午後一〇時半を過ぎたころ。国立大学病院の救命救急センターに運び込まれた負傷者に、連邦捜査局とASI、ひいては病院側も振り回されていた。
「サントス先生!? どうしてあなたが、救命救急に」
例の負傷者の担当となった救命医は、同伴者として来たカルロ・サントス医師を見るなり、驚いたような顔をする。カルロ・サントス医師は、可能な限り冷静に答えた。
「見ての通り、こいつの同伴だよ。……右上肢をチェーンソーで切断された。それと左下腹部に刺し傷あり。動脈すれすれの位置にナイフが刺さったままになっている、気をつけろ。それから、彼は解離性障害だ。解離の患者だから暴れることはないと思うが念のため、注意を。名前はパトリック・ラーナーだ。二十五歳、男性。血液型はABだ」
「ありがとうございます、サントス先生。あとは私が。外来受付で待機していてください」
負傷者を乗せたストレッチャーを、救命医は引き受ける。治療スペースにストレッチャーは運ばれて行った。
カルロ・サントス医師はその様子を見送る。それから外来受付に移動した。
「……」
外来受付のごった返す人の波の中に、ノエミの姿があった。カルロ・サントス医師はノエミに近付き、彼女に声を掛ける。すると目に涙を浮かべたノエミが言った。
「ねぇ、カール。リッキーは助かるんでしょう?」
カルロ・サントス医師は目を伏せ、顔を少し下に向ける。
「仮に、助かったとしても。俺たちが知っているパトリック・ラーナーが戻ってくるという期待は抱かないほうがいい」
もしもを願い、絶望をしないように。希望を与えない言葉を、カルロ・サントス医師はあえて口にする。ノエミはその言葉に泣き崩れた。
ノエミはぼろぼろと涙を流し、嗚咽を上げる。彼女は自分よりも少し身長の高いカルロ・サントス医師に抱き付き、こう言った。
「もう私、真実になんか興味無いわ! アルストグランの闇とか、そんなのもうどうでもいいの! だから、お願い。リッキーを、戻して……!」
外来受付には、レヴィンの姿も見えていた。レヴィンは誰かを探すように、きょろきょろと首を回している。だがカルロ・サントス医師は、レヴィンに声はかけなかった。彼女の姿を、ただ見つめていた。
「……」
人の波が行き交う速度が、本来のスピードよりもずっと遅く感じられる。スローモーションの動画を見せられているような気分を、カルロ・サントス医師は感じていた。
まるでファンタスマゴリアのようだとカルロ・サントス医師は感じていた。そのとき、視覚以外の彼の感覚は全て、一時的に遮断されていた。
+ + +
急用ができたと無理を言って、カルロ・サントス医師は定時前に仕事を切り上げてきた。山積みの書類は明日に持ち越し、担当患者は非番の医師にパス。それら一連の手続きを済ませたのが午後六時のこと。その後、彼は連邦捜査局に行き、トーマス・ベネット特別捜査官と合流。消えたパトリックの捜査に手を貸すことにしたのだ。
「……それで、ご用件は?」
「この人物を見たかどうかを聞かせてほしい」
時刻は現在、午後九時半。トーマス・ベネット特別捜査官と、その右横に並ぶカルロ・サントス医師は、フロントに居たコンシェルジュの女性から話を聞いていた。
彼らが訪れていたのは、国内でも指折りの高級ホテル。市内の監視カメラに映っていたパトリックの足跡を追い、辿り着いたのがこの場所だったからだ。
トーマス・ベネット特別捜査官はパトリックの顔写真をコンシェルジュに見せる。するとコンシェルジュは「ああ、その人ですか!」と声を上げた。
「ええ、よく覚えてます。車椅子に乗った、小柄の男性ですよね。その方なら四〇三二号室に行かれました。同伴していた金髪の女性が、彼の車椅子を押してましたよ。そういえば彼はひどくお疲れのご様子でしたが、何か持病でも……?」
「病気っちゃあ、病気かもな。体質的に、疲れやすい傾向を持っているから。それで金髪の女性ってのは、こいつか?」
次にカルロ・サントス医師は、レヴィンの写真を見せる。コンシェルジュは頷き、答えた。「そうです、その女性でした。メルヴィ・シルキアという名前で、現金払いでチェックインされていますが……」
「何時頃だ?」
「えっと……――四時間前に、チェックインをされています」
手元のリストを確認しながら、コンシェルジュは言う。カルロ・サントス医師はボソっと呟くように言った。
「メルヴィなんたらって名前は、偽名だな。そんな女は実在しない」
「……じっ、実在しない!?」
コンシェルジュは驚いたように写真を二度見する。カルロ・サントス医師とトーマス・ベネット特別捜査官は顔を見合せ、頷いた。そしてトーマス・ベネット特別捜査官は言う「だがレヴィンは今、局で取り調べを受けている。そして捜査官が任意での同行を頼んだのが、六時間前だ」
「このホテルにレヴィンが来るわけがない。ということは、だ」
「ラーナーを攫ったのは、生き還った副長官か。……ドクター・サントス。前から思ってたが、君は捜査官になったほうが良いんじゃないのか?」
君の推理には感服だよ。トーマス・ベネット特別捜査官は、感嘆の声を洩らす。しかしカルロ・サントス医師は、険しい顔で言った。
「あんたら連邦捜査局の目が節穴なだけだ。……とはいえ、今回の件はあまりにもぶっ飛んでいて、突飛すぎるがな」
連邦捜査局に出向き、トーマス・ベネット特別捜査官と合流したとき。カルロ・サントス医師は真っ先にこう言った。誘拐犯は間違いなくエズラ・ホフマンだ、と。そして付け加えるように、こうも言った。
――彼を人間だと思うな、別人になり済ませるモンスターだと思え。
「で、モンスターの副長官は四〇三二号室か。コンシェルジュさん、四〇三二号室ってのは何階になるんだ?」
トーマス・ベネット特別捜査官が、コンシェルジュに尋ねる。コンシェルジュは右手でエレベーター入口を示した。
「あのエレベーターに乗り、五階で降りて下さい。エレベーターから向かってすぐ左に四〇三二号室はあります」
「そうか。ありがとう」
トーマス・ベネット特別捜査官は、コンシェルジュに笑みを向ける。
「お役に立てたようで、何よりです」
コンシェルジュはそう返した。
そして男二人はエレベーターに向かう。すると、そのときだった。
「キャアアァッ! オオカミよ、オオカミ!」
エレベーターのドアが開いた瞬間、悲鳴が上がる。なんとエレベーターの中から飛び出してきたのは、真っ黒な毛並みの狼だった。
ガルルルゥッ。狼は唸り、自分を見つめる人々を緑色の目で睨みつける。その目は純度の高いエメラルドを嵌めこんだかのように美しく澄んだ深い緑をしていた。
カルロ・サントス医師は一瞬、その目に釘付けになった。ホテル内にいた誰もが狼に恐れをなして逃げていく中、彼だけは狼を見つめていた。そして狼も視線に気付くと、カルロ・サントス医師を見る。途端に狼は唸るのをやめた。
カルロ・サントス医師の横で、トーマス・ベネット特別捜査官は息を呑む。そして彼は言った。あの狼、俺たちに襲いかかるつもりだぞ、と。
しかしカルロ・サントス医師は言った。「違う。あの犬っころに、敵意は無いみたいだぞ」
「どうして、そうだと言えるんだ」
「目を見りゃ考えていることは分かるさ。それに、あの犬っころが口に咥えてるもんを見ろよ、捜査官」
そう言っている間にも、男二人に狼は近付いてくる。のそり、のそり。狼の歩いたあとには、赤い血が続いていた。黒い狼が口に咥えているものから、血は垂れていた。
一歩歩くたびに血は滴り、ぽたぽたと白い大理石の床に落ちる。そして遂にカルロ・サントス医師の目の前に来た狼は、口に咥えていたものを彼の前に落とした。それから狼は、ホテルの出入口に向かって走っていく。キャンベラの街の夜闇に消えて行った。
狼が残していったものを、トーマス・ベネット特別捜査官は呆然と見る。カルロ・サントス医師は持ち歩いていたゴム手袋を両手にはめると、狼の落としものを拾い上げた。
「新鮮な人間の腕だな」
トーマス・ベネット特別捜査官は、眉間にしわを寄せて言う。
「ああ、右腕だ。小さい手に細い腕、手首の傷。それにこの安物の腕時計。パトリックのだよ」
カルロ・サントス医師は冷静に分析し、見当をつけた。そしてトーマス・ベネット特別捜査官は、ホテルの出入り口を見つめながら言う。
「あの狼が、ラーナーを……」
パトリック・ラーナー、彼は狼に腕を食いちぎられたのか? ――トーマス・ベネット特別捜査官はそんなことを考える。しかしカルロ・サントス医師は、その考えを否定した。
「捜査官、そりゃ違う。この断面を見ろ。これは獣に食いちぎられた傷じゃない。素早く動くノコギリ状の刃で、時間を掛けてじわじわと切断されたものだ。……俺は監察医じゃないし、正確なことは言えないが、十中八九チェーンソーだろう」
「だとしたら、今の狼は何だったんだ? わざわざ俺たちのとこに、切りたてほやほやのラーナーの腕を届けてくれたって言うのか?」
トーマス・ベネット特別捜査官は腕を組み、首を傾げる。ラーナーの右腕だったものを掴み上げるカルロ・サントス医師もまた首を傾げていた。
「さぁな、俺に訊くなよ。それより早く、四〇三二号室に行ったほうがいいんじゃないのか」
しかし、カルロ・サントス医師は薄々だが勘付いていた。もしやあの狼が、最悪の展開を覆したのではないのかと。
+ + +
カルロ・サントス医師らが狼を前に戸惑っていたころ。ノエミは連邦捜査局の取調室に居た。
「ええ、そうなの。分かってるわ、レヴィン。リッキーを連れ去ったのはあなたじゃないって」
「ならどうして連邦捜査局は、私をここに監禁してるの!? それって疑われてるからじゃないの?!」
「違う。真逆なの。とにかく、なんていうか、説明するのが難しくて……」
取り乱すレヴィンを前に、ノエミは頭を抱える。すると、なんともいえない微妙なタイミングで、コンコンッと取調室のドアがノックされた。
どうぞ、入って。ノエミは言う。すると入ってきたのは、奇抜な衣装のアイリーン・フィールドだった。
「レヴィンさん、落ち着いて。これはあなたのためにやっていることなんですよ」
アイリーンはそう言うと、ノエミに近付き耳打ちをする。取調室じゃ話が全て録画されていて都合が悪い、応接間に移動しよう。アイリーンはそう言ってきた。
だがノエミは、アイリーンの提案に応じない。ノエミは首を横に振り、拒否する。するとアイリーンは、強硬手段に出た。
アイリーンはにこっと笑い、レヴィンを見る。そしてアイリーンは言った。「あなたは容疑者じゃない。容疑も掛けられていないのに取調室に詰め込まれて、撮影されている。それってちょっと、まずいんじゃない?」
「ちょっと待ってよ、アイリーン! レヴィンは」
「レヴィンさん、ちょっと応接間に移動しましょ。私から、事情を説明するから」
私から、の部分をアイリーンはやたら強調して言った。ノエミは機嫌を悪くし、ちっと舌打ちをする。それでも構わず突っ走るアイリーンはレヴィンの腕を掴むと、彼女を立ちあがらせる。アイリーンとレヴィンは取調室を後にし、応接間へと向かっていった。
「……ぬあああっ! やり方が強引だわ。それでいて卑怯。なんなのよ、彼女! 見損なったわ!」
ノエミは大声で叫び、気が済むまで地団駄を踏む。それからノエミは、応接間に向かっていった二人を追い掛けた。
「ちょっと待ちなさいよ、アイリーン!」
その頃、キャンベラ市に設置された無数の監視カメラでは怪現象が起きていた。
監視カメラAには、パトリックを連れ去るレヴィンの姿が映っている。
監視カメラBには、パトリックを連れ去るエズラ・ホフマン副長官が映されている。
監視カメラCには、パトリックが一人で道を行く姿が映っている。
だがその監視カメラたちは、別々の場所にあるわけではない。映像の時間帯が異なっているわけでもない。映像は、同じ通りを、同じ時間に、それぞれ別の視点から撮影していたのだ。にも関わらず、カメラ毎に映っているものが違っている。
科学では説明できないことが起きていたのだ。
だが目撃証言は、全て一致していた。パトリックを見たという人物たちは、誰もが口を揃えてこう言った。彼の車椅子を押していたのはレヴィンだ、と。
なら目撃者たちが、口裏合わせをしていたのか? いや、それは考えられない。十三人いる目撃者たちには、誰にもどこにも共通点がないからだ。年齢層だって、性別だってバラバラ。十七歳の汚い身なりをした家出少年も居れば、九十四歳のセレブなマダムも居た。
口裏合わせなんて到底できっこない。だとしたら、人の目にはそう見えていたと考えるのが筋だ。しかし機械の目は誤魔化せなかった。……または、機械がエラーを起こしたともいえる。
「アイリーン! 待てって言ってんでしょ!!」
どうなってんのよ、この犯人。頭を抱えるノエミが悲鳴を上げていたとき、連邦捜査局にやってきたカルロ・サントス医師がこう告げた。
『犯人は間違いなくエズラ・ホフマン副長官だ。だが彼を人間だと思うな。別人になり済ませるモンスターだと思え』
相手がモンスターであると思えば、そこからはもう何でもアリだ。「現実的じゃない」なんて言葉は意味を失くし、「とにかく彼が犯人なんだ」という言葉だけが明確な意味を持つ。
立証? そんなものは後でどうにでもなる。
けれどもその前には、容疑者を一人に絞るという作業が必要だった。
「ねぇ、アイリーン! 止まってよ、アイリーン! あんた歩くの速すぎるわ!」
となると目撃証言が出てしまっているレヴィンという存在は、とても邪魔だった。
その時間帯、レヴィンは局に居た。そんな明確なアリバイがあれば、彼女は容疑者から外される。だから連邦捜査局は彼女を容疑者から外すため局に連行したのだ。
……けれども詳しい事情を、連邦捜査局はレヴィンに説明していなかった。そのせいでレヴィンは混乱し、取り乱している。それを見かねたアイリーンが、痺れを切らしたというわけだ。
「いい、レヴィン。よく聞いてね。あなたは六時間前からずっと、ここに居たでしょう。取調室に閉じ込められて、どうでもいい雑談だけをされていた」
「……ええ、そうです」
「その点が今、とても大事なの」
脚長のノエミが追いつけない速度で廊下を歩くアイリーンは、歩きながらレヴィンに説明する。
「四時間前、あなたになりすました人物がホテルにチェックインした。パトリックを連れた、あなたがね。けど本物のあなたは、ずっとここに居た」
「待ってください、アイリーンさん。パトリックが、どうしたんですか」
「彼ね、凶悪犯に連れ去られたの。あなたになり済ました、凶悪犯に」
レヴィンの顔が青ざめていく。それでもアイリーンは言葉を続けた。
「凶悪犯の罪を被って、投獄されたくないでしょ? だからお願い。パトリックが救出されるまでは、この局の中に居て。連邦捜査局もあなたが犯人じゃないってことは分かってるから、ここから出したくないの。この中に居れば、あなたには明確なアリバイができる。カメラ映像つきの、完璧なアリバイが」
「なら私は、どうすれば」
「取調室に戻るの。そこでノエミ・セディージョ特別捜査官のお喋りの相手をして」
「……」
「パトリックだって、あなたが無実の罪で投獄されることを望まないはずだよ。だって彼、あなたのことを気に入ったみたいだから。だから、お願い。協力して」
アイリーンはそう言うと、歩みを止める。レヴィンは不安げな表情で、アイリーンの目を見つめる。するとやっと追いついたノエミが、捲し立てるように言った。
「レヴィン、今すぐ取調室に戻って! それとアイリーン、こんなことはもう二度としないで!!」
+ + +
そしてカルロ・サントス医師が、ホテルのフロントでコンシェルジュと話していたころ。ホテルの四〇三二号室に監禁されていたパトリックは口を閉ざしていた。
「……」
半開きの目と、どこを見ているのかも分からない焦点の合ってない瞳は、彼が解離症状を起こしている証。意識は何処かに飛んでいて、目の前の現実を見ていなかった。
朝の八時。ASI本部を後にした彼は、まっすぐ自宅に戻ろうとした。ASIが用意してくれた、アイリーンと共に暮らしているあの家に。なんだか疲れ切っていて、体がだるかったから。すぐに寝ようと、そう思っていた。
そう思っていたとき。パトリックの目の前に、なぜかレヴィンが立っていた。長い金髪を風になびかせ色っぽく笑うレヴィンが立っていた。けれどもパトリックはすぐに気付いた。目の前に居るのはレヴィンではない、と。本物のレヴィンとは雰囲気がなんとなく違っていたし、なにより殺気が漂っていたから。そしてパトリックは気付く。彼の正体はエズラ・ホフマン副長官だと。
パトリックはその場を立ち去り、逃げようとした。だが抵抗したところで無駄だった。車椅子の操作権を奪われてしまえば、パトリックはそこで終わり。
だから車椅子は嫌だったんだ。そう悪態を吐いてみたところで、助けてくれる人など誰も居ない。そのままパトリックは連れ去られ、ホテルの一室に放り込まれた。
部屋に入るなり車椅子から突き落とされたパトリックは、壁に背中を預けて、床に座っていた。彼の腕は投げ出されていて、顔は下を向いている。
すると白髭の男――死んでいなかったエズラ・ホフマン副長官――が言った。
「お前がバーソロミュー・ブラッドフォードから受け取った手帳はどこにあるのかと聞いている。そろそろ、答えたほうがいいんじゃあないのか」
いつかアーサーが持っているのを見た拷問器具が、今はパトリックの前にずらりと並べられている。
ナイフのようなもの、ペンチのようなもの、用途が分からないもの……。それらの前に立つ副長官は、苛立ちに満ちた声で言った。
「一冊の手記と、五冊の手帳があったはずだ。リチャード・エローラの手記と、ブリジット・エローラの日記。君はその価値を知っているのかね、ラーナー」
副長官はずらりと並んだ拷問器具の中から、手術用のメスに似た形をしたナイフを取る。彼はパトリックにゆっくりと近付くと、パトリックの柔らかい頬のうえにナイフの刃を滑らせた。
ナイフが滑ったあとには、赤い線が続く。やがて線からは、真っ赤な血液がぷつぷつと滲み出た。紙で指先を切った時のようなひりつく痛みが、涙腺を刺激し、涙を誘発する。
パトリックの半開きの目には涙が滲み、零れた。しかし彼自身は痛みを感じていなかったし、それが痛みだと理解していなかった。
「リチャード・エローラの手記は……まあ、そこまでの価値はない。うぬぼれに満ちた老人の、先入観により書かれた見当違いのものだからだ。しかしブリジット・エローラは違う。彼女は、あの男をよく観察し、理解していた。彼女により記された分析は、あの男を扱う際に大いに役に立つことだろう。いうなれば、あの男の取扱説明書みたいなものだ」
パトリックの頬を切ったナイフを、副長官はパトリックの左下腹部に突き刺す。それでもパトリックは何も言わなかった。何も反応を示さなかった。
「我らが猟犬、アルファルド。彼は我々のために、非常によく働いてくれているよ。主人格の時は、な」
「……」
「だが別人格となってしまえば、彼は我々の指示に従わなくなる。飼い主の手に噛みついてくるのだよ。アルファルドは非常に優秀な猟犬で、我々としても彼を手放したくはない。だが彼の保有するもう一つの人格は、あまりにも厄介で目障りなのだ。だからこそ我々は、そのもう一つの人格をも従えなければならない。その為の鍵が、ブリジット・エローラの手帳なのだ」
「…………」
「ペルモンド・バルロッツィ、あの人格はあまりにも危険だ。道具の本分を弁えていない。道具に感情は要らない、道具に善悪を計る物差しは要らない、道具に自由意思は不要なのだ。にも関わらずあの男は、自由意思を欲し、仕えるべき主人に背こうとする。あの意思を挫かねばならんのだ」
副長官はクドクドとパトリックに説明をする。しかしパトリックはそれを聞いていない。意識と無意識の狭間を彷徨うパトリックは、何も見ていなければ、何も聞いていないし、何も感じていなかった。
だが白髭の老人は、何も分かっていなかった。副長官は、パトリックがすっとぼけているだけだと認識していたのだ。舌打ちをする副長官は拷問器具を片付けると、次は大きな機械を持ってくる。錆びついた刃の、チェーンソーだった。
副長官はパトリックに、チェーンソーを見せつけた。電源をオンにし、高速で回るノコギリ状の刃をパトリックの顔の前に持っていく。
だがパトリックは反応を示さない。ウィーン、ウィーンと鳴くチェーンソーの独特の音にも、反応しない。そしてチェーンソーが自分の右腕、肩口にめり込んでも、声を上げず、泣きもせず、動かなかった。
「……パトリック・ラーナー。お前は一体、何なのだ」
チェーンソーの刃が骨にあたり、削りはじめる。パトリックが着ていた白いYシャツは、赤くなる。血肉が飛んだ。骨の粉が、おがくずのように床に積もっていく。
それでもパトリックは動かなかった。
「手帳の在り処を言えばそれで良いのだぞ、ラーナー」
「……」
「なにもアーサーに、そこまでの忠義を誓わなくてもよいではないか」
「……」
「イーライ・グリッサムが襲撃した、かつてのお前の自宅から押収した品を散々探したが、手帳は何処にも無かった。そしてお前が今暮らしているあの家の中も探したが、見つかったのはリチャード・エローラの手記のみだ。ブリジット・エローラの手帳はどこにもない。お前はどこに、あの手帳を隠しているんだ」
ついに骨が切断された。残された皮膚と筋肉だけで辛うじて繋がる腕は、だらりと垂れて揺れている。
副長官は、手帳の在り処を知りたいだけだった。それが、ここまでやることになるとは。これは副長官も想定していなかった展開だ。
「パトリック・ラーナー、答えろ。お前は四時間、よく耐えた。だがそろそろ、限界だろうに。これでは体が持たないだろう。アーサーのために、お前は死ぬというのか?」
パトリックは答えない。動かない。何にも反応しない。彼はぴくりとも動かなくなっていた。
そしてついに、パトリックの右腕が床に落ちる。
「手帳の在り処を言え、言うんだ!」
ブリジット・エローラの手帳。それの現在の所有者はカルロ・サントス医師だった。カルロ・サントス医師の自宅に手帳はあり、その手帳は彼の机の引き出しの中に入れられていた。とにかく、手帳はパトリックの手元にはなかったのだ。それにパトリックは、カルロ・サントス医師がどこに手帳を隠したのかをそもそも知らない。
パトリックが知っているわけがない。にも関わらず、彼が黙りこくっているがために、情報を握っていると誤解されたのだ。
知り得ていない情報のために右腕が今、失われた。パトリックの意識がないうちに、切り落とされてしまったのだ。
「ラーナー、答えろ! 答えるんだ!」
チェーンソーを下ろすと、副長官はパトリックの胸倉に掴みかかる。パトリックの耳元で彼は怒鳴り、捲し立てた。それでもパトリックは動かない。彼は何も喋らなかった。
そうこうしていると、部屋のドアがノックされる。驚いた副長官が振り返ると、既にドアは開いており、部屋の中には人が入っていた。
「よぉ、エズラ。そんな状態じゃ、怒鳴ろうが揺すろうが何しようが、そいつは喋らないぞ。意識がどこかにぶっ飛んじまってる」
「……アルファルド、何故お前がここに」
「そうだな……。血のにおいがしたからじゃないのか? なんせ猟犬は鼻がいいもんで」
アルファルド。そう呼ばれた男はドアをそっと閉めると上っ面だけの笑みを取り繕う。そして男は緑色の瞳でぐったりとした様子のパトリックを見て、次にチェーンソーを見て、最後にエズラ・ホフマン副長官を見る。それから緑色の目の男は言った。
「そろそろ、時間だ。連邦捜査局と精神科医の二人組が来る」
男は、黒のトレンチコートを着ていた。コートの丈は長く、裾はふくらはぎをすっぽりと隠している。そして頭には黒の中折れ棒を被り、黒縁の眼鏡をしていて、両手に黒革の手袋をしていた。それから彼は特徴的な鷲鼻をしており、顎周りには不精髭を生やしていた。彼はペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚にそっくりの風貌をしていただろう。
だが、高位技師官僚とは少しだけ違っていた。高位技師官僚の瞳はくすんだ蒼色だったのに対し、その男の目は緑色だった。それも美しく輝くエメラルドのような、澄んだ緑色だったのだ。
そしてアルファルドと呼ばれた緑色の瞳の男は間合いを詰めながら、副長官に言う。
「命令されたとおり、アーサーは眠らせた。あいつは今、気を失っている。目覚めるのは二時間後ってなとこだろう」
「そうか。よくやった」
副長官は満足そうに笑い、緑色の瞳の男から目を逸らす。その直後だった。
「……けどよ。今の俺は最高に不機嫌なのさ」
チェーンソーに手を伸ばした緑色の瞳の男は、それを掴み、振り上げた。回転していないチェーンソーの刃が、副長官に突き刺さる。背中から差し込まれた刃は胴を貫通し、腹から顔を出していた。すると緑色の瞳の男は言った。
「飼い主のくせに犬の見分けも付かないとは。情けない飼い主だぜ、ったくよ。――俺はジェドだ、相棒のほうじゃない」
ジェドと名乗った緑色の瞳の男はニタニタと笑う。それからジェドは副長官の体に刺したチェーンソーを、これでもかと更に深くねじ込んだ。副長官は痛がる素振りを見せるが、彼の体から血が滴るようなことはなかった。
最後に副長官はジェドを睨みつけると、消え失せる。アーサーのように煙となって消えていった。
「チッ、逃げやがったな……」
ジェドはそう呟くと、舌打ちをする。それからジェドは緑色の目で動かないパトリックを見下ろした。
「……」
ジェドはポケットからハンカチを取り出すと、パトリックの横に膝をついた。彼はハンカチを軽く撚 り、短冊のような形にする。そのハンカチをパトリックの右腕、切断面よりも少し上に巻きつけて結び、ぎゅっときつく締めた。これにより切断面から流出していた血液の流れが、幾分か緩やかになる。
続いてジェドは黒革の手袋をはめた手で、切り付けられた痕が残るパトリックの頬をぺちぺちと叩く。しっかりしろ、と彼は声を掛けるが、パトリックの目はどこかを彷徨ったままで視線が交わることはなかった。
しかし息はある。最悪の事態は避けられたようだ。
ジェドはそれを確認したあと、だるそうな声で独り言を言う。
「……何もかもが、予定通りに進んでいるな。このままだとアーサーの大暴走は避けられないぞ……」
そんなジェドの姿はいつしか小さくなっており、パトリックの頬に触れていた手も、真黒な狼の前足に変わっていた。
「……はぁ、キミアのクソカラスめ。仕事をしやがれってんだ……」
真黒な毛並みの狼は、人語でぼやく。狼は動かなくなったパトリックを緑色の目で心配するように見た。それから狼は、切り落とされたパトリックの右腕を口に咥える。そして部屋から飛び出し、無人のエレベーターに飛び乗った。
「……へへっ。ちょいと“ほつれ”を仕込んでおくか……!」
【次話へ】
「サントス先生!? どうしてあなたが、救命救急に」
例の負傷者の担当となった救命医は、同伴者として来たカルロ・サントス医師を見るなり、驚いたような顔をする。カルロ・サントス医師は、可能な限り冷静に答えた。
「見ての通り、こいつの同伴だよ。……右上肢をチェーンソーで切断された。それと左下腹部に刺し傷あり。動脈すれすれの位置にナイフが刺さったままになっている、気をつけろ。それから、彼は解離性障害だ。解離の患者だから暴れることはないと思うが念のため、注意を。名前はパトリック・ラーナーだ。二十五歳、男性。血液型はABだ」
「ありがとうございます、サントス先生。あとは私が。外来受付で待機していてください」
負傷者を乗せたストレッチャーを、救命医は引き受ける。治療スペースにストレッチャーは運ばれて行った。
カルロ・サントス医師はその様子を見送る。それから外来受付に移動した。
「……」
外来受付のごった返す人の波の中に、ノエミの姿があった。カルロ・サントス医師はノエミに近付き、彼女に声を掛ける。すると目に涙を浮かべたノエミが言った。
「ねぇ、カール。リッキーは助かるんでしょう?」
カルロ・サントス医師は目を伏せ、顔を少し下に向ける。
「仮に、助かったとしても。俺たちが知っているパトリック・ラーナーが戻ってくるという期待は抱かないほうがいい」
もしもを願い、絶望をしないように。希望を与えない言葉を、カルロ・サントス医師はあえて口にする。ノエミはその言葉に泣き崩れた。
ノエミはぼろぼろと涙を流し、嗚咽を上げる。彼女は自分よりも少し身長の高いカルロ・サントス医師に抱き付き、こう言った。
「もう私、真実になんか興味無いわ! アルストグランの闇とか、そんなのもうどうでもいいの! だから、お願い。リッキーを、戻して……!」
外来受付には、レヴィンの姿も見えていた。レヴィンは誰かを探すように、きょろきょろと首を回している。だがカルロ・サントス医師は、レヴィンに声はかけなかった。彼女の姿を、ただ見つめていた。
「……」
人の波が行き交う速度が、本来のスピードよりもずっと遅く感じられる。スローモーションの動画を見せられているような気分を、カルロ・サントス医師は感じていた。
まるでファンタスマゴリアのようだとカルロ・サントス医師は感じていた。そのとき、視覚以外の彼の感覚は全て、一時的に遮断されていた。
急用ができたと無理を言って、カルロ・サントス医師は定時前に仕事を切り上げてきた。山積みの書類は明日に持ち越し、担当患者は非番の医師にパス。それら一連の手続きを済ませたのが午後六時のこと。その後、彼は連邦捜査局に行き、トーマス・ベネット特別捜査官と合流。消えたパトリックの捜査に手を貸すことにしたのだ。
「……それで、ご用件は?」
「この人物を見たかどうかを聞かせてほしい」
時刻は現在、午後九時半。トーマス・ベネット特別捜査官と、その右横に並ぶカルロ・サントス医師は、フロントに居たコンシェルジュの女性から話を聞いていた。
彼らが訪れていたのは、国内でも指折りの高級ホテル。市内の監視カメラに映っていたパトリックの足跡を追い、辿り着いたのがこの場所だったからだ。
トーマス・ベネット特別捜査官はパトリックの顔写真をコンシェルジュに見せる。するとコンシェルジュは「ああ、その人ですか!」と声を上げた。
「ええ、よく覚えてます。車椅子に乗った、小柄の男性ですよね。その方なら四〇三二号室に行かれました。同伴していた金髪の女性が、彼の車椅子を押してましたよ。そういえば彼はひどくお疲れのご様子でしたが、何か持病でも……?」
「病気っちゃあ、病気かもな。体質的に、疲れやすい傾向を持っているから。それで金髪の女性ってのは、こいつか?」
次にカルロ・サントス医師は、レヴィンの写真を見せる。コンシェルジュは頷き、答えた。「そうです、その女性でした。メルヴィ・シルキアという名前で、現金払いでチェックインされていますが……」
「何時頃だ?」
「えっと……――四時間前に、チェックインをされています」
手元のリストを確認しながら、コンシェルジュは言う。カルロ・サントス医師はボソっと呟くように言った。
「メルヴィなんたらって名前は、偽名だな。そんな女は実在しない」
「……じっ、実在しない!?」
コンシェルジュは驚いたように写真を二度見する。カルロ・サントス医師とトーマス・ベネット特別捜査官は顔を見合せ、頷いた。そしてトーマス・ベネット特別捜査官は言う「だがレヴィンは今、局で取り調べを受けている。そして捜査官が任意での同行を頼んだのが、六時間前だ」
「このホテルにレヴィンが来るわけがない。ということは、だ」
「ラーナーを攫ったのは、生き還った副長官か。……ドクター・サントス。前から思ってたが、君は捜査官になったほうが良いんじゃないのか?」
君の推理には感服だよ。トーマス・ベネット特別捜査官は、感嘆の声を洩らす。しかしカルロ・サントス医師は、険しい顔で言った。
「あんたら連邦捜査局の目が節穴なだけだ。……とはいえ、今回の件はあまりにもぶっ飛んでいて、突飛すぎるがな」
連邦捜査局に出向き、トーマス・ベネット特別捜査官と合流したとき。カルロ・サントス医師は真っ先にこう言った。誘拐犯は間違いなくエズラ・ホフマンだ、と。そして付け加えるように、こうも言った。
――彼を人間だと思うな、別人になり済ませるモンスターだと思え。
「で、モンスターの副長官は四〇三二号室か。コンシェルジュさん、四〇三二号室ってのは何階になるんだ?」
トーマス・ベネット特別捜査官が、コンシェルジュに尋ねる。コンシェルジュは右手でエレベーター入口を示した。
「あのエレベーターに乗り、五階で降りて下さい。エレベーターから向かってすぐ左に四〇三二号室はあります」
「そうか。ありがとう」
トーマス・ベネット特別捜査官は、コンシェルジュに笑みを向ける。
「お役に立てたようで、何よりです」
コンシェルジュはそう返した。
そして男二人はエレベーターに向かう。すると、そのときだった。
「キャアアァッ! オオカミよ、オオカミ!」
エレベーターのドアが開いた瞬間、悲鳴が上がる。なんとエレベーターの中から飛び出してきたのは、真っ黒な毛並みの狼だった。
ガルルルゥッ。狼は唸り、自分を見つめる人々を緑色の目で睨みつける。その目は純度の高いエメラルドを嵌めこんだかのように美しく澄んだ深い緑をしていた。
カルロ・サントス医師は一瞬、その目に釘付けになった。ホテル内にいた誰もが狼に恐れをなして逃げていく中、彼だけは狼を見つめていた。そして狼も視線に気付くと、カルロ・サントス医師を見る。途端に狼は唸るのをやめた。
カルロ・サントス医師の横で、トーマス・ベネット特別捜査官は息を呑む。そして彼は言った。あの狼、俺たちに襲いかかるつもりだぞ、と。
しかしカルロ・サントス医師は言った。「違う。あの犬っころに、敵意は無いみたいだぞ」
「どうして、そうだと言えるんだ」
「目を見りゃ考えていることは分かるさ。それに、あの犬っころが口に咥えてるもんを見ろよ、捜査官」
そう言っている間にも、男二人に狼は近付いてくる。のそり、のそり。狼の歩いたあとには、赤い血が続いていた。黒い狼が口に咥えているものから、血は垂れていた。
一歩歩くたびに血は滴り、ぽたぽたと白い大理石の床に落ちる。そして遂にカルロ・サントス医師の目の前に来た狼は、口に咥えていたものを彼の前に落とした。それから狼は、ホテルの出入口に向かって走っていく。キャンベラの街の夜闇に消えて行った。
狼が残していったものを、トーマス・ベネット特別捜査官は呆然と見る。カルロ・サントス医師は持ち歩いていたゴム手袋を両手にはめると、狼の落としものを拾い上げた。
「新鮮な人間の腕だな」
トーマス・ベネット特別捜査官は、眉間にしわを寄せて言う。
「ああ、右腕だ。小さい手に細い腕、手首の傷。それにこの安物の腕時計。パトリックのだよ」
カルロ・サントス医師は冷静に分析し、見当をつけた。そしてトーマス・ベネット特別捜査官は、ホテルの出入り口を見つめながら言う。
「あの狼が、ラーナーを……」
パトリック・ラーナー、彼は狼に腕を食いちぎられたのか? ――トーマス・ベネット特別捜査官はそんなことを考える。しかしカルロ・サントス医師は、その考えを否定した。
「捜査官、そりゃ違う。この断面を見ろ。これは獣に食いちぎられた傷じゃない。素早く動くノコギリ状の刃で、時間を掛けてじわじわと切断されたものだ。……俺は監察医じゃないし、正確なことは言えないが、十中八九チェーンソーだろう」
「だとしたら、今の狼は何だったんだ? わざわざ俺たちのとこに、切りたてほやほやのラーナーの腕を届けてくれたって言うのか?」
トーマス・ベネット特別捜査官は腕を組み、首を傾げる。ラーナーの右腕だったものを掴み上げるカルロ・サントス医師もまた首を傾げていた。
「さぁな、俺に訊くなよ。それより早く、四〇三二号室に行ったほうがいいんじゃないのか」
しかし、カルロ・サントス医師は薄々だが勘付いていた。もしやあの狼が、最悪の展開を覆したのではないのかと。
カルロ・サントス医師らが狼を前に戸惑っていたころ。ノエミは連邦捜査局の取調室に居た。
「ええ、そうなの。分かってるわ、レヴィン。リッキーを連れ去ったのはあなたじゃないって」
「ならどうして連邦捜査局は、私をここに監禁してるの!? それって疑われてるからじゃないの?!」
「違う。真逆なの。とにかく、なんていうか、説明するのが難しくて……」
取り乱すレヴィンを前に、ノエミは頭を抱える。すると、なんともいえない微妙なタイミングで、コンコンッと取調室のドアがノックされた。
どうぞ、入って。ノエミは言う。すると入ってきたのは、奇抜な衣装のアイリーン・フィールドだった。
「レヴィンさん、落ち着いて。これはあなたのためにやっていることなんですよ」
アイリーンはそう言うと、ノエミに近付き耳打ちをする。取調室じゃ話が全て録画されていて都合が悪い、応接間に移動しよう。アイリーンはそう言ってきた。
だがノエミは、アイリーンの提案に応じない。ノエミは首を横に振り、拒否する。するとアイリーンは、強硬手段に出た。
アイリーンはにこっと笑い、レヴィンを見る。そしてアイリーンは言った。「あなたは容疑者じゃない。容疑も掛けられていないのに取調室に詰め込まれて、撮影されている。それってちょっと、まずいんじゃない?」
「ちょっと待ってよ、アイリーン! レヴィンは」
「レヴィンさん、ちょっと応接間に移動しましょ。私から、事情を説明するから」
私から、の部分をアイリーンはやたら強調して言った。ノエミは機嫌を悪くし、ちっと舌打ちをする。それでも構わず突っ走るアイリーンはレヴィンの腕を掴むと、彼女を立ちあがらせる。アイリーンとレヴィンは取調室を後にし、応接間へと向かっていった。
「……ぬあああっ! やり方が強引だわ。それでいて卑怯。なんなのよ、彼女! 見損なったわ!」
ノエミは大声で叫び、気が済むまで地団駄を踏む。それからノエミは、応接間に向かっていった二人を追い掛けた。
「ちょっと待ちなさいよ、アイリーン!」
その頃、キャンベラ市に設置された無数の監視カメラでは怪現象が起きていた。
監視カメラAには、パトリックを連れ去るレヴィンの姿が映っている。
監視カメラBには、パトリックを連れ去るエズラ・ホフマン副長官が映されている。
監視カメラCには、パトリックが一人で道を行く姿が映っている。
だがその監視カメラたちは、別々の場所にあるわけではない。映像の時間帯が異なっているわけでもない。映像は、同じ通りを、同じ時間に、それぞれ別の視点から撮影していたのだ。にも関わらず、カメラ毎に映っているものが違っている。
科学では説明できないことが起きていたのだ。
だが目撃証言は、全て一致していた。パトリックを見たという人物たちは、誰もが口を揃えてこう言った。彼の車椅子を押していたのはレヴィンだ、と。
なら目撃者たちが、口裏合わせをしていたのか? いや、それは考えられない。十三人いる目撃者たちには、誰にもどこにも共通点がないからだ。年齢層だって、性別だってバラバラ。十七歳の汚い身なりをした家出少年も居れば、九十四歳のセレブなマダムも居た。
口裏合わせなんて到底できっこない。だとしたら、人の目にはそう見えていたと考えるのが筋だ。しかし機械の目は誤魔化せなかった。……または、機械がエラーを起こしたともいえる。
「アイリーン! 待てって言ってんでしょ!!」
どうなってんのよ、この犯人。頭を抱えるノエミが悲鳴を上げていたとき、連邦捜査局にやってきたカルロ・サントス医師がこう告げた。
『犯人は間違いなくエズラ・ホフマン副長官だ。だが彼を人間だと思うな。別人になり済ませるモンスターだと思え』
相手がモンスターであると思えば、そこからはもう何でもアリだ。「現実的じゃない」なんて言葉は意味を失くし、「とにかく彼が犯人なんだ」という言葉だけが明確な意味を持つ。
立証? そんなものは後でどうにでもなる。
けれどもその前には、容疑者を一人に絞るという作業が必要だった。
「ねぇ、アイリーン! 止まってよ、アイリーン! あんた歩くの速すぎるわ!」
となると目撃証言が出てしまっているレヴィンという存在は、とても邪魔だった。
その時間帯、レヴィンは局に居た。そんな明確なアリバイがあれば、彼女は容疑者から外される。だから連邦捜査局は彼女を容疑者から外すため局に連行したのだ。
……けれども詳しい事情を、連邦捜査局はレヴィンに説明していなかった。そのせいでレヴィンは混乱し、取り乱している。それを見かねたアイリーンが、痺れを切らしたというわけだ。
「いい、レヴィン。よく聞いてね。あなたは六時間前からずっと、ここに居たでしょう。取調室に閉じ込められて、どうでもいい雑談だけをされていた」
「……ええ、そうです」
「その点が今、とても大事なの」
脚長のノエミが追いつけない速度で廊下を歩くアイリーンは、歩きながらレヴィンに説明する。
「四時間前、あなたになりすました人物がホテルにチェックインした。パトリックを連れた、あなたがね。けど本物のあなたは、ずっとここに居た」
「待ってください、アイリーンさん。パトリックが、どうしたんですか」
「彼ね、凶悪犯に連れ去られたの。あなたになり済ました、凶悪犯に」
レヴィンの顔が青ざめていく。それでもアイリーンは言葉を続けた。
「凶悪犯の罪を被って、投獄されたくないでしょ? だからお願い。パトリックが救出されるまでは、この局の中に居て。連邦捜査局もあなたが犯人じゃないってことは分かってるから、ここから出したくないの。この中に居れば、あなたには明確なアリバイができる。カメラ映像つきの、完璧なアリバイが」
「なら私は、どうすれば」
「取調室に戻るの。そこでノエミ・セディージョ特別捜査官のお喋りの相手をして」
「……」
「パトリックだって、あなたが無実の罪で投獄されることを望まないはずだよ。だって彼、あなたのことを気に入ったみたいだから。だから、お願い。協力して」
アイリーンはそう言うと、歩みを止める。レヴィンは不安げな表情で、アイリーンの目を見つめる。するとやっと追いついたノエミが、捲し立てるように言った。
「レヴィン、今すぐ取調室に戻って! それとアイリーン、こんなことはもう二度としないで!!」
そしてカルロ・サントス医師が、ホテルのフロントでコンシェルジュと話していたころ。ホテルの四〇三二号室に監禁されていたパトリックは口を閉ざしていた。
「……」
半開きの目と、どこを見ているのかも分からない焦点の合ってない瞳は、彼が解離症状を起こしている証。意識は何処かに飛んでいて、目の前の現実を見ていなかった。
朝の八時。ASI本部を後にした彼は、まっすぐ自宅に戻ろうとした。ASIが用意してくれた、アイリーンと共に暮らしているあの家に。なんだか疲れ切っていて、体がだるかったから。すぐに寝ようと、そう思っていた。
そう思っていたとき。パトリックの目の前に、なぜかレヴィンが立っていた。長い金髪を風になびかせ色っぽく笑うレヴィンが立っていた。けれどもパトリックはすぐに気付いた。目の前に居るのはレヴィンではない、と。本物のレヴィンとは雰囲気がなんとなく違っていたし、なにより殺気が漂っていたから。そしてパトリックは気付く。彼の正体はエズラ・ホフマン副長官だと。
パトリックはその場を立ち去り、逃げようとした。だが抵抗したところで無駄だった。車椅子の操作権を奪われてしまえば、パトリックはそこで終わり。
だから車椅子は嫌だったんだ。そう悪態を吐いてみたところで、助けてくれる人など誰も居ない。そのままパトリックは連れ去られ、ホテルの一室に放り込まれた。
部屋に入るなり車椅子から突き落とされたパトリックは、壁に背中を預けて、床に座っていた。彼の腕は投げ出されていて、顔は下を向いている。
すると白髭の男――死んでいなかったエズラ・ホフマン副長官――が言った。
「お前がバーソロミュー・ブラッドフォードから受け取った手帳はどこにあるのかと聞いている。そろそろ、答えたほうがいいんじゃあないのか」
いつかアーサーが持っているのを見た拷問器具が、今はパトリックの前にずらりと並べられている。
ナイフのようなもの、ペンチのようなもの、用途が分からないもの……。それらの前に立つ副長官は、苛立ちに満ちた声で言った。
「一冊の手記と、五冊の手帳があったはずだ。リチャード・エローラの手記と、ブリジット・エローラの日記。君はその価値を知っているのかね、ラーナー」
副長官はずらりと並んだ拷問器具の中から、手術用のメスに似た形をしたナイフを取る。彼はパトリックにゆっくりと近付くと、パトリックの柔らかい頬のうえにナイフの刃を滑らせた。
ナイフが滑ったあとには、赤い線が続く。やがて線からは、真っ赤な血液がぷつぷつと滲み出た。紙で指先を切った時のようなひりつく痛みが、涙腺を刺激し、涙を誘発する。
パトリックの半開きの目には涙が滲み、零れた。しかし彼自身は痛みを感じていなかったし、それが痛みだと理解していなかった。
「リチャード・エローラの手記は……まあ、そこまでの価値はない。うぬぼれに満ちた老人の、先入観により書かれた見当違いのものだからだ。しかしブリジット・エローラは違う。彼女は、あの男をよく観察し、理解していた。彼女により記された分析は、あの男を扱う際に大いに役に立つことだろう。いうなれば、あの男の取扱説明書みたいなものだ」
パトリックの頬を切ったナイフを、副長官はパトリックの左下腹部に突き刺す。それでもパトリックは何も言わなかった。何も反応を示さなかった。
「我らが猟犬、アルファルド。彼は我々のために、非常によく働いてくれているよ。主人格の時は、な」
「……」
「だが別人格となってしまえば、彼は我々の指示に従わなくなる。飼い主の手に噛みついてくるのだよ。アルファルドは非常に優秀な猟犬で、我々としても彼を手放したくはない。だが彼の保有するもう一つの人格は、あまりにも厄介で目障りなのだ。だからこそ我々は、そのもう一つの人格をも従えなければならない。その為の鍵が、ブリジット・エローラの手帳なのだ」
「…………」
「ペルモンド・バルロッツィ、あの人格はあまりにも危険だ。道具の本分を弁えていない。道具に感情は要らない、道具に善悪を計る物差しは要らない、道具に自由意思は不要なのだ。にも関わらずあの男は、自由意思を欲し、仕えるべき主人に背こうとする。あの意思を挫かねばならんのだ」
副長官はクドクドとパトリックに説明をする。しかしパトリックはそれを聞いていない。意識と無意識の狭間を彷徨うパトリックは、何も見ていなければ、何も聞いていないし、何も感じていなかった。
だが白髭の老人は、何も分かっていなかった。副長官は、パトリックがすっとぼけているだけだと認識していたのだ。舌打ちをする副長官は拷問器具を片付けると、次は大きな機械を持ってくる。錆びついた刃の、チェーンソーだった。
副長官はパトリックに、チェーンソーを見せつけた。電源をオンにし、高速で回るノコギリ状の刃をパトリックの顔の前に持っていく。
だがパトリックは反応を示さない。ウィーン、ウィーンと鳴くチェーンソーの独特の音にも、反応しない。そしてチェーンソーが自分の右腕、肩口にめり込んでも、声を上げず、泣きもせず、動かなかった。
「……パトリック・ラーナー。お前は一体、何なのだ」
チェーンソーの刃が骨にあたり、削りはじめる。パトリックが着ていた白いYシャツは、赤くなる。血肉が飛んだ。骨の粉が、おがくずのように床に積もっていく。
それでもパトリックは動かなかった。
「手帳の在り処を言えばそれで良いのだぞ、ラーナー」
「……」
「なにもアーサーに、そこまでの忠義を誓わなくてもよいではないか」
「……」
「イーライ・グリッサムが襲撃した、かつてのお前の自宅から押収した品を散々探したが、手帳は何処にも無かった。そしてお前が今暮らしているあの家の中も探したが、見つかったのはリチャード・エローラの手記のみだ。ブリジット・エローラの手帳はどこにもない。お前はどこに、あの手帳を隠しているんだ」
ついに骨が切断された。残された皮膚と筋肉だけで辛うじて繋がる腕は、だらりと垂れて揺れている。
副長官は、手帳の在り処を知りたいだけだった。それが、ここまでやることになるとは。これは副長官も想定していなかった展開だ。
「パトリック・ラーナー、答えろ。お前は四時間、よく耐えた。だがそろそろ、限界だろうに。これでは体が持たないだろう。アーサーのために、お前は死ぬというのか?」
パトリックは答えない。動かない。何にも反応しない。彼はぴくりとも動かなくなっていた。
そしてついに、パトリックの右腕が床に落ちる。
「手帳の在り処を言え、言うんだ!」
ブリジット・エローラの手帳。それの現在の所有者はカルロ・サントス医師だった。カルロ・サントス医師の自宅に手帳はあり、その手帳は彼の机の引き出しの中に入れられていた。とにかく、手帳はパトリックの手元にはなかったのだ。それにパトリックは、カルロ・サントス医師がどこに手帳を隠したのかをそもそも知らない。
パトリックが知っているわけがない。にも関わらず、彼が黙りこくっているがために、情報を握っていると誤解されたのだ。
知り得ていない情報のために右腕が今、失われた。パトリックの意識がないうちに、切り落とされてしまったのだ。
「ラーナー、答えろ! 答えるんだ!」
チェーンソーを下ろすと、副長官はパトリックの胸倉に掴みかかる。パトリックの耳元で彼は怒鳴り、捲し立てた。それでもパトリックは動かない。彼は何も喋らなかった。
そうこうしていると、部屋のドアがノックされる。驚いた副長官が振り返ると、既にドアは開いており、部屋の中には人が入っていた。
「よぉ、エズラ。そんな状態じゃ、怒鳴ろうが揺すろうが何しようが、そいつは喋らないぞ。意識がどこかにぶっ飛んじまってる」
「……アルファルド、何故お前がここに」
「そうだな……。血のにおいがしたからじゃないのか? なんせ猟犬は鼻がいいもんで」
アルファルド。そう呼ばれた男はドアをそっと閉めると上っ面だけの笑みを取り繕う。そして男は緑色の瞳でぐったりとした様子のパトリックを見て、次にチェーンソーを見て、最後にエズラ・ホフマン副長官を見る。それから緑色の目の男は言った。
「そろそろ、時間だ。連邦捜査局と精神科医の二人組が来る」
男は、黒のトレンチコートを着ていた。コートの丈は長く、裾はふくらはぎをすっぽりと隠している。そして頭には黒の中折れ棒を被り、黒縁の眼鏡をしていて、両手に黒革の手袋をしていた。それから彼は特徴的な鷲鼻をしており、顎周りには不精髭を生やしていた。彼はペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚にそっくりの風貌をしていただろう。
だが、高位技師官僚とは少しだけ違っていた。高位技師官僚の瞳はくすんだ蒼色だったのに対し、その男の目は緑色だった。それも美しく輝くエメラルドのような、澄んだ緑色だったのだ。
そしてアルファルドと呼ばれた緑色の瞳の男は間合いを詰めながら、副長官に言う。
「命令されたとおり、アーサーは眠らせた。あいつは今、気を失っている。目覚めるのは二時間後ってなとこだろう」
「そうか。よくやった」
副長官は満足そうに笑い、緑色の瞳の男から目を逸らす。その直後だった。
「……けどよ。今の俺は最高に不機嫌なのさ」
チェーンソーに手を伸ばした緑色の瞳の男は、それを掴み、振り上げた。回転していないチェーンソーの刃が、副長官に突き刺さる。背中から差し込まれた刃は胴を貫通し、腹から顔を出していた。すると緑色の瞳の男は言った。
「飼い主のくせに犬の見分けも付かないとは。情けない飼い主だぜ、ったくよ。――俺はジェドだ、相棒のほうじゃない」
ジェドと名乗った緑色の瞳の男はニタニタと笑う。それからジェドは副長官の体に刺したチェーンソーを、これでもかと更に深くねじ込んだ。副長官は痛がる素振りを見せるが、彼の体から血が滴るようなことはなかった。
最後に副長官はジェドを睨みつけると、消え失せる。アーサーのように煙となって消えていった。
「チッ、逃げやがったな……」
ジェドはそう呟くと、舌打ちをする。それからジェドは緑色の目で動かないパトリックを見下ろした。
「……」
ジェドはポケットからハンカチを取り出すと、パトリックの横に膝をついた。彼はハンカチを軽く
続いてジェドは黒革の手袋をはめた手で、切り付けられた痕が残るパトリックの頬をぺちぺちと叩く。しっかりしろ、と彼は声を掛けるが、パトリックの目はどこかを彷徨ったままで視線が交わることはなかった。
しかし息はある。最悪の事態は避けられたようだ。
ジェドはそれを確認したあと、だるそうな声で独り言を言う。
「……何もかもが、予定通りに進んでいるな。このままだとアーサーの大暴走は避けられないぞ……」
そんなジェドの姿はいつしか小さくなっており、パトリックの頬に触れていた手も、真黒な狼の前足に変わっていた。
「……はぁ、キミアのクソカラスめ。仕事をしやがれってんだ……」
真黒な毛並みの狼は、人語でぼやく。狼は動かなくなったパトリックを緑色の目で心配するように見た。それから狼は、切り落とされたパトリックの右腕を口に咥える。そして部屋から飛び出し、無人のエレベーターに飛び乗った。
「……へへっ。ちょいと“ほつれ”を仕込んでおくか……!」