EQPのセオリー

12

「おぉ、アレクサンダーくん。来ていたのか」
 学校も休日であればバイトの予定もない、暇すぎる日曜日。アレクサンダーは、一週間以上が経過してもなお未だ眠ったままのユンの病室を訪れていた。
 そんなアレクサンダーに声を掛けてきたのは、先日ユンの主治医と言い争っていたあの精神科医。彼は白衣の袖をまくると、アレクサンダーの左隣に立ち、真っ白な眠り姫の寝顔を覗きこんだ。それから彼は言う。
「噂には聞いていたが、よく出来た人形のようにも思える子だな……」
 表情を強張らせるアレクサンダーを横目に、精神科医の男は複雑な表情を浮かべる。そして彼はユンから視線を逸らすと、アレクサンダーのほうに向きなおった。それから精神科医の男は自己紹介を始める。
「そういえば、まだ名乗っていなかったね。私はここの精神科医長、カルロ・サントスだ。よろしく、アレクサンダー・コルトくん。君のあれこれについては、友人のラーナーから色々と聞いているよ」
「……ら、ラーナー?」
「パトリック・ラーナーだ。あいつは大学の同窓生でね。奴は優秀なものが揃う法学部のなかでも、下克上で天辺にのし上がったエリートだったんだが……なにを血迷ったのかエリート街道を外れて、探偵兼記者なんていう仕事をやっている。君のお父さんとは、バルロッツィ高位技師官僚の事件を共に追いかけている仲だそうじゃないか」
 色々と突っ込みたくなる個所が多い話だが、アレクサンダーは敢えて間違いを聞き流し、目尻をぴくぴくと痙攣させながら引き攣った苦笑いを浮かべる。握りしめた手には、気持ちの悪い汗を握っていた。
 ――この人が、パトリック・ラーナーの友人だって? じゃあ、ユンの騒ぎの中で偶然知り合ったんじゃなくて、あれは出会うように仕組まれていたってことか?
「どうしたのかね、アレクサンダーくん。顔色が悪いが。……もしや、ラーナーが何か粗相でも?」
「あっ、ああ、いえ、その……」
 言葉を濁すアレクサンダーの頭の中、そこでは無数の疑問が次々と浮かび上がっていた。
「なるほど。ラーナーは何かをやったんだな?」
 ――このカルロ・サントスという精神科医はなんか怪しい。本当に彼は、ただの精神科医なのか。というか、そもそもパトリック・ラーナーっていうのは何者なんだ?
 ひとつの疑問が新たな違和感を呼び起こし、新たな疑問を生み出していく。その連鎖が、十数秒にも満たないような短時間のうちに何度も繰り返された。
 そして疑問は、不信感を募らせる。アレクサンダーは困惑したような気拙い笑みを取り繕い、訝る気持ちを悟られないように振舞った。
「……いえ、アタシは別に何かをされたというわけじゃあないんですが。彼のことはちょっと、苦手ですね。食えない人ですから」
「まあ、分からなくもない。奴とは長い付き合いになる私とて、あれの高慢ちきな態度と辛辣な言葉には呆れているくらいだ。付き合いの浅い人間の目から見たとき、あの男がどう映るのかくらい精神科医でなくとも察しがつく。だがなぁ」
「……」
「あれは、息を吸うように嘘を吐ける男だ。面白いくらいにな。つまり、本音のように聞こえる辛辣な言葉も、実は嘘であることが大半なのだよ。実際はヤツなりの謝辞であったり、心遣いだったりするのだ」
「二律背反みたいなことを言いますね……」
 ――もしかしてこの精神科医、本当にただの精神科医だったのか?
「二律背反、か。……パトリック・ラーナーという男を言い表すにふさわしいのは、その言葉かもしれんな」
「……つまり、彼の口から飛び出るほぼ全ての言葉が嘘である、と」
「そういうことだ。それにひん曲がっているように見える性根も、案外まっすぐだったりする。君が思っているほど、ヤツは人間のクズじゃぁないさ」
「信じられません、そんな話。だって、あの人は」
 アレクサンダーは悪意ある言葉を言いかけそうになったが、すぐに言葉を引っ込めた。精神科医の言葉に思うところがあったからだ。
 すると、意味深な微笑みを浮かべる精神科医はこんなことを言う。
「人間というのは、一面だけで出来ているわけじゃぁない。場面に応じて使い分けられる、幾つもの顔という名の、心に着せる服を持っているからだ。服装を時や場所、目的で使い分けるように、人間は様々なものをその場に応じて変化させる。言葉遣い、下着の色、化粧なども、TPOに応じて使い分けるだろう? それは顔も同じで、誰もが自然に行うものだ。それに解離という症状を起こした患者を見た君なら、よく分かっているはずだ。顔というものは時として、素の姿を微塵も感じさせないような、全くの別人格に変化し得るということを」
「……」
「だからこそ、ひとつの顔だけを見て、その人物の全てを推し量ろうとするのは危険なことだ。ゆえに、その人物が持つ顔を全て知らねばならない。それが精神科医の主な仕事だ。探偵というのも、似たようなものだろう?」
 まず、アレクサンダーには『パトリック・ラーナーという男はクソ野郎だ』という刷り込まれた先入観があった。アレクサンダーの父親がそう言っていたから、アレクサンダー自身もそう思ってしまっていたわけだ。
 それにあの男はとにかく口が悪く、実際に会ってみてからの印象も最悪だった。最悪な第一印象は先入観を助長させ、見事に『最低最悪のクソ野郎』認定をしてしまっていた。
 けれども、冷静に考えてみればニールへのあの処置は、適切な対応だった。寧ろ、優しすぎるくらいだ。もし仮に、パトリック・ラーナーが言っていた「そもそも君が私の任務を妨害してまで接触なんか図ってこなかったら」という台詞が本当のことなのであれば、ニールは危険にさらされたまま放置されていたとしても文句は言えない立場である。だって彼は、それだけの馬鹿な真似をしたのだから。
 そう考えてみると……――あながち、この精神科医が言っていることは間違いでもないのかもしれない。アレクサンダーにはそう思えた。「たしかに、アタシはパトリック・ラーナーっていう男のことを誤解してるのかもしれない……」
「誤解しているのかもしれない。そういった気付きはとても重要なことだ」
 精神科医の男は満足げに微笑む。それから彼はアレクサンダーの肩に手を置くと、アレクサンダーを勧誘してきた。「君の気があるならばの話だが。精神科に興味は?」
「……えっ?」
「というより、本当のことを言うと……――人手不足でな。認知症を扱うフロアが特に手薄で困っているんだ。そういうわけで、ごみの回収や食事介助をするスタッフを募集しているんだが。休日だけでも構わない。どうかな、興味はないか?」
 とはいえ、全ては君次第だ。精神科医の男は最後にそれだけを言うと、アレクサンダーに名刺を渡して、ユンの病室から去って行った。
 そしてアレクサンダーは渡された名刺をじっと見つめながら、黙り込む。彼女の心は静かに、だが大きく揺さぶられていた。





 翌朝。月曜日を迎え、また退屈な一週間が始まったと嘆く学生たちを横目に、アレクサンダーは通学用のバスに一人で乗り込む。
 ニールは入院中で居なければ、ユニの姿も見当たらず、これといって話すような知り合いも見当たらない車中。アレクサンダーは久しぶりに、静かな朝を過ごしていた。
 ……と、アレクサンダーは思っていたのだが。
「アレックス。アンタにひとつ、言っておきたいことがある」
 アレクサンダーは名前を呼ばれたような気がして、声が聞こえてきたほう――つまり背後――をちらりと見やる。そこに立っていたのはチャラチャラとした見た目の、染色ブロンドの女。彼女はユンをこっぴどくいじめていたチアリーダー部所属の女子生徒だった。
 しかし、朝から面倒に巻き込まれたくない。そう考えるアレクサンダーは、女子生徒を軽くあしらった。「……何の用だい。アタシゃ朝から喧嘩を買うつもりはないよ」
「私も同じ。朝っぱらから喧嘩を売るつもりはない」
 学生でぎゅうぎゅう詰めになっている車内。チアリーダー部の女子生徒は周りにいる者たちを押しのけ進むと、そう言ってアレクサンダーの真横に並ぶ。そしてアレクサンダーを睨むように見ながら、彼女は言った。
「アレックス、アンタさ。最近、ユンに肩入れしてるでしょ」
 そう言いながら彼女は、アレクサンダーの左肩を右手でぎゅっと力強く掴む。握り方や力の強さはまるで、パラシュートなしで崖から飛び降りようとしているバカを、言葉なくして引き留めようとしている者のようだった。
 アレクサンダーは掴んできた手を強引に引き剥がすと、彼女が抱えている大きな鞄の中をちらりと覗き込む。すぐに鞄の中から取り出せるよう、一番上に積まれていた学生証。そこに書かれていた名前を、アレクサンダーは一瞬にして読み取る。
 名前はアビゲイル・イェドリン。性別は女。生年月日はー……奇遇だ、アレクサンダーと同じ獅子座の生まれである。
「……別に、そんなんじゃねぇさ。仮にそうだとしてもだ。アビゲイル、あんたに関係があるのか?」
 アレクサンダーはそう言うと彼女から視線を逸らし、バスの窓から見える外の景色を、緑色の瞳で追いかける。その後ろでチアリーダー部の女子生徒のほうは、アレクサンダーを怪しんでいるかのような顔をしながら、こう言った。「あるよ。だから忠告しておく。アイツに深入りしないほうがいい。それと、姉のユニのほうにも」
「……はぁーっ。なんでどいつもこいつも、口を揃えて同じことばかりを言うんだか……」
 ユン、ユニ。あの姉妹に関わるな。そんなフレーズを、アレクサンダーは近頃よく耳にしているような気がしていた。
『ユンとユニという双子には特に近付かせるな。……でないとお前の娘は、闇に喰われるぞ』
 そう言っていたのは、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚だ。どういう意図があって、彼がそんなことを言ったのか。そればかりはアレクサンダーに分かるはずもない。
 ただ、そのときだけ低く単調になった高位技師官僚の声色はよく覚えているし、それが表す意味だけはアレクサンダーも理解していた。アレクサンダーの身を案じているかどうかは分からないが、少なくとも彼は真剣にそう言っていたのだ。
 それに、以来アレクサンダーの父親は口を酸っぱくしてこう言うようになった。
 ――事情は分からんが、高位技師官僚がああ言っていたんだ。あの姉妹と、お前は距離を置くべきなんだよ。
 けれども、他者から「あの子とは距離を置いたほうがいい」と言われたからといって、黙って従えるほどアレクサンダーは素直ではなかった。それに、それまで親しく接していたはずの人間から理由もなく唐突に離れるという無神経な行為がアレクサンダーには出来なかったのだ。
「ユン・エルトル。アイツがどんな病気かは、私だって十分理解してるつもり。これでも昔は、お互いに親友って呼び合うくらいに仲良かったんだ」
 チアリーダー部の女子生徒は、そんなことをアレクサンダーに打ち明ける。親友だったと言う彼女の言葉を、しかしアレクサンダーは素直に信じたわけではなかった。「そうか、親友だったのかい。なら、なぜあんな真似をするんだい?」
「単純な話。アイツのことが大嫌いだから」
 あまりにも直球な言葉に、アレクサンダーは軽蔑の目をチアリーダー部の女子生徒に向けてしまう。「大嫌いだから? だったら、集団リンチをしても構わないってのかい?」
「……自分が何をしたのか、それは反省してるし、後悔してる。もうやらない」
「絶対だな?」
「当り前だよ」
「それを、ユンにも言うべきじゃないのか」
「それは、嫌だ」
「嫌も何も、謝るべきだ。自分が何をしたのか分かってンなら……」
「アイツの顔はもう見たくないんだ。もう二度と、あんな目に遭いたくないから」
「あんな目にって、どんな目さ? あんたがユンにしたこと以上に、自分はユンに酷いことをされたとでも言いたいのかい」
 依然軽蔑の目を向けてくるアレクサンダーに、チアリーダー部の女子生徒はいらだった様子をみせる。女子生徒は立ちながら貧乏ゆすりをするように、脚を頻りに揺らしていた。そして察しの悪いアレクサンダーのことを彼女は睨みながら、彼女が経験した『酷いこと』をアレクサンダーに教えるのだった。
「去年の話だよ。アイツの病院に、百合の花を持ってお見舞いに行ったとき。あの独房みたいな病室に入って、いつもどおり眠ってるアイツの顔を見てから、花瓶の花を差し替えたんだ。そしたらアイツ、急に目覚めて、悲鳴を上げて……」
「別人格に変わってて、状況が理解出来なかったんだろう」
「ああ、そうだよ。アンタの言う通りだった。ああいうのを別人格って言うんだろうね」
 そう言うと、アビゲイルは溜息を吐いた。彼女は染色ブロンドの痛んだ髪を掻きあげると、今度は苛立ったように舌打ちをする。
 それから彼女はあの時に起こった出来事を、刺々しい口調で語り始めた。「アイツ、私に襲いかかって来たんだ。花瓶から差し替えたばかりの百合を抜いて、床に捨てて、花瓶は私に投げつけてきた。殺されるかと思ったんだ」
「…………」
「それから騒ぎを聞き付けた医者が来るまでずっと、アイツは私に酷い言葉を言ってきた。私が悪魔だとか、死ねだとか、近寄るなとか」
「あんたも同じ言葉をユンにぶつけてただろ? おあいこじゃないのか」
「そのうえ、私は殴られたんだ! やめろっつっても聞かなくて、しつこく何度も何度も、馬乗りの状態で顔を殴られ続けたんだ。私はそこまでのことはやってない!」
 急に声を荒らげた女子生徒に対して、窮屈なバスの中はざわめきを見せる。視線は女子生徒に集中し、彼女は居辛さを感じたのか、また誰に向けられているのかも分からない舌打ちをする。彼女の顔は青ざめ、握りしめられていた拳はぷるぷると震えていた。
 けれどもアレクサンダーは窓の外を流れゆく景色を見つめるだけで、何もしない。もとより、アレクサンダーにしてやれることなど何もなかった。
「……だから、もう二度とアイツの顔を見たくないんだよ。アイツが学校に来ることが、平然と私の前に現れてくることが許せないんだ。あのときのことを覚えてないって言い張って、今でも友人ヅラしてくるアイツが、憎くて憎くて仕方無いんだよ」
 女子生徒は声を静め、呟くようにそう言うと、またアレクサンダーの肩を掴んでくる。
「それにアイツが、私じゃない新しい人間を捕まえて、私と同じ目に遭わせようとしていることも、同じぐらい許せないんだ。だから、アイツに深入りするなって、そう言ってんだよ……」
「……」
「アイツは、アイツこそ悪魔なんだ。魔性みたいな性格で人を引き寄せて、人の良心を食い潰すんだよ。それにアイツの双子の姉だっていうユニも、変な奴なんだ。だから、あの双子には」
「あんたとアタシは、違う」
 アレクサンダーの肩を掴む女子生徒の力は、次第に強くなっていく。だがアレクサンダーはそれを更に上回る力で、彼女の手を自分の肩から引き剥がした。
 それからアレクサンダーは後ろにちらりと向き、女子生徒を睨む。そして皮肉を吐き捨てた。
「そんなにユンが憎いならさ。アビゲイル、あんたがここを去ればいいじゃないか。そうすればあの子だって、あんたの前に現れなくなる。あんたも、あの子の顔を見なくて済むようになる。そうだろ?」
「そ、それは……!」
「それに、アタシもあんたの顔を出来れば見たくないんだ。アタシの前に、もう二度と現れないでもらえるか?」
 染色ブロンドの髪が揺れ、けばけばしい化粧が施された顔は引き攣り、怒りや憎しみを超えた感情――嫌悪や、恐怖に近しいもの――に歪む。それと同時はバスは一際大きく揺れると、学校前のバス停に停車した。
 アレクサンダーは人を掻き分け、我先にと降りていく。その様子を、バス車内の監視カメラを通じて、別の場所から観察していた一人の男は、呆れたようなに溜息を零していた。


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