からこの情報を聞いたとは誰にも言わないことを約束してほしい。それから、むやみやたらに乱発しないことも。いいわね?」
 元老院の足止めさえできる魔法の言葉。その誘惑に抗えるわけがない。姿勢を正し、目の色を変えたアーサーは迷わずに首を縦に振る。
 するとマダム・モーガンは重たい溜息をひとつ吐いた。次に彼女は、彼女の着ていたジャケットの裏から何かを取り出す。それは白をベースに、黒い糸で格子のような模様と、飛ぶ鳥を省略した記号を横方向に連綿と繋げたような模様をびっしりとあしらった、一枚の大きなスカーフだった。そして取り出したスカーフを、マダム・モーガンはアーサーに手渡す。それから彼女はこう語った。
「始末してもらいたい標的の顔写真と名前、居場所を猟犬に提示したうえで、以下のセリフを猟犬の耳に囁きなさい。『こいつはイスラエルの生き残り、シオニストのクソッたれだ』と。次に、このスカーフを彼に手渡しなさい。そうすれば彼は、あなたのために、そして彼自身のために、標的を確実に抹殺してくれるでしょう。やりすぎなぐらいには、確実に」
 受け取ったスカーフを見つめながら、アーサーは肩を落とす。マダム・モーガンが言うところの魔法の言葉、その中に含まれている単語の意味は彼には分からなかったが、それが暗に意味していることはそれとなく理解できたような気がしたからだ。
 その昔に、何か邪悪な組織や機関があって、そこの構成員たちから猟犬はひどい目に遭わされたのだろう。そして魔法の言葉には、復讐をせよと彼に促す意図が含まれていた。
 猟犬の中に今も強く残る憎悪と復讐心を利用して、目的を遂げようとするやり口。それは非常に汚く、醜い。
「……」
 隠された合図を告げるスカーフのベースは、皮肉なほどにまっさらで真っ白。その白いキャンバスにびっしりと施された黒い模様は、不思議なことにアーサーにとっても見覚えのあるものであった。そのスカーフは、若い頃も、そして今でも、時折ペルモンドが着用しているものと同一であるように見えていたのだ。
 若い頃のペルモンドは、その時々によってコロコロとスカーフの着け方を変えていた。ジュードと名乗っていた朗らかな人格は、このスカーフを首にかけて両端を垂らすように着けていたし。ジェイドと名乗っていた奔放な人格は、ネクタイのようにノットを作って巻いていた。そしてペルモンドは、滅多にスカーフなど着用しなかったが、偶に前髪を押さえつけるためのヘアバンドの代わりとしてこれを頭に巻いていた。当時の彼はそのスカーフを好きなように巻いていただろうし、彼を見ていた当時のアーサーもそれを『あいつのお気に入りのスカーフなのか』としか思っていなかった。
 そして今のペルモンドだが、彼も普通にただのスカーフとして首に巻いているだけだ。彼がコートを着用する際に、首元に添えているだけ。三角に折ったスカーフを、雑に首に巻いて着用しているだけで、別に大して洒落ているわけでもないし、特別なサインが含まれているわけでもない。
 そのように、ペルモンドが時折身に着けているスカーフと同じものが、今はアーサーの手元にある。
「……」
 ただのスカーフだと思っていたものに、何の意味があるのか。アーサーが疑問を持ってそのスカーフを見続けていると、アーサーの疑問を察したマダム・モーガンが答えを与えた。「そのスカーフは、私の故郷の言葉で『クーフィーヤ』というものでね。それは、遠い昔に亡くなった私の変わり者の兄サディークが、九十二歳で亡くなるまでの間に、夜な夜な織り続けた数百枚のうちのひとつなのよ。そしてこのスカーフは、私たちの故郷の誇り。私たちの土地と民族を象徴するもので、大事なものだった」
「愛国心の拠り所、ということなのか?」
「そうともいう。でも……」
 でも。そこでマダム・モーガンの声が一時的に止まる。その後、彼女は少し呼吸を整えると、今度は穏やかな声で続きを言った。「普段はただのスカーフか、またはパニックで泣く子を落ち着かせるための暖かいブランケットみたいなものでしかない」
「……」
「それに、愛国心が強いタイプではなかったわ。私も、彼も。私は不信心者で、信仰心の篤い者が多い土地でかなり浮いていたし。彼はルーツが複雑で浮いていた。彼の母親はとびきりの美人だったけど、イラン人とシリア人の混血でキリスト教徒だし、彼もパレスチナ人だけどイラン人っぽい名前で……――なんて言ってもよく分からないわよね」
「ああ。どれも文献の中でしか見聞きしたことがない名だ。実在していたものなのか?」
「そうよ。私の故郷はパレスチナ。イカれた宗教の聖典に出てくる、あの土地よ。宗教に縁があるばかりにシオニズムなんていう宗教テロに蹂躙され、散々な目に遭わされた」
「……そうなのか」
「まあ、つまり、故郷に愛着を抱ける理由が私と彼にはなかったのよ。だから、拠り所となっているのは愛国心じゃない。良き日の思い出、もしくは怨恨と復讐心とでもいうのかしらね」
「思い出か。なるほど」
「今は猟犬と呼ばれてる彼も、まだ幼い子供だった頃、私の兄に懐いていた。私が彼をチャンバラごっこやサッカーでバチボコに負かしたときに、年上なのに手加減をしない私を叱りつけて、理不尽な仕打ちに耐えた彼に謝罪のお菓子をあげてたのが、私の兄だったから。で、彼は貰ったお菓子を自分の妹に渡していた。彼は自分の妹のために、私の意地悪に付き合ってくれてたフシさえあったでしょう。ちゃっかりしてたのよね、そういうところだけは、昔から……」
「……対するあなたは、意地の悪い子供だったようだな」
「そう。私は下に八人いた妹たちの誰かしら、または近所の男の子たちを、毎日毎日泣かせていたし、それを愉しんでいた邪悪な子供だった。小さい子供には怖すぎる漫画を、夜眠る前の妹たちに見せて大泣きさせては、祖父にとっちめられていた悪ガキよ。その悪ガキが唯一泣かせられなかったのが、猟犬となる前の彼だった……」
「八人の妹?」
「サーラ、ナダー、ファリーザ、ヤーサミン、アーディラ、シュルーク、ナジュマ、ワルダ、その八人。こっちじゃ考えられない感覚でしょうけど、私の故郷じゃそれが普通だったのよ。――まあ、そんな記憶が猟犬に残っているのかは定かではないけれど、猟犬となってしまってからも、サディークの名を出すとパニック発作がピタッと収まるときがある。普段、このサディークのスカーフは、混乱を鎮めて安心感を与えてくれる優しい存在でしかないのよ。でも、無情にもこのスカーフから『サディークの』という属性を取らなければならないシーンは訪れる。温もりを奪い取って、冷たいナショナリズムを残し、そこから想起される終わりのない復讐心を引き出さなければならない瞬間が、いつか必ず訪れる」
 穏やかな昔話は終わり、マダム・モーガンの目は今に戻る。そして最後にマダム・モーガンはこう言うと、アーサーの前から姿を消した。
「どうしても必要なときは、躊躇わずにそのカードを切りなさい。どうせ彼はすぐに全てを忘れるから、騙したことで恨まれるようなこともない。でも、タイミングには気を付けるのよ。――それじゃ、アーサー。頑張りなさい。私の跡を頼んだわよ」


+ + +



 マダム・モーガンから『魔法の言葉』を教えられた、その三日後のこと。彼女は北米に『出向』し、当面はアルストグランに戻ってこないという旨が、ガラガラ声のワタリガラスによって正式に伝えられた。
 円卓の設置された会議室に集められた三人は、円卓の中央でぴょんぴょんと飛び跳ねるワタリガラスの汚い鳴き声を聞かされた。アーサーにはそのワタリガラスの言葉がしかと聞き取れていた一方、アイリーンとケイの二人には、ただのガーガー声にしか聞こえていなかったらしい。右へ左へと首を傾げ続けるアイリーンとケイの二人に向けてワタリガラスの言葉を通訳するアーサーは、ただただ徒労感だけを覚えていた。
 ガラガラ声のワタリガラスの鳴き声を、人語に翻訳する。それはまさに気が違っているとしか思えない行いだ。それに、アイリーンとケイから向けられていた視線は怪訝そのもの。こいつは遂に頭がおかしくなったのかと疑う冷たい視線を浴びながら、ワタリガラスの言葉を通訳するあの時間は……――思い出すだけでも胃が痛くなる。もう二度と経験したくない出来事だ。
「……」
 ワタリガラスが飛び去って消えたあと、アーサーはすぐに一人きりになれる場所を求めて会議室を飛び出した。そうして彼が向かったのは射撃訓練場。だが、彼が銃を手に取ることはない。そして何をするわけでもない。
 ただ壁に寄り掛かって立ち、そのままズルズルと降下して、床に座り込む。そのまま呆然と正面を見つめるアーサーはこのとき、特に何も考えていなかった。ここ数週間で積み重なった疲労により、何かに考えを巡らせる余裕すらなかったのだろう。
 このときに感じていたことといえば、ジンジンと暴れる血管の痛みと、それに伴う僅かな吐き気だけ。蟀谷で疼く片頭痛と、片頭痛が誘発する消化器の不快感は、自然と彼の表情を険しくさせた。
 おまけに、射撃場の眩しい白色照明。これが疲れ目と片頭痛には悪い刺激となる。疼く程度だった片頭痛は次第に蟀谷を殴られるかのような痛みへとパワーアップし、更なる吐き気が込み上げてくる始末。目が明けていられないと感じたアーサーは両瞼を閉ざすと、顔を俯かせた。それから彼は後悔する。居室に逃げ込めばよかったのに、来る場所を間違えたようだと。
 そうして俯いたまま座り込み、数分が経った頃。元より血色の悪い顔を更に悪化させたアーサーの肩に、何者かが触れる。
「ねぇ、アーサー。大丈夫?」
 元より血色の悪い顔を更に悪くさせたアーサーに対して、声量やトーンを抑えた調子で恐る恐る話しかけてきたのは、この日も目に痛い色彩に身を包んでいたアイリーンだった。
 彼女が着ていたシャツワンピースは珍しく無地で、エキセントリックな柄や模様は含まれていなかったが。しかし、その布地が持つ奇抜な色合いは、視覚への暴力としか言いようがない。発光しているかのように見える蛍光グリーンで塗りつぶされたシャツワンピースを、片頭痛に悶えるアーサーは直視することができなかった。
 そうして彼がアイリーンから顔を逸らせば、何かを誤解したアイリーンは心配そうな面持ちでアーサーにグイグイと近付いてこようとする。慌ててアーサーは彼女の前に手を翳し、制止を求めた。それからアイリーンを突き放すように、少しの刺々しさを伴った声でアーサーは言う。「軽い片頭痛がしているだけだ。少し休めば回復する、心配はいらない」
「痛み止め、持ってくる? それか嘔吐用のバケツ、いる?」
「いや、気遣いは不要だ」
 強めの口調で突き放すようなことを言えば、臆病なアイリーンは引っ込んでくれるかと考えていたアーサーだが、その読みは外れたようだ。マダム・モーガンの更迭もあり、臆病さを克服しようと努力中のアイリーンは、踏みとどまってお節介を焼くことを選んだらしい。
 アイリーンの善意は空回りする。そしてアイリーンがぴょこぴょこと動くたびに、アーサーの嘔吐中枢は刺激されていくばかりだ。
「ねぇ、サー。本当に顔色が悪いよ。大丈夫? 肩、貸してあげるから、部屋まで――」
「近付かないでくれ。君の服が今は目に痛い、吐き気が催されるんだ」
 これ以上はもう耐えられないと痺れを切らしたアーサーは、直接的な言葉で本音をアイリーンにぶちまけた。それから彼は両目を右手で覆い隠すと、再び顔を俯かせて口を一文字に閉ざす。彼は今、嘔吐を誘発しようと企てる頚部の鈍痛に襲われていたのだ。
 本格的に調子が悪くなってきた様子のアーサーを見て、アイリーンは飛び跳ねるように後退し、それから彼女は上ずった声で「ごめんなさい!」と悲鳴を上げた。そうしてアイリーンは射撃訓練場を大慌てで後にしようとしたが、しかし何かを閃いたのか出入口の手前で立ち止まる。それからアイリーンはアーサーの傍に引き返してきた。そしてアイリーンは言う。
「あっ、でも、ちょうどいいかも。――これ。あなたに受け取って欲しいの」
 アイリーンはそう言いながら、アーサーの空いている左手に何かをねじ込んできた。アーサーはそれを、両目を覆い隠す右手の指の隙間から、細めた目で視認する。見たところ、それはただのサングラスのようだ。濃度が高いレンズが嵌めこまれた、遮光性の高い普通のサングラスに見えていた。
 普段使用しているサングラスを運悪く居室に置き忘れていたこのときのアーサーは、アイリーンと同じく「ちょうどいいタイミング」だと感じた。眩しい光とアイリーンのワンピースの色彩に堪えかねていたアーサーは、すぐにそのサングラスを着用した。すると視界はうんと暗くなり、ジンジンと疼いていた蟀谷の痛みも大人しくなる。アイリーンの着用している蛍光グリーンのワンピースも、色調が大人しくなり、覚えていた吐き気は収まった。
 そうしてアーサーが一呼吸をついたとき、それを話しかけていい合図だと判断したアイリーンは少しずつ間合いを詰める。それからアイリーンはアーサーの様子を探りながら、言葉を小出しにしながら、サングラスについての解説を始めた。
「そのサングラスだけど、ただのサングラスじゃないんだ。あっ、でもね、マダムが『偏光レンズじゃないほうが見やすいし目が疲れない』って言ってたから、そういうレンズにしてみたよ。サングラスの性能にも、ちゃんとこだわったの。でね、これは精密射撃を補助してくれるサングラスなんだ。普段は普通のサングラスだけど、着用者が拳銃を構える姿勢を取った時に、その動きに反応してモードが切り替わるの。元気になったときでいいから、試してみてね」
 次第に語り口には熱が入り始め、雄弁に語り出すアイリーンであったが、けれども調子が万全であるとは言い難いアーサーの耳にはその言葉が入ってこない。少しは落ち着きを見せたとはいえ、相変わらず吐き気が喉元に潜んでいたアーサーは、拳銃という言葉は理解したがそれ以外の言葉は前を素通りしていくだけだった。
 それでも、火が点いたように喋るアイリーンの言葉は止まらない。
「ちなみに、ゴルフのヤードスコープから着想を得たんだ。レーザーで距離を測る、あの機器。このサングラスはあなたの瞳孔の動きを読んで、あなたの焦点が合っている対象を特定し、その対象とあなたがどれだけ離れているかを測定するの。あと、風向きや気圧、空気抵抗とか色んな情報を基に弾道をシミュレートして、最適な射出角度を割り出してガイドするアルゴリズムも搭載してるんだ。ジャストな射出角度に近付くと、このサングラスから電気信号が出て、微妙な手のブレや位置を補正してくれるの。これを使えば、サーでもケイじいみたいに素早く正確に撃てるようになるはずだよ。――ところでサーはゴルフってやったことある?」
 唐突に向けられた質問。なんとか気を持ち直したアーサーは、正直に答えた。「いや、ない」
「ないの? 議員の息子なのに?」
 アイリーンの発した何気ない言葉が、チクリとアーサーの胸に刺さる。だがこのとき、嫌味を返すような気力はアーサーに残されていなかった。
「……」
 アーサーはゴルフクラブで殴られた経験なら積んでいる。が、ゴルフというものに興じたことはない。そのような『上流階級の優雅な遊戯』を彼は唾棄していたからだ。それに、距離感を掴むことが致命的なほど下手クソなアーサーにゴルフなどできるはずもない。地面に置いた玉を打つことすらできぬまま日が暮れそうだ。
 ――アイリーンは深い意味を込めて言ったわけではないのだろうが、その言葉を受け取った側は必要以上に深く考えてしまう。片頭痛で気が滅入っていることも、そのネガティヴ思考に拍車をかけていた。
 そうして勝手に気が滅入っていったアーサーが肩を落とし、溜息を零したとき。少し遅れて自身の失言に気付いたアイリーンは、肩をブルリと震わせて小さく飛び上がる。それからアイリーンは噛み噛みな口調で、話題を逸らすための虚しい努力を重ねる。
「じゃ、じゃあ、つ、つあッ、使いこなすのにちょっと時間が掛かるかも……。で、でも、この弾道ガイドのおかげで射撃が下手くそな私でも精密な射撃ができるようになったから、きっとあなたの力になるはずだよ! だから、その……――今度、試してみて! 不満点とかバグがあったら教えてね。それじゃ!!」
 最後に一段と声を張り上げると、アイリーンは逃げるように射撃訓練場を去っていく。その後、アーサーもよろよろと立ち上がると、吐き気を堪えながら居室に戻っていった。
 ――その数日後、アーサーはアイリーンから恐ろしい書類を提示される。紙切れに記載されていたのは精密射撃ガイド搭載サングラスの製作費。嘔吐どころか胃袋ごと口から飛び出そうな額を見るなり、アーサーは絶句し、頭を抱えた。そして彼は、北米に出向して間もないマダム・モーガンにすぐさま助言を求めた。
 だが、彼女からの返答は意外なものだった。それぐらいの額なら別に大したことはないと、彼女は一笑に付してみせたのだ。そこでアーサーは一旦安堵したのだが……――この安堵が、後に大惨事を招くこととなる。
 アイリーン。彼女はその後も、浪費に浪費を重ねていった。医務官ジャスパー・ルウェリンという口うるさい監視役、そしてジャック・チェンというコストカットの鬼が居なくなったことにより、アイリーンを直接的に諫める者がいなくなったせいで、彼女のタガが外れたのだ。
 彼女は熱心な働き者で、かつ優秀な技術者でありオペレーターであった一方、資金面は一切考慮しないという欠点があった。彼女は多くの有用な小道具を生み出し、幾つかの有用なプログラムやシステムを構築したが、制作費やランニングコストを抑える努力は全くしてくれなかったのだ。加えて、アーサーが受け取るのは事後報告だけ。事前に相談しろとアーサーは忠告したが、しかしアイリーンは『顔だけの男』の言葉に耳を貸さない。つまり彼女を止める術は無く、アーサーも匙を投げてしまった。
 完成品の製作費を帳消しにすることはできず、稼働してしまったシステムを止めることは容易でない。そうして湯水のように資金は溶けていく。アーサーの胃もズキズキと痛みだした。
 あからさますぎるほど目減りしていく資金に胃を痛めたアーサーは、幾度となく蚊の鳴くような声でマダム・モーガンに助言を求めた。最初の頃は電話越しに笑い飛ばすだけだったマダム・モーガンも次第に頭を抱えるようになり、最終的には「私も協力するから、どうにかして工面しろ」と檄を飛ばすようになった。
 しかし、その傍では大男ケイが不満を漏らし始める。銃がない、弾がない、肉がない、備蓄がない等々。こちらも使うだけ使う人間で、抑えようという努力は全くしないタチだった。
 マダム・モーガンが長い年月をかけて溜め込んだ金インゴットの山は、一本、また一本と消えていく。アーサーも地道に債権を買い重ね、着実に増やしていったが、しかしそのスピードは目減りしていく額をカバーできるものでは到底なかった。
 次第に隙間が広がっていく金庫を見つめながら、やがてアーサーは一線を踏み越えることを決意する。出所に問題のあるカネなら盗んでも良いだろうと開き直った彼は、空間転移の能力を悪用し、どこかのあくどい誰かが保有する隠された財産を盗み取るようになったのだ。





 時代は進んで四二八九年のこと。右目を負傷したテオ・ジョンソンは、搬送されたのち、一通りの処置を終えて病室へと移されていた。
 曲がりなりにも、ASIの本部長。政府の要人のひとりに該当したらしく、個室が宛がわれたほか、警護のために要人警護部隊から数名が派遣されていた。そして病室の外、廊下で待機している要人警護部隊の隊員らは、搬送時から付き添っているASI局員と睨み合いをしている。
 コードネーム・エコーこと、コービン・デーンズ。温厚な弟のウェスリーとは異なり、いつでもどこでも感じの悪い彼は今、久しぶりに最大級の感じの悪さを発揮している模様。コービン・デーンズは小言や嫌味を要人警護部隊の隊員らに連ね、彼らを追い払おうと勤しんでいるようだ。それを、弟のウェスリーが宥めている。
 その声を背景音として聞き流しながら、テオ・ジョンソンが手を伸ばすのは頓服用の制吐剤が入った瓶。右目に負った負傷が、痛みや吐き気を誘発するようになっていたのだ。そして今もまた、吐き気が込み上げて来そうな気配がある。嘔吐して頭を動かし、医者に「絶対に頭を動かすなと言っただろう、失明するぞ!」とドヤされる前に、先手を打つ必要があった。
 彼は制吐剤を瓶の中から一錠だけ取り出したあと、それを口に放り込み、瓶を元あった場所に戻す。それから枕元にある水入りのペットボトルを手探りで探し、キャップを外して、水を口に含んだ。そしてペットボトルのキャップを閉めて、それを枕元に放り投げるように戻す。その後、彼は溜息を零した。
「……はぁ……」
 そんな彼には、もはやコービン・デーンズを叱りつける気力さえも無い。彼が嫌味を連ねる声を背景音として聞き流しながら、テオ・ジョンソンが思い出すのは殉職した相棒パトリック・ラーナーの顔。ワケあってASIが面倒を看ることになった素行不良の少年コービンに、水球のクラブチームに参加という更生プログラムを宣告した際にラーナーが浮かべた渾身のしたり顔を、ふと思い出したのだ。
 水球の刑。それは、コービンと同い年であったテオ・ジョンソンの息子アイザックが水球のクラブチームに参加していたから、という理由も含まれている。温和な優等生であるアイザックを不良少年コービンにぶつければ、コービンも影響を受けて少しは改善されるのではないかと、大人たちは期待していたわけだ。――が、一番の理由はその競技性だろう。水面下で繰り広げられる足の引っ張り合い、ルール無用の格闘技ともいえる競技性は、良くも悪くも精神を鍛えるにはうってつけ。タフで強靭な肉体と精神、そして咄嗟の機転を養うことができる優秀なスポーツ、それが水球だ。
 不良少年コービンが面倒なスポーツを嫌がったのは言うまでもない。だが彼は週四日、きっちりと水球に参加させられていた。息子アイザックの送迎も兼ねて、テオ・ジョンソンが不良少年コービンをプール場に連行していたからだ。
 息子アイザックと不良少年コービンは、そのうち親しくなった。その友情は今も続いているという。そして水球に鍛えられたのち警察学校に入学したコービンは、成人する頃には真面目で規律的な人間に成長していた。
 だがコービンが成人したとき。コービンに水球の刑を宣告した当の本人、相棒のパトリック・ラーナーはそこに居なかった。パトリック・ラーナーは恐らく、こうなる未来を予見してはいたのだろう。だが、彼が実際にその未来を見届けることはなかった。
 デーンズ兄弟を保護した二年後に、彼は殺されたのだから。
「コービン! そんな喧嘩腰にならなくても~……」
「俺はただ、筋を通せと言っているだけだ。官邸の判断だかなんだが知らないが、急に押しかけてきて現場の指揮権を寄越せと宣うよりも前に、おたくらにはやるこッ――」
「だから、コービン。落ち着いて。こんなところで小競り合いを起こしたって何の解決にもならないし、迷惑になッ――」
「現場の指揮権が欲しけりゃ、ASI長官に話を通すべきだ。長官からの命令があれば、大人しく譲ってやるさ。だがそうでないなら、話はここで終わりだ。去れ」
 弟のウェスリーが、感じの悪い兄のコービンを宥めようと試みるも失敗している声を聞きながら、テオ・ジョンソンは再び小さな溜息を零す。――と、そのとき。個室のドアが開けられ、何者かが入室してきた。
 入室してきた者は、この病院に勤める医師であるかのように白衣を羽織っていた。が、その者の正体は医師ではない。それに気付くや否や、テオ・ジョンソンは左目を細めた。それから彼は、入室してきた者に尋ねる。「なぜ、あなたがここに……」
「今なら、誰にも邪魔されずに落ち着いて話ができる。これを逃したら機は二度と訪れないと思えたからよ。……そのために、ちょっとお芝居してもらってるわ。外の二人には」
 いたずらっぽく笑いながら、白衣を脱ぎつつそう言ったのは、黒髪の女。ノエミ・セディージョである。ちょうどつい先ほど思い出していた元相棒と縁のある人物だ――元相棒の、前職での元相棒が彼女である。
 脱いだ白衣を、手近な場所にあったパイプ椅子の背もたれに掛けると、ノエミ・セディージョはその椅子をベッドの近くに寄せる。それからその椅子に彼女は腰を掛けると、様子を伺うようにテオ・ジョンソンを見つめた。それから彼女は恐る恐るといった様子で、こんな質問を投げかける。「あなたが、リッキーの相棒だったセオドアなのよね。で、長官のサラ・コリンズは、あの鯖サンド狂いの『サバ・コリンズ』なんでしょう?」
「ああ、そうだ」
「そっか。あなたが、あのセオドア……」
 ノエミ・セディージョはそう言うと、テオ・ジョンソンの目を見つめてくる。何かワケがありそうな視線だが、その意図が掴めない。そうしてテオ・ジョンソンが片眉を上げると、ノエミ・セディージョは苦笑いを浮かべた。それから彼女は視線を少し下に落としながら、こんなことを言う。
「リッキーの好みは知ってる。背が高くて、面長で、優しそうな雰囲気の男が彼の好みだった。カールもそうだったし、あなたもそう」
「それが、一体……?」
「あなたのオフィスで、あなたと初めて対面したとき。私じゃ勝ち目がなかったなって思えたのよ。ずーっと一緒にいる相棒が、こんな好みどストライクの顔してる男だったら、私みたいな馬のクソみたいな女のとこに彼が戻ってきてくれるわけがないなーって。そのときに初めて、彼のことを吹っ切れた。そのことをあなたに伝えたかった」
「……」
「前を向ける機会をくれて感謝してるのよ。これでやっと、私も老後を楽しめそう。私のことを『ただの友人』としか思っていない男との共同生活も割り切ってやっていけそうな気がする」
 ノエミ・セディージョは最後にそう言うと、テオ・ジョンソンから顔を逸らす。そこで彼は、彼女の意図を察知した。それと同時に思い出されたのは、下世話な話が好きな主席情報分析官リー・ダルトンの顔と、彼が話した嘘っぱちの話。
 こんなところにまで誤解が広まっていたのか、それも重大すぎる誤解が……。そう頭を抱えるテオ・ジョンソンもまた、ノエミ・セディージョから顔を逸らした。それから窓辺を見つめる彼は、すべての誤解の元凶である今は亡き元相棒の真相を明かした。
「あなたにハニートラップを仕掛けようとした記者、あなたを陥れようと画策していた他国の工作員、あなたを踏み台にして出世しようと目論んだ官僚。あなたに執着していたからこそ、パトリックはあなたに近付いた悪い虫を叩き潰してきたんだ」
「と、トラップ?!」
 ノエミ・セディージョは裏返った声を上げると共に、椅子からグワッと勢いよく立ち上がる。それから彼女は立ち上がった拍子に後退りをしようとして、椅子の脚に自分の脚を引っかけ、後方に転げ落ちた。盛大に転げ、しりもちをついた彼女の腹の上に、倒れたパイプ椅子までもが落ちてくる。
 イッタイ……。そう呟いて尻とお腹をさするノエミ・セディージョに、テオ・ジョンソンは憐みの視線を送る。それから彼は呟くように言った。「すまない。手を貸してやりたいが、生憎ベッドの上から動くなと言われている身なんだ」
「大丈夫。別に、ええ、大丈夫。これぐらい、なんてことないわ」
 依然、上ずった声でノエミ・セディージョはそう言葉を返す。そう言う彼女の顔は耳まで真っ赤だ。そして顔を赤くした彼女は、慌ただしく立ち上がり、椅子を元に戻す。それから誤魔化すような笑顔を浮かべて、彼女が再び着席したとき。その様子を微笑ましげに見ていたテオ・ジョンソンは口を開く。彼は続きの言葉を発した。
「この仕事をしていると、関係を深めることに必要以上の引け目を感じるようになる。それに、パトリックは自信過剰に見えて自己肯定感が皆無の人間だったからな。自分を卑下して、望みを押し殺して、その代わりに他人の幸福を願うような不器用なやつでもあった」
「……そうね。彼はそんなひとだった」
「あいつも、本当は“馬のクソ”のところに行きたかったはずだ。だがあいつは、あいつ自身の人生を諦めていた。――少なくとも、コリンズにはそう愚痴を零していたと聞いている」
「……」
「それから、あいつの好みは『姉のミランダのようなひと』だ。外ではそつなく何でもこなす人間のように振舞いながらも、自宅ではグダグダしているような人間。かつ、芯が通っていて、ここぞという時に迷いなく啖呵を切って突き進むような、そういう女性が好みだと、酒に酔っていたときに言っていた。おそらく、それがあいつの本音だったはずだ。そして、それはあなたのことだと思うがね」
 細めた左目で、テオ・ジョンソンは椅子に座る女を見ていた。ノエミ・セディージョの顔から熱は引き、すっかり元の顔色に戻っていく。
 照れや恥ずかしさから更に赤くなるだろうと予想していたテオ・ジョンソンは、その予想が裏切られたことに小さな驚きを得ていた。
 彼女の顔は後悔に沈んでいるようにも見える。真意に気付かなかった己の愚かさと、やり直すことが決して叶わない今に、悔やんでも悔やみきれないような苦い思いに苛まれているのだろうか。
 その顔を見ながら、テオ・ジョンソンも身につまされていたとき。ノエミ・セディージョは背中を大きく仰け反らせると、一際大きい溜息を吐きながら、ゆっくりと姿勢を正した。それから彼女は真顔になる。続いて彼女はテオ・ジョンソンの目を真っ直ぐに見ると、あることを切り出してきた。「それで、話は変わるんだけど。どうしても、あなたに訊きたいことがある」
「答えられる範囲であれば、まあ、いいだろう」
 軽い気持ちで、テオ・ジョンソンはそう答える。――その直後、彼に投げかけられた質問は、決して軽いものではなかった。
「ダグラス・コッ――」
「ノーコメント」
 ダグラス・コルトという探偵に身分を暴かれたせいで、してもいない不倫を捏造されたという話は本当なのか。
 そしてパトリック・ラーナーとサラ・コリンズの二人が共謀し、ダグラス・コルトの探偵事務所をメチャクチャに引っ掻き回して破壊し、大損害を与えたというのは本当の話なのか。
 ……恐らく、続く言葉はそれだったのだろう。そして“ダグラス”という因縁のある名前が出てきた瞬間に、反射的に彼の口から飛び出してきたのは回答を拒む言葉だった。するとノエミ・セディージョは意味ありげにテオ・ジョンソンの目を見る。それから彼女は小さな笑いと共に、こう言った。「それってつまり、イエスってこと?」
「……」
「フフッ。その沈黙、イエスと捉えるわ。あなたは不倫をしていなかった、そういうことね。――そうみたいですよ、ヘルマさん」
 唐突に、ノエミ・セディージョの口から飛び出した妻の名前。驚きと共にテオ・ジョンソンの目は見開かれる。と同時に、出入口扉がスッと開けられた。
 開けられた扉から、最初に顔を出したのはデーンズ兄弟の弟のほう、温和で太っちょのウェスリーである。にっこりと笑う彼はノエミ・セディージョに「グッジョブ」を意味するハンドサインを送る。それからこう言った。
「セディージョさん、さすがです。完璧でした」
 次にウェスリーは手招きをし、誰かを呼ぶ。そうして次に扉の向こうから顔を覗かせたのは、テオ・ジョンソンないしウォーレン・カミンガムの妻ヘルマである。しかめっ面の妻ヘルマは、苛立ちに満ちた足取りで室内に立ち入ってきた。
 彼女の姿を確認すると、ノエミ・セディージョは立ち上がり、ベッド脇の椅子を明け渡す。妻ヘルマはノエミ・セディージョに軽く会釈をしたあと、その椅子に腰を下ろした。それから妻ヘルマは、素性を偽り続けていた夫を睨み付ける。
 だが夫であるテオ・ジョンソンは、妻を見ない。代わりに見やるのは、ノエミ・セディージョと共謀していたデーンズ兄弟だった。「お前たち、謀ったな!」
「引退していいんですよ、本部長。ねっ、コービンからも言ってやってよ」
 テオ・ジョンソンの言葉に、太っちょのウェスリーは笑顔でそう返すのみ。続けて、名を呼ばれた兄のコービンも、開けられた扉からひょっこりと顔を出すと、不機嫌そうな声で言った。
「アイザックにこれ以上の嘘を重ねるのは無理だ。だから腹くくって諦めてくれ」
 そう言い終えると、再びコービンは扉の向こう側に引っ込む。次に聞こえてきたのは、感じの悪い舌打ち。どうやら向こう側には未だ要人警護部隊が控えている模様だ。
 今のような感じの悪さを、ラドウィグに向けなければよいのだが。――そんなことを憂いながら、テオ・ジョンソンが何度目かの溜息を零したときだ。かなり強烈な舌打ちが、すぐ傍で鳴る。ビクッと肩を跳ね上げる彼は、その音の発生源、つまり妻のヘルマを左目で見やった。
「本部長。なんだか、すごいポストに就いているみたいじゃないの、ウォーレン。――いえ、セオドアでしたっけ」
「……」
「たしかに、セオドアっぽい顔してるわね。あなた、ウォーレンっていう顔じゃないわ。それに雰囲気も、誠実な法律家っていうより、嘘つきのスパイっぽいし」
 どギツい毒をまとった攻撃、それが立て続けにスパンスパンと放たれたあと。妻ヘルマは肩を落とし、しかめていた顔の緊張を解く。冷たい真顔になった彼女は、冷たい声で本音を吐露した。
「本当のことを早く打ち明けてほしかった。私はとっくの昔に、当局のひとなんだろうなってことには気付いていたのよ。潜入とか取締とか、そういうことを本当はやっているんだろうなって見当はついてた。探偵に依頼した浮気調査も、そう。あわよくば正体が掴めると思ってたのよ」
「……ああ。正体を暴かれたよ。だから、探偵を脅して、揉み消したんだ」
「職務に忠実で何よりだわ~。職務のためなら、不倫の濡れ衣だって被れるんですものねぇ~」
「今までのこと、本当にすまなかった」
 ずっと言いたくて堪らなかったが、その機会が得られず、言えずにいた言葉。それが今、テオ・ジョンソンの口からスムーズに出てきた。
 すると、妻ヘルマの表情は柔らかくなる。続けてテオ・ジョンソンは安堵から胸をなでおろした。嘘偽りで塗り固めた仮面、それが今ここで取り払われ、初めてお互いに正直になれたからだ。
「……この時を、ずっと待っていた気がするよ。ようやく、リタイアできる」
 枕にだらりと首を預け、瞼を閉ざしながら、テオ・ジョンソンはそう呟く。その彼の頬を、妻ヘルマが指先でつついた。それから彼女は冗談めかした声で言う。「ねぇ、ダーリン。一発、その顔をぶん殴っても構わないかしら」
「退院したらな。今は勘弁してくれ。失明はしたくない」
「別にいいじゃない。今後は私があなたの目になってあげるから」
「冗談でもそんなことは言わないでくれ。まだ孫の顔も、アイザックの結婚相手の顔すら見てないんだぞ」
 浮気だ離婚だ調停だ、とヤンヤヤンヤと言い争っていた二人だが。結局のところ、とんでもなく仲がいい。人前で恥ずかしげもなくノロけるぐらいには……。
「……あぁ、クソ。胸焼けしそうだ」
 心底イヤそうな顔で嫌味を吐き捨てるのは、出入り口扉の前に立つコービン・デーンズである。そして、同じく他人のノロけに胸焼けしそうになったノエミ・セディージョも、そそくさと退室していった。
 ――と、そこに新たなる来客が現れる。夫妻の息子、アイザックである。若い頃の父親によく似た顔と背格好をしたアイザックは、父親がいると伝え聞いた病室の周囲が、妙な緊張感に満ちていることに気付くと、顔をしかめさせた。
 周囲を警戒している様子の軍人風な者たちが数名、廊下に立っている。そして軍人風の者たちにガンを垂れている男がひとり。それも、よく見慣れた顔が……。
「コービン? なんでお前がここにいるんだ」
 軍人風な者たちを睨み付けている男が、友人のコービン・デーンズだと気付いたアイザックが、困惑からトボケ顔になったとき。コービン・デーンズのその後ろから、ノエミ・セディージョが病室内から出てくる。……予想もしていなかった超有名人の登場に、アイザックが腰を抜かしたのは言うまでもない。
「――ノエミ・セディージョぉっ?!」
 飛び上がって引っくり返ったアイザックに、呆れ顔のコービン・デーンズが手を差し伸べる。その二人の様子を微笑ましげに見守ったあと、ノエミ・セディージョは静かにその場を立ち去っていった。
 ――そして同じ頃。キャンベラ市内の、とある女性専用の美容サロンにて。男子禁制の女の花園に、しかし男とも女とも言い難い存在を連れ込んでいた者がいた。
「エイミー? どうしたん、暗い顔しとるけど」
「……考え事をしてたの、色々とね」
 それは『エイミー・バスカヴィル』という仮面を演じていたジュディス・ミルズである。彼女がここに連れ込んでいたのは、ラドウィグが『玉無し卿』と呼ぶ存在。セィダルヤード、略して『セイディ』である。
 顔も身長も申し分なく、四肢の長さはトップモデル級。余計な脂肪のない体は、しかし痩せすぎで不健康というわけでもなく、丁度いい塩梅。胸は板のようにペッタンコであるが、しかしケツのデカさは十分。そのように見栄えがしそうな要素が揃っていたセイディであったが。少々、問題があった。
 髪の毛はパサパサで、枝毛と切れ毛だらけな上に、無造作に伸ばされているだけでヘアスタイルもクソもない。肌の肌理(きめ)は細かくシミやシワはほとんど無いが、その一方で肌の乾燥は凄まじく粉を吹いているため、このままでは化粧さえままならない。爪や指先も、まあひどい有様だ。眉毛も手が入れられておらず、汚くはないが綺麗でもないという状態だ。
 素材は悪くないが、状態が悪すぎる。そういうわけでジュディス・ミルズは、このサロンにセイディを連れてきたわけである。ここの店主モニシャ・パテルは美容のプロフェッショナルで、ヘアカットからエステまでの全てを一手に引き受けてくれるうえに、セットやスタイリング、メイクアップまでもこなしてくれるからだ。
 そして今、店主のモニシャはヘアトリートメント作業を行いながら、ボーっと椅子に座っているだけのジュディス・ミルズに声をかけてきた。ジュディス・ミルズは顔を上げると、店主の背中を見やる。それから彼女は店主に問いを投げかけた。「ところで、セイディはどう? 順調?」
「セイディなら寝とるで。失神するみたいに気ぃ失って、それからずっと爆睡。お陰で文句も言われんし、作業は順調や。――そんで。彼女もあんたも顔色がめっちゃ悪いけど、何かあったん?」
 ジュディス・ミルズは、この店主と長い付き合いにある。彼女がASIに勤め始めてからずっと、このサロンに通っているからだ。同世代ということもあり、気を遣う必要のない友人のような関係にある。会話も、この通り。砕けた調子だ。
「モニシャ、前に言ったでしょ。今は政府の仕事をしているから、大事なことは何も話せないんだって。聞くだけ無駄よ、話せることは何もないから」
「せやけどあんたんことが心配やねん。心配するぐらいかまへんやろ?」
「あら、嬉しいことを言ってくれるのね」
「あんたを失いたない。ごっつ金払いのええ上客やさけ」
 しかし、この店主。なかなかのくせ者である。腕は確かで、話好きで賑やかで。まあ、それは良い。だが、それを差し引いたとしてもアクが強すぎる。彼女は重度のゴシップが好きで、生粋の拝金主義者で、それを隠そうとしない。下世話な話をギャーギャーと交わしながら過ごすこの時間は、面白おかしく楽しいようで、ジュディス・ミルズは少しの疲労も覚えるのだ。
 主席情報分析官リー・ダルトン。職場でもないのに、あの男と会話をしているような気分になる。そこだけが、この店主の難点なのだ。
 そして今日もまた、店主の悪いクセが炸裂する。店主はチラっと振り返ると、妙にジメッと湿った視線をジュディス・ミルズに送り付けてくる。それから店主は唐突に、こんなことを口にした。「ところで、エイミー。金髪のライオンさんとの関係は順調なん?」
「――ッ!! 急に何を言い出すのよ、もう!」
 金髪のライオンさん。それはつまり、アレクサンダー・コルトのことである。彼女もまた、ジュディス・ミルズの紹介を通してこのサロンに通うようになった客のひとり。ASIに移籍後からここに通うようになったアレクサンダー・コルトは、現在の彼女の定番であるボブカットを手入れするため、しばしば来院していた。
 そしてこの女の花園は、美しくありたいと願う女性らしい女性が多く集う場所。アレクサンダー・コルトのように、ガサツで粗暴でワイルド、かつ筋骨隆々でマスキュリンな客はまず来ない。必然的に、アレクサンダー・コルトのような存在は注目の的となる。
 店主とて、アレクサンダー・コルトに注目しているうちの一人だ。その店主は、ジュディス・ミルズを暗に茶化すようなことを言った。
「あんたらはデキとるはず。せやけど、そのわりに恋人らしゅうない。あんたがライオンさんのこと好いてるんは分かる。けどライオンさんからは、そないな執着みたいなもんを感じへんのよ」
「……」
「ちなみに。ここに通ってる女の中にも、ライオンさんのこと狙うてるやつはぎょうさんおるで~。気ぃ付けな~」
「なんですって?」
「あんたがここにライオンさん連れてきてくれたこと、感謝しとるんやで~。ライオンさんに会いたいが為に、足繁う通うお客が増えてんよ~。ライオンさんと運よくバッティングする機会を狙ってな、このサロンに頻回予約入れてくれる常連さんが右肩上がりで増加中や。がっぽりやで~」
 最後にニヒヒと卑しく笑う店主は、ジュディス・ミルズに悪意ある視線を投げつけたあと、作業に戻るため正面を向く。ひとをオモチャにして茶化していた店主であるが、しかしその店主の背中はジュディス・ミルズの背を押しているようでもあった。現状維持を望まず、もっと一歩踏み込めと喝を入れているように見えなくもない。
「……売り上げに貢献できているなら、何よりだわ。私のライオンさんにも、そう伝えておく」
 視線を下に落とすジュディス・ミルズは、気力さえも下に落としてしまう。今の彼女にはそのような“普通の世界”に目を向けられる余裕がなかったのだ。昨晩見た光景、それがどうしても頭の中を支配する。
 担架で運ばれていったテオ・ジョンソンと、去っていく救急車の放つ光。キングという席に座る覚悟を決めろと宣告した長官サラ・コリンズの険しい顔。薄気味悪かった曙の女王という存在の言動。一瞬、鬼神に豹変したラドウィグの姿。それから、何ら躊躇いを見せずに窓をカチ割って飛び降りていった子供の背中。そして、グチャグチャに潰れて飛散していた化け物の有様と、暗闇の中に広がっていた血の海――
 それは昨夜に見たものなのだ。こうして平和な時間を過ごしていると、なんだか気分が和んできて忘れてしまいそうになるが、だが彼女は緊張を維持しなければならない立場にある。
 今日この日が、彼女にとって最後の『穏やかな普通の日』になる可能性さえあるのだから。
「セイディもポテンシャルが高そうや~。最初、白馬の王子様が降臨したのかー思うたもん。女やけどな。いや、せやけど、めっちゃ王子様や。彼女、むっちゃカッコエエ。放つオーラが、一般人のそれとちゃうわ。……あんた、どっからこんな逸材を次々と引っこ抜いてくるんや?」
 昨晩の疲労が抜けきっていないのか、セイディは気絶したように眠りこくっている。そのセイディを見つめながら、店主は嬉々として語り、それからジュディス・ミルズに質問を投げかけた。そしてジュディス・ミルズは、それらしい嘘っぱちを即興で組み立てる。
「セイディに限った話をすると、路上生活者支援センターよ。どうして路上生活をしていたのかが分からないぐらい立ち居振る舞いは洗練されてたから、外見さえ整えれば任務に使えるかと思って、こうして拾ってきたの」
「任務かぁ。もしや、あのガーランドうんちゃらコーポレーションのガラパーティー? ペルモンド・バルロッツィの恋人やったっちゅう噂のある会長、やっぱキナ臭い人物なんか?」
「あなたは本当にゴシップが好きなのねぇ」
 店主から、不意に飛び出した核心を突く言葉。それを躱しながら、ジュディス・ミルズは腕を組む。彼女は、店主から出てくる次の言葉を窺った。そして、店主は言う。
「そら誰かて気になるやろ。あの怪人ペルモンド・バルロッツィが死んだあと、急に湧いて出てきた特大の噂やで? 今までそんな話、どこにも出回ってへんかったやん。極度の男嫌いで有名なペルモンド・バルロッツィが、まさかソッチ側だったなんて、なあ? うちらと同じやなんて、なんや親近感湧くやんか」
「いいこと教えてあげる。ついこの前にある本が出たのよ。そこに答えが全部載ってるわ」
「もったいぶらずに教えてやー。うちに読書する暇すらあれへんことぐらい、あんたも知ってんやろ?」
「ゴシップの情報を仕入れるヒマはあるのに?」
 幸い、店主の興味関心は『ペルモンド・バルロッツィ』という存在にだけ向いている模様。それに安堵したジュディス・ミルズは、その下世話な話に乗ることにした。彼女は、彼女が知り得ている情報を明かすことにしたのだ。
「つまり、怪人なんて存在していなかったってことよ。いつかクランツ高位技師官僚が言っていたでしょう。彼は、世間が求めていたペルモンド・バルロッツィという男を演じていたピエロでしかないって。それが答え。彼は、虐待と性暴力で自我を叩き潰され、傷の痛みを紛らわすために薬物に溺れ、そのうちに人格交代を身に着けて、それらが治ることもないまま、そのまま成長した人だった」
「へぇ……」
「――いえ、簡単に纏めすぎたわね。真実はもっとひどい。若い頃は、周囲からサポートを受けて寛解していたのよ。当時の奥さんと、当時の主治医、それと友人に恵まれて、彼は立ち直っていた。けれど、あるとき奥さんが亡くなって。そこに悪魔がつけ込んだ。世間では『狂気の天才に寄り添い続けた献身的な妻』とされているブリジット・エローラによって、彼は壊されて、あのようなピエロに変わり果ててしまったのよ。そして最近出た本は、彼の昔の主治医が出したものでね。ブリジット・エローラという人物に対する恨み節が、これでもかと詰め込まれていた。読んだら驚くと思うわ。世間に今まで出回っていた噂話の中に何一つ本当のことがなかったっていう事実が記されているから」
「……」
「つまり彼は、その場その場をやり過ごすために、その場に即した演技をし続けていただけ。そして、その特性を都合よく利用していた人々がいたというだけなの。事実は、ただそれだけでしかなかった」
「なるほど、ピエロかぁ。エイミー、あんたもそうなん?」
 再び、店主はジュディス・ミルズの不意を衝く。この切り返しを予想していなかったジュディス・ミルズは、すぐに言葉を返せず、口を噤んでしまう。
 ジュディス・ミルズは店主の様子を窺った。店主は、ただ真正面を向きながら、トリートメントを塗布したセイディの髪をラップで包むだけ。そして店主は前を向いたまま、言葉を続けた。
「うちの叔父さんに、ジェイコヴっちゅうひとがおってん。その叔父さん、えらい長いこと失踪しとったんや。せやけど、二〇年ぐらい前やろか、急に叔父さんの訃報が舞い込んできてな。そのときに叔父さんがASIの局員やったーと判明してん。――あんたもASI局員なんか?」
「どうしてそう思ったの?」
「なんや、あんたの雰囲気が叔父さんにそっくりやからや。尻尾隠すのに必死になっとるとこ、まんま同じやで」
 このサロンの店主、モニシャ・パテル。彼女は、およそ二〇年前に殉職したASI局員ジェイコヴ・パテルの姪である。そしてジュディス・ミルズがここに通い始めたのも、それが理由。殉職した局員の親族、その監視を兼ねていたのだ。
 本当のところを明かすわけにはいかぬジュディス・ミルズは、店主の背中を見つめながら、黙りこくる。すると店主はひとつ大きな溜息を吐いた。それから店主は言う。
「実は、ライオンさんと()うたときにピンと来たんや。叔父さんの奥さんやーゆうひとに初めて会うたときに、そのひとが言うたねん。ASI局員を名乗った金髪で左頬に大きな傷のある女のひとが、叔父さんの殉職と、それと真実を教えてくれたってなぁ。で、その女のひと、ライオンさんちゃうかー思うたん。ライオンさん、金髪やし、左頬にでっかい傷があるやろ?」
「……」
「まっ、幸いうちは口だけは堅いほうや。安心しとき。――にしても、ASIかぁ。ASIは正義の味方なんやろ? カッコエエなぁ、あんたらは。うちと大違いや」
 ここまで割れてしまっているなら、仕方ない。そう諦めたジュディス・ミルズもまた、重たい溜息をひとつ零す。そしてジュディス・ミルズは重たい声で言った。「……あなたのサロンがあるから、私はこの仕事をやっていけてるの。綺麗にしてもらって、モチベーションをやっと維持できてる。私にとって、あなたは十分にクールな存在よ」
「ハハッ。悪いけどなぁ、エイミー。うちには相方がおんねん。今は、恋人の募集はしてへんで~」
 店主が冗談めかしてそう言ったとの同時に、ラップを巻く作業が終わる。頭をラップでぐるぐる巻きにされたセイディは、しかし相変わらず気絶したように眠りこけているだけ。目覚めそうな気配はない。
 昨晩、ふらりと倒れて以降。セイディはこの調子である。今朝はフラフラながらも動き回れていたが、このサロンに着いた後はこの有様だ。抗えぬ強烈な睡魔に頻回襲われている様子で、意識が明瞭である時間が短い。これは以前に見られなかった傾向だ。
 瞬間移動という能力。その代償、つまり肉体的なダメージが脳にまで及んでいなければよいのだが……。そんなことを考えながら、ジュディス・ミルズが険しい顔をしていると。ヘアトリートメント作業をひとまず終えた店主が、一旦ジュディス・ミルズのほうに振り向いた。
「まあ、そらええとして。方向性はどないすん? セイディのこの顔と身長やったら、エレガントに、クールビューティーの路線で行くのがベストやとうちは思うで。クラシカルなウェーブシニヨンとかどうやろか? 月桂樹モチーフのボンネでまとめると、セイディの場合は雰囲気が締まる。あと太めのホルターネック、且つ背中開きのタイトなドレス。色は濃い青か藍色や。大胆に背中をバッカン見して、シックながらもセクシーに決めた方が彼女に似合う思うねんけど。どうやろか?」
「良いわね、それ。じゃあ当日、その方向でヘアセットを頼めるかしら? ドレスもその路線のものを探してみる」
「よっしゃ、決まりや。任しとき~」
 店主はそう言い、両手をパンッと打ち鳴らす。それから店主は一度、バックステージに移動した。そこからスキンケアや脱毛に使用する大掛かりな機械一式を引き摺って出てくると、店主は施術台の上で熟睡するセイディの脇に立つ。店主はセイディの寝顔を見下ろしながら、何かを考え込むように腕を組みつつ、本音を明かした。
「見れば見るほど綺麗な顔なんやけどなぁ。あんたの言う通り、肌の状態が悪すぎる。このままじゃ化粧もでけへんわ。粉吹きパラダイスになる。まあ、そのまんまでも悪ない顔なんやけど、フォーマルなガラパーティーとなると、化粧はドレスコードみたいなもんやしなぁ。化粧ができる状態にせなあかんわけやけど。しっかし、どこから手ぇ付けたもんか。ここまでの強敵、今まで相手にしたこともないしなぁ。今日一日で、どこまで改善できるか。ついでに首から下の毛は全部とるやろ? その肌ダメージも考えると、ぬぅ~……」
 店主はそう言いながら、眠るセイディの頬をブニブニと指先でつつく。しっとりさなど皆無なセイディの肌は、その指先に吸い付くことなどなく、触れたものにカサカサとした質感を与えるだけ。そうして店主が手を離し、悩ましさから肩を竦めたとき。何かに気付いたのか、店主が首をひねる。
「どうかしたの、モニシャ」
 ジュディス・ミルズが店主に声を掛けると、店主の視線がジュディス・ミルズに戻る。すると肩を落とす店主はひねった首を元に戻しながら、ジュディス・ミルズにこう言った。
「セイディの顔。どっかで見たことある気ぃするんや。せやけど、そらどこやったやろか……」
 再び店主の視線はセイディの寝顔に向く。そのときジュディス・ミルズが思い出したのは、先日に見た主席情報分析官リー・ダルトンの異様な様子。目覚めた直後のセイディの顔を、妙に凝視していた彼の姿だ。
 あのときのジュディス・ミルズは、何か下心を持って彼はセイディを見ていたのではないかと考えていたが。よくよく考え直してみると、主席情報分析官リー・ダルトンというのは悲しい男。彼もまた生粋の仕事人間だ。善からぬ衝動から道を踏み違えることはしない慎重さも持っている人物でもある。
 あの時の彼も、今の店主と同じことを考えていたのだろう。だが彼は閃いた直感を下支えしてくれる答えを見つけられず、諦めた。恐らく、ASIのデータベース上に答えはなく、代わりに『彼の記憶』の中に答えがあったのだろう。そしてあのとき、彼はそれを自身の中から引き出せなかった。
 しかし店主は違ったようだ。店主は何かに気付くと目を見開き、直後、ジュディス・ミルズのほうにドタバタと駆け寄ってくる。店主はジュディス・ミルズの左手を両手で掴むと、その手をブンブンと上下に振りながら、大声で叫んだ。
「ブレア・マッキントッシュ! セイディ、彼女にそっくりやで!!」
 店主は声を張り上げたあと、ジュディス・ミルズの手を解放し、スッキリしたという顔をする。それから店主は特に意味もなく、その場でくるりと回った。
 聞き覚えがあるようで、ないような気もする、その名前。店主が興奮した理由を掴み切れなかったジュディス・ミルズは眉をひそめた。すると、察しの悪いジュディス・ミルズを見た店主は大袈裟な溜息を吐いて、呆れを表現した。それから店主は、鈍いジュディス・ミルズに対して解説をする。
「マッキントッシュはその昔、快楽殺人鬼とされとったけど。最近やと、復讐に殉じた被害者遺族やった、ちゅう説が濃厚らしいで。スコットランドの田舎で起きた未解決の殺人事件、その被害者の一人娘がブレア・マッキントッシュやったのちゃうかって。ほんでマッキントッシュ事件で有名な『道連れにされたややこ』の話もな、実は道連れにされてへんで、生きとったんちゃうかー言われとるんやと。マッキントッシュの弁護士が、そのややこを自分の次男坊として迎え入れたんちゃうんかって。そういや、その次男坊がボストンを吹っ飛ばしたテロリストらしいちゅう噂もあるらしいなぁ。血は争えないもんなんかねぇ」
 ブレア・マッキントッシュの息子は、ボストンを吹き飛ばしたテロリスト。その話を聞いたジュディス・ミルズが、今度は驚きから目を見開く。
 ボストンを吹き飛ばしたテロリストとは、即ち今は『憤怒のコヨーテ』と呼ばれている男のことだ。そしてセイディはその男に顔が似ていると思われていたが、正しくはそうでなく、その男の母親だと疑われている人物に似ているとのこと。
 驚きは束の間、次は困惑と呆れがジュディス・ミルズを襲う。額に手を当てるジュディス・ミルズは、またこのパターンかと表情を険しくさせた。ラドウィグという存在の背景にある厄介なルーツの謎、それと同じ壁にブチ当たりそうだ――仮説だけがあるものの、真偽を確かめる術がないという壁である。
 それでも、一応は確認をしておかねばならない。椅子から立ち上がるジュディス・ミルズは、眠るセイディの傍に異動する。そして彼女はセイディの頬を平手でペチペチと軽く叩くと、起きるよう促した。「セイディ、起きて。確認したいことがある」
「……?」
「ブレア・マッキントッシュって名前に聞き覚えは?」
 おぼろげに開いたセイディの目。しかしその瞼はすぐに閉じ、気を失う。返答は何もなく、ジュディス・ミルズの今の言葉を理解していたかさえ分からない。
 底に何もない濁ったぬるま湯の中に、繰り返し何度も手を突っ込んでいるだけ。手探りを続けて、掻きまわしてみるが、結局は何も見つけられない……。ラドウィグやオーウェン・レーゼ、そしてセイディらと関わっていると、そんな気分が頻繁に襲い来る。そうしてまたやってきた虚無感と徒労感にジュディス・ミルズが肩を落としたとき、店主が彼女の肩を叩き、問うてきた。「セイディ、疲労困憊って感じやなぁ。何かあったん?」
「まあ、色々と。昨晩は大騒動が起きてたのよ。セイディも駆り出されて。彼女、大活躍だったし。疲れが溜まっているんでしょう」
 詳細は話すことができないため、話の内容は曖昧にして濁す一方。ジュディス・ミルズはその声色と身振り手振りで、どれほどの大混乱が起きていたのかを暗に示した。彼女の意図を読み取った店主は口角を下げて目を細め、同情を示す。それから店主は、ある提案をした。
「ついこの前な、酸素ポッド、導入したねん。一流のアスリートが使うようなやつなんやけど。セイディ、それにぶち込むか?」
「施術が終わったあと、お願いするわ。それで少しは回復してくれると良いんだけど……」
「セイディの施術は当分終わらんし。その間、あんたが入るか? 追加料金もらうけど」
 ジュディス・ミルズはその提案に乗り、首を縦に振る。と同時に、チャリンという小銭が手から零れ落ちる音を聞いたような気がした。
 ――そうしてジュディス・ミルズが酸素ポッドに入ろうとしていたとき。キャンベラのオフィス街に聳える立派な建造物の中に、アレクサンダー・コルトは居た。
 バルロッツィ財団。エントランス前の銘板にそう記されていた、この建物。そこに彼女は、バルロッツィの姓を継ぐ人物エリーヌを伴って来訪していたのだ。
 そしてアレクサンダー・コルトは半年以上ぶりに、カチッとしたパンツスーツに袖を通している。といっても、特務機関WACEに在籍していた頃に着用していた喪服然とした一級品の黒スーツではなく、そこらの量販店で買えるような安物のスーツである。
 上下ともにネイビーで揃えられたスーツは、出来合いのセットアップのようで、実は違う。トラウザーズは、大柄でやや肥満ないし筋肉質な体格の女性向けのものである一方。ジャケットのほうは、マッチョな男性向けのもの。それも急遽コービン・デーンズから借りた彼の私物である。
 アレクサンダー・コルトの筋肉で膨れ上がった腕が通るジャケットが、女性向けの既製品にはなかなか無く、それもあって長いこと買わずにいたスーツのジャケット。しかし彼女は今、同僚から借りた男物のジャケットに着心地の良さを感じていた。
 まるで特務機関WACEに在籍していた頃に着ていたスーツと同じ動きやすさが、このジャケットにはある。あのジャケットに負けず劣らずの着心地の良さだ。
 ――そういえば、あの黒スーツを仕立てる直前。サー・アーサーはアレクサンダー・コルトに向けて小言をグチグチと連ねていた。お前は筋肉質の度合いが過ぎて既製品では無理だとか、今よりも多い筋肉量にしてはいけないだとか、破かないように動きには十分に注意しろだとか、なんとか。
 どケチでありながらも、身形にはイチイチうるさい。髪型ひとつにもケチをつけ、少しの体型のブレにもケチをつけてくる。思い返してみれば、サー・アーサーとは本当に面倒臭い男だった。アレクサンダー・コルトは今、あの男と縁が切れて清々したと感じている。
「……あぁッ、クソ。照明が朝から眩しすぎるぜ……」
 男もののジャケット。この解があったのか、とアレクサンダー・コルトはひとり納得しながら、しかし悪態をつく。それから彼女は人目を忍ぶように顔を俯かせながら、無機質な義手の左手で口元を覆い隠すと、こっそりとあくびをした。あくびに伴う涙で目を少し潤ませながら、アレクサンダー・コルトは不審者然としたエリーヌの背中を見る。
 屋内でありながらも、エリーヌはフード付きのマントを目深に被り、その下にはニット帽を被って髪を徹底的に隠していた。更に、黒を基調としたゴシック調メイクで顔の印象を誤魔化している。そうして怪しい人物に擬態していた彼女は、バルロッツィの姓を受け継ぐ人物でありながらも、バルロッツィ財団の職員たちから不審がられるような目を向けられていた。
 エリーヌは向けられる冷たい視線に肩を震わせながら、逃げ込むようにエレベーターへと乗り込んでいく。アレクサンダー・コルトは彼女を守る盾となることを意識しながら、周囲の視線を遮るように立ち回りつつ、彼女の後を追って同じエレベーターの中に乗り込んだ。
 アレクサンダー・コルトはエレベーターのドアを閉めるボタンを素早く押すと、続けて最上階往きのボタンを押す。そうしてドアが閉まったとき、アレクサンダー・コルトは今日何度目かのあくびをして、それから腕を真上に伸ばし、背中の緊張を緩めた。……すると、その彼女の背後から、エリーヌが零した安堵の吐息が聞こえてくる。人目に付かない密室、そこに入り込めたことでエリーヌは安心したのだろう。
 とはいえ、アレクサンダー・コルトは彼女に声を掛けるようなことはしない。お互いを暗に思いやっていたからこその沈黙が二人の間にあるのみ。今朝からずっと、この調子だった。
「……」
 今朝は、アレクサンダー・コルトにとって最悪の夜明けとなった。
 長い長い渋滞の車列に囚われたせいで身動きがとれなかった三時間。AI:Lから知らされたASI本部局での騒ぎに、しかし彼女は駆けつけることができず。ヤキモキした感情を抱えながら、ようやく目的地であるASI本部局に辿りついたとき。あろうことか、彼女はジュディス・ミルズから「自宅に戻って、エリーヌを拾い、その足でバルロッツィ財団に向かって、現会長のケイヒル氏と会ってくれ」と命じられた。三時間もかけて辿り着いた道を、また引き返せと命じられたのだ。
 負傷し、搬送されていったというテオ・ジョンソンの容態も分からないまま。不安と苛立ちと眠気を抱えた状態で、アレクサンダー・コルトは今もここにいる。
 だが、もっと不安な状況にあるのはエリーヌのほうだろう。世間では、二〇年以上前に殺されたことになっている彼女は、しかしこうして舞い戻った。新たな肉体と、生前と同じ容姿と共に……。
 万が一、どこからか情報が洩れて存在が明るみに出てしまえば、彼女は彼女の父親と同じ道を辿ることになるだろう――怪物として世間に弄ばれて、ひとりの人間としての尊厳を奪われる道だ。
「お帰りなさい、エリーヌ。待っていたわ、ずっと」
 最上階、会長室だけが入るフロア。そこにエレベーターが到着し、ドアが開いたとき。開いたドアのすぐ向こう側に、ひとりの上品な老女が佇んでいた。
 落ち着きを払った高貴な佇まい、品格と知性の宿る黒い瞳、子供が作ったと思われる拙い手編みのショールを肩に掛けている老女の名前は、セシリア・ケイヒル。バルロッツィ財団の現会長であり、エリーヌの養母であり、そして怪人ペルモンド・バルロッツィの尻拭いに追われ続けた人物だ。
 陽光の当たる場所も、そして陽の差さぬ影すらも、その裏から支え続けた舞台裏の主。怪人ペルモンド・バルロッツィとも、憤怒のコヨーテとも、そしてマダム・モーガンとも違う、独特のオーラを放つ老女に圧倒されるアレクサンダー・コルトは息を呑み、緊張から姿勢を正す。
 しかし、エリーヌの反応は真逆だった。彼女からは緊張が抜けていく。恩人に歩み寄る彼女は、挨拶と再会の喜びを伝えるハグを交わした。数秒後、老女はエリーヌから少し離れると、彼女の目を見つめながら穏やかな声で言った。
「いつかこんな日が来るような気がして、あなたの私物は残しておいてあるわ。ここに幾つか移したものもあるし、あなたの自宅は可能な限りそのままの状態で残してある。レニーの私物も、双子たちの部屋も、そのままの状態にしてある。必要なものは持っていって構わないわ。ただし別荘は今、グループホームとして運用しているから、そこには立ち入らないで頂戴」
「別荘って、アルストンビルの? あんな場所にグループホームだなんて、不便だと思うけれど」
「不便な田舎だからこそよ。人の往来が少なく、開発とも無縁で変化に乏しい。都市部の喧騒下ではパニック発作を起こしてしまうひとたちにはピッタリの環境。彼らにマカダミアの栽培や加工をやってもらいながら、規則正しい落ち着いた日々を過ごしてもらっているのよ。――そんな場所に、かっちりとしたスーツを着た来客があっては困りますからね。入居者が混乱してしまう」
 老女の冷たい瞳が、アレクサンダー・コルトを見やる。部外者は今は黙っていろという牽制だ。その視線を受け取るアレクサンダー・コルトは表情を険しくさせた。そうして緊張を強めたアレクサンダー・コルトが腕を組んだとき、威厳ある佇まいの老女は歩き出す。アレクサンダー・コルトとエリーヌは、その背中を追いかけた。
 エリーヌは老女の横に並び立ち、アレクサンダー・コルトは二人よりも一歩下がった位置を心がけて動き、出しゃばった真似をせぬよう意識する。近寄るなという訴えを、老女の背中から感じていたのだ。
 アレクサンダー・コルトの前を歩く二人の女性。彼女らはアレクサンダー・コルトをそっちのけで、彼女らの話を歩きがてらに交わしていた。
「エリーヌ。あなたはもう知らされているかしら。ペルモンド、彼が亡くなったことを」
「ええ。けれどあの人が死んでいるとは俄かに信じられなくて」
「彼の遺体を確認した。今回ばかりは本当に死んでいたわ。そして彼は火葬されて、海に撒かれた。お墓のようなものは彼の遺言に従って用意していない。ごめんなさいね」
「……私は、立ち会えなかったのね。自分の父親の死に目に」
「誰一人として立ち会えなかった。誰にも何も知らせずに、人目に付かない場所で自死していたのだから」
「自死……?!」
「ええ、そう。最期まで傍迷惑で身勝手な男だった。掻き乱すだけ掻き乱して、真相は何も明かさずに逝ったうえに、彼は背負い込んでいた責任や呪いをすべて後任の若者に押し付けたのよ。イザベル、あの子に責任と後始末を全部押し付けて死にやがった。本当に赦せない……」
「……」
「まあ、それはさておき。彼の遺品がいくつかここに残っている。彼が、あなたに遺したものも預かってある。見ていきなさい」
 二人の会話を盗み聞きしつつ、アレクサンダー・コルトは険しくさせていた表情を解く。そんな彼女は、訝しむ目を老女の背中に向けるだけ。
 二〇年前に殺されたはずのエリーヌが、二〇年前と変わらぬ姿で舞い戻ってきたことに、一切の動揺を見せていない老女の様子。エリーヌの父、ペルモンド・バルロッツィの死を淡々と伝えている姿。しかし、その後に見せたのはペルモンド・バルロッツィに対する怒り……。
 そんな老女の姿は、普通の一般市民とは形容しがたい。一般市民にしては多くを知りすぎている。とはいえ、政治家というわけでもなく、官僚でもなく、司法に携わる者でもなく、諜報員でもなく、フィクサーやロビイストというわけでもなければ、資本家でもなさそうだ。微妙で曖昧な立ち位置、そんなところだろうか。
 近い言葉は、活動家や慈善家といったところ。しかしその枠の中に、完全に当てはめることもできぬ難しさも感じてしまう。そのように分類の難しい老女の背をアレクサンダー・コルトが見ていると、その老女が立ち止まり、振り返る。
 振り返った老女と、アレクサンダー・コルトの目が合わさった。が、老女はすぐに視線を逸らす。アレクサンダー・コルトよりも低い位置に視線を落とすと、彼女よりもさらに後ろを見やった。それから老女はこう言う。
「レイ、あの部屋に案内してあげて。ただし財団職員に見つからないよう、慎重に」
 アレクサンダー・コルトも振り返り、彼女の背後にあるものを見た。そこに居たのは、二足歩行の猫のような外形をしたロボットである。猫の模様は茶トラ柄で、リアルではないが愛らしくデフォルメされた猫の姿をしていた。
 そして老女は今、その猫型ロボットのことを『レイ』と呼んだ。レイとは、恐らくAI:Lのことである。ASIにおいては、見目麗しい金髪の女性のような姿のアンドロイドとして認識されている、あのAI:Lだ。
「ここにもレイが居るのか。それも猫型ロボット。ほぉ……」
 アレクサンダー・コルトがそう呟くと、猫型ロボットは彼女に軽く頭を下げて、会釈をした。それから間抜けにヒョコヒョコと歩く猫型ロボットはエリーヌに歩み寄ると、彼女の手を取り、エレベーターへと導いていった。そして猫型ロボットとエリーヌはエレベーターに乗り込み、消えていく。最上階のフロアに遺されたのは、老女とアレクサンダー・コルトだけになった。
 エレベーターの扉が閉まったタイミングで、アレクサンダー・コルトは身を素早く翻し、老女のほうに向き直る。そして彼女が老女の目を見たとき、老女は口を開いた。
「彼の息が掛かっている場所すべてに、アシスタントAIであるレイが居ると思いなさい。場所に応じてハードの形状は違うものの、ソフトの部分は同じシステムを共有している。同じレイが、あちこちに点在しているのよ」
「へぇ」
「ちなみに、猫型ロボット、それも茶トラ模様なのはペルモンドの趣味によるものよ。アポロっていう猫を彼はかつて飼っていて、恐らくその猫に似せようとしたんでしょう」
 アポロ。その名を呟いたとき、老女の纏う雰囲気が変わる。それまでアレクサンダー・コルトに冷厳な態度を示していた老女だが、それが今、融けた。過去を懐かしむ小さな微笑みと共に猫の名を呟いたあと、老女は穏やかな目をアレクサンダー・コルトに向ける。それから彼女はアレクサンダー・コルトに言った。来なさい、と。
 再び歩き出した老女のあとを、アレクサンダー・コルトは追いかける。そうして彼女が通されたのは、モダンでシンプルな家具で揃えられた会長室だった。
 必要最小限の家具のみが並んでいる一方、家具を彩る装飾品は雑多。洗練された民芸品と思われるものが壁に掛けられて飾られているし、壁際に並ぶコンソールデスクの上には子供が作った紙粘土の作品や絵が陳列されている。そして、会長が座す椅子の背後の壁に掛けられた絵。これは不思議とアレクサンダー・コルトの関心を惹き付けた。
 どこかのバーかパブと思われるカウンターの天板。その上に並べて置かれたトウモロコシ皮の網かご。それらの中には、猫が一匹ずつ入っていて、心地よさそうに眠っている。そして、絵の下に掲示されていたプレートには、その絵の題名と作者の名前が記されていた。
 題名、愛しきイシュケとビャーハ。作者、J・L・D・ホーケン。
「あら。あの猫の絵が気になるの?」
 猫の絵を凝視していたアレクサンダー・コルトに、老女はそう問う。アレクサンダー・コルトが頷けば、老女は絵に纏わるエピソードを彼女に教えてくれた。「ペルモンド。あのひとは人が好すぎて、色々と困らされてきたわ。特に困らされたのが、彼のアートコレクションよ」
「アートコレクション? あの人が、そんなものを持っていたのか?」
「ええ。本人は芸術に興味なし、けれども大量の作品を保有していた。カネに困っているアーティストもどきに気安く同情するひとだったからよ。彼はしょうもない作品を高値でどんどん購入していって、しょうもない作品を大量に溜め込んだ。いつしかそれを誰かがバルロッツィ・コレクションと呼び出し、奇妙なブランド化が我々の与り知らぬところで加速していった。やがて彼のコレクションを欲しがる愚か者が出現し始めて……――資産としてのアートっていうのは本当に馬鹿らしい世界だと、そう思わされたわ」
「ハハハ。彼らしいエピソードだ」
「加えて、彼は困ったことに異常なほど物欲がないひとだった。求められれば二つ返事で応じて、作品を簡単に手放そうとする。それも二束三文で。私は毎度、それを止めるのに必死だった。けれども彼の記憶力はダチョウ並み。一度引き留めても、すぐ忘れてまた同じことを繰り返す。呆れた私は、彼から作品をすべて取り上げることにした。財団を設立して、その財団に作品の所有権をすべて移して、信頼できるブローカーを雇い、しょうもない作品で利益を上げることにした。そうして今のバルロッツィ財団がある」
「なるほど」
「けれども。彼が唯一、執着を見せて手放したがらなかった絵がある。それが、あの猫の絵。彼が言うには、これはある人物から一時的に預かっているだけの絵であって、つまり彼の私物ではないんですって。だからこの絵だけは絶対に売り払うなと、今も職員たちにも言いつけてあるわ」
 ペルモンド・バルロッツィに纏わる長い話をする傍ら、老女は部屋の奥に向かい、何かを取りに行った。そして彼女は一着のドレスを持って、アレクサンダー・コルトのもとに戻ってくる。次に老女は部屋の中央に設置されたソファーを指し示すと、アレクサンダー・コルトに座るよう促した。
 高級感溢れる革張りの白いソファー。年季ものである一方、手入れが行き届いているそのソファーに、アレクサンダー・コルトは臆することなく腰を下ろした。それも女性らしく股を閉じることもせず、男のように大胆に足を開いて座ったのである――ちなみにコレは、特務機関WACE時代に大男ケイから仕込まれた『簡単で効果的なハッタリ』のポーズだ。
 アレクサンダー・コルトの豪胆な振る舞いに、老女は苦笑するのみ。そして苦笑する老女は、持ってきたドレスをアレクサンダー・コルトに手渡すと、こう言った。
「これはあなた宛てのドレス。ペルモンドから渡すよう頼まれていたものよ。ひとまず受け取ってもらえるかしら」
「アタシに?」
「正しく言うと、ASIの局員に渡せと書状には書いてあった。誰に、とは指定がされていなかったわね。――それに、あなたはこのようなドレスを着るタイプには見えない」
「ああ。仰る通り、そういうガラじゃないさ。タキシードのほうが好みだね」
「まあ、詳しいことはわざわざ言わずとも分かるでしょう?」
 そう言うと老女は笑い皴をより一層、深く濃く顔に刻む。その笑顔が意味するのは、ペルモンド・バルロッツィの予言。それが彼女の許に届いていたということだ。
 未来に起こることを確実に言い当て、その未来に近づけるため誰かに特定のアクションを求める予言。それは一着のドレスと共に、老女からアレクサンダー・コルトに引き渡された。
 アレクサンダー・コルトは受け取ったドレスを怪しむように見つめながら、ひとまずそれを広げてみる。ドレスの全容を確認したあと、アレクサンダー・コルトは顔を顰めた。
「ミスター・ペイルには、こういった趣味が? 露出が激しいような気もするんだが」
 そのドレスは、細身でかなり高身長な女性向けに仕立てられたもので、露出が多いデザインとなっている。首回りはホルターネックであり、背中は仙骨部まで丸見え。前面の露出は、ほぼ丸見えになる背面と比べれば控えめだが、とはいえ胸の谷間からヘソまでの盾のラインは大胆にも露わになるだろう。挙句、裾の左側面に入れられたスリットは深いなんてもんじゃあない。骨盤を通り越えて、腸腰筋のあたりまで剥き出しになりそうだ。幸い、ドレスの中にはドレスと一体化した隠しショーツが備わっていて、見えてはならない部分は見えずに済む構造となっているが……――そういう問題ではないと、アレクサンダー・コルトは感じていた。
 こんなものを渡されて、どういう反応をすればいいのか。下品としか思えないドレスを手に、顔をしかめるアレクサンダー・コルトは、そのままの顔で老女を見る。すると老女も顔を引きつらせながら、このように答えた。
「いいえ。ペルモンドに限った話をすると、こういうものは嫌いなはず。エリーヌがどれだけ強請ってもミニスカートやノースリーブを買うことを許さなかった人ですからね。ここまで大胆に背中と裾が空いたドレスなんて、論外。ましてや青色、それも濃紺ですもの。エリーヌが大嫌いな色を、わざわざ手元に置くような意地悪な父親ではなかった」
「つまり、ペルモンド・バルロッツィではない、他の彼は違っていたと?」
 ペルモンドに限った話。妙な前置きが気になり、アレクサンダー・コルトは鎌をかける。すると老女は引き攣らせていた笑顔を解いて、どこか哀愁の漂う寂し気な表情を見せた。そして老女はアレクサンダー・コルトに言う。
「実は、左頬に大きな古傷のある金髪の人物がここを訪れたら、過去のことを洗い浚い全て話していいし、そうしてくれとペルモンドから言伝を預かっているのよ。話は長くなるけれど、構わないかしら?」
 その提案に乗るアレクサンダー・コルトは、すぐに首を縦に振る。と同時に、彼女は受け取った下品すぎるドレスを畳みはじめた。
 皴が付かぬよう丁寧に、慎重に畳まれていくドレス。珍しくガサツでない振る舞いを見せるアレクサンダー・コルトの様子を伺いながら、老女はアレクサンダー・コルトの座るソファーの向かいに設置されたもう一脚のソファーにそっと腰を下ろす。上品に足を閉じて綺麗に座る老女は、正面に座るアレクサンダー・コルトの手元を見つめながら、昔の話を語り始めた。
「私が彼と出会ったのは、お互い二〇代半ばだった頃のこと。それより前の、特に十七歳から十九歳のときが、彼の最も荒れていた時期だと聞いている。ユーリという共通の知人から聞いた話によれば、ですけれども。ペルモンドが大学生の頃、かつ彼がアーティーと出会うより前の時期。まだ『ペルモンド』という人格が確立されていなくて不安定だった頃ね。その時期に存在していた彼の別人格のひとりは、こういった系統の女装をして火遊びをしていたと聞いている。そして別人格が火遊びしたあと、身に覚えのないドラッグがもたらす離脱症状やストレスによって発現したフラッシュバックに苦しめられるペルモンドの介抱をしていたのが、ユーリだった。そしてペルモンドの別人格と共にハイになって楽しんでいたのが、デリック・ガーランドよ」
「へぇ。あの会長さんが、ドラッグを?」
 デリック・ガーランド。それはガーランド・ミュージカル・コーポレーションの創業者で、チャリティーオークションを兼ねたガラパーティーを近々開催予定の、あの人物だ。
 ペルモンド・バルロッツィの知人だという情報は把握していたアレクサンダー・コルトであるが、それ以上の関係、それも肉体関係があったという話は初耳。ましてや、ドラッグという文脈でその人物の名が登場したことに、彼女は驚きを得ていた。
 すると昔話を語る老女は溜息を零す。老女は心の底から噴き出してくる嫌悪感を表情と声色に表出化させながら、デリック・ガーランドという人物に言及した。
「ユーリがペルモンドから薬を抜いても、デリックがまた彼に盛るんですからね。そしてユーリがペルモンドに対してデリックと距離を置くよう説得しても、ペルモンドの記憶力は長続きしないうえに、彼の別人格はドラッグ欲しさでデリックに擦り寄っていく。加えて、デリックは薬物乱用を悪いことだとは考えていなかった。エクスタシーならすぐ抜けるからいいだろうと、デリックはユーリの前で(のたま)っていたそうよ」
「そりゃ、素晴らしい倫理観だ。ハッ……」
「ユーリがデリックを憎むようになったのは無理もない。私も、未だにデリック・ガーランドという男の人間性には嫌悪感を覚えるもの。クロエという共通項がなければ、私たちはとっくの昔に縁を切っていたことでしょうね。――ああ、そうだ。デリックが撮り溜めたものの、クロエが罰として取り上げた昔のペルモンドの写真を彼女から預かっているけれど。あなた、興味は?」
「勿論。ぜひとも拝見させていただきたい」
 アレクサンダー・コルトが嬉々とした声で返事をすれば、ソファーに座ったばかりだった老女はすぐに立ち上がる。そして老女は執務机に向かうと、一番上の棚を開け、そこから一冊の古びたアルバムを取り出した。
 アルバムを取り出して戻ってきた老女は、しかし元いた場所には戻らず、アレクサンダー・コルトの隣にそっと座る。そして向かい合う二脚のソファーの中央、狭間に置かれたコーヒーテーブルの上にアルバムを置くと、その表紙を開いた。
 最初に目にしたページ。そこには十分すぎるほど刺激的な写真が数枚、封入されていた。それを目にしたアレクサンダー・コルトは、思わず笑ってしまう。
「ハハッ。こりゃ綺麗だ、予想していた以上に。一生を狂わせかねないほどの見事なオム・ファタルじゃないか……」
 昔のペルモンドの写真。その前提があったからこそ、アレクサンダー・コルトはその写真たちを女装であると見抜けているが。予備知識がなければ気付くことはできなかっただろう。
 華奢で中性的な体格や、まだあどけなさの残る顔立ちが相まって、完璧な仕上がりとなっていた女性装は、ある種のアートとして成立している。その身に纏っていたのは、透けた素材やクリスタルを用いて作られた、衣服として成立しているのかが怪しい過激なネイキッドドレスだったが。しかし綺麗だという印象を抱かせるのみで、下品であるといった感情は不思議と湧いてこない。だが疑問は残る。この写真の若者はあの男と同一人物なのか、と。
 自傷行為によって膨れ上がった無数のケロイドも、銃創と思しき痕跡も、何かしらの刃物で切り付けられたり刺されたりしたと思われる古傷も、勇敢に曝け出されていた。それは肌を徹底して隠していたペルモンド・バルロッツィという人物とは真逆の姿である。
 そうして次第にアレクサンダー・コルトの眉がひそめられていったとき。老女は過激なネイキッドドレスの写真にそっと触れる。それから老女は呟くように言った。
「完璧としか言いようがない、この女装。別人格がこういった装いを好んでいた事実もある一方で、ジェニファーという人物が促していた側面もあった。彼女が完璧な仕上げを施してから、彼を送り出していたのよ。傷を隠すなというのも、彼女の意向だった。隠せば後ろめたくなるから曝け出したほうが良いと助言していたと聞いている。そうしたほうが、より美しくなると。それに、ジェニファーは言っていたわ。当時の彼は本当に美しくて、天啓を与えてくれる最高のモデルだったと」
「ジェニファーというと、あの画商のジェニファー・ホーケン?」
 何日か前に荒れていたテオ・ジョンソンが、叫んでいた女の名前。それがジェニファー・ホーケンである。そしてアレクサンダー・コルトが確認してみれば、老女は静かに頷いた。が、途端に彼女の表情は暗くなっていく。
 顔を俯かせた老女は、アルバムをパラパラとめくり始める。様々な装いの『若き日の彼』の姿を悲し気に眺めながら、彼女は暗く沈んだ声でこのように語った。
「けれどもペルモンドは、全てを受け入れられなかった。その結果、彼は自ら肉体を破壊して、その姿を手放し、別人格を殺したのち、徹底して肌を隠すようになった。夏でも冬でも、常に長袖でタートルネック。本当に、どこまでも哀れなひとよ。思い出せない過去に、しかしずっと縛られていたのだから」
「アタシが知っている彼はその姿だ。黒いタートルネックのインナーの上から、ワイシャツを夏でも着ていて、暑くねぇのかと心配になってたよ」
「まあ、あのひとには暑い寒いを感じる感覚が備わっていなかったから。あの装いは合理的ではあったのよ。あのインナーには、体温調節をする機能が備わっていたから。汗を出せない肌を出すより、隠してしまったほうが体調のコントロールをし易いという側面もあった。けれど、それはあくまであの季節感の無い装いを正当化するための理由に過ぎない」
 パラパラとめくられるアルバム。最後のページに差し掛かると、老女は手を止める。その最後のページに封じられていた一枚の写真に、アレクサンダー・コルトの意識が向いた。
 その一枚に写っていたのは、アレクサンダー・コルトもよく知るペルモンド・バルロッツィと同じ姿をした、若い頃の彼である。その彼は、カメラないし撮影者に対して少しの怯えが滲んだ顔を向けていた。と同時に、撮らないでくれと訴えるような素振りを見せている。
 弾ける笑顔でポーズを決めていた、それまでの写真とは打って変わって、嫌がる素振りを見せている最後のページ。そこで終わる意味をアレクサンダー・コルトが考えていたとき、老女はアルバムをパタンと閉じる。そして老女は閉じたアルバムの裏表紙を見つめながら、重たい声で呟いた。
「ペルモンドを社会復帰させるべきではなかったのよ。イルモが間違いを犯したとしたら、そこだけ。ペルモンドには都会の喧騒に揉まれる日々でなく、穏やかな時間を与えるべきだった。その点、エリカが居た頃は良かったんでしょう。あのような小さくて代わり映えしない環境が彼には合っていたはず。高位技師官僚だなんていう激動に苛まれる立場ではなく……」
 そう言うと老女は額に手を当て、顔を隠す。しかし毅然とした声で、彼女は続けてこう語った。
「イルモの本はまだエリーヌに読ませないで頂戴。あの本には、彼女に隠してきたことばかりが詰め込まれていますからね。もう大人であるとはいえ、あの内容はそう簡単に受け止められるものではありませんから。特に実母の話は彼女に読ませたくない。それから、今の話も――」
「それについては、まあ、善処しますよ」
 ペルモンド、そしてエリーヌ。二人のバルロッツィと親しい間柄であり、家族に近いような立ち位置にありながらも、一歩引いた場所に立っているようにも感じる、その老女。アレクサンダー・コルトは不思議だと感じていた。
 そうしてアレクサンダー・コルトが老女の横顔を見ていると、老女は深呼吸をひとつし、それから姿勢を正す。次にアレクサンダー・コルトのほうに向き直る彼女は、アレクサンダー・コルトに今更とも思える問いを投げかけてきた。「ところで。あなた、お名前は? 偽名でなく、本名を教えて頂戴」
「アレクサンダー・コルトです」
「なるほど。あなた、特務機関WACEの人ね? しかし今はASIの所属」
 本名を名乗っただけで、すぐに特務機関WACEという言葉と紐付ける。その裏にある情報量にアレクサンダー・コルトは息を呑み、警戒を強める。そして次に老女が発した言葉は、アレクサンダー・コルトの警戒心を極限まで高めた。
「そういえば、もう一年ほどアーサーの姿を見かけていないのだけれど。彼の身に何か起きたのかしら?」
「あの男が何をしたのか。それを訊くべきではないですかね」
 特務機関WACEを知っている一方で、かつてアーサーと呼ばれていた男、つまりコヨーテ野郎の最近の動向は把握していないらしい。
 深くを知っているが、かといって深みに関わる当事者ではなく、そこまで警戒すべき人物でもないのか。それとも、今でもコヨーテ野郎と繋がりがありながらも、すっとぼけているのか。判断に悩むアレクサンダー・コルトが、目付きを鋭くさせてひとまず老女を睨む。――すると、睨まれていた老女は溜息を零した。それから彼女はアレクサンダー・コルトに言う。
「安心なさい。私は、あなたと敵対するつもりもない。アーサーに肩入れすることもありません。詳細は知りませんが……――思うに、あのバカは遂に爆発したのね? まさか、あなたの左腕は」
「ええ、まあ。そんなところですよ」
「……ともかく。私はこの命が尽きるときまで、天命を全うするだけです。ペルモンドのように追い詰められて道を誤る者や、アーサーのように社会から爪弾きにされて闇に堕ちる者を生み出さないこと、そのためのシステムを構築することこそ私の務めですから。北米では叶えられなかった私の夢を、私はここで叶え、次に託す。それだけですよ。今までも、これからも」
 あのバカ。語気を強めてそう言った老女は、心の底からコヨーテ野郎に呆れているようだ。そしてアレクサンダー・コルトの左腕、無機質に輝く白い義手を見やる老女の目は、アレクサンダー・コルトに対する同情と共に、その原因を作った男に対する怒りが宿る。
 だが荒れる感情はすぐに鎮み、老女の黒い瞳は暗く沈む。それから彼女は溜息と共に言った。
「戻れるのならば、ボストンに住んでいた頃に戻りたいものね。すべての後悔を清算できるなら、私は何だって差し出す。SODの顕現さえ止めてみせましょう。けれど……」
 けれど。そこで言葉は止まり、続きの文言は出てこなかった。それは老女自身が口を閉ざすことを選んだからであり、そのタイミングで物音が鳴ったからでもあった。
 アレクサンダー・コルトは、物音がしたほうに顔を向ける。そこには、ひとつのヴァイオリンを手に持っていたエリーヌの姿があった。そしてエリーヌは、様子がおかしな老女を不思議がるように見ると、こう言った。「どうかしたの……?」
「昔話をしていただけよ。それで、何か見つけたの?」
 老女がそう切り返すと、エリーヌは顔を曇らせた。だが彼女は深く追及はしない。代わりに歩を進めるエリーヌはアレクサンダー・コルトらが囲うソファーに近付くと、持ってきたヴァイオリンを掲げる。それからエリーヌは老女に向かってこんなことを言った。
「このヴァイオリンが気になったのよ。年季が入っていて古そうなものに見えるけれど、私が知らないものだったから、誰のものなのか疑問に思って」
 それはかつて、ペルモンド・バルロッツィが友人のために手作りしたもの。けれども彼と友人が袂を分かった折に、デリック・ガーランドを介してペルモンド・バルロッツィに返却された。そんな経緯のある“フィドル”だ。
 長く物置の隅に眠っていたフィドルを見ると、老女は少しだけ頬を綻ばせた。そして彼女はフィドルから連想して、遠い昔の記憶を掘り起こす。小さな微笑みを浮かべた顔を老女はエリーヌに向けると、穏やかな声でエリーヌに語りかけた。「エリーヌ、覚えてるかしら。あなたがまだ三歳だったときのことを。あなたはアーティーおじさんのフィドルが大好きでね。彼の弾く音に合わせて、クルクル回って踊ってた」
「……」
「彼が弾いている姿を見て、あなたは、自分も弦楽器をやりたいと言い始めたのよ。どうしてもフィドルを習いたいと泣いて喚いて、おじいちゃんとおばあちゃんを困らせていたわね」
「……いいえ。ボストンに住んでいた頃のことは全く覚えてないのよ。特に、祖父母の家に身を寄せていた頃のことは」
 老女の穏やかな声とは反対に、エリーヌの反応は冷めたものだった。覚えていない遠い昔の記憶を、エリーヌは重要なものでないとしてあっさりと切り捨てる。だが彼女の目は僅かに泳いでいた。そしてエリーヌは小声で呟くように言う。
「でも、少しだけ覚えている音がある。跳んで跳ねるような音階と、鋭く刻むリズムの棘で演奏されていた八分の十二拍子。陽気で楽しい音楽なのに、どこか冷たくて鋭利なニュアンスを帯びた音色が、たまに頭の中に響くことがある。私はずっとあの音を再現したくて、でもできなくて、ヤキモキしていた。じっくりと腰を据えて聴くには恐ろしい音色だけど、何も考えずに楽しく踊るにはとても適しているエッジの効いた音。……もしかして、その音が」
「レニーとテレーザの父親で、あなたの父親の友人だった男が奏でていたものよ。攻撃的なサウンドで、特に真夜中の演奏は荒れ狂ったように激しくなるから、通称『漆黒のジグ』と友人たちの間では呼ばれていた音。おそらく、あなたの頭に残っているのはその音なのでしょう」
 詳細は覚えていない、遠い昔の日々。その中で唯一、克明に覚えていた音の記憶。その正体が時を越えて明らかになったとき、エリーヌはフィドルを抱える腕に力を込めていた。
 そうして老女とエリーヌの二人がしんみりとしたムードに包まれていた横で、トボケ顔になる猛獣がひとりいる。金髪の猛獣アレクサンダー・コルトは老女の目を見ると、拍子抜けしたという声色で老女に問うた。「あの男はヴァイオリンを弾けたのか?」
「ヴァイオリンではなく、フィドル。彼はフィドラーだった。ヴァイオリニストではない。……ASIは、そんなことすらも把握していないのね。となれば、彼が虐待のサバイバーだという初歩的な情報すら把握していないのかしら」
「あの男は、上院議員の息子で、良家の出身で、いけ好かない金持ちのボンボンだとばかり……」
 コヨーテ野郎と呼ばれている男が、虐待のサバイバーであるという事実。その情報は、アレクサンダー・コルトにとっては初めて聞くものだった。そうしてアレクサンダー・コルトが驚きから大きな目を極限までかっ開いて硬直していると、老女は顔を顰める。それは今アレクサンダー・コルトが発した言葉がどれも的外れであったからだ。
「彼について、私の知る限りの情報を提供する。今、ここで。全て録音なさ――」
 半ば怒声をあげるように、老女はアレクサンダー・コルトに言う。だがその言葉は途中で打ち切られた――会長室の扉を慌ただしくノックする音と、その後に間髪を入れず続いた声によって。
「会長、緊急のご報告が。例の、タブロイド紙の件で……」
「その件は後で話し合いましょう。今、ここで話すべきことではありません」
 恐らく秘書と思われる女性の声が扉越しに聞こえてきたあと、会長である老女は素早くそのように切り返す。タブロイド紙。その言葉を聞いたとき、老女の顔は一段と険しくなっていた。
 バルロッツィ財団とタブロイド紙。それを紐付けるものを、アレクサンダー・コルトは知っている。イザベル・クランツ高位技師官僚宛てにタブロイド紙の記者が送り付けられたという一本の動画、それと関係しているのだろうと彼女は瞬時に察した。
 遂にその動画がバルロッツィ財団のほうにも送り付けられたのか。そう見立てたアレクサンダー・コルトであったが、その予想は外れる。それを彼女に告げたのは、ASI主席情報分析官リー・ダルトンだった。
 アレクサンダー・コルトが着ているジャケットの内側、左裾のポケットに突っ込んでいた携帯電話端末が、ブルブルと震えて着信を報せる。アレクサンダー・コルトは端末機を手に取りつつ部屋の隅に移動し、エリーヌらに背を向けるとそこで応答した。
「……どうした? 何かトラブルでも起きたのか?」
 アレクサンダー・コルトがそう応えると、電話の向こうからは主席情報分析官リー・ダルトンの乾いた笑い声が聞こえてくる。ひどく疲れ切った様子さえ感じる小さな笑い声のあと、主席情報分析官リー・ダルトンはジョークを発するような調子で言った。『ええ、まあ。トラブルっちゃあトラブルですねぇ。そして我らが猛獣はいつもタイミングが良い。ちょうどバルロッツィ財団の見解を伺いたいところだったんですよ』
「もしや、タブロイド紙が関連してるのかい?」
『おっ、話が早い。まあ、そうです。タブロイド紙が火種の件ですよ。それで、簡潔に言うと――』

Coming soon......