EQPのセオリー

08

 父親は昨晩、ガハハッと笑いながらこう言った。
『お前の豪運には感服だよ、アレクサンダー!』
『ご、豪運?』
『強運だなんて言葉で済ませられるようなレベルじゃないってことだ! そのツキの良さ、まさしく豪快! 今、本当に父さんは、お前のことが恨めしくて仕方がないぞ!! お前のその運を俺が持っていれば、俺は今頃、シャーロック・ホームズを超える偉大な探偵になっていたかもしれないというのに!』
『シャーロック・ホームズはフィクションだし、それに……』
『そして今頃、大金持ちだ!』
『えっ、あっ、お、親父?』
『母さんのハートもがっちり掴んだままで、必死こいて町中を宣伝して回らなくても依頼は次々と向こうからやってきて、それはもう……――ガーハッハ! あーひゃっひゃっ!! 想像するだけで、笑いが止まらないぞ!!』
 洞察力、推理力、観察眼、それと執念。探偵にはその四要素が必要不可欠だと、つい一昨日までは口うるさく言っていた父親だったが、昨日になってその言葉を一瞬にして撤回した。
 探偵に必要なのはたった一つ。そう、類い稀なる強運だ。
 そしてアレクサンダーよ。お前は俺の天使、いや守護女神だ!
「……運に頼りきりの探偵なんて、それこそ探偵としてどうなんだよ……」
「よぉ、アレックス」
 退院後、初めて通る朝一番の通学路にて。アレクサンダーの後ろからひょっこりと顔を出したニールは、いつものようなおどけた表情を見せていた。そんなニールを見るなり、アレクサンダーは眉間に皺を寄せる。そしてくぐもった低い声で、ぶっきらぼうに告げた。
「おはようございます、ニール・アーチャー特別捜査官」
「……おい、アレックス」
「えっと、ASI局員は捜査官とは言わないんだっけか。諜報員なら、コードネーム呼びなのか?」
「本当に悪かった。すまなかったと思ってるし、反省してる。でも事情が」
「釈明は不要だ。事情を話せば、許してもらえるとでも思ったのか? だとしたら甘いにも程があるね。それともあんたに監視を頼んだASI局員とやらは、民間人を舐めてるのかい」
 アレクサンダーはキッと鋭い眼差しで、ニールを睨みつける。その圧に恐れ慄きでもしたのか、ニールは数歩ほど後ろに下がった。「アレックス、頼むから俺の話を」
「あんたの話なんか、聞く価値も」
「最初は、単なる小遣い稼ぎだったんだ。それに、お前の監視をずっとしてたわけじゃないんだよ。始めは、ミランダ・ジェーンの学校での様子を教えてくれたら金をくれるって言ってきたから……それに」
 二、三歩ほど後ろを歩くニールは、アレクサンダーと目を合わせることなく、そんなことを言う。そんなニールの口から飛び出した言葉に、アレクサンダーは耳を疑った。「ジェーン先生が、何だって言うんだ」
「そのASI局員、ミランダ・ジェーンの弟だ。彼は自分の姉に怪しい人物が接近していないかということを、俺を利用して調べてただけなんだよ。でも、お前が急浮上してきて状況が変わって、それで……お前の監視をやらされてたんだ。だって、でないとお前が死ぬって言われたから」
「それで、その局員は誰なんだ」
「パトリック・ラーナー次長。ミランダ・ジェーンの旧姓はラーナーなんだってさ。……それに、お前は探偵の助手なんだろ。だったら調べてみればいいさ。きっとお前の親父さんならパトリック・ラーナーを知ってるだろ」
 ニールはそう言うと、ぎこちない笑顔を浮かべながらアレクサンダーの肩にぱすっと手を置く。けれどもアレクサンダーは、そんなニールの手を振り払った。けれどもニールは挫けず、再度アレクサンダーの肩に手を置き、今度は離されないようにと掴んだ。
「……頼む。信じてくれ、アレックス。別に、お前を売ったわけじゃ」
「人を欺いておきながら、今度は信じろって? どの口が言ってるんだか……」
 アレクサンダーは、自分の肩に置かれたニールの手を強引に引き剥がすと、ニールに背を向けバス停へ向かう。その道の途中で、アレクサンダーは試しにユンの主治医から教わった電話番号に掛けてみたが、結果は繋がらなかった。プルルル、プルルル……という呼び出し音のあとに、合成音声のオペレーターの声だけが聞こえてくる。
『おかけになった電話番号は現在使われていないか、電波の……――』





 下校したアレクサンダーは、まっすぐに家には帰らず、代わりにコルト探偵事務所へと立ち寄る。この日はアレクサンダーが病院で受け取った封筒を、依頼主であり宛先であるエリーヌに手渡す約束をしていたのだ。
「それでさ、親父。あの封筒の中身は何だったんだ?」
「さぁな、分からん。危険物ではないことと、十センチぐらいのスティック状をした機械、というのは分かったんだが……」
「封筒は開けてないのか?」
「当り前だろう、開けていないに決まっている。もし仮に、依頼主のプライバシーに関わるようなものが入っていれば、訴えられるかもしれないんだ」
「でも、中身が分からないものを渡すのって……」
「渡した上で、開けるかどうかの判断を依頼主に任せる。それが探偵の仕事だ。調査対象のプライバシーにはずけずけと踏み込むが、依頼主のプライバシーには触れないよう細心の注意を払うものなんだよ」
 それにしても、不思議な夢を見た。アレクサンダーは父親と喋りながらも、昨晩に見た奇怪な明晰夢を思い出していた。
 夢には、人語を喋るドラゴンが出てきたのだ。それはトカゲのような蒼い鱗にヘビのような黄色い目、そしてコウモリのような形の大きな翼をもった巨大なドラゴンで、自分はカリスであると名乗っていた。
 カリスと名乗ったドラゴンは、こう言った。自分はペルモンド・バルロッツィという男と運命を共にした神で、同時に大地の守護者である、と。そしてこうも言った。ペルモンドの言うことに従え。メモリーをやつの娘に渡した後、お主ら親子はすぐに手を引くように、と。
 夢の中でアレクサンダーは、カリスに疑問を投げかけていた。どうして自分たち親子の一挙手一投足がそんなに気になるのか。もっと危険な奴らは、他に大勢いるだろう、と。だがカリスは即答した。お前達が一番危険なのだ。暴いてはならぬ真実に一番近しい存在であり、且つその真実の封印を今にも解かんとしている、と。
 カリスというドラゴンが言うには、その真実とやらは誰も救わないものであるらしい。それどころか、特定のある人物はひどく傷つくことになる、とても鋭い凶刃である、と。だからペルモンド・バルロッツィを始め、多くの者たちがその封印を守ろうとしている。中には己の身を賭してまで、守ろうとしている者も居る、と。
 だがアレクサンダーには、よく分からない話だった。だってアレクサンダーはただ我武者羅に、何も考えずにとにかく動き回っていただけだ。何か明確に「これだ!」というものを探しているというわけではなく、全ては成り行きで、アレクサンダーの意思ではなかった。
 一体、何をどうすればいいってのさ。アレクサンダーはカリスにそう問いかけたが、返ってきた言葉はこれだけ。

 その歩みを止めねば、お主は大事なものを全て失うことになるぞ。
 何もかも、友も家族も、人生も、その全てを。

「……そういえばさ、親父。ASIに居るっていう、ラーナー次長って人を知ってるか?」
 ふとアレクサンダーは父親に、そんなことを訊く。すると父親は、驚いたように目を大きく開け、アレクサンダーを凝視した。「なんでまた、そんなことを聞くんだ?」
「あの、まあ、ちょっと……」
「もしやこの封筒、あの男から受け取ったのか?」
「え? いや、あの男が誰なのか知らないから、なんとも……」
 ASI局員、ラーナー次長。それは今朝、ニールから聞いた名前だ。ニールにアレクサンダーの監視をニールに命じた人物だというらしい。
 ニールは、アレクサンダーの父親ならラーナー次長という人物を知っているだろうと言っていた。そして父親の反応から察するに、どうやらその人物を知っているようである。すると父親はアレクサンダーに問うてくる。「アレクサンダー、思い出してくれ。その、お前にぶつかってきた男の身長はどれくらいだった?」
「身長? それなら一七五センチくらいだったような気がする」
「そうか、なら違うな。ラーナーじゃない」
 親父、即答しやがった。
「そのラーナー次長とやらは十中八九、パトリック・ラーナーのことだろう。歳は三十代も後半なはずなんだが、随分と若く見える奴でな。いや、四〇だったか? まあ、とにかくチビで、一見可愛らしい顔をしているんだがな。だが世間擦れした危険人物でなぁ。手段を選ばない最低な野郎で……うーむ……」
「へぇ……。なんでまた、そんなに詳しいんだ?」
「何を言ってるんだ、アレクサンダー。お父さんは探偵だぞ。それにペルモンド・バルロッツィ周りの人物の情報は、最低限押さえてあるさ。誰が今どこで、どんなことをしているのか。それが把握できていれば、接触を避けられるからな。まあー、肝心のペルモンド・バルロッツィの足取りは全く掴めないのだが。いつ、どこで出会うのか。それがサッパリ予測出来ない。まさに神出鬼没だよ」
 父親は淹れたてのブラックコーヒーを一口だけ啜ると「あつっ」と小声で呟く。その横で話を聞いていたアレクサンダーは、ハッとあることに気付く。
 ペルモンド・バルロッツィの周りの人物。父は今、そう言った。「そのラーナー次長って人も、高位技師官僚まわりの人間なのか……?」
「ああ。ASI局員の中で、それと表の世界に出て活動する人物の中では、一番近い人物なんじゃないか。まぁ、ラーナーが一方的にこき使われているとも言うが」
 父親は湯気をもくもくと上げるコーヒーに、ふぅふぅと息を吹きかける。舞い上がる白い湯気をアレクサンダーが無心で観察していると、コルト探偵事務所の扉がコンコンッと叩かれた。
「どうぞー、お入りください」
 コーヒーカップを手近な場所にあった机の上に置くと、父親は扉のほうへ行き、扉を開けた。
 やってきたのは、大きな鞄を抱えたエリーヌひとりだけ。ご主人は一緒ではないのですか。父親はエリーヌに対してそう訊くが、彼女は苦笑いを浮かべてはぐらかした。
「申し訳ありません。あの人、仕事が忙しいみたいで」
「ああ、そうでしたか」
「……彼、今まで真実を探し求めていたのに、いざ目の前にそれが現れたってなった瞬間、怖気づいたみたいで。自分で見る前に私に確認してほしいって。変な人ですよね、本当に」
 (もっと)もらしい理由を言うエリーヌだが、そう言う彼女の顔には「今、自分は嘘を吐いている」という心の声が透けて見えていた。
 だが、父親もアレクサンダーもそれに気付かぬふりをして、話を続ける。「ああ、その。それとは今回、別件でございまして」
「ビデオが手に入ったわけではないんですか?」
「いやぁ、その確認も出来てないんですが。あなたに渡すようにと、そこのアレクサンダーが受け取ったものがありましてね」
 父親はエリーヌにそう伝える。父親はエリーヌが驚くことを想像していたのだが、しかしエリーヌの反応は意外なものだった。
「ええ。そこのアレクサンダーちゃんに、あの日の監視カメラの映像を入れたUSBを封筒に入れて渡したから受け取ってくれと、ラーナーさんから連絡がありまして。……それではないのですか?」
 エリーヌは驚く様子を見せずに持っていた鞄を机の上に置くと、その中から一台のラップトップコンピューターを取り出した。――そしてエリーヌの言葉を聞いた父親は、アレクサンダーを問い詰める。「おい、アレクサンダー。お前、本当はラーナーから受け取ったんじゃないのか」
「だから、言っただろ。アタシにぶつかってきた男は、アタシとどっこいどっこいぐらいの身長だったって」
「ラーナーの身長は、一四八センチだ。本当はそれぐらいチビじゃ」
「ちーがーうー! だーから、一七五センチ前後だって言ってんだろ!」
「服装は?」
「服は全身、真っ黒だったよ。黒の中折れ帽、Yシャツに黒のネクタイ、脹脛までの長さがある黒のトレンチコート。それにスラックスも黒で、けど革靴だけは白だった」
「ふぅん、そうか。髪型は?」
「帽子が邪魔でよく見えなかったよ。けど、眉に前髪がかかるぐらいの長さだった気が? あとボサボサというか、くせ毛ぎみっつーか……。あぁ、あと不精髭を生やしてたかな」
「体型はどうだったか? 太ってた、痩せてた?」
「痩せてたほうだと思う。頬骨がげっそり。けど、体は筋肉質だったかな」
「目の色は? 眼鏡は?」
「黒縁眼鏡を掛けてた。んで、たしか目は……」
「くすんだブルー、じゃないかしら。それで鼻は鷲鼻。垂れ目でツリ眉。あと眼鏡は、スクエア型で黒縁よね」
 父娘のやり取りに割って入ると、エリーヌはそう言った。そう言いながら彼女が取り出したラップトップコンピューターは旧時代的なもので、現在主流である極薄のものとは違い、五㎝ほどの厚みがあった。サイドには何かを挿し込むハブが設けられており、エリーヌはそのハブのうちの一つを指差す。そして彼女はラップトップコンピューターを起動すると、くすっと笑った。
「封筒を開けてくださいますか、ダグラスさん。その中身はきっと、ただの記録媒体ですわ」
「ああ、はい。了解しました……」
 父は封筒の封印を慎重に解くと、中から赤いスティックのような装置を取り出す。そうして取り出したものを、エリーヌに渡した。するとエリーヌは、また笑う。
「やっぱり、これだったのね」
 エリーヌは受け取ったものを、ラップトップコンピューターの空洞に挿入する。それから彼女はラップトップコンピューターを操作し始めた。
 その横で、アレクサンダーは不思議そうに赤いスティックを見つめる。アレクサンダーにとってそれは初めて見る機械であった。「あの、その赤いのって……」
「ああ、これ? USBフラッシュドライブっていう古い装置よ。二〇〇〇年代に使われた遺物ってとこね。こうしてコンピュータのUSBポートに挿し込んで使う、補助のストレージよ」
「USBポート……?」
「そもそもUSBっていうもの自体が、大昔のものだから。……このコンピュータ自体、すごく古いものを父が修理して、どうにか使えるようにしたものだし。それにこのUSBも、父のもの。大昔、私がまだ子供だった頃にね。父みたいな物好きが集まるマーケットに一緒に行った時、買ったものよ。私がこの赤色を気に入って、父がこれを買ったの。……懐かしいわ」
 機械を操作しながら、エリーヌはそんな昔話をする。そんな彼女の目には、涙が滲んでいるように見えた。
 そこで父親は何かを察したのか、エリーヌではなくアレクサンダーをじっと見る。父親はアレクサンダーの頬を抓ったあと、アレクサンダーの頭をバチンッと叩いた。そして、怒鳴る。「アレクサンダー、お前はなんてことを黙ってたんだ!」
「へぁっ?!」
「お前が病院で会ったのは、ペルモンド・バルロッツィ本人だ!!」
「はぁ!? えっ、あっ……――うっ、嘘だろ?!」
「ダグラスさん、そう怒鳴らないであげて。きっと本人が接触してきたってことは、彼女に気付かれないっていう確信があったからよ。それに白衣を着ていなければ、誰もあのひとがペルモンド・バルロッツィだなんて気付けないわ」
 エリーヌはパタンとラップトップコンピューターを閉じると、鞄の中にそれを仕舞い、USBフラッシュデバイスを封筒の中に戻す。そして封筒の外側に書かれた文字を、愛おしそうに指でなぞった。
「……この、時間が無くて書き殴ったような乱雑な文字。間違いなく、父の直筆。それと、映像は本物でしたわ。ありがとう、アレクサンダーちゃん」
 エリーヌはハンカチで涙を拭うと、アレクサンダーの手を握った。優しく、包むように握るエリーヌの手は冷たく、ぷるぷると震えている。
 アレクサンダーはエリーヌの手をぶっきらぼうに振り解くと、代わりに彼女の肩を抱き寄せ、優しくハグをした。
「……ごめんなさいね。ダグラスさんにも、アレクサンダーちゃんにも、ご迷惑をお掛けしちゃって」
「そんなことは」
「本物の映像は、アルストグランにありました。それに、まさかデータが手に入るなんて。予想もしていませんでしたわ。……お金は後日、口座に。本当に、本当にありがとうございました」
「ああ、エリーヌさん。その、料金についてなのですが……――」
 父親は気拙そうな表情を浮かべて、ちらちらとアレクサンダーを見やる。
「……なんだか、嫌な予感しかしねぇなぁ……」
 アレクサンダーはそんなことを呟く。そして彼女の予感は、見事的中することになるのだった。


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