家の玄関前に立つ男。彼に対し、ミランダ・ジェーンは不機嫌そうな声で言う。
「約二〇年ぶりに、長らく音信不通で行方知れずになっていた弟から連絡が来たかと思えば、一体全体なんなのよ。唐突に『すみません』だぁ?」
訝るように三日月眉を吊り上げたミランダ・ジェーンは、彼女の目の前でにこにこと笑っている童顔で低身長の男――彼女の実の弟であるパトリック・ラーナー――を威圧する。
「どういうつもりなのかしら、リッキー。勿論、説明してくれるわよね?」
彼女の愛すべき夫と娘たちは、とあるロックバンドのライブを観に出かけているため、今は不在。現在、家に居るのはミランダ・ジェーンと、ジェーン家の飼い犬であるドーベルマンのラッキーのみ。だからこそ彼女は気兼ねすることなく、弟にこうして嫌味をぶちまけていた――二〇年分の怒り、及び心配と焦燥と不安のその全てを声に乗せて。
おまけに犬のラッキーも、初めて見るパトリック・ラーナーという人物に警戒心を示し、ガルルルルッ……と唸り声をあげている。しかしパトリック・ラーナーは舐め腐った笑みを浮かべて、こう言うだけだった。「ははっ。どうやら私は、姉にも犬にも嫌われてるようですね」
「パトリック、話を逸らさないで」
「すみません。つい、仕事のくせが……」
これといって反省の意を示す様子がない弟を前に、ミランダ・ジェーンは舌打ちをした。もう我慢できない。彼女がそう呟くと、弟の顔には初めて焦りの色が浮かぶ。
長男のマイケル、次男のマーティン、三女のミランダ、四男のスペンサー、末子のパトリック。五人兄弟の中でも絶対にミランダだけは怒らせてはいけないという、ラーナー家五兄弟の中にあった暗黙の了解を、たった今パトリックは思い出したようだ。
「それで。お仕事って? あなたは今、何をしているのかしら」
コン、コン、コン。場の流れを支配するように、ミランダ・ジェーンは履いているパンプスの爪先を床に叩きつけ、音を鳴らす。パトリック・ラーナーは緊張から蟀谷をぽりぽりと掻くと、にこやかな笑みを苦笑いに変える。そして彼は渋々、白状した。「……政府に仕えるお仕事、ってとこでしょうか」
「へぇ、たとえば? お役所の公務員かしら。でもただの公務員だったら、わざわざ姿を晦ます必要はないわよねぇ? 捜索願を警察に出しても、適当に濁されて受理されなかったりとか、そんなことにはならないはず。突然、連邦捜査局から家族のもとに電話が来て、病院に来てくださいだなんて言われる事態も起こるはずがない。そうでしょう?」
「あぁっと、その……」
「なぁに? 家族には恥ずかしくて言えないお仕事なの?」
「……あんまり大きな声で言えないんですよ。察してくださいって」
「えー、なぁーにぃー? 聞こえなーいんですけどー?」
「れっ、連邦捜査局です!! 特別捜査官として、この国に尽くしッ」
「あら、そうなの? 本当に?」
「疑うんですか」
「当然でしょ。義足かつ義手で、性腺機能障害に骨粗鬆症、さらに白血病の罹患歴もあるハンディキャップだらけの弟が、連邦捜査局なんていう肉体的にもハードな仕事できると思うわけがない。体に負荷が掛かりすぎる。そんな仕事、ドクター・デイヴィスが止めているはずだもの」
「……」
「それに、本当にあなたが連邦捜査局の特別捜査官だっていうなら、胸を張って家族の前に出られるわよねぇ? なのにあなたときたら、一〇年以上も音信不通。挙句、サントス先生から急に連絡が来て、あなたに会いに来てほしいって指定された場所に来てみれば、あなたは死にかけた状態で病床にあったーなんてこともあったわね。それも一度だけじゃない、二度も」
「あぁ、その……」
「一度目の件はさておき。問題は二度目よ。あのときのあなたは、すごく悪くなるまで放置してたっていう白血病のせいで死にかけてたわね。それに、マイケルが骨髄を提供したことであなたは回復したのに、恩知らずのあなたは恩人であるマイケルに感謝もなし。連絡もせず、回復したあとはすぐに失踪して以降は音信不通。痛い思いをして骨髄を提供してくれた実の兄を、あなたは裏切った」
「いや、流石にあのときはマイケルに感謝を伝えまし――」
「ひどいことが過去に散々あった。それなのに……――あなたの言葉を信じられるわけがないでしょう。本当は何をやっているの」
「……」
「パトリック」
「……えっとですね、ちょっと複雑な事情が」
「パトリック?」
「あの、本当ですよ? 連邦捜査局には、本当に勤めていたんですから。信じて下さいって」
「本当のことを言いなさい」
「以前は、連邦捜査局に居たんです。けれど色々とあって……――今はアルストグラン秘密情報局に勤務しています。えっと、まあ、その。アルストグラン内外に出向いて、細々とした諍いの調停役まがいのことをやっているわけでして」
「ASIね、なるほど。やっと納得できた」
仁王立ちの体勢で腕を組み、小柄な男を見下ろす長身のミランダ・ジェーンの眼差しは、完全に冷めきっていた。
薄々そんな気はしてたのよ。彼女はそう呟くが、その声には感情が籠っていない。どこまでもドライで一切の信用を抱いていない、そんな調子だ。赤の他人からそのような視線を注がれることには慣れているパトリック・ラーナーであったが、流石に身内からこのような目で見られることには慣れていなかった。あまりにも厳しい姉の態度に、遂にパトリック・ラーナーは弱音を洩らす。「信じてもらえないのですね」
「そりゃそうよ。なら聞くけど、連邦捜査局に居たって言うなら手柄のひとつくらい立ててるんでしょう? だったら、証拠を示して」
彼の鋼鉄のハートにミランダ・ジェーンの視線がぶつかり、視線は心に大きくて深いクレーターを残す。その日、初めて笑顔以外の表情を見せたパトリック・ラーナーは、肩を大きく落としてみせた。それから彼はまた弱音を吐く。「言ったって、どうせ信じやしないでしょ」
「分からないわよ?」
「イーライ・グリッサム。あれを逮捕したのは、私です。あと……」
「嘘ね。ヘレン・ガードナーの回顧録を読んだわ。イーライ・グリッサムを逮捕したのは、パトリシア・ヴェラスケス捜査官でしょう」
「ヘレン・ガードナー、あのババァは大嘘吐きですよ。一番弟子であるカルロ・サントスがあげた手柄を横取りして、私から名誉を奪い取ったんです。だって、私以外にあんな芸当を出来る人間なんかいると思います? 子供に化けて、自ら誘拐されに行くって」
「えっ、まさか、パトリック。あなた、本当に……?」
「本当ですよ。あと一歩のとこで、本当に危なかったんですから。それ以外にも、私が逮捕した殺人鬼はいます。日系の女性だけを狙い、犯行に及んだカニバリズムのドミトリー・クレスチヤニノフ。彼が言うには、男に比べると女は肉が柔らかくて、そして肉に野菜、それから魚をバランスよく食べる日系人ってのは一番おいしいんですって。肉ばかりを食べる西洋人はニオイがきつく、チーズべとべとでハイカロリーのものばかりを好む北米人はまずくて食べられたもんじゃないそうですよ」
「……おぞましい」
「あと、ペドフィリアのジークリット・コルヴィッツ。十二歳に満たない少年だけを狙った女ですね」
「ええ、知ってるわ。イカれ女よね」
「そのイカれ女、実は私の元婚約者です」
「は? ……えぇっ!?」
「私から別れを切り出した直後に凶暴化し、あんなことになったんです。彼女を逮捕したのも私です。それ以外にも、ここ十数年で少年に手を出し捕まった女性のペドフィリアは、大体というか、ほぼ全員が私の元交際相手でした」
「うそ……。あなた、どういう女性と出会ってきたのよ?」
「同僚にもよく言われます。全員、はじめは良い人だと思ったんですけどね。本性を知ったときには時すでに遅し、って感じで。だからもう怖くて、結婚なんか考えられませんよ。それと他にも、高身長の黒人女性だけを狙ったネクロフィリアのアントニー・ストラウスに、金髪碧眼の小柄な女性だけを狙ったシリアルキラーのデイヴィット・ポートマン、痴呆の老人をターゲットに死の天使を気取った劉 美帆 、それに……」
「どれも有名な犯罪者じゃないの。……――えっ、待って。本当にあなたが逮捕したの?」
「そうですよ。なんなら連邦捜査局に居る人間に訊いてみるといい。私、これでも伝説になってるんですから」
えっへん。胸を張るパトリック・ラーナーは、再びの笑顔を見せる。その笑顔を見たミランダ・ジェーンは呆れたように溜息を吐く。それから彼女はカメラを取り出すと、その笑顔をパシャリと撮影した。するとパトリック・ラーナーの表情が歪んだ。「ちょっと、ミランダ。なにを撮っているんですか!」
「親不孝者のどうしようもない弟が、ちゃーんと生きてましたよーっていう証拠。あとで父さんに送る。これで少しは安心させられるわ。まあ? 一番は本人が実家に出向くことなんですけどねぇ?」
「勝手なことをしないで下さいって! 上は、こういうことに厳しいんですから!」
「知らないわよ、そんなの。老い先短い親を安心させることのほうが大事だわ」
「本当に、やめてください! ちゃんとデータ消してくださいって!」
「あなたが両親、それと他の兄弟たちにちゃーんと顔を見せるって約束するなら、消してあげなくもないわ」
「無理です。スケジュールが詰め詰めで。近場に住んでいたミランダになら、最後に会えるかと思ってここに来たんですから」
「あっそう。なら、このデータは消さない。写真は私から父親に、それとマイケルとマーティン、スペンサーに送らせていただきます」
パトリック・ラーナーはミランダ・ジェーンからカメラを奪い取ろうとするが、ミランダ・ジェーンは渡すまいとカメラを高い位置に上げた。
身長差が約三〇センチメートルほどある姉と弟。他よりやや長身である姉がひとたび腕を上げてしまえば、他よりも圧倒的に低身長である弟がどれだけ飛び跳ねようと、手が届かなくなってしまう。仕方無いと諦めたパトリック・ラーナーはカメラを睨むと、腕を組み、そして俯く。彼は呟くように言った。「……両親と兄たちには、よろしく言っておいて下さい」
「本当に会わないわけ?」
「会えないんです。会ってはいけないと上から忠告されているんで」
「ASIで、そんなに危ない仕事をしてるの?」
「……」
「パトリック?」
「探偵を雇って、私を探そうだなんて馬鹿な真似は考えないで下さいね。ちゃんと把握しているんですから。あなたの教え子アレクサンダー・コルトの父親、人探し専門の探偵であるダグラス・コルトに、私を探させようとしていたことを」
「なんでもお見通し、ってわけね。……そのアレックスちゃんも事故で亡くなった今、あのお父様も探偵業を畳まれたって聞いてるし。それにこうして本人が来てくれたから、もう頼む必要もないけれど」
「一応、言っておきますけど。私、あの探偵にすごく嫌われてるんです。だから頼んだところでどうせ引き受けてもらえないと思いますよ」
「パトリック。あなた、何をしたの?」
「彼の事務所を荒らしたりとか? まぁ、色々とあったんですよ……」
パトリック・ラーナーは口を噤み、似つかわしくない淋しげな表情を浮かべる。ただならぬものを察し取ったミランダ・ジェーンも、黙りこんでしまった。
そして俯くパトリック・ラーナーは、姉にこう言った。
「……本当に、すみませんでした。昔は連邦捜査局で偉くなってから、胸を張って家族の前に戻ろうって思ってたんですけどね。いつからか道を踏み間違えてしまったみたいで、もと居た場所に戻ることが許されなくなったんです。大正義に尽くしていたつもりだったのに、気がつけば誰かが犯した悪事の尻拭いに追われる毎日で、本当に嫌になりますよ」
「……」
「最後に姉さんに会えて良かったです。もっと拒絶されるかと思ってましたけど、その……」
物悲しげな笑みを浮かべて見せた弟の、その大きな目に、きらりと光る何かが見えた。そしてミランダ・ジェーンが、胸に引っ掛かった言葉に首を傾げる。
「……最後?」
そのときだった。ミランダ・ジェーンに向かって、一際強い風が吹く。立っているのもやっとという強い風を前に、目を開けていられるわけがない。ミランダ・ジェーンはほんの一瞬だけ、瞼を閉ざす。そして次に瞼を開いたとき、風は収まり、玄関前にあった弟の姿は消えていた。
「どこに行ったの、パトリック? ……はぁー、あの馬鹿はこれだから手に負えない……」
すると、ミランダ・ジェーンの後ろで伏せをして待っていたラッキーが、低い声でばうばうと吠えた。そんなラッキーの視線は、玄関前に置かれていた段ボール箱を見ている。
「箱? さっきまで無かったはずよね。一体、どうして」
弟の置き土産なのだろうか。ミランダ・ジェーンは恐る恐る段ボール箱に近付くと、そっと封を開ける。そして中に入っていたものを見るなり、顔を強張らせた。
「……これは、アレックスちゃんの……!?」
段ボール箱の中に畳まれて入っていたのは、ミランダ・ジェーンにとって見覚えのある赤いレザージャケットだった。綺麗に手入れされた年代物のジャケットは、持ち主の繊細な一面をよく表している。これはアレクサンダーという生徒が、肌寒い日によく着ていたレザージャケットだった。
それに気付いたミランダ・ジェーンは赤いレザージャケットを箱から取り出す。そうして空になったと思った段ボールを彼女が見やったとき。彼女は段ボール箱の底に入れられていたメモ紙を発見する。彼女はその場にしゃがみこむと、メモ紙に書かれていた内容に目を通した。
「……アレクサンダーのお父様に渡しておいてほしい、ねぇ。今も昔も、パトリックは人使いが荒いんだから……」
ミランダ・ジェーンはメモ紙を取り出すと、箱の中に赤いレザージャケットを畳んで戻す。それから彼女は段ボール箱を閉めると、外に出かける支度を始めた。
ミランダ・ジェーンは外行きの服を選びながら、昔にアレクサンダーから貰ったダサい名刺を取り出す。それからミランダ・ジェーンは、コミックサンズ体で書かれた電話番号に連絡した。
「アレクサンダーのお父様、ダグラス・コルトさんで間違いないでしょうか? ……いえ、依頼ではないんです。実はうちに、あなた宛ての荷物が届いておりまして。……ああ、私はミランダ・ジェーンです。アレクサンダーが通っている学校でラテン語の教師をやっている者です。……ええ、はい。本当ですか? 分かりました、今すぐそちらに向かいますね。はい、宜しくお願いします」
*
次に目を覚ましたとき、アレクサンダーに与えられたのは新たな名前と新しい人生だった。それと同時に、彼女に関する全ての過去は抹消された。アレクサンダー・コルトという人物が居たという記録も、彼女が戻るべき場所も、何もかも。
ルーカン、改めアイリーン・フィールドから聞いた話によれば、アレクサンダーは悲劇的な事故に巻き込まれて死んだことになっているらしい。しかし遺体は見つかっておらず、手掛かりは何もなく、捜査は頓挫。彼女の事件はコールドケース扱いになったそうだ。
その後、彼女の両親は離婚。娘の死を散々嘆き悲しんだあと、死を受け入れ前に進んだ母は新しいフィアンセを見つけ、今は平穏な生活を送っているのだという。けれども父はひとり寂しく、郊外に暮らしているらしい。探偵業も畳み、パパラッチも辞め、隠者のような生活をしているそうだ。
そしてニールは無事にハイスクールを卒業したのち、猛勉強を重ねてセントラル・ビクトリア大学に自力で合格。彼は法学部をギリギリの成績とひどい内容の論文で卒業したのち、特別捜査官育成アカデミーの研修に参加したそうだ。そこで彼は意外な才能を開花させ、アカデミーでの成績は常に上位を競っていると聞く。あのパトリック・ラーナーが見込んだ期待の新人として、既に上層部から目をかけられているそうだ。特にシドニー支局長から気に入られているという話だ。
「それで、アレックス。影の世界に生きる気分はどうです? 任務にも慣れてきましたか」
「……いいや、まだ慣れないさ。きっと、この先も慣れることはないと思う」
「初めの数年のうちは、誰しもそう思うんですよ。けど気がついた頃には闇にどっぷり浸かってしまっていて、光に怯えるようになるんです」
白い光が仄かに照らす薄暗闇に包まれる武器庫の中、かつてアレクサンダーと呼ばれていた彼女はアサルトライフル――「コルト・コマンドー」と呼ばれるシリーズの小銃――の手入れをしていた。そんな彼女の背に話しかけていたのは、パトリック・ラーナーである。
「その中でも私は、アバロセレンの蒼白い光が一番嫌いです。全ての摂理を捻じ曲げ、様々な災いを引き起こす、災禍の光が」
パトリック・ラーナーはそう言いながら、淹れたての紅茶をアレクサンダーの近くにあるテーブルの上にそっと置く。ありがとうございます、と軽く会釈をすると、彼女は苦笑した。というのもアレクサンダーは、紅茶があまり好きではなかったのだ。
するとそこに“ルーカン”ことアイリーン・フィールドがぴょんぴょんと飛び跳ねながらやってくる。彼女は「淹れてくれたのね、さんきゅー」と呟くと、アレクサンダーにと差し出された紅茶を横取りした。
「アバロセレン。あれの正体を分かっている者は、ひとりも居ない。そもそもあれが物質なのかすらまだ分かってないんですから。原子核をもたない物質なんて、意味が分からないでしょ? 本当に、あれは謎が多い……」
パトリック・ラーナーはそう言いながら、アイリーン・フィールドを冷めた目で見つめる。しかしアイリーン・フィールドは彼の視線に気付かぬふりをする。すっとぼけた顔で笑うアイリーンは、パトリック・ラーナーの言葉に重ねてこう言った。
「アバロセレンがどこから湧いて出てきたのかも、秘匿されてるしねー。それにアバロセレンの発見者であるはずのペルモンド・バルロッツィすら分からないって言ってるんだから、もう本当にアバロセレンは意味不明。けど、そんなワケ分かんない物質を使おうとする人間たちも、同じくらい意味不明だよねーん。マジ狂ってる。だってアバロセレンが生み出すエネルギーに対して、それを使うことにより発生するリスクの大きさって、とてもじゃないけど……」
「けれども、市場原理なんてそんなもんですからね。人間ってのは貪欲で愚かですから。百年後の未来に受け継いでほしい美しい自然よりも、目先の利益を優先するんです。そんな横暴の極みである市場原理にストップを掛けるのが行政の役目なのですがー……」
「その行政府のトップが率先して、利益優先、人命軽視、環境破壊っていうスタンスを取ってるからねー、ねー」
あの大統領、失脚すればいいのに。アイリーン・フィールドは何気なく不穏な言葉を呟く。その言葉に、パトリック・ラーナーは無言で頷いた。そしてアレクサンダーはアサルトライフルを分解しながら、そんな二人の様子を見ている。それからアレクサンダーは言った。「……お二人ってすごく仲が良いですよね」
「えっ、やっぱりそう思う?」
アイリーンはその言葉に嬉しそうな反応を見せていたが。反面、心底イヤそうな顔をしていたのがパトリック・ラーナーである。彼は露骨に眉を顰めると、紅茶の香りを後に残して武器庫を去っていった。
* * *
それから時も流れ、数年後のこと――
「随分と遅かったじゃないの、アーチャー。どこで油を売っていたの?」
ひとり支局長室に呼び出されたニール・アーチャー特別捜査官は、黒革の椅子に足を組んで座る人物――連邦捜査局シドニー支部局局長ノエミ・セディージョ――を前に畏まる。
「すみません、支局長。被害者家族の聴取で、色々と手間取りまして。子供の両親が、俺にしか話さないとゴネたもんですから……」
紺色の背広の襟を正し、緩めていた横縞のネクタイを締め直すと、ニール・アーチャーは申し訳なさそうな表情を浮かべながら鼻の頭を掻いた。すると彼の言葉に何かを思い出したのか、支局長は組んでいた足を解くとシャキッと立ち上がる。それから彼女は立ち上がりざまにニールにあることを尋ねた。「ああ、例の誘拐事件ね。進展はあった?」
「監視カメラに映っていた犯人の人相から、身元が判明したところです。性犯罪の前科がありました。郊外で火葬場を営む男、バージル・エディントン、四十八歳。職業は……」
「あーっと、仕事熱心なのは分かったわ。――流石はパトリック・ラーナーが見込んだ捜査官なだけはあるわね。頑張っているようで何よりだわ」
「パトリック・ラーナー、ですか」
「ええ。私は彼と同期で、一時は相棒だった。彼は本当に、色々と規格外だったのよ。悪い伝説になっているぐらいに。……それで、今回あなたを呼び出したのにはワケがあってね」
フフッと怪しく笑う支局長はその言葉のあと、閉じられていた扉に向かって「入ってちょうだい」と言う。するとドアノブががちゃりと捻られ、扉が開いた。そして、そこから入ってきた人物を見るなりニール・アーチャーは自分の目を疑う。
「紹介するわ。彼女は特務機関WACEから派遣されたエージェント、アレクサンドラ・コールドウェル氏よ」
「えっと、支局長。これは、つまり……――どういうことです?」
「アーチャー。あなたは今後、彼女と行動してもらうことになる。連邦捜査局と特務機関WACEを繋ぐパイプ役、それに任命するわ」
支局長室に入ってきたのは、黒い背広をびっしりと着こなし、真黒なサングラスを掛けて目を覆い隠した、ブロンドの女性だった。ブロンドの長い髪は強くうねっている。そして彼女の左頬には、ライオンの大きな前足の爪で引っ掻かれたような古傷が刻まれていた。
間違いない。この女は、あいつだ。ニール・アーチャーはそう確信し、彼女の顔色を窺い見る。だが当の彼女はシラを切っているのか、何なのか。初対面の相手にするような素っ気ない挨拶をニール・アーチャーにしてきた。
「初めまして、アーチャー特別捜査官。特務機関WACEより参りました、アレクサンドラ・コールドウェルです。以後、宜しくお願いします」
アレクサンドラ・コールドウェル。そう名乗った彼女は、ニール・アーチャーに握手を求めてきた。ニール・アーチャーは警戒しながらも、彼女と握手を交わす。すると真っ赤な口紅に不敵な笑みを湛えた彼女は、強い力でぎゅっとニール・アーチャーの手を握った。
「あの……――前に、どこかで会いました?」
「いえ。人違いでは?」
ふざけんなよ、バーカ! そんな怒りを込めて鎌を掛けたニール・アーチャーだったが、彼女は惚けた顔で鎌を跳ね退ける。だが握られている手の力は、その強さを増すばかり。
余計なことを言うんじゃねぇ、クソ野郎。そんな無言の圧を、ニール・アーチャーは感じ取った。
「あぁ、そうですか。気のせいかな……」
ニール・アーチャーはそう言うと、握られていた手を振り払う。そして局長のほうに向いた。
「支局長。彼女と二人きりで話したいので、その……廊下に出ても?」
「ええ、構わないわ」
それでは、失礼します。ニール・アーチャーは局長に頭を軽く下げると、アレクサンドラと名乗った彼女の腕を引っ張り、廊下に出る。
ニール・アーチャーは支局長室の扉を閉めたあと、人がまず入らない別室に彼女を誘導する。それから彼は開口一番に怒鳴り声を上げた。
「どういうことなんだ、アレクサンダー! 色んな人が、どれだけお前のことを心配したことか……!!」
「七年前の話だろ? それに今のアタシは」
「アレクサンドラ・コールドウェルだろ? ったく、ふざけた名前だな」
「……名付けたのはラーナー次長さ。苦情なら彼に申し立ててくれ」
サングラスを外したアレクサンドラ・コールドウェル、改めアレクサンダー・コルトは、その下に隠れていた緑色の三白眼を露わにする。
品定めをするようにニール・アーチャーを見つめるその眼には、かつてのアレクサンダーにあったはずの正義感は見えなかった。
鋭い眼光に隠されているのは、世間擦れしたような狡猾な牙。パトリック・ラーナーが持っていた老獪さに、その眼光はよく似ていた。
「そういうわけさ。久しぶりだな、ニール」
アレクサンダーは緑色の鋭い目で、ニール・アーチャーをじっと見据える。しかしニール・アーチャーは口を噤み、目線を下に向けて俯いた。
「……」
アレクサンダーに殴り掛りたい衝動を抑えるニール・アーチャーは、強く握りしめた拳をぷるぷると震わせる。
彼女に向けて言いたいことは山ほどあった。なぜならこの七年間、ニール・アーチャーは目の前に居る女が死んだものだとばかり思っていたのだから。その間、ニール・アーチャーがどれだけ後悔し、どれだけの無念に包まれていたことか。――しかしその思いが今、全て無意味なものだと突き付けられたわけである。後悔や無念は怒りに変換され、彼はその感情を目の前にいるアレクサンダーにぶつけたくて仕方なかった。
「……アレックス」
彼女が失踪したあの日。最後に彼女が滞在していたと思われる現場には、彼女のものを含め複数人の血痕が残されていた。彼女の残した血液だけでも、死んでいたとしてもおかしくないほどの出血量だったと聞いている。また現場には薬莢が複数散らばっていたうえに、血にまみれた鉄パイプが幾本も転がっていたことから、彼女が深刻な損傷を受けた可能性があることも分かっていた。
そう、アレクサンダーはあの時に死んでいたはずなのだ。それなのに。
「……どうしてお前は、俺の前に現れた」
「どうしてと聞かれてもねぇ。上からの命令だ、としか言えねぇよ」
「……どうしてお前は、お前は……!!」
あの日からニール・アーチャーは、自分の記憶から彼女を消し去ろうと努力した。パトリック・ラーナーが用意したレールの上を無心で歩みながら、過去を切り捨て、新しい自分に生まれ変わろうと努力した。アレクサンダーへの思いはすっぱりと棄てたのだ。
今のニール・アーチャーには、シンシアという婚約者がいる。黒髪が綺麗で、笑顔がとても可愛らしい女性だ。それに今のニール・アーチャーは馬鹿な学生ではない。連邦捜査局の特別捜査官であるニール・アーチャーだ。
それなのにニール・アーチャーの前には、過去が居た。遠ざけ、消し去ったはずの過去が、彼の目の前に立っていたのだ。
「ニール。あんた、随分と変わったね。――同じ環境で育ったはずだってのに。今のアタシとアンタは、まるで立場が違う。ホント、綺麗に分かれちまったね。陰と陽に」
そう呟いたアレクサンダーは、言葉の最後に鼻で笑う。ニール・アーチャーは彼女に背を向けると、愛想なく言った。「アレクサンドラ・コールドウェル」
「……」
「……とりあえず、宜しくな」
「……おう」
【続く】
「約二〇年ぶりに、長らく音信不通で行方知れずになっていた弟から連絡が来たかと思えば、一体全体なんなのよ。唐突に『すみません』だぁ?」
訝るように三日月眉を吊り上げたミランダ・ジェーンは、彼女の目の前でにこにこと笑っている童顔で低身長の男――彼女の実の弟であるパトリック・ラーナー――を威圧する。
「どういうつもりなのかしら、リッキー。勿論、説明してくれるわよね?」
彼女の愛すべき夫と娘たちは、とあるロックバンドのライブを観に出かけているため、今は不在。現在、家に居るのはミランダ・ジェーンと、ジェーン家の飼い犬であるドーベルマンのラッキーのみ。だからこそ彼女は気兼ねすることなく、弟にこうして嫌味をぶちまけていた――二〇年分の怒り、及び心配と焦燥と不安のその全てを声に乗せて。
おまけに犬のラッキーも、初めて見るパトリック・ラーナーという人物に警戒心を示し、ガルルルルッ……と唸り声をあげている。しかしパトリック・ラーナーは舐め腐った笑みを浮かべて、こう言うだけだった。「ははっ。どうやら私は、姉にも犬にも嫌われてるようですね」
「パトリック、話を逸らさないで」
「すみません。つい、仕事のくせが……」
これといって反省の意を示す様子がない弟を前に、ミランダ・ジェーンは舌打ちをした。もう我慢できない。彼女がそう呟くと、弟の顔には初めて焦りの色が浮かぶ。
長男のマイケル、次男のマーティン、三女のミランダ、四男のスペンサー、末子のパトリック。五人兄弟の中でも絶対にミランダだけは怒らせてはいけないという、ラーナー家五兄弟の中にあった暗黙の了解を、たった今パトリックは思い出したようだ。
「それで。お仕事って? あなたは今、何をしているのかしら」
コン、コン、コン。場の流れを支配するように、ミランダ・ジェーンは履いているパンプスの爪先を床に叩きつけ、音を鳴らす。パトリック・ラーナーは緊張から蟀谷をぽりぽりと掻くと、にこやかな笑みを苦笑いに変える。そして彼は渋々、白状した。「……政府に仕えるお仕事、ってとこでしょうか」
「へぇ、たとえば? お役所の公務員かしら。でもただの公務員だったら、わざわざ姿を晦ます必要はないわよねぇ? 捜索願を警察に出しても、適当に濁されて受理されなかったりとか、そんなことにはならないはず。突然、連邦捜査局から家族のもとに電話が来て、病院に来てくださいだなんて言われる事態も起こるはずがない。そうでしょう?」
「あぁっと、その……」
「なぁに? 家族には恥ずかしくて言えないお仕事なの?」
「……あんまり大きな声で言えないんですよ。察してくださいって」
「えー、なぁーにぃー? 聞こえなーいんですけどー?」
「れっ、連邦捜査局です!! 特別捜査官として、この国に尽くしッ」
「あら、そうなの? 本当に?」
「疑うんですか」
「当然でしょ。義足かつ義手で、性腺機能障害に骨粗鬆症、さらに白血病の罹患歴もあるハンディキャップだらけの弟が、連邦捜査局なんていう肉体的にもハードな仕事できると思うわけがない。体に負荷が掛かりすぎる。そんな仕事、ドクター・デイヴィスが止めているはずだもの」
「……」
「それに、本当にあなたが連邦捜査局の特別捜査官だっていうなら、胸を張って家族の前に出られるわよねぇ? なのにあなたときたら、一〇年以上も音信不通。挙句、サントス先生から急に連絡が来て、あなたに会いに来てほしいって指定された場所に来てみれば、あなたは死にかけた状態で病床にあったーなんてこともあったわね。それも一度だけじゃない、二度も」
「あぁ、その……」
「一度目の件はさておき。問題は二度目よ。あのときのあなたは、すごく悪くなるまで放置してたっていう白血病のせいで死にかけてたわね。それに、マイケルが骨髄を提供したことであなたは回復したのに、恩知らずのあなたは恩人であるマイケルに感謝もなし。連絡もせず、回復したあとはすぐに失踪して以降は音信不通。痛い思いをして骨髄を提供してくれた実の兄を、あなたは裏切った」
「いや、流石にあのときはマイケルに感謝を伝えまし――」
「ひどいことが過去に散々あった。それなのに……――あなたの言葉を信じられるわけがないでしょう。本当は何をやっているの」
「……」
「パトリック」
「……えっとですね、ちょっと複雑な事情が」
「パトリック?」
「あの、本当ですよ? 連邦捜査局には、本当に勤めていたんですから。信じて下さいって」
「本当のことを言いなさい」
「以前は、連邦捜査局に居たんです。けれど色々とあって……――今はアルストグラン秘密情報局に勤務しています。えっと、まあ、その。アルストグラン内外に出向いて、細々とした諍いの調停役まがいのことをやっているわけでして」
「ASIね、なるほど。やっと納得できた」
仁王立ちの体勢で腕を組み、小柄な男を見下ろす長身のミランダ・ジェーンの眼差しは、完全に冷めきっていた。
薄々そんな気はしてたのよ。彼女はそう呟くが、その声には感情が籠っていない。どこまでもドライで一切の信用を抱いていない、そんな調子だ。赤の他人からそのような視線を注がれることには慣れているパトリック・ラーナーであったが、流石に身内からこのような目で見られることには慣れていなかった。あまりにも厳しい姉の態度に、遂にパトリック・ラーナーは弱音を洩らす。「信じてもらえないのですね」
「そりゃそうよ。なら聞くけど、連邦捜査局に居たって言うなら手柄のひとつくらい立ててるんでしょう? だったら、証拠を示して」
彼の鋼鉄のハートにミランダ・ジェーンの視線がぶつかり、視線は心に大きくて深いクレーターを残す。その日、初めて笑顔以外の表情を見せたパトリック・ラーナーは、肩を大きく落としてみせた。それから彼はまた弱音を吐く。「言ったって、どうせ信じやしないでしょ」
「分からないわよ?」
「イーライ・グリッサム。あれを逮捕したのは、私です。あと……」
「嘘ね。ヘレン・ガードナーの回顧録を読んだわ。イーライ・グリッサムを逮捕したのは、パトリシア・ヴェラスケス捜査官でしょう」
「ヘレン・ガードナー、あのババァは大嘘吐きですよ。一番弟子であるカルロ・サントスがあげた手柄を横取りして、私から名誉を奪い取ったんです。だって、私以外にあんな芸当を出来る人間なんかいると思います? 子供に化けて、自ら誘拐されに行くって」
「えっ、まさか、パトリック。あなた、本当に……?」
「本当ですよ。あと一歩のとこで、本当に危なかったんですから。それ以外にも、私が逮捕した殺人鬼はいます。日系の女性だけを狙い、犯行に及んだカニバリズムのドミトリー・クレスチヤニノフ。彼が言うには、男に比べると女は肉が柔らかくて、そして肉に野菜、それから魚をバランスよく食べる日系人ってのは一番おいしいんですって。肉ばかりを食べる西洋人はニオイがきつく、チーズべとべとでハイカロリーのものばかりを好む北米人はまずくて食べられたもんじゃないそうですよ」
「……おぞましい」
「あと、ペドフィリアのジークリット・コルヴィッツ。十二歳に満たない少年だけを狙った女ですね」
「ええ、知ってるわ。イカれ女よね」
「そのイカれ女、実は私の元婚約者です」
「は? ……えぇっ!?」
「私から別れを切り出した直後に凶暴化し、あんなことになったんです。彼女を逮捕したのも私です。それ以外にも、ここ十数年で少年に手を出し捕まった女性のペドフィリアは、大体というか、ほぼ全員が私の元交際相手でした」
「うそ……。あなた、どういう女性と出会ってきたのよ?」
「同僚にもよく言われます。全員、はじめは良い人だと思ったんですけどね。本性を知ったときには時すでに遅し、って感じで。だからもう怖くて、結婚なんか考えられませんよ。それと他にも、高身長の黒人女性だけを狙ったネクロフィリアのアントニー・ストラウスに、金髪碧眼の小柄な女性だけを狙ったシリアルキラーのデイヴィット・ポートマン、痴呆の老人をターゲットに死の天使を気取った
「どれも有名な犯罪者じゃないの。……――えっ、待って。本当にあなたが逮捕したの?」
「そうですよ。なんなら連邦捜査局に居る人間に訊いてみるといい。私、これでも伝説になってるんですから」
えっへん。胸を張るパトリック・ラーナーは、再びの笑顔を見せる。その笑顔を見たミランダ・ジェーンは呆れたように溜息を吐く。それから彼女はカメラを取り出すと、その笑顔をパシャリと撮影した。するとパトリック・ラーナーの表情が歪んだ。「ちょっと、ミランダ。なにを撮っているんですか!」
「親不孝者のどうしようもない弟が、ちゃーんと生きてましたよーっていう証拠。あとで父さんに送る。これで少しは安心させられるわ。まあ? 一番は本人が実家に出向くことなんですけどねぇ?」
「勝手なことをしないで下さいって! 上は、こういうことに厳しいんですから!」
「知らないわよ、そんなの。老い先短い親を安心させることのほうが大事だわ」
「本当に、やめてください! ちゃんとデータ消してくださいって!」
「あなたが両親、それと他の兄弟たちにちゃーんと顔を見せるって約束するなら、消してあげなくもないわ」
「無理です。スケジュールが詰め詰めで。近場に住んでいたミランダになら、最後に会えるかと思ってここに来たんですから」
「あっそう。なら、このデータは消さない。写真は私から父親に、それとマイケルとマーティン、スペンサーに送らせていただきます」
パトリック・ラーナーはミランダ・ジェーンからカメラを奪い取ろうとするが、ミランダ・ジェーンは渡すまいとカメラを高い位置に上げた。
身長差が約三〇センチメートルほどある姉と弟。他よりやや長身である姉がひとたび腕を上げてしまえば、他よりも圧倒的に低身長である弟がどれだけ飛び跳ねようと、手が届かなくなってしまう。仕方無いと諦めたパトリック・ラーナーはカメラを睨むと、腕を組み、そして俯く。彼は呟くように言った。「……両親と兄たちには、よろしく言っておいて下さい」
「本当に会わないわけ?」
「会えないんです。会ってはいけないと上から忠告されているんで」
「ASIで、そんなに危ない仕事をしてるの?」
「……」
「パトリック?」
「探偵を雇って、私を探そうだなんて馬鹿な真似は考えないで下さいね。ちゃんと把握しているんですから。あなたの教え子アレクサンダー・コルトの父親、人探し専門の探偵であるダグラス・コルトに、私を探させようとしていたことを」
「なんでもお見通し、ってわけね。……そのアレックスちゃんも事故で亡くなった今、あのお父様も探偵業を畳まれたって聞いてるし。それにこうして本人が来てくれたから、もう頼む必要もないけれど」
「一応、言っておきますけど。私、あの探偵にすごく嫌われてるんです。だから頼んだところでどうせ引き受けてもらえないと思いますよ」
「パトリック。あなた、何をしたの?」
「彼の事務所を荒らしたりとか? まぁ、色々とあったんですよ……」
パトリック・ラーナーは口を噤み、似つかわしくない淋しげな表情を浮かべる。ただならぬものを察し取ったミランダ・ジェーンも、黙りこんでしまった。
そして俯くパトリック・ラーナーは、姉にこう言った。
「……本当に、すみませんでした。昔は連邦捜査局で偉くなってから、胸を張って家族の前に戻ろうって思ってたんですけどね。いつからか道を踏み間違えてしまったみたいで、もと居た場所に戻ることが許されなくなったんです。大正義に尽くしていたつもりだったのに、気がつけば誰かが犯した悪事の尻拭いに追われる毎日で、本当に嫌になりますよ」
「……」
「最後に姉さんに会えて良かったです。もっと拒絶されるかと思ってましたけど、その……」
物悲しげな笑みを浮かべて見せた弟の、その大きな目に、きらりと光る何かが見えた。そしてミランダ・ジェーンが、胸に引っ掛かった言葉に首を傾げる。
「……最後?」
そのときだった。ミランダ・ジェーンに向かって、一際強い風が吹く。立っているのもやっとという強い風を前に、目を開けていられるわけがない。ミランダ・ジェーンはほんの一瞬だけ、瞼を閉ざす。そして次に瞼を開いたとき、風は収まり、玄関前にあった弟の姿は消えていた。
「どこに行ったの、パトリック? ……はぁー、あの馬鹿はこれだから手に負えない……」
すると、ミランダ・ジェーンの後ろで伏せをして待っていたラッキーが、低い声でばうばうと吠えた。そんなラッキーの視線は、玄関前に置かれていた段ボール箱を見ている。
「箱? さっきまで無かったはずよね。一体、どうして」
弟の置き土産なのだろうか。ミランダ・ジェーンは恐る恐る段ボール箱に近付くと、そっと封を開ける。そして中に入っていたものを見るなり、顔を強張らせた。
「……これは、アレックスちゃんの……!?」
段ボール箱の中に畳まれて入っていたのは、ミランダ・ジェーンにとって見覚えのある赤いレザージャケットだった。綺麗に手入れされた年代物のジャケットは、持ち主の繊細な一面をよく表している。これはアレクサンダーという生徒が、肌寒い日によく着ていたレザージャケットだった。
それに気付いたミランダ・ジェーンは赤いレザージャケットを箱から取り出す。そうして空になったと思った段ボールを彼女が見やったとき。彼女は段ボール箱の底に入れられていたメモ紙を発見する。彼女はその場にしゃがみこむと、メモ紙に書かれていた内容に目を通した。
「……アレクサンダーのお父様に渡しておいてほしい、ねぇ。今も昔も、パトリックは人使いが荒いんだから……」
ミランダ・ジェーンはメモ紙を取り出すと、箱の中に赤いレザージャケットを畳んで戻す。それから彼女は段ボール箱を閉めると、外に出かける支度を始めた。
ミランダ・ジェーンは外行きの服を選びながら、昔にアレクサンダーから貰ったダサい名刺を取り出す。それからミランダ・ジェーンは、コミックサンズ体で書かれた電話番号に連絡した。
「アレクサンダーのお父様、ダグラス・コルトさんで間違いないでしょうか? ……いえ、依頼ではないんです。実はうちに、あなた宛ての荷物が届いておりまして。……ああ、私はミランダ・ジェーンです。アレクサンダーが通っている学校でラテン語の教師をやっている者です。……ええ、はい。本当ですか? 分かりました、今すぐそちらに向かいますね。はい、宜しくお願いします」
次に目を覚ましたとき、アレクサンダーに与えられたのは新たな名前と新しい人生だった。それと同時に、彼女に関する全ての過去は抹消された。アレクサンダー・コルトという人物が居たという記録も、彼女が戻るべき場所も、何もかも。
ルーカン、改めアイリーン・フィールドから聞いた話によれば、アレクサンダーは悲劇的な事故に巻き込まれて死んだことになっているらしい。しかし遺体は見つかっておらず、手掛かりは何もなく、捜査は頓挫。彼女の事件はコールドケース扱いになったそうだ。
その後、彼女の両親は離婚。娘の死を散々嘆き悲しんだあと、死を受け入れ前に進んだ母は新しいフィアンセを見つけ、今は平穏な生活を送っているのだという。けれども父はひとり寂しく、郊外に暮らしているらしい。探偵業も畳み、パパラッチも辞め、隠者のような生活をしているそうだ。
そしてニールは無事にハイスクールを卒業したのち、猛勉強を重ねてセントラル・ビクトリア大学に自力で合格。彼は法学部をギリギリの成績とひどい内容の論文で卒業したのち、特別捜査官育成アカデミーの研修に参加したそうだ。そこで彼は意外な才能を開花させ、アカデミーでの成績は常に上位を競っていると聞く。あのパトリック・ラーナーが見込んだ期待の新人として、既に上層部から目をかけられているそうだ。特にシドニー支局長から気に入られているという話だ。
「それで、アレックス。影の世界に生きる気分はどうです? 任務にも慣れてきましたか」
「……いいや、まだ慣れないさ。きっと、この先も慣れることはないと思う」
「初めの数年のうちは、誰しもそう思うんですよ。けど気がついた頃には闇にどっぷり浸かってしまっていて、光に怯えるようになるんです」
白い光が仄かに照らす薄暗闇に包まれる武器庫の中、かつてアレクサンダーと呼ばれていた彼女はアサルトライフル――「コルト・コマンドー」と呼ばれるシリーズの小銃――の手入れをしていた。そんな彼女の背に話しかけていたのは、パトリック・ラーナーである。
「その中でも私は、アバロセレンの蒼白い光が一番嫌いです。全ての摂理を捻じ曲げ、様々な災いを引き起こす、災禍の光が」
パトリック・ラーナーはそう言いながら、淹れたての紅茶をアレクサンダーの近くにあるテーブルの上にそっと置く。ありがとうございます、と軽く会釈をすると、彼女は苦笑した。というのもアレクサンダーは、紅茶があまり好きではなかったのだ。
するとそこに“ルーカン”ことアイリーン・フィールドがぴょんぴょんと飛び跳ねながらやってくる。彼女は「淹れてくれたのね、さんきゅー」と呟くと、アレクサンダーにと差し出された紅茶を横取りした。
「アバロセレン。あれの正体を分かっている者は、ひとりも居ない。そもそもあれが物質なのかすらまだ分かってないんですから。原子核をもたない物質なんて、意味が分からないでしょ? 本当に、あれは謎が多い……」
パトリック・ラーナーはそう言いながら、アイリーン・フィールドを冷めた目で見つめる。しかしアイリーン・フィールドは彼の視線に気付かぬふりをする。すっとぼけた顔で笑うアイリーンは、パトリック・ラーナーの言葉に重ねてこう言った。
「アバロセレンがどこから湧いて出てきたのかも、秘匿されてるしねー。それにアバロセレンの発見者であるはずのペルモンド・バルロッツィすら分からないって言ってるんだから、もう本当にアバロセレンは意味不明。けど、そんなワケ分かんない物質を使おうとする人間たちも、同じくらい意味不明だよねーん。マジ狂ってる。だってアバロセレンが生み出すエネルギーに対して、それを使うことにより発生するリスクの大きさって、とてもじゃないけど……」
「けれども、市場原理なんてそんなもんですからね。人間ってのは貪欲で愚かですから。百年後の未来に受け継いでほしい美しい自然よりも、目先の利益を優先するんです。そんな横暴の極みである市場原理にストップを掛けるのが行政の役目なのですがー……」
「その行政府のトップが率先して、利益優先、人命軽視、環境破壊っていうスタンスを取ってるからねー、ねー」
あの大統領、失脚すればいいのに。アイリーン・フィールドは何気なく不穏な言葉を呟く。その言葉に、パトリック・ラーナーは無言で頷いた。そしてアレクサンダーはアサルトライフルを分解しながら、そんな二人の様子を見ている。それからアレクサンダーは言った。「……お二人ってすごく仲が良いですよね」
「えっ、やっぱりそう思う?」
アイリーンはその言葉に嬉しそうな反応を見せていたが。反面、心底イヤそうな顔をしていたのがパトリック・ラーナーである。彼は露骨に眉を顰めると、紅茶の香りを後に残して武器庫を去っていった。
それから時も流れ、数年後のこと――
「随分と遅かったじゃないの、アーチャー。どこで油を売っていたの?」
ひとり支局長室に呼び出されたニール・アーチャー特別捜査官は、黒革の椅子に足を組んで座る人物――連邦捜査局シドニー支部局局長ノエミ・セディージョ――を前に畏まる。
「すみません、支局長。被害者家族の聴取で、色々と手間取りまして。子供の両親が、俺にしか話さないとゴネたもんですから……」
紺色の背広の襟を正し、緩めていた横縞のネクタイを締め直すと、ニール・アーチャーは申し訳なさそうな表情を浮かべながら鼻の頭を掻いた。すると彼の言葉に何かを思い出したのか、支局長は組んでいた足を解くとシャキッと立ち上がる。それから彼女は立ち上がりざまにニールにあることを尋ねた。「ああ、例の誘拐事件ね。進展はあった?」
「監視カメラに映っていた犯人の人相から、身元が判明したところです。性犯罪の前科がありました。郊外で火葬場を営む男、バージル・エディントン、四十八歳。職業は……」
「あーっと、仕事熱心なのは分かったわ。――流石はパトリック・ラーナーが見込んだ捜査官なだけはあるわね。頑張っているようで何よりだわ」
「パトリック・ラーナー、ですか」
「ええ。私は彼と同期で、一時は相棒だった。彼は本当に、色々と規格外だったのよ。悪い伝説になっているぐらいに。……それで、今回あなたを呼び出したのにはワケがあってね」
フフッと怪しく笑う支局長はその言葉のあと、閉じられていた扉に向かって「入ってちょうだい」と言う。するとドアノブががちゃりと捻られ、扉が開いた。そして、そこから入ってきた人物を見るなりニール・アーチャーは自分の目を疑う。
「紹介するわ。彼女は特務機関WACEから派遣されたエージェント、アレクサンドラ・コールドウェル氏よ」
「えっと、支局長。これは、つまり……――どういうことです?」
「アーチャー。あなたは今後、彼女と行動してもらうことになる。連邦捜査局と特務機関WACEを繋ぐパイプ役、それに任命するわ」
支局長室に入ってきたのは、黒い背広をびっしりと着こなし、真黒なサングラスを掛けて目を覆い隠した、ブロンドの女性だった。ブロンドの長い髪は強くうねっている。そして彼女の左頬には、ライオンの大きな前足の爪で引っ掻かれたような古傷が刻まれていた。
間違いない。この女は、あいつだ。ニール・アーチャーはそう確信し、彼女の顔色を窺い見る。だが当の彼女はシラを切っているのか、何なのか。初対面の相手にするような素っ気ない挨拶をニール・アーチャーにしてきた。
「初めまして、アーチャー特別捜査官。特務機関WACEより参りました、アレクサンドラ・コールドウェルです。以後、宜しくお願いします」
アレクサンドラ・コールドウェル。そう名乗った彼女は、ニール・アーチャーに握手を求めてきた。ニール・アーチャーは警戒しながらも、彼女と握手を交わす。すると真っ赤な口紅に不敵な笑みを湛えた彼女は、強い力でぎゅっとニール・アーチャーの手を握った。
「あの……――前に、どこかで会いました?」
「いえ。人違いでは?」
ふざけんなよ、バーカ! そんな怒りを込めて鎌を掛けたニール・アーチャーだったが、彼女は惚けた顔で鎌を跳ね退ける。だが握られている手の力は、その強さを増すばかり。
余計なことを言うんじゃねぇ、クソ野郎。そんな無言の圧を、ニール・アーチャーは感じ取った。
「あぁ、そうですか。気のせいかな……」
ニール・アーチャーはそう言うと、握られていた手を振り払う。そして局長のほうに向いた。
「支局長。彼女と二人きりで話したいので、その……廊下に出ても?」
「ええ、構わないわ」
それでは、失礼します。ニール・アーチャーは局長に頭を軽く下げると、アレクサンドラと名乗った彼女の腕を引っ張り、廊下に出る。
ニール・アーチャーは支局長室の扉を閉めたあと、人がまず入らない別室に彼女を誘導する。それから彼は開口一番に怒鳴り声を上げた。
「どういうことなんだ、アレクサンダー! 色んな人が、どれだけお前のことを心配したことか……!!」
「七年前の話だろ? それに今のアタシは」
「アレクサンドラ・コールドウェルだろ? ったく、ふざけた名前だな」
「……名付けたのはラーナー次長さ。苦情なら彼に申し立ててくれ」
サングラスを外したアレクサンドラ・コールドウェル、改めアレクサンダー・コルトは、その下に隠れていた緑色の三白眼を露わにする。
品定めをするようにニール・アーチャーを見つめるその眼には、かつてのアレクサンダーにあったはずの正義感は見えなかった。
鋭い眼光に隠されているのは、世間擦れしたような狡猾な牙。パトリック・ラーナーが持っていた老獪さに、その眼光はよく似ていた。
「そういうわけさ。久しぶりだな、ニール」
アレクサンダーは緑色の鋭い目で、ニール・アーチャーをじっと見据える。しかしニール・アーチャーは口を噤み、目線を下に向けて俯いた。
「……」
アレクサンダーに殴り掛りたい衝動を抑えるニール・アーチャーは、強く握りしめた拳をぷるぷると震わせる。
彼女に向けて言いたいことは山ほどあった。なぜならこの七年間、ニール・アーチャーは目の前に居る女が死んだものだとばかり思っていたのだから。その間、ニール・アーチャーがどれだけ後悔し、どれだけの無念に包まれていたことか。――しかしその思いが今、全て無意味なものだと突き付けられたわけである。後悔や無念は怒りに変換され、彼はその感情を目の前にいるアレクサンダーにぶつけたくて仕方なかった。
「……アレックス」
彼女が失踪したあの日。最後に彼女が滞在していたと思われる現場には、彼女のものを含め複数人の血痕が残されていた。彼女の残した血液だけでも、死んでいたとしてもおかしくないほどの出血量だったと聞いている。また現場には薬莢が複数散らばっていたうえに、血にまみれた鉄パイプが幾本も転がっていたことから、彼女が深刻な損傷を受けた可能性があることも分かっていた。
そう、アレクサンダーはあの時に死んでいたはずなのだ。それなのに。
「……どうしてお前は、俺の前に現れた」
「どうしてと聞かれてもねぇ。上からの命令だ、としか言えねぇよ」
「……どうしてお前は、お前は……!!」
あの日からニール・アーチャーは、自分の記憶から彼女を消し去ろうと努力した。パトリック・ラーナーが用意したレールの上を無心で歩みながら、過去を切り捨て、新しい自分に生まれ変わろうと努力した。アレクサンダーへの思いはすっぱりと棄てたのだ。
今のニール・アーチャーには、シンシアという婚約者がいる。黒髪が綺麗で、笑顔がとても可愛らしい女性だ。それに今のニール・アーチャーは馬鹿な学生ではない。連邦捜査局の特別捜査官であるニール・アーチャーだ。
それなのにニール・アーチャーの前には、過去が居た。遠ざけ、消し去ったはずの過去が、彼の目の前に立っていたのだ。
「ニール。あんた、随分と変わったね。――同じ環境で育ったはずだってのに。今のアタシとアンタは、まるで立場が違う。ホント、綺麗に分かれちまったね。陰と陽に」
そう呟いたアレクサンダーは、言葉の最後に鼻で笑う。ニール・アーチャーは彼女に背を向けると、愛想なく言った。「アレクサンドラ・コールドウェル」
「……」
「……とりあえず、宜しくな」
「……おう」