夕暮れ時のキャンベラ首都特別地域。郊外に点在する貧民街のひとつ、カタリナ・ストリートに隣接した廃教会。教会敷地内の空いたスペースには、特務機関WACEの黒いSUVが停まっていた。
SUVの中に積まれていたのは、武器が詰め込まれたアタッシュケース数点と大規模な機材の山。しかし、中に人は誰も乗っていない。運転手と同乗者はSUVの外に居て、車のドアに背中を凭れるようにして立っていた。
「こんな雑務に付き合わせちまって。悪かったよ、ルーカンさん」
柄にもない感謝を述べるコールドウェルの横には、ライトブラウンの長い髪をポニーテールに結った女が居た。彼女の名前は、アイリーン・フィールド。特務機関WACEの中では“ルーカン”と呼ばれている女性である。
奇抜でビビッドな色合わせのファッションに、フリルが大胆にあしらわれたミニスカートを着こなしてみせるアイリーンの姿は、まるで現役の女子大生さながら。しかし彼女は、そんな見た目に合わず、かなりの高齢であった。
その年齢は、サー・アーサーよりやや年下といったところ。そしてパトリック・ラーナーの二周り上。三〇代後半の壮年男性のように見えるアーサーの年齢が、実は七〇手前であることから察するに……――アイリーンはそれなりにおばあちゃんだ。だが、そんなおばあちゃんの中身は二十七歳のコールドウェルよりもよほど若々しい。世の流行に敏感で、明るく気さくで、偶に騒がしい。どこか抜けた人柄も相まって、その処世術はかなりのものだ。
「いいんだよー、別に。気にしないでってば、アレックスちゃん」
そう言うとアイリーンは屈託のない笑顔を浮かべ、猫背になりかけていたコールドウェルの背を平手でバシンッと叩いた。それからアイリーンは言う。
「五十年前は人手が足りなくて、もっとハードな仕事をしてたもの。それに比べれば、この程度はなんのその。大したことないって」
「五十年前……。というと、まだこの大陸が海に浮かんでいた時代か」
「そう、アレックスちゃんが生まれるずーっと前のはなし。国の空軍が欧州大戦で大活躍してる反面、国内は様々な貧しさに喘いでた時代。線路がロクに整備されてないから、電車がしょっちゅう脱線事故とか起こしてた時代だよ。バスも時間通りになんか気やしない。公休日でもないのに、三日ぐらいバス会社が仕事しないなんてザラだった。時代遅れのガソリンなんていうエネルギーで車を走らせて、そこら中が排気ガス臭くて。それに首都圏なんて渋滞ばっかりで、郊外はスラムばっかりで、交通網はしょっちゅうマヒするし、都市をちょっと出れば治安はすごく悪いし……。あの頃は毎日のように大荷物を抱えてASIと連邦捜査局、市警察をハシゴして回ってたもの。それも、徒歩で! 道はどこもかしこもコンクリートで舗装されてるから都市部は熱くて、日差しは上からも下からも……。それと比べれば、今はいい時代だよ。楽だもん」
「楽であることに越したことはないけれども。その恩恵が、いつ牙を向くことになるやら……」
「あー。アレックスちゃんまで、パトリックみたいなシニカルなこと言ってる。さては洗脳されたか~?」
アイリーンは、そう言いながらニコニコと笑っている。だがコールドウェルは、そんな彼女からどこか淋しさのようなものを感じ取っていた。
コールドウェルとアイリーンのふたりは、朝からシドニーで二軒の家を訪ね、そののち高速道路に乗り、ここキャンベラで更に二軒の家を訪ねた。
訪問先はどれも“レッドラム”の事件の被害者遺族の家。本来コールドウェルは、相棒であるニールと共に回る予定だったのだが……――ニールは諸事情で、一週間ほど休暇を取得。仕方無くコールドウェルはWACEの同僚を頼ったのだ。
するとアイリーンが突然、ムッとした表情を浮かべる。彼女はこんなことを切りだしてきた。
「そういえば、アレックスちゃん。ノーイから聞いたんだけど。ニールくん、こんな忙しい時に有給を取ったんでしょ? それも一週間ちょい。なに考えてるの、彼」
その問いに対し、コールドウェルはどうでもいいような、取るに足らない質問を返す。
「ノーイ? 誰だい、そりゃ」
アイリーンはあきれ顔で答えた。「ノエミだよ。ノエミ・セディージョ」
「ああ、連邦共和国のシドニー支局長。へぇ、あの人とも知り合いなのかい。ルーカンさんよ」
「そうだよ。大昔にパトリックを通じて、ノーイとドクター・サントスとお友達になったの。それで、ニールくん。彼は今、なにをしてるの」
実のところ、コールドウェルは話題をニールから逸らそうとしていたのだが……経験豊富な先輩アイリーンにその手は通用しなかった。
コールドウェルを見つめるアイリーンの目は、静かな怒りに満ちている。温かな家庭とは無縁の世界で生きてきた孤独なキャリアウーマンの、無理解にして無寛容な冷たい怒りだ。コールドウェルが毛嫌いし、ニールが敬遠していた女性上司――とにかく堅物で融通が利かない副支局長リリー・フォスター――にどこかそっくりな雰囲気を、今のアイリーンは帯びていた。
苦笑するコールドウェルは、そんなアイリーンから少し目を逸らす。腕を組んだコールドウェルは、ぽつぽつとニールの事情を説明しはじめた。
「……実を言うと、ニールの野郎。本当は二週間前に、休暇を取得しているはずだったんだよ。一か月分を、まとめてごっそり。ただ、リリー・フォスターっつー上司が許さなかったんだわ。家族なんか親族に託して、自分は職務に邁進しなさいって言い張ってさ」
「なんで? どうして、一か月も休暇が必要になるわけ?」
「ニールの嫁さん……というか、まだ婚約者か。まあ、その婚約者が妊婦で、臨月なんだよ。そんで今朝、ついに陣痛が始まったらしくてね。今頃アイツは病院であたふたしてるはずだ。そこで諸々の事情を聞いた支局長が、機転を利かせて休暇を許可したってワケだよ」
「へぇ。独身貴族、仕事一筋の同志であるノーイが、許可したんだ……」
「サボってるわけじゃ、決してないからさ。大目に見ちゃくれないかね」
「そっか。なら、仕方無いね。なんだー、そんなことだったんだー」
一瞬、アイリーンの目が泳ぐ。だがすぐに、いつもの笑顔な彼女が戻ってきた。元気な子が生まれてくるといいねー、とアイリーンは和やかに言う。その横でコールドウェルは、何故かは分からないが気が気でなかった。首の後ろを、嫌な汗が伝っていくのを感じ取っていたのだ。
「そんじゃーさ、アレックスちゃん。ニールくんの子供の性別とかって知ってるの?」
「いいや、何も。婚約者が妊婦で臨月だっていう情報以外、アタシは何も聞かされてないさ」
「そうなの? 調べたりとか、しないの?」
「しないさ。なんで、そんなことを詮索しなくちゃいけない?」
「だって、相棒の子供じゃん。そのうえ、彼は幼馴染でしょ。あと元カレだし。ねー、アレックスちゃーん」
「最後のだけは断じて違う」
「気にならないほうがおかしい気がするけど」
「別に。アイツはアイツ、アタシはアタシだ。人さまのプライペートに首を突っ込むもんじゃないってのは、探偵だった親父の背を見て学習したからね」
「本当に? 何も知らないの?」
「ああ、そうさ。何も知らない。それに“死神”なんて呼ばれてる女が、これから新たに生まれてこようとしてる命に関わるべきじゃないだろう?」
「んー。納得できないなー」
「納得も理解も、他人に求めてないさ。仕事外の領域にあるお互いの事情に首を突っ込まない。必要以上のお節介は焼かない。これがアタシとアイツの間にある、暗黙のルールだから」
コールドウェルはそう言うと溜息を吐く。それから彼女は、今日の出来事を思い返した。
今日。まず最初に訪ねたのは、最年長被害者の遺族。アバロセレン犯罪対策部に四人存在する次長職のひとり、ジェイコヴ・パテル氏の家族だった。パテル氏の妻であったパメラ夫人と、その息子二人――十六歳のマイクと、十二歳のジョージ――は、父親の事実を知っていなかった。彼が情報機関ASIで働いていたこと、そして父親の本名――被害者の家族たちは被害者のことを『エドワード・シン』だと思っていた――、それと惨たらしく殺されたことを。
パメラ夫人は、三週間が経過しても一向に連絡もなく、帰ってこない夫の身を案じ続けていたという。警察にも相談し、捜索願を出そうとしたが、市警は受理してくれなかったそうだ。
夫が殉職した事実を知った夫人は静かに涙を流した。十二歳のジョージは「嘘だ」と言って、大声で泣きじゃくっていた。そして十六歳のマイクは、リビングに飾られていた家族写真を見つめ、そこに映る笑顔の父親に向かって、二度と届かぬ怒号を上げた。なんで大事なことを黙っていたのか、どうして国のために家族を捨てたのか、仕事の方が家族より大事だったのか、と。
「……アレックスちゃん」
次に訪ねたのは、最年少被害者の遺族。二十六歳、まだまだ見習いの新米局員だったケイト・ウェブ。彼女の両親が住まう家にコールドウェルらは足を運んだのだ。
玄関で出迎えてくれた被害者の母親は、黒スーツの来客に不信感を露わにさせた。そしてコールドウェルが被害者の名前「ケイト」を口にした瞬間、玄関のドアは来客を拒むように閉じられた。
そんな名前の娘、うちには居ません。母親は冷たく、そう言い放った。そこでアイリーンは、ドアの下にメモ書きを挿むことにした。メモには、ケイトが殉職したという事実と、彼女が埋葬された墓地の名前が書かれていた。
「やめてくれよ、ルーカン。そんな顔しないでくれって」
それから二人はシドニーに向かい、パトリック・ラーナーの両親が長男家族と共に暮らしているという家を訪ねた。まず二人を出迎えたのは、被害者の父親。父親はアイリーンを見るとなにかを察したらしく、静かにアイリーンとコールドウェルの二人を家の中に招き入れてくれた。
二人は改めて、事情を説明した。その場には被害者の両親と、長男夫妻が立ち会っていた。遺族は、アイリーンが淡々と話す被害者の事実をただ黙って聞いていた。そしてアイリーンが説明を終えたあと、父親は呟くようにこう言った。パトリックが情報機関に勤務していることは薄々気が付いていた、だが命を奪われるような危険な仕事だったとは全く知らなかった、と。
判事をしているという長男マイケル・ラーナーは、俯きながらこう言った。『仔猫の悪魔』の噂はアバロセレンがらみの裁判の中で聞いたことがあった、けれどもそれは同姓同名の別人だと思っていて、まさか自分の弟のことだとは思いもしなかった、と。その横で、同じく判事をしているという長男の妻レジーナは、戸惑うように俯いていた。
そうしてコールドウェルらが立ち去ろうとしたとき、被害者の母親は突然ヒステリーを起こした。母親はアイリーンに向かって、叫ぶようにこう言った。
『息子は、私の愛したパトリックは、三歳のときに死んだ。あなたたちが言っているパトリックは私の息子じゃない。息子そっくりの顔をした悪霊なのよ! 関わった人間を片っ端から破滅に追いやる、おぞましき悪魔。死んでくれて清々したわ!!』
『カルロ・サントスが、パトリックを壊したのよ! あの男が、私の息子を殺したの!!』
母親のあまりの気迫に押され、コールドウェルらはある事実を伝え忘れてしまった。墓から死体が盗み出され、その死体はもう二度と帰ってきそうにないということを。
そうして最後に訪れたのが、ここ。カタリナ・ストリートだ。最後の被害者ビル・キッドマンの唯一の肉親である妹に会いに来たのだ。しかし、その妹はとても話が出来る状態になかった。薬物に溺れ、まともとは言い難い姿になっていたのだ。
アイリーンはどうにか見つけ出した被害者の妹に、肉親の死を告げた。すると被害者の妹は不気味にケタケタと笑いだし、罵りの言葉を口にした。
『あたしをスラムに捨てた、クソ兄貴。死んで当然なんだよ』
そうして意気消沈し、コールドウェルらはSUVのもとに引き返してきた。遺族からの収穫は何もなし。無駄足だったと言えばそれまでだが、アイリーンは言った。これもひとつの経験だよ、と。
そんなこんなで、今日という日を思い返しながらコールドウェルはオレンジに染まる空を見上げる。三白眼の瞳には、どうにも救われない虚しさの波が押し寄せていた。その波に揺られながら、コールドウェルは言う。
「世の中には、何不自由ない普通の幸せを得られる家庭があれば、何も得られない不幸な人間も居るんだ。千差万別、多種多様。だからその人生に、アタシらみたいな亡霊が関わるべきじゃないんだよ。亡霊は普通の幸せをブチ壊し、不幸に更なる不幸を呼ぶだけだからね……」
三度の飯よりお喋りが大好きなアイリーンが、そのときだけ黙り込んだ。アイリーンは言葉を何も返さず、コールドウェルに一封のガムを差し出す。未開封のガムには、見覚えのある稲妻のロゴで「Vicious punch」と書かれていた。
「いらねぇって、そんなガム」
コールドウェルは、差し出されたガムを払いのける。すると負けじとアイリーンは、コールドウェルの手にガムをねじ込んできた。
「私もこのガム、要らないの。ノーイから貰ったけど、私は基本ガムなんか噛まないから。けどアレックスちゃんは、ガムをよくクチャクチャやってるでしょ?」
「いや、このガムだけは本当にいらないんだって。つーか、支局長はこのガムを配り歩いてるんですか?」
「ノーイの友達が、このガムを作ってる会社の社長さんなんだって。それでいっぱい貰うから配ってるって言ってたよ。あと、ノーイも気に入ってるガムだからオススメしてるって」
「マジか。あの支局長、仕事以外はアレだなぁ。色々と、その、何かのネジが外れてるっつーか……」
「ノーイは、うん。仕事以外は駄目駄目だねぇ」
「そこそこ美人なはずなのに、何かが欠けてるんだよな」
「イビキとかひどいしね。酒癖もそう。寝相も悪い。あと物が捨てられなくて、おまけに片付けも出来なくて、半ゴミ屋敷な汚部屋の女王様だよ。仕事以外は本当にダメなのよ、ノエミ・セディージョって人は」
「ハハッ。そりゃ、もしかすると、アタシの想像以上にひどいかもしれねぇな、支局長さんは……」
*
『連邦捜査局の特別捜査官たるもの、罪なき国民たちにその命を捧げるべきなのです。長期休暇など以ての外。事件はいついかなるときに起こるか、予測不可能なのですから。いつでも出動できるよう態勢を整えておく必要が我々にはあるのですよ』
『えっと、副支局長。つまり、出産間近の妻を病院に連れて行ったら、俺は支局に戻れと……?』
『第一、あなたはまだ結婚していないのでしょう? 未だ婚約の状態。正式な夫婦でもないのに……』
シドニー市内の小さな私立病院、産婦人科。そこの待合室で待ちぼうけを食らっていたニールは、自動販売機の缶コーヒーを片手にぼうっとしていた。
窓際の椅子に座り、朝の七時からずっと、かれこれ十二時間近くそこに居る。コールドウェルから送られてきたメールにも目を通さない彼の意識は、溜まっていた疲労と睡眠不足から、どこか遠くに飛びかけていた。
そんなニールが思い出していたのは、今朝の電話。二人存在している副支局長のうち女のほう、特命課を監督しているリリー・フォスターとの会話だった。
もし直属の上司が、もうひとりの副支局長――子煩悩なマイホームパパであることに定評があり、人柄もよく部下たちに慕われているが、仕事に関しての評判は微妙なエド・スミス――であれば、どれほど良かったことか。そんなことをニールは、休暇を申請する度にいつも感じていた。それほどニールは、リリー・フォスターという人物を苦手だと感じていた。
言い方は悪いが、彼女はまさに『売れ残った花嫁』だ。幸せな家庭、仲睦まじい夫婦というものに対するコンプレックスは尋常ではない。それがコンプレックスの域に留まっていたのなら、まだ彼女の気持ちを理解してやろうという気になれただろう。しかし彼女のコンプレックスは、もはや僻みや妬み、嫉みといったものに変わっている。それゆえに、ニールのような者に対する対応がやたらと厳しいのだ。
陣痛が始まり、出産を間近に控えた婚約者を、病院に捨てて支局に出勤しろと命じるような上司だ。そんな上司を信頼することなんて、出来っこない。
『ニール・アーチャー。返事は?』
『副支局長。今日だけは、本当に勘弁して下さい』
『アーチャー。あなた、今の状況がどれだけ切羽詰まっているか分かっているの? 妊婦は放っておいても大丈夫でしょ、病院が面倒を見てくれるんだから。それに子供は勝手に産まれてくるわ。けれども、あなたが追っている事件の犯人は未だ野放しになっているのよ。新たな被害者が出たら、どう責任をとるつもり?』
『それに関しちゃ、俺はコールドウェルの意見を信じてますよ。犯人の目的は既に果たされている、だからこれ以上の被害者は出ないと。だからって俺がなまけて良い理由にならないことは、勿論分かっています。けれど』
『口答えは無用。婚約者を病院に預けたら、すぐに支局へ』
『今日から来週の火曜まで、休みます。コールドウェルにはそのことを伝えてありますし、もし事件に関連したことで伝達事項があるのであれば、どうぞアレクサンドラ・コールドウェルのほうまで……――』
あのとき。頭に血がのぼっていたニールは、気がつけば副支局長が最も嫌っている人間、アレクサンドラ・コールドウェルの名前を口に出していた。ハンドルを握っていた彼の手には、苛立ちから力が籠っていた。耳も、押し寄せる激情から真っ赤になっていた。
スピーカー設定にしていた携帯電話からは、副支局長の溜息が届けられた。その横で車の助手席に座るシンシアは、絶え間なく襲い来る陣痛に呻き声をあげていた。ニールは副支局長の溜息を無視すると、アクセルを強く踏み込む。すると、そのとき。スピーカーから、ノエミ・セディージョ支局長の笑い声が聞こえてきたのだ。
『もう、リリーったら。奥さんの出産を控えた部下に、その態度はないんじゃないの?』
『支局長?! いつから、そこに』
『んー。結構前から、あなたの後ろにいたけど。会話も全部聞いてたわ。……盗み聞きってヤツ?』
『…………』
『アーチャー、聞こえてるー? 休暇を取得しなさい。これ、支局長命令だからねー。貯まっている有給で処理しておいてあげるから、一週間は家族水入らずで過ごすこと。けれど一週間で必ず帰ってきなさい。流石にエージェント・コールドウェルだけじゃ、私としても不安だから。それじゃ、バイバーイ』
『しかし、支局ちょッ……――』
ブツッ。今朝の会話は、途中から割り込んできた支局長が強引に通話を切るというかたちで幕を下ろした。支局長には感謝しかないが、それと同時に、これで良かったのだろうか……という気もニールにはしていた。
一週間の休暇で、ニールに与えられた大きな宿題。それはリリー・フォスターへの弁明を考えることなのだろう。今、分娩室で力んでいるであろうシンシアのことも心配ではあったが、なぜだか今はそれ以上に、リリー・フォスターに対する申し訳のない気持ちで頭がいっぱいになっていたのだ。
「……はぁー。俺は、どうしてこうも無能なのか……」
悪い人じゃないってのは分かっている。けれどもリリー・フォスターという人物はアクが強すぎて……。
むぅ……と眉間にしわを寄せ、ニールはそんな独り言を呟いた。すると待合室に居たひとりの男が、ニールのすぐ横の椅子にそっと腰を下ろす。彼は疲れた顔でニールに笑いかけてきた。
「あなたも、奥さんの出産待ちですか」
「ええ、そうなんですよ。かれこれ十二時間、ずっと待ってまして」
「十二時間も!?」
「……その間、何もできることがなく。暇というか、何だかモヤモヤしますね。こういうとき、男って何も出来ないもんですから」
「本当に、それですよ。別室で妻は苦しんでるってのに、旦那は何もしてやれないなんて。仕方のないことだってのは分かっているんですけど、何でも良いから、何かを手伝えたらって……ついつい、思っちまうんですよね」
やつれた顔に、疲れ切った笑みを浮かべるニールの肩に、なぜだか涙ぐんでいる男は腕を回す。ニールも、相手の肩に腕を回した。
男たちが待ちぼうけを食らっていた、待合室。そこで一時だけの友情が、生まれたような気がニールにはした……――のか?
*
「んー。あぁ、そうなの? てっきり、あなたが預かっているとばかり思ってたから。へー。アイリーンがあの子の面倒を見てるのね。……心配なのかって? そりゃ、当たり前でしょ。路頭に迷った子供を放っておくだなんて私の良心が許さないわ。…………あのね、そこはちゃんと分かってるわよ。彼女は訳ありっぽい子供、表の世界には引受先がないってことを。それと私はあなたの患者じゃないのよ。あーっ、やめて。すぐカウンセリングみたいな真似をし始めるの、あなたの悪いクセだわ」
電話の相手は、二〇年来の付き合いになる精神科医カルロ・サントス。デスクの隅に、こぢんまりと置かれた固定電話の受話器を左手に持つノエミ・セディージョ支局長は、今更ながら彼に掛けたことを後悔していた。
ちょっとした愚痴を零すと、すぐにこの医者は「ちゃんと寝てるのか?」「休憩は十分か?」「無理はするなよ。何かあったら、俺が相談に乗ってやるから」と要らぬお節介を焼いてくる。身体精神ともに健康そのもので、『結婚ができない。それらしい相手も見つからない』ということ以外では重大な悩みをこれといって抱えていない支局長にとって、彼のそういうところは非常に面倒臭いと感じていた。
そんな支局長が、カルロ・サントス医師に電話を掛けた理由。それはエイドという子供の所在を聞き出すためだった。そして用件は済んでいた。エイドの身柄は、アイリーン・フィールドが――つまり、特務機関WACEが――引き取ったことが分かったからだ。しかし、通話を切る機会が中々訪れない。カルロ・サントス医師が会話を切り上げてくれる気配がないのだ。
『クセもなにも、職業病ってやつだ。こればっかりは……』
「だからあなたは、友人ができないのよ。友人らしい友人は、私とリッキーだけでしょ。それにリッキーは死んだから、もう私だけね。仕事は出来ても、プライベートはズタボロ。可哀想なドクター・サントス。すぐにあれこれ詮索するから、いけないのよ。だからすぐに、女性に捨てられるの」
『それはお前のほうだろう? 俺にはジリアン・マクドネルという素晴らしい女性が居るんでな』
「そうね、私のほうか。私は交際に発展したことが一度もありませんからね~。捨てられたことも、捨てたこともないわ。清廉潔白な処女ですもの」
『はいはい、そうですか。鋼鉄の処女さん』
「そうよ、私はアイアン・メイデン。甘い幻想を股間に抱いて近付いてきた男どもを、懐に隠し持った“ありのままの姿”って針でグサグサ刺しちゃうんだから。男どもを幻滅させて、逃げ帰しちゃうのよ。……そして逃げて行った男たちはいつもリッキーに取られた。男に、男を取られたの! そのうえやつら全員、骨抜きにされてたのよ?! ゾッコン、メロメロ。理解に苦しむわ。それでやつらは最後、どうなったか聞きたい?」
『いや、聞きたくない』
「見事に調教されてリッキーの奴隷になってた! リッキーのお願いなら、たとえ無理難題だとしても喜んで何でも聞いちゃうような、都合の良い使いっぱしりよ。ASIで“ジゴロ”って呼ばれるのも当然よね。だって彼、ギブ・アンド・テイクの主従関係を、あっという間に築いちゃうんですもの。あれはまさしく、マゾ男量産機にして悪逆な搾取者よ。まるでサディスト。私が愛してやまなかった、あの可愛い弟はどこに消えてしまったのかしらね。もう死んだけど!」
『俺よりも、お前のほうがよっぽど可哀想な気がしてきたな……』
「なんですって? 私は可哀想なんかじゃないわ。いつでもどこでも前向き、ポジティヴ思考ですもの! ノエミ・セディージョはみんなの太陽よ!」
『痛々しいぜ』
「なんとでも言いなさいよ。私はもう、これ以上は傷つかないから!」
『そんじゃ、俺は仕事があるんで。切るぞ』
「はいよー。またねー」
通話を切る機会をずっと窺っていたはずなのに、結局は愚痴や不満を洗いざらい話すことになり、最後はなんとも憎いタイミングで相手から通話を切られた。受話器を戻す支局長は不満げに口を尖らせる。そして彼女は呟いた。
「……また、カールに負けちったなぁ……」
そんな支局長は空いた左手で頬杖を突くと、デスクの上に置かれた旧型のラップトップパソコンを見つめた。
メタリックシルバーの超旧型ボディ。気が遠くなるほどの大昔は主流だったものの、照射式が主流になった今ではあまり見かけなくなった、カタカタと音が鳴るキーボード。タッチパネルでない液晶モニター。使い古された幻の遺物、マウス。聞こえてくる重低音の主は、コンピュータに内蔵されたファン。脇には、わざわざ外付で設置されたUSBポートハブに、CDドライブ、メモリーカードリーダーが並んでいる。これらもまた超旧時代のもの、幻の遺物だ。
これらは今朝、神出鬼没な黒スーツの宅配人アーサーが、支局長宛てにと届けてきたもの。アーサーはこの旧時代の遺物セットを届けてきた際に、死者からの伝言も渡してきた。
『ラーナーの遺言に従い、ドクター・サントスには五冊の手帳を、君にはこれを預ける。彼曰く、この中にあるデータを安心して託せるのは、君だけだそうだ。……もし、この中身が連邦捜査局の手に余るようであれば、いつでもコールドウェルかアイリーンを頼ってくれ』
『遺言ですか? ASIで保管されていた書面に、そのようなことは記載されていないはずでしたけれど。私、見落としたのかしら』
『ノエミ。あなたはもう少し、整理整頓を心がけた方がいい。家も、オフィスも』
『それは、一体……?』
『彼が君宛てに遺した最期の言葉だよ』
最期の言葉、という意味深なワード。まるで死の間際、その傍にアーサーが立ち会っていたかのような……。支局長はアーサーに疑問をぶつけようとしたが、それを遮るようにアーサーは少し微笑んだ。それから彼は小声でこんな言葉を呟き、煙のように消えてしまった。
『身動きが取れなくなった魂の最期の言葉を聞き届け、滅することが死神の務め。あとに遺された物のことは、生ある者の手に委ねよう』
特務機関WACEの長、ちょこまかと各所に現れるアーサーという男。彼は人外で、人間世界の常識というものが通用しないことは、支局長もなんとなく理解している。だからこそ彼に関することは基本的に深入りしないよう心がけている支局長だが、今朝のアーサーの言葉には何かが引っ掛かってしまった。
死神。魂。滅する。
「…………」
単純な世界に生きていた若い頃であれば、くだらないオカルトだと笑い飛ばしていたことだろう。だが世界にはモンスターが潜んでいて、そのモンスターたちに人間が間接的に支配されている世界を見てしまってからは、彼女の考えは大きく変わってしまった。
各地の神話に登場する神々とか、イカれた宗教で崇められている父なる主とか、都市伝説の怪物とか、UFOとか。昔は、信じていなかった。科学で存在が証明できないものだから、目でしかと見て確認することができないものだから、だから存在しない。かつては、そう思い込んでいた。
けれども、人間の知識は完全ではない。人間が持ちうる知識では遠く及ばないものたちが、この世にはたしかに存在している……らしい。
「……困ったわね」
もし、神が実在するなら。もし、魂というものが概念だけでなく、本当に存在しているのなら。アーサーが本当に“死神”なら。アーサーが本当に、彼の最期の言葉を聞いていたのなら。アーサーが本当に、彼を消してしまったのなら……――支局長は、アーサーに訊きたいことが山ほどあった。
しかし、それは叶わぬ夢。アーサーほど口が堅い者を支局長は見たことがないからだ。きっと何かを尋ねたところで、彼に鼻で笑われるのがオチだ。
何かを揉み消し、何か正体のわからぬものを持ち去っていくが、肝心なことは何も教えてはくれない。それが特務機関WACEというもの。アーサーという男は、特にそうだ。だからこそ、そんな人物から何かを聞き出そうだなんて愚かなことは考えない。
――支局長はゆっくりと瞬きをし、再び開けた目で私物でないラップトップパソコンを見つめる。ラップトップパソコンの蓋をあけ、電源を点けた。ブート画面が出現し、起動処理が淡々と自動で進められていく。使い古された年代物の旧型機であるために、処理速度はとても遅い。支局長が水を飲みながら気長に待っていると、やがてディスプレイにログイン画面が表示される。ユーザー名には自動で「Gigolo」が参照され、パスワードの入力を求めるメッセージウィンドウが現れた。
パスワード、パスワード……。支局長は腕を組み、画面をじっと見つめる。彼女はパスワードを知らなかったのだ。
「……どうしましょうかね、これ」
このラップトップパソコンの持ち主は、パトリック・ラーナー。彼が個人使用のために保有している三機のうちの一台だ。自宅にあるデスクトップパソコンと、外出先で持ち歩くタブレット端末は、普段使い用。対してこのラップトップだけは、特定の人物とデータの遣り取りをするために保有していた。逆に言えば、それ以外に使い道が無かったのだ。
その遣り取りの相手とは、わざわざ古い物を好んで使う変わり者。失踪中のペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚だ。ペルモンド・バルロッツィが送り付けてきたファイルを開き、保存するためだけに、パトリック・ラーナーはこのラップトップを持っていたようなもの。それは支局長も知っているし、この中に貴重なデータが多数眠っていることも予想できていた。……が、しかし重大な問題が残っている。
「ねぇ、リッキー。私は機械に強くないの。パスワードなんて分かるわけがないでしょ。アイリーンみたいにハッキング……――なんて、出来っこないんだから」
ラップトップパソコンを前に項垂れる支局長は、苛立ちから黒髪を掻き乱す。
リッキーの馬鹿ァッ! ――彼女が、そんな奇声を上げようとしたときだった。支局長室のドアがノックもなしに、部屋の主の返答を待たぬまま開けられる。支局長は慌ててラップトップパソコンの蓋を、叩きつけるように締めた。
「ちょっと、いきなり入ってくるのはマナー違反っ……――あら、リリー?」
支局長室に入ってきたのは、二人いる副支局長のうちのひとり、リリー・フォスターのようだった。赤紫色のスクエアフレーム眼鏡と、真面目一辺倒なオーラを放つブルネットのストレートヘアがどことなく近寄り難さを想起させるのは、いつものこと。だが、このときのリリー・フォスターは何だか様子がおかしかった。
まるで何かを警戒するかのように支局長室の扉を静かに閉めたリリー・フォスターは、無表情で支局長の前に立つ。支局長はデスクの上に置かれたラップトップパソコンに触れると、それを自身の膝の上に移そうとした。
そして様子がおかしいリリー・フォスターを警戒しながら、支局長は彼女に話しかける。
「どうしたの、リリー。ノックもなしに入ってくるなんて、あなたらしくないっていうか。その、急ぎの用かしら?」
支局長が苦笑いを浮かべた、その瞬間だった。ラップトップパソコンの上に置いた支局長の右手の手首を、リリー・フォスターが突然ガッと掴む。支局長は顔を青ざめさせ、リリー・フォスターの顔を凝視した。
そのとき支局長は確信する。目の前に居るのはリリー・フォスター本人ではないと。そして思いだされるのは大昔の事件。
「……あなた、リリーじゃないわね」
ワイズ・イーグル暗殺事件。
約二〇年前、当時のASI長官だったバーソロミュー・ブラドッフォード氏。士官出身の彼は“ワイズ・イーグル”という渾名で広く慕われていた政治家だった。しかしバーソロミュー・ブラッドフォードはある日突然、暗殺された。犯人は当時のASI副長官、エズラ・ホフマンだった。
そのエズラ・ホフマンは警官により射殺されたとして事件は処理され、表向きは死んだことにされていたのだが。しかし事実は違っている。
エズラ・ホフマンが一度死んだのは、事実だ。 何者かにより拳銃のグリップか何かで後頭部を強く殴られ、彼は死んだ。そしてぴくりとも動かなくなった死体を連邦捜査局が見つけ、その死体を検視局へ運んだが。その数日後、検視局からエズラ・ホフマンの死体が消えた。続けてその後、町を自由に動き回るエズラ・ホフマンが目撃されるという珍事が起こった。
そして当時、死体の捜索に協力していた精神科医は捜査官たちに向けてこんなことを言った。
『犯人は間違いなくエズラ・ホフマン副長官だ。だが彼を人間だと思うな。別人になりすませるモンスターだと思え』
その言葉通り、エズラ・ホフマンはモンスターだった。バーソロミュー・ブラッドフォードを暗殺したその瞬間も、監視カメラは彼をエズラ・ホフマンとして映していなかった。とあるASI局員の姿に化けて、犯行に及んでいたのだ。
それから暗殺に付随して起きた誘拐事件でも、エズラ・ホフマンは別人になりすましていた。その際、姿を借りられたのは若かりし頃のノエミ・セディージョだ。また次に起きた誘拐事件でもエズラ・ホフマンは、シーメールのストリッパーになりすまし、人を攫っている。
エズラ・ホフマン。彼は、他人の姿を借り、自分を偽ることができるのだ。声や外見、身長や体格まで変えられるモンスターだった。
また、一連の事件の終結後に、事件そのものを隠蔽するためにアーサーが動き出したとき。アーサーはあのとき、捜査に関わった連邦捜査局の捜査官らにこう語っていた。
『エズラ・ホフマン。あれを逮捕し、刑務所に入れ、法廷に引き摺りだろうと考えているのならば、諦めたほうが良い。あれは君たちが思っている以上に凶悪な存在だ。人間の手でどうこうできる相手ではない。殺したところで何度でも生き返ってみせる。死人を増やしたくないのであれば、あれに関わらないことだ。つまり、あれの存在を葬り去れ』
そのアーサーの言葉を受け、連邦捜査局はエズラ・ホフマンを『警官により射殺された』ものだとした。……つまり今の今までずっと、凶悪犯は野放しにされていたということ。
そんなエズラ・ホフマンが今、支局長の前に居る。リリー・フォスターの振りをしているエズラ・ホフマンが、目の前に立っていたのだ。
「本物のリリー・フォスターなら、入室の前にノックをするわ。彼女は私よりも年上だけれども、挨拶や礼儀といったものをおざなりになんかしないもの。そういった肝心なことを省くのって、あなたぐらいしかいない。そうよね、エズラ・ホフマンさん? だから詰めが甘いって色んな人に言われちゃうのよ」
支局長は掴まれた手首を強引に振り解くと、ラップトップパソコンを隠すように自身の膝の上に乗せる。リリー・フォスターのように見えるその人物は表情を歪め、顔を醜く変えた。
「ほら、その顔。本物のリリーはそんなヒドい顔なんか人前で晒しませーん」
支局長は、リリー・フォスターによく似た顔に向けて人差し指を突き付ける。不敵な笑みを浮かべ、見下すような目で相手を見つめる支局長だが、その実は怯えていた。
いつ銃を突き付けられ、脅され、殺されるのか。油断が出来ない相手だと知っているからこそ、虚勢を張っていたのだ。
すると相手の表情は見る見るうちに強張っていく。それから相手は、しわがれた老人のような低い男声で凄んでみせた。「……その機械を寄越せ。さすれば危害は加えない」
「どっちにしろ、私を殺す気じゃなくて? それに渡す気なんか更々ないわ。ごめんなさーいねー。だって、私の大切な元相棒から託されたものですもの。そんなに欲しけりゃ、私を殺してみなさいな。生きている間は、アンタなんかにくれてやるつもりはない」
支局長が挑発をしてみせると相手は案の定、引っかかった。どこからともなく出現したナイフの切っ先が、支局長の喉元に向けられる。
これは好機だ。支局長は汗でしめりっ気を帯びた手で、音を立てぬよう静かに膝の上、デスクの裏側を探る。彼女の手は机の中央付近で、とある突起物を捉えた。支局長はデスクの裏を這わせた中指で、その突起物を力強く押す。その直後、室内にけたたましいサイレン音が鳴り響いた。
『緊急事態E3、支局長室より発生。これより出入を禁ず。全ての出入り口を封鎖』
『繰り返す。緊急事態E3、支局長室より発生。これより出入を禁ず。全ての出入り口を封鎖。局員は速やかに武装し、侵入者に備えよ。繰り返す。緊急事態――』
警告音は鳴りやむことを知らず、ビーッ、ビーッ、と耳にも心にも悪い機械的な低音を屋内に届かせる。ただちに全ての出入口は封鎖され、各窓には鋼鉄のシャッターが下り、内部は暗闇に包まれた。その後、自動で全ての階の明かりが点き、再びの明かりが戻る。その瞬間、支局長は相手の手からナイフを奪い取った。
「連邦捜査局、シドニー支局に侵入したのが運の尽きね。ここは凶悪犯罪多発地域だから、キャンベラの本部局よりも守りが厳重なのよ。囚われたら最後、抜け出せないわ。神出鬼没のサー・アーサーでもなければ不可能よ」
奪い取ったナイフの切っ先を、支局長は相手に向ける。しかし相手はシャッターに戸惑いこそしたものの、怯む様子など見せなかった。それどころか、支局長を虚仮にするような笑みさえ浮かべていた。
眉を顰めた支局長は、奪い取ったナイフの切っ先を相手の首に、刺さらない程度に当てる。切っ先は皮膚に窪みを作った。すると相手は、余裕そうな口ぶりで言った。
「奢り高ぶるなかれ、人の子よ。我らを見くびるな」
「……は?」
あれは、挑発? それとも警告か、何かなの? ――呆気にとられた支局長は一瞬、固まる。そうして支局長が気を抜いた隙だった。
手に握っていたナイフの柄に、重さが圧し掛かってきた。ナイフが、相手の首に突き刺さっていたのだ。しかし血は出ていない。相手は、息苦しさに悶え苦しむような素振りを見せていない。それに刺さった瞬間に覚えた手ごたえはまるで、綿入りのマネキンだ。マネキンにナイフを突き立てたような、プスッという軽い感触だったのだ。
けれども支局長は手を動かしてはいない。相手の方が、自らナイフの切っ先に刺さりにいったのだ。
「お前の盟友が死したときも、今と似たような状況であったな。ナイフを持つ者に殺意はなかった。ナイフを持つ者は、ただ相手を支配したいだけであった。対して持たざる者は、相手の思うままに支配されることは不愉快であると感じていた。であるからして、自害という選択をした」
「……何なのよ、アンタ。どうして血も吐かずに、普通に喋れるわけよ……」
「最期のとき、あれはまた壊れていた。所詮は傷の付いた欠陥品の魂。突如襲い来た過去に、成す術もなく呑まれ溺れていった。憐れなものよ」
首に刺さったナイフをそのままに、相手は凄絶な笑顔を浮かべる。リリー・フォスターと同じ顔を醜く歪め、支局長を嘲り笑っていた。
そのときだ。ナイフを掴んだままになっていた支局長の手に、ビリビリッと電流のようなものが走る。それと同時に彼女は声を聞き、映像を見た。
耳に馴染む、よく聞いていた声が、とぼとぼと呟いていた。やめてくれ、もうたくさんだ、こんなの耐えられない、早く殺してくれ……――何度も何度も、弱音を吐いていた。それから聞いたこともない女の高笑う声も聞こえた。
『あっれー、どうしちゃったの~? 私の好きな君はー、何も言わずに歯を食いしばって、ぐーっと痛みを耐える子だったのになぁー。アハハッ!』
肩に掛かるほどの長さに切りそろえられた亜麻色の髪。袖の無い白のセーター。ビビッドピンクのニット帽。明るい茶色のホットパンツ。右腕のタトゥー。そんな特徴を持つ女の背中が、支局長には見えていた。
その女の手には、細くて長いナイフが握られていた。それはまさに、ゴミ捨て場に遺棄されていた死体の首に刺さっていたナイフだ。その女の足元には、切り落とされた左腕と、壊された義肢と車椅子が転がっている。そして女の前には、小柄な男がぐったりとした様子で座り込んでいた。
男には四肢がなかった。両足と右腕は元から無かったが、左腕は高笑うニット帽の女に切り落とされたようだ。そして半開きの状態になっていた男の目に、目の前に立つニット帽の女は映っていないようだった。女の声も、聞こえていなさそうだ。
あぁ、リッキー。――目に見えているものは幻で、声が届くことはないと分かっていながらも、震える声が思わず口から零れ落ちる。それと同時に、するりと、それまで握っていたナイフの柄から支局長は手を離した。と、同時に現実に引き戻され、声や幻の何もかもが消え去る。代わりに、目と鼻の先には偽物のリリー・フォスターの顔があった。
「ノエミ・セディージョよ。お前は何故、死んだ男の遺物に取り憑く? 頑なに拒むのは、何故だ」
「そりゃこっちの台詞よ。アンタこそ、なんで赤の他人のパソコンに興味があるわけ? 相当やばい情報を彼に握られていたから、その証拠を消したいんでしょう。そうじゃなくって?」
「愚かにも、その態度を貫くというのだな」
そう言うと、相手は再び笑い声をあげた。そして相手は自身の首に刺さっていたナイフを引き抜くと、それを支局長室のドアに向かって投げる。
「ならば、それ相応の報いを与えるのみだ」
投げられたナイフはあろうことかドアを貫通し、ドアに穴をあけた。そして偽物のリリー・フォスターは、まるでアーサーのように煙となって消えていく。
待ちなさい、この卑怯者! 支局長はそう大声を上げようとした。けれども言葉はすぐに喉の奥に引っ込み、代わりに彼女の体は動く。
穴のあいたドアの向こうで、何かが倒れる音がしたのだ。それから、誰かの悲鳴が上がる。嫌な予感を感じ取った支局長は、すぐさま支局長室のドアを開けた。そして彼女は廊下の床に倒れ込んでいる人物を見る。
「うそでしょ、そんな……!」
そこには本物のリリー・フォスターが倒れていたのだ。そして倒れているリリー・フォスターの胸には、あのナイフが刺さっていた。それもちょうど心臓の下のあたりに。
「リリー、しっかりして。死んじゃ駄目よ。リリー、リリー・フォスター!」
*
「……シドニー支局が、エズラに襲撃された……?」
助手席に座るアイリーンは、膝の上に置いた大きなタブレット端末の画面を睨み、そんなことを言う。運転席に座り、大きな黒バンのハンドルを慣れた手つきで捌くコールドウェルは、穏やかではないアイリーンの言葉に、掌に汗を握った。「支局が襲撃って、どういうことだい」
「支局っていうか、支局長室だけピンポイントで。負傷者が出たらしいよ」
「まさか、支局長か?」
「いいや、だってこのメールの送り主がノーイだもの。彼女は元気にしてると思うよ」
「なら一体、誰が被害に……」
「リリー・フォスターって人だって。……アレックスちゃんは、知ってる?」
「ああ、知ってる。副支局長のひとりだ」
アイリーンが口にした名前に、コールドウェルは嫌悪感から眉間に皺をよせ、驚きから目を見開いた。
あのカタブツ女が、どうして。それにエズラは何故、支局長室に行った?
疑問は次から次に湧いて出てきて止まらないが、コールドウェルはとりあえずアイリーンの話を聞くことにした。そしてタブレット端末の画面に視線を落とすアイリーンは言う。
「そのフォスターって人が、かなりの重傷を負ったみたいだね。ERで処置を受けている最中だって」
「重傷ってのは、具体的に……」
「鳩尾の辺りに、ナイフがブスッと刺さったらしいね。腹部大動脈が破けて、そこから出血。ショックを起こしていて、予断を許さない状況だって。そしてナイフは、エズラの仕業だってさ」
タブレット端末を見つめながら、アイリーンは他人事であるように淡々とそう言う。対するコールドウェルは、嫌な冷や汗が全身の毛孔からどっと噴き出るのを感じていた。
リリー・フォスターという女性のことを、どちらかといえばコールドウェルは嫌っていた。リリー・フォスターとは規則にうるさく時間に厳しく、何もかもをきっちりとこなさないと気がすまないような、神経質な人物であったからだ。
彼女は愛想もないし、笑顔もないし。よく聞こえていた彼女の声は、部下を遠回しに叱りつけて責めるぴりぴりとした声だった。となれば、連邦捜査局の人間でもなく、しっかり者でもなければ、怠け癖のひどいコールドウェルにとって、彼女は疎ましくて仕方の無い存在でしかなかった。
しかし。いくら嫌いだからといえ、瀕死の重傷を負った相手に「ざまあみろ」と吐き捨てるほど、コールドウェルは軽薄ではない。気拙さと、後悔と、後ろめたさと……。そういったものたちが綯い交ぜになったヘドロが、心の奥底から湧き上がり始める。
自分はどうすればいいのか、今この場でどんな言葉を発するべきか。ヘドロの悪臭は思考を阻害し、彼女は何も考えられなくなっていた。
珍しく、落ち込んでしょげた顔をするコールドウェルの様子を察したアイリーンは、冷淡な溜息を零す。それからアイリーンは話題を、別の方向にもっていった。
「んで、エズラの狙いはパトリックの私物だったんだって。サーが今朝ノーイに届けたばっかりの、おんぼろポンコツなラップトップ。ラップトップをエズラが奪おうとして、それをノーイが拒んだら、エズラが逆切れして卑怯な手段に出たって話らしいよ。無茶苦茶だよね、ホント。いつも通りのエズラ・ホフマンで、もうイライラするわー」
アヒルのように唇を尖らせ、アイリーンは文句を並べる。しかしコールドウェルは笑わない、怒らない、嘲笑すらしない。なんとなく相槌を打っていることから、一応話は聞いているようなのだが、どうにも興味が湧いていないらしい。
こりゃもう、どうしようもない。アイリーンは頬を、餌を口に詰め込みすぎたハムスターのように膨らませる。それから口の中に溜め込んだ息を、ぷぅ~と吐き出した。
それからアイリーンは再度話題の転換を試みる。
「そーいえば、なんだけどさー。ここ数年、特務機関WACEの中で一番パトリックと距離が近かったのは、アレックスちゃんだったでしょ?」
コールドウェルの視線が正面から一瞬だけ逸れ、アイリーンを見た。名前を呼ばれたことで、コールドウェルはやっと話に食い付いたようだ。
コールドウェルはすぐにまた視線を正面に戻すと、アクセルを踏みこみながら頷く。それからコールドウェルは言った。「ああ、そうかもしれない。次長には色々、教わってたからな」
「WACEの流儀を叩きこまれた?」
「ASI流の尋問テクニック、報告連絡相談。銃の精密な射撃方法。護身術。急所の場所と狙い方、変装と特殊メイク、法律の抜け穴にまつわる知識、その他諸々。――そもそも何でもアリの特務機関WACEに、流儀なんていうもっともらしいものがあるってのか?」
「いや、あるよ? WACEにはWACEの矜持があるってば」
「で、それがどうしたんだ?」
「あっ、うん、それでね。そのパトリックのラップトップなんだけどさ。あの中に、どんなデータが入ってるのかって、アレックスちゃんは聞いたことある?」
「いや、特にないが。……まさか機械オタクのアイリーン・フィールドが、一切目を通してないってのかい?」
「そう、そうなの! まだノーイが持ってるから、中身を見られる可能性はあるけど……。あーっ、もう。やっぱサーに一言、言っとけばよかったあぁ~!」
アレックスちゃんが餌に掛かった! アイリーンがガッツポーズをひそかに取ったのも束の間、コールドウェルの一言に今度はアイリーンが現実にハッとさせられる。自分が犯した重大なミスに、アイリーンは今まさに気付かされていた。
そしてコールドウェルは、リリー・フォスターの件よりもよっぽど動揺しているといった声色で、アイリーンのミスを更に突く。
「よりによって、何で次長のあのコンピュータを確認しなかったんだ……。どう考えてもあの中には、手に入り難い貴重な情報が入っていただろうに。アンタらしくないミスじゃないか、ルーカン」
「サーが、変なこと言ってたの。それを渡した結果、何が起こるのか、その様子を見たいって。私は『先にコンピュータの中身を私に見させて』って言ったけど、サーは無視して持っていっちゃったの」
「そこはクソジジィをぶん殴ってでも、コンピュータを奪い取るべきだったんじゃあないのか」
「……――うにゅあああああ! なんでなの、アイリーン。私、どうしてあのコンピュータを奪い取らなかったの?! 最低、最悪、アタシのバカァッ! サーのやることには口を出さないって決めてたけど、やっぱり口を出すべきだった! ちょっとだけでも待ってもらうべきだった。……うわああああああああぁぁぁっ!」
「る、ルーカン?」
アイリーンは俯き、頭を抱え、髪を掻き毟る。綺麗にセットされていた髪はぼさぼさに乱れ、ひどい有様になっていた。そして俯いた顔から涙がぽたぽたと落ちて、ミニスカートの下からのぞいていた膝を濡らす。アイリーンは泣いていた。
「ルーカン、なにもそこまで思い詰めなくても……」
正面と助手席のアイリーンを、交互にちらちらと見ながら、コールドウェルは困惑していた。ここまで取り乱されると、どんな言葉を掛ければいいのかが思いつかなくなるからだ。
元来、アイリーンは完璧主義なきらいがあった。ファンシーな見た目に反して、彼女の性格は生真面目そのものなのだ。
彼女にとってミスは、許されざるもの。裏方のサポートを一手に引き受けている彼女は、他人のミスをフォローすることに慣れている。しかし彼女のミスをフォローできる人間が、WACEには居ない。彼女がしくじったら最後、とんでもない事態に発展するからだ。
けれども、だ。だからといえ、そこまで自分を追い込まなくてもいいのではないか。コールドウェルは常々、そう感じていた。まるで自分を理不尽に罰しているようだと。だがアイリーン本人は、そう思っていないようだ。
「これって重大なミス! もしかしたら、またサンレイズ研究所のときと同じになるかもしれないのよ?!」
「サンレイズ研究所? あの、白昼堂々と霧のように消えた、あのサンレイズ研究所か?」
「そうよ。あのときだって、高位技師官僚が怪しいサインを発していたにもかかわらず、私たちは気付けなかった。そのうち、あのホムンクルスの双子ちゃんが生まれて、高位技師官僚は失踪して、口封じの殺人が起きて、事件に巻き込まれたパトリックが負傷して、エズラだけが得をした。前も、そうだった。前と同じ状況に陥ってるの! 何をやってるのよ、アイリーン。これじゃ、また彼にひどいことをしたまま、何も出来ずに終わっちゃうじゃない……。それに、ペルモンド・バルロッツィに悪いこと全部押しつけて、私たちは、また何も出来ずに……――!」
「ラーナー次長が負傷した?」
「全部、私のせい! 普通の人間だって耐えられない枷を、普通よりもずっと弱くて脆いパトリックに押し付けたのよ! そしたら案の定、彼は壊れた。ひどい拷問の末に、エズラに右腕を麻酔もなしに切り落とされて。捜査官とドクター・サントスがパトリックを発見した時にはもう、彼は壊れてた。元からパトリックは、心に爆弾を抱えてたの。それを分かっていながら、私は彼に辛い仕事をさせた。そして彼は廃人になったの、一年半ぐらい。ドクター・サントスが傍に居なかったら、彼はずっと……ずっと……」
アイリーンの地雷を、コールドウェルは踏み抜いてしまったようだ。爆発した地雷の衝撃により、コールドウェルの頭は本格的に何も考えられなくなっていた。
そして爆発したアイリーンは、金切り声を上げる。
「私が、ASIとのコネ欲しさにパトリックを見出さなければ、彼はあんなことにならなかったのに! 私が、彼を壊した!! それなのに、ドクター・サントスはこっちの事情を一切知らないから、彼も自分のせいだって未だに自分を責め続けてる。全部、私が悪かったのに。私、なんて最低な人間なの。ホントに、私なんか……!」
「ルーカンさん、わぁかったよ。だから落ち着け、深呼吸だ」
そう言いながら、コールドウェルは前だけを見つめていた。ハンドルを握る手には、自然にぐっと力がこもる。
助手席に座るアイリーンを見てはいけないと、コールドウェルは感じていたからだ。すぐ隣に充満している負のオーラが、あまりにもキツすぎる。それを見てしまったら最後、同じ負の渦に巻き込まれてしまいそうな気がしたからだ。
「そうなりゃ、やるべきことは一つしかないはずだ」
コールドウェルは、口先だけのカッコ良さそうな台詞を言う。すると徐々に隣の負のオーラが薄れていった。アイリーンはハンカチで涙を拭うと、顔を上げる。そして嗚咽混じりに言う。「ノーイのとこに行こう。連邦捜査局、シドニー支局に。あのコンピュータからデータを発掘しなきゃ」
「そうこねぇとな」
片手間にカーナビの行き先を『連邦捜査局シドニー支局』に設定しつつ、コールドウェルはアクセルを強く深く踏み込む。全速前進、速度規制なんてガン無視だ。
その横でアイリーンはタブレット端末を操作し、支局長にメッセージを送りつける。今どこ? 支局に居る? 今からそっち向かってるんだけど、あのラップトップはまだ無事? すると返信が、ラップトップパソコンの写真とともに返ってきた。
私ならまだ支局長室にいる。缶詰め状態って感じ。
それとパソコンは無事よ、良くも悪くもね。
ただこのパソコンのパスワードが分からなくて、困ってるのよ。
お願いだから早く来て、アイリーン。
私、こういうの苦手だから。
せっかくのパソコンも、私の前じゃただの化石よ。
だからリッキーのためにも、頼むわ。
それとリリーは大丈夫そうだって、コールドウェルに伝えてね。
「まだノーイは局にいるみたい。急いで、アレックスちゃん」
「分かってるよ。現に今、飛ばしてんだろ?」
時速一五〇キロ。高速道路ですらそう滅多に見かけない速度で、真黒なSUVは道路を駆けていく。周りの風景はあまりの速さのせいで、その輪郭を捉えることすらできなくなっていた。
そんなSUVの真横を、一羽の真黒な烏が飛んでいく。
「……カラス?」
「アレックスちゃん、どうかしたの?」
「……あぁ、いや。なんでもない、気にするな」
ケケケッ。奇妙な声で鳴く烏だった。そして烏は、高速で走るSUVを追い抜かして飛んで行った。
その追い越し際、烏とコールドウェルの目があったような気がした。と同時に、コールドウェルは背筋を震わせる。烏の目が、まるで液化アバロセレンのように、そしてサー・アーサーの瞳孔の無い瞳のように、蒼白く輝いていたからだ。
【次話へ】
SUVの中に積まれていたのは、武器が詰め込まれたアタッシュケース数点と大規模な機材の山。しかし、中に人は誰も乗っていない。運転手と同乗者はSUVの外に居て、車のドアに背中を凭れるようにして立っていた。
「こんな雑務に付き合わせちまって。悪かったよ、ルーカンさん」
柄にもない感謝を述べるコールドウェルの横には、ライトブラウンの長い髪をポニーテールに結った女が居た。彼女の名前は、アイリーン・フィールド。特務機関WACEの中では“ルーカン”と呼ばれている女性である。
奇抜でビビッドな色合わせのファッションに、フリルが大胆にあしらわれたミニスカートを着こなしてみせるアイリーンの姿は、まるで現役の女子大生さながら。しかし彼女は、そんな見た目に合わず、かなりの高齢であった。
その年齢は、サー・アーサーよりやや年下といったところ。そしてパトリック・ラーナーの二周り上。三〇代後半の壮年男性のように見えるアーサーの年齢が、実は七〇手前であることから察するに……――アイリーンはそれなりにおばあちゃんだ。だが、そんなおばあちゃんの中身は二十七歳のコールドウェルよりもよほど若々しい。世の流行に敏感で、明るく気さくで、偶に騒がしい。どこか抜けた人柄も相まって、その処世術はかなりのものだ。
「いいんだよー、別に。気にしないでってば、アレックスちゃん」
そう言うとアイリーンは屈託のない笑顔を浮かべ、猫背になりかけていたコールドウェルの背を平手でバシンッと叩いた。それからアイリーンは言う。
「五十年前は人手が足りなくて、もっとハードな仕事をしてたもの。それに比べれば、この程度はなんのその。大したことないって」
「五十年前……。というと、まだこの大陸が海に浮かんでいた時代か」
「そう、アレックスちゃんが生まれるずーっと前のはなし。国の空軍が欧州大戦で大活躍してる反面、国内は様々な貧しさに喘いでた時代。線路がロクに整備されてないから、電車がしょっちゅう脱線事故とか起こしてた時代だよ。バスも時間通りになんか気やしない。公休日でもないのに、三日ぐらいバス会社が仕事しないなんてザラだった。時代遅れのガソリンなんていうエネルギーで車を走らせて、そこら中が排気ガス臭くて。それに首都圏なんて渋滞ばっかりで、郊外はスラムばっかりで、交通網はしょっちゅうマヒするし、都市をちょっと出れば治安はすごく悪いし……。あの頃は毎日のように大荷物を抱えてASIと連邦捜査局、市警察をハシゴして回ってたもの。それも、徒歩で! 道はどこもかしこもコンクリートで舗装されてるから都市部は熱くて、日差しは上からも下からも……。それと比べれば、今はいい時代だよ。楽だもん」
「楽であることに越したことはないけれども。その恩恵が、いつ牙を向くことになるやら……」
「あー。アレックスちゃんまで、パトリックみたいなシニカルなこと言ってる。さては洗脳されたか~?」
アイリーンは、そう言いながらニコニコと笑っている。だがコールドウェルは、そんな彼女からどこか淋しさのようなものを感じ取っていた。
コールドウェルとアイリーンのふたりは、朝からシドニーで二軒の家を訪ね、そののち高速道路に乗り、ここキャンベラで更に二軒の家を訪ねた。
訪問先はどれも“レッドラム”の事件の被害者遺族の家。本来コールドウェルは、相棒であるニールと共に回る予定だったのだが……――ニールは諸事情で、一週間ほど休暇を取得。仕方無くコールドウェルはWACEの同僚を頼ったのだ。
するとアイリーンが突然、ムッとした表情を浮かべる。彼女はこんなことを切りだしてきた。
「そういえば、アレックスちゃん。ノーイから聞いたんだけど。ニールくん、こんな忙しい時に有給を取ったんでしょ? それも一週間ちょい。なに考えてるの、彼」
その問いに対し、コールドウェルはどうでもいいような、取るに足らない質問を返す。
「ノーイ? 誰だい、そりゃ」
アイリーンはあきれ顔で答えた。「ノエミだよ。ノエミ・セディージョ」
「ああ、連邦共和国のシドニー支局長。へぇ、あの人とも知り合いなのかい。ルーカンさんよ」
「そうだよ。大昔にパトリックを通じて、ノーイとドクター・サントスとお友達になったの。それで、ニールくん。彼は今、なにをしてるの」
実のところ、コールドウェルは話題をニールから逸らそうとしていたのだが……経験豊富な先輩アイリーンにその手は通用しなかった。
コールドウェルを見つめるアイリーンの目は、静かな怒りに満ちている。温かな家庭とは無縁の世界で生きてきた孤独なキャリアウーマンの、無理解にして無寛容な冷たい怒りだ。コールドウェルが毛嫌いし、ニールが敬遠していた女性上司――とにかく堅物で融通が利かない副支局長リリー・フォスター――にどこかそっくりな雰囲気を、今のアイリーンは帯びていた。
苦笑するコールドウェルは、そんなアイリーンから少し目を逸らす。腕を組んだコールドウェルは、ぽつぽつとニールの事情を説明しはじめた。
「……実を言うと、ニールの野郎。本当は二週間前に、休暇を取得しているはずだったんだよ。一か月分を、まとめてごっそり。ただ、リリー・フォスターっつー上司が許さなかったんだわ。家族なんか親族に託して、自分は職務に邁進しなさいって言い張ってさ」
「なんで? どうして、一か月も休暇が必要になるわけ?」
「ニールの嫁さん……というか、まだ婚約者か。まあ、その婚約者が妊婦で、臨月なんだよ。そんで今朝、ついに陣痛が始まったらしくてね。今頃アイツは病院であたふたしてるはずだ。そこで諸々の事情を聞いた支局長が、機転を利かせて休暇を許可したってワケだよ」
「へぇ。独身貴族、仕事一筋の同志であるノーイが、許可したんだ……」
「サボってるわけじゃ、決してないからさ。大目に見ちゃくれないかね」
「そっか。なら、仕方無いね。なんだー、そんなことだったんだー」
一瞬、アイリーンの目が泳ぐ。だがすぐに、いつもの笑顔な彼女が戻ってきた。元気な子が生まれてくるといいねー、とアイリーンは和やかに言う。その横でコールドウェルは、何故かは分からないが気が気でなかった。首の後ろを、嫌な汗が伝っていくのを感じ取っていたのだ。
「そんじゃーさ、アレックスちゃん。ニールくんの子供の性別とかって知ってるの?」
「いいや、何も。婚約者が妊婦で臨月だっていう情報以外、アタシは何も聞かされてないさ」
「そうなの? 調べたりとか、しないの?」
「しないさ。なんで、そんなことを詮索しなくちゃいけない?」
「だって、相棒の子供じゃん。そのうえ、彼は幼馴染でしょ。あと元カレだし。ねー、アレックスちゃーん」
「最後のだけは断じて違う」
「気にならないほうがおかしい気がするけど」
「別に。アイツはアイツ、アタシはアタシだ。人さまのプライペートに首を突っ込むもんじゃないってのは、探偵だった親父の背を見て学習したからね」
「本当に? 何も知らないの?」
「ああ、そうさ。何も知らない。それに“死神”なんて呼ばれてる女が、これから新たに生まれてこようとしてる命に関わるべきじゃないだろう?」
「んー。納得できないなー」
「納得も理解も、他人に求めてないさ。仕事外の領域にあるお互いの事情に首を突っ込まない。必要以上のお節介は焼かない。これがアタシとアイツの間にある、暗黙のルールだから」
コールドウェルはそう言うと溜息を吐く。それから彼女は、今日の出来事を思い返した。
今日。まず最初に訪ねたのは、最年長被害者の遺族。アバロセレン犯罪対策部に四人存在する次長職のひとり、ジェイコヴ・パテル氏の家族だった。パテル氏の妻であったパメラ夫人と、その息子二人――十六歳のマイクと、十二歳のジョージ――は、父親の事実を知っていなかった。彼が情報機関ASIで働いていたこと、そして父親の本名――被害者の家族たちは被害者のことを『エドワード・シン』だと思っていた――、それと惨たらしく殺されたことを。
パメラ夫人は、三週間が経過しても一向に連絡もなく、帰ってこない夫の身を案じ続けていたという。警察にも相談し、捜索願を出そうとしたが、市警は受理してくれなかったそうだ。
夫が殉職した事実を知った夫人は静かに涙を流した。十二歳のジョージは「嘘だ」と言って、大声で泣きじゃくっていた。そして十六歳のマイクは、リビングに飾られていた家族写真を見つめ、そこに映る笑顔の父親に向かって、二度と届かぬ怒号を上げた。なんで大事なことを黙っていたのか、どうして国のために家族を捨てたのか、仕事の方が家族より大事だったのか、と。
「……アレックスちゃん」
次に訪ねたのは、最年少被害者の遺族。二十六歳、まだまだ見習いの新米局員だったケイト・ウェブ。彼女の両親が住まう家にコールドウェルらは足を運んだのだ。
玄関で出迎えてくれた被害者の母親は、黒スーツの来客に不信感を露わにさせた。そしてコールドウェルが被害者の名前「ケイト」を口にした瞬間、玄関のドアは来客を拒むように閉じられた。
そんな名前の娘、うちには居ません。母親は冷たく、そう言い放った。そこでアイリーンは、ドアの下にメモ書きを挿むことにした。メモには、ケイトが殉職したという事実と、彼女が埋葬された墓地の名前が書かれていた。
「やめてくれよ、ルーカン。そんな顔しないでくれって」
それから二人はシドニーに向かい、パトリック・ラーナーの両親が長男家族と共に暮らしているという家を訪ねた。まず二人を出迎えたのは、被害者の父親。父親はアイリーンを見るとなにかを察したらしく、静かにアイリーンとコールドウェルの二人を家の中に招き入れてくれた。
二人は改めて、事情を説明した。その場には被害者の両親と、長男夫妻が立ち会っていた。遺族は、アイリーンが淡々と話す被害者の事実をただ黙って聞いていた。そしてアイリーンが説明を終えたあと、父親は呟くようにこう言った。パトリックが情報機関に勤務していることは薄々気が付いていた、だが命を奪われるような危険な仕事だったとは全く知らなかった、と。
判事をしているという長男マイケル・ラーナーは、俯きながらこう言った。『仔猫の悪魔』の噂はアバロセレンがらみの裁判の中で聞いたことがあった、けれどもそれは同姓同名の別人だと思っていて、まさか自分の弟のことだとは思いもしなかった、と。その横で、同じく判事をしているという長男の妻レジーナは、戸惑うように俯いていた。
そうしてコールドウェルらが立ち去ろうとしたとき、被害者の母親は突然ヒステリーを起こした。母親はアイリーンに向かって、叫ぶようにこう言った。
『息子は、私の愛したパトリックは、三歳のときに死んだ。あなたたちが言っているパトリックは私の息子じゃない。息子そっくりの顔をした悪霊なのよ! 関わった人間を片っ端から破滅に追いやる、おぞましき悪魔。死んでくれて清々したわ!!』
『カルロ・サントスが、パトリックを壊したのよ! あの男が、私の息子を殺したの!!』
母親のあまりの気迫に押され、コールドウェルらはある事実を伝え忘れてしまった。墓から死体が盗み出され、その死体はもう二度と帰ってきそうにないということを。
そうして最後に訪れたのが、ここ。カタリナ・ストリートだ。最後の被害者ビル・キッドマンの唯一の肉親である妹に会いに来たのだ。しかし、その妹はとても話が出来る状態になかった。薬物に溺れ、まともとは言い難い姿になっていたのだ。
アイリーンはどうにか見つけ出した被害者の妹に、肉親の死を告げた。すると被害者の妹は不気味にケタケタと笑いだし、罵りの言葉を口にした。
『あたしをスラムに捨てた、クソ兄貴。死んで当然なんだよ』
そうして意気消沈し、コールドウェルらはSUVのもとに引き返してきた。遺族からの収穫は何もなし。無駄足だったと言えばそれまでだが、アイリーンは言った。これもひとつの経験だよ、と。
そんなこんなで、今日という日を思い返しながらコールドウェルはオレンジに染まる空を見上げる。三白眼の瞳には、どうにも救われない虚しさの波が押し寄せていた。その波に揺られながら、コールドウェルは言う。
「世の中には、何不自由ない普通の幸せを得られる家庭があれば、何も得られない不幸な人間も居るんだ。千差万別、多種多様。だからその人生に、アタシらみたいな亡霊が関わるべきじゃないんだよ。亡霊は普通の幸せをブチ壊し、不幸に更なる不幸を呼ぶだけだからね……」
三度の飯よりお喋りが大好きなアイリーンが、そのときだけ黙り込んだ。アイリーンは言葉を何も返さず、コールドウェルに一封のガムを差し出す。未開封のガムには、見覚えのある稲妻のロゴで「Vicious punch」と書かれていた。
「いらねぇって、そんなガム」
コールドウェルは、差し出されたガムを払いのける。すると負けじとアイリーンは、コールドウェルの手にガムをねじ込んできた。
「私もこのガム、要らないの。ノーイから貰ったけど、私は基本ガムなんか噛まないから。けどアレックスちゃんは、ガムをよくクチャクチャやってるでしょ?」
「いや、このガムだけは本当にいらないんだって。つーか、支局長はこのガムを配り歩いてるんですか?」
「ノーイの友達が、このガムを作ってる会社の社長さんなんだって。それでいっぱい貰うから配ってるって言ってたよ。あと、ノーイも気に入ってるガムだからオススメしてるって」
「マジか。あの支局長、仕事以外はアレだなぁ。色々と、その、何かのネジが外れてるっつーか……」
「ノーイは、うん。仕事以外は駄目駄目だねぇ」
「そこそこ美人なはずなのに、何かが欠けてるんだよな」
「イビキとかひどいしね。酒癖もそう。寝相も悪い。あと物が捨てられなくて、おまけに片付けも出来なくて、半ゴミ屋敷な汚部屋の女王様だよ。仕事以外は本当にダメなのよ、ノエミ・セディージョって人は」
「ハハッ。そりゃ、もしかすると、アタシの想像以上にひどいかもしれねぇな、支局長さんは……」
『連邦捜査局の特別捜査官たるもの、罪なき国民たちにその命を捧げるべきなのです。長期休暇など以ての外。事件はいついかなるときに起こるか、予測不可能なのですから。いつでも出動できるよう態勢を整えておく必要が我々にはあるのですよ』
『えっと、副支局長。つまり、出産間近の妻を病院に連れて行ったら、俺は支局に戻れと……?』
『第一、あなたはまだ結婚していないのでしょう? 未だ婚約の状態。正式な夫婦でもないのに……』
シドニー市内の小さな私立病院、産婦人科。そこの待合室で待ちぼうけを食らっていたニールは、自動販売機の缶コーヒーを片手にぼうっとしていた。
窓際の椅子に座り、朝の七時からずっと、かれこれ十二時間近くそこに居る。コールドウェルから送られてきたメールにも目を通さない彼の意識は、溜まっていた疲労と睡眠不足から、どこか遠くに飛びかけていた。
そんなニールが思い出していたのは、今朝の電話。二人存在している副支局長のうち女のほう、特命課を監督しているリリー・フォスターとの会話だった。
もし直属の上司が、もうひとりの副支局長――子煩悩なマイホームパパであることに定評があり、人柄もよく部下たちに慕われているが、仕事に関しての評判は微妙なエド・スミス――であれば、どれほど良かったことか。そんなことをニールは、休暇を申請する度にいつも感じていた。それほどニールは、リリー・フォスターという人物を苦手だと感じていた。
言い方は悪いが、彼女はまさに『売れ残った花嫁』だ。幸せな家庭、仲睦まじい夫婦というものに対するコンプレックスは尋常ではない。それがコンプレックスの域に留まっていたのなら、まだ彼女の気持ちを理解してやろうという気になれただろう。しかし彼女のコンプレックスは、もはや僻みや妬み、嫉みといったものに変わっている。それゆえに、ニールのような者に対する対応がやたらと厳しいのだ。
陣痛が始まり、出産を間近に控えた婚約者を、病院に捨てて支局に出勤しろと命じるような上司だ。そんな上司を信頼することなんて、出来っこない。
『ニール・アーチャー。返事は?』
『副支局長。今日だけは、本当に勘弁して下さい』
『アーチャー。あなた、今の状況がどれだけ切羽詰まっているか分かっているの? 妊婦は放っておいても大丈夫でしょ、病院が面倒を見てくれるんだから。それに子供は勝手に産まれてくるわ。けれども、あなたが追っている事件の犯人は未だ野放しになっているのよ。新たな被害者が出たら、どう責任をとるつもり?』
『それに関しちゃ、俺はコールドウェルの意見を信じてますよ。犯人の目的は既に果たされている、だからこれ以上の被害者は出ないと。だからって俺がなまけて良い理由にならないことは、勿論分かっています。けれど』
『口答えは無用。婚約者を病院に預けたら、すぐに支局へ』
『今日から来週の火曜まで、休みます。コールドウェルにはそのことを伝えてありますし、もし事件に関連したことで伝達事項があるのであれば、どうぞアレクサンドラ・コールドウェルのほうまで……――』
あのとき。頭に血がのぼっていたニールは、気がつけば副支局長が最も嫌っている人間、アレクサンドラ・コールドウェルの名前を口に出していた。ハンドルを握っていた彼の手には、苛立ちから力が籠っていた。耳も、押し寄せる激情から真っ赤になっていた。
スピーカー設定にしていた携帯電話からは、副支局長の溜息が届けられた。その横で車の助手席に座るシンシアは、絶え間なく襲い来る陣痛に呻き声をあげていた。ニールは副支局長の溜息を無視すると、アクセルを強く踏み込む。すると、そのとき。スピーカーから、ノエミ・セディージョ支局長の笑い声が聞こえてきたのだ。
『もう、リリーったら。奥さんの出産を控えた部下に、その態度はないんじゃないの?』
『支局長?! いつから、そこに』
『んー。結構前から、あなたの後ろにいたけど。会話も全部聞いてたわ。……盗み聞きってヤツ?』
『…………』
『アーチャー、聞こえてるー? 休暇を取得しなさい。これ、支局長命令だからねー。貯まっている有給で処理しておいてあげるから、一週間は家族水入らずで過ごすこと。けれど一週間で必ず帰ってきなさい。流石にエージェント・コールドウェルだけじゃ、私としても不安だから。それじゃ、バイバーイ』
『しかし、支局ちょッ……――』
ブツッ。今朝の会話は、途中から割り込んできた支局長が強引に通話を切るというかたちで幕を下ろした。支局長には感謝しかないが、それと同時に、これで良かったのだろうか……という気もニールにはしていた。
一週間の休暇で、ニールに与えられた大きな宿題。それはリリー・フォスターへの弁明を考えることなのだろう。今、分娩室で力んでいるであろうシンシアのことも心配ではあったが、なぜだか今はそれ以上に、リリー・フォスターに対する申し訳のない気持ちで頭がいっぱいになっていたのだ。
「……はぁー。俺は、どうしてこうも無能なのか……」
悪い人じゃないってのは分かっている。けれどもリリー・フォスターという人物はアクが強すぎて……。
むぅ……と眉間にしわを寄せ、ニールはそんな独り言を呟いた。すると待合室に居たひとりの男が、ニールのすぐ横の椅子にそっと腰を下ろす。彼は疲れた顔でニールに笑いかけてきた。
「あなたも、奥さんの出産待ちですか」
「ええ、そうなんですよ。かれこれ十二時間、ずっと待ってまして」
「十二時間も!?」
「……その間、何もできることがなく。暇というか、何だかモヤモヤしますね。こういうとき、男って何も出来ないもんですから」
「本当に、それですよ。別室で妻は苦しんでるってのに、旦那は何もしてやれないなんて。仕方のないことだってのは分かっているんですけど、何でも良いから、何かを手伝えたらって……ついつい、思っちまうんですよね」
やつれた顔に、疲れ切った笑みを浮かべるニールの肩に、なぜだか涙ぐんでいる男は腕を回す。ニールも、相手の肩に腕を回した。
男たちが待ちぼうけを食らっていた、待合室。そこで一時だけの友情が、生まれたような気がニールにはした……――のか?
「んー。あぁ、そうなの? てっきり、あなたが預かっているとばかり思ってたから。へー。アイリーンがあの子の面倒を見てるのね。……心配なのかって? そりゃ、当たり前でしょ。路頭に迷った子供を放っておくだなんて私の良心が許さないわ。…………あのね、そこはちゃんと分かってるわよ。彼女は訳ありっぽい子供、表の世界には引受先がないってことを。それと私はあなたの患者じゃないのよ。あーっ、やめて。すぐカウンセリングみたいな真似をし始めるの、あなたの悪いクセだわ」
電話の相手は、二〇年来の付き合いになる精神科医カルロ・サントス。デスクの隅に、こぢんまりと置かれた固定電話の受話器を左手に持つノエミ・セディージョ支局長は、今更ながら彼に掛けたことを後悔していた。
ちょっとした愚痴を零すと、すぐにこの医者は「ちゃんと寝てるのか?」「休憩は十分か?」「無理はするなよ。何かあったら、俺が相談に乗ってやるから」と要らぬお節介を焼いてくる。身体精神ともに健康そのもので、『結婚ができない。それらしい相手も見つからない』ということ以外では重大な悩みをこれといって抱えていない支局長にとって、彼のそういうところは非常に面倒臭いと感じていた。
そんな支局長が、カルロ・サントス医師に電話を掛けた理由。それはエイドという子供の所在を聞き出すためだった。そして用件は済んでいた。エイドの身柄は、アイリーン・フィールドが――つまり、特務機関WACEが――引き取ったことが分かったからだ。しかし、通話を切る機会が中々訪れない。カルロ・サントス医師が会話を切り上げてくれる気配がないのだ。
『クセもなにも、職業病ってやつだ。こればっかりは……』
「だからあなたは、友人ができないのよ。友人らしい友人は、私とリッキーだけでしょ。それにリッキーは死んだから、もう私だけね。仕事は出来ても、プライベートはズタボロ。可哀想なドクター・サントス。すぐにあれこれ詮索するから、いけないのよ。だからすぐに、女性に捨てられるの」
『それはお前のほうだろう? 俺にはジリアン・マクドネルという素晴らしい女性が居るんでな』
「そうね、私のほうか。私は交際に発展したことが一度もありませんからね~。捨てられたことも、捨てたこともないわ。清廉潔白な処女ですもの」
『はいはい、そうですか。鋼鉄の処女さん』
「そうよ、私はアイアン・メイデン。甘い幻想を股間に抱いて近付いてきた男どもを、懐に隠し持った“ありのままの姿”って針でグサグサ刺しちゃうんだから。男どもを幻滅させて、逃げ帰しちゃうのよ。……そして逃げて行った男たちはいつもリッキーに取られた。男に、男を取られたの! そのうえやつら全員、骨抜きにされてたのよ?! ゾッコン、メロメロ。理解に苦しむわ。それでやつらは最後、どうなったか聞きたい?」
『いや、聞きたくない』
「見事に調教されてリッキーの奴隷になってた! リッキーのお願いなら、たとえ無理難題だとしても喜んで何でも聞いちゃうような、都合の良い使いっぱしりよ。ASIで“ジゴロ”って呼ばれるのも当然よね。だって彼、ギブ・アンド・テイクの主従関係を、あっという間に築いちゃうんですもの。あれはまさしく、マゾ男量産機にして悪逆な搾取者よ。まるでサディスト。私が愛してやまなかった、あの可愛い弟はどこに消えてしまったのかしらね。もう死んだけど!」
『俺よりも、お前のほうがよっぽど可哀想な気がしてきたな……』
「なんですって? 私は可哀想なんかじゃないわ。いつでもどこでも前向き、ポジティヴ思考ですもの! ノエミ・セディージョはみんなの太陽よ!」
『痛々しいぜ』
「なんとでも言いなさいよ。私はもう、これ以上は傷つかないから!」
『そんじゃ、俺は仕事があるんで。切るぞ』
「はいよー。またねー」
通話を切る機会をずっと窺っていたはずなのに、結局は愚痴や不満を洗いざらい話すことになり、最後はなんとも憎いタイミングで相手から通話を切られた。受話器を戻す支局長は不満げに口を尖らせる。そして彼女は呟いた。
「……また、カールに負けちったなぁ……」
そんな支局長は空いた左手で頬杖を突くと、デスクの上に置かれた旧型のラップトップパソコンを見つめた。
メタリックシルバーの超旧型ボディ。気が遠くなるほどの大昔は主流だったものの、照射式が主流になった今ではあまり見かけなくなった、カタカタと音が鳴るキーボード。タッチパネルでない液晶モニター。使い古された幻の遺物、マウス。聞こえてくる重低音の主は、コンピュータに内蔵されたファン。脇には、わざわざ外付で設置されたUSBポートハブに、CDドライブ、メモリーカードリーダーが並んでいる。これらもまた超旧時代のもの、幻の遺物だ。
これらは今朝、神出鬼没な黒スーツの宅配人アーサーが、支局長宛てにと届けてきたもの。アーサーはこの旧時代の遺物セットを届けてきた際に、死者からの伝言も渡してきた。
『ラーナーの遺言に従い、ドクター・サントスには五冊の手帳を、君にはこれを預ける。彼曰く、この中にあるデータを安心して託せるのは、君だけだそうだ。……もし、この中身が連邦捜査局の手に余るようであれば、いつでもコールドウェルかアイリーンを頼ってくれ』
『遺言ですか? ASIで保管されていた書面に、そのようなことは記載されていないはずでしたけれど。私、見落としたのかしら』
『ノエミ。あなたはもう少し、整理整頓を心がけた方がいい。家も、オフィスも』
『それは、一体……?』
『彼が君宛てに遺した最期の言葉だよ』
最期の言葉、という意味深なワード。まるで死の間際、その傍にアーサーが立ち会っていたかのような……。支局長はアーサーに疑問をぶつけようとしたが、それを遮るようにアーサーは少し微笑んだ。それから彼は小声でこんな言葉を呟き、煙のように消えてしまった。
『身動きが取れなくなった魂の最期の言葉を聞き届け、滅することが死神の務め。あとに遺された物のことは、生ある者の手に委ねよう』
特務機関WACEの長、ちょこまかと各所に現れるアーサーという男。彼は人外で、人間世界の常識というものが通用しないことは、支局長もなんとなく理解している。だからこそ彼に関することは基本的に深入りしないよう心がけている支局長だが、今朝のアーサーの言葉には何かが引っ掛かってしまった。
死神。魂。滅する。
「…………」
単純な世界に生きていた若い頃であれば、くだらないオカルトだと笑い飛ばしていたことだろう。だが世界にはモンスターが潜んでいて、そのモンスターたちに人間が間接的に支配されている世界を見てしまってからは、彼女の考えは大きく変わってしまった。
各地の神話に登場する神々とか、イカれた宗教で崇められている父なる主とか、都市伝説の怪物とか、UFOとか。昔は、信じていなかった。科学で存在が証明できないものだから、目でしかと見て確認することができないものだから、だから存在しない。かつては、そう思い込んでいた。
けれども、人間の知識は完全ではない。人間が持ちうる知識では遠く及ばないものたちが、この世にはたしかに存在している……らしい。
「……困ったわね」
もし、神が実在するなら。もし、魂というものが概念だけでなく、本当に存在しているのなら。アーサーが本当に“死神”なら。アーサーが本当に、彼の最期の言葉を聞いていたのなら。アーサーが本当に、彼を消してしまったのなら……――支局長は、アーサーに訊きたいことが山ほどあった。
しかし、それは叶わぬ夢。アーサーほど口が堅い者を支局長は見たことがないからだ。きっと何かを尋ねたところで、彼に鼻で笑われるのがオチだ。
何かを揉み消し、何か正体のわからぬものを持ち去っていくが、肝心なことは何も教えてはくれない。それが特務機関WACEというもの。アーサーという男は、特にそうだ。だからこそ、そんな人物から何かを聞き出そうだなんて愚かなことは考えない。
――支局長はゆっくりと瞬きをし、再び開けた目で私物でないラップトップパソコンを見つめる。ラップトップパソコンの蓋をあけ、電源を点けた。ブート画面が出現し、起動処理が淡々と自動で進められていく。使い古された年代物の旧型機であるために、処理速度はとても遅い。支局長が水を飲みながら気長に待っていると、やがてディスプレイにログイン画面が表示される。ユーザー名には自動で「Gigolo」が参照され、パスワードの入力を求めるメッセージウィンドウが現れた。
パスワード、パスワード……。支局長は腕を組み、画面をじっと見つめる。彼女はパスワードを知らなかったのだ。
「……どうしましょうかね、これ」
このラップトップパソコンの持ち主は、パトリック・ラーナー。彼が個人使用のために保有している三機のうちの一台だ。自宅にあるデスクトップパソコンと、外出先で持ち歩くタブレット端末は、普段使い用。対してこのラップトップだけは、特定の人物とデータの遣り取りをするために保有していた。逆に言えば、それ以外に使い道が無かったのだ。
その遣り取りの相手とは、わざわざ古い物を好んで使う変わり者。失踪中のペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚だ。ペルモンド・バルロッツィが送り付けてきたファイルを開き、保存するためだけに、パトリック・ラーナーはこのラップトップを持っていたようなもの。それは支局長も知っているし、この中に貴重なデータが多数眠っていることも予想できていた。……が、しかし重大な問題が残っている。
「ねぇ、リッキー。私は機械に強くないの。パスワードなんて分かるわけがないでしょ。アイリーンみたいにハッキング……――なんて、出来っこないんだから」
ラップトップパソコンを前に項垂れる支局長は、苛立ちから黒髪を掻き乱す。
リッキーの馬鹿ァッ! ――彼女が、そんな奇声を上げようとしたときだった。支局長室のドアがノックもなしに、部屋の主の返答を待たぬまま開けられる。支局長は慌ててラップトップパソコンの蓋を、叩きつけるように締めた。
「ちょっと、いきなり入ってくるのはマナー違反っ……――あら、リリー?」
支局長室に入ってきたのは、二人いる副支局長のうちのひとり、リリー・フォスターのようだった。赤紫色のスクエアフレーム眼鏡と、真面目一辺倒なオーラを放つブルネットのストレートヘアがどことなく近寄り難さを想起させるのは、いつものこと。だが、このときのリリー・フォスターは何だか様子がおかしかった。
まるで何かを警戒するかのように支局長室の扉を静かに閉めたリリー・フォスターは、無表情で支局長の前に立つ。支局長はデスクの上に置かれたラップトップパソコンに触れると、それを自身の膝の上に移そうとした。
そして様子がおかしいリリー・フォスターを警戒しながら、支局長は彼女に話しかける。
「どうしたの、リリー。ノックもなしに入ってくるなんて、あなたらしくないっていうか。その、急ぎの用かしら?」
支局長が苦笑いを浮かべた、その瞬間だった。ラップトップパソコンの上に置いた支局長の右手の手首を、リリー・フォスターが突然ガッと掴む。支局長は顔を青ざめさせ、リリー・フォスターの顔を凝視した。
そのとき支局長は確信する。目の前に居るのはリリー・フォスター本人ではないと。そして思いだされるのは大昔の事件。
「……あなた、リリーじゃないわね」
ワイズ・イーグル暗殺事件。
約二〇年前、当時のASI長官だったバーソロミュー・ブラドッフォード氏。士官出身の彼は“ワイズ・イーグル”という渾名で広く慕われていた政治家だった。しかしバーソロミュー・ブラッドフォードはある日突然、暗殺された。犯人は当時のASI副長官、エズラ・ホフマンだった。
そのエズラ・ホフマンは警官により射殺されたとして事件は処理され、表向きは死んだことにされていたのだが。しかし事実は違っている。
エズラ・ホフマンが一度死んだのは、事実だ。 何者かにより拳銃のグリップか何かで後頭部を強く殴られ、彼は死んだ。そしてぴくりとも動かなくなった死体を連邦捜査局が見つけ、その死体を検視局へ運んだが。その数日後、検視局からエズラ・ホフマンの死体が消えた。続けてその後、町を自由に動き回るエズラ・ホフマンが目撃されるという珍事が起こった。
そして当時、死体の捜索に協力していた精神科医は捜査官たちに向けてこんなことを言った。
『犯人は間違いなくエズラ・ホフマン副長官だ。だが彼を人間だと思うな。別人になりすませるモンスターだと思え』
その言葉通り、エズラ・ホフマンはモンスターだった。バーソロミュー・ブラッドフォードを暗殺したその瞬間も、監視カメラは彼をエズラ・ホフマンとして映していなかった。とあるASI局員の姿に化けて、犯行に及んでいたのだ。
それから暗殺に付随して起きた誘拐事件でも、エズラ・ホフマンは別人になりすましていた。その際、姿を借りられたのは若かりし頃のノエミ・セディージョだ。また次に起きた誘拐事件でもエズラ・ホフマンは、シーメールのストリッパーになりすまし、人を攫っている。
エズラ・ホフマン。彼は、他人の姿を借り、自分を偽ることができるのだ。声や外見、身長や体格まで変えられるモンスターだった。
また、一連の事件の終結後に、事件そのものを隠蔽するためにアーサーが動き出したとき。アーサーはあのとき、捜査に関わった連邦捜査局の捜査官らにこう語っていた。
『エズラ・ホフマン。あれを逮捕し、刑務所に入れ、法廷に引き摺りだろうと考えているのならば、諦めたほうが良い。あれは君たちが思っている以上に凶悪な存在だ。人間の手でどうこうできる相手ではない。殺したところで何度でも生き返ってみせる。死人を増やしたくないのであれば、あれに関わらないことだ。つまり、あれの存在を葬り去れ』
そのアーサーの言葉を受け、連邦捜査局はエズラ・ホフマンを『警官により射殺された』ものだとした。……つまり今の今までずっと、凶悪犯は野放しにされていたということ。
そんなエズラ・ホフマンが今、支局長の前に居る。リリー・フォスターの振りをしているエズラ・ホフマンが、目の前に立っていたのだ。
「本物のリリー・フォスターなら、入室の前にノックをするわ。彼女は私よりも年上だけれども、挨拶や礼儀といったものをおざなりになんかしないもの。そういった肝心なことを省くのって、あなたぐらいしかいない。そうよね、エズラ・ホフマンさん? だから詰めが甘いって色んな人に言われちゃうのよ」
支局長は掴まれた手首を強引に振り解くと、ラップトップパソコンを隠すように自身の膝の上に乗せる。リリー・フォスターのように見えるその人物は表情を歪め、顔を醜く変えた。
「ほら、その顔。本物のリリーはそんなヒドい顔なんか人前で晒しませーん」
支局長は、リリー・フォスターによく似た顔に向けて人差し指を突き付ける。不敵な笑みを浮かべ、見下すような目で相手を見つめる支局長だが、その実は怯えていた。
いつ銃を突き付けられ、脅され、殺されるのか。油断が出来ない相手だと知っているからこそ、虚勢を張っていたのだ。
すると相手の表情は見る見るうちに強張っていく。それから相手は、しわがれた老人のような低い男声で凄んでみせた。「……その機械を寄越せ。さすれば危害は加えない」
「どっちにしろ、私を殺す気じゃなくて? それに渡す気なんか更々ないわ。ごめんなさーいねー。だって、私の大切な元相棒から託されたものですもの。そんなに欲しけりゃ、私を殺してみなさいな。生きている間は、アンタなんかにくれてやるつもりはない」
支局長が挑発をしてみせると相手は案の定、引っかかった。どこからともなく出現したナイフの切っ先が、支局長の喉元に向けられる。
これは好機だ。支局長は汗でしめりっ気を帯びた手で、音を立てぬよう静かに膝の上、デスクの裏側を探る。彼女の手は机の中央付近で、とある突起物を捉えた。支局長はデスクの裏を這わせた中指で、その突起物を力強く押す。その直後、室内にけたたましいサイレン音が鳴り響いた。
『緊急事態E3、支局長室より発生。これより出入を禁ず。全ての出入り口を封鎖』
『繰り返す。緊急事態E3、支局長室より発生。これより出入を禁ず。全ての出入り口を封鎖。局員は速やかに武装し、侵入者に備えよ。繰り返す。緊急事態――』
警告音は鳴りやむことを知らず、ビーッ、ビーッ、と耳にも心にも悪い機械的な低音を屋内に届かせる。ただちに全ての出入口は封鎖され、各窓には鋼鉄のシャッターが下り、内部は暗闇に包まれた。その後、自動で全ての階の明かりが点き、再びの明かりが戻る。その瞬間、支局長は相手の手からナイフを奪い取った。
「連邦捜査局、シドニー支局に侵入したのが運の尽きね。ここは凶悪犯罪多発地域だから、キャンベラの本部局よりも守りが厳重なのよ。囚われたら最後、抜け出せないわ。神出鬼没のサー・アーサーでもなければ不可能よ」
奪い取ったナイフの切っ先を、支局長は相手に向ける。しかし相手はシャッターに戸惑いこそしたものの、怯む様子など見せなかった。それどころか、支局長を虚仮にするような笑みさえ浮かべていた。
眉を顰めた支局長は、奪い取ったナイフの切っ先を相手の首に、刺さらない程度に当てる。切っ先は皮膚に窪みを作った。すると相手は、余裕そうな口ぶりで言った。
「奢り高ぶるなかれ、人の子よ。我らを見くびるな」
「……は?」
あれは、挑発? それとも警告か、何かなの? ――呆気にとられた支局長は一瞬、固まる。そうして支局長が気を抜いた隙だった。
手に握っていたナイフの柄に、重さが圧し掛かってきた。ナイフが、相手の首に突き刺さっていたのだ。しかし血は出ていない。相手は、息苦しさに悶え苦しむような素振りを見せていない。それに刺さった瞬間に覚えた手ごたえはまるで、綿入りのマネキンだ。マネキンにナイフを突き立てたような、プスッという軽い感触だったのだ。
けれども支局長は手を動かしてはいない。相手の方が、自らナイフの切っ先に刺さりにいったのだ。
「お前の盟友が死したときも、今と似たような状況であったな。ナイフを持つ者に殺意はなかった。ナイフを持つ者は、ただ相手を支配したいだけであった。対して持たざる者は、相手の思うままに支配されることは不愉快であると感じていた。であるからして、自害という選択をした」
「……何なのよ、アンタ。どうして血も吐かずに、普通に喋れるわけよ……」
「最期のとき、あれはまた壊れていた。所詮は傷の付いた欠陥品の魂。突如襲い来た過去に、成す術もなく呑まれ溺れていった。憐れなものよ」
首に刺さったナイフをそのままに、相手は凄絶な笑顔を浮かべる。リリー・フォスターと同じ顔を醜く歪め、支局長を嘲り笑っていた。
そのときだ。ナイフを掴んだままになっていた支局長の手に、ビリビリッと電流のようなものが走る。それと同時に彼女は声を聞き、映像を見た。
耳に馴染む、よく聞いていた声が、とぼとぼと呟いていた。やめてくれ、もうたくさんだ、こんなの耐えられない、早く殺してくれ……――何度も何度も、弱音を吐いていた。それから聞いたこともない女の高笑う声も聞こえた。
『あっれー、どうしちゃったの~? 私の好きな君はー、何も言わずに歯を食いしばって、ぐーっと痛みを耐える子だったのになぁー。アハハッ!』
肩に掛かるほどの長さに切りそろえられた亜麻色の髪。袖の無い白のセーター。ビビッドピンクのニット帽。明るい茶色のホットパンツ。右腕のタトゥー。そんな特徴を持つ女の背中が、支局長には見えていた。
その女の手には、細くて長いナイフが握られていた。それはまさに、ゴミ捨て場に遺棄されていた死体の首に刺さっていたナイフだ。その女の足元には、切り落とされた左腕と、壊された義肢と車椅子が転がっている。そして女の前には、小柄な男がぐったりとした様子で座り込んでいた。
男には四肢がなかった。両足と右腕は元から無かったが、左腕は高笑うニット帽の女に切り落とされたようだ。そして半開きの状態になっていた男の目に、目の前に立つニット帽の女は映っていないようだった。女の声も、聞こえていなさそうだ。
あぁ、リッキー。――目に見えているものは幻で、声が届くことはないと分かっていながらも、震える声が思わず口から零れ落ちる。それと同時に、するりと、それまで握っていたナイフの柄から支局長は手を離した。と、同時に現実に引き戻され、声や幻の何もかもが消え去る。代わりに、目と鼻の先には偽物のリリー・フォスターの顔があった。
「ノエミ・セディージョよ。お前は何故、死んだ男の遺物に取り憑く? 頑なに拒むのは、何故だ」
「そりゃこっちの台詞よ。アンタこそ、なんで赤の他人のパソコンに興味があるわけ? 相当やばい情報を彼に握られていたから、その証拠を消したいんでしょう。そうじゃなくって?」
「愚かにも、その態度を貫くというのだな」
そう言うと、相手は再び笑い声をあげた。そして相手は自身の首に刺さっていたナイフを引き抜くと、それを支局長室のドアに向かって投げる。
「ならば、それ相応の報いを与えるのみだ」
投げられたナイフはあろうことかドアを貫通し、ドアに穴をあけた。そして偽物のリリー・フォスターは、まるでアーサーのように煙となって消えていく。
待ちなさい、この卑怯者! 支局長はそう大声を上げようとした。けれども言葉はすぐに喉の奥に引っ込み、代わりに彼女の体は動く。
穴のあいたドアの向こうで、何かが倒れる音がしたのだ。それから、誰かの悲鳴が上がる。嫌な予感を感じ取った支局長は、すぐさま支局長室のドアを開けた。そして彼女は廊下の床に倒れ込んでいる人物を見る。
「うそでしょ、そんな……!」
そこには本物のリリー・フォスターが倒れていたのだ。そして倒れているリリー・フォスターの胸には、あのナイフが刺さっていた。それもちょうど心臓の下のあたりに。
「リリー、しっかりして。死んじゃ駄目よ。リリー、リリー・フォスター!」
「……シドニー支局が、エズラに襲撃された……?」
助手席に座るアイリーンは、膝の上に置いた大きなタブレット端末の画面を睨み、そんなことを言う。運転席に座り、大きな黒バンのハンドルを慣れた手つきで捌くコールドウェルは、穏やかではないアイリーンの言葉に、掌に汗を握った。「支局が襲撃って、どういうことだい」
「支局っていうか、支局長室だけピンポイントで。負傷者が出たらしいよ」
「まさか、支局長か?」
「いいや、だってこのメールの送り主がノーイだもの。彼女は元気にしてると思うよ」
「なら一体、誰が被害に……」
「リリー・フォスターって人だって。……アレックスちゃんは、知ってる?」
「ああ、知ってる。副支局長のひとりだ」
アイリーンが口にした名前に、コールドウェルは嫌悪感から眉間に皺をよせ、驚きから目を見開いた。
あのカタブツ女が、どうして。それにエズラは何故、支局長室に行った?
疑問は次から次に湧いて出てきて止まらないが、コールドウェルはとりあえずアイリーンの話を聞くことにした。そしてタブレット端末の画面に視線を落とすアイリーンは言う。
「そのフォスターって人が、かなりの重傷を負ったみたいだね。ERで処置を受けている最中だって」
「重傷ってのは、具体的に……」
「鳩尾の辺りに、ナイフがブスッと刺さったらしいね。腹部大動脈が破けて、そこから出血。ショックを起こしていて、予断を許さない状況だって。そしてナイフは、エズラの仕業だってさ」
タブレット端末を見つめながら、アイリーンは他人事であるように淡々とそう言う。対するコールドウェルは、嫌な冷や汗が全身の毛孔からどっと噴き出るのを感じていた。
リリー・フォスターという女性のことを、どちらかといえばコールドウェルは嫌っていた。リリー・フォスターとは規則にうるさく時間に厳しく、何もかもをきっちりとこなさないと気がすまないような、神経質な人物であったからだ。
彼女は愛想もないし、笑顔もないし。よく聞こえていた彼女の声は、部下を遠回しに叱りつけて責めるぴりぴりとした声だった。となれば、連邦捜査局の人間でもなく、しっかり者でもなければ、怠け癖のひどいコールドウェルにとって、彼女は疎ましくて仕方の無い存在でしかなかった。
しかし。いくら嫌いだからといえ、瀕死の重傷を負った相手に「ざまあみろ」と吐き捨てるほど、コールドウェルは軽薄ではない。気拙さと、後悔と、後ろめたさと……。そういったものたちが綯い交ぜになったヘドロが、心の奥底から湧き上がり始める。
自分はどうすればいいのか、今この場でどんな言葉を発するべきか。ヘドロの悪臭は思考を阻害し、彼女は何も考えられなくなっていた。
珍しく、落ち込んでしょげた顔をするコールドウェルの様子を察したアイリーンは、冷淡な溜息を零す。それからアイリーンは話題を、別の方向にもっていった。
「んで、エズラの狙いはパトリックの私物だったんだって。サーが今朝ノーイに届けたばっかりの、おんぼろポンコツなラップトップ。ラップトップをエズラが奪おうとして、それをノーイが拒んだら、エズラが逆切れして卑怯な手段に出たって話らしいよ。無茶苦茶だよね、ホント。いつも通りのエズラ・ホフマンで、もうイライラするわー」
アヒルのように唇を尖らせ、アイリーンは文句を並べる。しかしコールドウェルは笑わない、怒らない、嘲笑すらしない。なんとなく相槌を打っていることから、一応話は聞いているようなのだが、どうにも興味が湧いていないらしい。
こりゃもう、どうしようもない。アイリーンは頬を、餌を口に詰め込みすぎたハムスターのように膨らませる。それから口の中に溜め込んだ息を、ぷぅ~と吐き出した。
それからアイリーンは再度話題の転換を試みる。
「そーいえば、なんだけどさー。ここ数年、特務機関WACEの中で一番パトリックと距離が近かったのは、アレックスちゃんだったでしょ?」
コールドウェルの視線が正面から一瞬だけ逸れ、アイリーンを見た。名前を呼ばれたことで、コールドウェルはやっと話に食い付いたようだ。
コールドウェルはすぐにまた視線を正面に戻すと、アクセルを踏みこみながら頷く。それからコールドウェルは言った。「ああ、そうかもしれない。次長には色々、教わってたからな」
「WACEの流儀を叩きこまれた?」
「ASI流の尋問テクニック、報告連絡相談。銃の精密な射撃方法。護身術。急所の場所と狙い方、変装と特殊メイク、法律の抜け穴にまつわる知識、その他諸々。――そもそも何でもアリの特務機関WACEに、流儀なんていうもっともらしいものがあるってのか?」
「いや、あるよ? WACEにはWACEの矜持があるってば」
「で、それがどうしたんだ?」
「あっ、うん、それでね。そのパトリックのラップトップなんだけどさ。あの中に、どんなデータが入ってるのかって、アレックスちゃんは聞いたことある?」
「いや、特にないが。……まさか機械オタクのアイリーン・フィールドが、一切目を通してないってのかい?」
「そう、そうなの! まだノーイが持ってるから、中身を見られる可能性はあるけど……。あーっ、もう。やっぱサーに一言、言っとけばよかったあぁ~!」
アレックスちゃんが餌に掛かった! アイリーンがガッツポーズをひそかに取ったのも束の間、コールドウェルの一言に今度はアイリーンが現実にハッとさせられる。自分が犯した重大なミスに、アイリーンは今まさに気付かされていた。
そしてコールドウェルは、リリー・フォスターの件よりもよっぽど動揺しているといった声色で、アイリーンのミスを更に突く。
「よりによって、何で次長のあのコンピュータを確認しなかったんだ……。どう考えてもあの中には、手に入り難い貴重な情報が入っていただろうに。アンタらしくないミスじゃないか、ルーカン」
「サーが、変なこと言ってたの。それを渡した結果、何が起こるのか、その様子を見たいって。私は『先にコンピュータの中身を私に見させて』って言ったけど、サーは無視して持っていっちゃったの」
「そこはクソジジィをぶん殴ってでも、コンピュータを奪い取るべきだったんじゃあないのか」
「……――うにゅあああああ! なんでなの、アイリーン。私、どうしてあのコンピュータを奪い取らなかったの?! 最低、最悪、アタシのバカァッ! サーのやることには口を出さないって決めてたけど、やっぱり口を出すべきだった! ちょっとだけでも待ってもらうべきだった。……うわああああああああぁぁぁっ!」
「る、ルーカン?」
アイリーンは俯き、頭を抱え、髪を掻き毟る。綺麗にセットされていた髪はぼさぼさに乱れ、ひどい有様になっていた。そして俯いた顔から涙がぽたぽたと落ちて、ミニスカートの下からのぞいていた膝を濡らす。アイリーンは泣いていた。
「ルーカン、なにもそこまで思い詰めなくても……」
正面と助手席のアイリーンを、交互にちらちらと見ながら、コールドウェルは困惑していた。ここまで取り乱されると、どんな言葉を掛ければいいのかが思いつかなくなるからだ。
元来、アイリーンは完璧主義なきらいがあった。ファンシーな見た目に反して、彼女の性格は生真面目そのものなのだ。
彼女にとってミスは、許されざるもの。裏方のサポートを一手に引き受けている彼女は、他人のミスをフォローすることに慣れている。しかし彼女のミスをフォローできる人間が、WACEには居ない。彼女がしくじったら最後、とんでもない事態に発展するからだ。
けれども、だ。だからといえ、そこまで自分を追い込まなくてもいいのではないか。コールドウェルは常々、そう感じていた。まるで自分を理不尽に罰しているようだと。だがアイリーン本人は、そう思っていないようだ。
「これって重大なミス! もしかしたら、またサンレイズ研究所のときと同じになるかもしれないのよ?!」
「サンレイズ研究所? あの、白昼堂々と霧のように消えた、あのサンレイズ研究所か?」
「そうよ。あのときだって、高位技師官僚が怪しいサインを発していたにもかかわらず、私たちは気付けなかった。そのうち、あのホムンクルスの双子ちゃんが生まれて、高位技師官僚は失踪して、口封じの殺人が起きて、事件に巻き込まれたパトリックが負傷して、エズラだけが得をした。前も、そうだった。前と同じ状況に陥ってるの! 何をやってるのよ、アイリーン。これじゃ、また彼にひどいことをしたまま、何も出来ずに終わっちゃうじゃない……。それに、ペルモンド・バルロッツィに悪いこと全部押しつけて、私たちは、また何も出来ずに……――!」
「ラーナー次長が負傷した?」
「全部、私のせい! 普通の人間だって耐えられない枷を、普通よりもずっと弱くて脆いパトリックに押し付けたのよ! そしたら案の定、彼は壊れた。ひどい拷問の末に、エズラに右腕を麻酔もなしに切り落とされて。捜査官とドクター・サントスがパトリックを発見した時にはもう、彼は壊れてた。元からパトリックは、心に爆弾を抱えてたの。それを分かっていながら、私は彼に辛い仕事をさせた。そして彼は廃人になったの、一年半ぐらい。ドクター・サントスが傍に居なかったら、彼はずっと……ずっと……」
アイリーンの地雷を、コールドウェルは踏み抜いてしまったようだ。爆発した地雷の衝撃により、コールドウェルの頭は本格的に何も考えられなくなっていた。
そして爆発したアイリーンは、金切り声を上げる。
「私が、ASIとのコネ欲しさにパトリックを見出さなければ、彼はあんなことにならなかったのに! 私が、彼を壊した!! それなのに、ドクター・サントスはこっちの事情を一切知らないから、彼も自分のせいだって未だに自分を責め続けてる。全部、私が悪かったのに。私、なんて最低な人間なの。ホントに、私なんか……!」
「ルーカンさん、わぁかったよ。だから落ち着け、深呼吸だ」
そう言いながら、コールドウェルは前だけを見つめていた。ハンドルを握る手には、自然にぐっと力がこもる。
助手席に座るアイリーンを見てはいけないと、コールドウェルは感じていたからだ。すぐ隣に充満している負のオーラが、あまりにもキツすぎる。それを見てしまったら最後、同じ負の渦に巻き込まれてしまいそうな気がしたからだ。
「そうなりゃ、やるべきことは一つしかないはずだ」
コールドウェルは、口先だけのカッコ良さそうな台詞を言う。すると徐々に隣の負のオーラが薄れていった。アイリーンはハンカチで涙を拭うと、顔を上げる。そして嗚咽混じりに言う。「ノーイのとこに行こう。連邦捜査局、シドニー支局に。あのコンピュータからデータを発掘しなきゃ」
「そうこねぇとな」
片手間にカーナビの行き先を『連邦捜査局シドニー支局』に設定しつつ、コールドウェルはアクセルを強く深く踏み込む。全速前進、速度規制なんてガン無視だ。
その横でアイリーンはタブレット端末を操作し、支局長にメッセージを送りつける。今どこ? 支局に居る? 今からそっち向かってるんだけど、あのラップトップはまだ無事? すると返信が、ラップトップパソコンの写真とともに返ってきた。
私ならまだ支局長室にいる。缶詰め状態って感じ。
それとパソコンは無事よ、良くも悪くもね。
ただこのパソコンのパスワードが分からなくて、困ってるのよ。
お願いだから早く来て、アイリーン。
私、こういうの苦手だから。
せっかくのパソコンも、私の前じゃただの化石よ。
だからリッキーのためにも、頼むわ。
それとリリーは大丈夫そうだって、コールドウェルに伝えてね。
「まだノーイは局にいるみたい。急いで、アレックスちゃん」
「分かってるよ。現に今、飛ばしてんだろ?」
時速一五〇キロ。高速道路ですらそう滅多に見かけない速度で、真黒なSUVは道路を駆けていく。周りの風景はあまりの速さのせいで、その輪郭を捉えることすらできなくなっていた。
そんなSUVの真横を、一羽の真黒な烏が飛んでいく。
「……カラス?」
「アレックスちゃん、どうかしたの?」
「……あぁ、いや。なんでもない、気にするな」
ケケケッ。奇妙な声で鳴く烏だった。そして烏は、高速で走るSUVを追い抜かして飛んで行った。
その追い越し際、烏とコールドウェルの目があったような気がした。と同時に、コールドウェルは背筋を震わせる。烏の目が、まるで液化アバロセレンのように、そしてサー・アーサーの瞳孔の無い瞳のように、蒼白く輝いていたからだ。