『全部、アンタのせいよ! パトリック、アンタがアタシを捨てたから!!』
パトリックの目の前には、怒り狂いながらそう叫ぶ女が居た。パトリックはぐっと言葉を堪えながら、彼女の両手首に手錠を嵌める。そしてパトリックの横に立つノエミが彼の代わりに、権利の告知を行った。
『あなたには黙秘権がある。供述は、法廷であなたに不利な証拠として用いられることがある。あなたには弁護士の立ち会いを求める権利があり、弁護士を雇う経済力が無い場合は、公選弁護人を……――』
怒り狂う女は、防弾チョッキを着用した大柄の男に羽交い絞めにされて取り押さえられていた。それでも彼女は亜麻色の髪を振り乱しながら、己に手錠をかけたパトリックに向かい、罵声を浴びせ続けていた。
やがてノエミは告知を終えた。彼女はパトリックの肩を軽く突き飛ばして退くようにと促すと、怒り狂う女を押さえていた男と共にパトカーの中へ乗り込んでいく。
パトリックは夜闇の中に赤く光るパトカーの警光灯を黙って見送っていた。降りしきる雨が遮りハッキリとしないフィルターを通して、その景色を呆然と見つめていた。冬の凍てつくように冷たい雨に打たれながら、彼はただ立ち尽くしていた。
「……」
パトリックを突き飛ばしたとき、ノエミは彼に何かを言っていた。ノエミの唇は、あのとき動いていた。だが彼女が何を言っていたのかがパトリックには分からなかった。
あのとき、事件現場前に集結していた数台のパトカーたちも、けたたましいサイレンを鳴らしていたはずだった。けれどもパトリックには、その音が聞こえていなかった。
自分がこの手で手錠を掛けた女が最後に何を言っていたのかも、パトリックは聞いていなかった。
「…………」
あのとき、一時的にだが彼の耳が聞こえなくなっていた。けれども彼の目は見えていた。聞こえなくなった分だけ鮮明に、あのときに見た映像の全てが脳に焼き付けられていた。
パトカーに押し込められる直前まで、怒り狂う女はパトリックのことを睨んでいた。込み上げてくる憎しみと、最後まで捨てられなかった愛情が混ざった、血走って涙ぐんだ目で、あの女は彼のことを睨みつけていた。どうしてこんな酷いことをするのか、どうして助けてくれないのかと、訴えているかのような視線でもあった。けれどもそんな視線を向けられたところで、パトリックにしてやれることは何もなかった。
だって彼女は罪を犯した。未成年の少年少女、それも十歳にも満たないような幼けな子供たちを七人も誘拐し、長期間に渡って監禁していたのだ。人里離れた森林の中に、ぽつんと佇むコンクリートの家、その地下に設けられた牢獄に等しい空間に。光も射さず、換気もされず、暗く冷たい不衛生な環境に、一番長い子供であれば九ヶ月も閉じ込めていたのだ。
何よりも恐ろしかったことは、その子供たちが全員、似たような容姿にされていたこと。
子供たちは皆、白い肌をしていた。虹彩の色も真っ黒で、その目はぱっちりと大きく、二重だった。そこまでは、先天的な特徴だ。問題は、それ以外だ。
子を攫われた親たちから集めた子供の写真では、髪の色に統一感は無かった。縮れ気な黒髪の子供もいれば、ストレートな茶髪の子供もいた。カールがかった金髪の子もいた。それなのに救出された子供たちの髪は全員、黒髪のストレートに変わっていた。それに髪の長さは、女の子でも襟足が見えるくらいの長さになっていた。そして髪型はパトリックと同じだった。
「……ジ……ク……」
犯人の女は誘拐した子供たちを、パトリックに見立てていた。そのことをパトリックが理解したとき、彼が感じたのは恐怖であり後悔、そして自責だ。
ことの発端は、パトリックが彼女を突き放したことにあった。婚約者であった彼女との三ヶ月に渡った同棲の末、彼女から無条件で与えられる重すぎる愛に戸惑い、怯えた彼が、一方的に別れを切り出したことが原因だったのだ。
彼女は子供を、子供という存在を愛していた。けれどもその感覚は、母性からくるものとは異なる。彼女はチャイルド・マレスターだった。誘惑型の嗜好的児童性虐待者だったのだ。
同棲していた当時、パトリックに彼女がそうであるという確信は無かった。だが、違和感は覚えていた。パトリックに対する彼女の振舞いが、付き合ってい始めたばかりの頃と変わっていたのだから。あれはまるで……幼い子供を相手にしている保育士のような振舞いだった。だからこそ彼は別れを切り出したのだ。
自分は大人であって、身の回りのことは自分で出来るんだ。
だから、その、君と僕は合わないんじゃないのかな。
パトリックがそう告げたとき、彼女は豹変した。意地でも縁を繋ぎ止めようと、酷い言葉を並べ立ててパトリックを責め、だからこそ自分が必要になると彼女は説き伏せようとした。遂に彼女の人間性を疑ったパトリックは、黙って彼女のもとを去ることにした。――そして彼女の凶行は、パトリックが彼女の許を立ち去った日から始まったのだ。
自分が彼女から離れていなければ、あの子供たちは被害者にならずに済んだのではないか。……彼女の逮捕から半年が経過した今でも、パトリックはその思いを払拭できずにいた。連邦捜査局からASIに移った今でも、その後悔は薄らいではいない。
もしも、自分が彼女を突き離さなければ。もしも自分が、甘んじて彼女を受け入れていたら。もしもあのとき、彼女を……――
「……ッ!」
その瞬間、パトリックは飛び起きた。彼は瞬時にベッドから上体を起こすと、寝ぼけた目をこする。それから頭の上でうるさく鳴る目覚まし時計の音楽にうんざりとした表情を浮かべると、朝の到来をけたたましく告げる目覚まし時計を叩くように止めた。
それからパトリックはよろよろとベッドの上から降りる。次に彼は閉めきられていたカーテンをガサツに開けると、窓から寝室に朝日を取り込んだ。それから彼は悪態を吐く。
「……あー、くそっ。ひどい朝だ……」
午前六時三十分。その後もグチグチと悪態めいた独り言を次々に零しながら、パトリックはクローゼットから着替えを取り出し、寝室を出た。
昨日に貰った睡眠薬のおかげで、いつものように夜中に目覚めることなく朝まで眠り続けられた気はするが。その割には疲れが取れた気はしない。久しぶりに見た悪夢のせいで、余計に疲れがたまったような気がしているぐらいだ。
とはいえ薬を責めたところで何かが変わるわけではない。原因はひとつ、パトリック自身の頭がどうかしているだけなのだから。
「……」
そんなことを考えながら、着替えを抱える彼はシャワーを浴びるためにバスルームへ向かおうと廊下に出たのだが。廊下へ一歩踏み出したとき、彼は異変に気付いた。
一体全体、どういうわけなのか。このとき廊下には肉が焦げる悪臭が充満していた。それによく耳を澄ませてみれば、キッチンからは油がパチパチとはねる音が聞こえてきている。そして聞き覚えのない女の鼻歌も、悪臭と共にキッチンから廊下へと流れてきていた。
「……」
これは一体、どういうことだ。そう疑問に思い、顔を顰めるパトリックは素早くバスルームに移動し、そこに持っていた着替えを置いてくると、廊下の床に隠していた拳銃を持ち出す。そうして彼はキッチンの出入り口前に移動すると拳銃を構え、勢いよく中に突入した。
「そこの女、両手を上げなさい」
パトリックはキッチンに立つ女の背に銃口を向けた。彼は女を威嚇するように睨みつける。だがフライパンの柄を左手で持ちながら右手で卵を割る女は、ちらりと一度振り向いてパトリックを見やったが、すぐに正面に視線を戻すと、割った卵をフライパンに落とし、あくまでも朝食づくりを続行した。パトリックの威嚇に怯む様子を見せない彼女は、彼の指示に従って手を上げるつもりはないらしい。
それどころか彼女は、おどけた調子でパトリックに声を掛けてきた。「あっ、おはよー。随分と悪夢にうなされてたみたいだけど、ぐっすり寝れたの?」
「ここで何をしているのかと訊いているんです、答えなさい」
「見ての通りじゃん。朝食を作ってるの。パトリックも食べるっしょ?」
亜麻色の長い髪をポニーテールにして結いまとめている女の余裕そうな素振り。それが余計にパトリックを困惑させていく。まして初対面であるはずの女は今、パトリックという彼の名前を呼んだ。まるで彼のことを知っているかのように。
表情を険しくさせ、依然拳銃を構えたままのパトリックは動揺を表に出さないよう意識しながら、相手を睨み付けるが。しかし無言で相手を睨み付けるその姿は、むしろ動揺していると相手に伝える結果となる。
パトリックの動揺を察知した女は、水差しでフライパンに水を数滴落としたあとフライパンに蓋をしながら、電磁調理器の設定を強火モードにしつつ、呆れ交じりの声で自己紹介を始めるのだった。
「私は特務機関WACEの隊員、アイリーン・フィールド。鷲鼻クソ眼鏡の件であなたとタッグを組むことになった、だからここに来たの。表向きはカップルってことになるから、よろしく。そういうわけで今日から数週間ほど、私はここに滞在することになってる。あなたもそれを了承したってサーからは聞いたんだけど。悪夢に魘されすぎて忘れちゃった?」
「サーというのは、誰のことです」
「特務機関WACEのアーサー。昨日、あなた彼に会ったでしょ? のっぽの彼のことだよ。思い出した?」
「……」
「我らがビッグボスであるマダム・モーガンがお上のご機嫌損ねて北米合衆国に更迭されちゃって、彼女の代役を『見た目だけは良いから』っていう理由だけでアーサーがやることになったからさ。それで今、私たちは彼のことを“上官 アーサー”って呼んでるの。やる気のない彼に、彼の立場を自覚させるためにねー」
アイリーン・フィールド。そう名乗ったあと冗長な説明をした女は目玉焼きをフライパンで焼きつつ、僅かに顔を動かして背後に立つパトリックを見ると、彼へ疑念に満ちた視線を送る。それから彼女は彼にこう問うた。
「まさかだけど、昨日の話は全部ウソだとか幻覚だとか思ってない?」
「……」
「もしそうだとしたら、あれは現実だよ。現実だからね、誤解なきように」
パトリックは向けられる視線に、不信感に満ちた目で応戦した。するとアイリーンは額に左手を当て、呆れたとアピールする。続けて彼女は大袈裟な溜息を零すと共に言った。「あっちゃー。こりゃもう一回、あなたにイチから説明しないといけないのかもー」
「……」
「ねぇ、それより銃を下ろしてくれない? 私、敵意はないから安心して。銃もないし、丸腰だし。ベーコンエッグを作ってるだけだもん」
彼女は電磁調理器の上に置かれたフライパンを指差し、油がパチパチと跳ねる様子をパトリックに見せる。それから彼女はフフッと愉快そうに笑った。
彼女は敵意も害意も無いらしい。パトリックはそれを確認すると、彼女に向けていた銃口を下ろす。それからパトリックは彼女を睨みながら、不満を漏らした。「……どこの誰だか知りませんが、人の家の冷蔵庫の中身を勝手に使わないで頂きたい」
「いいでしょ、別に。使った分はちゃんとあとで補充しておくから」
警戒心からピリピリしているパトリックに気付いているのか、居ないのか。アイリーンと名乗った彼女は未だ楽しそうに鼻歌を口ずさみながら、フライパンから蓋を下ろす。露わになった目玉焼き二つとベーコン四枚は、強火級の熱による拷問を受けたせいで焦げかけていた。
そんなわけでパトリックが冷たい視線をフライパンに注いでいると、アイリーンはその視線に気付いたようで開き直ったような笑顔を浮かべる。それから彼女はこう言った。
「あはは。慣れないことってするもんじゃないね。焦がしちゃった。でもまあ、食べられるし別にいいでしょ」
アイリーンはフライ返しを不器用に使って焦げた目玉焼き一つを平皿に移すと、目玉焼きの上に焦げたベーコン二枚を乗せる。彼女はもう一枚の平皿にも、目玉焼き一つとベーコン二枚を乗せていった。
二枚の皿の上に用意された、焦げた目玉焼きとベーコン。パトリックは二枚の皿を食卓に運びながら、それらを渋い顔で見つめる。
そんな彼の後ろでアイリーンは勝手にパトリック宅の冷蔵庫に触れる。そして何のためらいも無く冷蔵庫を開け、中をガサゴソと漁り出すアイリーンは、パトリックにあることを訊ねた。「トマトケチャップってある?」
「ケチャップ? いや、ないですけど」
「ないの? 本当に?」
パトリックの答えに、アイリーンは残念そうな顔をしてみせた。どうやら彼女は目玉焼きにケチャップを使いたかったらしい。が、無いものは無いのだから仕方がない。
「ええ、まあ。ケチャップを使うような料理なんて作らないので……」
いや、そもそも他人の家を何だと思っているんだ?
……などと突っ込みたいことは多々ある。しかしパトリックはそれらを呑みこみ、この素性の分からぬアイリーンなる女の様子を観察することにした。
パトリックは食卓の中央に置かれているカトラリーボックスを開け、そこからナイフとフォークを二本ずつ取り出すと、食卓の上に並べる。するとアイリーンは当たり前のように食卓の一席に座って、出されたナイフとフォークを当たり前のように自分の前へと手繰り寄せた。
パトリックはそんな彼女の様子を冷ややかな目で観察しながら、椅子を引いて食卓に着く。そうしてパトリックが着席したのを確認すると、アイリーンは焦げた目玉焼きをナイフで切り分けながら話を始めた。
「んじゃ、食べがてらに私のことと、今日の予定を説明するねー」
パトリックも目玉焼きにナイフを入れると、完全に焦げて炭と化した部分を取り除くように切り分けながら、話し始めた彼女の顔を見る。彼は無言で彼女の発する言葉を聞きながら、アイリーンという人物の顔を見た。
「……」
アイリーン。彼女は実に奇抜な服を着ている。年齢は二〇代前半か、それより少し若いように見えていた。
そして彼女の長い髪は、パトリックの元婚約者ジークリットをどことなく連想させるような亜麻色をしている。彼女はその亜麻色の髪を、目が痛くなるような黄色に白の巨大なリボンが付けられたヘアゴムで束ね、ポニーテールにしていた。そして耳には、リンゴをかたどった大ぶりなペンダントの付いたピアスを飾っている。
何よりも一番パトリックの目を引いたのは、彼女が掛けているウェリントン型の大きめな眼鏡。その眼鏡のフレームは蛍光グリーンと呼ぶべき色をしている。それはとても目に痛い緑色だった。
「そんでね。さっきも言ったけど、もう一度自己紹介しておくと。私の名前はアイリーン。アイリーン・フィールド。そして特務機関WACEにおける名前は、ルーカン。私の担当業務はテクニカルサポートで……」
「テクニカルサポート?」
技術的支援 。その言葉を聞いて、パトリックが連想したのは電子機器販売会社のコールセンター業務だ。顧客からの理不尽なクレーム電話に心を殺しつつ対応しながら、商品仕様の際に発生したトラブルを解決に導くというような……――少なくともパトリックが理解しているその言葉の意味とは、そういう感じである。
しかしアイリーンの定義は違うらしい。彼女は首を傾げるパトリックに、彼女の考えている定義を教えた。「要するに、ブラックハットのこと。機動隊が侵入する場所の警備システムをハッキングして、最短ルートになる道を強引に開けたり、監視カメラの映像を改竄して当局の目を誤魔化したりするの。あと音声ガイダンスで道案内とか、現在の状況を教えたりもする。それ以外にも電子空間にある機密情報を盗んだりとか、色々やるわけよ」
「……つまり、あなたはハッカーなのですか?」
「そゆこと。昔は信念なき黒いハッカーだったけど、今は正義の黒いハッカーだから悪いことはしてないよ。まあ、法律はいっぱい破ってるけどね」
正義の黒いハッカーを自称するアイリーン。そんな彼女の服は、眼鏡やピアスよりも更に派手で、もっと目に痛い色合いをしていた。
淡い青色をベースに白いギザギザのラインが入った七分袖カーディガン。これは一番大人しくマシな色合いをしている。しかし他は散々だ。
肩まで覆い隠すほど大きなレース編み付け襟、これは発光していないにも関わらずチカチカとした光を感じてしまうような蛍光グリーンをしている。そしてカーディガンの下に着ているシャツワンピースは、淡いピンク色をベースに蛍光イエローの大きな斑点がちりばめられていた(加えて、ワンピースの裾にあしらわれた大ぶりなフリルは、イチゴを模した模様をしていた)。ウェストラインを絞るためお腹周りに巻かれていた茶色のベルト、これは彼女のファッションの中で唯一ベーシックなアイテムである。
足許のほうも散々だ。ビリジアンに近い深い緑色のタイツには、ビビッドなオレンジ色のメリージェーン・パンプスを合わせている。爆発するサイケデリックな色彩のセンスに、パトリックの目は彼女を見ているだけで疲れていった。
「……無法者のハッカーが、果たして正義と言えるんでしょうか……」
そんなことを呟きながら、パトリックは焦げていない部分の目玉焼きを切り分けて一口ほおばる。……のだが、ただの目玉焼きであるはずが、味がなんだかおかしい。焦げとは違う風味、パクチーに似たにおいが混じっているような気がしていたのだ。
何かがおかしい。それに気付いたパトリックは、食卓からキッチンに視線をやった。そしてすぐに彼は異常な風味の原因を発見する。
ひっくり返された状態で、キッチン台の天板の上に置かれているフライパンの蓋。そこに張り付き、止まっている虫が居たのだ。
「……ッ!!」
あれは東洋から輸送されたコンテナに紛れて国内に入り込み、今や国内全土で大繁殖している害虫、カメムシだ。
あのカメムシは目玉焼きとベーコンと一緒にフライパンの中で蒸し焼きにされ、蓋の裏にくっついた状態で死んだのだろう。サウナ状態になったフライパンから脱出しようとして、必死の思いで蓋の裏にくっついたに違いない。そしてカメムシは死ぬ間際にクサイにおいを放出したのだ。それがこのパクチーのようなニオイなのだとしたら――
「んんっ。それは措いといて。んでね、私たちコンビが追うことになったターゲットなんだけど」
アイリーンは目玉焼きを切り分け、食べ進めながらモゴモゴと喋る。しかしパトリックは食べる手を止め、静かにナイフとフォークを皿の上に置いた。
それから彼は見てしまったものを頭から追い払う努力をすると、アイリーンの話に集中しようとしたのだが。
「今回のターゲットはアバロセレン工学界の重鎮。ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚。当然、知ってるでしょ?」
「ええ、勿論。軍事防衛部門の高位技師官僚 ですよね。今や建国の父とも言われてるあの、あの……――」
「あの、軍事防衛部門の高位技師官僚。つまり閣僚クラスの超大物ってわけ」
そう言ったアイリーンの顔は真剣そのものだった。それを聞いたパトリックの背筋は凍りつく。
ペルモンド・バルロッツィといえば、とんでもないVIPだ。VIPといえばASI長官バーソロミュー・ブラッドフォードもそうだが、しかしペルモンド・バルロッツィという人物はその上を行く重要人物である。なぜなら彼こそが、アルストグラン連邦共和国を空に浮かぶ浮遊大陸に変えたとされている人物なのだから。
――そんなVIPがターゲット?
「ま、まっ、待ってください。私は入局して間もない新人ですよ。それなのに、VIPを相手にしろと言うんですか?!」
カメムシのことなど頭から吹き飛ぶような特大情報を突き付けられたパトリックは、驚きから上ずった声でそう言うと共に、椅子からバッと立ち上がってしまう。そんな彼を宥めるように、アイリーンは「座って」というジェスチャーをする。
その促しに従い、パトリックは再び椅子に座るのだが。気分はまるで落ち着かない。居心地の悪さとソワソワする落ち着きの無さをなんとか堪えながら、パトリックはアイリーンの目を見る。そして彼女は再び話し始めた。
「ペルモンド・バルロッツィ。彼が何かに目を光らしてて、警戒してるっぽいっていう情報をちょい前に掴んだの。アバロセレンに関することっていうのは分かってるんだけど、ただ『彼が誰の何を警戒しているのか』っていうのが現状分かっていない。だから、それが具体的に何なのかを突き止めて、場合によっては阻止に入るのが今回の任務」
「……すみません。まったく話が見えてこないのですが。あなた方は私に何を求めているのですか?」
「今、特務機関WACEは人手が足りなくて困ってるの。だからあなたには現場で情報を集めるお仕事を頼みたいんだ」
「それなら、何も私でなくとも良かったのでは? 私は情報局員としては経験が浅く、それに――」
「ペルモンド・バルロッツィと接点が今までになくて、且つ彼から諜報員だと認識されていない人が良かったの。だから、あなたには悪いことをしたと思ってるけど、私たちのほうであなたのキャリアを変更させてもらったんだ。連続少女誘拐殺人事件で名を上げたあなたは『特別捜査官』として世間に知られているし、きっとペルモンド・バルロッツィもあなたのことを『特別捜査官』だと思っている。だからこそあなたを使いたかった」
「私をASIに異動させたのは、つまりあなた方なのですか?」
「そうなの。ごめんね。でもASIで新しいスキルは学べたでしょう?」
「……まだ、新しいスキルを得るための学びを開始した段階でしかないのですか」
「まあ、でも、安心して。私があなたの動向をリアルタイムで追いながらサポートをするから。そして私は並行して回収した情報を即座に整理、分析も行う。それから、あなたのコードネーム、要するにWACEでの名前は、道化を演じる騎士『ディナダン』。よく覚えておいてね。あなたは今日から、というか厳密にいうと昨日から、ディナダンになっているの」
「つまり私が、高位技師官僚の諜報に直接当たるのですか?」
「そーよ、現場での諜報活動。彼からそれとなく情報を引き出すの。アバロセレンに関する黒い噂を何か知りませんかー、って。……そして今、私が話したことは、昨日サーがあなたに説明したはずの情報なんだけど。マジで忘れちゃったんだね、あなた」
諜報という言葉。それに彼は更なる戸惑いを覚えた。
情報機関である以上、ASIという組織は諜報と謀略を行う。パトリックもそれをよく理解しているし、諜報は彼が担う業務のひとつだ。
安全な本部局の中に用意された尋問室内の椅子に座り、国家および市民生活を脅かしかねない犯罪を企てた凶悪犯、ないし他国から侵入した工作員と対峙し、情報を聞き出す。パトリックの仕事は上述の通りだ。
ゆえに直属の上司から仕込まれたのは交渉術であり、効果的な脅し方や弱みにつけ入る方法など、尋問のテクニックが主である。
しかしアイリーンが言うところの『諜報』には『尋問』という意味合いはあまり含まれていない。代わりに『潜入工作』という意味が色濃く含まれていた。
だがパトリックは、潜入工作に当たったことは一度もない。潜入工作に役立つ何かしらの技術を仕込まれたということもなかった。
「その諜報活動というのは、つまり潜入工作ですよね。しかし私は工作を受け持ったことなど一度もありません。私の専門は尋問です。……人選ミスなのでは?」
パトリックはアイリーンにそうぶつけるが、しかしアイリーンは笑顔を返す。そしてアイリーンから得られた返答は悲しいことに前向きなものだった。
「あなたの専門は尋問で、そして工作は未経験だってことは知ってる。むしろ、そこが好都合なの。それにあなたなら大丈夫だって。単身突っ込めるだけの胆力もあるし、機転も利くんだから。なんとかなるって」
「……」
「実は私も、新体制になってから彼を相手にするのは初めてでねー。超絶緊張してるの。初めて同士、お互い協力していこうよ。ねっ?」
アイリーンは励ましにもならない微妙な台詞を言うと、カメムシと共に蒸し焼きにされた目玉焼きを完食する。それから彼女は緑色の瞳でパトリックの大きな黒い目をじっと見ると、こう切り出した。「それで、今日の予定についてなんだけどさ」
「……なんでしょうか」
「とりあえず、いつも通りに出勤してね。ブラッドフォード長官はあなたが特務機関WACEに出向したってことを知ってるけど、他の局員は知らないから。副長官のエズラ・ホフマンは勿論のこと、あなたの直属の上司さんもね。あなたも、同僚にそのことは言ってないでしょう?」
「それについては、その……」
「大丈夫。長官室から出たあとのあなたの動向は私が全てチェックしてたから。あなたは同僚にそのことを伝えていない。安心してね」
「……」
「それと、今日のことについては出勤してから分かると思う。計画はこちらで立ててはいるんだけど、とはいえ計画って立てたところで崩れるだけだから役に立たないんだよね。でもまあ、軽く説明しておくと――あなたがオフィスの自分の椅子に座ると同時に、あなたに電話が掛かってくる。予定通りならば、その電話はあなたの元同僚ノエミ・セディージョ特別捜査官からなんだ。それで、彼女はこう言うはず。今すぐキャンベラ国立大学病院に来てほしい、今回の事件にはASIの協力が必要不可欠になるから、ってね」
「ノエミが? 彼女も、まさか」
「ううん、彼女はただの駒。彼女ならきっとこう動くはずだ、っていう状況をこっちで作り上げたの。そういうわけだから、連絡があったら大学病院に向かってね」
「分かりました……」
パトリックは頷くと、ろくに食べてもいない目玉焼きを放置して食卓を去る。それから彼は出来る限り平静を装いつつバスルームに向かい、扉を閉めた。そして彼はシャワーをわざとザーザーと流し、大きな音を立てるようにする。
廊下にはシャワーから出る水の音だけが漏れ出ていた。アイリーンはその音を確認すると彼女が使用した分の平皿を回収し、それを持ってキッチンに向かう。
アイリーンはこのとき、きっとこう思っていたのだろう。パトリック、彼はシャワーを浴びているに違いない。だって目覚める寸前まであんなに悪夢に魘されていたんだし、起きてきたときも寝巻のシャツは汗で濡れていたんだから、と。
ふふふんと陽気に鼻歌を口ずさみ、食器を洗う彼女は、知らなかった。パトリックがバスタブの横に設置されていた便器の前で、げんなりとした顔で両膝をついていたことを。
「……あぁっ、カメムシ。なんであんなところに……!」
そう悪態を零すと、パトリックは口を開けて喉の奥に指を突っ込み、強引に嘔吐を誘発させる。そうして食べてしまったものを彼が無理やり吐き出した直後、キッチンからは虫を見つけてしまったのであろうアイリーンの悲鳴が聞こえてきた。
*
胃の内容物をほぼ全て吐き出してから、シャワーを浴びて全てをスッキリ洗い流し、それからスーツに着替えて家を出たパトリックは、カメムシの処理はアイリーンに任せて普段のように本部局へ向かった。
一階の受付を過ぎ、エレベーターに乗り込んで、自分のデスクがある五階オフィスに入る。上司らに軽く挨拶し、同僚の女性たちにおべっかを使って懐に飛び入り、男性たちの会話に飛び込んでは丁度いいお調子者を演じる。そうしていつもの安定したポジションを整えてから、パトリックはデスクに着いた。
パトリックは自分の椅子に座ると、机の上の自分の領域に私物を置く。仕事に関連した書類、ペンケース、タブレット端末、それと家を出る前にアイリーンから支給されたメガネ型通話デバイス。それと本部局に着くまでの道中で購入したサンドイッチ。
パトリックはまずメガネ型通話デバイスを手に取り、メガネと同じように装着する。次に茶色の紙袋の中からサンドイッチを取り出すと、パッケージの封を解いた。
すると同僚のひとり、サラ・コリンズという人物がパトリックのデスクに歩み寄る。そして彼女はパトリックにこう言った。「珍しいわね、ラーナー。あなたが朝食をここで食べるだなんて。もしかして寝過ごしたの?」
「ええ、まあ。実はそうなんです……」
気まずそうにパトリックは笑いつつ、そう答える。すると声を掛けてきた同僚は「この近くに美味しい鯖サンドを売ってるお店があるの、今度行ってみてね」と言い、メモ帳を取り出した。それから同僚はメモ帳にサラサラと素早く店の住所を書くと、パトリックのデスクにそのメモ紙を置き、笑顔と共に手を振って立ち去っていく。
「分かりました、今度行ってみますね」
パトリックは同僚にそう告げると、購入したサンドイッチを啄ばむように食べ始める。それが午前八時十五分のことだった。
――と、そのとき。部長のデスクに置かれた電話がベルを鳴らす。それまで和気あいあいとしていたオフィスが、一瞬にして静まりかえった。
部長が受話器を取る。静寂の中に、これから何が起こるのかと警戒する緊張感が張り詰めた。
「こちら欧州情報分析部、トラヴィス・ハイドン」
部長は険しい面持ちで、まずはそのように応答する。しかしその後、部長の表情はわずかに緩んだ。それは掛けてきた相手が旧知の間柄である人物だったことに由来している。
「……おお、トーマスか。それで、用件は何だ?」
警戒が解けた部長の様子を見て、部員たちは『重要な電話ではなさそうだ』と判断したのだろう。ピンと張りつめた空気感は途端に薄まり、静かながらも穏やかな雰囲気がオフィスに戻ってきた。
しかし、穏やかな時間も一瞬で終わる。部長の声色が途端に緊張感に満ちたものに変わり、表情がグッと険しくなったのだ。
「――なに? ラーナーを寄越せだと?」
部長の語尾が驚きから少しだけ上擦ったのと同時に、オフィスに居合わせた全員の視線がパトリックに集まる。部長もパトリックに視線を送っていた。そしてラーナーも部長を見返す。
「……」
パトリックは驚くフリをしながらも、こう考えていた。もしやアイリーンが言っていた例の件では、と。
そしてパトリックは部長の表情がまた僅かに和らいだことで、それを確信する。部長は通話相手に向けてこのようなことを言っていた。
「ああ、なるほど、現場に向かわせろということか。そうか、なら現場にラーナーをそちらに派遣しよう。――……そうだな。慎重に動くべきだろう。警戒するに越したことはない。お前も気をつけろよ」
部長はそう言い終えると受話器を置く。それから部長はパトリックを手招きで呼び、デスクの近くに来るよう指示を出した。パトリックは立ち上がると部長のデスクの前へと移動し立ち、部長の様子を窺う。すると部長は、パトリックが予想していた通りの台詞を言った。
「連邦捜査局から要請があった。聞こえていたかもしれないが、ラーナー。お前にはキャンベラ国立大学病院に向かってもらう。唯一の目撃者である人物の口が固く、手を焼いているそうだ。そこでノエミ・セディージョ特別捜査官がお前に応援要請を出したらしい」
「大学病院ですか……」
ノエミからの要請で大学病院に向かうことになる。特務機関WACEが組んだという筋書き通りの展開だ。
アイリーンが今朝に言っていたことがその通りに起きているのなら、この国のVIPであるペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚に関連した何らかの事件が起きたのだろう。そこでパトリックは状況を把握するために、まずは部長に訊ねることにする。「なにか重要か、または異質な案件なのでしょうか?」
「ああ、そうらしい。一時間前、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚が何者かに銃撃され、意識不明の重体だそうだ」
部長が語った言葉の中には、やはりパトリックの思った通りの人名が登場した。しかしそれに付随して気掛かりな情報までもが聞こえてくる。
銃撃、意識不明の重体。――このような展開はアイリーンから知らされていなかった。そして部長は更に言葉を続ける。
「しかし犯人を特定しようにも物証が乏しいようだ。さらに周辺一帯の監視カメラについては大半が改竄され、一部はカメラ及び記録装置が破壊されていたうえに、唯一の目撃者である被害者の娘がなかなか喋らないらしい。そこでお前の出番というわけだ。ラーナー、目撃者から証言を引き出してこい」
「……」
「――というのは勿論、建前だ。お前には現場で情報を集めてきてもらう。国外から送り込まれた刺客による犯行の線も否定されていない以上、この件はASIの管轄でもあるからな。しかし生え抜きのASI局員を送れば角が立つ。その点、お前は連邦捜査局出身の人材だ。先方もお前なら悪く思わない。つまり、分かっているな?」
部長はそう言うとパトリックの肩に手を置く。それは励ましのつもりなのだろうが、かえってパトリックの肩にプレッシャーが圧し掛かることとなった。
「は、はい……」
本当は弱音を吐きたかったパトリックだが、そんなことは立場上言えるわけもなく。彼は緊張から引き攣るぎこちない笑みを浮かべると、部長に軽く頭を下げ、それから部長に背を向けて、今度は自身の後ろに控えていた同僚たちの顔を見る。
彼ら彼女らの顔色は、複雑そのものだった。他局から指名を受けたパトリックのことを羨んでいるようでもあり、妬んでいるようにも見える。何か裏側にあるものを勘ぐっていそうな顔をしている者も居た。
そんな視線を前にして、何か疑われるような態度を取れば悪印象を抱かれることは間違いない。軽はずみな言動はするべきではないだろう。
パトリックは迷う。こんなときは一体どうすればいいんだろう、と。そこで彼が導き出した答えは、ぎこちない笑顔を維持したまま不安そうに立ち去るというものだった。
彼は同僚たちに対して、会釈程度に頭を下げる。それからパトリックは彼のデスクに一旦戻ると、必要最低限の私物をまとめてオフィスを後にした。そうして彼は昨日も行ったキャンベラ国立大学病院に、また向かって行った。
【次話へ】
パトリックの目の前には、怒り狂いながらそう叫ぶ女が居た。パトリックはぐっと言葉を堪えながら、彼女の両手首に手錠を嵌める。そしてパトリックの横に立つノエミが彼の代わりに、権利の告知を行った。
『あなたには黙秘権がある。供述は、法廷であなたに不利な証拠として用いられることがある。あなたには弁護士の立ち会いを求める権利があり、弁護士を雇う経済力が無い場合は、公選弁護人を……――』
怒り狂う女は、防弾チョッキを着用した大柄の男に羽交い絞めにされて取り押さえられていた。それでも彼女は亜麻色の髪を振り乱しながら、己に手錠をかけたパトリックに向かい、罵声を浴びせ続けていた。
やがてノエミは告知を終えた。彼女はパトリックの肩を軽く突き飛ばして退くようにと促すと、怒り狂う女を押さえていた男と共にパトカーの中へ乗り込んでいく。
パトリックは夜闇の中に赤く光るパトカーの警光灯を黙って見送っていた。降りしきる雨が遮りハッキリとしないフィルターを通して、その景色を呆然と見つめていた。冬の凍てつくように冷たい雨に打たれながら、彼はただ立ち尽くしていた。
「……」
パトリックを突き飛ばしたとき、ノエミは彼に何かを言っていた。ノエミの唇は、あのとき動いていた。だが彼女が何を言っていたのかがパトリックには分からなかった。
あのとき、事件現場前に集結していた数台のパトカーたちも、けたたましいサイレンを鳴らしていたはずだった。けれどもパトリックには、その音が聞こえていなかった。
自分がこの手で手錠を掛けた女が最後に何を言っていたのかも、パトリックは聞いていなかった。
「…………」
あのとき、一時的にだが彼の耳が聞こえなくなっていた。けれども彼の目は見えていた。聞こえなくなった分だけ鮮明に、あのときに見た映像の全てが脳に焼き付けられていた。
パトカーに押し込められる直前まで、怒り狂う女はパトリックのことを睨んでいた。込み上げてくる憎しみと、最後まで捨てられなかった愛情が混ざった、血走って涙ぐんだ目で、あの女は彼のことを睨みつけていた。どうしてこんな酷いことをするのか、どうして助けてくれないのかと、訴えているかのような視線でもあった。けれどもそんな視線を向けられたところで、パトリックにしてやれることは何もなかった。
だって彼女は罪を犯した。未成年の少年少女、それも十歳にも満たないような幼けな子供たちを七人も誘拐し、長期間に渡って監禁していたのだ。人里離れた森林の中に、ぽつんと佇むコンクリートの家、その地下に設けられた牢獄に等しい空間に。光も射さず、換気もされず、暗く冷たい不衛生な環境に、一番長い子供であれば九ヶ月も閉じ込めていたのだ。
何よりも恐ろしかったことは、その子供たちが全員、似たような容姿にされていたこと。
子供たちは皆、白い肌をしていた。虹彩の色も真っ黒で、その目はぱっちりと大きく、二重だった。そこまでは、先天的な特徴だ。問題は、それ以外だ。
子を攫われた親たちから集めた子供の写真では、髪の色に統一感は無かった。縮れ気な黒髪の子供もいれば、ストレートな茶髪の子供もいた。カールがかった金髪の子もいた。それなのに救出された子供たちの髪は全員、黒髪のストレートに変わっていた。それに髪の長さは、女の子でも襟足が見えるくらいの長さになっていた。そして髪型はパトリックと同じだった。
「……ジ……ク……」
犯人の女は誘拐した子供たちを、パトリックに見立てていた。そのことをパトリックが理解したとき、彼が感じたのは恐怖であり後悔、そして自責だ。
ことの発端は、パトリックが彼女を突き放したことにあった。婚約者であった彼女との三ヶ月に渡った同棲の末、彼女から無条件で与えられる重すぎる愛に戸惑い、怯えた彼が、一方的に別れを切り出したことが原因だったのだ。
彼女は子供を、子供という存在を愛していた。けれどもその感覚は、母性からくるものとは異なる。彼女はチャイルド・マレスターだった。誘惑型の嗜好的児童性虐待者だったのだ。
同棲していた当時、パトリックに彼女がそうであるという確信は無かった。だが、違和感は覚えていた。パトリックに対する彼女の振舞いが、付き合ってい始めたばかりの頃と変わっていたのだから。あれはまるで……幼い子供を相手にしている保育士のような振舞いだった。だからこそ彼は別れを切り出したのだ。
自分は大人であって、身の回りのことは自分で出来るんだ。
だから、その、君と僕は合わないんじゃないのかな。
パトリックがそう告げたとき、彼女は豹変した。意地でも縁を繋ぎ止めようと、酷い言葉を並べ立ててパトリックを責め、だからこそ自分が必要になると彼女は説き伏せようとした。遂に彼女の人間性を疑ったパトリックは、黙って彼女のもとを去ることにした。――そして彼女の凶行は、パトリックが彼女の許を立ち去った日から始まったのだ。
自分が彼女から離れていなければ、あの子供たちは被害者にならずに済んだのではないか。……彼女の逮捕から半年が経過した今でも、パトリックはその思いを払拭できずにいた。連邦捜査局からASIに移った今でも、その後悔は薄らいではいない。
もしも、自分が彼女を突き離さなければ。もしも自分が、甘んじて彼女を受け入れていたら。もしもあのとき、彼女を……――
「……ッ!」
その瞬間、パトリックは飛び起きた。彼は瞬時にベッドから上体を起こすと、寝ぼけた目をこする。それから頭の上でうるさく鳴る目覚まし時計の音楽にうんざりとした表情を浮かべると、朝の到来をけたたましく告げる目覚まし時計を叩くように止めた。
それからパトリックはよろよろとベッドの上から降りる。次に彼は閉めきられていたカーテンをガサツに開けると、窓から寝室に朝日を取り込んだ。それから彼は悪態を吐く。
「……あー、くそっ。ひどい朝だ……」
午前六時三十分。その後もグチグチと悪態めいた独り言を次々に零しながら、パトリックはクローゼットから着替えを取り出し、寝室を出た。
昨日に貰った睡眠薬のおかげで、いつものように夜中に目覚めることなく朝まで眠り続けられた気はするが。その割には疲れが取れた気はしない。久しぶりに見た悪夢のせいで、余計に疲れがたまったような気がしているぐらいだ。
とはいえ薬を責めたところで何かが変わるわけではない。原因はひとつ、パトリック自身の頭がどうかしているだけなのだから。
「……」
そんなことを考えながら、着替えを抱える彼はシャワーを浴びるためにバスルームへ向かおうと廊下に出たのだが。廊下へ一歩踏み出したとき、彼は異変に気付いた。
一体全体、どういうわけなのか。このとき廊下には肉が焦げる悪臭が充満していた。それによく耳を澄ませてみれば、キッチンからは油がパチパチとはねる音が聞こえてきている。そして聞き覚えのない女の鼻歌も、悪臭と共にキッチンから廊下へと流れてきていた。
「……」
これは一体、どういうことだ。そう疑問に思い、顔を顰めるパトリックは素早くバスルームに移動し、そこに持っていた着替えを置いてくると、廊下の床に隠していた拳銃を持ち出す。そうして彼はキッチンの出入り口前に移動すると拳銃を構え、勢いよく中に突入した。
「そこの女、両手を上げなさい」
パトリックはキッチンに立つ女の背に銃口を向けた。彼は女を威嚇するように睨みつける。だがフライパンの柄を左手で持ちながら右手で卵を割る女は、ちらりと一度振り向いてパトリックを見やったが、すぐに正面に視線を戻すと、割った卵をフライパンに落とし、あくまでも朝食づくりを続行した。パトリックの威嚇に怯む様子を見せない彼女は、彼の指示に従って手を上げるつもりはないらしい。
それどころか彼女は、おどけた調子でパトリックに声を掛けてきた。「あっ、おはよー。随分と悪夢にうなされてたみたいだけど、ぐっすり寝れたの?」
「ここで何をしているのかと訊いているんです、答えなさい」
「見ての通りじゃん。朝食を作ってるの。パトリックも食べるっしょ?」
亜麻色の長い髪をポニーテールにして結いまとめている女の余裕そうな素振り。それが余計にパトリックを困惑させていく。まして初対面であるはずの女は今、パトリックという彼の名前を呼んだ。まるで彼のことを知っているかのように。
表情を険しくさせ、依然拳銃を構えたままのパトリックは動揺を表に出さないよう意識しながら、相手を睨み付けるが。しかし無言で相手を睨み付けるその姿は、むしろ動揺していると相手に伝える結果となる。
パトリックの動揺を察知した女は、水差しでフライパンに水を数滴落としたあとフライパンに蓋をしながら、電磁調理器の設定を強火モードにしつつ、呆れ交じりの声で自己紹介を始めるのだった。
「私は特務機関WACEの隊員、アイリーン・フィールド。鷲鼻クソ眼鏡の件であなたとタッグを組むことになった、だからここに来たの。表向きはカップルってことになるから、よろしく。そういうわけで今日から数週間ほど、私はここに滞在することになってる。あなたもそれを了承したってサーからは聞いたんだけど。悪夢に魘されすぎて忘れちゃった?」
「サーというのは、誰のことです」
「特務機関WACEのアーサー。昨日、あなた彼に会ったでしょ? のっぽの彼のことだよ。思い出した?」
「……」
「我らがビッグボスであるマダム・モーガンがお上のご機嫌損ねて北米合衆国に更迭されちゃって、彼女の代役を『見た目だけは良いから』っていう理由だけでアーサーがやることになったからさ。それで今、私たちは彼のことを“
アイリーン・フィールド。そう名乗ったあと冗長な説明をした女は目玉焼きをフライパンで焼きつつ、僅かに顔を動かして背後に立つパトリックを見ると、彼へ疑念に満ちた視線を送る。それから彼女は彼にこう問うた。
「まさかだけど、昨日の話は全部ウソだとか幻覚だとか思ってない?」
「……」
「もしそうだとしたら、あれは現実だよ。現実だからね、誤解なきように」
パトリックは向けられる視線に、不信感に満ちた目で応戦した。するとアイリーンは額に左手を当て、呆れたとアピールする。続けて彼女は大袈裟な溜息を零すと共に言った。「あっちゃー。こりゃもう一回、あなたにイチから説明しないといけないのかもー」
「……」
「ねぇ、それより銃を下ろしてくれない? 私、敵意はないから安心して。銃もないし、丸腰だし。ベーコンエッグを作ってるだけだもん」
彼女は電磁調理器の上に置かれたフライパンを指差し、油がパチパチと跳ねる様子をパトリックに見せる。それから彼女はフフッと愉快そうに笑った。
彼女は敵意も害意も無いらしい。パトリックはそれを確認すると、彼女に向けていた銃口を下ろす。それからパトリックは彼女を睨みながら、不満を漏らした。「……どこの誰だか知りませんが、人の家の冷蔵庫の中身を勝手に使わないで頂きたい」
「いいでしょ、別に。使った分はちゃんとあとで補充しておくから」
警戒心からピリピリしているパトリックに気付いているのか、居ないのか。アイリーンと名乗った彼女は未だ楽しそうに鼻歌を口ずさみながら、フライパンから蓋を下ろす。露わになった目玉焼き二つとベーコン四枚は、強火級の熱による拷問を受けたせいで焦げかけていた。
そんなわけでパトリックが冷たい視線をフライパンに注いでいると、アイリーンはその視線に気付いたようで開き直ったような笑顔を浮かべる。それから彼女はこう言った。
「あはは。慣れないことってするもんじゃないね。焦がしちゃった。でもまあ、食べられるし別にいいでしょ」
アイリーンはフライ返しを不器用に使って焦げた目玉焼き一つを平皿に移すと、目玉焼きの上に焦げたベーコン二枚を乗せる。彼女はもう一枚の平皿にも、目玉焼き一つとベーコン二枚を乗せていった。
二枚の皿の上に用意された、焦げた目玉焼きとベーコン。パトリックは二枚の皿を食卓に運びながら、それらを渋い顔で見つめる。
そんな彼の後ろでアイリーンは勝手にパトリック宅の冷蔵庫に触れる。そして何のためらいも無く冷蔵庫を開け、中をガサゴソと漁り出すアイリーンは、パトリックにあることを訊ねた。「トマトケチャップってある?」
「ケチャップ? いや、ないですけど」
「ないの? 本当に?」
パトリックの答えに、アイリーンは残念そうな顔をしてみせた。どうやら彼女は目玉焼きにケチャップを使いたかったらしい。が、無いものは無いのだから仕方がない。
「ええ、まあ。ケチャップを使うような料理なんて作らないので……」
いや、そもそも他人の家を何だと思っているんだ?
……などと突っ込みたいことは多々ある。しかしパトリックはそれらを呑みこみ、この素性の分からぬアイリーンなる女の様子を観察することにした。
パトリックは食卓の中央に置かれているカトラリーボックスを開け、そこからナイフとフォークを二本ずつ取り出すと、食卓の上に並べる。するとアイリーンは当たり前のように食卓の一席に座って、出されたナイフとフォークを当たり前のように自分の前へと手繰り寄せた。
パトリックはそんな彼女の様子を冷ややかな目で観察しながら、椅子を引いて食卓に着く。そうしてパトリックが着席したのを確認すると、アイリーンは焦げた目玉焼きをナイフで切り分けながら話を始めた。
「んじゃ、食べがてらに私のことと、今日の予定を説明するねー」
パトリックも目玉焼きにナイフを入れると、完全に焦げて炭と化した部分を取り除くように切り分けながら、話し始めた彼女の顔を見る。彼は無言で彼女の発する言葉を聞きながら、アイリーンという人物の顔を見た。
「……」
アイリーン。彼女は実に奇抜な服を着ている。年齢は二〇代前半か、それより少し若いように見えていた。
そして彼女の長い髪は、パトリックの元婚約者ジークリットをどことなく連想させるような亜麻色をしている。彼女はその亜麻色の髪を、目が痛くなるような黄色に白の巨大なリボンが付けられたヘアゴムで束ね、ポニーテールにしていた。そして耳には、リンゴをかたどった大ぶりなペンダントの付いたピアスを飾っている。
何よりも一番パトリックの目を引いたのは、彼女が掛けているウェリントン型の大きめな眼鏡。その眼鏡のフレームは蛍光グリーンと呼ぶべき色をしている。それはとても目に痛い緑色だった。
「そんでね。さっきも言ったけど、もう一度自己紹介しておくと。私の名前はアイリーン。アイリーン・フィールド。そして特務機関WACEにおける名前は、ルーカン。私の担当業務はテクニカルサポートで……」
「テクニカルサポート?」
しかしアイリーンの定義は違うらしい。彼女は首を傾げるパトリックに、彼女の考えている定義を教えた。「要するに、ブラックハットのこと。機動隊が侵入する場所の警備システムをハッキングして、最短ルートになる道を強引に開けたり、監視カメラの映像を改竄して当局の目を誤魔化したりするの。あと音声ガイダンスで道案内とか、現在の状況を教えたりもする。それ以外にも電子空間にある機密情報を盗んだりとか、色々やるわけよ」
「……つまり、あなたはハッカーなのですか?」
「そゆこと。昔は信念なき黒いハッカーだったけど、今は正義の黒いハッカーだから悪いことはしてないよ。まあ、法律はいっぱい破ってるけどね」
正義の黒いハッカーを自称するアイリーン。そんな彼女の服は、眼鏡やピアスよりも更に派手で、もっと目に痛い色合いをしていた。
淡い青色をベースに白いギザギザのラインが入った七分袖カーディガン。これは一番大人しくマシな色合いをしている。しかし他は散々だ。
肩まで覆い隠すほど大きなレース編み付け襟、これは発光していないにも関わらずチカチカとした光を感じてしまうような蛍光グリーンをしている。そしてカーディガンの下に着ているシャツワンピースは、淡いピンク色をベースに蛍光イエローの大きな斑点がちりばめられていた(加えて、ワンピースの裾にあしらわれた大ぶりなフリルは、イチゴを模した模様をしていた)。ウェストラインを絞るためお腹周りに巻かれていた茶色のベルト、これは彼女のファッションの中で唯一ベーシックなアイテムである。
足許のほうも散々だ。ビリジアンに近い深い緑色のタイツには、ビビッドなオレンジ色のメリージェーン・パンプスを合わせている。爆発するサイケデリックな色彩のセンスに、パトリックの目は彼女を見ているだけで疲れていった。
「……無法者のハッカーが、果たして正義と言えるんでしょうか……」
そんなことを呟きながら、パトリックは焦げていない部分の目玉焼きを切り分けて一口ほおばる。……のだが、ただの目玉焼きであるはずが、味がなんだかおかしい。焦げとは違う風味、パクチーに似たにおいが混じっているような気がしていたのだ。
何かがおかしい。それに気付いたパトリックは、食卓からキッチンに視線をやった。そしてすぐに彼は異常な風味の原因を発見する。
ひっくり返された状態で、キッチン台の天板の上に置かれているフライパンの蓋。そこに張り付き、止まっている虫が居たのだ。
「……ッ!!」
あれは東洋から輸送されたコンテナに紛れて国内に入り込み、今や国内全土で大繁殖している害虫、カメムシだ。
あのカメムシは目玉焼きとベーコンと一緒にフライパンの中で蒸し焼きにされ、蓋の裏にくっついた状態で死んだのだろう。サウナ状態になったフライパンから脱出しようとして、必死の思いで蓋の裏にくっついたに違いない。そしてカメムシは死ぬ間際にクサイにおいを放出したのだ。それがこのパクチーのようなニオイなのだとしたら――
「んんっ。それは措いといて。んでね、私たちコンビが追うことになったターゲットなんだけど」
アイリーンは目玉焼きを切り分け、食べ進めながらモゴモゴと喋る。しかしパトリックは食べる手を止め、静かにナイフとフォークを皿の上に置いた。
それから彼は見てしまったものを頭から追い払う努力をすると、アイリーンの話に集中しようとしたのだが。
「今回のターゲットはアバロセレン工学界の重鎮。ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚。当然、知ってるでしょ?」
「ええ、勿論。軍事防衛部門の
「あの、軍事防衛部門の高位技師官僚。つまり閣僚クラスの超大物ってわけ」
そう言ったアイリーンの顔は真剣そのものだった。それを聞いたパトリックの背筋は凍りつく。
ペルモンド・バルロッツィといえば、とんでもないVIPだ。VIPといえばASI長官バーソロミュー・ブラッドフォードもそうだが、しかしペルモンド・バルロッツィという人物はその上を行く重要人物である。なぜなら彼こそが、アルストグラン連邦共和国を空に浮かぶ浮遊大陸に変えたとされている人物なのだから。
――そんなVIPがターゲット?
「ま、まっ、待ってください。私は入局して間もない新人ですよ。それなのに、VIPを相手にしろと言うんですか?!」
カメムシのことなど頭から吹き飛ぶような特大情報を突き付けられたパトリックは、驚きから上ずった声でそう言うと共に、椅子からバッと立ち上がってしまう。そんな彼を宥めるように、アイリーンは「座って」というジェスチャーをする。
その促しに従い、パトリックは再び椅子に座るのだが。気分はまるで落ち着かない。居心地の悪さとソワソワする落ち着きの無さをなんとか堪えながら、パトリックはアイリーンの目を見る。そして彼女は再び話し始めた。
「ペルモンド・バルロッツィ。彼が何かに目を光らしてて、警戒してるっぽいっていう情報をちょい前に掴んだの。アバロセレンに関することっていうのは分かってるんだけど、ただ『彼が誰の何を警戒しているのか』っていうのが現状分かっていない。だから、それが具体的に何なのかを突き止めて、場合によっては阻止に入るのが今回の任務」
「……すみません。まったく話が見えてこないのですが。あなた方は私に何を求めているのですか?」
「今、特務機関WACEは人手が足りなくて困ってるの。だからあなたには現場で情報を集めるお仕事を頼みたいんだ」
「それなら、何も私でなくとも良かったのでは? 私は情報局員としては経験が浅く、それに――」
「ペルモンド・バルロッツィと接点が今までになくて、且つ彼から諜報員だと認識されていない人が良かったの。だから、あなたには悪いことをしたと思ってるけど、私たちのほうであなたのキャリアを変更させてもらったんだ。連続少女誘拐殺人事件で名を上げたあなたは『特別捜査官』として世間に知られているし、きっとペルモンド・バルロッツィもあなたのことを『特別捜査官』だと思っている。だからこそあなたを使いたかった」
「私をASIに異動させたのは、つまりあなた方なのですか?」
「そうなの。ごめんね。でもASIで新しいスキルは学べたでしょう?」
「……まだ、新しいスキルを得るための学びを開始した段階でしかないのですか」
「まあ、でも、安心して。私があなたの動向をリアルタイムで追いながらサポートをするから。そして私は並行して回収した情報を即座に整理、分析も行う。それから、あなたのコードネーム、要するにWACEでの名前は、道化を演じる騎士『ディナダン』。よく覚えておいてね。あなたは今日から、というか厳密にいうと昨日から、ディナダンになっているの」
「つまり私が、高位技師官僚の諜報に直接当たるのですか?」
「そーよ、現場での諜報活動。彼からそれとなく情報を引き出すの。アバロセレンに関する黒い噂を何か知りませんかー、って。……そして今、私が話したことは、昨日サーがあなたに説明したはずの情報なんだけど。マジで忘れちゃったんだね、あなた」
諜報という言葉。それに彼は更なる戸惑いを覚えた。
情報機関である以上、ASIという組織は諜報と謀略を行う。パトリックもそれをよく理解しているし、諜報は彼が担う業務のひとつだ。
安全な本部局の中に用意された尋問室内の椅子に座り、国家および市民生活を脅かしかねない犯罪を企てた凶悪犯、ないし他国から侵入した工作員と対峙し、情報を聞き出す。パトリックの仕事は上述の通りだ。
ゆえに直属の上司から仕込まれたのは交渉術であり、効果的な脅し方や弱みにつけ入る方法など、尋問のテクニックが主である。
しかしアイリーンが言うところの『諜報』には『尋問』という意味合いはあまり含まれていない。代わりに『潜入工作』という意味が色濃く含まれていた。
だがパトリックは、潜入工作に当たったことは一度もない。潜入工作に役立つ何かしらの技術を仕込まれたということもなかった。
「その諜報活動というのは、つまり潜入工作ですよね。しかし私は工作を受け持ったことなど一度もありません。私の専門は尋問です。……人選ミスなのでは?」
パトリックはアイリーンにそうぶつけるが、しかしアイリーンは笑顔を返す。そしてアイリーンから得られた返答は悲しいことに前向きなものだった。
「あなたの専門は尋問で、そして工作は未経験だってことは知ってる。むしろ、そこが好都合なの。それにあなたなら大丈夫だって。単身突っ込めるだけの胆力もあるし、機転も利くんだから。なんとかなるって」
「……」
「実は私も、新体制になってから彼を相手にするのは初めてでねー。超絶緊張してるの。初めて同士、お互い協力していこうよ。ねっ?」
アイリーンは励ましにもならない微妙な台詞を言うと、カメムシと共に蒸し焼きにされた目玉焼きを完食する。それから彼女は緑色の瞳でパトリックの大きな黒い目をじっと見ると、こう切り出した。「それで、今日の予定についてなんだけどさ」
「……なんでしょうか」
「とりあえず、いつも通りに出勤してね。ブラッドフォード長官はあなたが特務機関WACEに出向したってことを知ってるけど、他の局員は知らないから。副長官のエズラ・ホフマンは勿論のこと、あなたの直属の上司さんもね。あなたも、同僚にそのことは言ってないでしょう?」
「それについては、その……」
「大丈夫。長官室から出たあとのあなたの動向は私が全てチェックしてたから。あなたは同僚にそのことを伝えていない。安心してね」
「……」
「それと、今日のことについては出勤してから分かると思う。計画はこちらで立ててはいるんだけど、とはいえ計画って立てたところで崩れるだけだから役に立たないんだよね。でもまあ、軽く説明しておくと――あなたがオフィスの自分の椅子に座ると同時に、あなたに電話が掛かってくる。予定通りならば、その電話はあなたの元同僚ノエミ・セディージョ特別捜査官からなんだ。それで、彼女はこう言うはず。今すぐキャンベラ国立大学病院に来てほしい、今回の事件にはASIの協力が必要不可欠になるから、ってね」
「ノエミが? 彼女も、まさか」
「ううん、彼女はただの駒。彼女ならきっとこう動くはずだ、っていう状況をこっちで作り上げたの。そういうわけだから、連絡があったら大学病院に向かってね」
「分かりました……」
パトリックは頷くと、ろくに食べてもいない目玉焼きを放置して食卓を去る。それから彼は出来る限り平静を装いつつバスルームに向かい、扉を閉めた。そして彼はシャワーをわざとザーザーと流し、大きな音を立てるようにする。
廊下にはシャワーから出る水の音だけが漏れ出ていた。アイリーンはその音を確認すると彼女が使用した分の平皿を回収し、それを持ってキッチンに向かう。
アイリーンはこのとき、きっとこう思っていたのだろう。パトリック、彼はシャワーを浴びているに違いない。だって目覚める寸前まであんなに悪夢に魘されていたんだし、起きてきたときも寝巻のシャツは汗で濡れていたんだから、と。
ふふふんと陽気に鼻歌を口ずさみ、食器を洗う彼女は、知らなかった。パトリックがバスタブの横に設置されていた便器の前で、げんなりとした顔で両膝をついていたことを。
「……あぁっ、カメムシ。なんであんなところに……!」
そう悪態を零すと、パトリックは口を開けて喉の奥に指を突っ込み、強引に嘔吐を誘発させる。そうして食べてしまったものを彼が無理やり吐き出した直後、キッチンからは虫を見つけてしまったのであろうアイリーンの悲鳴が聞こえてきた。
胃の内容物をほぼ全て吐き出してから、シャワーを浴びて全てをスッキリ洗い流し、それからスーツに着替えて家を出たパトリックは、カメムシの処理はアイリーンに任せて普段のように本部局へ向かった。
一階の受付を過ぎ、エレベーターに乗り込んで、自分のデスクがある五階オフィスに入る。上司らに軽く挨拶し、同僚の女性たちにおべっかを使って懐に飛び入り、男性たちの会話に飛び込んでは丁度いいお調子者を演じる。そうしていつもの安定したポジションを整えてから、パトリックはデスクに着いた。
パトリックは自分の椅子に座ると、机の上の自分の領域に私物を置く。仕事に関連した書類、ペンケース、タブレット端末、それと家を出る前にアイリーンから支給されたメガネ型通話デバイス。それと本部局に着くまでの道中で購入したサンドイッチ。
パトリックはまずメガネ型通話デバイスを手に取り、メガネと同じように装着する。次に茶色の紙袋の中からサンドイッチを取り出すと、パッケージの封を解いた。
すると同僚のひとり、サラ・コリンズという人物がパトリックのデスクに歩み寄る。そして彼女はパトリックにこう言った。「珍しいわね、ラーナー。あなたが朝食をここで食べるだなんて。もしかして寝過ごしたの?」
「ええ、まあ。実はそうなんです……」
気まずそうにパトリックは笑いつつ、そう答える。すると声を掛けてきた同僚は「この近くに美味しい鯖サンドを売ってるお店があるの、今度行ってみてね」と言い、メモ帳を取り出した。それから同僚はメモ帳にサラサラと素早く店の住所を書くと、パトリックのデスクにそのメモ紙を置き、笑顔と共に手を振って立ち去っていく。
「分かりました、今度行ってみますね」
パトリックは同僚にそう告げると、購入したサンドイッチを啄ばむように食べ始める。それが午前八時十五分のことだった。
――と、そのとき。部長のデスクに置かれた電話がベルを鳴らす。それまで和気あいあいとしていたオフィスが、一瞬にして静まりかえった。
部長が受話器を取る。静寂の中に、これから何が起こるのかと警戒する緊張感が張り詰めた。
「こちら欧州情報分析部、トラヴィス・ハイドン」
部長は険しい面持ちで、まずはそのように応答する。しかしその後、部長の表情はわずかに緩んだ。それは掛けてきた相手が旧知の間柄である人物だったことに由来している。
「……おお、トーマスか。それで、用件は何だ?」
警戒が解けた部長の様子を見て、部員たちは『重要な電話ではなさそうだ』と判断したのだろう。ピンと張りつめた空気感は途端に薄まり、静かながらも穏やかな雰囲気がオフィスに戻ってきた。
しかし、穏やかな時間も一瞬で終わる。部長の声色が途端に緊張感に満ちたものに変わり、表情がグッと険しくなったのだ。
「――なに? ラーナーを寄越せだと?」
部長の語尾が驚きから少しだけ上擦ったのと同時に、オフィスに居合わせた全員の視線がパトリックに集まる。部長もパトリックに視線を送っていた。そしてラーナーも部長を見返す。
「……」
パトリックは驚くフリをしながらも、こう考えていた。もしやアイリーンが言っていた例の件では、と。
そしてパトリックは部長の表情がまた僅かに和らいだことで、それを確信する。部長は通話相手に向けてこのようなことを言っていた。
「ああ、なるほど、現場に向かわせろということか。そうか、なら現場にラーナーをそちらに派遣しよう。――……そうだな。慎重に動くべきだろう。警戒するに越したことはない。お前も気をつけろよ」
部長はそう言い終えると受話器を置く。それから部長はパトリックを手招きで呼び、デスクの近くに来るよう指示を出した。パトリックは立ち上がると部長のデスクの前へと移動し立ち、部長の様子を窺う。すると部長は、パトリックが予想していた通りの台詞を言った。
「連邦捜査局から要請があった。聞こえていたかもしれないが、ラーナー。お前にはキャンベラ国立大学病院に向かってもらう。唯一の目撃者である人物の口が固く、手を焼いているそうだ。そこでノエミ・セディージョ特別捜査官がお前に応援要請を出したらしい」
「大学病院ですか……」
ノエミからの要請で大学病院に向かうことになる。特務機関WACEが組んだという筋書き通りの展開だ。
アイリーンが今朝に言っていたことがその通りに起きているのなら、この国のVIPであるペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚に関連した何らかの事件が起きたのだろう。そこでパトリックは状況を把握するために、まずは部長に訊ねることにする。「なにか重要か、または異質な案件なのでしょうか?」
「ああ、そうらしい。一時間前、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚が何者かに銃撃され、意識不明の重体だそうだ」
部長が語った言葉の中には、やはりパトリックの思った通りの人名が登場した。しかしそれに付随して気掛かりな情報までもが聞こえてくる。
銃撃、意識不明の重体。――このような展開はアイリーンから知らされていなかった。そして部長は更に言葉を続ける。
「しかし犯人を特定しようにも物証が乏しいようだ。さらに周辺一帯の監視カメラについては大半が改竄され、一部はカメラ及び記録装置が破壊されていたうえに、唯一の目撃者である被害者の娘がなかなか喋らないらしい。そこでお前の出番というわけだ。ラーナー、目撃者から証言を引き出してこい」
「……」
「――というのは勿論、建前だ。お前には現場で情報を集めてきてもらう。国外から送り込まれた刺客による犯行の線も否定されていない以上、この件はASIの管轄でもあるからな。しかし生え抜きのASI局員を送れば角が立つ。その点、お前は連邦捜査局出身の人材だ。先方もお前なら悪く思わない。つまり、分かっているな?」
部長はそう言うとパトリックの肩に手を置く。それは励ましのつもりなのだろうが、かえってパトリックの肩にプレッシャーが圧し掛かることとなった。
「は、はい……」
本当は弱音を吐きたかったパトリックだが、そんなことは立場上言えるわけもなく。彼は緊張から引き攣るぎこちない笑みを浮かべると、部長に軽く頭を下げ、それから部長に背を向けて、今度は自身の後ろに控えていた同僚たちの顔を見る。
彼ら彼女らの顔色は、複雑そのものだった。他局から指名を受けたパトリックのことを羨んでいるようでもあり、妬んでいるようにも見える。何か裏側にあるものを勘ぐっていそうな顔をしている者も居た。
そんな視線を前にして、何か疑われるような態度を取れば悪印象を抱かれることは間違いない。軽はずみな言動はするべきではないだろう。
パトリックは迷う。こんなときは一体どうすればいいんだろう、と。そこで彼が導き出した答えは、ぎこちない笑顔を維持したまま不安そうに立ち去るというものだった。
彼は同僚たちに対して、会釈程度に頭を下げる。それからパトリックは彼のデスクに一旦戻ると、必要最低限の私物をまとめてオフィスを後にした。そうして彼は昨日も行ったキャンベラ国立大学病院に、また向かって行った。