アンセム・フォー・
ラムズ

ep.13 - * * *

 そして波乱の十二月が終わり、年が明けて一月を迎え、そんな一月も半分が過ぎた頃。オーストラリア大陸の東側にあるシドニーとは真逆の、西側にある某所。その砂漠地帯にマダム・モーガンは立っている。
 彼女の横にはジョン・ドーが眠そうな目を擦りながら立っていて、そして彼らの後ろにはASIから派遣されてきたジュディス・ミルズとアレクサンダー・コルトの二人が、これから起こるであろう“何か”に備えて待機していた。
 時刻は午後二時。一月中旬の昼間と言えば、例年ならば暑いはずなのだが、今年は真逆であるようだ。
「砂漠って、もっと暑いところだと思ってたわ。まさか砂漠の湖が、凍ってるだなんて……」
 厚手のコートを着込み、真冬のような装いをしたジュディス・ミルズは、そんなことをボヤく。同じく、ASI支給の防寒具を着込むアレクサンダー・コルトはその言葉に、無言で頷いてみせた。
 なんたらかんたら危機管理委員会の報告によると、最近この大陸は少しずつだが上昇をしているのだという。十五日で一メートル、それぐらいのペースであるとか、なんとか。しかし大陸は上昇を続けているだけで、場所の移動はしていないという――今もずっと、大陸の北東部ケアンズからは、遥か下の海に広がる珊瑚礁が変わらず見えるというから、きっとその情報は確かだ。
 そして大陸の上昇によって、気温は徐々に下がる一方。気温の低下に関しては、大陸の高度の上昇以外にも他に何かしらの原因があるようだが、それは依然として不明。さらに大陸の高度が上がる度に、高山病のような症状を訴える者も増えて、そして市民の怒りのボルテージも上がっていく。マスメディアの偏向報道の成果もあり、その怒りは全てイザベル・クランツ高位技師官僚に向けられていた。
 分からない、ということは、ただそれだけで怖いことだ。誰にとっても、恐ろしいこと。ましてや人間は地球上にある全てのことを理解していて、それら全てを科学的に説明することが出来ると勘違いしている、近頃の愚かな人類――特に、何も考えずに日々を過ごしている善良な市民たち――にとっては、これ以上に恐ろしくて不愉快なこともないだろう。その不満のはけ口を、人々はイザベル・クランツ高位技師官僚に見出しているのだ。
 しかし、善良な市民たちはきっと知らない。イザベル・クランツ高位技師官僚、彼女が毎日のように関係省庁に出向いては、あらゆる分野の技師たちや軍人たち、専門家たちと頭を突き合わせて、データの山々と睨み合いをし、格闘していることを。休む暇もなく働き、あらゆる仮説を立てて検証し、ああでもない、こうでもないと論争を繰り広げる姿を。
 だが、彼女は生け贄に選ばれた身。彼女はそれを、重々承知している。それでも、世間への不満をひとつも零さず、ひたむきに走り回る若い才媛の背中を見るたびに、彼女の周囲の人間は溜息を零すのだ。どうして彼女が非難されなければならないのだ、と。
「アルストグランは氷に鎖された状態で、地球の重力から解き放たれ、宇宙空間にでも投げ出されて終わるのかしら。……サンドラは、どう思う?」
「なるようになる、としかアタシには言えないよ」
「なるようになる、か。まあ、そうよね。対処のしようがないんだもの」
 最近ようやく、シドニー市警鑑識課への潜入の任務が解かれ、久方ぶりに身軽となったジュディス・ミルズは、屈託のない笑顔を浮かべて、そう言う。そんな彼女はもう随分と昔に、未来へ希望を抱くことをやめていた。今よりも輝かしい時代が来る、いつの日か積み重ねた努力が報われる――だなんていう幻想を、彼女は捨て去っていたのだ。
 そしてしかめ面で腕を組むアレクサンダー・コルトの左腕は、無機質な光沢を持った白い腕に変わっている。ジュディス・ミルズは、アレクサンダー・コルトのその目にふと視線をやり、こんなことを軽く尋ねた。「それでなんだけど、サンドラ。その義手って、どんな感じなの?」
「不思議な感じさ。始めから、この腕が自分に付いていたんじゃないのかってぐらい、思い通りに動くんだよ。それに、義手なのに触覚がある。本当に、不思議な感覚さ」
 現在はまだ試験段階であるという最新鋭の筋電感知技術や軽量で頑丈なモーターなど、あらゆる分野の最先端が詰められたその義手は、シリル・エイヴリー少佐の言葉通り、まるで自分の腕のように自在に、よく動く。それどころか、元の自分の腕よりもずっと軽く丈夫で、それでありながらも重いものもひょいと軽く持ちあげられるタフさを持っているその義手は、今やアレクサンダー・コルトにとって欠かせないものになっていた。
 そんなこんな、この出来のいい義手のお陰でアレクサンダー・コルトは、少しは前向きになれていた。元の腕よりも、今のほうがずっと優れていると思えるだけで、不運な出来事も少しはプラスの方向に捉えることができるようになったのだ。
 だが、まだ完全に蟠りが消えたわけじゃない。アストレアの件はずっと、心の中にあり続けている。
「しかし、義肢装具士のドクター・ネイピアって男がどうにもクセが強くてね。口数も少なくて、どちらかといえば常に無表情なタイプの男なんだが……何かが、変なんだよな。あのアルフレッド工学研究所にいる他の面々と比較すりゃ、彼は常識人の部類に入るんだが。何かが少し、変わってるんだ」
「何かって、何よ。早く教えて、サンドラ」
「ドクター・ネイピアは、自分の飼ってる仔犬に『ペルモンド』って名前を付けてるんだ。黒い毛並みの、でっかいプードル犬なんだが。……元上司の名前を犬に与えるって、普通の感覚じゃないだろ?」
「プードルに、ペルモンド? たしかにそれは……信じられないわ。でも私、そのセンス嫌いじゃない。いや、だとしても犬にペルモンドって名前を付けるなら、やっぱりハスキードッグが相応しいと私は思うわ。プードルだなんて……プードルの名前が、ペルモンドだなんて……ふふふっ……」
 くりんくりんで、フワフワとした毛を持つ大型犬プードルが、頭を撫ぜられながら「ペルモンド」と飼い主に呼ばれる様子を想像でもしたのだろう。ジュディス・ミルズは少し顔を俯かせて、手で口元を覆い隠し、一人で怪しく笑っている。
 笑いがこみあげてきたあまりに、仕事どころでなくなったジュディス・ミルズがひとりで腹を抱えている一方。アレクサンダー・コルトは、空の異変に気付く。寒いが、太陽は眩しく照っていた景色が一転、なんだか暗くなったのだ。しかし空を見る限りでは、雲はない。うんざりするほどに明るく眩しい、雲一つない快晴である。
 何かがおかしい。アレクサンダー・コルトは、眉を顰めさせた。するとマダム・モーガンが、十数分ぶりに口を開く。マダム・モーガンは、こんなことを呟いた。
「……来たわね、カリスが」
 カリスというお客が来て、ジョン・ドーを引き取ってくれるから。あなたたち二人は、周囲の警戒をしてほしいのよ。人が誰も、近辺に近付かないようにと。
 マダム・モーガンはこの砂漠に着く前に、ジュディス・ミルズとアレクサンダー・コルトの二人に対して、車内でそんなことを言っていた。だがマダム・モーガンは、そのカリスという客人がどんな姿をしているのかという情報は伏せていた。
 そういうわけで、ジュディス・ミルズとアレクサンダー・コルトの二人は漠然と、人間の女が来るのだろうと思っていた。なんとなく、カリスという名に女性的な響きを感じたから、そう思っただけ。白人か、黒人か、アジア人か、東洋人か、その予想はさっぱりだし、その客が女性かどうかすらも分かってない。
「ほら、ジョン・ドー。しっかり立ちなさい。私にしがみついてちゃダメでしょう」
 寝ぼけ眼のジョン・ドーの頬を、マダム・モーガンはぺちぺちと弱い力で叩く。それでもジョン・ドーのほうは、頬を叩かれる度に彼女の背中に隠れて、マダム・モーガンから離れる気配がない。
 その光景を遠巻きに見つめながら、ジュディス・ミルズとアレクサンダー・コルトの二人は同じことを思っていた。彼らの後ろは、まるで親子にそっくりだと。
「……それにしても、結局あのジョン・ドーって子の正体は分からずじまいね。彼が若返った謎も、若返った代わりに知能指数がガクンと下がった謎も、よく分からなかったし。それに今の彼はもう口すら利けないし、マダム・モーガン以外の人間は彼に触れることすらできない。彼を調べることも、血を採ることも出来なくて。仮説はあっても、確証は何も得られなかった……」
 プードルの呪縛から解放されて、素面に戻ったジュディス・ミルズは、マダム・モーガンの背中を見つめながらそんなことを言った。それに対し、アレクサンダー・コルトはこう返す。
「ジョン・ドーを初めに保護した検視官の見立てが正しけりゃ、あの子の脳味噌はぐちゃぐちゃの状態かもしれないそうだ。少なくとも前頭葉は、ズタズタに掻き乱されているか、またはかなり委縮しているか、その両方である可能性があるとな。つまり、今のあの状態が本来の姿なんだろう。彼は相当に無理していたんじゃあないのか、今まで。まあ、彼の謎はそれだけじゃないがな……」
 ジョン・ドーの謎は、あまりにも多い。そして彼の全ての正解を知るのはマダム・モーガンだけで、その彼女はそれについては口を閉ざしていた。
「あー、もう。ジョン・ドー……。そんな顔をしないで。私の傍にいるよりも、カリスの傍にいたほうがあなたは安全なのよ? 分かって頂戴な」
「…………」
「不貞腐れないで。なら、アーサーを呼ぶ? 彼との生活なんて――」
「……!!」
「彼と一緒なんて、イヤでしょう? だから、カリスと一緒に居なさい。カリスは優しいってこと、あなたも覚えてるでしょう」
「…………?」
「覚えてないの? あんれまぁ……。とにかく、カリスの傍にいれば、元老院もあなたに手は出さない。時の女神さまも、あなたがカリスの庇護の下にあるなら文句を言わないし。アーサーなんて、カリスの長い尻尾でひょいと払われちゃうから。それに私も、時間を作って必ずあなたに会いに行くわ。だからあなたはカリスと一緒に居て。ね?」
 ジョン・ドーは一切言葉を発しないのに、マダム・モーガンは彼の意思を汲みとって、ごく普通に会話をこなしている。そんな彼女の卓越したサポート力に感心する一方で、話を盗み聞いていたジュディス・ミルズとアレクサンダー・コルトは、顔を見合わせた。
 カリスの長い尻尾。マダム・モーガンが発したその言葉に、耳を疑ったのだ。
「……カリスさんって、もしかして人間じゃないの?」
 引き攣った笑みを浮かべ、ジュディス・ミルズはそう呟く。そしてアレクサンダー・コルトが空を睨んだ、そのときだった。ジュディス・ミルズが、悲鳴を上げる。
「な、な、なに、あれっ!! はぁっ?!」
 バサッ、バサッ。そんな蝙蝠が羽ばたくような音が、とんでもない大きさで迫ってきていた。そして空は明るいのに、彼らの立つ砂漠には空から影が落ちる。そしてアレクサンダー・コルトが見上げた空には、空と同じように蒼い体と翼を持つ、それは大きな大きなドラゴンが、ゆっくりと砂漠に向かって降下してきていた。
 蝙蝠のような大きな翼。クロコダイルに似た大きな顔と、アルマジロトカゲにそっくりな、とにかく巨大な体と、長い尻尾、海老のような尾ひれ。ファンタジーの世界から飛び出してきたようなそのドラゴンの姿に、ジュディス・ミルズは悲鳴を上げ、アレクサンダー・コルトは腰を抜かした。
 しかし、マダム・モーガンは動じない。それどころか、空から舞い降りた客に、彼女は友人に対してするように手を振るのだった。
「ハーイ、カリス! お久しぶり。その様子からするに、無事に体力は回復したようね!」
 想定外に、ビッグなお客。ASIから派遣された二人はすっかり、固まっていた。そして空から舞い降りたドラゴンは、そんな二人組を見て不思議そうに首をかしげる。
「モーガン。そちだけではなかったのか。して、そこの二人組は……」
「彼女たち? なんとなく連れてきたのよ。ほら、今どきの人間って神族種ってのを知らないし。本物の神の威厳ってやつを教えるには、これが絶好の機会かと思ってね」
 悪戯じみた笑顔を見せるマダム・モーガン。そんな彼女にドラゴンが向ける視線は、小さな悪戯をした子供を諌める母のようなもので――なんだかよく分からない状況に、ASIから派遣されてきた二人は混乱していた。
 そういうわけで、ジュディス・ミルズもアレクサンダー・コルトも身動きが取れないでいる。だがそんな二人をおいて、ドラゴンとマダム・モーガンの話は進んでいくのだ。
「それでは、彼を預かろう。そなたとの話はまた、邪魔者の居ない静かな別の場所でな」
「そうね、カリス。ごめんなさい。出来るだけ早くに、時間を作ってあなたに会いに行くわ。次は、連れ人なしでね。そのときの連絡は、またあの狐に頼むから」
「そういえばだ、モーガン。あの青年は、達者にやっておるのかね? ルドウィルだか、ラドウィグといった、あの……」
「ああ、ラドウィグ! 彼なら元気よ、今日も忙しく走り回ってるんじゃない?」
「そうか。実はあの青年に、話があるのだ。あの青年の人柄と実績を見込んで、我が槍を彼に貸し与えようと思うてな。次に会うときは、できればあの青年も連れてきて欲しいのだが……」
「へぇ、ラドウィグに? 事情はよくわかんないけど、分かった。次に会うときは、彼も連れて行くわ。それじゃあ……ほら、ジョン・ドー。私から離れて、あなたはカリスのところに行きなさい」
 話が一区切りついたところで、マダム・モーガンは自分に張り付いていた少年を引き?がす。そして少年の背中を押し、彼をドラゴンのほうへと歩かせた。
 人身御供でもするのか? アレクサンダー・コルトは、そう思った。明らかに嫌がっている子供の背を押して、恐ろしきドラゴンに生け贄として捧げるだなんて……とんでもない。なのにマダム・モーガンは。
「……まさかあのガキ、喰われんのか……?!」
 そんな言葉を、アレクサンダー・コルトが口走ったとき。その直後に、アレクサンダー・コルトはふと気付く。自分にはどうも、あのドラゴンに見覚えがある。彼女はそう感じたのだ。
 しかし、たしかにどこかで目撃した、というような記憶はない。だって、あんなドラゴンをどこかで見ていたのなら、忘れることなんてないはずだ。巨大な体躯に圧倒的な存在感を、忘却の彼方に置き去りにするだなんて考えられない。でも、記憶はないにも関わらず、あのドラゴンにかつてどこかで会った、どこかで見たというイメージが漠然と自分の中に、たしかに存在している。それに聞こえてきた声には、聞き覚えがあるのだ。
 まさか、夢の中で……? そんな考えが彼女の頭を過ったが、しかし馬鹿らしいとすぐに否定された。
「えっ。彼……捕食されちゃうの?」
 アレクサンダー・コルトの呟きに、ジュディス・ミルズがそう反応した時。ドラゴンのほうへと歩くジョン・ドーの様子が変わる。何かを思い出した――それも、とても大切で温かい記憶を思い出したかのような――ように、彼は怯えていた表情を解いて、ドラゴンのほうに手を伸ばしたのだ。
 すると少年の無言の呼び掛けに答えるように、ドラゴンのほうもまた、爬虫類のように鱗に覆われ、無骨な鉤爪の生えた手を伸ばし、その爪で少年の頬を撫でる。それからドラゴンは、マダム・モーガンに視線をやり、こう問いかけるのだ。「モーガンや。まさかこの少年は、またあの頃に逆戻りしているのか? おぬしが初めて彼を救い出した時の、あの状態に」
「ええ。恐らく、そう。……ボストンの地下施設に閉じ込められていた、あの頃の状態に巻き戻ってる。また全部、やり直しよ。今まで培ってきたものも、癒された傷跡も全部、リセットされたみたいだから」
「…………」
「それから最悪なことに、彼の魂は完全に失われた。ジェドが完璧に、全て食らい尽くしたのよ。だから多分、今回のような奇跡は、今後は望めないでしょうね。もう彼の中に思い出は無いし、今後は刻まれることもない。今後も彼の中にあり続けるのは、脳についた深刻な傷、トラウマの記録だけだから」
「そうか、ふむ……」
「言いたいことは、たくさんあるけど。はぁ……――とりあえず彼を宜しく頼むわ、カリス。やっぱり彼みたいなイレギュラーな存在を、人間の世界に置いておくことは出来ないから。危険が多すぎるもの」
 勝ち気な笑みを崩すマダム・モーガンは、今度は悲しそうな顔をして目を閉じ、その目を隠すようにサングラスを装着する。そしてドラゴンは少年の頬に触れた鉤爪を下に滑らせ、首筋をなぞってから少年の肩に触れると、ドラゴンはその肩を掴み、自分の許へ少年を引き寄せた。
 衝撃の捕食シーンが目の前で起こるのか。そんな風に身構えたジュディス・ミルズだったが、しかし彼女が見たのはドラゴンの固い鱗にしがみつくように、べったりとドラゴンの傍に寄る少年の姿。そして失踪していた息子の帰還を喜ぶ親のように、ジョン・ドーの肩を抱くドラゴンの姿。――恐怖の捕食シーンが、やってくる気配は全くない。
「それでは、行く。モーガン、次は」
「連れて行くのはラドウィグだけ。お邪魔虫は持ってこないわよ。……ごめんなさい」
 すると赤ん坊でも抱き上げるように、抱き寄せたジョン・ドーを持ち上げるドラゴンは、バサバサと大きな翼を羽ばたかせる。それからドラゴンはマダム・モーガンに視線を送ると、上空へと飛び上がり、蒼い空へと消えて行った。少年を連れ去って。
 わけが分からない。ASIから派遣されてきた二人は、目を点にしている。
「何が起きたの、サンドラ」
「……アタシにも、さっぱりだ」
 寒い砂漠に、女が三人だけ立っている。二人は呆然としていて、一人は暗い顔をしていた。そして暗い顔をしたマダム・モーガンは、呆然としている二人に言う。
「そこのお二人さん、シドニーに帰るわよ。付いてきなさい」
 そして、同じ頃。シドニーにある、連邦捜査局シドニー支局の地下二階、モルグ兼解剖室。そこでは呑気に欠伸をする黒スーツの男――猫目のラドウィグ――が、ニールと検視官バーニーに睨まれている。
「さぁ~ねぇ~? オレだって知りたいですよ。オレ、サンドラの姐御に避けられてんですかね? このサングラスも一ヶ月以上借りっぱなしで、姐御に返さなきゃいけないんですけど、その返すチャンスがなくて。オレも困ってるんですよ。なのに、よりにもよってポートヘッドランドに出張だなんて、ねぇ……」
 以前ニールが、アレクサンダー・コルトに誕生日プレゼントとして贈った、そこそこ値の張るティアドロップ型のサングラス。それを今、ニールの目の前で見知らぬ男が着けている。それにその男は、ASIから派遣されてきたと嘯いている。
 だが、ニールにはこの男がASIから来たと思えなかった。ニールの横に控える検視官バーニーも、同じことを考えている。だってASIのわりには、なんというか、こう……その男は雰囲気というものが、締まっていない。どちらかといえば、変わり者の化学捜査官というようなオーラすら彼は発している。
「それで、姐御っていつも連邦捜査局でどんな仕事してるんすかね? 今日だけ、アレクサンドラ・コールドウェルの代理として連邦捜査局シドニー支局に行けって、ジョンソン部長に言われたのは、まあいいんですけど。姐御の仕事って……実はよく知らないというか。あの人って本当に普段は何やってんですか? 彼女って意外とミステリアスで、よく分からないっつーか……そういえばアーチャー捜査官って、あの人の幼馴染なんでしょう?」
「えっ? あ、ああ。そうだが。しかし……」
「どうかしましたかね、アーチャー捜査官。何かオレの顔に、付いてますか?」
「君は本当に、ASIの局員なのか?」
 訝るような、ニールと検視官バーニーの目。それも、仕方なかった。それに最近のラドウィグは、こんな視線にもすっかり慣れっこになっていた。
 イザベル・クランツ高位技師官僚の警護はASIの管轄で、自分の担当ですので。――そんなことを、大統領官邸にいる要人警護チームの前でラドウィグが言うと、彼らに必ず笑われるのだ。お前みたいなノロマな顔した野郎に、イザベル・クランツ高位技師官僚が守れるのかよ、と。
 その場は笑顔でやり過ごし、心の内で舌打ちをする程度に留めているラドウィグではあるものの。彼とて人間。決して、イラついていないわけではない。
「……あー、またその台詞かぁ……」
 しかし今、相手にしているのは連邦捜査局の人間、それもあのアレクサンダー・コルトの友人ニール・アーチャー。嫌味を言ってきた要人警護チームにいつもしているような、後日トレーニングセンターに呼び出し、正攻法そして素手のみでボコボコに叩きのめしてやる……なんていう復讐は絶対にできない。
「ははは……そりゃ、そうですよね。こんなヘラヘラ笑ってるバカ面の男に、インテリジェンスなんて務まらないと思いますよね~? まあ、そりゃそうですよ。オレは潜入工作とか、尋問とか、そっち系の人間じゃないんで。オレの専門は――」
「アバロセレン工学と医学だろ。いかにも能天気ってな顔をしてるクセに、お前は意外とエリート志向だったからなぁ……」
 苛立ちを燻ぶらせながら、ラドウィグがニコニコとしていると。モルグに新しい客が来る。そして新しい客人が発した聞き覚えのある声に、ラドウィグは驚いた。そしてラドウィグが後ろに振り返ると、やはり見覚えのある顔がそこにいる。
 長身で、ソフトアフロの黒髪に、太眉と褐色の肌、アーモンド形の目。そいつはラドウィグの、大学時代の同窓生エドガルド・ベッツィーニ。
「あっ。エディ・ベッツィーニじゃん。相変わらずアフロなんだね。髪型、変えないの? オレ、スキンヘッドだったときのエディのほうが好きだったんだけどなぁ」
 そしてベッツィーニ特別捜査官は、久しぶりに見た同窓生を見るなり溜息を零して、こう言った。「嘘だろ、マジか。まさか本当に、長いこと音信不通だった同窓生に会うとは……」
「なんだよ、エディ。狐につままれたみたいな顔をしてさ」
「ルートヴィッヒ。お前が失踪したっつー噂は聞いてたが、まさかあのお前がASIに」
「今は『ラドウィグ』だよ。それから、オレの専門はボディーガード。工学と医学は趣味程度だから」
 ASIから来たという、どうにも胡散臭い若い男。そいつが意外なことに、部下と知り合いだった。……そんな奇妙な事実に、ニールは驚く。
「お前たち、知り合いなのか……?」
 親しげに話す若い男二人組を見るニールの目が、その瞬間に変わった。訝しむ目が、拍子抜けした目に変わったのだ。
 ベッツィーニ特別捜査官の、大学時代の同窓生。ということはつまり、この男は新アルフレッド・ディーキン総合大学出身のエリートということなのだろうか。となると、この男は……――
「あー、チーフ。そうなんですよ。さっきも言った通り、こいつは大学の同窓生なんです。こいつはあのペルモンド・バルロッツィに選ばれて、アルフレッド工学研究所に所属することを許された数少ない秀才の一人でしてね」
「やだなー、エディ。その言い方。やっかみ丸出しで醜いよ~?」
「こういうヤツなんですよ、チーフ。ルートヴィッヒってのは」
「ラドウィグですから。今のオレの名前は、ラドウィグです」
「なあ、ルートヴィッヒ。それよりも、その似合ってねぇサングラス、外したらどうだ。そもそも、それはアレクサンドラ・コールドウェルのサングラスじゃないのか?」
「その話、ついさっきしたばっかりなんだけど。またお前に話さなきゃいけないの?」
「なんでそう、いちいち突っかかってくるんだよ」
「そりゃこっちの台詞だよ。あー、もう。うるさいなぁ。だからお前、ペルモンド・バルロッツィにウザがられたんだ」
「なんだって?」
「あーあ、うるさい、ウザい。僻み屋ベッツィーニはこれだからイヤだなー」
 それにしてもだ。どこかでこんなシチュエーションを見たことがあると、ニールは感じていた。
「あー、はいはい。分かったよ、ベッツィーニ。とにかく二人とも落ち着け」
 失踪していた友人と数年ぶりに再会する、それもこの連邦捜査局シドニー支局で。まるでデジャヴだ。ニールはそう思ったのだ。
 すると、若い二人を宥めるニールの肩を検視官バーニーが軽く小突く。小声で検視官バーニーは、ニールに囁いた。
「どこかで見たことがあるような光景ね。そう思うでしょ、あなたも」
 そんな検視官バーニーの言葉に、ニールは苦笑いする。暗に、自分とアレクサンダー・コルトの二人のことを言われているのだと、直感で察したからだ。
 思えば一〇年ぐらい前までは、今のラドウィグとベッツィーニ特別捜査官のようにニールたちはうるさかった。顔を合わせるたびに、嫌味の応酬。ひどい罵り合いもそりゃたくさんしたし、取っ組み合いに殴り合いの喧嘩をしたこともあった。……今も、そこそこな頻度で嫌味の言い合いをしているが。
 傍から見りゃ、自分とアレックスの二人はこんな感じだったのだろうか。……ニールは、若い男二人を見つめてそう思う。ギャーギャーと、くだらないことでバカみたいにヒートアップして、喧嘩して。なにアホなことをしているんだ、と周囲に呆れられていたに違いない。
「ぐうの音も出ないよ、バーニー。たしかに、覚えのある光景だ」
 大学時代のことをあれこれ掘り返して、くだらない言い争いを続ける若い男二人。彼らを宥めることを諦めたニールは、検視官バーニーの言葉にそう返す。
 すると検視官バーニーは、何かを思いついたようにラドウィグの顔を凝視した――職務中の常例である、無表情な冷たい瞳で。それから検視官バーニーは、マスクで隠れた口で、ボソボソとこんなことを言う。
「……そうか、だからASIから彼が送り込まれて来たのか。次の世代のアーチャー・アンド・コールドウェルが必要になるから、新しいコンビの試験運用みたいな? なるほどね……」
 検視官バーニーの言いぐさは、まるでニールかアレクサンダー・コルトのどちらかが、現役を退くかのようなもの。ニールはそんな検視官バーニーの言葉に違和感を覚えて、即座に反論する。何故ならば、彼自身には現役を退く意思など微塵もないからであり、つい昨日も顔を会わせたアレクサンダー・コルトからも、そんな気配は感じられなかったからだ。
「なんの話だ、バーニー。俺はまだ、現役だぞ? 結婚生活からは卒業したが、連邦捜査局を辞めるつもりは――」
「あら、アーチャー。まだあなたの耳に届いてないのね?」
「何がだ?」
「連邦捜査局シドニー支局、次の支局長に、あなたが異例の大抜擢で選ばれたっていう話を。リリー・フォスターが翌月末で辞職する意向を固めたから、その後釜にあなたが選ばれたんだけど。あら~、そうなの。知らなかったのね、あなた。可哀想に……」
 ――……?!
「私はてっきりフォスターの後任は、繰り上がりで副支局長のジム・ランドールになるものだと思ってたんだけど。キャンベラ本部のお偉方は、あなたを選んだらしいわ。まあ要するにあなたは“身代わりの山羊(スケープゴート)”に選ばれたのよ。つまりシドニー支局は今後も予算が増えることはなく、設備が新しくなることもない。悲しいものよね。古い人間の私でさえクソ古いと感じる設備を、若い世代がまだ使っていかなきゃいけないんですもの。大都会シドニーにありながらも、西側の田舎よりも古臭い、化石みたいな設備しかないだなんて。どうかしてるわ、連邦捜査局ってのは……」
 青天の霹靂。まさに、そう喩えるに相応しい状況が今、唐突にニールの目の前には表れた。
 検視官バーニーがさらりと放った大ニュースに、ただただニールは愕然とする。ニールは検視官バーニーの言葉が大嘘であってほしいと願ったが、しかしニールは知っている。バーニー・ヴィンソンという人物が、人を脅かすためだけに詰まらない嘘を吐くような、下らない人間ではないということを。
 開いた口が塞がらない。そんな状態のニールの手を、検視官バーニーは冷たい手で包む。そして検視官バーニーは、どこまでも残酷な言葉をニールに掛けるのだった。
「昇進ご愁傷様、ニール・アーチャー。あなたにはどうやら、ノエミ・セディージョと同じ未来が約束されたみたいよ」
「えつ……――えぇぇっ?!」
 連邦捜査局シドニー支局の、支局長の椅子。あそこは呪われているんだという噂が、今では世間でも、連邦捜査局内でも、すっかり定説になっていた。なので昇進、それもユニットチーフからの大躍進となれば……何かしらの陰謀が裏で働いているとしか言いようがない。なので『おめでとう』ではなく、『ご愁傷さま』なのだ。
 残念ながら、ニールに待っているのは輝かしい栄誉ではない。毒と茨だらけの呪われた道なのだ。
 そして最後は、前支局長ノエミ・セディージョと同じ。いいようにこき使われて、使い捨てのボールペンみたくポイッと捨てられるのだ。
 それも、いわれなき不名誉というゴミも背中に付けられて。
「まあ、でも、まだ猶予はあるわ。だから十分に考えることね、アーチャー。セディージョと同じ道を往くか、昇進のオファーと共にバッジを捨てて三流探偵になったトーマス・ベネットと同じ道に堕ちるかを」
「トーマス・ベネット? 聞いたことがあるかもしれない名前だが……そりゃ、誰だ?」
「バーソロミュー・ブラッドフォード事件で手柄を上げた結果、辞職した元捜査官。当時、あなたと同じ立場にあった人よ。彼は今のあなたと同じだし、ノエミ・セディージョと同じでもある。前ASI長官トラヴィス・ハイドンは今のアレックスちゃんと同じで、パトリック・ラーナーと同じだった。脈々と続く因習……とでもいうのかしらね? ASIとうちの連携を円滑に行うための犠牲ってとこかしら」
「ハハハ。それじゃ、時代ごとに二匹のヤギが必ず居たってことか? ……それが俺だったのか?!」
 ニールは荒野にひとり放たれ、捨てられた“身代わりの山羊”なのだ。そして対となるアレクサンダー・コルトは、死神に捧げられたという自分の役目をとっくに果たした“生贄の山羊”。
 死神から解放されたアレクサンダー・コルトは、少なからず制限はあるもの、それなりに自由な身であるといえるだろう。だが、ニールは? その真反対だ。
「……俺はまだ、現場で働きたかったのに……」
 なんてこったい、どうしたもんだか。心の中でニールはボヤく。だが検視官バーニーが伝えてくれるニュースは、それだけでは終わらない。
「あつ、そうそう。私も三ヶ月後に連邦捜査局を辞めるのよ。半年後にはロンドンに移って、あっちで犯罪多発地域シドニー流の検死解剖メソッドを伝授して回る仕事に就く予定でね。ダヴェンポートも試験に合格して、助手から検視官に昇格したし。ギムレットも監察医免許を取得して、検死解剖を行える資格を得たからね。私もようやく安心して、引退できる」
 なんと、あの仕事人間である検視官バーニーが突然の引退を伝えてきたのだ。ニールはまた、腰を抜かさずにはいられない。
「はっ?! えぇぇっ!? ば、バーンハード・ヴィンソンが居ないシドニー支局なんて、俺には考えられないんだが? いや、俺が支局長のシドニー支局のほうが、もっと考えられないか……」
「大丈夫よ、なんとかなるわ。あなたには、アレックスちゃんっていう影が居るし」
「アレックスは案外頼りにならないよ」
「昔のノエミ・セディージョも今のあなたと同じことを言ってたわ。『私が支局長なんて無理、考えられない』とか『パトリックなんて頼りにならない、ASIなんて信用できない!』とか。けど彼女だって十分、立派にやってたでしょ? だから、あなただって大丈夫よ」
 検視官バーニーはきっと、励ましの言葉を掛けてくれているのだろう。しかし無表情な彼の顔を見てしまうと、ニールはその言葉を励ましてくれているのだとは素直に受け取ることができない。ましてや、偉大な先達の昔話を引き合いにだされてしまうと……尚更に、ニールはプレッシャーを感じざるを得なくなるのだ。
 連邦捜査局の特別捜査官といえば、大抵は元警官とか元検事補とか、そういうところから移ってきた人間ばかり。そうではない、俗にいう『生え抜き』の人間ならば、ベッツィーニ特別捜査官のように名門校出身の超エリートばかりだ。ニールのように、貧乏高校のアホ学生から運だけでホイホイとのし上がった人間なんて、まず存在しない。「……俺は、そういう器じゃないんだけどなぁ」
「アーチャー。もう決まったことなんだから、うじうじしてたって仕方ないでしょ。受け入れなさいな。あなたなら大丈夫だから、きっと」
「…………」
「まあ、現場の捜査官からすりゃ、息苦しさしかないリリー・フォスターの圧政から解放されるのなら、後任なんて正直誰だっていいのよ。なにも気負うことなんてないわ。それに、あなたに過度な期待を抱く人なんて、まず居ないでしょう。けど皆、あなたが後任に選ばれて喜んでるわよ。お人好しのアーチャーなら何を言ったって怒られない、ってね。――モルグには捜査官がひっきりなしに来るから、その手の世間話とか愚痴とかはよく聞かされるのよ」
「それが本音か、バーニー……」
「下手に励ますよりも、あなたは突き放したほうが良いかと思っただけよ~? 誰にも期待されてないって思ってたほうが、シドニー支局長の役ってのは楽に務まると私は思うけどねぇ。無理のない範囲で最善を尽くせばいいだけの話だし。あなたはそこらへん、要領がいいから。フォスターよりもずっと適任だと私は思うけど」
 ただでさえニールは、異例中の異例。それにニール自身、こんなことになるだなんて予想もしていなかったし、願ってもいなかった。
 連邦捜査局の特別捜査官になんか、自分がなりたくてなったわけじゃ決してない。なのに、支局長をやれだって? ――「ふざけるな!」と怒鳴り散らしたいのが、彼の本音である。
 それに実はも何も、ニールは最近「離婚したし、そろそろ連邦捜査局も辞めようかな~」なんてことを漠然と考え始めていた。それから彼は、子供の頃から続く夢であるベーカリーでも開こうかと本気で計画していた。アーチャー家の家宝である、バターたっぷりのテーブルロールを焼いて、それを売って、食べたひとに笑顔になってもらう日々を思い描いていた。……なのに!! その計画も全てぶち壊しである。
 支局長なんて、イヤだ! やりたくねぇよ、そんな呪いみたいな仕事なんて!!
「……俺は、特別捜査官になりたくてなったわけじゃないんだ、バーニー。俺がなりたかったのはベイカーなんだ。欲しかったのは特別捜査官のバッジじゃなくて、パンを焼く窯だったのに……!」
「人生なんてそんなもの。私だって、そうよ。別に監察医になんかなりたくてなったわけじゃ……――え?」
「――俺は悪人をとっ捕まえる人生よりも、パンを焼く人生を送りたかったんだ」
「あら~……――そうだったの? けど部下の前では、その台詞は言わないほうがいいわねぇ。それと……ロンドンに発つ前に一度は、あなたの焼いたパンを食べてみたいかも」
「任せとけ、バーニー。俺が唯一、胸を張って自慢できるのは、テーブルロールを焼く腕だけだから……」
「そんな悲しいこと言わないで、アーチャー。あなたにはもっと、他にも魅力があるわよ」
 すっかり肩を落とすニール。その背中を、無表情の検視官バーニーは氷のように冷たい手で優しく撫でるのだった。
 それから検視官バーニーは、ラテックス製のゴム手袋をサッと素早く両手に嵌めると、その手をパンッと叩いて鳴らす。突然鳴った、そこそこ大きな音にラドウィグとベッツィーニ特別捜査官はビクッと肩を震わせ、両者ともに口を噤んだ。そして若い男二人が黙るのを確認すると、検視官バーニーは大声で言った。
「ベッツィーニと、お喋りなそこの彼! 私には仕事があるの、喧嘩は地上のフロアでやってくれないかしら?」
「いや、バーニー。俺はアンタに用があって来たんだけど」
「あら、そうなの? だとしてもね、ベッツィーニ。ギムレットか、ダヴェンポートのところに行って。今はアーチャー特別捜査官と話してたの、だからあなたは後よ」
「バーニー?!」
「うるさいわね、ベッツィーニ。私は、忙しいのよ!! それにここは死者の部屋、うるさい喧嘩は余所でやりなさい!!」


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