アンセム・フォー・
ラムズ

ep.03 - Better late than never

 翌朝。自宅のキッチンに立ち、妻と娘と自分の三人分の朝食を作りながらニールは、妻シンシアと娘スカイから向けられる冷たい視線を、背中で感じていた。
「……うん。まだ、パパからにおいがする」
「……最高に、クサい。どうなってるのよ? 加齢臭?」
「……ママ。加齢臭とあのニオイは別物だよ。パパからしてるのは、ゴミ捨て場みたいなニオイ」
 ニールの悪臭の原因は、昨日彼が会った人間と、彼が行った場所にあった。人間は、アレクサンドラ・コールドウェルと検視官バーニー。場所は検視官バーニーが管理する、連邦捜査局シドニー支局の遺体安置所(モルグ)兼解剖室だ。
 某有名人の遺体を、シドニー支局地下のモルグに運び込んだあと。解剖に立ち会うと行ったっきり、アレクサンドラ・コールドウェルはなかなか地上のオフィスに戻ってこなかったのだ。だから心配したニールは地下に出向き、解剖の様子を見に行ったのだが。
「シンシア、スカイ! ひそひそ話はパパに全部、筒抜けだぞ!」
「だってパパ、クサいんだもん! 昨日、夜に二回もシャワーを浴びて、今朝も浴びてたのに。なんで?」
「それは全部、パパの仕事のせいだ! 死人のことを悪く言いたくないけど、ありゃ最高にヒドかった。内臓が真っ黒で、どっろどろのベッドベドで、解剖室のあるフロアがもう悪臭に満ちてて。検視官がガスマスクしていたぐらいの、ひどい悪臭だった。お陰で、解剖室に行ったパパの髪の毛やら服やら何やらにも、あのニオイがこびりついて、取れなくて……」
 ニールが解剖室のドアを開けてみたその瞬間。ニールの鼻腔を、爆弾のような破壊力を持つ強烈な悪臭が襲い、意識が一瞬だけ真っ白になりかけたのだ。そして慌ててニールが鼻をつまむと、彼の目に飛び込んできたのは防護服とガスマスクを身に着けた二人組と、解剖台に載せられた遺体。するとガスマスクの一人――アレクサンドラ・コールドウェル――が、ニールにこう言ってきたのだ。
『あぁ、ニール。アンタ、馬鹿なことしたね。そのスーツ、ゴミ箱行きが決定だ』
 そしてガスマスクのもう一人――検視官バーンハード・“バーニー”・ヴィンソン――も、ニールに脅すような口調でこう言ってきた。
『もう手遅れかもしれないけど、クーパー特別捜査官。隣のモルグに防護服とガスマスクがあるから、それを着てきなさい。ここで検死解剖に立ち会うなら、だけど。立ち会わないなら、今すぐ新品の服を買って、シャワーを浴びてきなさい。今すぐによ』
 そしてニールは、シャワーを浴びて新品のジャージに着替えることにした。だが、それでも。髪や皮膚にしみついてしまったニオイは落とすことが出来なかったのだ。香水等でごまかすこともできなかった。
「どうにかしてよ、ニール。私、耐えられないわ」
「どうにかしたいのは俺も同じだよ、シンシア。だが検視官が三日ぐらいは無理だ、諦めるしかないって言ってたんだ」
「じゃあ、どうすることもできないね。ならパパのニオイが落ちるまで、パパは隔離ってことで」
「スカイ、それ冗談だろ?」
「冗談じゃないよ。本気だよ」
 今日も、妻と娘からの風当たりは強い。それでもニールは目に涙を浮かべながら、パンケーキを焼き続けるのだった。





「毎回見るたびに思うけど、量子コンピュータってこの二〇〇年ぐらいで随分と小さくなったわよねぇ。おばあちゃんが若かったころなんて、巨大な地下施設に巨大な装置があって、レーザー光線みたいなのが飛び交っていて、それが量子コンピュータだったのに。今じゃ、その量子コンピュータが縦一五〇センチメートルぐらいの黒い箱の中に収まってるんですもの。テクノロジーって、怖いものだわぁ……」
「マダム。それも、もう五〇年ぐらい前の話ですよ。今はもっと小さくなってます」
「うそ。本当に? あら、やだわ。時間の流れが速すぎる……」
 一方、その頃。父親を連れてムアバンクを後にし、シドニー支局へと向かう道すがらで、父親をシドニー市内のホームレス自立支援施設に下ろしたコールドウェルは、市道を走る車内で溜息を零していた。そんなコールドウェルが座る運転席の横、助手席には、マダム・モーガンの姿があった。
「それよりも。マダム・モーガン、いきなり現れないでくれますか。運転中は、本当に。心臓に悪い」
 ちらりと一瞬だけ、助手席に座るマダム・モーガンを見やったコールドウェルは、そんな小言を漏らす。しかしマダム・モーガンは、不敵な笑みを浮かべていた。そんな彼女には、反省している様子がない。
「これくらいのことでイチイチ驚いていたら、この先やっていけないわよ。コルトちゃん」
「……あー、マダム。そのコルトっていう名前で呼ぶのは、止めてもらっていいですかね。コールドウェルでお願いします。それか名前の短縮形であるアレックスで」
「んー、どうして? アーサーはあなたのことを、コルトって呼んでいるじゃない。私はダメで、彼はオーケーなの?」
「アーサーは、いくら言っても変えてくれないんですよ。あのオヤジの性格の悪さ、マダムもご存知でしょう?」
「ええ、知ってる。彼、性格が腐りきっているものね」
「ええ、そうです」
「それでと。あなたのことを今度から、コールドウェルかアレックスと呼ぶことにするから。はい、どうぞ。運転に集中してください。安全運転第一。ハイヨー、シルバー」
 運転に集中しろと言いながら、集中させるような気のないことをマダム・モーガンは言う。コールドウェルからすれば、意味の分からない言葉をよく口走るマダム・モーガンという存在は、少し疎ましくもあり、同時にサー・アーサーよりも恐ろしいと感じられていた。
「なんですか。“ハイヨー、シルバー”って」
「おばあちゃんの時代のギャグだから、聞き流して。ほらアレックス、運転に集中!」
 基本的には朗らかでフレンドリーな人柄でありながらも、時としてアーサーよりも深い闇を垣間見せてきたり、歴戦の猛者らしい凄みを利かせてくるマダム・モーガン。彼女に逆らえるものは特務機関WACEには誰も居らず、あのアーサーすらも彼女には頭を下げるほどだ。となればヒラの隊員であるコールドウェルが、彼女に逆らえるはずもない。
 つまり、そんな彼女がシドニー支局に行くというのであれば、嫌でもコールドウェルはマダム・モーガンを連れて行くしかないのだ。……たとえ、マダム・モーガンが瞬間移動できる死神だとしても。彼女がこの車に乗って、コールドウェルと一緒に支局に行きたいと言うのであれば、コールドウェルはそれに従うしかないのだ。
「……それで、話は戻しますけど。マダムはどうしてまた、シドニー支局に行きたいんですか? 連邦捜査局に用があるなら、キャンベラの本部局に行ったほうが何かとスムーズに進むと思うのですが」
 マダム・モーガンがこの車内に現れたのは、コールドウェルの父親が車から降りたそのタイミングだった。その瞬間を狙っていたかのように、入れ違いで彼女はコールドウェルの横に現れたのだ。そしてマダム・モーガンは開口一番に、コールドウェルに向かってこう言ってきた。私もシドニー支局に用があるから連れて行ってくれ、と。
 コールドウェルは断ることをしなかった。しかし、良いですよと頷いたわけでもない。だが、マダム・モーガンが支局に行くというのはもう決定事項。彼女がこうしてコールドウェルの前に姿を現したことで、撤回は不可能となったのだ。
「ちょっとね。シドニー支局に用があるのよ」
「ちょっと、じゃ分からないですよ。連れて行く以上、説明してもらわないと」
 そしてコールドウェルは、マダム・モーガンの目的におおよその見当をつけていた。たぶん、あの男の遺体の回収だろうと。無断か、または強制的にか。とにかく、なんらかの形で引き揚げさせるに違いないと、そうコールドウェルは考えていた。
 しかし、それには問題がある。
 まず遺体を引き揚げさせることをアーサーが望まない。そもそも連邦捜査局に遺体を回せと言ったのは、アーサーである。アーサーは連邦捜査局に彼の死因を解明させるついでに、あの遺体を連邦捜査局側で焼却処分させる腹積もりでいるのだから。
 そうなれば、WACE側が費用を負担することもなくなる。そして公的な記録が残れば、不死身男というひとつの都市伝説に幕が下り、興味本位で真相を探る者の数がうんと減る。それで面倒ごとが減れば、万事オーライ。血が流れることもなくなり、誰にとっても望ましい結末を迎えることが出来るのだ。
 だが、マダム・モーガンはそれを台無しにしようとしているのでは? コールドウェルにはそう思えて仕方なかったのだ。
「あらぁ? 私、アレックスは呑み込みの良い優秀な隊員だと聞いていたんだけど。その評判、間違いだったのかしら?」
 しかし。とぼけてみせるマダム・モーガンの横顔からは何も探れない。コールドウェルは答えの得られない状況に燻ぶっていた。
「はぁ……――マダム。アタシにとってシドニー支局は、特務機関WACEよりも大事な場所なんだ。だからこそ身内に荒らされたくないんだよ。ノエミ・セディージョの二の舞なんかアタシは見たくないんだ」
「ノエミ・セディージョ?」
「前の支局長だよ。電撃解任された人。惜しい人をWACEとASIは台無しにしたのさ。アーサーは引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、あとは無視。そのうえASIは、彼女をスケープゴートに――」
「どうやら、あなた何か勘違いしているみたいね。私は状況をかき乱しに行くんじゃないわよ。未然に芽を摘むために行くの」
「勘違いだって?」
 まだ、マダム・モーガンの横顔はとぼけたような笑みを浮かべていた。
「でも、ごめんなさいね、アレックス。詳細を話すことはできないわ。アイリーンにもアーサーにも、長い付き合いのケイにも、それ以外の誰にもね。でもこれだけは約束する」
 答えは、いつでも彼女の中にだけあった。他の誰も、そのことを知らない。
「私には誰かを傷付けるような意図はない。でも、状況次第ね。あの子が暴れなければいいんだけど……」





「……もしかして、ロボトミー? いや、でも、そんな、まさか……」
 ラテックス製のゴム手袋と防護服、それからガスマスクを身に着けた検視官バーニーは、そう呟く。彼は解剖室の検視台の前に立っていた。
 彼の手元には用を終えた電動ノコギリが置かれており、あたりには昨日と同様の悪臭が拡散していた。そして解剖室の隅には、防護服とガスマスクを着用したジョン・ドーが縮こまって座り、検視官バーニーの様子を観察している。特異な空気で満たされた解剖室に、ジョン・ドーは少し緊張しているようだった。
「ロボトミーがどうかしたの?」
 検視官バーニーの呟きを聞いていたジョン・ドーは、少しだけ声を張り上げて検視官バーニーにそう訊く。すると検視官バーニーはジョン・ドーを見ることなく、あくまで解剖中の遺体から取り出した脳だけを見つめながら、こう言葉を返した。
「大天才の脳を、頭蓋骨の中から取り出してみたの。前頭葉がひどく委縮してるというか、ほぼ無いに等しい状態でね……――でも、まさかそんな。だってロボトミーなんて、歴史書でしか聞いたことがないのに。この四十三世紀も後半の世の中で、こんな手術が……」
「バーニー。とりあえず、その遺体の目というか、目の周囲を見てみたらどうかな?」
 予想もしていなかった展開に、少し取り乱す検視官バーニーに対し、ジョン・ドーはそう進言する。異様に落ち着きを払った青年の言葉や態度に違和感を覚えながらも、検視官バーニーは少し首を傾げさせた。「……どうして、目なの?」
「ロボトミーって、あれだろ? 眼窩にアイスピックみたいな器具をブッ刺して、手探りで前頭葉を切り離すってやつ。だからその人がロボトミーを受けてるなら、目もとに傷があるんじゃないのか?」
「ロボトミーって頭頂じゃなく、眼窩からやるの? それも、アイスピックですって?! なんて野蛮な手術なのかしら……」
「知らなかったのか、バーニー。よくそれで検視官になれたな……」
「むしろ、そんな大昔の手術法をあなたが知っていることに驚きよ。この時代に、ロボトミーなんて知っている人間はごく限られて……――」
 そこで検視官バーニーは言いかけた言葉を止める。目元に、アイスピックで刺されたような傷。そんな傷に、彼は心当たりがあったのだ。
 しかし検視官バーニーの前で眠るこの遺体の目元に、そのような傷跡はない。ましてや、この遺体には傷跡らしい傷跡がないのだ――体内からは、摘出されずに残された銃弾や、その破片が幾つか見つかったが。
 でも。そういえば今朝、検視官バーニーは傷だらけの体を見たばかりだ。
「ねぇ、ジョン・ドー。あなた、そういえば目元にそんな傷があったわよね……?」
「俺に? そうなのか?」
 早朝、家を出る前だ。ジョン・ドーを叩き起こした検視官バーニーは、彼に「朝飯の前にシャワーを浴びてこい」とせっついたのだ。というのもここ四日ほど、ジョン・ドーはずっと寝ていただけ。彼は食事もまともに摂っていないうえに、この真夏の暑い日々にシャワーを浴びてすらいなかったのだ。
 とはいえ特段、彼が汗臭かったわけではなかった(検視官バーニーの嗅覚が弱っていたことはさて措き)。それでも検視官バーニーは、不潔な男を自分の車に載せたくなかった。それに仕事柄、一日に数回シャワーを浴びる彼にとって、四日間も体や髪を洗わないなんてことはとても考えられないこと。だからこそ検視官バーニーは「シャワーを浴びろ」と青年にキツく言ったのだ。
「ええ、そう。あなたの顔には、そんな傷があるわ」
 そしてシャワーを終えて、サッパリとした姿で青年が検視官バーニーの前に現れたとき。上半身に何も衣類を身に着けていなかったジョン・ドーのその体を見た検視官バーニーは、青年にTシャツを手渡しながら背筋が凍り着くのを感じていた。
 背中や腹には、被弾した痕が無数に残っていた。胸元には鋭利で長い刃物で切り付けられたような線状の古傷が、パッと見ただけでも六本は確認できた。肩口に近い左右の二の腕には、自分で切り付けたかのようなアームカットと思しき細い傷が幾重にも刻まれていた。それに手首の傷なんて、数え切れないほどだ。
 当の本人は自分の身体の傷跡など気にしていない――目が見えていないため、把握すらしていない――ようだったが、あれはとても痛々しい姿だった。
 そしてTシャツを手渡しながら、検視官バーニーは初めてまじまじと青年の顔を見つめた。今までは意識的に――リーランドが連れ込んできた男の子だからと、いつものように――注視しないように気を付けていた為に気付かなかったが、あのときに彼は発見したのだ。ジョン・ドーの目元にあった、謎の傷跡。一瞬、ほくろか色素沈着か何かであるかのように思えた、あの目頭のあたりの傷。
 あれはもしかするとアイスピックか何かで刺された傷なのではないか?
「ほら。俺は目が見えないから。それに自分の顔なんか見たことないし、知らなかったよ。へぇ、そうなんだ……」
 自分のことなのに、まるで他人事であるかのように言うジョン・ドーのその言い草。然程関心が無いかのような、カラッと乾いたその声色。そんな青年の声だけを訊く検視官バーニーは、頭の中で突拍子もない仮説を組み立てていた。
 そして検視官バーニーは、遺体の頭蓋骨から取り出した歪な形の黒ずんだ脳味噌を自身の両掌に載せる。それから彼は、掌に載せた脳味噌に囁きかけた。
「偉大なる高位技師官僚(テクノクラート)、ペルモンド・バルロッツィ。あなたは不死身ではなかったようだけど、相当タフなお方だったのね。でもきっと、つらかったでしょう……?」
 すると、検視官バーニーの後ろから物音が聞こえてきた。どうやら床に座っていたジョン・ドーが、慌ただしく立ち上がったようだ。
 そして検視官バーニーは脳味噌を掌に載せた状態のまま、ジョン・ドーの居るほうへと振り返る。検視官バーニーの目に映った彼は、得体の知れない恐怖に直面したかのように震えていた。
「ねぇ、ジョン・ドー。あなたは彼のドッペルゲンガーか何かなの?」
 検視官バーニーの放った言葉。無表情でジョン・ドーを見つめる彼の目は、表情と同じぐらい無感情なものだった。そしてジョン・ドーは検視官バーニーの言葉に、震える声で反論する。
「違う。そいつが、偽物だ。俺が……――」
 だが反論を言い終える前に、邪魔が入る。解剖室のドアを乱暴にバンッと開けて、ある者が殴りこんできたのだ。そして解剖室に入ってきた女、艶やかな長い黒髪を振り乱すマダム・モーガンは、狂気めいた笑顔を浮かべて大声を上げる。
「ハーイ、ハビービー! 迎えに来たわよ!」
 そのままズカズカと解剖室に上がり込み、マダム・モーガンは部屋の隅のほうに居たジョン・ドーに歩み寄る。彼女の堂々たる振る舞いに、解剖室の主である検視官バーニーは驚きのあまりに頭の中を真っ白くさせていた。そして遂にジョン・ドーの目の前にまで来たマダム・モーガンの笑顔は、望んでいたものが手に入ったような満足そうなものに変わっていた。
「さてと、ハビービー。帰りましょうか。死体安置所に用はないしね」
 目の前で今、何が起こっているのか。
 呆然と突っ立っている検視官バーニーは、何も考えられずにいた。が、しかし彼の意識を現実に引き戻す声が聞こえてくる。
「マダム・モーガン! 最低でも防護服だけは着ないとマズいって、さっきアタシ言いましたよね!? そのお高いスーツにニオイがこびりついても、アタシ知りませんよ?!」
 アレクサンドラ・コールドウェルの怒号が、廊下を轟き解剖室の中に飛び込んでくる。そしてその声で検視官バーニーは、我に返った。
「――……アレックスちゃん?!」
 しかし我に返ったときにはもう、時すでに遅し。ジョン・ドーの姿も、殴りこんできたマダム・モーガンの姿も、そこにはもう無くなっていた。





「……それで。どういうことなの?」
 マダム・モーガンの奇襲から、二時間が経過した頃。検視官バーニーとコールドウェル、それと連帯責任として徴集されたニールの計三人は、シドニー支局長リリー・フォスターが鎮座する最上階の支局長室に呼び出されていた。
「どういうことって、言われてもねぇ……」
 いつも通り無表情である検視官バーニーだが、彼の声色だけは震えていた。続けてコールドウェルは、峭刻たる形相で睨みを利かせるフォスター支局長に、こう釈明する。
「アタシも、その場に直接立ち会ったわけじゃねぇ。何が起きたのかを知らないんだ。――だが、たしかに、マダム・モーガンを支局に連れてきたのはアタシだよ。だけど、アタシの立場も察してくれ。偉大な大ボスにゃ、アタシとて逆らえないのさ」
 すると、コールドウェルの発言にフォスター支局長は少しの不快感を示した。どうやら彼女は、コールドウェルが発した「大ボス」という言葉に何かを感じたようだ。
「あら、エージェント・コールドウェル。反骨精神の塊ともいえるあなたにも逆らえない相手が居るとは。意外ね。サー・アーサーのことは口汚く罵れるのに、そのマダム・モーガンという名の彼女にはそれが出来ないの?」
「彼女とアーサーじゃ、格が違い過ぎる。アーサーなんかと比べちゃいけねぇんだよ」
 コールドウェルは率直に、思った言葉を正直にぶちまけた。その横で、ニールは心臓をバクバクとさせる。連邦捜査局でのキャリアも長く、シドニー支局の特色も把握している中堅捜査官であるニールは、コールドウェルの発言のどこがリリー・フォスター支局長の癪に障ったのかが分かっていたのだ。
「へぇ、そうなの。エージェント・コールドウェル……」
「支局長さん、なにをそんなピリピリしてんだい」
 大ボス、といえばリリー・フォスター支局長も謂わば大ボスだ。彼女こそ、連邦捜査局シドニー支局の大ボスである。つまりリリー・フォスター支局長はこう言いたいのだ。
「……つまり、エージェント・コールドウェル。あなたは、アーサーよりも遥かに格下である私には払う敬意など一切ないと。そういうことを言っているのね?」
 仕事はとても出来る有能で素晴らしい女性ではあるのだが、それ以外の面が色々と面倒。フォスター支局長はそういう人物なのだ。
 つまり。フォスター支局長は、ズボラで手抜き上手で、真面目でなければ礼儀知らずであり、そして暴力でストレスを発散することが大好きな野蛮人アレクサンドラ・コールドウェルとは真逆の女性である。水と油のように相容れず、犬と猿のように仲が悪いことは言うまでもない。
「なに言ってんだい、支局長さん。アタシが今、アンタに払う敬意は無いなんて一言でも言ったかい? アーサーに払う敬意は無いみたいなことを言った覚えはあるが、アンタの名前なんて一切……」
「言葉には出ていなくてもね、態度には滲み出るものよ」
「なんだって? 支局長さん、どんだけアンタはアタシのことを色眼鏡で見ているんだい?」
「色眼鏡で見られたくないのであれば、態度を変える努力をしなさい。あなたの場合は信頼がない分、ひとの二倍以上の努力はしないといけないのだから」
「おいおいおい、待てよ。アタシはこの十五年、その努力をしてきたつもりなんだが?」
 話はどんどん本題から逸れて、いつも通りの二人の火花散る会話が続けられる。検視官バーニーは溜息を吐き、本件に関係の無いニールは胃が痛くなるのを感じていた。そしてニールは胃の入り口がキリキリと痛むのを感じながら、大きく息を吸う。それから彼は、少しばかり大きな声で叫んだ。
「支局長! 話が脱線しています!」
 するといつでも適当なコールドウェルは、ニールの援護にそのまま乗じた。「ああ、そうだ。脱線している。問題はアタシの敬意云々じゃなく、検視官バーンハード・ヴィンソンが連れてきたジョン・ドーとは何なのか、そしてアタシの上司が彼を本当に誘拐したのか、だ!」
「ええ、そう。ジョン・ドーがどこに連れて行かれたのか、そして今あの青年がちゃんと息をしているのか。それが問題よ!」
 無表情の検視官バーニーもそれに乗っかり、フォスター支局長が黙り込む。顔こそ無表情だが、尋常ならざる緊張感で溢れる検視官バーニーのその様子に、フォスター支局長は圧倒されていたのだ。
 厄介者をとにかく自宅から追い出したい、というような旨を昨晩言っていたはずのこの男。しかし、今朝はどうにもその厄介者に同情的で、厄介者の安否を過度に心配しているように見えなくもない。
「……ごめんなさい。話が逸れたわね。それで、その青年の安否だけど、どうやって確認するべきかしら?」
 ひしひしと迫りくる検視官バーニーの圧に、フォスター支局長も少し呑まれかけていた。どうやら彼の心配は疑う余地がないほど本物であり、事態は深刻な模様。
 その検視官バーニーの言うところの“ジョン・ドー”という青年が、どんな人物なのかを知る者は、この場には検視官バーニー以外に誰も居ない。検視官バーニーが何をそこまで案じているのかを完全に理解している人間もまた、存在していなかった。だが、だからといえその場にいる人間が誰もその青年の身を案じていないわけではない。リリー・フォスター支局長は勿論、彼をさらった張本人であるマダム・モーガンの部下であるコールドウェルも少なからず罪悪感を覚えており、また関係のないニールもその青年を心配していたのだ。
 だが。フォスター支局長には分からなかった。彼の安否を確かめる方法が。
「アイリーン・フィールドに連絡でもしてみる? でも彼女に聞いたところで、彼女がその問題を把握して居るかどうかは……――」
 ぼやくフォスター支局長は、頭を抱えていた。
「……あまり期待は、出来ないでしょうね……」
 あのアレクサンドラ・コールドウェルすら反抗できないという、マダム・モーガンという謎の女性。特務機関WACEの他の隊員、それもアレクサンドラ・コールドウェルよりも少し上の立場の人間を頼ったところで……――得られる情報があるとは、フォスター支局長には思えなかったのだ。
 だがアレクサンドラ・コールドウェルは、そうは思っていなかったようだ。
「アイリーンとて、全てを把握しているわけじゃないさ。彼女は現場担当のアタシが情報を送らない限り、現場の状況を知ることがない。監視カメラというものが無い場所は特にね」
 にひひ、と何かを企んでいるような強気な笑みを浮かべるコールドウェルは、フォスター支局長の目をじっと見つめていた。フォスター支局長と検視官バーニーは、彼女がこの状況を打破してくれる魅力的な打開策を提供してくれることを期待した。しかしニールは、鳩尾のあたりに仕込まれた時限爆弾のタイマーが、カチカチと音を立てているのを感じていた。爆発への時間が、刻々と迫りくるような気配だ。
 ニールは経験から知っている。こういう笑顔をコールドウェルが浮かべるとき、彼女はだいたい何も考えていないということを。そしてあの笑顔は、彼女の得意技である『行き当たりばったり』が発動する前触れでもある。
「アタシが今、教育しているガキの中に、猫目のマッチョくんが居てね。その猫目くんの、前の師匠の口癖がこうだったらしい。現場の人間が黙っている限り、上層部に情報は伝わらない。だから重要な情報ほど、黙っているに越したことはない、と」
「……エージェント・コールドウェル。あなたは何が言いたいの?」
「あぁ、支局長。今のは気にしないでくれ。今の話に意味はないよ。その後、猫目くんをビッシリ叱ったってだけの話さ。情報共有は何よりも重要、有益な情報を黙っていることは許されないってな」
 ニールは知っている。今の話は、ただの時間稼ぎ。考える時間を設けるための、意味のない言葉だ。
 そして、ニールの予感が的中した。
「えっと、つまりだ。これからアタシは上司であるアイリーンに、あったことをありのまま全て報告する。それじゃ、祈っててくれ。何かアイリーンが情報を零してくれることをな」
 コールドウェルの行き当たりばったりが、ニールの予想通りに発動した。ニッと歯を見せて強気に笑ってみせるコールドウェル。だが、そんな彼女を見つめるフォスター支局長と検視官バーニーの視線といえば、呆れかえってもう何も言えないと無言で告げているではないか。
 だがアレクサンドラ・コールドウェルという女が強気な態度を崩すことはない。……というより、彼女も強気に出てしまった以上、もう引っ込むことが出来ないのだろう。
「そんじゃ、ちょっと連絡してきますんで。良い結果が返ってくるよう祈っててくださいなーっと」
 そう言うと、コールドウェルは支局長室をいそいそと退出していく。ニールは額から汗を流しながら、黙って彼女の背中を見守った。
 そうしてコールドウェルが部屋を退出し、局長室のドアが閉められてから三分後。コールドウェルの怒鳴り声が聞こえた後に、再び局長室のドアが開いてコールドウェルが部屋の中に入ってくる。少し気まずそうな笑みを浮かべながら入室してきたコールドウェルは、まずはこう告げた。「確認が取れた。その、例のジョン・ドー。マダム・モーガンが連れ帰ってきて、今は隔離室に入れられているそうだ。生きてるよ」
「そうなの!? あぁ、良かった……」
 検視官バーニーは気が抜けたように、安堵の声を零す。だがコールドウェルの表情は、あまり良いものではない。どうやら、バッドニュースが続くようだ。
「で、とりあえずジョン・ドーさんは生きているんだけど。その実は不明で、本当に彼かどうかの確認はできない。何故なら、アイリーンが彼を見たときには、彼の顔にはペストマスクを被せられていたとかで、顔が見えなかったとさ。それで、さらに悪いニュース。そのたぶんジョン・ドーさんは錯乱状態に陥っているそうだ。全身をかきむしったりとか、頭を壁に打ち付けたりとか、そんな自傷行為があまりにも多いとかで、鎮静剤を打ったうえで古典的に拘束衣を着せたそうな。さらに……」
「…………」
「……マダム・モーガンが、ここの解剖室がクサすぎると言っていたそうだよ。彼女はあのニオイをまとって本部に帰還し、帰還してから自分のまとう死臭に気付いて……今、彼女は凹んでるってさ。そのうえ、死臭を持ち帰ってきたマダム・モーガンに、サー・アーサーがキレてるとか、なんとかで。死神二人が容赦ない言い争いをしていて、本部が地獄のようで居心地が悪いと、アイリーンが……」
「後半の報告、俺たちに何ら関係ないよな?」
「あぁ、そうだね。たしかに、関係ない。でも、はぁ……今日はあそこに顔出したくねぇな……」
 肩を落とし、コールドウェルは項垂れる。そんな彼女の背中をバシンッと平手で叩くニールは、シャキッとしろと叱咤激励を送るのだった。だが、コールドウェルはニールの激励を跳ねのけた。それから彼女は続きを言う。
「あぁ、それで。アイリーンがこう言っていた。今日中にあの大天才のご遺体を火葬して、骨まで灰にしたあと、旧シドニー港の断崖絶壁から海に撒いて捨ててくれ、と。午後二時半きっかりから、チャイナタウンの近所にある火葬場で作業を開始するようにとの命令だよ。アイリーンが指定したSUVに遺体を乗せて、火葬場に運べと。つまり午後イチからすぐに動き出せってこった」
「午後イチか。……俺は別件の連続殺人の捜査があるから、同行できない。すまないな」
「アンタの同行は初めから期待してないよ、ニール。だからうちの機関から応援が二人ほど来る予定だ。大男ケイと、新米の猫目くんがな。そして事件は自殺で処理しろとよ。狂った天才が狂気のあまりに自害したって。つまり死体遺棄の件は無かったことにしろってさ」
 その言葉を聞く検視官バーニーは、少しだけ表情を暗くする。目を伏せる彼は、何か物思いに耽っているようだった。





 その頃、特務機関WACEの本部(仮)である地下施設には、切迫した空気が蔓延していた。
「どうにかしてよ、ラドウィグ。アンタ、怖いもの知らずなとこあるでしょ?」
「無理言わないでくれよ、アストレア。オレも正直ビクビクしてるんだ。だって、あんな血相変えて激怒するアーサーを見るのは初めてだよ。オレ、ずっと彼のことを感情の起伏がなく機微すらない冷血人間だと思ってたから。それに今のマダムだって、めっちゃ怖いし……」
「……はぁ、どうなってんだか。第一、何を話してるんだ、あの二人は……?」
「それにオレ、ケイのじーちゃんと一緒に姐御の応援に行かなきゃいけないんだ。そのための準備とかあるし、ここいらでオサラバ……」
「あっ、ちょっと待て、ラドウィグ。テメェどこに逃げるつもりだ!」
「アストレアには、レイの監視業務があるだろー? アーサーに、絶対に目を離すなって言われてたんじゃなかったのかー? 今のアーサーを更に怒らせるような真似は、避けた方が良いと思うけどー?」
 特務機関WACEに居る年数でいえば、圧倒的に先輩であるアストレアだが。そんなアストレアと新米であるラドウィグは、年齢に差がない。ほぼ同い年で、むしろ少しだけラドウィグのほうが年上でもあった。
 そんな彼らの関係は、少しだけ奇妙。高圧的でありながらも寂しがり屋なアストレアは、構ってほしさゆえに先輩風を吹かしたがる。そして朗らかで穏やかな――しかし、少しの毒を持った――性格であるラドウィグは、前に所属していた変人だらけの研究所で揉まれに揉まれたこともあって、高いスルースキルを保有していた。なので大抵の場合、アストレアは相手にされない。ちょうど今のように、ラドウィグがアストレアに返り討ちを仕掛けて、二人の会話が終わることが殆どなのだ。
 そして今日もまた、ラドウィグはうまく場面を切り抜け、彼だけはこの地下施設という名の地獄を抜け出していく。取り残されたアストレアは、机に突っ伏して泣く見目麗しいヒューマノイドの様子を遠巻きから観察しながら、孤独感を覚えていた。
「……僕に、何ができると? この、未曾有の状況下で……」
 なんだかんだでアストレアが慕っているエージェント・コールドウェルは、今は不在だ。そして頼れる大男ケイは、ラドウィグよりも一足先にこの施設を脱出している。それにラドウィグは今、去った。それにアイリーンはこの地下施設に今も居るが……――彼女は業務外の出来事には静観を貫く、いうなれば全く役に立たない人物。ボスと大ボスの衝突となれば、アイリーンはただ黙って息を潜めるのみだろう。あと、レイと呼ばれているヒューマノイドもこの施設に居るが、見ての通りこの状況で役に立つとは思えない。
 今のアストレアは間違いなく孤立無援な状態であろう。心細いというのが、彼女の本音であった。
「……出来ることはレイの監視役だけかな。まぁ、気楽な仕事か。紅茶を飲みながら、泣いているヒューマノイドを眺めるだけの仕事だし……」
 極限の一歩手前の、ストレスフルな環境。普段なら零すこともない独り言を、アストレアは孤独にぶつぶつと連ねている。彼女の言葉を聞くものは誰も居らず、返答もなく、彼女もそれを期待していなかった。
 ――そして。この不穏な空気を生み出している元凶であるサー・アーサーとマダム・モーガンの二人は、地下二階の隅にあるアーサーのオフィスに揃っていた。
 椅子に座り、どこか威圧するような態度を取るアーサーからは珍しく、理不尽を糾弾するような煮えたぎる怒りが窺える。そして彼の前に立ち、腕を組んでこちらもまた凄んでみせているマダム・モーガンからも、焦りと後悔が綯い交ぜになった怒りが滲んでいた。
「モーガン。あなたに与えられた固有の能力は、既存物の複製だ。何もない場所から複製を生み出すと」
 今朝のアーサーは、髪をろくにセットしていなかった。軽く梳かしただけのその髪からは、いつものような“サー・アーサーらしい”威厳は感じられない。少し伸びていた前髪は彼の目を隠していて、その顔に影を落としている。不機嫌そうな彼の表情は、より一層怒りに満ちているように見えていた。そして怒りに満ちた声で彼は言う。
「だが生物、それも人間を複製するなど……――言語道断も甚だしい! あなたに、人間性というものは無いのか?!」
 だがどれほど熱く怒り狂っていようと、死神の瞳孔なき瞳はどこまでも冷たい光を湛えている。蒼白く輝くその瞳から覗かれるのは、彼らの体を流れる人ならざる血の色。キミアと呼ばれる神から分け与えられたその血液は、アバロセレンのように蒼白く輝き、人類を蔑むような冷たい光を絶やすことはない。
 だが同じ血が流れていようと、二対の死神は真反対の性格を持っていた。与えられた能力も、役割も違っていた。
「アーサー、それ冗談? どの口が、人間性を語ってるんだか……」
 もう一人の死神マダム・モーガンは、シャワーを浴びたばかりで濡れている長い髪を振り乱しながら、アーサーを馬鹿にするように笑う。そして彼女は、こう言うのだった。「生ける屍になっていたパトリック・ラーナー。あれを処分したのは、この私。そしてあんな魔物を生み出したのはアンタよ。シスルウッド・アーサー・マッキントシュ、他でもないアンタ」
「その話と、今の話は関係がないだろう?!」
「大アリよ。アンタは化け物を生み出すために、自分の好奇心に従い彼を生かし続けた。そして私は黒狼ジェドという化け物から彼を守るために、彼の複製を作ったのよ。黒狼を消し去る方法を探すための、時間を稼ぐために。私には正当な目的があった。だけど」
「どちらも似たようなものだろう? 私は自分の行いを正当化することはしない。だが――」
「パトリック・ラーナーの最期を、アンタは見てないでしょう?」
「だから、どうした。あれは当然の報いだ」
「デボラの手に渡った彼が、どれほど苦しみ、狂って壊れていったか、知らないでしょう?! あんなに可愛らしい容姿をしていた男が、見るも無残な直視していられない姿に変わっていたのよ。デボラに飽きられて捨てられ、それでも果てることない命に絶望し、終には本物の化け物に変わり果てていたわ。もはや人としての原型をとどめていない姿で、獣以下の存在に成り果てていたのよ!! それでも感情と記憶を捨てきれず、過去の自分と今の自分の差に苦しんで、終わらぬ苦痛の中に閉じ込められていた。……闘争本能むき出しの、野性しかないような彼を処分することが、どれだけ大変な作業だったことか。そして最期の断末魔がどれほど悲痛なものだったか。聞いていないアンタには分からないでしょうけどね」
「ならば、あなたが偽物だと切り捨てたペルモンド・バルロッツィの最期を、あなたは看たのか? 己の全てが偽りであったことを悟り、私に今までの全ての行いの意味を訊ねてきたときの、あれの顔を見たのか? この空中要塞アルストグランの存在意義を、あれが育て上げてきた技師たちの未来を、エリーヌの存在も、そしてエリカ・アンダーソンへの愛も、痛みも後悔も憎悪も、全てが偽物だったのかと、あれは嘆いていた。空虚な目で、口元だけの笑みを浮かべながら。……体調が悪化し、モルヒネが欠かせなくなったのも、あのタイミングだ。それを鑑みても、それでも彼を守るためだったと言えるのか?」
「体調が悪化したのは、アンタが彼の体からアバロセレンを抜き取ったからでしょう?! アバロセレンにより止まっていた時間が急速に動き出し、結果として体が」
「アバロセレンを抜き取ったのは、一年も前の話だ。だがたしかにそれも一理あるだろうが、それだけじゃないだろう」
「――……死んだ者のことは、もういいでしょ。もう死んだんだから」
「あぁ、そうだな。話を戻そうか。あの隔離室で眠っている“本物の彼”とやらに、あなたはなんと説明する? いつ、どこであれの時間が止まっているのかなど私は知らないが、あれにありのままの残酷な真実を伝えるか? それとも、偽物のあの男は全くの別人だとでも嘘を吐くか? どっちにしろ、あれが頭を抱えて泣き叫ぶ姿が目に見えているがな」
 ヒートアップする二人のバトル。どちらも頭に血が上っていて、議論は本筋を逸れては、元に戻り、平行線を辿るばかり。そしてこの議論、いや口論に出口は無い。どちらも、間違っているからだ。
 ならば、正解はどこにあるのか? 二人はその答えを知っていた。
 ――正解は何処にもない。だが、我々が間違っていることだけは、この場において唯一絶対に正しい事実。
「……ええ、そうよ。私が全部、悪かったのよ。私の計画が甘かった。そう、その通りよ! そうやって、私を責めればいいわ!」
 マダム・モーガンはそんな開き直ったような言葉を、悲鳴のような甲高い声でそう吐き捨てる。彼女はアーサーに背を向け、部屋を出て行った。そんなマダム・モーガンを、彼は引き留めようとはしない。これ以上、彼女と言葉を交わすのは時間の無駄だとアーサーは判断したのだった。





「まさか、恩人で元上司の男の火葬に立ち会うことになるとは。思ってもなかったというか。なんだろう、この気分。すごい、奇妙な感じだ……」
 火葬も、散灰も、無事に終わった。それが午後六時を目前にした頃。特務機関WACEの専用車である真っ黒なSUVの中で、後部座席に座るラドウィグは肩を落としていた。その横に並ぶ大男ケイは、ラドウィグの落ちた肩をごつごつとした大きな手で、励ますように優しく叩く。するとラドウィグは、運転席でハンドルを捌くコールドウェルに、こんなことを訊ねてきた。「それで、姐御。ふたつ、訊いてもいいですか」
「構わないよ、アタシが答えられることならね」
 真っ黒なSUVは、市道を走る。他に車両が見当たらないことをいいことに、速度制限の標識をガン無視して、その二倍の速度で走っていた。
 ラドウィグは初めこそ、コールドウェルのこの荒い運転に驚いてビクビクと震えたものの、慣れた今となってはむしろ安心感さえも抱いてた。しかし、それでもシートベルトにどこかしがみついているように見えなくもない彼は、前に見えるぶっきらぼうなコールドウェルの背中に疑問をぶつけるのだった。
「どうしてバルロッツィ高位技師官僚を荼毘に付す必要があったんですか? それに、遺灰を海に撒くだなんて。なんか、彼の尊厳みたいなものを踏み躙っているような気がしてならないんすよ」
「踏み躙るも何も、本人の望んだことだよ」
「そっ、そうだったんですか?」
「もう生き返るのは二度と御免だから、焼いて灰にして海に捨ててくれって、彼は言ってたんだってさ。アイリーンがその意思を汲んで、その通りにしたんだよ。それに、そうしたほうが良いんだ」
「……良いって、どうして?」
「ヘタにあの大天才の墓なんか築いて、遺体に防腐処理を施して生身のまま埋めてみろ。アバロセレン技師どもの聖地になるし、掘り返しを試みるバカが絶対に出てくる。それこそ、死人の尊厳を踏み躙る行為じゃないのかい?」
「……でも、オレは少しだけ寂しいです。花を手向ける場所もないのかって思うと」
「死人には、何にも邪魔されぬ永遠に続く安らかな眠りを。特に彼には、それが必要さ。哀悼の花束も、豪華な墓も、虫が集る肉も骨も、簡素な棺さえも、死人には必要ないんだよ。それらは所詮、遺された生者のエゴでしかないのだからね。そんなに花を手向けたいのなら、自分の部屋の花瓶にでも挿しときな」
 死者をして死者を葬らしめよ。そんなドライな言葉を返すコールドウェルに、また少しだけラドウィグは肩を落とす。そして大男ケイはコールドウェルの言葉に全面的に同意するように、首を縦に一度だけ小さく振って頷いた。それを見たラドウィグは、また少し落ち込む。
 誰も死者のことを悼まないのか。……この無茶苦茶な寂しい気持ちを誰かと共有したかったラドウィグは、二人の冷たく乾いた対応に少なからずショックを受けていたのだ。
 すると寂し気な表情のラドウィグに気付いたのか、コールドウェルはこんなことを言った。
「アタシらだって、哀しくないわけじゃあないさ。なんだかんだで、バルロッツィ高位技師官僚のお陰で賑やかでいられたようなもんだし。なぁ、そうだろ。ケイ?」
 コールドウェルの問いかけに、ケイはまた無言で頷く。だが彼の表情は、どことなく不愉快そうだ。そしてコールドウェルは、続けてこんなことを言う。
「実を言うとアタシもケイも、バルロッツィ高位技師官僚のことを恨んでるんだ。アタシは憎さ半分、好意半分だが、ケイなんかは憎しみしかないだろう? なんせケイはバルロッツィ高位技師官僚に、声帯をぶっ壊されたんだから。アタシは彼に、内臓ひとつを奪われたしね」
 再びケイは、無言で頷く。
「……バルロッツィ高位技師官僚が、ケイのじーちゃんから声を奪ったと?」
 根深そうなケイの恨みに驚くラドウィグは同時に、元上司であった男の凶暴すぎる別の顔に血の気が引いていくのを感じていた。だがコールドウェルは、にやりと笑う。彼女の話には続きがあった。
「まぁアーサー曰く、ケイについては『おあいこ』らしいけどねぇ。ケイがバルロッツィ高位技師官僚の一人娘のことを『世間知らずの高枕』なんて罵ったばかりに、彼の怒りを買って、二度と喋れないようにされたんだとよ。それに、その直後にケイは、バルロッツィ高位技師官僚の背中にショットガンをぶちかましたって話だし」
「……え? どういうことですか?」
「文字通り、おあいこさ。どっちも瀕死の重傷を負って、引き分けに終わったっつーこと。というか、バルロッツィ高位技師官僚の勝利っと言っていいかもしれない。彼は、ショットガンに勝ったんだから。だがケイは、バルロッツィ高位技師官僚のサーベルに負けて声を失った。要は、負け惜しみってやつだよ。本当は勝ち逃げされたことに怒ってるのさ。なぁ、ケイ?」
 しかし今度の問いに、ケイは首を振らない。肯定もせず、否定もしなかった。するとコールドウェルは面白おかしそうに笑う。
「図星だな。ハハッ!」





「それで、アレックスちゃんからは何て返事が来たの?」
 WACEの本部(仮)地下一階エントランス。そこのソファーにだらーっと座って、心ここにあらずという顔をしているアイリーンは、間延びした声でそう言った。彼女の会話の相手は、同じ部屋に居たヒューマノイドと、チビのアストレアだ。そしてアストレアは、こう答える。
「任務は無事完了。それでラドウィグとケイは、車でここに戻ってくるってよ。だけどアレックスは、支局に立ち寄るってさ。今日はあいつ、ここに顔を出すつもりはないらしいよ」
「流石だね、アレックスちゃん。状況よく分かってるじゃないの。――……あのサボり魔め、そういうところだけは巧いんだから……」
「あっ、でもアレックスはなんだか本当に支局に戻らなきゃいけない用があるみたいだったよ。検視官のバーニーって人と話があるとかなんとかって、言ってたし」
 アレックスちゃんが羨ましい。アイリーンはそう呟く。
 それもそのはずだ。アイリーンの家は、この薄暗い地下施設なのだから。地上に帰る場所があるコールドウェルのことが羨ましくて堪らないのだ。
「……パトリックが居た頃は良かったよ。彼の家に、ときたま泊まれたもの。彼がお友達の家に行っていたり、別の都市に出張中の時は、留守番ってことで地上にある彼の家で寝れたのに。他に誰も居ない、私だけのスペースで。でも、そんな場所はもう無い。アレックスちゃんが羨ましいなぁ、ホント……」
「でもさ。アレックスみたいな、全ての電化製品から隔絶された暮らしなんて、ハイテクの申し子アイリーン・フィールドには出来っこないでしょ?」
「うん、そだね。アストレアが正しい。私にはムアバンクなんて田舎は無理。電気が通っていない場所なんて考えられないや。シャワーも暖かいお湯が良いな、冷水それも雨水なんてイヤ……」
 天井と分厚い地面に遮られて見えやしないのに、遠い青空を仰ぐようにソファーに凭れて、上を向くアイリーンの声には、覇気がまるでない。彼女の意識は上の空で、持ち前の集中力もどこかに飛んで行ってしまっているようだった。
 特務機関WACEの脳のような役割を果たすアイリーンが、こんな状態になってしまっているのだ。それほどまでに、地下本部に漂う空気は最悪そのもの。今はサー・アーサーとマダム・モーガンの怒鳴りあう声は聞こえていないが、あの時の空気がまだこの空間には停滞している。ギスギスしていて、誰にとっても居心地が悪かったのだ。
 人間は勿論、機械にとっても。
「……全部、ボクがいけないんでしょうか」
 泣きはらしたように赤く腫れた偽物の皮膚。そしてメイクも偽物の涙により崩れ、目がパンダのようになっていたヒューマノイドは、顔を俯かせながらそう言った。
 そのヒューマノイドの監視役であるアストレアは、特段なにかを言うようなことはしない。だがアイリーンは違った。
「ねぇ、聞いて。レイちゃんは悪くないよ。悪いのはサーとマダムの二人。……身も心もボロボロで、死を願っていた人を、あの手この手で生かし続けたからいけないんだよ。そして死を希求するあまりに、あなたの主はあなたを利用した。機械であるあなたは、それに従っただけ。そう、あなたは命じられたことを従順にこなす機械なんだから。あなたは悪くないわ」
 上のどこかを見つめるアイリーンの緑色の目は虚ろで、生気は無い。彼女が発するその言葉の、どこまでが彼女の真意なのか。アストレアは、それを計りかねていた。
「レイちゃん。あなたは正しいことをした。あのやり方なら、彼も苦しまずにすぐ死ねたはず。血液に入ったテトロドトキシンはすぐに人の意識を奪い、それから体の機能を麻痺させ、死に至らしめる。つまり彼は、息苦しさに苦しむことなく楽に死ねたの。たぶんね。だからあなたは、正しいことをしたの。後悔することは何もないわ」
 まるでアイリーンの言葉は、彼女自身が自分にそう言い聞かせている言葉であるようで。嘆くヒューマノイドを慰めるための言葉ではなく、現実から逃避するための呪文のような。そんな気が、アストレアにはしていたのだ。
「彼は、死ねたの。偽物か本物かに関わらず。この空中要塞アルストグランを生み出した男は、二度と覚めない眠りについた。それだけで、今は十分なの。それ以外のことは、今はいらないの。黒狼が逃げたとか、彼が二人いたとか、そんなことに私は興味ないの。もう何も、私は知らない。知りたくない……」
 アイリーンの呟きは呪いの言葉のように、床に落ちては広がっていく。彼女の顔は上を向いていたが、彼女の心は下を向いているようであった。



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