ヒューマン
エラー

ep.04 - Defect

「そのメガネ型通話デバイスから送られる動画は、ルーカン氏を通して全て見させてもらった。エリーヌ、彼女が本当に何も見ていないことは不幸中の幸いだったよ」
 ASI本部、長官室。大学病院から戻るなりすぐに召喚されたパトリックは今、長官室に立っていた。
 時刻は午後七時を過ぎたところ。すっかり外は暗くなり、長官室からはキャンベラの夜景を見渡せるようになっている。
 そして疲れた顔で立つパトリックの前には、二人の男が並んでいた――執務机に座すブラッドフォード長官と、執務机の横に立つ黒衣の男の二人だ。
「それにしてもだ、アーサー殿。今度の件はやりすぎなのでは? 件の男が死の淵を彷徨っているなど……」
 ブラッドフォード長官は、彼の傍らに立つ黒衣の男――特務機関WACEの隊員、アーサーと呼ばれている人物――を睨むように見ながらそう言うも、相手の反応は軽いものだった。
「ご安心を。あの男はくたばりませんから」
 その返答を聞いたブラッドフォード長官は呆れたように溜息を吐く。だが、アーサーのほうはそんなブラッドフォード長官を鼻で笑うばかり。あの『ワイズ・イーグル』が、あろうことか軽く扱われていた。しかしアーサーという男は非礼な言動を重ねていく。
「あの男を殺す方法がこの世に存在しないことぐらい、あなたもご存知のはず。それとも、お忘れになられたのですかな?」
 アーサーは明確に断定する言葉を避ける代わりに、曖昧で挑発めいた台詞を発した。そんなアーサーの腰に携帯されていた拳銃は、九ミリ口径のもの。そしてパトリックは深く考えずとも、全てを察した。
 アーサー。彼がバルロッツィ高位技師官僚を銃撃したのだ。普通の人間であれば即死するであろう急所だけを狙い、執拗に、十四発も弾を撃ちこんだ。
「アーサー殿。はぐらかさずに、説明を――」
 ブラッドフォード長官は再度アーサーを睨み付けるが、しかしアーサーは折れなかった。
「言葉で説明できるほど、シンプルな状況ではないのですよ。あなたがたに委ねている案件だけが問題であるというわけではないのですから。しかし、あなたがたが他のことを把握しておく必要はありません」
 もしかするとアーサーは、バルロッツィ高位技師官僚を本気で葬り去りたかったのかもしれない。――長官とアーサーのやり取りを聞きながら、パトリックはそう思った。それほどまでの殺意がなければ、あのような凶行に手を染めないはずだ、と。
 急所だけに狙いを定め、十何発も人体に銃弾を浴びせ、殺そうと試みる。そのようなタイプの犯行の場合、その根底にあるのは積もり積もった怨恨だ。きっとアーサーとペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚の間には、何らかの『強い負の感情』が渦巻いているのだろう。理性さえも容易く凌駕するほどの、強い感情が。
「……」
 そしてこのとき、パトリックは感じた。とんでもない世界に片足を突っ込んでしまったようだ、と。大正義の遂行という免罪符の下にヴァイオレンスが許される巨悪そのものに、彼は加担しかけている。
「……それで、アーサー殿。私の部下に、あなたは何をやらせるつもりで?」
 ブラッドフォード長官は不愉快そうに眉を顰めさせながら、アーサーにそう訊ねる。対するアーサーは、こう答えた。
「彼には、あの男の一人娘の心を掴んでもらいます。彼女の信頼さえ勝ち取れれば、あの男のリードはこちらが握ったも同然。娘が信頼している人物を傷つけられるほどの度胸を、あの男は持ち合わせていないでしょうからね。そこさえクリアできれば、ひとまず彼の安全も確保されます」
「娘というと、エリーヌのことか。まさか、彼女を人質に……」
「人質とは、人聞きの悪い」
 乾いた笑みを口元にだけ浮かべるアーサーは、冗談めかしにそう言う。
 高位技師官僚に瀕死の重傷を負わせたくせに、どの口が言っているのだか。パトリックは心の中で、そんな悪態を呟いた。
「それでは、また改めて。ラーナー、今後のことは追ってルーカンから聞くといい」
 アーサーは最後にそれを言うと、長官室から一瞬で姿を消した。僅かに立ち昇る黒煙だけを残して、一瞬でこの場から消えたのだ。それはまるで、瞬間移動のマジックのようであり、幽霊のようでもある。
「……ッ?!」
 煙となり、忽然と消えてしまったアーサーにパトリックが驚いていた一方。ブラッドフォード長官はさほど気にしていないのか、平然としていた。そして動揺するパトリックを見ると、ブラッドフォード長官はひとつ咳払いをする。そうしてブラッドフォード長官はパトリックの注意を引くと、彼にこう言った。
「ラーナー。君に、渡しておきたいものがある」
 そう言いながら長官は、デスクの引き出しを開け、その中から古びた分厚い一冊の本と、ひどく擦り切れ、今にも破れそうな四冊の手帳を取り出した。
 一冊の本と、四冊の手帳。それらを長官は、パトリックに渡す。しかし長官の意図を図りかねたパトリックは、それらを受け取りつつも首を傾げさせていた。すると長官は鈍いパトリックに向けて、本たちに関する昔話を語り始める。
「リチャード、彼は私の友人だった。かれこれ三十年ほど前。ボストンにて、脳神経内科医として働いていた彼は、あるとき興奮した様子で私に電話を掛けてきたのだ。実に興味深い青年が目の前に現れた、と。彼が言うには、その青年は身元不明で、自分自身について何も覚えておらず、極度の弱視で、眩しい光を嫌い、ありとあらゆる音楽を嫌い、他人というものを嫌い、口数も少なく、完全に心を閉ざしていたという。救命救急に運ばれてきたときの彼は満身創痍の状態で、まるで欧州の戦火を潜りぬけてきた者のような姿だったらしい」
「……」
「だがその青年は、特殊な能力を持っていたそうだ。彼はまるで数分先の未来が見えているかのような振る舞いをしていたと、リチャードは語っていたよ。その青年に興味を示したリチャードは、あれやこれやとテストを重ねたらしい。脳を調べたり、簡単な実験を行ったりとな。そのおかげで、リチャードはひどく青年から嫌われてしまったらしい」
「その話は、私とどのような関係が?」
「未来が見えていた青年。それは今、死の淵を彷徨ってるバルロッツィ高位技師官僚のことだ。そしてリチャードの娘であるブリジット。彼女は高位技師官僚の配偶者で、エリーヌの母親だ。――そしてこの本はリチャードが書き記したものであり、手帳はブリジットがバルロッツィ高位技師官僚についての気付きをまとめたものだ」
「――えっ?!」
 パトリックは長官の言葉に、素直に驚いた。というか、驚くことしか出来なかったのだ。
 どうして、そんなものを長官が持っている? そしてどうして自分が、そんなものを渡されたのだ? 疑問は止まらないし、混乱も止まらない。
 するとブラッドフォード長官は、呆然と立ち尽くしているパトリックの目を真っ直ぐ見つめる。長官は威厳に満ちた黒い目でパトリックを捕縛すると、こう言った。





 死の淵を彷徨うVIPと、その娘エリーヌ。訳知り顔なパトリックを帰路で質問攻めにしたノエミ。要人警護部隊から向けられる冷めた視線。それとASIから頻繁に入れられる、状況報告を求める連絡たち。そして考えていることが全く分からない黒衣の男アーサーと、何かを把握していながらも重要なピースを与えてくれはしないブラッドフォード長官。そしてワケが分からないまま、混乱の中に引きずり込まれたパトリック自身のこと。
 状況は混沌としているとしか言いようがない。だが、状況を冷静に分析できるほどの余裕はパトリックに残されていなかった。
「……はぁ、疲れた……」
 心身ともに疲れ切り、すっかりエネルギー切れという有様になったパトリックは、長官から託された荷物と共に自宅のあるアパートに帰ってきた。彼は玄関扉の鍵穴に鍵を差し込み、がちゃりと鍵をひねって解錠する。それから鍵を抜くとドアノブをひねり、彼は扉を開けた。
 そうして自宅の中へと入るパトリックは、まず家の中の気配を伺う。しかし家の中に邪魔者、つまりアイリーンの気配はなかった。それから、カメムシも居ない。ほっとしたパトリックは胸をなで下ろしてと、安堵の息を吐いた。
「……ふぅ。今晩は静かに寝られると良いのですが……」
 家の中に入ったパトリックは玄関扉の鍵を厳重に閉じる。翌朝、また侵入者アイリーンがキッチンに襲来することがないよう祈りながらキッチンに移り、手洗いをチャチャっと済ませると、彼はリビングルームに移動した。
 そしてパトリックは長官から渡されたものが入れられた鞄をソファーの上に置くと、一旦寝室に移動して寝室内のクローゼットを開ける。彼は上着を脱ぐと、脱いだ上着をハンガーに掛け、クローゼットの扉をパタンと閉じた。
 それから再びリビングルームに戻るパトリックは、ソファーに腰を下ろす。なるべく音を立てぬようにと気遣いながら。
 しかしこの部屋に入居したときから備え付けてあったおんぼろソファーは小柄なパトリックの体重ですら軋み音を立てる。キィ……と鳴るソファーにうんざりと顔を顰めさせながら、パトリックはテレビのリモコンに手を伸ばす――この時間帯なら、ANS局が報道番組を流しているからだ。そして彼はリモコンを操作し、テレビの電源を点けた。
 すると、テレビの画面に映像が映し出されたのと同時に家の固定電話が着信音を鳴らす。パトリックは座ったばかりのソファーから立ちあがると、電話に出た。
 受話器を耳に当て、パトリックは定型の応答文を述べようとする。しかし彼が喋るよりも前に、悲鳴にも似たノエミの声がパトリックの耳を攻撃してきた。
『リッキー、テレビを見て! ANS局よ、早く!!』
「ノエミ、電話越しに叫ばないで下さい!」
 パトリックはついでに持ってきていたリモコンを操作し、チャンネルをANS局に合わせる。放送されていたのは、平日の夜におなじみの報道番組。そして画面の右上には『速報』という文字が表示されている。
 報道番組が、どうしたというのだろう。まともに番組の内容を見ていなかったパトリックは首を傾げながら、とりあえずノエミの言葉を聞こうとする。すると電話越しのノエミが、甲高い声で言った。
『今朝、イーライ・グリッサムの死刑が執行される予定だったでしょ? けれど予定が変わって、急きょ夕方になったの。そしたらあのクソ野郎、執行の直前に看守を襲って、脱獄したのよ!! おまけにあの野郎、自分に投与されるはずだった麻酔薬、筋弛緩剤、塩化カリウムを持ち出しやがったの! 挙句、看守から銃まで奪っているの。だから気を付けて!!』
「……待ってください。今、なんて?」
『速報が出てるでしょ、よく見て! イーライ・グリッサムが、脱獄したのよ!! どこに潜伏しているのかは不明で、まだ見つかっていないの!』
 パトリックは今一度、報道番組を見た。右上に表示されている速報の文字の下に並んで出ている文言は、囚人が脱獄というものだった。そして画面中央には、イーライ・グリッサムが収監されていた刑務所前に佇むリポーターが映されている。そしてテレビに映るレポーターはこう言っていた。
『脱獄したイーライ・グリッサム死刑囚の行方は未だ不明だそうで、現在キャンベラ警察とニューサウスウェールズ州警察、および連邦捜査局が捜索に当たっているとのことです。捜索の指揮を執る連邦捜査局トーマス・ベネット特別捜査官は、十五歳に満たない子供を外に出さないようにと会見の中で発言しており、明日にも市内全域の教育機関に対して、休校措置を取るようにとの勧告が出される模様です。そしてニューサウスウェールズ州警察は――』
 イーライ・グリッサムが、脱獄した? その言葉にパトリックは耳を疑い、目を疑った。
 なぜなら、あの男は知能が低い。逮捕後の精神鑑定で、知的障害者であるとの診断が下されているぐらいだ。だからあの男に脱獄など出来るはずがないのだ。そんなことを企てる頭もないのだから。しかし、イーライ・グリッサムは脱獄した。それが現に起こっている。
 つまり何者がイーライ・グリッサムの脱獄を手引きしたのだ。この脱獄には協力者がいる、絶対に。
「……イーライ・グリッサムが、脱獄……」
 半ば信じられない現実。それを頭に刻み込み、認識させるためにパトリックは事実を口に出して唱える。そして彼が呼吸を整えたとき、ノエミが続きの言葉を話した。
『連邦捜査局の精神分析官も、カールも、口を揃えてこう言った。脱獄には協力者が居ると。そして脱獄したあと、あの男が真っ先に向かうのは間違いなくリッキーのところだろうって。もしかしたら協力者があなたの居場所を教えている可能性もある。だから警戒して』
「了解しました。はぁー……すみません、少し待ってください。今、通話を子機に切り替えます」
 パトリックはそう言うと、通話を固定電話の受話器から持ち運びができる子機に切り替え、子機を持って廊下に出る。それから彼は廊下の床下収納に隠していた拳銃を取り出し、それから家の電気を全て消した。点けたばかりだったテレビの電源も落とし、足音を殺しながら寝室へと移動する。それから静かにベッドの下に潜り込むと、パトリックは拳銃の撃鉄を起こし、寝室のドアに照準を合わせた。侵入者がドアを開けた瞬間に撃てる態勢を整えたのだ。――そしてノエミの声が聞こえてくる。
『リッキー、落ち着いてよく聞いて。今、自宅に居るのね?』
「……ええ、居ます。あなたは?」
『私は作戦本部に拘束されてる。そっちには向かえそうにない』
「……そうですか」
『それで、家の電気はすべて消した?』
「……勿論ですとも」
『今のあなたは丸腰? それとも武装してる?』
「……拳銃を一丁だけ。弾薬は五発。心許無い」
『武器が何もないよりかはマシよ。それで今はどこに居るの』
「……寝室のベッドの下です」
『そう、分かったわ。電話は念のため、このままにしておいて。今、そっちに機動隊を向かわせてる。あと十五分ほどの辛抱よ、頑張って』
 ノエミは最後にそう言い、会話は終わった。パトリックは子機を床の上に立てるように起き、通話口を自分のほうに向ける。
 その間にも子機のスピーカーからは、がやがやと騒がしい声たちが小さな音で聞こえてきていた。ノエミが居るという作戦本部の様子が、そのガヤから分かる。
 当局は脱獄犯を見つけ出すに当たって市民から広く目撃情報を集めているのだろう。職員たちがひっきりなしにかかってくる電話の対応に追われている様子が窺えた。
 そしてパトリックは息を殺し、気を引き締めるように腹のあたりにグッと力を込めると、音をたてぬようにそっと引き金に指を掛ける。それから彼は目を閉じ、周囲の音に気を配った。
「……」
 寝室の隣は、隣人男性宅のバスルーム。シャワーから出る水が、絶え間なくバスタブを打ち付けるザーザーという音がかすかに聞こえていた。
 上の階に住んでいるのは四人家族で、パトリックの寝室の上は子供部屋になっているらしい。四歳の姉と二歳の弟が戯れている声と、追いかけっこでもしているのかどたばたと騒がしい足音が聞こえていた。
 そして下の階には倦怠期を迎えた老夫婦が暮らしていて、なにやら夫婦は口喧嘩をしている模様。「用を足したトイレを、どうして綺麗にしないの」「俺はやってるぞ」「いいえ、大きいのが便器に残ってたわ!」という仕様もない言い争いが、パトリックの寝室の床を通り抜けて聞こえてきていた。
 そして幸運なことに、今のところはこれといっておかしな物音は聞こえてこない。パトリックは緊張を少し緩め、閉じていた瞼を開ける。
 ――と、そのときだ。パトリックの家の出入口前を誰かが歩く足音が聞こえてくる。続いて、玄関の扉が開けられる音が聞こえてきた。
「……」
 機動隊が早くに到着したのか、それともあの男がついに来てしまったのか。パトリックは緩めていた緊張を再び張りつめさせ、拳銃を握る手に力を込める。すると、場違いな能天気すぎる女の声が聞こえてきた。
「パトリック? 居ないの? 優しいアイリーンさまがピザを買って来てやったのだぞ。喜べー。バジルたっぷりのマルゲリータと、半熟卵のビスマルクだぞー。……あれ、おっかしーな。彼はもう自宅に帰ってるはずなんだけどなぁ」
 声の主は、ピザを携えて戻ってきたアイリーンだった。なんてタイミングが悪いんだ、とパトリックは顔を顰める。かといってベッドの下から出ることはできないし、声を上げてアイリーンを呼ぶこともできない。クソがと心の中で呟く彼は、何も起きないことをただ祈った。
 しかし最悪の展開が起こる。アイリーンが廊下の電灯を点け、リビングルームの食卓にピザ箱を置いた時だ。彼女がこんなことを言ったのだ。
「あっ、玄関。鍵、閉めるの忘れてたや……」
 こんなときに、嘘だろ? ――パトリックはそう心の中でボヤくも、そんな彼の思いはアイリーンには通じない。外で起きていることを他人事だと思っているのか、特に警戒心を見せる様子もないアイリーンは暢気なステップで玄関に戻っていく。そして彼女が玄関の鍵を掛けようとする物音が聞こえてきたときだ。
 玄関のほうから、ひひっと笑う男の声と、落ち着きがなさそうな荒っぽい足音が聞こえてくる。とても体重が重そうな、ずしんという足音だ。その直後、アイリーンの悲鳴も聞こえてきた。
 そしてアイリーンの悲鳴を電話越しに聞いたのか、子機のスピーカーからノエミの声が聞こえてくる。『リッキー、何があったの?! 今の悲鳴は、誰?』
「……同僚の女です」
『同僚? あなた、一人で家に居たんじゃないの!?』
「さっきまでは一人だったんです。なのに最悪なタイミングで彼女が来た。そして来ましたよ、イーライ・グリッサムも」
『えっ。どういうこと?』
「……説明はあとで。彼女を助けてきます。機動隊を急がせて下さい!」
 パトリックは子機に向かってそう言うと、チッと舌打ちをする。それからパトリックは拳銃を持ったまま、ベッドの下から飛び出した。
 彼はアイリーンの声が聞こえてきた廊下に出ると、アイリーンを後ろから羽交い締めにし、抑えつけようとしている大きな男に銃口を向ける。そしてパトリックは大声で威嚇するように言った。
「連邦捜査局だ、手を上げろ!」
 正確には、彼はもう連邦捜査局の人間ではないのだが。しかし前職のクセで自然と飛び出てしまった言葉に、パトリックは一瞬だけ後悔する。と、そのときアイリーンが動いた。
 パトリックが物陰から飛び出てきたことにより、男は驚き動きが一瞬止まった。その隙をアイリーンは見逃さなかった――アイリーンは彼女を押さえ込んでいた男の腕に噛みついたのだ。その攻撃に男は怯み、その瞬間にアイリーンは拘束を解いて逃げ出す。そして彼女がパトリックの背後に逃げ込んだとき、彼女は叫んだ。
「サー、今だよ!!」
 直後、アイリーンに噛まれた痛みに悶えていた男の額から棒が飛び出し、そして血が噴き出す。パトリック宅の廊下の壁に血しぶきが飛び散り、シンプルな黄色い壁紙にスプラッターで猟奇的な模様が付いてしまった。
 頭から血を流す男の巨体は前のめりに倒れ、ドスンという重い音と共に、ガンッという金属的な音が鳴った。
 パトリックは拳銃を下ろすと、倒れた人影を見下ろす。そして彼は思わずこう呟いてしまった。
「……うわぁ、鉄パイプだ……」
 後頭部から突き刺さり、頭蓋骨そして脳を貫通して額へと突き抜けている鉄パイプ。それが男の死因であるとパトリックが理解したとき、この猟奇的なハンティングを遂げたであろう人物の姿がパトリックの視界に入る。
 いつからそこに居たのか分からぬほど、気配を消して佇んでいたのは黒いサングラスで目を覆い隠した黒衣の男、アーサーである。閉ざされた玄関扉の前に立っている彼はパトリックらを見やると一言、これだけを訊いてきた。
「無事か?」
 アーサーの声はあまりにも素っ気なく、まるで他人事かのようだった。心の底からパトリックらのことを心配しているような気配はまるでないし、彼は“殺人”についても何も感じていないかのようだった。
 そんなアーサーの様子を怪訝に思いつつも、パトリックは拳銃の撃鉄を倒して射撃可能状態を解除した。それからパトリックは答える。「ええ、まあ。無事です」
「そうか、なら良かった」
 やはりアーサーの声は不自然に思えるほど棒読みで、感情がまったく込められていない。が、彼に感情が全くないというわけではないらしい。
 アーサーの目元はサングラスで隠されているため、パトリックには彼の目が何を見て、何を考えているのかが読めなかったが。不愉快そうに顰められているアーサーの眉、そして彼の横顔から、パトリックはある感情を察する。それは軽蔑だ。
 このときのアーサーは、床に倒れている男の死体に、まるで汚物を見下ろすかのような視線を投げかけていた。彼はたった今、彼が殺した男――つまり脱獄犯イーライ・グリッサム――のことを軽蔑しているらしい。……が、軽蔑が向けられている対象はそれだけではなかったようだ。
「……これが、噂に聞くダァト流の報復か。実に悪趣味だな……」
 アーサーが小声で漏らした呟き。それは彼の本音であるらしく、強い嫌悪感が声に滲んでいた。先ほどまでの棒読み演技とは雲泥の差である。
 ダァト、報復、悪趣味。アーサーが発したそれらの言葉の意味がパトリックには分からなかったが、しかし彼は深掘りをしない。代わりにパトリックは、アーサーにこれだけを訊いた。「一〇分後、ここに機動隊が到着します。対応はどうしますか?」
「何も知らないとシラを切り通しなさい。連邦捜査局には私のほうから話をつけておく。なにも心配することはない」
 再び棒読み演技に戻るアーサーはそう言うと、空気に溶けるかのように一瞬にして消えた。それを見届けたあと、パトリックは俯いて溜息を吐く。それからパトリックはボヤいた。「……シラを切り通せと言われましても……」
「パトリック、ごめんね。サーっていい加減で無茶ぶりしがちなとこがあるんだ。でも、なんとか誤魔化して」
 パトリックのボヤきに、アイリーンはそんな言葉を返す。そしてアイリーンも、こんな愚痴を洩らすのだった。
「あのひと、ちゃんと考えてるようで考えてないし、でもやっぱり一人で難しいことを考えてカリカリしたりもするし、かと思えばぐーたらになって無気力状態になるしで、なんか分かんないんだよね。優しく気遣ってくれたかと思ったら、急に冷たく突き放してきたりするし。なんか掴みどころがないっていうかさ」
「そうなのですか……」
「彼の生態を唯一理解してたジャスパーは死んじゃったし。彼にどう対応すればいいのかが、遺された私たちには分かんないんだ」
 ジャスパーは死んじゃった。……またパトリックには背景の分からない話が出てきたが、彼はやはり深掘りはしない。パトリックは適当に相槌を打って分かったふりをしながら、あえて話を聞き流した。
 するとパトリックの無関心さに気付いたのか、アイリーンは話題を変える。彼女はリビングルームを指し示すと、パトリックにこう訊ねた。「とりあえず警察が来るまで、ピザでも食べながら待つ?」
「死体の横で? 私は遠慮しておきます」
 死体の横でピザを食う。そんな経験をしたら最後、二度とピザが食べられなくなりそうだと思ったパトリックは即座に提案を断る。その一方、アイリーンは「私はお腹が減ってるから、先に食べてるね」と言って、リビングルームのほうに向かって行った。
「……」
 ついさっき殺人が行われた現場で平然と食事をするアイリーンを遠巻きから眺めつつ、パトリックは死体の傍に立つ。つい昨日、顔を見て話をした相手が今や物言わぬ肉塊になっていることを奇妙に思いつつ、パトリックは機動隊が到着するのを待っていた。
 そして機動隊が到着したのは思いのほか早く、アイリーンがピザを食べ始めてから五分がけいかしてからのことだった。
 更に一〇分後には、ノエミら連邦捜査局の者も犯行現場となったパトリックの自宅に駆けつける。
「あなたが、これを……やったの?」
 死体の脇に佇んでいたパトリックを見つけるなり、ノエミは真っ先にそう訊ねたが。しかしパトリックは首を横に振る。ノエミは次に、別の捜査官から任意の取り調べを受けているアイリーン――彼女はまだ、平然とした様子でピザを食べていた――を指差す。しかしパトリックはまた首を横に振った。するとノエミが苛立った様子で言う。「じゃあ一体、誰がやったのよ」
「神風が吹いたんじゃないんですか?」
 適当でいい加減だというアーサーを見習って、パトリックも棒読み演技でシラを切るようなことを言う。すると適当に誤魔化すセリフを言ったパトリックのぷにぷにな頬肉を、ノエミはぶにっと抓んだ。そして彼女は抓んでいた頬肉を引っ張るようにして離す。それからノエミは怪訝な表情を浮かべると、パトリックに問うた。「……リッキー。あなた、私に何を隠しているの?」
「隠し事なら、そりゃたんまりとありますよ。仕事柄、口外できないことばっかりですし」
「今朝、病院で会った時も。あなたは何かを知っていながら、私に黙っているようだった。ねぇ、何を隠しているの? それともあなたは今、何かまずい状況に置かれているの?」
 しかしパトリックはにこりと笑い、口は閉ざすのみ。呆れたノエミは彼から視線を逸らした。それから彼女は担架に乗せられ運ばれていく男の死体を見ると、話題を変える。彼女はこう言った。「ともかく、イーライ・グリッサムとの因縁もこれで終わったってわけか」
「……」
「なんか言いなさいよ、リッキー」
「……これで終わりだったらいいんですけどね」
 パトリックはそう言うとノエミに背を向け、アイリーンの居るリビングルームに向かう。そして彼はリビングルームのソファーの上に置きっぱなしになっていた鞄を抱えると、事件現場となってしまった自宅を離れる。
 証拠品となることを間一髪で免れた鞄を抱えた彼は、歩きながら鞄の中を漁り、車のキーを探り当てた。それから駐車場を目指して歩き出したパトリックは、最低だった今日という一日に肩を落とす。
「……はぁ、疲れた」
 やりたくもない仕事を押し付けられたと思えば、二日間のうちにこんな散々な目に遭わされるだなんて!
 夜の闇に向かって叫びたい衝動を堪えながら、パトリックはアパートの階段をすたんすたんと降りていく。階段を下りながら、彼はモーテルに泊るべきか、または車の中で夜を明かすべきかを考えあぐねていた。
「……」
 けれども。彼にとっての人生最悪の時期は、まだ始まったばかり。これからより酷い事態に発展していくなど、この時のパトリックは想像もしていなかった。


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