『ああ、たしかに言い出しっぺは俺だよ』
両腕を組むカルロ・サントスは、あの日にそう言っていた。何もお前がやる必要はないだろう、と。そして彼はこうも言った。
『お前には荷が重すぎる。それに、再発するかもしれないだろう?』
パトリックはその言葉に首を傾げた。
『再発って、何のことです?』
しかしカルロ・サントスは答えない。彼は俯き、瞼を閉ざし、口を噤んだ。――かくしてパトリックは、あの作戦に踏み切ったのだ。
作戦は、恐ろしいほど予定通りに進んでいった。女児に扮したパトリックが街中をおどおどとひとりで歩いてみれば、あっという間に犯人の男――連続女児誘拐殺人事件を引き起こしていた男、イーライ・グリッサム――に捕まった。頭には麻袋を被せられ、両手は麻縄で縛られて、彼はペンキくさいミニバンの中に押し込まれたのだ。
ガタガタと揺れる車内。麻袋のせいでパトリックは外の景色を見られなかったし、車内がどのようになっているのかも見られなかった。聞こえてくるのは、カーラジオから流れる当時人気だったベトナム人アイドル歌手の新曲と、音程もリズムもあっていない男の鼻歌ぐらい。犯人が運転する車両を追跡するパトカーのサイレンは、残念ながら聞こえてこなかった。
それも仕方ないことだった。パトリックが決行した作戦は、新人の捜査官が上司に意見を仰ぐことなく独断で踏み切ったものだったのだから。応援が来るという期待をパトリックは始めから持ち合わせていなかったし、それでいいとすら彼は思っていた。端から無謀な作戦だった。生きて帰れるなど思ってもいなかった。これで人生が終わるなら、それでも構わないと思っていた。犯人と相討ちになれば、それが一番だと考えていたからだ。
やがて車の揺れが止まる。前方から車床が軋む音が聞こえ、パトリックは他人が近寄ってくる熱気を正面から感じた。
犯人が、目の前に居る。――パトリックは目で見ずとも、それを感じた。だが不思議なことに、そのときは「何かをしてやろう」という気が起きなかった。
男の荒い息遣いを麻袋越しに耳元で感じた。ペンキのにおいと共に、男が口から発する悪臭も感じた。そしてパトリックは麻袋の中で瞼を閉ざし、諦観した。それはどこか覚えのある、何度も味わったことがあるような気分だった。
するとパトリックの横から、リュックサックを漁るがさごそという音が聞こえてきた。続いて、男の卑しい嗤い声が聞こえてくる。そして男は言った。
『パトリシア・ヴェラスケスちゃん?』
パトリックが偽造した名札に書かれた名前を、男は読み上げる。それから男はパトリックの頭に被せていた麻袋を取り払った。
その瞬間、パトリックの中で諦観は怒りに変わった。その男の顔が、別の誰かに見えたのだ。
それが誰であるのか。名前も忘れたし、どこで会ったのかも忘れてしまったが。しかし覚えがある別の女の顔に変わって見えたのだ。
そして怒りに突き動かされたパトリックは縛られていなかった足を振り上げると、男の顔に強烈な蹴りをお見舞いした。男は大きな音を立てながら倒れ、呻き声をあげる。そしてパトリックは怒りに任せて両手を縛っていた縄を引きちぎると、スカートの下、太腿に携帯していた拳銃をすかさず抜き、座席に倒れ込んだ男の首筋に当てた。それからパトリックは背中の後ろに忍ばせていた手錠を取り出すと、それを男の両腕に嵌める。それからパトリックは男に言った。『まんまと引っ掛かりやがったな、グズ野郎』
『……ッ……?!』
『パトリシア・ヴェラスケスだなんて名の少女は存在しない。私は連邦捜査局特別捜査官、パトリック・ラーナーだ。お前を逮捕する』
そのときのパトリックは、拘束した男をハチの巣にしてやりたい衝動を覚えていたが、しかしそれを必死に抑えつけていた。
何故ならば、パトリックは捜査官だったから。捜査官が犯罪に手を染めるなど絶対にあってはならないこと。ゆえにパトリックはそれをやらなかった。
やがてカルロ・サントスが頼んでいた応援が、男を取り押さえた現場に駆け付けた。そして顔を怒りで赤くしたノエミが現場に来た。顔を真っ青にした上司のトーマス・ベネット特別捜査官も、彼女と共に来ていた。
ノエミはパトリックの勝手な行動に怒り、パトリックの頬を打ったあと、彼の服装を見て噴き出した。
『子供服、それも女の子の格好? ……でも、意外とサマになってる』
そう言うと、彼女は気が済むまで笑い転げた。
その一方、トーマス・ベネット特別捜査官はまずは何も言わず、パトリックを黙って抱き締めた。それから彼はパトリックの頭の上に手を置き、こう言った。
「お前が生きていてくれて良かった……!」
あのとき、カルロ・サントスも他の捜査官らと共に現場に来ていた。しかしそのとき、彼は一切パトリックに声を掛けてこなかった。彼は遠く離れた場所に立っていて、非難するような冷やかな視線をパトリックに送ってくるだけだった。
あのときの彼の目は、パトリックの心を見透かしているようでもあった。
+ + +
パトリック・ラーナー。彼が生を受けたのは、アルストグラン第三の都市であるブリズベン。黒人の母と、黒人と白人の混血である父のもとに生まれた五人兄弟の末子パトリックの肌は、白雪のように蒼白かった。
母のタマラ、父のギブソン、長男のマイケル、次男のマーティン、三女のミランダ、四男のスペンサー。彼ら家族の肌は全員、褐色だった。そう、パトリック以外は、全員が。
けれども両親は、他の兄姉たちと同じ愛情をパトリックに注いでくれた。兄や姉たちも、同じだった。パトリックも同じように、家族のことを愛していた。幼少期は、それでも問題なかった。パトリックは他の子供たちと同様、家族からの愛を受け、何不自由なく育った子供だった。
しかし家族はそうでも、他は違っていた。特に母方の親族は、肌の色が違う子供が一族に居るという事実をひどく疎んだ。母方の祖父母は理解のある人たちだったが、母の兄妹たち――つまり伯父と叔母――は違っていた。パトリックのことを異様なほど忌み嫌っていたのだ。そんな伯父と叔母の子供たちも、彼らと同じ思想を受け継いでいた。
ある年の十二月二十五日の夜、パトリックが三歳だったころ。母方の伯父たち一家が突然、ラーナー家にやってきた。父は不快感を露わにし、母も数年ぶりの兄との再会に困惑していた。しかし両親は帰れとも言えず、伯父一家を渋々自宅に泊めたのだ。
あの日。伯父一家の来訪に戸惑っていたのは両親だけではなかった。パトリックの兄姉たちも動揺だった。
なにせ兄姉たちは皆、伯父の一人娘である十四歳のアシュレイが大嫌いだったのだ。アシュレイはいつもお高くとまっていて、常に人を見下していた。そんな彼女のことを、彼女と同い年だった長男のマイケルはひどく嫌っていた。だが不幸なことにアシュレイは、マイケルに一方的な好意を寄せていたのだ。
伯父一家が家に来たことを知った兄姉たちは、一目散に寝室へ逃げて行った。パトリックは二男のマーティンに抱きあげられて、寝室へと連れて行かれた。そして寝室に五人兄弟は立て篭もった。誰もアシュレイと遊びたくなかったのだ。
しかしアシュレイは、自分が五人兄弟に嫌われているということを知らなかった。五人兄弟が逃げ込んだ寝室の前に彼女は立ち、ドアを叩き続け、こう言った。そこに居るのは分かってるのよ、一緒にゲームをやろうよ、と。だが誰一人として部屋を出よううとはしなかった。おまけに長男のマイケルはドア越しに、アシュレイへとこう言い放った。高飛車な可愛くない女と誰が遊ぶもんか、と。
その言葉に多感な時期のアシュレイは傷付いた。彼女はわんわんと泣き、自分の父親のもとに逃げて行った。そして彼女は自分の父親にこう告げたのだ。この家の子供たちは私に意地悪をするの、と。アシュレイのその言葉に、彼女の父親である伯父は激昂した。そして乱暴な言葉を伯父は言い放った。
『ここの家の子供の性格がひん曲がっているのは、純血じゃないからだ!』
その言葉に、パトリックら五人兄弟の両親も怒った。母は自分の兄の頬を打ち、今すぐ出て行ってと怒鳴った。父も怒号を上げた。今すぐ出ていかなければ通報するぞ、と。
伯父は言った。ああ、出ていくとも、と。しかし彼が向かったのは玄関ではなく、五人兄弟が立て籠っていた寝室だった。
伯父は寝室のドアを蹴破って、その中に入ってきた。そして五人兄弟の中で一番小さなパトリックに狙いを定めると、伯父はパトリックの首根を掴む。四人の兄と姉は可愛い末弟を伯父に渡すまいと必死の抵抗をしたが、大人の男の力には敵わなかった。
そうしてパトリックは伯父に連れて行かれた。母は息子を返してと泣き叫んだ。だが伯父一家とパトリックを乗せた車は、無情にも走り去って行った。
怒り狂った父も車を出した。長男のマイケルも車に乗り、二人は伯父たちが乗った車を追い掛け走った。
ほかの子供たちと家に残った母は、子供が連れ去られたと警察に通報した。市警が一〇分もしないうちに家に駆けつけ、母と子どもたちは事情を聞かれた。すぐに市警は動き、捜査網が市内全域に敷かれた。速やかな捜索の甲斐あり、連れ去られた三時間後にパトリックは発見された。場所は町の郊外。父と伯父が流血沙汰の乱闘を繰り広げていたところを、近隣住民からの通報を受け現場に急行した警官により発見され、保護されたのだ。
連れ去られていた間、パトリックは酷い目に遭わされていた。肉体的な罰はなかったものの、親しくない親族に囲まれて暴言を吐かれ続けた三時間は、三歳の少年の心に暗い影を落とした。
それからというもの、パトリックは家族に対して引け目を感じざるを得なくなった。家族の中でも自分は違ってしまっているのだ、と。
親兄弟たちは、幼い末子の変化に気付いていた。それから家族はより一層、末子に愛を注ぐようになった。しかし愛を受ければ受けるだけパトリックは引け目を感じ、過保護ともいえる扱いを受けた分だけ、パトリックは孤独を感じるようになっていった。
+ + +
小学校に上がってからというもの、パトリックはより卑屈になっていった。それまでは両親や兄弟という壁があって遮断されていた“周囲の目”という情報に、日常的に晒されるようになったからだ。
同級生はパトリックを指差し、影で囁いていた。あの子の親は本当の親じゃないんだって、と。同級生の親たちが根も葉もないうわさを広めていたのだ。
誰もがパトリックのことを色眼鏡で見た。彼はそんな視線に苛立ちを募らせていた。そして年月が経ち、パトリックも八歳になった頃。陰口は明確ないじめへと変わり、パトリックの青白い肌には痣が毎日のように増えていった。
両親や兄姉たちはパトリックに何度も訊いてきた。学校でどんなことをされてるんだ、と。しかしその度に、パトリックは頑なに真実を言うことを拒んだ。階段で転んだだけ。それが彼の決まり文句になっていた。
彼は“無関係な”親や兄姉たちに迷惑を掛けたくなかったのだ。だって全ては自分のせいで起きているのだから、と。
自分がいじめられているのは、家族と肌の色が違うから。家族にとっても社会にとっても異質な存在である以上、自分がいじめられるのは仕方のないこと。――当時のパトリックはそう思い込んでいた。それが歪んだ認識であるとも分からずに。
両親や兄姉たちは、そんなパトリックにどう対応するべきか悩んだ。そうして二年の時間がだらだらと流れ、パトリックの同級生たちも道具の使い方を覚え始める。そうしてついに、悲惨な事件が起きたのだ。
学校の帰り道。また痣をふたつ増やしたパトリックが、スクールバスを降りて一人とぼとぼと道を歩いていると、前からひとりの若い女がやってきた。栗毛の長い髪を後ろでゆるく束ねていたその女は、パトリックに声を掛けてきたのだ。
そんな女の横には、側面にアイスクリームのイラストが描かれているミニバンが停まっていた。
『どうしたの、坊や。怪我をしてるじゃない。おねえさんが、手当してあげよっか?』
しかし心を閉ざしていたパトリックは、女を無視して通り過ぎようとした。すると女が、パトリックの腕を掴んでくる。
『ねぇ、手当してあげるって言ってるでしょう?』
パトリックは女の手を強引に振り払うと、女を睨みながら言った。自分で出来るからいい、と。女は顔を強張らせた。それから感じ悪く舌打ちをすると、不貞腐れた顔のパトリックの髪を掴み上げる。女はミニバンのドアを開け、その中に放り込むようにパトリックを乗せた。
女はすぐにドアを閉め、次にパトリックの口にガムテープを張り、頭に麻袋を被せる。それからパトリックが抵抗できないように両手首と両足首を朝縄で縛りあげると、女は車を出した。この間に、パトリックが助けを求めることは出来なかった。というよりも、そんなことを考える思考を彼は放棄していた。
ガタゴトとミニバンは揺れた。カーラジオからは大音量のポップミュージックが流されていて、女は完璧な音程の鼻歌をカーラジオに合わせて口ずさんでいた。パトリックは暴れることもなく大人しく座ったまま、音楽を無心で聴いていた。もう自分は終わりなんだと、観念していたのだ。
そうして三時間が経ち、夕暮れが夜に変わったころ。激しく揺れていたミニバンが停まり、パトリックは女に担ぎあげられ、ある場所に連れ込まれた。両手足を縛っていた麻縄を女は切ると、パトリックをとても座り心地の悪い椅子に座らせる。今度はその椅子の肘置きと脚に、両手足を縛り付けた。そして誘拐されてから初めて、麻袋が取り外される。パトリックは、自分が居る場所を観察した。
そこは閉ざされたガレージのように思える場所だった。しかし外からは民家がありそうな物音が聞こえてこない。そしてパトリックは察した。ここは市街地から離れた場所できっと助けは来ない、と。
そして女はパトリックの口からガムテープを剥がすと、不気味に笑いながら言った。面白い子だね、と。
『普通の子なら、泣いて叫んで大変なのに。君が初めてだよ、ここまで一度も騒がなかった子は。君となら、じっくり楽しめそう。ねぇ、君もそう思うでしょ。パトリック』
女はそう言いながら、パトリックにある写真を見せつけた。それは家族写真だった。女は左から順番に家族の顔を指でなぞり、笑う。それから彼の目の前で写真をびりびりに引き裂いた。
『ねぇ、よく聞いて。今から私は、君に痛いことをするよ。けど、泣き叫ぶのはダメ。そしたら君の家族を酷い目に遭わせちゃうよ?』
パトリックは光を失くした目で女を見る。しかし彼は何も言わない。すると女は『よく出来ました』と言って、鈍く光るものを右手に持った。
『良い子には、ご褒美をあげなきゃね。受け取って、パトリック』
女は右手に持った金槌を振り上げ、椅子に座るパトリックの左足の太ももを目掛けて振り下ろした。金属がもたらす重い一撃は強烈な痛みを全身に伝え、小さな体はがくんと震えた。しかし歯を食いしばるパトリックは、痛みに耐える。女はまた笑った。
『サイッコーね、君! ははっ、掲示板サイトで君の写真を見つけたとき、一体どんな風に泣き叫ぶのかなって思ったけど、予想を見事に裏切ってくれたね。私ね、たぶん君のことをずっと探してたんだよ。君みたいな、強い子を。あはは! まるで猟犬くんを始めて見たときと同じ気分だよ! ――あなたも、彼みたいに強くなれるかなぁ?』
二発目が来た。パトリックの目から、涙がこぼれた。それから間髪を入れずに三発目が来て、四発目、五発目も立て続けに小さな体を襲った。だが十四、十五発と続いても、パトリックは叫び声を一度も上げなかった。そして十六発目、ついに痛みを感じなくなった。
繰り返し金槌を振り下ろす女は、パトリックに凄絶な笑みを投げ掛けていた。パトリックは無表情で女を見つめていた。夜が明け、朝が来て、昼になって日が沈んでも、助けは来なかった。そして夜が来て、ようやく誰かが来た。パトカーのサイレンが聞こえてきて、銃声が鳴って、ガレージにあの女以外の人間が来たのだ。
連邦捜査局だ。そう叫ぶ男性の声を耳にしたパトリックは声が聞こえてきたほうを見る。前方には防弾チョッキを着た男の姿が見えており、彼はパトリックに近付いて来ていた。
男はパトリックの目の前に来ると、携帯していたナイフで手足を縛っていた縄を切る。それから男は青紫色に変色し、腫れた両足を見る。そして無言でパトリックを抱き締めると、頭を撫で、耳元で囁くように言った。
『……生きていてくれて良かった』
男の声は、どこか涙ぐんでいた。そして男は名乗った。
『俺はトーマス・ベネット。トムだ。君は、パトリックで間違いないね?』
パトリックは男の問いかけに、首を傾げさせた。
『……パトリック……?』
自分の名前、パトリック。なぜだかその時、その名前が彼自身にしっくりこない感覚がしていたのだ。
+ + +
十五歳になったパトリックは、自分の身に起きたことを全て忘れていた。五年前からずっと毎週金曜日は両親に連れられ、近所の心療内科にパトリックは連れて行かれるのだが、五年が経った今となっては自分が何の治療を受けているのかも分からなくなっていた。
彼の主治医は胡散臭いヒゲを生やした精神科医クストディオ・サントス。主治医は、このどうしようもない青年に頭を抱えていた。声変りもしておらず、見た目はまるで十歳の小学生なのに、中身は異様に大人びているこのちぐはぐな青年の扱いに、非常に困っていたのだ。
そして主治医の死角になる場所では、主治医の息子がこそこそと動き回り、診察室を覗き見ていた。パトリックと同い年である息子――主治医の長男であるカルロ・サントス――は、他のどの患者よりも奇妙なこの青年を興味深そうによく観察していた。
そして今日も、波乱のカウンセリングが開幕した。
『こんにちは、リッキー。新学期が始まって二週間が経過したが、学校はどうだい? 友達とはうまくやっているかな』
本題と関係のない雑談からカウンセリングは始まる。にこやかな笑みを浮かべるクストディオ・サントス医師は、無表情の青年に話しかける。するとパトリックはぴくりとも表情を変えず、これだけを言った。
『ええ、まあ』
いつもと同じ反応だった。心をどこかに置いてきたような目をしているパトリックは、目の前の人間や会話に興味を示していない。心の中は空っぽで、自分自身にすら興味関心は向いてないようだった。彼が漂わせる雰囲気は超然としていたが、同時に虚しさも感じさせなくもない。
それでもクストディオ・サントス医師は会話を膨らませようと問いを重ねていく。『たとえば、どんな風に?』
『普通に』
『もっと、具体的なことを聞かせてくれないかな?』
具体的に。そう切り出すと、パトリックは意地悪な本性を露わにする。彼は主治医であるクストディオ・サントス医師に“具体的なこと”を語るのだった。
『昨日、体育の授業の前。エイブラハムってやつが女子更衣室に忍び込んでいるところを見つけて、女子の下着を盗んでいるところを押さえました。その様子を動画で撮影して、それで』
『……ああ、うん、分かった。よく、分かったよ』
ここまでは、いつも同じだった。
学校のことを訊ねるとパトリックの口からは、とても彼の両親には聞かせられない話が飛び出してくる。基本的には、誰々のどういう現場を押さえて、こんな弱みを握ってやった、というものだった。
だがクストディオ・サントス医師は、それを頭ごなしに否定することも出来なかった。情報を掴み、相手を事前に脅しておくという技は、この青年が世を渡り歩くために身に付けた術であるからだ。
決して褒められたものではない行為だが、これがなければ彼は痣だらけの日々に戻ってしまうわけで。今や高校の一大派閥を率いる帝王の座に君臨しているというパトリックにとって“情報”とは、敵ばかりの世界を生き抜くための力だったのだ。
そんなこんな、パトリックという青年には頭を悩まされることばかり。そしてカウンセリングが荒れるのはここからだ。
『それじゃあ、話題を変えよう。君は、栗毛の女性を見るたびに、心臓が締め付けられるように痛くなると言っていたね。どうしてそう感じるんだろう。君はそれについて、どんな見解を持っているかな』
『……』
それまで無表情だったパトリックの顔が曇る。ああ、今日も始まってしまった。クストディオ・サントス医師は胃がキリキリと悲鳴を上げるのを感じていた。
『……知りません。興味無いです』
パトリックはそう答えると視線を自分の足下に向け、しばらくのあいだ沈黙する。
『…………』
クストディオ・サントス医師にとって最も悩ましい事がらは、この患者が何も話してくれないことだった。
パトリックとの付き合いはかれこれ五年目になるクストディオ・サントス医師だが、彼がパトリックについて知っていることは実に少ない。両親から聞いたものと、治療を開始したばかりの頃に断片的にパトリック自身が語ってくれた情報しか、彼の手元になかったのだ。そのうえ語られたパトリックの記憶は、実に曖昧なものだった。お陰でクストディオ・サントス医師には、この青年が何に頭を悩ませ、どうしてこうなってしまったのかの全容が掴めていなかった。
幼少期に、自分に対して批判的な伯父に誘拐され、言葉の暴力を密室で受け続けたこと。それは彼の両親から聞き出したもので、患者自身の口から聞いたものではない。だがクストディオ・サントス医師は感じていた。他に何か“事件”に巻き込まれていたのでは、と。
しかしパトリックは多くの記憶に蓋をしている。その何かを思い出すことが困難になってしまっているのだ。挙句、パトリックの家族も何かを隠しているような素振りは見せるが、確信に至るような情報は提供してくれない。
とはいえクストディオ・サントス医師も“事件”に見当がついていないわけではなかった。
『……』
パトリックがここに通院し始めるその数か月前に起きた、子供が誘拐され、両足を奪われたという事件。その被害者がパトリックなのではないかとクストディオ・サントス医師は見ている。パトリックの両足は大腿の半分より下がなく、義足で生活しているという点。そしてパトリックが義足に関する話を嫌がるということから、そうではないかと見当を付けているのだが……――とはいえ、確信があるわけではなかった。
真相を突き止めるために、根掘り葉掘りと過去を掘り下げているこの行為。これはパトリックという青年をいたずらに傷付けているだけのような気がする。クストディオ・サントス医師はそうも感じていたが、しかし問題を解決するための鍵となる情報が掴めていない以上、致し方ないことではあった。
『リッキー。君は今、何を考えてるのかな』
クストディオ・サントス医師は恐る恐るパトリックに声を掛ける。するとパトリックはぴしゃりとこう言い放った。『別に、何も』
『……そ、そうか』
うぅむ、とクストディオ・サントス医師は腕を組む。すると今日は珍しく、パトリックのほうから話しかけてきた。『先生』
『なんだい?』
『これ、意味あるんですか』
ついにパトリックの口から飛び出してしまった言葉に、クストディオ・サントス医師は渋い表情をする。五年間、パトリックが我慢し続け一度も口にしてこなかった言葉が、ついに零れ出てきてしまったのだ。
するとこの言葉を皮切りに火が付いてしまったのか、パトリックはわっと立ち上がる。顔を険しくするパトリックは、クストディオ・サントス医師を責め立てた。
『それに、僕のどこがおかしいんですか。どうして僕はこうも毎週毎週、無意味なカウンセリングをされるんですか。ねぇ、どうしてなんですか、先生! こんなことに費やす時間を、僕は勉強に回したいんですけど。教えてください、ねえ、先生!!』
クストディオ・サントス医師はいきり立つパトリックを宥めようとするも、怒りを遂に爆発させたパトリックに何かを言えば言うほど、火に油を注ぐこととなった。
そしてクストディオ・サントス医師は、ずっと使いたくてうずうずしていた切り札を遂に切る。
『……分かった、リッキー。治療を中断しよう。だから、その、お父さんとお母さんを呼んできてくれるかな』
不貞腐れた顔をしたパトリックはクストディオ・サントス医師の顔を見る。そして彼に背を向け、待合室で待っていた両親を呼びに行った。
その後クストディオ・サントス医師は、診察室の中に入ったパトリックの両親に治療を中断することを提案した。彼の両親は不審げにクストディオ・サントス医師を見つめたが、クストディオ・サントス医師はあくまでもこう言った。こうすることが息子さんのためです、と。
『息子さんは辛い記憶を封印することで、前を向こうとしています。無理に掘り起こそうとすればするほど、彼は傷付いてしまいます。私は、思うんです。この場合は無理に治療をする必要はないのでは、と』
『先生、それはあまりにも無責任じゃ』
『しばらく様子を見てみましょう。もし彼の解離症状が落ち着き、遁走が無くなるようであれば、治療を終結します。酷くなるようでしたら、また来てください』
無責任だってことは百も承知だ。クストディオ・サントス医師は綺麗事を並べながら、汗ばんだ掌をぎりっと握りしめる。そんな父親の情けない背中を、物陰からカルロ・サントスは見ていた。
『リッキー。最後に、これだけは覚えていてくれ。思い出せないことは、なにも恥ずかしいことじゃないよ。思い出せないってことは、心が要らない記憶だと判断して、記憶を棄ててしまったからなんだ。棄ててしまったものを振り返る人間は、とても愚かな人間だ。……君はきっと賢い人になるだろうね』
その言葉を聞いた、パトリックはむっとした表情を浮かべる。そして彼は両親に連れて行かれ、心療内科を後にした。
カルロ・サントスは、その様子を全て見ていた。彼はずっと昔から、パトリックのことを見ていたのだ・
*
「ああああっ!!」
悪夢にうなされていたパトリックは、大声を上げながら飛び起きる。そして飛び起きてすぐにまた、彼は大声で叫んだ。「――自宅じゃないッ?!」
「安心しろ。ここは俺の家だ」
パトリックは声がしたほうを向く。するとパトリックの右横には、上裸のカルロ・サントス医師が毛布を被って寝ころんでいた。
パトリックは一度深呼吸をしてから、辺りを見渡す。そして彼は状況を整理しようとした。
パトリックが現在居るのは、理由は分からないがカルロ・サントス医師の自宅。そしてパトリックは家主であるカルロ・サントス医師のベッドで寝ていたようだ。
次にパトリックはアイリーンを探す。彼女ももしかすると居るかもしれないと、そう思ったからだ。
「……んなキョロキョロして。どうしたんだよ、リッキー」
カルロ・サントス医師は大あくびをしつつ、間延びした声でそう言いながらゆっくりと起き上がる。眠そうに眼をこするカルロ・サントス医師は、パトリックが思っていたことを言い当てた。「アイリーンを探しているのか?」
「……えっ、まあ」
「彼女ならお前の家だよ。……ったーくよ。リッキー、お前もしや昨晩のことをなにも覚えてないな?」
垂れ目が眠気により一段と垂れさがっているカルロ・サントス医師は、ぐでーっとしたシャキッとしない目でパトリックを見る。そして同じくカルロ・サントス医師を見返すパトリックは正直に答えた。「全然覚えていないんですけれど。えっ……何があったんですか」
「カァーッ。出たぜ、パトリック・ラーナーの十八番。遁走から健忘のコンボだ。十五歳で終わったかと思ったが、再発しやがったな。はぁー、まったく。こんな調子でASI局員が務まるのかぁー?」
馬鹿にするような口調でカルロ・サントス医師は言うと、彼はベッドから降りる。ブリーフ一枚でスリッパを履くという奇怪な格好をするカルロ・サントス医師は寝室を出て行くとリビングへ向かっていく。そして彼は歩きながら大きな声でパトリックにこう言った。
「コーヒーを淹れるから、リビングに来い。朝飯を作りがてら、昨日お前が晒した醜態を説明するからよ。――あっ、ちなみにコーヒーだが、かなり酸化してきたインスタントのやつしかない。悪く思うなよ」
「……醜態?」
「いーから、早く来い。あっ、そうだ。アイリーンが、局に掛けあって今日は休みにしてくれるって言ってたぞ。っつーわけだ、リッキー。今日は丸一日、じっくり腰を据えて話し合おうじゃねぇーか」
嫌な予感がする。パトリックはみぞおちの辺りが痛み出すのを感じつつも、重い足取りでリビングルームに移動した。
カルロ・サントス医師が住んでいるのは、独り暮らしにしては豪華すぎるように思えるマンションだ。ASIが宛がってくれたパトリックの新居もそれなり立派だが、カルロ・サントス医師の自宅はそれの比にすらならない。
一部屋一部屋が広く、そして部屋の数は多い。ゲストルームだけで二つもある。それから備え付けの家具も高給そうな気配を発していた。そしてリビングルームとひとつながりになっているキッチンはとにかく広く、設備が充実している。冷蔵庫は業務用と遜色ない大きさで、カウンター裏に入っているオーブンはとても性能が良さそうだ。
パトリックはリビングルームに立ち入ると、豪華なキッチンとそこに立つ友人を眺めつつ、こう思う。良い暮らしをしているんだな、と。きっと友人は、隣人の声など聞こえてこない暮らしをしているのだろう。
「そこにでも座って待っていてくれ」
広い部屋に呆気にとられるパトリックの様子に気付いたカルロ・サントス医師は、ぼうっと立ち尽くしているパトリックにそう声を掛ける。続いて彼はリビングルームの中央に設置されたダイニングテーブルを指差した。
パトリックは指定された場所に座り、ブリーフ姿でキッチンをうろつく医者を観察する。すると、カルロ・サントス医師はこう切り出した。
「まずは昨晩の話からしようか」
カルロ・サントス医師は食器棚からマグカップをふたつ取り出すと、それをキッチンカウンターの天板に置く。続いて、彼は粉末のインスタントコーヒーが入った瓶をカウンターの下から取り出すと天板に置き、また食器棚に戻ると今度はティースプーンを取り出す。そして彼はインスタントコーヒーの瓶を開けると、ティースプーンで瓶の中からコーヒーの粉をすくって出し、それをマグカップの中に放り込んでいった。それから彼はキッチンカウンターの天板、その角に置かれていた角砂糖の小瓶を手繰り寄せると、小瓶の蓋を開ける。次に彼は電子ケトルの電源を入れながら、片手間にお喋りを続けた。
「昨日の夜、十一時半すぎぐらいか。お前の電話番号から俺の携帯宛てに連絡が来たんだ。俺はてっきりお前かと思って電話に出たんだが、ところがどっこい、声の主はお前じゃなかった。女だったんだ」
「……アイリーン、ですか」
「ああ、そう。アイリーンだ。そんで彼女が随分と焦った様子の声で言ってきたんだ。お前がいつの間にか家から消えていたってな。帰宅してすぐシャワーを浴びに行ったかと思ったら、水を出しっぱなしにしたまま、家から居なくなったそうだ」
「……?!」
「そこで彼女は俺に連絡してきたんだ。なぜ彼女が俺のことを知っているのかについては、ちと奇妙だったが……彼女は、お前が俺の家に来ていないかって俺に訊いてきたんだよ。そして彼女から話を聞いた俺は真っ先に遁走を疑って、お前を探しに出た。夜中からな。幸いお前が向かいそうな場所に見当はついていたから、すぐ見つけられたが」
遁走。それはある日突然、人間が辛い現実から逃れるために突然蒸発してしまう行為のことを言う。そして解離という病態から引き起こされる遁走の場合、蒸発した者は“自分が誰であるか”という自己同一性を忘れてしまうことがあるのだ。
また解離性遁走の厄介なところは、傍目には「異常である」ということに気付かれない点だろう。多くの場合、病者はたとえ記憶が抜け落ちていたとしても、日常的な動作は普通に行える。車を運転したり、バスに乗ったり、切符を買ったり、そういったことを自然に行えるのだ。ゆえに不審な行動をする者は少なく、彼らの傍を通り過ぎる市民は、記憶が抜け落ちている者が周辺に居るだなんてことに気付けないのだ。
そしてパトリックが起こしていたのは、まさに解離性の遁走だった。
「アイリーンもお前のことを探す気でいたようだが、俺は彼女には無理だと思った。あと、真夜中にレディーを一人で外出させるわけにはいかない。だから代わりに俺が、お前を探して保護すると彼女に約束したんだよ。そして俺は、その約束を果たした。だからお前は今朝、俺の家のベッドで眠っていたわけだ」
「……その。私はどこで、何をしていたんですか?」
「キャンベラの町を、ただジョギングしてたな。ここいらに住んでいる公務員にとって定番のジョギングコースを、お前は走っていた。お前は走りながら、耳にイヤホンを着けて、十五年前に流行ったポップスを聴いていた。そして俺がお前に話し掛けたら、この俺に対して、まるで初対面かのようなよそよそしい態度をとってきやがってな。試しに俺がお前の名前を訊ねてみりゃ、お前は黙りこくって首を傾げた。こりゃ駄目だと思って、俺は無理を言って強引にここへ連れ帰って来たんだよ」
「……全く記憶にないです。私が、ジョギング?」
「だろうな。……これでお前を保護するのは何度目になることやら。本当に、なぜお前が捜査官になれてASI局員に転身できたのかが理解できないよ」
そう言いながらカルロ・サントス医師は、できあがった即席コーヒーをパトリックの前に置く。そしてパトリックは再度小首を傾げた。何度目とカルロ・サントス医師は言ったが、しかしそんなにこの男の世話になっていただろうか、と。
するとカルロ・サントス医師は渋い顔をしながら、不思議そうに首を傾げているパトリックを見る。カルロ・サントス医師はコーヒーをひと口だけ啜ると、こう言った。「つっても、覚えてるわけがねーよな。……お前ってさ、十代前半のときはやたらめったら遁走してたろ。それも決まって、カウンセリングのあと」
「そんなことを、両親が言ってたような。……でも、なぜあなたがそれを知ってるんです?」
パトリックにとってカルロ・サントス医師は、大学時代に知り合った友人だった。大学で初めて出会ったはずなのだ。その頃のパトリックは心療内科に通っておらず、精神も安定していた頃である。にも関わらず、心療内科に通っていた時代を知っているかのようなカルロ・サントス医師の口ぶりに、パトリックは違和感を覚えていた。
そんなこんなで不思議がるパトリックを見て、カルロ・サントス医師はブッと噴き出す。そして彼はパトリックを指差し、こう言った。
「パトリック・ラーナー。言っとくが、お前が遁走を起こしたときにいつも真っ先にお前を発見して保護していたのは、この俺だぞ。お前は忘れているだろうがな!」
「あなたが?」
「そうだよ、バーカ。俺は、お前の主治医だった精神科医の息子なんだぞ? クストディオ・サントス。五年も付き合いのあったヤブ医者の名前くらい、さすがに覚えてるだろうが」
「……っ?!」
「とはいえあの頃の俺は、親父がカウンセリングしてる様子を盗み見て、悪い手本にしてたくらいでしかなかったからなー。患者に接することはなかったし。覚えられていなくとも仕方がないとは、まあ思う。だが、サントスという姓でだいたい気付くだろ」
カルロ・サントス医師はそう言いながら、パトリックの向かいの椅子に座る。未だブリーフ姿のカルロ・サントス医師は、パトリックをじーっと見つめた。その一方でパトリックは視線を正面から受け止めることができず、少しだけ下に顔を向ける。
パンツ一丁の男が、目の前で真面目な話をしようとしている。このシチュエーションが、パトリックには滑稽に思えて仕方なかったのだ。だがカルロ・サントス医師は真面目な話をするのだった。
「それでだ、リッキー。俺の親父がこんなことを言ってたのを、覚えているか。思い出せないことはなにも恥ずかしいことじゃない。思い出せないってのは、心が要らない記憶だと判断して、記憶を棄ててしまったからだ」
「ええ、覚えています」
その言葉はパトリックの治療が終結したとき、主治医の男が――カルロ・サントスの父親である、クストディオ・サントス医師が――最後に言ってきた言葉だった。
パトリックにとってあの主治医は、あまり良い印象のない男だった。五年も続いたあの治療に果たして効果があったのか、それが未だに分からないからだ。
けれども彼が最後に言ってくれた言葉があったからこそ、パトリックは今まで生きてこられたようなもの。忘れること、思い出せないことは、別に悪いことじゃない。なにか思い出せない記憶があったとしても、自分にそう言い訳することができたからだ。
しかしブリーフ姿の医者は、自分の父親が過去に発した言葉を真顔でぶった斬ってみせた。「あの言葉こそ、俺の親父がヤブ医者だってことの証明だ」
「えっ……」
「人間ってのは、自分の過去を振り返って反省するからこそ正しい方向に進んで行けるものだと、俺は思ってるんだ。だから記憶に蓋をし、目を背けることは、恥ずかしい行為なんだよ。記憶に蓋をしたところで実際に起こったことは変えられないし、それらは一生付いて回る。影のようにな。今のお前のように記憶から逃げ回っているようじゃ、過去に足を引っ張られていつか道を踏み外すことになりかねない。だから、己の過去を受け止めなければいけないんだ。たとえその過去が心の許容範囲を越えてしまうようなものだとしても、しっかりと受け止め、けじめをつけなきゃならん」
「……ええと、その……」
「要するに俺は、親父が無責任に中断した治療を再開する。お前が今後もASIに居続けるなら、これは必要なことだ」
カルロ・サントス医師が毅然と言い放った言葉に、パトリックは肩を竦める。それは嫌だとパトリックは感じていたのだ。そんなパトリックの様子を見ると、カルロ・サントス医師は続けてこうも言った。
「とはいっても、お前は治療に乗り気ではない。カウンセリングというかたちをとっても、お前は沈黙を貫き通すだけだ。だから、今回は少々荒っぽい方法で行く。お前の記憶を容赦なく掘り起こしていくが、悪く思わないでくれ。これは全て、お前のためだ」
そう言うとカルロ・サントス医師は、座ったばかりだった椅子から立ち上がる。そしてパトリックの右横の椅子に移った。
「始めに、長年お前のことを観察してきた俺の見解を聞いてくれ。お前は、特になにも喋らなくていい。俺が訊ねたときにだけ、イエスかノーで答えてくれ。分かったな?」
パトリックは多少ビクつきながら、こくりと首を縦に振る。そうしてカルロ・サントス医師の荒療治が始まるのだった。
「まず、お前の家庭環境についてだ。両親や兄姉たちとの仲は良好。お前も家族に対し、あまり不満は抱いていないだろう。だが引け目は感じていた。違わないか?」
「ええ、そうでした」
「それは、伯父に誘拐された件が引き金か?」
「……」
「リッキー?」
「……ごめんなさい。それは、覚えてないです」
「ふむ、そうか」
幼いころ、自分は伯父に誘拐された。両親からそのような話を、パトリックは聞かされたことがあった。車で攫われ、数時間も連れ回されたという。しかし物心も付くか付かないかという頃であったため、パトリックの記憶には残っていなかった。
……というより、記憶を封じ込めてしまったのかもしれない。
「それじゃ次に行こう。お前は家族の中でも自分は肌の色が違うから、異質の存在であると思い込んでいた。そして家族から愛を注がれること、守られることに引け目を感じていた。更にお前は、異質である自分は他から虐げられることは当然のことであり、悪いのは自分だと思い込んでいた。そうだろう?」
「現に、そうでしょう?」
パトリックがそう答えると、カルロ・サントス医師は眉間に皺を寄せる。しかしパトリックには、彼が眉間に皺を寄せた意味が理解出来なかった。するとカルロ・サントス医師は言う。「おい、リッキー。本気で、そう思ってるのか?」
「昔から、なんとなく感じてるんです。この世界は私のような存在を受け入れてはくれないと。家族が所属しているコミュニティに私は加われないし、そこは居心地が悪い。それに集団の中に居ると気が落ち着かない。ひとりでいる方が色々と気楽で……」
パトリックの傍には、いつも人が居た。それは敵であったり、家族であったり、知り合いであったり、同僚であったり、敵であったり。しかしどれだけ人に囲まれていようと、彼の隣には常に孤独があった。拭うことができない人間不信、緩めることができない警戒は、必ず心の中にあった。
世界はいつだって、彼の敵だった。しかし、ブリーフ姿の医者は言う。
「いいか、よく聞け。その答えは、ノーだ」
「……」
「この世界は在るだけだ、万物を受け入れも拒否もしない。それに人間、生きてりゃ居場所なんてどこにでもある。お前はただ見失っているだけだ。そしてコミュニティなんて幻想だ、そんなもんありゃしない。みんな、存在しないから求めているにすぎないんだよ。それに俺はいつでも、お前の味方だ」
「…………」
「お前はな、病気なんだよ。複雑性の心的外傷後ストレス障害といわれているものだ」
心的外傷後ストレス障害。その言葉を聞いた瞬間、パトリックの中で何かが弾けた。だが異変を察しながらも、カルロ・サントス医師は言葉を止めない。
「伯父に誘拐された事件をキッカケに、お前の認知は徐々に歪み、歪みが対人関係にストレスをもたらすようになった。そして小学校でお前は、両親と肌の色が違うことを理由にいじめられるようになった。それによってお前は、人間不信になっちまった。周囲の注目を集めないように、他者の顔色を必要以上に窺い、環境に溶け込むクセも付いた。どんな環境にも程よく適応する能力を、身に付けたんだ」
「……」
「そして十歳のとき、お前はとんでもない化け物に捕まった。山奥に誘拐され、丸二日間も監禁された。椅子に手足を縛りつけられ、食事は何も与えられず、全ての言葉を発することを許されなかった。痛みだけを、延々と与えられ続けた。両脚を、何度も金槌で打たれた。太腿を左右それぞれ三回ずつ、膝から下を四十五回ずつ。だがお前は痛みに耐えた。いや、お前はそのとき感覚を捨てたんだ。そうして生き延びようとした。それは防衛反応だ。だがそのとき、お前は度王子に壊れた」
「……そんな事件なんて、知りません。そんな話なんて、聞いたことは……」
「連邦捜査局の特別捜査官が犯人を射殺し、ボロボロのお前を保護したとき。お前の両脚は腫れていて、一人で立てるような状態ではなかった。痛いだなんてもんじゃあないだろう、普通は。しかし保護されたお前は、痛いともなんとも言わなかったそうだ。泣きもしなかったらしい。そして自分の名前も、思い出せなくなっていた。……お前を見つけ保護した捜査官の名前を、お前はよく知っているはずだ」
「…………」
「トーマス・ベネット捜査官。ノエミの上司、お前の元上司だ」
何かを思い出すことを脳が拒否しているかのように、パトリックの頭が痛くなった。鳩尾のあたりが、内側から針で刺されているかのようにギリリと痛んだ。胸が、心臓が、締め付けられているかのように苦しい。息をすることが苦しかった。
だがそれらは、心情の変化を表す言葉ではない。体の不調だ。感情に与えられている固有名詞ではなかった。
「お前は俺の親父とのカウンセリングの中で、栗毛の女性が怖いと言っていた。それはお前を痛めつけた犯人が、栗毛の女だったからだろう? しかしお前の元婚約者ジークリットは、栗毛の女だった」
「…………」
「それにお前は連邦捜査局時代、やたらめったら危険に飛び込んでいくことが多かった。まるで飛んで火に入る夏の虫だよ」
「…………」
「お前のやっていたことは自損行為とも言うさ。ヤブ医者なら、そう判断するだろう。だが、お前は違う。死にたくてあんな無謀な真似をしているわけじゃない」
「………………」
「再体験したかったんだろう。痛みは解離を誘発してくれる。自分が自分でなくなる瞬間は現実を忘れられるからな。それに、お前にとって虐げられることは日常だ。分かるか、リッキー。お前は正常じゃないないんだ。病気のせいで、スリルに飢えたどマゾ野郎になってんだよ」
カルロ・サントス医師に両肩を掴まれ、パトリックは激しく前後に揺すぶられる。そんなパトリックの目は虚ろで、意識はどこかに飛んでいた。
カルロ・サントス医師はパトリックの頬をひっぱったり、抓ったり、ぺちぺちと軽く叩いたりするも、パトリックの反応は何もない。そして彼はパトリックの肩に手を置きながら、ぼそりと呟いた。
「あちゃー、こりゃ長くなりそうだ……」
*
そうして、どれだけの時間が過ぎたことだろう。
「どうだ、リッキー。二十年分の澱を吐き出して、スッキリしたろ」
「……ごめん、なさい。あの、そのっ、本当に……」
「これが俺の仕事だ。だから謝るな。ほれ、ティッシュ」
「……ありがとうございます……うぅっ……」
「っつーか、お前の泣き顔は本当に子供だな。子供にしか見えん」
「……うるさい。黙れ、ヤブ医者。さっさと服を着ろ」
「おぉ、その調子だ。俺の知ってるパトリック・ラーナーが戻ってきたぞ」
カルロ・サントス医師から渡されたティッシュで涙を拭い、鼻をかむ。目元を赤く泣き腫らしたパトリックは、血走った目でカルロ・サントス医師を睨んだ。
外は日も暮れ、夜になっていた。空きっ腹は痛み、マグカップの中に中途半端に残されたコーヒーはとっくに冷たくなっている。カルロ・サントス医師は依然ブリーフ姿のまま、鼻をかむパトリックを見て笑い転げていた。
「とりあえず、これで俺からの拷問は終了だ。よく頑張ったよ、リッキー」
笑い涙を指で拭いながら、カルロ・サントス医師は言う。パトリックは持っていたティッシュをゴミ箱に投げ入れると、新しいティッシュを取り、こう言った。「……もう、こんなこと二度とやりたくないです」
「俺もだよ。しょっちゅう意識を飛ばして逃げちまうような患者、お前が最初で最後であってほしいもんだ」
カルロ・サントス医師はそう言い笑いながら、寒いと上裸の身をぶるりと震わせる。こうして十年前に放棄された治療は、かつての主治医の息子によって終結されたのだった。
前半の六時間。これはカルロ・サントス医師にとって苦行でしかなかった。
まず、前半の始め一時間。カルロ・サントス医師は、パトリックが忘れている過去を彼に言い聞かせ、思い出させるというより覚えさせようとした。しかし苦痛の記憶に行きあたる度にパトリックは耳を塞ぎ、思考を遮断した。何度も何度もパトリックは逃げたのだ。
そしてカルロ・サントス医師は、この逃げ癖をどうにかせねばと考えた。そこで試みたのは、解離の患者によく用いられる手法『グラウディング』だった。
今、ここに自分は居て、地面もしくは床に足をつけている。その自覚が有るか無いかでは、精神の安定感は劇的に変わるものだ。地に足をつけるという行為は、スピリチュアルのような意味を抜きにしても、実はかなり重要なことなのである。
だが解離の患者は、そういった意識が薄れている者が多い。解離の患者がよく起こす離人症では、視覚・味覚・嗅覚・触覚・聴覚の五感が一時的に失われてしまうことがあるからだ。パトリックも、そうだった。
そこで急遽試みた『グラウディング』でカルロ・サントス医師は、パトリックの薄れている五感を元に戻すことに専念した。パトリックが持っていた足を組むクセを止めさせ、両足をしかと床につけるようにと意識させた。気を抜くとすぐに猫背になる姿勢を矯正し、ぺちぺちと頬を叩いたり抓ったりして適度な刺激を与えたりもした。
そうして粘りに粘って五時間半。カルロ・サントス医師が氷を詰め込んだビニール袋をパトリックの膝の上に置いたとき。パトリックの表情が変わり、奥底に封印されていた記憶が急に溢れ出て、止まらなくなったのだ。
後半の四時間、カルロ・サントス医師は聞き役に徹した。パトリックはぽつぽつと涙を零しながら、思い出した過去の出来事を自分の口から話し始めた。
いじめられ、ひねくれ、いつしか凍りついた心を抱えて過ごした幼少期のこと。両親や兄姉に対して、今でも感じている引け目のこと。ぶつけられ続けた心無い言葉の全てや、浴び続けた冷たい視線の数々。十歳だったときに起きた、あの事件のこと。そして不運にも出遭ってしまったジークリット・コルヴィッツという女性についてと、彼女に対して感じている罪悪感について……。
そして表層に浮かび上がってきた記憶は同時に、当時は解離によって免れた痛みも思い出させた。殴られ蹴られた記憶と共に、傷を負った場所がまた痛んだりした。刃物で切り付けられたり、自分で切りつけたりした古傷からも、血が溢れ出る感覚が思い起こされた。金槌で脚を叩き折られた時の激しい痛みもまた、思い出された。
その昔、痛いと感じたことがあった。生きていることが苦しいと感じていた。全ての他者が怖いと感じていた。だから、何もかもから逃げたかった。だから過去から目を背けて、今まで逃げ続けてきたのだ。
しかし逃げたところで、過去が消えるわけではない。いつかは過去を含めた全ての自分を、受け止めなければいけない時が来る。
パトリックにとって、今日がそのときだったのだ。
「……それにしても、変な話ですよね。私の両脚はあの時と違い、義足になっているっていうのに。何故だか今になって、痛いと感じるんです」
パトリックは未だがくがくと震えている自分の両脚を見ながら、震えた声でそう言う。そんなパトリックの膝下は両脚ともに黒く光っている。金属製の義足が、奪われた脚の代わりを務めていたのだ。
義足には、血管や神経など通っていない。本来は痛みなど感じないはずなのだ。しかし今のパトリックは、繰り返し鈍器を叩きつけられるような痛みを感じていた。それは金槌で何度も何度も打たれ続けたあのときの痛み、その疑似体験だった。
「痛いと感じた記憶を、脳が覚えてるんだ。それを今、脳がリプレイしてるんだよ。ホント、人間の脳味噌ってのは不思議だよな」
これだから臨床医は辞められない。カルロ・サントス医師はそう言い、笑う。すると、笑う彼のお腹が鳴った。そして二人はそのとき、初めて気が付く。
「そういや俺たち、朝からずっと何も食ってなかったな」
「それにあなたは朝からずっと、下着しか身に着けてませんね」
「どうりで凍えるように寒いわけだ」
「なら服を着てください。医者のくせに、風邪ひきますよ」
「医者っつっても、俺は内科とか外科とかじゃない。全くの別物、精神科医だ」
「ごちゃごちゃうるさいですねぇ。とにかく早く服を着てください。トランクスならまだしも、ブリーフは見苦しいですよ」
「分かったよ、分かった。シャツを着てくるさ……」
そうしてカルロ・サントス医師は、服を探しに一時リビングルームを出て行く。と、それとほぼ同時に、パトリックの携帯電話が新着メールの受信音をチャリンと鳴らした。
パトリックは受信したメールを開き、内容に目を通す。送り主の名前は“ルーカン”となっていた――多分、アイリーンが送ってきたのだろう。
「……明日も、休み……?」
メールの本文には、数行ほどの短い文章が載っていた。
明日も、とりあえず休んでください。これはサーの判断です。
平日だからって、出勤しないように。
詳しいことは、また明日に。明日の午後二時までには、自宅に帰ってきてねー。
「……」
サー・アーサーの判断。ということは、大事をとってもう一日休んでおきなさい、なんていう優しさからではないのだろう。何かがあることは間違いなさそうだ。
パトリックはメールをゴミ箱に送り、すぐに削除する。それから腕を組み、顔を顰めると、こんなことを呟いた。
「……嫌な予感しかしない」
するとTシャツを着て、ジーパンを穿いたカルロ・サントス医師が戻ってくる。彼はついでに冷蔵庫に立ち寄ると、合挽き肉とケチャップ、ニンニク、ウスターソースを取り出す。野菜室からはニンジンとタマネギ、それと得体のしれないキノコを取ると、彼はパトリックに尋ねてきた。
「夕飯、食ってくよな?」
そしてパトリックは即答する。「いえ、遠慮しておきます」
「サントス家直伝のミートソーススパゲッティだぞ」
「私は帰ります。それでは」
ここは帰ったほうが絶対にいいと、パトリックの直感が判断した。あのキノコは、なんだか怪しい気がする。彼はそう感じたのだ。
するとカルロ・サントス医師は無理強いすることをせず、代わりに「ちょっと待ってくれ」と言う。せっかく冷蔵庫の中から取り出したものたちを大急ぎでしまうと、彼は自分の車のキーを探し始めた。「なら、俺が車を出そう。だからちょっと待ってくれ、支度を済ませるから」
「大丈夫です。本当に、もう大丈夫ですから。一人で帰れますから、別にそんな」
「いいや、駄目だ。お前が大丈夫だと言うときは、だいたい大丈夫じゃない。だから、駄目だ」
「ですけど」
「俺が車で、お前を家に送る。帰路の途中でまた解離を起こされちゃ堪ったもんじゃないからな。これはドクターストップだと思え。つべこべ言わずに、俺の言うことに従うんだ」
ドクターストップだなんて言葉を持ち出されてしまったら、患者である人間は黙るしかない。パトリックは渋々、了承する。すると調子に乗ったカルロ・サントス医師が、こんなことを言った。
「それでよし。はぁー、お前ってヤツは、本当に困った弟だよ」
彼の言葉に異を唱えるように、パトリックはカルロ・サントス医師を睨みつける。しかしカルロ・サントス医師は、そんなパトリックの視線をスルーした。それどころか彼は口笛を吹き、とぼけ顔をしてもみせる。それからカルロ・サントス医師はこう言った。「金の無心ばかりしてくる実の弟よりも、手の掛かる弟だ」
「……」
「そうであれば、お前の実の兄姉たちはさぞかし手を焼いたのだろうなぁ。はははっ」
【次話へ】
両腕を組むカルロ・サントスは、あの日にそう言っていた。何もお前がやる必要はないだろう、と。そして彼はこうも言った。
『お前には荷が重すぎる。それに、再発するかもしれないだろう?』
パトリックはその言葉に首を傾げた。
『再発って、何のことです?』
しかしカルロ・サントスは答えない。彼は俯き、瞼を閉ざし、口を噤んだ。――かくしてパトリックは、あの作戦に踏み切ったのだ。
作戦は、恐ろしいほど予定通りに進んでいった。女児に扮したパトリックが街中をおどおどとひとりで歩いてみれば、あっという間に犯人の男――連続女児誘拐殺人事件を引き起こしていた男、イーライ・グリッサム――に捕まった。頭には麻袋を被せられ、両手は麻縄で縛られて、彼はペンキくさいミニバンの中に押し込まれたのだ。
ガタガタと揺れる車内。麻袋のせいでパトリックは外の景色を見られなかったし、車内がどのようになっているのかも見られなかった。聞こえてくるのは、カーラジオから流れる当時人気だったベトナム人アイドル歌手の新曲と、音程もリズムもあっていない男の鼻歌ぐらい。犯人が運転する車両を追跡するパトカーのサイレンは、残念ながら聞こえてこなかった。
それも仕方ないことだった。パトリックが決行した作戦は、新人の捜査官が上司に意見を仰ぐことなく独断で踏み切ったものだったのだから。応援が来るという期待をパトリックは始めから持ち合わせていなかったし、それでいいとすら彼は思っていた。端から無謀な作戦だった。生きて帰れるなど思ってもいなかった。これで人生が終わるなら、それでも構わないと思っていた。犯人と相討ちになれば、それが一番だと考えていたからだ。
やがて車の揺れが止まる。前方から車床が軋む音が聞こえ、パトリックは他人が近寄ってくる熱気を正面から感じた。
犯人が、目の前に居る。――パトリックは目で見ずとも、それを感じた。だが不思議なことに、そのときは「何かをしてやろう」という気が起きなかった。
男の荒い息遣いを麻袋越しに耳元で感じた。ペンキのにおいと共に、男が口から発する悪臭も感じた。そしてパトリックは麻袋の中で瞼を閉ざし、諦観した。それはどこか覚えのある、何度も味わったことがあるような気分だった。
するとパトリックの横から、リュックサックを漁るがさごそという音が聞こえてきた。続いて、男の卑しい嗤い声が聞こえてくる。そして男は言った。
『パトリシア・ヴェラスケスちゃん?』
パトリックが偽造した名札に書かれた名前を、男は読み上げる。それから男はパトリックの頭に被せていた麻袋を取り払った。
その瞬間、パトリックの中で諦観は怒りに変わった。その男の顔が、別の誰かに見えたのだ。
それが誰であるのか。名前も忘れたし、どこで会ったのかも忘れてしまったが。しかし覚えがある別の女の顔に変わって見えたのだ。
そして怒りに突き動かされたパトリックは縛られていなかった足を振り上げると、男の顔に強烈な蹴りをお見舞いした。男は大きな音を立てながら倒れ、呻き声をあげる。そしてパトリックは怒りに任せて両手を縛っていた縄を引きちぎると、スカートの下、太腿に携帯していた拳銃をすかさず抜き、座席に倒れ込んだ男の首筋に当てた。それからパトリックは背中の後ろに忍ばせていた手錠を取り出すと、それを男の両腕に嵌める。それからパトリックは男に言った。『まんまと引っ掛かりやがったな、グズ野郎』
『……ッ……?!』
『パトリシア・ヴェラスケスだなんて名の少女は存在しない。私は連邦捜査局特別捜査官、パトリック・ラーナーだ。お前を逮捕する』
そのときのパトリックは、拘束した男をハチの巣にしてやりたい衝動を覚えていたが、しかしそれを必死に抑えつけていた。
何故ならば、パトリックは捜査官だったから。捜査官が犯罪に手を染めるなど絶対にあってはならないこと。ゆえにパトリックはそれをやらなかった。
やがてカルロ・サントスが頼んでいた応援が、男を取り押さえた現場に駆け付けた。そして顔を怒りで赤くしたノエミが現場に来た。顔を真っ青にした上司のトーマス・ベネット特別捜査官も、彼女と共に来ていた。
ノエミはパトリックの勝手な行動に怒り、パトリックの頬を打ったあと、彼の服装を見て噴き出した。
『子供服、それも女の子の格好? ……でも、意外とサマになってる』
そう言うと、彼女は気が済むまで笑い転げた。
その一方、トーマス・ベネット特別捜査官はまずは何も言わず、パトリックを黙って抱き締めた。それから彼はパトリックの頭の上に手を置き、こう言った。
「お前が生きていてくれて良かった……!」
あのとき、カルロ・サントスも他の捜査官らと共に現場に来ていた。しかしそのとき、彼は一切パトリックに声を掛けてこなかった。彼は遠く離れた場所に立っていて、非難するような冷やかな視線をパトリックに送ってくるだけだった。
あのときの彼の目は、パトリックの心を見透かしているようでもあった。
パトリック・ラーナー。彼が生を受けたのは、アルストグラン第三の都市であるブリズベン。黒人の母と、黒人と白人の混血である父のもとに生まれた五人兄弟の末子パトリックの肌は、白雪のように蒼白かった。
母のタマラ、父のギブソン、長男のマイケル、次男のマーティン、三女のミランダ、四男のスペンサー。彼ら家族の肌は全員、褐色だった。そう、パトリック以外は、全員が。
けれども両親は、他の兄姉たちと同じ愛情をパトリックに注いでくれた。兄や姉たちも、同じだった。パトリックも同じように、家族のことを愛していた。幼少期は、それでも問題なかった。パトリックは他の子供たちと同様、家族からの愛を受け、何不自由なく育った子供だった。
しかし家族はそうでも、他は違っていた。特に母方の親族は、肌の色が違う子供が一族に居るという事実をひどく疎んだ。母方の祖父母は理解のある人たちだったが、母の兄妹たち――つまり伯父と叔母――は違っていた。パトリックのことを異様なほど忌み嫌っていたのだ。そんな伯父と叔母の子供たちも、彼らと同じ思想を受け継いでいた。
ある年の十二月二十五日の夜、パトリックが三歳だったころ。母方の伯父たち一家が突然、ラーナー家にやってきた。父は不快感を露わにし、母も数年ぶりの兄との再会に困惑していた。しかし両親は帰れとも言えず、伯父一家を渋々自宅に泊めたのだ。
あの日。伯父一家の来訪に戸惑っていたのは両親だけではなかった。パトリックの兄姉たちも動揺だった。
なにせ兄姉たちは皆、伯父の一人娘である十四歳のアシュレイが大嫌いだったのだ。アシュレイはいつもお高くとまっていて、常に人を見下していた。そんな彼女のことを、彼女と同い年だった長男のマイケルはひどく嫌っていた。だが不幸なことにアシュレイは、マイケルに一方的な好意を寄せていたのだ。
伯父一家が家に来たことを知った兄姉たちは、一目散に寝室へ逃げて行った。パトリックは二男のマーティンに抱きあげられて、寝室へと連れて行かれた。そして寝室に五人兄弟は立て篭もった。誰もアシュレイと遊びたくなかったのだ。
しかしアシュレイは、自分が五人兄弟に嫌われているということを知らなかった。五人兄弟が逃げ込んだ寝室の前に彼女は立ち、ドアを叩き続け、こう言った。そこに居るのは分かってるのよ、一緒にゲームをやろうよ、と。だが誰一人として部屋を出よううとはしなかった。おまけに長男のマイケルはドア越しに、アシュレイへとこう言い放った。高飛車な可愛くない女と誰が遊ぶもんか、と。
その言葉に多感な時期のアシュレイは傷付いた。彼女はわんわんと泣き、自分の父親のもとに逃げて行った。そして彼女は自分の父親にこう告げたのだ。この家の子供たちは私に意地悪をするの、と。アシュレイのその言葉に、彼女の父親である伯父は激昂した。そして乱暴な言葉を伯父は言い放った。
『ここの家の子供の性格がひん曲がっているのは、純血じゃないからだ!』
その言葉に、パトリックら五人兄弟の両親も怒った。母は自分の兄の頬を打ち、今すぐ出て行ってと怒鳴った。父も怒号を上げた。今すぐ出ていかなければ通報するぞ、と。
伯父は言った。ああ、出ていくとも、と。しかし彼が向かったのは玄関ではなく、五人兄弟が立て籠っていた寝室だった。
伯父は寝室のドアを蹴破って、その中に入ってきた。そして五人兄弟の中で一番小さなパトリックに狙いを定めると、伯父はパトリックの首根を掴む。四人の兄と姉は可愛い末弟を伯父に渡すまいと必死の抵抗をしたが、大人の男の力には敵わなかった。
そうしてパトリックは伯父に連れて行かれた。母は息子を返してと泣き叫んだ。だが伯父一家とパトリックを乗せた車は、無情にも走り去って行った。
怒り狂った父も車を出した。長男のマイケルも車に乗り、二人は伯父たちが乗った車を追い掛け走った。
ほかの子供たちと家に残った母は、子供が連れ去られたと警察に通報した。市警が一〇分もしないうちに家に駆けつけ、母と子どもたちは事情を聞かれた。すぐに市警は動き、捜査網が市内全域に敷かれた。速やかな捜索の甲斐あり、連れ去られた三時間後にパトリックは発見された。場所は町の郊外。父と伯父が流血沙汰の乱闘を繰り広げていたところを、近隣住民からの通報を受け現場に急行した警官により発見され、保護されたのだ。
連れ去られていた間、パトリックは酷い目に遭わされていた。肉体的な罰はなかったものの、親しくない親族に囲まれて暴言を吐かれ続けた三時間は、三歳の少年の心に暗い影を落とした。
それからというもの、パトリックは家族に対して引け目を感じざるを得なくなった。家族の中でも自分は違ってしまっているのだ、と。
親兄弟たちは、幼い末子の変化に気付いていた。それから家族はより一層、末子に愛を注ぐようになった。しかし愛を受ければ受けるだけパトリックは引け目を感じ、過保護ともいえる扱いを受けた分だけ、パトリックは孤独を感じるようになっていった。
小学校に上がってからというもの、パトリックはより卑屈になっていった。それまでは両親や兄弟という壁があって遮断されていた“周囲の目”という情報に、日常的に晒されるようになったからだ。
同級生はパトリックを指差し、影で囁いていた。あの子の親は本当の親じゃないんだって、と。同級生の親たちが根も葉もないうわさを広めていたのだ。
誰もがパトリックのことを色眼鏡で見た。彼はそんな視線に苛立ちを募らせていた。そして年月が経ち、パトリックも八歳になった頃。陰口は明確ないじめへと変わり、パトリックの青白い肌には痣が毎日のように増えていった。
両親や兄姉たちはパトリックに何度も訊いてきた。学校でどんなことをされてるんだ、と。しかしその度に、パトリックは頑なに真実を言うことを拒んだ。階段で転んだだけ。それが彼の決まり文句になっていた。
彼は“無関係な”親や兄姉たちに迷惑を掛けたくなかったのだ。だって全ては自分のせいで起きているのだから、と。
自分がいじめられているのは、家族と肌の色が違うから。家族にとっても社会にとっても異質な存在である以上、自分がいじめられるのは仕方のないこと。――当時のパトリックはそう思い込んでいた。それが歪んだ認識であるとも分からずに。
両親や兄姉たちは、そんなパトリックにどう対応するべきか悩んだ。そうして二年の時間がだらだらと流れ、パトリックの同級生たちも道具の使い方を覚え始める。そうしてついに、悲惨な事件が起きたのだ。
学校の帰り道。また痣をふたつ増やしたパトリックが、スクールバスを降りて一人とぼとぼと道を歩いていると、前からひとりの若い女がやってきた。栗毛の長い髪を後ろでゆるく束ねていたその女は、パトリックに声を掛けてきたのだ。
そんな女の横には、側面にアイスクリームのイラストが描かれているミニバンが停まっていた。
『どうしたの、坊や。怪我をしてるじゃない。おねえさんが、手当してあげよっか?』
しかし心を閉ざしていたパトリックは、女を無視して通り過ぎようとした。すると女が、パトリックの腕を掴んでくる。
『ねぇ、手当してあげるって言ってるでしょう?』
パトリックは女の手を強引に振り払うと、女を睨みながら言った。自分で出来るからいい、と。女は顔を強張らせた。それから感じ悪く舌打ちをすると、不貞腐れた顔のパトリックの髪を掴み上げる。女はミニバンのドアを開け、その中に放り込むようにパトリックを乗せた。
女はすぐにドアを閉め、次にパトリックの口にガムテープを張り、頭に麻袋を被せる。それからパトリックが抵抗できないように両手首と両足首を朝縄で縛りあげると、女は車を出した。この間に、パトリックが助けを求めることは出来なかった。というよりも、そんなことを考える思考を彼は放棄していた。
ガタゴトとミニバンは揺れた。カーラジオからは大音量のポップミュージックが流されていて、女は完璧な音程の鼻歌をカーラジオに合わせて口ずさんでいた。パトリックは暴れることもなく大人しく座ったまま、音楽を無心で聴いていた。もう自分は終わりなんだと、観念していたのだ。
そうして三時間が経ち、夕暮れが夜に変わったころ。激しく揺れていたミニバンが停まり、パトリックは女に担ぎあげられ、ある場所に連れ込まれた。両手足を縛っていた麻縄を女は切ると、パトリックをとても座り心地の悪い椅子に座らせる。今度はその椅子の肘置きと脚に、両手足を縛り付けた。そして誘拐されてから初めて、麻袋が取り外される。パトリックは、自分が居る場所を観察した。
そこは閉ざされたガレージのように思える場所だった。しかし外からは民家がありそうな物音が聞こえてこない。そしてパトリックは察した。ここは市街地から離れた場所できっと助けは来ない、と。
そして女はパトリックの口からガムテープを剥がすと、不気味に笑いながら言った。面白い子だね、と。
『普通の子なら、泣いて叫んで大変なのに。君が初めてだよ、ここまで一度も騒がなかった子は。君となら、じっくり楽しめそう。ねぇ、君もそう思うでしょ。パトリック』
女はそう言いながら、パトリックにある写真を見せつけた。それは家族写真だった。女は左から順番に家族の顔を指でなぞり、笑う。それから彼の目の前で写真をびりびりに引き裂いた。
『ねぇ、よく聞いて。今から私は、君に痛いことをするよ。けど、泣き叫ぶのはダメ。そしたら君の家族を酷い目に遭わせちゃうよ?』
パトリックは光を失くした目で女を見る。しかし彼は何も言わない。すると女は『よく出来ました』と言って、鈍く光るものを右手に持った。
『良い子には、ご褒美をあげなきゃね。受け取って、パトリック』
女は右手に持った金槌を振り上げ、椅子に座るパトリックの左足の太ももを目掛けて振り下ろした。金属がもたらす重い一撃は強烈な痛みを全身に伝え、小さな体はがくんと震えた。しかし歯を食いしばるパトリックは、痛みに耐える。女はまた笑った。
『サイッコーね、君! ははっ、掲示板サイトで君の写真を見つけたとき、一体どんな風に泣き叫ぶのかなって思ったけど、予想を見事に裏切ってくれたね。私ね、たぶん君のことをずっと探してたんだよ。君みたいな、強い子を。あはは! まるで猟犬くんを始めて見たときと同じ気分だよ! ――あなたも、彼みたいに強くなれるかなぁ?』
二発目が来た。パトリックの目から、涙がこぼれた。それから間髪を入れずに三発目が来て、四発目、五発目も立て続けに小さな体を襲った。だが十四、十五発と続いても、パトリックは叫び声を一度も上げなかった。そして十六発目、ついに痛みを感じなくなった。
繰り返し金槌を振り下ろす女は、パトリックに凄絶な笑みを投げ掛けていた。パトリックは無表情で女を見つめていた。夜が明け、朝が来て、昼になって日が沈んでも、助けは来なかった。そして夜が来て、ようやく誰かが来た。パトカーのサイレンが聞こえてきて、銃声が鳴って、ガレージにあの女以外の人間が来たのだ。
連邦捜査局だ。そう叫ぶ男性の声を耳にしたパトリックは声が聞こえてきたほうを見る。前方には防弾チョッキを着た男の姿が見えており、彼はパトリックに近付いて来ていた。
男はパトリックの目の前に来ると、携帯していたナイフで手足を縛っていた縄を切る。それから男は青紫色に変色し、腫れた両足を見る。そして無言でパトリックを抱き締めると、頭を撫で、耳元で囁くように言った。
『……生きていてくれて良かった』
男の声は、どこか涙ぐんでいた。そして男は名乗った。
『俺はトーマス・ベネット。トムだ。君は、パトリックで間違いないね?』
パトリックは男の問いかけに、首を傾げさせた。
『……パトリック……?』
自分の名前、パトリック。なぜだかその時、その名前が彼自身にしっくりこない感覚がしていたのだ。
十五歳になったパトリックは、自分の身に起きたことを全て忘れていた。五年前からずっと毎週金曜日は両親に連れられ、近所の心療内科にパトリックは連れて行かれるのだが、五年が経った今となっては自分が何の治療を受けているのかも分からなくなっていた。
彼の主治医は胡散臭いヒゲを生やした精神科医クストディオ・サントス。主治医は、このどうしようもない青年に頭を抱えていた。声変りもしておらず、見た目はまるで十歳の小学生なのに、中身は異様に大人びているこのちぐはぐな青年の扱いに、非常に困っていたのだ。
そして主治医の死角になる場所では、主治医の息子がこそこそと動き回り、診察室を覗き見ていた。パトリックと同い年である息子――主治医の長男であるカルロ・サントス――は、他のどの患者よりも奇妙なこの青年を興味深そうによく観察していた。
そして今日も、波乱のカウンセリングが開幕した。
『こんにちは、リッキー。新学期が始まって二週間が経過したが、学校はどうだい? 友達とはうまくやっているかな』
本題と関係のない雑談からカウンセリングは始まる。にこやかな笑みを浮かべるクストディオ・サントス医師は、無表情の青年に話しかける。するとパトリックはぴくりとも表情を変えず、これだけを言った。
『ええ、まあ』
いつもと同じ反応だった。心をどこかに置いてきたような目をしているパトリックは、目の前の人間や会話に興味を示していない。心の中は空っぽで、自分自身にすら興味関心は向いてないようだった。彼が漂わせる雰囲気は超然としていたが、同時に虚しさも感じさせなくもない。
それでもクストディオ・サントス医師は会話を膨らませようと問いを重ねていく。『たとえば、どんな風に?』
『普通に』
『もっと、具体的なことを聞かせてくれないかな?』
具体的に。そう切り出すと、パトリックは意地悪な本性を露わにする。彼は主治医であるクストディオ・サントス医師に“具体的なこと”を語るのだった。
『昨日、体育の授業の前。エイブラハムってやつが女子更衣室に忍び込んでいるところを見つけて、女子の下着を盗んでいるところを押さえました。その様子を動画で撮影して、それで』
『……ああ、うん、分かった。よく、分かったよ』
ここまでは、いつも同じだった。
学校のことを訊ねるとパトリックの口からは、とても彼の両親には聞かせられない話が飛び出してくる。基本的には、誰々のどういう現場を押さえて、こんな弱みを握ってやった、というものだった。
だがクストディオ・サントス医師は、それを頭ごなしに否定することも出来なかった。情報を掴み、相手を事前に脅しておくという技は、この青年が世を渡り歩くために身に付けた術であるからだ。
決して褒められたものではない行為だが、これがなければ彼は痣だらけの日々に戻ってしまうわけで。今や高校の一大派閥を率いる帝王の座に君臨しているというパトリックにとって“情報”とは、敵ばかりの世界を生き抜くための力だったのだ。
そんなこんな、パトリックという青年には頭を悩まされることばかり。そしてカウンセリングが荒れるのはここからだ。
『それじゃあ、話題を変えよう。君は、栗毛の女性を見るたびに、心臓が締め付けられるように痛くなると言っていたね。どうしてそう感じるんだろう。君はそれについて、どんな見解を持っているかな』
『……』
それまで無表情だったパトリックの顔が曇る。ああ、今日も始まってしまった。クストディオ・サントス医師は胃がキリキリと悲鳴を上げるのを感じていた。
『……知りません。興味無いです』
パトリックはそう答えると視線を自分の足下に向け、しばらくのあいだ沈黙する。
『…………』
クストディオ・サントス医師にとって最も悩ましい事がらは、この患者が何も話してくれないことだった。
パトリックとの付き合いはかれこれ五年目になるクストディオ・サントス医師だが、彼がパトリックについて知っていることは実に少ない。両親から聞いたものと、治療を開始したばかりの頃に断片的にパトリック自身が語ってくれた情報しか、彼の手元になかったのだ。そのうえ語られたパトリックの記憶は、実に曖昧なものだった。お陰でクストディオ・サントス医師には、この青年が何に頭を悩ませ、どうしてこうなってしまったのかの全容が掴めていなかった。
幼少期に、自分に対して批判的な伯父に誘拐され、言葉の暴力を密室で受け続けたこと。それは彼の両親から聞き出したもので、患者自身の口から聞いたものではない。だがクストディオ・サントス医師は感じていた。他に何か“事件”に巻き込まれていたのでは、と。
しかしパトリックは多くの記憶に蓋をしている。その何かを思い出すことが困難になってしまっているのだ。挙句、パトリックの家族も何かを隠しているような素振りは見せるが、確信に至るような情報は提供してくれない。
とはいえクストディオ・サントス医師も“事件”に見当がついていないわけではなかった。
『……』
パトリックがここに通院し始めるその数か月前に起きた、子供が誘拐され、両足を奪われたという事件。その被害者がパトリックなのではないかとクストディオ・サントス医師は見ている。パトリックの両足は大腿の半分より下がなく、義足で生活しているという点。そしてパトリックが義足に関する話を嫌がるということから、そうではないかと見当を付けているのだが……――とはいえ、確信があるわけではなかった。
真相を突き止めるために、根掘り葉掘りと過去を掘り下げているこの行為。これはパトリックという青年をいたずらに傷付けているだけのような気がする。クストディオ・サントス医師はそうも感じていたが、しかし問題を解決するための鍵となる情報が掴めていない以上、致し方ないことではあった。
『リッキー。君は今、何を考えてるのかな』
クストディオ・サントス医師は恐る恐るパトリックに声を掛ける。するとパトリックはぴしゃりとこう言い放った。『別に、何も』
『……そ、そうか』
うぅむ、とクストディオ・サントス医師は腕を組む。すると今日は珍しく、パトリックのほうから話しかけてきた。『先生』
『なんだい?』
『これ、意味あるんですか』
ついにパトリックの口から飛び出してしまった言葉に、クストディオ・サントス医師は渋い表情をする。五年間、パトリックが我慢し続け一度も口にしてこなかった言葉が、ついに零れ出てきてしまったのだ。
するとこの言葉を皮切りに火が付いてしまったのか、パトリックはわっと立ち上がる。顔を険しくするパトリックは、クストディオ・サントス医師を責め立てた。
『それに、僕のどこがおかしいんですか。どうして僕はこうも毎週毎週、無意味なカウンセリングをされるんですか。ねぇ、どうしてなんですか、先生! こんなことに費やす時間を、僕は勉強に回したいんですけど。教えてください、ねえ、先生!!』
クストディオ・サントス医師はいきり立つパトリックを宥めようとするも、怒りを遂に爆発させたパトリックに何かを言えば言うほど、火に油を注ぐこととなった。
そしてクストディオ・サントス医師は、ずっと使いたくてうずうずしていた切り札を遂に切る。
『……分かった、リッキー。治療を中断しよう。だから、その、お父さんとお母さんを呼んできてくれるかな』
不貞腐れた顔をしたパトリックはクストディオ・サントス医師の顔を見る。そして彼に背を向け、待合室で待っていた両親を呼びに行った。
その後クストディオ・サントス医師は、診察室の中に入ったパトリックの両親に治療を中断することを提案した。彼の両親は不審げにクストディオ・サントス医師を見つめたが、クストディオ・サントス医師はあくまでもこう言った。こうすることが息子さんのためです、と。
『息子さんは辛い記憶を封印することで、前を向こうとしています。無理に掘り起こそうとすればするほど、彼は傷付いてしまいます。私は、思うんです。この場合は無理に治療をする必要はないのでは、と』
『先生、それはあまりにも無責任じゃ』
『しばらく様子を見てみましょう。もし彼の解離症状が落ち着き、遁走が無くなるようであれば、治療を終結します。酷くなるようでしたら、また来てください』
無責任だってことは百も承知だ。クストディオ・サントス医師は綺麗事を並べながら、汗ばんだ掌をぎりっと握りしめる。そんな父親の情けない背中を、物陰からカルロ・サントスは見ていた。
『リッキー。最後に、これだけは覚えていてくれ。思い出せないことは、なにも恥ずかしいことじゃないよ。思い出せないってことは、心が要らない記憶だと判断して、記憶を棄ててしまったからなんだ。棄ててしまったものを振り返る人間は、とても愚かな人間だ。……君はきっと賢い人になるだろうね』
その言葉を聞いた、パトリックはむっとした表情を浮かべる。そして彼は両親に連れて行かれ、心療内科を後にした。
カルロ・サントスは、その様子を全て見ていた。彼はずっと昔から、パトリックのことを見ていたのだ・
「ああああっ!!」
悪夢にうなされていたパトリックは、大声を上げながら飛び起きる。そして飛び起きてすぐにまた、彼は大声で叫んだ。「――自宅じゃないッ?!」
「安心しろ。ここは俺の家だ」
パトリックは声がしたほうを向く。するとパトリックの右横には、上裸のカルロ・サントス医師が毛布を被って寝ころんでいた。
パトリックは一度深呼吸をしてから、辺りを見渡す。そして彼は状況を整理しようとした。
パトリックが現在居るのは、理由は分からないがカルロ・サントス医師の自宅。そしてパトリックは家主であるカルロ・サントス医師のベッドで寝ていたようだ。
次にパトリックはアイリーンを探す。彼女ももしかすると居るかもしれないと、そう思ったからだ。
「……んなキョロキョロして。どうしたんだよ、リッキー」
カルロ・サントス医師は大あくびをしつつ、間延びした声でそう言いながらゆっくりと起き上がる。眠そうに眼をこするカルロ・サントス医師は、パトリックが思っていたことを言い当てた。「アイリーンを探しているのか?」
「……えっ、まあ」
「彼女ならお前の家だよ。……ったーくよ。リッキー、お前もしや昨晩のことをなにも覚えてないな?」
垂れ目が眠気により一段と垂れさがっているカルロ・サントス医師は、ぐでーっとしたシャキッとしない目でパトリックを見る。そして同じくカルロ・サントス医師を見返すパトリックは正直に答えた。「全然覚えていないんですけれど。えっ……何があったんですか」
「カァーッ。出たぜ、パトリック・ラーナーの十八番。遁走から健忘のコンボだ。十五歳で終わったかと思ったが、再発しやがったな。はぁー、まったく。こんな調子でASI局員が務まるのかぁー?」
馬鹿にするような口調でカルロ・サントス医師は言うと、彼はベッドから降りる。ブリーフ一枚でスリッパを履くという奇怪な格好をするカルロ・サントス医師は寝室を出て行くとリビングへ向かっていく。そして彼は歩きながら大きな声でパトリックにこう言った。
「コーヒーを淹れるから、リビングに来い。朝飯を作りがてら、昨日お前が晒した醜態を説明するからよ。――あっ、ちなみにコーヒーだが、かなり酸化してきたインスタントのやつしかない。悪く思うなよ」
「……醜態?」
「いーから、早く来い。あっ、そうだ。アイリーンが、局に掛けあって今日は休みにしてくれるって言ってたぞ。っつーわけだ、リッキー。今日は丸一日、じっくり腰を据えて話し合おうじゃねぇーか」
嫌な予感がする。パトリックはみぞおちの辺りが痛み出すのを感じつつも、重い足取りでリビングルームに移動した。
カルロ・サントス医師が住んでいるのは、独り暮らしにしては豪華すぎるように思えるマンションだ。ASIが宛がってくれたパトリックの新居もそれなり立派だが、カルロ・サントス医師の自宅はそれの比にすらならない。
一部屋一部屋が広く、そして部屋の数は多い。ゲストルームだけで二つもある。それから備え付けの家具も高給そうな気配を発していた。そしてリビングルームとひとつながりになっているキッチンはとにかく広く、設備が充実している。冷蔵庫は業務用と遜色ない大きさで、カウンター裏に入っているオーブンはとても性能が良さそうだ。
パトリックはリビングルームに立ち入ると、豪華なキッチンとそこに立つ友人を眺めつつ、こう思う。良い暮らしをしているんだな、と。きっと友人は、隣人の声など聞こえてこない暮らしをしているのだろう。
「そこにでも座って待っていてくれ」
広い部屋に呆気にとられるパトリックの様子に気付いたカルロ・サントス医師は、ぼうっと立ち尽くしているパトリックにそう声を掛ける。続いて彼はリビングルームの中央に設置されたダイニングテーブルを指差した。
パトリックは指定された場所に座り、ブリーフ姿でキッチンをうろつく医者を観察する。すると、カルロ・サントス医師はこう切り出した。
「まずは昨晩の話からしようか」
カルロ・サントス医師は食器棚からマグカップをふたつ取り出すと、それをキッチンカウンターの天板に置く。続いて、彼は粉末のインスタントコーヒーが入った瓶をカウンターの下から取り出すと天板に置き、また食器棚に戻ると今度はティースプーンを取り出す。そして彼はインスタントコーヒーの瓶を開けると、ティースプーンで瓶の中からコーヒーの粉をすくって出し、それをマグカップの中に放り込んでいった。それから彼はキッチンカウンターの天板、その角に置かれていた角砂糖の小瓶を手繰り寄せると、小瓶の蓋を開ける。次に彼は電子ケトルの電源を入れながら、片手間にお喋りを続けた。
「昨日の夜、十一時半すぎぐらいか。お前の電話番号から俺の携帯宛てに連絡が来たんだ。俺はてっきりお前かと思って電話に出たんだが、ところがどっこい、声の主はお前じゃなかった。女だったんだ」
「……アイリーン、ですか」
「ああ、そう。アイリーンだ。そんで彼女が随分と焦った様子の声で言ってきたんだ。お前がいつの間にか家から消えていたってな。帰宅してすぐシャワーを浴びに行ったかと思ったら、水を出しっぱなしにしたまま、家から居なくなったそうだ」
「……?!」
「そこで彼女は俺に連絡してきたんだ。なぜ彼女が俺のことを知っているのかについては、ちと奇妙だったが……彼女は、お前が俺の家に来ていないかって俺に訊いてきたんだよ。そして彼女から話を聞いた俺は真っ先に遁走を疑って、お前を探しに出た。夜中からな。幸いお前が向かいそうな場所に見当はついていたから、すぐ見つけられたが」
遁走。それはある日突然、人間が辛い現実から逃れるために突然蒸発してしまう行為のことを言う。そして解離という病態から引き起こされる遁走の場合、蒸発した者は“自分が誰であるか”という自己同一性を忘れてしまうことがあるのだ。
また解離性遁走の厄介なところは、傍目には「異常である」ということに気付かれない点だろう。多くの場合、病者はたとえ記憶が抜け落ちていたとしても、日常的な動作は普通に行える。車を運転したり、バスに乗ったり、切符を買ったり、そういったことを自然に行えるのだ。ゆえに不審な行動をする者は少なく、彼らの傍を通り過ぎる市民は、記憶が抜け落ちている者が周辺に居るだなんてことに気付けないのだ。
そしてパトリックが起こしていたのは、まさに解離性の遁走だった。
「アイリーンもお前のことを探す気でいたようだが、俺は彼女には無理だと思った。あと、真夜中にレディーを一人で外出させるわけにはいかない。だから代わりに俺が、お前を探して保護すると彼女に約束したんだよ。そして俺は、その約束を果たした。だからお前は今朝、俺の家のベッドで眠っていたわけだ」
「……その。私はどこで、何をしていたんですか?」
「キャンベラの町を、ただジョギングしてたな。ここいらに住んでいる公務員にとって定番のジョギングコースを、お前は走っていた。お前は走りながら、耳にイヤホンを着けて、十五年前に流行ったポップスを聴いていた。そして俺がお前に話し掛けたら、この俺に対して、まるで初対面かのようなよそよそしい態度をとってきやがってな。試しに俺がお前の名前を訊ねてみりゃ、お前は黙りこくって首を傾げた。こりゃ駄目だと思って、俺は無理を言って強引にここへ連れ帰って来たんだよ」
「……全く記憶にないです。私が、ジョギング?」
「だろうな。……これでお前を保護するのは何度目になることやら。本当に、なぜお前が捜査官になれてASI局員に転身できたのかが理解できないよ」
そう言いながらカルロ・サントス医師は、できあがった即席コーヒーをパトリックの前に置く。そしてパトリックは再度小首を傾げた。何度目とカルロ・サントス医師は言ったが、しかしそんなにこの男の世話になっていただろうか、と。
するとカルロ・サントス医師は渋い顔をしながら、不思議そうに首を傾げているパトリックを見る。カルロ・サントス医師はコーヒーをひと口だけ啜ると、こう言った。「つっても、覚えてるわけがねーよな。……お前ってさ、十代前半のときはやたらめったら遁走してたろ。それも決まって、カウンセリングのあと」
「そんなことを、両親が言ってたような。……でも、なぜあなたがそれを知ってるんです?」
パトリックにとってカルロ・サントス医師は、大学時代に知り合った友人だった。大学で初めて出会ったはずなのだ。その頃のパトリックは心療内科に通っておらず、精神も安定していた頃である。にも関わらず、心療内科に通っていた時代を知っているかのようなカルロ・サントス医師の口ぶりに、パトリックは違和感を覚えていた。
そんなこんなで不思議がるパトリックを見て、カルロ・サントス医師はブッと噴き出す。そして彼はパトリックを指差し、こう言った。
「パトリック・ラーナー。言っとくが、お前が遁走を起こしたときにいつも真っ先にお前を発見して保護していたのは、この俺だぞ。お前は忘れているだろうがな!」
「あなたが?」
「そうだよ、バーカ。俺は、お前の主治医だった精神科医の息子なんだぞ? クストディオ・サントス。五年も付き合いのあったヤブ医者の名前くらい、さすがに覚えてるだろうが」
「……っ?!」
「とはいえあの頃の俺は、親父がカウンセリングしてる様子を盗み見て、悪い手本にしてたくらいでしかなかったからなー。患者に接することはなかったし。覚えられていなくとも仕方がないとは、まあ思う。だが、サントスという姓でだいたい気付くだろ」
カルロ・サントス医師はそう言いながら、パトリックの向かいの椅子に座る。未だブリーフ姿のカルロ・サントス医師は、パトリックをじーっと見つめた。その一方でパトリックは視線を正面から受け止めることができず、少しだけ下に顔を向ける。
パンツ一丁の男が、目の前で真面目な話をしようとしている。このシチュエーションが、パトリックには滑稽に思えて仕方なかったのだ。だがカルロ・サントス医師は真面目な話をするのだった。
「それでだ、リッキー。俺の親父がこんなことを言ってたのを、覚えているか。思い出せないことはなにも恥ずかしいことじゃない。思い出せないってのは、心が要らない記憶だと判断して、記憶を棄ててしまったからだ」
「ええ、覚えています」
その言葉はパトリックの治療が終結したとき、主治医の男が――カルロ・サントスの父親である、クストディオ・サントス医師が――最後に言ってきた言葉だった。
パトリックにとってあの主治医は、あまり良い印象のない男だった。五年も続いたあの治療に果たして効果があったのか、それが未だに分からないからだ。
けれども彼が最後に言ってくれた言葉があったからこそ、パトリックは今まで生きてこられたようなもの。忘れること、思い出せないことは、別に悪いことじゃない。なにか思い出せない記憶があったとしても、自分にそう言い訳することができたからだ。
しかしブリーフ姿の医者は、自分の父親が過去に発した言葉を真顔でぶった斬ってみせた。「あの言葉こそ、俺の親父がヤブ医者だってことの証明だ」
「えっ……」
「人間ってのは、自分の過去を振り返って反省するからこそ正しい方向に進んで行けるものだと、俺は思ってるんだ。だから記憶に蓋をし、目を背けることは、恥ずかしい行為なんだよ。記憶に蓋をしたところで実際に起こったことは変えられないし、それらは一生付いて回る。影のようにな。今のお前のように記憶から逃げ回っているようじゃ、過去に足を引っ張られていつか道を踏み外すことになりかねない。だから、己の過去を受け止めなければいけないんだ。たとえその過去が心の許容範囲を越えてしまうようなものだとしても、しっかりと受け止め、けじめをつけなきゃならん」
「……ええと、その……」
「要するに俺は、親父が無責任に中断した治療を再開する。お前が今後もASIに居続けるなら、これは必要なことだ」
カルロ・サントス医師が毅然と言い放った言葉に、パトリックは肩を竦める。それは嫌だとパトリックは感じていたのだ。そんなパトリックの様子を見ると、カルロ・サントス医師は続けてこうも言った。
「とはいっても、お前は治療に乗り気ではない。カウンセリングというかたちをとっても、お前は沈黙を貫き通すだけだ。だから、今回は少々荒っぽい方法で行く。お前の記憶を容赦なく掘り起こしていくが、悪く思わないでくれ。これは全て、お前のためだ」
そう言うとカルロ・サントス医師は、座ったばかりだった椅子から立ち上がる。そしてパトリックの右横の椅子に移った。
「始めに、長年お前のことを観察してきた俺の見解を聞いてくれ。お前は、特になにも喋らなくていい。俺が訊ねたときにだけ、イエスかノーで答えてくれ。分かったな?」
パトリックは多少ビクつきながら、こくりと首を縦に振る。そうしてカルロ・サントス医師の荒療治が始まるのだった。
「まず、お前の家庭環境についてだ。両親や兄姉たちとの仲は良好。お前も家族に対し、あまり不満は抱いていないだろう。だが引け目は感じていた。違わないか?」
「ええ、そうでした」
「それは、伯父に誘拐された件が引き金か?」
「……」
「リッキー?」
「……ごめんなさい。それは、覚えてないです」
「ふむ、そうか」
幼いころ、自分は伯父に誘拐された。両親からそのような話を、パトリックは聞かされたことがあった。車で攫われ、数時間も連れ回されたという。しかし物心も付くか付かないかという頃であったため、パトリックの記憶には残っていなかった。
……というより、記憶を封じ込めてしまったのかもしれない。
「それじゃ次に行こう。お前は家族の中でも自分は肌の色が違うから、異質の存在であると思い込んでいた。そして家族から愛を注がれること、守られることに引け目を感じていた。更にお前は、異質である自分は他から虐げられることは当然のことであり、悪いのは自分だと思い込んでいた。そうだろう?」
「現に、そうでしょう?」
パトリックがそう答えると、カルロ・サントス医師は眉間に皺を寄せる。しかしパトリックには、彼が眉間に皺を寄せた意味が理解出来なかった。するとカルロ・サントス医師は言う。「おい、リッキー。本気で、そう思ってるのか?」
「昔から、なんとなく感じてるんです。この世界は私のような存在を受け入れてはくれないと。家族が所属しているコミュニティに私は加われないし、そこは居心地が悪い。それに集団の中に居ると気が落ち着かない。ひとりでいる方が色々と気楽で……」
パトリックの傍には、いつも人が居た。それは敵であったり、家族であったり、知り合いであったり、同僚であったり、敵であったり。しかしどれだけ人に囲まれていようと、彼の隣には常に孤独があった。拭うことができない人間不信、緩めることができない警戒は、必ず心の中にあった。
世界はいつだって、彼の敵だった。しかし、ブリーフ姿の医者は言う。
「いいか、よく聞け。その答えは、ノーだ」
「……」
「この世界は在るだけだ、万物を受け入れも拒否もしない。それに人間、生きてりゃ居場所なんてどこにでもある。お前はただ見失っているだけだ。そしてコミュニティなんて幻想だ、そんなもんありゃしない。みんな、存在しないから求めているにすぎないんだよ。それに俺はいつでも、お前の味方だ」
「…………」
「お前はな、病気なんだよ。複雑性の心的外傷後ストレス障害といわれているものだ」
心的外傷後ストレス障害。その言葉を聞いた瞬間、パトリックの中で何かが弾けた。だが異変を察しながらも、カルロ・サントス医師は言葉を止めない。
「伯父に誘拐された事件をキッカケに、お前の認知は徐々に歪み、歪みが対人関係にストレスをもたらすようになった。そして小学校でお前は、両親と肌の色が違うことを理由にいじめられるようになった。それによってお前は、人間不信になっちまった。周囲の注目を集めないように、他者の顔色を必要以上に窺い、環境に溶け込むクセも付いた。どんな環境にも程よく適応する能力を、身に付けたんだ」
「……」
「そして十歳のとき、お前はとんでもない化け物に捕まった。山奥に誘拐され、丸二日間も監禁された。椅子に手足を縛りつけられ、食事は何も与えられず、全ての言葉を発することを許されなかった。痛みだけを、延々と与えられ続けた。両脚を、何度も金槌で打たれた。太腿を左右それぞれ三回ずつ、膝から下を四十五回ずつ。だがお前は痛みに耐えた。いや、お前はそのとき感覚を捨てたんだ。そうして生き延びようとした。それは防衛反応だ。だがそのとき、お前は度王子に壊れた」
「……そんな事件なんて、知りません。そんな話なんて、聞いたことは……」
「連邦捜査局の特別捜査官が犯人を射殺し、ボロボロのお前を保護したとき。お前の両脚は腫れていて、一人で立てるような状態ではなかった。痛いだなんてもんじゃあないだろう、普通は。しかし保護されたお前は、痛いともなんとも言わなかったそうだ。泣きもしなかったらしい。そして自分の名前も、思い出せなくなっていた。……お前を見つけ保護した捜査官の名前を、お前はよく知っているはずだ」
「…………」
「トーマス・ベネット捜査官。ノエミの上司、お前の元上司だ」
何かを思い出すことを脳が拒否しているかのように、パトリックの頭が痛くなった。鳩尾のあたりが、内側から針で刺されているかのようにギリリと痛んだ。胸が、心臓が、締め付けられているかのように苦しい。息をすることが苦しかった。
だがそれらは、心情の変化を表す言葉ではない。体の不調だ。感情に与えられている固有名詞ではなかった。
「お前は俺の親父とのカウンセリングの中で、栗毛の女性が怖いと言っていた。それはお前を痛めつけた犯人が、栗毛の女だったからだろう? しかしお前の元婚約者ジークリットは、栗毛の女だった」
「…………」
「それにお前は連邦捜査局時代、やたらめったら危険に飛び込んでいくことが多かった。まるで飛んで火に入る夏の虫だよ」
「…………」
「お前のやっていたことは自損行為とも言うさ。ヤブ医者なら、そう判断するだろう。だが、お前は違う。死にたくてあんな無謀な真似をしているわけじゃない」
「………………」
「再体験したかったんだろう。痛みは解離を誘発してくれる。自分が自分でなくなる瞬間は現実を忘れられるからな。それに、お前にとって虐げられることは日常だ。分かるか、リッキー。お前は正常じゃないないんだ。病気のせいで、スリルに飢えたどマゾ野郎になってんだよ」
カルロ・サントス医師に両肩を掴まれ、パトリックは激しく前後に揺すぶられる。そんなパトリックの目は虚ろで、意識はどこかに飛んでいた。
カルロ・サントス医師はパトリックの頬をひっぱったり、抓ったり、ぺちぺちと軽く叩いたりするも、パトリックの反応は何もない。そして彼はパトリックの肩に手を置きながら、ぼそりと呟いた。
「あちゃー、こりゃ長くなりそうだ……」
そうして、どれだけの時間が過ぎたことだろう。
「どうだ、リッキー。二十年分の澱を吐き出して、スッキリしたろ」
「……ごめん、なさい。あの、そのっ、本当に……」
「これが俺の仕事だ。だから謝るな。ほれ、ティッシュ」
「……ありがとうございます……うぅっ……」
「っつーか、お前の泣き顔は本当に子供だな。子供にしか見えん」
「……うるさい。黙れ、ヤブ医者。さっさと服を着ろ」
「おぉ、その調子だ。俺の知ってるパトリック・ラーナーが戻ってきたぞ」
カルロ・サントス医師から渡されたティッシュで涙を拭い、鼻をかむ。目元を赤く泣き腫らしたパトリックは、血走った目でカルロ・サントス医師を睨んだ。
外は日も暮れ、夜になっていた。空きっ腹は痛み、マグカップの中に中途半端に残されたコーヒーはとっくに冷たくなっている。カルロ・サントス医師は依然ブリーフ姿のまま、鼻をかむパトリックを見て笑い転げていた。
「とりあえず、これで俺からの拷問は終了だ。よく頑張ったよ、リッキー」
笑い涙を指で拭いながら、カルロ・サントス医師は言う。パトリックは持っていたティッシュをゴミ箱に投げ入れると、新しいティッシュを取り、こう言った。「……もう、こんなこと二度とやりたくないです」
「俺もだよ。しょっちゅう意識を飛ばして逃げちまうような患者、お前が最初で最後であってほしいもんだ」
カルロ・サントス医師はそう言い笑いながら、寒いと上裸の身をぶるりと震わせる。こうして十年前に放棄された治療は、かつての主治医の息子によって終結されたのだった。
前半の六時間。これはカルロ・サントス医師にとって苦行でしかなかった。
まず、前半の始め一時間。カルロ・サントス医師は、パトリックが忘れている過去を彼に言い聞かせ、思い出させるというより覚えさせようとした。しかし苦痛の記憶に行きあたる度にパトリックは耳を塞ぎ、思考を遮断した。何度も何度もパトリックは逃げたのだ。
そしてカルロ・サントス医師は、この逃げ癖をどうにかせねばと考えた。そこで試みたのは、解離の患者によく用いられる手法『グラウディング』だった。
今、ここに自分は居て、地面もしくは床に足をつけている。その自覚が有るか無いかでは、精神の安定感は劇的に変わるものだ。地に足をつけるという行為は、スピリチュアルのような意味を抜きにしても、実はかなり重要なことなのである。
だが解離の患者は、そういった意識が薄れている者が多い。解離の患者がよく起こす離人症では、視覚・味覚・嗅覚・触覚・聴覚の五感が一時的に失われてしまうことがあるからだ。パトリックも、そうだった。
そこで急遽試みた『グラウディング』でカルロ・サントス医師は、パトリックの薄れている五感を元に戻すことに専念した。パトリックが持っていた足を組むクセを止めさせ、両足をしかと床につけるようにと意識させた。気を抜くとすぐに猫背になる姿勢を矯正し、ぺちぺちと頬を叩いたり抓ったりして適度な刺激を与えたりもした。
そうして粘りに粘って五時間半。カルロ・サントス医師が氷を詰め込んだビニール袋をパトリックの膝の上に置いたとき。パトリックの表情が変わり、奥底に封印されていた記憶が急に溢れ出て、止まらなくなったのだ。
後半の四時間、カルロ・サントス医師は聞き役に徹した。パトリックはぽつぽつと涙を零しながら、思い出した過去の出来事を自分の口から話し始めた。
いじめられ、ひねくれ、いつしか凍りついた心を抱えて過ごした幼少期のこと。両親や兄姉に対して、今でも感じている引け目のこと。ぶつけられ続けた心無い言葉の全てや、浴び続けた冷たい視線の数々。十歳だったときに起きた、あの事件のこと。そして不運にも出遭ってしまったジークリット・コルヴィッツという女性についてと、彼女に対して感じている罪悪感について……。
そして表層に浮かび上がってきた記憶は同時に、当時は解離によって免れた痛みも思い出させた。殴られ蹴られた記憶と共に、傷を負った場所がまた痛んだりした。刃物で切り付けられたり、自分で切りつけたりした古傷からも、血が溢れ出る感覚が思い起こされた。金槌で脚を叩き折られた時の激しい痛みもまた、思い出された。
その昔、痛いと感じたことがあった。生きていることが苦しいと感じていた。全ての他者が怖いと感じていた。だから、何もかもから逃げたかった。だから過去から目を背けて、今まで逃げ続けてきたのだ。
しかし逃げたところで、過去が消えるわけではない。いつかは過去を含めた全ての自分を、受け止めなければいけない時が来る。
パトリックにとって、今日がそのときだったのだ。
「……それにしても、変な話ですよね。私の両脚はあの時と違い、義足になっているっていうのに。何故だか今になって、痛いと感じるんです」
パトリックは未だがくがくと震えている自分の両脚を見ながら、震えた声でそう言う。そんなパトリックの膝下は両脚ともに黒く光っている。金属製の義足が、奪われた脚の代わりを務めていたのだ。
義足には、血管や神経など通っていない。本来は痛みなど感じないはずなのだ。しかし今のパトリックは、繰り返し鈍器を叩きつけられるような痛みを感じていた。それは金槌で何度も何度も打たれ続けたあのときの痛み、その疑似体験だった。
「痛いと感じた記憶を、脳が覚えてるんだ。それを今、脳がリプレイしてるんだよ。ホント、人間の脳味噌ってのは不思議だよな」
これだから臨床医は辞められない。カルロ・サントス医師はそう言い、笑う。すると、笑う彼のお腹が鳴った。そして二人はそのとき、初めて気が付く。
「そういや俺たち、朝からずっと何も食ってなかったな」
「それにあなたは朝からずっと、下着しか身に着けてませんね」
「どうりで凍えるように寒いわけだ」
「なら服を着てください。医者のくせに、風邪ひきますよ」
「医者っつっても、俺は内科とか外科とかじゃない。全くの別物、精神科医だ」
「ごちゃごちゃうるさいですねぇ。とにかく早く服を着てください。トランクスならまだしも、ブリーフは見苦しいですよ」
「分かったよ、分かった。シャツを着てくるさ……」
そうしてカルロ・サントス医師は、服を探しに一時リビングルームを出て行く。と、それとほぼ同時に、パトリックの携帯電話が新着メールの受信音をチャリンと鳴らした。
パトリックは受信したメールを開き、内容に目を通す。送り主の名前は“ルーカン”となっていた――多分、アイリーンが送ってきたのだろう。
「……明日も、休み……?」
メールの本文には、数行ほどの短い文章が載っていた。
明日も、とりあえず休んでください。これはサーの判断です。
平日だからって、出勤しないように。
詳しいことは、また明日に。明日の午後二時までには、自宅に帰ってきてねー。
「……」
サー・アーサーの判断。ということは、大事をとってもう一日休んでおきなさい、なんていう優しさからではないのだろう。何かがあることは間違いなさそうだ。
パトリックはメールをゴミ箱に送り、すぐに削除する。それから腕を組み、顔を顰めると、こんなことを呟いた。
「……嫌な予感しかしない」
するとTシャツを着て、ジーパンを穿いたカルロ・サントス医師が戻ってくる。彼はついでに冷蔵庫に立ち寄ると、合挽き肉とケチャップ、ニンニク、ウスターソースを取り出す。野菜室からはニンジンとタマネギ、それと得体のしれないキノコを取ると、彼はパトリックに尋ねてきた。
「夕飯、食ってくよな?」
そしてパトリックは即答する。「いえ、遠慮しておきます」
「サントス家直伝のミートソーススパゲッティだぞ」
「私は帰ります。それでは」
ここは帰ったほうが絶対にいいと、パトリックの直感が判断した。あのキノコは、なんだか怪しい気がする。彼はそう感じたのだ。
するとカルロ・サントス医師は無理強いすることをせず、代わりに「ちょっと待ってくれ」と言う。せっかく冷蔵庫の中から取り出したものたちを大急ぎでしまうと、彼は自分の車のキーを探し始めた。「なら、俺が車を出そう。だからちょっと待ってくれ、支度を済ませるから」
「大丈夫です。本当に、もう大丈夫ですから。一人で帰れますから、別にそんな」
「いいや、駄目だ。お前が大丈夫だと言うときは、だいたい大丈夫じゃない。だから、駄目だ」
「ですけど」
「俺が車で、お前を家に送る。帰路の途中でまた解離を起こされちゃ堪ったもんじゃないからな。これはドクターストップだと思え。つべこべ言わずに、俺の言うことに従うんだ」
ドクターストップだなんて言葉を持ち出されてしまったら、患者である人間は黙るしかない。パトリックは渋々、了承する。すると調子に乗ったカルロ・サントス医師が、こんなことを言った。
「それでよし。はぁー、お前ってヤツは、本当に困った弟だよ」
彼の言葉に異を唱えるように、パトリックはカルロ・サントス医師を睨みつける。しかしカルロ・サントス医師は、そんなパトリックの視線をスルーした。それどころか彼は口笛を吹き、とぼけ顔をしてもみせる。それからカルロ・サントス医師はこう言った。「金の無心ばかりしてくる実の弟よりも、手の掛かる弟だ」
「……」
「そうであれば、お前の実の兄姉たちはさぞかし手を焼いたのだろうなぁ。はははっ」