「……少年が異父姉を“ママ”と人前で呼ぶようにしていたのは、姉が少年にそう言っていたから。親子のふりをしていたほうが周囲に溶け込みやすく、気まぐれな母親が少年を取り戻しに来る事態も避けられると見込んだから、か。それにしても、あの子は本当に五歳児なのか? あの落ち着きぶりといい、冷静さといい、しっかりとした受け答えといい、なんといい……。スラム街という不衛生な環境のなか、暴力親父という機能不全家族で育った子だとはとても思えん。あの子は将来、とんでもない傑物になるんじゃないのか……?」
「どうかしたんですか、ドクター」
アレクサンダーは疲れ切った顔で笑みを取り繕うと、紙の束を前に独り言をぶつぶつと連ねるカルロ・サントス医師に、インスタントの不味いコーヒーを差し出す。
いつもすまないね。カルロ・サントス医師はそう言うと、コーヒーを一口だけ口に含む。それを飲み込むと、彼は唐突に意見を求めてきた。「アレクサンダーくん。君は昨日のあの少年の話を聞いて、どう思った?」
「どうって、どういうことです?」
何について、意見を求められているのか。アレクサンダーにはそこが分からず、答えようがないと苦笑う。
……もしや人体から電気が放出されたとかいう、アレについてか?
そんなこんなアレクサンダーが戸惑っていると、カルロ・サントス医師は一度咳き込む。
「すまない、主語が無かったな」
そう言うと彼は、その主語とやらを話し始めた。
「パトリックはやたらと、ペルモンド・バルロッツィという人物に固執している。彼を絶対悪だと決めつけ、刑務所にぶち込みたがっているが……――私にはペルモンド・バルロッツィという人物が悪人だとはとてもじゃないが思えんのだ」
「……えっと、その、つまり?」
――なんだ、そっちか。
「ペルモンド・バルロッツィ。彼はまるで、コミックに出てきそうなヒーロー。それもダーティーヒーローだ。慈悲なき私刑執行人 、というところか? 陽の光が射さない影の世界で、誰に知られることもなく跳梁跋扈する悪党どもを粛清し、気まぐれで弱き者を救う。そして狼の姿に化け、闇に帰っていく……――。実際にそんなコミックがあったら、バカ売れしていることだろう」
「決して人は殺さないけれども、童顔で口が悪く、やり方がとにかく汚い、超一流のインテリジェンスが活躍するコミックよりも?」
「君も、なかなか皮肉の利いたことを言うね」
パニッシャーVSインテリジェンス、そんなコミックも悪くないかもしれん。カルロ・サントス医師はそう言って笑う。そしてアレクサンダーは、コミック調のスタイリッシュな絵柄で描かれた二人の男が、互いに銃口を向け合うシーンを思い浮かべた。
もし、早撃ち対決になったとしたら。パニッシャーとインテリジェンス、そのどちらか勝つのだろうか。そんなこと、考えなくても分かる。人を撃つことに躊躇いのないパニッシャーが、つまりペルモンド・バルロッツィが勝つだろう。
「彼はまさに、絵にかいたような解離性同一性障害の患者だ。私が聞きかじった話が正しいのなら、彼の状態はかなり深刻だろう。パトリックの睨んでいる通り、そこに付け込まれて良いように操られているという線も大いにありうる。彼は高位技師官僚を演じているだけで、そこに意思はない。その可能性は十分に……」
「……」
「だが、これはあくまで私の推測でしかないが、彼は良いひとだ。私はパトリックから多くの話を聞くが、私にはどうも彼がパトリックを守ってくれているようにしか思えなくてな。あの無謀で恐れ知らずの馬鹿を、彼は真の意味での危険から遠ざけようとしてくれているのではないかと、そう思えてならないんだ」
カルロ・サントス医師はまっすぐな目で、アレクサンダーを見る。だがアレクサンダーは、その問いに答えるための意見を持ち合わせていなかった。すると、そんなアレクサンダーの心を察してかカルロ・サントス医師はこう言う。
「とはいえ、答えてくれなくても構わない。答えは始めから求めていないからね。……それにパトリックと違い、病者本人と直接話したこともない私に言えることは限られている。いつかは、あのときのお礼もしなければと思ってはいるが……――」
「……?」
「哲学者ハンス・ゲオルク・ガダマーは言っていた。問いというのは、答えが定まらず未解決な状態で宙ぶらりんになっているからこそ、真の問いとなり、初めてその意味を完成させると。ガダマーの『真理と方法』は一度目を通しておくといい。彼の哲学的解釈学は対話が重要となる解離の患者と向き合うときに、実に役に立つぞ」
ペルモンド・バルロッツィの話から飛んで、急に哲学書の話になる。カルロ・サントス医師のその言葉の意図を掴みかねたアレクサンダーが首を僅かに傾げると、彼は小さく微笑む。それから彼は一冊の分厚い本を差し出し、それをアレクサンダーに手渡しながらこう言った。
「君は今後、彼と関わる機会があるはずだ。きっと。そんな気がしているよ。だからこそ、あの本を読んでおいて欲しいんだ」
*
その翌日、学校にて。物理の授業に向かう廊下の途中で、教科書を抱えたアレクサンダーはふと立ち止まる。すると後ろから、彼女を呼ぶ声が聞こえてきたからだ。
「アレックス、どうして私を避けてるの」
聞こえてきた声は、ユニのものだった。けれどもアレクサンダーは、振り返れなかった。アレクサンダーは止めた歩みを再開する。すると後ろから走ってくる足音が聞こえてきた。
その数秒後にはアレクサンダーの行く道を妨害するように、ユニが立ち塞がる。アレクサンダーは仕方なく、また歩みを止めた。「……ユニ、どいてくれないか」
「嫌よ。せめて理由を聞かせて。どうして私を避けるの。私が、あなたに何かした?」
アレクサンダーは目を伏せ、口を噤み、問いに答えるという行為を放棄する。ユニはアレクサンダーを激しく責めて立て、アレクサンダーの口から何かひとつでも言葉を得ようとするが、アレクサンダーは視線を逸らすだけ。
そんなアレクサンダーの視界には、コンピューター技術の女性教諭――パトリック・ラーナーが“ルーカン”と呼んでいた女性――が映っていた。派手な緑色のウェリントン眼鏡を掛けた“ルーカン”は、ぴょんぴょんと飛び跳ねるように走りながらアレクサンダーらに近付いて来ている。
助け船が来てくれたのか? アレクサンダーは淡い期待を抱いた。けれども期待は、ユニにより一瞬にしてぶった斬られる。ユニは近付いてきた“ルーカン”にキツい眼差しを向けると、ヒステリックな声で叫んだ。「こっちに来ないで!」
「ふぇぁ?! い、いや、えっ、ど、どうしたのかな?」
「私に関わらないで! 私は、あなたの正体を知っているんだから!!」
「い、いや、でも、ほらぁー……私、この学校の教員だしぃ、生徒に関わるなっていうのはちょっとー……」
あからさまに狼狽えてみせる“ルーカン”は、少しズレた眼鏡を直しながら、アレクサンダーに無言の圧を送ってきた。早く、君はどっか行きなよ! そんな意図を察したアレクサンダーは気配を消し、そろーりそろり……とその場を去ろうとした。
……のだが。
「アレックス、あなたの答えをまだ聞いていないわ。どこに行くつもりなの」
ユニに、止められてしまった。
「……」
幸か、不幸か。アレクサンダーとユニ、そして“ルーカン”以外には、近くに人らしき影も見えない。ユニはそれもあってか、大声で捲し立てている。威嚇し、牽制していた。
「最近あなたの周りを、あの男がうろついていることは知っているわ。アレックス。あなたは、あの男に何を吹きこまれたの!?」
「……」
「黙ってないで、何か言ったらどうなの?!」
「何も、吹きこまれちゃいないさ。それに、あの男ってのはどの男のことだい」
「すっとぼけないで。ラーナーよ。ラーナーが、あなたのバイト先にしょっちゅう足を運んでることも知ってるわ。それに、カルロ・サントスっていう精神科医長とは大学の同窓生で、二人して私の双子の片割れを!」
「……ああ、そうさ。アタシゃたしかに、彼と最近よく会ってるよ。でも、だからどうした」
アレクサンダーのその言葉を聞いた途端、ユニの顔には怒りという感情が出てきた。けれどもアレクサンダーは顔色ひとつ変えることなく、そして視線を一切合わせることなく、言葉を続ける。答えではない嘘を、口から出した。
「アタシと彼の関係は大したもんじゃないよ。ニールがどうしてるか、毎度それを訊かれるだけさ。それか、彼の下らない思い出話を聞かされるかだよ」
「じゃあ、どうして私たちを避けるの?」
「理由なんか、聞いてどうする。人が人を避けるようになるとき、そこにあるのは小さな不満が積み重なった結果だ。理由をひとつひとつ、聞き出さなきゃアンタは済まないのかい? 傷付くことは目に見えてるだろうに、何故そんなに知りたがる」
「答えになってないわよ」
「答えなんか、ないよ。そのほうがいい。そうすればお互いに、傷が浅いうちに別れられる」
「別れる? なによ、それ。金輪際付き合わないみたいな、そんな言い方じゃ」
「そうだ。その通りだよ」
ああ、嫌だ。本当はこんなことなんか、したくないってのに。
「アタシは、ニールを選んだ。アンタは、きっとそのことを快く思わないはずだ。だってニールは、過去形になるがあんなことをやってたわけだからね。けどアタシが欲張って両方との縁をつなぎ止めようとしたら、あいつが傷付くことになる。だから、どちらかとはお別れしなきゃならない。そういうわけだ。アンタら姉妹とは、もう無理だ」
けど、それでいい。……そうだ、それで良いんだ。
「……どうして、そうなるのよ。なんで私じゃなく、彼を選んだの?」
「昔から続く関係か、そうでもない関係か。どちらを優先させるべきかなんて、悩むまでもないだろ?」
これが、最善なんだ。そうなんだろ、パトリック・ラーナーさんよ。
「……あなただけは絶対に裏切らないって信じてたのに」
ユニは最後にそれだけを吐き捨てるように言うと、アレクサンダーに背を向け、廊下を走り去っていく。アレクサンダーは俯き、つるつると光るタイルの床に映り込む、自分の姿をじっと見た。
仕方がなかったんだよ。ああするしか、なかったんだ。アレクサンダーは自分に言い聞かせた。音なき声で念じ、自分自身にそうであると思い込ませようとした。だが、どうしてなのだろう。胸が苦しい。喉が締め付けられるようで、息苦しかった。
アレクサンダーは自分の左胸のあたりに手を当て、落ち着こうと、緊張により強くなった心臓の鼓動を抑え込もうとした。けれども血流を感じるたびに、床に映り込む自分の姿が歪んで見えた。映り込んでいるのは自分であるはずなのに、まるで自分のように感じない。誰でもない人影を、誰でもない視点から見つめているような感覚に襲われたのだ。
「……アレックスちゃん」
呆然と立ち尽くすアレクサンダーの前に“ルーカン”が立つ。彼女はアレクサンダーの頭をぽんぽんと軽く叩くと、アレクサンダーを抱きしめ、それからこう言った。
「上手く立ち回れたね。『よくやった』って、スピーカー越しにパトリックが褒めてるよ」
「…………」
「……ごめんね、辛い思いをさせて。でも、これが正解なの」
アレクサンダーは今、“ルーカン”に抱きしめられていた。それなりに強い力で、ぎゅっと押さえつけられているはずなのだ。だがアレクサンダーは抱きしめている力を、抱き締められている感覚を、認識していなかった。
気が付いてみれば、さっきまであったはずの息苦しさが、いつの間にかすっかりと消えてしまっていた。でもその消え方はスッキリとした、晴れやかなものとは程遠く、まるで心をどこかに落としてしまったような、何かが欠けているという意識を伴っていた。
肩や頭には、どうすることも出来ないセンチメンタルな気分が、どっしりと圧し掛かる。だが、そんな感情すらどこか他人事のように感じている自分が、今のアレクサンダーの中には居た。
初めて味わう、奇妙な感覚だった。体験するのは初めてだが、アレクサンダーは今の気分、この状況に付けられる名前をよく知っていた。
そうか。これが――
「……」
「アレックスちゃん?」
実感と共にどっと沸き上がってくるのは、虚しさと疲労だった。心は虚しさに喰い尽され、現実感が失われていく。体は疲労に呑み込まれ、力が抜けていった。
アレクサンダーは“ルーカン”に体を預ける形で、ふらりと倒れ込んだ。小柄な“ルーカン”は自分よりも少しだけ大きいアレクサンダーの体をどうにか受け止めると、金切り声を上げる。
「あぁっ、ジェーン先生! 丁度いいところに! 助けて、おねがいー!!」
そのとき、同時に授業の開始を意味するチャイムが鳴る。アレクサンダーの意識は、チャイムの音と共にぶつっと途切れた。
*
「まったく、お前ってやつは。学校でぶっ倒れるなんて……六歳のとき以来だぞ。ボクシングの試合の翌日に、学校で眠り込んでぴくりとも動かなくなったお前を――」
「……ごめん」
がた、がたっ、と揺れる車内。一方通行で喋り続ける父親の声で、アレクサンダーは目を覚ます。起きたのか、アレクサンダー。父親はそう言うと、静かだったカーラジオの電源を入れ、バスドラムが激しく唸るハードロックミュージックを流した。
低く轟くバスドラムの重低音は、どこか心音に似ていた。どん、どん、どん、どん。乱れることなく、一定の間隔でビートを刻み続けるその音に、気がつけば心臓のほうが鼓動を刻む感覚を合わせていた。
「アレクサンダー、過労が祟ったんだぞ。バイト、辞めたらどうだ。お前はまだ学生で、学ぶことが本分だ。働くのは高校を卒業してからでいい。だから」
父親は正面だけを見ながら、アレクサンダーに話しかける。アレクサンダーは助手席側の窓から見える景色を、漠然と眺めながら応答した。「……また、監視でもしてたのかよ」
「断じて違うぞ」
「……なら、何だよ」
「パトリック・ラーナー。あの男がわざわざ事務所に来て、お前のことをご丁寧に教えてくれたんだ。『アレクサンダー、彼女は頑張りすぎている。誰か止めてあげないと、近々ぶっ倒れちゃいますよ?』ってな。あの男、母さんがヒステリーを起こしたせいで父さんがお前に近付くことができないってことを知っている上で、そう言って来たんだ。実に、憎らしい」
似ていないパトリック・ラーナーの物真似を交えながら喋る父親の話を、アレクサンダーは軽い相槌を打ちながら、聞き流す。そんな彼女は、自分の体がここに存在していて、自分の意思で自分の体を動かすことが出来ると言う感覚を、確認していた。
「それとだ、アレクサンダー。お前はまた強運で、とんでもない大物を釣り上げたみたいじゃないか」
「……何のことだか」
「ドクター・サントスだ。伝説のプロファイラーと言われるヘレン・ガードナーの一番弟子、犯罪心理学のスペシャリスト、カルロ・サントスだよ」
「……それが、どうしたんだよ」
「それがどうしたって……お前なぁ、自分がどれだけ大物のプロファイラーに目を掛けられているのかを分かっているのか? それに先方は、お前を自分と同じ道に引きずり込む気でいる。分かるか、アレクサンダー。お前はとてつもない人に気に入られてるんだ!! 凄いじゃないか! 父親として、実に誇らしいぞ!」
「……あの人、ラーナー次長の友人なんだって」
「知っているとも。だがドクター・サントスは、あの男のような悪どい人間ではないと聞いている。女性遍歴は凄まじいらしいが」
「……だから、強運もなにも、ラーナー次長が裏で糸を引いてるに決まってる」
「それを強運と言うんだろうが。お前は良くも悪くもラーナーを引き寄せ、チャンスをものにしたんだ」
座席に凭れかかるアレクサンダーは、全体重を背もたれに預ける。ぐったりとしてる体は思うように動かず、金縛りにかかった時のように重い頭では、体に対して思うように指示を出せない。けれどもどうにか動かすことができた右手で、アレクサンダーは握りこぶしを作った。
握りしめた右手のひらに、中指の爪が喰い込む。感じることのできた鈍い痛みは、今のアレクサンダーにとって心地の良いものだった。
ちゃんと自分は生きていて、魂のようなものは体にちゃんと定着していて、現実にちゃんとしがみつけている。痛みは、そんな気を起こしてくれたからだ。
「……でさ、なんで親父はそこまでラーナー次長のことを嫌ってるわけ?」
「なんで、だって? その問いこそ疑問だ。あの男、好意を抱ける要素を少しでも持ち合わせてるか? 答えはノーだ。嫌われる要素しかヤツにはない」
「……そうでもないと思うけど。結構いい人じゃん、ラーナー次長」
「どうしたんだ、アレクサンダー。まさかお前、学校でぶっ倒れた拍子に頭をどこかにぶつけでもしたのか?」
何気ないアレクサンダーの一言に、父親は首を傾げさせた。そして父親は、アレクサンダーが訊いてもいないことまで喋り出す。
「パトリック・ラーナー、あれの経歴を知ってるのか? あれは手段を選ばずにのし上がった。恥も外聞もないクソ野郎だ」
「……」
「ヤツはもともと、連邦捜査局の特別捜査官だったんだ。初っ端に担当したやまで大金星を挙げて、その次もトントントーンとあっという間に犯人を逮捕しー……」
「……大金星?」
「かれこれ、二十年近く前の事件でな。十歳から十二歳くらいの子供をターゲットにした、連続女児誘拐殺人事件が起きたんだ。事件が発生する場所がまちまちで、ベテランの捜査官たちも、捜査に協力していたプロファイラーのヘレン・ガードナーも手を焼いていたそうなんだが、その犯人も新入りの二人が突拍子もないやり方で見つけ、逮捕したんだ」
「……それって、イーライ・グリッサムの?」
「そうだ。イーライ・グリッサムの事件だよ」
「でもあの事件って、ヘレン・ガードナーが犯人の場所を特定して、パトリシア・ヴェラスケス捜査官が逮捕したんじゃ」
アレクサンダーがそう訊くと、父親は意味深にニヤリと笑う。世間じゃぁそうなってるが、事実は違うのさ。そう言うと父は、自慢げに知っている情報を話し始めた。
「ヘレン・ガードナーの回顧録には、そう書かれている。犯人の所在地を特定したのは自分だ、と。だが実際に場所を突き止めたのは彼女の愛弟子、当時はまだ見習いだったカルロ・サントスなんだ」
「……?!」
「カルロ・サントスはヘレン・ガードナーが見つけられなかった犯行の法則性を見つけ出し、次の犯行が行われるであろう場所を、複数あった候補地からひとつに絞った。そして、幼く見える容姿を利用して子供になりすまし、わざと犯人に誘拐されに行き、逮捕した捜査官。本において語られている捜査官の名はパトリシア・ヴェラスケスとなっているが、そんな捜査官は実在しない」
「……えっ。まさか」
「幼く見える容姿を利用し、子供になりすまして、わざと犯人に誘拐されに行き、逮捕した捜査官。それこそ、当時はまだ新米捜査官だったパトリック・ラーナーだ。大胆かつリスキーな選択を躊躇なく行ってみせた奴の名前は、それを機に上層部に知られることになったと言われている。その後も立て続けにパトリック・ラーナーは星を上げ、ついに評判はASIの長官も知るところとなった。そしてヤツはASIにスカウトされ、鞍替え。ASIでも、あっという間にヒエラルキーの階段を駆け上がり、四十歳にして次長だ。あれは実に恐ろしい悪魔だよ」
話を聞いている限りでは、有能な人物がそれに見合った評価を与えられ、他の者たちよりも早く出世していった、としか思えない。
野心家というよりも、当然の結果なんじゃないのか? そう考えたアレクサンダーは、少しだけ眉間に皺を寄せる。するとまた、父親はニヤニヤと笑った。
「だが、奴はまたASIから別の機関に鞍替えをしたようだ。真っ黒な背広に黒のネクタイ、黒の皮靴。――表向きは存在しないとされる、特務機関WACE の証だ」
「わ、ワース?」
「都市伝説で聞いたことぐらいあるだろ? 全身黒ずくめの男たち、通称メン・イン・ブラックことWACE。父さんも、WACEは所詮噂に過ぎないと思っていたがー……これで確証が持てた。特務機関WACEは実在する」
「……それで、ラーナー次長がそこの一人だって? 馬鹿げてるにも程があるだろ」
「だがラーナー自身は、それを仄めかすようなことを言っていた。そのうえ、あのキーキーうるさい女性のことを“ルーカン”と呼んでいることも、奴と彼女がWACEの構成員であると仮定したら説明がつく。さしずめ、あいつのコードネームは“ディナダン”といったところか?」
意味が分からない。アレクサンダーは父親の言葉を鼻で笑う。それでも父親はひとり、クヒヒ……と怪しげな笑い声をあげていた。
やがて家が近くなってくると父親は車を止め、アレクサンダーを下ろす。それから別れ際に父親は、母親に伝言を頼んだ。
「アレクサンダー。母さんに、伝えといてくれ。気持ちは分かった、書類にサインするから都合の合う時に事務所のほうに来てくれ、ってな」
「……自分で言えばいいじゃん。電話掛けるとかさ」
「電話なんか何遍も掛けたさ。けど、一度も出てくれなかったんだよ。そういうわけだ、頼んだぞ」
「……」
「それからだ、アレクサンダー。休める時には、ちゃんと休め。たしかにうちの家計は火の車だったが、なにもそれをお前が気に病む必要はない。さっきも言ったが、学生は、勉学に勤めることこそが本分だ。バイトに勤しむのは最優先事項じゃないぞ」
「……分かった」
【次話へ】
「どうかしたんですか、ドクター」
アレクサンダーは疲れ切った顔で笑みを取り繕うと、紙の束を前に独り言をぶつぶつと連ねるカルロ・サントス医師に、インスタントの不味いコーヒーを差し出す。
いつもすまないね。カルロ・サントス医師はそう言うと、コーヒーを一口だけ口に含む。それを飲み込むと、彼は唐突に意見を求めてきた。「アレクサンダーくん。君は昨日のあの少年の話を聞いて、どう思った?」
「どうって、どういうことです?」
何について、意見を求められているのか。アレクサンダーにはそこが分からず、答えようがないと苦笑う。
……もしや人体から電気が放出されたとかいう、アレについてか?
そんなこんなアレクサンダーが戸惑っていると、カルロ・サントス医師は一度咳き込む。
「すまない、主語が無かったな」
そう言うと彼は、その主語とやらを話し始めた。
「パトリックはやたらと、ペルモンド・バルロッツィという人物に固執している。彼を絶対悪だと決めつけ、刑務所にぶち込みたがっているが……――私にはペルモンド・バルロッツィという人物が悪人だとはとてもじゃないが思えんのだ」
「……えっと、その、つまり?」
――なんだ、そっちか。
「ペルモンド・バルロッツィ。彼はまるで、コミックに出てきそうなヒーロー。それもダーティーヒーローだ。
「決して人は殺さないけれども、童顔で口が悪く、やり方がとにかく汚い、超一流のインテリジェンスが活躍するコミックよりも?」
「君も、なかなか皮肉の利いたことを言うね」
パニッシャーVSインテリジェンス、そんなコミックも悪くないかもしれん。カルロ・サントス医師はそう言って笑う。そしてアレクサンダーは、コミック調のスタイリッシュな絵柄で描かれた二人の男が、互いに銃口を向け合うシーンを思い浮かべた。
もし、早撃ち対決になったとしたら。パニッシャーとインテリジェンス、そのどちらか勝つのだろうか。そんなこと、考えなくても分かる。人を撃つことに躊躇いのないパニッシャーが、つまりペルモンド・バルロッツィが勝つだろう。
「彼はまさに、絵にかいたような解離性同一性障害の患者だ。私が聞きかじった話が正しいのなら、彼の状態はかなり深刻だろう。パトリックの睨んでいる通り、そこに付け込まれて良いように操られているという線も大いにありうる。彼は高位技師官僚を演じているだけで、そこに意思はない。その可能性は十分に……」
「……」
「だが、これはあくまで私の推測でしかないが、彼は良いひとだ。私はパトリックから多くの話を聞くが、私にはどうも彼がパトリックを守ってくれているようにしか思えなくてな。あの無謀で恐れ知らずの馬鹿を、彼は真の意味での危険から遠ざけようとしてくれているのではないかと、そう思えてならないんだ」
カルロ・サントス医師はまっすぐな目で、アレクサンダーを見る。だがアレクサンダーは、その問いに答えるための意見を持ち合わせていなかった。すると、そんなアレクサンダーの心を察してかカルロ・サントス医師はこう言う。
「とはいえ、答えてくれなくても構わない。答えは始めから求めていないからね。……それにパトリックと違い、病者本人と直接話したこともない私に言えることは限られている。いつかは、あのときのお礼もしなければと思ってはいるが……――」
「……?」
「哲学者ハンス・ゲオルク・ガダマーは言っていた。問いというのは、答えが定まらず未解決な状態で宙ぶらりんになっているからこそ、真の問いとなり、初めてその意味を完成させると。ガダマーの『真理と方法』は一度目を通しておくといい。彼の哲学的解釈学は対話が重要となる解離の患者と向き合うときに、実に役に立つぞ」
ペルモンド・バルロッツィの話から飛んで、急に哲学書の話になる。カルロ・サントス医師のその言葉の意図を掴みかねたアレクサンダーが首を僅かに傾げると、彼は小さく微笑む。それから彼は一冊の分厚い本を差し出し、それをアレクサンダーに手渡しながらこう言った。
「君は今後、彼と関わる機会があるはずだ。きっと。そんな気がしているよ。だからこそ、あの本を読んでおいて欲しいんだ」
その翌日、学校にて。物理の授業に向かう廊下の途中で、教科書を抱えたアレクサンダーはふと立ち止まる。すると後ろから、彼女を呼ぶ声が聞こえてきたからだ。
「アレックス、どうして私を避けてるの」
聞こえてきた声は、ユニのものだった。けれどもアレクサンダーは、振り返れなかった。アレクサンダーは止めた歩みを再開する。すると後ろから走ってくる足音が聞こえてきた。
その数秒後にはアレクサンダーの行く道を妨害するように、ユニが立ち塞がる。アレクサンダーは仕方なく、また歩みを止めた。「……ユニ、どいてくれないか」
「嫌よ。せめて理由を聞かせて。どうして私を避けるの。私が、あなたに何かした?」
アレクサンダーは目を伏せ、口を噤み、問いに答えるという行為を放棄する。ユニはアレクサンダーを激しく責めて立て、アレクサンダーの口から何かひとつでも言葉を得ようとするが、アレクサンダーは視線を逸らすだけ。
そんなアレクサンダーの視界には、コンピューター技術の女性教諭――パトリック・ラーナーが“ルーカン”と呼んでいた女性――が映っていた。派手な緑色のウェリントン眼鏡を掛けた“ルーカン”は、ぴょんぴょんと飛び跳ねるように走りながらアレクサンダーらに近付いて来ている。
助け船が来てくれたのか? アレクサンダーは淡い期待を抱いた。けれども期待は、ユニにより一瞬にしてぶった斬られる。ユニは近付いてきた“ルーカン”にキツい眼差しを向けると、ヒステリックな声で叫んだ。「こっちに来ないで!」
「ふぇぁ?! い、いや、えっ、ど、どうしたのかな?」
「私に関わらないで! 私は、あなたの正体を知っているんだから!!」
「い、いや、でも、ほらぁー……私、この学校の教員だしぃ、生徒に関わるなっていうのはちょっとー……」
あからさまに狼狽えてみせる“ルーカン”は、少しズレた眼鏡を直しながら、アレクサンダーに無言の圧を送ってきた。早く、君はどっか行きなよ! そんな意図を察したアレクサンダーは気配を消し、そろーりそろり……とその場を去ろうとした。
……のだが。
「アレックス、あなたの答えをまだ聞いていないわ。どこに行くつもりなの」
ユニに、止められてしまった。
「……」
幸か、不幸か。アレクサンダーとユニ、そして“ルーカン”以外には、近くに人らしき影も見えない。ユニはそれもあってか、大声で捲し立てている。威嚇し、牽制していた。
「最近あなたの周りを、あの男がうろついていることは知っているわ。アレックス。あなたは、あの男に何を吹きこまれたの!?」
「……」
「黙ってないで、何か言ったらどうなの?!」
「何も、吹きこまれちゃいないさ。それに、あの男ってのはどの男のことだい」
「すっとぼけないで。ラーナーよ。ラーナーが、あなたのバイト先にしょっちゅう足を運んでることも知ってるわ。それに、カルロ・サントスっていう精神科医長とは大学の同窓生で、二人して私の双子の片割れを!」
「……ああ、そうさ。アタシゃたしかに、彼と最近よく会ってるよ。でも、だからどうした」
アレクサンダーのその言葉を聞いた途端、ユニの顔には怒りという感情が出てきた。けれどもアレクサンダーは顔色ひとつ変えることなく、そして視線を一切合わせることなく、言葉を続ける。答えではない嘘を、口から出した。
「アタシと彼の関係は大したもんじゃないよ。ニールがどうしてるか、毎度それを訊かれるだけさ。それか、彼の下らない思い出話を聞かされるかだよ」
「じゃあ、どうして私たちを避けるの?」
「理由なんか、聞いてどうする。人が人を避けるようになるとき、そこにあるのは小さな不満が積み重なった結果だ。理由をひとつひとつ、聞き出さなきゃアンタは済まないのかい? 傷付くことは目に見えてるだろうに、何故そんなに知りたがる」
「答えになってないわよ」
「答えなんか、ないよ。そのほうがいい。そうすればお互いに、傷が浅いうちに別れられる」
「別れる? なによ、それ。金輪際付き合わないみたいな、そんな言い方じゃ」
「そうだ。その通りだよ」
ああ、嫌だ。本当はこんなことなんか、したくないってのに。
「アタシは、ニールを選んだ。アンタは、きっとそのことを快く思わないはずだ。だってニールは、過去形になるがあんなことをやってたわけだからね。けどアタシが欲張って両方との縁をつなぎ止めようとしたら、あいつが傷付くことになる。だから、どちらかとはお別れしなきゃならない。そういうわけだ。アンタら姉妹とは、もう無理だ」
けど、それでいい。……そうだ、それで良いんだ。
「……どうして、そうなるのよ。なんで私じゃなく、彼を選んだの?」
「昔から続く関係か、そうでもない関係か。どちらを優先させるべきかなんて、悩むまでもないだろ?」
これが、最善なんだ。そうなんだろ、パトリック・ラーナーさんよ。
「……あなただけは絶対に裏切らないって信じてたのに」
ユニは最後にそれだけを吐き捨てるように言うと、アレクサンダーに背を向け、廊下を走り去っていく。アレクサンダーは俯き、つるつると光るタイルの床に映り込む、自分の姿をじっと見た。
仕方がなかったんだよ。ああするしか、なかったんだ。アレクサンダーは自分に言い聞かせた。音なき声で念じ、自分自身にそうであると思い込ませようとした。だが、どうしてなのだろう。胸が苦しい。喉が締め付けられるようで、息苦しかった。
アレクサンダーは自分の左胸のあたりに手を当て、落ち着こうと、緊張により強くなった心臓の鼓動を抑え込もうとした。けれども血流を感じるたびに、床に映り込む自分の姿が歪んで見えた。映り込んでいるのは自分であるはずなのに、まるで自分のように感じない。誰でもない人影を、誰でもない視点から見つめているような感覚に襲われたのだ。
「……アレックスちゃん」
呆然と立ち尽くすアレクサンダーの前に“ルーカン”が立つ。彼女はアレクサンダーの頭をぽんぽんと軽く叩くと、アレクサンダーを抱きしめ、それからこう言った。
「上手く立ち回れたね。『よくやった』って、スピーカー越しにパトリックが褒めてるよ」
「…………」
「……ごめんね、辛い思いをさせて。でも、これが正解なの」
アレクサンダーは今、“ルーカン”に抱きしめられていた。それなりに強い力で、ぎゅっと押さえつけられているはずなのだ。だがアレクサンダーは抱きしめている力を、抱き締められている感覚を、認識していなかった。
気が付いてみれば、さっきまであったはずの息苦しさが、いつの間にかすっかりと消えてしまっていた。でもその消え方はスッキリとした、晴れやかなものとは程遠く、まるで心をどこかに落としてしまったような、何かが欠けているという意識を伴っていた。
肩や頭には、どうすることも出来ないセンチメンタルな気分が、どっしりと圧し掛かる。だが、そんな感情すらどこか他人事のように感じている自分が、今のアレクサンダーの中には居た。
初めて味わう、奇妙な感覚だった。体験するのは初めてだが、アレクサンダーは今の気分、この状況に付けられる名前をよく知っていた。
そうか。これが――
「……」
「アレックスちゃん?」
実感と共にどっと沸き上がってくるのは、虚しさと疲労だった。心は虚しさに喰い尽され、現実感が失われていく。体は疲労に呑み込まれ、力が抜けていった。
アレクサンダーは“ルーカン”に体を預ける形で、ふらりと倒れ込んだ。小柄な“ルーカン”は自分よりも少しだけ大きいアレクサンダーの体をどうにか受け止めると、金切り声を上げる。
「あぁっ、ジェーン先生! 丁度いいところに! 助けて、おねがいー!!」
そのとき、同時に授業の開始を意味するチャイムが鳴る。アレクサンダーの意識は、チャイムの音と共にぶつっと途切れた。
「まったく、お前ってやつは。学校でぶっ倒れるなんて……六歳のとき以来だぞ。ボクシングの試合の翌日に、学校で眠り込んでぴくりとも動かなくなったお前を――」
「……ごめん」
がた、がたっ、と揺れる車内。一方通行で喋り続ける父親の声で、アレクサンダーは目を覚ます。起きたのか、アレクサンダー。父親はそう言うと、静かだったカーラジオの電源を入れ、バスドラムが激しく唸るハードロックミュージックを流した。
低く轟くバスドラムの重低音は、どこか心音に似ていた。どん、どん、どん、どん。乱れることなく、一定の間隔でビートを刻み続けるその音に、気がつけば心臓のほうが鼓動を刻む感覚を合わせていた。
「アレクサンダー、過労が祟ったんだぞ。バイト、辞めたらどうだ。お前はまだ学生で、学ぶことが本分だ。働くのは高校を卒業してからでいい。だから」
父親は正面だけを見ながら、アレクサンダーに話しかける。アレクサンダーは助手席側の窓から見える景色を、漠然と眺めながら応答した。「……また、監視でもしてたのかよ」
「断じて違うぞ」
「……なら、何だよ」
「パトリック・ラーナー。あの男がわざわざ事務所に来て、お前のことをご丁寧に教えてくれたんだ。『アレクサンダー、彼女は頑張りすぎている。誰か止めてあげないと、近々ぶっ倒れちゃいますよ?』ってな。あの男、母さんがヒステリーを起こしたせいで父さんがお前に近付くことができないってことを知っている上で、そう言って来たんだ。実に、憎らしい」
似ていないパトリック・ラーナーの物真似を交えながら喋る父親の話を、アレクサンダーは軽い相槌を打ちながら、聞き流す。そんな彼女は、自分の体がここに存在していて、自分の意思で自分の体を動かすことが出来ると言う感覚を、確認していた。
「それとだ、アレクサンダー。お前はまた強運で、とんでもない大物を釣り上げたみたいじゃないか」
「……何のことだか」
「ドクター・サントスだ。伝説のプロファイラーと言われるヘレン・ガードナーの一番弟子、犯罪心理学のスペシャリスト、カルロ・サントスだよ」
「……それが、どうしたんだよ」
「それがどうしたって……お前なぁ、自分がどれだけ大物のプロファイラーに目を掛けられているのかを分かっているのか? それに先方は、お前を自分と同じ道に引きずり込む気でいる。分かるか、アレクサンダー。お前はとてつもない人に気に入られてるんだ!! 凄いじゃないか! 父親として、実に誇らしいぞ!」
「……あの人、ラーナー次長の友人なんだって」
「知っているとも。だがドクター・サントスは、あの男のような悪どい人間ではないと聞いている。女性遍歴は凄まじいらしいが」
「……だから、強運もなにも、ラーナー次長が裏で糸を引いてるに決まってる」
「それを強運と言うんだろうが。お前は良くも悪くもラーナーを引き寄せ、チャンスをものにしたんだ」
座席に凭れかかるアレクサンダーは、全体重を背もたれに預ける。ぐったりとしてる体は思うように動かず、金縛りにかかった時のように重い頭では、体に対して思うように指示を出せない。けれどもどうにか動かすことができた右手で、アレクサンダーは握りこぶしを作った。
握りしめた右手のひらに、中指の爪が喰い込む。感じることのできた鈍い痛みは、今のアレクサンダーにとって心地の良いものだった。
ちゃんと自分は生きていて、魂のようなものは体にちゃんと定着していて、現実にちゃんとしがみつけている。痛みは、そんな気を起こしてくれたからだ。
「……でさ、なんで親父はそこまでラーナー次長のことを嫌ってるわけ?」
「なんで、だって? その問いこそ疑問だ。あの男、好意を抱ける要素を少しでも持ち合わせてるか? 答えはノーだ。嫌われる要素しかヤツにはない」
「……そうでもないと思うけど。結構いい人じゃん、ラーナー次長」
「どうしたんだ、アレクサンダー。まさかお前、学校でぶっ倒れた拍子に頭をどこかにぶつけでもしたのか?」
何気ないアレクサンダーの一言に、父親は首を傾げさせた。そして父親は、アレクサンダーが訊いてもいないことまで喋り出す。
「パトリック・ラーナー、あれの経歴を知ってるのか? あれは手段を選ばずにのし上がった。恥も外聞もないクソ野郎だ」
「……」
「ヤツはもともと、連邦捜査局の特別捜査官だったんだ。初っ端に担当したやまで大金星を挙げて、その次もトントントーンとあっという間に犯人を逮捕しー……」
「……大金星?」
「かれこれ、二十年近く前の事件でな。十歳から十二歳くらいの子供をターゲットにした、連続女児誘拐殺人事件が起きたんだ。事件が発生する場所がまちまちで、ベテランの捜査官たちも、捜査に協力していたプロファイラーのヘレン・ガードナーも手を焼いていたそうなんだが、その犯人も新入りの二人が突拍子もないやり方で見つけ、逮捕したんだ」
「……それって、イーライ・グリッサムの?」
「そうだ。イーライ・グリッサムの事件だよ」
「でもあの事件って、ヘレン・ガードナーが犯人の場所を特定して、パトリシア・ヴェラスケス捜査官が逮捕したんじゃ」
アレクサンダーがそう訊くと、父親は意味深にニヤリと笑う。世間じゃぁそうなってるが、事実は違うのさ。そう言うと父は、自慢げに知っている情報を話し始めた。
「ヘレン・ガードナーの回顧録には、そう書かれている。犯人の所在地を特定したのは自分だ、と。だが実際に場所を突き止めたのは彼女の愛弟子、当時はまだ見習いだったカルロ・サントスなんだ」
「……?!」
「カルロ・サントスはヘレン・ガードナーが見つけられなかった犯行の法則性を見つけ出し、次の犯行が行われるであろう場所を、複数あった候補地からひとつに絞った。そして、幼く見える容姿を利用して子供になりすまし、わざと犯人に誘拐されに行き、逮捕した捜査官。本において語られている捜査官の名はパトリシア・ヴェラスケスとなっているが、そんな捜査官は実在しない」
「……えっ。まさか」
「幼く見える容姿を利用し、子供になりすまして、わざと犯人に誘拐されに行き、逮捕した捜査官。それこそ、当時はまだ新米捜査官だったパトリック・ラーナーだ。大胆かつリスキーな選択を躊躇なく行ってみせた奴の名前は、それを機に上層部に知られることになったと言われている。その後も立て続けにパトリック・ラーナーは星を上げ、ついに評判はASIの長官も知るところとなった。そしてヤツはASIにスカウトされ、鞍替え。ASIでも、あっという間にヒエラルキーの階段を駆け上がり、四十歳にして次長だ。あれは実に恐ろしい悪魔だよ」
話を聞いている限りでは、有能な人物がそれに見合った評価を与えられ、他の者たちよりも早く出世していった、としか思えない。
野心家というよりも、当然の結果なんじゃないのか? そう考えたアレクサンダーは、少しだけ眉間に皺を寄せる。するとまた、父親はニヤニヤと笑った。
「だが、奴はまたASIから別の機関に鞍替えをしたようだ。真っ黒な背広に黒のネクタイ、黒の皮靴。――表向きは存在しないとされる、特務機関
「わ、ワース?」
「都市伝説で聞いたことぐらいあるだろ? 全身黒ずくめの男たち、通称メン・イン・ブラックことWACE。父さんも、WACEは所詮噂に過ぎないと思っていたがー……これで確証が持てた。特務機関WACEは実在する」
「……それで、ラーナー次長がそこの一人だって? 馬鹿げてるにも程があるだろ」
「だがラーナー自身は、それを仄めかすようなことを言っていた。そのうえ、あのキーキーうるさい女性のことを“ルーカン”と呼んでいることも、奴と彼女がWACEの構成員であると仮定したら説明がつく。さしずめ、あいつのコードネームは“ディナダン”といったところか?」
意味が分からない。アレクサンダーは父親の言葉を鼻で笑う。それでも父親はひとり、クヒヒ……と怪しげな笑い声をあげていた。
やがて家が近くなってくると父親は車を止め、アレクサンダーを下ろす。それから別れ際に父親は、母親に伝言を頼んだ。
「アレクサンダー。母さんに、伝えといてくれ。気持ちは分かった、書類にサインするから都合の合う時に事務所のほうに来てくれ、ってな」
「……自分で言えばいいじゃん。電話掛けるとかさ」
「電話なんか何遍も掛けたさ。けど、一度も出てくれなかったんだよ。そういうわけだ、頼んだぞ」
「……」
「それからだ、アレクサンダー。休める時には、ちゃんと休め。たしかにうちの家計は火の車だったが、なにもそれをお前が気に病む必要はない。さっきも言ったが、学生は、勉学に勤めることこそが本分だ。バイトに勤しむのは最優先事項じゃないぞ」
「……分かった」