アーサーが訪れていたのは、五日前にも訪ねたデボラの仮住まい。どことも知れない亜空間に位置する、ガレージのような場所だ。朽ちることない遺体が納められた真っ白な棺は、この部屋の中央に置かれたままになっている。そして棺の周りに撒き散らされた白百合の花も、前と同じだった。
そして、この空間の主であるデボラは、突然手のひらを返したアーサーに困惑していた。
「なによ、この間は『出来ない、無理だ』の一点張りだったくせに。急に、気が変わったって。気まぐれがすぎるでしょ。アーサーって、ダァトが言ってたとおりのキチガイ野郎だったのね」
「そうか。なら、今回の提案は忘れてくれ」
「駄目ダメだめ、そんなの絶対にダメ!! やって、パトリックを生き還らせてよ。ほら、早く!」
デボラは息を荒くし、興奮していた。冷静さを欠いている状態であり、一番操りやすいコンディションにあった。ゆえにアーサーは自身に満ちた表情を浮かべる。
そんなアーサーの目には、無邪気にはしゃぐデボラの姿と、ひどく怯えた顔をした霊魂が見えていた。そして彼は霊魂に向けて言う。「……自業自得だ、愚か者」
「アーサー、何か言った?」
「いいや、何も言っていないが」
「あっ、そう? 気のせいか」
生命は通常、肉体が死んだ際にその体から魂が分離する。そして魂が特にひどく汚れておらず、強い未練や負の感情もない場合は、すぐに世界から消えてなくなるのだ。
しかしこの世には、すぐに消えてくれる霊魂もあれば、しぶとく残る霊魂もある。未練や負の感情が強ければ強いだけ、霊魂がしぶとくなり、自らの意思ではまず消えてくれなくなるのだ。それをひっ捕まえて、消し去ることが“死神”の役目。それこそが特務機関WACE以前に、アーサーという者の本来の仕事である。
「ねぇ、アーサー。でも、パトリックの魂が本当にここに来てるの? 私には何も見えないけど」
「来ているとも」
「本当に? 本当に本当に、居るの? ハッタリだったら許さないよ?」
「私がここに、彼を引きずって連れて来たんだぞ? それに居るかどうかは生き還らせればすぐに分かる」
アーサーも初めは、四人が殺害された製紙工場跡地でパトリック・ラーナーを見つけた際に、情けからひと思いに消し去ってやろうとも考えていた。虚ろな目をして地べたに倒れ込んでいる霊を、呪縛から解放してやろうと。しかし、やめたのだ。あのときは、ひとまずこの事件が全て解決してからにしようと、アーサーはそう考えていた。彼から何か情報を引き出せる可能性があるうちは、この世に留めておくことにしたのだ。
そして今、あのときにこの男を消さずにいて良かったとアーサーは心底感じていた。もし消してしまっていたのなら、デボラという呪いを彼に与えられなかったのだから。
「だが、デボラ。彼を生き返らせるにあたって、ひとつだけ条件がある」
「なに? 条件って、どんなの?」
「難しいことじゃない。彼をそこの体に引き戻した後、まず私に話をさせてくれ」
「一番最初に? えー、やだー。私が最初に、彼とお話がしたいのー」
「あぁ、そうか。なら、取引は無しだ」
「ヤダ! 分かったよ、一番はアーサーに譲る!」
「……それでよし」
デボラはたった一つの条件に不満を零しながらも、アーサーが“お気に入りの玩具”を治してくれる瞬間を、今か今かと目を輝かせて待っていた。そしてアーサーも、それは恐ろしい笑顔を浮かべていた。
アーサーは自身の足下に倒れ込んでいた霊魂の髪を引っ張り、引きずり歩く。アーサーに引きずられる彼は必死の抵抗をしていたが、アーサーという名の死神には勝てなかった。
どうして、こんなことをするんです? アーサーにしか聞こえない声が、そう語りかける。それは涙ぐんでいた声だった。平凡な倫理感の持ち主なら、思わず慈悲を与えたくなるような哀れな声だった。
しかしアーサーは動じない。怒りを原動力としている彼に泣き落としは通用しないのだ。そして凄絶な笑みを浮かべた死神は、これから処刑を行う魂に対し、皮肉なほど優しい声で語りかけた。
「パトリック・ラーナー。こうなったのは全て、君の責任だ。私は背信行為に怒っているわけではない。それは大いに結構。君が以前から我々に不信感を募らせていたことは知っているからな。また、君が私のことを『鼻持ちならない最低のクズ』やら『信用ならないコヨーテ』と裏で呼んでいたことも知っているが、それについて私は何とも思っちゃいない。しかし、だ。罪なき多くの者を、故意に危険に晒そうとした罪を許すことはできん。まあ、要するに――ざまあみろ、ということだ。恨むなら己の浅薄さを恨め」
処刑を前にした魂は、あのとき黒狼が言っていた不吉な予言を思い出す。そして黒狼が言っていた死神は、何よりも恐れていたアーサーという存在のことを指していたのだと思い知るのだった。
*
コンコンコンッ。
三回、扉がノックされる。看護師から借りた小説本をそれまで読んでいたリリー・フォスターは、本をベッドの脇に設置された机の上にそっと置いた。それからずれていた眼鏡を正し、今度は誰が病室を訪ねてきたのかと身構えた。
病室の扉がそっと開き、気まずそうにはにかむ女性が顔を出す。彼女はリリー・フォスターに、小さく手を振った。
「……おはよう、リリー。今日は起きてたのね」
「支局長?!」
「ごめんなさい、驚かせちゃったかしら」
一時は危ないと思われたものの、どうにか山を乗り越えたリリー・フォスターは、順調に回復へと向かっていた。
そのリリー・フォスターが入院していた病室を訪れたのは、シドニー支局長ノエミ・セディージョ。リリー・フォスターを危険に晒した、当の本人だった。
ノエミ・セディージョ支局長は病室の中に入ると、開けた扉を静かに閉める。それから彼女は、リリー・フォスターが横になるベッドに歩み寄りながら、こんなことを訊ねた。「それで、リリー。調子はどう?」
「傷は、まだ少し痛みます。ですが主治医が今朝、もう大丈夫だと仰っていたので、ちょうどひと安心していたところです」
「そう。それは良かったわ、本当に。……でも復帰は、三ヶ月より後になりそうね」
ベッド脇にあった椅子に、支局長はどかっと座る。お淑やかさや女性らしさなど微塵も感じられない、いつも通りのノエミ・セディージョ支局長の姿に、リリー・フォスターは少しだけ頬を綻ばせる。しかしノエミ・セディージョ支局長の顔は、いつにも増してシリアスなものだった。
「あなたが居ないと、シドニー支局は駄目よ。全然、回らない。特にアレクサンドラ・コールドウェル。もう既に彼女、好き勝手に暴れているし。やっぱりリリーが居ないとダメね……」
「そうでしょうか? エド・スミスは捜査官たちから慕われていますし、彼だけでも十分だと思うのですが……」
リリー・フォスターが、うっかり本音を漏らす。すると悲愴感溢れる表情を浮かべたノエミ・セディージョ支局長が、情けない目でリリー・フォスターを見つめてきた。
「エドは駄目よ、全然。なんてったってあの人は、放任主義なんですもの。それに、うちの捜査官たちはモチベーションが低くて優秀じゃない人材のほうが多いし、手抜きも多い。バーニーっていう諫言者がモルグに駐在してるから、辛うじて捜査官たちは背筋を正してるけれど。バーニーと顔を合わせる機会がある捜査官たちはさておき、事務方は悲惨よ。延々と終わらぬコーヒーブレイクを続けてるわ」
「……」
「挙句に、エージェント・コールドウェル。彼女みたいなトラブルメーカーには、温和なバーニーよりもビシッと厳しく言ってくれる人が必要なのよ。現に彼女、私の手に負えなくなってるもの。昨日の夜なんか、合同捜査に当たっていたシドニー市警の鑑識課から私宛てに彼女の苦情が殺到。合同捜査とは名ばかりで一切協力しなかっただろうがーだの、証拠品の拳銃が無くなっているーだの。散々よ、もう。証拠品を盗んだってどういうことなのよ、って」
「……心中お察しします」
「あの、その、急かすつもりは、ないんだけどね。でも、できればあなたには、早く復帰してもらいたいってワケなのよ。お願い、リリー。早く復帰して、ダメダメで局員にも本部にも舐められている私を助けて頂戴。うちの支局には、あなたが必要なのよ」
両手を顔の前で合わせるノエミ・セディージョ支局長の姿は、まるでリリー・フォスターという女神像に拝んでいる信徒かのよう。そんな支局長に、リリー・フォスターはほろ苦い笑みを浮かべた。
――そして、彼女たちのその遣り取りを、遠くから見ていた者が居る。
「ケケケッ。よくやったじゃねぇかェ、ジェド。奴らの計画が崩れ始めてるぜィ」
「……やっと、な。ラーナーに渡した拳銃が効いた。だが小さな一歩でしかない」
「あの女刑事は正常な道では、死ぬ予定だったんだっけかェ? それが今、生きているどころか回復しつつある。まぁヨ、たしかに小さな一歩だ。けれども、それも積み重ねりゃナンチャラ~って、なァ?」
ちょうど、リリー・フォスターが居る病室を見ることができる場所。病棟の向かいにある、古びたアパートの屋上。そこに、青白く輝く目を持つ一羽のワタリガラスと、そのワタリガラスと同じぐらい黒い毛並みをもった緑色の目を持つ狼が佇んでいた。
ケケケッと笑い、低く嗄れた声で下品に喋っているのは、ワタリガラスのほう。そして冷静に、淡々と喋っているのは狼のほうだった。そして狼は言う。
「だが油断をすると、すぐに元の道へ引きずり戻される。これからが、勝負だ」
「そんで、その鍵になるってンが、俺ちんの可愛いようで憎たらしい、あの眷属なのかェ?」
「あぁ、そうだ。アーサーがどう動くかで、今後の局面が幾らでも変容する可能性がある」
「へぇ、可能性。その言葉は、俺ちんの大好物だ。だがヨォ……――あれに任せても大丈夫かェ? 俺ちんは心配だゼ?」
心配だと言いながら、ワタリガラスはケケッとドライに笑う。たとえどう転ぼうが、それは自分の知ったことではない。ワタリガラスの乾いた笑いには、そういった意味が込められていた。
すると狼はこんなことを言う。
「キミア。あれは仮にも、お前の眷属なんだろ。もう少し信用したらどうだ?」
「ケケッ。ヤツは気まぐれがすぎる男だからヨォ。アーサーが、元老院の側に寝返る可能性だってゼロじゃあねェんだわサ。俺ちんは、もう少し見物させてもらうとするヨ。文字通り、高みの見物ってェやつだィ」
ワタリガラスは最後にそう言うと、バサバサと大きな羽を羽ばたかせて飛び去って行った。そして狼も、その身をぶるりと震わせる。誰も人間は見ていない屋上で、黒き狼は影に溶けて行った。
*
「なぁ、ルーカン。次長のコンピュータから、何か収穫はあったのか?」
どこともしれない地下空間に設けられた薄暗いオフィス、特務機関WACEの本部(仮)。浮かない顔で、古びたラップトップコンピュータを見つめていたアイリーンに、そう声を掛けてきたのは、アストレアと名を改めた子供と手を繋いで歩いていたコールドウェルだった。
するとアイリーンは返答の代わりに、重苦しい溜息を吐く。コールドウェルはおかしなアイリーンの様子に眉をひそめ、その様子を横で見ていたアストレアという子供は首を傾げさせた。すると幼いアストレアが、大人の会話に口を挿む。
「……アイリーンも、アーサーも、朝からどうしたの? 二人とも、変だよ。アーサーは、なんだかよく分からないけど、ずっと笑顔だったし。アイリーンは、ずっと暗い顔をしてる。どうして?」
「どうしてって、言われてもねー。どう言えファイルろ」
「じゃあアイリーンはどうして、ずっと溜息をついてるの?」
「うーんと、そうだなぁー。知りたくなかった事実を発掘しちゃったから、かな」
普段であれば、息もピッタリで相性も抜群なアーサーとアイリーン。しかしその二人の間に、今朝から奇妙な空気が流れているのを、コールドウェルとアストレアは感じ取っていた。なんとなく、あの二人が噛み合っていないのだ。
今朝のアーサーは、何かがおかしくなっていた。今朝の彼は異様にニコニコとしていたが、笑顔とは裏腹に凄まじい殺気を放っていたのだ。対してアイリーンは、ずっと沈んでいた。目は泣き腫らしたように赤くなっているし、いつもならバッチリとキメている化粧すら、今朝は好い加減なものだった。髪型も、普段ならポニーテールなのに、今日だけは結われることなく、そのままの状態で放置となっている。更に言うなら、寝癖も直していない。
こんなアーサーは、こんなアイリーンは、明らかに変だ。何かが、おかしい。しかし面倒臭がり屋であるコールドウェルは、気付いていながらも無視を決め込んでいた。のだが、それを今、アストレアがブチ壊した。
「知りたくなかった事実? なぁに、それ」
なんら悪意のない、実に子供らしい無邪気な質問。アイリーンはまた溜息を吐く。そして彼女は衝撃の告白を、何事も無いかのようにさらりと言った。
「ねぇー、アレックスちゃん。サンレイズ研究所って、知ってるでしょ。ざっと二十五年ぐらい前に、ある日突然白昼堂々消えてしまった、アバロセレン工学研究所のこと」
「あぁ、知ってる。あそこの跡地までアタシは、馬鹿なガキだったニールを迎えに行ったことがあるからね」
「その跡地に、今は新しいアバロセレン工学の研究所が建ってるの。カイザー・ブルーメ研究所っていうとこね。んで、そこの地下なのよ」
「……地下が、どうした?」
「エズラがあそこで、イェラ実験の続きをやってる。アバロセレンからホムンクルスを作るって、アレ。んで今は、その量産化を進める研究ね」
「あぁ、ホムンクルス。アタシがうっかり騙されちまった、あのユンとユニっていう双子のアレね。んで、その量産化。量産化……――」
「そう、量産化計画が進行中ーってわけ。凄いでしょ、ヤバいでしょ。だからなんかもう、どうでもいいって感じ。アルストグランはホムンクルスに乗っ取られて、やがて人間が居なくなるのかな。もう私、知らない。どーでもいい」
「――……量産化ァッ?!」
大声をあげて驚いたのは、コールドウェル。アストレアはコールドウェルの上げた大声に驚き、目を丸くしている。しかしアイリーンは、ほぼ無反応。だから、どうしたの。それぐらいのリアクションだった。
「いかにも、エズラがやりそうなことじゃない。ユンとユニっていう双子ちゃんのお陰で、アバロセレンから命が作れることは分かったんだもの。なら、今度はそれを安定して大量生産する方法を探すに決まってるわ」
「恐ろしいことを、これぐらい当たり前だろう的な顔で言わないでくれ! 怖いだろ!」
「ふぅーん。アレックスちゃんの怖がるツボって、そこだったんだ」
「おいおいおい。マジかよ、ルーカンさん。アンタ、本当にどうしちまったんだ?」
騒ぎ立てるコールドウェルに、悲しそうな顔をするアストレア。だが、その顔を見つめるアイリーンは何も感じていなかった。
アイリーンも、勿論理解していた。今、自分が言った情報の、ことの重大さに。しかしそれは、信じていた者に裏切られたというショックを超えるほどの出来事じゃない。想像に難くない事態であり、想定内の出来事だった。だが……。
「なら、ルーカンさんよ。我らがサー・アーサーは、今どこで何をしているんだ?」
コールドウェルはホムンクルスの話から、話題を逸らそうとしてアーサーの名前を口に出す。するとアイリーンの顔が途端に曇った。そしてアイリーンは、乱暴に言い放つ。
「サーが今どこに居るのかなんて、知りたくもない。きっと今は、ひどいことをしてるに違いないよ」
「ひどいことって、そりゃ誰にだよ? ……まさか、行方不明の高位技師官僚を見つけたのか」
「それは絶対に、違う。でも、私は知らない。知りたくもない。知ってても、言いたくない。思い出したくない。……もうとにかく、今は放っておいて! それとアレックスちゃん、頼まれていたものはあなたのデスクの上に置いておいたから。それじゃ」
アイリーンが、怒った。そして怒ったアイリーンが向かったのは、仮眠室。あとを追うことも出来ないコールドウェルとアストレアは、アイリーンの背中をただ見送ることしか出来なかった。
「どうしちゃったんだろ、アイリーン」
アストレアの無垢な瞳が、コールドウェルをじっと見つめてくる。その視線に耐えきれず、コールドウェルは目を逸らす。そして彼女が見たのは、自分のデスクの上。アイリーンが言っていた通り、コールドウェルのデスクの上にはファイルに挟まれた何かの書類が載っていた。
「……昨日の夜に、頼んだばっかりだってのに。相変わらずルーカンさんは仕事が早いねぇ。というか、早すぎる」
するとアストレアが、今度はその書類に好奇の眼差しを向けた。しかしその書類は、絶対にアストレアが見てはいけないもの。コールドウェルは慌ててファイルを回収すると、アストレアに忠告をした。
「アストレアー? そんな目をしても、この中身は読ませてあげねぇーからな。これは、アタシの仕事に関わる重要なものなんだ。おこちゃまには見せられませーん」
「分かった。見ない」
「それぐらいの年のガキにしちゃ、意外と呑み込みが早いな……」
「……命令は、絶対。逆らっちゃダメって教えられてる」
「あー、はいはい。いつものアレね。アドミニストレータが怖いんだもんねー、アンタは」
コールドウェルが馬鹿にし、からかうようなことを言うと、アストレアは機嫌を悪くしたのか、コールドウェルから離れていく。そしてアストレアが向かったのは、部屋の隅にある冷蔵庫だった。きっと小腹が空いたんだか何だかで、食べ物を漁りに行ったのだろう、とコールドウェルは見当をつける。そしてコールドウェルは手頃な場所にあった椅子に座ると、ファイルを開いた。
エズラ・ホフマンの動向についての報告。ファイルの表紙には、そんな適当過ぎる嘘が書かれている。それも、アストレアに配慮してのことだった。
「アストレア、アンタが持っているのはプリンかい? ……へぇ、いつの間にそんなものが、冷蔵庫に入っていたとは。知らなかったな……」
「アーサーが四日前に、冷蔵庫に入れたんだって。プリンと、ティラミス。それとASIのサラ・コリンズって人から、アイリーンが鯖サンドをもらったって言ってた。どっちも冷蔵庫に入ってる」
「アタシにもそのプリン、一口くれ」
「やだ」
「ハハッ。冗談だよ、真に受けるな。プリンは要らないよ、好きじゃない。だけどティラミスはアタシが貰おう」
「……」
「なんだよ、ティラミスぐらいアタシが食ったっていいだろ? 水臭いなー」
アイリーンに頼んでいたのは、アストレアの身体検査だった。というのも昨日の夕方、カルロ・サントス医師からコソッと頼まれたのだ。あの子は絶対に機械じゃない、だから調べてくれ、と。その件をコールドウェルは軽いのりでアイリーンに相談したのが、昨日の夜九時のこと。
きっとアストレアが寝ている間に、アイリーンが調べてくれたのだろう。……だとしたら、アイリーンはいつ寝たんだろうか。
そんなことを考えつつ、コールドウェルは開いていたファイルの中身を見る。そしてすぐに、閉じた。
「……さすがだねぇ、ドクター……」
「アレックス、なにか言った?」
「いいやー? ティラミスひとつも譲ってくれないなんて、アストレアちゃんは食い意地っぱりだなーって、そう言っただけさ」
「……アレックスのいじわる」
ファイルの中は要約すると、こう書かれていた。アストレアの体は、人間と同じ。しかしその脳には、何か小さな機械が埋め込まれている、と。つまり基本は人間の子供で、思考を機械によって制限されている、ということらしい。
そしてアストレアを作ったのは、高位技師官僚ではないと断言されていた。高位技師官僚が作ったのは、アストレアの脳に埋め込まれている小さな機械だけ。しかしそれも、彼がアストレアのために作ったものではなく、盗まれた彼の作品がアストレアに利用されただけ、らしい。
では、誰がアストレアを生み出したのか。その答えは、こう書かれていた。
「意地悪、か。まあ、そうだろうね」
エズラ・ホフマン。
彼は“猟犬”のスペアとして、AI:Dを作ったのだと予想される。AI:Dはパトリック・ラーナー氏を殺害と同時に、彼になり変わるように作成された。しかしその計画は、直前で頓挫。自らの作品を盗用されたことに怒りを覚えた高位技師官僚が、何らかの形で妨害したものと思われる。
そしてAI:Dは、元はごく普通の人間の女児であった可能性が高く、全身に整形が施された形跡と傷が見受けられる。額は人工骨で、頭蓋骨にボルトが複数確認された。歯は全てセラミック。目尻に切開の痕跡があり。更に指紋には改変が加えられており、情報の特定は不可能。
しかし成形前の顔をコンピューターグラフィックスで再現し、完成した図を顔認証に掛けたところ、三年前にフィッツロイで起きた未解決の誘拐事件がヒット。母親のマルシアと共に訪れた動物園ディジーワラビーランドで失踪した、当時四歳の女児アイーダに……――
「……アタシを意地悪だと感じるのも、やっぱり人間だからなのか……」
コールドウェルは途中で胸糞悪くなり、読むのをやめたのだ。これ以上、この件について考えるのをやめろ。コールドウェルの頭の中で、自分にそう暗示を掛ける声がしていた。
そしてコールドウェルは、冷蔵庫から取り出したプリンを黙々と食べているアストレアを見つめる。その姿は、ただの子供でしかない。ごく普通の女の子にしかコールドウェルには見えなかった。
「……なぁ、アストレア。ひとつ、訊いていいか」
閉じたファイルを腋に挿んだコールドウェルは、アストレアに向かって手招きをし、近くに来るように促す。するとプリンを片手に持ったアストレアが、すたすたとコールドウェルの許に歩み寄ってきた。
そしてコールドウェルは、胸ポケットに携帯していた手帳の中から一枚の写真を取り出す。目の前に来たアストレアに、その写真――ASIから拝借してきたもの。とある工作員が撮影したという、白衣姿の男性の盗撮写真――を見せた。それからコールドウェルは、アストレアに訊ねる。
「一応、確認させてくれ。……アドミニストレータは、この人か?」
コールドウェルが見せた写真に写るのは、不精髭に黒縁眼鏡の男。それは現在失踪中であるペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚を捉えた写真だった。
コールドウェルを含めたWACEの人間は、アストレアが言う“アドミニストレータ”はあの高位技師官僚に決まっている、というのを大前提に今まで話を進めてきた。それゆえ当の本人に確認したことはなかったのだ。
そしてアストレアが純粋なる機械ではないと分かった今、その大前提が正しいものであるのかどうかが疑わしくなったのだ。
「……えっと、アドミニストレータ……」
アストレアは大きな目で、写真をじっと観察する。そして首を傾げ、アストレアは言った。
「誰なの、この人。違う。アドミニストレータは、こんな人じゃなかった。こんなに痩せてないし、髭も生やしてないし、もっと若かった。ぶくぶくに太ってたもん、あの人は。肌は日焼けしてて、赤くなってた。それにあの人は、こんな見るからに怪しそうな人じゃなかった。見た目はすごく優しそうだけど、お酒が入ると人が変わって、それで……」
「分かった。この写真の眼鏡のオッサンは、アンタのアドミニストレータじゃないんだね。……じゃあ、アンタのアドミニストレータは誰? それに、そのアドミニストレータってのは、本当にアンタのアドミニストレータなのかい?」
新たに投げかけられたコールドウェルの問いに、アストレアは困惑した顔をする。それからアストレアは小さな声で、言った。
「……アドミニストレータじゃなかった、のかも。本当のアドミニストレータは、エズラだったっけ?」
「なら、アンタが今まで“管理者”だと思っていた男は誰なんだ?」
「分かんない。分からないよ、アレックス。……でも、なんだかその人がとても怖かったってことは、覚えてる。感情しか、覚えてないけど」
「分からない、か。……まっ、その件は思い出してくれた時で良いよ。急ぎの案件じゃないからね」
「……珍しい、アレックスが優しい」
「アタシゃいつでも優しいよ。何を言ってるんだい、まったく」
*
げほっ、ごほっ。誰かが咳き込む音がしていた。
「……おはよう、ラーナー。いや、時刻からして『こんばんは』か?」
白い棺の中にあった遺体の目が、カッと見開かれる。恐れに満ちたその顔を、上から愉快そうに眺めていたのは、サングラスを外していたアーサーだった。
目覚めた死体は何かを言おうとしたが、言葉が思うように音となって出てこない。代わりに出てくるのは、苦しい咳。死体は苦悶の表情を浮かべたが、アーサーは気にも留めない。アーサーは死体が来ていた上等なシャツの襟首を掴み上げ、顔に顔を近付ける。そして凄絶な笑みを浮かべて、アーサーは言った。
「おめでとう、ラーナー。不死者の仲間入りだ」
「……っ……」
「お前の命は今この瞬間から、私のものとなった。生殺与奪の権は、私が全て握っている。お前は自分の意思で死ぬことが出来なくなったというわけだ」
「…………」
「どうだ、嬉しいだろう? デボラと一生、共に居られるんだ。仮に彼女に殺されたとしても、私がお前を許さぬ限り、お前は永遠に息を吹き返し続ける。これ以上無い、最高の地獄だとは思わんかね? ……これもすべて、お前自身が選んだ道だがな」
そう言うとアーサーは襟首を掴んでいた手を離し、死体を落とす。すると後ろで様子を見ていたデボラが、悲鳴を上げた。
「アーサー、何してるの!! 私が虐める前に、虐めちゃダメ!」
「少し静かにしていてくれないか、デボラ。気が散る」
殺意に満ちたアーサーの蒼白い目が、デボラを冷徹な眼差しを送りつける。と、同時だった。アーサーの手が、再び死体の首元に近付く。そして彼は、死体の首を絞め上げた。
「アーサー! ちょっと何してんのよ、やめなさいよ!!」
じたばたと、死体は暴れ回る。そしてアーサーが手を離したのは、その十数秒後だった。解放された直後、死体は先ほどよりもひどく咳込む。それを横目で見るアーサーは、まさかの言葉を吐き捨てた。
「お前が言葉を喋れるように、その穴のあいた首と、肺に詰まっていたものを全て取り除いてやった。感謝くらいしたらどうだ、ラーナー」
死体は咳き込みながら、ゆっくりと上体を起こす。血走った大きな黒い目は、アーサーを睨みつけていた。そして死体は、震える声で呟いた。「……あなたってひとは、本当に、悪魔ですね、くッ……ぅッ――!!」
「私はアザミだ」
「……何を言って、いるんですか、あなたは。私には、さっぱり、理解……できませんよ……」
「理解など不要だ。ハナから求めていない」
「……これだから、あなたのことは、好きになれないんだ。頭のネジが、外れてやがる……!」
「今のは聞かなかったことにしてやる。――さて、ラーナー。穢れ無き心で告解し、真実を語りさえすれば、私は赦してやらなくもない。こう見えて、私はかなり寛大だ。しかし嘘偽りの言葉を騙り、欺き続けるような真似を続けるのであれば……――相応しい罰を与えよう」
青白く発光するアーサーの目が、氷のように冷めきった視線を送り付けてくる。その後ろで、自分の番が回ってくるのを待つデボラは、退屈そうに口笛で『スコットランドの花』を吹いていた。
そしてアーサーはピリピリと緊張感に満ちた声で言う。
「……ラーナー、何も言えんのかね?」
状況がまるで理解出来ない。何が、どうなってやがる。突然引き戻された世界に、息を吹き返したばかりの死体は動揺していた。そして彼は、こうも思っていた。アーサーは何故、こうも激しい怒りを自分に向けているのかと。
特務機関WACEの長、アーサー。彼の恨みを買った理由として、死体にはいくつか思い当たる節があった。まず、アーサーの許可なく勝手に死んだこと。しかしアーサーの口ぶりから察するに、その可能性は無さそうである。どうやら彼が欲しているのは、情報であるようだから。
次に思い当たるのは、“WACE関係者の特権”を利用して得た情報を、ASIに流していたこと。というのもパトリック・ラーナーという人間は、アーサーら特務機関WACEに所属する者たちを一切信用していなかったのだ――彼が手塩にかけて育成してきたコールドウェルを除いて。
ASIは「国家の脅威となるものを、全て叩き潰すこと」を目的としている組織である。しかし特務機関WACEという組織は何を目的に活動していて、最終的に何を成し遂げたいのかが常に不明だった。だからこそ、彼は特務機関WACEを信用できなかったのだ。
それに彼に給料を毎月払ってくれていたのは、他でもないASIだ。金を払ってくれる雇い主に忠誠を誓い、尽くすのは当然のことであり、ただ利用しているだけで何の見返りもない組織に捧げる忠義など、彼にはありはしなかった。
そして最後に思いつく怒りのタネは、ASIに流していた情報すべてが詰め込まれているラップトップパソコンを古巣である連邦捜査局に居る友人に預けろと書いた遺言状。遺言と言っても、二つあるうちのひとつ。ASIに保管されていた正式な書面とは違う、WACEにて保管されていた、法律上は何の効力は何もない出鱈目の書面だ。
しかしパトリック・ラーナーという男は、アーサーに嘘を吐いていた。WACEにあるものが本物であると、彼に言っていたのだ。巧妙な嘘をあれやこれやと重ね、決して真実がばれないようにカモフラージュし続けてきた。もしかするとアーサーは、それを真に受けてノエミに渡してしまい、今になって後悔しているのかもしれない。
その他、死体は思い当たる節を思い出せるだけ振り返るが、決定打となるものが浮かばない。さらに理解出来ない現在の状況――死んでいたはずなのに、息をしている今の自分。そして自分を殺した女と、アーサーが親しげに話していた姿――が頭を混乱させ、物事のジャッジが出来なくなっていた。
そして飛び出てきたのは、パトリック・ラーナーという男の常套手段。
「……それで。あなたは、何を……私から、引き出したいんです? サー、アーサー、およびエルトル考古学博士」
人を小馬鹿にするような憎たらしい笑顔を、死体は浮かべた。そして今度は死体が喋るターンが始まる。
「ルネサンス以前の……ッ、暗号解読が、専門で、いらしたんですよね? 錬金術、に、纏わ、る……人工、言語、エノク語といっ……たもの、から、遠い、遠い、大昔の時代に、扱われていた、世界各国の魔術文字、様々な言語、記号を……はァッ……併せた、特殊記法などを……ッ」
「…………」
「生前は、当時、人間になり済ましていた、悪名高きエズラ・ホフマン氏のもとで、働いていたそうじゃ、ないですか。……いや。奥様と、娘さんを、人質に取られ、仕方無っ……く、従属、していたと、言ったほうが、正しいの……ッ、でしょうか。そして、エズラ・ホフマン氏が、裏で行っていた、決して、表に出してはいけない闇帳簿や、研究データ、などを、デジタ……ルでは、解読、できない、今となっては、失われた、古典的かつ、複雑な……ぁあッ――暗号に、組み替えて、いたんですよね? それに、バルロッツィ高位技師官僚、とは、学生時代、それは、それは、深い……――」
冗長な話。これはアーサーが最も嫌うものである。すると狙った通り、アーサーは苛立ちを露わにした。そしてアーサーは単刀直入に、本題を切り出してくる。「ノエミ・セディージョにあのラップトップを渡して、お前は何をさせようとしていた?」
「あぁ……やはり、その件、でしたか……――ッ。はぁ……ということは、あの、中身を、盗み見たんですね」
「ルーカンが、な」
「……これだから、あなたたちが、嫌い、なんです。プライバシーも、へったくれもない。私、遺言状に、中身は、決して見るなと、書いたはず、なのですが」
「ノエミ・セディージョの手に委ねたあと、彼女からルーカンのもとに中を開けてほしいと要請が来た。それだけのことだ」
「ノエミが? ……あぁ、呆れた。よりにもよって、あいつを、頼るだ……ッ――なんて……」
なんだ、その話か。
死体は内心、少しだけ安堵していた。ノエミ・セディージョという女に、重要な情報が詰め込まれた機械を譲った理由は、特にやましいこともない、とても単純なものだったからだ。
しかし、アーサーは何を誤解しているのだろう? 死体を見つめてくるアーサーの目はまるで、死刑判決を食らった最悪の犯罪者を見るようなものになっている。それに死体は先ほど、アーサーの心を揺らしにかかったのだが、威風堂堂と佇む彼がダメージを負っているようには見えなかった。寧ろ小賢しい真似をする死体を、その程度のことしかできないのかと憐れんでいるようにすら見える。
虫の居所が悪い。死体はそう思った。だからこそ死体は下手な小細工はせずに、ありのままの真実とやらを語ることにした。「ノエミに、渡せと、書いた理由は、単純ですよ。彼女は、信頼できる。それだけです」
「……」
「ASIの、ほうには、バックアップの、データが、すべて、保管されて……ッ、います。私が、死んだ際には、保管、されている、それら、全ての、情報は、丸ごと、自動的に、部長の……うッ……ポール・ドノヴァンの、管理下に、置かれます。私が、最も、信頼、する、組織である、ASIは、既に、情報を、全て、掌握、している、という……ことッ……です。しかし……ASIは、その……体質ッ、から、握った情報を……独占、しがちで、独善的な……ッ……行動に、走り、やすい。そのため、他局との、連携が、行われず、あと、一歩という、とこ……ろ、で……犯人を、逃してしまったり、悪の、根源を討つ、道を、絶た……ッれて、しまうこッ……とが、ある。……あの件に、関しては、どうしても、それを、防ぎたかった。だからこそ、連邦、捜査局に、所属する彼女に、も、知らせる……べ、き……ッ……だ、と、判断、したのです。以上が――」
「本当に、それだけなのか?」
「ええ、そうです。ラップ……トップの、中身を、見たの……ッで……あれば、あの件が、イェラ実験に……続く、許さ……ッ……れ、ざる、行為で、あると……あ……ッ……あなた方も、感じた、はず。だから、です」
死体は、嘘偽りの無い心を曝け出した。しかし死体に注がれる疑いの目は、揺らぐことがない。
一体、アーサーの中で何が引っ掛かっているから、自分はこんなに疑われているのか。それを引き出すために死体は、その行為に至るに当たった考えと本音を、アーサーに向かってぶちまけることにした。
「私は、あれは、法廷の場に……持ち出さ、れるべ……き案件、だと、考えて……ッ……お、ります。それも、大陪審が、設け、られる……れ……レベルの、ものだと。その、ためには、ASIと、連邦、捜査局の、連携が、不可欠。事件を、潰して、闇に、葬り去……ぁッ……る、ことしか、能がない、あなた、では、なく……ッ……捜査機関のッ、鉄鎚と、法による、健全な、裁きが、必要……なん、です……ッ!」
するとアーサーの眉根が上がる。やはり、彼はまだ疑っているようだ。そしてアーサーは言った。「……仮に、お前の言った通りだとしよう。そのとき、お前は誰の怒りを買うことになるのかを考えなかったのか?」
「アバ、ロセレン、技士、たち、それを……牛耳って、いた、エズラ・ホフマン。彼らの、怒りを、買う……ッことに、なるのは、想定、内です。です、が……彼ら、が、どれだけ、抗い、騒ごうと、アバロセレン、を、死ぬほど、嫌う、一般市民の、大きな、声と、弾圧には、勝てない、でしょう……ゥッ。勢いを、利用、すれば、一網、打尽は、十分に、可能で、あり、それッ、に」
「エズラの怒りを買うことにより、何が起こりかねないのかを、お前は考えなかったのか? あれは、やるぞ。大殺戮を。平気な顔で。民衆を殺す可能性も十分にあり得る」
「だから、闇に、葬るん、ですか。解決、しよう、と、いう努力……ッを、せず、正体も、分からない、元老院……と、いう、謎の、存在に、よる、倫理も、道徳も、欠片も、ない、ような、蹂躙を……だ……ッ――黙って、見過ごし、それを、許せと? この星は、我々、人間の、もの、です。化け物に、支配、される、道理、なんて、ありません……しッ、彼らの、違法、行為を、見過ごす、ことも……ッ……でき、ません。彼らは、罰せ、られる、べき、存在です。そして、彼らの、行為を、助長、している、あなた方も」
「地球は本当に、人間の所有物か? 私には、そうは思えない。それに、そのような傲慢な思想を理解することが出来ないな」
死体は、アーサーの言葉に嫌悪感を示す。それは耳にたこができるほど聞かされてきた、彼ら特務機関WACEの口癖であったからだ。
元老院を怒らせてはいけない。彼は血も涙もない。怒りを買ってしまったら最後、取り返しのつかないことになる。特務機関WACEはいつも、そう言ってきた。そして起こってしまった出来事を全て闇に葬り去り、暗黙の了解を作っては緘口令を敷く。そうして幾つもの事件が、幾つもの殺人が、幾つもの名誉が、まるで無かったことのように葬られていった。
その中でパトリック・ラーナーという男は、特務機関WACEという存在に不信感を募らせていったのだ。ここには正義がない、と。
――するとアーサーは呆れたような溜息を吐く。それから彼は、呆れたとでも言いだけな声でこのように語った。
「これはコルトにも当てはまることだが……――何かを勘違いしているようだな。特務機関WACEは、正義を為すためにあるわけじゃない。特務機関WACEというのはそもそも、元老院に仕えている組織だ」
「……?!」
「そして現在における我々の主な役回りは、元老院が起こす騒動に付随して発生する犠牲を極力減らす努力をすること。それとトラブルメーカーの不死者をどうにかして殺すことだ。また、エズラが行っている行為は些か問題がありすぎるが、しかしそれを阻止することは我々の業務には含まれていない。そしてこの場合、我々が止めに入るのは貴様が企てた謀略のほうだ。多数の犠牲を払うだけの、無為な行動。それを叩きのめす。何故なら――」
するとアーサーが笑った。それは先ほどと同じ狂気に満ちた笑顔だった。そして彼は言う。
「私が仕事をしたくないからだ。霊魂を狩るにも、相当なエネルギーを消耗するのでな。貴様のように、扱いに困る死霊がわんさかと増えられては困る。……そして今も、私は力を使いたくない。先ほど貴様を生き返らせた際に、かなりの気力を消耗したからだ」
言い終えるとアーサーは、死体に背を向けた。それからアーサーは口笛を吹いていたデボラに目配せし、合図する。待ちに待ったデボラの番が回ってきたと、言葉なくして告げたのだ。
合図を受けたデボラは、喜々とした表情で立ち上がる。無邪気な笑顔を浮かべる彼女の顔に、悪意は無かった。しかし彼女が右手に握っていたナイフには、純粋に邪悪な心が詰め込まれていた。
「うふふ♪ 早速だけど……パトリック、何して遊ぶ? この間みたいに、私の許可なく勝手に死ぬことは許さないんだからねー。あはは、分かったー?」
迫りくるデボラに、死体は怯える。あれだけ散々罵っておきながら死体はアーサーの背を、慈悲を乞うように見ていた。
だがアーサーは、振り向かない。そしてアーサーは何も感じていないかのような、冷淡な口調で言う。
「かよわい仔猫のような心は悪魔のようなものに変貌していたが、根にある大正義を信じる心というエレメントは、変わらずに残っていたようだな。だが、ひとつ言っておこう。この世に、絶対に正しき正義など無い。正義という概念など、掴めば消える幻に過ぎん。故に正義を信ずる者はある種の幻想に取りつかれ、現実を見失う。やがて幻想に飲まれ、破滅の道を辿るのだ。法も正義も、所詮はカルトのようなものだよ」
「……アーサー、あなたは、どうかしてる。私が、そこまでの罪を、犯したとでも、あなたは、言うんですか?!」
「理由を挙げればきりがない。しかし、だ。一番重大なこと、それはお前が私を怒らせたという事実だ。理由はそれだけで十分かもしれないな。私は、私の手を煩わせてくれるクソったれが大嫌いなんだよ」
理不尽極まりない言葉を残し、死神は死体から離れていく。待って下さいと大声を上げる死体を無視し、アーサーは歩む速度を上げていった。
するとどこかから突然、真黒な体のワタリガラスが姿を現す。アーサーと同じ、青白く発光する不気味な目をしたワタリガラスは、ばさばさと翼を羽ばたかせ、やがてアーサーの肩に留まる。ワタリガラスはケケッと不気味に笑い、低く嗄れた声でアーサーに話しかけるのだった。
「見直したゼ、アーサー。モーガンの後任をお前ェさんに任せて正解だった。あの可愛い可愛い子猫チャンを前に動じないとは、見上げた男になったなァ。ケケッ」
「そこを退け、貴様の爪が痛い」
アーサーは肩に留まったワタリガラスを、乱暴に手で払いのける。するとワタリガラスは飛び上がり、今度はアーサーの頭の上に降り立つ。眉間に皺を寄せるアーサーは、ぶっきらぼうに言った。「それで、キミア。用件は何だ」
「おぅおぅ、ヘイヘイ、ヨォヨォ。お前ェさんは呑み込みも早くて助かるゼ」
「それで、要件は何だ」
「おぅおぅ、いつものやつヨ。ノエミ・セディージョって女が、エズラがやっているあんなこと、そんなことについて知っちまったんだろぉ? つーわけでぇヨ、あれの上司に掛け合ってくれェな。あとは、分かるだろ? デボラのあれこれも、ついでに……――なァ?」
烏はアーサーの頭の上から、彼の顔を覗き込む。そしてアーサーは、冷淡な声で静かにこう言った。
「……了解だ、すぐ片付ける」
【次話へ】
そして、この空間の主であるデボラは、突然手のひらを返したアーサーに困惑していた。
「なによ、この間は『出来ない、無理だ』の一点張りだったくせに。急に、気が変わったって。気まぐれがすぎるでしょ。アーサーって、ダァトが言ってたとおりのキチガイ野郎だったのね」
「そうか。なら、今回の提案は忘れてくれ」
「駄目ダメだめ、そんなの絶対にダメ!! やって、パトリックを生き還らせてよ。ほら、早く!」
デボラは息を荒くし、興奮していた。冷静さを欠いている状態であり、一番操りやすいコンディションにあった。ゆえにアーサーは自身に満ちた表情を浮かべる。
そんなアーサーの目には、無邪気にはしゃぐデボラの姿と、ひどく怯えた顔をした霊魂が見えていた。そして彼は霊魂に向けて言う。「……自業自得だ、愚か者」
「アーサー、何か言った?」
「いいや、何も言っていないが」
「あっ、そう? 気のせいか」
生命は通常、肉体が死んだ際にその体から魂が分離する。そして魂が特にひどく汚れておらず、強い未練や負の感情もない場合は、すぐに世界から消えてなくなるのだ。
しかしこの世には、すぐに消えてくれる霊魂もあれば、しぶとく残る霊魂もある。未練や負の感情が強ければ強いだけ、霊魂がしぶとくなり、自らの意思ではまず消えてくれなくなるのだ。それをひっ捕まえて、消し去ることが“死神”の役目。それこそが特務機関WACE以前に、アーサーという者の本来の仕事である。
「ねぇ、アーサー。でも、パトリックの魂が本当にここに来てるの? 私には何も見えないけど」
「来ているとも」
「本当に? 本当に本当に、居るの? ハッタリだったら許さないよ?」
「私がここに、彼を引きずって連れて来たんだぞ? それに居るかどうかは生き還らせればすぐに分かる」
アーサーも初めは、四人が殺害された製紙工場跡地でパトリック・ラーナーを見つけた際に、情けからひと思いに消し去ってやろうとも考えていた。虚ろな目をして地べたに倒れ込んでいる霊を、呪縛から解放してやろうと。しかし、やめたのだ。あのときは、ひとまずこの事件が全て解決してからにしようと、アーサーはそう考えていた。彼から何か情報を引き出せる可能性があるうちは、この世に留めておくことにしたのだ。
そして今、あのときにこの男を消さずにいて良かったとアーサーは心底感じていた。もし消してしまっていたのなら、デボラという呪いを彼に与えられなかったのだから。
「だが、デボラ。彼を生き返らせるにあたって、ひとつだけ条件がある」
「なに? 条件って、どんなの?」
「難しいことじゃない。彼をそこの体に引き戻した後、まず私に話をさせてくれ」
「一番最初に? えー、やだー。私が最初に、彼とお話がしたいのー」
「あぁ、そうか。なら、取引は無しだ」
「ヤダ! 分かったよ、一番はアーサーに譲る!」
「……それでよし」
デボラはたった一つの条件に不満を零しながらも、アーサーが“お気に入りの玩具”を治してくれる瞬間を、今か今かと目を輝かせて待っていた。そしてアーサーも、それは恐ろしい笑顔を浮かべていた。
アーサーは自身の足下に倒れ込んでいた霊魂の髪を引っ張り、引きずり歩く。アーサーに引きずられる彼は必死の抵抗をしていたが、アーサーという名の死神には勝てなかった。
どうして、こんなことをするんです? アーサーにしか聞こえない声が、そう語りかける。それは涙ぐんでいた声だった。平凡な倫理感の持ち主なら、思わず慈悲を与えたくなるような哀れな声だった。
しかしアーサーは動じない。怒りを原動力としている彼に泣き落としは通用しないのだ。そして凄絶な笑みを浮かべた死神は、これから処刑を行う魂に対し、皮肉なほど優しい声で語りかけた。
「パトリック・ラーナー。こうなったのは全て、君の責任だ。私は背信行為に怒っているわけではない。それは大いに結構。君が以前から我々に不信感を募らせていたことは知っているからな。また、君が私のことを『鼻持ちならない最低のクズ』やら『信用ならないコヨーテ』と裏で呼んでいたことも知っているが、それについて私は何とも思っちゃいない。しかし、だ。罪なき多くの者を、故意に危険に晒そうとした罪を許すことはできん。まあ、要するに――ざまあみろ、ということだ。恨むなら己の浅薄さを恨め」
処刑を前にした魂は、あのとき黒狼が言っていた不吉な予言を思い出す。そして黒狼が言っていた死神は、何よりも恐れていたアーサーという存在のことを指していたのだと思い知るのだった。
コンコンコンッ。
三回、扉がノックされる。看護師から借りた小説本をそれまで読んでいたリリー・フォスターは、本をベッドの脇に設置された机の上にそっと置いた。それからずれていた眼鏡を正し、今度は誰が病室を訪ねてきたのかと身構えた。
病室の扉がそっと開き、気まずそうにはにかむ女性が顔を出す。彼女はリリー・フォスターに、小さく手を振った。
「……おはよう、リリー。今日は起きてたのね」
「支局長?!」
「ごめんなさい、驚かせちゃったかしら」
一時は危ないと思われたものの、どうにか山を乗り越えたリリー・フォスターは、順調に回復へと向かっていた。
そのリリー・フォスターが入院していた病室を訪れたのは、シドニー支局長ノエミ・セディージョ。リリー・フォスターを危険に晒した、当の本人だった。
ノエミ・セディージョ支局長は病室の中に入ると、開けた扉を静かに閉める。それから彼女は、リリー・フォスターが横になるベッドに歩み寄りながら、こんなことを訊ねた。「それで、リリー。調子はどう?」
「傷は、まだ少し痛みます。ですが主治医が今朝、もう大丈夫だと仰っていたので、ちょうどひと安心していたところです」
「そう。それは良かったわ、本当に。……でも復帰は、三ヶ月より後になりそうね」
ベッド脇にあった椅子に、支局長はどかっと座る。お淑やかさや女性らしさなど微塵も感じられない、いつも通りのノエミ・セディージョ支局長の姿に、リリー・フォスターは少しだけ頬を綻ばせる。しかしノエミ・セディージョ支局長の顔は、いつにも増してシリアスなものだった。
「あなたが居ないと、シドニー支局は駄目よ。全然、回らない。特にアレクサンドラ・コールドウェル。もう既に彼女、好き勝手に暴れているし。やっぱりリリーが居ないとダメね……」
「そうでしょうか? エド・スミスは捜査官たちから慕われていますし、彼だけでも十分だと思うのですが……」
リリー・フォスターが、うっかり本音を漏らす。すると悲愴感溢れる表情を浮かべたノエミ・セディージョ支局長が、情けない目でリリー・フォスターを見つめてきた。
「エドは駄目よ、全然。なんてったってあの人は、放任主義なんですもの。それに、うちの捜査官たちはモチベーションが低くて優秀じゃない人材のほうが多いし、手抜きも多い。バーニーっていう諫言者がモルグに駐在してるから、辛うじて捜査官たちは背筋を正してるけれど。バーニーと顔を合わせる機会がある捜査官たちはさておき、事務方は悲惨よ。延々と終わらぬコーヒーブレイクを続けてるわ」
「……」
「挙句に、エージェント・コールドウェル。彼女みたいなトラブルメーカーには、温和なバーニーよりもビシッと厳しく言ってくれる人が必要なのよ。現に彼女、私の手に負えなくなってるもの。昨日の夜なんか、合同捜査に当たっていたシドニー市警の鑑識課から私宛てに彼女の苦情が殺到。合同捜査とは名ばかりで一切協力しなかっただろうがーだの、証拠品の拳銃が無くなっているーだの。散々よ、もう。証拠品を盗んだってどういうことなのよ、って」
「……心中お察しします」
「あの、その、急かすつもりは、ないんだけどね。でも、できればあなたには、早く復帰してもらいたいってワケなのよ。お願い、リリー。早く復帰して、ダメダメで局員にも本部にも舐められている私を助けて頂戴。うちの支局には、あなたが必要なのよ」
両手を顔の前で合わせるノエミ・セディージョ支局長の姿は、まるでリリー・フォスターという女神像に拝んでいる信徒かのよう。そんな支局長に、リリー・フォスターはほろ苦い笑みを浮かべた。
――そして、彼女たちのその遣り取りを、遠くから見ていた者が居る。
「ケケケッ。よくやったじゃねぇかェ、ジェド。奴らの計画が崩れ始めてるぜィ」
「……やっと、な。ラーナーに渡した拳銃が効いた。だが小さな一歩でしかない」
「あの女刑事は正常な道では、死ぬ予定だったんだっけかェ? それが今、生きているどころか回復しつつある。まぁヨ、たしかに小さな一歩だ。けれども、それも積み重ねりゃナンチャラ~って、なァ?」
ちょうど、リリー・フォスターが居る病室を見ることができる場所。病棟の向かいにある、古びたアパートの屋上。そこに、青白く輝く目を持つ一羽のワタリガラスと、そのワタリガラスと同じぐらい黒い毛並みをもった緑色の目を持つ狼が佇んでいた。
ケケケッと笑い、低く嗄れた声で下品に喋っているのは、ワタリガラスのほう。そして冷静に、淡々と喋っているのは狼のほうだった。そして狼は言う。
「だが油断をすると、すぐに元の道へ引きずり戻される。これからが、勝負だ」
「そんで、その鍵になるってンが、俺ちんの可愛いようで憎たらしい、あの眷属なのかェ?」
「あぁ、そうだ。アーサーがどう動くかで、今後の局面が幾らでも変容する可能性がある」
「へぇ、可能性。その言葉は、俺ちんの大好物だ。だがヨォ……――あれに任せても大丈夫かェ? 俺ちんは心配だゼ?」
心配だと言いながら、ワタリガラスはケケッとドライに笑う。たとえどう転ぼうが、それは自分の知ったことではない。ワタリガラスの乾いた笑いには、そういった意味が込められていた。
すると狼はこんなことを言う。
「キミア。あれは仮にも、お前の眷属なんだろ。もう少し信用したらどうだ?」
「ケケッ。ヤツは気まぐれがすぎる男だからヨォ。アーサーが、元老院の側に寝返る可能性だってゼロじゃあねェんだわサ。俺ちんは、もう少し見物させてもらうとするヨ。文字通り、高みの見物ってェやつだィ」
ワタリガラスは最後にそう言うと、バサバサと大きな羽を羽ばたかせて飛び去って行った。そして狼も、その身をぶるりと震わせる。誰も人間は見ていない屋上で、黒き狼は影に溶けて行った。
「なぁ、ルーカン。次長のコンピュータから、何か収穫はあったのか?」
どこともしれない地下空間に設けられた薄暗いオフィス、特務機関WACEの本部(仮)。浮かない顔で、古びたラップトップコンピュータを見つめていたアイリーンに、そう声を掛けてきたのは、アストレアと名を改めた子供と手を繋いで歩いていたコールドウェルだった。
するとアイリーンは返答の代わりに、重苦しい溜息を吐く。コールドウェルはおかしなアイリーンの様子に眉をひそめ、その様子を横で見ていたアストレアという子供は首を傾げさせた。すると幼いアストレアが、大人の会話に口を挿む。
「……アイリーンも、アーサーも、朝からどうしたの? 二人とも、変だよ。アーサーは、なんだかよく分からないけど、ずっと笑顔だったし。アイリーンは、ずっと暗い顔をしてる。どうして?」
「どうしてって、言われてもねー。どう言えファイルろ」
「じゃあアイリーンはどうして、ずっと溜息をついてるの?」
「うーんと、そうだなぁー。知りたくなかった事実を発掘しちゃったから、かな」
普段であれば、息もピッタリで相性も抜群なアーサーとアイリーン。しかしその二人の間に、今朝から奇妙な空気が流れているのを、コールドウェルとアストレアは感じ取っていた。なんとなく、あの二人が噛み合っていないのだ。
今朝のアーサーは、何かがおかしくなっていた。今朝の彼は異様にニコニコとしていたが、笑顔とは裏腹に凄まじい殺気を放っていたのだ。対してアイリーンは、ずっと沈んでいた。目は泣き腫らしたように赤くなっているし、いつもならバッチリとキメている化粧すら、今朝は好い加減なものだった。髪型も、普段ならポニーテールなのに、今日だけは結われることなく、そのままの状態で放置となっている。更に言うなら、寝癖も直していない。
こんなアーサーは、こんなアイリーンは、明らかに変だ。何かが、おかしい。しかし面倒臭がり屋であるコールドウェルは、気付いていながらも無視を決め込んでいた。のだが、それを今、アストレアがブチ壊した。
「知りたくなかった事実? なぁに、それ」
なんら悪意のない、実に子供らしい無邪気な質問。アイリーンはまた溜息を吐く。そして彼女は衝撃の告白を、何事も無いかのようにさらりと言った。
「ねぇー、アレックスちゃん。サンレイズ研究所って、知ってるでしょ。ざっと二十五年ぐらい前に、ある日突然白昼堂々消えてしまった、アバロセレン工学研究所のこと」
「あぁ、知ってる。あそこの跡地までアタシは、馬鹿なガキだったニールを迎えに行ったことがあるからね」
「その跡地に、今は新しいアバロセレン工学の研究所が建ってるの。カイザー・ブルーメ研究所っていうとこね。んで、そこの地下なのよ」
「……地下が、どうした?」
「エズラがあそこで、イェラ実験の続きをやってる。アバロセレンからホムンクルスを作るって、アレ。んで今は、その量産化を進める研究ね」
「あぁ、ホムンクルス。アタシがうっかり騙されちまった、あのユンとユニっていう双子のアレね。んで、その量産化。量産化……――」
「そう、量産化計画が進行中ーってわけ。凄いでしょ、ヤバいでしょ。だからなんかもう、どうでもいいって感じ。アルストグランはホムンクルスに乗っ取られて、やがて人間が居なくなるのかな。もう私、知らない。どーでもいい」
「――……量産化ァッ?!」
大声をあげて驚いたのは、コールドウェル。アストレアはコールドウェルの上げた大声に驚き、目を丸くしている。しかしアイリーンは、ほぼ無反応。だから、どうしたの。それぐらいのリアクションだった。
「いかにも、エズラがやりそうなことじゃない。ユンとユニっていう双子ちゃんのお陰で、アバロセレンから命が作れることは分かったんだもの。なら、今度はそれを安定して大量生産する方法を探すに決まってるわ」
「恐ろしいことを、これぐらい当たり前だろう的な顔で言わないでくれ! 怖いだろ!」
「ふぅーん。アレックスちゃんの怖がるツボって、そこだったんだ」
「おいおいおい。マジかよ、ルーカンさん。アンタ、本当にどうしちまったんだ?」
騒ぎ立てるコールドウェルに、悲しそうな顔をするアストレア。だが、その顔を見つめるアイリーンは何も感じていなかった。
アイリーンも、勿論理解していた。今、自分が言った情報の、ことの重大さに。しかしそれは、信じていた者に裏切られたというショックを超えるほどの出来事じゃない。想像に難くない事態であり、想定内の出来事だった。だが……。
「なら、ルーカンさんよ。我らがサー・アーサーは、今どこで何をしているんだ?」
コールドウェルはホムンクルスの話から、話題を逸らそうとしてアーサーの名前を口に出す。するとアイリーンの顔が途端に曇った。そしてアイリーンは、乱暴に言い放つ。
「サーが今どこに居るのかなんて、知りたくもない。きっと今は、ひどいことをしてるに違いないよ」
「ひどいことって、そりゃ誰にだよ? ……まさか、行方不明の高位技師官僚を見つけたのか」
「それは絶対に、違う。でも、私は知らない。知りたくもない。知ってても、言いたくない。思い出したくない。……もうとにかく、今は放っておいて! それとアレックスちゃん、頼まれていたものはあなたのデスクの上に置いておいたから。それじゃ」
アイリーンが、怒った。そして怒ったアイリーンが向かったのは、仮眠室。あとを追うことも出来ないコールドウェルとアストレアは、アイリーンの背中をただ見送ることしか出来なかった。
「どうしちゃったんだろ、アイリーン」
アストレアの無垢な瞳が、コールドウェルをじっと見つめてくる。その視線に耐えきれず、コールドウェルは目を逸らす。そして彼女が見たのは、自分のデスクの上。アイリーンが言っていた通り、コールドウェルのデスクの上にはファイルに挟まれた何かの書類が載っていた。
「……昨日の夜に、頼んだばっかりだってのに。相変わらずルーカンさんは仕事が早いねぇ。というか、早すぎる」
するとアストレアが、今度はその書類に好奇の眼差しを向けた。しかしその書類は、絶対にアストレアが見てはいけないもの。コールドウェルは慌ててファイルを回収すると、アストレアに忠告をした。
「アストレアー? そんな目をしても、この中身は読ませてあげねぇーからな。これは、アタシの仕事に関わる重要なものなんだ。おこちゃまには見せられませーん」
「分かった。見ない」
「それぐらいの年のガキにしちゃ、意外と呑み込みが早いな……」
「……命令は、絶対。逆らっちゃダメって教えられてる」
「あー、はいはい。いつものアレね。アドミニストレータが怖いんだもんねー、アンタは」
コールドウェルが馬鹿にし、からかうようなことを言うと、アストレアは機嫌を悪くしたのか、コールドウェルから離れていく。そしてアストレアが向かったのは、部屋の隅にある冷蔵庫だった。きっと小腹が空いたんだか何だかで、食べ物を漁りに行ったのだろう、とコールドウェルは見当をつける。そしてコールドウェルは手頃な場所にあった椅子に座ると、ファイルを開いた。
エズラ・ホフマンの動向についての報告。ファイルの表紙には、そんな適当過ぎる嘘が書かれている。それも、アストレアに配慮してのことだった。
「アストレア、アンタが持っているのはプリンかい? ……へぇ、いつの間にそんなものが、冷蔵庫に入っていたとは。知らなかったな……」
「アーサーが四日前に、冷蔵庫に入れたんだって。プリンと、ティラミス。それとASIのサラ・コリンズって人から、アイリーンが鯖サンドをもらったって言ってた。どっちも冷蔵庫に入ってる」
「アタシにもそのプリン、一口くれ」
「やだ」
「ハハッ。冗談だよ、真に受けるな。プリンは要らないよ、好きじゃない。だけどティラミスはアタシが貰おう」
「……」
「なんだよ、ティラミスぐらいアタシが食ったっていいだろ? 水臭いなー」
アイリーンに頼んでいたのは、アストレアの身体検査だった。というのも昨日の夕方、カルロ・サントス医師からコソッと頼まれたのだ。あの子は絶対に機械じゃない、だから調べてくれ、と。その件をコールドウェルは軽いのりでアイリーンに相談したのが、昨日の夜九時のこと。
きっとアストレアが寝ている間に、アイリーンが調べてくれたのだろう。……だとしたら、アイリーンはいつ寝たんだろうか。
そんなことを考えつつ、コールドウェルは開いていたファイルの中身を見る。そしてすぐに、閉じた。
「……さすがだねぇ、ドクター……」
「アレックス、なにか言った?」
「いいやー? ティラミスひとつも譲ってくれないなんて、アストレアちゃんは食い意地っぱりだなーって、そう言っただけさ」
「……アレックスのいじわる」
ファイルの中は要約すると、こう書かれていた。アストレアの体は、人間と同じ。しかしその脳には、何か小さな機械が埋め込まれている、と。つまり基本は人間の子供で、思考を機械によって制限されている、ということらしい。
そしてアストレアを作ったのは、高位技師官僚ではないと断言されていた。高位技師官僚が作ったのは、アストレアの脳に埋め込まれている小さな機械だけ。しかしそれも、彼がアストレアのために作ったものではなく、盗まれた彼の作品がアストレアに利用されただけ、らしい。
では、誰がアストレアを生み出したのか。その答えは、こう書かれていた。
「意地悪、か。まあ、そうだろうね」
エズラ・ホフマン。
彼は“猟犬”のスペアとして、AI:Dを作ったのだと予想される。AI:Dはパトリック・ラーナー氏を殺害と同時に、彼になり変わるように作成された。しかしその計画は、直前で頓挫。自らの作品を盗用されたことに怒りを覚えた高位技師官僚が、何らかの形で妨害したものと思われる。
そしてAI:Dは、元はごく普通の人間の女児であった可能性が高く、全身に整形が施された形跡と傷が見受けられる。額は人工骨で、頭蓋骨にボルトが複数確認された。歯は全てセラミック。目尻に切開の痕跡があり。更に指紋には改変が加えられており、情報の特定は不可能。
しかし成形前の顔をコンピューターグラフィックスで再現し、完成した図を顔認証に掛けたところ、三年前にフィッツロイで起きた未解決の誘拐事件がヒット。母親のマルシアと共に訪れた動物園ディジーワラビーランドで失踪した、当時四歳の女児アイーダに……――
「……アタシを意地悪だと感じるのも、やっぱり人間だからなのか……」
コールドウェルは途中で胸糞悪くなり、読むのをやめたのだ。これ以上、この件について考えるのをやめろ。コールドウェルの頭の中で、自分にそう暗示を掛ける声がしていた。
そしてコールドウェルは、冷蔵庫から取り出したプリンを黙々と食べているアストレアを見つめる。その姿は、ただの子供でしかない。ごく普通の女の子にしかコールドウェルには見えなかった。
「……なぁ、アストレア。ひとつ、訊いていいか」
閉じたファイルを腋に挿んだコールドウェルは、アストレアに向かって手招きをし、近くに来るように促す。するとプリンを片手に持ったアストレアが、すたすたとコールドウェルの許に歩み寄ってきた。
そしてコールドウェルは、胸ポケットに携帯していた手帳の中から一枚の写真を取り出す。目の前に来たアストレアに、その写真――ASIから拝借してきたもの。とある工作員が撮影したという、白衣姿の男性の盗撮写真――を見せた。それからコールドウェルは、アストレアに訊ねる。
「一応、確認させてくれ。……アドミニストレータは、この人か?」
コールドウェルが見せた写真に写るのは、不精髭に黒縁眼鏡の男。それは現在失踪中であるペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚を捉えた写真だった。
コールドウェルを含めたWACEの人間は、アストレアが言う“アドミニストレータ”はあの高位技師官僚に決まっている、というのを大前提に今まで話を進めてきた。それゆえ当の本人に確認したことはなかったのだ。
そしてアストレアが純粋なる機械ではないと分かった今、その大前提が正しいものであるのかどうかが疑わしくなったのだ。
「……えっと、アドミニストレータ……」
アストレアは大きな目で、写真をじっと観察する。そして首を傾げ、アストレアは言った。
「誰なの、この人。違う。アドミニストレータは、こんな人じゃなかった。こんなに痩せてないし、髭も生やしてないし、もっと若かった。ぶくぶくに太ってたもん、あの人は。肌は日焼けしてて、赤くなってた。それにあの人は、こんな見るからに怪しそうな人じゃなかった。見た目はすごく優しそうだけど、お酒が入ると人が変わって、それで……」
「分かった。この写真の眼鏡のオッサンは、アンタのアドミニストレータじゃないんだね。……じゃあ、アンタのアドミニストレータは誰? それに、そのアドミニストレータってのは、本当にアンタのアドミニストレータなのかい?」
新たに投げかけられたコールドウェルの問いに、アストレアは困惑した顔をする。それからアストレアは小さな声で、言った。
「……アドミニストレータじゃなかった、のかも。本当のアドミニストレータは、エズラだったっけ?」
「なら、アンタが今まで“管理者”だと思っていた男は誰なんだ?」
「分かんない。分からないよ、アレックス。……でも、なんだかその人がとても怖かったってことは、覚えてる。感情しか、覚えてないけど」
「分からない、か。……まっ、その件は思い出してくれた時で良いよ。急ぎの案件じゃないからね」
「……珍しい、アレックスが優しい」
「アタシゃいつでも優しいよ。何を言ってるんだい、まったく」
げほっ、ごほっ。誰かが咳き込む音がしていた。
「……おはよう、ラーナー。いや、時刻からして『こんばんは』か?」
白い棺の中にあった遺体の目が、カッと見開かれる。恐れに満ちたその顔を、上から愉快そうに眺めていたのは、サングラスを外していたアーサーだった。
目覚めた死体は何かを言おうとしたが、言葉が思うように音となって出てこない。代わりに出てくるのは、苦しい咳。死体は苦悶の表情を浮かべたが、アーサーは気にも留めない。アーサーは死体が来ていた上等なシャツの襟首を掴み上げ、顔に顔を近付ける。そして凄絶な笑みを浮かべて、アーサーは言った。
「おめでとう、ラーナー。不死者の仲間入りだ」
「……っ……」
「お前の命は今この瞬間から、私のものとなった。生殺与奪の権は、私が全て握っている。お前は自分の意思で死ぬことが出来なくなったというわけだ」
「…………」
「どうだ、嬉しいだろう? デボラと一生、共に居られるんだ。仮に彼女に殺されたとしても、私がお前を許さぬ限り、お前は永遠に息を吹き返し続ける。これ以上無い、最高の地獄だとは思わんかね? ……これもすべて、お前自身が選んだ道だがな」
そう言うとアーサーは襟首を掴んでいた手を離し、死体を落とす。すると後ろで様子を見ていたデボラが、悲鳴を上げた。
「アーサー、何してるの!! 私が虐める前に、虐めちゃダメ!」
「少し静かにしていてくれないか、デボラ。気が散る」
殺意に満ちたアーサーの蒼白い目が、デボラを冷徹な眼差しを送りつける。と、同時だった。アーサーの手が、再び死体の首元に近付く。そして彼は、死体の首を絞め上げた。
「アーサー! ちょっと何してんのよ、やめなさいよ!!」
じたばたと、死体は暴れ回る。そしてアーサーが手を離したのは、その十数秒後だった。解放された直後、死体は先ほどよりもひどく咳込む。それを横目で見るアーサーは、まさかの言葉を吐き捨てた。
「お前が言葉を喋れるように、その穴のあいた首と、肺に詰まっていたものを全て取り除いてやった。感謝くらいしたらどうだ、ラーナー」
死体は咳き込みながら、ゆっくりと上体を起こす。血走った大きな黒い目は、アーサーを睨みつけていた。そして死体は、震える声で呟いた。「……あなたってひとは、本当に、悪魔ですね、くッ……ぅッ――!!」
「私はアザミだ」
「……何を言って、いるんですか、あなたは。私には、さっぱり、理解……できませんよ……」
「理解など不要だ。ハナから求めていない」
「……これだから、あなたのことは、好きになれないんだ。頭のネジが、外れてやがる……!」
「今のは聞かなかったことにしてやる。――さて、ラーナー。穢れ無き心で告解し、真実を語りさえすれば、私は赦してやらなくもない。こう見えて、私はかなり寛大だ。しかし嘘偽りの言葉を騙り、欺き続けるような真似を続けるのであれば……――相応しい罰を与えよう」
青白く発光するアーサーの目が、氷のように冷めきった視線を送り付けてくる。その後ろで、自分の番が回ってくるのを待つデボラは、退屈そうに口笛で『スコットランドの花』を吹いていた。
そしてアーサーはピリピリと緊張感に満ちた声で言う。
「……ラーナー、何も言えんのかね?」
状況がまるで理解出来ない。何が、どうなってやがる。突然引き戻された世界に、息を吹き返したばかりの死体は動揺していた。そして彼は、こうも思っていた。アーサーは何故、こうも激しい怒りを自分に向けているのかと。
特務機関WACEの長、アーサー。彼の恨みを買った理由として、死体にはいくつか思い当たる節があった。まず、アーサーの許可なく勝手に死んだこと。しかしアーサーの口ぶりから察するに、その可能性は無さそうである。どうやら彼が欲しているのは、情報であるようだから。
次に思い当たるのは、“WACE関係者の特権”を利用して得た情報を、ASIに流していたこと。というのもパトリック・ラーナーという人間は、アーサーら特務機関WACEに所属する者たちを一切信用していなかったのだ――彼が手塩にかけて育成してきたコールドウェルを除いて。
ASIは「国家の脅威となるものを、全て叩き潰すこと」を目的としている組織である。しかし特務機関WACEという組織は何を目的に活動していて、最終的に何を成し遂げたいのかが常に不明だった。だからこそ、彼は特務機関WACEを信用できなかったのだ。
それに彼に給料を毎月払ってくれていたのは、他でもないASIだ。金を払ってくれる雇い主に忠誠を誓い、尽くすのは当然のことであり、ただ利用しているだけで何の見返りもない組織に捧げる忠義など、彼にはありはしなかった。
そして最後に思いつく怒りのタネは、ASIに流していた情報すべてが詰め込まれているラップトップパソコンを古巣である連邦捜査局に居る友人に預けろと書いた遺言状。遺言と言っても、二つあるうちのひとつ。ASIに保管されていた正式な書面とは違う、WACEにて保管されていた、法律上は何の効力は何もない出鱈目の書面だ。
しかしパトリック・ラーナーという男は、アーサーに嘘を吐いていた。WACEにあるものが本物であると、彼に言っていたのだ。巧妙な嘘をあれやこれやと重ね、決して真実がばれないようにカモフラージュし続けてきた。もしかするとアーサーは、それを真に受けてノエミに渡してしまい、今になって後悔しているのかもしれない。
その他、死体は思い当たる節を思い出せるだけ振り返るが、決定打となるものが浮かばない。さらに理解出来ない現在の状況――死んでいたはずなのに、息をしている今の自分。そして自分を殺した女と、アーサーが親しげに話していた姿――が頭を混乱させ、物事のジャッジが出来なくなっていた。
そして飛び出てきたのは、パトリック・ラーナーという男の常套手段。
「……それで。あなたは、何を……私から、引き出したいんです? サー、アーサー、およびエルトル考古学博士」
人を小馬鹿にするような憎たらしい笑顔を、死体は浮かべた。そして今度は死体が喋るターンが始まる。
「ルネサンス以前の……ッ、暗号解読が、専門で、いらしたんですよね? 錬金術、に、纏わ、る……人工、言語、エノク語といっ……たもの、から、遠い、遠い、大昔の時代に、扱われていた、世界各国の魔術文字、様々な言語、記号を……はァッ……併せた、特殊記法などを……ッ」
「…………」
「生前は、当時、人間になり済ましていた、悪名高きエズラ・ホフマン氏のもとで、働いていたそうじゃ、ないですか。……いや。奥様と、娘さんを、人質に取られ、仕方無っ……く、従属、していたと、言ったほうが、正しいの……ッ、でしょうか。そして、エズラ・ホフマン氏が、裏で行っていた、決して、表に出してはいけない闇帳簿や、研究データ、などを、デジタ……ルでは、解読、できない、今となっては、失われた、古典的かつ、複雑な……ぁあッ――暗号に、組み替えて、いたんですよね? それに、バルロッツィ高位技師官僚、とは、学生時代、それは、それは、深い……――」
冗長な話。これはアーサーが最も嫌うものである。すると狙った通り、アーサーは苛立ちを露わにした。そしてアーサーは単刀直入に、本題を切り出してくる。「ノエミ・セディージョにあのラップトップを渡して、お前は何をさせようとしていた?」
「あぁ……やはり、その件、でしたか……――ッ。はぁ……ということは、あの、中身を、盗み見たんですね」
「ルーカンが、な」
「……これだから、あなたたちが、嫌い、なんです。プライバシーも、へったくれもない。私、遺言状に、中身は、決して見るなと、書いたはず、なのですが」
「ノエミ・セディージョの手に委ねたあと、彼女からルーカンのもとに中を開けてほしいと要請が来た。それだけのことだ」
「ノエミが? ……あぁ、呆れた。よりにもよって、あいつを、頼るだ……ッ――なんて……」
なんだ、その話か。
死体は内心、少しだけ安堵していた。ノエミ・セディージョという女に、重要な情報が詰め込まれた機械を譲った理由は、特にやましいこともない、とても単純なものだったからだ。
しかし、アーサーは何を誤解しているのだろう? 死体を見つめてくるアーサーの目はまるで、死刑判決を食らった最悪の犯罪者を見るようなものになっている。それに死体は先ほど、アーサーの心を揺らしにかかったのだが、威風堂堂と佇む彼がダメージを負っているようには見えなかった。寧ろ小賢しい真似をする死体を、その程度のことしかできないのかと憐れんでいるようにすら見える。
虫の居所が悪い。死体はそう思った。だからこそ死体は下手な小細工はせずに、ありのままの真実とやらを語ることにした。「ノエミに、渡せと、書いた理由は、単純ですよ。彼女は、信頼できる。それだけです」
「……」
「ASIの、ほうには、バックアップの、データが、すべて、保管されて……ッ、います。私が、死んだ際には、保管、されている、それら、全ての、情報は、丸ごと、自動的に、部長の……うッ……ポール・ドノヴァンの、管理下に、置かれます。私が、最も、信頼、する、組織である、ASIは、既に、情報を、全て、掌握、している、という……ことッ……です。しかし……ASIは、その……体質ッ、から、握った情報を……独占、しがちで、独善的な……ッ……行動に、走り、やすい。そのため、他局との、連携が、行われず、あと、一歩という、とこ……ろ、で……犯人を、逃してしまったり、悪の、根源を討つ、道を、絶た……ッれて、しまうこッ……とが、ある。……あの件に、関しては、どうしても、それを、防ぎたかった。だからこそ、連邦、捜査局に、所属する彼女に、も、知らせる……べ、き……ッ……だ、と、判断、したのです。以上が――」
「本当に、それだけなのか?」
「ええ、そうです。ラップ……トップの、中身を、見たの……ッで……あれば、あの件が、イェラ実験に……続く、許さ……ッ……れ、ざる、行為で、あると……あ……ッ……あなた方も、感じた、はず。だから、です」
死体は、嘘偽りの無い心を曝け出した。しかし死体に注がれる疑いの目は、揺らぐことがない。
一体、アーサーの中で何が引っ掛かっているから、自分はこんなに疑われているのか。それを引き出すために死体は、その行為に至るに当たった考えと本音を、アーサーに向かってぶちまけることにした。
「私は、あれは、法廷の場に……持ち出さ、れるべ……き案件、だと、考えて……ッ……お、ります。それも、大陪審が、設け、られる……れ……レベルの、ものだと。その、ためには、ASIと、連邦、捜査局の、連携が、不可欠。事件を、潰して、闇に、葬り去……ぁッ……る、ことしか、能がない、あなた、では、なく……ッ……捜査機関のッ、鉄鎚と、法による、健全な、裁きが、必要……なん、です……ッ!」
するとアーサーの眉根が上がる。やはり、彼はまだ疑っているようだ。そしてアーサーは言った。「……仮に、お前の言った通りだとしよう。そのとき、お前は誰の怒りを買うことになるのかを考えなかったのか?」
「アバ、ロセレン、技士、たち、それを……牛耳って、いた、エズラ・ホフマン。彼らの、怒りを、買う……ッことに、なるのは、想定、内です。です、が……彼ら、が、どれだけ、抗い、騒ごうと、アバロセレン、を、死ぬほど、嫌う、一般市民の、大きな、声と、弾圧には、勝てない、でしょう……ゥッ。勢いを、利用、すれば、一網、打尽は、十分に、可能で、あり、それッ、に」
「エズラの怒りを買うことにより、何が起こりかねないのかを、お前は考えなかったのか? あれは、やるぞ。大殺戮を。平気な顔で。民衆を殺す可能性も十分にあり得る」
「だから、闇に、葬るん、ですか。解決、しよう、と、いう努力……ッを、せず、正体も、分からない、元老院……と、いう、謎の、存在に、よる、倫理も、道徳も、欠片も、ない、ような、蹂躙を……だ……ッ――黙って、見過ごし、それを、許せと? この星は、我々、人間の、もの、です。化け物に、支配、される、道理、なんて、ありません……しッ、彼らの、違法、行為を、見過ごす、ことも……ッ……でき、ません。彼らは、罰せ、られる、べき、存在です。そして、彼らの、行為を、助長、している、あなた方も」
「地球は本当に、人間の所有物か? 私には、そうは思えない。それに、そのような傲慢な思想を理解することが出来ないな」
死体は、アーサーの言葉に嫌悪感を示す。それは耳にたこができるほど聞かされてきた、彼ら特務機関WACEの口癖であったからだ。
元老院を怒らせてはいけない。彼は血も涙もない。怒りを買ってしまったら最後、取り返しのつかないことになる。特務機関WACEはいつも、そう言ってきた。そして起こってしまった出来事を全て闇に葬り去り、暗黙の了解を作っては緘口令を敷く。そうして幾つもの事件が、幾つもの殺人が、幾つもの名誉が、まるで無かったことのように葬られていった。
その中でパトリック・ラーナーという男は、特務機関WACEという存在に不信感を募らせていったのだ。ここには正義がない、と。
――するとアーサーは呆れたような溜息を吐く。それから彼は、呆れたとでも言いだけな声でこのように語った。
「これはコルトにも当てはまることだが……――何かを勘違いしているようだな。特務機関WACEは、正義を為すためにあるわけじゃない。特務機関WACEというのはそもそも、元老院に仕えている組織だ」
「……?!」
「そして現在における我々の主な役回りは、元老院が起こす騒動に付随して発生する犠牲を極力減らす努力をすること。それとトラブルメーカーの不死者をどうにかして殺すことだ。また、エズラが行っている行為は些か問題がありすぎるが、しかしそれを阻止することは我々の業務には含まれていない。そしてこの場合、我々が止めに入るのは貴様が企てた謀略のほうだ。多数の犠牲を払うだけの、無為な行動。それを叩きのめす。何故なら――」
するとアーサーが笑った。それは先ほどと同じ狂気に満ちた笑顔だった。そして彼は言う。
「私が仕事をしたくないからだ。霊魂を狩るにも、相当なエネルギーを消耗するのでな。貴様のように、扱いに困る死霊がわんさかと増えられては困る。……そして今も、私は力を使いたくない。先ほど貴様を生き返らせた際に、かなりの気力を消耗したからだ」
言い終えるとアーサーは、死体に背を向けた。それからアーサーは口笛を吹いていたデボラに目配せし、合図する。待ちに待ったデボラの番が回ってきたと、言葉なくして告げたのだ。
合図を受けたデボラは、喜々とした表情で立ち上がる。無邪気な笑顔を浮かべる彼女の顔に、悪意は無かった。しかし彼女が右手に握っていたナイフには、純粋に邪悪な心が詰め込まれていた。
「うふふ♪ 早速だけど……パトリック、何して遊ぶ? この間みたいに、私の許可なく勝手に死ぬことは許さないんだからねー。あはは、分かったー?」
迫りくるデボラに、死体は怯える。あれだけ散々罵っておきながら死体はアーサーの背を、慈悲を乞うように見ていた。
だがアーサーは、振り向かない。そしてアーサーは何も感じていないかのような、冷淡な口調で言う。
「かよわい仔猫のような心は悪魔のようなものに変貌していたが、根にある大正義を信じる心というエレメントは、変わらずに残っていたようだな。だが、ひとつ言っておこう。この世に、絶対に正しき正義など無い。正義という概念など、掴めば消える幻に過ぎん。故に正義を信ずる者はある種の幻想に取りつかれ、現実を見失う。やがて幻想に飲まれ、破滅の道を辿るのだ。法も正義も、所詮はカルトのようなものだよ」
「……アーサー、あなたは、どうかしてる。私が、そこまでの罪を、犯したとでも、あなたは、言うんですか?!」
「理由を挙げればきりがない。しかし、だ。一番重大なこと、それはお前が私を怒らせたという事実だ。理由はそれだけで十分かもしれないな。私は、私の手を煩わせてくれるクソったれが大嫌いなんだよ」
理不尽極まりない言葉を残し、死神は死体から離れていく。待って下さいと大声を上げる死体を無視し、アーサーは歩む速度を上げていった。
するとどこかから突然、真黒な体のワタリガラスが姿を現す。アーサーと同じ、青白く発光する不気味な目をしたワタリガラスは、ばさばさと翼を羽ばたかせ、やがてアーサーの肩に留まる。ワタリガラスはケケッと不気味に笑い、低く嗄れた声でアーサーに話しかけるのだった。
「見直したゼ、アーサー。モーガンの後任をお前ェさんに任せて正解だった。あの可愛い可愛い子猫チャンを前に動じないとは、見上げた男になったなァ。ケケッ」
「そこを退け、貴様の爪が痛い」
アーサーは肩に留まったワタリガラスを、乱暴に手で払いのける。するとワタリガラスは飛び上がり、今度はアーサーの頭の上に降り立つ。眉間に皺を寄せるアーサーは、ぶっきらぼうに言った。「それで、キミア。用件は何だ」
「おぅおぅ、ヘイヘイ、ヨォヨォ。お前ェさんは呑み込みも早くて助かるゼ」
「それで、要件は何だ」
「おぅおぅ、いつものやつヨ。ノエミ・セディージョって女が、エズラがやっているあんなこと、そんなことについて知っちまったんだろぉ? つーわけでぇヨ、あれの上司に掛け合ってくれェな。あとは、分かるだろ? デボラのあれこれも、ついでに……――なァ?」
烏はアーサーの頭の上から、彼の顔を覗き込む。そしてアーサーは、冷淡な声で静かにこう言った。
「……了解だ、すぐ片付ける」