ディープ・スロート
//スローター

ep.09 - Deformity is truth, truth deformity.

 人の気配がない、真夜中のキャンベラ市街地、その裏道。じめじめとしていて、真っ暗で、道幅は細く一方通行。一度入り込んでしまえば、なかなか抜けられない迷路のような場所に、車椅子で侵入していた無謀な男が居た。
 そして、車椅子を背後から追うものが居た。
『……おい、ラーナー。殺されたくなけりゃ、今晩は外出するなと言っただろう。何故、お前はあの精神科医に会ったんだ』
 裏通りの暗闇の中から、大きな黒い影が地面から這い出る。その影は、車椅子の背中に人語で話しかけていた。しかし影の姿は、人のそれとは異なっている。それはまるで大きな狼のかたちをしていた。
 そして狼が言葉を発した途端、車椅子の男は止まった。それから車椅子の男は振り返ることなく、狼に言葉を返した。
『お久しぶりですね、黒狼ジェドさん。その様子じゃ、肉体はどこかに置いて来てしまったようで。また高位技師官僚はどこかで行き倒れているのですか?』
『ペルモンドのことなど今はどうだっていい。それより答えるんだ、ラーナー。なぜこのような無謀な真似を』
 車椅子の男が発した誤魔化すような言葉を強引に躱す狼は、改めて車椅子の男を問い詰める。すると男は正直に、本当のところを白状するのだった。『最も付き合いの古い友人に、最期の別れを告げたかっただけですよ』
『……まさか、お前は』
『待ちくたびれていたんです、ずっと。そしてやっと訪れた絶好の機会。これを逃さないわけにはいかないでしょう?』
『残念ながら、それは俺からすれば理解に苦しむ心理だ。まっ、ペルモンドなら多少の理解を示しただろう。似た者同士だしな、お前たち……』
 未来の全てを知る、黒狼ジェド。特務機関WACEや、元老院と呼ばれる存在と関わったことがあるものなら、誰もがその存在を少しは知っている。それは車椅子の男、パトリック・ラーナーとて例外では無かった。そしてパトリック・ラーナーはよく知っていた。黒狼の預言の不吉さを。そして黒狼の預言がいかに当たるかを。
 というのも、数か月ほど前だ。この黒狼はパトリック・ラーナーの前に現れていた。そのときに、この狼は彼に告げた。彼を蝕む病魔の存在と、彼の命が尽きる日、それと彼の巻き添えを食うかたちで同僚が三人も殺されることを。そして狼が告げた命が尽きる日が、まさに今日この夜。カルロ・サントス医師に誘われ、イタリアンバルでの会食を終えた一時間後。チェーンソーを持った栗色の髪の女に襲われ、殺される。狼はその預言と共に、役に立たない助言を残して、あの日は去って行った。
『だが、未来は絶対じゃあない。行動次第で幾らでも変えることができる。覆すことも可能だ』
 しかし狼の助言とは裏腹に、預言は何もかもが当たっていった。癌の存在も、同僚が三人も殺されたことも、カルロ・サントス医師が連絡を寄越してきた時間も、指定された店も、何もかもが預言の通りに進んでいった。
 だからこそ、その中でパトリック・ラーナーは受け入れてしまったのだ。預言は覆せない。そう遠くない未来に訪れるという死を、受け入れるしかないのだと。
 それに彼自身、それが本望だった。そうなって欲しいと、望んでいたのた。
『黒狼さん。あなたのお気持ちは嬉しいっちゃ嬉しいんですが、それでも』
『それ以上は言うな。聞きたくもない』
『そうですか。なら、今のは忘れて下さい』
『……ラーナー』
『何でしょうか?』
『お前ってヤツは、どこまでも周囲の者を狂わせる。あの真っ白な双子の姉妹よりも、お前のほうが魔性だ。精神科医に連邦捜査局の捜査官、ASIに特務機関WACE、それと重大犯罪者、そして元老院のデボラまで混乱させ、この俺の計画まで掻き回した』
『あだ名はジゴロ、コードネームはクイーンですから。誘惑なんて朝飯前ですよ』
『……相棒よりも、よほど恐ろしい。だがそれでも、キミアの恩寵を受けた信天翁(あほうどり)の死神には勝てまい』
『アホウドリの死神? なんですか、それは』
『おっと、先走っちまったな』
『不思議なことを言う方ですねぇ、相変わらず』
『とにかく、だ。俺が言いてぇのはただ一つ。お前のその選択は、この世で一番怒らせちゃぁいけねぇやつの怒りを買うことになる。それでも、構わないのか? 戻るなら今しかないぞ』
『どっちにしろ、私は死ぬんですから。死後のことなんて、どうでもいいですよ』
『……死んだあとこそ、一番恐ろしいんだろうが。それこそ死神の領域だぞ』
 蠢く影は、その体をぶるりと震わせる。影の狼はパトリック・ラーナーの傍にのそのそと歩み寄ってきた。そして狼は車椅子の前に立つと、地中から何かを引っ張り出す。
 アスファルトで舗装された道がまるで水になってしまったかのように泡立ち、ぶくぶくと音を立てる。やがて泡の中からは鉄の塊が顔を出した。そして鉄の塊がその全貌を露わにすると、アスファルトは何事もなかったかのように固くなり、元通りになった。
 狼は出てきた鉄の塊を鼻面でツンツンと突く。拾え、と無言でパトリック・ラーナーに促していた。
『ペルモンドから盗んできた銃だ。俺からの餞別だと思って受け取りやがれ』
 狼はそう言うと、路地裏の影に溶けるように消えていく。
『…………』
 パトリック・ラーナーの前に残されたのは、自動拳銃だった。
 目を凝らし、彼はその拳銃を見る。そして銃身の両サイドにあしらわれたニシキヘビの柄を確認すると、地面に手を伸ばし、それを拾って、自身の動かぬ大腿の上に置いた。
 そんな彼の表情は、ほんの少しだけ綻んでいた。そして彼は小声で呟く。
『……きっとアレクサンダーがこれを見たら大喜びするのでしょうね。その顔を見れないのは、少し……――』
 言葉は途中で途切れ、代わりに周囲に響き渡るのは女の笑い声。水でびしょびしょに濡れたタオルで口と鼻を覆われ、彼の気道は塞がれる。酸欠で意識を失くし、体の自由を奪われるまでに、そこまでの時間は必要にならなかった。





 “厄介なガキ”ことエイド改めアストレアを、精神科医宅の保育所に預けたコールドウェルは、その足で仕事に出向いていた。
「ハハッ! おい、ランドール! 見ろよ、これ。すっげぇ代物だぜ!」
 ポート・ジャクソン、旧シドニー港にある製紙工場跡。レッドラム事件において、全ての被害者が惨たらしく殺された現場。そこに現在コールドウェルのお目付け役をしている連邦捜査局の特別捜査官、ジェームズ・ランドールも居た。
 そんな彼の目に映るコールドウェルは、何故だか興奮気味。ジェームズ・ランドールは不謹慎だと眉間に皺を寄せた。
「騒ぐな、エージェント・コールドウェル。ここは人が殺された現場なんだぞ? 死者に対して失礼じゃないのか」
「へぇ……。ランドール、アンタは意外と霊魂とか信じるタイプか?」
「いいや、信じていない。人間は死んだら灰になるだけだ。霊魂やら何やらって言うのは、人間がそうであってほしいと信じていたいからこそ、生まれた妄想だろう。それで今のは、アレだ。ほら、生前の尊厳とか、そういう……――とにかく、そういうのだ」
「説明が下手糞だねぇ、アンタ。十二歳のスピーチのほうがよっぽどマシだよ」
「……」
「おっと、傷つけちまったか。四十二のオッサンのくせに、ティーンエイジャーばりにナイーヴだなー」
「エージェント・コールドウェル。お前は二十七の小娘のくせに、六〇歳すぎの幹部のように偉そうだ」
「アタシの組織は連邦捜査局と違い、色々と自由なんでね」
「そうだろうな。フリーダムすぎる、悪い意味で。……はぁ。アーチャーはよくこんなのを毎日相手にしていて、正気でいられるな……」
「聞こえているんですけれどもー、ランドール特別捜査官ー?」
 連邦捜査局の者が現場に来ておれど、しかしこの場の捜査を取り仕切っているわけではない。また、監督をしているわけでもない。あくまで監督権を持っているのは、同じくこの場に来ていたイライアス・イーモン・ハウエルズ率いるシドニー市警の鑑識課だ。
 大きな道具を脇に携え、よく分からない最新鋭の機材を片手に、鑑識課の者たちは現場に睨みを利かせている。ある者は床を、ある者は窓ガラスを、ある者は停止して久しい工場の機械を……。謎の液体を霧吹きで吹きかけて、紫外線らしきライトで照らして、血痕がどうのと彼らは調べている。そしてジェームズ・ランドールらには分からぬ、科学者の言語で彼らの会話は進んでいた。
 要するに、ジェームズ・ランドールとコールドウェルは暇をしていたのだ。
「……それで。何を見つけたんだ、コールドウェル」
 腕を組み、眉間に皺を寄せているジェームズ・ランドールは、コールドウェルを冷めた目で見つめながら訊ねる。するとコールドウェルは珍しく喜々と目を輝かせ、ゴム手袋をはめた両手で持っていたものを、ジェームズ・ランドールに見せてきた。
 その手に握られていたのは、拳銃だった。しかし被害者の誰にも、銃で撃たれた形跡はなかった。凶器で無いことは明らかだが、きっと証拠品として鑑識課が押収することになるだろう。
 なので、鑑識課に取り上げられ、二度と拝めなくなる前に。コールドウェルは手にした拳銃をじっくり観察していたわけである。
「ランドール。これが何だか分かるか?」
「自動拳銃だな。九ミリ口径のようだが」
「自動拳銃で九ミリだってのは見りゃわかる。違う、そこじゃない」
 そこじゃない、と言われても。銃火器に然程関心がなく、携帯している拳銃も局から支給されたものを使っているジェームズ・ランドールには、コールドウェルが何に興奮しているのかが理解出来ない。
 ――実は、この死神と呼ばれる女。精密射撃の腕前もさることながら、銃火器マニアとしても連邦捜査局内では有名だった。
「俺にも分かるように説明してくれないか、エージェント・コールドウェル」
 銃火器のこととなれば、この女の興奮は止まらない。ジェームズ・ランドールはその拳銃に興味があるわけでは無かったが、ここでコールドウェルを邪険に扱うことが出来なかったため、とりあえず話を聞くことにする。
 不機嫌になったコールドウェルの辛辣な言葉を延々と突きつけられるよりも、退屈な話を聞かされる方がマシだったからだ。
 そうしてジェームズ・ランドールが説明を促せば、コールドウェルはその拳銃に就いて饒舌に語りだした。
「こいつは通称『パイソン・ガン』と呼ばれている拳銃だ。銃身の両サイドにプリントされた、ニシキヘビみたいな迷彩柄からそう呼ばれている。とはいえ、パイソン・ガン自体はなんら珍しいものでもないんだ。なにせ要人警護部隊の標準装備は、このパイソン・ガン。その中でもダブルアクション、シングルアクションが両方可能な、ロット・ダブルなんだ」
「ロット・ダブル? 聞いたこともない名前だな」
「そりゃそうだろうよ。ロット・ダブルってのは、アタシら銃火器マニアの間でしか通じない愛称だ。連邦捜査局と空軍が使っている拳銃『ベルガー9M4H2』なら、バーグ・エアフォース。ASIが使っている『ゴルゴーン11LG』なら、ゴーグ・イレヴン。んで」
「あー、ロット・ダブルってのが愛称だっていうことは分かった。それで、正式名称は何だ?」
「軍需企業スプリングフィールド・テクノロジーズが製造していて、その中でも唯一、設計者の名前が付けられている拳銃の名前は?」
「スプリングフィールド・テクノロジーズは知っているが、そこの会社が出している銃の銘柄を俺が知っているわけがないだろう」
「アンタ、本当に捜査官か?」
 銃身にあしらわれたニシキヘビの柄を、愛おしそうに撫でるコールドウェルは、呆れた顔でジェームズ・ランドールを見つめていた。そして彼女はようやく、出し渋っていた答えを言う。
「要人警護部隊の標準装備であるロット・ダブルの正式名称は、ヴァルロッツィ2S9MPV。そしてこの拳銃は、通称ロット・ワンズ。この世に三丁しか存在しない、幻のプロトタイプ。シングルアクションオンリーの、線条痕を弾丸に残さない警官泣かせの厄介な代物。ヴァルロッツィ1S9MPVだ」
「ヴァルロッツィってのは、あの……」
「二十数年ほど行方不明になっている、あの軍事防衛部門の高位技師官僚だよ。ペルモンド・バルロッツィ、彼こそがこの銃の製作者だ。そしてこのロット・ワンズは、彼がまだ生きているということを示す証拠品。ハハッ、笑えるねぇ」
「何が、笑えるんだ?」
 ジェームズ・ランドールは眉間に刻んだ皺を、更に濃くさせる。対するコールドウェルは、笑い皺を作っていた。そしてコールドウェルは言う。
「だって、いよいよキナくさくなってきたじゃないか。ASI局員を殺したのは行方不明の高位技師官僚って線も浮上してきたんだよ? まっ、あの人がASI局員を、ひいては都合のいい使いっぱしりだったラーナー次長を殺すたぁ思えないが、犯行の場面を目撃していたって可能性は十分にあり得るわけだ。こりゃ本格的に、連邦捜査局は彼を探し出さなきゃならない羽目になるかもよ」
「バルロッツィ高位技師官僚を探す? ハッ、それこそ馬鹿らしい。既に死んでいるかもしれない人物を探すなんて、そんな阿呆なことが」
 そんな阿呆なことが、現実に起こり得るわけがない。ジェームズ・ランドールはそう言いかけたが、その言葉を途中で呑み込む。口角が引き攣っているかのようなコールドウェルの奇妙な笑みに、得体の知れない恐怖を感じたからだ。
 そんな奇妙な笑みを浮かべるコールドウェルは、緑色の三白眼でジェームズ・ランドールを見つめる。口元にこそ笑みは浮かんでいたが、その目はまるで笑っていなかった。そして彼女はこう言う。「あの高位技師官僚が死んでいると思い込んでいる方が、馬鹿らしいよ」
「……本気で言っているのか?」
「ああ、本気で言っている。彼が、大人しく野垂れ死んでいるとアンタは思っているのかい? アタシゃそうだとは思えないね」
「だが、彼とこのレッドラム事件、何が関係しているというんだ」
「密接に関係しているさ。その繋がりは、表の世界に生きている連中の目には見えないだけでな」
 そんな台詞を言った途端、コールドウェルの顔から奇妙な笑みが消える。かわりに彼女の顔に現れたのは、緊張に満ちた険しい表情だった。
「ランドール、アンタには分からない。そして、アンタは一生分からなくていい。知らなくていいこともあるんだよ、この世には。将来を思うなら、この件にはあまり深入りしないほうがいい。どうせアンタは、ニールが休暇を取得している間だけのお目付け役でしかないんだから」
 アレクサンドラ・コールドウェルは、二十七歳の小娘。そうであるはずなのに。
 ジェームズ・ランドールは己の目を疑い、そして彼女の瞳孔の奥に潜む闇から、深く昏い裏の世界を垣間見る。三十路にも達していない若い女が利かせた凄みに、ジェームズ・ランドールは言葉を失っていた。





 陽も傾きを見せた午後六時。カルロ・サントス医師宅のゲストルーム。そこに置かれたベッドでは、昨日の夜に十分眠ることが出来なかった子供がすやすやと寝息を立てていた。
 人工物、ヒューマノイドのたぐいだとはとても思えないその寝顔を確認したカルロ・サントス医師は、静かにゲストルームを立ち去る。そして彼が向かったのは、ゲストルームのすぐ向かいにあるリビングルーム。部屋の中央に置かれた机の上には、五冊の古びた手帳と一冊の古い手記が広げられていた。
「…………」
 机に広げられた計六冊の本たちは、一〇日ほど前に死神と自称した黒衣の男から手渡されたものだった。
 その死神は、枯草色の髪をしていた。また、死神は目元を真黒のサングラスで隠していた。そして死神は、しわの無い真っ白なワイシャツをカチッと着ていて、真っ黒な背広をぴっちりと着こなし、黒いネクタイを小洒落た風に巻いていた。その出で立ちは、噂に聞く謎の特務機関にそっくり。そしてアレクサンドラ・コールドウェルという偽名を使う女に通ずるものを、その死神は持っていた。
 そして死神は言った。これらは君の友人、パトリック・ラーナーから託されたものだ、と。死神が言うには、死の間際に友人から伝言を受け取ったらしい。
 カルロ・サントス医師は死神を不審に思いながらも、遺品であるその手帳を受け取ってしまった。不安や警戒心はあったものの、長年の友人であるパトリック・ラーナーがそう望んでいたのであれば叶えるしかないと、そう思ってしまったからだ。
 そうしてカルロ・サントス医師が手帳を受け取ると、死神は煙のように消えてしまった。そして彼は、友人であるノエミ・セディージョ支局長から聞かされたことがある名前を、その瞬間に思い出した。
 謎の特務機関の長、神出鬼没のサー・アーサー。
「……フッ、死神か。黙示録の死神と違い、骸骨頭でもなければ白馬にも乗っていなかったな……」
 そんなことを呟きながら、カルロ・サントス医師は⑤と銘打たれた手帳に手を伸ばし、手帳を開く。既に中身は読み終えていたが、もう一度読み返そうと思ったのだ。
 この手帳は五〇年以上前に亡くなった、ブリジット・エローラという名の女性の日記だ。彼女はアルストグランとは異なる別の国にて活躍していた精神科医で、この手帳は彼女がその短い生涯の中で観察し続けた、興味深い複雑な症例の記録である。これは彼女の配偶者であり、災厄の大天才と呼ばれた男との日々を記録した日記帳なのだ。――その内容の信憑性はさておき。
 カルロ・サントス医師が、この日記帳を初めて見たのは約二〇年前。パトリック・ラーナーが、何かの拍子で偶然手に入れたという手帳を、本人から強引に取り上げて読んだのが全ての始まり。以降、この手帳は度々彼の人生に接触してきている。
「……」
 ①から⑤までの、計五冊の日記。精神科医ブリジット・エローラが、災厄の大天才ペルモンド・バルロッツィと過ごした約一〇年間が記録されている。彼女が彼と出会った日から、彼女が殺される前日までの記録が、この日記には遺されていた。
 日記の中身は、基本的には大天才の観察日誌。ブリジット・エローラ医師の所見は、カルロ・サントス医師からすれば的外れにも程があるように感じられるものばかりだが、とはいえこの日記帳は、読み返す度に新たな発見を彼に与えてくれる。
 そして彼が開くのは、五冊目の日記。日記を記した人物が最期に記した文章だ。
「……魂、か……」
 彼は、普通の人間ではない。それは決して、病気や障害であるという意味じゃない。とにかく彼は、普通とは異なっているのだ。
 きっと、彼の中には二つの“魂”のようなものが混在しているのだろう。ひとつは私がよく知っている“ペルモンド”。そしてもう一つは、彼が鏡を覗くと現れる緑色の目をした存在。狼やジェドなど複数の名前を名乗っている存在だ。
「……オカルト万歳。あぁ、そうだよな。俺だって、そりゃ知ってたさ。だってあのとき、エズラ・ホフマンっつー化け物を俺は追っていたわけだ。あれはたしかに、化け物だった。そう、この世には人知を超えたものが存在する。だが……」
 だが“ペルモンド”は、間違いなく解離性同一性障害を起こしている。それは間違いのない事実だと思われる。
 “ペルモンド”の中には「本当の彼: 本名の人格(私は未だに、彼の本名を知らない)」を隠すように、いくつかの人格が存在している。それが今まで、私の目にフィルターを掛けていたのだ。
 まずは、私がよく知っている「ペルモンド・バルロッツィ(これは偽名であり、決して彼の本名ではない)」。これが現状における彼の主人格であり、あらゆる場面に適合するサバイバーとして機能している。「ペルモンド・バルロッツィ」には十六歳以前の記憶はなく、戸籍といった過去を証明する記録すら残っていない。しかしそういった環境が、却って彼を生きやすくしているのだろう。
 そして「ペルモンド・バルロッツィ」から過去を引き出そうとすると、代わりに現れるのが「アルファルド」。この人格の出現時には、同時に昏迷が起こることが多い。この「アルファルド」は多分、ペルモンド・バルロッツィという人格が発現するよりも前に誕生していて、催眠や洗脳などを用いて、第三者に故意に自己が歪められた際に、心が分裂して生まれた可能性が高い。
 なので「アルファルド」は基本的に、歪んだ認識から自身の過去を語る。その言葉は歪んだ理解から出てくる言葉であるため、その信ぴょう性は疑われる(ペルモンド・バルロッツィが語る過去と、矛盾していることが多い。多分、ペルモンド・バルロッツィが語った過去のほうが、事実なのだと思われる)。更に「アルファルド」は強い自責の念を持っていて、それが理解を歪める一端を担っているのかもしれない。特に家族の死に関しては、ペルモンド・バルロッツィと発言に矛盾が生じている(ペルモンド・バルロッツィは、家族は目の前で無残に殺されたが、自分は見ていることしか出来ず、助けられなかったと悔やんでいる。対してアルファルドは、家族は自分が殺したと思い込んでいるようだ。その歪んだ認識も、やはり自責の念からくるものなのだろう)。
 そして「本当の彼」。長年連れ添った私も、その姿は数えるほどしか見たことがない。「本当の彼」は自分のことをペルモンドという名前ではないと言い張るが、しかし本名を私に教えることは一度も無かった。
「本当の彼」はペルモンド・バルロッツィとは比べ物にならないほど、気配りの利く最高のジェントルマン。だがその表情はいつも、静かに死を待つ捨てられた老犬のようだった。ひどく傷つけられた心優しい男性、そんな印象。だからきっと、彼は壊れてしまったのだろう。そして悪魔のような性格のペルモンド・バルロッツィが誕生してしまったのだ。

 ……それでも私は、ペルモンドを愛している。だから今、私は何をどうすればいいのかが分からないのだ。
 この感情を、現時点での答えを、どう受け止めればいいのかが、自分でもまだ分かっていない。
 私は、どうすればいいの?

「……頭では、分かっているんだ。だが、認めたくないんだよ。まるで理不尽なこの答えを、認めたくなど……」

 ――……話が逸れた。本題に戻しましょう。
 とにかく彼の一番の問題は、彼の中にあるもう一つの存在なのだ。
 もう一つの存在の、暫定の名前は「ジェド」。「ジェド」はペルモンドが鏡を見ると、時々出現する。そして出現すると瞳の色が、蒼から緑に変わるのだ。
 何故、鏡がトリガーになっているのか。その理由は私には分からない。けれども以前からペルモンドは、鏡を見ることを過剰に嫌っていた(自宅にある全ての鏡を、入居した日に破壊するくらいには大嫌いだ)。もしかするとペルモンドは、漠然とジェドの存在を知っているのかもしれない。だがペルモンドが、ジェドと記憶を共有しているということはなさそうだ(しかしジェドのほうは、ペルモンドの全てを彼以上に把握している。ジェドはペルモンドの過去をすべて知っているようなことを仄めかしているし、彼の好みや性格も私以上に理解していた。恐ろしい)。
 そして「ジェド」は時々、好んで「アルファルド」の名前を騙る。どうやら「ジェド」にとってその名前は、思い入れのあるものようだ。……その理由は、一切明かしてくれないのだが。だが「ジェド」と「アルファルド」は同一の人格ではないように思える。
 どちらにせよ、この「ジェド」という存在は極めて危険だ。その性格はペルモンドの比ではないほど凶暴で攻撃的、そして何事においても節操がない。本能のままに行動する、我儘な野獣のような存在だ。そして「ジェド」は鏡を通して表層に出てきたとき、その瞬間のことを「(ペルモンドの)体を支配した」または「奪い取った」と表現する。ペルモンドが持つ交代人格は、そのようなことは決して口にしないことから考えるに、この「ジェド」という存在が特異であることが伺える。それに多重人格の患者を私はそれなりに診てきたが、ジェドというのはどの症例にも当てはまらない。医療では太刀打ちできない、凶悪な魔物のように思えるのだ。まるで悪魔憑きだ。
 この「ジェド」というものに対し、私は幾つもの対処法を試してきた。対話や頓服、その他諸々。しかし他の交代人格に効果はあれど、この「ジェド」にだけは一切効かなかったのだ。寧ろジェドは表層に出てくる度に、その力を強めているようにさえ思える。そうしてペルモンドの、主に「本当の彼」が蝕まれ、食い潰されているように感じられるのだ。それに最近は、主人格であるペルモンド・バルロッツィのほうにも影響を及ぼしているようにも見える。ジェドが出てくる度に、ペルモンドは少しずつ憔悴しているし、その言動がジェドに寄っていくのだ。また、彼は以前と比べると痩せたように感じるし、見るからに疲れがたまっているように思える。
 ジェドへの対処法は、今のところひとつだけ。彼に鏡を見せないこと。それしかないのだ。
 でも、これがいつまで続くことやら。彼の中から、ジェドを追い出す方法は何かないのだろうか。私に一体、何が出来るのだろうか……。

「……人間の技術では、どうにもできない敵。そんなものが存在するなど、誰が認められるものか……――!」
 ブリジット・エローラ医師が、最後に出した答え。それは、ひとりの人の体に二つの異なる魂が混在しているというものだった。
 悪魔憑きと誤解された精神病なら、医療は有効だ。しかし本物の悪魔憑きであれば、医療は手の施しようがない。つまり、そういうことだ。人間の限界で、超神秘の分野。文明人が馬鹿にして敬遠するオカルトなのだ。
 カルロ・サントス医師も、このオカルトやら何やらという分野は大嫌いだった。フィクションなら笑い話だが、それらが現実に存在しているなど……――認めたくもなかったのだ。
「……エズラ・ホフマン……」
 何かを確かめようとして、カルロ・サントス医師は前にもこの手帳を開いた。そして何度も何度も読み返し、何度も何度も同じ答えに至る。この日記を記した女性と同じ答えと壁に、彼もぶつかり当たるのだ。
 自分には何も出来やしないのだ、と。
「クソッ。……まったく、この世はどうなってるんだ。パトリック、お前は何を知っていたから、エズラ・ホフマンなんていう化け物の怒りを買った? 二〇年前も、つい最近も。何故あいつばかりが、散々な目に……」
「ドクター・サントス?」
 苛立ちに身を任せ、カルロ・サントス医師が握りしめた拳でテーブルを強く叩いたとき。同時に、背後から子供の声――けだるそうな顔をしたアストレアの、小さな声――が聞こえてきた。名前を呼ばれたことで、カルロ・サントス医師は思案の渦から現実に戻ってくる。アストレアのほうに振り向いた彼は、『五〇歳間近の疲れて草臥れた中年ジジィ』から『笑顔が胡散臭い精神科医カルロ・サントス』に顔を切り換えていた。
「あぁ、エイド……――じゃなくて、アストレアくん。起こしてしまったかな?」
「……うんと、その。独り言が聞こえたから、どうしたのかなって」
 うっ、子供に聞かれていたのか。あの情けない、独り言を……。
 後悔と恥と緊張から、胃と食道の結合部が収縮し、キリリッと痛むのをカルロ・サントス医師は感じた。しかし痛みに見て見ぬふりをし、普段通りの笑顔を浮かべる。するとアストレアは彼の顔を覗き込むように見て、首を傾げさせた。それからアストレアという子供は言う。
「アイリーンが、前に言ってた。独り言と寝言をよく言う人は、すごく疲れてる。だからそういう人からはお仕事を取り上げて、休ませてあげなきゃいけないって」
「もし私の心配をしてくれているなら、その気持ちだけを受け取っておくよ。ありがとう、アストレアくん。しかし私の独り言は、大昔から続くただの癖なんだ。考え事をしていると、その考えていることが口からそのまま出てしまう……というだけでね。私は、大丈夫だ。気にしないでくれ、心配には及ばんよ」
「あぁ、うん。そうなんだ……」
 にこにこと笑うカルロ・サントス医師を、アストレアという子供は疑うような目で見つめている。カルロ・サントス医師は冷や汗を掻いていた。意外にもこの子供が鋭い観察眼を持っていたことに、少しだけ焦りや畏怖を感じていた。
 この子が、ただの子供なら。カルロ・サントス医師は今頃、将来勇猛な人材を見つけたと心の中でガッツポーズを決めていただろう。だが、この子供は普通ではない。人工的に作られた機械人形らしいと、そう言われているからだ。
 しかし……カルロ・サントス医師にはどうにも疑問に思えてならない。この子供は本当に機械なのか、と。
「それより、だ。君のほうはどうなんだい、アストレア。君は寝ている間に、随分とひどく魘されていたようだが……」
 機械は、食事をして排泄をするのだろうか。この子は今朝、カルロ・サントス医師が即席で作ったフレンチトーストを美味しそうに頬張っていたし。その数時間後には、トイレにも行っていた。
「うなされてた?」
「ああ。アレックスが、どうたらこうたらー……と言っていたね」
「あっ、アレックス! うん、アレックスの夢を見た」
 それから機械は、眠るのだろうか。この子は昼の十時手前に、ゲストルームのベッドで眠りについた。そして睡眠中には、レム睡眠があった。寝ている間に眼球が素早く動き続ける、すなわち夢を見ていることを意味する現象が起きていたのだ。つまりこの子は夢を見ていたと推測される。
「その夢は、どんな内容だったか。覚えている限りでいいから、訊かせてもらえないかな」
「あの、その、夢っていうか、一昨日の夜に本当にあったこと。連邦捜査局っていうところに居たとき、アレックスが電話で誰かと話してて。電話の相手の人は多分、男の人。ニールって人だと思う。それでアレックスは、おめでとう、良かったじゃないか、って言いながら、泣いてたの。アレックスの声は嬉しそうだったけど、顔は悲しそうだった。だから、すごくよく覚えてて……」
「あの強情っぱりな彼女が? ……いや、待てよ。アーチャー捜査官の婚約者が臨月の妊婦だとかなんとかと、ノエミが言っていたな。とすると、無事に出産したことを祝っていたんじゃ……」
 人工物であり生命が宿っていないはずの機械が、人工知能が、夢を見るのだろうか? おかしい、そんなことがあり得るはずがない。
 だとすれば、考えられることは? それはとても恐ろしい答えだ。
「アレックスは大嘘吐きだから、声は誤魔化してたけど。でもアレックス、心から喜んでて祝福してるって顔じゃなかった。電話中はずっと自分のお腹をさすってて、なんだか痛みを堪えてるって感じだった。アレックスは十年前にお腹を銃で撃たれてるってアイリーンに聞いたことがあるから、そのときの傷が痛んだのかなぁって、思った」
「お腹?」
「うん、お腹。ちょうどこの辺りって、アイリーンが言ってた」
 そう言いながらアストレアは、自分の骨盤のあたりを指で差して示す。幼い彼女は、そこにある内臓を傷つけられたという事の重大さを理解していないようだったが、決して“アレックス”ことコールドウェルの心配をしていないというわけではないようだ。
 とても機械だとは思えないアストレアの振る舞いと、そのアストレアが見たという重たい内容の夢の話。流石のカルロ・サントス医師も笑顔を維持できず、表情が強張る。
 すると、そのとき。カルロ・サントス医師宅の玄関扉がバンバンバンッと乱暴に叩かれ、ちょうど噂をしていたコールドウェルの大声が聞こえてきた。
「園長先生ーっ、うちのせがれを迎えにきたんだけどー?」
 コールドウェルは扉をドンドンバンバンと叩くものの、インターホンを鳴らすということは一切しない。そんなコールドウェルの大声に、カルロ・サントス医師も大声で応対した。
「聞こえているよ、アレクサンダーくん。今そっちに行くから、ドアを乱暴に叩かないでくれ!」
「アタシゃ叩いてないよ、蹴ってるんだ」
「どっちにしろ止めてくれ! 壊れたらどうしてくれるんだ!?」
「この程度の衝撃で壊れるほど、現代のドアは柔くないさね。いつの時代の話をしてるんだい、ドクター」
「まったく、君は話にならん! ……今よりもずっと、高校生の頃のほうが大人びていたとは、大人の在り方として如何なんだ……?」
「聞こえてるよー、ドクター」
「……聞こえているなら、やめなさい!! 君が、そのドアを弁償してくれるんだよなァッ?!」
「するわけがねぇだろ? 早くアストレアを寄越してくれ。ほら、早く。時間が惜しいんだよ、こっちは」
「……八つ当たりってことか。はぁ、まったく……」





 コールドウェルが、奇妙な子供アストレアを迎えに行っていた夕方の六時半ごろ。
「マジ最悪、どうなってんのよ。正気じゃないわ、バカ野郎。パトリック、なんでアンタは私たちにこんな情報を隠したまま死んだのよ? 許さない、絶対に。自分がどんなことを仕出かしたか、あの男は分かってるの? ――あぁっ、もう! ムカつく!!」
 連邦捜査局シドニー支局前、関係者専用駐車場にて。そこに留まっていた一台の黒いSUV、その運転席に座っていたアイリーンは、浮かない顔をしていた。
 そんなアイリーンの膝の上に置かれていたのは、ノエミ・セディージョ支局長から渡された一機の古びたラップトップパソコン。ハッキングするまでもなく、事前に知っていたパスワードを入力し、その中身を閲覧していたアイリーンは重たい溜息を吐いていた。
 するとアイリーンの後ろ、広い車内の後部座席では何かが動く。動いたのは、三時間ほどの仮眠から目覚めたアーサーである。前方のフロントガラスと後方のリアガラスを除いた全ての窓に黒い遮光カーテンが取り付けられている車内は、時間を問わずとても暗い。その暗闇の中でアーサーの人ならざる瞳は、夜の黒く暗い海を泳ぐホタルイカのように蒼白く発光していた。
「おはよ、サー。……いや、こんばんはが正解かな」
 苛立ち交じりの乱暴な口調でそう言ったアイリーンは後ろを向くと、フロントガラスから差し込む夕日に目を細めるアーサーに、彼のサングラスを手渡した。吸血鬼よりも陽光に弱いアーサーは、受け取ったサングラスをすぐに装着する――彼にとって眩しい光は天敵で、光を軽減してくれるこのサングラスが無ければ、日中は何も見ることが叶わないのだ。
 いつもすまないね、アイリーン。不機嫌そうに唇をあひるのように尖らせたアイリーンに、疲れ切った顔のアーサーは上辺だけの優しい声で言葉を掛ける。すると突然、アイリーンはアーサーに自動拳銃を突き付けてきた。
 ……といっても自動拳銃は、シドニー市警のロゴが印刷されたポリ袋に入れられていたのだが。
「サー、見て。これが何を意味するのか、あなたは勿論分かるでしょう」
「……自動拳銃のようだな。だが、これが何だと言うんだ?」
 拳銃入りのポリ袋を受け取ったアーサーは、サングラスの下で目を凝らす。サングラスをしていても光が飛んで見える視界では、銃のフォルムしか確認することができない。細部が見えないため、アイリーンが何を言いたいのかが分からなかった。
 アーサーから期待していたリアクションが得られなかったアイリーンは、また溜息を漏らす。彼女は呆れたと言いたげな声色で、それは丁寧な解説を始めた。
「これは今朝、シドニー市警の鑑識課と共に、例の事件の実況見分に今更ながらあたっていた我らがアレックスちゃんが、こそっと現場から盗んできた銃なの。これは銃身のサイドにあるニシキヘビの模様から、通称パイソン・ガンと呼ばれているもの。その中でもこれは」
「もしかしてだが、それはロット・ワンズか? 試作品の」
「イエス、サー。これの名前は、ヴァルロッツィ1S9MPV。制作した銃工が持っていたが盗まれてしまったものと、会社の倉庫に保管されているもの、それと設計者自身が一番初めに作った、本当に本当の試作品。その三丁しか存在しないとされる、幻のロット・ワンズ。その中でもこれは、銃工が持ってたけど盗まれたってブツね。そんで銃火器マニアの噂によると、この銃は順繰り巡って最終的に設計者の許に渡ったとされている。つまり~……――?」
「猟犬が、一枚噛んでいるのか……」
「正解、大正解~。猟犬こと、現在行方不明になっているペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚。彼はやっぱりコソコソと裏で活動してましたー! ……これ、マジで最悪な展開よ。やっぱりなぁ、って思ったけど。でも本音を言うと、あの人にはささっと死んでもらいたい。なんで野垂れ死んでないんだろ。だってアレックスちゃんの件であの人と揉めたとき、サーがあんなにもギッタギタに刺して刺して刺しまくったじゃん。なのに、どうして!」
「あれは焼却炉にぶち込んでも、灰の中から蘇るんだろう? 生憎、私は不死鳥の殺し方を知らない。だから手の打ちようがないな」
「ねぇー、諦めないで。サーが無理だって開き直っちゃったらさあ、私、どうすりゃいいのよ。誰がジャスパーとチェンの仇を取るの? ねぇ、ねー?」
 ASI局員ジェイコヴ・パテル氏が殺害されたという噂を耳にしたときから、アーサーは出来れば聞きたくない腐れ縁の名前がいずれ浮上するであろうことを覚悟していた。
 ペルモンド・バルロッツィ。かつての盟友であり、今の仇であるその名前。やはり、その名前は連邦捜査局の捜査線上に浮上してきたようだ。
「しかしだ、アイリーン。あれの娘が殺害され、その死体の一部が公園で発見されてから十年が経つ。それ以来、あれの消息は不明で、表に出てくることは一度もなかったはずだ。我々でさえ、あれの動向の全ては掴めていない。にも関わらず、急に――」
「って、思うでしょ? でも、事実は違った。私たちは、彼の行動を見落としていただけ。なぜなら、彼の行動を唯一把握していた人物が、死ぬまでそのことを白状しなかったからよ」
「……それは、どういうことだ」
 不穏なアイリーンの言葉に、アーサーは眉間に皺を寄せる。アーサーは後部座席から助手席に移動すると、運転席に座るアイリーンの膝の上に乗ったパソコンを見つめた。するとアイリーンは、パソコンの蓋を閉じてしまう。そして彼女は話を始めた。
「このラップトップは、パトリックのものだった。そしてこの中には、つい最近まで続けられていた遣り取りの中で得た情報が保存されていた。この中にあるデータの情報源は全て、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚よ。そしてつい最近っていうのは、パトリックが死ぬ前日までって意味。彼、知ってたのよ、ずっと。だけど、私たちに何も言わなかった」
「……?!」
「きっと彼なりに確証を得てから、初めて私たちに言うつもりだったんじゃないのかなー……って思いたけどさ。どうにも、そうじゃない気がするのよ。かといって、ASIに情報を引き渡そうと考えていた、ってわけでもなさそうで。だから、その……」
 アイリーンが一瞬、黙り込んだ。そして彼女の大きな目からは、どういうわけか大粒の涙が零れ出す。アーサーがハンカチを取り出しそれを彼女に渡すと、アイリーンは更にヒートアップ。ぽつぽつと滴る程度だった涙が、とめどなく降る豪雨に移行する。それから彼女はハンカチで鼻をかみながら、半ば泣き叫ぶように話を続けた。
「だってパトリックは、このラップトップパソコンをノーイに、連邦捜査局シドニー支局長であるノーイに託すって、そう言ったんでしょう? パトリックは、この事件を人間の手に預けるつもりでいたんだよ! それに本人は事前に、自分があの日に殺されることを知っていた。だから、きっと彼に怖いものなんて無かった。だから、こんなバカみたいな真似が出来たんだよ」
「……」
「パトリックは、分かっていたはず。ノーイがこんな情報を知ってしまったら、彼女は使命感を感じて絶対に動くって! それも大規模に。連邦捜査局だけじゃなく、ASIも動員されるような規模のガサ入れが。そしたら元老院は、エズラは怒るよね? だってこんな情報が世間に知れ渡ったら、エズラは間違いなく人間世界での立場を追われ、彼が続けていた研究は一瞬で台無しになる。パトリックだって、そういう世界の構図は知ってたはずだよ。その結果に何が起こるのかって、彼には分かってたはず」
 ガサ入れ、とはつまりアバロセレン工学を専門とする研究所の中でも違法行為に及んでいる可能性がある場所に、捜査機関の鉄鎚が下るという意味だ。
 実のところ、アバロセレン工学という分野は国民に多くの利益を齎したが、多くの国民から忌み嫌われている分野であった。
 アルフテニアランドの悲劇を引き起こした、悪魔の光。そんなものを扱う業界に、良心などあるとは思えない。……それがアバロセレン工学に向けられている世間の目の実情。ゆえに、少しでもグレーな噂がその業界にあるのであれば、当局は極端な対応を取る。真偽はさて措き、とにかく潰す。それが国民の代弁者である公的機関の務めであるからだ。
 それに公的機関が最も敵に回してはいけないのは、政治家でもなく資産家でもなく、国民という大規模な個人の群れだ。その国民の支持さえ得られれば、アバロセレン工学研究所がガサ入れで全て潰れようと、彼らにはまったく関係のないことである。
 そこに、恐らく正義はない。最前線に立つ法の執行者が正義に燃えていたとしても、だ。
 まあ、ヒトの営みなどそんなもの。とはいえ問題がある。それも特務機関WACEにとっての……――というより、アーサーにとっての大問題だ。
「…………」
 仮に、アバロセレン工学研究所に捜査機関の手が及んだとして。そのとき、激しく怒り狂うであろう存在が居る。それは元老院の一柱、エズラ・ホフマンやマイケル・バートンと名乗っている存在だ。
 通称エズラと呼ばれるその存在は、邪悪な特性を持つ人間たちを良いように利用しながら、あちこちのアバロセレン工学研究所で良からぬ研究を推し進めている。それは特務機関WACEにとって周知の事実だ。アバロセレンというものを使って、原子爆弾以上に最悪な兵器の開発を進めていたり、アバロセレンから人工の生命を作ってみたりと、その悪行はとどまるところを知らない。今もどこかで、エズラの研究は進んでいるだろう。
 エズラがなぜ、そのような行動を起こしているのか。その行動原理は未だに不明だ。しかしその研究を妨害するような真似をすれば、エズラは間違いなく激怒するだろう。
 そのときに何が起こるのか。それが予想できないからこそ、エズラという存在は非常に恐ろしいのだ。ただ、多数の死傷者が出ることは間違いないといえるだろう。なぜならエズラは、人間の命など屁とも思っていないからだ。あれは、不要だと判断すれば施設ごと人間たちを吹き飛ばすぐらいのことはやる。そうして消えたのが、サンレイズ研究所という場所なのだから……。
「アイリーン、君の言う通りだ。たしかに、エズラはやってのけるだろう。敷地ひとつを吹き飛ばすぐらいなら、簡単に……」
 そして特務機関WACEは一度、エズラの逆鱗に触れた。その結果、バーソロミュー・ブラッドフォードを始めとする複数の犠牲者が出た。挙句、その騒動に巻き込まれるようなかたちでアーサーの娘テレーザも殺害されている。
 あのような事態を繰り返すわけにはいかない。少なくともアイリーンは今、そう考えていた。そしてアーサーも概ね同じ考えを持っていたが……――彼は少しだけ異なる意見も持っていた。だが、アイリーンは気付いていない。その小さな差異が、のちに大きな意見の相違に至ることを。
 そして何も気付いていないアイリーンは、アーサーに泣き言を洩らす。「パトリック。彼は、この世界を壊したかったのかな。彼は多くの人間を、惨たらしく殺したかったの? 道連れが欲しかったの?」
「…………」
「何が彼を、こんな風に変えたの? 昔は、こういった事態を避けるべく、尽力してくれるような人だったのに。やっぱり、私のせい? なにもかも、全部。私が彼をWACEに引き入れたせいで……」
「アイリーン、その口を閉じなさい。動揺から現実を見失っている今の君の言葉には、耳を貸す価値もない」
 アーサーの突き放すような冷たい言葉に、ショックを受けるアイリーンは黙り込んだ。だが彼女の涙は、止まらない。
 するとアーサーは突き放すように冷たい口調のまま、ある二人の男の名前を口にした。
「ラーナー。彼はどこまでも、ペルモンドと似ていた。それだけの話だ」
 涙を流し続けるアイリーンは、ただ黙ってアーサーの話を聞いていた。そして彼の声に混じっている静かな諦観を感じ取り、彼女は少しだけ震えていた。「……何が言いたいの、サー」
「簡単な話だよ」
 アイリーンは、アーサーとの付き合いが長い。もう三五年は行動を共にしているのだろう。だがそんな彼女でさえ、今まで一度も見たことが無かったのだ。怒りも呆れも通り越えて、何か極端な場所に至ってしまった彼の顔など。
「己の手の中にあるモノしか見えておらず、己の行動がもたらす余波を鑑みてもいなかった。ペルモンドは命令、ラーナーは身勝手な正義感。連中はそれしか見ていなかった。ただ、それだけだ」
 そしてアーサーの中で、灰色の諦観が、燃え盛る瞋恚の炎に切り替わる。彼の原動力である怒りの火室に、新たなる燃料が投入されたのだ。
「――気が変わった。デボラに、愛らしい玩具をくれてやろう」
 その瞬間、アイリーンの前からアーサーが姿を消す。彼はいつものように、煙となって消散していった。そして去り際のアーサーの顔を見てしまったアイリーンは、恐怖から固まっていた。アーサーは、笑っていたのだ。とても怒りに満ちた笑顔を彼は浮かべていた。
 やがて日は落ちて、暗くなった空には三日月が輝く。遠くの空に見える細い三日月は、まるで死神が持つ鎌の刃のように見えていた。


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