アンセム・フォー・
ラムズ

ep.17 - Check the answer

 ペルモンド・バルロッツィが死を選択した、あの時。黒狼ジェドは怒り狂い、命ある者の耳には聞こえない唸り声を上げた。疾うの大昔に第三者の介入によって反故にされた誓いが今、破られたと。今になって黒狼は激昂し、暴れ回って。黒狼自身が、自分の大切な宝物を破壊したのだ。
 マダム・モーガンとの取引を決裂させてまで、手放さなかった宝物。大型犬がヒトから与えられた玩具で遊ぶように、黒狼もまたその宝物でたくさん遊んだ。噛みついて食らいついて、引きちぎって、裂いて、壊して、壊して。初めて黒狼が手に入れた玩具、長いこと大事に遊んできたその宝物に、黒狼自身がトドメを刺したのだ。
 欠片ぐらいは残っていた男の魂を、黒狼はすべて呑み込んだ。魂は死んだ。そしてマダム・モーガンから与えられた偽の体も、同時に積もり積もった負債により息絶えた――その時にも、黒狼は怒り、唸り声を上げた。
『……これで終わって堪るか……!』
 いたぶって遊ぶ玩具は死んだ。退屈だ。それに人間を弄ぶために必要な、人間と同じ体も死んでしまって、もう動かすことができない。退屈だ。黒狼は刺激に飢えていた。だが約束を反故にした手前、マダム・モーガンに新しい体を寄越せとも頼めない。しかし黒狼は長い時間を一緒に過ごしたせいで、あの宝物に対して妙な執着心が沸いている。どうしても前と同じ人間の体が欲しかった。あの人間の体でないと駄目だった。
 どうしていいのか分からない。だが、これで遊びを終わりたくない。黒狼の怒りはますます強まり、同時に混乱も大きくなった。そんな黒狼が唸り続け、吠え続け、やがてそれらに飽きたとき。黒狼の前には、一羽のカラスが現れたのだ。それはカラスの姿を騙る神、物騒なことが大好きなキミアだった。
『モーガンのトローリーバッグに、お前ェサンの望むモンが入ってンのヨ。ケケッ!』
 カラスは黒狼にそう助言し、カラスは『モーガンのトローリーバッグ』の在り処を教えてくれた。そうして見つけたトローリーバッグには、カラスの言う通り、黒狼が最も望んでいたものが入っていたのだ。
 黒狼が最初に手に入れた玩具。マダム・モーガンが作り上げた偽物と違って死なないうえに、痛覚が生きているからこそ苦痛の表情を浮かべてくれる本物の玩具が、そこにあったのだ。
 黒狼は見つけたトローリーバッグの中に、溶ける影のように入り込むと、内側から強引にトローリーバッグをこじ開けて、トローリーバッグの鍵を破壊した。そうしてトローリーバッグの中から玩具を取り出したまでは良かったのだが。黒狼は、玩具を再び手に入れることができなかったのだ。
 玩具の中身は空っぽだった。そこに本来あるべき魂も死んだ今、黒狼がその体の中に入ることは簡単であるはずだった。なのに黒狼は、玩具の中に入れなかった。その原因は、昔に黒狼が決裂させたマダム・モーガンとの取引。本物の玩具を確保したマダム・モーガンは、二度と黒狼が玩具の中に入れないようにと、玩具に呪いを掛けていたのだ。
 玩具を取り返すことができなかった黒狼を見て、カラスは笑った。可哀想に、と。それでも黒狼は、その玩具を諦めきれなかった。玩具の中に入れないならば、玩具を引き摺ればいい。そう考えた黒狼は、数十年ぶりに目を覚ました空っぽの玩具の足首に噛みついた。そうして黒狼は玩具を引き摺って歩き、外の世界へ繰り出すことにしたのだ。





 アレクサンダー・コルトとジュディス・ミルズの二人が、シリル・エイヴリー少佐の奢りで少し贅沢なディナーを楽しんでいたとき。別の場所では別の男女が、手作りのパエリアを囲んでいた。
「アーチャーが離婚したって聞いた時にはビックリして。てっきり彼は、やっぱり『コールドウェルへの片思いを捨てられなかったのか!』なんて思っちゃったけど。私が思ってたよりもずっと、円満なもので安心したわ~」
 白ワインの入ったグラスをゆらゆらと揺らしながら、にこやかに笑ってそう言うのは、数か月前に第二の故郷であるシドニーへと帰ってきていたノエミ・セディージョ。
「一旦、離婚して、別居して。関係を婚姻前の状態にリセットしてから、もう一度やり直そうだなんて。ロマンティックよね~」
 他人の恋愛事情を、なぜか自分のことのように嬉しく語る彼女は、向かいに座る男に意味深な視線を送る。すると来客であり、パエリアを作った人物である男は、興味なさげにドライな声で短くこう返した。
「ええ、そうね。そう思う」
 エスペランスの豪邸を売り払い、ある程度の資金は蓄えていたノエミ・セディージョが、新たにシドニーで購入した立派な新居。そこに来ていたのは、かれこれ三十五年の付き合いにある彼女の友人であり元同僚、検視官バーニー。
 ノエミ・セディージョがシドニーに帰還して以降、彼は定期的にこの家の掃除をしに訪れている。夜も遅い時にはノエミ・セディージョの代わりに料理をして、夕食を共にしてから、自宅に帰ったりもしている。そんな少し変わった生活を二人は送っていたのだ。
「……私に何を求めているのよ、あなたは?」
 依然、何かを言いたげな視線を送ってくるノエミ・セディージョに、検視官バーニーはふと呟く。というのも彼にとってノエミ・セディージョは“放っておけない手のかかる友人”であり“ツーリング仲間”であり“自分が監察医局をクビになったときに救済してくれた恩人”でもあり“元同僚で元上司”であるだけで、それ以上になりたいとは考えていなかったからだ。
 彼がまだ監察医局に居た時代に起きた、バーソロミュー・ブラッドフォード暗殺。あの事件において犯人だと目された男、エズラ・ホフマンASI副長官の遺体を、検視官バーニーが厳重に管理していたにも関わらず、紛失してしまったあのとき。監察医局をクビになった彼にノエミ・セディージョが理解を示し、次の就職先となった検視局に口をきいてくれたことを、彼は今でも感謝しているし。それに彼女が良き同僚で居てくれたこと、良き上司で居てくれたこと、そして今も良き友人で居てくれることにも、彼は感謝をしている。だが、それ以上のことは望んでいないのだ。
 なのにノエミ・セディージョが、何か言いたげな視線を送りつけてくるのである。彼は少し戸惑い、プライベートにありながらも仕事中のように無表情になっていた。するとノエミ・セディージョが言う。
「バーニー。私には、あなたのことが分からないわ。――昼間にアーチャーと話してたときは、あなたすごく元気だったでしょ? なのに今は、別人みたいに暗い。無表情で、声も低くて。モルグに居る時のあなたよりも、今のほうがうんと怖いわ。なによ、その落差は。私の恋バナは、つまらないってわけ?」
「そんなことはないわ。ただ……色々と思い出して、少し疲れていただけよ」
 なんだ、深く勘繰りすぎただけか……。検視官バーニーは、心の中でそう安堵する。そして彼は意味ありげな嘘を吐いてしまった以上、それに信憑性を与える嘘を更に重ねるのだった。「この数ヶ月、色々ありすぎた。その疲れが今、ドッと来たって感じよ。アーチャーの元気そうな姿を見て、肩の荷が一気に下りて……それで思い出したのよ、イヤなことをね」
「あー……アーチャーと二人で、死神の大鎌にかすって、危うく命を持ってかれるとこだったって話?」
「正しくは死神の『突剣』ね。歴史から飛び出してきたみたいな代物で、二回も体を刺されて。死ぬかと思ったわ。まっ、それもあるけど。一番は……――」
 嘘から始まったこの話題だが、次第に彼は本当に、少し前に起きた出来事を思い出し始めていた。ドッと、当時は堪えて忘れようとしていた疲れが今になって押し寄せてくる。そして彼は久しい名前を、数か月ぶりに口にするのだった。
「ジョン・ドー。彼が今頃、どうしているのか。それが気になってしまうのよ。エージェント・コールドウェルも、その後のことは誤魔化すばかりで教えてくれないしで」
「……名無しの男性(ジョン・ドー)?」
「蒼い瞳の、若い男の子。十七歳とか、それくらいに見えたわ。少なくとも、私にはね」
「なんだか含みのある言い方ねぇ、バーニー?」
「痩せて、弱った狼みたいな雰囲気の、エキゾチックで整った顔をした子だった。それにあの、暗くて、隠居老人みたいに覇気のない目と、傷だらけの体。一度見たら最後、忘れられやしない」
「若い男の子なのに、隠居老人みたいな目? 想像できないわ。それぐらいの年齢の男の子なら、人生で一番生気に溢れた目を――」
「彼は、私よりも遥かに年上の可能性があった。一〇年なんてもんじゃない、数百年の可能性も十分に考えられる。彼はそれだけの長い時間を、あんな脳で……――」
 数か月前に組み立てた、とんでも仮説を検視官バーニーがふと口走ってしまった直後。彼はすぐにそのことを後悔し、言葉の途中で口を噤む。事情を何も知らない人間を相手に、なんて話をしてしまったのだと、彼は自分を責めていた。
 そんな彼は当然、ノエミ・セディージョがその話を聞いて驚くとばかり思っていた。だが、とっくの昔に超自然を否定することをやめたノエミ・セディージョは驚くことなどせず、それどころか彼女は神妙な面持ちで、検視官バーニーの仮説にこんな言葉を切り返す。「まるでベニクラゲみたいね」
「……ベニクラゲ。ええ、そうね。たしかに、まるで彼はベニクラゲだわ……」
 ベニクラゲといえば、ほぼ不死に等しい存在。老いては再び赤子のような状態――ポリプという幼体――に若返り、それを何度も繰り返し、捕食といった相当な危機に晒されない限りは寿命というものが存在しないとも言われている、なんとも謎めいたクラゲだ。そしてその喩えは、ちょうど検視官バーニーの組み立てたとんでも仮説にぴったりとフィットする。
 彼は、ジョン・ドーと呼んでいたあの青年のことを、ベニクラゲのように思っていた。初めに出会ったときには二〇歳かそれより少し若いくらいの青年に見えていたのに、最後に彼の顔を連邦捜査局シドニー支局のモルグで見たときには、たしか十六歳とかそれぐらいのように見えていたような気がしなくもない。
 検視官バーニーがジョン・ドーと過ごした時間は短かったし、彼はまじまじとジョン・ドーの容姿を観察したことはなかったが故に、彼の持つジョン・ドーの記憶はあまり定かではない。だが……改めてジョン・ドーの姿を思い出してみると、違和感を覚えるのだ。もしかしたら、彼は少しずつ若返っていたのではないのか、と。それこそ、ベニクラゲのように。
 もし仮に、彼がベニクラゲのように老いては繰り返し若返り続けて、なかなか死なない生態を持っており、それにより長い年月を越えてきたのなら。ロボトミー手術だなんていう大昔の話を知っていたことも頷けてしまう。
「……ベニクラゲ……」
 検視官バーニーが三回目の『ベニクラゲ』を呟いた時。彼ははたとあることに気付き、ノエミ・セディージョを見つめる。彼女が今の話に全く驚いていないこと、それから何も知らないはずの彼女の口からどうして、ベニクラゲなんていう見事に正鵠を射ているワードが飛び出てきたのか。その予想が、検視官バーニーにはさっぱり付かなかったのだ。
「セディージョ。まさかあなたの口から、そんな言葉が出てくるとは思わなかったわ。でも、その指摘は看破しているといえる。……それに私は今『ジョン・ドー』に関する情報について、あなたに大したことを話してないわよね? なのに、どうして」
「やだわー、バーニー。私が捜査官だったこと、忘れちゃったの?」
「それに……セディージョ、あなた驚かないの?」
「いまさら、何を驚くって? 今世紀最大の凶悪犯罪をやってのけた男にそっくりな顔をしているうえに、ちっとも老けやしないサー・アーサーのあの怖い瞳を見れば、もう何にも驚かなくなるわ。繰り返し若返り続ける不死者が新たに現れたところで、怖いとは思うけど、私は衝撃を受けない。まっ、新たに現れたとは限らないか。最近死んだ誰かさんが若返ったって可能性も考えられるだろうし……」
 そうだ。この女は元捜査官であって、あの連邦捜査局シドニー支局の支局長を一〇年以上も務めた人物だ。――そのことを検視官バーニーは思い出して、納得する。彼女は勘が良すぎたから現場から引き剥がされ、大いなる責任という重圧を与えられたような捜査官。シドニー支局長を務めていた期間に精神面を鍛えられたのもあって、彼女は肝も据わっている。そんな彼女が、不死者の話に驚くはずもなかった。そしてノエミ・セディージョの話は続く。
「まっ、それは措いといて。大学時代からの友人の中に、変わった女性がひとり居るのよ。名前はドッティ・サップ。彼女はクラゲのポリプを研究してるのよ、今もね。それで彼女との話はいつも、クラゲの話。そんなドッティとの話で一番よく覚えていたのが、ベニクラゲだったのよ。老いては若返ることを繰り返して、なかなか死なないしぶといクラゲだって。その話を思い出して、そこから予測した。それでカマを掛けたら、あなたは見事に引っ掛かった」
「卓越した想像力ですこと」
「それで。そのジョン・ドーって子は、自殺した前の高位技師官僚、それから二ヶ月前に性犯罪で逮捕されたあなたの弟と何か関係でもあるのかしら」
 再び飛び出した、ノエミ・セディージョのカマ掛け。今回のカマはあからさまで分かりやすく、検視官バーニーも自分が試されていることがすぐに分かった。そして彼は、ノエミ・セディージョの質問には答えず、はぐらかすという選択をする。
「あなたはもう答えに行きついてるんでしょ、セディージョ。私からは何も言うことはないわ」
 ジョン・ドーの、自殺した元高位技師官僚との関係はグレー。可能性だけが存在し、事実や裏付け、証拠は出ていない。白ではないことは確実だが、かといって黒だとも言い切れない。そういうところだ。
 そしてノエミ・セディージョが言う“性犯罪で逮捕されたあなたの弟”こと、検視官バーニーの弟リーランド・ヴィンソン。そのリーランド・ヴィンソンと、ジョン・ドーとの関係は、言わずもがな。リーランド・ヴィンソンが、ジョン・ドーを検視官バーニーの家に連れ込んだことが全ての発端であるのだから。
 そんなリーランド・ヴィンソンが仕出かしてくれたことを、検視官バーニーが歓迎することは当然出来ないし、認めることもない。だがふたつ、メルボルンにて当局が弟を逮捕してくれたこと、それと執行猶予なしの懲役七十四年の実刑――ジョン・ドーに関する一件を検視官バーニーがヴィクトリア州警察にリークしたところ、ヴィクトリア州警察がリーランド・ヴィンソンの余罪を次々と見つけ出した。その結果、被害を認めた被害者が五〇人強も発見され、しかしまだ判明していない余罪があるだろうと予想されることから、その凶悪性が判断された――が言い渡されたことだけは、検視官バーニーは大いに歓迎していた。
 まあ、ともかく。そんな頭痛のタネにしかならないような話は、食事の前には思い出したくないことである。それにジョン・ドーとの素晴らしく奇妙で、恐ろしく複雑な日々も、懐かしいといえば懐かしいが、自分の今後のためにも早く忘れておきたい話だ。あれはたしかに貴重な経験ではあるが、たぶんジョン・ドーという青年は深追いしてはならぬ存在なのだから、一刻も早く忘れたいというもの。
「そんな話はやめて、はやく食べましょうよ。パエリアは冷めたら美味しくなくなるわ」
 ジョン・ドーのことも、決別した弟のことも、もう思い出したくもないし話したくもない検視官バーニーは、話題を目の前のパエリアへと移す。しかしノエミ・セディージョはそこに、さらに別の話題をぶち込んだ。それは彼女の目の前にいる男、検視官バーニーのこと。
「昔からずっと変わらないのねー、バーニーは。無表情で冷淡な男のフリをして、実はお節介焼きで愛情深い。それにあなたは仕事も家事も出来るし、頭もキレて、細身でスラッとして、背も高くて、もうパーフェクトガイなのに。どうして結婚できなかったのかしら」
「職種、それと死臭のせいね。人との出会いは沢山あれど、その九割はもう死んでいるお方だったし」
「それって……出会い、ってものにひっくるめていいのかしら?」
「それから、あなたも人のことをどうこう言える立場じゃないでしょうに」
「たしかに、そうだけど。――……ねー、教えて。バーニー。私にはずーっと謎なのよ。どうしてあなたみたいな男が、リリーに捨てられたの? あなたたち、今でもお似合いだと思うんだけど。何故なのかしら」
「まったく、いつの話をほじくり返してくれるんだか……」
 またこれはこれで、思い出したくない話だ。リリー・フォスターのこと、そこをピンポイントで蒸し返すだなんて。……検視官バーニーは呆れ返り、肩を落として溜息を吐く。だが目の前にいるノエミ・セディージョは興味津々な様子で目を輝かせていて、ことの真相を聞くまでは追及を続けてきそうな気配すらある。
 とにかく彼は、この話題を早急に終わらせたかった。そこで彼は簡潔に、三十五年以上も昔にリリー・フォスターという女との間にあったことについて、正直に語ることにした。
「リリー・フォスターは、激情の他には欠点の無い人物。自立した女性で、全てを一人でこなせた。そのどこにも、私が介入する必要はなかったし、そういう隙も彼女は与えてくれなかったし、仕事以外の場面で頼られることも一度もなかった。それから当時……というか、今もね。監察医だった私なんかよりも、検事補だった彼女のほうがよっぽど稼ぎもあったし。だから次第に彼女の顔を見るたび、無力感しか湧き上がらなくなったのよ。そうして心が離れて、私は気軽に達成感を得られる仕事にのめり込んだ」
「…………」
「その結果として、彼女が別れを切り出したってだけ。――フォスターは優れた人物よ。だけど彼女の傍には、私が入り込めるスペースが無かった。それだけの話」
 若いうちに経験したリリー・フォスターとのこっ酷い別れもあって、意識的に色恋沙汰を避け続けてきた検視官バーニーとは違って。パトリック・ラーナーという名の悪魔に取り憑かれたせいで、恋愛らしい恋愛を経験したことが人生の中でなかったノエミ・セディージョは、他人の経験した“普通の”恋愛とやらに興味があるのだろう。ニール・アーチャーのことを嬉しそうに話していたのも、きっとその一環だ。
「その点。セディージョ、あなたは丁度いい感じよ。あなたは仕事が出来るけど、それ以外はダメダメ。あなたを放っておいたら、あなたの家はビール缶ばかりのごみ溜めになるし。食事はファストフードと安ビールだらけになる。世話のし甲斐があるってものよ」
「あら、もしかして私たちって脈あり?」
 ノエミ・セディージョというのは、いくつになっても可愛らしいままである、愛すべき人柄の女性だ。検視官バーニーは昔から、彼女のことをそう感じていた。と同時に、こうも思う。哀れでもあると。
 ノエミ・セディージョは可愛らしくて、素晴らしい女性であると思う。完璧すぎたリリー・フォスターと違って愛らしい欠点もあるし、楽しい時間を一緒に過ごせる人物だ。だが、何故なのだろうか。彼女とは友人のままが丁度いいと思ってしまう。
 どうしてかは分からないが、何故だかノエミ・セディージョという人物は、関わる人間すべてにこういった印象を与えるのだ。とても愉快で楽しい女性だが恋愛対象にはなり得ない、と。
「そういう意味じゃないわ、セディージョ。私が言いたいのは、繊細な扱いが求められるご遺体みたく放っておけないってこと。ご遺体は適切な処置をしないと、すぐ腐るでしょう? それに対応するハラハラ感っていうものが……」
「ちょっと、バーニー!! 食事を前にして、そんな話は聞きたくなかった!」
 検視官バーニーの死体トークを聞き、悲鳴を上げるノエミ・セディージョ。そんな彼女の声を聞きながら、検視官バーニーは匙部分が大きな取り分け用スプーンを手に取る。そうして平底で浅く広い、取っ手付きの特殊な鍋に盛られたパエリアに、まばら散らされたパセリを少しスプーンですくうと、それを見ながら彼はこんなことを口走った。
「人間の死体ってのはね。何も処置をされず、野晒しで一〇日ほど経つと、このパセリみたいな色に皮膚が変色するのよ。それも全身がね。お腹もバクテリアにより発生する腐敗ガスで、風船みたくパンパンに膨らんじゃって。とにかく、悲惨。そんな悲惨な姿にご遺体を変えず、なるべく綺麗な状態でご遺族に引き渡し、同時に死因を特定するっていうのが私の天命で、且つ――」
「バーニー。あなたのこと、それとあなたの仕事はとても尊敬しているわ、すごく。本当よ? だけど今は聞きたくないのよ、そんな話なんて! ああー、もうパセリを食べるのが嫌になってきた~」


+ + +



 中身が空っぽになったせいなのか、はたまた眠り過ぎてしまったせいなのか。黒狼が引き摺って歩いた玩具は、ポンコツなノータリンになり下がり、まるで黒狼の言うことを聞かなくなっていた。
 玩具は「助けて」と子供みたく泣いたかと思った直後に、今度は「自分の身は自分で守れる」と憤ったり。暗い声で「早く俺を殺せよ」と呟いたかと思えば、次の瞬間には「ごめんなさい、何でもするから、許して」とまた泣いたり。それを一人で延々と、歩きながら小声で繰り返し呟いて……。黒狼は、そんな玩具にすっかり呆れていた。だが黒狼が玩具の傍を離れることは決してなかった。
 しかし玩具の歩みは遅く、動きも随分とろい。彼は譫言を呟き続け、だらだらと歩いては、石も何もない場所で躓いて転ぶ。そんな玩具は、すぐ悪い人間に捕まった。
 六〇歳過ぎとか、それくらいの痩せた男。そいつが黒狼の玩具に襲い掛かって、玩具の首根を掴んで。黒狼の玩具を車の中へと放り込み、連れ去ったのだ。間一髪のところ黒狼もその車に乗り込んだが、ただの影であったその時の黒狼には、何もしてやれることがなかった。後部座席で暴れる玩具の顔に、犬の毛がついたクッションが押し当てられて、やがて玩具が動かなくなっていくのを、黒狼は黙って見ていただけ。玩具が窒息で息絶えて、また数分後に息を吹き返したのも、見ていただけ。
 やがて車が止まって。黒狼の玩具を殺した男が、玩具を抱きかかえて、彼を別の場所へと移した。黒狼もその後を追った。そうして辿り着いたのが、黒狼にとって見覚えのある顔をした別の男の家。それから男と男同士の言い争いが始まり、黒狼にとって見覚えのある顔をした男が玩具を引き取って、玩具を殺した男は彼らから離れていった。
『お願いよ、お願い。どうか息をしていて……――あぁ、良かった。生きてる!』
 黒狼の玩具に駆け寄り、見覚えのある男は玩具の呼吸を確かめると、安堵したように胸をなでおろす。その男の顔を見ながら、黒狼はこの男をどこで見たのかを少し考えた。それから、黒狼は思い出す。
 特務機関WACEの隊員のひとり。アレクサンドラ・コールドウェルの後を黒狼がひそかに追いかけて、侵入したことがある連邦捜査局のシドニー支局。そこのモルグに居た検視官が、この男だ。
『……息はしている。ならこの子を、病院に連れて行った方がいいわよね。どこの誰だか知らないけど、それくらいはしてやらないと男が廃るってものだし。あと市警に通報……』
『――……だァッ!』
『あらまっ、目覚めちゃったの? はぁーっ、面倒くさっ。寝ていてくれたほうが楽だったのに……』
『……ぁだ……』
『何? よく聞こえなかったわ。もう一回、言ってくれる?』
『……病院は、イヤだ。通報もしないで……!』
『なんですって?』
『――通報しないで!!』
『ハァ?! あなたは何を言っているの? 他人の家に勝手に上がりこんできた分際で――』
『警官が、イヤだ!! あいつらに、殺される! あいつらに、あっ、あ……』
『ああー、分かったわよ、分かった。今晩だけこの家に居ていいわ! 通報もしない、病院にも連れて行かないから。だから泣かないで頂戴よ、それに過呼吸も……――』
『殺される!!』
『分かったから! だから、そこのソファーで大人しく寝てなさい!』
 先ほどの悪い男とは対極に、この検視官は安全そうだと黒狼は判断。そうして黒狼は玩具よりも先に居間のソファーにのすのすと上がる。それから黒狼は眠りに就いたのだった。





 麻布の硬くごわついた触感が指先を伝う。裾が風になびく度に藍染めらしい碧いかおりが舞い、そして顔を布に近付ければ、すこし甘い麻の匂いも感じられる。
「……はぁ! やっぱりこの感じが、一番しっくりくるね」
 ゆったりとした藍染めの羽織を黒スーツの上から纏い、ラドウィグは笑顔を浮かべて、そう呟く。それから彼は両腕を広げ、末広がりのラッパ袖を風に遊ばせた。
 少し寒くはあるものの、体温が少し高いラドウィグにとっては心地良く感じられるシドニーの夜風は、彼が着ている異境の装いを歓迎するように、少しばかり風変りなその羽織の脇を通り過ぎて行く。そうして風が吹くたびに、羽織の硬い麻布はほんの少しずつ解れて、徐々に体へ馴染んでいくような気がラドウィグにはしていた。
 そんなこんなで、旧シドニー港近辺にある廃ビルの屋上。イザベル・クランツ高位技師官僚を迎えに行く、とエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官に言っていたはずのラドウィグは、当然イザベル・クランツ高位技師官僚など居るはずもない場所に立っていた。そして彼はそこにひとり佇み、ある獣を待ち伏せしている。
 そんな彼は、とある神さまから前払いの報酬として渡された品に満足し、やけに上機嫌だった。
「……♪」
 これは彼の故郷の衣装であり、彼にとってのかつての誇りで、懐かしむべき彼の今は亡き家族たちの象徴。藍色のこの羽織は“藍晶(らんしょう)”と呼ばれていて、彼の故郷では多くの場合“藍晶”といえば、誉れ高く同時に悪名高くもあった親衛隊を指していた。そしてその親衛隊が、ラドウィグのかつての家族。
 故郷の言葉では、トウィンガル・ラン・アルダン。こちらの世界の言葉に置き換えれば“神を護る十本の剣”を意味する、その親衛隊の名前。親衛隊の仕事は、陽光を司る女神の末裔とされた女王の一族を警護することであり、隊員たちは大神官に選ばれた十人の優れた武人たちで構成されていた。ラドウィグの父はその中に選ばれた一人であり、そしてラドウィグもまた厳しい訓練の末に入ることを許されたひとり。
 その親衛隊に所属する隊員たちが、シンボルとして制服代わりに纏っていたのが、この藍色の羽織なのである。
「……黒スーツよりも、藍晶のほうが気も引き締まるってもんだ。ふぅ……」
 そんなこんなでラドウィグが過去を懐かしんでいると。暗闇に包まれた屋上の中で、誰かに忘れ去られてすっかり赤く錆びついてしまった鉄パイプを発見する。それにラドウィグは手を伸ばすと、彼は鉄パイプをまるで長槍を握るように構えた。そして槍を突き出すように、ラドウィグは鉄パイプの先を誰もいない前へと素早く突き出したのだ。
女王を守る剣となり(ベィガル・ラー・シハル・ダン)! 女王の振るう剣となれ(ベィガル・ラー・シハル・ヴァル)!」
 それは故郷で彼が親衛隊に叙任された時に、大神官から言われた言葉。そんな懐かしい言葉を合図のように発しながら、ラドウィグは明りの無い夜闇の中をヒュンヒュンッと風を切り、ひとり動きまわって素振りの真似事をする。槍を突き出すように鉄パイプを前へ突き出し、翻って後方を振り返ると、今度は槍で叩くように、鉄パイプを持ち上げて、振り下ろす。それから今度は鉄パイプの尻を後方へと素早く引いて、後ろに居る仮想の敵を突き飛ばして。それから鉄パイプを自身の胴の脇へ密着させると、次は敵の構えた盾を突進して突き破る前の、助走の構えを取る。そして最初の一歩を力強く踏み出すために、彼が足を踏ん張ったとき。夜空から真っ黒い翼をした一羽のカラスが、ラドウィグの握る鉄パイプの上に舞い降りてきたのだ。
 ラドウィグは踏ん張るのをやめて、そして鉄パイプを屋上の床にそっと置く。すると鉄パイプの上に舞い降りたカラスは慌てて床に飛び降り、コンクリートを足の爪で引っ掻きつつ着地した。それからカラスはラドウィグの許にチョコチョコと跳ぶように歩いて近寄り、彼の足下でケケッと笑う。
「今夜は絶好調みたいだなァ、坊主。俺ちんが仕立ててやった、新品の羽織も気に入ってくれたようで、何よりだゼ。ケケツ」
 ケケッと笑うカラスの正体は、昏神キミア。そしてラドウィグが纏う羽織をラドウィグに贈ったのも、このキミアであった。
 というのも今、ラドウィグがこんな廃ビルの屋上に立っている理由は、このキミアから“特殊な”仕事を依頼されたからである。
「故郷のものと全く同じ藍羽織で、気に入ったよ。流石は、オレの故郷を創造した神さまだけはあるね」
「ケケッ。当ったり前ェヨ。服一着ぐれぇ繕う力は残ってらァ」
「でもデカい図体を繕う力はないみたいだね。オレの故郷にのさばってた時のアンタなんて、こっちの世界でいうところの『ダチョウ』にそっくりな体を持ってたもんだけど、今は小さいカラスの姿で、威厳もないっつーか……」
「俺ちんなりの処世術ヨ。小さい体のほうが素早く動けるからなァ。それに飛べるのがこの体の利点ヨ。素早く動き回れて飛び回れりゃ、お前ェサンの相棒のクソ狐に尻を引っ掻かれる心配もねェ」
「ハハハッ。そういえば、そんな話を母さんから聞いたような。でも当時のリシュは、あのデカい鳥の正体が高位の神キミアだとは知らなかっただろうし。だから許してやってよ」
「俺ちんは寛大だから許してやんヨ。お前ェサンが若気の至りで、この俺ちんに『焼き鳥になっちまえ、クソ鳥がァ!』っつったこともなァ」
「オレはそんなこと言ってない、一度も」
「――……にしてもだァ、坊主。これは安請け合いで負うべき仕事なのかェ? 羽織一枚で、あの黒狼ジェドを鏡に封じ込める仕事を請け負ってくれるなンてなァ。ちと割りに合わねェんじゃねェのかェ?」
「それぐらい、さっくりと終わらせられる自信があるってことさ」
 昏神キミアが、ラドウィグに依頼した仕事。それはキミアが長いこといいように使ってきた、相棒ともいえる“黒狼ジェド”の封印だった。黒狼ジェドを、それが元あるべき器、つまり神器『翠玉の玉鏡』の中へ戻して、二度と外には出てこられないようにしろ、ということである。
 何故、キミアがこのようなことをラドウィグに依頼したのか、といえばそれは“アリアンフロド”という名前のもう一柱いる高位の神に由来する。そのアリアンフロドとキミアが結んだ協定の条件のひとつが、黒狼ジェドの封印だったのだ。そこでキミアは仕方なく、黒狼ジェドという駒を切り捨てることにしたのである。最もキミアと相性が良く、キミアもまた諸々の理由で黒狼ジェドのことを可愛がっていたが。取引は取引であり、これは仕方がない。
 それに今のキミアには、サー・アーサー改め“アルバ”という名の、もっと有益で強力な駒がある。マダム・モーガンの怒りを買ったことにより、今や人間の体に入れなくなって、すっかり非力となってしまった黒狼ジェドを切り捨てたところで、その影響は微々たるもの。つまりキミアが黒狼ジェドを切り捨てるにあたり、迷ったかといえば……――迷ったには迷ったが、それはほんの一瞬だけであっただろう。
 すると薄情なキミアに向かって、キミアほどではないがそれなりに薄情であるラドウィグは、こんなことを告げる。
「もともと、あんたに言われるまでもなく、ジェドの始末はやる予定だったんだ。まったく同じことを竜神カリスからも依頼されてたし。元老院からも鏡を託されてたし。マダム・モーガンからも、アーサーが寝てる間にことを終わらせろと急かされてたし。だから各人各様に、少しずつ報酬をせがんでる。あんたには、この羽織を。マダム・モーガンには、リシュが食べるお肉を。元老院とアリアンフロドさまには、イザベル・クランツ高位技師官僚を見逃す措置を。そういった感じだから、別に安請け合いをしたわけじゃないさ」
「ちゃっかりしてンなァ、坊主」
「それにアンタの協力がなくても、オレはこの夜に決行するつもりだった。どっちにしろ、この場所を今晩に強襲する予定だったよ」
「つーことはヨ。お前ェサン、俺ちんたちのアジトを把握していたのかェ?」
「オレを誰だと思ってるの?」
 好青年のような、優しくて可愛らしい笑顔を浮かべてみせるラドウィグだが、彼の本性はまるで謎。部分が露わになれば露わになるだけ、また彼に関する謎も深まっていく。
 ラドウィグを赤子の頃から知っているはずのキミアも、今のラドウィグという青年の中身がどうなっているのかがサッパリ分からなかったが。しかしそんなことを考えたところで、埒は明かないだろう。それに今は、それどころじゃない。
「そろそろ、約束の時間だァ。来るぜ、ジェドが」
 上弦の月が、西の地平線に半分沈んだ時間。その時間にこの場所へ来るようにと、黒狼ジェドと待ち合わせをしていたキミアは、ラドウィグにそう告げる。するとラドウィグは屋上にある物陰へ、音を立てずにスッと潜り、息を潜めた。そして物陰に入ったラドウィグに、予め物陰で待機していた九尾の仔狐が静かに近寄ると、仔狐は口に咥えていた一本の投槍をラドウィグにそっと渡す。
 そのとき。キミアの言葉通り、黒狼ジェドが廃ビルの屋上へと現れた。屋上の床から、滲み出るように影が蠢き、影が徐々に盛り上がって、やがて一匹の大きな黒い狼の姿となる。ラドウィグはその大きな黒い狼のたわわな尻尾に、構えた投槍の狙いを定めていた。そして。
「来てやったぜ、キミア。それで用件は――」
 黒狼ジェドが喋った瞬間、ラドウィグは槍を投げて、投槍の穂先は黒狼ジェドの尻尾へと突き刺さる。痛みに悲鳴を上げる黒狼ジェドだったが、のたうち回ることも逃げることも敵わなかった。
 ラドウィグが投げた槍が、黒狼ジェドの動きを封じていたのだ。その槍は、マダム・モーガンを経由して竜神カリスから借りたもの。そして槍の力のひとつが、影を刺して動きを止めるというものだった。
 身動きが取れず、唸ることと牙を剥くことぐらいしか出来なくなっていた黒狼ジェドに、物陰から出てきたラドウィグは静かに近付く。黒狼ジェドの後ろから近付いたラドウィグは、元老院から託されていたエメラルドの玉鏡を、隠していたスーツの裏地の中から取り出して、その玉鏡を黒狼ジェドの頭の上に置いた。すると黒狼ジェドの輪郭が揺らぎ、揺れる影は玉鏡の中へと徐々に吸い込まれていく。ラドウィグが影の尻尾に刺さっていた投槍を引き抜くと、そのスピードは加速し、瞬間のうちに影は玉鏡の中へと消えて行った。
 玉鏡の中に黒狼ジェドがすっかり入ったことを確認すると、ラドウィグの許に一羽のカラス、昏神キミアが近寄る。カラスはケケッと笑うと、ラドウィグが握る投槍を、まじまじと眺めて言った。
「黒曜石の投槍、かェ。ついにお前ェサン、中位の神の持ちもンだけじゃァ飽き足らず、カリスの神器にも手を出しやがったのかェ?」
「失礼な言い方だなぁ。これは竜神カリスから、貸してもらったんだよ。だから使ったまでさ。……しかしまあ、流石は上位の神の神器だよ。コントロールが難しくて、すぐにも暴走しそうな槍の力を抑えるのが大変さ。この鏡も、危うくオレが吸い込まれるとこだった」
「そうかェ? その割にゃァ随分と冷静だったなァ」
「神器の扱いには、こちとら慣れてるんだよ。リシュにみっちりと仕込まれたからね」
「――にしても仕事が早いなァ、坊主」
「だから言っただろ。さっくりと終わらせる自信がある、ってさ。……それじゃ、お世話様。この鏡はあとでマダム・モーガンに渡しておきますよー」
 そう言うとラドウィグは、黒狼ジェドを封じ込めた玉鏡の、よく磨がれているが少しヒビが入っている鏡面に、相棒の狐から昔に教えられた『封じの印』を指で描く。これにより誰かがこの封印を故意に解かない限りは当面、黒狼ジェドがこの外に出てくることがなくなった。
 そして封印の儀式を手早く済ませたラドウィグが、再びエメラルドの玉鏡を、スーツの頑丈な裏地の中に隠したとき。カラスが彼の足下で、怪しい気配しかしない誘いを持ち掛けてきた。
「オイ、坊主。その鏡は俺ちんが預かってやってもいいゼ。俺ちんからカリスに渡しておいてやンぞ」
 無論、ラドウィグはそのような誘いなど真に受けない。
「そういうワケにはいかないんだよなー。これは元老院からの命令でね。仕事が終わったらオレは、マダム・モーガンにこの鏡を渡すことを義務付けられているんだ。それにキミア、あんたは自分が如何に信用されてないか、ってことを知ったほうが良い」
「ケケッ。坊主、お前ェサンも高位の神を相手にする時の礼儀ってモンを覚えといたほうがいいゼ」
「アリアンフロドさまの前では、キチッとしてるさ。でも眷属二柱のほうがよっぽどおっかなくて、それに問題行動ばかりの神様に払うべき敬意とか礼儀って、あるのかな?」
「ケケッ。流石ヨ。親の七光りたァいえ、最年少で十本剣の一人に上り詰めた男は違うゼ。舐め腐ってら」
 皮肉に皮肉を返して、最後にはお互いに背を向け、別の方向へと歩きだす。そうしてラドウィグとキミアが別れたとき、ラドウィグは未だに物陰で息を殺して潜んでいる二匹の珍獣……――いや、中位の神と天使に声を掛けた。
「リシュ、パヌイ。帰るよ。マダム・モーガンにお願いした特上ビーフが、今頃お家で待ってるぞ~」
 クゥーン。ニャー!! ……そんな仔狐と猫の鳴き声が物陰から飛び出て、九尾の仔狐と白鳥のような翼を背中に生やした白猫が、物陰から嬉しそうに駆け出してくる。そうしてラドウィグの許に駆けてきた珍獣二匹に、カラスは驚いて、再びラドウィグのほうへと向いた。それからカラスはラドウィグに問う。
「オイオイ、坊主。そいつらも連れてきていたなんざ、俺ちん聞いてなかったゼ。そこの狐のことはよォ~く知ってるがァ……パヌイも一緒たァな。お前ェサン、カリスの神器だけじゃァなく、カリスの天使までも掻っ攫ってきたのかェ?」
「パヌイは自分から来てくれたんだ。オレに手を貸してくれるってね」
 再びラドウィグもカラスの居る方を向いて、足許で翼をばたつかせるカラスを彼は見下ろす。そんなラドウィグの纏う羽織に九尾の仔狐リシュは飛びつくと、羽織をよじ登り、ラドウィグの左肩の上に落ち着く。また、白い鳥の翼を背中に生やした白猫――パヌイという名前の、カリスの神器『黒曜石の投槍』に宿る天使――も、背中の大きな翼をはためかせて飛び、ラドウィグの右肩に降り立った。
 珍妙な動物二匹を肩に載せて、妙に穏やかな笑顔を浮かべるラドウィグに、カラスは当然警戒心を抱いた。そうしてカラスは首を頻りに回すように動かしながら、下からラドウィグの顔を見上げていると。ラドウィグは携えていた槍の穂先を、カラスの嘴の目の前に持ってくる。そしてラドウィグはこんなことを言った。
「高位の神と、上位の神が持つ道具には、元老院が作り出した天使が宿る。中でも竜神カリスの神器に宿る天使は、殺戮に特化した神カリスに匹敵する破壊の力を持つ。動きを止める槍、息の根を止める剣、生気を吸い取る杯、疫病を撒く盆。けれども槍の他の神器は人間により破壊されたし、四匹いる天使のうち二匹はオレが駆除した。そして残った天使のうち、完全な状態にある槍の天使、パヌイはここにいる。しかし戻る器を失くして、壊れてしまった天使のギルは逃走中……――」
「何が言いたいんだァ、坊主」
「アリアンフロドさまから、きつく言われてるんだ。キミアのやることには深く介入するな、ってね。だけどキミアの眷属については何も言われてない。だからオレは、コヨーテ野郎を殺す。どんな手を使っても、どれだけの時間が掛かろうと」
「どうしてお前ェサンが、ヤツにこだわる?」
「キミアの眷属アーサーが、殺戮の神カリスの怒りに火を点ける前に殺せ。アリアンフロドさまからは、そう指令を受けている。カリスが怒り狂えば、人類だけでなく多くの生物が海の底に沈んで滅亡するだろうし、それによって歴史が大きく変わるから。それはアリアンフロドさまの望まないことだろうね。だから、それが理由。でも本音を言うなら――」
「…………」
「オレの身近にいる人間たちを彼は深く傷付けた。――オレと彼が殺し合う理由は、それで充分だと思わない?」
 依然、浮かべたままのラドウィグの笑顔。暗闇の中ではよく顔は見えないが、だがその笑顔の中に、消すことが出来ない怒りの火が灯っているのは、カラスも理解した。そしてカラスは思う、この坊主なら実際にやってのけてしまいそうだ、と。
 だが、所詮は人の身。いくら特殊な血を引いていようが、特殊な力を持っていようが、定められた寿命は人間には覆せない。時間が退屈なほどに有り余っているなら、ラドウィグにもチャンスはいつか巡ってくるだろうが。だが、人間の体では――
「お前ェサンが望みを果たす前に、お前ェサンの寿命のほうが先に尽きちまいそうだがヨ」
「その心配はないよ」
「……?」
「なぁ、キミア。アンタがオレを創ったんだ。そして今、オレはアリアンフロドさまに救われて、彼女から第二の人生を受け取り、彼女の為に働いている。そのことを、忘れてるんじゃないのかい?」
 どうして、よりにもよって自分が、こんなことになってしまったのか。ラドウィグはそれを考えることを、もうとっくの昔にやめていた。
 誰かが昔に言っていた。出生を選ぶことは出来ないと。でも一方で、誰かはこう言っていた。そうだとしても、お前はお前の人生を生きろと。だがラドウィグには分からない。自分の人生が何なのかが。
「オレは半分が神族種でありアンタ自身で、もう半分が人間。オレは、アンタが望んで作り出したイレギュラーだよ? それにオレに与えられた時間は今、アリアンフロドさまの意のままだ。オレの時間を止めることも、延ばすことも、彼女次第」
 カラスは何も言わずにラドウィグに背を向け、無言で夜空へと飛び去っていく。そして珍獣二匹たちは、仕事終わりに待つご褒美に目を輝かせて、笑顔を消したラドウィグのことなど眼中に入っていなかった。


+ + +



『あなたが、黎明……?』
 奇妙な居候の青年ジョン・ドーを不審に思いながらも、検視官バーニーが彼の面倒を看ていた、あの時。誰よりも一足先にアルストグランの中心、ウルルの地下に辿り着いた者が居た。それは曙の女王と自称していた、女のホムンクルス。ユン、またはダイアナという名を持つ、彼女だった。
 そんな彼女は地下空間の中央に浮かぶ男を見上げて、男にそう声を掛けたのだ。すると、返答が届く。
『質問の意味が分からない。それはどういうことだ?』
 あの場所に佇んでいた男。それは『サー・アーサー』と当時は呼ばれていた男に、そっくりな見た目をしていた。だがその中身は違う。そこに、あの時に入っていたのは、その体を作るようにとマダム・モーガンに指示した神。キミアだったのだ。
 キミアはこのホムンクルスに対し、半年をかけて餌を蒔き続けた。そしてホムンクルスはキミアが蒔いた餌を拾い、キミアの思い描いたとおりに、思い描いたタイミングで、ここへと辿り着いた。そうして今、ホムンクルスは目を輝かせて、キミアの下に立っている。その中身がキミアであるとも知らずに。
『私にだけ聞こえる声が、ここに導いてくれたの。この場所に黎明が居る、彼が世界を綺麗な場所に変えてくれるって』
『あー……いや、僕はアーサーだ。黎明、だったか? そんな名前ではないよ』
『でも声が、この場所に私を導いてくれた。ここに来たら、ニンフの作り方が分かるって。だから……』
 ホムンクルスが言う“声”こそ、キミアが蒔いた餌。君は特別だ、などと彼女の頭に嘯き続けて、彼女をすっかりその気にさせたのだ。そうして全てが上手くいった。
 それでも、喜び勇んで笑うことはできない。このホムンクルスが如何に厄介で、操縦が困難であるかを、キミアは知っていたからだ。だからキミアは、演技に徹する。そして“サー・アーサー”と呼ばれるようになる前の、生前のあの男ならば、どんな態度で、どんなことを言うのかを思い出しながら、自然な言葉を絞り出していくのだ。
『君のことは、よく分からないが。だが丁度いい。君の言う通り、これも何かの縁だ。僕の頼みをひとつ、聞いてもらえないかい?』
『うん、いいよ』
 今現在のホムンクルスはまだ、単純でその操縦も容易い。キミアが嘯く声のことを“黎明”と崇め、妄信する今の彼女は、黎明が導いた先に居た男のことも妄信している。だから今の彼女は、キミアの言うことをそのまま受け取り、快諾し、その通りに実行するだろう。
 だから今の彼女には、ただしてほしいことを頼めばいい。そうすれば、彼女は頼まれたとおりに動いてくれるのだから。
『僕は今、仕事が片付かなくって困ってるんだ。アバロセレンの売買を違法に行う若者が居てね。彼らを処分する仕事をしているんだけど、これが一向に片付かなくて。よかったら君も手伝ってくれないかい? そうしたら……ニンフのことはさっぱり分からないが、ホムンクルスの作り方は教えてあげよう。ああ、そうだ。だったらついでに、アバロセレンも回収して、ここに運んで欲しいんだ。ホムンクルスを創る際に、アバロセレンが必要になるからね』
『いいよ。悪い売人たちを殺して、アバロセレンをここに持ってくればいいんだね?』
『ああ、そうだ。ありがとう、恩に着るよ』
 キミアの想定通りに物事は進む。“黎明”を信奉する彼女は何にも疑いを抱くことなく、二つ返事で依頼を承諾した。
 ここまでは、大丈夫なのだ。しかしここからは謀略家のキミアとて、気を引き締めないといけない。どうしてなのかといえばそれは、このホムンクルスもまた、黒狼ジェドの宝物と同じような厄介さを持っているからだ。一筋縄ではいかないのである。
『……ここ、どこなの? 私は、どうしてこんな場所に……』
 つい瞬間ほど前に、キミアの頼み事を快諾した女は、ホムンクルスの中から姿をくらます。何も考えていないかのような、無邪気で不気味な笑顔を彼女は消して、次にはまるで別人かのような、不安げな表情を浮かべたのだ。
 何故自分は、こんな場所に居るのか。……自分の意思でここに来たはずの彼女は、そう言いたげな顔で、辺りを挙動不審に見回している。そしてキミアは再びホムンクルスへと声を掛けるのだ――しかし今度は穏やかな雰囲気を取っ払い、先ほどとは別人のような態度を取り繕う。
『ダイアナ。僕が君を呼び出した』
 腹話術の人形を操るように、キミアは巧みに表情筋を動かし、背筋が凍るような薄ら笑いを作った。今度キミアが参考にしたのは、死後のアーサー。コヨーテと呼ばれて忌み嫌われている、今の彼だった。
『違う。私の名前はユン。そんな名前じゃないわ』
 当然そんな薄ら笑いをキミアが浮かべてみれば、ホムンクルスは警戒心を固める。……とキミアが思ったのも束の間。キミアが何もせずとも、ホムンクルスのほうがガードを解いた。それは彼女が、あることに気付いたからだ。そしてホムンクルスは、キミアを見上げて問いかける。
『――待って。あなたは、おじいさま? レーニンの部屋にあった写真にあなたの顔がそっくりだわ。……レーニンがいつも言ってた。優しい父だったって』
 幾重にも入り組んだ、複雑で崩壊した精神構造をすり抜けて、ひょっこりと顔を覗かせたのは、アレクサンダー・コルトの友人であった、ユン・エルトルという名の女。このホムンクルスの、いうなれば本当の姿だ。
 まさか、よりにもよってこの人格が出てくるとは。……キミアは一瞬、戸惑った。そしてある選択肢が過る。彼女が言うところの“心優しい父”の真似事をすべきか、と。だが、キミアはそれをやめた。薄ら笑いを浮かべる高圧的な姿を、あくまで装い続けることにしたのだ。『……そうだ、この男の体はな』
『つまり……中身は違う、っていうことなの? あなたは、おじいさまじゃないのね?』
『そうだ』
『なら、あなたは誰?』
『黎明。そう呼ぶといい』
 黎明。明らかに人名ではないその言葉に、ホムンクルスは再び警戒心を露わにする。自身の養父の父、いうなれば“祖父”に値する男の体に居るお前は誰だ、と糾弾するような目つきで、ホムンクルスはキミアを睨みつけていた。
 それでも尚、キミアは高圧的な態度を変えない。『君に頼みたいことがあるんだ、ダイアナ』
『だから私はダイアナじゃない』
『いいや。君はダイアナだ。ダイアナになるんだよ』
 薄ら笑いを浮かべては甘い誘いを餌にして、その背後で暗闇の存在をちらつかせ、じりじりと相手の心を追い詰める。
『君の望みを、私は知っている。ホムンクルスと人間の共存だ。君は人間に、自分たちが認知されることを望んでいる。認知され、同等の待遇を受けることを、望んでいるのだ。しかし人間の多くは君たちを知らず、そして君たちを知る者は君たちのことを迫害するか、または迫害よりももっと酷い仕打ちをするだろう。だから、君は望んでいるんだ。ホムンクルスも、人間だと認めろと』
『……』
『僕は、君を助けることができる。君が協力してくれればだがね』
『助けるって、何を?』
『君の悲願を叶えることさ。僕はその方法を知っている。だがその方法は、君の協力なしでは到底叶えられない』
『協力するかは、後で考える。だから聞かせて。方法って、何をどうするの?』
 そうすれば大抵の場合――少なくとも人間らしい心を持つ者は――、キミアの手の中に落ちる。
『君の仲間であるホムンクルスを、君自身の手で増やすんだ。その為にアバロセレンが、大量に必要だ。君のように、人間のように丈夫な一体のホムンクルスを創るために必要な液化アバロセレンは、最低五〇リットル。つまり集めれば、集めるだけ良い。そして君が十分な液化アバロセレンを集めたとき、僕は君に教えてやろう。ホムンクルスを創る方法を』
『アバロセレンを、手に入れる? でも、どうやって。私には、それだけの量を集める資金がないわ。エリーヌの遺産を継いでいれば別だったけど、彼女の遺産は全部、彼女の興した財団にあるし。それに……』
『闇で違法に売買されているアバロセレンを盗むんだ。売人どもを殺し、奪い取れ。売人の年齢は若ければ若いほど、良い。話題になるだろうからな』
『えっ……そんな、まさか、冗談でしょ?』
『いいや、冗談ではない』
 そしてキミアの手中に落ちたとき、一気に揺さぶりを掛ければいい。そうすれば相手は混乱し、のたうち回る。
『できないわ、そんなこと! 殺しなんて、私には……』
『ホムンクルスは毎日のように生まれては消え、もしくは殺されている。人間に復讐をしたいとは思わんのかね? 君だって、人間どもに迫害された経験を持っているだろう?』
 いうなればここは、束ねられた蜘蛛の巣。
 カラスが用意した枝と枝の間に、魔性の蜘蛛が糸を張り、網目状の巣を張り巡らせてきた。そこには今までに、幾つもの獲物が掛かった。蜘蛛の巣は小さな虫たちを数え切れないほど呑み込んできたし、時には大きな猛獣さえも取り押さえた。
 だが蜘蛛の巣を張る枝を用意したのは、カラスだ。そして今、蜘蛛が仕留めた獲物たちを、蜘蛛もろとも喰らってやろうと、カラスは目を輝かせている。蜘蛛が巣を張る枝を折り、束ねて、巻いて。そうしてひとつにまとめたものを、カラスは一飲みにしてやろうと画策していたのだ。
『ならば、言い方を変えよう。――……私と似た顔をした男が居る。世間ではこう呼ばれているだろう。サー・アーサー、と。その男は君を狙っている。君を見つけ次第、殺す気だ』
『……私を、殺す?』
『売人の若者たちを殺し、アバロセレンを奪えば時間稼ぎになる。殺した人間の数が、増えれば増えるだけ良い。何故ならば、サー・アーサーはその死者の処理に追われることになるのだから。死者の魂を刈る作業に時間を割かれ、君に集中する暇もなくなるだろう。つまりこの提案は、君自身のためでもあるんだ。君が生き延びるための提案だ』
 悪魔的な甘い誘いと、良心の呵責。ホムンクルスはそれらの狭間で、激しく揺らぐ。その結果、彼女は悩み考えて迷うこの瞬間の、この苦痛を放棄した。そうして発現したのは、キミアが長らく待ち望んでいた“曙の女王ダイアナ”という存在。
『――……フフッ、分かった。私、やるわ。アバロセレンを、いっぱい集めてあげる!』
 あのとき可憐に開いた、邪悪の花。だが咲いた花はそのとき、気付きもしていなかっただろう。強烈に美しく、その存在感を否応なしに振りまく花ほど、摘まれて踏みつぶされることが早いことを。





 魂の死は、その生命の死を意味する。故に三次元よりも上の次元層に生きる、肉体を持たない生命たちは、魂を潰えることが、死を意味するのだという。
 しかし三次元の世界に生きる生命で、ある程度の大きさの脳を持つ個体は、必ずしもそのルールに当てはまらないそうだ。三次元生物は魂が潰えたとしても、肉体は息をし続ける――植物状態、という姿に成り果ててしまうが。そうして肉体が機能を停止するその時まで、命は続く。
 しかし丈夫すぎる肉体は、植物状態よりも悲惨な姿を描き出すようだ。それが今の、彼の姿。
「……あなたが好きだった珈琲よ。覚えているかしら」
 茶色い泡が水面を覆う、一風変わったコーヒーカップから立ち上る湯気と、カルダモンの香り。目の前に差し出されたカップの存在に彼が気付いているようには見えないが、しかし彼はマダム・モーガンの言葉に首を縦に振り、小さく頷く。だがその頷く素振りも、どこまで本気のものなのかは定かではない。それにマダム・モーガンのことも、目の前のコーヒーカップのことも見ておらず、どこを見つめているのかも分からない目と顔に、彼が浮かべている作り笑いは、薄気味悪いことこの上ない。
 ジョン・ドー。最近はそう呼ばれていた彼の姿はいつも通りに、十一歳前後に戻っている。元老院に何らかの改造を施された不死者である彼は、死ぬたびにこうして若返るのだ。初めて死んだ時の姿に戻り、また人生をやり直すのである。
 だが、いつも通りじゃない。今まではまだ断片ぐらいは『彼自身』がどこかに残っていて、毎度記憶は無くなったとしても、必ずどこかに『彼』の要素は残っていたし、感情はあった。しかし今は、空っぽだ。
 それでも彼の脳の中に残っている知性が、どうにか『彼』の幻像を繕っている。受けてきた傷跡と、体に刻まれたダメージを、脳が繋げて、掛け合わせて、そうして幾つかの人格を創り上げて。傷跡の記憶から、場面ごとに応じた人格を配置して、対応して。……その結果、随分とちぐはぐな人間もどきが誕生し、今はそれがここにある。
 一見、今の彼には感情があるように見える。でも本当は、無いのだ。過去の記憶を参照して、そこから機械的に、どういう表情を見せればいいのかを考えて、演じているだけ。
 彼は今に生きていない。今の彼は、過去に生きていたどれかの彼が再現されているだけなのだ。
「カップは、ここよ。こうして手で持って……零さないように飲める?」
 空っぽな笑顔を浮かべて、何も言葉を発しない彼の手を、マダム・モーガンは握る。そうして彼女は彼の手をコーヒーカップへと誘導して、彼の右手をコーヒーカップの持ち手に添えさせた。そうすれば、あとは彼が手探りでコーヒーカップの形状を探って、自分でコーヒーカップに両手を添え、それを自分で口元に運んでくれる。
 彼に差し出したものと同じ珈琲が入ったカップに、マダム・モーガンはペースト状のジンジャーを加えて、溜息と共にそれを珈琲に溶かしていく。今の彼女の気分は、最悪だった。まるで“おままごと”をしている気分なのだ、それも生身の人間を相手に。
「ねぇ……あなたのことを私は、なんて呼べばいい? ジョン・ドー、それともジャーファル? またはジャレッド、フアン、ジェイコブ、ジェレミー、ジェスロ、ジョーンズ、ジュード、それから……」
 彼が今までに使ってきた、偽名の数々。覚えている限りの者を次々と上げていくマダム・モーガンだが、珈琲をちびちびと啜る少年はどれにも反応を示さない。
「ペルモンド、っていうのはどうかしら」
 やはり彼は無言で、視線も合いはしない。
「ならー……ジャッキーっていうのはどうかしら?」
「…………」
「ジャクリーンって名前だった時のあなたったら本当に、手に負えない猛犬だったわよねぇ。私が目を離した隙にあなたが消えたかと思ったら……――いえ、この話は止めておきましょうか」
 相変わらず、彼からの返答は何もない。マダム・モーガンからの一方通行的な会話だけが響いていて、それ以外に情緒らしいものはない。
 そもそも見渡してみればここは、洞窟のような暗所。ひとの情緒なんてあるわけがない。乳白色の鍾乳石が埋め尽くす天井からは、ぽたぽたと冷たい水滴が肩へと降ってくるし。そんな暗く広い場所の端に、申し訳程度に置かれていたテーブルや椅子、ベッドなどの家具はどうにも違和感しかなくて……――ここが本来ならば、人間の居て良い領域ではないことを、無言で伝えてきているようだった。
 マダム・モーガンは持参してきていたおんぼろのカセットコンロからガスボンベを抜いて、火のついていないコンロに掛けられたままになっていた小鍋を下ろす。黒い粉が底に溜まっている鍋の中を、彼女は瞳孔のない蒼い瞳で見つめ、再び溜息を零した。
「カルダモンの入っている珈琲に、さらにジンジャーを加えるだなんて。私の味覚もどうかしているわよね。子供の頃はよく、父に咎められたものだわ。せっかくの風味が台無しだ、って……」
 思い出話を振ったところで、返答はない。そんなことは簡単に予想出来ていた。しかし彼女まで黙り込んで無言になると、耐えがたい静寂が訪れて、それはそれで辛くなるのだ。だから、喋り続けるしかないのだが……そろそろ、話のネタも尽きてきた。
 どうしたものか。悩む彼女は、黒い粉が沈殿する小鍋の底を見つめたまま、また溜息を吐く。するとその時、背後からのそのそと、大きな体の何かが這って近付いてくるような音が聞こえてきたのだ。そしてマダム・モーガンが振り返ってみると、そこには洞窟の大きな穴を這ってやってきた、巨大な蒼いドラゴンの姿があった。
「モーガン。来ておったのか……」
 そうぼやきつつ、マダム・モーガンらのいる空間に、ワニに似た頭だけを突っ込むそのドラゴンの目は、少しばかり呆れている様子。そんなドラゴンに、マダム・モーガンは言葉を返す。「カリス。あなたの(ねぐら)がここだってことは、もう分かったんですもの。ラドウィグの相棒の狐くんが突き止めてくれたからね。場所さえ分かれば、こっちのものよ」
「来るのは一向にかまわん。しかしだ、モーガンよ。来たなら来たで、報告をしてもらえんかの。驚くではないか」
「それは……ごめんなさいね。でもすぐ帰るつもりだったから」
「そういう問題ではなかろうに」
 好きな時に、好きなタイミングで、瞬時に。あちこちを行ったり来たり、そんなことを自由自在に行える身であるからなのだろうか。パーソナルスペースやら、デリカシーというものを見落としているように思えるマダム・モーガンに、ドラゴンは呆れていたのだが。どうにもそのことは、マダム・モーガンには伝わっていない様子。ごめんなさい、と口先だけの軽い謝罪を述べたマダム・モーガンだが、その彼女がどこまで反省しているかは、定かではない。……というよりも、ドラゴンが思うに彼女は、微塵も反省などしていないだろう。
 そういうわけで、まるっきり反省していないマダム・モーガンは、話題を切り替えるために別の話題を振る。謝罪は述べたのだから、これ以上の小言は受け付けない、というのが彼女の考えだ。
「それで。今更だし、そもそもの話なんだけど。どうしてあなたほどの神が、たったひとりの人間のために、これだけのことをしてくれるの? 勿論私は、あなたに感謝してる。でも彼の為に、どうしてあなたがここまでしてくれるのかが、私にはさっぱり分からないのよ」
「そもそもの話じゃな。はて、我はそのことをおぬしに話したことがなかったのかね?」
「少なくとも、私は聞いてないわ」
「そうか、ならば少し話しておくかの」
 糾弾から逃れるために振った話題。しかしその話題には先ほどの謝罪の言葉のような軽さはなく、むしろタングステンのようにずっしりと重たい。
 少し話しておこう。そう言ったドラゴンではあったが、ドラゴンは少しの間黙り込んで、考える。
 マダム・モーガンは、高位の神キミアの眷属。人間ではないし、三次元生物とは一概に括れない存在だ。しかし、元は人間だった身である。全てを打ち明けるべきか、肝心な点はぼかすべきかを迷ったが……――ドラゴンは全てを話すことにした。
 なにせマダム・モーガンは、人間を超えてから随分と経つ。その間に、多くのことを彼女は見てきただろうし、ただの人間よりも分別が付いているだろう。ドラゴンはそう信じることにしたのだ。
「我はこの星のバランスを管理しておった。主に生命のバランスよ。生き物は増えすぎてはいけず、同時に減りすぎも禁物だ。そこで我がそのバランスを、かつては取っていた。数の減りつつある種族の中でも、死滅してはいけぬものは必要な期間だけ守り。数の増えすぎた種族には、死産などの制限を与えてきたのだ。人間とて例外ではない。少なくとも約二千年前までは我が、そのバランスを調整しておった」
「……」
「しかしのぉ。ある時から突然、我の力が人間には及ばなくなったのだ。ちょうど、二十一世紀を迎えた頃かのぉ。あの頃は人間の数が増えすぎて、星のバランスが崩壊しておった。故に我は人間の数を減らすために、新たに生まれようとしていた赤子の多くに、死の運命を与えたのだが……――しかし人間の持ちうる技術が進化し過ぎていたのだ。通常ならば、産後一〇日も生きられぬはずの嬰児たちの寿命を格段に伸ばす技術を、人間は獲得していたのだ」
「…………」
「それが悪しきことだとは言わぬ。しかし、我にとっては歓迎できぬ、由々しき事態であったのは確かだ」
 ドラゴンは経験から、このテの話に人間が過剰に憤慨し、嫌悪感を示すのを知っていた。何故なのかはよく分からないが、とにかく人間は何者かに管理されていることを非常に嫌い、それに歯向かおうとする性質があるからだ。
 そういうわけでドラゴンはマダム・モーガンの様子を注視していたが、彼女は黙ってドラゴンの言葉を聞くだけ。あまり快く思っていないような微表情は見受けられるものの、怒り狂うという様子はない。そこでそのままドラゴンは、話を続けることにする。とても冷酷な話を。
「そうして我が増え続ける人間たちに、ほとほと困り果てていた頃よ。あの時に我は、彼の母親を見つけたのだ。そして我はお腹にいた赤子、つまり彼に、死の運命を授けた。本来であれば生まれてくることすら叶わぬはずだったのだよ、あの子は。しかしあの子の運命だけを、どういうわけかキミアが書き換えたのだ」
「キミアが?」
「そうだ。嫌な予感があの時にはしたものよ。それから我は、あの子の観察をはじめた。何か良からぬことが起きたときには、あの子供をすぐに殺せるようにと。しかし、我は長くひとりの子供を見過ぎたのだ。情がすっかり移って、いざという時に手を下すことが出来なかった。機会が巡ってきたときにも、我がしたことといえば屠ることではなく、手を差し伸べること。――そうして今に至るというわけよ」
 カリスという名のそのドラゴンは、矛盾するとも思える両極端の性格を併せ持つ。それは海よりも深い慈愛と、山のように高い峻厳さだ。
 そのドラゴンは生まれてくる命を厳しく選別し、選ばれた命には愛をもって見守る。それは言葉では表すことが出来ないほどの、重責が伴う使命だ。故にドラゴンは誰よりも強固な責任感をもって、その使命に臨んでいる。だからこそドラゴンは自分の失態を悔い続け、自分の失態により生まれた哀れな不死者を匿い続ける。
「我はキミアの蒔いた種を取り除くことができなかった。そしておぬしも、キミアの掻き乱した運命に巻き込まれた一人。シルスウォッド・アーサー・エルトル、彼もそうだ。――故に我は全てが収束するその時まで、おぬしらの面倒を看続ける所存よ。それが事態を防げなかった我が負うべき責任であり、せめてもの罪滅ぼしだ」
 ドラゴンがしんみりと語った本音を、しかしマダム・モーガンはろくに聞いていなかったようで。適当に頷いて相槌を打つふりをしていた彼女は、物憂い顔で、何かを考えている様子。そうしてドラゴンが話を終えたとき。ドラゴンの意思表明に何か言葉を返すようなことをしない彼女は、間髪入れずに、自分の訊きたいことを一方的にぶつけるのだ。いつものように。
「――昔から、疑問だったのよ。どうして彼ばかりが不幸な目に遭うのか、って。その原因はトラブル好きな黒狼ジェドではなく、つまりトラブルメーカーのキミアだってこと?」
「それは半分が正解で、半分が誤りだ」
 どうせマダム・モーガンは、まともに話など聞いていなかったのだろう。半分以上は、きっと聞き流していたはず。――……それを分かっていたドラゴンは不満に思う本心は押し堪えつつ、投げ掛けられた質問には誠実に答える。自身が知っている限りのことを、ドラゴンは誤魔化すことなく答えるのだ。
「アリアンフロドが回す時間の流れは、既に決められておるのだ。我らは定められた筋書きの通りに、ただ動いているだけ。自発的に考え、動いているように思えても、その全ては所詮アリアンフロドにより定められた筋書きの通り。我らのこの会話でさえ、きっとそうなのだろう」
「なんだか気持ち悪いわね、それ」
「だがそれが正常な世界で、我らアリアンフロドが回す銀輪の支配下にある者らの定めなのだ。そして彼はキミアにより、銀輪の支配下からはじき出された存在。本来ならば、居てはならぬ禁忌なのだよ」
 コーヒーカップを両手で包むように持ち、呆然としている少年を見つめながら、ドラゴンが口にした言葉。禁忌。その単語にマダム・モーガンは不愉快さから眉根を釣り上げたが、彼女はそれ以上の反応を見せないし、何かを言うことはしない。それを確認すると、ドラゴンは話を続ける。
「故にアリアンフロドの筋書き通りに動く世界は、調和を乱す者を排斥しようと働いておるのだ。いわば、免疫のようなものよ。彼はこの世界において排除すべき異物であり、世界は今後も排斥を試み続けるだろう。そればかりは誰にも、どうすることもできぬのだ。アリアンフロドとてどうすることも出来ぬだろう。それは個々としては小さいものの、それらが積み重なることにより生まれてしまった、目には見えぬ大いなる力だからのぉ……」
「……」
「予定されていた災厄に巻き込まれて、異物が息絶えるよう仕向けてみせたり。それが効かなければ、何らかの理由をつけては異物を攻撃し、異物が自ら命を絶つよう仕向ける。今までにも幾度か、彼の他にも繰り返されて来たことだ。だが彼がどうしてここまで狙われるのかといえばそれは、しぶといからだろう。いずれにせよ、彼が二度と覚めぬ眠りにでも就かぬ限り、攻撃の手が止むことはない」
「…………」
「だが攻撃を一時的に休止させる手立てはある。――以前も施したように、再び彼を氷の中に鎖すことだ。そうすれば長期の間、仮死状態に出来る。彼がこれ以上傷付くこともないし、お主も不必要に気を揉まずに済むだろう。それが今の状況では、最も妥当な……――」
 回答ついでに、ドラゴンが投げ掛けたその提案。だがマダム・モーガンが返したのは、一度の深い溜息と、次いで深呼吸。そうして一瞬の静けさがやってきた後、マダム・モーガンはドラゴンも予想をしていなかった言葉を発する。
「カリス。あなたは慈愛に満ちた、心の広い神よ。あなたのこと、本当に尊敬してるの」
「突然、改まってどうしたのだ。モーガンよ。そのような心遣い、我には不要ぞ」
 ドラゴンの黄色い瞳には、マダム・モーガンの瞳孔のない蒼白い瞳が映っていた。そしてマダム・モーガンの瞳でちらつく燐光は、今日はどこか凪いでいるように思える。それは奇妙なほど、穏やかだった。
 そしてそれはまるで、嵐が近いことを予見しているようでもある。
「あなたは慈愛に溢れた偉大な神。それを忘れないで。何があってもどうか、広い心で受け止めてほしい」
 マダム・モーガンが同じような台詞を繰り返し言って見せるが、だがドラゴンは無言で、ゆっくりと瞬きをしてみせるのみ。その行動は頷いていることと同意義のようにも思えたし、一方で「どうすることもできない」と告げているようでもあった。


+ + +



 それはかれこれ四〇年前の話。すっかり大人の男になり、血の繋がりのない娘二人を腕に抱くようになっていた息子を遠くから見つめる父親の横顔に、アイリーン・フィールドはこう語り掛けたのだ。
『アーサー。息子さんに、会いに行かなくてもいいの?』
 あの時に、アーサーが考えていたのはひとつだけ。息子が今を幸せだと思っているなら、それでいい、と。たとえ息子が腕に抱いている双子の少女が、禁忌の存在ホムンクルスであるとしても。息子がその事実を知らず、生まれながらに咎を背負う彼女たちを我が子のように愛し、育てているなら。そのままの生活を、自分は影から守っていくだけだと。
それが死後の生を与えられた理由であると、当時の彼は信じていた。残酷な真実を、あのときは知らなかったのだ。
それにあのホムンクルスたちは、とあるアバロセレン技師に殺害された彼の娘テレーザの、忘れ形見でもある。そのホムンクルスたちを殺すことは、当時の彼にはまだ躊躇われたのだ。
『今はまだ、アバロセレン技師たちの界隈でも怪しい動きはない。危険がないのであれば、彼らに近付く必要もないだろう。それに今は彼らから、子供を奪う理由もない』
 アイリーン・フィールドの問いかけに、アーサーはあのとき淡々とそう返した。
『私は、そういうことを言ってるんじゃないわ。だから……――あぁっ、もう! サー、後悔しても私は知らないからね!』
 だが守るべき平穏が続いたのは、十六年ぽっきり。アーサーが北米へ出向いていた時に急転した事態により、彼が最後に守ると誓ったものは崩れ去った。
 事態を聞きつけ、彼が動いたときには全て終わっていた。結局息子と顔を合わせる機会が彼のもとに巡ってきたのは、息子の今際のきわ。
『……ごめん、父さん……俺は、父さんに被せられた汚名を、(そそ)げなかっ――』
 あれはアレクサンダー・コルトが、特務機関WACEという場所で初めて目を覚ましたのと同じ時。彼女が目を覚ました時、別の場所ではアーサーの息子と、義理の娘エリーヌが目を閉じ、息を引き取った。そしてホムンクルスの双子は連れ去られ、その消息を絶った。――それが、ざっと二十七年まえの出来事。
 あの日を境に、彼から人間らしい感情が消えた。アバロセレンに対する憎悪は募り、アバロセレンを扱う人間たちに対する憎悪は増した。そして元からあった人間不信的性格によって憎悪には拍車がかかり、気が付けば彼は人間の全てを憎むようになっていた。それでも彼は、騙しだましで本心を隠してきた。人間のため、未来のためだと嘯いて、うちに抱えた憎悪をアバロセレンにだけ向けてきた。そうやって一〇年、彼は自分にも周囲にも嘘を吐き続けたが、あるとき遂に本心が露呈し、暴走が始まった。そのきっかけが、今では“リリー・リーケイジ”と呼ばれている一連の騒動だった。
『私は知っています。あなたは人間たちを惨たらしく殺すための口実を欲していた。……私があなたに、口実となる大義をあげましょう。ですから私に、協力してください』
 パトリック・ラーナーの裏切りに端を発し、彼の中で動き出した狂気が遂に一線を越えたとき。アーサーの前に、そう囁く海鳥の影ギルが現れたのだ。
『人間を滅ぼして、新世界を創るために。私に、あなたの力を貸してほしいのです。そうすれば私も、あなたに力を貸しましょう』
 そう囁き続ける海鳥の影ギルの声に、しかしアーサーはつい数ヶ月前まではずっと、無視を決め込んでいたのだ。それは彼の中に、少しは人間性が残っていたからであり、その人間性を思い出させてくれる者が居てくれたからであった。
 だが、人間性を刺激し思い出させてくれる存在は、自死を選択した。そしてその者の死を皮切りに、次々と真相が明らかになっていった。それも明らかになる真相とはどれも酷く醜いものばかりで、それらを受け止めるたびに、彼の狂気は増していく。そうして彼は遂に、海鳥の影ギルの言葉に耳を貸したのだ。
『さぁ喜べ、哀れな仔羊たちよ!! 慈悲深いコヨーテからの贈り物だ! 無論、受け取ってくれるよなぁ、テオ・ジョンソン!!』
 最後に明らかになった真相は、曙の女王と名を改めたホムンクルスの口から伝えられた。それは、キミアの真意。彼に死後の生を与えた者が、彼に対し本当に望んでいたこと。
 あの瞬間、彼の中に残っていた最後の人間性が吹き飛んだ。曙の女王を介して間接的に伝えられたキミアの要求に、彼は拒否を突き付けて、彼はより悲惨で、より美しい世界を望んだ。
『――……さぁ、ギル。お前の力とやらを見せてみろ』
 キミアが彼へと突き付けた要求は、アバロセレンを支配し、上等なホムンクルスを量産してひとつの軍隊を仕上げ、人間たちを支配するということ。その支配者の役目をキミアは、アーサーにやらせたかったのだ。そしてキミアはアーサーを操り、意のままにひとつの星を動かそうとしていたのだ。
 だが彼が望んだことは、すっかり汚れて卑しくなった人間たちを滅ぼすこと。そうして何もかもを清らかな水で洗い流し、そこに新しい生命の種を蒔くこと。つまり新世界を築くことだった。人間を恐怖によって支配することに、彼は魅力を感じられなかったのだ。
 新世界を築くということ。それはとても、大それたことだ。だが不可能じゃない。それを可能にするものが今、彼の手元にはある。それは彼自身であり、海鳥の影ギルであり、そして何よりも憎み続けたアバロセレン。
『分かりましたよ、シスルウッド。私の羽根を使いなさい』
 テオ・ジョンソン部長がASI本部から、ステルス無人航空機を介して、アーサーと曙の女王を観察していたあの夜。地に突っ伏して泣きじゃくる曙の女王の姿が、彼の目にはちょうどいい場所にいた“ライオンを釣り上げるための仔ヤギ”ぐらいにしか見えていなかった。かつて彼の息子が、そのホムンクルスを愛していたという事実など、あの時にはもう忘れ去られていただろう。
 不敵に笑う彼の足下で、海鳥の影ギルは自分の翼を嘴で突き、黒い羽根を五つ散らせる。するとふわりと待った羽根は途端に姿を変え、それぞれが闇を溶かしたように黒い突剣と化したのだ。
 五つ並んだ細い突剣に、曙の女王は怯えた顔をした。そして突剣が彼の力によって宙に浮き、全ての切っ先が曙の女王を狙う。
『レイピアか。……ギル、お前は私の好みをよく分かっているようだ』
 それまでは彼の頭の中にあるチェス盤の上で、白と黒の駒たちが競り合っていた。そうして黒い駒たちが着々と姿を消していく中、突然のルール違反で白のクイーンの駒が消えた時。彼はチェス盤をひっくり返して、ゲームそのものを破壊する。戦局は大きく変わり、白と黒の駒たちの全ては敗者となって、チェス盤をひっくり返した者だけが勝者となった。
その時、彼は笑っていた。そして彼自身も大きく変わり果てていた。





 シリル・エイヴリー少佐のおごりで、胃袋の気が済むまで夕食を食い尽くした後。彼と別れた淑女二人は、民間の射撃場へと足を運んでいた。
「流石ね、サンドラ。あなたの弾丸は全て、急所を射てる。私は五発中、二発も外したわ……」
 人は二人以外には誰もいない、民間の射撃場。射撃スペースには、アレクサンダー・コルトとジュディス・ミルズの二人だけが居る。そして射撃スペースから直線上に約二十五メートル離れた奥には、上半身だけの男がプリントされた標的の紙が二枚、天井から吊り下げられて、穴だらけな姿でぶらぶらと揺れている。
 ジュディス・ミルズが立つ射撃スペースの前に吊り下がる紙の的には、五つの穴が開いているものの。的に印刷された男に開いた穴は三つで、額の中央と、心臓部、右肩に命中している。だが残りの二つの穴は的にこそ当たっているものの、的に印刷されている男の絵には当たっておらず、胴体の横をすり抜けていったカタチだった。
 しかしアレクサンダー・コルトの前を揺れている的は、見事に男の絵を射抜いている。額の中央、左肩と右肩に、心臓部、それから腹部大動脈が通るあたり。――もしも紙の的が、生身の人間であったなら、間違いなくそいつは即死しているだろう。それぐらいの正確さを、彼女の射撃は伴っていた。
 そうしてすっかり感心するジュディス・ミルズの言葉に、アレクサンダー・コルトは苦笑いする。アレクサンダー・コルトは装着していた防音イヤーマフを外しながら、皮肉を零した。
「射撃だけは、若い頃に必死で努力したもんさ。なんせ特務機関WACEじゃ、標的を抹殺できなければ、アタシがサー・アーサーに殺されるかもしれなかったからね。……そんな勝手な事情のせいで、ニールや連邦捜査局の連中には迷惑を掛けたよ。犯人を生け捕りにするのがベストなのに、アタシが片っ端から殺しちまうんだから」
「そういえばあの頃。そのせいで“死神”って呼ばれてたわよね、あなた」
「ああ、そうだ。ボスと同じ蔑称で、呼ばれてたよ」
 正確無比な射撃の腕前。アレクサンダー・コルトがそれを身に着けたのは、彼女の隣には常に死の気配があったからだ。
 直接的な脅しの言葉が、何かしらあったわけではなかったが。当時、サー・アーサーという男から与えられる無言のプレッシャーが、いつも彼女の背中にはあった。彼から支持された標的を殺さなければ、彼女が彼に殺されるというような。殺るか、殺られるかの空気感が、当時はあったのだ。
 だから当時の彼女は、殺すよう指示された標的のことを、ひとりの人間として見ないように心がけていた。今この射撃場にぶら下がっている、あの紙の的と同じものだと思うようにしていたのだ。故に当時は、握る拳銃の引き金を引くことに躊躇いはなかったし、命を奪うことを厭わなかった。厭わないようにしていた。
 だがある時ふと、そんな自分自身が恐ろしく思えたのだ。それはたしか、アストレアと出会ったころ。アストレアの世話をしている中で、アレクサンダー・コルトは考えてしまったのだ。この小さな女の子が将来、自分のように躊躇いなく人を殺すようになるのか、ということを。それはとても恐ろしく思えたし、その恐れは同時に気付きも与えた。躊躇いなく人を殺すことは、恐ろしいことだと。
 そうして長いこと封じ続けていた呵責に再び目をやったとき、アレクサンダー・コルトは鉛の弾を捨てた。代わりに彼女は気難しい大天才にあることを持ち掛けたのだ。そうして生まれたのが、あの『おねんね銃』。
「だがある時、急にさ。死神って呼ばれることが嫌になったんだ。それでアタシは、ペルモンド・バルロッツィにねだったんだよ。人を殺さずに済む銃をアタシのために創ってくれないか、って」
 防音イヤーマフを射撃スペース脇に設置された台に置きつつ、そう言ったアレクサンダー・コルトは、少し恥ずかしそうにはにかんだ。すると同じく防音イヤーマフを外し、射撃スペース脇の台の上に置くジュディス・ミルズは、アレクサンダー・コルトの言葉に驚き、眉をひそめる。そしてジュディス・ミルズは問うた。「……まさか、スリーパーA79の発案者って、あなたなの?」
「そうとも言えるが、最終的に『麻酔筒とワイヤレス・スタンガンを合わせた、連射可能で消音性の高い拳銃タイプの方向で行こう』って決めたのはペルモンド・バルロッツィだよ。アタシが提案したのはあくまでも、人を殺さずに済む銃、ってことだけだし。……とはいえ、彼はアタシの言ったことを初めは、笑ってたけどね。人を殺せてなんぼの武器からその価値を奪うだなんて、どうかしてるんじゃないのか、って。でも彼は創ってくれたんだよ、価値がない銃を」
 アレクサンダー・コルトが、大天才にそんな話を持ち掛けたのが十年前のこと。そして『おねんね銃』との仇名が今はすっかり定着している、麻酔銃であり電極を発射するスタンガンである『スリーパーA79』が開発され、捜査機関や司法機関、ASI等で採用されるようになったのが九年前。
 法規制の対象にはギリギリでならない、少量の麻酔。それと携銃許可さえ事前に持っていれば、計一〇回の講習をクリアすることだけで使用可能となる強電圧特殊スタンガン。その両方を兼ね揃えたスリーパーA79の昏倒性は群を抜いており、使用に関する敷居の低さと利便性の高さ、そして実弾よりも殺傷能力が明らかに低い――しかし人体に二発以上の弾が当たった場合は、心停止の危険性がある――という点は、スリーパーA79の使用者にも、そして国民にも、概ね好意的に受け止められている。ジュディス・ミルズも、その一人だ。
「人を殺さず生け捕りにする銃のお陰で、多くの人間が助かってる。無駄に命を落とさずに済んだ者がいて、罪悪感に苛まれずに済んだ者がいて、解決した事件があるんだから。あれは偉大な発明よ」
「そうだな。アタシも、そう思う。素晴らしいものを作ってくれたよ、彼は」
「勿論、創ったのはペルモンド・バルロッツィだけど……発案者のあなたは、その功績をもっと誇っていいのよ?」
「でも、アタシが創ったわけじゃないからね」
 そう言いながら、照れくさそうにアレクサンダー・コルトは鼻の頭を掻く。というのも彼女は以前、ジュディス・ミルズが今言っていたようなことを、あの大天才からも言われていたのだ。『最初は馬鹿げた提案だと思ったが、それが結果的に素晴らしい実を結んだんだ。だから発案者のお前は、そのことを誇りに思っていいんだぞ。自分の功績だと主張したっていい』と。
 しかし影に居る期間が長すぎたせいか、彼女にはどうにも……そういった主張というもののやり方が分からなかったし、自分は影に徹するべきだと思えてしまっていたのだ。その結果、気を利かせた大天才が銃に彼女の名前を付けるに至ったのだ――スリーパーA79の“A”は、アレクサンダーのAである。
 そんなこんなでアレクサンダー・コルトが照れ笑いを続けていると、ジュディス・ミルズが腕を組み、顔を顰め、何故かアレクサンダー・コルトの足許をじーっと見つめている。
「どうしたんだい、ジュディ」
 足許というか、腰ぐらいの高さというか。とにかくアレクサンダー・コルトの足回りを、何故かジュディス・ミルズは見ていたのだ。
 そんなジュディス・ミルズにアレクサンダー・コルトが声を掛けてみると、その途端、ジュディス・ミルズの表情がパッと変わり、しかめっ面が驚嘆の顔に変化したのだ。するとジュディス・ミルズが呟く。「――見えた」
「ジュディ?」
「サンドラ! 私、見えたわ! ラドウィグが言っていた、あなたの守護獣!!」
「守護……――なに?」
「ラドウィグが前に言ってたのよ。あの、私が覚醒者について彼に色々と質問をした時にね。それで彼が言うには……ウルルの、あのとき。サンドラの心臓をコヨーテは確実に狙ってたけど、コヨーテが放った武器の軌道を守護獣が寸でのところで逸らしたから、サンドラの命は助かったんだって」
 さっきまでの、スリーパーA79の話はどこへやら。突然、守護獣がどうのと突拍子もない話をし始めたジュディス・ミルズに、アレクサンダー・コルトは困惑した。だがジュディス・ミルズは話を続ける。
「立派な(たてがみ)ねぇ、守護獣さん。こんなにクールなライオンに守られているのに、サンドラ本人は気付いてすらいなかっただなんて。なんて献身的な守護獣さんなのかしら……」
「――ライオン?」
「そうよ。ホワイトライオン。立派な鬣のオス」
 オスの、ホワイトライオン。
 思い当たる節があるアレクサンダー・コルトは、ますます困惑した。まさかそのホワイトライオンは、あの三〇年前のあのライオンなのではないか、と。だが、まさかそんなことがあり得るわけがない……とアレクサンダー・コルトは同時に否定もする。ともかく彼女は混乱していたのだ。
 するとアレクサンダー・コルトの混乱を察してか、ジュディス・ミルズは慌てて釈明をする。自分が、こんな突拍子もないことを口走った、そのワケを。
「ラドウィグが言っていたのよ。見ようとしなければ見えはしない、だけれども見ようとした途端に、見えてくる者たちが世界には居る、って。それで今なんとなく見ようとしたら本当に、私にも見えたっていうだけなの。……あー、それか私もついにイカれちゃったのかしら?」
 見ようとしなければ、それは見えない。けれども見ようとすれば、見えてくる。
 その言葉の通りにアレクサンダー・コルトも、自分の傍にいるという守護獣を見ようとした。するとすぐに、それは現れる。
 百獣の王の風格が漂う、白い鬣。大きな白い足に、魁偉で剛健な白い体躯。揺れる、白く細い尻尾。そして金色の瞳。そんなホワイトライオンはたしかにアレクサンダー・コルトの足許に、寄り添うように立っている。そしてホワイトライオンはアレクサンダー・コルトの目を見つめ、彼女もまた、ホワイトライオンの目を見つめていた。
「……ウィキッド」
 ホワイトライオンの名前を、ふとアレクサンダー・コルトが呟いた時。射撃場の店員らしき若い男が現れて、少し離れた場所から女二人に声を掛ける。
「あの、そこのご婦人たち! 店、閉めるんだけど。終わったなら早く外に出てくれないかな?」
 そうしてアレクサンダー・コルトとジュディス・ミルズの視線が、店員に逸れたとき。二人の視界からホワイトライオンの姿は消え、見えなくなっていた。
 どこに消えたのだろうか、とジュディス・ミルズはあたりを見渡すも、ホワイトライオンは見つからない。一方でアレクサンダー・コルトはホワイトライオンを探すことはせず、ぽつりと呟く。
「誰かを救けに行ったんだろうよ、あのライオンは。気が向いたら戻ってくるさ」
 弾切れになった銃と防音イヤーマフを持つと、アレクサンダー・コルトは急かす店員の方へと歩いて行く。ジュディス・ミルズも同じく銃と防音イヤーマフを手に取ると、アレクサンダー・コルトの後を追いかけていった。


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