「聞いたか、ラーナー。拳銃のグリップか何かで首を殴られ、間もなく死亡したと思われたエズラ・ホフマンの遺体が今朝、消えちまったそうだ。そのせいで検死局の監察医がひとり、クビを切られたって」
「初耳ですね、その話」
カルロ・サントス医師の家で散々泣いた、その翌朝。午前八時ちょうど。ASIのオフィスに入ったパトリックに真っ先に話しかけてきた同僚テオ・ジョンソンは、そんな話題を持ち出してきた。
しかしパトリックは心ここにあらずと言った顔で、軽く受け流してしまう。すると同僚はラーナーの顔を上からじっと見つめ、こう切り出した。「ラーナー。お前、無理してないか?」
「そんなことは」
「あるだろ。顔色が悪いし。もう少し休んだほうが」
「大丈夫ですよ、私は。それにこれ以上、迷惑は」
「お前が休暇を取ることを迷惑だなんて思っているやつは、ここには誰も居ないさ。むしろあんな境遇に置かれて休暇を取らないほうがおかしい」
同僚の彼は、道を妨害するようにパトリックの前に立ち塞がる。しかしパトリックは彼に「退いてください」と強く言うことが出来なかった。
するとトラブルを見かねたトラヴィス・ハイドン部長が二人の間に割って入る。部長は言った。「ジョンソン、そこまでだ。お前は仕事に戻れ」
「けれど、部長。ラーナーは明らかに無理を」
「ああ、そうだ。このバカは無理をしてる。俺が説得するから、お前は仕事に戻れ。相棒のコリンズが、お前を探してたぞ」
「……承知しました」
同僚は部長の指示に素直に従い、自分の仕事に戻っていく。
道が開いた。そう思ったパトリックは前に進もうと車椅子を動かす。するとその車椅子の車輪に、部長はあろうことかロックを掛けた。
車椅子が動かなくなる。パトリックは呆然と部長を見上げた。すると部長は言う。
「ラーナー。お前に少し、話がある。別室に来てくれ」
部長は車輪のロック機能を解除すると、オフィスのドアを潜り、廊下に出る。黙りこむパトリックは部長の後を追い掛けた。
そして入ったのは、オフィスのすぐ横にある空き部屋。最初に口を開いたのは、トラヴィス・ハイドン部長だった。
「ラーナー。俺は常々疑問に思っていた。お前のような経歴の者が、なぜ審査が厳しいことで有名なアカデミーに入学出来たのか、とな」
腕を組む部長は壁に背中を預け、横目にパトリックを見る。車椅子の上にちょこんと座る彼は、何も言うことが出来ず、肩を狭めるばかりだった。そして部長は言葉を続ける。
「アカデミーの入学条件の一つに、精神疾患を患っていないことが挙げられている。鬱病、統合失調症などだ。その中にはお前が患っている解離性障害も当然ながら含まれている。にも関わらずお前は、審査をパスした。それは、どうしてだ?」
「……私に訊かれても、困ります」
視線を下に向けるパトリックは、それだけを言う。何故ならパトリックは不正を働いていないからだ。
しかしパトリックの言葉に納得しないトラヴィス・ハイドン部長は、追及を続ける。ベテランである彼からすれば、パトリック・ラーナーという人物は腑に落ちないことだらけだからだ。
「ああ、そうだろう。目を通したが、お前の書類に虚偽はなかったよ。しかしあのような内容の書類は、普通であれば落とされるはずのものだ。どう見ても、あれはお前の筆跡ではない。誰かがお前を勝手に推薦したようだな」
「……その通りです。学生寮でルームメイトだった友人が、悪ふざけで勝手に願書を送付したことが始まりです」
「その点も把握している。そのルームメイトは願書を送付後、薬物の過剰摂取で死去。ルームメイトの薬物使用を止められず、その死に負い目を感じたお前は、それがキッカケでアカデミーに挑むことを決意したんだよな?」
「……はい」
「ラーナー。一応、言っておこう。私はお前のことを評価しているんだ。私としても、お前は手放したくない人材なんだよ」
トラヴィス・ハイドン部長は額に手を当てると、溜息を吐く。部長はパトリックを褒める一方で、パトリックを見るその目は実に冷ややかだった。
「……訊き方を変えよう。単刀直入に問う。ラーナー、お前はブラッドフォード長官から何を任されたんだ?」
その問いに、パトリックは答えなかった。はたして自分がカミングアウトしていい情報なのか、どうなのか。その判断がパトリックには付けられなかったからだ。
するとまた、部長は溜息を零す。
「ラーナー。お前は一体何に巻き込まれているから、自宅を脱獄犯に襲撃されたり、長官暗殺の汚名を着せられたり、誘拐されたりしているんだ。話してくれ。敵の正体が分からない限り、お前を守れないんだ」
「敵の正体が分かったところで、ASIに何ができるというんですか?」
「ラーナー……」
やっと台詞らしい台詞が出てきたかと思えば、それか……。トラヴィス・ハイドン部長はそう呟き、頭を抱える。彼はまた溜息を吐いた。それから彼はパトリックを見て、こう言った。
「ラーナー、今日はもう帰れ。それと一ケ月の謹慎を言い渡す。ズタボロの今のお前に、回す仕事はない」
パトリックは顔を上げ、部長を見る。トラヴィス・ハイドン部長の顔に表情は無い。彼は仏頂面でパトリックを見ていた。
そしてトラヴィス・ハイドン部長は言う。「……最後に、これだけは覚えておいてくれ」
「……」
「お前は部内、局内には敵しか居ないと思っているのだろうが、現実は違う。たしかに局内には、お前の敵が溢れ返っている。連邦捜査局から来た人間は嫌われるものだからな。けれども部内をちゃんと見てくれ。周りはお前が思っている以上にお前のことを信用している。ジョンソンもそうだ。嫌われ者である自分に囚われるな。等身大の現実を見る目を、持ってくれ」
その声は、どこまでも呆れ返っていた。それは本当のことを何も言おうとしないパトリックの態度に対するものだったのだが、パトリックは曲解して捉えていた。
「……申し訳ありませんでした、部長。勝手な行動ばかりをして、余計なトラブルを起こす、こんな無能な部下で。本当に……」
「ラーナー、俺はそんなことを言っているんじゃない。どうしてお前が頑なに口を閉ざしているのかを――」
トラヴィス・ハイドン部長の言葉もろくに聞かないまま、パトリックは背を向け、部屋を去る。部長はまた、何度目かの溜息を零した。
するとパトリックと入れ違う形で、別の者がやってくる。部下の一人である女は空き部屋の中に入ると、トラヴィス・ハイドン部長の前に立ち、ひとつの資料を見せた。
「レムナントが回収したサンプルの分析結果です。見て下さい、この写真を」
彼女は資料に添付された一枚の写真を指差し、トラヴィス・ハイドン部長に見せつける。そして彼女は言った。
「これが、イェラ実験の全貌です」
写真の中に映っているものは、何らかの哺乳類の受精卵だった。分裂の具合からして、受精から六日が経過したであろうものと推測される。
そして部下の女は告げた。「サンレイズ研究所の地下最下層、通称XXX 。そこでアバロセレンから造られてようとしているものは、人間だったんです」
「……なんだと?!」
「レムナント曰く、方法は既に確立されているようです。バルロッツィ高位技師官僚が干渉しているため、安定した個体がまだ誕生していないようですが。しかしそのような個体が生まれるのは時間の問題かと。テレーザ・エルトルという研究者はその直前まで迫っているようです」
「ことは思ったよりも進んでいたようだな。……こんな横暴に、今まで誰も気づかなかったというのか!」
トラヴィス・ハイドン部長が大声をあげた、そのとき。丁度いいタイミングで、部屋にアイリーンがやってくる。
アイリーンの顔はどこまでも青く、事態の深刻さを物語っていた。
「そう。この計画の関係者以外、誰も気付かなかった」
見開かれたアイリーンの目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。彼女もまた自分の無力さに打ちひしがれていたのだ。
「サンレイズ研究所の地下で、生命を作っているだなんて……――なんで、もっと早くに気付けなかったんだろう。早期に発見し、芽を叩き潰すことが私の仕事なのに。事態は最悪。もう手遅れなとこまで進んでる……!」
*
血圧は? 十分と言えない。
輸血? まだ必要だ。
傷口は? 完全に塞がったとは言えない。
状態は? 万全じゃない。
「万全じゃない状態が、俺のベストだ。気にするな」
「ですがバルロッツィ高位技師官僚!」
トーマス・ベネット特別捜査官は、トレンチコートを羽織ったペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚を引き止めようとしたが……――あえなく敗北。金に物を言わせて退院していった高位技師官僚は、再び行方を晦ませていた。
しかし連邦捜査局に保護された彼の娘エリーヌは言う。
「父は、大丈夫です。心配に及びませんわ。きっと忘れた頃に、また顔を出してきますもの。それに父の居場所を特定するなんて、誰にもできませんわ。セシリアにも出来ないんですもの……」
時刻は午後四時をもうすぐ迎える頃。太陽は一番高い位置にいない。そんなこんな、高位技師官僚の行方が分からなくなってから七時間が経過していた。
だが、しょっちゅう姿を消す政府の要人を探し出すために人手を割く余裕は、連邦捜査局にはない。今は消えてしまったエズラ・ホフマンの骸の捜索にその多くが持っていかれているからだ。
「それでバルロッツィ高位技師官僚はどこに消えたと思います?」
がらんどうの応接間にてエリーヌと共に待機するノエミは、彼女に淹れたての紅茶を差し出しつつ、さりげなく尋ねる。するとエリーヌは言った。
「ラーナーさんを探しに行くと、父は言ってましたわ。やつらの標的は彼で、彼の身に危険が迫っているから、と」
目を伏せるエリーヌは、差し出されたティーカップを受け取った。
「……やつらが誰のことを指しているのかを、父は言いませんでしたけど」
ティーカップの中で、赤茶色の透明な液体は揺れる。応接間の光を受け、表面はちらちらと光っていた。
甘い香りが白い湯気とともに立ちのぼり、エリーヌは少しだけ頬を綻ばせる。ノエミは決して好きではない紅茶を啜りながら、顔をしかめた。それから彼女はエリーヌに訊く。
「リッキー……いえ、ラーナーの身に危険が迫っているというのは、つまりどういうことですか?」
するとエリーヌは溜息を吐く。それから彼女は言った。
「父があまり宜しくない人たちと関わっていることは、分かってるんです。年々父はくたびれていっているし、アバロセレンに対する憎悪を深めている。けれど父は何か弱みを握られていて、彼らに逆らえないんです。……その弱みはきっと、娘である私なのでしょうね」
「……」
「父は私に、仕事のことを一切話さないんです。私が訊かなければ言わないし、訊いても答えてくれないんです。だから、きっと、あまりよくない仕事をしてるんだと思います。アバロセレンはろくなものを生み出さないって父は、常々言ってますし」
「……ろくなものを生み出さない、か……」
「けれど父は一筋縄じゃいかない人ですから。ときどき、どうしても気に食わないことがあると反旗を翻すんです。多分、今回のラーナーさんの件は、父としてはどこか気に入らない点があったのでしょう」
エリーヌはティーカップに口をつけ、紅茶を飲んだ。ノエミはティーカップを手ごろな場所に合った机の上に置く。そしてノエミはエリーヌに尋ねた。
「バルロッツィ高位技師官僚の、反旗を翻すかそうでないかの基準って、分かったりしますか……?」
するとエリーヌはティーカップを、机の上に置く。それからくすっと笑った。
「父はあんな性格ですけど、やっぱり人間ですもの。道徳や倫理に反していたり、人間性を欠いているときは、怒ります。判断基準は、普通の方々と同じだと思いますわ。ただ、反旗を翻したときに起こすアクションが、父は人よりも過激なだけで」
判断基準は、普通の方々と同じ。エリーヌはそう言うが、ノエミはとてもその言葉を信じられなかった。
――だって要人警護部隊の隊員の脚を蹴って、捻挫させた人よ?
「判断基準が普通と同じ、ですか……」
ノエミは腕を組み、眉間にしわを寄せる。するとエリーヌは、ノエミにとって聞き覚えのある名前を口にした。
「そういえば、父が言っていましたわ。ラーナーさんの所在が掴めなくなるようでしたら、アイリーン・フィールドという女性のもとを訪ねるといいって。彼女なら、彼の居場所を特定できると……」
「アイリーン?! ……えっ、あの、あの、奇抜な服のアイリーン? 彼女、高位技師官僚の知り合いなの!?」
驚きのあまり、ノエミは素っ頓狂な声を上げる。そんなノエミを見て、エリーヌはくすくすと笑い出す。
「私はその人のことを知りませんので、何も言えることがありません。ですが……――父の目は何も見えていないようで、色々なものを見通しているんです。本当に、父の周りでは奇妙なことが起こります」
アイリーンの名前を聞いたとき、あなたは驚いて飛び上がるだろうって父は言ってたんです。エリーヌは笑いながら、そう言う。しかしノエミはその言葉に薄気味さを感じていた。
*
パトリックの姿を見なかったか。
カルロ・サントス医師にそんなことを尋ねてきたのは、慌てふためいた様子のトーマス・ベネット特別捜査官だった。
「あのですね、捜査官。見ての通り俺は今、勤務中です。分かるでしょう?」
「ノエミが言ってたんでな。何かあったとき、パトリックが真っ先に頼るのは君だろうと」
「……俺に言わせりゃ、ほんまもんの緊急事態のときにあいつが真っ先に頼るのは、ノエミだと思うんですがね」
「それに君は、パトリックについて詳しいと聞いたんだが」
「まあ、それなりに。だからって、行動の全てを把握しているわけじゃない」
忙しいんです、どいてください。病院本棟から少し離れた精神病棟に向かう道の途中、カルロ・サントス医師は進行方向を遮る邪魔者を押しのけ、進もうとする。しかし邪魔者――つまりトーマス・ベネット特別捜査官――は、あくまで彼の腕を掴んで引き留めようとした。
カルロ・サントス医師は掴まれた腕を振り払い、トーマス・ベネット特別捜査官を睨む。それからカルロ・サントス医師は言った。
「パトリック・ラーナー、ヤツは今頃ASI本部に居るだろ? 今日は仕事に出るとアイツは今朝言っていた。だから来るなら病院じゃなく、ASIに」
「ああ、たしかにパトリックは八時間前までASI本部に居たらしいんだ。だがパトリックはオフィスに入った直後に、一ヶ月の謹慎を命じられた。その後、彼はASI本部を立ち去り、行方不明」
「……行方不明?」
「ああ。そのうえ運が悪いことに、死んだと思って検死局に運び込んだエズラ・ホフマン副長官が、息を吹き返したらしくてな。遺体は失踪し、市内各地では彼の目撃情報が出ている。生きて、立って歩いている姿が、目撃されているんだ」
トーマス・ベネット特別捜査官の口から語られた言葉に、カルロ・サントス医師は固まった。背筋がぞくりと震え、掌は不快な汗で湿る。
「パトリックが連れ去られた可能性があるんだ」
恐れていたことが、こんなにも早く現実のものとなってしまったのだ。
「だが、誘拐と仮定したとき、どうにも不明な点が残る。……何故パトリックをさらう必要があるのか。うちの精神分析官じゃプロファイルを出せなくてな。だから君の許に来たんだ。フリーランスの精神分析家である、君の許に」
トーマス・ベネット特別捜査官の表情が険しくなる。しかしカルロ・サントス医師のほうが、よっぽど酷い顔をしていた。
カルロ・サントス医師は目元を強張らせ、眉間に皺をよせ、眉根を吊り上げる。口角は下がり、眦 は上がった。そしてカルロ・サントス医師は言う。
「精神分析官じゃなくとも、ラーナーを誘拐する目的ぐらい分かるだろ。全ての捜査の撹乱だ!」
「……撹乱だって?」
「アンタらが追っている事件がいくつかあるだろ。イーライ・グリッサムの脱獄幇助や、イーライ・グリッサムの殺害、バーソロミュー・ブラッドフォード暗殺に、エズラ・ホフマン。全ての共通項はパトリック・ラーナーだ。それ以外にもASIが追っているものとか、色々とあるんだろ? それら全てを撹乱するために、あいつは誘拐されたんだ。何故なら、追及されちゃ困る連中が居るから。それ以外に理由はない。そうだろ?!」
カルロ・サントス医師は怒りを感じていた。どうしてこいつらはこんな単純なことも分からないのか、と。そして彼は目の前に居る捜査官に怒りをぶつける。
「いいか、よく聞け。パトリックが帰ってくるとき、アイツは決して無事じゃない。死ぬよりも酷い目に合わされ、ブッ壊された状態で帰ってくる。十五年前の、あれより酷い状態でな」
これも全て、ASIと連邦捜査局、もしくは他の何らかの関係組織の間で円滑なコミュニケーションが行われていなかったことが原因だ。組織の怠慢が招いた悲劇なのだ。
秩序という大きな枠組みの中では、ときに小さな犠牲が必要とされる。だが、その犠牲が本当に必要なものなのか? その点はあまり議論されない。
何故ならば、議論という場を設けるにはあまりにも世界は弱肉強食すぎるからだ。強い者の声は大きく、なによりも優先される。しかし弱い者の声は小さく、すぐに踏みつぶされて揉み消されてしまうのだ。
巣の外で活動する働きアリのように、いついかなるときに他の生物に踏まれてしまうかも分からない存在。それが弱者であり、個人だ。ときに弱者は、あまりにも理不尽すぎる理由で命を奪われることがある。間引き、口封じ、玩具、撹乱の道具……。
「……俺は、そんな結末を望んじゃいない」
世界はあまりにも理不尽だ。けれども、それでも抗わなければいけないときがある。
それがたとえ、勝ち目のない勝負だとしても。
「……アンタだって、同じだろ? なら、連邦捜査局の機動力を活かして、さっさとアイツを探し出せ! 連邦捜査局は無能だと世間に非難されるなんて、もううんざりだろ?!」
一際鋭い眼光で、カルロ・サントス医師はトーマス・ベネット特別捜査官を睨む。するとトーマス・ベネット特別捜査官は背筋をただし、一言だけ言う。協力に感謝する、と。
そしてトーマス・ベネット特別捜査官は、駐車場の方角に向かっていった。きっとこれから、連邦捜査局の本部に戻るのだろう。
「……八時間前、か。今が午後四時すぎだから、午前八時ぐらいってわけか」
日影は傾きを見せ、水平線のかなたが橙色に染まりつつある。カルロ・サントス医師は俯き、両瞼をぐっと閉ざした。
何もかもが手遅れになっている可能性が十分にあったからだ。
【次話へ】
「初耳ですね、その話」
カルロ・サントス医師の家で散々泣いた、その翌朝。午前八時ちょうど。ASIのオフィスに入ったパトリックに真っ先に話しかけてきた同僚テオ・ジョンソンは、そんな話題を持ち出してきた。
しかしパトリックは心ここにあらずと言った顔で、軽く受け流してしまう。すると同僚はラーナーの顔を上からじっと見つめ、こう切り出した。「ラーナー。お前、無理してないか?」
「そんなことは」
「あるだろ。顔色が悪いし。もう少し休んだほうが」
「大丈夫ですよ、私は。それにこれ以上、迷惑は」
「お前が休暇を取ることを迷惑だなんて思っているやつは、ここには誰も居ないさ。むしろあんな境遇に置かれて休暇を取らないほうがおかしい」
同僚の彼は、道を妨害するようにパトリックの前に立ち塞がる。しかしパトリックは彼に「退いてください」と強く言うことが出来なかった。
するとトラブルを見かねたトラヴィス・ハイドン部長が二人の間に割って入る。部長は言った。「ジョンソン、そこまでだ。お前は仕事に戻れ」
「けれど、部長。ラーナーは明らかに無理を」
「ああ、そうだ。このバカは無理をしてる。俺が説得するから、お前は仕事に戻れ。相棒のコリンズが、お前を探してたぞ」
「……承知しました」
同僚は部長の指示に素直に従い、自分の仕事に戻っていく。
道が開いた。そう思ったパトリックは前に進もうと車椅子を動かす。するとその車椅子の車輪に、部長はあろうことかロックを掛けた。
車椅子が動かなくなる。パトリックは呆然と部長を見上げた。すると部長は言う。
「ラーナー。お前に少し、話がある。別室に来てくれ」
部長は車輪のロック機能を解除すると、オフィスのドアを潜り、廊下に出る。黙りこむパトリックは部長の後を追い掛けた。
そして入ったのは、オフィスのすぐ横にある空き部屋。最初に口を開いたのは、トラヴィス・ハイドン部長だった。
「ラーナー。俺は常々疑問に思っていた。お前のような経歴の者が、なぜ審査が厳しいことで有名なアカデミーに入学出来たのか、とな」
腕を組む部長は壁に背中を預け、横目にパトリックを見る。車椅子の上にちょこんと座る彼は、何も言うことが出来ず、肩を狭めるばかりだった。そして部長は言葉を続ける。
「アカデミーの入学条件の一つに、精神疾患を患っていないことが挙げられている。鬱病、統合失調症などだ。その中にはお前が患っている解離性障害も当然ながら含まれている。にも関わらずお前は、審査をパスした。それは、どうしてだ?」
「……私に訊かれても、困ります」
視線を下に向けるパトリックは、それだけを言う。何故ならパトリックは不正を働いていないからだ。
しかしパトリックの言葉に納得しないトラヴィス・ハイドン部長は、追及を続ける。ベテランである彼からすれば、パトリック・ラーナーという人物は腑に落ちないことだらけだからだ。
「ああ、そうだろう。目を通したが、お前の書類に虚偽はなかったよ。しかしあのような内容の書類は、普通であれば落とされるはずのものだ。どう見ても、あれはお前の筆跡ではない。誰かがお前を勝手に推薦したようだな」
「……その通りです。学生寮でルームメイトだった友人が、悪ふざけで勝手に願書を送付したことが始まりです」
「その点も把握している。そのルームメイトは願書を送付後、薬物の過剰摂取で死去。ルームメイトの薬物使用を止められず、その死に負い目を感じたお前は、それがキッカケでアカデミーに挑むことを決意したんだよな?」
「……はい」
「ラーナー。一応、言っておこう。私はお前のことを評価しているんだ。私としても、お前は手放したくない人材なんだよ」
トラヴィス・ハイドン部長は額に手を当てると、溜息を吐く。部長はパトリックを褒める一方で、パトリックを見るその目は実に冷ややかだった。
「……訊き方を変えよう。単刀直入に問う。ラーナー、お前はブラッドフォード長官から何を任されたんだ?」
その問いに、パトリックは答えなかった。はたして自分がカミングアウトしていい情報なのか、どうなのか。その判断がパトリックには付けられなかったからだ。
するとまた、部長は溜息を零す。
「ラーナー。お前は一体何に巻き込まれているから、自宅を脱獄犯に襲撃されたり、長官暗殺の汚名を着せられたり、誘拐されたりしているんだ。話してくれ。敵の正体が分からない限り、お前を守れないんだ」
「敵の正体が分かったところで、ASIに何ができるというんですか?」
「ラーナー……」
やっと台詞らしい台詞が出てきたかと思えば、それか……。トラヴィス・ハイドン部長はそう呟き、頭を抱える。彼はまた溜息を吐いた。それから彼はパトリックを見て、こう言った。
「ラーナー、今日はもう帰れ。それと一ケ月の謹慎を言い渡す。ズタボロの今のお前に、回す仕事はない」
パトリックは顔を上げ、部長を見る。トラヴィス・ハイドン部長の顔に表情は無い。彼は仏頂面でパトリックを見ていた。
そしてトラヴィス・ハイドン部長は言う。「……最後に、これだけは覚えておいてくれ」
「……」
「お前は部内、局内には敵しか居ないと思っているのだろうが、現実は違う。たしかに局内には、お前の敵が溢れ返っている。連邦捜査局から来た人間は嫌われるものだからな。けれども部内をちゃんと見てくれ。周りはお前が思っている以上にお前のことを信用している。ジョンソンもそうだ。嫌われ者である自分に囚われるな。等身大の現実を見る目を、持ってくれ」
その声は、どこまでも呆れ返っていた。それは本当のことを何も言おうとしないパトリックの態度に対するものだったのだが、パトリックは曲解して捉えていた。
「……申し訳ありませんでした、部長。勝手な行動ばかりをして、余計なトラブルを起こす、こんな無能な部下で。本当に……」
「ラーナー、俺はそんなことを言っているんじゃない。どうしてお前が頑なに口を閉ざしているのかを――」
トラヴィス・ハイドン部長の言葉もろくに聞かないまま、パトリックは背を向け、部屋を去る。部長はまた、何度目かの溜息を零した。
するとパトリックと入れ違う形で、別の者がやってくる。部下の一人である女は空き部屋の中に入ると、トラヴィス・ハイドン部長の前に立ち、ひとつの資料を見せた。
「レムナントが回収したサンプルの分析結果です。見て下さい、この写真を」
彼女は資料に添付された一枚の写真を指差し、トラヴィス・ハイドン部長に見せつける。そして彼女は言った。
「これが、イェラ実験の全貌です」
写真の中に映っているものは、何らかの哺乳類の受精卵だった。分裂の具合からして、受精から六日が経過したであろうものと推測される。
そして部下の女は告げた。「サンレイズ研究所の地下最下層、通称
「……なんだと?!」
「レムナント曰く、方法は既に確立されているようです。バルロッツィ高位技師官僚が干渉しているため、安定した個体がまだ誕生していないようですが。しかしそのような個体が生まれるのは時間の問題かと。テレーザ・エルトルという研究者はその直前まで迫っているようです」
「ことは思ったよりも進んでいたようだな。……こんな横暴に、今まで誰も気づかなかったというのか!」
トラヴィス・ハイドン部長が大声をあげた、そのとき。丁度いいタイミングで、部屋にアイリーンがやってくる。
アイリーンの顔はどこまでも青く、事態の深刻さを物語っていた。
「そう。この計画の関係者以外、誰も気付かなかった」
見開かれたアイリーンの目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。彼女もまた自分の無力さに打ちひしがれていたのだ。
「サンレイズ研究所の地下で、生命を作っているだなんて……――なんで、もっと早くに気付けなかったんだろう。早期に発見し、芽を叩き潰すことが私の仕事なのに。事態は最悪。もう手遅れなとこまで進んでる……!」
血圧は? 十分と言えない。
輸血? まだ必要だ。
傷口は? 完全に塞がったとは言えない。
状態は? 万全じゃない。
「万全じゃない状態が、俺のベストだ。気にするな」
「ですがバルロッツィ高位技師官僚!」
トーマス・ベネット特別捜査官は、トレンチコートを羽織ったペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚を引き止めようとしたが……――あえなく敗北。金に物を言わせて退院していった高位技師官僚は、再び行方を晦ませていた。
しかし連邦捜査局に保護された彼の娘エリーヌは言う。
「父は、大丈夫です。心配に及びませんわ。きっと忘れた頃に、また顔を出してきますもの。それに父の居場所を特定するなんて、誰にもできませんわ。セシリアにも出来ないんですもの……」
時刻は午後四時をもうすぐ迎える頃。太陽は一番高い位置にいない。そんなこんな、高位技師官僚の行方が分からなくなってから七時間が経過していた。
だが、しょっちゅう姿を消す政府の要人を探し出すために人手を割く余裕は、連邦捜査局にはない。今は消えてしまったエズラ・ホフマンの骸の捜索にその多くが持っていかれているからだ。
「それでバルロッツィ高位技師官僚はどこに消えたと思います?」
がらんどうの応接間にてエリーヌと共に待機するノエミは、彼女に淹れたての紅茶を差し出しつつ、さりげなく尋ねる。するとエリーヌは言った。
「ラーナーさんを探しに行くと、父は言ってましたわ。やつらの標的は彼で、彼の身に危険が迫っているから、と」
目を伏せるエリーヌは、差し出されたティーカップを受け取った。
「……やつらが誰のことを指しているのかを、父は言いませんでしたけど」
ティーカップの中で、赤茶色の透明な液体は揺れる。応接間の光を受け、表面はちらちらと光っていた。
甘い香りが白い湯気とともに立ちのぼり、エリーヌは少しだけ頬を綻ばせる。ノエミは決して好きではない紅茶を啜りながら、顔をしかめた。それから彼女はエリーヌに訊く。
「リッキー……いえ、ラーナーの身に危険が迫っているというのは、つまりどういうことですか?」
するとエリーヌは溜息を吐く。それから彼女は言った。
「父があまり宜しくない人たちと関わっていることは、分かってるんです。年々父はくたびれていっているし、アバロセレンに対する憎悪を深めている。けれど父は何か弱みを握られていて、彼らに逆らえないんです。……その弱みはきっと、娘である私なのでしょうね」
「……」
「父は私に、仕事のことを一切話さないんです。私が訊かなければ言わないし、訊いても答えてくれないんです。だから、きっと、あまりよくない仕事をしてるんだと思います。アバロセレンはろくなものを生み出さないって父は、常々言ってますし」
「……ろくなものを生み出さない、か……」
「けれど父は一筋縄じゃいかない人ですから。ときどき、どうしても気に食わないことがあると反旗を翻すんです。多分、今回のラーナーさんの件は、父としてはどこか気に入らない点があったのでしょう」
エリーヌはティーカップに口をつけ、紅茶を飲んだ。ノエミはティーカップを手ごろな場所に合った机の上に置く。そしてノエミはエリーヌに尋ねた。
「バルロッツィ高位技師官僚の、反旗を翻すかそうでないかの基準って、分かったりしますか……?」
するとエリーヌはティーカップを、机の上に置く。それからくすっと笑った。
「父はあんな性格ですけど、やっぱり人間ですもの。道徳や倫理に反していたり、人間性を欠いているときは、怒ります。判断基準は、普通の方々と同じだと思いますわ。ただ、反旗を翻したときに起こすアクションが、父は人よりも過激なだけで」
判断基準は、普通の方々と同じ。エリーヌはそう言うが、ノエミはとてもその言葉を信じられなかった。
――だって要人警護部隊の隊員の脚を蹴って、捻挫させた人よ?
「判断基準が普通と同じ、ですか……」
ノエミは腕を組み、眉間にしわを寄せる。するとエリーヌは、ノエミにとって聞き覚えのある名前を口にした。
「そういえば、父が言っていましたわ。ラーナーさんの所在が掴めなくなるようでしたら、アイリーン・フィールドという女性のもとを訪ねるといいって。彼女なら、彼の居場所を特定できると……」
「アイリーン?! ……えっ、あの、あの、奇抜な服のアイリーン? 彼女、高位技師官僚の知り合いなの!?」
驚きのあまり、ノエミは素っ頓狂な声を上げる。そんなノエミを見て、エリーヌはくすくすと笑い出す。
「私はその人のことを知りませんので、何も言えることがありません。ですが……――父の目は何も見えていないようで、色々なものを見通しているんです。本当に、父の周りでは奇妙なことが起こります」
アイリーンの名前を聞いたとき、あなたは驚いて飛び上がるだろうって父は言ってたんです。エリーヌは笑いながら、そう言う。しかしノエミはその言葉に薄気味さを感じていた。
パトリックの姿を見なかったか。
カルロ・サントス医師にそんなことを尋ねてきたのは、慌てふためいた様子のトーマス・ベネット特別捜査官だった。
「あのですね、捜査官。見ての通り俺は今、勤務中です。分かるでしょう?」
「ノエミが言ってたんでな。何かあったとき、パトリックが真っ先に頼るのは君だろうと」
「……俺に言わせりゃ、ほんまもんの緊急事態のときにあいつが真っ先に頼るのは、ノエミだと思うんですがね」
「それに君は、パトリックについて詳しいと聞いたんだが」
「まあ、それなりに。だからって、行動の全てを把握しているわけじゃない」
忙しいんです、どいてください。病院本棟から少し離れた精神病棟に向かう道の途中、カルロ・サントス医師は進行方向を遮る邪魔者を押しのけ、進もうとする。しかし邪魔者――つまりトーマス・ベネット特別捜査官――は、あくまで彼の腕を掴んで引き留めようとした。
カルロ・サントス医師は掴まれた腕を振り払い、トーマス・ベネット特別捜査官を睨む。それからカルロ・サントス医師は言った。
「パトリック・ラーナー、ヤツは今頃ASI本部に居るだろ? 今日は仕事に出るとアイツは今朝言っていた。だから来るなら病院じゃなく、ASIに」
「ああ、たしかにパトリックは八時間前までASI本部に居たらしいんだ。だがパトリックはオフィスに入った直後に、一ヶ月の謹慎を命じられた。その後、彼はASI本部を立ち去り、行方不明」
「……行方不明?」
「ああ。そのうえ運が悪いことに、死んだと思って検死局に運び込んだエズラ・ホフマン副長官が、息を吹き返したらしくてな。遺体は失踪し、市内各地では彼の目撃情報が出ている。生きて、立って歩いている姿が、目撃されているんだ」
トーマス・ベネット特別捜査官の口から語られた言葉に、カルロ・サントス医師は固まった。背筋がぞくりと震え、掌は不快な汗で湿る。
「パトリックが連れ去られた可能性があるんだ」
恐れていたことが、こんなにも早く現実のものとなってしまったのだ。
「だが、誘拐と仮定したとき、どうにも不明な点が残る。……何故パトリックをさらう必要があるのか。うちの精神分析官じゃプロファイルを出せなくてな。だから君の許に来たんだ。フリーランスの精神分析家である、君の許に」
トーマス・ベネット特別捜査官の表情が険しくなる。しかしカルロ・サントス医師のほうが、よっぽど酷い顔をしていた。
カルロ・サントス医師は目元を強張らせ、眉間に皺をよせ、眉根を吊り上げる。口角は下がり、
「精神分析官じゃなくとも、ラーナーを誘拐する目的ぐらい分かるだろ。全ての捜査の撹乱だ!」
「……撹乱だって?」
「アンタらが追っている事件がいくつかあるだろ。イーライ・グリッサムの脱獄幇助や、イーライ・グリッサムの殺害、バーソロミュー・ブラッドフォード暗殺に、エズラ・ホフマン。全ての共通項はパトリック・ラーナーだ。それ以外にもASIが追っているものとか、色々とあるんだろ? それら全てを撹乱するために、あいつは誘拐されたんだ。何故なら、追及されちゃ困る連中が居るから。それ以外に理由はない。そうだろ?!」
カルロ・サントス医師は怒りを感じていた。どうしてこいつらはこんな単純なことも分からないのか、と。そして彼は目の前に居る捜査官に怒りをぶつける。
「いいか、よく聞け。パトリックが帰ってくるとき、アイツは決して無事じゃない。死ぬよりも酷い目に合わされ、ブッ壊された状態で帰ってくる。十五年前の、あれより酷い状態でな」
これも全て、ASIと連邦捜査局、もしくは他の何らかの関係組織の間で円滑なコミュニケーションが行われていなかったことが原因だ。組織の怠慢が招いた悲劇なのだ。
秩序という大きな枠組みの中では、ときに小さな犠牲が必要とされる。だが、その犠牲が本当に必要なものなのか? その点はあまり議論されない。
何故ならば、議論という場を設けるにはあまりにも世界は弱肉強食すぎるからだ。強い者の声は大きく、なによりも優先される。しかし弱い者の声は小さく、すぐに踏みつぶされて揉み消されてしまうのだ。
巣の外で活動する働きアリのように、いついかなるときに他の生物に踏まれてしまうかも分からない存在。それが弱者であり、個人だ。ときに弱者は、あまりにも理不尽すぎる理由で命を奪われることがある。間引き、口封じ、玩具、撹乱の道具……。
「……俺は、そんな結末を望んじゃいない」
世界はあまりにも理不尽だ。けれども、それでも抗わなければいけないときがある。
それがたとえ、勝ち目のない勝負だとしても。
「……アンタだって、同じだろ? なら、連邦捜査局の機動力を活かして、さっさとアイツを探し出せ! 連邦捜査局は無能だと世間に非難されるなんて、もううんざりだろ?!」
一際鋭い眼光で、カルロ・サントス医師はトーマス・ベネット特別捜査官を睨む。するとトーマス・ベネット特別捜査官は背筋をただし、一言だけ言う。協力に感謝する、と。
そしてトーマス・ベネット特別捜査官は、駐車場の方角に向かっていった。きっとこれから、連邦捜査局の本部に戻るのだろう。
「……八時間前、か。今が午後四時すぎだから、午前八時ぐらいってわけか」
日影は傾きを見せ、水平線のかなたが橙色に染まりつつある。カルロ・サントス医師は俯き、両瞼をぐっと閉ざした。
何もかもが手遅れになっている可能性が十分にあったからだ。