ジェットブラック・
ジグ

ep.05 - Orders are orders.

 マンハッタンの某所、子猫たちが自由に走り回るアパートの廊下にて。アストレアは不機嫌そうに顔をしかめさせながら、重たい歩みを、一歩、また一歩と進めていた。
 彼女が不機嫌であるのには、二つほど理由がある。
「あぁっ、クソッ。なんて日なんだよ、今日は……!」
 まず第一に、彼女の横にいる男・アルバから、木が燃えたあとのような、そんな焦げくさい香りがしているのだ。いうなれば、火災現場のかおり。きっと彼は、燃えている家屋のすぐ近くに長時間居たのだろう。というか、彼が火をつけたのかもしれない。もしくは、海鳥の影ギルか。……まあ、どっちだろうが関係ない。とにかく、彼が焦げくささを纏っているのだ。それがアストレアにとって、不愉快でたまらないのである。
 次に、彼女は今、とても重たいものを背負っていた。それが彼女が今、不機嫌である理由の大部分を占めているのかもしれない。
 そして彼女は、苛立った声色でこう叫ぶ。
「……ったく、もう! 重たいんだよ、クソジジィ!!」
 そんな小柄のアストレアの肩には、彼女にもたれかかる……というよりかは、彼女に担がれているような状態のアルバの姿がある。だらりとアストレアに身を預けている彼の様子から見るに、どうやら彼は気を失っているらしい。
 そして、アルバを背負う小柄なアストレアの後ろには、よちよち歩きで彼らを追いかける海鳥の影ギルの姿もあった。そんな海鳥の影ギルはアストレアの後ろを歩きながら、うんちくまがいの情報を垂れ流している。
『脱力しきった人間とは、存外に重いらしいですね。自立ができなくなり、支えてくれる相手に完全に体を預けてしまう状態になるわけですから。接触面積が広くなり、その分だけ重心が、支えてくれる相手へと広範囲に圧し掛かッ――』
「いかにも他人事って態度だな、ギルは!」
 そのように気楽なご身分である海鳥の影ギルに、アストレアは怒りをぶつける。しかし海鳥の影ギルは『事実、他人事ですもの』と軽く言ってのけ、苛立つアストレアを軽くあしらってみせた。そして海鳥の影ギルは、アストレアの怒りを焚きつけるような言動を止めようとはしない。
 むしろギルは、より火に油を注ぐようなことを言ってのける。アストレアが気にしているコンプレックスを、海鳥の影ギルは無情にも容赦なく突いていった。『細身であるとはいえ、彼は一九〇センチ近くと高身長ですし。体重はそれなりにあるでしょうねぇ』
「…………」
『それを身長一五〇センチもない、小柄も小柄なアストレアが支えているのですから……』
「ギル、実況しなくていいから! 早くこのジジィを叩き起こせ!」
 嫌味な海鳥の影ギルに、アストレアはありったけの苛立ちを込めた怒号をぶつけた。するとアストレアが後ろへと振り返った拍子に、彼女の肩にもたれかかっていた白髪の死神が、ずるりと落ちる。意識がなく、受け身もまともに取れないアルバは、アストレアの目には“顎か、もしくは鼻から床に落ちた”ように映っていた。
 顎にせよ鼻にせよ、かなり痛いと思える落ち方のように見えたのだが……しかし、彼は起きない。それには理由がある。先ほどのアストレアの発言の中に、その答えがあった。
「……あっ、ヤバッ……!」
 ――海鳥の影ギルが起こさない限り、彼は目覚めない。今の彼は、海鳥の影ギルに手綱を握られている状態なのだから。だから先ほどアストレアは、海鳥の影ギルに向かって「早くこのジジィを叩き起こせ」と命じていたのである。
 海鳥の影ギルが、アルバを目覚めさせてくれれば、アストレアは自分よりも圧倒的に体躯が大きい男を担がずに済むのである。……なのだが。
「あー、もう。ギル! 早く彼を起こして!」
 肩からずり落ちた男の背中を指差し、アストレアは海鳥の影ギルに向かってがなり立てる。しかし海鳥の影ギルは、全く動かないアルバの姿を見たうえで、アストレアの言葉に対してこう答えを返した。『嫌です。私は彼を起こしたくありません。絶対に』
「なんでだよ?!」
『手際が良くないだの、なんでヘマをしたんだと、彼に嫌味をネチネチ言われるんですもの。嫌ですよ。先ほど運よく気絶させられたんですから、暫くは彼を起こしたくありません』
 海鳥の影ギルの返答に、アストレアは驚きと呆れから大きな目をひん剥いた。アルバを起こしたくない理由がとても些細であることに、彼女はとても呆れていたのだ。
「そんな下らないことで、このジジィを眠らせたの?」
『下らなくありません。三〇分もネチネチ言われ続ければ、イヤにもなるでしょう?』
「だからって、アンタさ……」
 そして実際に、海鳥の影ギルの言葉に嘘はない。海鳥の影ギルが、アルバという男の意識をシャットダウンさせた理由は、彼の嫌味がしつこかったからなのだ。
 発端は、ギャングのアジトとなっていた店を炎上させるときに起こした、ギルの失態。当初の計画では、アルバがギャングたちを仕留める裏で、海鳥の影ギルが店の裏にあるパイプラインに穴をあけることになっていたのだが……それがうまくいかなかった。
 ギャングたちを片付けた後。店に火をつけて、その火をパイプラインから漏れたガスへと引火させ、そうしてドカーンと爆発を起こし、近隣一帯を巻き込む騒ぎにしてやろうとアルバは考えていたワケなのだが。しかしギルはパイプラインではなく、パイプラインの右隣に並んでいた別の管、電話線などを保護する通信管に穴をあけてしまったのだ。それも電話線や通信ケーブルを切ったり傷付けたりした、というわけでもない。ただ、それらのケーブルを保護する“保護管”に小さな穴をあけたというだけなのだ。
 いうなれば、ギルの仕出かしたことは“悪ガキの小さなイタズラ”レベルのお話。そうではなく“悪党の引き起こした大事件”を作り上げることを望むアルバからすれば……怒りを買うのは必至だろう。
 アルバが怒るのは当然の話で、ギルが嫌味を言われたりするのも当然のこと。けれども海鳥の影ギルは、それが嫌だったのだ。
『アストレア。あなただって、この男の性格をよく知っているでしょう?』
「まあ、知ってるけど。だからってさぁ……」
 でも、仕方がない。海鳥の影ギルにとって、アルバの嫌味は苦痛でしかなかったのだから。
 怒りの感情を爆発させて、ワーッと怒鳴り散らしてくれるタイプが相手であったのならば、まだギルは耐えられただろう。そういうタイプは、ワッと怒って、サッと収束してくれるからだ。
 しかし、アルバという男はその真反対の性格ともいえる。彼は、感情を爆発させて、怒鳴り散らし、取り乱すだなんてことは滅多にしない。そして彼の場合は滅多に爆発しないからこそ、普段の“爆発しない怒り方”が面倒くさくて堪らないのである。
 例えば、このような調子で彼は怒る。「なぜ、こんな単純で簡単なこともお前はできないのか?」「お前の前頭葉はちゃんと働いているのか?」「お前の両目玉、いや視神経は腐ってるのか?」「お前は今まで、何を見てきたんだ?」――……そんな類の嫌味を、淡々と、グサグサと、ブツブツと、クドクドと、彼は連ね続ける。それが彼なりの怒り方。まあ要するに彼は、典型的なモラルハラスメント気質なのである。
 たしかに、そんなモラハラ男を一発で黙らせる方法があるのならば、使わない術はないようにも、アストレアには思えた。……が、ギルの話を聞くアストレアには納得できないことがある。
「…………」
 そのとばっちりを、なぜ関係のないアストレアが受けないといけないのか。そこなのだ。
「……仕方ない。じゃあ、ジジィはここに放置するか」
 床に顔から落ちたものの、未だ目覚めぬアルバの背中を見降ろしながら、アストレアはそう呟く。そして彼女は決めた。今回の、白髪のモラハラ男アルバと海鳥の影ギルのいがみ合いに自分は関与しない、と。
 ゆえに彼女は、床に寝ている男をもう一度担ぎなおそうとはせず、その場から立ち去ろうとした。……しかし、そんな彼女の背を海鳥の影ギルが引き留めようとする。『その決断は、大きな後悔を生みそうですが。本当に、あなたは彼を見捨てるのですか?』
「…………」
『ここに彼を置き去りにすれば、後で何を言われるか分かったものではありません。私もですが、あなたもですよ』
 脅すようなギルの言葉に、アストレアは立ち止まる。海鳥の影ギルの言葉には、皮肉なことに一理あったからだ。
 ここにモラハラ男アルバを放置すれば、後で何を言われるかが分からない。主犯の海鳥の影ギルもだが、関係のないアストレアとてコレについては他人事ではないだろう。何故ならば、彼は因縁をつける天才だし、文句を言うことが何よりも得意だ。……つまり、ここに彼を放置すれば後が面倒くさいことは、残念ながら海鳥の影ギルの指摘通りなのである。
「――ギル! あんたの所為だからね、これは!」
 アストレアは数十秒前までの決意をさっさと切り捨て、アルバを助けることにする。無責任すぎる海鳥の影ギルに対して彼女はそう悪態を吐くと、ひとつ深呼吸をし、それから身を屈めた。それからアストレアは、意識のないアルバの腋の下に自分の肩を入れ、自分よりも二周り以上大きい男を担ぎ上げる。アストレアは歯を食いしばり、肩にのしかかる重量に耐え、一歩を踏み出そうとした。――その時だった。声が、彼女の“頭の中”に響いたのだ。
『人智を超越した価値観と言えば、聞こえは良いが。その実態が、これか……』
 その声は、アルバの声だった。というよりも、彼がアルバと名を改める前、つまりサー・アーサーの声だろう。ピリピリとした空気感を纏っている低い声は、以前の彼のものだ。
 一体、何が起きたのか。驚いたアストレアは肩で担いでいる男を見やるが、しかし彼の意識はないまま。彼の全体重がアストレアに重くのしかかっていることは変わりがなく、力なく垂れた彼の首を見る限り、彼が寝たふりを決め込んでいるとも思えなかった。そうして怪現象にアストレアが首を傾げさせると、また彼女の頭の中にサー・アーサーのピリピリした声が響く。
『彼女がもうヒトではない以上、記憶を消したとしても、人里に返すことも出来ない。……流石は元老院、厄介なことをしてくれる……』
 ……その時、アストレアは気付いた。この声は、かつて彼女が聞いた声なのだと。
 たぶん、これは一〇年ほど前の出来事だ。アストレアの脳内に埋め込まれていたマイクロチップを、アイリーン・フィールドが見つけた日のこと。アイリーン・フィールドがサー・アーサーにその報告をし、彼女が立ち去った後に、サー・アーサーが零した独り言なのだ。
 なぜ彼女が、彼の独り言を覚えているのか。それは彼女が、真横で彼の声を聞いていたからだ。
「……ッ?!」
 アイリーン・フィールドに何かの検査をされた、あの時。確かアストレアは麻酔で眠らされていたのだ。そしてサー・アーサーの独り言が聞こえてきたのは、その麻酔が切れかかっていた頃。少し意識が戻ってきたときに、そんな彼の声が聞こえてきていたのだ。当時は彼の言葉の意味が分からなかったし、麻酔の効いているときに聞いたということもあって、長らくそんなことも忘れていたのだが。なぜ、今このタイミングで、急に……――と、そんな昔のことはどうでもいい。それよりも、だ。
「……あーっ、もう。重たいんだよ、クソジジィ……!」
 アストレアは、今に生きることを好む人間。昔のことを振り返る趣味はない。なので思い出しかけたことを彼女は振り切り、今に集中する。肩に背負った重たい男を、彼の部屋に送り届けなくてはいけなッ――
『アンタには、アーサーみたいになって欲しくないんだよ』
『アイーダ。アンタには必要以上に、自分の人生を否定しないで欲しいんだ』
 ……だが、そんなアストレアの歩みを妨害するように、またも頭の中に声が響く。しかし今度はサー・アーサーではない。アストレアの姉貴分であり、育ての親ともいえる女、アレクサンダー・コルトの声が頭の中に響いてきていたのだ。それも蘇ってきたのは、彼女があまり思い出したくなかった記憶。
 彼女とアレクサンダー・コルトが最後にまともに会話をした時、それも喧嘩も同然の会話をした時の記憶。そして蘇ってきたのは声だけじゃない、アレクサンダー・コルトの悲しそうに顰められた表情までもが、アストレアの脳裏に浮かび上がってきていた。そして再び、アレクサンダー・コルトの声が甦る。
『……アンタの背中に、天秤座のシンボルマークみたいな痣があったから、天秤の乙女アストレアと仮に付けただけだ。いつまでも、仮の名前に縛られなくたっていいんだよ。所詮、仮なんだから』
 思い出せる限りの記憶の中で、一番イヤだと感じる瞬間を思い出してしまったアストレアの歩みは、止まってしまった。そして彼女からは力が抜けてしまい、ついでに彼女の肩からは担いでいた男が滑り落ちる。
 どすん。そんな音を立てて、またもアルバが顔から床に落ちたときだ。呆然と立ち尽くしていたアストレアの背後で、海鳥の影ギルがその輪郭をゆらゆらと揺らす。それから海鳥の影ギルは、呆然としているアストレアの背中に、こんな言葉を投げかけるのだった。
『アストレア。あなたの記憶は、あまり面白くはないですね。アストレアとなる以前の記憶は、黒狼が綺麗に消し去っていて、何も残っていないようですし。あなたの記憶の中をどんなに探しても、アレクサンダー・コルトの顔ぐらいしか見当たりません……』
「…………」
『ペルモンド・バルロッツィがあなたの頭の中にあったマイクロチップを破壊した時に、黒狼が序でにあなたの昔の記憶を“食べた”のでしょうか。アストレアとなる以前の記憶は跡形もなく消えてますし、復旧させることも無理そうです。だから……あなたの記憶は、とてもつまらない』
 背後から聞こえてきた海鳥の影ギルの言葉が、アストレアの意識を今に引き戻す。そしてアストレアは海鳥の影ギルの言葉の意味を理解するなり、即座に背後へと振り返り、海鳥の影ギルを睨みつける。それから彼女は、くぐもった声で海鳥の影ギルにこう尋ねた。
「……もしかして、これが目的だったの?」
 しかしアストレアの投げかけた質問に対し、海鳥の影ギルは明確な答えを示さなかった。答えの代わりにギルは、アストレアに言う。
『取り敢えず、早くその男を部屋に運んであげてください』
 だがアストレアは、海鳥の影ギルの言葉に冷たい視線だけを返した。そして彼女は黙ってギルに背を向けると、床に倒れている男を無視し、立ち去る。そのままアストレアは、無言で自室へと戻っていった。
『…………』
 アストレアに無視されたことにより、今度は海鳥の影ギルが呆然と立ち尽くしてしまう。人間のことをまだ完全に理解したわけではないギルは、なぜアストレアが怒ったのかが理解できなかったのだ。
 するとそんなギルの横に、どこからともなく現れた一羽のカラスが舞い降りる。現れ出たカラスは、敢えて意識のないアルバの背中の上に着地すると、ケケケッと汚い声で鳴いた。それから続けてカラスは、ぼうっとしている海鳥の影ギルにこんな言葉を掛ける。「黒狼ちゃんにもした忠告を、お前ェサンにもする必要がありそうだなァ。ケケッ」
『……聞くだけ、聞いておきましょう』
「人の記憶は無暗にほじくるんじゃァねェぞ。記憶にちょっかいを出しすぎるとーだ、人間から嫌われちまう。そのうえヨ、三次元生物はヤワな作りをしてンのサ。だーからヨ、人間の子らの記憶に干渉をしすぎッと、下手したら黒狼ちゃんのオモチャみたいに破綻しちまうゼ? ――不死者とて俺ちんの眷属とて、所詮は三次元のモンなんだ。乱暴に扱うと、ヤツらは容易に壊れる。そうなったら、お前ェサンとて困るだろうサ」
 カラスから与えられた、海鳥の影ギルへの忠告。その中でカラスが放った“破綻”という言葉に、海鳥の影ギルは強い動揺を見せた。ゆえにギルは、影の輪郭を小刻みにぐらつかせる。……というのも、ギルは『この程度の干渉なら、無害だろう』と考えていたからだ。しかし“黒狼ジェドのオモチャ”の話を引き合いに出されてしまうと、考えを改めるほかはない。
 黒狼が遊び尽くした“オモチャ”の成れの果ての姿なら、海鳥の影ギルも知っている。そして、あのような状態にアルバおよびアストレアがなってしまう結末は、ギルも迎えたくはなかった。
 黒狼は、あれ自身が保有する“オモチャ”に対して異常な愛着を抱いていたからこそ、辛抱強く“オモチャ”と向き合っていられた訳だが。そんな愛着心など持ち合わせていない海鳥の影ギルには、黒狼のようなことができる自信はない。それにアルバやアストレアが壊れた時には、ギルは迷いなく彼らを遺棄することを選ぶだろう。だが……アストレアはさておき、利用価値のあるアルバは棄てるには惜しい存在だ。
 となれば、なるべく彼らの自律性は維持しておきたいところ。とすると、カラスの忠告には従うのが賢明だ。
『…………』
 ……そんなことをグルグルと考えていた海鳥の影ギルの輪郭は、グワングワンと陽炎のように揺れ動いていた。カラスはその揺らぎを、後悔の念によるものだと考えたのだろう。ゆえにカラスは、海鳥の影ギルにこのような助言を授けることにした。
「まぁヨ。俺ちんの眷属アーサーちゃんは、寛容で寛大で、とってもタフだァ。ヤツはお前ェサンのことを大目に見てくれるだろうしヨ、お前ェサンのイジメごときで音を上げるタマじゃァねェが。けどヨ……なァ?」
 暗に「アストレアに謝ってこい」と促している、カラスの言葉。それに対し、海鳥の影ギルはこう言葉を返す。『――分かりましたよ、キミア。アストレアにはもう手を出しません』
「分かれば宜しッ。それとだァ、お嬢ちゃんにササッと謝罪してきな。ケケッ」
 今度は明確に「謝罪してこい」と念を押したカラスは、最後に汚い声でケケッと笑い、輪郭をぐらつかせる海鳥の影ギルのお尻らしき部分に、蹴りを一発食らわせる。実体を持たないギルにとって、その攻撃は痛くも痒くもないものではあったが、しかしカラスの煩わしさが堪えていた。故にギルは渋々、立ち去って行ったアストレアの後を追い、水かきのついた足でぎこちなく歩き出す。
 そうして海鳥の影ギルも立ち去って行ったとき、カラスの青白く輝く瞳が“こちら”を向いた。
「たァいえ、流石のヤツもこの記憶は思い出したかァねェんじゃねぇのかェ? ケケケッ」


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 四十三世紀に突入後、十数年が経過していたある年の冬のボストンにて。雪が路面に降り積もっていたせいか、スリップによる事故のニュースがひっきりなしにカーラジオから聞こえていた夜のこと。
 上院議員アーサー・エルトルに雇われている“政策秘書”の一人……から、ついに“運転手”に格下げされてしまったランドン・アトキンソンは、パーティー会場の駐車場にリムジンバスを停め、溜息を吐く。
 大嫌いな父親に腕をつかまれて、無理やりパーティーへと連れ出された哀れなシルスウォッドの憂鬱そうな背中を、ただ見送ることしかできなかった自分。それが、運転手ランドン・アトキンソンには疎ましく思えて仕方がなかった。
「……ったく、やってらんねぇぜ。こんな仕事……」
 まだ着慣れていない燕尾服を纏い、ぎこちなく歩く十二歳の少年の背中にあったのは、パーティーに対する期待感や緊張感ではない。苦悩、惨痛、憂患、窮愁、苦痛、それだけだった。祭壇に連れていかれる生贄の子供、そんな雰囲気すらその背中にはあっただろう。
 しかし、ただの運転手であるランドン・アトキンソンには何もできない。
 何も、できないのだ。
「……あぁっ、クソが!」
 無力感から湧き出る怒りを握りしめた拳に込め、運転手ランドン・アトキンソンはその拳でハンドルを叩いた。そうして乱暴に振り下ろされた拳は、しかし狙った場所にはうまく落ちず、ハンドル中央のホーンボタンを勢いよく押してしまった。それによって駐車場には、大音量の警笛が盛大に鳴り響く。やっちまった、と運転手ランドン・アトキンソンは頭を抱えたが、やってしまったことはもう取り消せない。
 駐車場に配備されている警備員たちの怪しむ視線が、リムジンの中にいる運転手ランドン・アトキンソンへと注がれていた。
「…………」
 警備員たちの視線を感じ、運転手ランドン・アトキンソンは感情を爆発させたことを後悔する。そして冷静さを取り戻そうと、深呼吸を試みた。……しかし、そんな彼の脳裏には十数分前に聞いた言葉が蘇り、またも怒りが沸々と沸き上がり始める、
『お前は、私に黙って従っていればいい。決して、この間のような反抗的な態度を取るんじゃない。私に恥をかかせるような真似をしてみろ。さもなくば……何が起こるかは、分かるだろう?』
 それは上院議員アーサー・エルトルが、彼の息子シルスウォッドに投げかけていた言葉だった。
 運転席でその言葉を黙って聞いていたランドン・アトキンソンの目には、バックミラーに映るシルスウォッドの青ざめた顔が見えていた。恐怖におびえて、揺らぐシルスウォッドの目が見えていた。
 にも関わらず、運転手ランドン・アトキンソンには何もできなかったのだ。


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 パーティーの二週間前。父親はその日の朝、シルスウォッドと顔を合わせると、こんなことを言ってきた。
「今日はお前の燕尾服を仕立てに行く」
 その日は日曜で、学校も休日。そしていつも通りならば、シルスウォッドを除いたエルトル家の者は皆、朝早くに家を出て、教会へと行っているはずだったし。シルスウォッドは、日曜日限定の“エルトル家の者と、誰とも顔を合わせずに済む朝”を迎えているはずだった。
 しかし、その日曜日だけは違った。シルスウォッドが朝起きてみると、居間にはエルトル家の者たちが揃っていて、彼らはダイニングテーブルを囲っている。そしてダイニングテーブルの隅には、いつもならば用意などされていない“シルスウォッドのための朝食と席”が存在していた。
 それから居間の隅には見知らぬ中年女性が立っていて、その女性は床をモップ掛けしている。
「シルスウォッド。そこに突っ立っていないで、さっさと朝食を済ませろ」
 そう言ってきた父親の言葉にはいつもの刺々しさがなく、暴言のひとつも飛び出してこなかった。優雅に朝のコーヒーを嗜む父親の姿は、余裕のある貴族のような貫録を醸し出している。
 それに、シルスウォッドの姿が視界に入っていながらも、異母兄のジョナサンは何も反応を見せない。ジョナサンは出されたスクランブルエッグを黙々と食べているだけで、傍にあるナイフやフォークを異母弟に向かって投げてきそうな気配は無かった。
 そして血の繋がっていない母親エリザベスはというと、気味が悪いほど優しく穏やかな笑顔――ただし、彼女の目は笑っていなかった――をシルスウォッドに向けてきている。そんなエリザベスは、シルスウォッドを冷たい目で見つめながら、穏やかなトーンでこんなことを言ってきた。
「そこにいる彼女は、家政婦のマリアム・ダーシー。火曜日と水曜日を除く日中に、うちに来てくれることになったわ」
 エリザベスがそう言い終えたそのタイミングで、モップ掛けをしていた女性――家政婦マリアム――は手を止める。そして家政婦マリアムは、非日常な光景に驚いているシルスウォッドに対して人の好さそうな笑顔を向け、手短な自己紹介をしてきた。
「はじめまして。マリアムとお呼びください。以後、宜しくお願い致しますね」
 そしてこの時、シルスウォッドは状況を理解した。この空気に自分も合わせなくてはいけない、と。
「よろしくお願いします……」
 エルトル家の住民は、家政婦マリアムという“部外者”が家に来たことにより、今は“ごく普通の家族”を演じている最中なのだ。
 今のエルトル家には虐待などなく、異母兄弟の確執もない。優雅な父親アーサーと、聡明な母親エリザベス、気難しい兄ジョナサンと、シャイな弟のシルスウォッドが居るだけ。
 傲慢で外道の父親アーサーは、今ここには居ない。夫の蛮行の後始末に追われる母親エリザベスは、今は隠れている。乱暴で短気で癇癪持ちの異母兄ジョナサンも、今は必死に息を殺している。そして忌むべき血を継ぐ落とし子シルスウォッドも、今だけは普通の子供を演じなければならなかった。
「――ジュニア、いつまでそこに突っ立っているつもりだ」
 状況は理解できたものの、とはいえまだ混乱しているシルスウォッドが、居間の入り口で突っ立っていると。父親がシルスウォッドに向けて、苛立ちをぶつけてきた。その声に、シルスウォッドは僅かに肩をビクつかせたが、一歩を踏み出すことがなかなかできない。
 エルトル家の食卓。その一席に“表面上”だけでも加わる勇気が、振り絞れなかったのだ。


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 異様な日曜日は、朝だけでは終わらなかった。
 ストレスと不安感からキリキリと痛み出した胃の悲鳴を無視し続けながらも、どうにか家政婦マリアムが用意してくれた朝食を“普通に”食べ終わったシルスウォッドだったが。その後、彼は間もなく父親に腕を掴まれ、行動の自由を奪われてしまった。家を出るから急いでその支度をしろと、父親からそうせっつかれたのである。
 本音を言えば、シルスウォッドはいつも通りの日曜日を過ごしたかった。家族が教会に行っている間に家を出て、チャールズ川方面に向かうバスに乗り、そうしてフェンシング教室に向かうという、いつものルーティーンを行いたかった。父親と二人で過ごす日曜日など、迎えたくなかったのだ。
 だが、父親からそう命令された以上、彼は従うしかなかった。当時の彼はまだ、非力な子供でしかなく、面と向かって逆らう度胸も、父親の腕を振り払うだけの力も、父親を突き飛ばすのに必要な体格も、備わっていなかったのだから。
 そしてこの時、シルスウォッドには気掛かりなことがあった。それは家を出る時に見た、異母兄ジョナサンの顔。
 なぜ長男であり嫡出子である自分ではなく、次男であり落とし子であるシルスウォッドを父は連れて出たのか。――そう疑問に思う顔を、ジョナサンはしていたのだ。
「……」
 帰宅後には異母兄ジョナサンに殴られるであろうことを、シルスウォッドは予感していたのである。そして実際に、帰宅した後には――家政婦マリアムが仕事を終えて、帰っていた後に――予想通りの展開を迎えた。
 まあ、それはさておき。気味の悪い日曜日は、父親と共に訪ねた仕立て屋でも起こった。
「…………」
 この日は曇天かつ霧が出ていたこともあり、街を薄暗さが覆っていて、視界も良好ではない。そんなわけで日中にも関わらず、道路沿いのガス灯には明かりが灯っていた。
 仄明るい橙色の光は、ビーコンヒルの赤レンガが目立つ街並み――先の大戦で歴史的価値を持つ建造物の大半は焼失しているため、街並みの多くはあくまでも再建されたものでしかないが――を妖しく照らし出す。そして起伏の激しい土地と、変に真新しい石畳に覆われた坂道が描き出す幻想的な明暗は、立ち込める霧と共に遠近感を曖昧にしていき、シルスウォッドの中に渦巻く虚構感をより強化していく。五歩ほど前を歩く父親の背中を追い、俯きながら無言で歩いていたシルスウォッドは、現実感のない現実に遣る瀬無さと無力感を覚えていた。
 そうして三〇分ほど、無心で父親の後をただ歩いていただろう。何年もこの地に暮らしていたにも関わらず、通ったこともなければ見た覚えもない細道に何度か入り、抜けていった。何度か勾配のキツい坂道を昇り降りし、そろそろ脚が重たくなってきたと感じた時。父親が立ち止まる。
「やあ、アーサー。今回はどんな用だい?」
 父親が立ち止まったのは、ある店の前。ツタ模様がくどいロートアイアインの気取った突き出し看板には、可読性の良くない筆記体で“テイラー・ローレンス”と店名が書かれている。……そんな看板にシルスウォッドが気を取られている間に、父親は店の入り口をくぐっていた。そして店の中に入った父親に、老齢の店主セシル・ローレンスがそう挨拶をしている。その声を聞いたシルスウォッドは、慌てて父親の後を追い、店の中へと入っていった。
 そしてシルスウォッドが店の戸をくぐった直後、彼は着ていたシャツの襟の後ろを父親に掴まれて、否応なしに父親の傍へと引き寄せられる。グッと強引に引き寄せられたその後、父親は掴んでいたシャツの襟を放してくれたが、とはいえシルスウォッドからは手を放してくれなかった。シャツの襟を掴んでいた父親の手は、今度はシルスウォッドの右肩を握る。決して逃げるなとシルスウォッドを脅すように、父親はその手の力を強めた。
 けれどもそんな父親の顔には、気味が悪いほどに穏やかな微笑みが貼り付いている。その笑顔は、普段の“怒りをはしたなく爆発させる幼稚な男”と同じ人物によるものだとはとても思えず、シルスウォッドは手足の末端から急速に血の気が引いていくのを感じた。
 これが父親の“外での顔”なのだと、分かったからだ。そしてこの外での顔こそが、父親の権力を下支えしているのだと、直感的に理解した。
「再来週の集会で、息子を支援者たちにお披露目することになった。それで、この子の燕尾服が必要になったんだ。……セシル、急な話ですまないが、頼めるか?」
 そう喋る父親の声も、とても穏やかだ。刺々しさの無さは、朝の比ではない。まるで別人であるかのように声色も、喋り方も違う。――その全てが、計算されたものだ。父親は醜い本性を笑顔の裏に隠して、他人の前では物腰柔らかな紳士を演じている。そして父親の本性を知る者以外は、父親の演技に騙されて、騙されたものたちは父親の“貯え”となる。
「再来週か。まあ、構わんよ。わしゃ仕事が早いんでな! ただ……問題はサイズだ。二、三年は着られるよう仕立てるか? それとも、今の体格に合わせるか?」
 受付と思われるカウンターの裏手で何かをガサゴソと漁りながら、父親からの問い掛けには二つ返事で了承したうえで別の質問を返す店主は、父親の本性など知らなさそうだ。店主は特別な警戒心をむき出すわけでもなく、あくまでも馴染みの常連客を相手にするような軽い調子で対応を続けている。
 そうして常連客と店主の会話は、シルスウォッドを差し置いて進んでいく。店主からの質問に、父親はこう答えた。「今の体格に合わせて作ってくれ」
「アーサー。本当に、それでいいのかね? 子供はすぐに身長が伸びるんだぞ。今の体格に合わせて作ったところで、半年後にはもう着れなくなる」
「ああ、そんなことは知っている。再来週のパーティーにさえ間に合えば、それでいい」
「本当にか? お前さんもよく知っているだろうが、うちのはそこいらの既製品と違って安くはない。たった一度の機会のために――」
「身体に合わない丈のものを着れば、うちの息子が馬鹿にされる。そしてケチくさい真似をした親も舐められるだろう。私としては、そちらの方を避けたい。そのためなら、幾らでも金は出すさ」
「お前さんのそういう見栄っ張りなところ、嫌いじゃないぞ」
 店主はそう言い終えたあと、カウンターの裏から顔を出す。その店主の手には、瓶底眼鏡のように分厚い老眼鏡と、メモ帳とペンが握られていた。それから店主は老眼鏡をかけながら、受付カウンターから出て、父親の傍へと歩み寄ると、店主は父親の前で身を屈めた。
 父親に肩を掴まれて動けずにいるシルスウォッドの顔を、店主は凝視し始める。そして老眼鏡の下の目をぱちくりとさせながら、店主はこんなことを言った。
「――おっと。ジョン坊やだとばかり思っとったが、違ったようだ」
 シルスウォッドの存在を“初めて見る子供”だと認識した途端、店主は態度を変える。シルスウォッドに対して無関心だったそれまでの態度が一変し、店主は急にシルスウォッドという存在へ興味を示し始めたのだ。そして店主は屈んだ姿勢を維持したまま、あらゆる角度からシルスウォッドの姿を観察し始める。
「……ふむふむ……」
 下から、左右から、後ろから。シルスウォッドの背丈を、輪郭を、体つきを、店主は冷静に見定めていく。その目つきはまるで、骨董品の真贋を見極めようとしている熟練の鑑定士のような鋭さを持っていた。そして一通り見終えた後、店主は手元のメモ帳に気付いたことを走り書きで書いていく。その文字をシルスウォッドは、店主に気付かれないようにチラリと盗み見た。
 かなり色白、目は青、痩せ型、なで肩……ざっと見たメモ帳の内容は、こんなもの。他にも備考らしきものが幾つか書いてあったが、それ以上は一瞬見ただけでは読み解くことができなかった。店主の書く字は、クセが強すぎたのだ。
 そんなこんなでシルスウォッドの観察を終えた店主は、すくっと立ち上がると、父親アーサーへと視線を戻す。そして店主は皴が目立つ骨ばった手でシルスウォッドを指し示すと、父親に今更ともいえることを訊ねた。「……で、アーサー。この子は、誰なんだね?」
「こいつは次男のシルスウォッドだ」
「シリルヴォルト……?」
「シルスウォッド、だ」
「シルスウォッカ?」
「……」
「いや、待て。シラスウォードか?」
「…………」
「シラスウォードか。……ふむ、変な名前だなぁ。それにしてもだ、お前さんに次男が居るとは聞いたこともなかったが」
「ああ。今まではこれの存在を世間に隠していたからな」
「隠す? またどうしてだ」
 息子の名前を次々と間違われていったにも関わらず、父親は一度訂正しただけで、以降は無言を貫いた。そのうえ、父親は「シルスウォッドの存在を世間に隠していた」と言い切り、さらに自分の息子を「これ」呼ばわりとモノ扱いをする始末。――そんな無情な父親に、シルスウォッドは糾弾の視線を送りつけたが、しかし逆にシルスウォッドは父親に睨み返された。けれどもシルスウォッドも、負けじと父親を睨み付ける。それから彼は、肩を掴んできていた父親の手を払いのけてみせた。
 だが、相手は大人であり、シルスウォッドは子供だ。意気込みだけでは、体格的ないし物理的な力の差は克服できない。
 シルスウォッドは父親の手を、自分の肩から一瞬だけ払いのけることに成功したが。そんなことをしたところで、父親はまた肩を掴んでくるだけ。しかし、それでもシルスウォッドは反抗し、父親の手を払いのけてみせる。
 すると父親は、シルスウォッドを従わせるための手段を変えた。今度はシルスウォッドの肩ではなく、首を掴んだのだ。
 相手が子供であろうとも、場所が急所であろうとも、父親は容赦をしない。シルスウォッドの細い首を掴み、握る父親は、その握力を強めていく。そして息子の気道を塞ぎながら、冷血な父親は投げかけられた質問に答えを返した。
「見ての通りだ。これは反抗心が強すぎるうえに、すぐに口答えをする。……手綱をロクに握らせない暴れ馬は、厩舎に閉じ込めておくしかないだろう? そういうわけなんだよ」
 実子の首を、容赦なく握り潰そうとする父親。……このような光景を目にすれば、まともな感覚を持っている人間であれば止めに入るはずだ。もしくは言葉で、父親に制止を求めるだろう。
 けれども、ここは普通の世界ではなかった。ここは“普通”のふりをした異常者たちが、カリスマ的な異常者を支援する歪な世界であり、そしてここは父親のフィールドだ。まともな人間など存在するわけがない。
 人の好さそうな老紳士のような出で立ちをした店主は、父親の蛮行を目にしても、一切の動揺を見せなかった。それどころか店主は、反抗的な子供に強烈な“躾”を与える父親の肩を持つように、笑いながらこんなことを言ってみせる。
「そんな暴れ馬を、どうして表に出そうと思ったのかぇ?」
 店主がそう言った後、父親はすぐシルスウォッドの首を掴んでいた手を放した。そうして解放された直後、塞がれていた気道に呼吸と血流が戻ったシルスウォッドは、まだ残る息苦しさから激しく咳込んだ。
 止まっていた血流が頭に入り、血が上っていく感覚も相まって、咳込むたびに頭がぼうっとしていく。そのような状態では立ち続けることもできず、シルスウォッドはその場に膝をついてしまった。そして彼は背中を丸めて、また咳込む。
 けれども、苦しむ子供の姿など気にも留めず、異常者たちは話を進める。父親は、足許でうずくまる息子の背中を膝で突き、早く立ち上がるようにと急かしながら、先ほどの店主の言葉に自分の意見を返した。「今までは、一族の名は長男が継ぐものだと考えていた。当然、私の跡にはジョナサンを据えるつもりだったよ。だが、あれには期待できんと最近は思えてきたんだ」
「またどうしてだ?」
「ジョナサンについては、直感としか言いようがないが。奴は、そうだな……――言うなれば、根性なしの馬鹿、それでいてどうしようもない腰抜けだ。癇癪を起こすことしか知恵がない上に、学業成績も下から数えた方が早いような愚鈍。挙句、すぐに手が出る。それがジョナサンだ。そんな愚鈍な乱暴者に、エルトル家を継がせるわけにはいかない」
「ふむ……」
「となれば、だ。すぐに手が出る癇癪持ちの腰抜けよりも、強情な暴れ馬のほうが幾分かマシだ。そのうえ、次男のほうが頭も切れる。そこで方針を変えることにしッ――」
 なかなか立ち上がらないシルスウォッドにウンザリしたのか、父親がうずくまる息子の髪を掴んで立ち上がらせようとした、その時。シルスウォッドは、彼の髪を掴もうとしてきた父親の手を逆に掴み、父親の右手首に爪を立て、そして力任せに引っ掻いてみせた。それから、彼は引っ掻いた力の反動を利用して立ち上がると、父親の傍から数歩離れつつ、息も絶え絶えな声で啖呵を切る。
「僕はッ、お前の跡継ぎになんか、絶対にならない!!」
 とはいえ、伸びているわけでもない爪で子供が親を引っ掻いたところで、親の腕に残るのはせいぜいミミズ腫れだろう。ましてや、万全な状態ではないシルスウォッドの今の全力は、たかが知れている。つまりシルスウォッドが望んだほどのダメージは、父親に与えられなかったのだ。
 となれば、父親からの反撃を受けるのは必至。無言で舌打ちをした父親は、フラフラと不安定に立っているシルスウォッドの襟首をつかんで傍に引き寄せると、シルスウォッドの頬を平手でぶった。そうしてシルスウォッドが平手打ちによる衝撃でよろけると、父親はその隙を逃さなかった。父親はふらつくシルスウォッドの首をまた掴むと、先ほどよりも強い力でシルスウォッドの細い首を握ってくる。今度は、握りつぶさんとする勢いだった。そして父親は、シルスウォッドに睨みを利かせながら、どすの効いた低い声で吠える。
「お前のような薄汚れたガキを、誰が生かしてやっているのか。それをよく考えろ!」
 しかし、このような脅し文句はシルスウォッドにとって聞きなれたものでしかない。故に、父親の脅しに屈しないシルスウォッドは、対峙する父親の顔がいかに鬼気迫るものであろうとも、怯えはしない。息苦しさは確かに堪えたが、しかし“怯え”や“恐怖”といった類の感情は沸かなかった。代わりに吹き上がるのは、理不尽続きの日曜日に対する苛烈な怒りだけ。
 故にシルスウォッドは左脚の膝を曲げて後方へと引き下げると、その脚を振り子のように前へと突き出す。シルスウォッドは父親の右脛を蹴り上げ、脅し文句に脅し文句を返す。
「それはこっちのセリフだ! まだ失脚せずにいられているワケを、アンタは分かってない!」
 そしてこの反撃は、予想以上のダメージを父親に与えることとなった。
 脅し文句を決めたうえで肉体を痛めつけたことによって、反抗的な子供の牙は叩き折れたものだと信じていた父親は、シルスウォッドがこれ以上の反抗を重ねるとは考えていなかったのである。少なくとも五年前のシルスウォッドであれば、ベルトを鞭のように振るう父親に対して反撃を試みることはなかったからだ。……けれどもそれはシルスウォッドが五歳の頃で、且つ軟禁状態に置かれていた時代の話である。今は、何もかもが違う。
 この時のシルスウォッドは十二歳であり、そして外の世界を知っている。それから、学校という狭いコミュニティが持つ“影響力”を理解していた。
 仮定の話だ。大きな手形のような痣を首に作ったシルスウォッドが、クラスメイトたちがいる前で、クラス担任の教諭に「家でお父さんにいじめられてる」と泣きついたとしよう。異母兄弟間の確執は今や公然の秘密となっているが、しかし父親から振るわれている家庭内暴力はまだ秘密となっている今、その“暴露”が為されてしまったら? ――その暴露を聞いてしまったクラスメイトたちは、年相応の噂話をして回るだろう。他のクラスの友達にバラすだろうし、子供たちはその話を家に持ち帰り、親に伝え聞いた話を饒舌に喋るかもしれない。そのように、情報がネズミのように各家に広まっていく可能性は十分にあり得る。
 ――我が子と同じ学校に通う子供の中に、虐待を受けている子供がいるらしい。
 ――その子はどうやら、エルトル家の次男らしい。
 ――エルトル家といえば、あの上院議員のアーサー・エルトルか?
 そのような情報が“有権者”である親たちに広く知れ渡れば、支持者は激減するだろう。……まあ、そもそもエルトル家を代々支持する人々は基本的に狂人である以上、普通とされる人々から得る支持率はタカが知れているため、もしかするとあまりダメージを受けないかもしれないが。
 また、情報が広く知れ渡れば渡るほど、どこかで誰かが然るべき場所にリークする可能性も浮上してくる。警察か、児童保護局か、新聞社か……リーク先候補はいくつかあるが、そのうちのどれか、ないし複数に、同時多発的にリークが流れ込んできたとしたら。こちらの場合は、エルトル家が一定のダメージを受けることは避けられない。それに情報を統率するメディアで騒ぎ立てられれば、父親は失職を避けられないだろう。
 そう。シルスウォッドは、父親を潰す方法は知っている。だが、何故それを実行に移さないのかといえば……それは、関係のない人々を自身の事情に巻き込みたくないからだろう。
 父親の冷酷さ、および非道さをよく知っているシルスウォッドには、父親が自分の利を守るためなら“何でも”やってみせるであろうことなど予測できていた。そもそも、父親が冷酷非道のクズ野郎でなければ、シルスウォッドという“私生児”は誕生していないのだから。
 ……そんなこんなで、父親に初めて“明確な反抗”をしてみせたシルスウォッドに、父親は一瞬だけ度肝を抜かされ、固まってしまったが。しかしすぐに父親は、シルスウォッドの言葉の裏に隠された懸念に気付くと、態度をより強硬なものへと変えようとした。――その時だった、
「おやおや。こりゃ活きが良い坊ちゃんじゃあないか。意志が強そうでなによりだ。若いころのアーサーにそっくりよのぉ」
 父親の眉間にしわが寄った瞬間、店主の男が先に口を開き、父親を牽制した。父親が何かを言おうとしたタイミングに被せて、先に店主の男は発言し、父親の発言権を封じたのである。
 窮地を寸でのところで救われたシルスウォッドは安堵から胸をなでおろしたものの、店主が発した言葉が胸に引っ掛かり、少しだけ表情を強張らせた。
 若いころの父親に、自分が似ている。……そんな評価をもらったところで、シルスウォッドは微塵も嬉しさを感じなかったし、それどころか似ていると評されてしまった自分を恥じた。そして勇気をもって勝負に出たことをシルスウォッドは後悔する。狼藉を働いたうえで、更に脅しにかかるだなんて言動は、日ごろ自分が蔑んでいる父親と全く同じものだったからだ。
 そうしてシルスウォッドは黙りこくり、肩を落として俯くと。足許を向いているはずのシルスウォッドの視界に、ひょっこりと瓶底眼鏡を掛けた老人の顔が割り込んでくる。身を低く屈めた店主が、下からシルスウォッドの顔をまじまじと覗き込んでいたのだ。
 瓶底眼鏡の下で細められた店主の目は、頻りに瞬きを繰り返しながら、何かを疑うようにじっとシルスウォッドの顔を見ている。それは初対面の時に、ライアン・バーンがシルスウォッドに向けてきた視線とそっくりであったが……――根本にある疑念の性質はまるっきり異なっていた。
 シルスウォッドの顔を十分に見た後、店主の男はすくっと背を正すと、今度は父親の顔を凝視する。それから店主の男は父親に向けて、こんな感想を洩らしたのだった。「この次男坊は、本当にお前さんの息子かね?」
「――なんだって?」
「次男坊の顔は、父親であるお前さんにサッパリ似とらん。ジョン坊やにも、サッパリ似とらんな。……もしや、母親に似たのかえ?」
 次男坊は、母親に似たのか。
 店主の男が発した何気ない一言は、父親およびシルスウォッドに徒ならぬ緊張感を与えた。理由は、言うまでもない。シルスウォッドにとっても、父親にとっても、そこは決して触れられたくはない暗い秘密なのだから。
 けれども展開は、彼らが警戒していたような事態には転ばなかった。上院議員アーサー・エルトルと、連続殺人鬼とされた女との間に接点があるとは露ほども知らない店主は、客二人の間に漂う緊張感に気付くこともなく、ごく普通の雑談のような調子で話を進めていく。
「ジョン坊やは父親に似ちまって、野暮ったい顔をしているが。こっちの次男坊はエリザベスに似たのか、賢そうな顔をしてるじゃないか。それに、この子供っぽい眼鏡さえ外せば……」
 再びシルスウォッドの前に屈みこんだ店主は、シルスウォッドの両耳へと骨ばった手を伸ばす。それから店主はシルスウォッドが掛けていた赤い縁の丸眼鏡を勝手に取りさらうと、再びシルスウォッドの顔をまじまじと覗き込んだ。
 全てのモノの輪郭がほんの少しだけボヤけて見える視界の中、瓶底眼鏡が自分の顔を凝視しているという圧を肌で感じつつ、シルスウォッドは息を呑む。品定めをされるような目で見られることもそうだが、後ろ暗い秘密を抱えていると……このような状況は、不愉快で不愉快で仕方がなかった。
 ……そんなこんなで、一分ぐらい経っただろうか。瓶底眼鏡の店主による品定めが終わると、店主はシルスウォッドの眼鏡を元通りに戻す。それから店主は何か確信を得たようにニヤリと笑うと、父親の方を見て、妙に嬉しそうな声色でこう言った。
「やっぱりだ。この次男坊は野暮ったい顔つきが多いオブライエン家らしからぬ、凛々しい顔つきをしておる。気品のある顔をしたエリザベスに、この次男坊は似たようだな」
 店主が発した“オブライエン家”という聞きなれない言葉。シルスウォッドは一瞬、このワードに首を傾げさせたが……文脈から察するに、エルトル家のことを指しているのだろう。そして、この考察は正解だった様子。店主の言葉を、父親は当然という顔で受け流したからだ。
「まあ、そうとも言えるな。こいつは、どちらかといえば母親似だよ」
 父親は疎ましそうな目をシルスウォッドに向けながら、興奮気味の店主にそう返答する。疎ましそうな目を向けられたシルスウォッドは、父親から向けられたその視線に対して、強い怒りと嫌悪を込めた侮蔑の目を返した。
 傍から見ても明らかに“険悪”であると言わざるを得ない父子の様子に、店主は遂に呆れる。店主は大げさな溜息を吐いてみせると、話題を本筋へと戻すため、父親にこう話を振った。「……それでだ、アーサー。デザインはどうするかね?」
「いつも通りで頼む」
「あいよ。いつも通り、好きにさせてもらうとするよ。――……ほい、次男坊。こっちに来な。採寸させとくれ」
 いつも通りとは、つまり“店主にデザインをお任せすること”である。要するに、丸投げだ。
 全てを丸投げしてくる依頼にまた呆れかえる店主は、その皴が目立つ額に更なる皴を作りながら、シルスウォッドに向けて手招きをする。だがシルスウォッドは、素直にそれに応じられなかった。
 ここで大人しく店主に従い、採寸に応じるということは、つまり『集会に出席し、父親の支援者たちに引き合わされること』に同意することと同意犠だ。無論、シルスウォッドはそんな集会になど出席したくない。故に、シルスウォッドは数歩下がるという行動を無意識にとってしまう。
 すると父親は舌打ちをし、逃げようとするシルスウォッドの髪を乱暴に掴むと、シルスウォッドを店主の傍へと突き飛ばした。――拒否権など、シルスウォッドには与えられていなかったのである。


+ + +



 父親とシルスウォッドが険悪な空気感と共に帰宅すると、それを出迎えた家政婦マリアムは怪訝そうな顔をした。そしてシルスウォッドの首にあった大きな手形の痕に気付くと、彼女は明らかに動揺した。……だが、その動揺も父親の嘘により消える。
「こいつが、不用心にも車道に飛び出したんだ。それを引き留めようとして、こうなったんだよ」
 家政婦マリアムは、その言葉を信じたようだった。というよりも、信じるしかなかったのだろう。父親が、いかにも“それらしい”雰囲気を出していたのだから。
 父親の言葉に、その瞬間の彼女は巧みに騙された。一瞬かすめた懸念――という名の「適切な状況分析」――が杞憂であったことに安堵、ないし誤解し、家政婦マリアムは笑顔を浮かべる。それから彼女はシルスウォッドに、ある報告をした。
「お部屋の蝋燭とマッチが切れていましたので、補充しておきましたよ。新しい蝋燭を、燭台とランタンにそれぞれ立てておきましたからね」
 随分前に父親に取り上げられたっきり、長らく存在を忘れていた蝋燭とそれに付随するものたち。それが数年ぶりに、部外者である“家政婦マリアム”の手によって戻ってきた。
 唐突に起きた奇妙な出来事にシルスウォッドが首を捻ると、その様子を見た家政婦マリアムも首を捻る。補充に対する感謝よりも先に、「なぜ?」という反応が子供から返ってきたことが、普通の世界に生きている家政婦マリアムには理解できなかったのだ。
 そうして家政婦マリアムが困惑顔をしてみせると、シルスウォッドは我に返る。
「あっ……蝋燭の補充、ありがとうございます」
 本来ならばすぐにでも返すべき感謝の言葉が、数秒遅れて出てきた意味を、家政婦マリアムは遅れて察したのだろう。つい先ほどの杞憂が、やはり杞憂ではなかったことに気付いた彼女は、シルスウォッドの後ろに立つ父親の顔をちらりと見やったが……何食わぬ顔で外套を脱ぐ父親は、素知らぬ顔を決め込んでいる。というよりも、家政婦マリアムを騙せたものだと思っていた父親は、すっかり安心しきっていたのだ。
 けれども堂々としている父親の横で、シルスウォッドはソワソワとしているし、その目は泳いでいる。勿論、目が泳ぎがちで落ち着きのない子供を“シャイで、人付き合いが苦手な子供”と切り捨てることもできるが……シルスウォッドの首についた手形を見てしまった家政婦マリアムは、そう切り捨てることができなかった。嫌な予感は正しかったのかもしれないと、そう思わずにいられなかったのである。
 ――ただし、この日の家政婦マリアムは何も行動は起こさなかった。疑いが明確な確信に変わるまでは、粛々と仕事だけを果たしていようと、彼女は決めたからだ。
「…………」
 そんなこんなで異様な日曜日は、午後の六時頃に家政婦マリアムが仕事を終えて帰途に着いたことによって幕を下ろす。部外者が立ち去ったことにより、本来の“エルトル家”が戻ってくると、真っ先に火を噴いたのは異母兄ジョナサンだった。
 父親に掴みかかり、「どうして自分でなく、落とし子なんかを選んだのか!」と怒号を上げた異母兄ジョナサンは、いつも以上に激しく暴れていた。だが父親は暴れるジョナサンに憐みの目を向けるだけで、何も言葉は掛けなかった。父親が、嫡出子であるジョナサンではなく、嫡出子でないシルスウォッドを連れて外に出た理由を説明することもなかった。
 父親と長男の様子を離れた場所から見ていたシルスウォッドは、イヤな予感を察知した。そしてシルスウォッドは、家政婦マリアムが用意していった夕食を自分の分だけ確保すると、食器をプレートに乗せて、それを大慌てで自室へと避難させた。……普段ならば他の家族が夕食を取る直前に、自分の分を手早く取り分けて、部屋でひとり食べているのだが。この日ばかりは『直前に』などという悠長なことができる気がしなかったのである。
 そしてシルスウォッドが自分の夕食を確保し終えて、自室から出たときだった。ジョナサンが父親と揉めている隙に、先に風呂を済ませてしまおうとシルスウォッドが部屋から出た瞬間、目の前にはジョナサンが立っていた。――……その後にシルスウォッドの身に降りかかってきたことは、わざわざ書く必要もないだろう。
 そんな経緯を経て、迎えた翌朝。早朝にエリザベス・エルトルに叩き起こされたシルスウォッドが、隣家の娘ブリジットと一緒に登校するために、エローラ家の戸を叩くと。出迎えてくれたブリジットの父親リチャード・エローラ医師は、シルスウォッドの姿を見るなり瞠目した。そしてリチャード・エローラ医師は、いつものように一人娘ブリジットを呼びに行く……――ことはせず、代わりにシルスウォッドの腕を引いて自宅の中に引き入れるという行動を起こす。それからリチャード・エローラ医師は、リビングにいる彼の家族に向かって、こんなことを言った。
「リアム! 今日は君がバス停までブリジットを送ってくれ!」
 リチャード・エローラ医師は娘の名ではなく、妻の名前を叫んだ。すると、いつも通りではない日常に違和感を覚えたエローラ家の妻リアムが、何事かという顔で玄関先へとすっ飛んでくる。そして察しの良い夫人は、玄関先に立つシルスウォッドの唇の左端と左目の横にできた痣を見るなり、すぐに夫の意図を理解した。
 夫人は無言で頷くと、踵を返してリビングに戻る。彼女は、毎朝のルーティーンを崩されたこと――リチャード・エローラ医師が娘と隣人宅の息子を連れて家を出て、彼らをスクールバスが発着するバス停まで送り届けるということ――に苛立ちも怒りもせず、柔軟に対応していた。そんなエローラ家の呼吸のあった連携を、シルスウォッドは物珍しそうに見つめつつ、ふと思う。これはエローラ夫妻が特別に仲が良いからこそ出来ることなのか、それともこれが普通の家族の姿なのか、と。
 だがすぐに、その思考を彼は棄てた。考えたところで意味がない、どうせ自分には手に入ることがないものなのだから、と結論付けて。それから再び、彼は現実へと視点を戻す。
 再びシルスウォッドが現実へと視点を戻すと、彼の目の前には、彼の身を案じて眉尻を下げるリチャード・エローラ医師の顔があった。
「どうして、すぐにウチに来てくれなかったんだい?」
 リチャード・エローラ医師は、真っ当な社会常識を持つ温厚な男性だ――少々のエキセントリックさを持ち合わせてはいるものの。彼が普通の世界の住人であることを再確認できたシルスウォッドは、昨日から無意識のうちに続けていた肩の緊張を解き、質問に対して戸惑うようなはにかみ笑いをしてみせる――普通の世界に戻ってこられたという安心感が、質問内容にそぐわない“笑顔”という反応を作り出していた。「家の外に出る以前に、部屋から出られなくて……」
「一体、何があったんだ?」
「……ジョンが、昨日はすごく暴れてたんだ。部屋から出たら、たぶん殺されるかもってぐらいに。本当ならすぐにエローラさん家に行きたかったけど、昨日はそれどころじゃなかったんだ」
 殺されると思うほど、ひどい暴れ方をしていた兄のジョナサン。その話を、安堵の笑顔を浮かべながら語る弟のシルスウォッド。――普通の世界の住人がこの話を聞けば、エルトル家には問題があると容易に結論付けられるだろう。無論、リチャード・エローラ医師はそう結論付けていた。
 ただし彼はそこから一歩踏み込んでいく。職業柄、癇癪持ちの子供たちと、それに困る親たちを多く診ていたリチャード・エローラ医師は、ジョナサンがそこまで暴れ狂った理由に興味を持ったのだ。
 子供がひどい癇癪を起こす時には必ず、周囲との間になんらかの行き違いが起こっているか、不満を抱えていることが原因としてある。幼い子供や非定型発達児が癇癪の問題を抱えやすいのは、この不満や行き違いをうまく言葉や表情などで表現し、伝えることができないからなのだ。そして定型発達児が癇癪の問題を抱えている場合、これは子供自身ではなく親に問題があることが殆ど。
 子供の感情を汲むことが苦手な親、そもそも子供が苦手な親。このケースなら「絵本などを媒介してコミュニケーションの練習を始める」などといった方法で救うことができるが。取り付く島もないような、どうしようもない親たちはごまんといる。家庭よりも仕事を優先する親、子供の話を聞かない親、子供の存在を無視する親、学業成績などで兄弟姉妹を争わせて敢えてギスギスした家庭を作る親など。
「ジョナサンは、どうして暴れたんだ?」
 エルトル家の長男であるジョナサンが非定型発達児なのか、定型発達児なのかは、ジョナサンを診たことがないリチャード・エローラ医師には判断のしようがないが。少なくともエルトル家の場合、どうしようもない外道である父親に重大な問題があることは間違いのない事実。
 それにシルスウォッドの体にできた複数の痣を把握したリチャード・エローラ医師は、確実に今回の一見にあの外道な父親アーサー・エルトルが噛んでいるという確信を持っていた。――そしてシルスウォッドは、おおむね予想通りの答えをリチャード・エローラ医師に返す。
「父さんが、エルトル家の跡継ぎを長男のジョナサンじゃなくて、次男の僕にするって、急に言い出したんだ。それでジョンが怒ったけど、でも父さんはジョンの存在を無視してるって感じで……」
「つまり、顔と腕の痣はジョンの仕業か。――それで、首の手形はどうしたんだ?」
「僕が、跡継ぎになんかならないって言ったから。父さんが逆上して、それで首を絞められたって感じかな」
 異常なほどに自己中心的で、自分の思う通りに物事が進まなければ逆上し、相手が子供だろうが手を上げる父親。そんな父親が居る家庭で育つ子供が、まともな精神を宿すはずもない。リチャード・エローラ医師は改めて、そう判断する。
 弟――とはいえリチャード・エローラ医師は、エルトル家の兄弟は母親が異なることを知らない――を、殺しにかかる勢いで襲う兄のジョナサンも。兄にも父親にも殺されそうになっても、この通りヘラヘラと笑っている弟のシルスウォッドも。どちらも、正常とは言い難い。それに弟のシルスウォッドの方は、この通りしょっちゅう痣や傷を作っているのだから……シルスウォッドと同い年の娘を持つ父親であるリチャード・エローラ医師は、居た堪れない気分になっていた。
 しかし、だ。あくまでも“他人”であるリチャード・エローラ医師が、シルスウォッドにできることは限られている。ましてや、相手は警察も行政もお構いなしなエルトル家だ。彼らに、正攻法は通用しない。
 つまり、リチャード・エローラ医師は困り果てていた。その思いを、彼は正直に目の前にいるシルスウォッドに打ち明ける。「……あの家に居続けることが、君にとって良いとは絶対に思えないんだ。かといって、あのアーサー・エルトルに太刀打ちするにあたって、行政も警察もまるで役に立たないとなれば……果たして、何をどうしたらいいんだろうなぁ?」
「僕に聞かれても、サッパリわかんないよ」
「私にもサッパリだ。ただ……将来の為にも、証拠集めだけはしておこう」
「証拠集め?」
 リチャード・エローラ医師は、一介の脳神経内科医だ。大病院の精神科に籍を置いているとはいえ彼は精神科医ではないし、彼が相手にするのも“患者の語る言葉”ではなくて“患者の脳内で目まぐるしく変化し続ける電気信号”だ。なので、やはり医師という立場を以てしても出来ることはかなり限られている……というより、ほとんど無いのだ。
 しかし、だ。彼の所属は精神科で、同僚たちは精神科医だ。それに脳神経内科医という特殊な立場上、整形外科や脳神経外科といった他の診療科にも顔が利く。また基本的にヒマをしている立場から、救命救急センターにしょっちゅう駆り出されて雑用を頼まれるということもあって、救急医たちとも親しい。さらに、救命救急センターに頻繁に出入りするパトロール警官などにも多くの知り合いが居る。……つまり、リチャード・エローラ医師ひとりでは出来ることは限られているが、けれども彼は、何らかの助力をしてくれるだろう人物とシルスウォッドとを繋ぐことはできるのだ。
 大きく状況を変えるような手段を講じることは出来ないが。代わりに、いざという時に頼ることができるセーフティーネットを構築しておくことはできる。――何かがあった時に頼れる窓口であることが、最低限の自分の役割だとリチャード・エローラ医師は考えていた。
「具体的にどのような怪我をしたのか、という診療記録を残しておくんだ。診療記録は、君が家庭内で暴行を受けていたという証拠になるからね。……君も、これなら同意してくれるだろう?」
 リチャード・エローラ医師が“証拠集め”について提案をすると、シルスウォッドは無言で首を縦に振って頷いた。警察に連れていかれるわけでもなく、行政相談に連れていかれるわけでもない、ある意味において“斜め上でありながあらも、堅実でベターな選択肢”のメリットに、シルスウォッドも納得できたからだ。
 シルスウォッドが提案に同意したことを確認すると、リチャード・エローラ医師は不器用な微笑みを浮かべる。――実のところリチャード・エローラ医師は、シルスウォッドが「父さんにバレたら殺される!」やら「事を荒立てたくない!」もしくは「病院だって信用できない!」とゴネるのではないかと想定していた。そのため珍しく素直に話を聞いてくれたシルスウォッドに、彼は少し腰を抜かしていたのである。
 そういうわけで少しの驚きを抱えながら、リチャード・エローラ医師はまた別の提案をシルスウォッドに持ちかける。「一応、君の叔母さんにも連絡をしておくかい?」
「何を連絡するの?」
「君が怪我をしていて、これから病院に行くってことをだ」
 親しい間柄の隣人であるとはいえ、親戚でもない以上、やはり無断では病院になど連れていけないというもの。せめて親類の誰かに断りは入れておくべきだろうと、そうリチャード・エローラ医師は考えたのだ。そこで思い浮かんだ名前が、シルスウォッドの実父アーサー・エルトルではなく、叔母のドロレス・ブレナンだった――尚、いざという時に備えてドロレス・ブレナンとリチャード・エローラ医師は、元新聞配達員レーノン・ライミントンを通して連絡先を交換していた。
 しかし今回の提案に、シルスウォッドは首を傾げさせた。そして半分同意で、半分は違うといった微妙な答えをシルスウォッドはリチャード・エローラ医師に返す。「あー、うん。一応。でも、ドロレス叔母さんじゃなくて、ライアンのほうが良いかも」
「ライアン……っていうのは、誰のことだ?」
「ライアン・バーンっていう人が居るんだ。ドロレス叔母さんの友人で、父さんの天敵っていうか。……それに最近はずっと、平日の放課後にライアンのお店に僕は行ってたし。僕が来ないってなると、きっとライアンは心配すると思う」
 ライアン・バーンという聞きなれない名前が唐突に飛び出してきたことに、リチャード・エローラ医師は驚く。いつの間に、内気なのか人懐っこいのかがよく分からないこの少年は行動範囲を広げていたのか、と。続いて「最近はずっと、平日の放課後にライアン・バーンという人物の店に行っていた」というシルスウォッドの告白にも、リチャード・エローラ医師は驚いた。何故ならば、彼はずっと「シルスウォッドは水曜日以外、フェンシング教室に通い詰めだ」と思い込んでいたからだ。そこでリチャード・エローラ医師は恐る恐る、シルスウォッドにこう質問を投げかけた。「……そういえばフェンシングは、どうしたんだ?」
「剣道教室の都合で、通うのは火曜と土日だけになったんだ。だから、月木金はライアンの店の手伝いをしてる。で、水曜はこの家に」
「水曜以外もウチに来ていいんだぞ?」
「……でもルーティーンが崩れたら、エルトル家の人間に僕が自由行動をしてることがバレる。ましてやライアン・バーンに会ってるって知られたら、父さんは逆上どころじゃ済まないと思うし、そうなったらランドンだって無事じゃ済まない。リスクが大きすぎる」
 またも、リチャード・エローラ医師が知らない名前“ランドン”が飛び出してくる。だが、一つ一つ丁寧に突っ込みを入れていてはキリがない。そこでリチャード・エローラ医師は、ライアン・バーンにのみ的を絞って質問を投げていく。「そのライアンって人物は、どんな店をやってるんだ?」
「アイリッシュパブ」
「つまり、アルコールが出るお店か?」
「うん」
「そんな店で、君は何を手伝ってるんだ?」
「皿洗いとか、酔っ払いのご機嫌取りかな」
「酔っ払いのご機嫌取り……?!」
「楽器の弾き方とかを教えてーって酔っ払いのオッサンとかに媚を売ると、チップくれるから」
「……分かった。そのライアンって人物に、まずは連絡をしよう。それから、病院に行こうか」
 ライアン・バーンとは、どうやらアイリッシュパブを営む人物であり、そしてシルスウォッドも懐いているらしいが、子供をダシに使ってチップを稼いでいる模様……。
 ひとまず、それだけの情報を把握したリチャード・エローラ医師は、リビングにある電話台に向かおうとした。――のだが。リチャード・エローラ医師には気掛かりなことがひとつある。それは“ライアン・バーンという人物が、あのアーサー・エルトルの天敵である”という話。
「……それで、そのライアンって人物が。君の父親の天敵ってのは本当の話なのか?」
 もしそれが事実なら、ライアンという人物も相当にクセが強そうだと予想される。そしてシルスウォッドは、その子供らしい無邪気な笑顔を取り繕いつつ、リチャード・エローラ医師の懸念を確信に返るようなことを言うのだった。
「父さんとライアンは、ハイスクール時代の同級生だったらしくて。それで、二人とも校内にあった二大派閥のボスだったんだってさ。だから二人は日常的にいがみ合ってたって。挙句、ドロレス叔母さんはライアン側に付いたから……」
「それはたしかに、天敵たりうる人物だなぁ……」
 ライアン・バーンとアーサー・エルトル。その二人の男の間にあるエピソードの一端を聞いたリチャード・エローラ医師は、こめかみを掻きながら苦笑いを浮かべ、そう言葉を返す。きっと悪夢のようなハイスクールであったに違いないと予想したリチャード・エローラ医師は、自分がボストンではなくニューヨークで生まれ育ったことに感謝をしていた。
 苦笑うしかないリチャード・エローラ医師を見上げながら、シルスウォッドも同じような苦笑を浮かべる。そんなシルスウォッドが語った先ほどの話だが、これは半分だけ正しく、もう半分は誤魔化されていた。
 事実はこうだ。――ライアン・バーンとアーサー・エルトルの関係は、なにもハイスクールに始まったものではない。そもそも、バーン家とエルトル家の間には確執が存在していて、両者はこの確執を単に“受け継いだ”だけなのだ。
 エルトル家は、地元の有力者ないし宗教系極右勢力を陰で取りまとめる家で、かつては俗にいう“マフィア”のような存在だった。そして対するバーン家は、四十二世紀初頭に起きた世界大戦の混乱の中で、焼け野原となったボストンに誕生した怒れる貧困層を取りまとめ、自警団のような組織を独自に作った家。要するにバーン家は“ギャング団”の親玉といったところだろう。――マフィアとギャングの対立という構図は、ライアン・バーンとアーサー・エルトルらの親の世代で終息した話ではあるものの、その頃の確執が消えることなく残っているというわけなのだ。
 ……というのは、つい先日にライアン・バーンから聞かされた話。そしてこれは、実話だ。
「ライアンは気のいい人だよ。父さんと違って、本当の社会貢献活動をしてる人だし。ちょっと顔はイカついけど……」
「そうなのか。取り敢えずそのライアンって人物に連絡をしたいから、彼の電話番号を教えてくれるかい」
 アイリッシュパブを経営する傍らで元娼婦たちの更生を手伝っている、ギャング団の元ボスに匿ってもらっているだなんてことをバカ正直に話したら、一般人のリチャード・エローラ医師は間違いなく心配するだろう。ゆえにシルスウォッドは、真相の一部を隠して話したのだ。


+ + +



 口達者でも特別に陽気なほうでもないリチャード・エローラ医師は明らかに、豪快な性格をしたライアン・バーンに圧倒されている。――誰の目にも、それは明らかだった。
「ハッハッハッ! アンタの話はウディから偶に聞くぜ、ドクター・エローラ。うちの子の手当てを毎回してくれてるようで、本当に感謝してるよ」
「う、うちの子……?」
「ウディは俺の孫みたいなもんさね。母親……というか、ドロレスから直々に世話を頼まれててな」
「ああ、そうなんですか……」
「本当のことを言うと、だ。俺はウディをあのクソ野郎の下から引きはがして、うちで――」
 リチャード・エローラ医師の勤務先の病院に到着したシルスウォッドは、たまたま空いていたということもあり、救命救急センターに連れてこられていた。そこでシルスウォッドは救命救急センター所属の小児科医に託され、担当となった小児科に怪我をした状況を根掘り葉掘り聞き出されたり、レントゲン撮影をされていた。
 そして小児科医と入れ替わって現れた整形外科医が「右腕の手首の下あたりの骨に、かなり深いヒビが入っている」とシルスウォッドに告げてきた時。タイミングよく、連絡を受けたライアン・バーンが救命救急センターに来たのだ。
 それからは……先ほどのとおり。受付でライアン・バーンを出迎えたリチャード・エローラ医師に、ライアン・バーンが面倒くさい絡みを仕掛け、リチャード・エローラ医師がオドオドとしている。
 自分の言いたいことだけを一方的に喋り続ける巨躯のライアン・バーンを前に、それなりに恰幅は良いはずのリチャード・エローラ医師の背中は心なしか小さく見えていた。そんなリチャード・エローラ医師の背中を、憐れむような目でシルスウォッドが見ていると、同じ背中を見ていた整形外科医がボソリと呟く。
「……あのエローラ先生が押されてるなんて、珍しいね……」
 その整形外科医は、本当に物珍しそうな顔でリチャード・エローラ医師の背中を見ていた。どうやらリチャード・エローラ医師があのように肩を竦めている姿は、あまり見られない光景であるらしい。そこでシルスウォッドはさりげなく、整形外科医に訊ねる。「エローラ先生が圧倒されてるのって、そんなに珍しいことなんですか?」
「まあね。あの先生って良くも悪くも情緒がないから。いつもマイペース……――いや、恐れ知らずというか。普段の彼なら、ギャング団のチンピラとかカルト宗教の信者を相手にしても全く動じないんだけど。今日はどうしたんだろうね?」
 リチャード・エローラ医師がマイペースで恐れ知らずという話は、なんとなくシルスウォッドにも理解できた。なにせシルスウォッドが知る中で唯一、彼の父親であるアーサー・エルトルに真正面から挑みかかって顔面を殴られた人物が、リチャード・エローラ医師なのだから。
 それにブリジットから伝え聞く“父親としてのリチャード・エローラの奇行”も、大概な内容ばかりだし。シルスウォッドもまた、リチャード・エローラ医師のことは“心優しい宇宙人”と認識している。――要するにリチャード・エローラ医師は、地球人の常識の範囲内に収まるような人物ではないのだ。家庭内および近隣住民だけでなく、職場でも彼は同様の評価をされているらしい。
 そして対するライアン・バーンだが、彼もまた常識の範囲内に収まる人物ではない。表向きは豪快な性格をした酒場の店主だが……――
「あのエローラ先生が、普通そうなオッサンに押されるなんて。珍しいよ、本当に」
 そんなこんなで浮世離れした宇宙人リチャード・エローラ医師が、ライアン・バーンに圧倒されていると。遅れてライアン・バーンの同伴者が受付に入ってくる。適当に結った長い赤毛の髪を振り乱し、ガニ股歩きでやってきたのは、ライアン・バーンの妻サニー・バーンだった。
 面倒くさい絡みを医者相手に仕掛けている夫ライアンを見た妻サニーは、夫の後頭部を平手で叩き、「アンタは下がってな!」と声を張り上げた。そして夫ライアンの肩を掴み、彼を後方へと強引に引き下げた妻サニーは、夫とポジションを交代するように前へと出る。それから彼女はキーケースを腰に下げた黒いポシェットにしまいながら、困惑顔のリチャード・エローラ医師にヘコヘコと頭を下げ始めた。
「うちの人が、ご迷惑をおかけしてすみません! この人、朝から呑んでまして……――本当に、申し訳ないっ!」
 不躾な夫ライアンの行動を謝り倒す妻サニーの姿に、リチャード・エローラ医師はますます困惑していく。リチャード・エローラ医師は「お気になさらず……」と口先では言ってはいるものの、声が大きくそれでいて豪胆なバーン夫妻を前に、かなり参っているようだった。
 チラリと、リチャード・エローラ医師がシルスウォッドの方を見やったのが、その証拠。リチャード・エローラ医師は早くシルスウォッドと彼らを引き合わせて、この場面から脱出したいのだろう。……彼がそう思うのは無理もなかったし、シルスウォッドもそれを責める気は一切起こらなかった。
 それはシルスウォッドが、バーン夫妻をよく知っているからこそ。夫のライアン・バーンの経歴および性格は凄まじいものがあるし、妻のサニー・バーンも常人離れをしたスタミナとタフさを持つ人物である。
 柔和ないし繊細なタイプは、容赦なくバーン夫妻のペースに呑まれてしまうだろう。リチャード・エローラ医師は繊細なタイプではないように思うが、しかし物腰穏やかなタイプであることは否定できない。マイペースな性格ではあるものの、相手に強く出ることが得意なわけではないリチャード・エローラ医師はグイグイとバーン夫妻に押されていて、この“自分のペースを乱されている状況”に彼は困惑しているというわけなのだ。
 すると……居心地の悪そうにしているリチャード・エローラ医師の雰囲気から、妻のサニー・バーンは彼の感情を察したのだろう。不躾な夫の行動を謝ることを彼女は止めると、場の空気を切り替えるべく、彼女はリチャード・エローラ医師に向かってこう切り出した。「それで……ウディは、どこに居ますかね?」
「ウディというのは、シルスウォッドくんのこッ――」
「ええ、そうです。シスルウッドのことです」
 サニー・バーンは少々食い気味に、リチャード・エローラ医師の発言を訂正する。その時のサニー・バーンが見せた気迫に面食らったのだろう。いちいち圧が強いバーン夫妻から離れるように、リチャード・エローラ医師は小さく一歩だけ後退った。それから少しだけ遅れて、リチャード・エローラ医師の中で何かが引っ掛かったらしい。
 サニー・バーンが、被せるように訂正した言葉。シスルウッド。……言い慣れた名前に近い音であり、そして親しみのある奇妙な名前よりも人名らしい響きを持つその言葉が、少し遅れてリチャード・エローラ医師に新たなる驚きを与えたのだ。
「シスルウッド? じゃあ、シルスウォッドって名前は一体どこから……?」
 リチャード・エローラ医師が発した疑問。それに対して、ライアン・バーンが口を開き、答えを明かそうとしたが……――酔っ払いの発言を、妻サニー・バーンは制した。夫よりも先に喋りだしたサニー・バーンは、早口に語る。
「名付け親が、紙に綴りを書くときにトチったんですよ。それで間違えて書かれた名前を、あの外道男が敢えて戸籍に残したんです。それでシルスウォッドなんて変な名前になっちゃって。本当に最低最悪な父親ですよ、アーサー・エルトルってヤツは。――……で、ウディはどこに居るんですか?」
 サニー・バーンは無駄話を早く切り上げて、シルスウォッドの許に早く向かいたかったのだ。そしてシルスウォッドとバーン夫妻を早く引き合わせて、この空気から逃れたかったリチャード・エローラ医師と、その意見は一致する。
 まだまだ立ち話を続けたそうな雰囲気をどことなく出しているライアン・バーンを置いて、場の流れは変わった。リチャード・エローラ医師は彼のペースを取り戻すと、不器用な微笑みを浮かべて、サニー・バーンにこう言った。
「案内しますので、付いてきてください」


+ + +



 怪我に対する一通りの処置を終えた後。シルスウォッドは整形外科医から「暫くは安静にしなさい」と言い渡され、それから小児科医からは「ストレスを溜めるな」と忠告された。その直後にライアン・バーンは、シルスウォッドの頭に分厚い手を置きながら大声で笑い、ついでにこう言ってのけた。「どれも無理な相談だな!」と。――確かにどれもライアン・バーンの言う通り、無理なことだった。安静にしたくても異母兄ジョナサンがそれをさせてくれないだろうし、エルトル家にいる限りはストレスを溜めないだなんてことは無理だ。悲しいことに、それがシルスウォッドの現実だった。
 そんなこんなでシルスウォッドが現実に打ちひしがれながらも、病院を出ようとした時。医療費の支払いに関して、リチャード・エローラ医師とライアン・バーンが面倒な言い争いを起こした。「自分の判断で連れてきたのだから、自分に払わせてくれ」と言い張るリチャード・エローラ医師と、「この子の世話は俺の役目なんだ!」と言い張るライアン・バーンの間で、意見が割れたのである。二、三分ほど小競り合いは続いただろう。そして、その小競り合いに終止符を打ったのは、ライアン・バーンの妻サニー・バーンの一声。
「ドロレスとローマンの二人に話は付けてあります。ローマン・ブレナン宛に、請求書は郵送してくださいな。……そうしないと、後で色々と問題が起こりますから」
 そうしてバーン夫妻と共にシルスウォッドが病院を出たのが、正午前のこと。朝の時点ではさほど痛みが無かったはずの右腕が、今やギプスでガチゴチに固められているという現実を、シルスウォッドは一歩引いた醒めた視点で受け止めながら、整形外科医から渡された予約票を見つめていた。
 来週の火曜日、午前九時。――一応、リチャード・エローラ医師が今日のように連れてきてくれて、そしてバーン夫妻が迎えに来てくれることになっている。
「……」
 父親に“ライアン・バーンと会っている”ことがバレないよう、そこら辺の配慮や対応は運転手のランドン・アトキンソンが、叔母のドロレスと連携しながら上手くやってくれることになっているらしいのだが。シルスウォッドには少しの不安感があった。ギプスを巻いた右腕を見たら、今度ばかりは父親も何かしらのアクションを起こすのではないか、と。お人好しすぎる隣人に、今度こそ危害を加えるのではないか。そう思えて仕方なかったのだ。
 それにシルスウォッドの胸の中にあるのは、不安感だけじゃない。焦燥感も蠢いていた。
「…………」
 周囲の人々に助けられてばかりで、迷惑をかけっぱなし。お礼もロクにできていない。
 なのに、災難は次から次に降ってくる。でも、自分ひとりでは抗うことも、逃げることもできない。そして今日のように誰かに助けてもらえなければ、自分の身を守ることもできないのだ。
 今はまだ非力な子供なのだから、仕方ない。そう自分に言い聞かせるのも、そろそろ限界だった。
 シルスウォッドはこの日まで、何も状況が変わらない生活に八年間も耐え続けてきたのだ。隣人一家を始め、ライミントン兄弟や運転手のランドン・アトキンソン、バーン夫妻など、直接的に助けてくれる人々が得られたことは不幸中の幸いだったが、でもシルスウォッドが求めているのはそれではないのだ。
 根本的に状況を書き換えてくれるような、魔法のような一手。彼が求めているのは、それだ。
 焼け石に水にしかならない“優しさ”なんかじゃない。付け焼き刃でしかない“立ち回りに際する助言”でもない。世界がひっくり返り、足にずっと絡みついていた蔦や茨の全てを焼き払って滅ぼしてくれるような、天変地異のようなハプニングこそ、彼の求めているものなのだ。
 でも、そんなことは滅多に起こるものじゃない。ましてや、狙って引き起こすことなど不可能に等しい。……だからこそ、それを強く求めてしまう。
「………………」
 いつまで、こんな惨めな生活をしなければならないのか。――頭の中でずっと、本心がそう囁き続けている。
 いっそ全てを放棄してしまえば、楽になれるのだろうか。――頭の中の別の区画では、異なる声がそう嘆く。
 そして精神の底に沈殿した闇の中に身を潜め続けるもう一人の自分が、怒りに満ちた声で終わらぬ疑問を呈し続ける。どうして自分ばかりがこんな目に遭わなければならないのか、と。それから怒りに満ちた声は、いつもと同じ答えを出す。

 こんな世界、何もかも間違ってる。

「……にしてもだ、ウディ。お前、本当に腕は痛くないのか?」
 頭の中に響く声に意識を集中していたせいで、シルスウォッドはすっかり寡黙になっていたらしい。そして黙り込むシルスウォッドに何かを感じたのか、気を使ったライアン・バーンがそう声をかけてくる。けれどシルスウォッドは愛想なく、短い返事をするだけ。
「まあね。痛くない」
 シルスウォッドの視線は、手元の予約票を向いたまま。すると二列目左側の座席に座るシルスウォッドを、一列目右側の助手席に座るライアン・バーンがチラッと見やる。それからライアン・バーンは、正面を見るようにと暗に促すようなことをシルスウォッドに言ってきた。
「手元なんか見てっと、車酔いするぞ。ウディ、顔を上げな」
 妻のサニー・バーンが運転するミニバンがかなり古いタイプであり、振動を吸収する役割を持つサスペンションがその機能を失いつつあること。それと、除雪作業の影響で道路の舗装がガタガタになっていることが相まって、車内は激しく揺れていた。つまりライアン・バーンの言う通り、車酔いを引き起こす条件が揃っている。
 ライアン・バーンの言葉に納得したシルスウォッドは予約票を折り畳むと、顔を上げて、正面を向いた。
「……」
 エルトル家の中で起こる、暗澹たる日々こそが“現実”なのか。
 それとも、今や保護者同然に面倒を見てくれるバーン夫妻と過ごす時間が“現実”なのか。
 はたまた、ブレナン夫妻の許で過ごしていた時間だけが“現実”で、それ以降はただの悪夢なのか。
 もしくは、全てが悪夢でしかなくて、頭の中に響く声だけが“現実”なのか。
 または、自分はとっくの昔に死んでいて、その自覚すらないまま、現実のように見える悪夢の中に囚われ続けているだけなのか……。
 ――そんな、永遠に答えも出なさそうな自問自答を最後に、シルスウォッドは頭の中で行われているディスカッションから目を逸らす。
 そうして再びシルスウォッドが寡黙になると、助手席に座るライアン・バーンが後ろへと振り返ってきた。それからライアン・バーンは、シルスウォッドのギプスで固められた右腕を見た後、シルスウォッドの目を見て、こう問いかける。
「レントゲン写真を医者に見せてもらったが、骨が完全に折れる寸前のヒビだったぞ。それに、腕もブックリと腫れてたじゃないか。それなのにお前は痛くないとか抜かしてやがったが……強がりを言う必要はないんだぞ?」
「強がりとかじゃないって。たしかに腫れてたけど、本当に痛くなかったし」
 ライアン・バーンの言葉に、シルスウォッドはそう返事をしたが。ライアン・バーンの目は、初対面の時と同じような疑念に満ちていた。そして彼は、それを隠す気もない様子。
「本当かぁ?」
 疑いの目を向けてくるライアン・バーンの視線に、昨日から続く疲労を引きずるシルスウォッドは、なんとなく不快感を覚えた。その不快感が少しの攻撃性へと転じ、棘のある言葉となって表に出てくる。
「なんで嘘だと思うわけ?」
 とはいえ、この程度の刺々しさでは、ライアン・バーンという男は動じない。アルコールが残っていることもあって、いつもよりも察しが悪くなっている彼は、シルスウォッドの言葉の棘を見落とす。そして彼はいつものようなガサツでぞんざいな調子で、こう言葉を続けるのだ。「あんだけ腫れてるにも関わらず『痛くない』ってのが、俺には経験がないからに決まってんだろ」
「それはライアンの場合じゃん。僕は――」
「あのなぁ、ウディ。これは『注射が痛いか、痛くないか』っつー次元の話じゃないんだ。骨が折れてんだぞ。痛いに決まってる。お前もそう思うだろ、サニー」
 突然、ライアン・バーンから話のパスを渡された妻のサニーは、ガタガタとグラグラと揺れる車体に顔をしかめさせていた。それから少しの間が空いた後、赤信号に差し掛かり、ミニバンが一時停止する。そのタイミングで、妻のサニーはぶっきらぼうな態度で返答をした。
「アタシも、ウディぐらいの年齢の時に、兄貴との喧嘩がエスカレートして、腕の骨を折られたことがあるよ。だからこそ言える。骨折はかなり痛いってね。痛み止めなしじゃあ生活できないぐらい、骨折したての頃は特に痛い」
 夫の言い分を肯定するような話を、妻のサニーは返す。するとライアン・バーンは「自分の言い分が正しい」と主張するような顔を、シルスウォッドに向けてきた。
 本当は右腕が痛いくせに、クールを気取って格好つけやがって。――ライアン・バーンは、そのような無言の圧を掛けてきている。しかしシルスウォッドは、本当に痛みを感じていなかった。
「…………」
 確かに、右腕は大きく腫れていた。リチャード・エローラ医師に引き留められた朝の時点では“なんとなく赤い”程度ではあったものの、病院に連れていかれてレントゲン撮影をされていた時には、かなり大きく腫れ上がっていたし、赤化した部分は熱を持っていた。にも関わらず、当人であるシルスウォッドはさほど痛みを感じていなかったのだ。
 ――というよりも、彼は痛みに慣れ親しみすぎたのだろう。幼い頃からずっと、絶えず生傷を抱えていたシルスウォッドは、骨折の痛みを「いつもより少し痛みが強いが、かといって耐えられないほどではない」と認識していたのだ。
「……仮に、僕が『腕が痛い』って騒いだところで、何か状況が変わる? 折れた腕が元通りになるわけ?」
 ライアン・バーンが掛けてくる無言の圧に対し、シルスウォッドはそう言葉を返し、小さな抵抗ないし八つ当たりをしてみせる。それに対しライアン・バーンは眉をひそめて、「そういうことを言ってるんじゃない」という表情を返したが、シルスウォッドはそれを無視し、正面から目を逸らして窓を見るという反応を見せた。それからシルスウォッドは、怒りと諦めが綯い交ぜになった心情を乗せて、淡々としたトーンで呟く。
「愚痴ったところで、何も状況は変わらない。だったら、泣き言をいうだけ時間とエネルギーの無駄だよ。黙って耐えるしかないさ」
 苛立ちにより生まれた隙から飛び出した、醒めた灰色の言葉。それこそがシルスウォッドの本音なのだということは、鈍いライアン・バーンにも流石に察しがついた。そして、それは運転席に座るサニー・バーンも同じ。十五歳にも達していない子供が、諦めるよう自分自身に暗示をかける言葉を発したのだから……それを聞いて、嫌な気分にならない大人はいないだろう。
 サニー・バーンは気まずさとモヤモヤとした不快感から顔を顰めさせつつ、青信号に変わったタイミングでエンジンを踏みこみ、車を動かした。そしてライアン・バーンは不甲斐なさから体の向きを正面に戻し、溜息を吐く。それからライアン・バーンは、刺々しい態度を取るシルスウォッドに、同じような態度を返すのだった。
「名は体を表すとはよく言うが、まさにその通りだ。シスルウッド(アザミの森)ってぇ名前の通り、お前は棘ばっかり。まるで近寄れないね。子供らしく甘えてもくれねぇし。……俺たちはお前にとって、頼りにならない大人なのか?」
 ライアン・バーンの発した嫌味な発言に、しかしシルスウォッドは何も反応を返さない。車の走行に合わせて、移ろい変化する窓の外の景色を見つめているだけだ。ただ、不機嫌そうに顔をムッとさせているシルスウォッドの様子からするに、ライアン・バーンの話は聞いていたのだろう。
 そこでライアン・バーンは、話題を“本当に聞きたかったこと”に変えることにした。そういうわけでライアン・バーンは、シルスウォッドにこう切り出す。
「――ジョナサンが暴れたせいで怪我をしたと、そう医者から聞いたが。何があったんだ?」
 するとシルスウォッドは愛想なく、簡潔にこう答える。「いつものことだよ。ジョンが理由もなく暴れて、僕に襲い掛かってくるなんて」
「だが腕が折れるほどの怪我は、今回が初めてだろ?」
 ライアン・バーンからの問いかけに、シルスウォッドは答えを返さない。代わりにシルスウォッドは、別の質問をライアン・バーンに投げかけるという行動に出る。「一つ、知りたいことがあるんだ」
「おう、言ってみろ」
「オブライエン家っていうのは、今のエルトル家のことなの?」
 藪から棒に飛び出たその話に、ライアン・バーンは首を傾げさせた。どういう経緯でそんな大昔の話を子供が耳にしたのかというのが、彼には分らなかったからだ。
 まあそれはひとまず措いといて。一応、ライアン・バーンは聞かれたことに応えることにする。「エルトル家がもともと、闇賭博だの麻薬売買だのを取り仕切ってた犯罪組織の元締めだったっつー話は、前にしただろ? その頃の名前が、オブライエンだ。色々あってオブライエン家は散り散りになって、最終的に残った連中がエルトルなんていう姓に改めたんだ。アイルランド系のくせに、ドイツ系の姓にな! たしか、それが五代前の当主で、百年前ぐらいの話さね」
「……五代前なら、二百年ぐらい経ってそうだけど」
 ライアン・バーンの語った話に、シルスウォッドはそんな疑問を呈する。その疑問にライアン・バーンはこう答えた。「エルトル家もバーン家も、抗争が絶えなかった時代は跡継ぎが死にまくってたらしいからな。昔は十五年単位で、世代が切り替わってたって話だ」
「…………」
「……ところでだ、ウディ。オブライエン家の話を、お前はどこで聞いたんだ」
 今度はライアン・バーンがシルスウォッドに質問を投げかけた。そしてシルスウォッドは一言、こう返した。「セシル・ローレンス」
「仕立て屋のクソジジィか!」
「…………」
「――まさかお前っ、エルトル家を継げとでも言われたのか?!」
 セシル・ローレンスという人名を述べただけで、仕立て屋を連想し、更にエルトル家の後継者問題という答えを弾き出したライアン・バーンに、シルスウォッドは驚いたが、その感情は表に出さない。シルスウォッドはあくまでも窓の外の景色を見つめたまま、淡々と告げた。
「再来週の集会で、エルトル家の跡継ぎとして支援者に僕をお披露目するんだってさ。父さんはそう言ってた」
 ――その一言をシルスウォッドが発した途端、車内の空気が変わる。左隣の運転席に座る妻サニー・バーンを、ライアン・バーンは凝視した。それから彼は目を見開き、オーバーなリアクションで驚きを表現しながら、大声でこう言う。
「なんてこった! ……サニー。お前の直感は、どうしてこうも気持ち悪いぐらいに当たるんだよ!!」
「ドロレスとローマンを、こっちに呼んどいて正解だったでしょう?」
 熱い視線を送りつけてくる夫を見ることなく、正面を見つめたままのサニー・バーンは、したり顔を浮かべつつそう言葉を返した。
 ドロレスとローマン。請求先をどうするかで揉めていた時にも耳にしたその名前に、シルスウォッドの取り繕っていた平静さも、ついに打ち砕かれた。窓の外の景色を見つめていた虚ろな目を、遂に前席に座る二人に向けたシルスウォッドは、小声で呟く。「――二人が、ボストンに?」
「いや。まだ来てはいない。今は、ハイウェイを走ってる頃だろうな」
 やっと正面を向いたシルスウォッドに、そう言葉を返すライアン・バーンは少しだけ安堵する。窓の外の景色を通して、全く別の“どこか”を見ていたシルスウォッドの視点が、やっと“今この場”に戻ってきたからだ。
 とはいえ、シルスウォッドの顔は曇ったままで、声もどことなく不機嫌さを纏っている。それに、ドロレスとローマンの二人がボストンに来ていると聞いても、シルスウォッドがそれを喜んでいる気配も特に感じられない。――二人との再会を、シルスウォッドは喜ぶだろうとばかり思っていたバーン夫妻は、出鼻を挫かれたような苦い気分を噛みしめていた。
 そこで、車内の空気を換えるべくサニー・バーンが動く。彼女は正面を見つめたまま、こう切り出したのだ。「まあ、跡継ぎの件をどうするかは店に着いてからとして。……エルトルって姓がドイツ系ってのは、初めて聞いた話だね。アタシは、あの名前は造語だって聞いたことがあるよ。高貴っぽい響きの名前を適当に作ったんだ、って風に」
「おっと。それは誰から聞いた話なんだ?」
「ドロレスさ」
 しかし……サニー・バーンが切り出した話題も、夫ライアン・バーンとの間で完結してしまう。シルスウォッドが話に入ってくることはなく、シルスウォッドの視線は再び窓の外の景色に向いていた。


+ + +



「ウディ。手伝いはいいから、あんたは二階で休んでなさい」
 バーンズパブに帰り着いた後。折れた右腕を抱えたシルスウォッドが、ぎこちなく利き腕でない左手を動かしながら、サニー・バーンが行う皿洗いの手伝いをいつものように始めようとした時。サニー・バーンはシルスウォッドに、そう言ってきた。
 バーンズパブの二階とは、居住スペースのある区画のこと。パブのカウンターの奥にある裏部屋には二階に通じる螺旋階段があり、そこから上がることが出来る。そして二階にはバーン夫妻のそれぞれの寝室と、寝泊りできる設備が整った空き部屋が五部屋ほど存在していた。
 その中でもシルスウォッドが使わせてもらっているのは、最も隅にある西側の部屋。シルスウォッドの実母、ブレア・マッキントシュがかつて使っていたという部屋だ。――とはいえ、今は少しの遺品が遺されていることを除き、実母の気配はまるで感じられない。他の空き部屋と大差ない、物が少ないシンプルな部屋となっている。
 ただ……シルスウォッドは、あの部屋に入り難さを感じていた。気のせいだとは思うのだが、どうしても“気配”を感じてしまうのだ。
「……」
 実母の使っていたフィドル。実母の家に伝わっていたというキルト一式。実母の持っていた楽譜の数々。埃を被ったグラモフォンと、トラッド曲が収録されたレコードの数々。故人の“生きていた痕跡”が、その部屋の隅にまとめられているのだ。その痕跡が、シルスウォッドにはどこか薄気味悪く思えるのである。ロクに知りもしない母親が、まだどこかで息をしているように感じられてしまうのだ。
 正直なところ、実母に対するシルスウォッドの感情は複雑だ。父親は「いかにブレア・マッキントシュが邪悪な娼婦だったか」ということしか喋らないし、バーン夫妻は積極的にブレア・マッキントシュについて語ってくれはしない。情報に偏りがある以上、実母を断定することもできないのだ、
 その一方でバーンズパブの至る所には、実母の過去の肖像がモノクロの写真となって飾られているという実情がある。バーン夫妻の真ん中に立ち、満面の笑みを浮かべている若い頃の実母の写真や、楽しそうにフィドルを弾く実母と、その周囲で手拍子をする聴衆を捉えた写真など。壁には幾数枚の写真が、特に実母の写真が、わざとらしく目に付くところに飾られているのだ。
 そんな環境もあってシルスウォッドは、実母に対しての興味を全く抱いていないわけではない。むしろ、バーン夫妻と実母がどんな関係であったのか、実母はどんな人物だったのか等、とても気になっていることは幾つかある。
 けれども実母への興味や過去への好奇心が沸いてくるたびに、父親の言葉が脳裏を掠めて、好奇心が恐怖へと変わっていくのだ。実母の存在を否定しなければ、彼女の息子である自分はこの世に存在できないような、そんな思いが駆り立てられて……この宿命を、彼は呪わずにいられないでいた。
 そのように実母のことを避けたくなる反面。シルスウォッドは実母のフィドルを敢えて借り、一階のパブスペースで毎日のようにそれを弾いている。その度に、彼は感じるのだ。全てが嘘みたいにしっくりとくる感覚を。その感覚がまた、シルスウォッドに忌むべき血を嫌というほど痛感させる。
 肩当ても顎当てもついていないし、松脂ですっかり白っちゃけた安物のフィドル。質は粗悪という他なく、更にひび割れが目立つ固形の松脂。それなりな作りのカーボン製ボウ。安物のスチール弦が鳴らす、硬くてザリザリとしたドライな音色。――実母が好んだであろう感触が、音が、息子であるシルスウォッドにも、自然と好ましく感じられたのだ。
「…………」
 ――そんなこんなでシルスウォッドが二階に行くことを渋っていると、サニー・バーンは「手持ち無沙汰なのだろうか」と考えたのだろう。彼女はカウンターの上に放り投げられていた新聞紙を指差すと、シルスウォッドにこう提案する。
「あーっと……ほら、新聞に載ってるクロスワードでもやってなさい。ローマンから聞いたよ。好きなんだろう、クロスワードが」
「ハリファックスに居た頃は、ローマンがそういう本をよく買ってきてくれたからね。けど――」
「とにかく、二階で大人しくしてなさい。それと、眠る努力はするように。どうせ寝てないんだろう、昨日は」
「……まあね」
「なら、上で寝てきなさい。体が持たないだろう?」
 子供の言い分には耳を貸さないといった風に、サニー・バーンは早口でワーッと自分の意見を押し通した。その態度はさながら、クソガキを言いくるめようとする口うるさい母親のようだ。
 そのように押しの強いサニー・バーンに、反論する機会すら与えてもらえなかったシルスウォッドは、小さく肩を竦めさせるのみ。態度で少しの不服を表現したあと、シルスウォッドはサニー・バーンが指し示した新聞を手に取る。
 シルスウォッドが新聞を手にしたことで、彼が提案に乗ったものだと判断したサニー・バーンは彼から視線を逸らした。そして次に彼女が目を向けるのは、カウンター裏の壁面に設置された業務用の巨大な冷蔵庫から、瓶入りの黒ビールを一本取り出した男。つまり、夫のライアン・バーンである。
「ライアン・バーン!! アンタは仕事をしろ!」
 一段と声を張り上げてサニー・バーンはそう言うと、彼女は夫の手からビール瓶を取り上げ、取り上げたものを冷蔵庫へと戻した。それから彼女は裏部屋を指差し、飲んだくれの夫に指示を出す。
「アンタが今、その手に持つべきなのはビールじゃなくてモップだ。裏部屋からモップを取ってきて、それで床掃除をしなさい! その次はトイレ掃除だ、分ったかい?」
 妻から出された詳細な指示に、ライアン・バーンは何も言葉を返さない。しかし黙って裏部屋の戸を開け、モップを取りに行った彼の様子から察するに、妻の指示には大人しく従うようだ。流石のライアン・バーンも、優れた先読み能力を持つ妻サニーには敵わないというわけである。敵わないというより、逆らえないのだ。サニーの方が常に正しくて、そして合理的なことを言うのだから。
 そしてそれは、シルスウォッドも同じ。舐め腐った子供であるシルスウォッドも、サニー・バーンには逆らえない。先ほどのように、彼女は反論する機会を与えてくれないというのもあるし。彼女の言い分の方がいつも正しいということがあるからだ。
 怪我人であり且つ昨夜は全く眠れていないシルスウォッドは、サニー・バーンの言う通り、今は二階に行ってベッドで眠っておくべきなのである。ただでさえエルトル家では睡眠時間を確保できないのだから、眠れるときに寝ておくべきなのだ。そうでないと、いずれ体が壊れる。というか、既に壊れているのだから、それを悪化させない為にも睡眠が今は必要なのだ。
「……」
 そういうわけでシルスウォッドは新聞を携えて、ライアン・バーンが入っていった裏部屋の戸、そのドアノブに手を掛けた。二階に通じる階段が、裏部屋の中にあるからだ。
 そしてシルスウォッドがドアノブを捻ろうとした時、頭から胴体にかけて脱力感が彼の中を流れ落ちていく。それから彼の視界は真っ暗闇に包まれ、その後には実際に体が脱力し、踏ん張る力を無くした両足が崩れて、体は後ろへと力なく倒れていった。
 床に後頭部を打ち付けるかもしれない。そんな恐怖感が少しだけ、ぼんやりと頭の中に浮かんだものの、恐怖を覚えて怯える気力と体力すらシルスウォッドには残っていなかった。幸い、シルスウォッドの異変に気付いたサニー・バーンがすぐに駆け付け、力なく倒れたシルスウォッドの体を床と接触する前に受け止めてくれたが、飛んでしまったシルスウォッドの意識はその後すぐには戻ることがなかった。
「ウディ、おい、ウディ?! あぁ、なんてこったい、冷や汗がすごいじゃないか……――ライアン、モップ掛けは後回しだ! アンタはウディを二階に連れていけ!」
 サニー・バーンが呼び掛ける声も、サニー・バーンがペチペチと頬を軽く叩いている感覚も、慌てて戻ってきたライアン・バーンに抱き上げられた瞬間も、シルスウォッドには伝わっていなかった。


+ + +



 失神から覚め、シルスウォッドの意識が戻ってきたのは、その三分後。目覚めたのは二階にあるいつもの部屋――実母の遺物が多数残されている、あの部屋――のベッドの上で、そして目覚めてすぐに見えたのはライアン・バーンの心配そうな顔と、サニー・バーンの安堵したような表情だった。
 シルスウォッドが目覚めたのを確認すると、バーン夫妻はシルスウォッドに向かって声を掛けてきたが……――強い倦怠感に襲われていたシルスウォッドには、声はただの意味をなさない音に聞こえていて、言葉として認識することが出来なかった。そうして音を聞き流した後はすぐに、シルスウォッドの意識はまたブラックアウトした。今度のものは失神ではなく、抗いようのない睡魔が襲ってきたことによるものだ。
 そうして六時間ぐらい眠っていたことだろう。シルスウォッドが再度目覚めた時には日も暮れていて、部屋の中も窓の外の景色もすっかり暗くなっていた。さらに十二月の上旬という季節柄も相まって、空気は乾き、冷え冷えとしている。被されていた毛布のあまりの暖かさに、ベッドから降りる気力がみるみると失せていった。
 寝起きでぼんやりとしたシルスウォッドの意識の中で、二度寝も悪くないのではという思いが掠める。けれども、誘惑よりも自制心の方が勝った。寝ぼけている状態で自宅に帰った時に、父親を始めとするエルトル家の面々に「剣道教室に行っていなかったのでは?」と疑われるかもしれない懸念が頭に浮かんだからだ。
 八歳ぐらいなら「習い事に疲れて、帰りの車内で眠ってしまった」なんて言い訳が通じたかもしれないが、シルスウォッドも十二歳であり、それなりに体力もついてきたわけで。父親から「十二歳にもなってこのザマか!」と怒鳴られる可能性は十分にあり、その延長線で勘のいいエリザベス・エルトルに疑われる可能性も考えられた。
 そういうわけで父親の罵声を思い出し、シルスウォッドがシャキッと目覚め、上体を起こすと。同じベッドの上で、シルスウォッドの真横で眠っていた人物が居たことに、その時の彼は初めて気が付いた。
「――……ッ?!」
 それまで全くその人物の気配を感じなかったこと――その人物はいびきも立てておらず、シルスウォッドを気にして寝返りも打たずに、静かに眠っていたのだから仕方がない――もあって、シルスウォッドは意表を突かれたような驚き、ないし恐怖を一瞬だけ覚えた。そしてベッドから慌てて飛び降り、自分の横で寝ていた人物を暗闇の中で凝視する。
 閉じ切ったカーテンの隙間から、僅かに入る街灯の明かりを頼りに、ベッドで寝ていた人物の顔の判別をシルスウォッドは試みた。部屋の中が暗いことに加えて、シルスウォッド自身が寝起きであること、そして眼鏡を掛けていないこともあり、相手の顔はよく見えない。それでも目を凝らしてよく見てみれば、なんとなく見覚えのある顔が暗闇の中に浮かび上がってきた。
「……ローマン?」
 彼の隣で眠っていたのは、叔父の――または、昔の父親だった――ローマン・ブレナン。最後にあった四年前と比較すると、ローマンは全体的にやつれた雰囲気となっていた。
 ローマンは昔から、背が高くて細身だった。ただし今そこにいるローマンは、少なくとも四年前よりもずっと痩せこけ、頬骨や眉間の皴が目立ち、老け込んだように見えていたのだ。更に茶色の髪には白髪がぽつりぽつりと見受けられるし、首筋や手の甲には血管の筋がツタのように、クッキリと浮かび上がっている。健康的な痩せ方はしていないだろうし、年相応の老け方はしていないということは一目で分かった。
 しかし……声を掛けたり等、何かしらのアクションをローマンにすることは、シルスウォッドには躊躇われた。そこでシルスウォッドは、静かに部屋を出るという選択をする。足音を殺しながら歩き、物音を立てぬようにそっと扉を開け閉めして、気配を消しながら階段に向かい、一階の裏部屋へと降りていった。
 そうして一階の裏部屋に降りた時、シルスウォッドは違和感を覚える。表のパブが、普段とは比較にもならないほどに静まり返っていたからだ。クダを巻く酔っ払いたちの騒ぐ声は存在せず、上出来とは言えない雑音のセッションも聞こえてこず、数名の大人たちがぼそぼそと話す声だけが幽かに聞こえてくるのみ。
 この状況から浮かび上がる分析は一つ。――バーン夫妻は今日、店を開けなかったのだろう。
「…………」
 表のパブに通じるドアに近寄りながら、シルスウォッドは表から聞こえてくる声に注意を払う。不明瞭で単語はよく聞き取れなかったが、各人の声色は聞き分けることができる。
「――それは……でしたねぇ。まさか…………とは――ませんでしたよ」
 真っ先に聞こえてきた声は、意外な人物。隣人の、リチャード・エローラ医師の声のように思えていた。いつも通りのフワフワとした、心情が読めない独特の調子で、彼は話している。
「本当に、小さい頃は……で……私たちも……」
 次に聞こえてきたのは、どこか涙ぐんでいるようにも感じられる叔母ドロレス・ブレナンの声だった。
「今とは……ねえ……そういや昼間も、あの子は……――」
 次いで聞こえてきたのは、随分と活気のないサニー・バーンの声。……そしてシルスウォッドは、そこで話を盗み聞くことを辞めて、引き返すという行動をとる。表で大人たちがしているのは恐らく自分の話なのだろうと、そう察したからだ。
 それからシルスウォッドは表に出る扉から離れ、裏部屋の隅にある螺旋階段に戻る。螺旋階段を数段上がって、シルスウォッドはそこに座り、膝の上に肘を乗せて、退屈そうに頬杖を突いた。
 そしてシルスウォッドは考える。リチャード・エローラ医師が興味を示しそうな話で、叔母ドロレスが思い出して泣きそうな話、且つサニー・バーンが今日のシルスウォッドと比較するような話――一体、何があるだろうか?
 優れ過ぎている記憶力の持ち主でもあるシルスウォッドは、昔のことをそれなりに覚えているものの……さすがに幼少期の記憶は曖昧だ。ドロレスとローマンの下で平穏な日々を過ごしていて、毎週金曜日の夜会が楽しみだった、程度のことしかシルスウォッドは覚えていない。物心がつき始めて、周囲の人々に興味関心を示せるようになったくらい、つまり三歳前後からの出来事はボチボチ覚えているものの、それ以前は思い出そうとして思い出せるものでもないだろう。
 叔母ドロレスが何を話したのか。シルスウォッドはそれが少しだけ気になったものの、その一方で「知りたくもない!」と首を横に振って猛烈に拒絶する声が頭の中の大半を占めていた。
 例えばシルスウォッドの頭の中には「幼少の頃など、思い出したところで何の役に立つ?」とドライに切り捨てる声がある。それと「もう過去のことだ! 振り返るべきじゃない!」とヒステリックに喚く声と、「あの頃の自分は死んだんだ、もう忘れろ」と諭す声も、頭の中で犇(ひし)めいている。――どうやら“表”のシルスウォッドとは違って“裏”に隠れている彼自身は、昔のことをどうしても知りたくないようだ。
 というより、シルスウォッド自身は覚えているのだろう。その昔に何があったのか。その昔の自分自身はどんな性格をしていたのか。彼は知っている、覚えているはずなのだ。だがそれを把握する“隠された無意識”が“表層の自我”に、その記憶を手渡そうとしないだけ。覚えていたところで利になることは何もないと、他でもない彼自身が、彼の無意識が、それを分かっているのだ。
 ならば、思い出すべきではないし、知るべきでもない。そう判断した彼は考えることをやめ、溜息を吐くと同時に、動き回り続ける思考を強制停止させ、憂鬱な心を無にした。虚ろな蒼い目で裏部屋を支配する暗闇を見つめ、その暗闇を心の中に充填していく。
 首から肩にかけての力を抜き、自分自身が闇の一部となることを意識して、目は開けたまま、静かに呼吸だけを繰り返す。それだけに集中していると、時間の感覚から体が切り離され、現実から意識は遠のいていく。表のパブスペースから漏れている僅かな話し声も聞こえなくなり、自分自身の感情すらも闇の中に熔け、消えていった。
 そうして、ただ時間だけが過ぎていく。シルスウォッドが黙りこくり、螺旋階段に座り続けて、三〇分が経過した頃だろう。バーンズパブという店を確認できたうえで、且つドロレス・ブレナンから“ハリファックス在住時代のシルスウォッドの様子”を聞くこともできたリチャード・エローラ医師が満足した様子で退店していった時、彼の見送りを終えたライアン・バーンが、掃除用具を取りに裏部屋に入ってきた。
 奇妙な生態の持ち主であるリチャード・エローラ医師の相手に、ライアン・バーンは疲れたのだろうか。朝に煽った酒も抜け、現在は素面であるライアン・バーンの顔は、どことなくゲッソリとしたように見えていた。
「……ふぃ~。やっと帰ってくれたぜ、あの宇宙人さんよ……」
 ライアン・バーンはそうボヤきながら、裏部屋の出入り口付近にある照明――二年ほど前にバーンズパブは電灯に切り換える工事を行い、裏部屋を含む店内からガス灯は全て撤去された――の電源スイッチを操作する。固いスイッチを少しばかり強引に押し込み、裏部屋に明かりを灯すと、ライアン・バーンは裏部屋のどこかに放り投げたはずのモップを探し始めた。――のだが、それも螺旋階段に座り、ボーっとしているシルスウォッドの姿を見つけるやいなや、すぐに中断される。
 シルスウォッドの姿を見つけたライアン・バーンは「ウディ、起きてたのか」と声を掛けたのち、下からシルスウォッドに向かって手を振った。しかし抜け殻のような顔をしたシルスウォッドは“ここではない何処か”を観ているといった雰囲気で、まるでライアン・バーンに気付かない。その様子に異変を感じたライアン・バーンは、迷わず螺旋階段を上り、シルスウォッドの前に立つが……依然シルスウォッドはボーっとしたまま、目と鼻の先にいるはずのライアン・バーンに気付く素振りも見せない。
 そこでライアン・バーンは、シルスウォッドの肩に手を置くという行動に出た。
「おい。まさか、目を開けたまま寝てるんじゃぁねぇよな?」
 ライアン・バーンの分厚い手が、シルスウォッドの肩に触れる。それは随分と軽い接触で、なんら悪意のないものだったのだが、肩を触られたことで反射的にシルスウォッドの左手が動く。無意識的にシルスウォッドの手が動き、ライアン・バーンの分厚い手をぴしゃりと払いのけてしまったのだ。
 シルスウォッドの“自我”が現実に引き戻されたのは、その直後。数秒遅れて、自分が“ライアン・バーンの手を叩いて、払いのけた”ことに気付いたシルスウォッドは、目の前に立ち塞がる巨躯の男を恐る恐る見上げる。しかし手を叩かれた当のライアン・バーンは怒ってはおらず、寧ろ予想外の反応を返してきたシルスウォッドに驚き、そしてシルスウォッドを心配しているようだった。
「――ウディ。大丈夫か? さっきから様子が変だぞ」
 ライアン・バーンの手を反射的に払いのけてしまった理由。それは昨日、仕立て屋で起こった父親の癇癪にある。肩を強い力で掴まれ、行動の自由を奪われたあの瞬間の記憶を体が思い出し、それによって脊髄反射が起こり、咄嗟に無関係であるはずのライアン・バーンの手を強い力で払いのけてしまったのだ。
 とはいえ、これは無意識下での出来事。当のシルスウォッド本人には訳が分からない事態であり、なぜ自分がライアン・バーンの手を払いのけてしまったのかが理解できていなかった。そんな状態で、なんとか彼が絞り出した弁明の言葉は、これ。「……ごめんなさい。ボーっとしてた」
「ああ、それは知ってる。だが俺が訊いてるのは、そういうことじゃあねぇ」
 シルスウォッドの言葉を軽く聞き流すライアン・バーンは、そう言いながらシルスウォッドの顔を覗き込んで、彼の顔にできた傷跡を見る。子供らしくない目の下のクマ、左目の横にある青痣、切れた唇の端、左頬の下にできた青痣――どれも痛々しいものだ。続いて、ライアン・バーンはシルスウォッドの首を見る。アルコールの入っていた昼間にはすっかり見落としていた、シルスウォッドの首についた手形のような痣に今、ライアン・バーンは気付いたのだ。
「この首の痣はどうした?」
 この日の朝にも、リチャード・エローラ医師から問い質された話題に、シルスウォッドは辟易とした。またその話をイチから話さないといけないのか、と。
 けれども、タイミングよく邪魔ものが入ったことにより、その話題が打ち切られる。
「どうしたんだい、ライアン。何をボソボソと独り言を……」
 いつまで経っても裏部屋から戻ってこない上に、裏部屋でひとり何かを喋っている夫を不審に思ったのだろう。妻のサニー・バーンが、裏部屋の様子を見に来たのだ。裏部屋に入ったサニー・バーンは、螺旋階段に座っているシルスウォッドと、その前に立つ夫ライアン・バーンの姿を見つけると、彼女は「そこで何を話し込んでいるんだ」という風に首を傾げさせた。「――あら、ウディ。起きてたのかい?」
「ウディの様子が変なんだ。昼間もそうだったが、上の空っつーかよ。お前、本当に……――昨日は何があったんだ?」
 裏部屋に来た妻サニー・バーンに、夫ライアン・バーンはそう伝える。すると妻サニー・バーンは腕を組み、螺旋階段に座り込んでいるシルスウォッドを凝視し始めた。圧の強い視線を浴びせられ、気まずくなったシルスウォッドは、サニー・バーンからそれとなく顔を逸らす。……そのときシルスウォッドの背後から、静かに近寄ってくる足音が聞こえてきた。
 はたとシルスウォッドが振り返ってみれば、蒼い顔をしたローマンがそこに立っている。顔に痣を作っていたシルスウォッドに、ただでさえ不安感を募らせていたローマンは、更にシルスウォッドの右腕を固めているギプスを見るなり、顔をこわばらせた。険しい表情を浮かべるローマンの緊張感は、その顔を見たシルスウォッドにまで伝染していく。
「おお、ローマン。お前も起きたか」
 青ざめた顔をしたローマンに、ライアン・バーンはそう声を掛けた。それに続いて下からは、サニー・バーンからの降りてくるようにと促す言葉が聞こえてくる。
「そこのお三人さん、いつまでも階段に居座ってないで、降りてきな。話はコッチでしなさい」


+ + +



 サニー・バーンから「一階に降りてこい」と言われ、ライアン・バーンとローマンと共にシルスウォッドは階段を下っていったのだが。そこからの記憶は途切れていた。翌朝に目覚めた時には、その後の記憶が頭の中に残っていなかったのだ。
 翌朝、シルスウォッドが目覚めたのはエルトル家の自室ではなく、実母の遺物が遺されているバーンズパブの二階の部屋。叔母のドロレスに叩き起こされて、目覚めたのである。
「こういう母親っぽいことをしてみたかったのよね~」
 と、嬉しそうに朝から喋っていたドロレスの顔を寝ぼけた目で見つめながら、シルスウォッドは疑問に思っていた。一体、何が起こっているんだ、と。
 それからシルスウォッドはひとまず顔を洗いに、二階の洗面所兼バスルームに向かった。そこでもまた彼は、疑問を抱く。自分の目元が真っ赤に腫れ上がっていることに。洗面台の鏡に映る自分の顔を見ながら、訳がわからないと彼が首を傾げさせていると、また彼の許にドロレスがやってくる。
「こんなことになるだろうと思って、色々と準備してきてるのよ♪」
 そう言ってドロレスが差し出してきたのは、ホテルのアメニティと思しきもの。白い歯ブラシと、歯磨き粉の入った小さなチューブ、それから透明な歯ブラシのキャップのセットだ。ドロレスは袋を破いて中から歯ブラシと歯磨き粉入りのチューブとキャップを取り出すと、取り出したそれらをシルスウォッドに渡す。それから彼女は、ちょうど歯ブラシが入る細さ且つ長さのファスナー付きクリアケースを洗面台の脇に置き、こうも付け加えた。
「使い終わったら、歯ブラシとチューブはそのクリアケースに入れて、自分で保管してね」
 そんなこんなで手渡された歯ブラシを使い、シルスウォッドは取り敢えず歯を磨くことにした。
「…………」
 今、自分の身に何が降りかかっているのか。それが彼にはまだ理解できていなかったが、とりあえず彼は“自分が忌々しき自宅に、昨日は帰っていない”ことは理解した。――だが、半分ほどは“もしかすると、自分は夢でも見ているのでは?”とも感じていた。こんなにも平穏な朝が、現実であるとは思えなかったのだ。
 異母兄ジョナサンの気配に怯えながら早くに起きて、なるべく物音を立てず静かに家を出ていく朝が、シルスウォッドにとっての普通だった。自分の支度は一人で行うことが、彼にとっての当たり前だった。それなのに、今朝はどうだろう。
 叔母ドロレスがシルスウォッドを叩き起こしたのは、早朝の五時前ではなく朝の六時。それに先ほどからシルスウォッドの傍に、ちょくちょくとドロレスが現れては世話を焼いてくるのだから……――彼の心境は「嬉しさ半分、居心地の悪さ半分」といったところだった。
 そしてシルスウォッドが歯ブラシを口に突っ込んだ時、また笑顔のドロレスが洗面所に現れる。
「バスタオルとか着替えとかは、ここに置いておくわ。あと使い切りの石鹸も、一緒に置いておくね。……あっ、そうだ。下着とシャツは新しいのを買ってきたから。そのボロのおさがりは捨てちゃいましょう。それ、あなたに似合ってないし。そうそう、サイズはちゃんとサニーから確認して、ピッタリのものを買ってきてるから。そこは心配しないで頂戴ね」
 マシンガントークを一人で繰り広げる叔母ドロレスは、携えた着替え一式をバスルームの隅に設置された五段コーナーラックの、上から三段目に置いた。それから彼女は、コーナーラックのすぐ向かい側にあるシャワースペースを指差し、シルスウォッドにこう尋ねた。
「シャワーは当然、浴びるよね?」
 正直なところ、シルスウォッドには朝にシャワーを浴びる習慣はない。日曜日の朝には、時間さえあれば偶に浴びることがあるものの、それ以外の日の朝には基本的に余裕がない。いつ異母兄ジョナサンが起きてくるか分からない以上、悠長にシャワーを浴びて時間を潰してなどいられないのだ。
 しかし叔母ドロレスの様子を見るに、どうやら「提案を断る」という選択肢は無さそうだ。それに、シルスウォッドも「朝にシャワーなんて信じられない! 絶対に嫌だ!」というわけではないし、毎日の習慣を特別視して大切にするようなタイプでもない。なのでシルスウォッドは歯ブラシを動かしながら、無言で首を縦に振って頷く。
 そしてシルスウォッドは頷きながら、自分が昨日から着続けている、タータンチェック風の赤いネルシャツを見た。そのネルシャツはドロレスの言う通り、異母兄ジョナサンが着古したもので、つまりボロのおさがりである。全体的に生地がよれているし、みすぼらしいのは否定しようがない。
 ただ、シルスウォッドは少しばかり驚いていた。シャツごときに似合う、似合わないがあるとは思ってもいなかったからだ。そうしてシルスウォッドが不思議がるように自分のシャツを見ていると、叔母ドロレスは呆れた声でこう言った。
「太っちょで野暮ったいジョナサンが着てたシャツが、スリムでスマートなあなたに似合ってるわけがないでしょう! 今だって、袖も裾もブカブカのたるんたるんで……。とにかく、何着かこのシャツの色違いを買ってきたから、ジョナサンが着古したおさがりは捨てちゃいなさい。ね?」
 そう言いながらドロレスは、持ってきた着替えの中からシャツを取り出し、シルスウォッドに見せつけるように掲げる。それは細いシルエットのオックスフォードシャツで、やや薄暗めの蒼色をしていた。それは普段シルスウォッドが着ているような、叔母ドロレス曰く“太っちょで野暮ったいジョナサン”のおさがりである幅広のシャツとは全く異なるものだ。
 ドロレスがセレクトしたシャツなのか、それともローマンが選んだものなのかは分からないし、そこはどうでもいい。ひねくれ者の天邪鬼が常なシルスウォッドも、新品のシャツは素直に嬉しいと感じられた。
 しかしドロレスがふと口走ったセリフが、シルスウォッドの胸にちくりと刺さる。一昨日に聞いた、仕立て屋の店主セシル・ローレンスの言葉を彷彿とさせたからだ。
『ジョン坊やは父親に似ちまって、野暮ったい顔をしているが。こっちの次男坊はエリザベスに似たのか、賢そうな顔をしてるじゃないか』
 そして父親であるアーサー・エルトルが返した言葉も、続いて思い出される。
『まあ、そうとも言えるな。こいつは、どちらかといえば母親似だよ』
 それに、かつてのライアン・バーンの言葉もよみがえってきた。
『目鼻立ちと、あと眉だな。我が強そうな感じが、ブレアによく似てる。特にスカイブルーな瞳の色はソックリだ。一瞬、彼女の生き写しかと思ったぜ』
 否定することも、拒むこともできない血の因果。言葉を交わしたことも、会ったことすらもない実母の姿かげが、ずっとシルスウォッドに張り付いていて、離れてくれないのだ。
 嬉しさもつかの間のこと。シルスウォッドの許にはすぐにいつもの憂鬱さが戻ってきて、気分は最悪なものになる。そうしてシルスウォッドが暗い顔で口をゆすいでいると、ドロレスが恐る恐る訊ねてくる。「……もしかして、このシャツが気に入らなかった?」
「いや。服みたいに、縁も繋がりも簡単に捨てられたらいいのにな、って思ってさ」
 シルスウォッドは顔を上げながら、ドロレスの問いかけにそう言葉を返す。そして今の言葉は、ふと零れ落ちた本音ではない。父親と異母兄ジョナサンの顔を思い浮かべて、あえて吐き捨てた毒であり、悪意ある言葉だった。
 あくまでも父親と異母兄ジョナサンに向けられた毒だったが、ドロレスは別のことを思ったようだ。ドロレスは気まずそうに顔を俯かせ、少しショックを受けたような表情を見せる。もっと言葉を選べば良かったとシルスウォッドが後悔し、歯ブラシをクリアケースの中に片付けながら、釈明の言葉を編み出そうとしたとき。洗面所兼バスルームに、サニー・バーンが入ってくる。
「ドロレス、大事なもんを忘れてるよ!」
 少し大きめの透明なビニール袋を左手に、青色の養生テープを右手に持ったサニー・バーンは、洗面台の前にいるシルスウォッドを見ると、彼に持ってきたものを見せつけながら、こう言う。
「シャワーを浴びるなら、これを使いな。ギプスを濡らすと、後が面倒くさいからね。――さすがにこれは一人じゃあ出来ないだろうから、ドロレスに手伝ってもらいな」
 ビニール袋の中にギプスをはめた腕を突っ込んで、袋の入り口を養生テープで縛って留め、ギプスを包んで濡れないようにしろ。そしてその作業は一人では無理だから、ドロレスに手伝ってもらえと。サニー・バーンが言いたいことは、そういうことらしい。シルスウォッドは「それぐらい一人で出来そうだけど……」とは感じたものの、ドロレスの手前、それは言い出せなかった。
 そしてサニー・バーンは、ビニール袋と養生テープを洗面台の横に置くと、慌ただしく駆けながら去っていく。騒がしいサニー・バーンがあっという間に去っていったあと、その場に残っていた二人の間には気まずい空気感だけが流れていた。
「……とりあえず、上着を脱ぎましょうか」
 気まずい空気の中、そう切り出したのはドロレスだった。ドロレスがシルスウォッドのすぐ傍に歩み寄ってくると、彼女はサニー・バーンが置いていったビニール袋に手を伸ばす。その横でシルスウォッドは、邪魔くさい右腕のギプスに顔を顰めさせながら、言われたとおりに赤いネルシャツを脱ぎ、捨てる予定のそのシャツを利き手でない左手で不器用に畳んで、それを洗面台の隅に置いた。
 シャツを脱いだシルスウォッドは、上半身に身に付けているものが下着の白いタンクトップだけとなる。するとドロレスはタンクトップも脱ぐようにと視線で訴えてきた。シルスウォッドは渋々それに従い、タンクトップも脱ぐ。その傍に立つドロレスは、シルスウォッドのロクに陽に当たっていない血色の悪い肌色と、その年頃の男児特有のアンバランスな体躯を見つめながら、ふと呟いた。
「……前に会ったときは、まだ子供だったのに。今は違う。青年になっちゃったのね……」
 外で同年代の友人たちと遊ぶといった類の日常とは、悪魔よりも邪悪な父親のお陰で縁がないシルスウォッドだが。通わされている剣道教室のお陰で、少しは体力がついていた。少なくとも、華奢な“少年”という感じの体格ではない。
 それに最近は、運転手ランドン・アトキンソンがシルスウォッドを呼ぶ際に使う呼称も変わってきていた。長らく『少年Lad』と運転手ランドン・アトキンソンから言われ続けていたが、いつの間にかそれが『青年Young』に変化していたし。――シルスウォッド自身はあまり意識していなかったが、周りの目には彼がそれなりに成長しているように見えていたのかもしれない。
「そうだね」
 そんなこんなでシルスウォッドは、ドロレスの呟きに素っ気ない相槌を短く打つ。それからシルスウォッドはドロレスからビニール袋を受け取ると、その中に自分の右腕を突っ込んで、左手を不器用に動かしながら、袋の口を軽く絞った。そして絞られた袋の口にドロレスがマスキングテープを巻き付けていく。袋と腕の境を埋め、隙間を無くすように、少しばかりキツめにマスキングテープで二の腕を縛り上げていった。
 そうしてギプスをビニール袋でカバーする作業が済むと、ドロレスはこう言い残し、洗面所兼バスルームから立ち去っていく。
「それじゃ、私は皆と一緒に下で待ってるわ」


+ + +



 サッと素早くシャワーを済ませたシルスウォッドは、洗面所にあったドライヤーを借りて髪を乾かした後、ドロレスが用意してくれた衣服に着替えた。そうして一階のパブスぺースに降りていくと、普段は客が並んでいるカウンターには店主であるバーン夫妻と、叔母のドロレスが座っていた。
「よー、ウディ。今日のお前はスッキリした感じだな」
 裏部屋から出てきたシルスウォッドに、そう声を掛けてきたのはライアン・バーン。続けてライアン・バーンは、こう言う。「普段のダサいお下がりコーディネートよりも、ローマンの選んだ服の方がお前にはずっと似合ってるぜ。背筋がしゃんとして見えるな」
「だから、前に言ったでしょう? ウディはローマンに似てるのよ、って。ローマンに似て、男前なんだから」
 ライアン・バーンの発言に、叔母のドロレスはそう言葉を返すと、ライアン・バーンは「男前ってのは流石に盛りすぎだ」と笑いながら返した。そんなドロレスは、用意した服をシルスウォッドが着てくれたこと、そして用意した服がシルスウォッドに似合っていたことに安堵している様子。
 そんな二人を横目に、冷静さを保つサニー・バーンは、シルスウォッドに彼の眼鏡が入っている眼鏡ケースを差し出す――昨日の昼に失神する前、シルスウォッドが一階のパブスぺースに置いたっきり忘れていたリュックサックの、その中に入っていた眼鏡ケースだ。シルスウォッドは差し出された眼鏡ケースを受け取ると、その中から丸みを帯びたフォルムの赤縁眼鏡を取り出し、いつものようにその眼鏡を着用した。
 朝からずっと、少しだけぼんやりとし続けていた視界に、漸くハッキリとした輪郭線が戻ってくる。クリアになった視界の中では、サニー・バーンがテーブル席を指差していた。彼女が指差す先を見てみると、そこのテーブルの上にはシルスウォッドのリュックサックが置いてある。眼鏡ケースをリュックサックの中に戻してこいと、彼女は言いたいようだ。
 シルスウォッドはその促しに従い、テーブル席に向かうためカウンター裏から表に出ようとする。そうしてカウンター裏の一角、調理スペースに立っていたローマンの背後をシルスウォッドが通り過ぎようとした時、フライ返しを右手に持ったローマンが、シルスウォッドに声を掛けてきた。
「おはよ、ウディ。今日は学校に行けそうかい?」
 ローマンから問いかけに、シルスウォッドは無言で首を縦に振り、頷いてみせる。すると今度はローマンから、別の質問が飛んできた。「ああ、そうだ。目玉焼きはどうする? 半熟か、それとも固焼き?」
「固焼きがいい」
「了解、固焼きだね。それじゃ、暫く待っててくれ」
 ローマンは笑みを浮かべた顔でそう言うと、視線を手元のフライパンへと戻した。そしてシルスウォッドは、ローマンの後ろを通り過ぎる際にフライパンの中をちらりと見やる。
 透明な蓋を通して見えるフライパンの中には、まだまだ生焼けな状態の目玉焼きが二つ並んでいた。おそらく、片方がシルスウォッドの為に焼いているもので、もう片方がローマン自身のものだろう。
「…………」
 シルスウォッドもローマンも、目玉焼きは固焼きを好んでいる。なので昔はよく、半熟を好むドロレスの分を先に焼き、固焼き好きの二人の分は後から同時に焼くという方式を、ローマンは朝食の目玉焼きを作る際によく行っていた。
 そしてシルスウォッドが、ライアン・バーンと談笑するドロレスの方を見てみれば、案の定カウンターに座るドロレスの前には、半熟な目玉焼きを乗せたトーストが、食べかけの状態で残されている。
 それからシルスウォッドが再びローマンを見てみると、彼はコンロの下のオーブンを開け、そこに薄くスライスした食パンを二切れ置いている最中だった。続けてローマンは、オーブンの中にセットした食パンの上に、真四角で薄っぺらなスライスチーズを乗せ、更にその上には薄く切ったパストラミビーフを乗せていく。そうしてトッピングが終わると彼はオーブンの扉を閉め、オーブンで食パンを焼き始めた。……オーブンでトーストを焼き、且つオーブンの中でトッピングを済ませるというローマンの隠れたズボラさは、今も昔も変わっていないようだ。
 昔と変わっていないローマンの姿に少しの安心感と懐かしさを覚えた反面、シルスウォッドは胸が妙にざわつくような気配も感じた。昔と変わっていないというよりも、実の父親であるアーサー・エルトルが全てをぶち壊したあの瞬間から、まるでローマンの時間が進んでいないというようにも思えたからだ。
 ……そんなことをローマンの後ろを通り過ぎざまに考えながら、シルスウォッドはカウンター裏から出る。そうして自分のリュックサックが置かれたテーブル席に彼は向かい、リュックサックの中に眼鏡ケースを戻した。
 そういうわけでシルスウォッドが学校に持っていくリュックサックをガサゴソと漁っていると、何かを思い出したのか、ドロレスが「あっ!」と声を上げた。そしてドロレスはシルスウォッドの方に向くと、こんなことを告げてくる。
「エローラさんには先に言っておいてあるわ。今週は私たちが学校の送迎をする、って。そこは気にしないで大丈夫よ」
 そういえば昨日の夜、リチャード・エローラ医師がこの店を訪ねていたような気がしなくもない。そのことを思い出しつつ、シルスウォッドは「了解」と短く返事だけした。「今週は私たちが送迎をする」という、つまり暗に「今週はあの家に帰らなくてもいい」と言っているようなセリフが聞こえてきたような気もしたが、シルスウォッドはあまり期待を抱かないことにした。
 どうせ父親が、何かしらの手を使って連れ戻そうとするはずだ。学校の前で待ち伏せされるかもしれないし、バーンズパブに居ることを割り出して乗り込んでくるかもしれない。――父親が関わる物事に関して、希望は抱いてはいけない上に、最悪の事態を幾つか想定しておかなければならない。それをシルスウォッドは、身をもってよく知っている。
「……はぁ……」
 父親の顔を思い出して、ふと溜息が漏れてしまった時。シルスウォッドは、あることをはたと思い出した。
「――あの。ところで今は、何がどうなってんの? 状況がよく分からないんだけど」
 なぜ自分が、昨日は家に帰っていないのか。その理由を、事情を知っているはずの人間たちに訊くのを忘れていたのだ。
 すると、怪訝な顔をしているシルスウォッドを見て、ライアン・バーンは失笑する。そしてライアン・バーンはこう言った。「あんだけ泣いてりゃ、記憶も残らんわな!」
「…………?」
「昨日の夜だ。ドクター・エローラが帰った後だよ。入れ違いで、運転手のアトキンソンが店に来た時にだ。お前が『家に帰りたくない』って急に大泣きし始めてな。んで泣きながらお前が仕立て屋で起こったことを全部ぶちまけたと思ったら、そのまま気絶っつーかよ、寝ちまってなぁ。そうしたら何故かアトキンソンの野郎まで――」
 運転手ランドン・アトキンソンの話が出たところで、破裂音のような音が鳴り、話が中断される。この場にいない運転手ランドン・アトキンソンの名誉を守るために、妻サニー・バーンが、饒舌に喋りだした夫ライアン・バーンの後頭部を平手で叩いて、黙らせたのだ。
 妻に頭を叩かれたライアン・バーンは、その光景を子供に見られた恥ずかしさを誤魔化すように、ひとつ咳払いをする。それから気を取り直し、ライアン・バーンは話の続きを再開した。
「ともかくだ。アーサー・エルトルのことなら心配するな。運転手のアトキンソンがどうにか誤魔化してくれている……はずだ」
「ええ、大丈夫。あなたの怪我のことを聞いた私たちがボストンにすっ飛んできて、今はあなたをモーテルに匿ってるってことになってるから。警察への通報も、アトキンソンさんが止めてくれたみたいだし、安心してね」
 ライアン・バーンの発したなんとも不安の残る言葉に、後から叔母のドロレスが安心させようとする言葉を付け加える。しかし、そんな言葉で消えるほど安い不安感ではない。それどころかシルスウォッドは、厄介ごとに巻き込んでしまった運転手ランドン・アトキンソンの身が心配になり、余計に不安感が増していった。
 その上、シルスウォッドは少し打ちのめされてもいた。自分が失態を演じたことに加えて、そのことを自分自身が覚えていないだなんてことが、そうスムーズには受け入れられなかったのである。なにせシルスウォッドは記憶力に自信を持っていたし、自分は感情に振り回されて取り乱すタイプではないと思っていたからだ。
 簡単にまとめると、つまり彼は恥ずかしさを覚えていた。堪らずシルスウォッドは傍にあったテーブル席の椅子に座り、肩を落とす。そして彼は俯いて両目の瞼を閉じ、溜息を零した後、小声でこうつぶやいた。
「……全ッ然、安心できない。本当に、どうなってんの……?」
 すると、シルスウォッドの膝に“何か”が飛び乗ってくる。全く予測していなかった“何か”の襲撃に、シルスウォッドが驚いて目を開けてみると、彼の膝の上には偉そうに鼻たぶを膨らませる成猫の姿があった。
 白ベースに、ぽつぽつと黒い点が入っているそのブチ猫は、赤地に白い水玉模様が入ったペット用ハーネス――伸縮性の良いストレッチ生地で作られたベスト風ハーネスで、首元には黒いネクタイを着けた白襟のような模様付き――を着けている。そしてハーネスに取り付けられたリードの先をシルスウォッドが目で辿ってみると、ドロレスの右手に行きついた。どうやらこの猫は、ドロレスとローマンの飼い猫であるらしい。
 ドロレスとローマンの飼い猫と思しきブチ猫は、シルスウォッドの膝の上に座り、勝ち誇っているようにも見える得意顔を決め、それをシルスウォッドに見せつけている。得意がるブチ猫をどのように扱えばいいのかがシルスウォッドには分からず、ブチ猫を見つめることしかできないでいると、ブチ猫はこの視線に何かを誤解した様子。ブチ猫は尻を上げると、シルスウォッドの肩に前足をのそりと置く。そして何を思ったのか、このブチ猫はシルスウォッドの肩に飛び乗ってきたのだ。
「ちょっと待てって、うわっ?!」
 五キロはあるだろう猫の体重が、急に肩へと圧し掛かったことにより、シルスウォッドは強制的に前かがみの姿勢にさせられた。すると、シルスウォッドのうめき声に気付いたローマンは、肩に猫を乗せたシルスウォッドの姿を見て笑う。それからローマンはフライパンから蓋を外しながら、こんなことを言った。
「パネトーネ、ウディから降りなさい」
 パネトーネというのは、ブチ猫の名前だ。ローマンに名を呼ばれたブチ猫パネトーネは、一瞬だけ飼い主であるローマンの方に向いたが、飼い主の指示には従わなかった。ブチ猫パネトーネは、シルスウォッドの肩から降りるどころか、今度はシルスウォッドの頭に前足を置いて、頭の上に登ろうとし始めたのだ。
 ローマンは再度この猫の名前を呼んだが、ブチ猫パネトーネは知らん顔を決めている。するとそれを見かねたドロレスが動いた。
 ドロレスは椅子から立ち上がると、シルスウォッドの傍に駆け寄り、彼の肩からブチ猫パネトーネを引き剥がす。そうして抱き上げたブチ猫パネトーネを、ドロレスは床に下ろした。するとブチ猫パネトーネは、あろうことかドロレスに向かって「シャァーッ!」と威嚇し、三角耳を伏せさせてみせる。それからドロレスから逃げるように、ブチ猫パネトーネは再びシルスウォッドの膝の上に再び飛び乗った。
 シルスウォッドの膝の上で、ブチ猫パネトーネはドロレスに対して「ヴウゥゥゥ……」と唸り続けている。どうやらこの猫は、ドロレスのことを嫌っているようだ。そんな猫を見ながら、ドロレスは寂しそうに呟く。
「パネトーネったら、ウディを気に入ったみたいねぇ。……この泥棒猫ったら。アンタ、私の大事な男たちをみんな奪ってくつもりなの?」
 するとドロレスは人差し指を伸ばし、その人差し指でブチ猫パネトーネの淡いピンク色をした鼻面、その上の白い鼻筋の部分を、チョンッと軽くタッチした。鼻筋を触られたブチ猫パネトーネは、すかさずドロレスに反撃。突き出されているドロレスの人差し指に、ブチ猫パネトーネは噛みついたのだ。
 しかし猫に噛みつかれることに慣れているのか、ドロレスの方はあまり痛がりもせず、動じもしない。「痛いわねー、もう!」とドロレスは短い悪態を吐き、噛まれた手を洗うために、シンクのあるカウンターの中へと入っていくだけ。――これがドロレスなりの、猫とのコミュニケーションの取り方なのだろうか?
「……横柄な猫だなぁ、お前……」
 ドロレスの指に噛みついた、やや凶暴にも思える猫にそう呼び掛けながら、シルスウォッドはそっと膝の上を陣取る猫の丸っこい頭に触れ、撫でてみた。するとブチ猫パネトーネは意外なことに、べったりと甘えてくる。グルグルル……と喉を鳴らしながら、ブチ猫パネトーネはシルスウォッドの手に自分の頭をグリグリと擦り付けてきたのだ。まるで「ここを撫でろ!」と指定してくるかのような、ブチ猫パネトーネの横暴な振る舞いに、シルスウォッドは苦笑うしかない。
 すっかり懐いてしまった――というよりかは“従順な下僕となる素質アリ”と認識されたような気もしなくはないが――ブチ猫パネトーネを仕方なくシルスウォッドが撫で続けていると、そこに目玉焼きとトーストを乗せた平皿を持ってきたローマンが来る。シルスウォッドの傍のテーブルに、ローマンは持ってきた平皿を置くと、シルスウォッドの膝の上でくつろぐブチ猫パネトーネの背中をポンポンッと軽く叩いた。それからローマンは、シルスウォッドにこんなことを告げてきた。
「その子はパネトーネ。うちの看板猫の片割れだ。暫くボストンには居ることになるだろうし、ハリファックスに猫たちだけを置いていくわけにはいかないから、連れてきたんだよ」
「看板猫って、あの書店の?」
 ローマンの言葉に、シルスウォッドはそう質問を返す。書店というのは、ドロレスがハリファックスで営んでいる店のこと。絵本から児童文学まで、主に“子供向け”のジャンルを重点的に取り扱っていた店で、近隣の幼稚園や保育園、エレメンタリースクールに本の貸し出しを行ったり、ドロレスが本と一緒に出向いて子供たちに読み聞かせるといった活動などもしていた。
 するとシルスウォッドがローマンに向けて投げかけた質問に、店主であるドロレスが反応する。ブチ猫パネトーネに噛まれた手を洗い終え、ティッシュペーパーで手を拭いている最中だったドロレスが、ローマンの代わりにこう答えた。「今は書店じゃなくて、本も売ってる喫茶店って感じね」
「喫茶店もやってるの?」
 昔はよく、ドロレスの仕事にシルスウォッドも付いていって、本の陳列を手伝ったり、出向いた先で大人たちからお菓子を貰ったり等をしていた。だからこそシルスウォッドは疑問に思ったのだ。
 ドロレスはとにかく忙しくしていたはず。そんなドロレスに、喫茶店にまで手を出せる余裕などあるようには思えなかったのだ。
 そしてシルスウォッドの疑問を、ドロレスは晴らす。彼女は意外な事実を打ち明けたのだ。
「今は彼と二人でお店をやってるの。私が書店で、彼が喫茶店」
 ドロレスはドロレスで忙しくしていたが、同じぐらいローマンはローマンで忙しくしていたし、ローマンは自分の仕事に少しの誇らしさを抱いていたはず。それが幼い頃のシルスウォッドが漠然と抱いていた、彼らへの印象。そんな二人も、シルスウォッドの知らないところで変わっていたのだ。
 それにしても、あのローマンが不動産の仕事を手放すとは。『いつかは独立して……』というような夢を、彼は過去に語っていたこともあったはずなのに。――シルスウォッドはそこが不思議に思えてならなかった。
 だが、その時に思い出されたのは、昨晩シルスウォッドが見た、窶れきったローマンの顔。そして明るい声色で、前向きな話をしているように思えるドロレスの顔を見てみれば、どことなく彼女の顔も暗い。
「二匹の猫ちゃん目当てで来てくれる親御さんと、ローマンお手製のマドレーヌとワッフルが大好きな子供たちがボチボチ居て、それなりに儲かってるのよ。あと猫ちゃん目当てで、遠方からわざわざ来てくれる人も居てね。最近は“猫の経済効果”ってやつをヒシヒシと感じてるわ。――いつの間にか店に居つくようになった野良猫ちゃんたちだけど、お陰で商売繁盛。まさに招き猫よ。とはいえ悲しいことに、猫ちゃんは私にあんまり懐いてくれないんだけどねぇ」
 無理をして明るさを取り繕っているドロレスの様子から、それとなくシルスウォッドは察した。
「あっ、そうそう。もう一匹の猫ちゃんはオランジェットっていう名前なの。今、サニーの膝の上で寝てるサビ猫ちゃんがオランジェット。私たちはもっぱら、彼女のことを『オーリー』って呼んでる。で、オーリーはパネトーネと違って人懐っこくて、誰にでも寄っていくのよ。けど、そっちのパネトーネは、ローマンにしか懐かなくてねぇ……」
 ドロレスが、ローマンに仕事を辞めさせたのでは、と。直感がシルスウォッドに囁く。
「パネトーネは問題児なのよー。ローマンが傍にいないと、パネトーネったらノイローゼみたいになっちゃうわけ」
 なにせローマンの子供好きは筋金入りだったし、誰よりも彼は父親になることを望んでいた。それを一番知っているのは、シルスウォッドであるはず。
 そんなシルスウォッドは、彼の許から立ち去った。挙句、前に再会した時にシルスウォッドは、不当な怒りと苛立ちから素っ気ない態度を彼に取っている。それから前回も今回も、彼に見せたのは怪我をした姿だ。前回は顔に痣を作った姿で、今回は顔に二ヶ所も痣を作り、右腕を骨折した姿。
 さあ、これは誰の所為だ? ――シルスウォッドの頭の中には、意地悪な声が響いた。
「だからローマンには不動産屋を辞めてもらったわ。それで今は彼に看板猫たちの世話役と、喫茶店スペースの運営を任せてるの。というか、猫たちが日中もローマンと一緒にいられるようにするために、喫茶店スペースも作ったって感じかしら。今じゃもう、何事も猫ファーストなのよ」
 ドロレスはあくまでも“猫ファースト”と言いはしたが、実態は異なっていることだろう。野良猫が二匹も店に来たのは偶然かもしれないし、ドロレスが餌付けをして段階的に馴らした猫なのかもしれない。もしかしたら野良猫ではなく、ドロレスがどこかから貰ってきた猫なのかもしれない――どちらも雑種の猫であるように見えることから、ペットショップで大枚をはたいて買った猫ではないだろう。だがきっと、猫が居なくてもドロレスは喫茶店スペースを設けただろうし、そこにローマンを置いたはずだ。
「それにしても、珍しいわね。パネトーネは基本、ローマン以外の人間には懐かないのよ。さっきだって、ライアンにもサニーにも威嚇して、ポータブルケージの中に逃げてったのに。あのパネトーネが一瞬であなたに懐いて、それもあなたの肩によじ登るだなんて。――それ、普段はローマンにしかしない行動なのよ?」
 だって、ローマンは窶れている。というより、彼はもう健康な男性ではない。少しの間、目を離した隙に、選択を敢えて間違えるような真似をしかねないような、危うい空気感を彼は纏っている。だからドロレスは、ローマンから目を離したくないのだろう。
 それに、もしかしたらブチ猫パネトーネも、ドロレスと似たようなことを感じているのかもしれない。
「パネトーネには分かったんだろう? ウディが僕の息子だって」
 ローマンはそう言いながら、シルスウォッドの膝の上を陣取るブチ猫パネトーネを抱き上げて、この高慢ちきな猫を回収する。するとブチ猫パネトーネはすぐにローマンの肩へとよじ登り、お決まりの得意顔を周囲の人間たちに振り撒いた。
 ブチ猫パネトーネはまずシルスウォッドを見下ろして、次にドロレスを見る。それから膝にサビ猫オランジェットを乗せたサニー・バーンをスルーして、最後にライアン・バーンへと、これでもかと得意顔を見せつけた。すると猫の得意がる顔が、ライアン・バーンの笑いのツボにハマったらしい。ブチ猫パネトーネを指差し、彼はゲラゲラと笑い始めた。すると笑われたことが気にくわなかったのか、ブチ猫パネトーネはライアン・バーンに背を向ける。そして再び、シルスウォッドへと視線を戻したのだった。
「猫の名前、どっちも食べ物なんだね」
 ライアン・バーンの笑い声が止んだ後、ズボンに付いた猫の毛を手で払いながら、シルスウォッドは肩に猫を乗せたローマンに向かって、そんなことを言う。『パネトーネ』はドライフルーツがゴロゴロと入ったブリオッシュのことで、『オランジェット』はスライスしたオレンジにチョコレートを掛けたチョコレート菓子のことだと、ふと気付いたからだ。
 それからシルスウォッドは、ローマンの肩に登って得意がるブチ猫パネトーネを見上げ、笑顔を浮かべる。――それも外行きの時に彼が使う、大人に対して媚を売るような笑顔だ。
「たしかに、パネトーネっぽい雰囲気の猫だね。ブチ模様がレーズンみたいでさ」
 笑顔でそう言う裏で、シルスウォッドは先ほどのローマンに言葉に違和感を覚えていた。違和感というより、一種の恐怖に近い感情かもしれない。その恐怖を隠すために、それと零れ出そうになった本音を飲み込むために、シルスウォッドが咄嗟に浮かべたのは作り笑顔だったのだ。
『パネトーネには分かったんだろう? ウディが僕の息子だって』
 そのセリフをさり気なく発した時のローマンは穏やかな微笑みを浮かべていたが、その目は光を失くしていた。今もローマンは穏やかに微笑んでいるが、その目は死んでいる。
 そしてシルスウォッドの“作り笑顔”にすぐに気付いたのは、ライアン・バーンだった。先ほどまで気が狂ったように笑っていたライアン・バーンだったが、シルスウォッドの異変に気付くと、彼はすぐに笑いを消し去った。それからライアン・バーンは、ローマンとシルスウォッドの間の会話を断ち切るような横槍――ないし、助け舟――を入れてくる。
「おい、ウディ。猫の名前なんか気にしてねぇで、お前はさっさと朝飯を食っちまえ。じゃねぇと遅刻すっぞ?」
 ライアン・バーンの言葉に、シルスウォッドは気の抜けた声で「言われなくても、分かってるって……」と返事をする。それからシルスウォッドは、肩に猫を乗せたローマンから目を逸らし、朝食のトーストに手を伸ばした。
「…………」
 誰かに作ってもらった温かい朝食をいただくのは、シルスウォッドにとって久しぶりのこと。いつも朝食は自分で適当にトーストを焼くか、シリアルでさっくりと済ませていたからだ。だから勿論、ローマンの作ってくれた朝食に嬉しさや有難さを彼は感じていた。
 だが、気分は晴れやしない。そして今のローマンの姿を、薄気味悪く思っている本音も消えない。
「まったく。ウディ、お前ってガキは可愛くないやつだよ。俺には愛想よく笑いかけることもしないんだからな」
 カウンター席に座るライアン・バーンは、コーヒーを啜りながら、そんなことをボヤく。無論、この言葉は彼の本心ではないし、それをシルスウォッドはちゃんと分かっていた。だから彼は、ボヤキに嫌味を返す。
「愛想よく笑ってみせたら、それはそれで『その胡散臭い笑顔は、アホな酔っ払い客にだけ向けろ』って怒るくせに。どの口が言ってるんだかねぇ……」
 シルスウォッドにとっての父親は、あの邪悪なアーサー・エルトル。その事実は変わりない。そして今の彼にとっての“父親代わり”はライアン・バーンであり、息の合った嫌味の応酬がその証拠。
 昔とは、何もかもが変わった。そして、昔のようには戻れないのだ。今のシルスウォッドは『シルスウォッド』であり、『ウディ・ブレナン』という名の少年ではないのだから。


+ + +



 ブレナン夫妻は朝に宣言した通り、シルスウォッドが通うミドルスクールに、車で送っていってくれた。――のは良いのだが、やはり事は一筋縄ではいかない。シルスウォッドがなんとなく予感していた最悪なシナリオの一つが、起こってしまったからだ。
「……あぁ、最悪だ。父さんがいる……」
「えっ、どこに? ――あっ、あの校門のところか。うわっ、ジョナサンも居るじゃない。相変わらず太ってるわねぇ、あの二人。体型までソックリですこと……」
 学校前の道路脇に車を停めた叔母のドロレスは、校門の前に佇む二人組――ドロレスの兄であり、シルスウォッドの実父であるアーサー・エルトル。それとドロレスの甥であり、シルスウォッドの異母兄であるジョナサンの二人――を見つけると、イヤそうに顔を顰めさせつつ、そう呟きながら、車からキーを抜く。それから彼女は、重たい溜息を吐いた。
 そして憂鬱なのはドロレスだけではない。寧ろ後部座席に座るシルスウォッドは彼女よりもずっと、憂鬱な気分になっていたし、それどころか彼は校舎の中に入れる気がしていなかった。父親に腕を掴まれて、あの忌々しい自宅に連れ戻されるのではないかと、そんな気がしてならなかったのだ。
「……イヤだなぁ、もう。朝から何なんだよ、あのクソ親父……」
 校門の前に仁王立ちで佇む父親アーサー・エルトルと、異母兄ジョナサンの姿を見て、思わず零れ出てしまったシルスウォッドの本音。するとシルスウォッドの荒んだ言葉遣いを、助手席に座っている叔父ローマンが諫める。
「ウディ、そんな汚い言葉を使うんじゃない」
 だがそんなローマンを、運転席に座るドロレスがやんわりと諭した。「仕方ないわよ。実際に“クソ親父”なんですもの、あの男は。その息子のジョナサンだって“クソ野郎”よ。あなただって知ってるでしょう?」
「だからといって……」
「ローマン。あなただって、あの男のことを昔に“クソ野郎”だの“豚野郎”だのって罵ってたじゃないの。ウディだけそれが許されないだなんて、そんなの筋が通らないわ」
 ドロレスは自らの主張を押し通し、ローマンをひとまず黙らせたが。ローマンはというと、不服な様子。腕を組み、ムッと顔を顰めさせるローマンは、まだまだ“おこちゃま”な甥っ子が汚い言葉を使うことを容認したくはないようだ。
 そんなローマンの姿に、少しの不安感が込みあがってきたのだろう。ドロレスは車のキーを穿いていたズボンの腰ポケットに突っ込むと、彼女はローマンにこう告げた。
「猫たちも居るし、ローマンはここで待ってて。あのクソ野郎は私がなんとかしてくるから。それじゃウディ、行くわよ」
 ドロレスがそう言うと、後部座席に積まれていた二つのポータブルケージの中から、猫たちがそれぞれ返事をする。
「うにゃぉん」
 短くそう鳴いたのは、誰に対しても愛想良く振舞うサビ猫オランジェット。
「ヴぅー……ニャッ」
 少しだけ唸り、最後に短く返事をしたのは、ドロレスを一方的にライバル視しているブチ猫パネトーネ。――そんな猫たちの返事を聞きながら、シルスウォッドはリュックサックを背負い、座席から立ち上がる。先に車から降りていったドロレスの後を追って、校門の前にできた人だかりへと、彼も飛び込んでいった。
 だがドロレスの歩みは存外に早く、なかなか追い付けない。背中から異様な殺気を放つドロレスは、シルスウォッドの父親であり彼女の兄であるアーサー・エルトルに狙いを定めると、彼が居る校門の方へ、ずんずんと進んでいく。そして彼女は、彼女の兄の前に立ち塞がった。すると彼女の兄であり、シルスウォッドの父親である男は、ドロレスに食って掛かる。
「ドロレス! よくも、うちの息子をかどわかッ――」
「失せなさい、このクソ外道男が」
 この時のドロレスは、峻厳な態度を貫いていた。先ほどまでの明るさや好い加減さなどすべて嘘であったかのように、彼女は血相を変え、彼女の兄へと睨みを聞かせている。相手の言葉を遮り、罵りの言葉を躊躇いなく述べる彼女は、いつもの“ドロレス・ブレナン”とは違っていた。
 シルスウォッドが叔母ドロレスに追い付いたのは、丁度ドロレスが「クソ外道男が」と言い終えた瞬間のこと。いつもと違うドロレスの様子に、驚きのあまりシルスウォッドはドロレスの背後で立ち止まってしまった。
 すると妹に罵倒されたことが、かなり頭に来たのだろう。顔を赤く染め上げた父親アーサー・エルトルは、彼の妹であるドロレスに向かって喚きたてようとした。
「貴様、年長者に対する口の利きかッ――」
 だが再び、ドロレスは言葉を途中で遮ってみせる。彼女は惨めな兄に対して、先ほどよりも丁寧な罵倒文句を放ってみせた。
「年を無駄に食っているだけの、愚かで厚顔無恥な差別主義者に対して、払うべき敬意なんてこれっぽっちも無いわ。年長者らしく尊敬されたいのなら、それ相応の品位を身に着けなさい」
 ドロレスはそう吐き捨てながら、立ち止まってしまっていたシルスウォッドの背を押す。早く校舎に入りなさいと、そういうことらしい。シルスウォッドはその促しに従い、父親から目を背けると、校舎の方へと向かっていった。――が、そのシルスウォッドのギプスで固めた右腕を、父親の横に佇んでいたジョナサンが引っ掴んで引き留める。
「どこに行く気だ、てめぇ」
 予期しない瞬間に右腕を掴まれたこと、それも強い力で勢いよく引っ張られたことで、電撃が走るような鋭い痛みが、右腕を中心としてシルスウォッドの体を捩るように広がっていった。痛みに強い方だとシルスウォッドは自負していたが、さすがに今の不意打ちは堪えた。つらい痛みに、呻き声が零れ出る。すかさずドロレスが動き、シルスウォッドの右腕を掴んでいた異母兄ジョナサンの手を払い除けてくれたが、もはや遅い。軋んだ骨が神経系を刺激した痛みは、収まる気配もないまま、シルスウォッドの右腕の中で疼き続けていた。
 不条理への怒りと悲しさから、シルスウォッドは異母兄ジョナサンをキッと睨み据えてみせるが、異母兄ジョナサンはニタニタと感じ悪く笑っているだけ。非力な異母弟シルスウォッドは自分に何も手出しをしてこないことを知っているジョナサンは、強気でいたのだ。
 すると異母兄ジョナサンの舐め腐った態度を見たドロレスが、今度は明確な怒りを表明した。彼女は、卑しくニタニタと笑う異母兄ジョナサンの頬に、強烈な平手をお見舞いしたのである。
「卑しいクソガキですこと! 邪悪な父親に、どこまでも似ているわね!!」
 それまでは腫れ物を避けるように、横を通り過ぎていくだけだった他の生徒たちの目が、その瞬間に変化する。いじめっ子で嫌われ者のジョナサン・エルトルが、叔母に平手打ちをされて口汚く罵られている光景を見た生徒たちが、みな一様にクスクスと笑い出したのだ。
 周囲から嗤われているのが、汚れた血を引く異母弟シルスウォッドではなく、自分であるこの状況に、異母兄ジョナサンは怒りを覚えたらしい。ろくに会った覚えも、会話したこともない叔母にいきなり罵倒された上に平手打ちを食らい、挙句に公衆の面前で恥をかかされたのだから、それは当然の反応とも言えるだろう。
 だが卑怯な異母兄ジョナサンは、その怒りを叔母ドロレスには直接向けることなどしない。代わりに異母兄ジョナサンが睨み付けるのは、疎ましき異母弟シルスウォッド。
「…………!」
 危険な気配を感じたシルスウォッドは、静かに数歩下がり、異母兄ジョナサンおよび父親から距離を取ろうとする。そして再びシルスウォッドに掴みかかろうと、異母兄ジョナサンが腕を伸ばしてきたとき。シルスウォッドの左腕を、背後から来た“誰か”が掴み、強引に校舎の方へとシルスウォッドを引っ張り始めたのだ。
「アーティー、行こうぜ!」
 シルスウォッドの左腕を掴み、引っ張ったのはクラスメイトの一人、通称『ザック』ことザカリー・レター。エレメンタリースクールから同じであり、そしてミドルスクールに進級後は何故かシルスウォッドによく絡んでくるようになった男子生徒だ。
 ザックは仲が良い友人なのか、という質問に対する答えは、少なくともシルスウォッドにとっては『いいえ』となるが。向こうの方は、そうは思っていないらしく。ザックはいつも、容赦なくシルスウォッドのパーソナルスペースに侵入してきていた。
 例えばザックは、シルスウォッドの横に隣家の娘ブリジット・エローラが居たとしても、容赦なく二人の間に入ってきて、シルスウォッドの横を陣取る。ブリジットを居ないもののように扱い、彼女を冷たく追い払ってまで、シルスウォッドの横を陣取るのだ。それに選択科目は、いつもシルスウォッドと同じ。ザックはシルスウォッドと同じ授業を必ず受け、そして授業後にはシルスウォッドのノートを奪い、自分のノートに内容を丸写しするのである。――異母兄ジョナサンとはまた異なるタイプの横暴さを、ザックは発揮してくるのだ。
 そんなザックからやたらと絡まれることに、シルスウォッドは辟易としていた節があったのだが。今回はそのザックのしつこさ、およびパーソナルスペースに容赦なく侵入してくる強引さ、それと周囲の目を気にしない横暴さに救われた。
「ザック! 引っ張らないでくれよ!」
 人混みをかき分けながら、グイグイと腕を引っ張るザックに、シルスウォッドはそう訴えるが。ザックはそれを無視し、意地でも掴んだシルスウォッドの左腕を放そうとはしない。そしてシルスウォッドの方はというと、内心では「助かった……」と安堵していた。


+ + +



 ザックに助けられたシルスウォッドは、どうにか校舎の中に入ることが出来ていた。
「昨日は病院に行ってたので、休みました。診断書が、これです」
「……ふむ、骨折か。何があったんだね?」
「ジョナサンに殺されかけまして……」
「なんだって?」
「まあ、そういうわけで来週の火曜日も診察があるので、たぶん一限目の国語は休むことになると思います」
 そして朝一の授業が始まる前にシルスウォッドが訪れていたのは、国語科の授業担任のオフィス。昨日の授業を欠席した理由の説明と、来週も休むことになるだろう旨を伝えに来ていたのだ。
 提出された診断書を受け取った国語科の授業担任は「他の科目の先生たちにも後で伝達しておく」とシルスウォッドに言うと、怪訝そうな顔をシルスウォッドに向けてきた。それから続けて、授業担任はこう述べる。「君ら兄弟の関係は険悪らしいとの噂は聞いてはいたが……ここまでのものだとは思ってなかったよ。骨折するほどの激しい喧嘩をするとは」
「いや。一方的に殴られただけです。喧嘩云々の前に、まずジョナサンとの間に会話は無いので」
「どういう関係性なんだ、君たちは」
「僕にもよく分かりません。普通の兄弟じゃないことは確かです」
 授業担任から投げかけられる疑問と訝る視線に、シルスウォッドは適当な返事をしながら肩を竦めさせるだけ。首を傾げさせる授業担任に対して、返すべき答えをシルスウォッドは持ち合わせていなかったからだ。
 ジョナサンとの関係性を説明しろと言われたところで、シルスウォッドにそれは出来ない。『お互いを憎み合う異母兄弟』という事実は、とてもじゃないが公言などできないし。しかし、それ以外に何を言えばいいのか。それがシルスウォッドには分からないのだ。普通の兄弟ではない、という解釈の余地しかない曖昧な言葉に、全てのモヤモヤを集約させるしかないのだ。
 そんなシルスウォッドの悩ましい思いが、少しは授業担任に伝わったのだろう。授業担任はその話題を切り上げ、次の生徒に目を向けた。
「それから……」
 それはシルスウォッドの横に立ち、険しい顔で腕を組んでいる生徒。校門からずっと、シルスウォッドの横にへばりつき続けているザックである。
「――ザカリー・レター。なぜ君まで、私の許に来たんだね?」
 診断書を提出しに来るならば、シルスウォッド一人で十分なはず。にも関わらず、ザックまで同伴していること。そしてシルスウォッドが、横にいるザックを面倒くさそうに見ていること。……授業担任には、この状況が理解できなかったのだ。なぜザックはここに居るのか、それがサッパリ分からなかったのである。
 そして、それはシルスウォッドも同じ。シルスウォッドはこの部屋に入る前に、ザックには「廊下で待っててくれ」と言ったにも関わらず、何故かザックはそれを無視して、一緒に授業担任のオフィスに入ってきたのだから……――ワケが分からないというものだ。
 国語科の授業担任からは冷たい目で睨まれ、シルスウォッドからも不思議そうに見つめられているザックだったが、この時の彼は妙に堂々と構えていた。それから毅然とした態度で、ザックは授業担任にとんでもないことを暴露してみせる。
「アーティーの怪我は兄弟喧嘩だけじゃない、ってことを言いに来たんだ。こいつ、親父にも虐められてる。っていうか、家族全員から虐待されてる」
 ザックの唐突すぎる爆弾発言に、その場にいた二人は固まった。授業担任の方は『家族全員から虐待されている』という衝撃の強い言葉に驚き、シルスウォッドの方は『家族全員から虐待されている』ということを暴露されたこと、加えてその事実を何故かザックが知っていることに驚いたのだ。
「……虐待、だって……?」
 驚きのあまりに、思わず授業担任はそう呟いた。そして授業担任は呟いた後に、自分が発した『虐待』という言葉の重みに遅れて気付く。それから授業担任は、シルスウォッドを凝視し、恐る恐る問いかけた。「たしか君の父親は、アーサー・エルトルだったよな? 連邦議会、上院議員の……」
「そうだよ、先生。超保守派の差別主義者で、移民とゲイと有色人種をこの国から追い出せーっていつも騒いでる、あのカルト宗教信者のアーサー・エルトルが、アーティーの親父」
 授業担任の問いかけに答えたのは、当の本人であるシルスウォッドではなく、何の関係もない部外者のザックだった。クラスメイトの父親を、息子の前で散々に罵る――とはいえ、これらは全て紛れもない事実であるのだが――ザックは、ヒーロー気取りの無邪気で純粋な瞳をシルスウォッドに向けてきた。
 しかし、幾ら事実であるとはいえ、シルスウォッド自身もそう思ってはいるとはいえ、相手の父親を詰るというのは問題のある行為。腕を組む授業担任は、ザックの不躾な行いを嗜めた。
「ザカリー・レター、言葉を慎みなさい」
 しかし、そう嗜める授業担任も『言葉だけ』であり、表情から滲む本心ではザックの言動を咎める気はない様子。その授業担任の態度に、改めて『世間においての、父親の評価』を思い知らされたシルスウォッドは、その男の息子である事実を恨むと同時に、周囲が自分と父親を“区別”してくれていることに一安心した。彼らが明確に言葉として断言してくれているわけではなかったが、しかし少なくとも異母兄ジョナサンのような『卑しいクソガキですこと! 邪悪な父親に、どこまでも似ているわね!』だなんていう評価を、シルスウォッドは周囲からされていないようだったからだ。
 とはいえ、気掛かりなことがある。それはザックだ。
「そもそも……――なんでザックが、その件を知ってるわけ?」
 ザックと関わりがあるのは、学校の中だけのこと。それ以外の場所で顔を合わせたことはなく、エローラ家のような付き合いがあるわけではないし、バーン夫妻のような縁もなく、ライミントン兄弟のような接点もない。シルスウォッドに纏わる呪いに関係がある立場ではなく、いわば彼は“部外者である赤の他人”でしかないのだ。
 なのに、どうして赤の他人が日曜日に起きたことを知っているのだろうか? そこの見当がシルスウォッドにはつかない。
 日曜日に起きたことをシルスウォッドが喋ったのは、リチャード・エローラ医師とバーン夫妻、それとブレナン夫妻ぐらい。そして彼らは全て、口が軽い方ではない。リチャード・エローラ医師は友人や知人に見聞きしたことを何でも喋るタイプではない――彼は、彼の家族には色々と報告したり、話したりするようだが、その家族もまた聞いた話を人に言いふらすタイプではない――だろうし、バーン夫妻はああ見えて秘密は頑なに話さないタイプだ。それにブレナン夫妻はそもそもボストンに知人が少ない為、話をする相手も居ないだろう。となると……――ザックはどこで、あの話を耳にしたのだろうか?
「…………」
 警戒するようにシルスウォッドがザックを睨んでみせると、ザックは不服そうに唇をへの字に歪めた。それからザックは、自分を睨み付けてくるシルスウォッドにこう答える。「姉貴から聞いたんだ」
「……お姉さんが?」
「日曜日。オレの姉貴が母ちゃんに頼まれて、牛乳と卵を買いに出かけてたんだ。それで買い出しの帰り道で、姉貴が見たって言ってたんだよ。テイラー・ローレンスって店の中で、アーティーが親父に首絞められてたって。それ以外にも暴力を振るわれてるのを見たって、姉貴はそう言ってた」
 そう語ったザックはついでに「姉貴、めちゃくちゃ慌てて帰ってきてさ。卵が三個も割れてたんだぜ」という、信憑性を深めるようなエピソードも付け加える。加えて、彼はこんな話もした。
「あと昨日、アトキンソンさんの様子が変だったんだよ。情緒不安定っつーか。イライラしながら飯食ってたから、オレの母ちゃんがアトキンソンさんに話しかけたらさ、あのひと急に泣き出して」
 シルスウォッドに意味ありげな視線を向けながら“アトキンソン”という人名を出してきたザックに、シルスウォッドはまたも拍子抜けさせられる。「――アトキンソンって、まさかランドン・アトキンソン?」
「そう。あの人、お前の送迎役ってヤツなんだろ」
「……あ、ああ。たしかに、そうだけど……」
「あの人は仕事終わりに、よく晩飯を食いにオレん家の店に来るんだ。で、飯を食いながら、よくお前のこと話すんだよ。だからオレ、結構お前の家族のこと知ってるぜ」
 ザックの家族が飲食店を営んでいること。それはシルスウォッドも、それとなく聞かされていた。だが、ザックの家族が営んでいる飲食店に、運転手ランドン・アトキンソンが通っていることは知らなかった。そして彼が、ザックらレター家の人々にシルスウォッド絡みの騒動をぶちまけていることも、知らなかった。
「さっき校門のとこでお前の兄貴をビンタしてた女の人が、ドロレス叔母さんなんだろ?」
 またもザックの顔には、ヒーロー気取りな表情が戻ってくる。その顔を、シルスウォッドは呆然と見返すことしかできない。
「…………」
 この展開は奇しくも、シルスウォッドが望んでいたもの。いずれ父親を潰すことになるだろう“種”が、偶然にも蒔かれたのだ。だが同時に、これはシルスウォッドが恐れていた事態でもある。
 蒔かれた種を滅するために放たれる火によって、関係のない第三者までが焼き尽くされる気配。そんな予感が、シルスウォッドの横を通り抜けていったような気がしていた。
「アーティー。ザックの言ったことは、本当なのか?」
 ザックの暴露に、シルスウォッドはすっかり顔を蒼褪めさせていたが、それと同じぐらい授業担任の顔も蒼褪めていた。予想もしていなかった虐待の告発に、授業担任もどう対応していいのか分からなかったのだろう。
「あ、その……」
 動揺している相手の様子を見て、シルスウォッドは我に返った。混乱を頭の隅に追いやった彼は、かりそめの冷静さを取り戻すと、今ここで語るべき言葉が何なのかを探し始める。授業担任を落ち着かせる言葉で、ザックの正義感と思いやりを無下にしない言葉、且つ事態を後腐れなく収束させてくれる言葉。それをシルスウォッドは必死に繕った。
「今は、叔母がボストンに来てくれてて。叔母のところに匿ってもらってるので、僕は大丈夫です」
 最後にシルスウォッドがぎこちない笑顔を浮かべてみせれば、全ては狙ったところに着地する。
「そうか。叔母さんが来てくれているのか。それは、良かった……」
 何の足しにもならない言葉を述べる授業担任は、ホッと胸を撫でおろす。
「あの叔母さん、強そうだもんな。なら大丈夫か!」
 ザックも安心したように、無邪気な笑顔を浮かべていた。


+ + +



 そんなこんなで、ブレナン夫妻とバーン夫妻、彼らに匿われた生活も二週間となった時。学校は一月中旬まで続く冬休みに突入し、守護者気取りのザックと顔を合わせることもなくなった。そして右腕を完全に固めていたギプスも、今では半分だけとなり、そして半分だけのギプスを着けるのは外出するときぐらいになっていた。
「……」
 同じ学校にこそ通っているが、所属するクラスも違い、そして授業も被ることがないブリジットとは、この二週間は昼休みぐらいしか会うこともなかったが。会うたびに心配そうな顔を向けてくるブリジットは、シルスウォッドを少しばかり苛々させた。そんなブリジットの顔を見ずに済む冬休みに、シルスウォッドは少しだけ肩が軽くなったような気もしていた。
 でも、軽くなったのはほんの少しだ。肩の荷は完全に降りたわけじゃない。
「ドロレス、先のことを考えてみてくれ! 一回限りだって言うが、その一回限りが重要なんじゃないのか? その一回で、ウディに“エルトル家の跡継ぎ”だなんて印象が付いてしまったら、どうするんだ!」
「でも、その一回さえ済ませれば、冬休みの間は彼をハリファックスに連れて帰れるのよ? それに、今後も長期休みの時にも会えるようになるの。今までみたいに隠れてコソコソとじゃなく、堂々と会えるようにね」
 この日は、ドロレスが『アーサー・エルトルと話を付けてくる』と出かけた日。翌日に控えた支援者向けのパーティーに、シルスウォッドを出席させるかどうか、その件をドロレスは話し合いに行っていたのだ。
 そしてドロレスがバーンズ・パブに持ち帰ってきたのは『パーティーに連れて行くのは今回限りだけ』という条件と『今回のパーティーの出席さえ許可してくれれば、以降の長期休みはシルスウォッドをハリファックスに連れて帰っていい』という見返り。――会うことさえ許されなかった今までの状況と比較すれば、それは大きな進展とも言えた。が、その取引に納得していたドロレスとは裏腹に、ローマンは強い不満を抱いていた様子。
 考え方の違いから言い争いをしているブレナン夫妻の様子を、シルスウォッドはバーンズ・パブの開店前準備を手伝いながら、動かしにくい右腕に顔を顰めさせつつ、黙って見守っていた。
 見守ることしか、彼には出来なかったのだ。
「それで? 長期休みが終わったらその度に、エルトル家にウディを帰すのか?」
 ローマンは、シルスウォッドの親権を諦めていなかった。彼はシルスウォッドを“息子”としてハリファックスに連れて帰り、家族としてやり直すことを望んでいたのである。長期休みの時だけ家に遊びに来る“甥”という関係を、ローマンは望んでいなかったのだ。
「それは、だって、仕方ないじゃない。学校が、あるんですもの……」
 ドロレスは、親権問題に関しては諦めの境地に至っていた。以前は助けを求めて弁護士事務所を巡ったりもしたが、皆一様に“アーサー・エルトル”という名に怯むばかりで、門前払いをされ続けたのだから……――彼女が諦めてしまうのは、無理もない。
「ミドルスクールなんて、ハリファックスにもあるだろう?!」
「あのね、ローマン。ハリファックスなんていう見捨てられた片田舎と、大昔から学術都市として栄えてるボストンじゃ、教育のレベルが違うのよ!? それにボストンなら、教科ごとの飛び級だって柔軟に対応してくれる。でもハリファックスに、それが望めると思うの?」
「飛び級だなんて、そんな話を今はしてなッ――」
「彼は賢いのよ、いずれそうなるに決まってるわ! それに今の学校には、ウディを助けてくれる友達もいる。エローラ先生のお嬢さんだって、ウディに良くしてくれてる。剣道教室のコーチだってウディを見守ってくれてるし、バーンズ・パブもある。それなのに、環境を変えるだなんて酷よ!」
 ブレナン夫妻の間にある温度差が今、悲惨な形で露呈していた。
「それにウディが高等教育を望むのなら、ボストンに居た方がいいの。この子の知性を伸ばすためには、ボストン以上に相応しい場所はないから。それにエリザベスも、ハイスクールまでは通わせてくれることを約束してくれた。だったら――」
 ドロレスは、シルスウォッドの“将来”を案じていて、そして“大学”という選択肢を見据えていたのである。ハイスクールまではエルトル家に居るとしても、大学に進学さえすれば寮生活という“家を脱出する手段”が得られるだろうと、彼女はそう踏んでいたのだ。
 それに高等教育を受けられれば、就職の際にも選択肢が広がる。場合によっては自力でボストンを脱出し、州外へ、そして国外へと出られるようになるだろう。――ハリファックスに逃げるよりも、今まで通りの過酷な環境の中で知性と逞しさを磨いていったほうが、生まれながらに深い業を背負うシルスウォッドの為になるだろうと、ドロレスはそう考えていたのだ。
 現にドロレスは、その為の資金を拵えている。私立大学にも、なんとか通わせられるだけの貯蓄を今まさに作っているところなのだ。
 そしてドロレスは、信じていた。多少なりとも自分に似てくれているのならば、この先に起こるだろう面倒ごとの数々も、シルスウォッドはのらりくらりと適当に躱せるはずだ、と。しなやかさと強かさを身に着けてくれるだろうと、彼女は期待していたのである。
 それに、ローマンに似た少しの狡賢さと口達者なところは、物心がついた時点でシルスウォッドに顕れていた特徴。それらが組み合わさればきっと強い人間になってくれるはずだという確信が、彼女にはあったのである。
「ああ、ボストンの教育はレベルが高いだろうさ! だが、エルトル家の連中はどうだ? あんな場所で、健全な成長なんて無理だろう? 第一、エリザベスが保障してくれたとして、それがどうした? エリザベスの約束はいつも、アーサー・エルトルの癇癪によって破られてきたじゃないか!」
 対するローマンは、シルスウォッドの“今”を案じていた。シルスウォッドの心身の安全を懸念し、傷付けられない安全な環境を用意すべきだと考えていたのである。
 仮にドロレスが望んでいるような高等教育を受けられたとしても、それを享受するシルスウォッド自身が健全でなければ、全てが無駄だ。怪我続きで学校に通える日数が限られれば意味がないし、そもそも心を病んでしまえば人生そのものが台無しになる。故に、心身の安全を保障する環境を“今”整えることが、将来的にもシルスウォッドの為になるだろうと、ローマンはそう信じていた。
 それに、ローマンは不安だった。既にシルスウォッドは病みつつあるのではないかと、彼にはそう思えてならなかったのである。全てに対して他人事のような顔を見せていることや、遠まわしな皮肉や直接的な嫌味を吐き捨てる回数が多いこと。そんなシルスウォッドの態度に、ローマンは胸騒ぎを感じていたのだ。
 それはローマンが、物心が付くより前のシルスウォッドの姿を知っているからこその心配。ドロレスが期待しているような“強い青年”にシルスウォッドが成長してくれるとは、ローマンには思えなかったのだ。
「ええ、そう。いつもそうだったわ! でも教育について、エリザベスは妥協しないと断言してくれた。そこだけは絶対に死守するって。だから」
「だがそのエリザベスは、ウディを乱暴なジョナサンから守ってくれないんだろう?!」
「エリザベスを責めないで! 彼女は彼女で、苦しい立場にいるのよ?! それに彼女だって、精一杯の配慮はしてくれてるわ。なるべくウディとジョナサンを引き合わせないようにしてくれたりとか、エローラ先生のお宅に行くことを許してくれたりとか――」
「ハッ、配慮か。ウディを家から追いやることが、配慮なのかい? 本当に追いやるべきなのは、癇癪持ちのジョナサンだろうに」
「ローマン!」
「あの二人は、ウディを精神病院にぶち込もうとしたんだろう?! まさか、その件を忘れたんじゃないよなぁ?」
「あれはアーサーが言い出したことよ。そして、エリザベスがそれを止めてくれたの! それも忘れないで頂戴!! エリザベスが居てくれなかったら、今頃あの子は……――!!」
 ドロレスもローマンも、どちらもシルスウォッドのことを思ってくれている。それは、シルスウォッドも分っている。二人の考え方が違うことも、分っている。
 だが、どちらにせよ醜い口喧嘩を見せつけられることは不愉快だった。ましてや二人の喧嘩の原因が自分なのだということが、居心地が悪くて堪らない。――そうして遂に、傍観を貫いていたシルスウォッドが言葉を挿む。
 皿洗いをしていたサニー・バーンから渡された、最後のジョッキを布巾で拭い終わったシルスウォッドは、そのジョッキを食器棚の前に立つライアン・バーンに手渡すと、それから重たい溜息をひとつ吐く。そしてお互いに顔を赤くし、汚い口論を繰り広げるブレナン夫妻を冷めた目で見つめた後、シルスウォッドはこう呟いた。
「……それくらいにしてよ、二人とも。見てらんないから、やめて」
 外に降りしきる雪よりも冷たいシルスウォッドの声に、ブレナン夫妻の口論もピタリと止まる。そんなブレナン夫妻に向かって、シルスウォッドは呆れ交じりの声で淡々と、こう宣言してみせた。
「僕、パーティーに行くから。父さんの横でニコニコしてればいいだけなんだし。愛想を振り撒くのには慣れてるから、心配しないでよ」
 本音を言えばシルスウォッドは、父親の支援者の為に開かれるパーティーになど参加したくはなかった。だが、自分が行くしかないことも理解していた。
 ここでシルスウォッドがゴネてパーティーの参加を拒否すれば、父親と叔母ドロレスの関係はより一層悪化していくだろう。そうなればシルスウォッドは、二度とブレナン夫妻と会えなくなる可能性がある。それは……正直なところ、迎えたくない結末だった。
「勿論、エルトル家を継ぐ気はないよ。そこは明確に意思表示するから」
 それに、たった一回パーティーに出席すれば、その後の長期休みはあの家に居なくて済むようになるのだ。これはシルスウォッドにとってメリットしかない。今までの長期休みがどれほど憂鬱だったか、それを思えばこの提案を呑まない手はなかった。
 これまでの夏休みや冬休みは、エローラ家にお世話になっていた。日中はエローラ家の人々とずっと居て、ずっと居心地の悪さと申し訳なさを感じていたものだ。そして夜に家へ帰れば、ジョナサンに怯え続けなければならない時間がやってきて……あの気苦労しかない長期休みの日々から解放されるなら、これほど嬉しいことはない。
 そういうわけでノリ気になっていたシルスウォッドだが、ローマンの方は意見を変えていないようで。軽い調子でいるシルスウォッドを、ローマンは必死の様相で諭してくるのだった。
「アーサー・エルトルの支援者が集まるパーティーなんだぞ! どんな人間が集まってるか分かりゃしないんだ。そんな場所に、子供を行かせられるわけがないだろう?! それにアーサー・エルトルが、お前をちゃんと帰してくれるかどうかさえ分からないってのに……!!」
 鬼気迫るローマンの姿に、シルスウォッドは遂に押される。これでもかと顰めた顔でシルスウォッドに迫ってくるローマンに、シルスウォッドは一歩、また一歩と後退っていった。そしてローマンに圧倒されるシルスウォッドを見たドロレスは、彼らの間に割って入る。ローマンの前にドロレスは立ち塞がると、彼に何かを言おうと口を開けた。
 ――が、ドロレスが何かを言おうとしたのを、ライアン・バーンが制した。
「ローマン、それとドロレス。少しは落ち着かんか。ガキのほうが冷静たぁ、一体どういう状況だってンだよ」
 食器類やジョッキ等を食器棚の中に入れ終えたライアン・バーンは、その戸棚を静かに閉めると同時に、そう言葉を発する。それからライアン・バーンは鼻の下を掻くと、シルスウォッドを見つめなら、気怠そうな声でこんなことを言った。
「ローマン。お前が心配で堪らないのは、俺も分かる。この間、あんだけギャン泣きしてたガキだしな。だがな、コイツも修羅場慣れしてる。それにウディはお前に似て頭が回るし、賢い。それとドロレスの豪胆さも少しは受け継いでる。――ウディなら、うまく立ち回れるだろうさ」
「…………」
「それに、ウディをどこの家に帰すのかを決めるのは運転手のアトキンソンだしよ。あのキザな人情家のことも、信用してやったらどうだ?」
 ライアン・バーンがそう言い終えると、そのタイミングでどこかから「にゃおんあー!!」という猫の鳴き声が聞こえてきた。……サニー・バーンの足許をウロチョロとしているサビ猫オランジェットが、いいタイミングで相槌を打ってきてくれたらしい。
「まったく、この食い意地っぱり猫め。さっきササミを食べたばかりだろう? パネトーネの分まで横取りしておいて、まだ欲しがるのかい……」
 ――呆れ切ったサニー・バーンの言葉から察するに、どうやら今の鳴き声は単にオヤツをねだっているだけのものだったようだが。偶然にしてはタイミングが良すぎる猫の鳴き声が、場を和ませた。
「オーリーったら。いつもタイミングが良いんだから……」
 タイミングが良すぎるサビ猫オランジェットの鳴き声に、不覚にもクスクス笑いが止まらなくなってしまったドロレスは、そう呟く。そうして少なくともドロレスからは緊張感が消えたタイミングを見計らって、シルスウォッドはライアン・バーンの言葉に乗っかるようなセリフを放った。
「ランドンが居てくれるなら、大丈夫だって。もし危なそうだったら、早めにパーティーから抜け出して、ランドンに『帰りたい』って泣きつくから」
 そう言いながらシルスウォッドは、外行きの時に繕う愛想のいい笑顔を浮かべる。だがローマンの表情は変わることがなく、また彼の意思も揺らいではいないようだった。
 だが意思が変わらないのは、シルスウォッドとて同じ。
「話はこれで終わり! 議論を蒸し返すつもりはないからね」
 未だ険しい顔をしているローマンに向かって、シルスウォッドはあくまでも笑顔のまま、そう告げる。だが腕を組むローマンの態度は、今にも終わった話を掘り返そうとしているようだった。
 そんなローマンの面倒くさそうな気配を察知したのだろう。足許に纏わりついてくるサビ猫オランジェットをサニー・バーンは抱き上げると、抱き上げた猫を夫ライアン・バーンへと押し付けた。それからサニー・バーンは車のキーを取ると、バーンズ・パブに集っていた面々にこう切り出してくる。
「ちょっくら買い出しにでも行ってくるよ。鶏ひき肉とツマミ用のサラミも切らしてるし、猫のササミも無くなったしね。あとジャガイモ。それとレタスも買わないとだ。……ウディ、あんたも一緒に来るかい?」
 まるで猫を遊びに誘うかのように、サニー・バーンは車のキーを揺らして、チャリンチャリンと音を鳴らした。そしてシルスウォッドは玩具に食いついた猫のように目を輝かせて、首を縦に振り、サニー・バーンの提案を呑む。
 今のシルスウォッドは、ドロレスとローマンの二人から少しだけ離れたい気分になっていたのだ。


+ + +



 そうしてバーンズ・パブから抜け出し、買い出しの為に近所のスーパーマーケットへと向かう道すがら。車を運転するサニー・バーンは正面を見つめたまま、助手席に座るシルスウォッドへこう問いかけてきたのだった。「あんたはドロレスとローマンに再会できたことが、嬉しくないのかい? ここ二週間、ずっと無理して笑顔を作ってるようにも見えてるけども」
「……正直、よく分かんない。嬉しいけど、疲れるというか。特にローマン」
「あー、ローマン。あの人は昔から、ちぃと頑固なとこがあるからねぇ……」
 シルスウォッドは久しぶりに正直な本音を、それも淀んだ汚い本音を零す。そして彼は、その汚れた本音を否定しなかったサニー・バーンに、すっかり安心してしまったのだろう。シルスウォッドは続けざまにボトボトと、やり場のない思いを吐露し始めるのだった。
「エルトル家から出たいとは思ってる。ジョンから逃げ続けるのにも疲れたし、父さんに振り回されるのも、もう嫌だ。でも今更ハリファックスに戻ったところで、っていう思いもあって。……僕はどこに行って、何がしたいんだろ。それがよく分からないんだ。ただ、バーンズ・パブは居心地が良いってことくらいしか、今は断言できることがないや」
 しかしシルスウォッドが不満を零したところで、何も状況は変わらない。誰一人として彼に“最適解”も“助言”も提供できないからだ。周囲の大人は勿論、本人にも、それが出来ないのである。
 故にサニー・バーンが返した言葉は、話の本筋を逸らすような、何の足しにもならないセリフ。
「――まったく。あんたって子は、もう少し子供らしい喋り方をしたらどうだい?」
「無理だよ。子供らしい喋り方をしてた時期がないんだから」
 粋がる素振りを見せるシルスウォッドに、サニー・バーンは「そういうところは、まだまだガキっぽいねぇ」と釘を刺す。――そんな肩の力の抜けた遣り取りが戻ってきたのは、数週間ぶりのこと。愛想笑いを浮かべる必要もなく、相手の顔色を必要以上に伺う必要もない“普段通りの空気感”にホッとしていたのは、シルスウォッドだけではなかった。
 普段の“妙に大人びた、皮肉の多い小生意気なクソガキ”の姿を封印して、どうにかこうにか幼稚さや明るさを取り繕おうとしているシルスウォッドを見せられているバーン夫妻も、ここの所は気を張り詰めさせていたのだ。
 特に、すっかり神経質になってしまったローマンの前では、豪胆でざっくばらんなバーン夫妻も、細心の注意を払って言葉を選ぶしかなく。その苦労の一端を、サニー・バーンはポツリと零すのだった。「さっきはローマンの前だし、ライアンはああ言ったんだろうけど。正直なとこ、アタシはあんたのことを母親似だと思ってるよ。ローマンはローマンで弁が立つ男だけど、あんたのその狡賢さは母親似だ。笑顔といい、言葉の選び方といい、母親にソックリだよ」
「母親って……」
「ブレアに決まってるでしょうに」
 当たり前のような文脈で、さらりとサニー・バーンが発した名前。ブレア。それはシルスウォッドの、忌むべき実母の名前である。
 そしてこの時、シルスウォッドは驚いていた。何故ならば、この時が初めてだったからだ。バーン夫妻のどちらかが、シルスウォッドに向かって実母の話をすることが。
「…………」
 少しの衝撃から、シルスウォッドが黙りこくっていると。それに構わずサニー・バーンは、言葉を続けていく。「あんたは年々、ブレアに似てきてる。それに、あんたの記憶力の良さも、知性と貪欲さも、ヘンテコなフィドルの弾き方も、機知も機転も、全部ブレア譲りだ。目鼻立ちもより一層、最近はブレアに似てきたしねぇ」
「フィドルの弾き方は、ドロレス叔母さんを真似してるつもりだったけど……」
「ドロレスも中々に癖が強い弾き方をするけど、あんたのは違うよ。ドロレスは肩にエンドピンを当てるが、あんたは鎖骨より下にエンドピンを置いて、首を傾けずに弾くだろう? それはブレアと同じスタイルだ。もともとフィドル弾きだったこのアタシが言うんだから、間違いない」
「……サニーって、フィドル、弾けたんだ」
「あんたが今使ってるフィドルだって、元はアタシのフィドルだったんだよ。それに、誰が定期的に弦を張り替えてやってると思ってるんだい?」
 サニー・バーンが、フィドルを弾けたこと。サニー・バーンが、フィドルの弦を定期的に張り替えてくれていたこと。それらもシルスウォッドがそれまで知らなかった、驚くべき事実ではあるが。そんなことなど、シルスウォッドの頭には入ってこない。
 適当な返事をするシルスウォッドの頭の中を満たしていたのは、ブレアという実母の名前だけだった。そして、それに関連する事柄のみ。
 記憶力の良さ。知性と貪欲さ。奇妙なフィドルの弾き方。機知。機転。――当たり前のように、自分の個性で構成要素だと思っていたその全てが、実母譲りの素質なのだとしたら。そう思うだけで、自分自身を呪う気持ちがシルスウォッドの中でグッと強くなっていく。自分など、この世に存在してはいけないと囁く声が、じりじりと迫り寄り、アイデンティティを汚染しつつあった。
 そんな折、サニー・バーンが発したある言葉が、シルスウォッドを現実へと連れ戻す。
「……ブレアがもしアルバ・ゲール語でなく、英語を母語としていたなら。あんたみたく化けたんだろうねぇ、きっと」
 実母の母語が英語でなく、その所為で英語での読み書きを実母は苦手としていたらしいことは、シルスウォッドも知っていた。だが“アルバ・ゲール語”という言語の名前は、初めて聞いたもの。ふと、その言語の名前がシルスウォッドの関心を引き寄せたのだ。「……アルバ・ゲール語って、どこの言葉?」
「物知りのあんたが知らないとは意外だねぇ」
 そうシルスウォッドを茶化して、サニー・バーンは笑う。それから彼女は少しの笑みを口元に浮かべながら、シルスウォッドの知識にある空白を保管してくれた。
「アルバ・ゲール語はスコットランドの廃れた言語さ。アルバってのが、スコットランドって意味らしいよ。あくまでもライアンから聞いた情報だから、信用はできないけどねぇ」
「もしかして、ライアンも少しは喋れるの? その、アルバ・ゲール語ってやつ」
「いいや。あの人が扱えるのは、ゲール語でもアイルランド・ゲール語のほうさ。といっても、挨拶程度のレベルだがね」
 アルバとは、スコットランドという意味。そして思い返してみれば、実母の故郷はスコットランドのどこかだと父親から聞かされた覚えがある。……そんなことを思い出しながら、シルスウォッドは考え込む。改めて思い知らされたからだ。自分は、自分の実母について何も知らないということに。
「……母さんのことを、僕は何も知らない。何をしていた人なのかは知ってる。けど、何を考えてた人なのかが分からないんだ。それなのに似てるって言われても、いまいちピンとこないっていうか」
 シルスウォッドがそう呟くと、暫くサニー・バーンは黙り込んだ。返す言葉に、彼女は困ったのだろう。そうして数分後に彼女が再び口を開けたとき、彼女が発したのは誤魔化すような苦し紛れの言葉だった。「……あんたには悪いとは思っちゃいるんだよ、ウディ。だが、ブレアのことはあんまり話せないんだ。ライアンが嫌がるからねぇ」
「…………」
「でも、一つ言っておく。あくまでも、ウディはウディだ。あんたはブレアに似てる。けど、あんた独自の個性もある。それを忘れるんじゃないよ」
「独自の個性って、何さ。そんなもの、あるようには思えないけど……」
「あんたは結構、ちゃっかりしてるよ。チップをせしめる技術はピカイチだし、なんだかんだで図々しいとこがあるしねぇ」
 ニンマリと人の悪そうな笑みを浮かべるサニー・バーンは、あくまでも正面を向きながら、助手席に座るシルスウォッドの方に右手を伸ばす。彼女は伸ばした手でシルスウォッドの肩に触れると、その肩を三回、ポンポンポンッと軽く叩いた。それはさながら「この調子で稼ぎ続けな!」と促しているかのようである。
 そうしてチップの話題が飛び出したことにより、実母“ブレア・マッキントッシュ”の影がシルスウォッドの中で薄らいだ時。はたと、シルスウォッドは気付いた。この四年間、バーンズ・パブを訪れる客を相手に媚を売り続け、チップを幾分かせしめてきたが、その稼いだチップの行方をシルスウォッドは知らなかったのだ。
「……そういえば僕が稼いだチップってどうなってるの? いつもサニーに渡してるけど、その後の行方を知らないというか」
 チップを客からせしめた時、シルスウォッドは決まってカウンター裏にいるサニー・バーンのところに行っている。そうするとサニー・バーンが空き瓶を出してくれる為、シルスウォッドは差し出された空き瓶にいつもチップを入れていた。そしていつも、それっきりである。後の行方は知らない。
 今更ともいえる疑問に、サニー・バーンはケタケタと笑い始めた。それから彼女は、ハンドルを右に切りながら、こう呟いた。「そういや、チップの行方はあんたに話してなかったね」
「うん。今更だけど、知らないなって気付いた」
「安心しな。チップなら、ちゃんと貯めてるよ。あんたが店を手伝ってくれた分の小遣いと一緒にね。――だが、あんたが一人前になるまで金は渡さないよ。それまでは精々、店の手伝いとチップ稼ぎに励むことだね」
 一人前。その定義が曖昧な言葉に少しの不安感を覚えながら、シルスウォッドは苦笑いと呑気なセリフを返す。
「はいはい、頑張りますよ」
 苦笑いを浮かべる裏で、シルスウォッドはこう考えていた。一人前、そんな日を迎えることなんて自分には出来るのだろうか、と。そして翌日に控えたパーティーのことを思い出し、更なる憂鬱が彼を襲う。
 自分で「参加する」と言った手前、やはり彼は不安だったし、怖くて仕方がなかった。暫くぶりに会う父親が何をしてくるのかが分からなかったこともそうだし、ローマンの言う通り「帰ってこられるかどうか」が分からなかったからだ。
 そして、この恐怖は「エルトル家に連れ戻される」という未来に怯えてのものではなかった。無事に生きて帰ってこられるかどうか、その次元の恐怖だった。






 時代は戻って、西暦四二八九年。ゴーストタウンと化したマンハッタンの某所、子猫たちが自由に走り回るアパート内にて。海鳥の影ギルの謝罪と説得を受け入れたチビのアストレアが、気絶している長身のアルバをなんとか担ぎ、彼の部屋にあるソファーベッドの上に運び終えてから時間が経ち、遂にはあれから三日目の朝を迎えていた。
「今日も起きてないなぁ……」
 海鳥の影ギルがアルバを気絶させたっきり、彼はそのまま目覚めず、眠りこけている。しかし海鳥の影ギル曰く、ギルが掛けた催眠とやらはとっくに解けているとか。それでもアルバが目覚めないのは、海鳥の影ギルが言うには「大分、疲れが溜まっていたのでは?」ということらしい。しかしアストレアは、あまりその仮説を信じていなかった。
 とはいえ、真相は不明。流石のアストレアも、三日も目覚めないアルバのことが気掛かりになってきている。彼女なりにも色々と手は尽くしてみた――アルバの頬に強烈なビンタを食らわせてみたり、彼の鼻付近に子猫のクサい肉球を押し当ててみたり、彼の頭を叩いてみたり、氷嚢を彼の首筋に当ててみたり等――のだが、一向に目覚める気配のないアルバの様子に、次第に「もしかして、コイツ、完全に死んだ?」などとの懸念も浮かび始めていた。
 しかし、死者の身でありながらも彼は呼吸をしているし、人ならざる淡い青色の血を循環させ続ける心臓は彼の中で脈を打ち続けている。つまり、また目覚める可能性は十分にあった。
 そんなわけで、子猫たちの餌やり――餌とはつまり、冷蔵庫の中にあるハツカネズミの死骸だ――がてらにアストレアがまた彼の様子を見に、彼の部屋に無断で立ち入っていた時。まだアルバが眠りこけていることを確認したアストレアが、ふと重たい溜息を零した、そのタイミングだった。眠りこけているアルバの足許で、黒くて丸っこい影がモゾモゾと蠢きはじめる。――アルバの足許付近で仮眠でもしていた海鳥の影ギルが、アストレアの気配に気付いて目覚めたのだ。
「おはよ、ギル」
 アストレアは、目覚めた海鳥の影ギルに片手間にそう声を掛けると、かれこれ三日は閉め切られているこの部屋のカーテンへと一直線に向かっていく。そして彼女は常盤色をしたベルベットのカーテンに手を掛けると、躊躇うことなくカーテンを開け広げ、寒々しい朝日を部屋の中に迎え入れたのだった。
 一瞬にして暗い部屋を明るく照らした朝日に、海鳥の影ギルは驚き、その輪郭をゾワゾワッと振るわせる。そして海鳥の影ギルは、アストレアに向かって悪態を吐くのだった。
「ビックリしたじゃないですか、もう! 折角、いい感じのところだったのに、これじゃあ台無しですよ……」
 そんな海鳥の影ギルの悪態に、アストレアは首を傾げさせる。
 いい感じのところだったのに。――そう言ったギルの言葉の意味が、彼女には理解できなかったからだ。するとそんなアストレアの様子を見てか、不貞腐れた態度のギルは、こんなことを彼女に語った。「アルバですよ。彼の見てる夢に干渉しているところだったんです!!」
「夢に干渉……?」
「ええ、そうです。要するに、覗き見ですよ。とっても愉快な彼の悪夢を鑑賞していたっていうのに、あなたに台無しにされたんです!」
 海鳥の影ギルは柄にもなく声を荒らげさせ、そして水かきのついた平べったい海鳥の足で地団駄を踏み、不機嫌そうに大きな丸いお尻をプリプリと振る。アストレアの目に、これは滑稽で愉快な姿として映っていたが、しかし海鳥の影ギルは深刻に怒りを表現していた。故に、ゲラゲラと大口を開けて笑い始めたアストレアを見るなり、海鳥の影ギルの怒りはヒートアップしていく。
「いいですか、アストレア! 今のは、彼の弱点を探る絶好の機会だったんですよ?! なのに、あなたって人は!」
 けれども、海鳥の影ギルの怒りはアストレアに通じない。そして結局、海鳥の影ギルが負けた。アストレアの笑い声が冷や水となり、ギルの燃え盛る不満や怒りに降り注いで、その熱は強制的に鎮められたのだった。そうして海鳥の影ギルがすっかり大人しくなり、アストレアの笑いも収まると。アストレアは笑い涙を指で拭いながら、海鳥の影ギルにこう質問した。「で、ギル。このジジィの見てる悪夢ってのは、どんな悪夢だったの?」
「彼の、子供時代の記憶ですよ。ざっと十二歳ぐらいですかね。パーティー会場のトイレで、心理的なストレスから延々と嘔吐し続けている瞬間だったんです。それなのに……」
「パーティーか。へぇ、どんなパーティーだったの?」
「彼の父親の、支援者のために開かれたパーティーです。会場内で飛び交う出席者たちの流言飛語に怯えて、トイレに逃げ込み、彼が――」
「彼が、嘔吐してたんだよねー。それ、さっきも聞いた」
 ぴしゃりと冷たくあしらうような態度で、アストレアは海鳥の影ギルの話を遮ると。不満を燻ぶらせ、そして輪郭をぐらつかせている海鳥の影ギルを見下ろしながら、アストレアはギルをこう切り捨てる。
「つーか、ギル。アンタって本当に悪趣味だね。人の悪夢を覗いて楽しむとか、最低だよ……」
 先日の禍根を忘れたわけではないし、許したわけでもないアストレアが、海鳥の影ギルをキッと睨み付けてみせると。痛いところを突かれた海鳥の影ギルの輪郭は、動揺から一際大きく揺れて、一瞬だが海鳥としての輪郭すら失うほどにぐにゃりと歪んだ。
 すると、その時。ソファーベッドの上で眠りこけていたと思われていたアルバが、すくっと上体を起こす。
「あっ、起きた」
 アストレアがそう感嘆の声を零した直後。アルバはスッと素早くソファーベッドを降り、立ち上がると、少しだけ駆け足気味に歩きながら、静かにバスルームの方へと向かっていった。
 彼の去り際に見えた、蒼白とした顔。それとバスルームという行き先。それから先ほどまで海鳥の影ギルが熱弁していた、悪夢のこと。――そこからアストレアが導き出した答えは一つ。
「もしかしてだけど、吐いてきたの?」
 数分後にバスルームから戻ってきたアルバに、アストレアはそう問いかけた。すると、いつもよりも土気色さが悪化している顔色をしていたアルバは、真っ黒ないかついサングラスを着用して人ならざる目を隠しながら、アストレアの問いかけに質問を返すのだった。「……どうして分かった?」
「そこのギルが、アンタの悪夢を覗き見てたらしいよ。夢の中で子供時代のアンタがパーティー会場のトイレで嘔吐してる瞬間に、めちゃくちゃ興奮したってさ。で、タイミングからして……現実でも吐いてたのかなって、そう見当をつけたってとこ」
 アストレアの密告に、アルバはサングラスの下に隠れた目を細め、加えて眉尻を上げていた。つまり彼は、不愉快さを隠すことなく露わにしていたのだ。当然、海鳥の影ギルはその気配に慄き、またも輪郭を震わせる。
 どんな嫌味が矢継ぎ早に飛んでくることになるのか……。海鳥の影ギルは、それを恐れていた。が、今回はアルバ自身が疲れ切っていたこともあり、口撃は単発で終わる。
「……確かに、あれはお前が好みそうなネタだな」
 静かで落ち着いた声に、ゴトゴトと煮えたぎる怒りと不快感を乗せて、アルバは海鳥の影ギルに
 向かって短く言葉を発した。そして彼は、この話題をそこで打ち切ろうとする。それ以上の嫌味を連ねることがなかったアルバは、視線を海鳥の影ギルから逸らすと、彼は無言ですたすたと冷蔵庫の方へと向かって歩き始めた。
 だが、アストレアは話題を終えたくなかった。故にアルバの背中へ、とても不躾でデリカシーのない、悪意しかない質問をストレートに投げつける。
「そのパーティーってさ、そんな吐くほどにまで酷いパーティーだったの?」
 するとアルバの歩みが止まり、彼の体は冷蔵庫ではなくアストレアの方へと向いた。そしてさっきは海鳥の影ギルに向けられた怒りの眼差しが、今後はアストレアへと注がれる。だが、アルバの脅しや嫌味にすっかり慣れ切っているアストレアは、その程度の圧で屈することはない。
「だって、気になってきたんだもん。仕方ないじゃん」
 ただでさえ、アルバの寝覚めは最悪だというのに。それに彼は三日も寝ていたのだから、空腹の程度も尋常ではないだろう。しかし、悪夢となって出てきた時代の話を聞きたがるヤツが、一人と一羽ほど存在している。
 アストレアは悪意のこもった笑みを口元に湛え、クリッと大きな目をこれでもかとキラキラとさせているし。そんなアストレアに紛れて、海鳥の影ギルもアルバを凝視しているようだった――ギルの体は真っ黒な闇に包まれている故、どこに目があるのかはサッパリ分からないのだが。
 そんな二つの視線にウンザリした彼は、そいつらを突っ撥ねるように、こんなことを言った。
「カルト宗教にどっぷりハマった、白人至上主義者の集うパーティーだぞ? 大方、中身の予想は出来るだろう。お前とて、そこまでの無知ではあるまい」
「でもトイレに引きこもって吐きまくるほどのストレスって、そんなに掛かるもんなの? それも思い出して、また吐きたくなるようなストレスをさ。第一、アンタって白人じゃん。それ以外ならともかくとして……」
 この時、アストレアがなんとなく発した言葉に、アルバは非常に引っかかった様子。急に、眉間にグッと皴を寄せ始めた彼の顔に、アストレアは久々に肝が冷やされる気分を味わっていた。
 何かマズい言葉でも自分は言ったのか? ――アストレアは暫く考え込んだが、しかし彼女には思い当たる節がなかった。すると腕を組み、ムッと顔を顰めさせるアルバが重たい口を開ける。
「白人だの有色人種だの、そういった類の言葉は好きではないが。そうだな、確かに私は俗に言うところの白人だろう。ただし、卑しい生まれのな」
 ……どうやらアストレアの話し方が、そして“白人”と決めつけるような単語が、アルバにとってのNGワードのひとつ『高貴な生まれだと揶揄すること』に引っ掛かったようだ。だが、直接的にアストレアがそう揶揄したわけではなく、勝手に彼が曲解して受け取っただけのこと。
 アルバ自身もそれは理解していたようで、その不機嫌さを態度にこそ滲ませているが、理不尽な怒りを直接的にアストレアに投げつけるような真似はしない。代わりに彼は、顰め面を解いて呆れたような表情を見せると、渋々アストレアらが興味を示している話題に触れるのだった。
「あの会場に居た者たちの言葉を借りるなら、私は、そうだな……薄汚い野良犬、といったところか」
「…………」
「近所の人間が養子を迎えたという噂話に『野良犬をコミュニティの中に入れてくれるとは、その家族の正気を疑う』というコメントを添えられる人間性を持った者たちが集まる、世も末なパーティー会場だ。他にも『家の前を通りかかった中国人に生卵を投げつけてやった』だの『隣に引っ越してきた黒人の家の前に、豚の生首を吊り下げてやった』だのと、そういった話を武勇伝のように語る気違いばかりで……悲惨としか言いようがない空気感だった。まだガキだった当時の私は、あの空気に怯えることしかできなかったんだよ」
 近隣住民が迎えた養子を『野良犬』呼ばわり。ただの通行人に生卵をぶつける。引っ越してきた隣人の家の前に、豚の生首を吊り下げる。――どれもアストレアの想定を軽く上回っている話だった。
 まさしく“クズ野郎”と評するに相応しい人間が集っていたパーティーの一端を見聞きしただけで、既にアストレアはげんなりとしている。特務機関WACE時代にもアストレアは、クズ野郎をそれなりに見てきたものだが……――それらとは比にならないような狂気を、アルバの話からは感じざるを得なかったのだ。
 そのような狂気を携えた人間が大勢集まるパーティー。そう考えてみれば、確かにトイレに逃げ込みたくなる気持ちも分からなくはないと、アストレアには次第に思えてくる。
「野良犬、ねぇ……」
 そんなわけでアストレアは満足し、その呟きを最後に黙り込むが。海鳥の影ギルはまだ不満があるかのように、プリプリとお尻を振っている。そんな海鳥の影ギルの様子を見たアルバは、組んでいた腕を解きながら、面倒くさそうに続きの話を少しだけした。
「それに私は感情の抑圧は得意だが、コントロールのほうはあまり得意ではない。子供の頃は特にだ。そうして持て余した感情に呑まれた結果が、嘔吐だった。――これで満足したか、ギル?」
 アルバはそう早口に捲し立て、この話題を終えようとしたが。けれども海鳥の影ギルは、満足していない様子。相変わらず丸いお尻をプリプリと振っている海鳥の影ギルは、水かきのついた足をペタペタと動かし続けながら、アルバに詰め寄るのだった。「その続きがあるでしょう? 会場を勝手に抜け出した後、お抱えの運転手と一緒に汚いレストランに行って――」
「ギル。貴様のその羽根を毟りつくして、貴様をオーブンにぶち込み、丸焼きにしてやろうか」
 そんなギルに対してアルバは、今度ばかりは明確な拒絶を示した。脅し文句に加えて舌打ちを鳴らす彼に、ギルも遂に縮み上がる。挙句、大股で歩くアルバがキッチンへと向かい、実際にオーブンの扉を開けてみせたのだから……――流石のギルもこれには竦むしかなく、縮み上がっていた体躯を更に丸めて、小さくなっていった。
 そういうわけで海鳥の影ギルが大人しくなったのを確認すると、アルバはオーブンを開けっ放しにしたまま、冷蔵庫へと向かう。そうして冷蔵庫の中をガサゴソと漁り始めた彼の左隣に、アストレアはサッと割り込んで、開いている冷蔵庫の中に彼女も手を伸ばした。
 アストレアのお目当ては、黒い紙袋。猫たちの餌である、ハツカネズミの死骸がゴロゴロと入っている紙袋である。
「三日も寝てりゃ、腹も減ってるか」
 真っ黒な紙袋を確保しながら、アストレアは右隣のアルバにそう声を掛ける。するとアルバは“三日”という、アストレアの発した言葉に驚いたような表情を一瞬だけ見せたが、すぐにその驚きは消し、彼は返事の代わりに溜息を零すのだった。
 そしてアルバは冷蔵庫から鶏卵二つと、パストラミポークの入った陶器製の食品保管容器――予めスライスされた状態で、容器に保管されていた――を容器ごと取り出し、続いて冷凍庫から全粒粉パンのローフ――既に半分ほど消費されたようで、元の塊の半分しか残っていなかった――、それから野菜室に入っていたグリーンリーフも手に取ると、キッチンに向かっていく。食品を腕に抱えるアルバの背を、アストレアは何かを企むような笑顔を浮かべながら、追っていった――そんなアストレアの手の中には、アルバの冷蔵庫から勝手に拝借した鶏卵が一つ握られていた。
「…………」
 アストレアが遅れてキッチンに着いた時。アルバは片手鍋の中に水道水を流し入れ終えて、それを強火のコンロで煮立てているところだった。その様子から「茹で卵でも作るのだろうか」と予想したアストレアは、カチコチに固まった全粒粉パンの塊に、パン切り包丁をサクッと入れたアルバの横顔を見つめながら、猫撫で声でこう言った。
「茹で卵なら、半熟が良いな~」
 図々しいと形容する他ないアストレアの態度に対するアルバの返事は、まな板にパン切り包丁の歯がぶつかった音。ガンッという丁寧とは言い難い音が鳴っていた。だが当然、アストレアはその程度の脅しではもう動じない。アストレアは不貞腐れた子供のように唇を尖らせると、アルバに向かって捲し立てる。
「こっちはアンタの介抱を、三日もしてやってたんだよ? あと、アンタが可愛がってる猫たちの世話も見てやってたんだ。朝飯ぐらい作ってくれたっていいじゃん」
「…………」
「どケチ。クソジジィ。禿げちまえ」
 最後はただの程度の低い罵倒に終ってしまったが、アストレアの口撃は少しぐらい効いた様子。唇を尖らせたアストレアが鶏卵を差し出してみると、アルバは渋々それを受け取る。それから彼は再び全粒粉パンの塊にパン切り包丁を入れると、したり顔のアストレアをサングラスの下で睨みつつ、不機嫌そうに言い返すのだった。
「黙って固茹でを食え。注文も文句も、私は受け付けていない」


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