ディープ・スロート
//スローター

ep.02 - To tear a body limb from limb.

 シドニー市内、某所。相対的貧困層が多く住まう、薄汚れた住宅街の一角。じめじめとした建物の陰にひっそりと設けられたゴミ捨て場に、近隣住民からの通報を受けた市警察は駆けつけていた。
 鑑識課のイライアス・イーモン・ハウエルズは、現場の様子をカメラで撮影し、写真に収めながら、小さな声で呟く。そんな彼は、被害者の悲惨な有様に心を痛めていた。
「壊された車椅子に、破壊された左右の義足と、右の義手。唯一、本物だった左腕も根元から切り落とされて、近くに捨てられた……」
 ゴミ捨て場に、ばらばらにされた子供の死体が棄てられている。通報は、そのような内容だった。
「……これは十二歳かそこらの子供にやるような仕打ちなのか? あまりにも惨過ぎる……」
 その被害者は、十歳か十二歳くらいの少年のようにも見えていた。
 遺体には四肢がなく、首には気管を塞ぐように、刃渡り十五センチのナイフが突き刺さっていた。それもナイフは同じ場所に二度刺されたようだ。
 一度目のナイフで被害者は、気管を真正面から突くように刺され、すぐに引き抜かれたらしい。そうして血液が気管から肺に流れ込み、しばらく悶え苦しんだ末に、窒息死したとみられる。二度目のナイフは、ただの飾り。被害者が息絶えてから犯人が再び刺したのだろう。
 そして被害者には死化粧が施されていた。
「エイミー。この被害者を、どう思う」
「ハウエルズ主任。どう思うって聞かれましても……返答に困るというか、その。不自然なぐらい綺麗な状態のご遺体だなぁと……」
「ああ。たしかに綺麗なご遺体だよ、皮肉にも。だが問題はそこじゃない」
「……ええ、そうですね」
 無残な殺された方をしたわりには、被害者の状態は実に美しいものだった。
 首を切られたのだから、口からも首からも血が溢れていたはず。しかし、それも綺麗に拭き取られていた。切断された左腕の付け根にも、生前に止血処理が施された後がある。それにゴミ捨て場の周囲には血だまりもない。被害者はここで殺害されていない、ということは見ればすぐに分かった。
 それと被害者の性別は男性だが、その見た目は“ゴシックロリータ”というものに扮していた。
 黒髪ロングヘアーのウィッグに、デコルテのあいた黒と白のフリルのドレス。真っ白に塗りたくられたファンデーションに、長い付けまつげと、綺麗に整えられた細眉、鮮血のように赤いルージュ。ファンデーションの具合から見て、どれも死後に施されたものだろう。
 そして被害者の鎖骨には、唇に塗られたものと同じと思われるルージュで、サインのようなものが書かれていた。
「レッドラム、か……」
 Redrum(レッドラム)
 殺人を意味する英単語“Murder”の回文だ。もしこれが犯人のサインだとしたら……――月並みなセンスであると言わざるを得ないだろう。だが、これは注目すべき特徴的なサインだ。犯人の特定に一役買う可能性がある。
「被害者は首を刺されている。気管と外頸動脈を損傷し、外頸動脈から出た血液が気管に流れ込み、窒息死した。しかし周囲には頸動脈を傷つけられた際に見られる飛沫血痕がない。……被害者は、ここではない別の場所で殺されたと私は考えているが。エイミー、異論はないか」
「ああ、そういうことですか。ええ、主任。異論はありません。けど、そうだとしたら別の問題が出てきますね」
「被害者はどこで殺され、どうやってここに運び込まれたのか」
「このゴミ捨て場を撮影している監視カメラが、そこにありますし。管理会社を探して、私が映像を確認してきますね……」
 エイミーと呼ばれていた鑑識課のひとりが、暗い顔で現場を立ち去っていく。すると入れ違うように市警の警部補が、イライアス・イーモン・ハウエルズのもとに来た。
「おお、ケイレブか。そんな深刻そうな顔をして、どうしたんだい」
 カメラで現場を撮影する作業を続けながら、イライアス・イーモン・ハウエルズは、やって来た警部補に声を掛ける。
 すると表情を強張らせた警部補は、イライアス・イーモン・ハウエルズに告げた。「連邦捜査局が来るぞ。この事件の捜査権は彼らに移った。引き継ぎをする用意をしてくれ」
「連邦捜査局? またどうしてだ」
「……理由なら、この被害者に訊いてくれ」
「被害者? この少年は何か重要人物だったのか?」
 警部補は腕を組み、イライアス・イーモン・ハウエルズをじっと見る。しかしイライアス・イーモン・ハウエルズは首を傾げるばかり。何故なら被害者の身元を証明するような遺物が、今のところひとつも出ていなかったからだ。
 そして警部補は、イライアス・イーモン・ハウエルズに言った。
「被害者は少年じゃない。性腺機能障害がどうたらで、子供のように見えるだけらしい。この見た目で、年齢は四十八だそうだ。そして被害者はASIの局員、それもアバロセレン犯罪を取り締まる界隈で、かなりの重鎮らしいという噂だ。あの世紀の大天才、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚と繋がっているとかでな」
「……なんだと? じゃあ彼は」
「パトリック・ラーナー次長。かの有名な“仔猫の悪魔”だよ」





「仔猫の悪魔、か。うーん、なんというか。たしかにパトリック・ラーナーっていう人物は、腹黒の仔猫っぽい雰囲気はあったが。もっと他に何か、別の言葉とか無かったのか?」
 特命課の狭苦しいオフィスの中。連邦捜査局の検視官が持ってきた検死報告書に目を通しながら、ニールはナイフを研ぐコールドウェルに視線を送る。すると視線に気づいたコールドウェルは、ニールを睨む。それからコールドウェルは、ニールに言った。
「なぜアンタは、アタシを見てくるんだい」
「いや、お前なら何か知ってるかなって、そう思っただけだよ。だって“仔猫の悪魔”ってさ、センス皆無だと思わねぇか? こんな変なあだ名を考えたやつが誰かなんて俺は知らねぇけど……」
「そのあだ名は検事局が付けたやつだ。検事局ってのは、そういうセンスが無いからな。あだ名付けは記者連中のほうが良くも悪くも上手い。……それに次長のあだ名なら、他にもあったさ」
「へー。たとえば?」
 興味本位の問いかけ。するとコールドウェルのきつい表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。昔のことや噂話を思い出して、緊張が少しだけ緩んだようだ。それから彼女はこう答えた。
「ASI局内で次長は『姫』や『ジゴロ』と呼ばれていたって聞いたよ。コードネームではなく、あだ名として」
「へぇ。またどうして、姫なんだ?」
「彼は、とにかくチヤホヤされてたからな。けれど面倒見も良くて、部下からも慕われてたらしいぜ。局内には親衛隊も居たと聞いてる」
「親衛隊が居たのか……?!」
「ああ」
「じゃあ、ジゴロってのは?」
「そのままの意味だ。ラーナー次長は目的のためなら、プライドも羞恥心もかなぐり捨てるような手段を選ばない人だったからな……」
「えっと、つまり?」
「ラーナー次長は情報と引き換えに春をひさいだり、鞭を振ってたらしいぞ」

  ピコン。
 【唐突過ぎる、衝撃の事実!】
  ピコン。
 【インパクトの強過ぎる情報に頭がパンクし、
 頭の中が真っ白になった!】
 バァンッ!
 【ニールの精神に、四〇パーセントのダメージ!】

「彼のコードネームは『クイーン』だっていうウワサだからな。その名前にひれ伏すように、情報提供者たちが次々と彼の奴隷になっていったとか、なんとか……」

 ピコン。
【しかしコールドウェルは話題を続けようとする!】

「もうその話、聞きたくない」
「だろうね。アンタは真面目だから」
 コールドウェルから注がれる、何かを試されているかのような視線。ニールはそれを躱して彼女から目を逸らすと検視報告書に視線を向けた。シドニー市警から引き継いだ資料にも、目を通す。そしてニールは片眉を上げた。
 偶然ニールの目に留まったのは、一枚の写真。女児に扮した姿で棄てられた遺体のありさまと、その鎖骨に書かれたルージュのサインだった。
「……レッドラム、か。そういや他の写真にも……」
 ファイルをぺらぺらと捲り、ニールは他の被害者の資料にも目を通す。被害者は『アバロセレン犯罪対策部に所属するASI局員』ということ以外に共通点はこれといって見当たらず、出身や年齢や人種、肌の色や髪色や身長、体格、性別もバラバラ。しかし発見時の姿や殺害方法は、どれも同じだった。
 四肢を切り落とされ、首にナイフを刺されて殺害。死化粧が施された後、人目の付く場所に棄てられる。遺棄される時は必ず、黒髪の女性の姿。女性であれば黒髪に染められ、男性であればウィッグを被せられている。服は、黒と白の可愛らしいミニドレス。大胆にデコルテが開いているもので、鎖骨には必ずルージュで“Redrum”と書かれている。
 検死報告書には同一犯による犯行ではないかと記載されており、ニールも概ね同じことを考えていた。そしてニールは言う。
「レッドラム、ねぇ。個性もクソもない、よくある署名だこと……」
 精神分析官によるプロファイリングには、犯人は白人の若い女だろうと書かれていた。また、この犯人は殺し屋である可能性が高く、何者かに依頼されてASI局員を襲っているのではないかと推測される。依頼をこなす傍らで性的欲求を満たしている――……らしい。
 精神分析官たちは一体、どうやってこういう情報を割り出しているんだか。プロファイリングの授業はあまり得意でなかったニールは、疑いを抱くように細めた目でプロファイリングの内容を読む。しかし頭の中に情報を深く刻みこむことはしない。何故なら、連邦捜査局の精神分析官はあまり役に立たないことを彼は経験から知っているからだ。
「なぁ、アレックス。お前はどう思う」
「どう思うって、何がだ」
「ほら、お前さ。あのドクター・サントスに、色々と教わってたろ」
「別に教わってはいない」
「まあ、でも、精神分析とか、少しは出来るだろ。だから、犯人についてどう思うか……」
 ドクター・サントス。ニールの口から飛び出た言葉に、コールドウェルはむっとしてみせた。
 コールドウェルは、ナイフを研ぐ手を止める。緑色の瞳がギラつく三白眼でニールを見つめるコールドウェルは、うんざりとした表情を浮かべた。それから彼女はこのように答えた。
「……犯人は、レッドラムと自称。身長はざっと一八三センチ。髪は亜麻色で、白人の女。顔は知らん。それと年は若いと思う」
「それは監視カメラの映像を見りゃわかる情報じゃないか」
「つまり、アタシにゃ何も分からんってことさ。アタシは、ドクター・サントスのような超人じゃあないんでね。どうせならキャンベラに居るカルロ・サントス本人に、捜査協力でも求めたらどうだい。パトリック・ラーナーの仇討ちとなりゃ、彼も協力してくれるだろうし」
 どこまでもやる気のないコールドウェルに、今度はニールがうんざりとした顔になる。
 オフィスに居ても、コールドウェルがやることはいつも決まっている。ダーツに、拳銃のメンテナンス、ナイフ研ぎ。たとえ仕事が回ってきたとしても、彼女は決してやる気を見せない。アタシは連邦捜査局の人間じゃないんでね。それがコールドウェルの決まり文句だ。
 昔は、そんな無責任なやつじゃなかったってのに。仏頂面のニールは学生時代のことを思い出しながら、取り戻せない時間を、道を踏み違えた過去を、選択を間違えたあの瞬間のことを嘆く。それから彼は溜息と共に思い出を振り払うと、コールドウェルに背を向けた。「……それじゃ、俺は検視官に会ってくるよ」
「検視局か。どうぞ行ってらっしゃいませ、アーチャー捜査官」
 そんな答えを返してきたコールドウェルの視線は、やはりナイフに戻っている。ニールなど見ていない。
「検視局じゃねぇよ、バーカ。この局内の、地下二階にある解剖室に行って、うち所属の検視官に会ってくるんだ。検視局には次長含めASI局員の遺体はないって、昨日お前に言っただろ?」
 最後に嫌味を残したニールはオフィスを出ると、わざと大きな音を立てて乱暴に扉を閉める。今のニールは、とにかくコールドウェルと距離を置きたかったのだ。





 連邦捜査局シドニー支局、地下二階の遺体安置所。薄暗い部屋の中には、検死台に乗せられた四人の遺体が並んでいた。
 感情を捨て去ったような冷たい目をした、さながら蝋人形のようなオーラを纏う検視官が、そのうちの一人――小柄な遺体、つまりラーナー次長――の横に立っている。検視官の邪魔にならないようにと、少し離れた場所でその様子を見守るニールは、複雑な心境でそこに佇んでいた。
 すると、蝋人形のような検視官が呟く。
「被害者には申し訳ないけど、本当に綺麗なご遺体だと思うわ。連邦捜査局に勤めて長いけど、こんな綺麗なお方、初めて見たもの。ここに運ばれてくる大半の人たちは、見るも無残な姿になってることが多いけど……――彼のような美しいご遺体は滅多にない。……不謹慎ではあるけれど、これはとても貴重な体験よ」
 しかし……――このバーンハード・“バーニー”・ヴィンソンという検視官、顔はどこまでも無表情なのに声色は実に表情豊かだ。それも男性であるにも関わらず、どこか女性的な喋り方をする。遺体がどうのこうのより、ニールには検視官の存在そのものが気になって仕方無かった。
 その奇妙な検視官はピンセットを使って、対峙している遺体から付けまつげを丁寧に外していく。検視官は外した付けまつげをポリ袋に入れると、遺体をまじまじと見つめながら、無表情で感嘆の声を洩らした。
「同一犯のはずなのに。殺された他のASI局員たちと比べると、彼の扱いは少し違っているようね。まるで、なんていうか……執着のようなものを感じる。他のご遺体の化粧は雑だったのに、彼の化粧だけは繊細ね。どうしてなのかしら。それにルージュのサインも、彼に書かれたものだけはとても丁寧」
「……化粧?」
 ニールは検視官の言葉に首を傾げる。ニールにはどの遺体にも、同じような化粧が施されているようにしか見えなかったからだ。
 細く整えられた三日月眉。末広がりな形で、濃くはっきりと塗られた黒のアイライン。林檎の皮のように鮮やかな赤色に、きらきらと輝くラメが入ったアイシャドウ。中世ヨーロッパの貴族の女性たちのように、気味が悪いほど真っ白なファンデーション。それと潰した石榴から滴る汁のように紅い口紅。そういった大雑把な特徴は、どの遺体にも共通していた。だからこそ化粧とは縁のない男であるニールには、どれも同じに見えていたのだ。
 すると無表情の検視官が振り向き、光が差していない死んだ魚のような目でニールを見る。マスクに隠れて口元は見えなかったが、検視官の薄気味悪い目は何やらもの言いたげだった。
 そして検視官は、呆れたような口調で言う。
「ラーナー次長、彼だけ丁寧にお化粧が施されている。けれど他のご遺体はどれも乱雑。ファンデーションもムラがある。アイラインは適当に引いたものね。それから次長以外のご遺体は、どれも左右非対称でバラつきがあるもの。口紅の形も統一感がないし、お世辞にも綺麗だとは言えないわ。化粧の初心者が見よう見まねでやったメイクという印象を受ける。けれども次長のメイクだけは違う。技術が神がかっているわ。まるで最前線で活躍するプロ並みの腕。時間も掛かったでしょうね、きっと」
「そうなんですか。……俺にはサッパリ理解できない領域ですよ。気付きませんでした」
「私は仕事柄、死化粧を施すことがあるから。ご遺体に敬意の無い死化粧はすぐに分かる。次長以外の方は整えるための死化粧というより、尊厳の凌辱に等しい。まあ、この犯行そのものがそもそも尊厳を凌辱しているのだけれど。他の方々はかなり軽視されているとでもいうのかしらね」
「なるほど……」
「それで。私はプロファイラーじゃないけど、この犯人は次長にだけ特別な思い入れ、ないし異常な執着があったのだと考えている。そうじゃなきゃ、こんなに綺麗で手の込んだことをできないわよ……」
 そう言うと検視官は、ニールからラーナー次長の遺体へと視線を戻した。それから検視官はゴム手袋をはめた手で、遺体の頬を見惚れているかのように優しく撫でると、続けて柔い頬をプニプニと指先で押す。ニールはその光景を黙って見ていた。
 ――と、そのとき検視官の動きが止まった。検視官は死んだ目で、遺体の顔をまじまじと見つめている。そして首を四五度ほど右に傾けさせた。
「……」
 どうしたのだろうか。黙って見つめるニールも、首をまた傾げさせた。すると検視官が動き出す。検視官は採血用のシリンジを手に取ると、ラーナー次長の遺体の右鎖骨に細い針を刺す。それから検視官は遺体から血を採り始めた。やがてシリンジが満タンになり、検視官は針を抜く。
 検視官は凍りついた目で、採取した血液を見ていた。そして検視官は小さな声で呟く。
「……おかしいと思ったのよ。死後四日も経っているのに腐敗が全く進んでいないと思ったら。やっぱり、これの仕業か。なるほどね。だから、アレクサンドラちゃんの居る特命課に管轄が移ったわけだわ。セディージョもとい長官の判断は正しいわね……」
 注射器の中にたぷたぷと満ちた血液は、まだ赤い。それでいて、僅かに光り輝いているようにも見えていた。
 すると検視官が振り向き、またニールを見る。検視官は注射器の中の血液をニールに見せつけながら、彼はこう言った。
「血液にアバロセレンが混じっている。けれどこの混ざり方は私も初めて見るものだわ。アバロセレン光で被曝状態になったアバロセレン技士のものとは、また違うわね。まるで血液中に直接、液化アバロセレンが注入されたような、そんな感じなのよ」
 こりゃ思っていた以上に厄介な事件になりそうね。無表情の検視官は他人事のようにフフッと笑う。対するニールは、血の気が引いて行くのを感じていた。


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