アンセム・フォー・
ラムズ

ep.15 - Song of dusk

 世界のどことも知れぬ、暗い場所。そこで黒いカラスは、女に問う。銀の糸車を回し、目に見えぬ時の糸を紡ぐ若い女――の姿をした女神――に。
「よぉ、アリアンフロド。お前ェサンがついに心変わりをしたと、風の噂で聞いたからヨ、来てやったゼ。ンで、具体的にどう心変わりしたのかェ? まさか、俺ちんを妨害するのではなく、俺ちんを殺すことにしたとかかェ? あのラドウィグとかいう名前の、お前ェサンの密者を使ってヨ」
 碧く長い髪を持つ若い女は、他の神々からは主にこう呼ばれている。時司(ときつかさ)の神。または、司神アリアンフロド。今日もまた、白く細い手指で糸を紡ぎ続ける彼女は、その手を止めない。その手を止めるときは、糸球を完成させるためにハサミで糸を切り、世界が終わるときか。または、彼女が休むために、世界が小休止するときだけ。なのでどちらにも該当しない今は、こうして糸を紡ぎ続けるのだ。あらゆる事象を記録する、時間の糸を。
「いいえ。そのどちらでもありませんよ、キミア。安心しなさい」
「そうかェ、ケケッ。こりゃ、面白くなってきたなァ」
「ですが、お前に協力するわけではありません。私はただ、何もしないことを決めただけですから」
 少し昔までは、彼女の傍に灰色の毛並みをもった狼がいた。その狼に特に名前はなかったが、女神は狼の緑色の瞳を理由に、その狼をこう呼んでいた。翠の宝石(ジェイラム)、と。
 狼の役目は、糸球を汚したり、時に糸を切るキッカケになりかねない『ごみ』を見つけること。『ごみ』とはつまり、歴史をひっくり返しかねないような危険因子のことだ。狼はそれをいち早く察知し、それを女神に伝え、女神が『ごみ』を排除する。それにより、この世界は今までずっと同じ歴史を繰り返すことができていた。
 だがあるとき、女神のもとを狼は去った。キミアという名前のカラスが元老院を(そそのか)し、ひとつの大きなエメラルドから切り出されて作られた玉鏡の中に、その狼を封じてしまったからだ。そして玉鏡に封じられた狼は女神の手を離れ、別の神のもとへ、地球の生物を監視する役目をもった竜神カリスのもとへと移動した。
 しかし、それだけでは終わらない。キミアという名前のカラスが、竜神カリスからその玉鏡を奪ったのだ。その挙句、カラスは玉鏡にヒビを入れた。そしてヒビの入った鏡と共に、中に居た狼も二つに裂かれたのだ。黒と白、その二匹に。そうして二匹の狼は逃走した。それが今の、黒狼ジェドであり、白狼ジェドである。
「しかしキミア。私はお前を許したわけではありません。お前が私の狼に手を出さなければ、悲しき不死者も、死神とお前が呼んでいる人の子も、生まれることがなかったのですから。アバロセレンなるものも生まれず、元老院が怒り狂うこともなかった。お前は過ちを犯したのです。それを忘れてはなりません」
「過ちかェ? ケケッ。俺ちんは、そうは思っていねぇがヨ」
 女神は糸を紡ぎながら、己の手を離れた悲しき狼が、本来の役目を忘れて暴れまわる姿を見てきた。排除すべき危険因子に、その狼が成り下がっている現実に女神は涙を零した。元老院に調教されたが故に、女神と過ごした日々を忘れて、まるで別の生物であるかのように振舞う狼の姿に、女神は胸を痛めた。
 長いこと、ずっと。その悲しみを見てきた。そしてある時、ふと思ったのだ。
「私は、ジェドの苦しみを終わりにしてあげたいだけです。そしてジェドの被害に巻き込まれた者たちの苦痛も断ち切りたい。――決してお前の思想に感化されたわけでも、賛同しているわけでもありません」
「どっちだろうと、俺ちんは構いやしねぇヨ。重要なのは、お前ェサンが俺ちんの邪魔をしてくれてねぇことだけサ。それさえ約束してくれりゃ、それで十分ヨ」
 カラスは嗄れた声で汚く笑うと、その場を飛び去る。そして今も紡いでいる糸を見つめる女神は、なにかを憂うように瞼を伏せた。
「……」
 気が遠くなるほどの、遠い昔。何もなかった場所に創られた、対を成す二柱の神。片一方は時間を回し続けるために存在し、片一方は時間を止めて終わりを与えるために存在している、そのふたつ。今までは常に対立しあい、相容れることがなかった彼らが、妥協点を見つけたとき。果たして、何が起こるのか。
 それは神さえも、知り得ない。





 今日もどこかでは、神々が世界の存亡をかけた駆け引きを繰り広げている。元老院では意見が割れている反面、犬猿の仲であった司神と昏神が手を組んだりなど。着実に、変化は起きていた。
 だが人間は今日も何も知らず、普通の日々を送っている。着々と、異常気象に蝕まれるアルストグラン連邦共和国とてそれは同じ。
 そしてASIでは渋い顔をしたジュディス・ミルズがラドウィグを質問攻めにし、北米のボストン港跡地では元老院の質問攻めにあっていたマダム・モーガンが項垂れ、さらにマンハッタンではアストレアが酔っ払いを介助し、屋上へと彼を導いているとき。同じ時刻、連邦捜査局シドニー支局の地下二階モルグでは、検視官エレノア・ギムレットと検視官助手ハリエット・ダヴェンポートがそわそわとしていた。
 そんな彼女たちが様子を伺っていたのは、このモルグの実質的統治者である大ベテランの検視官バーニーの背中。今日も無表情である彼から放たれる、緊張感に溢れた異様なオーラを警戒していたのだ。彼はいつものバーンハード・ヴィンソンではない。何かが今日は変だ、と。
 このテのことにはてんで鈍い検視官助手ダヴェンポートすらも、彼の異変を感じ取っていたくらいだ。今朝の検視官バーニーは、何かがおかしかった。
「あの、ギムレット先生」
「静かに。……ダヴェンポート、あんたは六階にでも行って、ベッツィーニのお手伝いでもしてきな、なんでもいいから」
「何でもいいからって言われましても……」
「あんたはモルグの外にいなさい。私が良いって言うまで、今日はここに戻ってきちゃダメだよ」
 業務開始時間前である今。そして、解剖するような遺体も特にない今。現場の捜査官たちからの臨場要請もない今。モルグの術衣三人衆は暇をしていた。検視官エレノア・ギムレットも、検視官助手ダヴェンポートも、検視官バーニーも。
 こういうとき、普段なら検視官エレノア・ギムレットは地上のフロアに行く。化学捜査課にでも出向いて、そこにあるコーヒーメーカーを借りて、束の間の一服を化学捜査官たちと楽しむのだ。そして検視官助手ダヴェンポートは、世界中のあらゆる検死解剖の実例を読み込み、その知識を蓄えることに集中する。また検視官バーニーも普段なら、解剖用メスやら解剖用ノコギリに電動ノコギリ、糸ノコギリといった刃物のメンテナンスや、氷嚢の在庫チェックなど、仕事道具関連のチェックをしていることが多いのだが――今日は違っていた。
 青緑色をした半袖の術衣の上に、長袖の白衣を着ている彼の姿は、いつもと同じだった。いつでも仕事に係れる準備をしている用意の良さは、普段の彼と変わらない。だが、いつもと違う点があったのだ。
 あの、死体にしか興味がなさそうで、世間の情勢やら有名人のゴシップ情報などにはとんと疎そうなバーンハード・ヴィンソンが、老眼鏡を装着して新聞を広げている。無表情で、死んだ目で、細かい文字を追っている。あのバーンハード・ヴィンソンが珍しく、新聞なんていう俗物を読んでいるのだ!
「……なぁ、バーニー。朝から、どうした?」
 検視官助手ダヴェンポートをモルグから追い出した後、検視官エレノア・ギムレットは検視官バーニーに近付き、恐る恐るそう声を掛ける。すると検視官バーニーは新聞を見たまま、こう返した。「新聞を読んでるだけよ。コーヒーショップで見かけて、気になったから買っただけ。それがどうかしたのかしら?」
「アンタらしくないなって思った。新聞を読むような習慣なんて、アンタにゃなかっただろ? だから様子がおかしいと思った。それに随分とアンタがシケた雰囲気してるから、気になっちゃってね」
 そして検視官バーニーのすぐ背後まで近づいた検視官エレノア・ギムレットは、彼の頭の後ろから、新聞を覗き込む。それから彼女は一通り、その新聞の内容を読み流した。
 まずはブラックレター体で書かれた新聞タイトル。ザ・ニュー・シドニー・ヘラルド、そう書かれている――これはシドニー市内で最もポピュラーな新聞社だ。そして次に見たのは、存在感の強い一面記事。でかでかと大きな文字で書かれた一面記事の見だしには、太字のサンセリフ体が宛がわれ、こんな文章が書かれていた。
『搾取には耐えられない! スーパーモデルの悲痛な叫び』
 内容はざっくり言うならば先日、突然の引退を発表したアンドロジニーモデル、レイ・シモンズについて。彼または彼女が、どうしてモデルという世界を引退することを決めたのか、その決断に至るまでの状況が書かれている。ハードなスケジュールを組む代理人の存在。セクハラともいえる無理難題を吹っ掛けてくるカメラマンの存在の暗示。横柄な代理人に愛想を尽かし、失踪してしまった元マネージャー。そして遂に鬱病と摂食障害を発症したという当事者の告白など。――どれが真実で、どれがそうでないかは分からないが、少なくともレイ・シモンズというモデルが華やかな舞台を、唐突に去っていったことは事実だ。
 とはいえ、そんなことは検視官エレノア・ギムレットにとってどうでもいい――それに検視官バーニーがこのテの情報に興味があるとは思えない。そして彼女が二面記事に目をやったときだ。検視官バーニーが溜息を吐くと、彼は紙面の一部を指差したのだ。
「そうね、たしかに。私にはそんな習慣はないわ。ただ、どうしても買わずにいられなかったのよ。この記事が気になって……」
 それはうんと隅にある一角、小さな記事だったが、そこには検視官エレノア・ギムレットも驚く内容が書かれていた。
「えっ、うそだろ。……これ、本当に? だとしたら、一面記事のモデルよりも大事件だろ?!」
「ええ、そう。私もそう思うわ、ギムレット。お陰で、退職後のロンドン行きがおじゃんになった……」
 小さな小さなその記事の見出しは、これ。『大統領は言った。海外旅行を禁ずる!』。そして内容は、見だしのとおり。アルストグラン連邦共和国に住まう全ての国民は、今月末には二度と国外に渡航できなくなるという。そして国外から人が入ることもなく、輸出入も全て禁止になるらしい。そういった内容の大統領令が昨日、出されたそうだ。それに伴い、国内の国際空港は来週の頭にも全て閉鎖されることになるという。
 なんという横暴だろうか。検視官エレノア・ギムレットは肩を落とす。前予告のようなことは、たしか何もなかったはずだ。青天霹靂のように突然、トンデモな大統領令が空から降ってきて……。となれば、海外への渡航を計画していた検視官バーニーの悲嘆は計り知れない。
「こりゃロンドンには行けないね。残念だ、バーニー……」
「実を言うと昨日、急に家に押し掛けてきた司法省のやつらにパスポートを没収されたうえに、ニューサウスウェールズから一歩も出るなと脅されたのよ。没収する理由も、ニューサウスウェールズを出てはいけない理由も、説明してもらえなくてね。疑問に思っていたら、今朝これを見つけて。……大統領の一声で、こんなことになるなんて。この国も崩壊間近なのかしらね?」
 検視官バーニーが新聞なんてものを買った理由。そして彼から漂う、ピリついた緊張感。その答えを理解した検視官エレノア・ギムレットは、腕を組んで溜息を吐く。彼女は検視官バーニーに同情していた。
 呪われた街シドニーでは絶対に死にたくないと、昔から言い続けていたこの男。だが国は彼に、シドニーで死ぬことを求めているようだ。
 彼が生まれ育った、この哀しい思い出ばかりの街に、死ぬときは骨を埋めろと。そういうことらしい。……そして現役を退いたあとの展望をあえなく政府に潰された男の恨み節は止まらない。
「……第一に半世紀以上も昔、北米を追い出されてこの大陸にやってきたアルフレッド・ミラーに唆されて、時代遅れの大統領制に舵を切ったことがすべて間違いだったのよ。大統領なんかお飾りで、権限なんか与えなくていい。今の体制じゃ、どんどんアルストグランは衰退していくだけだってのに。どうなってんのかしらねぇ、まったく。この国は、どこへ向かってるんだか……」
 検視官エレノア・ギムレットは足音を殺し、息を殺し、静かにモルグを立ち去る。彼女は地上のフロアに、このストレスを浄化してくれるコーヒーを求めに行った。





 どことも知れぬ暗闇の中。そこでは声だけが響いている。
 幾つもの声が木霊するその闇の空間に、これといった名称は無い。ただ彼ら自身は、自らをこう称する。元老院。または、創造主と。
 以降、彼らの会話を記録する。
「黒狼ジェドについてだが。……やつを再びあの玉鏡に封じたほうが良いだろう。それから当面の間、黒狼の運用計画は凍結すべきではないか」
「それに賛同する。モーガンに処理をさせよう」
「……黒狼の処理はモーガンに任せるとしてだ。白狼は、どうするのか?」
「黒狼と違い肉体に宿ることを好まぬ白狼は、鏡の世界から現実を観察する役割に戻るはずだ。今は義体のアーサーの周辺をギルと共にうろついているようだが、じきに白狼は本来あるべき場所へ戻るだろう」
「して影のアルバトロス、剣の天使ギルは? 義体のアーサーと共に行動しているようだが、あまりに危険ではないか」
「ギルの凶暴性は否定できない。危険でないとは、言い切れないだろう」
「ならば早急に、あれの処分を検討すべきではないか」
「否。それは時期尚早だ。もう少し様子を見たほうがよい。結論を急ぐべきではない」
「だが不穏な要素は排除すべきだ」
「しかし人間どもを一掃する際には、義体のアーサーとギルが役に立つかもしれん。利用価値はある。黒狼に望みを見出せない今、やつらは生かしておき、様子を見るべきだ」
「エイドは、どうする? あれを生み出した理由である、黒狼ジェドの器、そのスペアとしての役目は終わった今、あれに価値はない。ましてや義体のアーサーと行動を共にしている今、あれも排除すべきでは」
「そう結論を急ぐな。ギルと同様、もう少し様子を見るべきだ」
「……しかしだ。義体のアーサーは、何を企んでいるのか?」
「分からぬ。その上、やつが何も考えていない可能性も否定ができない。これまでのやつの行動には、キミアのような一貫性が見られない。やつに綿密な計画があるとは考え難い」
「だがキミアと同様、やつが我々の破滅を望んでいることだけはたしかだ」
「さぁ、どうだか。それすらも怪しいもんだがねぇ」
「そして一番の問題はアリアンフロドだ。彼女には最近、キミアに感化されつつある節がある。放っておけば、キミアの計画に加担しかねない。アリアンフロドがキミアの側に堕ちれば、我々も終わりだ」
「あのアリアンフロドが? 彼女に限って、そりゃないだろう。キミアを最も毛嫌いしていたじゃないか。そんなアリアンフロドが、まさか」
「キミアを毛嫌いするよう、我々がそう設計したからな。だが、あれからあまりに時間が経ち過ぎた。なんらかの変化がアリアンフロドに起きていても、おかしくはない」
「…………」
「……こればかりは、我々がここで論を尽くしたところで埒が明かないでしょう。今後、どうなるのか。それを見守るしかありません」
「これだから三次元生物は嫌いなのだ。浅はかで強欲であり、己にしか注視せん」
「彼らには見える世界が限られているのですから。それを導き、正しき方角へ歩むよう促すのが我々、高次に住まう者、そしてこの世界を統治する者の役目」
「ねぇ、アタシはキミアを敢えて放っておくのもいいと思うけど。だって、面白そうじゃない?」
「何を言うか、貴様! アリアンフロドを創造した際に偶然生まれたあの副産物、生かしておくべきではない。今までは大人しくしておったから良いものを、行動を起こし始めた今、早急にあれ始末すべきだ!」
「同意見です。それに面白いという言葉だけで、この世界を破壊されては堪ったものではありません。我々には世界という共同体を維持しなければならない責務があります」
「同じこと繰り返して、繰り返して……――なにが楽しいの? 教えてよ、ニェ・ラ・ダート。アタシはここいらで、もう終わりにするってのもアリだと思うけど? それに責務って何さ。誰にそんな責務を与えられたのよ、アタシたちは」
「ラ・ネ・ツァークトゥのその意見には賛同しかねる」
「同じく。賛同しかねる」
「同意見だ。賛同できない」
「ちぇ……どいつもこいつも、堅物だなぁ。それにアタシは好きだけどねぇ、三次元生物。いろんな感情の変化を見せてくれるから。それにこの世界の中でも唯一、三次元生物だけが同族同士で殺し合うの。その光景を眺めてるのって面白いでしょ?」
「……悪趣味だ」
「…………」
「これより元老院は人類に対する干渉を控え、彼らがどのような道を選ぶかを見守るとしましょう。モーガンに全てのアバロセレンを回収させ、黒狼ジェドを封じさせたのち、それからは――」
「人間を見捨て、アーサーがどう出るかを試し、そのデータを採る。そういうことか」
「ええ。この次の世界にデータを引き継ぎ、役に立てましょう。二度とアーサーのような危険因子が誕生せぬように」
「この次があれば、だけどねぇ~?」
 以上、会話の記録を終了する。





「――考え直してください、大統領! 渡航はさておき物資の輸出入まで禁止しては国民は餓えてしまいますよ?! それに高官たちが北米合衆国と水面下で進めていた交渉の努力も、水泡に帰してしまいます!」
 ようやくジュディス・ミルズの、覚醒者に関する質問の嵐から解放されたラドウィグが、前日から続く勤めを終えて、ASIが用意した仮住まいに戻り、シャワーを浴びていた頃。本来の職場である、アルフレッド工学研究所の所長室に戻ったイザベル・クランツ高位技師官僚は、電話の受話器を片手に金切り声を挙げていた。
 電話の相手は、このアルストグラン連邦共和国の大統領アダム・コールマン。アバロセレンを利用した国内ライフライン整備の強化を唱えて指示を集め、大統領に選ばれた男である。当然、アバロセレン廃絶を訴えるイザベル・クランツ高位技師官僚は、大統領から邪険にされていた。
 というのも、この問題はとても根深い。それは大統領制がなく、首相がこの大陸を統治していた時代に遡る。これは単なる、大統領とイザベル・クランツ高位技師官僚のいがみあいではない。国民に選ばれた大統領と、旧統治システムの中で唯一、大統領制に移り変わる改革の波を逃れたASIとの、代理戦争なのだ。
「お願いですから、聞いてください、大統領! 環境への配慮により酪農も禁止されている今、国内では肉も牛乳も手に入りません。その代理として大豆製の人工肉や人工乳が国内で生産され、流通していますが、現状は国内でそれらを作るにも、必要な大豆は東洋諸国が頼りです。大豆の自給率は一割もありません。さらに水産物は隣国、ニュージーランドに全て依存しています。穀物もその他野菜も北米合衆国からの輸入が主で、自給率は三割程度。乳製品も全て、欧州に依存しています。それに異常気象の更なる深刻化が想定されるこの国において、食物の自給自足はとてもじゃないですが考えられません! そのうえ原油はランスィカヤ連邦から買わなければ、手に入らないんです! 我が国の強みは高度な工業技術と軍事力、それと鉄鋼資源だけであり、それしかないんですよ。なのに……――あなたは国を亡ぼすおつもりですか?!」
 情報戦に特化した、首相官邸附属のいわば顧問団のような委員会を前身とするASIは、必ずしも時の政権に隷属しているわけではなく、行政府という枠組みの中において独立した存在となっている。今も昔も、その立ち位置は変わりない。
 故に時として、ASIと政権は意見が衝突するのだ。何故ならばASIは行政府というシステムを存続させるために存在しており、時の政権を存続させるためにあるものではないからだ。ASIは五〇年後、及びそれより先を見据えた話を展開するが、時の政権が気にするのは、自分たちの任期がある間だけ。遠い先も続く継続的な利益を考える者と、目先の利益しか考えぬ者では、話が合うはずもない。
 そして今、政権の代表である大統領と、いわばASIのスポークスマンであるイザベル・クランツ高位技師官僚がもめている。これはつまり、政権とASIが対立していることと同意義だ。
「それからですね、大統領! 今、水面下で進めている北米合衆国との交渉の話をしますとですね! 世界最初のSOD、アルテミスを消滅させる技術の開発とそれを売ることを条件に、同盟関係と平和条約の再締結、そして両国間の関税撤廃、さらに定期的な物資援助の約束。これらが、全て無駄に――」
 受話器に向かってそうまくしたてるイザベル・クランツ高位技師官僚だったが、その言葉も途中で止まる。電話の相手が一方的に、通話を切って中断したのだ。あまりにも聞く耳を持たない相手の態度に憤るイザベル・クランツ高位技師官僚は、そっと受話器を戻した後、深呼吸をしてこう叫ぶ。
「あのクソ大統領、失脚しろ!!」
 彼女が、本来なら門外漢であったはずの“政治”に気を揉む日々は、まだまだ続く。彼女がこの国と共に倒れる、その日まで。
 そんな彼女はかつて夢の中で見た男の幻が、自身に投げかけてきた言葉を胸に、今日も溜息を吐く。悪夢のような日がやってくる直前に、蒼白い光を纏って彼女の夢の中に現れてきた、あの幻影の言葉を。
『お前は俺の唯一の誇りだ、イザベル』
『本当に、ごめんな。こんなことにお前を、巻き込んじまって……』
『だが、俺はお前を信じている。大変だろうが、まあ……頑張れよ』
『――お前なら、きっと大丈夫だ』
 あれは所詮、夢だ。だから解釈は、なんとでもいえる。彼女が無意識で望んでいた言葉を、望んでいたシチュエーションを、夢はその通りに映しただけなのかもしれない。それにきっと、その可能性が高いのだろう。けれども彼女は、信じることにしていた。
 あれはきっと彼が、イザベル・クランツ高位技師官僚に遺した最期の言葉なのだと。





 生きていたならば誰にも、過去があった。両親が居て、幼少期があって、青年期を経て、成人し……――各々が辿ってきた人生は、様々だろう。だが共通していえること。それは、誰にも必ず過去があった、ということ。
 ――そんなことを水の撥ねる音を聞きながら、バスルーム内のシャワースペースにて冷水を浴びるラドウィグは考えていた。
「…………」
 特務機関WACEの中では、ドクターと呼ばれていた男。アルスル・パストゥール。またの名を、アルスル・ペヴァロッサム。彼の母親はアバロセレン技師で、かつてペルモンド・バルロッツィと親交があった人物だったそうだ。
 そしてアルスル・パストゥールは、アバロセレンの影響を受け、色素の欠乏した体で生を受けた。だが彼はどこまでも普通とは異なっていた。普通の健康な子供たちとは違うことは勿論、他の色素欠乏児たちとも大きく異なっていた。彼だけは蒼白く光るアバロセレンの影響を受け、白くあるはずの髪色は空色に、赤くあるはずの瞳は赤紫色になっていたのだ。
 他の色素欠乏児とは違う、彼だけの身体的特徴。彼の母親の同僚であるアバロセレン技師たちは、そんなアルスル・パストゥールに興味を示した。そして彼の母親は同僚たちから注がれる視線に危機感を覚え、我が子の健やかなる将来の為に、我が子を手放すという選択をした。
 彼の母親が頼ったのは、知人であるペルモンド・バルロッツィ。彼に、子供の安全を約束してくれる相手を紹介してもらったのだ。それが、マダム・モーガン。
 そうしてマダム・モーガンは、まだ乳飲み子であった彼を連れ去ったそうだ。マダム・モーガンが彼を預けた先は、アルストグラン連邦共和国から遠く離れた異国、イタリアの田舎にある修道院。宗教の経典の中身が科学により悉く討伐され、今や神に縋る者が減った今の時代ではとても珍しいその場所で、彼は育てられた。
 ペヴァロッサムという彼の奇妙な偽名は、そこの修道院に居たシスターたちの名前に由来している。ピエラ。ヴァレリアナ。ロッセラ。アルマ。彼を育てたシスターたちの名前から幾つか文字を頂戴し、それらを組み替えて、マダム・モーガンが名付けたそうだ。
 やがて時が経って、彼が成人したとき。マダム・モーガンは彼を、アルストグラン連邦共和国へと連れ帰った。それは彼が危険を承知の上で、それでも高等な勉学を求めたからだ。
 そうして彼は医者になり、それなりに人々を救ってきたが、しかしその特殊な身体的特徴が災いした。彼は彼が担当していた患者と共に、とあるアバロセレン技師の夫婦に目を付けられ……そして夫婦に連れ去られ、言葉にするのもおぞましい数々の仕打ちを受けた。幸いにも、彼が失踪したという噂を聞きつけてやってきたペルモンド・バルロッツィによって彼は助けられたが――彼は二度と、元の世界には戻ることがなかった。
 再び彼の身柄はマダム・モーガンの下に預けられて、そして彼はマダム・モーガンの腕の中で死んだ。彼は、そういう運命だったのだ。
「……はぁ……」
 特務機関WACEでの名前は、アイリーン・フィールド。本名は、フィンレイ・エンフィールド。彼女は旧アルフレッド連邦共和国の南部、ワイアラに生まれた。そこで小さな自動車整備工場を運営する男を父に持ち、彼女はその跡継ぎとなるべく、みっちりと機械の修理法を叩きこまれ、育てられた。
 だが父親が跡継ぎに求めたのは、機械修理の腕前だけではない。跡継ぎに相応しい長子が、男であることを望んでいたのだ。しかし長子であるフィンレイ・エンフィールドは、どう見ても女。だが父親は、それを頑なに認めようとしなかった。娘に男装をするよう求め、決して女らしいことはしてはいけないと迫り続けた。可愛らしいアクセサリーなど、父親は許しなどしなかった。
 だが彼女ほど、可愛らしくて女らしいものを好む者も、そうはいない。となれば父親への反発は必然であり、避けられないだろう。
 彼女はジーンズよりも、ミニスカートとタイツを好んだ。無地の白いTシャツよりも、柄物のワンピースが好きだった。ごくありふれたキャップ帽よりも、キャスケットやベレー帽のほうが好みだった。大ぶりの、可愛いイヤリングやピアスを着けたかった。髪の毛は長くして、可愛らしいポニーテールに結いたかった。それに自動車やバイクよりも、コンピュータのような精密機器のほうが好きだった。なのに父親は、どれも許してはくれない。だから彼女は家出を決意した。
 しかし若い娘が家を出たところで、まともな定職になど就けはしない。となれば、その生活が荒んでいく。
 素行は荒れ、彼女は数々の非行を犯した。そうしてやがて彼女は、闇の世界に目を付けられるようになったのだ。そして、彼女は捕まった。特務機関WACEの隊員、当時“ベディヴィア”という名前で活動していたジャスパー・ルウェリンに彼女は腕を掴まれ、闇の世界へと強制連行をされたのだ。
 だが闇の世界には彼女を縛るものがなかった。機械が好きだと彼女が言えば、その強みを活かせと人は彼女に言った。彼女の好む奇抜な服装を目にしても、人は珍しがることはあっても否定することはなかった。
 その世界には常識がなく、また良識もなかったが、だからこそ自由が広がっていた。彼女はその世界を愛し、その中で生き、そして――殺されたのだ。
「……あーあ。なんでこんなこと、考えちゃうんだろ……」
 白髪の大男、ケイ。本名は不明。彼は北米合衆国のどこかで生まれて育ち、どこかの州警察の機動隊で功績を挙げ、周囲に惜しまれつつも退職した元警察官だったらしい。
 暴れまわって悪人を取っ捕まえることと、ワインと料理を好み、そのお陰で妻や娘たちに見捨てられた大男はある日、国道をワゴン車で走行中、マダム・モーガンが運転するSUVに追突される。そこで彼が瀕死の重傷を負うと、マダム・モーガンにより彼はどこかに連れ去られた。そして彼女の血液を輸血された結果、不死身ではないにしても、長命でありタフな体を得て、それにより闇の世界へと堕ちざるを得なかった。
 しかし大男は闇の世界を、特務機関WACEという場所を気に入っていた。思う存分、暴れ回ることが出来たからだ。タックルも好きなだけやれたし、銃も好きなだけぶっ放せた。警察官時代よりも、うんと。
 それに彼が特務機関WACEの同僚たちに料理を振舞えば、誰もが喜んだ――ただ一人、上流階級の育ちであるアーサーだけを除いて。妻や子供たちが疎み続けた彼の料理を、彼らは喜んでくれたのだ。
 特務機関WACEはその特殊な形態ゆえに、隊員たちは――彼を含めて――どこか皮肉めいていたり、棘がある者が多かったが、ケイはその場所を本当に気に入っていた。それに出会いこそ最悪なものであったが、彼はマダム・モーガンに海よりも深い忠誠を誓っていた。
 故に最期まで、彼はマダム・モーガンに忠誠を誓い続けた。そして彼女に迷惑を掛けるような真似をしないよう、彼は自分の人生に自分で区切りをつけた。たとえそれが、耐えがたい苦痛を一瞬伴う選択だったとしても。彼はその選択に後悔していないだろう。
 少なくとも、アイリーン・フィールドのような終わり方はしなかったのだから。
「……駄目だ、だめ。考えたところで答えなんか出ないんだ。無駄な問答でエネルギーは使うべきじゃない、エネルギーは温存しなくちゃ……」
 アルファ、ブラボー、チャーリー。ASIにおいて、そんな名前で活動していた男たちにもまた過去があって、人生があった。だが人間は、あっけなく死ぬ。死ぬときはあまりにも一瞬で、そして多くの場合は無念に包まれていた。死んだ当事者もきっと無念に終わり、それを看取る周囲もまた無念に包まれる。
 あれから平気な顔をして、ラドウィグは過ごしてきた。だが忘れたことはない。あの時の悲劇も、そして彼が今までに見捨ててきた数々の顔たちを。忘れたことはなかった。一度たりとも。
 彼らを救えたはずだ。そう憤る声が、頭の片隅にある一方。どのみち彼らは助からなかったと、冷静に分析する声も彼の頭の中にある。いつでも答えは出ない。そう、考えるだけ無駄なのだ。
 過ぎてしまったことは、過ぎたこと。そう割り切って、前を見るしかない。
「……」
 どれだけ水でその身を洗い流そうが、落ちない汚れがある。それをラドウィグは知っている。後悔の泥、救えなかった者の血、その手で屠った者の悲鳴。心にしみついたそれらは、一生離れることはないだろうし、それは彼が背負い続けるべき咎だ。
「…………」
 ――ぐだぐだと、そんなことを彼は考える。考えても無駄だと分かっていても、考えてしまう。そして頭上からぽたぽたと、止めたシャワーのヘッドから残り水が頭に垂れて、彼の短い髪を伝い、毛先から黒いタイルの床へと滑り落ちて、音を立てた。そして彼は意識的にその音に耳を澄ませ、集中し、思考を無にする。
 ぴちゃんと鳴る水の音と、そして自分の中でどくどくとリズムを刻む心音。それだけが真っ暗な空洞となった心に響き、反響して、木霊して、深く奥底に届っ――
「ハーイ、ラドウィグ! ……あら、居ないわね。どこに居るのかしら?」
 それまではうんと静かだったはずの仮住まいの中に、突如として飛び込んできたマダム・モーガンの声。予想もしていなかった音の登場にラドウィグは驚いて、肩をびくつかせた。
 その拍子に、彼は体勢を崩す。そして濡れたタイル床の、なんと滑ることか。彼の足はつるっと滑って、タイルの床に尻餅をつき、それから背中と後頭部は床と同じタイルの壁へと、ごつんと強く打ち付けた。痛かったのは、言うまでもない。
 するとバスルームで鳴った大きな音に気付いたのか、バスルームへと近付いてくる足音が聞こえる。足音は、バスルームに入る扉の前で止まった。そして扉越しからはマダム・モーガンの声が聞こえてくる。「あら。そこに居たのね、ラドウィグ。あなたにちょっと、話があって――」
「マダム! ちょっと待ってください! 服、着てないんで!」
 滑って転んだラドウィグは、扉に向かって慌ててそう叫ぶ。それから彼は大慌てで立ち上がり、シャワースペースの外に置いておいたバスタオルを引っ掴むと、ひとまずそれを巻きスカートのように、自分の腰に巻いた。……そんな彼はシャワーを浴びて汗を流したばかりだというのに、もう嫌な汗をかいている。
 そして彼が想定外の来客に軽い苛立ちを覚えていると、扉越しからはその客人の声が聞こえてくる。それもラドウィグの事情などまるで考慮してくれない、一方通行的な喋りで。
「竜神カリスが、あなたをご指名でね。神器の回収を、あなたにお願いしたいとのことよ。剣と盆と杯……だったかしら? そういうわけで、あなたに神器のうちのひとつ、槍を貸し与えたいって。それから……あなた、人間でありながらも神の道具を意のままに扱えるらしいじゃない。どういうことなの、それ。私なんか、壊れた神器以外は触ることすらできないのに」
 ああ、その件か。……ラドウィグはそんなことを思うと同時に、少しの疲れから柄にない溜息を零す。
「神官だったオレの母が、神器を使える能力というか、神さまたちの力を借りられる能力を持ってたんです。オレはその力を受け継いでるってだけですよ。オレの扱う炎も、元は神狐の炎ですし。オレが本業で振るう斧槍(ふそう)も、神狐の一族に伝わる神器を借り受けたものですから。だからオレは普通の覚醒者とは、ちょっと違うんです。まっ、それ以外にも色々と、込み入った事情がありましてね」
「ふぅん? そんな能力を持つ人間の話なんて、キミアからも元老院からも聞いたことないけど……」
 竜神カリスの、神器の件。それは相棒である神狐のリシュを通じてラドウィグは、だいぶ前に別のルートから話を聞いていたし、彼はその任務に既に就いていた。現在も、遂行中である。マダム・モーガンに言われるまでもなく、仕事にはとっくに取り掛かっていた。
 それはとても神経を擦り減らすわりには、見合った報酬を得られないうえに、イザベル・クランツ高位技師官僚の警護よりもよっぽど危険な仕事。そしてそこが、彼の本来生きるべき場所であり、果たすべき仕事であるのだから、これ以上に悲しいものはない。
 そしてマダム・モーガンは扉の向こうから彼へと容赦なく質問を飛ばしてくる。
「それに、あなたの本業って? それ、初耳なんだけど。斧槍を使うってことは、平和な仕事じゃないってことよね?」
「ええ、そうですね。平和な仕事じゃないです。殺すか殺されるかの仕事なんで」
「あなたって子の正体が、まるで分からないわ。なんだか……滅茶苦茶ね。私が言うのも、あれだけど」
 ラドウィグとて、本業のことを隠していたわけではないが。かといって、今までそのことを打ち明けるタイミングもなく、また打ち明ける必要性もなかったため、伏せていた。
 そしてその本業を明かすとき。彼の声からは、普段のおちゃらけた調子は消える。温もりの消えた声に抑揚はなく、それは砂漠の夜に吹く砂嵐のように冷たく、容赦のないエッジを持つ。
「簡単に言うなら、天使専門のハンターですよ。黒狼ジェドみたいな厄介者を掃除するのが仕事です。……人間に壊されたカリスの神器、そこから逃げ出した天使たちを抹殺しろと、ある女神さまから命令されましてね。二匹は既に、焼き払いました。残るのは二匹。アーサーの傍をうろついていた影と、黒狼です。だからカリスには、こう伝えておいてください。その仕事にはとっくに取り掛かってる、って」
 強い光が差すならば、その傍にはより濃い影が落ちる。それが、世の常。
 ラドウィグは一度も、自分の人生を自分の手で選んだことがない。そういうものだと、彼は諦めていた。だがそんな彼に、マダム・モーガンは言う。
「ラドウィグ、あなたはどう思う? あなたはどうやら人間を守るために、天使を殺してるみたいだけれど、その人間に守るだけの価値はあるのかしら」
 先ほどとはまるで別人のように、急に暗くなった彼女の語り口のトーン。ラドウィグはそれに違和感を覚えたが、それについてはコメントを控え、彼は訊かれたことにのみ答える。
「オレはイザベル・クランツ高位技師官僚を守りたい。そして彼女が守りたいのは、人間。だから、その価値はあると思ってますよ。だからその為なら、害獣を殺すぐらいなんてことありません」
 ラドウィグが返した答え。だが質問者からの返事はなく、無音が続く。不思議に思ったラドウィグが、腰にバスタオルを巻いたままの姿でバスルームを出てみると、家の中にはマダム・モーガンの気配はない。彼女は言いたいことだけを一方的に言うだけ言って、さっさと帰ってしまったのだ。





 雲一つない、マンハッタンの夜空。それを黒と喩えるか、藍と喩えるか、青と喩えるかは、人によりけり。
「いいや、天体観測はあまり好みじゃない。星空を見上げたところで、それは時間の無駄だろう?」
 アパートの屋上にいつの間にか設置されていた、マホガニー色のラウンジャー。またの名を死神という、キミアの眷属である白髪頭の男は、そこに仰向けに寝そべって夜空を見上げながら、アストレアの投げかけた質問にそう答えた。
 そのラウンジャーの横に置かれたパイプ椅子に座るアストレアは、寒さに肩を震わせる。それから彼女は、体に堪えるこの寒さから思わず毒を吐いてしまった。
「えっ。じゃあなんでアンタは、屋上にわざわざ来たの? どうして、こんな寒い場所に。家の中で、良かったじゃん……」
「まあ、要するに宗教儀式や芸術と同じだ。無駄なことには変わりないが、しかし偶にはそうやって時間を無駄にするのもいい。そういったものは必ずしも、無価値であるとは限らないだろうからな。……それにどうせ我々には、無限とも思える時間がある。いくら浪費したところで余るほどに、たっぷりと」
 中身はあるようで、特にこれといって無い。そんな適当ともいえる台詞を呟く男の声には、投げ遣りで考え無しな雰囲気が漂っている。それでいて深い哀しみが垣間覗く台詞に、アストレアは戸惑いを覚えた。
「……本当に、分からない。アンタって人のことが」
 無駄であるだろうが、無価値ではない。そんな言葉をその男は口にしたが、アストレアには彼の本音でないように思えていた。単に世間から好かれるような聞こえのいい単語を並べて、口にしただけであるような。そうであるような気が、アストレアにはしたのだ。彼は、本当はそんなことなど思っていない。だが、しかしそう思っているようでもある。ああ……とにかく、わけが分からないのだ。
 そして、時間は無限にあると嘆く言葉。その中に格納された暗闇だけは、まごうことなき本物。だが彼は闇の中で哀しんでいる一方で、その闇を嘲りもする。
 どれが彼の本音なのかが分からないのだ。どれも本音かもしれないし、そうでないかもしれない。
 まるで彼というひとつの同じ人格をベースに持ちながらも、異なる思想を持ち、異なる思考を行う独立した回路が数多く存在し、それらがひとつの頭の中で共存しながら、常に脳内の主導権を取り合っているかのように。どれが『彼』の本当の意思なのか、それがまるで計れない。
 そんな奇妙な男を相手にしているからか、少しの疲れを感じたアストレアは項垂れてみせる。そんな彼女が零した戸惑いに、白髪頭の男アルバは逆に問い返した。
「私にも、お前のことが分からない。イカれた老人に自分から望んで付いて来て、そして私が犯した悪事を知っても尚、私の傍に留まり続けるお前のその神経。さっぱり理解できん。義侠心の塊のような女に育てられた人間だとは、とてもじゃないが思えないな」
 この男に対して、その対応に戸惑っているアストレアだが、そんな彼女とて普通であるわけじゃない。彼女も十分に異端であり、彼女もまた彼と同様に、辛辣な言葉や強気な態度で自分を隠して、本音を見せようとはしない。それに男のほうも、アストレアへの対応に困り果てていた。
 男は北米にアストレアを連れてきたあと。懇切丁寧に、自分が犯した悪事を彼女に説明した。特務機関WACEの元隊員たちやその他大勢を「特に理由もなく」傷付け、苦しめ、殺しもしたこと。アルストグラン連邦共和国の中央に眠っていたアバロセレンの核を盗んで、その核に「そこに住まう人間が死に絶えるまで大陸は上昇を続け、気温は下降し続ける」そして「人間が全て死に絶えたときに大陸は上昇を止め、気温も元に戻る」と呪いをかけたその上で、核が二度と復元されぬよう消し去ってしまったこと。それから、核のあった場所に眠っていた「もう一人の自分」を撃って撃って、撃ったことなど……――ざっと、そんなところだろうか。
 自分が異常な男だと分かればアストレアは恐怖に慄いて、元居た国へと戻りたがるだろう。彼はそう考えていたからこそ、敢えてありのままの事実を、誇張もせず美化もせずに伝えた。だがアストレアは平然と、それを受け流しただけ。
『へぇ、そうなんだ。でもね、ミスター。そんなこと承知で、僕はあんたに付いて来たんだ。ビビるとでも思ってたの? なら、大間違いだね』
『私がお前に危害を加えないという保証はないぞ。コルトのように、腕を落とすこともできる』
『さぁね、どうだろう。案外あんたは、僕のことを気に入ってるんじゃないのかな? まあアレックスの件に関しちゃ、あんたとアレックスはそりが合ってなかったし、そういう結末に終わったのは当然だって思ってる。けどあんたと僕の望みは共通してると思うから、協力できると思うんだ』
『ほう? なら、言ってみろ。お前の望みとやらを』
『秘密。今はまだ教えない』
『……よーし、晩飯はガーリックシュリンプにでもするか』
『分かった。じゃあ僕が、海老を買ってきてあげるよ』
『…………』
『なんだよ、ミスター。言いたいことがあるなら、ハッキリ言えば?』
 それでも彼女に対し何度も繰り返し、彼はこう訊いていた。アルストグランに戻るなら今だ、今ならまだ遅くはないぞ、と。しかし彼女は頑なに首を横に振り、拒み続けた。そして遂に彼は根負けし、一ヶ月ほど前からは彼女に訊くこともやめた。小賢しく煩わしい同伴者を渋々、受け入れることにしたのだ。
 だが彼は、どうしてアストレアが自分に付いて来たのか、その理由を知らない。彼女がアルストグランに帰りたがらない理由に、おおよその見当は付いているが……だがアストレアが言う『共通する望み』には、皆目見当が付かないでいた。
「義侠心の塊? ああ、アレックスのことか……」
 つまり、お互い様だった。どちらも、お互いのことをよく知っているわけじゃない。
 そういうわけで、彼は退屈で大嫌いな星空を見上げながら、アストレアから彼女の望みというのを聞き出そうとしていたのだ。そして問題のアストレアは、こんなことを言う。
「まあ、アレックスには色んなことを教えてもらったよ。役に立つことも、反面教師としても。あんたが言うところの義侠心ってやつは、生きる上じゃ弱みにしかならないって教わったしね。義侠心なんかあったところで、そこに付け入られるだけだ。そんなものあったって、それこそ無駄だよ。友人も、優しさも、愛情も、そう」
「……」
「父親をあんたに殺されて、彼女は相当に参ってた。でもそれってさ、愛してたからでしょう? 愛情なんか抱いてなければ、傷つくこともなかった。あんただって、彼女の思考力を削ぐために手を下したんでしょう?」
「いいや。あの件に関しては、私の意図じゃない。あの間の記憶が私には残っていないからな」
「へぇ、つまりギルの仕業ってこと? 意地悪だね、あの鳥も」
 アストレアが北米に来たばかりのころは、まだ馴染みがなかった名前、ギル。そんな名前にも、彼女はもう慣れていた。狂気の大天才に取り憑いていたという黒狼ジェドと同類の鳥で、ジェドよりもよほど凶悪な性格の持ち主。アストレアはギルというものに、そういう認識を持っている。
 そしてギルという存在を彼女が「認めた」のには、理由がある。アストレアにも少しずつだが見えるようになったのだ。アルバという男の足許を、海鳥らしい大きなお尻と翼を愛らしく振りながら、ちょこちょこと不器用に歩いている大きな鳥の影を。――見ようと思えば、そこに見える。しかし見ようとも思わなければ、その目には見えやしない影の存在を、アストレアは認めた。だからギルが見えるようになり、その名前にも恐れを抱かなくなったのだ。
 そんなこんなで、躊躇いなく“ギル”という言葉を口にするようになったアストレアの顔を、その海鳥の影の主人アルバは何か物言いたげな顔で見ている。
「ギルは、意地悪だろうな。私も、そうだ。だが……」
 だが。そんな、如何にも続きがあると匂わせる接続詞を口にしておきながら、男は口を噤み、そこから先を言わない。そして彼は視線を、退屈な星空へと移す。
 消化不良だ。アストレアはそう思う。となれば、悪態は吐かずにはいられない。
「なんだよ、ミスター。言いたいことがあるなら言えばいいじゃん」
 アストレアが吐いた悪態。そして睨んだ男の横顔。すると再び、男は彼女の顔を見る。そしてアストレアに向けられたのは、物言いたげな顔ではなく、あからさまに哀れむような目。なんて可哀想なやつなんだと、アストレアは哀れに思われていたのだ。この、心無い死神に!
 そして、彼は言う。老人が、経験の足りない若者を諭すような語り口で。
「平凡に生きるごく普通の人生であれば、義侠心は人生において最も尊い強みとなる。得難いものだよ、特にアレクサンダー・コルトほどのものは。……だがたしかに、お前の言う通りその義侠心は弱みにもなる。ただ言い換えるならば、義侠心を弱みと見て、他者のそれを巧みに利用する者は、どうしようもない外道だ」
「……」
「それに友人は居たほうがいい。それが本物の友人であるならば、いざという時にはお前を助けてくれるからな。……エスタ。お前は思ったよりも、ずっと深い闇を抱えていそうだ」
 外道の男の口から飛び出した、至極真っ当な意見。真っ当すぎるその意見に、反論する口を塞がれたアストレアは自分の考えの浅さにすぐさま後悔し、赤面した。挙句に、言われた言葉が心にちくりと刺さる。
 ずっと深い闇を抱えていそうだなんて、そんな――……と思い、自分自身のことが可哀想なやつに思えたのは、しかし一瞬のこと。アストレアはすぐに意見を変えた。それは彼女が、したり顔でほくそ笑みながら夜空を見上げる男の顔を見たからだ。そして意見を変えた彼女は、もてあそばれた恥ずかしさから更に顔を赤くして、笑顔の男に怒鳴る。
「アンタこそ! サイコパス野郎のくせに、真人間みたいなこと言ってて気持ち悪いんですけど!」
「これでも、昔は真人間だったからな。少しの悪事は働いていたが」
 春も近い冬の終わりに吹く夜風のように。涼しい顔で笑っているその男の顔を、アストレアはぶん殴りたくなった。だがその怒りも、涼しい笑顔に冷やされて、ふと冷静になる。そして疑問が浮かんだ。
 アストレアは、クズで外道でサイコパスな彼しか知らない。なら彼が言う、その『真人間だった』頃の彼はどんな男だったのか。何故だかふと、それを知りたいと彼女は思ったのだ。そして思ったのと同時に、彼女の口から言葉は飛び出る。
「ところで……昔のアンタはどんな人間だったの? アレックスはあんたのこと、上院議員の息子で、裕福な家庭でぬくぬく育ったサイコパスだって評価してたけど。アンタはそういう人物に見えないんだよね。以前は、アレックスの言う通りなんだろうって思ってたけど。ここ最近、見る目が変わって、分からなくなったっていうか……」
 すると浮かべた笑みを消して、アルバはひとつ小さな溜息を零した。そして彼は瞳孔のない冷たい瞳で夜空を見つめたまま、空気のように軽く、中身がすっかり抜け落ちたかのような声で、こう言った。「昔か。……色々と、広く浅くやっていたな」
「色々って?」
「音楽。演劇。文学、特に挽歌と散文詩。象徴主義が好きで、そこから考古学などを志したりもした。それから、フェンシング。エペをやっていた」
「――フェンシング?!」
「フェンシングだけは誰にも負けたことがなかった。とはいえ指導者から『ルールを無視して闇雲に突っ込む殺意にまみれたミサイル』だと酷評され、大会に出ることを許されたことは一度もない。だからこそ自分の実力がどこまでのものかも知らないが。……まあ、そんなところか」
 文学が好きだというのは、まあそうだろうとアストレアにも予想は出来ていた。それから、演劇も。時たま彼が見せるオーバーな演技が、舞台俳優のそれに似ていたし。そのうえ彼は日常の中でも、巧みな演技で多くの人を騙して、手玉に取ってきていたし。天性の才能なのか、それともどこかで演技を習ったとか、演劇の経験を積んだことがあるとか、そういったことは以前から考えられていた。
 しかし。音楽と、フェンシング。それは初耳であるし、予想外である。
「アンタのこと、運動音痴だと思ってたのに。フェンシングをやってただなんて、意外すぎる。それに、音楽。そんな趣味を持ってそうには見えなかったんだけど……?」
「ここ半世紀は、そのような娯楽に時間を割く余裕がなかった。だから、そう見えたんだろう」
 どんな音楽が好きだったのか、とか。負け知らずだというフェンシングの、どこが好きだったのか、とか。アストレアの中で聞きたい項目が続々と増えていくが、相手のほうは自分の昔話など然程したくない様子。中途半端なところでアルバはその会話にピリオドを打って、口を噤んだ。そうしてすっかり、空気が静かになる。
「……」
 それはとても居心地の悪い静けさだった。アストレアは次にする質問の内容を慎重に検討していて、男のほうは彼女に話すべき本題の切り出し方を慎重に考えている。どういう風に話せば、どういう言葉を選べば、相手を不用意に傷付けずに済むか。そんなことを、お互いに考えていた。
 その時間はとても静かで、胸が無性にざわつく。堪らずアストレアは考えることをやめて、深呼吸と共に顔を上げ、夜空を見た。すると落ち着くどころか余計に、胸騒ぎが加速していく。
 見上げた星空はとても黒くて、果てが無いように思える。どこまでも延々と続いているようで、終わりが無いようだ。そして黒い世界の中に浮いている星の光たちは、まるで「こちらにおいで」と呼んでいるよう。ずっとその星空を見つめていると、自分の身体から魂が抜けだして、ひとり空に舞い上がって、あの黒の中へ、終わりのない暗闇へと吸い込まれて、そして闇に圧し潰され、消されてしまうような気がして――そんな幻想を拒むように身体は緊張して、肩は震えて、体の芯は冷えていくのだ。
 春が近いとはいえ、まだ冷え込んでいる冬の夜風の寒さからか、または星空が見せる悪い妄想からか。小さくて華奢な体を、アストレアはぶるりと震わせた。そんなアストレアの冷えた手に、より冷たい大きな手が重なる。そして重ねられたその手は、アストレアの身体に残った幽かな熱を吸い取っていった。
 その冷たい手に少し驚いたアストレアは、天上に向けていた視線を、冷たい手の主に向ける。ついさっきまでラウンジャーに寝ていた男は今、ラウンジャーの上で足を大きく開いて座り、自身の身体の正面を、アストレアのほうへと向けていた。
 そんな男は少し俯いていて、アストレアの顔は見ていない。それでいてその表情は笑顔ではないし、かといって無表情ではない。何をどこから話せばいいのか、そんなことを迷っているような、深刻そうなムードが漂っている。
「どうしたの、ミスター」
 こんな彼の姿を見るのは、初めてだった。それが原因で、アストレアの胸騒ぎはどんどん大きくなっていく。彼女の中で嫌な予感が明確な不安に変わり、少しずつ恐怖に転向しつつある。そしてアストレアが何かを確かめるように、彼の俯いた顔を覗き込もうと、ほんの少しだけ前屈みの姿勢をとったときだった。彼が、口を開いたのだ。
「――私が死んだ時は、全てが一瞬のうちに起こり、終わった。溶鉱炉の前に立つような熱を感じた直後、何かが爆発したような衝撃波が起きて、私の体は後方に吹き飛び、鋼鉄の壁に背中と後頭部を強く打ち付けた。頸椎か胸椎か、どこかは分からないが脊髄がやられて、たぶん即死だっただろう。遺すことになる子供たちの未来を直前まで憂いはしたが、とはいえ死ぬときは一瞬だ。何の未練もなく死に、意識は途絶えて二度と戻ることはないはずだった。なのにまさか、こうして再び目覚めることになるとは」
「あの、ミスター。本当に、どうしたの? 急に、そんな話をされても困るというか、その……」
「お前は覚えているか、エスタ。自分が死んだ、その瞬間を」
 そのとき。アストレアの胸騒ぎは収束し、不安は消えた。そして彼女の頭の中は、真っ白になった。だがアルバの声は続く。
「お前は死んでいるんだ、とっくの昔に。お前は、ペルモンドと同じ不死者なんだよ。お前は黒狼ジェドの宿る器のスペアとして、元老院に作り替えられた存在だ。その証拠に、お前の周囲にはお前を狙うやつらが徘徊している。黒狼はあくまでもペルモンドのあの身体に固執しているが、白狼はそうではないかもしれない。それに、そこのギルも、お前の体を狙っていることだろう」
「……」
「だから私はあの時に、お前にだけ声を掛けた。お前がどちらを選ぶのかを、試したんだ。私と共に来て、世界に仇なす道を選ぶのか。モーガンらの傍に残り、やがて元老院の駒となる道を選ぶのかを。――そしてお前は意外なことに、私を選んだ」
 真っ白になったアストレアの頭の中では、ふと思い出された言葉が木霊していた。それはASI本部局の地下牢獄に、金髪のヒューマノイドやジョン・ドーと一緒に閉じ込められていたときの記憶。あの時に突然、目の前に“憤怒のコヨーテ”が現れて。彼はアストレアに、こう訊いてきたのだ。

 今すぐ決めろ、アストレア。
 私と共に地獄を水底に沈めるか、この地獄でお前が沈められるかを。

 アストレアはあの時、一切迷いはしなかった。彼が差し出した手を何の迷いもなく掴んだ。あの選択に、後悔はなかった。たとえ彼に殺されるのだとしても、ASIの下で生かされるよりはうんとマシだと思えたからだ。
 だが、それが急に怖くなったのだ。自分が死んでいること、そして自分が不死者であることを急に突き付けられて、分からなくなった。彼のやろうとしていることが、分からなくなって、怖くなったのだ。
 自分が、ペルモンド・バルロッツィと同じ不死者なら。彼と同じように自分は、天使という存在の入れ物にされてしまうのだろうか。アルバは初めから、それを目的としていたのだろうか。
「僕は、彼みたいにはなりたくないよ。ペルモンド・バルロッツィみたいな、あんな死に方はイヤだ。それに、僕が死んでるだなんて。そんなこと、急に言われても……」
 ぶるぶると、アストレアは手を震わせる。声も、震えていた。そして彼女も顔を俯かせて、男から目を逸らす。自分がついて行くことを選んだ男は、やっぱり悪魔だったのだと、彼女は後悔していた。しかし、次に彼女が耳にした男の声は、気味が悪いくらいに穏やかで、優しいトーンをしていた。
「エスタ、理解は後で良い。今は、その言葉だけで充分だ」
 そうして冷たい手が、アストレアから離れる。それからアルバは立ち上がるとラウンジャーから離れ、ひとり屋上を後にし、屋内へと戻っていく。ぼけっとスツールに座り、呆然としているアストレアを寒空の下に置き去りにして……。
 優しさのかけらもない、冷たい男。彼の言動は、そうだとも言えるだろう。だが、これが今の彼なりの最大限の気配りであり、強がりでもあった。
「私に誓え、ギル」
 足早に階段を下りて行く彼のあとを、どこからか現れた黒い海鳥の影が追う――ぴょこぴょこと飛び跳ねながら。その海鳥の影に向かって、彼はこんな言葉を口にした。
「お前は、アストレアに一切手を出さない。そして彼女の身体に何者も触れることを許さず、守り通すと。――そう誓うならば代わりに、私のこの身体をお前にくれてやろう。今、この場で」
 その声は、平坦で無感情、且つ早口。自分の身体を差し出すと、天使に契約を突き付けている男の声だとはとてもじゃないが思えない。その声は、やましい感情か、または恥ずかしさを隠すかのような、無理に平静を取り繕っている感じがしていた。
 どうにも人間くさい、その男の姿。彼の後を追いかける海鳥は、こう茶化す。『あの子供に、情でも移ったのですか?』
「否定はしない。まあ、ともかくペルモンドと同じ道を、あれには歩ませたくはないのだよ」
 男の平坦で早口な声に、変化はない。正直なのか、嘘吐きなのか、精一杯の照れ隠しなのかが分からない男のその態度に、海鳥の影は面白おかしさを感じていた。だが海鳥の影はそれ以上、彼を茶化すようなことはしない。代わりに、海鳥の影は彼の要求を二つ返事で聞き入れた。
『分かりました、アルバ。あなたに、誓いましょう』
 ……というのも、この海鳥の影はあくまで“彼”にしか興味がなかったからだ。死神である、彼の体だけを必要としており、それ以外のものには興味関心すら抱いていない。
 フィクサーとして暗躍する中で、彼が築き上げた上流階級へのコネクション。それから彼が保有する瞬間移動能力。そして物質移動の力と、それによって繰り出される圧倒的な殲滅力。昏神キミアの眷属であるアルバという男が持つそれらの特性は、海鳥の影にとって十分に魅力がある。だが、アストレアはどうだろうか?
 アストレアは今のところ、ただの人間とは何ら変わりもない。彼女には不死者の兆候が出ているものの、彼女がまだ一度も『死んで、再び生き返る』という経験をしていない以上、本当に不死者であるかどうかは怪しいものである。それに彼女には、それ以外の特殊な能力はない。さらに銃撃の腕前、交渉力、人脈なども、まだ二流どまりだ。アストレアが海鳥の影の要望を満たす器でないことは、明らかである。
 本音を言えば、海鳥の影はアストレアのことなどどうでもいい。しかし誓約は、誓約だし。それにこれほどの好条件は、そうそうあるものではない。たった一人の女童を守り抜くことを誓えば、それ以外の全てを滅ぼす力を手に入れられるのだから。
『それで、アルバ。何か言い残すことはありますか』
 奇妙な男だ。海鳥の影は常々、彼に対しそう思っていた。良心があるのか、ないのか。人心があるのか、ないのか。全てに絶望しているのか、またはひとつの希望をどこかに見出し、それに縋っているのか。それがまるで、分からないのだ。
 そういうわけで最後に海鳥の影が、彼に探りを入れるように掛けた言葉。彼はそれに、こう答える。
「核戦争を焚きつけるなりなんなり、お前の好きにしろ。だが私の望みも、少しは叶えてくれよ」
『いいえ、それは出来ない相談です』
 こん、こん、こん……――。海鳥の影が突きつけた意地悪な言葉に、返ってくる音は階段を下っていく足音だけ。地上には適していない体で、よちよちと歩く海鳥の影は、口を閉ざした男の後ろを追いかけながら、嫌味を続ける。
『私とあなたに共通する望みは、ひとつだけ。人類を滅ぼすことです。あなたは、あなたの誇りを踏み躙り、あなたの家族を奪った人類へ、復讐を誓っている。それから私は、私の誇りを穢し、それでいて私の旅の仲間たちを意味なく奪ってくれた、傲慢な人類が滅びてくれることを望んでいるだけ。そして私は人類が滅びたその後のことは、どうでも好いのです』
「…………」
『なので人類が滅びたあとに、あなたが築こうと計画している楽園になど、私は興味もありません。なので、人類が滅びた際には、速やかにあなたの体をあなたに返却するつもりでいますよ。私は、この鳥の姿を気に入っていますので。空を飛べない人間の姿に、なんら魅力はありませんもの。あなたの体に、執着する理由はありません』
 鋭い白刃のように、海鳥の影はきっぱりと自分の意思を言い、男の言葉を突っぱねる。すると海鳥の影の言葉を聞いた彼は、他人事だと思って聞き流すかのように、冷たい微笑を浮かべる。
「……ギル。お前ってやつは、最高だな」
 最高。その言葉は皮肉なのか、それとも本音から出た正直な言葉なのか。男が浮かべる冷たい微笑は、いつものようにその答えを、薄氷の膜の向こうに隠してしまう。
 ならば、いつものように。海鳥の影も、同じような言葉を返すだけ。
『あなたもですよ、アルバ。これでも私は、あなたのことを気に入っている。――あなたのような男が、どんな世界を望み、どんな世界を創るのか。そのことには、興味がありますから』
 そう言うと、海鳥の影は彼の背中を追いかけるのをやめて、その場に立ち止まる。すると前を歩いていた男も、その足を止めた。
 そして彼は、笑みを消す。それから彼は珍しく緊張しているようで、迫る危機に対し警鐘を鳴らす神経を鎮めようとしているように、両瞼を閉じて、一度深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。すると、そんな彼の背中へぶつかるように、ひとつの追い風が吹く。
 風は、彼の白い髪を乱して、髪は彼の土気色を帯びた顔を隠す。すっかり隠れた目元は、もはや彼が何を考えているのかなど読むことは出来ない。
『それでは暫し、あなたはお休みなさい』
 そんな、海鳥の影の声が聞こえたとき。しかし海鳥の影の姿は見えず、さらに吹いていた風も止む。そうしてふらりと前に倒れた男の体は、階段を四段ほど滑り、踊り場に転落する。
 物騒な音を聞いたアストレアが駆け付けたときには、取引は何にも妨害されることなく、無事に終わっていた。彼は一時的な眠りに就き、しかし彼の体は新たに目を覚ます。
「ミスター!! ったく、この酔っぱらいめ……!」
 慌てて階段を駆け下り、その階段のちょうど半分までアストレアが来たとき。踊り場に、死んだように倒れこんでいた男が、よろめく体でひとり立ち上がったのだ。彼が大した怪我をしていなさそうなことに、アストレアが安心するが、その直後に彼女は立ち止まる。
 いつもなら、彼のすぐ足下をよちよちと歩いている海鳥の影が、見当たらないのだ。姿が見えなかったとしても、普段なら感じていた海鳥の影の気配が、今は感じられない。そしてぐらついた重心で、安定しない足取りで立ち上がる男の背中に、彼らしい威圧感や気品もしくは、彼らしい自堕落さは無い。
 今の彼の背中にあるのは、あの海鳥の影と同じような禍々しさだけ。魂を吸い取りそうな夜空の暗さと同じぐらい、不吉な気配が彼の背中からは漂っている。
「――……あんた、まさかギルなの……?!」
 アストレアがそう声を上げたとき。一瞬振り返って、アストレアに一瞥をくれた男の目は、いつもよりもうんと冷たい光を湛えているように感じられた。それから彼は悪意を滲ませた小さな笑みを口許にだけ浮かべて、そして、強い光に照らされた影のように一瞬で消えた。





 氷の中で眠る女王は、一言も言葉を発しない。苦悶に表情を歪めさせたまま、その身を貫いた五本の黒い剣を抱えたまま、巨大な氷の中に鎖されている。――そんな女王の様子を、アレクサンダー・コルトは分厚いガラス越しに、無言で見つめていた。
 彼女の相棒であるジュディス・ミルズは今、昼飯を買いに外へ行っている。だが朝昼晩のうち、昼飯は抜くことを決めているアレクサンダー・コルトはこうして、暇な時間はここに来るようにしていた。救えなかった昔の友人の顔を見るために。
「……」
 エレベーターで行くことが出来る下限の階、ASI本部の地下五階。そこから更に階段で下り、ようやく辿り着く最下層の地下九階。ひどく寒いその場所には、二度と地上には出してならない危険なものが保管されている。そして、中でも厳重に冷凍しておくことが求められている区画。そこに、彼女のかつての友人は眠っていた。
 アルビノの双子の姉妹。ユン、ユニ。そのうちの片割れである、ユン。三〇年ほど前は病弱な少女であったユンは、今では『曙の女王』と呼ばれるモンスターに成り果てていた。
 ユンについてはこの数か月で、いくつかの情報が発掘されている。彼女がアルスル・ペヴァロッサムという名前の脳神経外科医と、双子の片割れであるユニと共に、アバロセレン技師に誘拐されたこと。そこで十数年に渡り、なんらかの人体実験をされていたということ。その中でユニは死亡し、彼女だけがこうして生き残り、この通り人間を超越してしまったこと。
 そして一〇年ほど前に、アルスル・ペヴァロッサムと共に彼女が、ペルモンド・バルロッツィの手によって救助され、暫くはアルフレッド工学研究所のどこかで匿われていたこと。その件のどこかに、ラドウィグという青年が関わっているらしいということ。しかしラドウィグが特務機関WACEに誘拐されたのとほぼ同時に、彼女の行方が分からなくなったこと。そうしてその翌年に、曙の女王ダイアナと名を改めて、再び姿を現したこと。
 ――しかしラドウィグは、この件に関して口を閉ざしている。彼は「彼女とは知り合いだった」と言うに留め、それ以上のことは語ろうとしない。アレクサンダー・コルトをはじめ、テオ・ジョンソン部長なども彼に対する追及を強めているが、今はまだラドウィグのほうが常に一枚上手である状況。ラドウィグはあくまで飄々としていて、華麗にその話題を躱し続けている。
 故に、幾つかの情報が明らかになったといえ、彼女については依然、謎だらけだ。彼女がどうして生まれたのか。彼女が何をどうされたから、こんな化け物になってしまったのか。彼女の目的は何だったのか。彼女はアバロセレンを盗み、若者を殺したほかに、何をしていたのか。そして彼女の何が“憤怒のコヨーテ”の逆鱗に触れ、彼女は氷の中に鎖されることとなったのか……。
 考えたところで、分かりはしないだろう。だがアレクサンダー・コルトは、知りたかった。
 若い頃に運悪く、首を突っ込んでしまった以上。アレクサンダー・コルトが闇に堕ちる原因となった少女について、彼女はちゃんと知っておきたかったのだ。ユンが細い背中に知らぬうちに背負っていたという、アルストグランの闇とやらを。
 そうして今日も、アレクサンダー・コルトは氷の中の女王と睨めっこをしている。
「…………」
 ガラス越しに見る女王の顔は、たとえ苦悶に歪んでいたとしても、昔と同じように美しいまま。白い髪に白い肌、白い眉に睫毛、赤い唇。神話や伝承から飛び出してきた妖精や、女神のように思える神々しい美貌は、昔と同じ……いや、昔よりもさらに磨きがかかって、妖しい魅力を醸し出している。
 魔性。その言葉が、最も彼女には相応しいだろう。だって彼女には、こんなにも魅力があるのだから。美貌の持ち主で、謎めいた性格と行動理念を持っていて、謎に包まれた行動をして、その出自にも謎がある。――アレクサンダー・コルトには、それがよく分かっていた。何故ならばアレクサンダー・コルトも、曙の女王が築き上げた蜘蛛の巣に足を引っかけたうちの一人なのだから。彼女がどれほど魅力的なホムンクルスであるのかを、その身をもってよく知っている。
 あまり彼女の件には、首を突っ込んではいけない。良くないことしか、起きないのだから。……そうは分かっていても、こうして氷の中で眠る女王の顔を拝みにはいられないアレクサンダー・コルトは、未だにユンというホムンクルスが仕掛けた蜘蛛の巣に囚われているのだろう。これはとても、良くない傾向だ。それは、アレクサンダー・コルトも分かっている。分かっているが、やはりどうしても彼女に会いたくなるのだ。
「……アタシに教えてくれないか、ユン。アンタは一体、何をどうしたかったんだい……?」
 分厚いガラスを隔てた向こう側にある、分厚い氷の中で眠る女王の顔に、少しでも近付きたくて。アレクサンダー・コルトはそう小声で呟きながら、手袋をはめた手でガラスを撫でる。だが当然、氷の中にいる女王の頬に触れられるわけじゃない。
 そして分厚いガラスに触れるアレクサンダー・コルトの頭の中には、最後に聞いた彼女の声と言葉が思い出される。
『黎明が、私を呼ぶのよ』
『私の心の奥深くを流れる、まばゆく輝く蒼白い光の川のほとりで、鳥のような姿をした黎明が私に静かに(さえず)るの。ダイアナと名乗れと。だから私は、ダイアナを名乗る。やがて生まれるであろうニンフたちを率い、世界をあるべき姿に戻す女神となるために。……可哀想に。あなたには、あの声たちが聞こえないのね』
『勝手に生まれ出た生命、人間という下等な存在には分からないでしょう。神の手により作られた、究極の被造物である私の考えることなんて』
『どうして、アルフテニアランド自治国の上空に開いたSODを、学会が定めた正式名称『Rogue(悪しき) hand(者の手)』でなく、多くのひとは“アルテミス”と呼ぶのか。考えたことなんて、一度もないでしょうね。あなたも、誰もかれも。でもきっと、アーサーは知っている。そうよね?』
『アルテミスの弓矢は、山野を回り、獣を狩るだけじゃないの。見てはいけないものを見た人間も、その矢は狩るのよ』
 何度も何度も思い出すたびに、アレクサンダー・コルトはこう思う。全く以て理解のできない言葉たちだ、と。ニンフやらアルテミスやら、何やらと……まさに、神話の世界の話だ。そして彼女に対し感じることは、アーサーと同じ。まるで本音が分からない。彼女が何を思い、何をしようとしているのか。それがさっぱり掴めないのだ。
 考えるだけ、きっと無駄なのだろう。彼女の言葉通り、下等な生命には究極の被造物とやらの考えることなんて理解できないのだから。――そんなことをアレクサンダー・コルトは思うが、かといってそれを素直に受け入れることは出来ない。馬鹿にされっぱなしでは、いい気はしないものだから。
 しかし、どうにも気にかかる。その言葉たちの明確な意味は分からないが、けれどもその言葉のひとつひとつが纏っているどうにも不穏な気配が、よからぬ未来の予兆を匂わせるのだ。
 そんなこんなでアレクサンダー・コルトが、ガラス越しに女王を見つめ続けていると。彼女の背後から、ヒールの低いパンプスが鳴らす足音が聞こえてくる。それから、女性のような声も聞こえてきた。
「ユンと、ユニ。彼女たち双子の顔は、ある女性に酷似しています。キャロライン・ロバーツ。彼女に、目元や輪郭、鼻筋がそっくり。きっとアーサーは、そこを不愉快に感じたのかもしれませんね。またはアーサーは真相に気付き、彼の娘が創った罪を清算しようとして、このような暴力に至ったのか……」
「……!」
「アバロセレンの本質はとても単純。願えば、その通りのものが与えられる。そういうものです。そして彼女たち双子のホムンクルスも、ある女性が漠然と抱いた単純な願いから誕生したと想定されています。――『家族を作りたい。可愛い双子の女の子が欲しい』。テレーザ・エルトル技師のその独り言が、ボクの中に記録されていて、彼女が独り言を零した翌日には、後に彼女ら双子となる卵の発生に気付いたファーザーが想定外の事態に取り乱す姿も録画されています。……ですが、その因果関係を立証することはできないでしょう。かといって、その仮説を否定することもできません」
 金髪のヒューマノイド、AI:L。またの名を、レイ。灰色のフォーマルドレスに身を包んだそのヒューマノイドが、ごく自然な作りものの笑顔を浮かべて、アレクサンダー・コルトの後ろに立っていたのだ。
 軽く、それでいて明るい喋りで、ヒューマノイドの口からさらりと語られたのは、氷の中で眠る女王に関する仮説。挨拶代わりに飛び出したとんでもない話に、振り向いたアレクサンダー・コルトは当然のように驚き、口を半開きにさせた。
 今の情報は、はたして本物なのか。はたまた、驚かせるための嘘か?
 そう驚くアレクサンダー・コルトだが、そんな彼女を差し置いて、ヒューマノイドは綺麗に整った笑顔でこんなことを告げる。
「エージェント・コルト。実はちょっと、あなたに報せておきたいことがありまして、ここに来たんです」
 先ほどの双子に関する情報など、まるでなかったことのように。次の話題にスッと移るヒューマノイドの切り替えの早さに、今度のアレクサンダー・コルトは戸惑いをみせた。
 だがアレクサンダー・コルトが質問する余裕を与えることなく、そのヒューマノイドは用件をパパっと早口に喋るのだった。
「昨日、テオ・ジョンソン部長の指示の下、ボクの音声案内で特務機関WACEの本部施設があった場所に、ひとりのASI工作員を派遣したんです。しかしポート・ボタニーにあったはずの入り口は綺麗さっぱり消失していて、入ることが出来ませんでした」
「……消失?」
「はい。マダム・モーガンが言うには、ボクたちが使用していたあの場所は、地球ではないどこか別の空間だったようなんです。今はコヨーテと呼ばれている当該人物がポート・ボタニーの一角にその場所に入るための入り口を作って……つまり、ワームホールだったようなんです。――……えーっと、つまりですね。あそこに置いてあった私物や設備は、もう二度と回収できないかもしれないと思って、そう覚悟しておいてください、ということです」
「ああ、そうかい。そうなのか。こりゃ……参ったな」
「あなたがそんな顔をするだろうと思いまして。あの施設に保管されていたファイルやデータのバックアップは、ボクが取っておいてあります。あなたが集めた資料や、作成したデータは、可能な限り紙面にプリントアウトして、あなたの私書箱に入れておきました。あとで確認しておいてください」
 消失。地球ではないどこか別の空間。ワームホール。……双子のホムンクルスの次は、そんなワケの分からない言葉が飛び出してきたが、もはやアレクサンダー・コルトにはそれらに一々ツッコミを入れて、詳細を聞き出す気力も失せていた。
 なんだかよく分からないが、まあとりあえず解決された、のだろうか。そんなことは、いつものこと。慣れるしかないのだ。そういうものだと、切り捨てて。そしてアレクサンダー・コルトは、ヒューマノイドが最後に言った『私書箱に入れておいた』という言葉だけを切り取って理解し、それについての感謝を述べる。
「ありがとう、レイ。アンタって子は、本当によく出来ているね」
「それがボクの仕事ですので、お気になさらないでください」
 いつものように裏方のサポートを、頼まれる前からそつなくこなす。そんなヒューマノイドが掛けられた礼の言葉を軽く受け流し、その作り物の顔に浮かべる笑顔も、いつものように華憐だった。そしてそのヒューマノイドは、いつものように謎めいている。
「それから、エージェント・コルト」
「……ん? どうかしたのかい、レイ」
 二〇代の若者のように見えるその容姿。だが、そのヒューマノイドの頭の中にあるという魂の箱は、半世紀以上の時を記録していた。健やかなるときも、病めるときも、光の時代も、闇の中も、多くのことを記録し、今もその記録を残し、継続している。
 そんなヒューマノイドは飽くなき探求者に、一歩、また一歩と近付く。そして彼女の手袋をはめた手に、ヒューマノイドは偽物の体温を持ったシリコンの手で触れた。それからあくまで笑顔を浮かべたまま、ヒューマノイドはアレクサンダー・コルトに言う。
「ファーザーとマザーに関する情報は、いつでもボクにお尋ねください。ボクは彼らの傍で、彼らのことをずっと見てきました。多くの記録が、今もボクの中には残っています。またブリジット・エローラについても、シルスウォッド・アーサー・エルトルについても、いくつかの情報を提示することがボクにはできます」
「……」
「それから、そこに眠る彼女が生まれた瞬間のことも、映像として記録しています。ユン、ユニ。彼女たちの記録も、そして彼女たちを育てたエリーヌとレーニンのことも、ボクはあなたにお話しすることができます。……彼らがひとりの人間として、ちゃんと生きていたこと。それぞれに人生があって、守るべきものがあって、心があったこと。そのことを、ボクは証言できるでしょう」
 蒼い虹彩に似た模様が描かれた、ガラスの目玉。感情を持たないはずのそれが、たしかに湛えていた強い生気に、アレクサンダー・コルトは少しばかりたじろぐ。
「いつか、ね。……暇が出来たら、あんたを質問攻めにさせてもらうことにするよ」
 アレクサンダー・コルトが社交辞令と共に、苦し紛れの作り笑いを繕うと、ヒューマノイドの手は彼女からすっと離れていく。そして離れたヒューマノイドの手は、ヒューマノイドの胸の前に来て、それから祈りを捧げるように両手の指が組み合わされた。
 するとヒューマノイドは笑顔を消し、その顔にアレクサンダー・コルトの身を案じるような表情をみせる。そうしてヒューマノイドは紗布のように軽く半透明な細い声で、こう言った。
「エージェント・コルト。ご武運を」
「ああ。祈っておくれ」





 連邦捜査局シドニー支局、支局長ニール・アーチャー。彼の日常は退屈だ。
 朝は孤独な家で早くに目を覚まし、テーブルロールを焼く。そして焼き上げたテーブルロールを籠に詰めて、車に乗せて、静かな国道をゆったりとドライブし、出勤。それから朝早くに支局へと来た捜査官たちにテーブルロールを売って、それが完売したら支局長室に行って。デスクに山積みになった書類に目を通して、サインして、目を通して、サインして……気が付けば、もう夕方。
 陣頭指揮を振るうことはない。俗にいう『お上』との駆け引きが繰り返される、そんな仕事ばかりだ。遣り甲斐があるかといえば、権力志向でないニールにとって、そうであるとは決して言えないだろう。だがこの仕事が必要なものであると分かっている。だから、与えられた役目を果たすだけ。それでことが穏便に動くのなら。自分が犠牲になるだけで、多くの物事が円滑に動くのならば。
「……よぉ、アレックス。久しぶりだな」
 そして今日も夕方が来て。窓際に立つニールが呆然と窓から見える夕焼けを眺めていた時。支局長室に、随分と久々に見る顔が来る。
 ノックをせずに、がちゃりと開けられた扉。聞こえてきた、ピンヒールの足音。そこから当てずっぽうで、ニールはそう言った。そして彼は支局長室の出入り口を見てみると、そこにはニールの予想通り、アレクサンダー・コルトが立っている。
 だが彼女の雰囲気は、ニールが最後に見たあのときとは違っている。
「ああ、久しぶり。最後に会った時のアンタはまだ、たしかユニットチーフだったね」
「そうだな。お前はまだ義手を着けてなかったし、病床で泣いてたよな。……へぇ、それがお前の義手か。似合ってるじゃないか」
「だろ? 元の腕よりも勝手が利くんで、重宝してるよ」
 アレクサンダー・コルトは羽織っていたレザージャケットの左袖をまくり、白い義手を誇らしげに見せつける。そんな彼女が羽織っていたレザージャケットは、彼女の定番であった赤ではなく、液体酸素に似た人工感にあふれる青緑色であった。そして長かったはずのブロンドの髪もすっかり短くなり、刈り上げのショートボブに変わっているし、立ち上がっている前髪は男よりも男らしいオーラを放っていた。それから、彼女が好んで履いていたピンヒール靴も、以前は黒ばかりであったが、今は白いものを履いている。
 まるで別人のような雰囲気の彼女は、しかし相変わらずアレクサンダー・コルトでもある。左頬のライオンに引っ掻かれた傷は健在で、キツイ三白眼もまた健在。
「それで、アレックス。今日は何の用で来たんだ?」
 以前、まだニールがユニットチーフだった頃。彼女と支局で顔を合わせるたびに、この言葉を口にしていた。その名残でニールは、この台詞を彼女にぶつけてしまう。
 するとアレクサンダー・コルトは、小さく笑った。そして彼女は言う――どこか寂し気な顔で。
「いや、実は特に用事はないんだ。ただ、これからアリス・スプリングスに仕事で調査に行くもんでね。もしも何かがあったときに後悔が無いよう、ちょっとアンタの顔を見に来たのさ」
「アリス・スプリングス? ……ああ、数か月前に街が吹っ飛んだっていう、あれか。あの事件もやっぱり、アバロセレンがらみなのか?」
「まあね、だから細心の注意を払えってお達しが出てるんだ。だから、もしもに備えて――」
「もしもなんて、起きやしないさ。きっと。だからシドニーに帰ってきたら、またここに来いよ。俺はパンを焼いてるか書類にサインしてるか、電話会議ぐらいしか仕事がないし、だからいつでも大歓迎だ」
「分かったよ。帰ってきたら、暇してる連邦捜査局シドニー支局長の顔をまた見に来てやる」
 軽い調子で、お互いに少しの笑顔を浮かべて、冗談を混ぜながら交わされる会話。しかし、その裏には軽いとは言い難いものが隠れている。だがお互いに、それには気付かぬふりをしていた。
 悪い大人になった。二人はそのとき、そんな同じことを思っていた。昔なら、言いたいことをお互いにぶちまけて、衝突して、喧嘩する元気があったのに。今では、それがない。
 こんなはずじゃなかったのに。どこかで誰かが、そう嘆く声が聞こえたような気がしていた。だが、声が聞こえたような気がするだけだ。だからその声に、真剣に取り合おうとはしない。耳を貸すこともない。背を向けるだけだ。今日も、明日も、将来も。
 そうして上辺だけを取り繕う。理解したふりをする。気遣うふりをする。本心に、目を背けて。
「あー……それじゃ、時間に間に合わなくなるから、これで。それと、バーニー・ヴィンソンに宜しく伝えてくれ。最善は尽くしたが及ばず、申し訳ないって」
 そう言うとアレクサンダー・コルトはニールに背を向け、足早にその場を立ち去ろうとする。支局長室のドアのノブに彼女が手を掛けた、そのとき。ニールが反射的に声を上げて、彼女を引き留めた。
「なぁ、アレックス。ちょっとだけいいか」
「なんだい? 手短に済ませてくれよ」
 再びニールを見る、アレクサンダー・コルトの三白眼。白目勝ちな目に輝く緑色をした彼女の瞳は、百獣の王のような堂々さを湛える一方で、その裏側に焦燥の火種を燻ぶらせている。それはニールの前に居る、今だけじゃない。左腕を失ったあの日からずっと、彼女の目の奥で黒い煙を上げ続けていた。
 そして彼女の目で燻ぶる火種を見つめるニールは、曇らせた表情で、こんな言葉を口にする。
「俺たちは何をやって、何を解決したんだ? ウルルで起きたあの一件、まるで最近は噂を聞かないが、だが俺たちは何も解決してないんじゃ……」
 そしてニールの言葉が終わったとき。アレクサンダー・コルトの瞳から、燻ぶっていた火種が消える。すると彼女の目は途端に、光を失くした。そうして次に彼女の口から出た言葉は、彼女の心も、ニールの心も、全てを絶望の底へと叩き落す。
「そうだね。何も、解決しちゃいないよ。事態は着々と悪い方向に進んでいるが、アタシたちはその全てを知り得ていない。それにアタシたちの積んだ努力、払った犠牲が、全て意味があるとは限らないし、無駄だったのかもしれない。というか、全て時間と労力の無駄だね。でもそれが、現実だ」
「…………」
「……アタシたちは、最善を尽くした。それしか言えないよ」
 そう言うと彼女はニールから目を逸らし、ドアノブを捻って、支局長室を退出していった。そうしてピンヒールの足音は、遠のいて行く。やがて居心地の悪い静けさが来て、ニールは溜息を零した。それから彼が再び見やった、窓の外の景色。夕方の空はまるで、大地を焼いているかのように赤い。
 彼はこの夕方の空が大嫌いだった。

 そう。夕暮れの赤は、大嫌い。そして赤色が、なによりも大嫌いで……。

「ギャング連続殺人についての新たな情報、ねぇ……」
「……たぶん容疑者は射殺されたっていうアレが、やっぱり嘘だったってことじゃないのか?」
 アバロセレンの闇取引に関わっていたギャングを狙った、連続殺人事件。容疑者は射殺されたとして、随分前に強引な幕引きをしたその事件に関する、新たな情報を公開するとして開かれた、連邦捜査局シドニー支局の記者会見。それはニールが周囲の反対を押し切り、強硬に行ったもの。ASIも事前の通告は受けておらず、そして先ほど顔を見せに来たアレクサンダー・コルトも知らないだろう。彼が、これからやろうとしていることを。
 十数分前に急遽流された、会見開催に関する通告だったが、無事に嗅ぎ付けた報道陣はいたようで。連邦捜査局シドニー支局の出入り口、正面玄関前には、カメラと記者たち、そして報道各社の関係車などが集まってきている。続々と押し寄せる人の波を、正面玄関前に立つニールは見つめながら、右手に持った台本の端を握りしめる。そんなニールを建物の中から見守る捜査官たちの間にも、緊張が流れていた。
 ニールがこれから何を語ろうとしているのか。それを知っている捜査官は、ごくわずか。以前は彼の直属の部下であり、不運にも色々と知りすぎてしまったベッツィーニ特別捜査官と。ベッツィーニ特別捜査官と同様に、色々と知りすぎてしまった検視官助手ダヴェンポートと、化学捜査課の主任マーク・ティンダル、それから新人ガブリエル・マクベイン。そしてジョン・ドーとも関わりがあり、それ故にニールに反対した検視官バーニーと。ニールも篤い信頼を寄せている先輩であり副支局長であり、唯一ニールに賛同したジェームズ・ランドール。――ニールの握る台本の中身を知っているのは、彼らだけだ。
『真相を明るみにしたところで、不要な混乱を招くだけですって。アレクサンドラ・コールドウェルがこの場にいたなら、絶対にあなたに反対するはずですよ』
 そう言っていたのは、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官。
『……私には、何も言えることがないです。で、でも、私はエドガルドさんと同じ意見です。あんな情報を、外部に漏らしたら駄目だと、思います……』
 そう小声で告げてきたのは、検視官助手ダヴェンポート。
『情報をどこまで開示するのか、にもよる。だが、私に言えることはひとつだけだ。情報を開示したら最後、うちの支局の信頼は失墜するだろう。ASIに愛想を尽かされたら、うちは終わりだ。大統領やキャンベラ本部に何をされるか、分かったもんじゃない。そうなりゃ困るのは、シドニー市民だ』
 そう呟いたのは、科学捜査課主任のマーク・ティンダル。
『困るのはシドニー市民だけじゃないですよ。うちに所属している全ての捜査官にはきっと、あのシドニー支局で働いていた、だなんて汚名が付いて回ることになる。となりゃ……ね。分かるでしょう、支局長』
 そうボヤいていたのは、化学捜査課のガブリエル・マクベイン。
『そんなことよりも私が心配なのは、他でもないあなた自身よ。アーチャー、自分がどれだけ危険なことをしようとしているのか分かっているの? あなたが凶弾に倒れるようなことがあったら、アレックスも、あなたの元奥さんも、あなたの娘さんだって……――』
 表情に怒りを滲ませて、そう諭してきたのは検視官バーニー。
『俺は、お前の決断を尊重する。たとえそれが、多方面に喧嘩を売ることになったとしても。悔いが残らないよう、お前はやりきれ。帳尻合わせは俺がやってやるから。――それに俺は、お前らしい決断だと思う。まっ、頑張れよ』
 そう励ましてくれたのは、副支局長のジェームズ・ランドール。
「おっ、支局長が出てきたぞ。……おい、イェンス。リポーターのアンリはどこ行った?」
「急げ! そこのカメラマン、走りなさいよ! 会見に遅れちゃうでしょう!!」
 いろんな意見が世の中にはあって、正解は人の数だけ存在し、正義というものに絶対的な答えはない。同時に悪にも、明確な定義や答えもない。ニールはそれを、その身をもって理解してきた。
 どうせ、この世に絶対的な正しさはないのだ。ならば彼は自分の信じる正しさを信じる。
「…………」
 押し寄せる人の波。ざわめく空気。その緊張感が茨となり、足に絡みついてくるのを感じながらも、ニールは毅然と人々を見つめ、台本を手に人々の前に立つ。そして彼が口を開こうとした時だ。群衆の中のひとつの目と、目が合う。
 奇妙で不快な視線をニールが感じ、そこを見つめ返した時。そこで交わった視線が、彼に過去を思い出させる。ニールが群衆の中に見つけた男は、そこで不敵な笑みを浮かべていた。
「…………?!」
 蒼白く輝く、瞳孔のない瞳。最前列に居たわけでもないにも関わらず、その目は、人混みの中でもすぐに見つけられるほど目立っていた。そして目立っていたのは、その髪色もあっただろう。老人のように、色素が完璧に抜け落ちた白い髪は、群衆の中で悪目立ちしていたと言ってもいい。
 見覚えのある顔。見覚えのある瞳。だが、髪色は違う。ニールはそこに違和感を覚えたが――しかし、彼があの『サー・アーサー』であることは分かっていた。そしてニールは遂に緊張感に呑まれ、自分がすべきことを見失う。
 彼には、嫌な予感だけがしていた。笑う死神の目に、自分の終わりだけが見えていた。
「アーチャー支局長、大丈夫ですか?」
 最前列に居た記者の一人から、そんな言葉が掛けられる。そして言葉が終わった、その瞬間。ニールは右手に持っていた台本を、群衆の中に投げ入れた。そして彼には、群衆の中から飛び出してきた影が襲い来る。
 ニールにはその影が、鳥の姿をしているように見えていた。鳥、それも大柄の海鳥のかたちをした黒い影が、自分に向かってくると。
「――台本?! えつ、あっ……嘘でしょ!?」
 つい先ほど、ニールに向かって「大丈夫ですか」と声を掛けた記者は、幸運なことにその台本をキャッチしていた。そして自分が掴み取った台本に驚いたあと、台本を投げ捨てた男を見て悲鳴を上げる。
 支局の建物からは捜査官たちが飛び出す。中でも、真っ先に飛び出した検視官バーニーは、倒れたニールに駆け寄り、常に携帯していたラテックス製のゴム手袋を着けるやすぐに、血が零れだしたニールの傷口を手で押さえ付け、止血を試みる。それから彼はニールの腹に刺さっていた見覚えのある漆黒のレイピアに驚き、そして群衆を睨んだ。
 我先にと逃げ出していく者たちが居る一方で、絶好のスクープを見逃してたまるかと居座る記者たちもいる中。検視官バーニーは、見覚えのある顔を見つけ出すことが出来ない。ニールを傷付けた者の見当が彼には付いていたのに、検視官バーニーは“その男”を見つけられなかったのだ。
 そしてその場には遅れて副支局長のジェームズ・ランドールが到着するが、彼は正面玄関前に広がっていく赤に戦慄する。それでも冷静さをどうにか保つ副支局長ジェームズ・ランドールは、無線ですぐさま救急を要請した。それから副支局長ジェームズ・ランドールは無線を繋いだまま、蒼褪めていくニールを見た後、記者たちが居るスペースを睨む検視官バーニーに声を掛ける。「バーニー。アーチャーの状態は?」
「多分、脾臓をやられたわ。出血がひどい」
「助かる見込みは」
「ある。救急隊に、こう伝えて。脾臓損傷、穿通性、出血がひどくショック症状を起こしている。輸血の用意をしておきなさいと」
「了解だ」
 副支局長ジェームズ・ランドールも、一連の事件に関する証拠品として見たことがある、黒いレイピア。彼もそれを見るなり、不快感に歪んだ顔をする。するとそんな彼に、一人の記者が声を掛けた。
「あ、あの! ランドール副支局長ですよね?」
「ああ、そうだが。しかし今は取材はやめてくれ、引っ込んでいろ。写真も撮るな」
 きつい言葉を記者にぶつけ、追い返そうとした副支局長ジェームズ・ランドールだが。しかしその記者が持っていた台本を見るなり、その表情を変える。それから記者が、台本を返そうと副支局長ジェームズ・ランドールに手渡そうとしたその時、彼はそれを突き返した。それから副支局長ジェームズ・ランドールは、その記者に言う。
「お前は、記者だろ。どこの所属かは知らないが、それを持ち帰れ。独占情報として、一切の断章をすることなく、その全文を掲載しろ。それが、その台本を受け取ったお前の義務だ。――断章をした際には、その時は何かしら理由を付けて、お前を逮捕してやるからな。分かったな?」
「――はい、承知しました」
 突き返された台本を胸に抱くと、覚悟を決めたような顔をしたその記者は、連邦捜査局シドニー支局の正面玄関前を足早に去っていく。
 去っていく記者を見送る副支局長ジェームズ・ランドールが見た空は、気が重くなるほど赤い夕暮れ。日没直前の空の赤さに、彼は「クソが」と汚い言葉を吐き捨てた。





 シドニーが赤い日没を迎えている頃。マンハッタンでは冷たい夜風が止み、清んだ空気の夜明けが刻々と近付きつつある。月は、もう見えない。それでも外はまだ暗く、星明りは暗闇の中にまばらに輝いていた。
 そして外は、とても静かだ。その静けさが、今宵のアストレアにはとてもじゃないが耐えられなかった。
「……あぁ、これもだ。この本も、中身が……」
 たったひとり、巨大な家の中に取り残されたアストレアは、勝手にアルバの部屋に入り、彼の部屋を漁っていた。一九世紀の邸宅風に改装された部屋の中をちょこまかと駆け回り、本棚に並べられた数々の本を取り出して、開いては、中を見て、床に捨てる。彼女はひとり、その作業を繰り返していた。
 そして高級感のある光沢を持った、茶色い家具が並ぶ部屋の中には、夜明け前に相応しい詩を歌うテノールの声が響いている。アストレアが適当にいじったら動き出した蓄音機が、既にセットされていた黒いレコードに記録された音を再生していたのだ。
 『誰も寝てはならぬ!』と、蓄音機は高らかに歌う。夜よ、去れ。星よ、沈め。星よ、消えろ。夜明けとともに私は勝利を得るのだ。私は勝つ。私は勝つ! ――……力強く、高く張り上がるテノールは、そう歌う。勝ち誇るようなその声は、レコードの記録でしかないとしても、その声を聴く者の背筋を緊張から震え上がらせた。
「……やっぱり、この部屋の本は虫食いが多すぎる。どうして、こんなに――」
 響くテノールの歌声に背筋を凍らせながらも、それでもアストレアは本を引っ張り出しては開いて、床に捨てるその作業の手を止めることはない。彼女にはある疑問があって、今まさにそれを探していた最中だった。しかし捜索の過程で、別のものが気になってしまった。それが、本の虫食い。
 驚くほどに、この部屋にある本は虫食いが多かったのだ。虫食いのような誤字に、乱丁に落丁。本にあるまじきものが、この部屋にはやたらと揃っている。まるでそれら本たちが、ひとりの男の朧な記憶から飛び出してきたものであるかのように、粗だらけだったのだ。
 彼は、そういった特殊な本のコレクターなのだろうか。アストレアは一瞬、そんなことを考えた。だが、すぐにその考えを否定した。そんな物好きが居ないとは否定しないが、少なくとも彼はそんな物好きではないだろう。どうせ本を集めるならば彼は、完璧な状態であるものを求める人物であるはず。そう思えたからだ。こんな粗だらけの本に、価値を見出す人物だとは思えない。
 となれば、この本たちはどこから来たものなのか? そもそも、いつこの部屋は改装されていたのか。業者が入った形跡は、少なくともこのアパートには一度もないのに。いや、思えばそれは今に始まったことじゃない。特務機関WACEが保有していた地下の施設だって、気が付けば増改築が行われていて、施設は常に変化し続けていた。アストレアは今まで、あれはそういうものだと思って気にもしたことがなかったが、よくよく考えれば不可解で、理解できない現象だ。
 まるで、魔法だ。アストレアは、その解に至る。現代的なシンプルでミニマルだった部屋が、いつの間にかビクトリア様式風の豪奢なアンティーク調に改装された理由も。どこから湧いてきたのかも分からない、この穴だらけの本も。魔法のようにどこからか飛び出してきたとしか、思えなかったのだ。
 だけど、そんなことがあるわけがない! 否定したがる声が、アストレアの頭の片隅でそう叫ぶ。けれども、アバロセレンなんてものがある世界で、そんなことを否定してどうなるのだろう?
「……あはは。なんだよ、もう。どうなってんだよ、この部屋……」
 すると、部屋に響いていたテノールの歌声がブツッと止まる。蓄音機のテーブルの上で回るレコードをなぞっていた針が、誰かに上げられて、音が止められたのだ。だが部屋には今、アストレアしかいないはず。ましてや誰かが部屋に入ってくる足音なんて――。
 となると、考えられるのは二人にひとり。足音も立てずに、部屋に入って来られるのは、アストレアが知る限りでは神出鬼没の死神だけ。白髪のミスター・アルバが帰ってきたのか、もしくはマダム・モーガンが遊びに来たのか。そのどちらかだ。
 そして蓄音機のある方向に振り向いたアストレアが見つけた人影は、漆黒のパンツスーツをキリッと着こなす黒髪の女。マダム・モーガンだった。
「……彼はテノールなんてガラじゃないわ。オペラでいうなら、一方的に悪だと決めつけられて断罪されるバリトンの可哀想な悪役よ。まっ、その結果として、本物の悪役になってしまったようだけど」
 彼、ついでに声も並みより低いし。そんなことも付け加えるマダム・モーガンは、呆れ顔をしていた。アストレアが作った本の小さな丘を見つめて、彼女は腕を組み、そして小さく笑う。それからアストレアに、するまでもない質問をするのだ。
「そんなに本をひっくり返して、あなたは何をしているの、アストレア」
「……この部屋の本が、おかしいんだ。あまりにも虫食いだらけで。一冊、二冊ならまだ分かるよ。でもここにある本の、ほぼ全てに一〇、二〇か所は必ずあるんだ。おかしな点が、こんなにもたくさん……」
 ブツブツと小声でアストレアはそう言い、また一冊の本を手に取っては、ペラペラとページを流すように次々とめくって、床に捨てる。そして新たにアストレアが投げ捨てた一冊の本を、マダム・モーガンは拾い上げ、その本の中を軽く流し読んだ。
 シェイクスピア全集。背表紙には、そう書かれている。そして開いてみた中にはアストレアの言う通り、文章にはほんの少しの虫食いがあった。それから細々としたページの装飾や挿絵には、ガウシアンフィルターが掛けられたかのような、靄に似たぼかしも入っていた――どうやら図画に関する記憶は、かなり朧なようだ。
 しかし本において肝心である全文は、かなり細かく、正確に記録されている。たしかに文章には抜け落ちている個所があったが、それはかなり少ないといえるだろう。もし、これらがひとりの男の記憶の中から生まれ出た産物であるならば、その精度は……驚くべきものだ。
「……」
 ぱたん。マダム・モーガンは少し大きめの音を立てて、手に取っていたその本を閉じ、アストレアが築いた丘の頂上にそれを静かに置く。それから溜息と共に彼女は、こんなことを言った。
「彼ったら、流石ね。事前の稽古も一切なしに、ぶっつけ本番で『リア王』のエドマンドを演じきった男なだけはあるわ……」
「……マダム・モーガン?」
「彼が、まだ高校生だった頃の話よ。エドマンド役の学生が風邪をひいて、喉が嗄れちゃって。その代役として演劇部でもない文学青年が急遽登壇し、元の役者よりも何枚も上手で、それでいて人の目を引きつける、エドマンドそのものっていう演技を見せちゃったっていう逸話。――要は彼の中には既に、ほぼ完璧な台本が入っていたってわけ。それこそ、ここにある本たちのように……」
 マダム・モーガンは、アストレアが組み立てたバカげた仮説に、信憑性を与えうるようなことを言う。そしてアストレアは、呆れ返るのだ。どこまでも無知だった自分自身と、荒唐無稽な世界に対して。
「つまり、マダムは……彼が高校生だった頃から、彼のことを知ってたの?」
「そうね、私は知ってた。私は大昔から、彼の動向を観察していたのよ。子供らしく笑いもしない五歳児だった彼の写真も私は持ってるし。あっ、そうだ。その写真、見る? たしかメモ帳に、悲惨なエルトル家の家族写真のコピーを挟んであったような気が……」
「僕は、遠慮しておく。……それに、そういうネタを喜ぶのは、アレックスぐらいだよ」
「あらあらー、意外ね。あなたはプライバシーを重んじるタチだったの? てっきりあなたの趣味趣向は、アレクサンダー・コルトと同じかと思ってたんだけど……」
「その話題。数時間前に彼と話してて、否定したばかりです」
「あら、ごめんなさい。思えばあなたと彼女は、顔を合わせるたびに口論ばかりしてたわね。似た者同士だからかと思ってたけど、その真逆だったとは……」
 この世界は、実に馬鹿馬鹿しいことで溢れている。
「――それにしてもこのアンティーク調の内装、見覚えがあるわ。ロバーツ家にそっくりよ。ロバーツ家邸宅の書斎。探せば、ダニエル・ベルのクソ小説も出てきそうね」
 願えば、その通りのものを与える力。
 アバロセレン。または、昏神キミアの生み出した邪悪な呪い。
「ロバーツ家っていうのは、彼の奥さんの実家のことよ。キャロライン・ロバーツ。彼女はそりゃあ、大層に綺麗な女性だったわ。占い師って商売をしている割には、金に執着しない聖人でもあったし。アーサーにはとても不相応な……――ん? 大麻のにおいがする気がするんだけど、これは私の気のせいかしら?」
「そこのデスクにあるパイプを見て」
「パイプ? ……あぁ、本当だ。あの男、本当になんてことを……!」
 その力を手に入れようとする人々と、その力を恐れて拒む人々。
 彼らが起こす争い。そして必要だったかどうかも分からない、犠牲たち。
「あー……そういえばね、アストレア。数か月前の、あなたが私にした行い。私は、怒っていないから。勿論、痛かったけどね。でも怒ってないから。安心して頂戴」
「そうなんだ。僕も、あれに関しては後悔も反省もしてないから。安心してください」
「あら、そうなの。分かったわ……」
 それだけじゃない。もっと世界には、馬鹿げたものがある。
「…………」
「それから、アストレア。ひとつ、訊いてもいいかしら」
「どうぞ」
 情。あれほど馬鹿らしいものもない。
「アーサーの居場所を、あなたは知ってる?」
 あれが、どこから湧いてくるのかも分からない。でも、たしかに存在していて、否定することができなくて、同時に拒むことも出来ないのだ。否応なしに、それは理性を凌駕し、支配してみせるのだから。
 どんなにガチゴチの凝り固まった理性を持っている者だとしても。情には、抗えないのだから。
 馬鹿らしいこと、この上ない。
「知らないよ。数時間前に彼は突然、消えた。何も言わずにね。どこに行ったのかも知らないよ」
「そうよね。そうだと思ったわ。あなたの、その様子からして……」
「そう。僕は何も知らない。彼がどこに消えたのかも、どうして彼があんなクソ鳥に自分の体を譲ったのかも、僕は知らない。何も、知らないんだ」
「それで、アストレア。あなたは何を探しているのかしら」
 次から次に、本を引っ張り出しては、床に捨てて行く。アストレアが続ける不可解な行動を見守り続けたマダム・モーガンは、痺れを切らして遂にその質問をする。そしてようやくアストレアの動きが止まった。
 本をひっくり返して、なにか探し物をするとき。その目的は、大きく分けて二つ。一つは本に書かれている何かしらの記述を探すこと。もう一つは、本の間に挟まっている何か――栞や写真、へそくりなど――を探すこと。……はたしてアストレアがどちらに当てはまるのかがマダム・モーガンには分からなかったが、マダム・モーガンは先ほどまではこう思っていた。何か探し物をしているにせよ、困っているならば彼女はいつか手を貸してくれと助けを求めてくるだろう。その時に、彼女の探し物が分かるだろう、と。
 だが一向に、アストレアがマダム・モーガンを頼る気配はない。そこで思い切って訊くことにしたのだ。ひとりで見つけようとしている、その探し物は何なのか、と。するとアストレアは、小さな声でこう答える。
「……ミスター・アルバの真意。どこかにメモ紙でも挟んでないかなって思って、本を漁ってた」
「アルバ? 誰よ、そいつ」
「アーサー、彼のこと。今はアルバって、そう呼んでるんだ。彼がすっかり白髪に変わっちゃったから、そう呼んでる」
 マダム・モーガンはこう思った。『あの男がメモ紙に何かを書くと思うのか? あれは複雑な思考の全てを頭の中に隠して、その時が来るまでは頑なに黙り続けるような男なのに』と。だがそんな下らない言葉を彼女は発しない。
 その代わりにマダム・モーガンが口走ったのは、アストレアが口にした人名。
「……アルバ、か。そういや、さっき流れてた曲にもアルバって単語が……」
 それはマダム・モーガンが止めた蓄音機が、それまで歌っていた楽曲。プッチーニ作曲の歌劇『トゥーランドット』の中でも、特に有名なアリア『ネッスン・ドルマ』。イタリア語で歌われるあの曲の歌詞には、アルバという単語が登場する。ほんの一瞬、一度だけ。そしてその意味は、夜明け。
 そう、夜明けだ。
「夜明けよ。新時代の夜明け。それが彼の願いじゃないのかしら?」
 何故、あのとき。アストレアが思い付きで口走った『アルバ』という名前を、彼が一瞬でとても気に入ったのか。その理由はまさに、マダム・モーガンがはじき出した答えだった。
 アルバの意味は、白だけじゃない。
「――世界は、新時代を望んでいるのよ。人間が滅びた先の世界を、見たがってる。黎明の光に、曙の女王、そして夜明け(アルバ)
 夜明け前の最も暗き闇夜を侵食して、少しずつ少しずつ顔を出す、狂おしいほどに美しい白い薄明り。やがて闇夜を食らいつくし、空を赤く染め上げ、そして黄金色の日の出を連れてくるその光を、ひとはこう呼んだ。アルバ、と。
「……これが運命ってやつなのかしら……」
 マダム・モーガンが抱き続けた疑問。その答えを教えてくれるパズルの、欠けていたピースが今、出揃った。そしてパズルが完成し答えが見つかった途端、彼女は自分が劣勢であることを知り、そしてどうやらその状況は覆りそうもないことを思い知った。
 マダム・モーガンが見ていたのは、百年先の未来。だがミスター・アルバ、彼が見ていたのはもっと遠い将来だったのだ。
「アストレア。あなたは見事に、勝ち馬を見極めた。空中要塞アルストグランと共に倒れずに済んで良かったわね」
 これから、人類には悲劇が訪れるだろう。でもそれは決して、アルバという男の最終目的地ではない。あくまでそれは、通過点なのだ。
 なら、その先に待っているものは? そんなことは、彼にしか分からないだろう。
 いや、もしかすると彼も知らないのかもしれない。
「アストレア。あなたは賢かったのよ、誰よりも。それは誇っていいことだわ」
 そんな負け惜しみの皮肉を、マダム・モーガンはつい感情に任せて言ってしまう。するとしばらく静止していたアストレアが、また動き出した。今度は自分が床に投げ捨てた本を拾い、軽く手で埃を払ってから、それらを元あった棚の中へと戻し始めたのだ。
 しゃがんで、床に落とした本を一冊拾って、立ち上がって、棚に戻す。そんな単調な作業をアストレアはひとり繰り返す。そして作業を続ける中で、アストレアは口ごもるような小声で独り言を言う。
「……僕は、賢さとは真逆の場所に居る人間だよ。僕はただ、一度でいいから普通に近付いてみたいと思っただけ。あの時、彼の手を取った理由もそれだ。彼と一緒にアルストグランを抜け出せば、新天地で普通の生活を送れるかもしれないって、そんな淡い幻想を抱いたんだ。人生をリセットできるかもって。――これ以上に愚かなことがあると思う?」
「……」
「キッカケこそ最悪だったけれど。でも、彼と過ごした生活、案外気に入ってたんだ。たぶん彼のほうも、そうだったと思うよ。彼のほうも、満更でもなさそうだったし。それにシャキっとしていないぐーたら親父の彼を、僕は気に入ってた。……でもやっぱり、僕らは普通にはなれないんだ。それに近付くこともできない。なのに近付きたいと思ったんだ。普通の人生に」
 そして腕を組み、突っ立っていたマダム・モーガンも動く。マダム・モーガンも床に落ちていた本を一冊拾い、それを適当な棚へと戻したのだ。それから再びマダム・モーガンがしゃがみ、また一冊の本を手に取ったとき。彼女はアストレアに話しかける。
「……残念ながら、あなたは普通になることはできないわ。今後も、ずっと。何故ならば」
「僕が不死者だから、でしょう? 彼から聞かされたよ。まだイマイチ、ピンと来てないけど」
「そう。だからあなたは、普通の人生を送れない。でも、少しはアーサー……いえ、アルバに近付くことぐらいは出来たんでしょう?」
「さあね、どうだか。でも、彼に付き纏いたくなるギルの気持ちは理解できるようになったよ。とはいえ、彼の体を欲しがるギルの心情は理解できないけど」
「謎多き無口な男は、いつだって魅力的だものね。もっと知りたいと思ってしまうから。でも身内にそんな男が居たら厄介なことこの上ないけれど」
「そのとおり。厄介だよ。滅多なことがない限り、何も教えてくれないから」
 また一冊、アストレアが棚に戻したとき。アストレアは次の本を拾うことはせず、代わりに彼女は窓に視線をやって、溜息を吐く。そしてアストレアは言った。
「見てよ、マダム。もう夜明けだ。結局、夜を明かしちゃったよ……」


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