ディープ・スロート
//スローター

ep.13 - Disaster genius and Death of frenzy.

「もし、彼が死ぬとしたら。きっとその死は働き過ぎによる過労死だろうと、私はそう思っていたわ。もしくは、統合失調症か境界性人格の患者に襲われて殺されるか。だから、まさか自殺だなんて……」
 左手の薬指に、一粒の小ぶりなガーネットが黒赤く輝く指輪を嵌めていた未婚の淑女は、一向に止まらぬ涙を右手の指で拭いながら、そう呟いていた。
「彼はそんなことを絶対にしないと、信じていたのに。それが、どうして……」
 その女性の名前は、ジリアン・マクドネル。緩やかなウェーブが掛かっている鮮やかな赤毛の長い髪と、銀のように輝くグレーの瞳が見る者を惹きつけてやまない、詩人の女性だ。
 そんなジリアン・マクドネルに対して、傍に立つ黒髪の女はそっと真っ白なハンカチを手渡す。黒髪の女――沈んだ表情のノエミ・セディージョ――は岬から、眼下に広がる海を見つめて言った。
「カルロ・サントス。彼は、自殺じゃないわ。あれは事故か、殺人事件よ。だって私は彼が死ぬ直前まで、電話で話をしていたんですもの。そして彼の、最期の声を聞いた。突き飛ばされて、よろけて、驚いたような、気の抜けた声を」
「…………」
「これから自殺するって人間は、口を閉ざして黙って死んでいくわ。『あっ……』なんていう間抜けな声を、線路に落ちる間際に上げたりしない。それなのに、彼はそう言っていた」
「……仮にその話が事実で、彼の死は事故だとしても。けれど警察は、自殺で処理した。それは変えられない事実よ」
「捜査が面倒だからよ。出世しか頭にない人間が考えそうなことよ。ホント、悲しいほどにありふれた話。やつらは真相究明なんかに関心はない。被害者のことも、遺族のこともね。だから、いつまでも所轄で燻ってんのよ……」
 精神科医の男が地下鉄駅のホームから線路に飛び降りて死んでから、一週間が経過した。その死を、キャンベラ市警は早々に自殺だと結論づけ、真実はうやむやにされたまま、酷い有様になっていた骸は火葬に回された。
 しかし火葬で出た灰が、墓に埋められることはない。ジリアン・マクドネルが今、この空を往く方舟から海へと撒いたのだから。それこそが生前に、彼が望んでいた自身の終わり方だった。
 その為、彼の友人であったパトリック・ラーナーと違い、何か盛大な葬式が開かれることもなかった。彼の一族が集まることも無かった。ジリアン・マクドネルが切り立った岬から海に向かって灰を撒いて、それで終わった。その場に、彼の数少ない友人の一人であったノエミ・セディージョが立ち会った。葬式も、その程度だった。それも今、静かに幕を下ろした。
 岬には下から強い海風が吹きこみ、二人の女性の体が煽られそうになる。これ以上ここに居るのは危険だと判断したノエミ・セディージョは、ぼうっと佇んでいるジリアン・マクドネルの腕を引いて、岬の先から安定した陸地に引き返した。すると歩きながら、ジリアン・マクドネルは小声でこんなことを呟いた。
「……酸化して、黒ずんだ血の色……」
 風に煽られたとしても安全な場所に来た途端、ジリアン・マクドネルは立ち止まる。彼女の灰色の目は自身の左手を見つめていて、どういうわけか涙をぽろぽろと流していた。
「どうかしたの、ジル?」
 ノエミ・セディージョも立ち止まり、彼女の顔を覗き込んでそう訊ねる。するとジリアン・マクドネルは、はにかんだ笑みを浮かべた。
「誓いのペアリングにそっと輝く、ガーネット」
「ガーネット……――が、どうかしたの?」
「彼はいつもニコニコしながら、こう言ってたわ。ガーネットの色は石榴というより、酸化して黒ずんだ血の色に一番近い、って。その言葉を今、ふと思い出したのよ……」
 酸化して黒ずんだ血の色。ワードだけ聞けば、悪趣味であるように聞こえる。ノエミ・セディージョが少し眉を顰めると、ジリアン・マクドネルは小さく笑った。
 笑顔を浮かべるジリアン・マクドネルの目には、遠い昔に過ぎ去った日々を懐かしむような淋しい光が湛えられている。それからジリアン・マクドネルは右手でそっと指輪に埋め込まれたガーネットを撫で、その台詞が意味するものを語った。
「ガーネットってね、パッと見はまるでオニキスのように黒いの。だけど、じっと目を凝らしてよく見てみると、黒の中に美しい深紅を隠しているのよ。だから彼は、こう言ったわ。それは静脈を流れる血の色のようでもあるし、冷静さの中に随分と熱い情熱を隠し持っている私のようであり、とても美しいって。彼にとってガーネットは、分かりやすい輝かしさを持っているダイヤモンドよりも、よほど魅力的な宝石らしいわ」
「へぇ、カールが……あの馬ヅラで、随分とロマンティックな台詞を。意外ねー」
 ノエミ・セディージョにとっての“カルロ・サントス”という男は、気心が知れた愉快な友人の一人だった。そして真っ先に思い浮かぶ彼の顔といえば、呆れ返ったような冷たい視線。彼女がビール缶を五つも空にし、挙句ゲップでもしてみせようものなら「お前は汚いオッサンか」などというツッコミが飛んできたものだ。
 そんな辛辣な言葉をいつも投げ掛けてきた男が、実は女性に優しく、そしてロマンチストだったなんて。ノエミ・セディージョには、とてもじゃないが信じられなかった。するとまた、ジリアン・マクドネルは笑う。
「そうかしら? 彼は私よりもずっと、ロマンチックな人だったけど」
「私の場合はジルと違って、カールに女として見られてなかったからねぇ。私はリッキーとまるで同じ扱いだったし。リッキーは心配ばかりかけてくる手のかかる弟で、私はガサツで世話の焼ける弟、みたいな。だから、意外だって感じるのかも」
「リッキー? ……あぁ。探偵のラーナーさんね。小柄で可愛らしかった、あの人。そういえばラーナーさんも、先日」
「そう、殺された。そして彼は、私の元恋人。微妙な距離を行ったり来たりを繰り返して、深く結び付くことも、遠くに離れることすらも出来ずに終わった、複雑な関係だった人」
「ノエミ、あなたも……」
「正直に言うとね。私はすごく、あなたとカールの二人に憧れてたわ。あなたたちは若い頃、お互いに複雑な家庭の事情を抱えていて、恋愛に現を抜かしてる余裕がなくて、仕方無く別れてしまったでしょう? それから十数年が経って、諸々の事情も落ち着いて、別々の人生を経験して成熟してから、再び巡り合って。結婚こそしてないけど、プラトニックな関係を築いて……――羨ましすぎるわー。絵に描いたような、大人の素敵な男女って感じで。そんなあなたたち二人と比べると、私なんか本当に、幼稚なうえに泥沼よ」
 どことなく早口な口調で、ノエミ・セディージョはそう言った。そんなノエミ・セディージョがジリアン・マクドネルに向けている視線は実際に、羨望で溢れている。そしてノエミ・セディージョが浮かべている寂びれた頬笑みは、愚かな自分を憐れんでいるようなものだった。
「リッキーは、とにかく奔放で。彼は色んな人から可愛がられていて、私が目を離すとすぐに他の場所に行ってしまうような、すばしっこい栗鼠みたいな人だった。それに結婚ってカードを私が突き付けると、彼は『勘違いしないで、私たちはただの友達だ』とか『あなたにはもっと相応しい人が他に居る』とほざいては途端に逃げるの。そのくせ、私が新しい男と出会うと、彼ったら嫉妬してね。いい感じになりかけた男は皆、どういうわけかリッキーに横取りされたわ。そして全員、彼に調教されて。一度は私に惚れてくれた男たちは皆、気がつけば彼の奴隷になってた。――私と彼は、その繰り返しだった」
「……あら、大変だったのね」
「ええ、そう。大変だった。私が追って、彼が離れて。しばらくすると、彼が私の人生にちょっかいを出してくる。それで私が、また追いかける。ずっと、ずっと、懲りずにループして。ガキみたいな恋愛ごっこを長いことしてた。……それなのに。彼ったら、いつの間にか恋人をゲットしてたみたいでね。私の知らないところで、私の知らない誰かを。その相手が男だって聞いた時には愕然としたわ。あれほど私を振り回しておいて結局、男を選んだのか、女ですらないのか、って。悔しいとも思えなかった。ある種の、そう、失望よね……」
「……」
「そうして彼が死んで、いい年だっていうのにまだ未熟な私が、この冷たすぎる世界に一人置き去りにされた。唯一やりがいを感じていた仕事も、不当に剥奪されちゃったし。親兄弟も疎遠で、誰とも連絡が取れない。挙句、戦友のカルロまで居なくなっちゃった。私はこれから、どうしたらいいんだか……――」
 溜息を吐くと共に、ノエミ・セディージョは自分自身を嘲るように鼻で笑う。そうして彼女が、ほんの少しだけ俯いたときだ。ノエミ・セディージョの目から一筋の涙が零れ出て、頬を伝っていった。
「……ジル、ごめんなさい。こんな弱音みたいなこと、言うつもりはなかったんだけど、その」
 すると、ジリアン・マクドネルは両腕を大きく開く。そして俯くノエミ・セディージョを、ぎゅーっと強い力で抱き締めるのだった。
「ノエミ。あなたは、太陽のような人よ。でもね、太陽は時として翳るの。いつでも、燦々と光を放っているわけじゃないわ」
「…………」
「カルロならきっと、こう言うわ。虚勢は心にも体にも悪い、ってね。それに人の前で弱さを見せること、涙を流すことは、決して悪いことじゃない。だから少しは自分を甘やかしなさい。あなたみたいな、過度な頑張り屋さんは特にね」
 ノエミ・セディージョもまた、ジリアン・マクドネルと同じぐらいの力で、ハグを返す。
 ノエミ・セディージョは数十年ぶりに、素面で号泣していた。





 かつて“サンレイズ研究所”という名の悪魔の巣窟があった場所に、今は新たな悪魔の根城が建っている。その名も、カイザー・ブルーメ研究所。サンレイズ研究所と同じく、アバロセレン工学に重点を置いた私立研究所だ。
 そんなアバロセレン工学研究所の地下には、不幸に縛られた人生を歩み続ける男が囚われている。物置のように狭く、埃にまみれた部屋の中、錆びた鉄の椅子に縛り付けられ、随分と衰弱している男の名前はペルモンド・バルロッツィ。世紀の大天才、もしくは災厄の大天才と世間に仇名されるサイコ野郎だ。
 そんな大天才は頭から血をだらだらと流し、切れた唇から血を滲ませ、片腕の骨を折られてもなお、口元には余裕の笑みを浮かべている。そんな彼の前には、この研究所に潜り込んだASI局員の女――『レムナント』ジュディス・ミルズ――が立っていた。
「――……説明は以上です。我々に協力して頂けますでしょうか」
「あぁ、俺は別に構わないさ」
「バルロッツィ高位技師官僚、心から感謝しッ……」
「お前たちの見立ては正しいからな。あの無駄にガードの固いサー・アーサーにタメ口を利けるのは、旧知の仲である俺しか居ないだろう。それに現役を引退して、夢見るクソガキどもをいたぶるってのも悪くない。……ハハッ、大学生の相手か。将来性を摘んで未来を潰して回るってのも、面白そうじゃねぇか……」
「なら今すぐにでも、ここを脱出しまっ……――」
「だが、今は時期尚早だ。あと四、五年は待ってくれ」
「え? それは、えっと、高位技師官僚。どういった意味でしょうか……?」
「今日のところは帰れ、という意味だ。俺はまだここで、やるべきことが残っているからな」
「そんな、ボロボロの体で?! ……わっ、私、あなたを助けに来たんですけど?」
「助けなんぞ、要請した覚えはないぞ」
「あなた、このままでいたら……間違いなく、失血で死にますよ?」
「案ずるな、俺は絶対に死なないからな。どこぞやの死神も、俺の息の根を止めることができずに発狂しているくらいだからな」
 見るからに弱り切っているはずの大天才は、切れた唇の端から血を誑しつつも、なぜだか余裕の笑みを浮かべている。ジュディス・ミルズはその姿に、呆れ返っていた。
 必死の思いでこの研究所に潜り込んだのに、こんなのってアリなの?
 彼女はとても、動揺していた。
「……ラーナー次長から聞かされていましたが、本当にクレイジーですね。私、どんな顔で長官代行のもとに帰ればいいのやら……」
 そして念のために書いておくが、この大天才に暴行を加えたのはジュディス・ミルズではない。犯人はこの研究所に所属する頭のいかれたエンジニア夫妻であり、ジュディス・ミルズはあくまで彼をこの場から救い出しに来ただけなのだ。
 しかし、厳重な警備を潜りぬけやっとの思いで成し遂げた潜入も、どうやら徒労に終わりそうな予感が彼女にはしていた。
 すると、クレイジーな大天才がこんなことを言った。
「それで……――その姑息な作戦のコードネームが、ディープ・スロート: スローターなんだな?」
「ええ、そうです。略して、DT:S作戦です」
内通者を皆殺し((ディープ・スロート・スローター)、ねぇ……?」
 ディープ・スロート: スローター。それは、現ASI長官代行トラヴィス・ハイドンが、長年温め続けてきた作戦に付けられたコードネームだ。あまり宜しい意味ではないそのコードネームに、大天才は不快感を露わにした。そのネーミングセンスも最悪だが、もしや良からぬことを企んでいるんじゃなかろうな、と。
 ジュディス・ミルズは苦笑う。そして彼女はこう答えた。
「ネームの意味は『内通者を皆殺し』ではなく、『ASIの要だったスパイが無惨に殺された』ですね。アバロセレン犯罪対策部、尋問班のトップであるラーナー次長と、潜入班のトップであるパテル次長の二人を同時に失ったことは、ASIにとってかなり大きな痛手でしたので。長官代行も、お怒りなのでしょう。それで、このコードネームになったのかと」
「もっと他に、マシな名前は無かったのか? いくらなんでも、品が……」
「それは私ではなく長官代行に言って下さい」
 なんだか、相手をしていて疲れる人だ。そう感じたジュディス・ミルズは、ついうっかり溜息を洩らしてしまう。すると大天才はひとつ、咳払いをした。
「まっ、先ほどは二つ返事で了承したが、助力に当たっての条件が何もないわけじゃない。俺も危ない橋を渡る羽目になるんだ、ASIにはそれ相応の環境を整えてもらわなくちゃなぁ?」
「それ相応の環境、とは……?」
「まずは、俺の口座の凍結解除だ。資金が無けりゃぁ何もできんからな。それと」
 ボロボロの体で、余裕そうな素振りを見せつけながら、大天才はニタリと笑う。ジュディス・ミルズには、嫌な予感がしていた。
「ありったけの精神安定剤と、坑うつ剤を頼む」
「その薬を、何に使うんですか? まさか誰かに……」
「散々ゴシップ誌の連中が書き立てたせいで、俺がDIDだという話は有名になっているんだろう? とにかく、俺に主人格の“ペルモンド・バルロッツィ”のままで居てもらいたいなら、用意してくれ。でなけりゃお前たちは、この猛犬のリードを握れなくなるぞ?」
 大天才の顔は、やはり笑っている。掌を汗で湿らせたジュディス・ミルズは、目の前に存在する怪物の目を黙って見つめることしか出来なくなっていた。





 そしてジュディス・ミルズが立ち去った、その翌日。地下に閉じ込められたままになっている大天才ペルモンド・バルロッツィの許を訪ねてきたのは、アーサーだった。
 もわもわと煙が立ち込め、地下室にアーサーがどこからともなく姿を現す。するとペルモンド・バルロッツィは嫌味な笑みを浮かべ、アーサーにこう言うのだった。
「よぉ、シルスウォッド・アーサー・エルトル。数年ぶりだな、元気にしてたか?」
「その名の男は、既に死んでいる。私は……」
「お前は、アーサーと呼ばれることも、シルスウォッドという広く知れ渡っている名で呼ばれることも嫌いなんだよなぁ? なら俺はお前のことを、どう呼べばいい。ウディか、アーティーか、はたまたウッドチャックか? それとも、真の名であるシスルウッドと呼ぶべきか?」
 傷だらけの姿に余裕の笑み。その姿をペルモンド・バルロッツィは、相手が誰であろうと崩しはしない。たとえそれが腐れ縁の旧友の前だとしても、真の姿の片鱗は一切零さないのだ。何故なら、その余裕に人々は恐怖するのだから。その余裕こそ、大天才なりの牽制であった。
 しかし腐れ縁の旧友であるアーサーは、見なれた牽制など意にも介さない。暗闇の中でサングラスを外したアーサーは足音を殺して、虚勢を張る大天才に詰め寄るのだった。
「ペルモンド、答えろ。お前が、あの精神科医の男を殺したのか?」
 アーサーの光輝く、瞳孔の無い蒼白い瞳が、ペルモンド・バルロッツィのくすんだ蒼い瞳を見つめる。ペルモンド・バルロッツィは、糾弾するアーサーの視線を正面から受ける。しかしペルモンド・バルロッツィの妙に真っ直ぐな目が、後ろめたさから揺らぐようなことは無かった。何故なら、彼は潔白であったからだ。
「その件か。……まったく、お前って野郎は、あのクソ狼の罪を遂に俺に擦り付けるようになったみたいだな。学習しねぇというか、キミアのいいように遊ばれているというか、狼の思う壺に見事嵌まっているというか、なんというか……」
 そう呟くペルモンド・バルロッツィは、馬鹿にするような目でアーサーを見返す。だがアーサーの目もまた揺らがない。何故なら、一切の信用を抱いていないからだ。
 そんなアーサーの顔は、早く必要なことだけを離せと、急かしているようでもある。ペルモンド・バルロッツィは舌打ちをすると、面倒臭そうにダラダラと長ったらしく語るのだった。
「あの精神科医は、たしかにクソ狼の仕業だ。だが俺はここ数年、この地下室に監禁されていてな。太陽の顔を最後に拝んだのは、もう随分と昔になる」
「…………」
「つまり、だ。精神科医が殺された日も、俺はここに居たというわけだよ。パトリック・ラーナーやジェイコヴ・パテル、他のASI局員のときも然り。エズラが生み出した、あのエイドというガキの件にも俺は、直接的には絡んじゃいない。倫理という観点から見たときに問題がありすぎるとして廃棄する予定だった試作品を、エズラに盗まれて無断で使用されたぐらいだよ。とにかく全部、あの狼が勝手にやったことだ。奴が何を企んでいるのかは、俺にも分からんがな」
 言い終えるとペルモンド・バルロッツィは、乾いた笑みを浮かべた。それは自分には何も関係ない話だと、切り捨てるような表情だった。その滲み出る澆薄さと侮慢な態度に、アーサーが送るのは嘲弄。ペルモンド・バルロッツィの乾いた笑みに、アーサーは高笑いで応戦する。
「ハッ! まるで、高みの見物を今も続けている、どこぞの無責任なクソカラスのような態度だなぁ、ペルモンド? 要するに貴様は、自分は無実であると、そう言いたいのか?」
「ああ、そうだとも。それが事実だ」
「それを私に、信じろと?」
「お前がどう思おうが、俺の知ったことではない。信じるかどうか、それはお前の好きにすればいい。それに俺は、お前に理解を求めていない。だが、これが真実だ。それだけは、その固い頭の片隅によく刻みこんでおけ」
 乾いた笑みはそのままに、ペルモンド・バルロッツィの声はトーンダウンしていく。声が低くなるにつれ彼が纏う空気も、捕らえどころのない飄々としていた顔から、人を圧する殺気へと変わった。“高位技師官僚”という肩書が遂に剥がれ、“ペルモンド・バルロッツィ”という男の本性が顔を覗かせたのだ。
 そして本性が現れた途端、場の主導権はアーサーからペルモンド・バルロッツィに移る。
「そんなことよりもだ、アーサー。俺は、最近のお前の奇行のほうが気になっている。あのデボラと手を組み、エズラに喧嘩を売るとは。俺には、正気の沙汰としか思えないんだが」
 どちらかの牽制から始まり、アーサーの挑発を引き金に、ペルモンド・バルロッツィの独壇場が開幕する。それが彼らの、コミュニケーションの在り方だった。
 噛み合っていないようで、実は阿吽の呼吸である。腹の探り合いのようで、探り合うまでもなくお互いの腹の底は知れている。不仲のようで、これ以上の無い最高の二人でもある。
 だからこそいがみ合ってしまうのだ。
「アーサー、お前はどうしてラーナーの野郎を生き返らせたんだ? 奴を生き返らせたところで、有益な情報が得られたとも思えない。奴のような者がリビングデッドになったところで、心が脆ければ体も動かず、土くれに埋もれた屍と大差ないだろうに。駒としても、使い物にゃぁならねぇだろうな」
「…………」
「それに収穫と言えば精々、デボラとの友好関係を構築できた程度だろ? しかし、デボラとのコネクションが役に立つ日は来るとは思えない。ありゃ幼稚園児と仲良く手を結ぶようなレベルだ」
「ああ、貴様に言われずとも分かっているさ。デボラとの関係は、これっきりになるであろうことは」
「ならば何故お前は、あのような行為に及んだ? 昔のお前であれば、個々人の尊厳を愚弄するような真似はしなかったはずだろう。恨みや怒りといった、余計な感情に惑わされたのか」
 気がつけばお互い、無表情になっていた。そして、それまで重なっていてブレることがなかった視線が、初めて逸れる。目を逸らしたのは、アーサーだった。
「余計な感情、か。好奇心というものを“余計な感情”と言うならば、まあ確かに、そうかもしれないな……」
 アーサーは取り出したサングラスを装着しながら、そう言う。サングラスは彼の異形の目を隠すと同時に、醜悪に変わった自身の心とそれに伴う後悔を隠すようでもあった。そして彼は、独白を続ける。
「アバロセレンに汚染された魂が壊れていく過程を見てみたかったんだ。ラーナーは丁度いい場所に居た都合のいいサンプルだったんだよ」
「……お前は、なんてことを……」
「ペルモンド。お前はきっと、百年先の未来を見ているのだろう。そしてお前は存続の未来を模索している。だが私は、違う。遠い未来を見ている。数千年よりも、ずっと先。それこそ数億、数十億年といったスパンだ」
「……」
「言っただろう、ペルモンド。かつての私は死んだ。今の私は、名も無き死神。私は人ですらないのだよ。あのワタリガラスに新たな生を与えられ、何もかもを作り変えられたのだから」
「…………」
「かつてのお前はエズラにより殺され、エズラにより不死者へと作り変えられた。そして新たに“ペルモンド・バルロッツィ”という名を与えられたのだろう? しかしお前はまだ辛うじて人の心を持っている、普段は隠しているだけでな。だが私は違う」
 アーサーは、何故か笑顔を浮かべていた。その様を見つめるペルモンド・バルロッツィの顔は強張り、額からは血と共に冷や汗が滑り落ちる。怪物は死神を見つめ、掛けるべき言葉を見失っていたのだった。
 やがて辺りに煙が立ち込め、アーサーはその姿を煙と共に消す。地下空間に残された男は一人、頭を抱え込んでいた。


+ + +



 無惨に殺された、四名のASI局員の存在を覚えている者など、もう居ない。
 ましてや、駅構内で自殺した精神科医の男の名前を、知っている者など誰も居ないであろう。
 そしてエスペランスにて、一人孤独に日々を潰すような生活を送る女の存在を知る者も、誰も居ない。
 そんな世界に、気がつけばなっていた。
「あーッ、クソ。マジでムカつくったらありゃしねぇぜ」
 一〇年という時間は、人々に素晴らしき忘却を齎した。善行は墓に埋もれた。悲しみは歴史に忘れ去られた。悲劇は淡々と語り継がれた。悪行だけが歴史に名を残した。
 しかしそんな世界において、今なお名前を現役で轟かせている男が居た。
「なぁ聞いてくれよ、ベリー、アーヴィング。あの鷲鼻クソ眼鏡ジジィ、俺にだけやたら厳しいんだ。他のヤツらがどれだけ講義に遅刻しようが、お構いなしだってのに。俺だけ、五秒でも遅れたらあの百発百中のリングバインダーが飛んでくるんだぞ。おかしいだろ? なんで、俺だけ許されねぇんだ? それも、秒単位の世界で」
 天然ブロンドの髪をオールバックに固め、如何にも軽そうなヤツだという雰囲気を漂わせている男子学生は、そんなことを愚痴る。彼が言うところの「鷲鼻クソ眼鏡ジジィ」というのは、彼が専攻するアバロセレン工学科の名誉教授のことだ。
すると校内の食堂に集まっていた彼の友人二人は、そんな彼を馬鹿にするような表情を浮かべた。
「そりゃ、教授に対するお前の普段の態度が、あまりにも悪すぎるからだろ。面と向って『鷲鼻クソ眼鏡』と罵っているんだ、嫌われたって仕方が無い。下手をすりゃ、単位も貰えないかもしれないな」
 六等分に切り分けたマルゲリータピザから一切れを取り、そう言ったのは、さらさらとした黒髪に東洋風の顔立ちをした男子学生。金髪の彼の友人のひとり、アーヴィング・ネイピアだ。
 義肢装具士を目指す彼は機械工学を専攻する傍らで、アバロセレン工学の講義も受けている。そして数少ない“鷲鼻クソ眼鏡ジジィ”に気に入られた生徒の一人でもあった。
「そうねー。私も、アーヴィングに全面的に同意。教授に対して、あなたはやたら攻撃的というか、好戦的。要するに喧嘩を売りすぎなのよ、レオン。教えを請うてる身だってのに、あの態度ってあり得ないと思うのよね」
 そう言いながら、六等分のうちの二切れをそそくさと確保する女子学生の名前は、イザベル・クランツ。ブルネットでセミロングの髪を後ろでお団子に束ねた彼女もまた、金髪の男子学生の友人である。そして友人であると同時に、同じ児童養護施設で育った兄弟のような間柄でもあった。
 するとレオンと呼ばれた金髪の男子学生は、ピザの一切れを乱暴な手つきで取り、それを丸めて無理矢理自分の口の中に押し込む。それから彼は、もごもごとピザを噛みながら、こう言うのだった。
「俺は別に、アバロセレン工学の教えを請うために、この大学に進学したわけじゃねぇし。そもそもこの学科を専攻してるのは、あのクソジジィに接触したかったからだ。大昔に死んだ姉貴の件に、あのジジィが絡んでることはカルロのオッサンから聞いてる。だから、どうしてもその件について聞きたいってのに、あのジジィとくりゃ訊ねるたびに『記憶喪失なんで覚えてない』の一点張りだ。ふざけてんだろ、マジで。あの鷲鼻クソ眼鏡ジジィ、いつか絶対にあの鼻の骨を折って、再生不能にしてやる。それか一生、腹を下し続ける呪いを掛けてやるぜ」
「まぁ。レオンったら、なんて低レベルなの」
「ああ、本当に。やってることも、言っていることも、低レベルだ」
「好きに言えばいいさ。俺の鋼のハートは、その程度じゃ傷付かねーし」
 そんな金髪の男子学生の名前は、レオンハルト・エルスター。かつて殺されたASI局員を、そして自殺したことにされた精神科医の男を知る、数少ない人物だ。
 あのとき十二歳ほどの無力な少年だった彼も、十年が経過した今となっては可愛げもなくなり、輝かしいようでヘドロのようでもある青春を謳歌する不貞不貞しい大学生へと変貌していた。
 そしてレオンハルト・エルスターが言うところの『鷲鼻クソ眼鏡ジジィ』というのは、この大学の名物教授である、世紀の大天才のことだった。
「……ペルモンド・バルロッツィ!! 大天才だか何だか知らねぇが、俺は絶対に姉貴の事件の真相を聞き出すまで、諦めはしねぇからな!」
 ピザをごくりと飲み込み、レオンハルト・エルスターは大声でそう叫ぶ。食堂内に居た大学生たちから、一斉に白い目が注がれた。彼の傍に座っていた二人の友人も、居心地の悪そうな顔をする。
 しかしレオンハルト・エルスターは、構わずに叫び続けるのだった。
「今に見てろよ、鷲鼻クソめがッ――」
 だが、それも途中で遮られる。目にも止まらぬ速さで飛んで来た板状の何かが、彼の額の中央にドンッとクリーンヒットしたのだ。彼の額にぶつかったもの――百枚ほどの資料が綴じられた、真黒のリングバインダー――が、バサッと音を立てて食堂の床に落ちる。同時に額にリングバインダーを食らったレオンハルト・エルスターも、その場に倒れ込むのだった。
 レオンハルト・エルスターの傍にいたイザベル・クランツは、小さな悲鳴を上げる。しかし一切取り乱すことをせず、クールにすかした顔でピザを食べていたアーヴィング・ネイピアは、世にも恐ろしい笑顔を浮かべながらこちらに向かってきている男を見つめていた。
「噂をすれば、なんとやらだ。ペルモンド・バルロッツィ教授のお出ましだよ」


続く