「待ってたわ、リッキー。遅かったじゃないの!」
キャンベラ国立大学病院、入口。人の出入りを制限する規制線の前までやってきたパトリックを真っ先に出迎えたのは、防弾チョッキを着用した元相棒のノエミだった。
そしてノエミの背後から覗き見える病院内のエントランスには、周辺を警戒するようにうろついている官邸附属要人警護部隊と思しき者たちの姿が、ちらほらと見受けられる。被害者が政府の要人、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚だということが事実であるのだと、このときパトリックは察した。
となると連邦捜査局が捜査に乗り出したのは当然で、ASIに応援要請があったのも合点がいく。本部所属のエリート、若手の期待株とされているノエミがこの件に駆り出されるのは順当であるし。ASIに応援要請するにあたり、ノエミがパトリックをわざわざ指名したのは当然の流れだ。
「どこもかしこも検問ばかりで、あちこちで渋滞が発生していたんです。挙句、駐車場に入ろうとしたら警備員に止められて……――これでも急いできたほうなんですよ」
遅くなったことを責められたパトリックは、肩を竦めながらそう言い訳をする。しかしノエミは言い訳を受け入れず、ピシャリと跳ね除けた。「なら自転車を漕ぐか、走ってくればよかったじゃない」
「生憎、自転車を漕ぐことも走ることもできない脚でしてねぇ。あなたもご存知でしょう?」
「言い訳は結構。とにかく、早く中に入って。話は歩きながらするわ」
そうしてパトリックはノエミの案内に従い、病院内へと入っていく。昨晩パトリックがここを訪ねたとき、彼は『至って普通の静かな大病院』というイメージをここに抱いたものだが。今朝は一変、さながら事件が発生して間もない現場かのような緊張感に満ちていた。
施設内を往来する職員や患者、つまり無関係な一般市民は事態を知らされていないのか、不安そうな顔を一様に浮かべている。その様子を見てパトリックは息を呑んだ。本物の緊急事態がまさに起きているのだと。
「それで、あなたはどこまで事件のことを知らされているの?」
パトリックはノエミの後を追い、共にエレベーター前に移動する。そしてエレベーターの前で二人が立ち止まったとき、ノエミは彼にそう問うてきた。しかしパトリックはすぐに答えはしない。
彼が口を開いたのは、エレベーターが彼らのいる一階に到着し、その扉が開いた時だ。
「被害者が誰であるのか、そして当該人物の現在の状態は知らされています」
二人はエレベーターに乗り込むと、その扉が閉まるタイミングを待つ。そして扉が閉まると、再びパトリックは言葉を発した。「バルロッツィ高位技師官僚。彼は銃撃を受け、意識不明の重体なのですよね。そして唯一の目撃者である娘さんがなかなか喋らない。また物証も乏しく、監視カメラ映像といった記録の回収もままならない状況だと。そう伺っています」
「ええ、その通り。挙句、娘さんの後見人だっていうひとがしゃしゃり出て、聴取は私の到着を待ってからにしろーって言われちゃったのよ。でも状況が状況だし、悠長なこともしていられない。だから後見人が現れるよりも前に、娘さんにはさっさと情報を吐いてもらいたいわけ。そこであなたの出番。だってあなた、得意だったでしょ。目撃者からうまーく証言を引きずり出すのが」
そう言うとノエミはエレベーターのボタンを押し、三階に上がるよう指示を出す。その横でパトリックは腕を組んだ。引っ掛かる言葉がひとつあったのだ。
後見人が現れるよりも前に。ノエミが発したその言葉を妙だと思ったパトリックは、その疑問を彼女にぶつけた。「後見人ですか。しかし……彼女には父親が居るはず。それなのに、なぜ後見人が」
「父親だけど、親権者じゃないのよ。親権者として不適格だって判断され、高位技師官僚は親権を児童裁判所に剥奪されていたらしくてね。だけど、まあ、娘の親権を知人女性に渡し、その女性と生活を共にすることで、問題をクリアしたみたい。高位技師官僚が娘を虐待していたわけじゃないし、娘のほうも父親と離れるのを嫌がったみたいだから、裁判所も父娘の同居を許しているそうよ」
「へぇ、知人の子供の親権を……。奇特な方も居るものですねぇ」
「バルロッツィ財団の理事長、セシリア・ケイヒル。世間での評判を信じるなら、彼女、かなりの人格者よ。聖人すぎて怖いぐらい。――まあ、その聖人に今は困らされているわけなのだけど」
「それで、親権を剥奪された理由は? 虐待行為がなかったのであれば、一体なぜそのような判断に至ったのでしょうか」
「理由は開示されてないから不明。それに今回の事件にそこまで関連があると思えなかったから、私のほうでは深く調べてないわ。興味があったらASIの誰かに頼んで調べてもらって」
ノエミがそう言い終えたタイミングでエレベーターは止まり、エレベーター内と廊下を遮っていたドアが自動で開く。二人は共に降りると、被害者がいるという集中治療室に向かっていった。
その道の最中。廊下を歩きがてらに、パトリックはノエミに質問を重ねていく。
「それで、ノエミ。被害者の状態について、もっと詳しく教えてもらえませんか」
アイリーンは今朝、言っていた。パトリックに課せられた任務は、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚が握っている情報を引き出すことなのだと。そしてペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚が銃撃され、搬送されるという展開は、特務機関WACEが仕組んだものだと推測される。となれば、彼らとて加減をしているはず。高位技師官僚が死なない程度に留めていることだろう。
――というようなことをパトリックは考えていて、その確認をするためノエミにそう訊ねたのだが。ノエミから得られた返答は、パトリックの予想を裏切るものだった。「生死の境を彷徨っている、っていう状態よ。持ちこたえているものの予断を許さない状況だって、医者は言っていたわ。未遂から殺人に切り替わる可能性は十分にあり得るかも」
「そこまで深刻なのですか?」
「ええ、そう」
「……そうなのですか」
意識不明の重体。そう聞いていたが、そこまで深刻な状態だとは考えていなかったパトリックは、ノエミの言葉に衝撃を受ける。だがノエミの言葉はそれで終わらなかった。彼女は事態の深刻さを窺わせる事実を続けて明かしていく。「九ミリ口径の拳銃で執拗に撃たれた、っていうのが現時点での見立て。救命医の話によれば、銃創が十四箇所もあったそうよ。一発は貫通していたみたいだけど、それ以外は……うん。体内にあったものは全て取り出したらしいけど、大動脈をダイレクトに傷つけた弾丸もあったみたいでねぇ」
「十四発も?」
「ええ。それも乱射されたわけじゃない。銃創は動脈周辺にまとまっていたって話よ。現場は即死でもおかしくない出血量だったそうだし。まさに、生きていることが奇跡なのよ」
即死でもおかしくない出血量? 生きていることが奇跡? ……立て続けにノエミから飛び出した言葉に、パトリックは唖然とした。何故ならば、明確な殺意しか感じない犯行手口だったからだ。
そうして驚きから目を見開くパトリックに、ノエミは至極当然の事実を伝えるのだった。「そういうわけだから、被害者本人は口もきけない状態なのよね」
「でしょうねぇ……」
「だから現場に居合わせた彼の娘さんから話を聞きたいんだけど……」
「彼女は喋らないんですよね。……本当に、彼女は目撃者なのでしょうか?」
「それについては間違いないわ。周辺住民から銃声がしたとの通報を受けて市警が現場に駆け付けたとき、彼女は虫の息になった父親の下敷きになって、声を押し殺しながら泣いてたって話だもの。写真もあるわ。ほら、これを見て」
そう言うとノエミはタブレット端末を取り出し、そこに映し出された画像をパトリックに見せた。
写真はたしかに、ノエミが言ったとおりの状況を示していた。血だまりの中にぐったりと横たわる男の下で、赤毛の女性がうつ伏せになって倒れている。その女性の年齢は写真で見る限り、十六歳ぐらいといったところ。上流育ちの落ち着いた高校生といった雰囲気だ。
そしてノエミは写真を見せながら、当時の状況を解説した。「彼女を保護した警官の話によれば、彼女は後ろを歩いていた父親にいきなり突き飛ばされて、伏せろと言われたそうよ。彼女は突き飛ばされた拍子に道路に倒れ込んで、そのままうつ伏せになったみたい。そして倒れた瞬間に銃声が立て続けに鳴り、父親も倒れた。そして父親が彼女を庇うように覆いかぶさったあとも、何発か銃声がしたみたい。父親の体が痙攣するのを背中で感じたとも、彼女は言っていたらしいわ」
「それで、今の彼女の様子は?」
「この写真を撮影した警官に証言をしたっきり、以降は無言を貫いてる状態。ショックを受けているから仕方ないともいえるけど。おかげで犯人の特徴も分からないし、犯人の性別すら不明。だから、パトリック。あなたに頑張ってもらいたいの」
そうこう話しているうちに、パトリックらは被害者が収容されている集中治療室に着いた。だが入口の前には黒い背広を着た要人警護部隊の隊員が三人も立っており、中に入れてくれそうな気配はない。捜査官であろうが入室は許さないといった顔を、彼らはしていた。
ノエミはむすっとした表情を浮かべ、パトリックは要人警護部隊の隊員らに挑発するような視線を送る。だがプロフェッショナルである隊員らはあくまで廊下のどこかを見つめるだけで、目の前にいる男女のことなど気にもしていないようだった。
そうしてしばらく待機していると、集中治療室のドアが内側から開けられ、中から赤毛の女性が出てくる――彼女は写真に写っていた被害者の娘、そのひとだった。
「あっ……!」
パトリックは彼女に声を掛けようとするが、彼女の視線は自分の足許を見つめるばかりで、うんともすんとも言わない。そして彼は経験から察した。これは自分では太刀打ちできないものだ、と。
しかしパトリックはあることを閃く。けれどもそのアイディアは、できればやりたくない苦渋の決断でもあった。しかし手段を選んでいられない。そこでパトリックはノエミに言う。
「……ノエミ。私は精神科医を呼ぶのがベストであると考えています。その、アイツです」
「あぁ、カールね! それ、名案」
話が早いノエミがそう返答をしている間に、高位技師官僚の娘は逃げるようにどこかへと足早に去っていく。そして去っていった娘を、要人警護部隊の隊員一名が追いかけていった。
彼女が逃げた先に見えるのはトイレの場所を示す案内板。きっと彼女は病院からの脱走などは考えておらず、ただトイレに行きたかっただけなのだろう。そう判断したノエミは敢えて高位技師官僚の娘を追うことはせず、来た道を引き返すようエレベーターのほうに向く。そして彼女はこう言うと、駆け足でエレベーターに乗り込んでいった。
「分かった、今すぐカールをここに呼んでくるわ!」
*
駆けて行ったノエミが、カルロ・サントス医師を伴って集中治療室のある階に戻ってきたのは、高位技師官僚の娘がトイレを済ませて集中治療室に戻ってきてから一〇分が経過してからのことだった。
集中治療室の前に立ち尽くし、ノエミらが戻ってくるのを待っていたパトリックは、気まずい空気の中で一〇分ほど耐え忍んでいた。
彼は、俯き黙りこくる高位技師官僚の娘、及び集中治療室の中を慌ただしく動き回る看護師たちの様子を廊下から見守っていた一方で、集中治療室の入り口前に控えていた要人警護部隊の隊員たちから一挙手一投足を見張られていたのだが。そうこうして耐え続けた一〇分間、それは異様に長く感じられたが、終わってしまえば呆気ないというもの。
「よぉ、リッキー。昨日ぶりだな。今朝はよく眠れたか?」
居心地の悪さが満ちる空間にやってきたのは、爽やかな若手の精神科医という“仮面”を被ったカルロ・サントス医師。彼は要人警護部隊が求めた制止を無視して集中治療室に強引に押し入ると、あるベッドの脇に控えて待機していた赤毛の女性――つまり高位技師官僚の娘であるエリーヌ・バルロッツィ――に声を掛ける。そして彼は高位技師官僚の娘エリーヌを伴って集中治療室から出てきた。
「捜査官殿、朗報だ。彼女が聴取に応じてくれるそうだ。ただし、聴取はこの場で済ませてくれ」
颯爽と肩で風を切りながら歩くカルロ・サントス医師の後ろを、おどおどとした様子のエリーヌが追って歩く。そうして二人がパトリックの前に来た時、ちょうどノエミがその場に遅れて戻ってきた。
「いえ、カール。できれば別の場所で――」
ノエミはカルロ・サントス医師の言葉にそう返すが、しかしカルロ・サントス医師は即座にそれを拒んだ。
「集中治療室内での聴取はご遠慮いただきたい。とはいえ彼女は御父上の傍を離れたくないだろう。それに別室での聴取となれば、そこの要人警護部隊の方々も良い顔をしないんじゃないのか?」
カルロ・サントス医師はそう言ったあと、集中治療室の出入口前で待機している要人警護部隊の隊員たちをちらりと見やる。が、あくまでも目の前の仕事に集中しているだけの隊員たちは微動だにしない。余計な挑発には乗らない、ということだろう。
とはいえ隊員たちが文句を付けてこないということは、カルロ・サントス医師の言葉に異論はないということだろう。
そこでノエミとパトリックは顔を見合わせると、両者ともに同じタイミングで小さく頷く。カルロ・サントス医師が提示した条件を呑むことをどちらも了承したのだ。
そして二人が条件を呑んだことを確認すると、カルロ・サントス医師は気まずそうに立ち尽くす高位技師官僚の娘エリーヌのほうに向き直る。それからカルロ・サントス医師は高位技師官僚の娘エリーヌに対し、身分を明かすのだった。
「……さて。改めて自己紹介をしよう。私はカルロ・サントス。私はここの病院に勤める精神科医でもあるんだが、副業としてフリーランスの精神分析家もやっているんだ。ただしこの場合の精神分析家というのは、患者の治療を行うものではなく、犯罪心理学者に近い。私は時に当局者と共に行動し、捜査に加わることがある。今、私がここに居るのもその一環なんだ。ただ、今回は急に呼び出されたせいで事態を何も把握できていないのだが……」
「……」
「――エリーヌ。ひとまず、君が今、話せる範囲のことだけで構わない。よければそこの捜査官たちの質問に答えてやってはくれないか。彼らはこう見えて、数々の事件を解決してきた優秀な捜査官だ。どうか信用してやってほしい」
カルロ・サントス医師の言葉が終わったあと。この日、初めてパトリックと高位技師官僚の娘エリーヌの目が合った。そして高位技師官僚の娘エリーヌがこくりと頷いたとき、役目を終えたと判断したカルロ・サントス医師はその場を静かに立ち去っていく。彼は彼の仕事に戻っていった。
「それでは、エリーヌさん。お父さまの事件についてお伺いしても宜しいでしょうか?」
パトリックがそう問いかけると、高位技師官僚の娘エリーヌは頷く。それから彼女は小声で答えた。
「……ええ、分かりましたわ」
高位技師官僚の娘エリーヌが頷いたあと、ノエミはボイスレコーダーを取り出すと、録音を開始した。そしてノエミはボイスレコーダーのマイク部分を高位技師官僚の娘エリーヌに向ける。
ノエミが取り出したボイスレコーダーを見るなり、要人警護部隊の隊員たちは一様に渋い顔をした。しかし彼らが録音に抗議してくることはなかった。
それを要人警護部隊からの許可だと捉えたパトリックは、ジャケットの裏から手帳とペンを取り出す。彼は筆記の用意を整えると、眉間に皺を寄せつつ、こう言った。
「まず先に、これだけは言わせて下さい。これはあくまで私見ですが……――私はこの捜査、コールドケース扱いになるだろうと見ています。この事件、裏で大きなものが動いている気がするのです。どこかで謎の力が働き、捜査が打ち切られる可能性があります。もしそうであるのなら、時間との勝負になります」
パトリックが発したその言葉に、ノエミは絶句していた。急に何を言い出すのかと、そう文句を言いたげな顔を彼女はしている。だがノエミ以外の者たちはパトリックが発したその言葉に、小さく頷くという反応を見せた。要人警護部隊の隊員の一部も無言で頷いていたし、高位技師官僚の娘エリーヌすらもパトリックの言葉に同意するかのように目を伏せている。
そしてパトリックは言葉を続けた。戸惑うノエミは、そんな彼を見つめることしか出来なかった。
「ですので、早急な行動がカギとなります。謎の力が動き出す前に、やれることはやらなければなりません」
目もとにぎゅっと力を込めたパトリックは、高位技師官僚の娘エリーヌを見ながらそのようなことを言う。我々は最善を尽くしたい、その為にはあなたの協力が必要不可欠なのです、と。
彼女は全幅の信頼を置くような目でパトリックを見つめ返していた。しかしパトリックの胃はきりきりと痛みだす。
彼は今、ひどい嘘を吐いたのだ。
【次話へ】
キャンベラ国立大学病院、入口。人の出入りを制限する規制線の前までやってきたパトリックを真っ先に出迎えたのは、防弾チョッキを着用した元相棒のノエミだった。
そしてノエミの背後から覗き見える病院内のエントランスには、周辺を警戒するようにうろついている官邸附属要人警護部隊と思しき者たちの姿が、ちらほらと見受けられる。被害者が政府の要人、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚だということが事実であるのだと、このときパトリックは察した。
となると連邦捜査局が捜査に乗り出したのは当然で、ASIに応援要請があったのも合点がいく。本部所属のエリート、若手の期待株とされているノエミがこの件に駆り出されるのは順当であるし。ASIに応援要請するにあたり、ノエミがパトリックをわざわざ指名したのは当然の流れだ。
「どこもかしこも検問ばかりで、あちこちで渋滞が発生していたんです。挙句、駐車場に入ろうとしたら警備員に止められて……――これでも急いできたほうなんですよ」
遅くなったことを責められたパトリックは、肩を竦めながらそう言い訳をする。しかしノエミは言い訳を受け入れず、ピシャリと跳ね除けた。「なら自転車を漕ぐか、走ってくればよかったじゃない」
「生憎、自転車を漕ぐことも走ることもできない脚でしてねぇ。あなたもご存知でしょう?」
「言い訳は結構。とにかく、早く中に入って。話は歩きながらするわ」
そうしてパトリックはノエミの案内に従い、病院内へと入っていく。昨晩パトリックがここを訪ねたとき、彼は『至って普通の静かな大病院』というイメージをここに抱いたものだが。今朝は一変、さながら事件が発生して間もない現場かのような緊張感に満ちていた。
施設内を往来する職員や患者、つまり無関係な一般市民は事態を知らされていないのか、不安そうな顔を一様に浮かべている。その様子を見てパトリックは息を呑んだ。本物の緊急事態がまさに起きているのだと。
「それで、あなたはどこまで事件のことを知らされているの?」
パトリックはノエミの後を追い、共にエレベーター前に移動する。そしてエレベーターの前で二人が立ち止まったとき、ノエミは彼にそう問うてきた。しかしパトリックはすぐに答えはしない。
彼が口を開いたのは、エレベーターが彼らのいる一階に到着し、その扉が開いた時だ。
「被害者が誰であるのか、そして当該人物の現在の状態は知らされています」
二人はエレベーターに乗り込むと、その扉が閉まるタイミングを待つ。そして扉が閉まると、再びパトリックは言葉を発した。「バルロッツィ高位技師官僚。彼は銃撃を受け、意識不明の重体なのですよね。そして唯一の目撃者である娘さんがなかなか喋らない。また物証も乏しく、監視カメラ映像といった記録の回収もままならない状況だと。そう伺っています」
「ええ、その通り。挙句、娘さんの後見人だっていうひとがしゃしゃり出て、聴取は私の到着を待ってからにしろーって言われちゃったのよ。でも状況が状況だし、悠長なこともしていられない。だから後見人が現れるよりも前に、娘さんにはさっさと情報を吐いてもらいたいわけ。そこであなたの出番。だってあなた、得意だったでしょ。目撃者からうまーく証言を引きずり出すのが」
そう言うとノエミはエレベーターのボタンを押し、三階に上がるよう指示を出す。その横でパトリックは腕を組んだ。引っ掛かる言葉がひとつあったのだ。
後見人が現れるよりも前に。ノエミが発したその言葉を妙だと思ったパトリックは、その疑問を彼女にぶつけた。「後見人ですか。しかし……彼女には父親が居るはず。それなのに、なぜ後見人が」
「父親だけど、親権者じゃないのよ。親権者として不適格だって判断され、高位技師官僚は親権を児童裁判所に剥奪されていたらしくてね。だけど、まあ、娘の親権を知人女性に渡し、その女性と生活を共にすることで、問題をクリアしたみたい。高位技師官僚が娘を虐待していたわけじゃないし、娘のほうも父親と離れるのを嫌がったみたいだから、裁判所も父娘の同居を許しているそうよ」
「へぇ、知人の子供の親権を……。奇特な方も居るものですねぇ」
「バルロッツィ財団の理事長、セシリア・ケイヒル。世間での評判を信じるなら、彼女、かなりの人格者よ。聖人すぎて怖いぐらい。――まあ、その聖人に今は困らされているわけなのだけど」
「それで、親権を剥奪された理由は? 虐待行為がなかったのであれば、一体なぜそのような判断に至ったのでしょうか」
「理由は開示されてないから不明。それに今回の事件にそこまで関連があると思えなかったから、私のほうでは深く調べてないわ。興味があったらASIの誰かに頼んで調べてもらって」
ノエミがそう言い終えたタイミングでエレベーターは止まり、エレベーター内と廊下を遮っていたドアが自動で開く。二人は共に降りると、被害者がいるという集中治療室に向かっていった。
その道の最中。廊下を歩きがてらに、パトリックはノエミに質問を重ねていく。
「それで、ノエミ。被害者の状態について、もっと詳しく教えてもらえませんか」
アイリーンは今朝、言っていた。パトリックに課せられた任務は、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚が握っている情報を引き出すことなのだと。そしてペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚が銃撃され、搬送されるという展開は、特務機関WACEが仕組んだものだと推測される。となれば、彼らとて加減をしているはず。高位技師官僚が死なない程度に留めていることだろう。
――というようなことをパトリックは考えていて、その確認をするためノエミにそう訊ねたのだが。ノエミから得られた返答は、パトリックの予想を裏切るものだった。「生死の境を彷徨っている、っていう状態よ。持ちこたえているものの予断を許さない状況だって、医者は言っていたわ。未遂から殺人に切り替わる可能性は十分にあり得るかも」
「そこまで深刻なのですか?」
「ええ、そう」
「……そうなのですか」
意識不明の重体。そう聞いていたが、そこまで深刻な状態だとは考えていなかったパトリックは、ノエミの言葉に衝撃を受ける。だがノエミの言葉はそれで終わらなかった。彼女は事態の深刻さを窺わせる事実を続けて明かしていく。「九ミリ口径の拳銃で執拗に撃たれた、っていうのが現時点での見立て。救命医の話によれば、銃創が十四箇所もあったそうよ。一発は貫通していたみたいだけど、それ以外は……うん。体内にあったものは全て取り出したらしいけど、大動脈をダイレクトに傷つけた弾丸もあったみたいでねぇ」
「十四発も?」
「ええ。それも乱射されたわけじゃない。銃創は動脈周辺にまとまっていたって話よ。現場は即死でもおかしくない出血量だったそうだし。まさに、生きていることが奇跡なのよ」
即死でもおかしくない出血量? 生きていることが奇跡? ……立て続けにノエミから飛び出した言葉に、パトリックは唖然とした。何故ならば、明確な殺意しか感じない犯行手口だったからだ。
そうして驚きから目を見開くパトリックに、ノエミは至極当然の事実を伝えるのだった。「そういうわけだから、被害者本人は口もきけない状態なのよね」
「でしょうねぇ……」
「だから現場に居合わせた彼の娘さんから話を聞きたいんだけど……」
「彼女は喋らないんですよね。……本当に、彼女は目撃者なのでしょうか?」
「それについては間違いないわ。周辺住民から銃声がしたとの通報を受けて市警が現場に駆け付けたとき、彼女は虫の息になった父親の下敷きになって、声を押し殺しながら泣いてたって話だもの。写真もあるわ。ほら、これを見て」
そう言うとノエミはタブレット端末を取り出し、そこに映し出された画像をパトリックに見せた。
写真はたしかに、ノエミが言ったとおりの状況を示していた。血だまりの中にぐったりと横たわる男の下で、赤毛の女性がうつ伏せになって倒れている。その女性の年齢は写真で見る限り、十六歳ぐらいといったところ。上流育ちの落ち着いた高校生といった雰囲気だ。
そしてノエミは写真を見せながら、当時の状況を解説した。「彼女を保護した警官の話によれば、彼女は後ろを歩いていた父親にいきなり突き飛ばされて、伏せろと言われたそうよ。彼女は突き飛ばされた拍子に道路に倒れ込んで、そのままうつ伏せになったみたい。そして倒れた瞬間に銃声が立て続けに鳴り、父親も倒れた。そして父親が彼女を庇うように覆いかぶさったあとも、何発か銃声がしたみたい。父親の体が痙攣するのを背中で感じたとも、彼女は言っていたらしいわ」
「それで、今の彼女の様子は?」
「この写真を撮影した警官に証言をしたっきり、以降は無言を貫いてる状態。ショックを受けているから仕方ないともいえるけど。おかげで犯人の特徴も分からないし、犯人の性別すら不明。だから、パトリック。あなたに頑張ってもらいたいの」
そうこう話しているうちに、パトリックらは被害者が収容されている集中治療室に着いた。だが入口の前には黒い背広を着た要人警護部隊の隊員が三人も立っており、中に入れてくれそうな気配はない。捜査官であろうが入室は許さないといった顔を、彼らはしていた。
ノエミはむすっとした表情を浮かべ、パトリックは要人警護部隊の隊員らに挑発するような視線を送る。だがプロフェッショナルである隊員らはあくまで廊下のどこかを見つめるだけで、目の前にいる男女のことなど気にもしていないようだった。
そうしてしばらく待機していると、集中治療室のドアが内側から開けられ、中から赤毛の女性が出てくる――彼女は写真に写っていた被害者の娘、そのひとだった。
「あっ……!」
パトリックは彼女に声を掛けようとするが、彼女の視線は自分の足許を見つめるばかりで、うんともすんとも言わない。そして彼は経験から察した。これは自分では太刀打ちできないものだ、と。
しかしパトリックはあることを閃く。けれどもそのアイディアは、できればやりたくない苦渋の決断でもあった。しかし手段を選んでいられない。そこでパトリックはノエミに言う。
「……ノエミ。私は精神科医を呼ぶのがベストであると考えています。その、アイツです」
「あぁ、カールね! それ、名案」
話が早いノエミがそう返答をしている間に、高位技師官僚の娘は逃げるようにどこかへと足早に去っていく。そして去っていった娘を、要人警護部隊の隊員一名が追いかけていった。
彼女が逃げた先に見えるのはトイレの場所を示す案内板。きっと彼女は病院からの脱走などは考えておらず、ただトイレに行きたかっただけなのだろう。そう判断したノエミは敢えて高位技師官僚の娘を追うことはせず、来た道を引き返すようエレベーターのほうに向く。そして彼女はこう言うと、駆け足でエレベーターに乗り込んでいった。
「分かった、今すぐカールをここに呼んでくるわ!」
駆けて行ったノエミが、カルロ・サントス医師を伴って集中治療室のある階に戻ってきたのは、高位技師官僚の娘がトイレを済ませて集中治療室に戻ってきてから一〇分が経過してからのことだった。
集中治療室の前に立ち尽くし、ノエミらが戻ってくるのを待っていたパトリックは、気まずい空気の中で一〇分ほど耐え忍んでいた。
彼は、俯き黙りこくる高位技師官僚の娘、及び集中治療室の中を慌ただしく動き回る看護師たちの様子を廊下から見守っていた一方で、集中治療室の入り口前に控えていた要人警護部隊の隊員たちから一挙手一投足を見張られていたのだが。そうこうして耐え続けた一〇分間、それは異様に長く感じられたが、終わってしまえば呆気ないというもの。
「よぉ、リッキー。昨日ぶりだな。今朝はよく眠れたか?」
居心地の悪さが満ちる空間にやってきたのは、爽やかな若手の精神科医という“仮面”を被ったカルロ・サントス医師。彼は要人警護部隊が求めた制止を無視して集中治療室に強引に押し入ると、あるベッドの脇に控えて待機していた赤毛の女性――つまり高位技師官僚の娘であるエリーヌ・バルロッツィ――に声を掛ける。そして彼は高位技師官僚の娘エリーヌを伴って集中治療室から出てきた。
「捜査官殿、朗報だ。彼女が聴取に応じてくれるそうだ。ただし、聴取はこの場で済ませてくれ」
颯爽と肩で風を切りながら歩くカルロ・サントス医師の後ろを、おどおどとした様子のエリーヌが追って歩く。そうして二人がパトリックの前に来た時、ちょうどノエミがその場に遅れて戻ってきた。
「いえ、カール。できれば別の場所で――」
ノエミはカルロ・サントス医師の言葉にそう返すが、しかしカルロ・サントス医師は即座にそれを拒んだ。
「集中治療室内での聴取はご遠慮いただきたい。とはいえ彼女は御父上の傍を離れたくないだろう。それに別室での聴取となれば、そこの要人警護部隊の方々も良い顔をしないんじゃないのか?」
カルロ・サントス医師はそう言ったあと、集中治療室の出入口前で待機している要人警護部隊の隊員たちをちらりと見やる。が、あくまでも目の前の仕事に集中しているだけの隊員たちは微動だにしない。余計な挑発には乗らない、ということだろう。
とはいえ隊員たちが文句を付けてこないということは、カルロ・サントス医師の言葉に異論はないということだろう。
そこでノエミとパトリックは顔を見合わせると、両者ともに同じタイミングで小さく頷く。カルロ・サントス医師が提示した条件を呑むことをどちらも了承したのだ。
そして二人が条件を呑んだことを確認すると、カルロ・サントス医師は気まずそうに立ち尽くす高位技師官僚の娘エリーヌのほうに向き直る。それからカルロ・サントス医師は高位技師官僚の娘エリーヌに対し、身分を明かすのだった。
「……さて。改めて自己紹介をしよう。私はカルロ・サントス。私はここの病院に勤める精神科医でもあるんだが、副業としてフリーランスの精神分析家もやっているんだ。ただしこの場合の精神分析家というのは、患者の治療を行うものではなく、犯罪心理学者に近い。私は時に当局者と共に行動し、捜査に加わることがある。今、私がここに居るのもその一環なんだ。ただ、今回は急に呼び出されたせいで事態を何も把握できていないのだが……」
「……」
「――エリーヌ。ひとまず、君が今、話せる範囲のことだけで構わない。よければそこの捜査官たちの質問に答えてやってはくれないか。彼らはこう見えて、数々の事件を解決してきた優秀な捜査官だ。どうか信用してやってほしい」
カルロ・サントス医師の言葉が終わったあと。この日、初めてパトリックと高位技師官僚の娘エリーヌの目が合った。そして高位技師官僚の娘エリーヌがこくりと頷いたとき、役目を終えたと判断したカルロ・サントス医師はその場を静かに立ち去っていく。彼は彼の仕事に戻っていった。
「それでは、エリーヌさん。お父さまの事件についてお伺いしても宜しいでしょうか?」
パトリックがそう問いかけると、高位技師官僚の娘エリーヌは頷く。それから彼女は小声で答えた。
「……ええ、分かりましたわ」
高位技師官僚の娘エリーヌが頷いたあと、ノエミはボイスレコーダーを取り出すと、録音を開始した。そしてノエミはボイスレコーダーのマイク部分を高位技師官僚の娘エリーヌに向ける。
ノエミが取り出したボイスレコーダーを見るなり、要人警護部隊の隊員たちは一様に渋い顔をした。しかし彼らが録音に抗議してくることはなかった。
それを要人警護部隊からの許可だと捉えたパトリックは、ジャケットの裏から手帳とペンを取り出す。彼は筆記の用意を整えると、眉間に皺を寄せつつ、こう言った。
「まず先に、これだけは言わせて下さい。これはあくまで私見ですが……――私はこの捜査、コールドケース扱いになるだろうと見ています。この事件、裏で大きなものが動いている気がするのです。どこかで謎の力が働き、捜査が打ち切られる可能性があります。もしそうであるのなら、時間との勝負になります」
パトリックが発したその言葉に、ノエミは絶句していた。急に何を言い出すのかと、そう文句を言いたげな顔を彼女はしている。だがノエミ以外の者たちはパトリックが発したその言葉に、小さく頷くという反応を見せた。要人警護部隊の隊員の一部も無言で頷いていたし、高位技師官僚の娘エリーヌすらもパトリックの言葉に同意するかのように目を伏せている。
そしてパトリックは言葉を続けた。戸惑うノエミは、そんな彼を見つめることしか出来なかった。
「ですので、早急な行動がカギとなります。謎の力が動き出す前に、やれることはやらなければなりません」
目もとにぎゅっと力を込めたパトリックは、高位技師官僚の娘エリーヌを見ながらそのようなことを言う。我々は最善を尽くしたい、その為にはあなたの協力が必要不可欠なのです、と。
彼女は全幅の信頼を置くような目でパトリックを見つめ返していた。しかしパトリックの胃はきりきりと痛みだす。
彼は今、ひどい嘘を吐いたのだ。