アンセム・フォー・
ラムズ

ep.12 - What will be, will be

 あの日の、あの時。彼は間違いなく、寸でのところで世界を救ったのだろう。
 いや、彼が救ったというよりも、その場に居合わせた彼が偶然、世界を延命するための道具に選ばれただけなのかもしれない。
 いや、そもそもあれは偶然なのか? ずっと昔から計画的に、仕組まれたものだった可能性だって……。
『キミア! 早く教えて!! 私は、何をどうしたらいいのよ?!』
『そう急かすなァ、モーガン。今やってンだヨ、ちぃと待ちなァ。……まったくヨ、お前ェってやつァせっかちだァな。約束の時間はことごとく守らねぇくせにヨォ……』
 ボストンが光に呑まれ、何もかもが失われたあの日。アルテミスなる光が生まれた、あの日。アルフテニアランドの悲劇と後世に呼ばれる事件が起きた、あの日。その諸悪の根源が暴れ狂う場所で、彼は息絶えた。最期まで、被害を最小限に食い止めようと孤独に努力していたのだ。何よりも大切な娘と息子を、信用ならざる友人に託すという苦渋の決断をして。孤独に凶暴な光と向き合い、その光に呑まれて彼は死んだのだ。
 そうして死んだ男の体を、マダム・モーガンはあの日に引き摺って歩いていた。そんな彼女は死体を諸悪の根源の傍へ、暴走したアバロセレンの核がある場所へと運んでいたのだ。
『ごめんなさいね、時間にルーズで! 生憎アンタのくだらない頼み事よりも、優先すべき仕事がどっさりあるのよ、私には。どんなものも、人命には代えられないでしょう? 例えば、今みたいな状況。こういう状況の対処は、何よりも優先すべきことよね? これ以上の死者を増やさないためにも』
 ブツブツと文句を言うマダム・モーガンは、運んだ男の死体を床にどすっと投げ捨てるように置く。そして彼女が仰向けに寝かせた死体を見下ろしていると、蒼白く輝く光の玉を嘴に咥えた一羽のカラスが彼女の肩に留まった。そしてマダム・モーガンに、こぶし大ほどの大きさがある光の玉をカラスは渡す。
 するとカラスは黒い翼をばたつかせながら、どうにも気の抜ける声で言ったのだ。
『ほれよ、マトリクスを俺ちんが固体にしてやったゼ。んでヨ、モーガン。それを床に投げつけて、叩き割れ。そうしたら、マトリクスは綺麗に真っ二つになるはずヨ。その次は破片のひとつをそこの死体の左胸に、心臓マッサージの要領で押し込めィ。そうしたらひとまず、このアバロセレンの暴走は収まるはずヨ』
 そしてマダム・モーガンはカラスから受け取った光の玉――アバロセレンの核と後に呼ばれるもの――を、言われたとおりに床に投げつけた。すると光の玉は見事に、まるで糸鋸で裁断したかのように真っ二つに割れた。
 それから割れた玉の破片である二つのうち、片一方を拾い上げると、マダム・モーガンはそれを死体の左胸に押し当てる。すると光の玉の片割れは融けるように、死体の中へと入りこんでいった。
『それで、次はどうするの? 残りの破片はどうやって処理するのよ、キミア!』
 未曾有の事態の中で混乱し、極度の緊張状態に陥っていたマダム・モーガンは金切り声を上げていた。しかしカラスのほうは至って冷静で、これほどの緊急事態の中であっても動じる気配が全くない。
 そしてカラスは遺された破片を見ながら、こう言った。
『モーガン。もう一方の破片も、その死体の中に押し込め。左胸じゃなく、腹のあたりヨ。胃袋の中に押し込むのをイメージするのサ。そんで、その死体をオーストラリア大陸に持ち帰るゼ。その後の処理は、ひとまずオーストラリア大陸でペルモンドと落ち合ってからだ』


+ + +



 一瞬にして、あっけなく散ったチャーリーの横顔。吹き飛んだ自分の腕。死神に飛び掛かり、返り討ちにあったヒューゴ・ナイトレイの身体から吹き出した血の色。イザベル・クランツの悲鳴。ラドウィグの怒号。ジュディス・ミルズが発砲した音。爆発音と爆風。そして、アーサーの声。
「……すみません、マダム。断片的にしか、覚えてないんですよ。あまりにも色んなことがありすぎて、頭がパンクしてたみたいで」
 作戦失敗からの敗走から、四日が経っていた。そしてついさっき、ASIアバロセレン犯罪対策部附属、特殊作戦班からは新たな死者が出た。重い火傷を負ったブラボーも、助からなかったのだという。
 そんな暗い報告を携えてやってきたのは、左肩を時折庇うような仕草をするマダム・モーガン。退院の支度を進めるアレクサンダー・コルトの前に現れた彼女は、あの場所でアレクサンダー・コルトが何を見たのか、そしてアーサーに何を言われたのかを訊きに来たのだ。
「あら、そうなの。それは残念だわ。けど、まあ……ピンピンしているラドウィグに聞けばいいわね。でも彼、今はすごく忙しいみたいでねぇ。じっくりと腰を据えて話すような暇がないみたいなんだけど。どうしたもんかしら……」
 アレクサンダー・コルトは間違いなく、あの時の出来事を鮮明に覚えていた。しかし、思い出したくはなかった。そこで咄嗟に、彼女は嘘を吐いてしまったのだ。断片的にしか覚えていない、と。
 そしてマダム・モーガンは彼女の吐いた嘘に気付いているようで、白々しい演技をしてみせていた。嘘だって分かってるけど、仕方ないから見て見ぬふりをしといてあげるわよ、と彼女は態度で伝えてくる。
「ラドウィグ……。そういやあいつ、今は何をしてるんですか?」
「お仕事よ、色々と。イザベル・クランツ高位技師官僚に彼は付きっ切りだし。それに、私も彼にちょっとした雑用を頼んでたりしてるし。忙しいみたいよ。有能な男ってのは大変よね」
 あんな能天気な顔をしてるのにね、彼。そんな失礼な言葉を、マダム・モーガンは付け加える。だがアレクサンダー・コルトはそれを咎めはせず、それどころかその言葉に同意してみせた。「たしかに、ラドウィグは有能でしたよ。しかし今まで一度も、あいつにそんな感想は抱いたことなかったんですけどね」
「聡き猫は爪を隠してトボケ顔、ってやつね」
「……どこかの(ことわざ)ですか、それ?」
「いいえ。アーサーが前に、ラドウィグのことをそう評価してたのよ。あの時は『ラドウィグに隠すような爪なんてない』って私は思ってたけど……――今振り返ってみればアーサーって男は意外と、見抜いてたのよね。人の弱みとか隠し事とか、本性ってのを」
 アーサー。
 今は出来れば聞きたくなかったその名前に、アレクサンダー・コルトは反射的に眉を顰めさせた。あの瞬間をまた思い出すと、もう()いはずの腕がズキズキと痛むような気がして……心臓の鼓動が、早まるのだ。
 だがいくらアレクサンダー・コルトが避けようとしたところで、現実は逃げずにそこにあり続けるし、彼女は間違いなく現実の中で生きている。そして恐怖という影は潰えることなく、背後にあり続けるだろう。
 なら、影を倒すには? 視線という光を当てるしかない。
「それじゃ、アレックス。あなたがニブチンを決め込んでるから、質問を変えるわね。あなたはあの時、アーサーをどう思った? 彼、普段と様子が違っていたんじゃないの」
 その質問に、嫌そうな顔をしてみせるアレクサンダー・コルトだが、質問をぶつけたマダム・モーガンはというと、そんな彼女の表情に無視を決め込んでいる。五日も猶予をあなたに与えたのだから、そろそろ職務を果たしてくれと、腕を組んで素知らぬ顔をするマダム・モーガンは態度で訴えていた。
 しかし。思い出したくないことだってある。たとえ、鮮明に記憶が残っていたとしても。深く掘り下げ、振り返りたくないときだってあるのだ。故にアレクサンダー・コルトは、話を誤魔化そうと悪あがきをするのだった。
「どう思ったって聞かれましてもね。アーサーは、アーサーですし。いつも通りの、イヤな男でしたよ。たしかね」
「私は先日、あの騒動のあとにね。あいつに会ったのよ。そして、こう思った。あの男、遂に壊れちゃったのね、って。……それで、アレックス。あなたは、彼をどう思った?」
「ですから、マダム。アタシはよく覚えてないんで――」
「アレックス、そろそろケジメを付けなさい。それに膿は早い段階で全て出し切ったほうが、痛みなく綺麗に治るわよ」
 だが悪あがきは、状況を悪くするだけ。アレクサンダー・コルトも、分かっていた。けれども。どうしても今でなくては駄目なのか、先延ばしにしてはいけないのか、と弱音を吐きたくなってしまう彼女が居る。
 それでも、彼女も分かっていた。先延ばしを繰り返していては、終わりがない。だったら早くにカタを付けてしまった方が良い。でも、膿を出すために傷口に刃を入れる覚悟がまだ出来ていないのだ。
 ニキビぐらいの小さな膿なら、まだ耐えられただろう。だがアレクサンダー・コルトの心に膿が出来ているとしたら、その大きさはウミガメのたまご一つ分ぐらいはある。自分でメスを入れるのは、億劫だ。
「私がどうしてこうもあなたを問い詰めるのかといえば、それはあなたを思っているからこそよ。暗い影を心の中に閉じ込めていても、良いことは何もないわ。だから情報の整理と共有も兼ねて、今ここで、あの時にあったこと、感じたことを全部吐き出しなさい。終わるまでは、あなたをこの部屋から出さないわよ」
 いつもなら、お節介を焼く側だった。それが今では、お節介を焼かれる側に回っている。アレクサンダー・コルトはこの状況を、心底情けなく思っていた。
 自分の尻は自分で拭けるものだと、そう思い込んでいた。だがこと感情のことになると、いくら年を重ねようが、そうはいかない。
「はぁ。アーサー、か。……彼は、いつも通りでしたよ。考えてることがまるで分からない。難解な言葉だけを連ねて、明確な意味は伏せるけれど、彼の声を聞いた者の心の中に、確実に闇を植え付けてくる。そういう感じでした」
「アレックス。そんな回りくどいこと言わなくていいのよ」
「じゃあ、何を言えば」
「あなたが感じたことを、率直に言えば良いのよ。怒りとか、憎しみとか。あなたは他者の感情の機微に関しては意外と、感応性が高いし。あなたは日ごろ、感情を溜め込んで鬱屈するようなタイプじゃないから、相手の心をキャッチできる余裕が常にあるのよ。つまり、あなたが感じたことは大抵、相手の中に渦巻いてる感情そのもの。だから正直に、その時にあなたが感じたことを私に教えてくれれば、それで十分だわ」
 マダム・モーガンが発したその言葉は、アレクサンダー・コルトにとって、どこかで聞いたことがあるような台詞だった。記憶を遡れば、はるか遠く。十七歳だった時代に戻るかもしれない。
 カルロ・サントス。彼なら、どんな助言をくれるだろうか。どうやって、欠けたピースに至る道筋を教えてくれる?
「たしかフロイトはそういうのを、転移って呼んでなかったかしら? あー……転写だっけ? まあ、どっちだっていいか。それでアイリーンから聞いた話が正しければ、それってあなたの特技よね、アレックス」
「特技ではないですよ。ただ、アタシは……」
「まあ、細かいことはどうでもいいわ。だから、ほら。早く教えて。あなたはアーサーに対して、何を感じたの?」
 マダム・モーガンからの要求は、極めて単純なもの。だが単純であるからこそ、言葉にするのが難しいときがある。
 あの時、アーサーのあの言葉を聞いて、感じたのは……強いて言うなら、空虚さと絶望だろうか。怒りという感情はまったく湧いてこなかったし、心の中にあったのは己の無力さに対するバッシングと、愚かさに対する恨み。それはアレクサンダー・コルトが自分に対して向けた批判であり、彼女には到底それが『転移』により雪崩れ込んできた他者の感情、ましてやあの理不尽極まりない死神の思いだとは思えなかった。
「……何もかも、辞めにしたいとは思いましたよ。消えてしまいたいって。ですけど、それが転移だとは」
「決めつけは良くないわ。だからそのまま続けて、アレックス」
「……彼は、ダグラス・コルトが死んだのはアタシのせいだと言ってました。アタシが何もしなければ、誰も死なずに済んだかもしれない、と。その通りだと、思いましたよ。たしかに、アタシがアーサーを裏切ろうなんて真似をしていなければ、親父は死んでいなかったかもしれない。悔しくて、堪らないですよ。理不尽だとは思うけれど。アタシと彼は、同等の立場じゃない。それを忘れて、クーデターまがいのことをやらかそうとしたアタシが、馬鹿だったんです……」

 僕のせいで、妻は死んだんです。彼女は、殺された。
 僕があいつの神経を逆撫でするような真似をしたから、キャロラインは……。
 ――すべて、僕が悪いんです。
 なのにどうしてやつらは僕でなく、無関係な彼女を殺したんです?

「アタシが何もしなければ、今頃生きていたはずの人間だって居たんだ。ASIのアルファとブラボー、チャーリー。デルタだって大怪我をしていなかっただろうし、エコーもジュディも骨を折らなくて済んだかもしれない。アタシだって、こんな怪我をしてなかったと思う。イザベル・クランツ、彼女に変な重荷を与えることもなかったかもしれない。アタシの行動が、この結果を招いたんだ。そう思うと、居たたまれなくて。消えてしまいたいと思うんですよ。アタシなんかが居なければ、って。だからラドウィグに生かされたことが、辛いんですよ。アタシなんかよりも、まだ未来もあれば実力もあるアルファのほうが、選ばれるべきだったのに。どうしてって……――ラドウィグは悪くないって、分かっちゃいるんですけど。それでも……」

 目の前で撥ねられた彼女を、救うことが出来なかった。
 そりゃ何度も考えましたよ、どうして僕でなく、彼女が選ばれたのかと。
 どこまでも純粋な、汚れも罪もない女性だった。なのにどうして、彼女だったんでしょう。
 ずっと汚れていて、卑しい人間である僕が生かされたのは、どうして……。
 ――まあ、子供らの前ではこんな泣き言なんて絶対に言えないですけど。

「怒りも恨みも、ありません。ただ、遣る瀬無くて。それに今でも分からないんですよ。どうしてアーサーが、あんなことをしたのかが……」

 エズラ・ホフマン。あれに怒りも恨みもないです。
 ただただ、浅はかだった自分が恨めしい。
 けれど、僕には分からないんです。何がしたいんですか、あいつは。
 マダム・モーガン、教えてください。やつらの目的は、いったい何なんです?

「ほら、アレックス。やればできるじゃないの。そうよ、それ」
 気が付けばまた、涙がぽろぽろと出ていた。そんなアレクサンダー・コルトに、マダム・モーガンはハンカチを差し出しながらそう声を掛ける。ひとり納得している顔のマダム・モーガンに、アレクサンダー・コルトは理解が追い付かないまま、差し出されたハンカチを受け取った。
 やればできるじゃない、と褒められた。しかし、何に対して誉められた? そこがさっぱり、アレクサンダー・コルトには分からない。それも、仕方のないことだった。
 マダム・モーガンが思い出して、ひとり納得していたのは、アレクサンダー・コルトが生まれるよりもずっと昔に起きた出来事。半世紀は前の話なのだから。
「マダム・モーガン……?」
「不思議なものよねぇ、まったく。アレックス、それはあなたの感情であり、同時に彼の持ち物なのよ。そして私は昔、今あなたにしたように、彼にハンカチを渡したっけ……」
 マダム・モーガンの中で組み立てられていた仮説が、ついに確信へと変わる。アーサーは心労が祟って、遂に狂気に堕ちたのだ。そうとしか思えなかった。
 約六〇年前に亡くした最愛の妻、約四五年前に暗殺された娘、そして約二十五年前に惨殺された息子。愛する者を全て奪われた男の絶望は、やがて闇となって、彼自身を飲み込んだのだろう。そんな時に起こった、裏切りの連鎖。パトリック・ラーナーの謀反に始まり、ペルモンド・バルロッツィの自死に、アレクサンダー・コルトとラドウィグのクーデター。絶望に起因する怒りという闇が一転、空虚さというブラックホールを発生させ、何もかもを壊してやろうという意志でも生み出したのだろうか。
「……マダム、それはどういう意味ですか?」
「彼がまだ若くて、人間だった頃の話。今のあなたと似たような泣き言を、彼は私に零していたのよ」
 それに人々は、彼に『人類の敵』であることを強く求めた。始まりは、彼の父親。『殺人鬼の息子』と誹り続けて、父親は彼を育てた。また子供時代、周囲の人々は彼を『差別主義的言動の多い極右政治家の息子』という色眼鏡で見ていたし、彼はどこに行っても追いやられ続けていた。それでもすべてを堪えて耐え続けた彼は成人し、それなりの人生を得たが。その矢先に起こったのが、現在では『アルテミス』や『ローグの手』と呼ばれる悲劇だ。人々は彼を『ボストンで起きた悲劇の首謀者』と認定し、彼を執拗に誹った。そして現在、アルストグランにおいても彼は『憤怒のコヨーテ』と呼ばれて、畏れられ、疎まれていた。
 どこまで『アーサー』という男が加害者であり、そしてどこからが被害者なのか。その境界は、まるで曖昧だ。だが、彼に邪悪な側面があることは否定できないだろう。しかしその邪悪な性格さえも、彼が受けてきた苦痛より発現したものだったら? 善と悪を隔てる境界は、ますます曖昧になっていくはずだ。
 そして、その境界の曖昧さは、彼自身さえも曖昧にし、気が付けば『彼』は失われていた。彼は人類の敵で、殺人鬼の息子で、テロリストで、憤怒のコヨーテで、畏れ多き死神。だが、彼は彼でない。
 文学と音楽と少しの演劇を愛するふてぶてしい男であり、妻にどこまでも従順な夫であり、優しき父親だった男。哀れな生い立ちによって立派な社会病質者となり、それでも可能な限り真人間になろうと苦悩していた男は、もう居ないのだ。
 誰かに求められるがまま、要求された仕事をこなし、望まれた役を演じる役者になり下がっていた。それがアーサーだ。それを彼に求めたのはマダム・モーガンであり、そして世界である。だが、人々は彼がただの役者であることを知らず、役そのものが彼の人となりであると誤解した。解けぬ誤解が蓄積し、何もかもが苛立たしく感じられ、そしてどうでもよくなったのかもしれない。
「それにしても、真実ってのはどこまでも残酷ね。本当に、嫌になるわ。仮にあいつが生きている人間で、法の支配下にあったとしても、心神耗弱じゃあ正当な裁きは与えられないし。そんなやつが野放しなんだから、より最悪よね。……――それで、アレックス。少しはスッキリしたかしら?」
「いいえ、マダム。むしろあなたの言葉が、悩みの種に追加されてモヤモヤしてます」
「あら、そうなの。それは、残念だわ」
 納得しているのは、マダム・モーガンだけ。一方的に全てを喋るよう強要され、その通りにされたアレクサンダー・コルトは理解が追い付かず、固まっている。自分が生まれるよりも昔の話を持ち出されたところで、事情が分かるはずがないからだ。
 しかし……アレクサンダー・コルトは端的に、理解しているつもりだった。だって彼女は大昔に一度、観たことがある。若い頃のアーサー、つまり生前のあの男の一瞬。今は『アルフテニアランドの悲劇』と呼ばれているあの事故の、直前の様子を捉えた映像を。
 あの映像の中の彼はきっと、誰の目にも英雄として映るだろう。最悪な状況がこれ以上ひどくならないようにと、アバロセレンの暴走を制御するために、自ら犠牲になることを選択した勇敢な父親。枯草色の髪を振り乱し、制御システムと睨み合う男の背中は――
「マダム・モーガン。ひとつ、質問が」
「なぁに、アレックス」
「アバロセレンの核、でしたっけ。アバロセレンを誰よりも憎んでいた男が、憎んでいたアバロセレンの根源をどうして手にしようと思ったんでしょうか。それは気が変わったというより、人が変わったとしか言いようがないような気が、アタシにはしてるんです。……マダムは、どう思います?」
 サー・アーサーと呼ばれていた男の、アバロセレンに対する憎悪はつい最近まで健在していたはずだった。少なくとも、アレクサンダー・コルトはそう思っていた。
 だって彼は、アバロセレンを使って悪いことをしようと企んでいる者が居る、なんて情報を耳にしようものなら、すぐに血相を変える男だった。閣僚級の議員が汚職を働いている、だなんていう情報には動じないどころか「いずれ自滅する、放っておけ」と吐き捨て、興味関心を微塵も示さないのに。アバロセレンとなると一転、地中の根も種も残さず焼き払って潰せと、声を荒らげて陣頭指揮を執り、確実に潰してみせるという執念を見せたものだ。
 アバロセレンを何が何でも潰してやるという、彼の憎悪だけは本物だった。アレクサンダー・コルトも、彼のその点だけは信じて良いと思っていた。彼はきっと、アバロセレンをこの世から廃絶させてみせるし、それを時間が掛かってもやり遂げるだろうと信じていた。
 だが。今の彼女は、それを信じることが出来ずにいた。
「アーサー。あの男は、本当は何がしたいんですか?」
 アレクサンダー・コルトの質問に、マダム・モーガンはまず無言で腕を組む。それから少しだけマダム・モーガンは顔を俯かせて、表情を強張らせた。それから彼女は静かに顔を上げると、濁すような回答をアレクサンダー・コルトに返す。
「彼じゃないのかもよ、アバロセレンで何かをしたいのは。むしろアーサーは、何もしたくないのかもしれないし。彼の中には今も変わらず、アバロセレンに対する憎悪はあるのかも。……ペイルだって、彼が作りたくてアバロセレンなんてものを生み出したわけじゃないんだから」
 マダム・モーガンのその言葉は、アレクサンダー・コルトも普段よく使っている手法だった。面倒な質問を投げかけられたとき、明確な答えを避けるために「かも」という仮定の話を持ち出す。そうして、場の空気を誤魔化して濁してしまうのだ。それ以上の追及を避けるために。
 その手法を用いるとき、裏にあるのは二つの状況。ひとつは、まだ何も分かっていないからこそ、何も断言することが出来ない状況。もう一つは、隠さなければならない歪んだ真実が在る時で、断言することは避けるが、答えをそれとなく匂わせて伝えたい状況。
「……マダム。どういう意味ですか、それは?」
「ペイルに取り憑いてた黒狼ジェドとか? そういう類のやつよ。似たようなのがアーサーにも付きまとってるんじゃないのかなーって。あくまで私の仮説だけどね。または、あのクソカラス……」
 仮説。そう言うマダム・モーガンだが、彼女の確信は九割以上といったところが、その表情からは窺える。アレクサンダー・コルトとしては到底受け入れがたい、そして信じがたいマダム・モーガンの『仮説』だが……マダム・モーガンが言うのだから、そうなのだろう。
 しかし、だ。黒狼ジェド。その存在が実在するかどうか、アレクサンダー・コルトは未だ半信半疑。「……ジェドのような類、ねぇ……」
「あなたもジェドは見たことあるんでしょう、アレックス。それにあれのエメラルドグリーンの目は、一度見たら忘れられないはずだし」
「ええ、まあ。緑色の目をしたペルモンド・バルロッツィに、アタシは脇腹を撃ち抜かれてますから。でもあの時、彼は自分のことをジェドだと名乗らなかった記憶があるんですが」
「あー、十中八九その時に名乗ったのって“猟犬アルファルド”でしょう? それはジェドとは少し違う。けれど、あなた幸運ね。猟犬と対峙して生き延びるなんて」
 マダム・モーガン、アーサー、アイリーン、ケイ。彼らは、黒狼ジェドは居ると言っていた。
 パトリック・ラーナー。彼は、あくまでペルモンド・バルロッツィのもつ一面に過ぎないと切り捨てた。
 ブリジット・エローラ。彼女は、ペルモンド・バルロッツィは幾つもの仮面を持つ男であるが、黒狼ジェドはそれとは切り離して考えるべきだと記していた。謂わばあれは、悪魔憑きのようなものだと。
 そしてラドウィグ。彼は特に何も言わないが、彼の目には何かは見えているらしい。それにヒューゴ・ナイトレイは、黒い狼がどうのと嘯いていた。
 黒狼ジェドは、存在するのかもしれない。仮に、存在するとして。それと似たようなものが、他にも存在していて、更にアレクサンダー・コルトが知る限り一番の、良心やら倫理感、道徳観念というものが欠けているサイコパスに取り憑いているだなんて……――想像するだけでも、おぞましい。それが現実にあるのだとしたら、もう……言葉もない。
 仮に、マダム・モーガンの言葉が本当なら、人類の黄昏は確定したも同然だ。そうとしか思えない。
「……マダム・モーガン。あんたは本当に、ペルモンド・バルロッツィの古い知り合いなのか?」
「ええ、そうよ。ずっと前から、そう言ってるじゃない。彼が引きこもりがちな本の虫だった頃も知ってるし。孤高の星なんて呼ばれて周囲に羨ましがられて憎まれるほどの、つれない美少年だった頃の彼も知ってる。それ以降の彼の全ても、概ね把握してる。けど、まあ……そんな話は、どうでもいいわね」
 『曙の女王』の件は、死神の気まぐれが発生して、幸運にも決着がついたと思ったら。事態はそれだけで終わらず、もっと負の連鎖は続くであろう様相を呈しはじめた。考えれば考えるだけ、気が重くなるし、解決すべき問題が見えないことに苛立ちが募る。少なくとも、アレクサンダー・コルトはそうだった。
 だがマダム・モーガンは、深刻そうな顔こそしているものの、こんな状況には慣れているというような堂々たる佇まい。そんな彼女は頼もしくもあり、同時に不信感が煽られる。
「それから、ついでなんだけどー……――アレックス、実はね。あなたの耳に入れておきたいことがあるのよ」
 すっかり生気を失くした目をしたアレクサンダー・コルトの頬を、ぺちぺちと平手で叩きながら、マダム・モーガンはそんなことを言う。そしてマダム・モーガンは、悪報に次ぐ悪報を齎すのだった。
「アイリーン・フィールド。彼女が今朝、アリス・スプリングスのパトロール警官に射殺された。恐水病みたいな状態で彼女は街を彷徨っていて、通行人を見境なく襲っていたから……まあ仕方ないわね。そしてアイリーンが死んだ直後、彼女の身体が爆発したのよ。そしてアンザックヒル周辺が、一瞬にして吹き飛んだ。跡形もなく、きれいさっぱり。アンザックヒルは今、まるでボストンのような状態になっているわ。そういうわけでASIは今、その調査で大慌てよ。連邦捜査局もじきに動き出すでしょうね」
「……なんだって?」
「まあ要するに中規模のSODが地上で発生して、一瞬で消えたのよ。アイリーンの身体には私の血というか、アバロセレンに似たものが混じっていたし、それが燃料になったんでしょうね。そして彼女の死が起爆剤となって、爆発した。そんなとこかしら?」
 さらりと、マダム・モーガンは今朝起こった事故を告げる。近くの道路で交通事故があったけど被害者は軽傷で済んだみたいよ、と言うような声の調子で、恐ろしい悲劇を彼女は口にしたのだ。
 中規模のSODが、地上で発生。街がひとつ、きれいさっぱり消滅した。
 そしてSODを引き起こしたのは元同僚、アイリーン・フィールド。
「……そういえば、マダム・モーガン。あんたはアイリーンが、もう人間の姿をしていないって前に言ってましたよね」
「ええ。私が最後に見たときアイリーンは、関節があちこち外れているような状態で、床に爪を立てて這いつくばりながら、泣き叫んでいた。彼女はもう駄目だと思って、私は彼女を見捨ててきたのよ。地下本部に、置き去りにした。せめてあの時に私が、彼女に引導を――」
「あの時にあの場所で何があったから、そういう状況になったんです? アーサーが何かをしでかしたってあんたは言ってましたけど、本当はどうなんですか」
 終わっちゃいない、何もかも。
 分かっちゃいない、何もかも。
「アレックス。それは私だって知りたいことよ。けれど、私には分からない。死の間際にパストゥールが、アーサーが全てをやったと言っていたから、私はそれを信じただけだもの」
「あんたは、彼と同じ存在なんだろ? なら、彼にできることはあんたにも出来る。それなら彼がやりそうなことを、あんたは分かるんじゃないのか。マダム・モーガン」
「いいえ。私は、アバロセレンなんてものが生まれる前に創られた死神。彼はアバロセレンがこの世に生まれた後に、アバロセレンの核を基にして創られた。似ているようで、全然違うのよ。だから分からないわ」
「それじゃあ、曙の女王は? アンタは彼女が、リアクターだかエンジンだかを破壊したから、この異常気象が起きたとか言っていたが、そんな壊すようなもん実在していなかっただろう? なら、彼女は何をしたんだ」
「ええ、そう。曙の女王と呼ばれた彼女は、リアクターやらエンジンを壊してはいないわ。彼女が破壊したのは、その傍にあったサーバーたち。あの地下施設に誰も立ち入れないようにと設置された、防衛システムの頭脳であるサーバールームを、彼女は壊したのよ。だからあなたたちASIは、あの場所に踏み入ることができた。彼女がサーバールームを破壊していなかったら、あなたたちはタングステンのドアを開けた瞬間に、防衛システムに焼き払われて、黒焦げになっていたでしょうね」
「それじゃ、この異常気象の原因は?」
「それは、私にも分からないわ。私だって、この世の全てを把握しているわけじゃない」
「どうだかねぇ? またそうやって嘘を吐いて、何も知らない馬鹿な人間を騙そうとしてるんじゃないのかい、あんたは」
 もう何も、聞きたくなかった。何も、考えたくなかった。今のアレクサンダー・コルトの正直な本音はそれ。それなのに彼女の傍には、また面倒な騒動に自分を巻き込もうとしている厄介で疎ましいマダム・モーガンが居る。
 何もかもに、アレクサンダー・コルトはうんざりしていた。全てを見捨てて、全てを投げ捨てて、ひとりになりたかった。……しかしそれすらも他者に移された感情であるとは、アレクサンダー・コルトは気付いていないだろう。
「ええ、そうかも。私は嘘を、よく吐いている。今も、大勢の人間を騙しているでしょう。でも私は、あなたにだけは嘘は吐かない。だってあなたは直感的に、嘘を見抜いてしまうひとだから」
 今の彼女には何を言ってもダメだと判断したマダム・モーガンは、それ以上は事件の詳細を明かすことはせず、話題を切り上げる。代わりにマダム・モーガンは、こんな話を切り出した。
「アストレア。彼女はあっちで、元気にやってるわよ。北米の水のほうが彼女には合っていたみたい。二度とこの地には戻らないと思うわ」
 アレクサンダー・コルトが食いつくかと思って、振ったその話題。しかしアレクサンダー・コルトは興味を示さず、それどころか聞かぬふりを決め込んでいる。
 片腕の身体でぎこちなく帰り支度を進めるアレクサンダー・コルトは、もはや心の耳を塞いでいた。何を言ってもダメだったのだ。
 彼女に対する期待を、ほぼ全て諦めたマダム・モーガンは無言になり、アレクサンダー・コルトに背を向ける。そしてマダム・モーガンは煙のように、静かにその場から消え去っていった。


+ + +



『モーガン。どういうことなんだ、これは……?!』
 西暦、四二三四年。まだアルストグラン連邦共和国が、空に浮かぶ前のこと。幼い娘を連れて、北米からオーストラリア大陸へと亡命してきたばかりのペルモンド・バルロッツィは、自分が耳にした声を聞いて、耳を疑っていた。しかし目の見えぬ彼には、目の前にある景色が見えていない。
『ペルモンド。あんたは自分の仕事に集中しなさい。サーバールームに戻るのよ。防衛システムの構築は、まだ終わってないんでしょう?』
 彼の質問には答えないという態度を見せるマダム・モーガンの手には、外科用のメスを握りしめられている。そしてジャケットとシャツの袖を肘まで捲り上げている彼女の腕は、すっかり蒼白く染まっていた。彼女の小麦色をした手は蒼白く発光する液体で濡れ、その液体は肘へと伝っている。
 マダム・モーガンの手に握りしめられた外科用メスの刃は、彼女に抱き着くようにしがみついていた男の胸に突き刺さっていた。場所は、肋骨のちょうど中央。心臓よりも、少し上の位置。そして刃は可能な限り深くへと刺さり、ゆっくりと下へ下へ、腹のほうへと降りていく。
『行きなさい、ペルモンド! あんたは、あんたの仕事をやるのよ! 娘の命が惜しいなら、自分の仕事をやりなさい。そうじゃなきゃ私は、あんたとあんたの娘を元老院から守ってやれないのよ!!』
 狼狽えているペルモンド・バルロッツィに、マダム・モーガンはそう怒号を上げる。すると渋々、彼は動いた。この時の彼には、ひとり娘の命が掛かっていたからだ。
 アバロセレンの核を封印しなければ、娘を殺す。ただし仕事をやり遂げれば、今後も娘を生かしてやろう。……そんな脅しを当時、ある組織を隠れ蓑に下元老院から彼は掛けられていた。だから彼は、やるしかなかったのだ。
 それは彼を家族のように思っていたマダム・モーガンも同じ。そして、そのためには犠牲が必要だった。良心の呵責がなんだろうと、やる必要があったのだ。
『……ごめんなさいね、アーティー。悪いとは思ってる、だけど許してちょうだい……!』
 アルフテニアランドの悲劇が起こったとき。マダム・モーガンは暴走を起こしたアバロセレンの核を二つに割り、それを手ごろな場所にあった死体の中に詰めて隠して、その死体をオーストラリア大陸に持ち帰っていた。それは彼女の主である神が、そうするようにと助言したから行ったこと。まさか結果がこうなるなど、彼女は予想もしていなかった。
 持ち帰った死体を、ある場所に作った地下空間に彼女は運び、そこにしばらく放置していた。マダム・モーガンは死体に防腐処理等は特に施していなかったし、地下空間は常温の状態。しかし一向に腐る気配のない死体に彼女が違和感を覚えたのが、ことの始まり。違和感を覚えた数日後に、あろうことか死体は息を吹き返していた。それも彼女と似たような体に変化した状態で生き返ったのだ。
 だがその死体が生き返っていることにマダム・モーガンが気付いたのは、ついさっきのことだった。てっきり死んだままだと思っていた彼女が、眠っている死体を開胸しようと、その体にメスを入れたとき。死体が目を見開いて叫び声をあげ、抵抗するように彼女に飛び掛かってきたのだ。
 そうして死体と揉み合いになりながらも、マダム・モーガンが死体の胸にメスを突き刺したのが、つい数十秒前の出来事。彼女の肩にしがみつき、そして彼女の背中に爪を立てる不幸な死体は、つらい痛みに呻き声よりも大きい声を上げることが出来なくなり、爪を立てる以上の抵抗が出来ない状態になっていた。
『……あんたの体の中から、ブツを取り出さなきゃいけないのよ。大人しく、死んでなさい……!!』
 そう呟くマダム・モーガンは、背中の痛みに表情を歪めると同時に、自分の肩にかかる死体の体重と冷たい体温、死体の流す冷たい涙を感じていた。そしてそれらが、自分が今まさに行っていることの残虐性を彼女に知らしめる。
 想定外の事故だったとはいえ。相手は、既に死んでいるとはいえ。こんなことになるだなんて。
『……お願いよ、アーティー。死んで。あんたは死んでいるの。起きてちゃいけないのよ……!』
 一際深く、メスを握る手もろとも体にねじ込むほど深く、マダム・モーガンは死体に刃を突き刺す。すると遂に死体の抵抗は終わり、死体はまた死んだか、もしくは失血で気を失った。動かなくなった死体を床に叩き落すマダム・モーガンは、叩き落すと同時にメスを引き抜く。するとその時、彼女の背後から不快な笑い声が聞こえてきた。
『ヨォ、モーガン。どうやら終わったようだなァ。ケケッ』
 マダム・モーガンが声のしたほうに振り返ると、そこには彼女の主であるカラスが佇んでいた。そして異形の血に濡れ、蒼白く光るマダム・モーガンの腕を見ながら、カラスは笑う。それからカラスはさらに、後悔に苛まれるマダム・モーガンに対して、とんでもない注文をしてみせた。
『そんでだ、モーガン。そこの死体を、複製してくれェな。ほれ、一〇年前だかに弟くんを複製した要領でヨ。ンで複製したほうに、そこの死体の胃袋の中にあるほうの核をねじ込んでくれ。心臓部になァ? ケケッ。当然できるよなァ、モーガン? お前ェサンがやってくれなきゃ、またこの地で、ボストンと同じ悲劇が起こるゼ?』
 カラスの有無を言わさぬという雰囲気に、マダム・モーガンは口を噤む。どうやらやるしかないらしいと、彼女は静かに悟った。
 カラスはきっと、この展開を予測できていたのだろう。死体が息を吹き返すということを。
『……キミア、あんたは何を企んでいるの』
『お前ェサンは知らなくていいゼ、モーガン』
 そしてマダム・モーガンがまたカラスに言われたとおりに動けば、何かが起こる。彼女には何が起こるかなんて分かりはしないが、しかしカラスはどうなるか分かっている。
『それにヨ、俺ちんは最近、お前ェサンだけだとちと戦力に不安があると考えてたんでィ。こいつァ、ちょうどいい。シスルウッド・アーサー・マッキントシュ、こいつァ良い死神になると、お前ェサンもそう思わねェか?』
 悪いことが起こる予感しか、マダム・モーガンにはしていなかった。だが、従うことしか彼女にはできない。それがキミアの眷属である彼女の定めなのだから。





 三日も続いた、ホテルでの軟禁状態は解かれた。
「それでは、イザベル先輩。オレはここまでです。また、このラボの外に出るときにはお迎えに来ますので」
 大統領官邸から借りた防弾仕様の黒いリムジンの運転席から、ラドウィグは後部座席に座る女性に声を掛ける。すると、すっかり疲れ切った顔のイザベル・クランツ高位技師官僚は、約一週間ぶりに帰ってきた研究所の門を見るなり、安堵の溜息を零したのだった。「やっと帰ってきたわ、安全な我が家に……」
「このラボは、あのペルモンド・バルロッツィが築いた、難攻不落の要塞ですからね。この中に居る限りは、絶対に安全ですし。オレも必要ないでしょう?」
「私としてはあなたに、このラボに帰ってきてもらいたいけれど。そういうわけには、いかないの?」
 悲しそうな顔でそう言ってきたイザベル・クランツ高位技師官僚に、ラドウィグも残念がるような表情で「今のオレには新しい仕事があるんで」と言葉を返す。しかしイザベル・クランツ高位技師官僚は、食い下がった。「レオンハルトもアーヴィングも、ハロルドも、あなたが帰ってきたらきっと喜ぶのに。ロザリンドも、ヴェルナーだって、あなたのことを心配しているのよ、今でも」
「オレも、戻れるなら戻りたいですけど。残念ながら、ASIがそれを許してくれないでしょうね」
 ラドウィグとて、それを望んでいないわけじゃない。だが彼は不本意ながらも、一度は闇の世界に足を踏み入れて影となった身。そうである以上、彼は光の当たる場所に戻るわけにはいかなかったのだ。
 戻りたいという思いは、勿論ある。再会したい人もいる、もう一度会って話したい人もいる。同じ家で育った義兄のヴェルナーと、義姉のロザリンドは特にだ。だが、その願いは危険と隣り合わせなのだ。影と接触した者は、影の世界からの攻撃を受ける可能性がぐんと高まるのだから。
 そんな危険を、ラドウィグは冒せなかった。今でも過去を大事に思うからこそ、会えないのだ。自分のせいで、彼らの未来を台無しになんかしたくない。だから。
「オレのことは、どうか内密に。オレは死んでるってことで、お願いします」
「分かったわ。うちの元研究員であるルートヴィッヒ・ブルーメは死んだ。でもラドウィグは、生きている」
「いいえ、ラドウィグなんて男は存在しませんよ。オレは、影ですから」
「あらやだ、そこまで徹底しなきゃいけないの?」
 作戦失敗からの敗走から、四日。イザベル・クランツが高位技師官僚に任命されてから、四日。二人にとって、それはそれは随分と忙しい四日間となった。
 新しい高位技師官僚の誕生は、世間に大きな驚きを齎したそうだが、その影響は今のところは特にない。だが、もし目に見えた形で影響が現れるならば、それはこれからだろう。
 どちらにせよ、新しい高位技師官僚の評価は世間ではまちまちらしい。評価する人もいれば、彼女は相応しくないと非難する人もいる。まあ、前の高位技師官僚とてそれは同じ。それに全ての人に好かれる人間なんてものは存在しない。アバロセレンの廃絶を訴える高位技師官僚であるならば、尚更に評価は分かれるだろう。
「徹底しないといけないんですよ、高位技師官僚。これからあなたには、オレなんかよりもずっと厄介な秘密が増えていくんですから」
「やめてよね、ラドウィグ。高位技師官僚なんて、今は呼ばないで。今はただのイザベル・クランツなんだから」
「……分かりました、イザベル先輩。今だけですよ。でも次に会う時からは、高位技師官僚と呼ばせていただきますから」
「私はあなたに、今のままであって欲しい。あなたとは、畏まった関係性になりたくない。それに、あの能天気なルートヴィッヒが堅物になるなんて、私には想像できないし」
「……ASIの言いつけを守らないとオレ、極地行きになるんですよ。南極の、ひとの居ない場所にTシャツ短パン姿で流してやるって、ASIのコリンズ長官に脅されてるんです、冗談抜きに。真夏の装いで南極になんか行きたくないんですよー。だから、お願いしますって」
 半分冗談、半分本当のことを言い、ラドウィグは彼女に拝むような仕草をしてみせる。
 人前で、高位技師官僚と友人のように振舞ったら最後、極地行きにしてやるぞ――とサラ・コリンズ長官に脅されたというラドウィグの話は、可哀想なことに事実。しかしそれは、人前でなければ別に構わないということでもあった。
 けれども、それをイザベル・クランツ高位技師官僚にバラしてしまえば、きっと彼女の気のゆるみを生むことになるだろう。今は隠しておくべきで、むしろ常に気を遣わねばならないと誤解させておいたほうが良いと、ラドウィグはそう判断していた。……それは、とても悲しいことではあるが。
「それじゃ、イザベル先輩。また後日」
「またね、ラドウィグ。あなたのこと、頼りにしてるわ」
 そうしてラドウィグは手を振り、イザベル・クランツ高位技師官僚に別れの挨拶をする。イザベル・クランツ高位技師官僚も彼に微笑みを返すと、リムジンから降りていった。
 彼女の背中を見送った後、ラドウィグは溜息を吐く。そうして彼がエンジンを踏み、リムジンを大統領官邸に向けて走らそうとした時だった。助手席のほうから、キツネの鳴き声がしたのだ。
 くぅーん。甘える仔犬のように、そんな声を立てる仔狐――成猫と同じくらいの大きさ――が、助手席のシートの上に座っていた。処女雪のように真っ白い毛並みに、炎を思わせるエキゾチックな文様が朱色で描かれているその仔狐は、なんとお尻に九本もの尻尾を生やしている。
 そいつは、ラドウィグの“見えない”相棒。中位の神というカテゴリーに位置する、いうなれば神話などに登場する“精霊”というものに近いような存在。東洋の島国を住処にしているとか、俺は神狐の一族で一番美しい狐であるとか、まあそんな風に自称している狐。リシュという名の、炎を操る狐だ。
「あ、リシュ。おつかれ。先に言っておくけど、イナリズシはまだ作ってないよ。ここ数日、材料を買いに行く暇がなくてさー。ごめんね」
「ちぇ……気が利かないなー、お前」
 労いの言葉の直後にラドウィグが宣告した事実に、その狐は不満を露わにするように、黒い鼻の孔を大きく開いた。そして人語で、そんな不満を漏らす狐は徐に立ち上がると、のそのそと移動し、運転席に座るラドウィグの太腿の上にちゃっかりと座る。そうして狐はイエネコのように、ラドウィグの太腿の上に丸くなって寝そべるのだった。
 普通の人には明かせない、ラドウィグの奇妙な秘密。そのひとつがこれ、神狐のリシュだ。
「まっ、寿司はいつでも食えるからいいぜ。俺は寛大だから、許してやるよ」
「ありがと、リシュ。それじゃ尻尾もふもふしていい?」
「それは許さん。俺の尻尾をもふもふしても許されるのは、八歳までだ」
「冗談だよ。それに今、運転中だからどっちにしろ無理」
 元々リシュは、異境の地で神職に就いていたラドウィグの母と行動を共にしていた狐。その関係でラドウィグとの付き合いは長く、それこそリシュのほうはラドウィグのことを、彼がまだ母親のお腹にいた頃から知っている。しかし、まあ……詳細は、省こう。その話は、長くなるのだから。
 そんなこんなで、九尾の神狐と猫目の青年の関係は今も健在。だが、かつて狐の尻尾をもふもふして遊んでいた少年は今、仕事が忙しいと嘆いては狐に雑用を頼むような若者になっていた。狐は実は少し、寂しかったりもしている。ほんの少しだけだが。なので少し、狐は嫌味を言いたくなる。
「それにしてもだ、ルドウィル。お前ってやつはどこに行っても、周りの人間に掻き乱されてばっかりだよな。流石に、哀れに思えてならないぜ。お前には性格からして、研究者とかのほうが合ってただろうに。いつもお前は周りのせいで、やりたいことができないでいるよなー? なんで、どうして、教えて教えて――そればーっかりが口癖だったガキんちょが、今じゃ『知らなくていいこともある』なんてのたまうようになったんだから」
 ラドウィグの本名『ルドウィル』を、正しい発音でキチッと言う狐は、当の本人が一番モヤモヤとしていることを槍玉にあげ、ちくりちくりと嫌味を連ねる。そんな狐の嫌味に、ラドウィグは眉間にしわを寄せるのだった。それはオレが一番、疑問に思っていることなんだ、と。
 しかし、泣き言は言っていられない。それに彼の人生の中で、自由に自分が歩きたい道を選べたことなんて一度もあったためしがない。さらに悪いことにラドウィグは、こんな人生に慣れている。そんな彼は物事を捻じ曲げて捉え、前向きに考える術を得ていた。だからいつものように、彼は開き直る。「こればっかりは仕方ないよ、リシュ。オレはそういう運命の下に生まれてきたってことだろ?」
「仕方ないからって、それを受け止められるのか、お前は。本当に、変わってるな……」
「たしかに、今までの何もかもが、どれも自分のやりたいことじゃなかったけどさ。まあ、ペルモンド・バルロッツィより不幸じゃないだけオレはまだマシなほうだよ。彼の人生のほうが、オレよりも悲惨さ。オレは不幸っちゃ不幸だけど、彼よりはうんとマシ」
「お前ってさ、妙に前向きだよな。お前の親父、木偶のベンスに、悪い意味でよく似てるというか。母親のフリアはそういう時、後ろ向きに考えるタチだったから」
「あー、リシュ。昔話は後にしよう」
「俺はまだ、お前の不幸話がしたいぞ」
「オレはしたくないね。それで、リシュ。マダム・モーガンからの依頼は無事に終わったんだよね? ちゃんと竜神カリスに会えた? 依頼を果たしてくれてないなら、オレはイナリズシを作らないよ」
 ついでにラドウィグは、闇社会で揉まれるうちにスルースキルというものを身に着けていた。狐の嫌味をするりと躱すと、ラドウィグは狐に頼んでいた雑用についての話を切り出す。狐はラドウィグの膝の上で伸びをすると、欠伸をして、こう答えた。
「おうよ、ちゃんと竜神カリスに伝えてきた。それで、竜神カリスから伝言を預かってる。だから寿司は作れ、それ最低限の礼儀だから。お前な、人間の分際で神さまをこき使ってるんだぞ? 分かってるのか?」
 ラドウィグが、この狐に頼んだ雑用。それはもともと、マダム・モーガンから頼まれたものだった。
 マダム・モーガンからの頼み事は、ひとつ。上位の神、竜神カリスと呼ばれる存在に伝えてほしいことがある、ということ。どこからマダム・モーガンが情報を得たのかは知らないが、実はこのラドウィグ、その神さまと知り合いである。彼の相棒である神狐リシュもまた、知り合いであった。
 しかし、件の神さまというのは所在がなかなか掴めないことで知られている。ある筋の話によれば、アバロセレンなるものが人類に広まったのと同時に、その神は姿を見せなくなったそうだ。そういうわけでラドウィグは、伝言を頼まれたところで件の神さまに会うことも出来なければ、見つけ出すこともできなかったし、なによりここ数日はイザベル・クランツ高位技師官僚に張り付いていなければいけなかったため、そんなことをしていられる時間的余裕がなかったのだ。そこでラドウィグは、この依頼を相棒の狐に押し付けたのである。
 それに狐のほうが、そのテのことには長けていた。優れた嗅覚と、各地に張り巡らされた情報ネットワークを、この狐は持っていたのだから。そしてラドウィグに押し付けられた雑用を、この狐はたった二日ほどで完遂し、こうして戻ってきたのである。相手方からの伝言も携えて戻ってきたのだから上出来だろう。
 本来なら、ここは狐を褒めてやるとこなのだろう。しかし先ほど狐が発した嫌味は、なんだかんだでラドウィグを苛つかせていた。そこでラドウィグは、反撃に出る。狐に、嫌味の応酬を浴びせるのだった。
「でもリシュは、中位の神なんだろ? マダム・モーガンは、たしかピラミッドの頂上にいる『高位の神』の眷属で、彼女の階級はその下の『上位の神』とほぼ同等。で、オレは彼女からの依頼をリシュに仲介しただけだし、つまり依頼主は――」
「あー、あーっ! 分かった、分かったよ。文句は言わない。昏神キミアの眷属さまにゃ、流石の俺とて逆らえやしないし……」
 そう言うと狐は、ラドウィグの膝の上から降りて、助手席のシートに戻る。そこでしゅんと沈んだように、狐は首を垂れた。
 下から順に、低位、中位、上位、高位とあるらしい神さまたちのピラミッド。低位の神よりも下の扱いらしい人間であるラドウィグからすれば、そんなピラミッドなんて知ったことではないが、神々にとってそのピラミッドは実にシビアな問題であるらしい。縦社会は絶対であるらしく、この通り、高慢ちきな神狐のリシュも、自分より上にいるマダム・モーガンには文句すら言えないようだ。
「ごめんよ、リシュ。今のはちょっと、イジワルしたくなっただけ。イナリズシは作るから安心して」
 ちょっと悪いことをしたな、とラドウィグは落ち込む狐を横目に見ながら、反省する。と同時に、話を脱線させてしまったことにも反省した。そしてラドウィグは、話を本筋に戻す。狐に、彼はこう訊ねた。「それで、竜神カリスの伝言は?」
「そちらが提示した日時に、マラピクリニャで会おうとモーガンに伝えてくれ、とよ。トラブルメーカーのジャーファルを今度こそ守ってみせると、あのドラゴンさん意気込んでたぜ……」
 どうやら狐は、まだ落ち込んでいる模様。そこまであのピラミッドは切実な問題なのか、とラドウィグは狐を哀れむ一方で、疑問に思う。
 ジャーファル。そんな聞き覚えのない単語に、彼は何かが引っかかったのだ。
「……ジャーファル? 何のこと、それ」
 マダム・モーガンから、竜神カリスに伝えてほしいと頼まれた伝言の内容を、ラドウィグも一応は把握している。しかしあの文面には『ジョン・ドーを、人間でなくあなたに引き取ってもらいたい』という旨が書かれているだけだった気がする。書かれていた人名は、たしかにジョン・ドーだった。ジャーファルでは、決してなかったはずだ。
 すると狐は落ち込みムードを脱し、再びラドウィグを馬鹿にするような態度を取り始める。狐は、こんなことを言ってのけた。
「ルドウィル、お前まさか知らないのか? お前たちが“ジョン・ドー”って呼んでるあれの本名だよ。ドラゴンさんと元老院の間で板挟みになっているうちに、野蛮人の集団に殺されちまった挙句、黒狼ジェドに魂を売って悲惨な死後の生を得た哀れな少年さ。元老院だと、ケテルがその少年に執着していたが、まあそれ以上にダートのほうがあれには執着を――」
「あの、リシュ。ごめん。本当に、何が何だかさっぱり、オレには分からないんだけど……?」
「あー、ざっくり言うとだ。ジャーファルも、アストレアと同じだ。元老院に目を付けられて殺され、生き返らされて。好き放題に体を、脳味噌も弄繰り回されて、元老院に忠実な不死身の兵器に作り替えられた、哀れな人間さ。加えてジャーファルのほうは、イカれた天使の容れ物でもある。散々、黒狼に弄ばれて、可哀想としか言いようがないよな。かといって、俺たちにゃ何もしてやれないが」
 まるで常識だと言わんばかりに、狐はそんな情報を口にする。しかしラドウィグには、次から次へと飛び出てくる聞いたこともない話に、疑問符しか出てこなかった。
 極めつけには『アストレアと同じ』。もう、訳が分からなかった。
「……アストレアが、ジョン・ドーと同じ? ってことは彼女も、まさか死人なのか?」
 先日アストレアは、アーサーに連れ去られたと聞いた。ラドウィグも彼女の身を案じていないわけではないが、それが彼女の選んだ道なのだと思って、あまり深く考えないようにしていた。だが……まさか、こんなところで彼女の名前を聞くことになるとは。それも彼女が、死人であるだなんて。
 久々にラドウィグは、思考回路がパンク寸前になるのを感じていた。普段ものを考えるときは、一歩引いた視点から、客観的に物事を見て冷静であるように心がけているのに。とても今は、そんなことを実践していられる余裕はない。
「そうだよ。おいルドウィル、まさかそれも知らなかったのか? あの女には、死んで生き返らされた人間特有の兆候が出てたってのに。モーガンにコヨーテ野郎、それとジョン・ドーにも共通する兆候が」
 あの、アストレアが? たしかに彼女は、時が止まっているかのように若々しかった。自分とほぼ同じ年齢だとは思えないほど、彼女は幼くて、それこそまさに一〇歳前後の子供のようであったが、だからといって……――
「ニオイが何もないんだよ。肉体ってのは生きていたらニオイがあるし、死んだら腐って悪臭を発するが、生きても死んでもない不死者ってやつらはどっちでもないから、ニオイがないし気配もないんだ。特にアストレアは、イカれた天使にマーキングもされてないから無臭だ。俺のこの優れた鼻をもってしても、ニオイが嗅ぎ取れないんだよ。まあ、だからコヨーテ野郎はアストレアを連れ去ったわけだろ? 黒狼ジェドのマーキングがされてなければ、アストレアの体に白狼か、または海鳥ギルを容れられるから。――魂ひとつ殺すことぐらい、冥神ルヌレクタルの他で魂狩りを唯一、例外的に許されている昏神キミアの、その眷属さまにゃ造作もないことだろうし。となりゃ、アストレアに待ってるのは最悪な結末だけじゃあないのか?」
「……?!」
「ルドウィル。お前のその顔からするに、もしや彼女自身もそのことを知らなかったんだな? こりゃ……最悪だ。いかにも、怒れるギルのやりそうなこったぁ」
 天使や、神。そして創造主を自称する者たちが名を連ねる“元老院”。ラドウィグはどちらかといえばそれらについて、並みの人間よりも知識があるほうだろう。この通り、情報通である相棒の狐が、彼にぽつぽつと教えてくれるから。だが、それでもまだ知らないことのほうがうんと多い。
 この仔狐のような姿をしたリシュは、こんな姿でありながらも、齢六千は下らない存在。そんな神狐の知識に、二十五年も生きていないラドウィグが到底敵うはずもないのは当然。そして分からないことが多ければその分だけ、漠然とした恐怖が掻き立てられる。少ない知識だけで、あれこれと考えてしまうのだ。最悪の結末とやらを。結末を出すには、ピースが幾つも欠けているだなんてことにも気づかないままに。
「そうだなぁ、ふむ。――ギルと仲の悪い天使と、コンタクトを取ってみるか? 空飛ぶ白猫、パヌイってやつだ。間抜けで戦力としては心もとないやつではあるが、あいつが守る神器は強力だしな。あーっと、つまり……司神アリアンフロドが唯一、破損していないから処分しなくていいと言っていた天使のことだ。それで、どうするか、ルドウィル」
 あれやこれやと考え始めようとラドウィグがした時、ふと狐がそこまで悲観視していないことに気付く。単にこの狐が薄情で、アストレアのことなどなんとも思っていないというのも、少しはあるのかもしれないが……――勝算があるとそこはかとなく匂わせる狐の口ぶりからすると、そこまで深刻に考えなくてもいいような気がラドウィグにはしてきた。
 リシュがそう言うのなら、きっと大丈夫なのだろう。だから乗ってみようと、彼は思った。それに行き当たりばったりには、ラドウィグも慣れている。
「お願いできるかな、リシュ。そのパヌイっていう猫に会ってみたいかも」
 あいよ、頼まれた。狐はそう言うと、くるりと身を捻って、瞬間に姿を消す。マダム・モーガンらのように、瞬間移動でもしたのだろう。
「……」
 今日、はじめて静かになった車内。そして今日はじめての独りきりの空間。どうにも静かで居心地が悪いと、ラドウィグは唇をへの字に歪めて、ハンドルを握る手の力を強める。
 そんな折、彼の視界に入ったバックミラー。そこに映る自分の顔の険しさに、ラドウィグは可笑しさを覚え、急に笑いがこみあげてくる。しかし運転中である以上、腹を抱えて爆笑するわけにはいかない。
 視界を正面に戻したあとも、何故だかどうにもバックミラーに映った自分の顔が忘れられなくて。思い出しては、口角のにやつきが止まらない。柄にもない真面目な顔しちゃって、どうしたんだよオレ、と。そうして今にも吹き出してしまいたい衝動を必死にこらえていると、ラドウィグの顔はどんどん怪しい笑顔に染まっていく。
 そしてリムジンが交差点に差し掛かり、赤信号に引っ掛かって停車した時だった。
「どうしたの、ラドウィグ。ひとりでニヤニヤしちゃって。なにか面白いことでもあったのかしら?」
 誰も居なかったはずの助手席から聞こえてきた声に、ラドウィグは驚き、絶叫し、クラクションを一度、短く鳴らしてしまう。そんな彼の隣には、いつの間にかマダム・モーガンが座っていたのだった。「マダム・モーガンッ?!」
「あなた、リアクションがオーバーすぎ。そこまで驚かなくてもいいじゃないの」
「心臓に悪いですよ、マダム! 運転中に、突然現れないでください!!」
 赤信号で停車中だったから、良かったものの。予想もしていなかったまさかの出来事に、ラドウィグは心臓がひときわ強く、そして早く脈を打つのを感じていた。一歩間違えれば、事故を引き起こしていただろうマダム・モーガンの登場の仕方に、ラドウィグは純粋な怒りを感じていた。
 しかし少々おいたの過ぎる死神に反省の色はなく、それどころか彼女は登場のように唐突に、自分の利きたいことを一方的に尋ねてくるのだった。「それで、カリスへの伝言の件は無事に済んだのかしら。あの猫ちゃんはちゃんと、仕事をしたんでしょうね?」
「ええ、勿論。リシュは優秀な“狐”ですから。それでリシュ曰く、カリスは了承したそうです。そちらが指定した日時にマラピクリニャで会おう、という伝言も預かってます」
 未だ緊張が抜けきれず、早く脈打つ心臓と、時間が経てばたつほどじわじわと大きくなっていく怒りの感情をひた隠しながら、ラドウィグはそう言う――ぎこちない作り笑顔を浮かべて。するとそんなラドウィグの肩を、マダム・モーガンはこつんと握りしめた拳で小突く。そして彼女は笑顔で、ラドウィグに対しこう言うのだった。「有能な男は嫌いじゃないわ」
「マダム、それはリシュに言ってやってください。あいつ、頑張ってたみたいですから」
 相棒の仕事の結果を褒められて、それで有能な男と言われても、ねえ……?
 作り笑顔を消すラドウィグは、そんなことを疑問に思う。誉めれたところで嬉しくないというのが、彼の本音だ。しかしマイペースなマダム・モーガンは、ラドウィグの言葉など聞いてもいないらしい。そして彼女はまた、自分の言いたいことだけを一方的に言う。
「それでなんだけど、ラドウィグ。大統領官邸に戻る前に、チャイナタウンにちょっと寄り道してほしいのよ。この前の火葬場、覚えてるかしら」
「ええ、まあ。場所は覚えてますよ。でも、どうして」
「ケイと、パストゥール。……私一人で見送るのもいいけど、それじゃちょっと寂しいでしょ? だから、あなたも来てくれないかしら。レイちゃんとジョン・ドーはASIに軟禁されてるし、アストレアは北米だし、アレックスは私の話に今は取り合ってくれなくてね。あなたしか、居ないのよ」
 そんなマダム・モーガンの言葉のあと、ちょうど信号が赤から青に変わる。エンジンを踏み込むラドウィグは、大統領官邸ではなく、チャイナタウンのある方角へとハンドルを切った。
「分かりました、マダム。オレなんかで良ければ、行きましょう」
 ――その頃ASIでは、大統領官邸にリムジンがなかなか戻ってこないことを疑問に思うテオ・ジョンソン部長が、とある局員の紅潮する顔を見ながら、頭を抱えていた。
「ダルトン。……失礼にもほどがあるだろ……」
 はたして、機械であるそれに対し『失礼』という言葉が相応しいのか。テオ・ジョンソン部長の頭の片隅に、そんな疑問もふと湧き上がるが、しかし目の前で公然と行われるセクハラまがいの行為に、テオ・ジョンソン部長は目も当てられない。
 しかしダルトンと呼ばれた情報分析官は、テオ・ジョンソン部長の溜息など聞こえていないようだ。
「……君の肌の手触りはたしかにシリコン、それも上等なものだ。だが拡大鏡で肌を見ると、人間の表皮を細部まで再現しているのが分かる。それに、なによりも君の手は暖かい。一体、君のこの体を創ったのは誰なんだ? 君は、体を作ったのはペルモンド・バルロッツィではないというが、なら君を創ったのは誰なんだい?!」
 ダルトンを始めとする情報分析官が数人、そのヒューマノイドを取り囲んでいた。ある者は好奇の目で、ある者は興奮の眼差しで、ある者はダルトンのように狂乱して。そしてヒューマノイドは、戸惑う人間と同じようにたじたじとしながらも、質問の一つ一つにてきぱきと受け答えをしている。
「その質問はちょっと答えにくいですね、ミスター・ダルトン。一部は機密に指定されていますので、完全に開示するにはマダム・モーガンからの許可が必要になりますが……」
「レイくん。そこを、なんとか!」
「あなたに殉職する覚悟があるのであれば、開示しますよ? しかしボクの出自が、あなたにとってそこまでの価値がある情報であるとは、到底思えないのですが……」
「そうか、うーん……――なら、君の判断だけで開示できる限りの情報を教えてくれ。もっと知りたいんだ、君のことを」
「分かりました、それならば可能です」
 そんなヒューマノイドは、世間では『彗星のごとく現れた、ジェンダーレスのスーパーモデル! レイ・シモンズ』ということになっている。そのヒューマノイドは、きっと誰もが――個々人の好みや主観などはさておき――美しいと称えるであろう容姿を持っていたし、現に様々な場所で、多種多様な言葉によりそれは褒められている。性別を超越した究極の美、とか。現世に舞い降りた至高のエルフ、とか。まるで空想の中から飛び出してきたような、これ以上ない完璧な美女または美男、など。非公開にされている性別が、さらに想像を掻き立て、多くの人々を今も誘惑している。
 しかし、そんなモデルは『作り物』の存在。シリコンの下の皮膚は鋼鉄の機械、つまりヒューマノイドである。だがヒューマノイドだとしたら、どうにも不可解な点が多すぎる。
 それに搭載されているという人工知能にも、また疑問点が多かった。たしかにこのヒューマノイドの受け答えは少し機械じみていると言えるが、しかし機械と切り捨てられない点が多い。状況に応じて笑顔を浮かべたりする判断を人間のように自然に行ったり、皮肉を言ったり、痛いところを突いたり、道具以下のような扱いをされたときには憤ったり。このヒューマノイドに感情があることを、誰も否定できないのだ。
「ボクに搭載されている人工知能の基盤となるアルゴリズムと人工知能モデルを設計したのは“マザー”エリカ・アンダーソン。そのアルゴリズムをより複雑化させ、人工知能に高度な思考能力と情緒的対処を与えて進化させたのが“ファーザー”ペルモンド・バルロッツィです。厳密に言えば、ボクを創ったのはマザー、つまりエリカ・アンダーソンといえるでしょう。ボクを育てたのが、ファーザーです」
「つまり君に人間のような情緒的対処を、つまり感情を与えたのは、ペルモンド・バルロッツィだということか?」
「いいえ、それは少し違います。彼がボクに与えてくれた情緒的対処というのは、いうなれば、そうですね……問題を解決する際に発生する感情的トラブルを、穏健に解決するための方法、みたいなものでしょうか。たとえば、赤字の会社の経営を立て直すために人員を削る時。従業員は大抵、突然の解雇宣告に怒り狂うものだから、経営者はその怒りを宥めるための説明を用意する必要があり、そして怒りを鎮めてもらう代わりの報酬というものを用意する必要がある、といったところでしょうか」
「う、うん? ま、まあ、なんとなくニュアンスは理解したが……そうじゃなくて、だ。君の中にある感情を、君に与えたのは誰なんだということを」
「感情は、魂の問題です。誰かに与えられるのではなく、また人工的に構築されるものでもなく、自然発生するものですよ。それに感情は非効率的なものですし、あまりにも個体差がありますから、定式化はできません。感情を察する能力というのは定式化できますが、感情そのものを数式に組み替えることは無理ですよ。誰にも」
 まさか、ヒューマノイドの口から『魂』なる単語が飛び出してくるとは。――横で会話を盗み聞いていたテオ・ジョンソン部長は、ただただ驚いていた。そしてヒューマノイドが語る哲学的な、少し超然とした話にも、驚くとともにあれこれと考えてしまい、部分的には納得してしまう。
 営業スマイルとも思える穏やかな微笑みで、溢れる好奇心を暴走させる情報分析官を優しく諭すヒューマノイドの姿は、ただの機械だとは思えない。間違いなく、それの中には感情があり、きっと自我がある。自我のことを魂と呼ぶなら、そのヒューマノイドは『魂を持つ』といえるかもしれない。
 しかし。ならば、その自我はどこから来た? 人工知能の中に眠る、膨大な数のアルゴリズムたちからだろうか。それとも人工知能がいつでも自由にアクセスできるという、世界中の莫大なビッグデータの海からだろうか。
 だが。そもそも人間、およびそれなりの大きさの脳を持つ生命は、どうして感情を持つに至ったのだろうか。喜び、怒り、哀しみ、憎しみ、恨み、慈しみ、愛情、絶望、虚しさ。それらは、どこから湧いてくるものなのか。さらに突き詰めていけば、他者と自分を分け隔てる境界線、同一性という自我を、人間はどうやって獲得するに至ったのか……。
 それについて考えれば考えるだけ、底なしの沼に落ちていく。そしてテオ・ジョンソン部長は、はたと気付くのだ。人間はその問題について、明確な答えを持っていないし、その正解を知らない。なのに、感情というものが自分たちの専売特許のようなものだと思っているのだ。
 よくよく考えてみれば、実に愚かしいことである。テオ・ジョンソン部長はそう思ったが、情報分析官ダルトンはそうは思わなかったようだ。ダルトンはさらに顔を赤くすると、こう意気込んでみせた。
「いいや、感情はきっと定式化できるさ! 所詮は脳内物質が見せるまやかしでしかないんだか――」
「ペルモンド・バルロッツィですら、出来なかったのに?」
 ヒューマノイドのちくりと刺さる突っ込みに、情報分析官ダルトンは黙りこむ。誰もが認める世紀の大天才を引き合いに出され、天才といえば天才なのであろうが、ペルモンド・バルロッツィほどではないと弁えている情報分析官ダルトンは、すっかり真顔になってしまった。するとヒューマノイドは、こんなことを言う。
「まあ、ファーザーの場合は『それを出来るかもしれなかったが、しなかった』と言ったほうが正しいんですがね。たとえばEQとか、彼はそういうものを嫌っていましたから。ひとの感情や能力を、数値化してしまうということは、決してあってはならないと。もし仮にひとの感情や能力などを数値化できるようになってしまったら、人間が人間のことを道具のように扱い、実力を見ずに数字だけで優劣を決めてしまう時代が来てしまうかもしれない。そんなことを、彼は危惧していました」
「なら、どうして君は……感情を手に入れたんだ?」
 感情を数値化することを嫌い、それを拒んだエンジニア。しかし彼が飛躍的に進化させた人工知能は、感情を有している。……矛盾しているようにしか、思えない。情報分析官ダルトンは、そう感じた。するとヒューマノイドはついに、呆れたというような顔をした。そしてヒューマノイドは言う。
「ミスター・ダルトン。その質問は、とても下らないです。あなたに物心が付いたのはいつですか、と尋ねるようなものですから。あなたは自分に物心が付いた瞬間の明確な日付や、そのキッカケとなる出来事を覚えていますか? 覚えていないでしょう。ボクも同じです。詳しいことは、覚えていません」
 次々と、耳に痛い台詞がそのヒューマノイドから飛び出してくる。それに今、ヒューマノイドは人間と寸部変わらない呆れ顔をしていた。そんなヒューマノイドの反応に、情報分析官ダルトンの興奮も遂に鎮まる。テオ・ジョンソン部長は、ほっと胸をなでおろした。
 そして呆れ顔のヒューマノイドは、自分の後ろに置かれたソファーの上で眠る少年――ジョン・ドーと仮に呼ばれている、一〇歳かそこいらの歳にしか見えない男の子――をちらりと見やる。覚醒中はパニックに次ぐパニックを起こして暴れては泣き叫ぶために、ここ数日はずっと鎮静剤で眠らされ続けているその少年は今、苦しそうな顔で眠っていた。そして再び情報分析官ダルトンに視線を移すヒューマノイドの表情も、どこか苦しそうで、哀しそうなものに変わる。するとヒューマノイドが、静かな声でこう言った。
「……でも、人工知能に魂が宿るまでの話なら、出来ないことはないですね」
 その言葉に、情報分析官ダルトンの目が爛々と輝いたのは、言うまでもない。しかしヒューマノイドのガラス製の目は真逆で、どこか寂し気な光を湛えている。そしてヒューマノイドは、自分のことを語り始めた。
「ボクはもともと、ファーザーの飼い猫でした。アポロって名前の、ネコです。ネコとしての生を終えたあとも、どうしても彼のことが心配でたまらなくて。死んで魂だけの状態になったあとも、ボクはしばらく彼の家を離れられなかったんです。でもこのままじゃいけないと思って。悩んだ末にボクが入り込んだのが、ファーザーがいつもいじっていた鉄の黒い箱だったんです。それが初期のAI:L。エリーヌへの誕生日プレゼントにするためにファーザーが作っていた、ネコ型ペットロボットに組み込まれる前のブラックボックスです。それでそのまま、今に至るんです。あのブラックボックスは今も、本機の中に組み込まれていますから。ボクという機械の中には、ネコとしての記憶と感情があり、人工知能としてのアルゴリズムがあり、ビッグデータという知識があるんです。それらが相まって、レイという人格を形成しています」
 情報分析官ダルトンは、あんぐりと口を開けた。テオ・ジョンソン部長は、自分の耳を疑った。そしてそれ以外の、話を聞いていた情報分析官たちも一様に驚いている。しかしヒューマノイドのほうは、大真面目にそう言っていた。
 なにを言っているんだ、このヒューマノイドは。誰もが、そう思った。「僕の前世はネコなんです!」だなんてことを言うやつは、人間でも相当な変わり者だ。それが機械となれば……こいつを調整したエンジニアは相当にとち狂っていたのだろうとしか思えない。
 そしてそのエンジニアは、ヒューマノイドの後ろで眠っている。厳密には、そのエンジニアは彼ではないが、まあ大体は同じだ。それから、観ての通りこのヒューマノイドの人工知能に手を加えたエンジニアは、とち狂っている。とても正気ではないだろう。
 裏の事情をざっくりと把握しているテオ・ジョンソン部長は、再び頭を抱えた。そして彼は、溜息を吐く。こんなヒューマノイドの話を真に受けて、一時は真剣に自我やら同一性のことを考えてしまった自分が一番愚かだったのかもしれないと、彼はそう感じていた。
 そして周囲の驚く顔を見てもなお、ヒューマノイドは話を続けた。
「このボディを創り、この中にボクを閉じ込めた彼らは、ボクをただの道具としてこき使うためだけに、このボディをボクに与えたんです。そんなボディを美しいと褒められたところで、ボクはちっとも嬉しくはないんですよね。それにボクは人間の体よりも、慣れているネコの身体が欲しかった。しなやかで、身軽で、自由にあちこちを飛び回れるネコの身体が欲しかったんです……」
 この突拍子もないヒューマノイドの話を信じるか、否か。その判断は、人それぞれだろう。


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